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  • [270]
  • おんぎくでんこうぎ げ。  だいにじゅうしち むささんじんのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月10日(金)01時38分41秒
 
おんぎくでんこうぎ げ。
 だいにじゅうしち むささんじんのこと。

 つうげ。
 むささんじんとはどういうことかをとくにあたり、そのほとけになるしゅし、またそのそんぎょう、および、さんまやについて、おんぎくでんにいわく。
 そんぎょうとは、なにもとくべつな、ほとけのすがたではなく、じっかいのせいめいにほんらいそなわったすがた、かたち、このままがそんぎょうなのである。さんまやとは、ほとけとかぼさつがもっているとくべつなものではなく、じっかいのせいめいにほんねんてきにそなわっているものである。しゅしとはしんのいちじである。このむささんじんのほとけになるしゅし、そんぎょう、さんまやというのは、すべてなんみょうほうれんげきょうそのままをいうのである。
 また、さんまやというのは、がっしょうのことをいみする。これはまことにじゅうだいであり、ひすべきである。

こうぎ。
 むささんじんにょらいのそんぎょうとは、けっして、しきそうそうごんのほとけのそんぎょうではなく「じっかいほんぬのけいぞう」なのである。
 すなわち、にちれんだいしょうにんは、おすがたは、なんらわれらぼんぷとかわらない。さんじゅうにそうはちじゅうしゅこうなどはそなえておられない。くおんがんじょのじじゅゆうしんにょらいであるとともに、じごくかいも、がきかいも、またしょうもんかい、えんかくかい、ぼさつかいも、くおんいらい、ほんねんてきにそなえていらっしゃる。けっして、とくべつなすがたはしておいでにならないのである。
 すなわち、しゅじょうを、そうたいてきにみくだして、ごじぶんをとくべつなきょうちにおくということはされず、むしろぜんみんしゅう、ぜんしょみんのなかにとびこみ、いっこのなやめるひとと、ともにかたり、ともにたたかい、ともにみらいをめざして、ぜんしんされている。ごしょうそくもんなどをはいし、ふかいふかい、にんげんせいあふれたしどうに、むねがうたれるのである。
 また、だいにちにょらいのそとば、ふどうみょうおうのけん、かんのんのれんげ、やくしにょらいのくすりつぼとうの、ほとけのほんせいをあらわすさんまやは、むささんじんにょらいにおいては、がっしょうになるのである。
 したがって、にちれんだいしょうにんが、だいうちゅうにむかってがっしょうなされるとき、それは、いっさいしゅじょうをすくわれんとする、ほんせいをあらわしているのである。
 がっしょうとは、すでに「ひゆほんきゅうかのだいじ」のなかの「だいにそくきがっしょうのこと」においてろんじたごとく、ごうとはみょう、しょうとはほうで、みょうほうをあらわし、ごうとはみょうほうれんげきょう、しょうとはほけきょうにじゅうはちほんで、ほけきょうをはじめとして、はちまんほうぞうはことごとくみょうほうれんげきょうのいっぽうにぐそくすることをあらわし、さらにごうはぶっかい、しょうはきゅうかい、ぶっかいそくきゅうかい、きゅうかいそくぶっかい、すなわちじっかいごぐをあらわすのである。したがって、がっしょうは、にんげんのもっともしぜんなすがた、いな、だいうちゅうのもっともほんねんてきなすがたをあらわすのである。
 おんぎくでんにいわく「じっかいことごとくがっしょうのにじにおさまつてしんらさんぜんのしょほうはがっしょうにあらざることなきなり」(072・・だいにそくきがっしょうのこと・・07)、またいわく「がっしょうのにじにほうかいをつくしたるなり」と。
 また、がっしょうとは、かならずしもけいしきではなく、こしんのがっしょうであり、しんじつに、ひと々びとのこうふくをねがうこころ、これまたがっしょうである。
 ぜんじんるいをもきゅうさいせんとされる、だいしょうにんのだいせいしん、これこそしんじつのがっしょうであり、そんげんきわまりなきさいこうのさんまやであるとはいする。
 また、しゅしとは、むささんじんにょらいのしゅしであり、これは、しんのいちじしかない。おんぎくでんげにいわく「このむさのさんじんをばいちじをもってえたりいわゆるしんのいちじなり」(0753・・だいににょらいひみつじんつうしりきのこと・・03)と。むささんじんとは、にちれんだいしょうにんであり、そく、さいこうのこうふくきょうがいである。したがって、そのしゅしとは、さいこうのこうふくのしゅしであることはろんをまたない。
 にっこうしょうにんは、われら、だいごほんぞんをしんじたてまつらば、もったいなくもそくにちれんだいしょうにんとあらわれることをきょうじせられている。
 すなわち、かんじんほんぞんしょうもんだんにいわく、「われらこのほんぞんを、しんじゅし、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつれば、わがみそくいちねんさんぜんのほんぞん、れんそしょうにんなり、ようちのくびにかけしむるのこころ、まさにこれにあり、ゆえにただ、ぶつりき、ほうりきをあおぎ、まさにしんりき、ぎょうりきをはげむべし、いっしょうむなしくすごして、ばんこうくいることれなかうんぬん」と。




  • [269]
  • おんぎくでんこうぎ げ。 だいにじゅうろく、じゅりょうほんのたいごうのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 9日(木)01時05分8秒
 
  おんぎくでんこうぎ げ。
だいにじゅうろく、じゅりょうほんのたいごうのこと。

 つうげ
 じゅりょうほんだいじゅうろくがだれのためにとかれたのか、すなわちたいごうしゅうについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 このじゅりょうほんは、もんじょうにおいてはみろくぼさつがそのたいごうしゅうになっている。
 しかしながら、じゅりょうほんはいちおうはざいせのしゅじょうのためである。
 だがさいおうは、めつごまっぽうをしょういとするがゆえに、たいごうしゅうはにほんこくのいっさいしゅじょうになる。
 にほんこくのいっさいしゅじょうのなかでも、にちれんだいしょうにんのためにじゅりょうほんはとかれたのである。
 そうじては、われわれにちれんだいしょうにんのぶっぽうをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなえるものがたいごうしゅうである。
 さいおう、みろくぼさつについてろんずるならば、みろくとは、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃ、ごほんぶつをさす。
 みろくは、じしとやくすのである。
 そのいみからすれば、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃ、ごほんぶつにちれんだいしょうにんが、だいじひをもっていっさいしゅじょうをすくわれることをさすのである。
 しょうあんだいしは、ねはんきょうじょに、「かれがためにあくをのぞくは、すなわちこれかれがおやなり」とのべている。
 すなわち、いっさいしゅじょうのほうぼうのあくをのぞき、こうふくをあたえていくことが、しんじつのおやのふるまいであり、じひのかつどう、じしすなわちみろくぼさつになるのである。

こうぎ
 じゅりょうほんのたいごうしゅうは、もんじょうにおいてはみろくぼさつである。
 だがこのじゅりょうほんをないしょうのじゅりょうほんととれば、みろくぼさつとはにほんこくのいっさいしゅじょうであり、なかんずく、だいごほんぞんをしんじゅするもののことである。
 みろくはじしとやくし、いっさいしゅじょうのしんちゅうにじひしんをあらわす、だが、いっさいしゅじょうの、このじひしんは、とんじんちのさんどくにおおわれ、みょうぶくしてしまい、かわって、りこのこころのみじゅうまんしている。
 ゆえに、りのうえではみろくであっても、じのうえではみろくではない。
 まっぽうにおいて、みろくとは、ごほんぶつにちれんだいしょうにんのだいじひにせっせられるのである。
 また、だいごほんぞんをしんじゅし、しゃくぶくぎょうにまいしんするひとは、いっさいしゅじょうのくのうのいんたる、あくごうをのぞき、しんじつのこうふくをもたらすのであるから、まさにまっぽうのみろくというべきである。
 みろくぼさつは、もんじょうではしゃくけのぼさつである。
 しゃくとは、ほんにかえすのである。
 あたかもすいちゅうのつきが、てんげつをしめすようなものといえる。
 されば、みろくぼさつも、ほんげぢゆのぼさつのとくぶんをあらわすのである。
 まっぽうにおいては、ほんげぢゆのぼさつをはなれて、ぜったいのみろくのはたらきはない。
 されば、まっぽうのじゅりょうほん、そくなんみょうほうれんげきょうは、だいじひをもって、みょうほうぐつうにすすむ、じゆうのひとを、そのしんじつのたいごうしゅうとするのである。
 しょうあんだいしの、「かれがためにあくをのぞくは、すなわちこれかれがおやなり」のことばは、まさしく、こんにちにおいては、しゃくぶくぎょういがいにない。
 しゃくぶくこそ、あいてのふこうのいんをこんていよりのぞくさいこうのじひのこういである。
 ぎゃくに、あいてのふこうをしり、こうふくになるほうとをしりながら、それにはふれず、いつわりのだきょうをしているならば、これほどにんげんとしてひれつなことはない。 したがって、おなじくしょうあんだいしは、「じなくしていつわりしたしむは、かれがあだなり」とのべているのである。
 いま、せけんのていをみるに、あまりにもじひのけつじょがはなはだしい。
 かえってじゃくにくきょうしょくの、ちくしょうのすがたをみるにひとしい。
 ひとびとのこうさいのすがたをみても、そのおおくは、きのうのともはこんにちのてきという、りがいのけつごうであり、とおりいっぺんの、こうおのかんじょうによる、けつごうであるといってもかごんではなかろうか。
 あるいはあゆてんねいのやからのみおおく、なれあいのだきょうでことをはこび、そのうらでは、たがいにあいての、はらをさぐっているのではあるまいか。
 かかるとうといしゃくぶくにたいして、せけんは、さまざまなわるくちひはんのあらしをあびせてきた。
 これ、ちゅうげんみみにさからうすがたであり、じひなきせそうのはんえいともいえよう。
 だが、しゃくぶくぎょうは、にちれんだいしょうにんの、みんしゅうきゅうさいのだいせいしんであり、そのごゆいめいをうけた、そうかがっかいのせいめいであり、こつずいである。
 どこまでも、どこまでも、まっぽうのじひたるしゃくぶくぎょうをつらぬき、じしゃくこうふのかがやかしきそくせきを、わがしんちゅうに、がっかいのれきしに、せかいのれきしにつづっていきたい。



  • [268]
  • おんぎくでんこうぎ げ。 だいにじゅうご、こんりゅうごほんぞんとうのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 8日(水)01時13分55秒
 
 おんぎくでんこうぎ げ。
だいにじゅうご、こんりゅうごほんぞんとうのこと。

つうげ
 ないしょうのじゅりょうほんを、こんりゅうするところのごほんぞんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 このほんぞんのえもんになっているのは、じゅりょうほんだいじゅうろくの、にょらいひみつじんつうしりきのもんが、これなのである。
 かいじょうえのさんがくは、そのきゅうきょくは、ないしょうのじゅりょうほんにとかれるじのさんだいひほうがそのじったいなのである。
 にちれんだいしょうにんは、さんだいひほうをたしかに、りょうじゅせんにおいてめんじゅぐけつをうけ、いまだいしょうにんのいっしんにもっているのである。
 したがって、ほんぞんとは、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃ、すなわちごほんぶつにちれんだいしょうにんのいっしんのとうたいなのである。


こうぎ
にょらいひみつじんつうしりきのもんが、だいごほんぞんのえもんであることは「だいににょらいひみつじんつうしりき」のなかでのべたごとく、にょらいひみつは、ちゅうおうの「なんみょうほうれんげきょう、にちれん」をあらわし、じんつうしりきは、さゆうのじっかいさんぜんをあらわすのである。
 にょらいひみつはたいのさんじん、じんつうしりきはゆうのさんじんであり、ともに、にちれんだいしょうにんのいっしんおよび、しんぐのじっかいさんぜんであり、だいごほんぞんそれじたいなのである。
 されば、おんふみに、「ほんぞんとはほけきょうのぎょうじゃの、いっしんのとうたいなり」とおおせられたのである。
 また「かいじょうえのさんがくは、じゅりょうほんのじのさんだいひほうこれなり」とは、およそ、かいじょうえのさんがくはぶっかのきそくであり、ぶっぽうをろんずるには、しゅゆもこれをはなれるわけにはゆかぬのである。
 だが、そのきょうほうは、いかんによって、かいじょうえのないようは、それぞれことなる。
 しかして、まっぽうの、じゅりょうもんていげしゅのぶっぽうにおける、かいじょうえは、このおんふみにおおせのごとく、じのさんだいひほうとなるのである。
 すなわち、かいはほんもんのほんぞん、じょうはほんもんのかいだん、えはほんもんのだいもくとして、こんりゅうされたのである。
 これにかんれんして、にっこうしょうにんの、つぎのじょうぎょうしょでんさんだいひほうぐけつのおんふみを、いんようしておきたい。
 「いちにはほんもんじゅりょうのだいかい、こくうふどうかいをむさのえんかいとなづけ、ほんもんじゅりょうのだいかいだんとなづく、にには、ほんもんじゅりょうのほんぞん、こくうふどうじょうをほんもん、むさ、じのいちねんさんぜんとなづけ、さんには、ほんもんじゅりょうのみょうほうれんげきょう、こくうふどうえを、じじゅゆうほんぶんのむさの、えんねとなずづく」と。
 また「にちれんたしかに、りょうぜんにおいてめんじゅぐけつせしなり」の、おんふみは、さんだいひほうしょうのおんふみと、まったくおなじおおせであり、にせんよねんまえの、りょうじゅせんのふぞくのえざで、げんぜんとさんだいひほうのふぞくをうけたと、つよきかくしんをもってのべられている。
 これ、にちれんだいしょうにんのさとりであって、ぼんちをもってはかりがたい。
 だが、あのそうごんなるじんりきほんのふぞくのぎしき、まっぽうにじょうぎょうぼさつのしゅつげんをよげんした、かずかずのきょうもん、そのた、まっぽうせそうのよげんとうとう、にちれんだいしょうにんのおしゅつげんなくば、ぶっきはみな、こもうとなってしまう。
 まことにふしぎなおんふみではあるが、このうごかしがたいふごうをもって、このおんふみをしんじ、またそのうえにたって、ふかくせいめいろんのうえから、しさくすべきである。
 しかして、このようにしゃくそんよりじょうぎょうぼさつとして、ふぞくをうけたのは、いまなお、げゆうのたちばであり、さらに、ふかくごないしょうのへんよりろんずれば、にちれんだいしょうにんは、しゃくそんをはじめ、じっぽうさんぜのしょぶつをしゅっしょうし、これらのほとけの、いちどうにきいつしていくべき、くおんがんじょのじじゅゆうしんのさいたんであられる。
 このたちばよりろんづれば、あのりょうじゅせんのぎしきは、きょうそうのへん、もんじょうのへんはろんがいとして、かんじんのへん、もんていのへんよりろんずれば、まったくくおんがんじょのぎしきであり、しゃくそんよりぐけつそうじょうしたという。
 このしゃくそんは、くおんがんじょ、じじゅゆうほっしんにょらいであらせられる。
 じょうぎょうぼさつとして、ふぞくをうけたとは、せいめいろんからいえば、じょうぎょうとは、がをあらわし、さんぜじょうじゅうにつづきゆくせいめいのほんしつに、くおんがんじょじじゅゆうほっしんにょらいの、せいめいをうけつがれたと、はいすべきか。
 そして、くおんがんじょじじゅゆうしんの、せいめいをうけつがれたごほんぶつが、まっぽうに、にちれんだいしょうにんとあらわれたもうたか。
 されは、ひゃくろくかしょうにいわく、「にちれんがしゅぎょうは、くおんみょうじのふるまいに、けにばかりもたがざるなり」(0863・・ふとよぎょうほけきょうのほんしゃく)と。
 またどうしょうにいわく、「くおんのしゃくそんのしゅぎょうと、いまにちれんのしゅぎょうとは、けしばかりもたがわざるしょうれつなり」(0864・・まっぽうじこくのぐつうのほんしゃく)と。
 またどうしょうにいわく、「くおんがんじょのけっちょうふぞくは、にちれんこんにちじゅりょうのふぞくとどういなり」(0865・・ほんもんふぞくのほんしゃく)と。
 くおんがんじょのけっちょうふぞくとは、まさしく、くおんがんじょにさんだいひほうのふぞくをうけられたことである。
 だがこれは、あくまでも、ぶっぽうのじんのんのほうもんであり、けっして、あさはかなどくだんはゆるされぬ。さらに、しんじんをふるいおこし、みずからのとうたいのうえに、かくちしていくべきであるとさけんでやまない。
 さいごの、「ほんぞんとはほけきょうのぎょうじゃのいっしんのとうたいなり」のおんふみは、ひじょうにじゅうようである。
 だいしょうにんのいっしんのとうたいが、そくごほんぞんなのである。
 だいしょうにんがまっぽうのにんほんぞんであるとのげんぜんたるしょうもんでなくしてなんであろう。
 これほどまでに、にちれんだいしょうにんは、まっぽうのしゅじょうのしんこうすべきごほんぞんをときあかされているのに、みのぶは、にちれんしゅうとうでは、いまなおしゃくそんをほんぞんとしている。
 まさにほとけのきんげんをふみにじるすがたであり、ふちおんのちくしょうというべきである。




  • [267]
  • おんぎくでん げ。 だいにじゅうし、このじゅりょうほんの、こくどとしゅぎょうのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 7日(火)00時08分4秒
 
おんぎくでん げ。
だいにじゅうし、このじゅりょうほんの、こくどとしゅぎょうのこと。0760。

つうげ
 ないしょうのじゅりょうほんの、しょけとこくどと、しゅぎょうについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 とうほん、すなわちないしょうのじゅりょうほんたる、なんみょうほうれんげきょう、るふのこくどとは、にほんこくである。
 そうじては、なんえんぶだいである。
 にほんこくに、まずこうせんるふはなされ、つぎにせかいこうふがなされていくのである。
 しょけ、すなわち、このないしょうのじゅりょうほんによってすくわれるものとは、にほんこくのいっさいしゅじょうのことである。
 しゅぎょうとは、「うたがいなきをしんという」との、ぜったいのしんじんにたつことである。
 このないしょうのじゅりょうほんを、じゅよすべきひととは、ほんげぢゆのぼさつにかぎるのである。

こうぎ
 これは、じゅりょうほんが、だれひとのためにとかれたのか、またるふすべきこくどはどこであるのか、そのしゅぎょうはいかなるものかについてとかれたおんふみである。
 ここにいうじゅりょうほんだいじゅうろくとは、もんじょうだつちゃくのざいせのひとびとのためのじゅりょうほんではなく、なんみょうほうれんげきょうにょらいの、じゅりょうほんだいじゅうろく、すなわちないしょうのじゅりょうほんだいじゅうろくの、こころである。
 そのじったいは、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうであることは、ろんをまたない。
 さんだいひほうのだいごほんぞんは、にほんこくのいっさいしゅじょうのためにあらわされたのであり、そのるふすべきこくどは、べっしては、にほんこくであり、そうじては、なんえんぶだいそくぜんせかいであり、そのしゅぎょうはりゃくこうしゅぎょうではなく、むぎわっしんのしんである。
 しかして、このだいごほんぞんを、ちょくせつじゅよしていただけるひとは、ほんげじゆうのぼさつであり、こんにちにおいては、ふじしゃくしんみょうのけついで、けぎのこうせんるふのために、ゆうおうまいしんするひとである。
 いまここに、にほんこく、また、にほんこくのいっさいしゅじょうといわれたのは、さんだいひほうの、こんりゅうのちにやくしておおせられたのであり、かつ、このじゅりょうほんは、しゃくそんのぶっぽうでないことをしめされんがためである。
 すなわち、にしよりひがしにむかった、しゃくそんのぶっぽうは、まっぽうのだいとなり、そのちからはまったくうしなわれ、ここに、にほんこくより、じゅりょうもんていげしゅの、だいびゃくほうがたち、まずにほんこくにるふし、こんどはひがしよりにしにむかうことをしめされんがためである。
 したがって、このじゅりょうほんだいじゅうろくが、いかなるほうであるかは、ますますめいりょうである。
 つぎにえしょうふにのたちばからおおせられたのである。
 すなわち、まずにほんこくにおいて、こうせんるふし、このちにらくどがきずかれ、みんしゅうのこうふくがじつげんすることが、えしょうふにで、せかいこうふにつらなり、せかいへいわにつながっていくからである。
 このことについては、「りっしょうあんこくろん」に、しょしょにしめしておいたので、さんしょうしていただきたい。
 また、むぎわっしんのしんじんとは、だいごほんぞんをぜったいとしんじたてまつることであるが、またそれとともに、にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、どこまでいってもむじゅんがないということである。
 むじゅんのあるてつがくであれば、さいごまでにそれにたいして、むぎわっしんをつらぬくことはできないであろう。
 だいしょうにんのぶっぽうは、どこまでもむじゅんなきてつりであり、えいえんふめつのかんぺきなるせいめいてつがくであるがゆえに、むぎわっしんのしんにてっすることができるのである。
 しんじんとは、そのひとじしんのないおうよりはっするものであり、そとからきょうせいされるものではない。
 きょうせいで、しんずるこころをおこさせることができるわけがない。
 しんじんによって、かならずいだいなるだいごほんぞんのくりきがゆげんする。
 されば、むぎわっしんのしんじんを、つらぬくべきであるとおしえられているのである。
 なお、「じゅよのひととは、ほんげぢゆのぼさつなり」とは、いまのべたごとく、にちれんだいしょうにんの、ほんもんのでしとして、けぎのこうせんるふめざしてすすむひとに、だいごほんぞんはじゅよされるということである。
 したがって、どんなにごほんぞんをいただいても、このけついとじっせんなきものにはじゅよされたことにはならない。
 すなわち、じゅよされるとは、にくだんのせいめいのなかにいただくものであり、そく、わがせいめいに、もったいなくも、だいごほんぞんがゆげんすることをいみする。
 されば、しんに、らくどのけんせつのために、たたかうじゆうのぼさつにこそ、だいごほんぞんのいだいなるくりきがあらわれ、そのせいめいは、せいじょうに、ちからづよくかがやき、ふくとくにみちみちてくることをかくしんしていくべきである。




  • [266]
  • おんぎくでんこうぎ げ。 だいにじゅうさん、くおんのこと

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 6日(月)00時28分10秒
 
おんぎくでんこうぎ げ。
だいにじゅうさん、くおんのこと

つうげ
 くおんということについて、おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 じゅりょうほんだいじゅうろくのしょせんは、くおんじつじょうである。
 このくおんじつじょうは、もんていよりみれば、ごひゃくじんでんこうのじょうどうではなく、くおんがんじょのじょうどうなのである。
 くおんとは、そのしんじつのいみは、はたらかさず、つくろわず、もとのままであり、くおんがんじょのほとけのすがた、またせいめいのほんしつをあらわすのである。
 むささんじんであるがゆえに、あるときに、はじめてじょうどうしたというような、つくられたほとけではない。
 これをはたらかさずというのである。
 おうけのほとけのごとく、さんじゅうにそう、はちじゅうしゅこうをぐそくせず、そのままのすがたであるがゆえに、つくろわずというのである。
 またほんぬじょうじゅうのほとけであるがゆえに、もとのままというのである。
 このはたらかさず、つくろわず、もとのままのことをくおんというのである。
 したがって、くおんとは、きゅうきょくは、なんみょうほうれんげきょうそのものなのである。
 いじょうが、くおんということであるが、さらにくおんじつじょうの、じつじょうとは「まことにひらけたり」とよむのである。
 すなわち、むさとひらけたことをいうのである。
 しょせん、くおんじつじょうとは、くおんがんじょにおいて、わがみがむささんじんのとうたいれんげぶつであると、かいかくしたことである。


こうぎ
 ここにときあかされるくおんじつじょうとは、つうずのいみとはまったくちがい、なんみょうほうれんげきょうにょらいの、じゅりょうほんにおける、くおんじつじょうである。
 したがって、ここにゆうくおんとは、くおんがんじょとどういであり、はたらかさず、つくろわず、もとのままのぎである。じつじょうのじつも、むささんじんのほとけということであり、じょうも、なるということではなく、ひらくぎとなる。
 さらに、だいしょうにんは、このくおんの、はたらかさず、つくろわず、もとのままとのいぎを、ひとつひとつこくめいに、とかれている。
 「はたらかさず」については、「むさのさんじんなれば、はじめてじょうぜず、これはたらかざるなり」とおおせられ、「つくろわず」については「さんじゅうにそう、はちじゅうしゅこうをぐそくせずこれつくろわざるなり」と、また「もとのまま」については「ほんぬじょうじゅうのほとけなればもとのままなり」と、とかれている。すなわち、ともにくおんがんじょじじゅゆうしんにょらいのおせいめいをあらわしていることはあきらかである。
 くおんといえば、いっぱんてきには「ときのむきゅうなこと」「とおいむかし」あるいは「えいえん」ということである。しかるにくおんがんじょのくおんとは、これらのじかんてきかんねんをふくめて、だいうちゅうのほんげん、せいめいのほんげんといういみである。すなわち、むさほんぬじょうじゅうのせいめい、むしむしゅうのせいめいのほんたいであり、それは、くおんがんじょのじじゅゆうしんにょらいのおせいめいそれじたいである。これはまた、そくなんみょうほうれんげきょうであり、したがってほんぶんには「くおんとはなんみょうほうれんげきょうなり」とけつろんあそばされているのである。
 さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく、「しゃかにょらい、ごひゃくじんでんごうのそのかみ、ぼんぷにておわせしとき、わがみは、ちすいかふうくうなりとしろしめして、そくざにさとりをひらきたまいき、のちにけたのためにせせ、ばんばんにしゅっせ、じょうどうし、ざいざい、しょしょにはちそうさぶつす」(0568-)と「しゃかにょらい」とは、けっしてほんがだいいちばん、じょうどうのしゃくそんではなく、みょうじぼんぷいのしゃくそん、すなわちくおんがんじょの、じじゅゆうしんにょらいである。
 「ごひゃくじんでんごうのそのかみ」とは、くおんがんじょのことである。
 「わがみは、ちすいかふうくう」は、わがみそく、ぜんうちゅうということである。
 これ、にちれんだいしょうにんの、くおんがんじょのじょうどうであり、にちれんだいしょうにんが、むしむしゅうに、むささんじんのとうたいとして、じょうじゅうであることをとかれたおんふみにほかならぬ。
 しかして、これまた、せいめいろんのごくていを、ときあかしたものである。
 われらのせいめいは、かみによってつくられたものでもなく、ぐうぜんにはっせいしたものでもなく、くおんがんじょよりうちゅうとともにじつざいし、しょうじ、しょうじとれんぞくし、げんざいにいたっている。
 またかつ、みらいえいえんにわたり、そのれんぞくであることにかわりない。
 「わがみは、ちすいかふうくう」の、おんふみも、われらのせいめいはそく、うちゅうそれじたいであり、うちゅうと、どうじにそんざいし、うちゅうが、るてんしていくかぎり、うちゅうとともにむげんに、つづきゆくものである。
 とだぜんかいちょうは、これについてつぎのごとく、はなされたことがある。
 「にちれんだいしょうにんさまは、くおんがんじょというときに、わがみは、ちすいかふうくうなりとしろしめして、そくざにさとりをひらかれたとおっしゃっております。
 わがみがちすいかふうくう、すなわち、だいうちゅうそれじたいのせいめいであるとおっしゃっております。わがみ、ちすいかふうくううんぬんとは、すなわちだいうちゅうそれじたいのせいめいである。とおさとりになったことです。
 ですから、にちれんだいしょうにんさまのせいめいというものも、われわれのせいめいというものも、むしむしゅうということなのです。
 これをくおんがんじょといいます。はじめもなければ、おわりもないのです。
 だいうちゅうそれじたいが、だいせいめいたいなのです。だいうちゅうですから、はじめもなければおわりもないのです。
 このままの、ちきゅうだけなら、はじめもおわりもあるのです」と。
 されば、くおんがんじょとは、さきにのべたごとく、もはや、あるいっていのときをさすのではなく、このゆうきゅうにつづきゆく、うちゅうのだいせいめい、そして、さんぜじょうじゅうに、しょうじをくりかえし、むしむしゅうにつづきゆく、せいめいのきゅうきょく、ほんげんをいうべきか。
 これを、にちれんだいしょうにんは「はたらかさず、つくろわず、もとのまま」とおおせられたのである。

 しんじんおよびせいかつにやくしていえば、「はたらかさず」とは、まずいっぱんてきにいぬがほえるのも、ねこがなくのも、とりがさえずるのも、みなこれ「はたらかさず」であり、せいめいのしぜんのはつどうである。
 しんじんにやくしていえば、だいごほんぞんにしょうだいし、またこうせんるふにかつやくし、せいめいのおうていからの、かんきのやくどうのことである。
 これはだれびとが、あたえるものでもない。じぶんじしんのないおうからしぜんにはつげんするものである。
 これ「はたらかさず」ではないか。
 また、じしんのせいめいのうえにきずくぜったいのこうふくきょうがいである。
 こうふくは、ほかからあたえてくれるものではない。じしんのせいめいのうえにきずいていくものである。
 さきの「じがげしじゅうのこと」でのべた、しんの、じゆうじざいのきょうがいである。 これは、しゃかぶっぽうのごとく、りゃくこうしゅぎょうや、てんだいけのごとく、かんねんかんぽうで、はたらかしてきずくべきものではない。
 ただ、だいごほんぞんときょうちみょうごうするとき、われらのぎょうじゅうざがの、ふるまい、すべてだいうちゅうのリズムとがっちし、さわりなく、ゆうゆうたる、ふるまいをしていけることが、むささんじんのかくりつであり、まさに「はたらかさず」になることをしるべきである。
 また「つくろわず」とは、きょえいではなく、しんじんにてっし、ありのままのにんげんせいでいくことをいうのである。
 ほんぶんに、「さんじゅうにそう、はちじゅうしゅこうをぐそくせず」の、さんじゅうにそう、はちじゅうしゅこうとは、げんじつせいかつのうえでいえば、きょえいであり、かたがきである。
 これをもとむることに、けんめいとなり、じこをこちょうしようとしたり、せのびしてとくべつな、にんげんにみせようとすることである。
 そんなことは、こんていてきにはまったくひつようない。
 しょせん、しんじんにいき、じぶんらしく、もっともこせいをはっきし、しゃかいのため、ひとびとのため、かちそうぞうしていくじんせいこそ、まさに「つくろわず」なのである。
 また「もとのまま」とは、だいもくをとなえるすがたこそ、もっともだいうちゅうのリズムにかなった、ほんねんのすがたであり、ほんぬのすがたである。
 みずからは、じっかいほんぬのとうたいである。
 だいもくをとなえたとき、こしんのじごくかいは、じごくかいのまま、がきかいはがきかいのまま、みょうほうにてらされ、すべてこうふくへとうごきはたらくのである。
 これ「もとのまま」ではないか。
 また、しんじんにいき、ほんにんみょうのせいしんにてっすることである。
 だいごほんぞんにはいきづまりがなく、また、しんじんも、つねにむりょうのちえをはつげんするげんせんである。
 きのうまでのこうせきにひたり、みらいをひらくことをわすれたひとは、だいごほんぞんをわすれ、しんじんをわすれたひとであり、いきづまってくる。
 このとき、ふたたびしんじんにもどり、ほんにんみょうのせいしんで、みらいをひらくとき、かならずせいちょうがあり、ぜんしんがある。
 これ、ほんぬじょうじゅうのふるまいであり、「もとのまま」にきちゃくしたひとのすがたといえる。

 かつまた、みずからのしめいをじかくし、そのしめいのままにいきることも、ほんぬじょうじゅうのすがたである。
 すなわち、みょうほうのだいどうにいきる、ぢゆのじかくこそ、くおんがんじょいらいの、ほんけんぞくのじかくであり「もとのまま」ではなかろうか。
 しょせん、しんじんにいき、みょうほうにいききるひとこそ、いまが、くおんがんじょであり、だいうちゅうのほんげんにたちもどり、つねにこうだいな、みらいをひらいていくひとであると、つよくかくしんすべきである。
 また、さいごの、「まことにひらけたり、むさとひらけたるなり」とは、ぶっかいのゆげんである。
 がいぶから、だんだんとかたちづくっていく、こうふくではなく、ぜったいにこわれないこうふくをいみする。
 にんげんかくめいによって、こんていてきに、じこじしんをかくりつしていくことが、もっともただしいじんせいであると、ふえんしてかいしゃくすることもできる。
 まずしょうほうたるじこを、かくりつしていくことだ。
 そのうえに、えほうのあらゆるきゃっかんてきじょうけんが、ととのっていくことが、もっともただしいいきかたである。
 そうすれば、いっさいがいかされる。
 がくれきも、ちしきも、ちいも、ざいさんも、けいけんも、すべてにんげんかくめいのどじょうのうえに、さいこうにいかされていくことを、しっていただきたい。
 これ、にんげんかんせいのきゅうきょくであり、いだいなるじんせいこうろの、いきたししんであるとうったえたい。




  • [265]
  • おんぎくでん げ。   だいにじゅうに、じがげ、しじゅうのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 5日(日)02時39分4秒
 
おんぎくでん げ。
だいにじゅうに、じがげ、しじゅうのこと。

じがげぜんたいについての、おんぎくでんにいわく。
 じがとくぶつらいの、じが、じがげのはじめのもんじであり、そくじょうじゅぶっしんのしんが、おわりのもんじである。
 したがって、はじめとおわりのもんじをあわして、じしんとなり、じがげぜんたいが、べっしては、にちれんだいしょうにんごじしんのことをとかれ、そうじては、しんじんしゅぎょうするものの、じしんのせいめいのことをあらわしている。
 はじめのじと、おわりしんをのぞいた、そのちゅうげんのもんじは、じゅよう、すなわち、かつどうをいみし、ほっぽうおうのさんじんにょらいのしょさなのである。したがって、じがげは、じじゅゆうしんとなるのである。
 ほうかい、すなわちだいうちゅうを、じしんとかいかくするならば、ほうかいはすべてじじゅゆうしんとなる。
 したがってじじゅゆうしん、そく、じがげであるがゆえに、だいうちゅうはことごとくじがげとなるのである。
 ほしいままにうけもちいるみとは、いちねんさんぜんなのである。
 でんぎょうだいしは、そのちょ、「ひみつそうごんろん」に、「いちねんさんぜんは、そくじじゅゆうしんであり、じじゅゆうしんとは、しきそうそうごんのほとけではない。そんぎょうをちょうしゅつした、ぼんぷそうのほとけである。
 しかして、しゅつそんぎょうぶつとは、むささんじんのことなのである」と。
 いま、にちれんだいしょうにんこそ、このもんのとおり、むささんじんのほとけであり、じのいちねんさんぜんのとうたいなのである。
 また、われわれでしもまた、なんみょうほうれんげきょうととなえることによって、むささんじんのほとけとかいかくし、じのいちねんさんぜんのとうたいとしての、かっこたるじこをきずくことができるのである。


 じがとくぶつらいのじと、そくじょうじゅぶっしんのしんで、このじがげはぜんたいとして、にちれんだいしょうにんごじしんのことがとかれているのである。また、じしんとは、しんじつのせいめいのしゅたい、じがのしゅたいであり、これをときしめしたのが、じがげである。はじめのじとおわりのしんとをのぞいた、なかのもんじは、すべて、じしんのふるまい、かつどうであり、じゅようとなる。したがって、じがげとは、じじゅゆうしんということになるのである。
 じじゅゆうしんとは、ほんぶんにおしめしのごとく「ほしいままにうけもちいるみ」といういみで、にちれんだいしょうにんのごせいめいは、なにものにもしはいされず、なにものにもさゆうされない、もっともしょうじょうであり、もっともちからづよく、あたかもだいうちゅうをじざいにゆうぎしているごとく、いっさいさわりなく、しかもえいえんにつづきゆくこんごうふえのこうふくなるとうたいであられることである。しんじつのじがのかくりつ、しゅたいせいのかくりつのきゅうきょくを、ごじしんのうえにしめされたものということができるのである。
 ここにいうじじゅゆうしんとは、くおんがんじょのじじゅゆうしんであり、にちれんだいしょうにんごないしょうであり、そく、にんほんぞんをしめされている。
 またいちねんさんぜんとは、かいもくしょうに、いちねんさんぜんもんていひちんとあるごとく、もんていげしゅ、じぎょうのいちねんさんぜんのなんみょうほうれんげきょう、そくほうほんぞんである。
 しかして、「じじゅゆうしんとは、いちねんさんぜんなり」とは、にんぽういっかをしめされ、にちれんだいしょうにんのごせいめいは、まったくこれ、いちねんさんぜんのだいごほんぞんであり、いちねんさんぜんのだいごほんぞんは、まったくこれ、にちれんだいしょうにんの、ごせいめいであることをとかれたのである。
 しゃくそんは、ほうしょうにんれつであり、にちれんだいしょうにんのばあいは、にんぽういっかである。ほんぞんとはすぐれたるをもちうべきである。したがってしゃくそんをほんぞんとしてはならない。まっぽうのわれらしゅじょうのしんぽうすべきごほんぞんは、にちれんだいしょうにんであり、まただいしょうにんのごせいめいを、いっぷくのだいまんだらとしてみとめられた、こうあん2ねん12791010がつ12にちのいちえんぶだいそうよのだいごほんぞんいがいにぜったいにないのである。
 ほんぞん、もんどうしょうにいわく、「とうていわく、まつだいあくせのぼんぷはなにものをもって、ほんぞんとさだむむべきや、こたえていわく、ほけきょうのだいもくをもってほんぞんとすべし」、(0365-01)、(ちゅうりゃく)、「これは、ほけきょうのきょうしゅを、ほんぞんとす、ほけきょうのしょういにはあらず、かみにあぐるところの、ほんぞんはしゃか、たほう、じっぽうのしょぶつのごほんぞん、ほけきょうのぎょうじゃのしょういなり」、(0365-14)(ちゅうりゃく)、「とうていわく、しからばなんじ、いかんぞ、しゃかをもってほんぞんとせずして、ほけきょうのだいもくをほんぞんとするや、こたう、かみにあぐるところのきょうしゃくを、みたまへ、わたしのぎにはあらず」、(0366-07)と。
 このおんふみをうけて、にっこうしょうにん、ふじいちせきもんと、ぞんちのことにいわく、「にっこうがいわく、しょうにんごりゅうのほうもんにおいては、まったくえぞう、もくぞうのほとけ、ぼさつをもってほんぞんとなさず、ただ、ごしょのこころにまかせてみょうほうれんげきょうのごじをもって、ほんぞんとなすべしと、すなわちごじひつの、ほんぞんこれなり」(1606-02)と。
 つぎの、でんぎょうだいしの、「ひみつそうごんろん」のもんは、きわめてゆうめいであり、かつじゅうようである。
 すなわち、にんぽういっかのしょうもんだからである。
 「いちねんさんぜんそくじじゅゆうしん」とは、ほうそくにんをしめすものであり、さきの、「じじゅゆうしんとは、いちねんさんぜんなり」の、おんふみはにんそくほうであり、あわせて、ほうそくにん、にんそくほうをしめすのである。
 いちねんさんぜん、すなわちもんていげしゅ、じぎょうのいちねんさんぜんのだいごほんぞんは、まったく、にちれんだいしょうにんのとうたいであるとのがんいである。
 「じじゅゆうしんとは、そんぎょうをいでたるほとけ」とは、まさしく、にちれんだいしょうにんが、ぼんぷそくごくの、ほとけであることをしめしている。
 そんぎょうとは、しきそうそうごんのほとけで、りそうぶつとやくす。
 ここでは、だつちゃくのほとけをさして、そんぎょうというのである。
 しゅつそんぎょうぶつとは、ぼんぷそうのほとけ、すなわちげしゅのほとけである。
 したがって「しゅつそんぎょうぶつとは、むさのさんじんということなり」と。
 そのとうたいをあかしているのである。
 このもんと、おんぎくでんげ、「さればむさのさんじんとは、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃなり、むさのさんじんのほうごうを、なんみょうほうれんげきょうというなり」(0752-06)のおんふみとを、よくよくおもいあわすべきである。
 されば、むすびのもんに、「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものこれなり」と、おおせられたのである。
 このところは、まったく、にちれんだいしょうにんのごじしんのことをとかれたところであるが、さいさんのべているごとく、ここでも、「とうのたぐい」とおおせられ、だいごほんぞんをしんじゅしたわれらをも、ふくめて、おおせくださっている。
 つねに、だいしょうにんが、われわれを、ごじしんとおなじきょうちにひきあげようとしてくださっている、おじひをつうかんするものである。
 じじゅゆうしんを、せいめいてつりのうえからいえば、せいめいは、ほかによってつくられたものではなく、じしんのうちにいんがのりほうをないほうし、じょうじゅうしているということである。
 かみによってつくられたとか、こんぜにおいて、はじめてたんじょうしたとかいうものでは、もうとうない。
 したがって、すべて、じぶんじしんのせきにんであり、じしんをかくりつするいがいにない。
 だが、げんじつには、じしんのせいめいは、ぼんのう、ごう、くにしばられ、さゆうされ、しはいされている。
 また、かんきょうのじゅうあつにおしつぶされ、まったくちいさな、よわよわしいそんざいとなってしまっている。
 これは、しんのじじゅゆうしんではない。
 ここに、じじゅゆうしんのきゅうきょくのとうたいである、だいごほんぞんときょうちみょうごうすべきゆえんがある。
 さきにものべたごとく、にちれんだいしょうにんは、なにものにもさゆうされない、こんごうふえのぶっしんであられる。
 ここにきょうちみょうごうするとき、われらもまた、ほうかいをじしんとひらき、ほうかいをじざいにかけめぐるごとき、つよき、ひろき、じがをかくりつし、しゅたいせいをじゅりつしていけるのである。
 「ほうかいは、じじゅゆうしんなれば、じがげにあらずということなし」とは、ほうかいそくじじゅゆうしん、ほうかいそくじがげということであり、それは、うちゅうだいの じこをけんげんしていくことにほかならぬ。
 さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく、「いっさいのほうはみなこれぶっぽうなりとしりぬれば、きょうくんすべきぜんちしきもはいるからず、おもうとおもい いうといい、なすとなし、ふるまいとふるまう、ぎょうじゅうざがの、し、いぎのしょさは、みな、ほとけのみこころとわごうして、いったいなればとがもなく、さわりもなきじざいのみとなるこれをじぎょうという」、(0570-01)と。
 いっさいのほうは、みなこれぶっぽうなり、としるとは、みょうじそくであり、われらにやくしていえば、じゅじそくかんじんであり、だいごほんぞんをしんじゅし、だいもくをとなえることであり、そくわれらのいっさいのかつどうが、ぶっぽうのりにかない、みょうほうのふるまいにつうじていくことである。この「しる」とは、しんじきるということである。
 このようにしんじたてまつるとき、わがみは、にちれんだいしょうにんのおせいめいとわごうして、いったいとなり、ぎょうじゅうざがのふるまい、ことごとくが、だいうちゅうのリズムとがっちした、しんじつのじゆうのきょうがい、じざいのきょうがいになるとのおおせである。
 これ、しんじつのわがみじじゅゆうしんとあらわれたるすがたであり、さいこうのじたいけんしょうのじこのかくりつなのである。
 こうかん、じがのかくりつ、しゅたいせいのかくりつ、あるいはじゆう、そんげんとうがさけばれているが、このことばのみありて、じつなく、しゃくもんのりょういきであり、しんじつのじったいは、ことごとくぶっぽうにあるといいたい。
 このじじゅゆうしんのかくりつ、かんぜんなるしゅたいせいのかくりつを、にんげんかくめいともいい、それをこんていとしたとき、はじめて、しんじつさいこうのみんしゅしゅぎがじつげんされることを、つよくしゅちょうしてやまぬものである。





  • [264]
  • おんぎくでんこうぎ げ。 だいにじゅういち じがげのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 4日(土)01時23分46秒
 
おんぎくでんこうぎ げ。
だいにじゅういち じがげのこと。

つうげ
 じがげについて、おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 じとはきゅうかいであり、がとはぶっしんである。すなわち、きゅうかいそくぶっかいのせいめいである。げとは「ことわる」といういみであり、みょうほうのてつりをば、これこそどうりなりとのべたことをいうのである。すなわち、このきゅうかいそくぶっかい、じっかいごぐのせいめいは、くおんがんじょいらい、むしむしゅうであることをどうりとしてときあかしたのがこのげじゅなのである。このことをふかく、しさくしていくべきである。
 このようにどうりとしてときあかしたきゅうきょくのじったいはなにかといえば、それはなんみょうほうれんげきょうなのである。


こうぎ
 このこうは、つぎの「だい22、じがげしじゅうのこと」および、すでにのべた「だいじゅういち、じがとくぶつらいのこと」と、いちれんのおんふみであり、よくかんれんして、えとくしていただきたい。
 じがげとは、このおんふみにおおせのごとく、きゅうかいそくぶっかい、ぶっかいそくきゅうかい、すなわち、わがせいめいはじっかいごぐのとうたいであり、しかもそれがほんぬじょうじゅうであることをあらわし、これこそ、しんじつのせいめいのすがたであり、ほうりであるとさんたんしたものである。
 さらに「ことわりようとは、なんみょうほうれんげきょうなり」と、けつろんされ、じがげとは、なんみょうほうれんげきょう、そくだいごほんぞんこそ、だいうちゅうのほんげんであり、じのいちねんさんぜんのとうたいであり、これいじょうのいだいなる、とうたいはないとさんたんしたところのげじゅにほかならない。
 ここで「じとは、きゅうかいなり、がとは、ぶっしんなり」のもんを、いちじゅう、たちいってろんずるならば、じとはほんにんみょうのたちばであり、にっこうしょうにんであられ、「がとはぶっしんなり」とは、ほんがみょうのたちばでにちれんだいしょうにんであらせられる。これ、まことのほんにんほんがのほうもんにして、していふにのきゅうきょくのおすがたである。
 これをくおんがんじょいらい、ほんぬじょうじゅうなり、くおんがんじょのすがたは、まったく、こんにちのすがたなりと、さんたんしたのが、じがげとなる。
 しかして、このゆいぶつよぶつ、ないのうくじんのきょうちをつらぬくものは、くおんがんじょの、なんみょうほうれんげきょうなりとの、がんいが「ことわりようとは、なんみょうほうれんげきょうなり」の、けつろんのおんふみである。
 じがげをとなえるくどくに、じがげについては、ほうれんしょうに、つぎのごとくおおせである。
 「じがげのくどくは、ゆいぶつよぶつ、ないのうくじんなるべし、それ、ほけきょうはいちだいせいきょうの、こつずいなり、じがげは、にじゅうはちほんのたましひなり、さんぜのしょぶつは、じゅりょうほんをいのちとし、じっぽうのぼさつも、じがげをげんもくとす。じがげのくどくをば、わたくしにもうすべからず、つぎしもにふんべつくどくほんにのせられたり。このじがげを、ちょうもんして、ほとけになりたる、ひとびとのかずを、あげてそうろうには、しょうせん、たいせん、さんぜんせかいのみじんのかずをこそ、あげてそうらへ。そのうえ、やくおうほん、いかのろくほん、とくどうのもの、じがげのよざんなり。(ちゅうりゃく、)されば、じっぽうせかいのしょぶつは、じがげを、しとして、ほとけにならせたまう、せかいのひとのふぼのごとし。いまほけきょう、じゅりょうほんをもつひとは、しょぶつのいのちをつぐひとなり、(ちゅうりゃく)、ほけきょうのじがげをもつひとを、てきとせんはさんぜのしょぶつを、てきとするになるべし」(1049-15)と。
 このじがげとは、もんじょうのじがげではない。じのいちねんさんぜんの、なんみょうほうれんげきょうを、さんたんするじがげであり、したがって、ここにおおせられたじがげとは、そのじったいは、しょせん、なんみょうほうれんげきょうなのである。
 じがげのきちゃくすべきこんげんは、あくまでもだいごほんぞんであり、なんみょうほうれんげきょうである。これをはなれて、いかにじがげをよもうとも、ぜったいにくどくはない。
 されば、じがげは、まっぽうにいりては、しょうぎょうたる、なんみょうほうれんげきょうに、せっせられてしまい、それじたいは、じょぎょうとなることをしるべきである。




  • [263]
  • おんぎくでん げ。  だいにじゅう、とくにゅうむじょうどうとうのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 3日(金)00時38分59秒
 
おんぎくでん げ。
 だいにじゅう、とくにゅうむじょうどうとうのこと。

つうげ
じゅりょうほんだいじゅうろくの「むじょうどうにはいり、すみやかにぶっしんをじょうじゅすることをえせしめん」のもんについてのおんぎくでんにいわく。
 むじょうどうとは、ないしょうのじゅりょうほんでとくむささんじんである。これいがいにじょうじゅぶっしんはないのである。いま、にちれんだいしょうにんこそむささんじんのほとけであり、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるだいしょうにんのもんかもまたじょうじゅぶっしんはうたがいないのである。

こうぎ
 にちれんだいしょうにんは、なんみょうほうれんげきょうこそ、むじょうのなかのごくむじょうどうとおおせられている。
 したがって、これをじゅじするひとも、さいこうのこうふくきょうがいをえとくしていけるのである。このこうふくきょうがいを、むささんじんととかれたのが、このおんふみである。
 しかして、このむささんじんを、わがいっしんにじょうじゅしていくためには、しんじんいがいにないのである。さいこうのせいめいりょく、さいこうのちえ、さいこうのふくうん、これをけんげんし、かくりつするためのしんじんである。
 そのこんていをかくりつすることが、じんせいのこんぽんであり、こうふくへのだいいちぎである。ぎじゅつとうは、そのよざんにすぎない。むささんじんのとうたいをかくりつすることがだいちである。おのれのかつどうするぶんやでぎじゅつをしゅうとくし、そのぶんやのけんいしゃとなり、なくてはならぬじんざいとなっていくのは、そのだいちより、めをしょうじ、やがて、たいぼくとなり、はをしげらせていくのにたとえられる。
 いっさいのぎじゅつをいかし、それをしゃかいのために、いだいなるかちそうぞうにむかわしめるこんげんは、じしんのないおうにある。じしんのせいめいをばんじゃくとせずして、なんのぎじゅつか、たんなる、うわべのそうごんにすぎぬではないか。
 「じょうじゅぶっしんうたがいなききなりとは、だいしょうにんのぜったいのかくしんであられる。これほどまでに、つよく、かたく、われわれにやくそくしてくださっているのである。ありがたいことではないか。すばらしいことではないか。
 このおんふみをば、ぜったいとかくしんして、さらに、つよきしんぎょうにすすみ、ししおうがゆうゆうとあゆむがごとく、いぎどうどうと、じんせいをかっぽしていただきたい。それは、けいしきでも、かっこうでもない。そのひとのきょうがい、ないおうのかくしんのはつろである。にほんいち、いや、せかいいちのしあわせものであるとのこころをもって、たいようがかがやくがごとく、あかるく、かいかつに、きぼうにみちて、ともどもにしんじだいをあゆんでいきたいと、こころよりねんがんするものである。





  • [262]
  • おんぎくでん げ。  だいじゅうく、まいじさぜねんのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 1日(水)23時12分55秒
 
おんぎくでん げ。
 だいじゅうく、まいじさぜねんのこと。

 つうげ。
  じゅりょうほんだいじゅうろくの、「つねにみずから、このねんをなさく」の、もんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 まいとは、つねのこころでさんぜじょうじゅうをあらわす。じとはべっしては、しゃくそん、すなわちぶっかいをあらわし、そうじてはじっかいおのおのの、せいめいをあらわすのである。
 ぜねんとは、むさほんぬのなんみょうほうれんげきょうの、いちねんである。すなわち、にちれんだいしょうにんのごいちねんである。またむさとは、このさは、うさのさではなく、むさほんぬのさであり、だいしょうにんの、おんふるまいそれじたいである。
 いじょう、ほとけのいちねん、ふるまいのうえで、ろんじたものであるが、ひろく、じっかいぜんたいのほんぬのすがたに、やくしてろんずるならば、じとはうちゅうのしんらばんしょうの、おのおののとうたいをいうのである。
 また、ぜねんとは、じごくのごくそつがざいにんをせめるのも、そのほかいっさいしゅじょうのこころにおもうねんねんも、みな、じじゅゆうほうしんの、ちにほかならない。これをねんというのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかがなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、ねんはだいじひのねんである。

 こうぎ
 いっさいしゅじょうは、それぞれ、しゅんかんしゅんかん、なんらかのねんねんをもってせいかつしている。やきゅうのとうしゅは、つねに、どうしたらもっともみごとにとうきゅうし、たたかいにかてるか、そのことをねてもさめてもかんがえけんきゅうしている。 それが、やきゅうのとうしゅのまいじさぜねんである。じぎょうかは、じぶんのじぎょうをどのようにせいこうさせるか、はってんさせるかをつねにかんがえ、よねんがない。これもまいじさぜねんである。こいびとをおもうねんねんも、まいじさぜねんであろう。こどもをそだてるははおやは、こどものことをつねにおもい、しゅんじたりともそのねんからはなれない。これまたまいじさぜねんである。
 しかしながら、これらのねんねんは、だいじひのねんねんではない。ほとけのまいじさぜねんは、つねにどのようにしたら、しゅじょうをして、むじょうどうをえせしめ、すみやかにぶっしんをじょうじゅさせようかという、だいじひのねんねんなのである。しかもそのねんは、けっしていちじてきなものではなく、「まいとはさんぜなり」とのおおせのごとく、さんぜじょうじゅうに、かわらざるいちねんなのである。
 このじひのねんは、けっしてどうとくてきなしゅぎょうでえられるものではない。いしきして、どんなにじひのねんをおこそうとしても、おこせるものではない。
 こうどうのなかに、こころのはたらきのなかに、むいしきにじねんにはつげんするものである。したがってまいじさぜねんのさを、「このさはうさのさにあらず、むさほんぬのさなり」とおおせられているのである。
 ひるがえって、げんこんのよの、しどうしゃのまいじさぜねんはいかなるものか。
 とくに、ちょくせつ、みんしゅうのこうふくにつながる、せいじのせかいにおける、しどうしゃのまいじさぜねんはどうか。
 ほんらいならば、これらのひとびとこそ、つねにみんしゅうのこうふくをねがった、じひのねんねんによる、いっさいのこうどうでなくてはならないはずである。
 だが、かなしいかな、しり、しよくのねんねんでこうどうしているせいじかがほとんどである。どんなに、ひとびとのさきで、ほほえもうと、たいげんそうごをくちにしようとも、おうていにあるねんねんが、つねにどこにあるかがもんだいである。
 じこのいっしんのえいたつのみをねがい、みょうりをむさぼるしどうしゃのもとにあるみんしゅうほどふこうなものはない。こうしたしどうしゃのもとにあっては、みんしゅうは、つねにかれらのふみだいとなり、りようされ、あしげにされ、ぎせいとなり、くのうにしんぎんしなくてはならぬ。このしり、しよくに、こりかたまったにんげんのせいめいをおうていよりへんかくし、みんしゅうのこうふくのためにまいしんしゆく、じかくをはつげんするものこそ、ぶっぽうなのである。
 せいじのみならず、けいざいも、きょういくも、ぶんかも、そのたあらゆるにんげんしゃかいの、いとなみは、ほんらい、にんげんがこうふくになるためのものであり、ふこうにするためにあるものではないはずである。
 しかし、げんじょうは、かならずしも、ひとびとのこうふくとちょっけつせず、むしろふこうにおとしいれるような、じじつのあることも、ざんねんながらほんとうである。
 もし、ぶっぽうのだいじひのせいしんが、これらのいとなみのうえにぐげんされたならば、みな、ほんらいのすがたにたちもどり、みんしゅうのこうふくのためにいきいきとはたらきだすにちがいない。
 われらそうかがっかいのまいじさぜねんは、ぜんみんしゅうのこうふく、へいわなしゃかい、へいわなせかいのじつげんしかない。もったいなくも、にちれんだいしょうにんは「とうのたぐい」とおおせられ、こうせんるふにむかってすすむわれらを、「だいじひのねん」とおおせくださっている。
 われらのじひのねんは、ごほんぶつのだいじひにくらべれば、せんまんぶんのいちにもはるかにおよばない。だが、われらのしょうりは、こうふくとへいわのしょうりであり、みんしゅうのかつごうであるとじかくすべきである。
 にちれんだいしょうにんにちょっけつしたまいじさぜねんは、たとえ、ひとりのりんじんのために、そのこうふくをねがい、しゃくぶくし、しどうし、ともにどうしとしてせいちょうさせてあげることは、じみではあるが、さいこうのまいじさぜねんであり、だいじひのねんにつうじていくのである。
 いま、じこのまいじさぜねんは、なにであるかを、ふかくはんせいすべきである。かたちは、こうせんるふのためにたたかっているすがたであっても、おうていのいちねんは、たのほうこうにむかっていないかどうか。みょうもんみょうりのまいじさぜねんではないかどうか。とうとう。
 そのひとのおうていの、まいじさぜねんがだいじである。それがいっさいをけっじょうし、そのひとのいっしょうをもきめてしまう。
 たとえ、しょくばであっても、がっこうにあっても、こっかいというぶたいにあたっても、またどんなときでも、おうていのいちねんは、まいじさぜねんは、だいごほんぞんをこんぽんにしなくてはならぬ。
 そのうえに、あらゆるぶんやで、ぶたいで、おおいにかつやくしていただきたい。しんじだいのせんくしゃらしく。

 じとはべっしては、しゃくそんそうじては、じっかいなり。
 この、「べっしてはしゃくそん」とは、まっぽうにおいて、にちれんだいしょうにんのおんことであり、そくごほんぞんのことである。
 ただし、ここでは、まだそのしゃくそんのじったいはあかされず、いちおう、ほとけといういみで、しゃくそんとしるしたのである。「そうじてはじっかいなり」とは、いっぱんてきに、てつがくてきにろんじられたところである。これは、またつぎのもんともかんれんしている。
 すなわち、「ぜねんとはむさほんぬの、なんみょうほうれんげきょうのいちねんなり」のところは、べっして、ほとけのいちねんのさようをおおせであり、つぎの、「ひろくじっかいほんぬに、やくしていわば」の、ところは、そうじていっぱんせいめいのさようをおおせである。
 さいごの、「いまにちれんとうのたぐい」のもんは、むすびのもんのさいしょの、「じとはべっしてはしゃくそん」の、じったいがあかされているとともに、ごほんぶつにちれんだいしょうにんの、じこそ、むさほんぬのなんみょうほうれんげきょうの、いちねんであり、だいじひのねんであるとけつろんされている。ここにもそうべつがあり、べっしては、にちれんだいしょうにんのねんであるが、「とうのたぐい」とおおせられ、そうじて、でしだんなをも、ごほんぶつのきょうちにふくめておられる。
 このように、ぶっぽうは、つねにそうべつのにぎで、ろんじていくのである。そうべつのにぎをしらなければ、ぶっぽうのしんずいをえとくすることはできない。したがって、そやどのごへんじには、「そうべつのにぎ、すこしもあいそむけば、 じょうぶつおもいもよらず、りんねしょうじのもといたらん」(1055-11)とおおせられている。
 このようにそうべつのにぎで、ろんずるのは、ぶっぽうどくとくであり、せいようてつがくのおもいもよらぬところである。
 せいようてつがくは、むしろ、いっぱんてき、ふへんてきほうそくをはっけんし、たいけいづけることにしゅがんがあり、どちらかといえば、そうじてだけのろんじかたになっている。これにたいし、とうようてつがくのしんずいは、かならずそうべつのにぎでといている。すなわち、いっぱんてき、ふへんてきほうそくのたいけいだけではなく、じじつのこうふくのぐげん、せいめいのとうたいのかがやきをもんだいにしていくのである。
 ここに、せいようてつがくととうようてつがくの、ふかさのちがいのいちだんめんがあるといえよう。



  • [261]
  • おんぎくでんこうぎ げ。だいじゅうひち、 だいじゅうはち、ぎょうどうふぎょうどうのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 1日(水)00時44分2秒
 
おんぎくでんこうぎ げ。
だいじゅうはち、ぎょうどうふぎょうどうのこと。

つうげ
 じゅりょうほんだいじゅうろくの、「みちをぎょうじみちをぎょうぜざるをしって」のもんについておんぎくでんにいわく。
 これはじっかいのしゅじょうのことをといているのである。ぎょうどうは、しょうもん、えんかく、ぼさつ、ほとけのしせいであり、ふぎょうどうは、じごく、がき、ちくしょう、しゅら、にん、てんのろくどうである。
 またいわく、さらにろくどうをぎょうどう、ぎょうどうにたてわければ、ぎょうどうはしゅら、にん、てんであり、ふぎょうどうはじごく、がき、ちくしょうのさんあくどうである。だが、しょせん、まっぽうにはいって、だいしょうにんのたちばからいえば、ほけきょうのぎょうじゃはぎょうどうであり、ほうぼうのものがふぎょうどうになるのである。ぎょうどう、ふぎょうどうのみちということは、けっきょく、ほけきょうすなわちまっぽうにおいては、だいごほんぞんのことなのである。そのしょうこにてんだいは、「ぶつどうとは、べっしてほけきょうをさすのである」と。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるでしだんなは、ぎょうどうであり、となえないものは、ふぎょうどうになるのである。

こうぎ
 ほとけは、ぎょうどうのもの、ふぎょうどうのものをぜんぶちしつしておられることを、「わがつねにしゅじょうの、みちをぎょうじぎょうぜざるをしって」というのである。
 しかして「ぎょうどう、ふぎょうどうとは、まっぽうこんじにおいては「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、ぎょうどうなり、となえざるはふぎょうどうなり」と、けつろんされているのである。
 この「となえたてまつるはぎょうどう、となえざるはふぎょうどう」のところは、いちおうは、とうぜんしんじんしていないひとはふぎょうどうであり、しんじんしているひとがぎょうどうである。
 だがさいおうは、ごほんぞんをひたすらしんじまいらせ、じぎょうけたにわたる、ぶつどうしゅぎょうにまいしんし、こうせんるふにたたかうひとでなければ、しんじつのぎょうどうではない。
 にちれんだいしょうにんは、だれがしんけんにたたかい、だれがようりょうよくふるまい、だれがこころにふたごころをいだいているかなど、ぜんぶごぞんじであられる。ということは、だいごほんぞんのかがみ、ぜんうちゅうのかがみ、なんじじしんの、せいめいのかがみに、そのひとのこうどうが、すべてうつしだされることをいみする。
 ぶっぽうは、けっして、へんぱなほうではない。いんがくじのみょうほうであり、げんぜんと、そのひとのしんじん、そのひとのこうどう、そしてふくうんは、せいめいにきざみつけられていく。
 ようりょうをつかい、しょうさいをきかし、うまくたちまわったひとは、そのぶんだけ、かならずのちでそんをする。
 なやまなくてならない。だれひとがみていようといなかろうと、つねにだいしょうにんのおこころをむねに、こうせんるふに、まじめにたたかうひとは、かならずふくうんのはなをひらいていく。そうでなければ、どうしてびょうどうだいえのほうといえるのであろうか。
 まなこにみえざるせかいを、かくしんしていくのがしんじんである。まなこにみえるせかいをおい、こうをあせり、けいしきにながれるひとは、かならずいきづまる。
 おうていのいちねんはみえない。だが、かならず、そのいちねんは、さんぜんられつのめにみえるすがたとして、かがやいてくる。これがぶっぽうである。みょうのしょうらんをどこまでもかくしんしきったひとが、さいごの、しかもえいえんのしょうりしゃになる。
 かいもくしょう、じょうにいわく、「せんずるところは、てんもすてたまえしょなんにもあえ、しんみょうをごとせん」(0232-01)と。
 これ、みょうほうをばぜったいにかくしんしきった、だいしょうにんの、れつれつたるきょうちであり、さけびである。
 わがみのあんじゅうのみをもとめてもくぜんのりがいにはしるすがたは、まことのしんじんではない。ただいまがどうであれ、だれがちょうしょうしようと、ゆうぜんと、だいしょうにんのおおせどおり、まっしぐらにすすんでいくところに、しんじんのきゅうきょくであるといいたい。


おんぎくでんこうぎ げ。
 だいじゅうひち、ほういつじゃくごよく、だおあくどうちゅうのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほういつとは、ほうぼうのななり、にゅうあびごくうたがいなきものなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、このきょうもんをめんりせりうんぬん。

つうげ
 じゅりょうほんだいじゅうろくの、「ほういつにして、ごよくにじゃくし、あくどうのなかにおちなん」のもんについて、おんぎくでんにつぎのようにおおせである。
 ほういつとはほうぼうの、なである。
 にゅうあびごくうたがいなきものである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかとしてなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、このきょうもんからまぬかれているのである。

こうぎ
 ほういつとは、ほうぼうのひとのすがたをいうのである。すなわち、こうふくへのだいどうがあるにもかかわらず、わざわざそのだいどうをあゆまず、ふこうにおちゆくひとのことである。
 だが、さいおうは、このもんはしんじんしているひとにも、つうずるものである。
 にんげんというものは、ほっておけば、そしきからはなれ、ごほんぞんからはなれ、ごよくにじゃくし、やがてじぶんをくるしめていくことになる。
 ここにしどうがたいせつなゆえんがある。また、つねにこじんこじんにおいて、ほっしんすることがたいせつなのである。
 いつのまにかだせいにながされ、けいしきかし、なれてしまっているじこにきづくことがだいじである。まんしんがあると、それがみえない。
 ごしょのもろもろのところに、「こころのしとはなるとも、こころをしとせざれ」(1088-15)とある。
 こころのしとは、ごほんぞんである。また、つねにごほんぞんにこころをむけていこうとするじこじしんもこころのしである。だじゃくなこころにながされるのではなく、つねにこころをただしいほうこうにむかわしめる、しゅたいしゃでなくてはならない。
 けっして、じこのきょうまんなこころ、よわいこころ、ひきょうなこころをしとして、それをちゅうしんとした、こうどうであってはならない。
 じぶんのこころのしゅたいしゃに」なることは、しんのじがのかくりつである。じぶんのこころにひきずられ、そのこころのままにふるまうことは、じがのかくりつではなく、じがのめっしつであり、ほういつであり、がよくにしはいされた、じゃくしゃであるといいたい。
 つねに、だいごほんぞんをこんぽんとしたじんせいほどつよいものはなく、こうふくなものはない。ごほんぞんにてらされた、じたいけんしょうのじんせいを、さらに、ともにすすんでいただきたいとおもう。

  • [260]
  • おんぎくでん げ。  だいじゅうろく、がやくいせぶのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月27日(金)02時12分27秒
 
おんぎくでん げ。
 だいじゅうろく、がやくいせぶのこと。

つうげ。
 じゅりょうほんだいじゅうろくの、われもまたこれ、よのちち、のもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
がやくいせぶの、がとは、しゃくそん、すなわちほとけじしんのことであり、いっさいしゅじょうの、ちちなのである。
 しゅししんのさんとくにおいて、ほとけにやくし、きょうにやくしてほけきょうにはとかれている。まずほとけにやくすということについていえば、しゃくもんのほとけのさんとくは、ひゆほんだいさんの、「こんしさんがい」のもんがこれにあたるのである。
 すなわち、かいぜがうは、しゅのとく、しっぜごしは、おやのとく、ゆいがいちにん、のういくごは、しのとくである。
 ほんもんのしゅ、し、しんのさんとくのもんは、しゅのとくはじゅりょうほんだいじゅうろくの、「がしどあんのん」のもんであり、しのとくとは「、じょうせっぽうきょうけ」のもんであり、おやのとくが、この「がやくいせぶ」のもんなのである。
 みょうらくだいしは、じゅりょうほんのもんをしらないものは、しゅししんをしらず、ふちおんのちくしょうであるとしゃくしたのである。
 きょうにやくして、しゅししんをいえば、やくおうほんだいにじゅうさんの、、「しょきょうちゅうおう」のもんは、しゅのとく、おなじくつぎしもにある、「のうぐいっさいしゅじょう」はしのとく、またおなじくやくおうほんだいにじゅうさんの、「うにょだいぼんてんおう、いっさいしゅじょうしぷ」の、もんはちちのとくである。
 さて、こんにちにおいて、だれびとが、いっさいしゅじょうのちちであるか。それは、にちれんだいしょうにんこそ、そのいっさいしゅじょうのちちで、あられるのである。
 そのゆえは、だいしょうにんこそ、ぜんみんしゅうの、むげんじごくのくをすくうがゆえである。そうじては、なんみょうほうれんげきょうと、となえるでしだんなも、いっさいしゅじょうの、ちちとあらわれるのである。
 ねはんきょうにいわく、「いっさいしゅじょうが、それぞれの、いんねんやかほうに、したがって、しゅじゅにさまざまな、くるしみをうける。そのくるしみは、ことごとくほとけ、ただいちにんのくるしみである」と。にちれんだいしょうにんのたちばでいわく、「いっさいしゅじょうの、しゅじゅさまざまな、いっさいのくのうは、ことごとくにちれんだいしょうにん、ただおいちにんのくである」と。

 こうぎ。
 ここでは、しゅししんさんとくをほとけにやくし、きょうにやくしてろんじておられる。いま、ほんぶんにあるないようをまとめるとつぎのようになる。
  いち、ほとけにやくす
  <しゃくもんのほとけのさんとく>
   かいぜがう・・・しゅのとく・・・・・┐
   しっぜごし・おやのとく・・・・・・・┼
   ゆいがいちにんのういくご・しのとく・┘
・・いずれも、ひゆほんだいさんのもんである。

  <ほんもんのほとけのさんとく>
   がしどあんのん・・・・・・・・しゅのとく・・┐
   じょうせっぽうきょうけ・・・・・しのとく・・┼
   がやくいせぶ・・・・・・・・・おやのとく・・┘
・・いずれも、じゅりょうほんだいじゅうろくのもんである。

  に、きょうにやくす
   しょきょうちゅうおう・・・・・・・・しゅのとく・・・・・・┐
   のうくいっさいしゅじょう・・・・・・しのとく・・・・・・・┼
 うにょ、だいぼんてんおう、いっさいしゅじょうしぷ・おやのとく・┘
・・いずれも、やくおうほんだいにじゅうさんのもんである。

 およそさんとくぐびをもって、ほとけとなし、ほんぞんとするのである。まっぽうにおいて、さんとくぐびをろんずるならば、ほとけにやくせば、くおんがんじょじじゅゆうむささんじんにょらいそくにちれんだいしょうにんであらせられ、きょうにやくせば、まっぽうのほけきょうにして、じゅりょうもんていげしゅじぎょうのいちねんさんぜんのだいごほんぞんであらせられる。しかして、ひゃくせんしようおなじくいちこんにおもむくがごとく、あらゆるほとけのさんとくおよびしょせつのほったいのさんとくは、ことごとく、くおんがんじょのいちぶついっぽうのほんちにきしゅするのである。ゆえに、ひゆほんにおいてとかれたしゃくもんのほとけのさんとくも、じゅりょうほんだいじゅうろくにとかれたほんもんのほとけのさんとくも、やくおうほんだい23にとかれたほけきょうのさんとくも、ことごとくにちれんだいしょうにんおよびだいごほんぞんのさんとくにせっせられ、このまっぽうしゅつげんのさんとくのせつめいしょとなっているのである。
 ゆえにかいもくしょうには、まずぼうとうに、「それいっさいしゅじょうに、そんけいすべきもの、みっつあり、いわゆるしゅししんこれなり」(0186-01)と、さんとくをひょうじし、つぎにじゅげにつづいてないてんをしゃくするなかに、まず、いちだいのせんじんをはんじて、じゅくだつのさんとくをあらわし、つぎに、にちれんだいしょうにんがまっぽうの、ほけきょうのぎょうじゃなるをあかし、かんのおわりにいたり、ただしく、げしゅのさんとくをあらわし、「にちれんは、にほんこくのしょにんに、しうしふぼなり」(0237-05)と、おおせられたのである。
 またかんじんほんぞんしょうにおいては、まさしく、じゅじそくかんじんをあかすにあたり、かいけつに、きょうのもんをひいて、ほんぞんのとくゆうをしめされている。
 はじめにかいきょうのもんをかり、ほんちなんし、きょうちみょうごうをあらわし、つぎにけっきょうの、にもんをかり、くおんがんじょの、さんとくのうしょうをあれわされている。
 すなわち、だいごほんぞんこそ、じっぽうさんぜのしょぶつの、のうしょうの、こんげんにして、くおんがんじょの、さんとくのほったいであることを、あかされているのである。
 ゆえに、にんぽうともに、さんとくぐびの、とうたいであることは、めいりょうである。すなわち、にちれんだいしょうにんこそ、にんのほんぞんであらせられ、ごずけんの、だいごほんぞんこそ、ほうのほんぞんであらせられる。
 しかして、にんぽういっかであり、ほうにそくしてにん、にんにそくしてほうであり、まっぽうのわれらしゅじょうの、いちどうにそんすうすべきさんとくぐびの、とうたいなのである。
 このじゅりょうもんていげしゅの、さんとくぐびのとうたいを、ほんぞんとしらざるやからを、みょうらくだいしは、じゅりょうほんだいじゅうろくの、もんをしらざるものは、ふちおんの、ちくしょうとしゃくしたのである。
 されば、がやくいせぶのもんは、にちれんだいしょうにんのおんことであり、いっさいしゅじょうを、ことごとくわがことごらんになり、すくわれんとされる、そのじひのだいなるをつうかんしないわけにはいかぬ。
 にちれんだいしょうにんは、さらに、「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、いっさいしゅじょうのちちなり、むげんじごくのくをすくうゆえなり」と、おおせられ、べっして、にちれんだいしょうにんこそ、いっさいしゅじょうのちちであり、そうじて、われわれもまた、いっさいしゅじょうのちちとおおせくださっている。
 さればこんにち、そうかがっかいは、いっさいしゅじょうを、むげんじごくのくよりすくう、よのちちのじかくをもって、ぜんしんしていかねばならぬ。
 むげんじごくのくとは、ほかにかんがえるべきではない。いま、じんるいが、たどろうとしている、だいさんじせかいたいせんであり、だんじて、これをおこさせてはならないと、けついしてたちあがっているのが、そうかがっかいである。
 にちれんだいしょうにんは、ごほんぶつであらせられ、いちにんで、せかいをかえ、じだいをかえられる、たたかいをなされた。いまは、じゅんえんこうふのときであり、おおくのこころざしを、おなじくするひとびとが、だんけつして、せかいをかえ、じだいをかえる、ほうせんをいさましくなすべきときである。
 いっさいしゅじょうの、むげんじごくのくをすくわんとの、ごほんぶつのだいせいしんは、いま、そうかがっかいいんの、ひとりひとりのきょうちゅうのともそびとなり、にほんこくじゅう、いや、ぜんせかいのいたるところに、もえあがっている。
 さだめてじっぽうさんぜのしょぶつも、しょうらんあるらん。しょてんもてんくをうってよろこびたまうらん。われらは、このちじょうにじょうじゃっこうのせかいを、けんせつするにょらいのしとらしく、ゆうぜんと、ほこりにみちてすすんでいくのである。
なお、しゅししんさんとくのげんだいてきいぎについては、かいもくしょうこうぎをさんしょうされたい。

 いっさいしゅじょうの、いのくをうくるはことごとくこれ、にちれんいちにんのくなるべし。
 ねはんきょうの、「いっさいしゅじょうの、いのくをうくるは、ことごとくこれ、にょらいいちにんのく」のもんをうけて、おおせられたもので、にちれんだいしょうにんこそまっぽうの、いっさいしゅじょうをきゅうさいする、ごほんぶつであるとのかくしんをのべられた、おんふみである。
 このおんふみをはいするとき、にちれんだいしょうにんの、だいじだいひの、どこまでもどこまでも、こうだいむへんなるをかんじ、なみだがおちてならない。
 いっさいしゅじょうの、いのくとは、あらゆるひとびとが、それぞれことなった、なんらかのなやみにくるしんでいることである。そのくるしみは、ことごとくにちれんだいしょうにんおひとりの、くとおおせられたのである。
 ああ、げんこんのよに、だれびとか、このちじょうのあらゆるひとびとのくを、ことごとく、わがいちにんのくとして、ひとびとのこうふくのため、せかいのへいわのため、こころをこがし、みをつくしているひとが、おるであろうか。
 むしろ、じこほしんのため、いっしんのみょうりのため、ふるまっているひとの、なんとおおきことか。あまつさえ、よのしどうしゃをもってにんずるせいじかとうの、ふはいだらくは、めにあまるものがある。
 ひろくせかいをみても、こっかとこっか、みんぞくとみんぞく、あるいはまたじんしゅかんのぞうおとかっとうは、りせいをうしなったちくしょうかいのすがたである。げんこんのさんあくどう、しあくしゅのせそうは、まさにじひのけつじょのあらわれであり、とんじんちさんどくしじょうのしゅじょうじょくのはんえいである。
 こころあらんよのしどうしゃは、このにちれんだいしょうにんのおんふみをかつもくしてはいせ。

 せまいじこのからよりげだつして、よのため、ひとのためにたたかえ、つよきしんねんをけんじして、けっして、よのふせい、じゃあくとだきょうしてはならぬ。いかなるしょうまのあらしがこようとも、ひるんではならぬ。しりぞいてはならぬ。だが、このわたしのさけびは、よのしどうしゃにはつうぜざるか。しょせん、われわれがたちあがるいがいにはない。にちれんだいしょうにんは、げんこんのせかいのふこうをごらんになり、どれほどかこころをおいためであろう。それをおもうと、わがごたいが、きりでもまれるおもいである。
 われら、にちれんだいしょうにんの、だいじひのねんねんには、とおくおよばずとも、せかいへいわたっせいをめざし、このちじょうより、ひさんのにじをまっさつしきるまで、ゆうかんに、ちからをあわせて、たたかっていくことを、さらにかたくこころにきめたいものである。





  • [259]
  • おんぎくでんこうぎ げ。 だいじゅうご、しゅじょうけんこうじん、にしゅけんしょうじんのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月26日(木)02時12分44秒
 
おんぎくでんこうぎ げ。
だいじゅうご、しゅじょうけんこうじん、にしゅけんしょうじんのこと。

つうげ。
じゅりょうほんだいじゅうろくの、「しゅじょうこうつきて、だいかに、やかるるとみるときも」から「しかもしゅうはやけつきて、うれいおそれもろもろのくのう、かくのごとき、ことごとくじゅうまんせりとみる」に、いたるもんについてのおんぎくでんである。
 これは、ほんもんじゅりょうの、いちねんさんぜんをさんたんしたもんである。
 たいかしょしょうじのたいかとは、じつぎには、ぼんのうのたいかということである。また、さんぜけんにやくしていえば、がしどあんのんのもんは、こくどせけんをあらわすのである。
 しゅじょうしょゆうらくとは、しゅじょうせけんをあらわすのである。またほうじゅたけかとは、ごおんせけんをあらわすのである。これすなわち、いちねんさんぜんをふんみょうにとかれたのである。
 またいわく、このきょうもんには、げんぜんとじっかいがとかれている。たいかしょしょうじのたいかとは、じごくかいである。しょてんぎゃくてんくの、てんくとはちくしょうかいである。てんにんじょうじゅうまんの、ひととてんは、にんかいとてんかいの、にかいをいう。すなわち、てんとにんとがつねに、じゅうまんするのである。うまんだらげとは、しょうもんかいのことである。おんりんしょどうかくのおんりんとは、えんかくかいのことである。ぼさつとは、さんぶつぎゅうたいしゅうの、ぎゅうのいちじが、ぼさつかいをあらわしている。ぶっかいとは、さんぶつのもんが、これをあらわしている。しゅらかいとがきかいとは、うふしょくのう、にょぜしつじゅうまんの、くにせっするのである。
 これらのくのうのしゅじょうをば、「このもろもろの、つみのしゅじょう」ととかれたのである。しかしながら、このないしょうの、じゅりょうほんたるだいごほんぞんが、あらわされてからは、そくかいけんがしんと、あるがごとく、わがみがいちねんさんぜんのとうたいとあらわれるのである。いま、にちれんだいしょうにんならびに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、でしだんなのことなのである。

 こうぎ。
このおんふみのないようをまとめると、つぎのようになる。
     さんぜけん。
   がしどあんのん・・・・・・こくどせけん
   しゅじょうしょゆうらく・・しゅじょうせけん
   ほうじゅたけか・・・・・・ごおんせけん

     じっかい。
   さんぶつぎゅうたいしゅう・・ぶつ、ぼさつ
   おんりんしょどうかく・・・・えんかく
   うまんだらけ・・・・・・・・しょうもん
   てんにんじょうじゅうまん・・にん、てん
   うふしょくのう、にょぜしつじゅうまん・・しゅら、がき
   しょてんぎゃくてんく・・・・ちくしょう
   たいかしょしょうじ・・・・・じごく

  したがって、このもんは、いちねんさんぜんをあらわしているのである。
 「このじゅりょうほんの、せつあらわれては」とは、なんみょうほうれんげきょうというこんぽんがあらわれれば、とのこころであり、そのままじっかい、さんぜんせけんはみょうほうごじのこうみょうにてらされた、ほんぬのさんぜんせけんとなり、じのいちねんさんぜんのだいごほんぞんとなる。そくかいけんがしんとは、このじのいちねんさんぜんのだいごほんぞんは、まったくにちれんだいしょうにんの、おせいめいそれじたいであることをいうのである。
 しかして、「いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるしゃこれなり」とおおせられ、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんとおなじく、だいしょうにんのでしもまた、そくかいけんがしんであり、じのいちねんさんぜんの、とうたいとあらわれることを、おときくださっている。
 わがみ、みょうほうのとうたいとあらわれるならば、ぶっかいがけんげんし、じごくかいも、がきかいも、ちくしょうかいも、ほんぬのじごくかい、ほんぬのがきかい、ほんぬのちくしょうかいとなり、すべてこうふくへのはたらきとなるのである。わがこしんのまおうも、すべてみょうほうのこうみょうにてらされ、こうふくへとはたらくのである。
 わがとうたいは、しゅじょうしょゆうらくにして、いっかにあって、しゃかいにあって、しんじつのしゅたいせい、じがのかくりつをなし、こころからのこうふくをまんきつしていく。
 わがみのしきじゅそうぎょうしきの、ごおんは、ぜんほうおんがいのむみょうははれて、じひにおおわれた、かつどうとなる。かつまた、しょうじじゅうとうの、くをひらき、じょうらくじゅうとうの、ふるまいとなる。このとき、がしどあんのんにして、われらがいくところ、ことごとくじょうじゃっこうの、せかいがてんかいされる。
 これ、じのいちねんさんぜんのすがたであり、しんじつのこうきょうであると、しんずるものである。なお、このきょうもんについての、かいしゃくは、とだぜんかいちょうの「ほうべんぽんじゅりょうほんこうぎ」をさんこうにしていただきたい。


さんせけんについて。
 ほんぶんに「がしどあんのんとはこくどせけんなり、しゅじょうしょゆうらくとはしゅじょうせけんなり、ほうじゅたけかとはごおんせけんなりこれすなわちいちねんさんぜんをふんみょうにとかれたり」とあるが、ここでさんせけんについてじゃっかんかんがえておきたい。
 さんせけんをのべるまえに、せけんということのいみをのべることにする。
 せけんとはさべつとやくすのである。あまりのなかのいっさいのじしょうはさべつである。ここにいうさべつとは、けっしてにんげんせいかつ、またしゃかいにおける、つくられた、ふごうりなさべつをいうのではなく、
ほんらい、そのもののとくしつによってしょうずるさべつでる。あるじしょうとあるじしょうとをはんべつできるのは、そのかんにさべつがあるからであり、いいかえれば、そのものこゆうのとくしつがあるからである。これらのさべつは、そのままいかされてとうぜんであり、これをおしなべてひとしくするひつようはない。
 にんげんのせいめいにほんらいそなわったさべつも、そのままいかされるべきである。にんげんひとりひとり、かけがえのない、そんげんなるせいめいのとうたいであり、そのこせいがさいこうにいかされるところに、しんのじゆうがあり、びょうどうがあるのではあるまいか。さくらのはなはさくらのはなとしてりっぱにさきさかえていけばよい。つばきのはなはつばきのはなとしてさきほこればそれでよい。みんなおなじさくらになってしまったなら、かえってそのかちをうしなうのである。
 ほうべんぽんだいにに「これのほうはほういにじゅうして、せけんのそうじょうじゅうなり」とあり、さべつのそうそのままで、じょうじゅうのすがた、ほんぬのすがたであることがめいじされている。
 これからろんずるさんせけんも、ひらけばさんぜんせけんへとてんかいされる。これらのさべつのほうもことごとく、みょうほうごじにてらされるとき、ほんぬのすがた、じょうじゅうのすがたとあらわれ、もっともちからづよい、しょうじょうな、そんげんなるほうとあらわれることをしるべきである。

   (1)ごおんせけん
 ごおんは、しんやくにはごうんとかく。いちこじんまたはいちじぶつのせいめいかつどうをぶんせきすると、いろ、じゅ、そう、ぎょう、しきのごしゅのさべつがある。
 いちねんさんぜんりじにいわく、「ごおんとは、しんやくには、ごおんというなり、おんとはじゅしゅうのぎなり、いちにしきおん、ごしきこれなり、ににじゅいん、りょうのうこれなり、さんにそうおん、くしゃにいわく、そうはぞうをとるをたいとなすと、もん、しに、ぎょうおん、ぞうさこれぎょうなり、ごにしきおん、りょうべつこれしきなり、しのごに、ばしゃをひいていわく、しき、まずりょうべつし、つぎにじゅは、りょうのうし、そうはそうみょうをとり、ぎょうはいじゅうをおこし、しきはぎょうによつてかんずと」(0407-15)と。
 すなわち、われわれのせいめいにやくしてえば、しきとはしきぎょうで、われわれのにくたいがこれにあたる。また、われわれがげかいにあるものをうけいれるのはじゅで、それにたいししゅじゅのおもいをなすのはそうである。ぎょうはそのおもいによっておこすところのしょぎょうで、しきとは、いじょうのことをうちからおこさせるいしきである。そうが「そうみょうをとる」とあるがごとく、およそのりんかくをこころにえがくのにたいし、しきはしりょふんべつのこんぽんしきである。
 このように、せいめいをしき、じゅ、そう、ぎょう、しきというようにぶんせきし、たてわけてせつめいしたものが、ごおんである。したがって、あるAのひととBのひとをくらべて、ごおんのさべつをろんずるのがごおんせけんなのである。
 さらにおんについていえば、おんには、いんにやくしていんがいのこころと、かにやくしてせきじゅのこころがある。すなわち、ぜんほうをいんがいし、そのげんいんによってしょうじが、じゅうとうすることを、いう、かをまねくことをあらわすのである。だがこれは、きゅうかいにやくしたばあいであり、もしぶっかいにやくせば、ぜんほういんがいは、じひふくがいとてんかんし、そのけっか、しょうじじゅうとうのくかは、じょうらくじゅうとうのしんじつなこうふくなるじんせいへとてんかんするのである。
 このことを、にちかんしょうにんは、、さんじゅうひでんしょうに「ごおんはしき、じゅ、そう、ぎょう、しきなり、いうところのおんとは、ただしくきゅうかいにやくし、ぜんほうを、おんがいするゆえにおんとなずくるなり、これはいんについて、なをえ、またはおんはこれ、しゃくじゅなり、しょうじじゅうとうす、ゆえにおんとなずく、これはかについてなをえたり、もしぶっかいにやくせば、じょうらくじゅうとうし、じひふくがいするがゆえなり」とある。
 このもんちゅう「ぜんほう」とは、みょうほうれんげきょうのことであり、ちからづよいしょうじょうむぜんの、だいうちゅうのリズムとがっちしたせいめいのじったいである。いっさいしゅじょうには、ことごとくみょうほうれんげきょうのせいめいがあるが、ひとはごたいをはたらかせてあやまれるこうどうをなし、あやまれるしそうをうけいれ、しゅ々じゅのもうそうをおこし、さらにあやまれるこうどうをつみかさねもうしゅうとじゃねんのために、もともとのせいじょうなみょうほうれんげきょうのせいめいがおおわれてしまうのである。
 しかし、もしこのしょうじょうむぜんの、ちからづよいせいめいがゆげんするや、そのひとのこうどうも、みもこころも、みょうほうれんげきょうのはつろとなり、じひにおおわれたしきしんとなっていく。わがしきじゅそうぎょうしきは、まさにほうじゅたけかのきょうもんのごとく、そんげんなるしほうであり、このしほうあるゆえに、だいうちゅうのリズムとがっちしたこうふくせいかつとなり、それぞれこせいをはっきし、じんせいをさいこうにたのしみきっていけるのである。
   (2)しゅじょうせけん
 しゅじょうとはせいめいとやくし、ごおんがかりにわごうするのをいう。しかして、じごくかいからぶっかいまでのじっかいつうじてしゅじょうとなづけるのである。
 ここでごおんせけんとしゅじょうせけんのそういをめいかくにしておきたい。さきにのべたごとく、ごおんせけんとは、せいめいを、しき、じゅ、そう、ぎょう、しきのいつつにぶんせきし、たてわけて、AとBのひととのそういをろんずるのであるが、しゅじょうせけんとは、これにたいして、せいめいをそうごうてきにあつかい、せいめいぜんたいをもんだいにしているのである。
 したがって、AのひととBのひととおなじくじごくかいのせいめいであっても、こ々このせいめいのもつしき、じゅ、そう、ぎょう、しきはまったくちがうのである。しかしながらおなじくじごくのくるしみをうけ、ともにくのう、はんもんしていれば、しゅじょうせけんからいえば、ともにじごくのしゅじょうである。
 つぎにしゅじょうとは、なぜごおんが「かりにわごう」したものなのであろうか。それは、じじつが、あまりにもこのもんのいみをものがたっている。
 われわれのせいちょうをかんがえてみても、にくたいである「しき」は、たえずへんかしている。また「じゅ」も「そう」も「ぎょう」も「しき」も、すべてしゅじょうをこうせいしているごおんは、たえずへんかしている。したがって、このかんてんからいえば、せいめいとは、ごおんがかりにわごうしたものであるということである。だが、これは、ごおんせけんより、しゅじょうについてろんじたものでり、ごおんによってけいせいされたしゅじょうは、いちこのどくじのせいめいである。そのどくじのせいめい、ぜんたいのせいめいについて、じっかいをろんずるのがしゅじょうせけんである。
 じっかいつうじてしゅじょうというならば、ぶっかいもしゅじょうといえるのか、そのとおりである。ぶっかいはそんごくのしゅじょうである。どうしてぼんげとおなじわけがあろうか。このように、じごくのしゅじょう、がきのしゅじょう、ないしぶっかいのしゅじょうというように、さべつのあるのをしゅじょうせけんというのである。
 だが、このようなそうたいてきなさべつかんのみでは、にぜんごんきょうであり、これにたいしてぶっかいといえどもぼんげのいちねんをえこず、また、そんごくのほとけのせいめいにもじごくかいのあることをあかしたのが、ほけきょうのしょほうじっそう、じっかいごぐいちねんさんぜんのてつりである。さればみょうらくのこんぺいろんにも「あびのえしょうはまったくごくしょうのじしんにしょし、びるのしんどはぼんげのいちねんをえこず」とある。
 しょほうじっそうしょうにいわく、「じっそうというは、みょうほうれんげきょうのいみょうなり、しょほうはみょうほうれんげきょうということなり、じごくはじごくのすがたをみせたるが、じつのそうなり、がきとへんぜば、じごくのじつのすがたにはあらず、ほとけはほとけのすがた、ぼんぷはぼんぷのすがた、ばんぽうのとうたいのすがたが、みょうほうれんげきょうのとうたいなりと、いふことをしょほうじっそうとはもうすなり」(1359-)と。
 みょうほうれんげきょうのこんていがあらわれ、じごくもがきもすべて、みょうほうごじにてらされ、ほんぬのそんぎょうとなる。これが、しんじつのしゅじょうせけんのすがたなのである。
 ほんぶんに「しゅじょうしょゆうらくとはしゅじょうせけんなり」とおおせられたのは、このしゅじょうもまた、じごくよりぶっかいにいたるじっかいのせいめいであり、じっかいをおんねんとして、ぐしながら、しんじつのこうふくなせかい、みょうほうのせかいをゆうげしていくことをしゅじょうしょゆうらくというのであり、ここにおいてしゅじょうせけんが、かんぺきにとかれたことになるのである。
 じごくかいをなくすひつようもなければ、がきかいをめっしつしてしまうひつようもない。むしろ、それがなければ、もはやせいめいたいとしてなりたたない。まさにかくうのそんざいとなってしまう。すべて、しんじつのゆうらくのげんせんとなり、いだいなるかちそうぞうの、げんどうりょくとなっていくとしるべきである。

   (3)こくどせけん
 こくどせけんについてはまえに「だいじゅうさんじょうじゅうしせっぽうのこと」のところでしょうろんしたので、ここではかんたんにせつめいしておきたい。
 こくどとはじっかいのしゅじょうのすむところである。ずいそうごしょにいわく「それじっぽうはえほうなり.しゅじょうはしょうほうなりたとへばえほうはかげのごとししょうほうはたいのごとし、みなくばかげなし、しょうほうなくばえほうなし、またしょうほうをば、えほうをもつてこれをつくる、」(1140-06)と。
 すなわち、じっかいのしゅじょうと、そのしゅじょうのじゅうするこくどはいったいふにである。じごくかいのせいめいにはそれそうおうのこくどがあり、がきかいからぶっかいにいたるまで、みなそれぞれこくどをゆうする。
 さんじゅうひでんしょうには、かくしゅじょうのじゅうしょがあげられ「じごくはしゃくてつによってじゅうし、がきはえんぶのした、ごひゃくゆじゅんにじゅうし、ちくしょうはすいくうにじゅうし、しゅらはうみのほとり、うみのそこにじゅうし、ひとはだいちによってじゅうし、てんはきゅうでんによってじゅうし、にじょうはほうべんどによってじゅうし、ぼさつはじつほうどによってじゅうし、ほとけはじゃっこうどにじゅうしたもうなり」としめされている。
 すごいくるしみのせいめいが、まっかにやけたてつのなかにあり、あくなくむさぼるせいめいが、ちかのじんこうにうごめき、いかりくるい、おごりたかぶったせいめいががんとうのどとうにすむということは、なかなかしんじにくいことであろうが、ふかいしさくによってじじつとみとめざるをえないであろう。かってのひろしま、ながさきなどをおもいあわすべきである。またてんにんのごとくふくとくあるひとが、きゅうでんによってじゅうすることもあきらかである。にじょうのほうべんどは、にちじょうせいかつにやくせば、がくしゃやげいじゅつかのすむところ、けんきゅうしつやアトリエなどにあたり、ぼさつのすむじつほうどは、しどうしゃをもってにんじているかいきゅうのしゅうかいなどにそうとうするであろう。しかし、これらのこくどは、しょせん、むじょうをまぬがれず、ただ、ほとけのじゅうするじゃっこうどこそほんぬのこくどであるととかれたのである。
 だが、これらのせつめいは、いまなおにぜんしゃくもんのだんかいであり、それぞれのこくどが、あたかもべっせかいであるかのごとくとかれており、ほとけのじゅうするじゃっこうどたるや、えどたるしゃばせかいからは、まったくはなれたかなたのせかいであるとされていたのである。
 しかして、ほんもんじゅりょうほんだいじゅうろくにいたり、しゃばせかいがじょうじゃっこうどであるととかれ、このげんじつのこくどがぶっこくどとあらわれたのである。これは、きょうそうじょうのことであり、せいめいろんでいえば、ひじょうのそうもく、こくどにも、ぶっしょうがあることをしめされ、ここにこくどせけんが、かんぺきとなるのである。ほんぶんに「がしどあんのん」のもんをこくどせけんととることもこのゆえである。ゆえにしかんだいごじょうにいわく、「こくどせけんまたじゅっしゅのほうをぐすゆえんにあくこくど、そう、しょう、たい、りき」と。また、こんぺいろんにいわく「いちそう、いちもく、いちりゃく、いちじん、かくいちぶっしょう、かくいちいんがあり、えんりょうをぐそくす」と。
 こくどせけんがかくりつすることによって、こくどにも、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょをぐそくひすることがあきらかになり、さんぜんのすうりょうがあかされる。しかして、このさんぜんせけんがいちねんのせいめいのなかにあるとといたところに、ぶっぽうのいだいさがある。
 このいちねんのせいめいに、ごほんぞんときょうちみょうごうしてみょうほうのゆげんのあるとき、わがせいめいにぐするさんぜんられつのほうは、ことごとく、ちからづよいしょうじょうなかつどうとなっていくのである。


  • [258]
  • おんぎくでん げ。 だいじゅうよん、じがぎゅうしゅそう、くしゅつりょうじゅせんのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月25日(水)02時15分42秒
 
 おんぎくでん げ。
だいじゅうよん、じがぎゅうしゅそう、くしゅつりょうじゅせんのこと。

つうげ。
   じゅりょうほんだいじゅうろくの、「ときにわれ、およびしゅそう、ともにりょうじゅせんにいず」のおんぎくでんにいわく。
 このもんは、てんだいがほっけしゅうでん、ほうげにかいしゃくしているごとく、「りょうぜんいちえ、げんねんみさん」のもんである。
 じがぎゅうしゅそうの、じとは、かんのうまっぽうのとき、すなわち、しゅじょうがごほんぶつのしゅつげんをかんじ、ごほんぶつもまた、これにおうじてしゅつげんするという、じゅうだいなときをさすのである。
 われとはしゃくそん、すなわちぶっかいをいみし、ぎゅうとはぼさつかい、そしてせいしゅう、すなわちにじょうかいのせいじゃを、、しゅそうと、とかれたのである。またくとはじっかいをいみするのである。
 りょうじゅせんとは、じゃっこうどのことである。このまっぽうのこんじにおいて、われもぎゅうも、しゅそうもともに、すなわちじっかいことごとくが、りょうじゅせんすなわち、じゃっこうどにあらわれるのである。このことは、じんぴのほうもんであり、かたくひすべきである。しょせん、このもんは、もんていげしゅどくいっほんもん、じぎょうのいちねんさんぜんの、みょうもんである。ごほんぞんは、このもんを、じじつのうえにぐげんかされたものである。
 さればくしゅつのくとは、だいごほんぞんにじっかいのせいめいが、おんねんとしてそなわっていることであり、これじたいはふへんしんにょのりなのである。しゅつとはしんじんによって、だいごほんぞんのじっかいのせいめいかつどうがわれわれにかんのうしてくることであり、ずいえんしんにょのちなのである。さらにくとは、しんじんのいちねんであり、これがふへんしんにょのりとなり、しゅつとは、しんじんがあって、はじめてずいえんしんにょのちとなり、さんぜんのかつどうが、みょうほうにてらされたこうふくなかつどうになっていく。このように、くしゅつをばにじゅうにはいすべきなのである。
 またいわく、じがぎゅうしゅそうくしゅつりょうじゅせんのときとは、このしゃばせかいにだいごほんぞんがしゅつげんした、くおんそくまっぽうのときなのである。したのがぎゅうしゅそうくしゅつりょうじゅせんとは、じっかいごぐ、じのいちねんさんぜんのだいごほんぞんをあらわすもんである。
 そのわけは、ときとは、まっぽう、ごごひゃくさいのはじめ、だいごほんぞんごしゅつげんのときであり、われとはしゃくそん、ぎゅうはぼさつ、しゅそうはにじょう、くとはろくどうであり、しゅつとは、これらのじっかいのせいめいかつどうが、りょうぜんじょうどにれつしゅつすることをいう。しかして、りょうぜんとは、ごほんぞんのことであり、ごほんぞんにじっかいのせいめいがれつしゅつすることをいみするからである。りょうぜんとは、またにちれんだいしょうにんおよびそのもんかがなんみょうほうれんげきょうととなえる、そのひとのじゅうしょがりょうぜんであり、いずこであれ、ぶっかいにてらされ、こうふくなるせいかつをしていくことができるのである。

こうぎ。
 このところは、にちかんしょうにんの、えぎはんもんしょうによれば、「いっしんよっけんぶつ、ふじしゃくしんみょう」のもんとあわせて、さんだいひほうのえもんになる。
 すなわち、ずしすれば、つぎのようになる。
   いっしんよっけんぶつ、ふじしゃくしんみょう・・・ほんもんのだいもく
   じがぎゅうしゅそうくしゅつ・・・・・・・・・・・ほんもんのほんぞん
   りょうじゅせん・・・・・・・・・・・・・・・・・ほんもんのかいだん
 ほんもんのだいもくのもんは、またしんぎょうにわかれ、いっしんよっけんぶつとは、しんじんであり、ふじしゃくしんみょうとは、しょうだいしゅぎょうである。
 じがぎゅうしゅそう、くしゅつがほんもんのほんぞんであることは、このおんぎくでんのもんでめいかくであり、りょうじゅせんは、ごほんぞんのましますところであり、ほんもんのかいだんとなることはめいはくである。

りょうぜんいちえ、げんねんみさん。
 てんだいだいしのことばではあるが、だいしょうにんのぶっぽうにおいてろんずるとき、まことにじんのんなてつりをほうがんしている。
 りょうぜんいちえとは、ほけきょうがとかれたりょうじゅせんのえざであり、そのぎしきは、うちゅう、せいめいのぎしきであり、だいうちゅうのじっそうであり、そのすがたは、いまなおげんぜんとしてなくてはならず、えいえんにじょうじゅうしているのである、とのこころである。
 りょうじゅせんのぎしきといっても、しゃくそんこしんのぎしきであり、じこのせいめいのじっそうを、じそうとして、せつめいとして、きょうもんにといたのが、ほけきょうである。りょうぜんいちえとは、せいめいそれじたいに、じっかいさんぜんがげんぜんとしてぐしているすがたであり、にちれんだいしょうにんは、このぎしきをかりて、ごじしんのないしょうたるくおんがんじょのじじゅゆうしんにょらいのいちねんさんぜんのせいめいをば、いっぷくのだいまんだらとして、ごずけんあそばされたのである。
 これにかんれんして、とだぜんかいちょうの、ほうとうほんだいじゅういちのぎしきについてのつぎのしさくはまことにじゅうだいであり、かんめいぶかきものなので、ここにいんようしておきたい。
 「しゃくもんのるつうぶんたる、けんほうとうほんにおいて、たほうとうがこくうにたち、しゃか、たほうのにぶつが、ほうとうのなかにびょうざし、じっぽうぶんしんのしょぶつ、しゃくけ、たほうのだいぼさつ、にじょう、にんてんとうがこれにつらなる、いわゆるこくうえのぎしきがとかれている。これは、はなはだひかがくてきのように、おもわれるがいかん。しかしぶっぽうのおうていより、これをみるならばきわめてしぜんのぎしきである。もしこれをうたがうなら、じょぼんのときにすでにだいふしぎがある。すうじゅうまんのぼさつやしょうもんや、じっかいのしゅじょうがことごとくあつまって、しゃかぶつのせっぽうをきくようになっているが、こんなことができるかどうか。かくせいきもなければ、またそんなおおきなこえがでるわけがない。まして、はちねんかんもそれがつづけられるわけがない。すなわち、これはしゃかこしんの、しゅじょうであり、しゃかこしんのじっかいであるから、なんじゅうまんあつまったといってもふしぎはない。されば、ほうとうほんのぎしきも、かんじんのうえにてんかいされた、ぎしきなのである。
 われわれのせいめいには、ぶっかいというだいふしぎのせいめいが、みょうぶくしている。このせいめいのちからおよび、じょうたいはそうぞうにもおよばなければ、ひつぜつにもつくせない。しかし、これを、われわれのせいめいたいのうえに、ぐげんすることはできる。げんじつにわれわれのせいめいそれじたいもみょうぶくせるぶっかいをぐげんできるのだとときしめしたのが、このほうとうほんのぎしきである。
 すなわち、しゃかはほうとうのぎしきをもってこしんのじっかいごぐいちねんさんぜんをあらわしているのである。にちれんだいしょうにんは、おなじくほうとうのぎしきをかりてじゅりょうもんていげしゅのほうもんをいっぷくのごほんぞんとしてこんりゅうされたのである。さればごほんぞんはしゃかぶつのほうとうのぎしきをかりてこそおれ、だいしょうにんのこしんのじっかいごぐいちねんさんぜん ほんぶつのおせいめいである。このごほんぞんはごほんぶつのえいえんのせいめいをごずけんあそばされたので、まっぽうゆいいつむにのそくしんじょうぶつのだいごほんぞんであらせられる。まっぽうのみんしゅうは、このごほんぞんによってのみきゅうさいされるのである。
 ほうとうほんだいじゅういちよりこくうえのぎしきははじまる。だが、いまだ、じゆうのぼさつのしゅつげんもなければ、じょうじゅうのせいめいもときあかされていない。じゅりょうほんだいじゅうろくにいたって、こくうえのぎしきはかんぺきにととのうのである。ほうとうほんだいじゅういちのたほうのとうに、しょうぜんのほうとう、きごのほうとうのにいがあり、きごのほうとうにしょういがあるかというのは、まさにほうとうほんだいじゅういちが、じゅりょうほんだいじゅうろくのぜんていであることをしめすことにほかならない。
 すなわちじゅりょうほんのぎしきこそ、しゃくそんいちだいごじゅうねんのさいこうのぎしきであり、せいめいのしんじつのすがたをときあかしたものである。
 しかしながら、このじゅりょうほんだいじゅうろくのぎしきといえども、いまなお、もんじょうのはんいないであり、じつにもんていげしゅじぎょうのいちねんさんぜんのだいごほんぞんのせつめいしょとなるのである。
 じゅりょうほんだいじゅうろくにしゃかこしんのじっかいさんぜんのせいめいがことごとくられつしているといえども、もんじょうのはんいないでは、ごひゃくじんでんこうのしきそうそうごんのしゃくそんのしんぐのじっかいさんぜんにすぎない。すなわち、くおんがんじょのじじゅゆうしんのいちねんのしんぽうにぐびするじっかいさんぜんではなく、あくまでも、きょうそうのはんちゅうである。
 にちれんだいしょうにんごずけんのだいごほんぞんは、じゅりょうもんていにときあかされた、くおんがんじょのじじゅゆうしんのいちねんのしんぽうそくなんみょうほうれんげきょうがこんていとなり、したがってさゆうのじっかいさんぜんは、たとえじゅりょうほんだいじゅうろくのぎしきをかりてこそおれ、くおんがんじょじじゅゆうしんにょらいのいちねんのしんぽうにぐびするじっかいさんぜんであり、ごほんぶつのせいめいそれじたいである。
 わかりやすくいえば、こくうえのぎしきは、しゃくそんが、だいうちゅうに、またこしんにごほんぞんのすがたをえがいたものである。ただし「なんみょうほうれんげきょう にちれん」というこんぽんがない。したがって、それはじっかいさんぜんのすがたのみにとどまる。すなわち、そのこんげんであるなんみょうほうれんげきょうのはたらき、あらわれたるすがた、げんしょうをときあかしたものともいえる。
 ゆえにりょうじゅせんのぎしきそくこくうえのぎしきは、ことごとく、だいごほんぞんにおさまり、いっぽうもあますところがない。
 しょせん、りょうぜんいちえ、げんねんみさんとは、てんだいが、じゅりょうほんだいじゅうろくの「じがぎゅうしゅそう、くしゅつりょうじゅせん」のもんにより、だいごほんぞんのすがたをのべたものにほかならない。
 てんだいだいしのがんいをくんでこのもんをよめば、りょうぜんいちえのぎしきは、いまだげんぜんとしてちっていない、すべて、まっぽうしゅつげんのだいごほんぞんにほうがんされているのである、と。
 にちにょごぜんごへんじにいわく、
 「ここににちれんいかなるふしぎにてやそうやらんりゅうじゅてんじんとう、てんだいみょうらくとうだにもあらわしたまはざるだいまんだらを、まっぽうにひゃくよねんのころはじめてほっけぐつうのはたじるしとしてあらわしたてまつるなり、これまったくにちれんがじさくにあらずたほうたっちゅうのだいむにせそんぶんしんのしょぶつすりかたぎたるほんぞんなり、さればしゅだいのごじはちゅうおうにかかり、しだいてんのうはほうとうのしほうにざし、しゃか、たほう、ほんげのしぼさつかたをならべふげん、もんじゅとう、しゃりほつ、もくれんとうざをくっし、にってん、がってん、だいろくてんのまおう、りゅうおう、あしゅら、そのほか、ふどう、あいぜんはなんぼくのふたかたにじんをとり、あくぎゃくのだった、ぐちのりゅうにょいちざをはり、さんぜんせかいのひとのじゅみょうをうばふあっきたるきしもじん、じゅっらせつにょとう、しかのみならずにほんこくのしゅごしんたるてんしょうだいじん、はちまんだいぼさつ、てんじんななだい、ちじんごだいのかみがみ、そうじてだいしょうのじんぎとう、たいのかみつらなる、そのあまりのゆうのかみあにもるべきや、ほうとうほんにいわく「もろもろのたいしゅうをせっしてみなこくうにあり」うんぬん、これらのぶつぼさつ、たいとう、そうじてじょぼんれつざのにかいはちばんのざつしゅうとういちにんももれず、このごほんぞんのなかにじゅうしたまいみょうほうごじのこうみょうにてらされてほんぬのそんぎょうとなるこれをほんぞんとはもうすなり」(1243-)と。
 さらに、われらみょうほうじゅじのでしにやくして、りょうぜんいちえげんねんみさんとは、だいごほんぞんにむかってしょうだいするときのすがたであり、こしんのりょうじゅせんが、わがとうたいにかがやいてくることをいうのである。すなわち、わがせいめいそれじたいがこくうえとなる。また、だいごほんぞんをたもってのにちじょうせいかつも、ことごとくりょうじゅせんにおけるふるまいとなり、だいうちゅうのリズムにかなったこうどうとなるのである。
 また、こんにちのそうかがっかいのすがたこそ、りょうぜんいちえげんねんみさんである。にちれんだいしょうにんのごほんぶつのせいめいは、ただ、そうかがっかいのみにあることはいうまでもない。
 したがって、ここにこそ、さんぜじっぽうのしょぶつ、ぼさつもらいしゅうし、しょてんもちからをまし、まさにりょうじゅせんのえざそのものとなっているのである。
 いま、こうふのひ、いやましてちかきにあり、りょうぜんいちえ、げんねんみさんのもんをつよく、ふかくかくしんし、そうかがっかいのしめいのじゅうだいなるをじかくし、あたらしきじだいのけんせつに、しんじつのこうきゅうへいわじつげんのために、まいしんしていっていただきたい。

 されば、くとは、ふへんしんにょのりなり、しゅつとは、ずいえんしんにょのちなり、くとはいちねんなり、しゅつとはさんぜんなり。
 くしゅつをずいえんふへん、またいちねんさんぜんにやくしてかいしゃくせられたおんふみである。
 くとは、だいごほんぞんに、じっかいのせいめいがおんねんとしてぐしているすがたであり、これは、くおんがんじょいらい、ふへんじょうじゅうのすがたであり、ふへんしんにょのりとなる。だいごほんぞんは、はちまんほうぞうのごくりであり、だいうちゅうのこんぽんであり、ぜんしゅじょうのいちどうにきしたてまつるべきほんげんである。さればふへんしんにょのりのきゅうきょくであり、あらゆるりは、すべて、ここにつくされている。
 しかして、だいごほんぞんは、またずいえんしんにょのちのとうたいであられる。にちれんだいしょうにんのおせいめいそれじたいであり、われらがだいごほんぞんをしんじゅしたてまつるとき、だいごほんぞんのじっかいのせいめいかつどうが、われらのせいめいにかんのうし、しんじつのこうふくなるせいめいかつどうをしていくことができる。
 「しゅつとはずいえんしんにょのち」とは、このごほんぞんのいだいなるくりきのゆげんをいうのである。だが、このゆげんは、わがらのしんじんのいちねんによるのであり、しんじんのいちねんこそ、まさにくしゅつのしゅつであり、ずいえんしんにょのちというべきである。
 さらに、こんどは、くしゅつのくをしんじんのいちねんとし、しゅつを、さんぜんのせいめいかつどうにたてわけるのである。したがって、このばあいは、しんじんのいちねんがふへんしんにょのりとなり、さんぜんのせいめいかつどうが、ずいえんしんにょのちとなる。
 おんぎくでんじょうにいわく、「しんはふへんしんにょのりなり、そのゆえはしんは、ちいっさいほう、かいぜぶっぽうと、たいだつしてじっそうのいちりとしんずるなり」(0725-だいいちしんげほんのじ-09)と。
 すなわち、しんとは、むぎわっしんのしんであり、だいごほんぞんいがいにこうふくになるみちはぜったいにないとしんずることをいうのである。もし、すがたのみしんずるようであっても、ほかにもこうふくのみちがあるとこころにおもえば、それは、よぎょうをまじえるものであり、しんとはならない。しかも、だれひとも、このごほんぞんをゆいいつむにとしんずるしんにとうたつするのであり、これは、ばんこふへんであり、すべてのひとにつうずるぜったいのものである。したがって、これをふへんしんにょのりとするのである。
 しかるに、このぜったいふへんのしんにたったときに、わがごたいに、ぶっちがいずみのごとくわきでて、こうふくなるせいめいかつどう、いだいなるかちそうぞうのかつどうをしていくことができるのである。
 このもんは、かくのごとく、にじゅうにはいすべきである。
 だいごほんぞんがいかにいだいなくりきをゆうするとはいえ、これをけんげんするのは、ただ、わがしんじんによるのであり、しんじんとはじっせんであり、こうせんるふにまいしんし、みずからのとうたいが、しんにじじゅゆうちにかがやき、いだいなるかちそうぞうのじんせいをあゆんでこそ、まことのしんじんであり、だいごほんぞんのくどくのじっしょうであるといえるのである

  • [257]
  •  おんぎくでんこうぎ げ  だいじゅうさん、じょうじゅうしせっぽうのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月24日(火)02時27分7秒
 
 おんぎくでんこうぎ げ
だいじゅうさん、じょうじゅうしせっぽうのこと。

つうげ。
   じゅりょうほん、だいじゅうろくの、「つねにここに、じゅうしてほうをとく」のもんについて、おんぎくでんではつぎのごとくおおせである。
 じょうじゅうとは、ほけきょうのぎょうじゃ、すなわちまっぽうのごほんぶつのじゅうしょをいうのである。
 こことはしゃばせかいをいい、やまであれ、たにであれ、こうやであれ、いずこであろうとも、ほけきょうのぎょうじゃの、じゅうするところは、じょうじゅうしせっぽうの、しであると、とかれるのである。
 せっぽうとは、りのうえでろんずるならば、いっさいしゅじょうのごごんのおんじょうが、ほんぬのじじゅゆうちのせっぽうなのである。これをいま、まっぽうにやくしてろんずるなら、せっぽうとはなんみょうほうれんげきょうである。
 にちれんだいしょうにん、ごじしんのせっぽうも、またでしだんなのせっぽうも、なんみょうほうれんげきょうの、せっぽういがいにないのである。

こうぎ。
じょうじゅうとはほけきょうのぎょうじゃのじゅうしょなり。
 ほけきょうのぎょうじゃとは、とうぜん、べっしてはまっぽうのごほんぶつにちれんだいしょうにんであらせられる。だが、そうじては、さんだいひほうのぶっぽうをもち、みょうほうるふにたたかうひともまたほけきょうのぎょうじゃとおおせくださっている。すなわち、みょうほうじゅじのひとのせかいこそ、しんじつのじょうじゅうのせかいであるととかれているのである。
 しんじんなくば、えいきゅうにるてんのせかいであり、むじょうなひあいのなかにとざされたままである。しんじんをひらいたときにはじめて、じょうじゅうのせかいがげんしゅつする。しんじつにこうふくなる、じゃっこうのせかいにじゅうし、このじんせい、しゃかい、じだいをぶたいに、じざいにふるまっていけるのである。

 しとは、しゃばせかいなりせんごくこうやをさして、しとはときたまう。
 われわれがいかなるせかいにおいても、たとえやまのなか、たにのなか、こうやにあっても、おのおののきょうぐうでしんじんにはげみ、かつやくしていくならば、それが、にんげんかくめいのどうじょうであり、しゅくめいてんかん、へんどくいやくのぶたいであり、ぜったいのこうふくきょうを、かくとくできることをしめされたおんふみである。
 にぜんしゃくもんのしょきょうでは、ぼんぷのすむ、このしゃばせかいを、ぼんのうとくのうのじゅうまんする、えどであるとし、じっぽうのこくどを、ほとけ・ぼさつのすむじょうどとしたのである。
 たとえば、さいほうじゅうまんおくのこくどをすぎたところに、あみだぶつのすむごくらくじょうどがあるとしたり、とうほうにやくしにょらいのすむじょうるりせかいがあるとしたり、またけぞうせかい、みつごんせかいとうと、きょうもんによりさまざまなせかいをといてきたのである。
 あるいは、しゃばせかいを、どうこのえど、ほとけのすむこくどをじゃっこうど、ぼさつのすむこくどをじつほうど、にじょうのすむこくどをほうべんどであるとよっつにくぶんし、それぞれのべっせかいであるとのべてきたのであった。これ、われわれのげんじつのこのせかいをいみきらい、とおきかなたに、りそうきょうをもとめるものであった。
 しかし、ほけきょうじゅりょうほんにいたり、じょうじゅうしせっぽうととかれ、このしゃばせかいにほとけがげんじつにじょうじゅうしてきたことがあかされ、いままで、あれほどきらわれていたしゃばせかいが、そくほんぬのじゃっこうどとあらわれたのである。また、しどもいちどとなり、そのこくどをじゃっこうどとするのも、えどとするのも、そこにじゅうするひとのいちねんによってきまるととかれたのである。
 かいもくしょうげにいわく、「いまにぜん、しゃくもんにしてじっぽうをじょうどと、がうしてこのどを、えどととかれしをうちかへして、このどはほんどなり、じっぽうのじょうどは、すいじゃくのえどとなる」(0214-03)と。
 さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく、「しどふににして、ほっしんのいちぶつなり、じっかいをしんとなすは、ほっしんなりじっかいをこころとなすは、ほうしんなり、じっかいをかたちとなすは、おうじんなり、じっかいのほかにほとけなし、ほとけのほかにじっかいなくして、えしょうふになり、しんどふになり、いちぶつのしんたいなるをもって じゃっこうどという、このゆえに、むそうのごくりとはいうなり」(0563-02)と。
 どうしょうにいわく、「じゃっこうをば、かがみにたとえ、どうごとほうべんと、じつほうのさんどをば、かがみにうつる、かたちにたとう、しどもいちどなり、さんじんもいちぶつなり、いまはこのさんじんと、しどとわごうして、ほとけのいったいの、とくなるをじゃっこうの、ほとけという」(0573-18)と。
 こうふくは、べっせかいやかくうのせかいにあるのではない。いま、げんじつにいきている、このせかい、このこくどにきずいていくことをしめされたげんりである。これ、ぶっぽうのきゅうきょくであり、にちれんだいしょうにんのぶっぽうにして、はじめて、これをじつげんしえるのである。しょせん、にぜんしゃくもんのごときていきゅうなてつがく、しそうでは、げんじつにこうふくをきずくことができない。ために、ことをみらいによせて、またべっせかいのこうふくをとき、げんじつのくのうを、あきらめによってけいげんするいがいにないのである。ほけきょうほんもんでは、これらのかせつをうちやぶり、このしゃばせかいをじょうじゅうのせかいであり、ほんどなりとときあかしたのである。
 しかして、いま、まっぽうに、はいっては、にちれんだいしょうにんのどくいっほんもんのぶっぽういがいに、いかなるせかいをもこうふくなせかいとてんかんしていく、ちからづよきだいぶっぽうはだんじてないことをしるべきである。ほんもんじゅりょうほんに、いかにこのげんりがあかされているとはいえ、まっぽうのだいびゃくほうなくば、うみょうむじつにならざるをえない。されば、だいしょうにんのぶっぽうをはなれては、ぜったいにじゃっこうどはひらかれず、くのうのせかいにしんぎんするのみとなろう。
 しんじつのこうふくはかんきょうがけっじょうするものでない。にんげんは、かんきょうによって、いっさいがしばりつけられる、はかないそんざいとおもうのは、じしんのせいめいのこうだいをしらざるびゃくけんである。

 いっしょうじょうぶつしょうにいわく、「しゅじょうのこころけがるれば、どもけがれこころきよければ、どもきよしとて、じょうどといひ、えどというも、どにふたつのへだたりなし、ただわれらがこころの、ぜんあくによるとみえたり」(0384-01)と。
 このせかいを、じょうどとするも、えどとするも、しょせん、われらのいちねんによって、けっていされるとおおせである。
 すなわち、おうていのいちねんがじごくであれば、われらがすむせかいはことごとくじごくである。ほんらい、たのしかるべきものも、そのおうていのいちねんに、へんかのないかぎり、そのひとのくをますものにしかならない。
 おうていのいちねんが、しゅらかいであれば、われわれをとりまくせかいは、いっさい、しゅらかいである。われわれのいちねんがてんかいでれば、こくどもてんかいである。わがいちねんにぶっかいをゆげんすれば、われわれがいくところは、いっさいじゃっこうどである。
 むしろ、こう、ふこうのしゅたいは、しょうほうにあり、えほうは、そのはんえいである。ゆえに、しんに、ちからづよき、しょうじょうなしゅたいをかくりつするとき、いかなるしゃばせかいも、じゃっこうのせかいへとかえていけるのである。
 さいれんぼうごへんじにいわく、「さればわれらがきょじゅうして、、いちじょうをしゅぎょうせんのところは、いずれのところにてもそうらへ、つねじゃっこうのみやこたるべし、われらがでしだんなとならんひとは、いっぽをいかずして、てんじくのりょうぜんをみ、ほんぬのじゃっこうどへ、ちゅうやにおうふくしたまふこと、うれしとも、もうすばかりなし、もうすばかりなし」(1343-08)と。
 これは、にちれんだいしょうにんが、るざいのちさどであらわされたごしょのいっせつである。みょうほうをじゅじしたひとが、ぶつどうしゅぎょうをはげむところは、いずれのちであれ、どのようなきょうぐうであれ、さいこうのこうふくなじゃっこうのせかいであるとおおせである。
 なんとすうこうな、いだいなるかくしんであり、おすがたであろうか、るにんのみとし、さむさのなかで、たべるものも、きるものもとぼしく、しかも、たえずせいめいのきけんにさらされた、いわばじごくのどんぞこのようなせいかつのなかで、このちこそぶつどうしゅぎょうのどうじょうであり、つねじゃっこうのせかいであるとさけばれ、むしろ、おでしをはげまされているのである。
 このだいしょうにんのおすがたこそ、なにものにもさゆうされず、しはいもされず、おかされもしない、ゆうゆうたる、ごほんぶつのきょうちであるといういがいにない。
 とだせんせいもまた、ろうのなかをじょうじゅうのじゃっこうどとし、そこでさとりをえている。たとえいかなるところでも、しんじんをまっとうし、にんげんかくめいし、しゅくめいてんかんしていける、しょうさである。
 されば、われらもまた、いかなるくきょうにたたされたじぶんであっても、しんじんによってきょうがいをひらけば、それは、ことごとくじこをせいちょうさせ、そうごんならしめるものとなるとけついしてすすむべきである。このとき、つよきだいせいめいりょくがゆうぜんとあらわれ、いっさいをきりひらいていけることをかくしんするものである。
 いま、ここにこじんにやくして、しゃばせかいそくじゃっこうどのげんりをのべたが、さらに、せかいこうふたっせいのじつげん、ぜんせかいのしゅくめいてんかんであり、しゃばせかいそくじゃっこうどのじつげんなりとだんずるものである。
 いま、まさしく、このちじょうはしゃばせかいであり、えどである。すなわち、げんじつはくのうのせかい、ききのせかい、きょうきのせかいともいうべきであろう。だが、そのほんげんをたずねれば、にんげんせいめいのにごりにあり、にんげんせいのゆがみにあることはいうまでもない。これを、ぶっぽうでは、とんじんちのさんどくとときさんさいのこんげんとなしているのである。
 これをかいけつすべきものは、にんげんせいのこんげんをついきゅうした、ぶっぽうてつりによるいがいになく、みょうほうのみが、このげんじつのしゃばせかいを、そくじゃっこうどにかえるほうなりと、しゅちょうするものである。


せっぽうとは、いっさいしゅじょうのごごんのおんじょうが、ほんぬのじじゅゆうちのせっぽうなり
 これは、せっぽうについてりのうえから、てつがくてきなかいしゃくをなされたところである。つぎの「まっぽうにはいって、せっぽうとはなんみょうほうれんげきょうなり」が、じのせっぽうである。
 いっさいしゅじょうのごごんおんじょうは、ことごとく、そのきょうがいをといているのである。ひとが、くるしいこえをはっするのも、はればれとしたこえをはっするのも、みずがのみたい、あついとうのことばをくちにだすのも、そのとうにんのいつわらざるしんじょうのはつろである。さらにいえば、じしんにほんらいそなわる、ちえのはつげんといえる。
 あかんぼうのなきごえも、ほんぬのじじゅゆうちのせっぽうである。うれしいとき、しぜんにうたがでるのも、ほんぬのじじゅゆうちのせっぽうである。おそろしいとき、ひめいをあげるのも、ほんぬのじじゅゆうちのせっぽうにほかならない。さらには、いっさいのげんげんくく、またはおんじょうは、ことごとくじじゅゆうちの、せっぽうであるとおおせなのである。
 ごしょ、さんもんの、そうじょうをひいていわく、「おとのあいらくをもって、くにのせいすいをしる、しのじょにいわく、ちせいのこえは、やすんじてもってたのしむ、そのまつりごと、やわらげばなり、らんせいのこえは、うらんでもっておこる。 そのまつりごとそむけばなり、ぼうこくのこえはあわれんでもって、おもう、そのたみ、くるしめばなりとうんぬん。きんだいねんぶつの、きょくをきくに、げんせぶみんのこえに、そむきすでにあいどうのひびきをなす、これぼうこくのこえなるべし」(0088-17)と。
 みんしゅうのこえは、じだいをしょうちょうする。みんしゅうのはつする、こえのおんちょうは、じだいのていりゅうである。されば、しどうしゃは、ひとびとの、いつわらざる、しんじょうのこえをきくべきである。そこに、むりょうのせっぽうがあることを、しんずべきである。つねに、せおんをびんかんにキャッチし、せんてをうち、かちそうぞうしていくひとこそ、しんのしどうしゃのありかたといえよう。


 まっぽうにはいって、せっぽうとはなんみょうほうれんげきょうなり、いま、にちれんとうのたぐいのせっぽうこれなり。
 さきのせっぽうは、りじょうのほうもんであり、そのせっぽうそれじたいが、こうふくへのせっぽうではなかった。だが、なんみょうほうれんげきょうのせっぽうこそしんじつのせっぽうであり、こうふくへのせっぽうである。
 せっぽうというと、そうりょが、じいんとうで、ぞくなんぞくにょにたいし“ありがたいおしえ”をとくというこうけいをおもいうかべるごとく、いっぱんには、とくべつなせかいのぎしきのようにおもわれている。
 だが、せっぽうとはけいしきではない。さいこうのほうたるなんみょうほうれんげきょうをとくひとは、だれひとであれ、さいこうのせっぽうをしているのであり、こんにちにおいては、いちたいいちのしゃくぶく、しどう、またざだんかいが、しんのせっぽうのすがたである。
 またなんみょうほうれんげきょうをこんていとしたげんげんくく、おんじょうは、ことごとくひとびとをすくい、せそうをかいかくし、こうふくなこくど、へいわなじんるいしゃかいをきずいていく、いだいなげんどうりょくとなっていく。
 げんぎのにじょいわく「こえぶつじをなす」と。
されば、いかなるところであれ、だいごほんぞんをもった、ひとのささほつほつとふるまうところ、こうふくな、せかいがじつげんしていくことはぜったいにまちがいない。やがて、こうふのとききたらば、どれほど、こうふくのこえ、かんきのさけびが、よにじゅうまんすることであろうか。




  • [256]
  • おんぎくでんこうぎ げ   だいじゅうに、いどしゅうじょうこ、ほうべんげんねはんのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月23日(月)01時49分9秒
 
おんぎくでんこうぎ げ
だいじゅうに、いどしゅうじょうこ、ほうべんげんねはんのこと。

つうげ。
  じゅりょうほんだいじゅうろくの「しゅじょうをどせんがためのゆえに、ほうべんしてねはんをげんず」のもんについてのおんぎくでんにいわく。
これはねはんきょうはほけきょうよりでたものであることをしめすきょうもんである。すでにほけきょうをといたのちにほうべんとしてねはんきょうをといたと、このきょうもんにのべられているからである。


こうぎ。
 ここは、にちれんだいしょうにんが、きょうそうかん、きょうもんかんからとかれたところである。せいめいかん、せいめいろんでとけば、しとはほうべんであるという、せいと、しのかんけいをのべた、きょうもんであることはあきらかである。
 ねはんきょうは、ほけきょうのるつうぶんであり、ほけきょうにもとづいてとかれたきょうもんである。ねはんきょうのきょうもんは、りっしょうあんこくろんをはじめ、しょごしょにいんようされている。とくにうとくおう、かくとくびくのかんけいをといたもん、しゅごふぞくのもん、まっぽうのほうぼうのあくりょのすがたと、そのほんしつをするどくついたよげんのもんとう、まっぽうのるつうのようもんがしょしょにとかれている。
 これ、すなわち、しゃくそんのほけきょうが、まっぽうのためであることをしょうみょうするきょうもんであり、ここにねはんきょうのとくしつがある。だいしょうにんが、てらどまりごしょでねはんきょうのえんきょうは、ほけきょうのてつりをかさねてといたもので、それじたい、どくじのものではなく、ねはんきょうのとくぶんは、むしろぜんさんきょうにあるといわれたのはこのゆえである。
 いま、ここに、てらどまりごしょの、ねはんきょうについてのべられたもんをいんようしておく。
 「ねはんきょうのだいじゅうはちに、しょくみょうじゅうほうと、もうすほうもんあり、てんだいだいしのりょうけんにいわく、いのちとは、ほけきょうなり、じゅうほうとは、ねはんきょうにとくところの、ぜん、さんきょうなり。
 ただし、ねはんきょうにとくところの、えんきょうはいかん、このほけきょうにとくところの、ぶっしょう、じょうじゅうをかさねてこれをといて、きほんせしめ、ねはんきょうのえんじょうをもって、ほけきょうにせっす。
 ねはんきょうのとくぶんは、ただほうべんぜんさんきょうにかぎる、てんだいのげんぎのさんにいわく、「ねはんは、しょくみょうのじゅうほうなり、かさねて、てをうつのみ」もん、せんのさんにいわく、「こんけのいんいは、だいきょうの、ぶをさして、もってじゅうほうとなす」とううんぬん。
 てんだいだいしのしねんじょともうす、もんにほけきょうの、「すいじ、しゅじゅどう」のもんをひいて、まず、しみをまた、じゅうほうとさだめおわんぬ、もし、しからばほけきょうのせんごのしょきょうは、ほけきょうのためのじゅうほうなり」(0952-09)
 このもんにあきらかなように、ねはんきょうは、にぜんきょうとともに、ほっけというこんぽんのせいめいのための、じゅうほうであり、ほけきょうなくば、まったく、むいみなきょうもんとなってしまう。
 ほけきょうよりしゅっぱつし、ほけきょうにもとづき、またほけきょうの、るつうぶんとしてのきょうもんである。
 されば、ねはんきょうは、ほけきょうのほうべんせつであり、ほけきょうというたいこうのための、こうもくとして、そのしんかがあるといえるのである。
 しかして、まっぽうのほけきょうとは、だいごほんぞんであり、そのるつうのためのきょうもんとして、はじめていきるのである。ここに、じょうぶつのじったいがあるとして、これをまっぽうにもちいようとすれば、ほんまつてんとうの、びゃくけんであるといわざるをえない。

ほうべん、げん、ねはんについて。
 ねはんとはしであり、しはほうべんであるということである。しょうとしのかんけいについては、すでにほんぬのしょうじとしてのべたとおりである。これこそせいめいのしんじつのすがたであり、せいめいろんはここにつきるのである。いま、このほんぬのしょうじをだいぜんていとして、そのうえに、ほうべんげんねはんをろんじておきたい。
 ほうべんげんねはんということじたい、すでにふたたびあたらしきしょうのあることをとうぜんのこととしていることはめいはくであろう。すなわち、しは、あたらしきしょうのためのほうべんであり、ふたたび、はつらつとしたせいめいとしてたんじょうするためである。
 ぶっぽうを、あたかも、しのためのじゅんびのしゅうきょうであるかのごとくとくひとがいる。これは、ねんぶつとうのひくきしゅうきょうにとらわれたしそうであり、けっしてしんじつではない。むろん、ぶっぽうは、もっともりんじゅうをおもんずる。それは、りんじゅうこそ、こんぜのしょうのそうけっさんであり、そのじょうたいが、しごもれんぞくし、ふたたびたんじょうするときも、そのれんぞくであるからにほかならない。ぶっぽうは、せいのためのてつりであって、しのためのてつりではない。いきることにしゅがんがあり、せいのおうか、せいのかんきを、さいだいにじかくせしめるものである。

 きょうにいわく「きょうしじゅみょう」と。また、かえんじょうごうしょにいわく「いちにちのいのちはさんぜんかいのたからにもすぎてそうろうなり」(0986-11)と。これほどまでに、せいをおもんじ、そのそんげんなることをだんげんした、しゅうきょう、てつがくが、ほかのいずこにあるであろうか。
 されば、ひとびとが、すこしでもいきたい、ながくいきたい、というのは、にんげんせいのしぜんのはつろである。したがって、このとうときしょうを、じんいてきにふみにじろうとするものは、まさにてんまといういがいにない。
 しかして、そのとうときしょうを、さいこうにかちあるものとしていくのが、にちれんだいしょうにんのぶっぽうなのである。
 せいめいはえいえんである。このえいえんのせいめいからみれば、こんぜのせいめいは、ほんのせつなのようにおもわれるかもしれない。だが、それだけでは、あまりにもしゅたいせいなきしそうといわざるをえない。
 たしかに、こんぜのせいめいは、しゅんかんのごときものといえる。しかし、さいこうのぶっぽうは、このしゅんかんに、えいえんをはらんでいることをおしえている。えいえんなるがゆえに、このしゅんかんがとうといのである。もし、せいめいがえいえんでなければ、なんとはかないこんぜのせいめいであることか。
 ただいま、だいごほんぞんをしんじ、しゃくぶくぎょうにはげみ、こうせんるふにたたかうことは、このいっしょうを、さいだいにかざっていくことはおろか、えいえんのこうふくを、このしゅんかんにひらいていくのである。
 このせいめいが、えいえんであるとともに、そこにそなわるいんがのりほうも、きびしく、えいえんにれんぞくしていくことをしらねばならない。また、わがみにぐするじっかいそれじたいも、じょうじゅうであることをじかくしなければならない。じごくにしはいされたせいめいは、そのまま、にしょう、さんしょうとうと、ながきにわたってつづいていく、がきにしはいされたせいめいも、おなじく、れんぞくしていくのである。
 このたび、せいを、このみょうほう、うえんのちにうけ、けぎのこうふのときにめぐりあわせ、もし、いまにしてしょうじのばくをきり、しんじつのこうふくなるとうたいをきずかずして、また、いつのひにしゅくめいてんかんし、じしんのこうふくをじつげんしていくことができるであろうか。わざわざ、むじょうほうじゅをなげうち、むりょうこうにも、さんあく、しあくのくるしみのせかいをるてんするほどおろかなことはない。
 いまがだいじなのである。このしゅんかんしゅんかんは、かけがえのないしほうのしゅんかんである。このしゅんかんをむいにすごしてはならぬ。
 こんじょうを、このぶっぽうにいき、さいごのしのしゅんかんまでたたかいぬいたひとこそ、しんじつのえいえんのこうふくにかがやくのである。





  • [255]
  • おんぎくでんこうぎ げ だいにじゅういち じがげのこと

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月22日(日)02時33分2秒
 
おんぎくでんこうぎ げ。
だいにじゅういち じがげのこと。

つうげ
 じがげについて、おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 じとはきゅうかいであり、がとはぶっしんである。すなわち、きゅうかいそくぶっかいのせいめいである。げとは「ことわる」といういみであり、みょうほうのてつりをば、これこそどうりなりとのべたことをいうのである。すなわち、このきゅうかいそくぶっかい、じっかいごぐのせいめいは、くおんがんじょいらい、むしむしゅうであることをどうりとしてときあかしたのがこのげじゅなのである。このことをふかく、しさくしていくべきである。
 このようにどうりとしてときあかしたきゅうきょくのじったいはなにかといえば、それはなんみょうほうれんげきょうなのである。


こうぎ
 このこうは、つぎの「だい22、じがげしじゅうのこと」および、すでにのべた「だいじゅういち、じがとくぶつらいのこと」と、いちれんのおんふみであり、よくかんれんして、えとくしていただきたい。
 じがげとは、このおんふみにおおせのごとく、きゅうかいそくぶっかい、ぶっかいそくきゅうかい、すなわち、わがせいめいはじっかいごぐのとうたいであり、しかもそれがほんぬじょうじゅうであることをあらわし、これこそ、しんじつのせいめいのすがたであり、ほうりであるとさんたんしたものである。
 さらに「ことわりようとは、なんみょうほうれんげきょうなり」と、けつろんされ、じがげとは、なんみょうほうれんげきょう、そくだいごほんぞんこそ、だいうちゅうのほんげんであり、じのいちねんさんぜんのとうたいであり、これいじょうのいだいなる、とうたいはないとさんたんしたところのげじゅにほかならない。
 ここで「じとは、きゅうかいなり、がとは、ぶっしんなり」のもんを、いちじゅう、たちいってろんずるならば、じとはほんにんみょうのたちばであり、にっこうしょうにんであられ、「がとはぶっしんなり」とは、ほんがみょうのたちばでにちれんだいしょうにんであらせられる。これ、まことのほんにんほんがのほうもんにして、していふにのきゅうきょくのおすがたである。
 これをくおんがんじょいらい、ほんぬじょうじゅうなり、くおんがんじょのすがたは、まったく、こんにちのすがたなりと、さんたんしたのが、じがげとなる。
 しかして、このゆいぶつよぶつ、ないのうくじんのきょうちをつらぬくものは、くおんがんじょの、なんみょうほうれんげきょうなりとの、がんいが「ことわりようとは、なんみょうほうれんげきょうなり」の、けつろんのおんふみである。
 じがげをとなえるくどくに、じがげについては、ほうれんしょうに、つぎのごとくおおせである。
 「じがげのくどくは、ゆいぶつよぶつ、ないのうくじんなるべし、それ、ほけきょうはいちだいせいきょうの、こつずいなり、じがげは、にじゅうはちほんのたましひなり、さんぜのしょぶつは、じゅりょうほんをいのちとし、じっぽうのぼさつも、じがげをげんもくとす。じがげのくどくをば、わたくしにもうすべからず、つぎしもにふんべつくどくほんにのせられたり。このじがげを、ちょうもんして、ほとけになりたる、ひとびとのかずを、あげてそうろうには、しょうせん、たいせん、さんぜんせかいのみじんのかずをこそ、あげてそうらへ。そのうえ、やくおうほん、いかのろくほん、とくどうのもの、じがげのよざんなり。(ちゅうりゃく、)されば、じっぽうせかいのしょぶつは、じがげを、しとして、ほとけにならせたまう、せかいのひとのふぼのごとし。いまほけきょう、じゅりょうほんをもつひとは、しょぶつのいのちをつぐひとなり、(ちゅうりゃく)、ほけきょうのじがげをもつひとを、てきとせんはさんぜのしょぶつを、てきとするになるべし」(1049-15)と。
 このじがげとは、もんじょうのじがげではない。じのいちねんさんぜんの、なんみょうほうれんげきょうを、さんたんするじがげであり、したがって、ここにおおせられたじがげとは、そのじったいは、しょせん、なんみょうほうれんげきょうなのである。
 じがげのきちゃくすべきこんげんは、あくまでもだいごほんぞんであり、なんみょうほうれんげきょうである。これをはなれて、いかにじがげをよもうとも、ぜったいにくどくはない。
 されば、じがげは、まっぽうにいりては、しょうぎょうたる、なんみょうほうれんげきょうに、せっせられてしまい、それじたいは、じょぎょうとなることをしるべきである。


  • [254]
  • おんぎくでんこうぎ げ   だいじゅう、ぜこうりょうやく、こんるざいし、にょかしゅぶく、もつうふさいのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月21日(土)02時45分40秒
 
  おんぎくでんこうぎ げ

だいじゅう、ぜこうりょうやく、こんるざいし、にょかしゅぶく、もつうふさいのこと。



つうげ。
じゅりょうほんだいじゅうろくの、「このよきろうやくを、いまとどめてここにおく、なんじとってふくすべし、いえじとうれうることれなかれ」のもんについて、おんぎくでんにはつぎのようにもうされている。
 ぜこうろうやくとは、いっぱんてきには、あるいはきょうきょうあるいはしゃりとされている。だが、これはもんじょうのはんいないのことであり、まっぽうにおいては、なんみょうほうれんげきょうこそ、そのじったいなのである。
 こうとあるのは、さんぜしょぶつのこのみものは、だいもくのごじなるがゆえである。こんるとは、まっぽうをさすのである。ざいしのしとはせかいのなかでも、ごほんぞんがいますところのにほんこくである。にょとはまっぽうのいっさいしゅじょうのことであり、しゅとは、われわれがまっぽうのほけきょうたるだいごほんぞんをじゅじするときのぎしきである。ふくするということは、しょうだいすることである。ふくすることによってはじめて、わがみにぶっかいがゆげんし、むさのさんじんのとうたいとあらわれるのである。したがって、しじょうしょうかくにしゅうちゃくするというやまいがなおり、こんぜだけのあさいせいめいかんから、えいえんのせいめいのかくちへときょうがいをひらいていくことができるのである。いま、にちれんだいしょうにんおよびなんみょうほうれんげきょうととなえるもんかのことをいうのである。


こうぎ。
 ここはゆうめいなきょうもんであり、かつ、じゅうようなほうもんをないほうした、おんふみである。
 ぜこうろうやくとは、せんずるところ、もんていげしゅじぎょうのいちねんさんぜんのなんみょうほうれんげきょうであり、そのとうたいは、にちれんだいしょうにんごずけんのだいごほんぞんである。
 ぼうとうの、「ぜこうろうやくとは、あるいはきょうきょう、あるいはしゃりなり、さてまっぽうにては、なんみょうほうれんげきょうなり」の、おんふみは、ぜこうろうやくについての、しゅだつそうたいをあらわしているのである。
 こんるざいしの、こんるとは、まっぽうなのである。すなわち、にちれんだいしょうにんが、まっぽうにごしゅつげんあそばされ、だいごほんぞんをごこんりゅうになり、まっぽうまんねん、じんみらいさいにわたり、ぜんみんしゅうのために、のこしおく、との、がんいである。
 ここに、じゅりょうほんが、もんじょうではなくもんていのじゅりょうほんであることがめいかくである。すなわち、なんみょうほうれんげきょうにょらいのじゅりょうほんであり、ことごとくにちれんだいしょうにんのおんふるまいをあらわすじゅりょうほんとして、だいしょうにんがおよみであることが、りょうぜんとするのである。
 ざいしのこれとは、ぜんせかいのなかでもにほんこくとよむべきであるとだんげんされている。にほんこくこそ、ごほんぶつしゅつげんのくにであり、たいようのごとく、ぜんせかいの、やみをてらすだいしょうほうが、るふすべきさいしょのくにである、とのおこころとはいする。ちゅうりゃく。
にょかしゅぶくのなんじとは、まっぽうのいっさいしゅじょうであるとのべられ、いっさいしゅじょうを、すこしもへんぱなく、びょうどうにすくわれんとするのである。
 だいしょうにんのぶっぽうは、いちぶのひとの、またはとくていのくにの、とくべつのひとのためのものではない。あらゆるくにの、あらゆるかいそうのひと々びとにたいし、だいろうやくをさずけられたのである。
 しんじつのしゅうきょうは、にんげんせいのおうていをときあかしたものである。そこには、ちいとか、けんりょくとかひょうめんてきなもののかべも、みんぞくとか、こっきょうとか、じんしゅとうのさべつのしょうへきもない。だれびとといえども、このだいごほんぞんによって、しんじつのこうふくなる、とうたいをきずいていけることをしめされた、おんふみである。
 しゅとは、だいごほんぞんをじゅじするときのぎしきであり、だいごほんぞんをしんずるはじめである。ふくとは、しょうだいであり、しょうだいしてはじめて、じしんがむささんじんのとうたいとあらわれていくのであるとおおせである。
 およそしんじんとはじっせんであり、じっせんのなかにあらわれるのである。じっせんなきしんじんは、かんねんにすぎない。したがって、じじつのうえに、ちからづよき、じのいちねんさんぜんのとうたいとしてのじこをきずいていくことはできない。「ふくするよりむさのさんじんなり」とは、まさに、このじっせんをきょうちょうされた、おんふみと、はいするものである。
 「しじょうしょうかくのびょうげんいえるなり」とは、げんせしゅぎてきなひくきせいめいかんをうちやぶり、えいえんのせいめいをかくしんしていくことができることをおおせである。
 さらに、ひょうめんてきなけんい、めいせいとうの、あたかもねなしぐさのごとき、すいちゅうのつきのごときものにとらわれて、そのついきゅうのためにやっきとなっているすがたも、しじょうしょうかくのびょうげんである。そのびょうげんをうちやぶり、しんのにんげんかくめいにはげみ、またりんじんのため、しゃかいのため、こんていてきなこうふく、こうきゅうてきなへいわをもたらすことにせんしんしていくことじたい、おなじく「しじょうしょうかくのびょうげんいえるなり」ことである。ゆえに、さいごに、けつろんして「いまにちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるこれなり」とおおせられているのである。
 かくして、なんみょうほうれんげきょうは、せかいののしきしんのいっさいのびょうげんをなおすだいろうやくであることをせんげんされたのが、このおんふみである。
 このにちれんだいしょうにんの、つよきだいかくしん、ふかきおじあいに、ただただ、むねうたれるのみである。よのだれびとが、これほどのつよきしんねんにたって、せかいのひとびとをこうふくにせんとけついし、そのためにあらゆる、しょうまとたたかっているであろうか。
 さて、このきょうもんには、さんだいひほうがふくまれている。
 すなわち、ぜこうろうやくが、ほんもんのほんぞんであり、こんるざいしがほんもんのかいだんであり、にょかしゅぶくがほんもんのだいもくである。
 このことについて、にちかんしょうにんは、えぎはんもんしょうに、つぎのごとくおおせである。
 「じゅりょうほんにいわく、『このよきろうやくを、いまとどめてここにおく、なんじとってふくすべし、いえじとうれうることれなかれ』とう、うんぬん、まさにしるべし、このもんまさしく、さんだいひほうをあかすなり、いわゆる、ぜこうろうやくはすなわちほんもんのほんぞんなり、こんるざいしはこれほんもんのかいだんなり、にょかしゅぶくはすなわちこれほんもんのだいもくなり。
 とうてんだいだいしいわく、『きょうきょうをとどめておく、ゆえにぜこうろうやくという』とううんぬん、このしゃくのこころにじゅんぜば、つうじていちだいをさして、ただ、ぜこうろうやく、そくほんもんほんぞんと、なづくるとなすか、みょうらくだいしいわく、『とんぜんにこうむらしむといえども、もとはじつじょうにあり』とううんぬん、もしこのしゃくによれば、すなわちほけきょうをさして、なづけてぜこうろうやくとなすいずくんぞ、ほんもんのほんぞんというや。
 こたう、ぞうまつことにして、ふぞくおなじからざるゆえに、まっぽうほんげのふぞくにやくす、ゆえにほんもんのほんぞんというなり。ほんぞんしょうにいわく、『ぜこうろうやくとは、じゅりょうほんのかんよう、みょうたいしゅうゆうきょうのなんみょうほうれんげきょうこれなり。このろうやくをば、ほとけなおしゃくけにじゅよせず、いかにいわんや、たほうをや』うんぬん、これすなわち、じんりきふぞくのしょうたい、あに、ほんもんのほんぞんにあらずや、まさにしるべし、じゅりょうほんのかんようとは、かんよう、すなわちこれもんていなり。
 ゆえにかいもくしょうには、もんていといい、ほんぞんしょうにはかんようという。ゆえにしんぬ、もんていかんようは、げんもくのいみょうなり。ごそうでんにいわく、『もんていとは、くおんみょうじのみょうほうに、こんにち、じゅくだつのほけきょうの、きにゅうするところを、こころざしたまうなり。ゆえにみょうらくだいしいわく、すいだつざいげん、ぐとうほんしゅ、とうんぬん』これをおもいあわすべし。
みょうたいしゅうゆうきょうとは、てんだいすでにさんとくにやくして、ろうやくぐそくのしきこうみみをしゃくす、これすなわち、ごじゅうげんなるがゆえなり。もんのきゅうにいわく、『しきはこれはんにゃ、こうはこれげだつ、みはこれほっしんなり、さんとくふじゅうふおうを、ひみつぞうとなずづく、きょうによってしゅぎょうして、このぞうにはいることをえ』。
 みょうらくいわく、『たいとうのさんしょうは、ただこれさんとく』うんぬん、ゆえにしりぬ、しきはこれ、はんにゃ、そく、みょうしゅうなり、こうはこれ、げだつ、そく、みょうゆうなり、みはこれほっしん、そくみょうたいなり、ひみつぞうは、すなわちこれみょうみょうなり、えきょうしゅぎょうはすなわちこれ、みょうきょうなり。ゆえにぜこうろうやくはすなわちこれ、ごじゅうげんなり、もししきこうとうを、ぐそくせずんばなんぞ、よき、ろうやくとなづけん。しかるにしきこうみみ、みなことごとくぐそくす。
 ゆえにぜこうろうやくなり、あに、ごじゅうげんにあらずや、さらにまたじんいあり、われひとにむかってとかず。

 とう、そのしんい、いかん。
 こたう、これひじなりといえども、いちごんこれをしめさん、しょうしんほういんの、げんもんしきだいいちにいわく、『しかしてみょうほうの、なに、たいしゅうゆうをふくむ、ゆえにかならず、まさに、にんぽうのにぎをかぬべし』とううんぬん。
 しゅうそいわく、『さんとく、そくこれさんじんなり』とううんぬん。ゆえにしりぬ、しきはこれ、はんにゃ、そくほうしんなり、こうはこれ、げだつ、そくおうじんなり、みはこれ、ほうしんそく、ほっしんなり、これすなわち、じゅりょうかんよう、もんていのさんじんなり、ゆえにしりぬ、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしん、ほうちゅうろんさんの、むささんじんなり。
 このむささんじんのほうごうを、なんみょうほうれんげきょうというなり、ゆえにさんとくふじゅうふおう、みょうひみつぞうというなり、またこのむささんじんのしょさは、なにものぞ、すなわちなんみょうほうれんげきょうなり。
 ゆえにえきょうしゅぎょう、とくにゅうしぞうというなり、このむささんじんはすなわちこれ、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃなりうんぬん。
 もししからば、ぜこうろうやくのもん、あに、にんぽういったいのほんぞんにあらずや、ぎばがやくどう、これをおもいあわすべしうんぬん。

 こんるざいしは、すなわちこれほんもんのかいだんなり、これすなわちほんもんのほんぞんしょじゅうのところなり、ゆえにこれほんもんのかいだんなりうんぬん、にょかしゅぶくは、すなわちこれほんもんのだいもくなり。
 いわく、このもん、しんぎょうぐそくしてほんもんのだいもく、もっともあきらかなり、いわく、しゅはこれしんじん、ふくはこれしょうだいなり、およそ、しゅというはてをもってこれをとるゆえに、しんじんなり。
 だいろんだいいちにいわく、『きょうのなかにしんをといて、てとなす、てあってほうせんにはいれば、じざいによくとるがごとし』とううんぬん、いうところの、ふくは、くちをもってこれをふくす、ゆえにしょうだいなり、てんだいのいわゆるしゅぎょうをなづけてふくとす、とはこれなり」

 すなわち、ぜこうろうやくとは、ほんもんのほんぞんであるが、またにんぽういっかのごほんぞんであることをもあらわすのである。ぜこうろうやくとは、しきこうみみかいしつぐそくのろうやくである。しかして、しきとは、さんとくにやくせば、はんにゃであり、さんじんにやくせばほうしんである。こうとは、げだつであり、おうじんである。みとは、さんとくにやくしても、さんじんにやくしても、ともにほっしんである。このさんじんは、ないしょうのじゅりょうほんのさんじんであり、くおんがんじょのじじゅゆうほうしん、ほうちゅうろんさんのむささんじんである。これを、てんだいは、めいかくにいわず、さんとくふじゅうふおうとひょうげんしたにすぎなかった。このむさのさんじんのほうごうをなんみょうほうれんげきょうとなづけるのである。このことも、てんだいはみょうひみつぞうというにすぎなかった。だが、このむささんじんにょらいおよびなんみょうほうれんげきょうなのである。これもまた、てんだいは、えきょうしゅぎょう、とくにゅうしぞうというにすぎなかったのである。このむさのさんじんとは、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃであり、にんのほんぞんたる、にちれんだいしょうにんであらせられる。したがってまっぽうのぜこうろうやく、ほうほんぞんたるなんみょうほうれんげきょうは、まったくにちれんだいしょうにんであり、またにちれんだいしょうにんのほうごうをなんみょうほうれんげきょうともうしあげるのである。このゆえに、この、ぜこうろうやくのもんは、まったく、にんぽういっかのだいごほんぞんとあらわすのであると、にちかんしょうにんはとかれているわけである。
 また、こんるざいしとは、だいごほんぞんを、とどむるところであることはめいはくであり、だいごほんぞんしょじゅうのところであれば、ほんもんのかいだんであることはめいりょうである、と。
 また、にょかしゅぶくはほんもんのだいもくである。これをさらにわければ、しゅはしんじんであり、ふくはしょうだいである。
 しゅというのは、およそてをもってとるのである。だいごほんぞんという、ほうせんにはいって、じざいにたからを、てをもってとるとは、まさにしんじんをしめすいがいのなにものでもない。またふくとは、くちをもってふくするのであり、まさにしょうだいをあらわすいがいのなにものでもない、と。
 まことに、めいかいなる、にちかんしょうにんのおしどうであるとはいするものである。

ろうやくについて
 びょうきをなおすくすりが、ろうやくである。だが、びょうきにもけいちょうがあり、またそのしゅるいによってろうやくのないようもことなる。さらに、しきほうのびょうきだけがびょうきではない。しんぽうのびょうきもまた、じゅうだいなびょうきである。いな、このびょうきこそ、もっともなんじであり、げんだいのいかなるいがくしゃも、きょういくしゃも、しんりがくしゃも、なおすことのできぬ、やまいなのである。
このこころのびょうきにも、じゅうじゅうのけいちょうがある。
 にんげん、せいめいのおうていに、ふかくそまった、とんじんちのさんどくのやまいは、ぜったいに、ぶっぽうのだいろうやくによるいがいにない。
 ちびょうしょうにいわく、「それ、ひとに、にのやまいあり、いちにはみのやまい、いわゆる、ちだい、ひゃくいち、すいだい、ひゃくいち、かだい、ひゃくいち、ふうだい、ひゃくいち、いじょう、しひゃくしびょうなり。
このやまいは、たといほとけにあらざれども、これをなおす、いわゆるちすい、るすい、ぎば、へんじゃくとうが、ほうやく、これをじするに、ゆいていえずということなし、にには、こころのやまい、いわゆるさんどくないし、はちまんよんせんのやまいなり、このやまいは、にてん、さんせん、ろくしとうも、なおしがたし、いかにいわんや、しんのう、こうていとうのほうやく、およぶべしや」(0995-06)と。
 すなわち、みのやまいは、めいいであれば、これをなおすことはできるが、こころのやまいは、めいいであっても、なおすことができない、とのこころである。
 このおんふみは、20せいきのこんにちにおいても、そのまま、あてはまる。いな、むしろ、こんにちにおいて、せつじつさをましているすがたさえみられる。
 げんだいいがくでは、こころにかんけいしたびょうきは、ほとんどちりょうほうは、かいむであるといってもよいほどである。これは、むしろ、いっぱんのひとびとより、いがくしゃの、いつわらざるじっかんであり、こくはくなのだ。
 しかも、こころにかんけいしたびょうきとはいえ、いがくがとりあつかうはんいは、にくたいじょうに、あらわれるものにかぎるのであり、こころそれじたいのびょうきは、あつかうもんだいでもなければ、あつかえるものでもない。
 こころのはたらきのおうていは、せいめいそれじたいである。せいめいそれじたいが、とんじんちのさんどくにそまり、にごれるほんしつとなっているがゆえに、さくそうしたせいしんさようとなっていくのにほかならぬ。
 ゆえに、このびょうきをなおしていくほうは、せいめいそれじたいを、もっともちからづよく、しょうじょうに、かがやかしきとうたいにしていくものでなければならない。いじょうのことはこじんばかりでなくしゃかいとてどうようである。
 いま、にほんのしゃかい、またせかいかっこくのげんじょうをみるとき、せいじょうなしゃかい、くにのすがたであるといえるであろうか。あるひとはげんこんのしゃかいを“きょうきのしゃかい”となづけている。まさに、じゅうびょうにひんし、どうすることもできぬじつじょうであるといえる。
 きょだいなぶんめいしゃかいである、アメリカをはじめとするせいおうのゆたかなくにぐにも、そのないぶにはしんこくななやみをぞうしている。いわゆるにんげんそがい、にんげんせいそうしつ、しゅたいせいそうしつというげんしょうであり、なかんずくせいしょうねんのふりょうかは、どうしようもないしゃかいのびょうりとなっている。
 さらに、せいじてきには、ベトナムもんだいとう、つねに、ちみどろのかっとうがつづけられており、これにるいするこくさいしゃかいのびょうりは、いたるところにあるのがげんじつである。
 これをなおす、めいいもいなければ、ろうやくもない。
 だが、かつもくしてみるならば、このしゃかいのやまいは、ひとりひとりのこころのやまいにきちゃくしていく。
 ひんじゃくなるせいしんのどだいに、きょだいで、ふくざつなげんだいしゃかいというけんぞうぶつがたてられているのがじったいであり、これをせいつねにもどすためには、なによりも、ひとりひとりのにんげんかくめいがせんけつである。
 このようきゅうにこたえるだいろうやくこそ、にちれんだいしょうにんのぶっぽうであり、ほかにはぜったいにない。
 やくおうほんだいにじゅうさんいわく「このきょうは、すなわちこれ、えんぶだいのひとのやまいのろうやくなり」と。
 このきょうとは、けっしてしゃくそんのほけきょうではない。いちおうは、そのようにとれるが、さいおうはまっぽうごしゅつげんのだいごほんぞんをいみするのである。されば、たかはしにゅうどうどのごへんじにいわく、「しょうじょうきょう、だいじょうきょう、ならびにほけきょうはもんじはありとも、しゅじょうのやまいのくすりとはなるべからず、いわゆるやまいはおもし、くすりはあさし、そのときじょうぎょうぼさつしゅつげんして、みょうほうれんげきょうのごじを、いちえんぶだいの、いっさいしゅじょうにさづくべし」(1458-13)と。
 すなわち、まっぽうこんじの、いっさいしゅじょうのじゅうびょうは、だいごほんぞんによるいがいに、かいけつのほうなく、にちれんだいしょうにんは、このだいごほんぞんを、ぜんせかいのいっさいしゅじょうに、さずけることをせんげんされているのである。
 にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、せいめいそれじたいのへんかくであり、こんていてきなせいめいのかくめいをもたらす、だいしゅうきょうである。このだいぶっぽうをこんていとしたとき、いかばかりか、せいじょうなひとびと、せいじょうなしゃかい、せいじょうなこくど、せいじょうなせかいがげんしゅつすることかと、おもうものである。

 わたしは、あるいがくしゃのつぎのいちもんをよみ、つよい、かんどうをうけた。
 「それにしても、せいかつりょくの、こんていをなす、ぶっしつてきじょうけんのこうじょうは、こじんてきな、けいよにまつべきでなく、どこまでもしぜんかがくならびに、しゃかいかがくのしんぽにきたいせねばならぬ。
 しかし、それによって、ぶっしつぶんめいがこうどにはってんしたとしても、それはせいめいりょくが、よりおおくはっきせしめるための、じょうけんであって、せいめいりょくそのものを、たかめることではない。しんのじあいは、かくじんをして、そのちからそのものをたかしめるためにある。
 かんげんすれば、にんげんにいきるちからをあたえることこそ、さいだいのじあいである。けれどもにんげんが、にんげんにせいめいりょくをあたえることはできない。ではどうすればよいのであるか。
 しかし、じつは、かくじんはみずからのうちに、そのせいめいりょくをもっている。いな、せいめいをうちにぞうすればこそ、じこのそんざいがあるのである。いわば、ここのせいめいは、せいめいの、おおうなばらのうえに、うごくひとつひとつのなみにもひとしい。
 しかも、にんげんはそのたいかいをわすれ、みずから、いしゅくしてじこのむりょくをかこっている。にんげんに、せいめいりょくをあたえるとは、まさにそのこんていのだいせいめいを、じかくせしめることでなければならぬ。
 しんのじあいとは、ぶっしつをあたえることではなく、かくじんをして、そのせいめいほんらいのすがたを、さとらしめることである。このいみにおいて、もっともふかいじあいは、どうとくであるよりもてつがくてきである。
 それはいいかえれば、てつがくそのものがたんなるりろんのがくではなく、せいめいのじかくをつうじて、せいめいそのものをこうようするものでなければならぬということである。てつがくは、ゆめみるわこうどを、じさつにいざなうものではなく、しぬことすらゆるされぬ、げんじつをいきるひとびとに、いきるちからをあたえるものでなければならぬ。
 てつがくとは、たんなるしんりのけんきゅうではなく、せいのかんきのたんきゅうなのである」
 これは、しんじんはしていないが、いがくしゃとして、げんじつに、いくたの、いけるにんげんをあつかってきたひとの、にんげんせいへの、ふかきどうさつよりはっした、かくしんのことばであり、ぶっぽうにつうずるないようを、ほうがんしている。
 もし、このいちもんに、にちれんだいしょうにんのぶっぽう、そしてだいごほんぞんこそ、そのせいめいのおおうなばらをじかくし、だいせいめいりょくをけんげんする、こんげんであるとの、がりょうてんせいがあれば、そのまま、さいこうのぶっぽうのないようである。
 だが、おしいかな、そのがりょうてんせいがない。したがって、うみょうむじつであり、しゃくもんのげんげんくく、うんぬんにおわっている。
 にんげんに、しんじつのいきるちからをあたえ、こんていのだいせいめいをじかくせしめ、せいのかんきをあたえ、せいめいそれじたいを、こうようせしめる、しんのだいろうやくこそ、まさに、だいごほんぞんであり、ここにこそ、かのげんげんくくのじったいがあるとうったえたい。




  • [253]
  • おんぎくでんこうぎ げ だいきゅう、どくけじんにゅう、しっぽんしんこのこと

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月20日(金)01時55分41秒
 
おんぎくでんこうぎ げ。
 だいきゅう、どくけじんにゅう、しっぽんしんこのこと。  756
 くでんにいわく。 どくけじんにゅうとは、ごんきょうほうぼうのしゅうじょうふかくはいりたる
ものなり。これによつて、ほっけのだいろうやくをしんじゅせざるなり、ふくせしむるといえども、
はきだすは、にいふみとて、むまからずというものなり、いまにちれんとうのたぐい、なんみょうほ
うれんげきょうととなえたてまつるは、にいふみのものにあらざるなり。

つうげ。
 じゅりょうほんだいじゅうろくの「どくけふかくはいって、ほんしんをうしなえるがゆえに」のも
んについて、おんぎくでんではつぎのようにおおせである。
 この「どくけふかくはいって」というもんは、ごんきょうほうぼうへのしゅうちゃくしんが、ふか
くそのひとのせいめいのなかにはいりこんでしまったもののことをさすのである。このために、ほっ
けのだいろうやくたるだいごほんぞんをしんじゅしないのである。また、たとえ、だいろうやくをふ
くしても、はきだしてしまうのは、にいふみといって、うまくないというものである。
これらの、だいごほんぞんをしんじゅしないもの、またにゅうしんしてもとちゅうでたいてんしてし
まうものは、どくけじんにゅうのゆえなのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかがなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつ
るのは、にいふみのものではないことになる。

こうぎ。
 ここは、しゃくぶくをして、なにゆえ、すぐにしょうほうをしんじゅできないか、そのほんしつろ
んをとかれたところである。
 それをにちれんだいしょうにんは、きょうもんのごとく「どくけじんにゅうしつぽんしんこ」であ
ると、かっぱせられたのである。

しかして、どくけじんにゅうとは「ごんきょうほうぼうの、しゅうじょうふかくはいりたるもの」
と、いちごんのもとにしめされ、このゆえに「ほっけのだいろうやくを、しんじゅせざるなり」とけ
つろんせられている。
 「ごんきょうほうぼうの、しゅうじょうふかくはいりたるもの」とは、べっしてはじゃしゅうきょ
うのきょうそ、しゅうきょうか、しょうほうにはんたいするひょうろんかである。

そうじてはいっぱんのしんじんしていないひとも、これにふくまれる。
 われらがしゃくぶくし、あいてにあたえようとするものは、いかなるふこうのやまいをもなおすだ
いろうやくである。
だが、それをふくせしめようとすると、かえって「むまからず」といってはきだすことは、まさしく
われらのじっかんであり、わずかないっせつではあるが、つくづくと、かれらのほんしつをうつしだ
してくもりなきめいきょうとおもわずにはいられない。

 このおんふみのごとく、じゃしゅうきょうほどおそろしいものはない。
しらずしらずのうちに、せいめいのおくふかくはいりこんでいく。
しかも、いったん、そこにじゅうしょをかまえるや、ねづよく、そこにえいじゅうし、そのひとの
しょうじょうなせいめいのほんしつをおおいかくす。
さらにせいめいりょくをよわめ、あるいはとんじんちのさんあくどう、しあくしゅのはたらきをま
し、せいじょうなしこうのうりょくをくるわし、ただしいせいかつのリズムをはかいし、やがてなら
くのそこへつきおとすのである。

 それは、あたかもびょうげんきんにもたとえられる。
ただし、びょうげんきんは、たんにそのひとのこんぜのにくたいをはかいしていくのみである。
じゃしゅうきょうは「ほっしんのえみょうをはす」とあるがごとく、さんぜにわたってれんぞくしゆ
く、せいめいのほんしつにまでくいいり、これをはかいし、えいえんにこうふくをきょうじゅするこ
とのできぬほんしつとぬりかえてしまうのである。

 しかも、ひとは、じしんのふこうのげんいんを、けっして、このじゃしゅうきょうというびょうげ
んきんにあることにきづくことができないのである。
さらに、あたかも、すいちゅうのつきをとらんとするがごとく、そこにこうふくのげんえいをもとめ
て、はかないのぞみをたくすのであるから、まことにかわいそうなかぎりである。
 おそろしいかぎりである。
それほどふかくしんじていなくても、いつのまにか、しゅうじょうとなって、とうにんのこころを
しはいする。
いわんや、しんけんに、そこにしんじつのほうをもとめているひとには、もはやうごかしがたいがん
めいなこころがけいせいされてしまうのも、とうぜんのことといえる。

 そのこころのやみをはらすものは、しゃくぶくいがいにぜったいにない。
しゃくぶくこそ、まずあいてのこころにてっていてきにどうしゅうしょうぎをもたらすのである。
はたせるかな、われわれがしゃくぶくのじっさいにあたるや、どうしゅうしょうぎのこころが、さま
ざまなすがたとなってあらわれてくる。

ときに、われわれのせいぎのことばをなんとかうちけそうとけんめいになり、どきをふくんだたいど
にでる。
これ、こころのみだれのあらわれであり、じこのこころのうごきにたいするひっしのていこうのあら
われとはいえまいか。
だが、どうしゅうしょうぎはだんぎしょうしんのぜんていであり、じじつは、ほんりゅうのごとく、
みょうほうへ、みょうほうへとこころがはたらいていることはぜったいであるとかくしんするもので
ある。
 どくけじんにゅうとはいえ、だれひとといえども、そのおうていは、みょうほうのとうたいであ
る。
おそれおおいことではあるが、だいごほんぞんはさいきょうりょくのじしゃくにたとえられる。
ひとびとがみょうほうにむかうことは、あたかも、てつのじしゃくにすわれていくごとくである。

 いま、がっかいいんとなって、だいごほんぞんをふかくしんじてるひとも、だいたすうは、だいな
りしょうなりしんじんにはんたいしたひとである。
なかにはれっかのごとくおこったひともいる。
そのひとたちが、みな、いまでは、だいごほんぞんをしょうたんしてやまず、さらにみょうほうこう
ふにまいしんしているのである。

 じっそうにまさるゆうべんはない。
このじじつ、このじっそうこそ、ぶっぽうのただしさをしょうこづけるものであり、ともにしゃくぶ
くこそ、がんぽんのむみょうをたちきるりけんであることをしめすものである。

 なお「いまにちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるはにいふみのも
のにあらざるなり」のおんふみで「にちれん」とは、もったいなくも、しであり、ごほんぶつであ
る。
「とうのたぐい」とは、こんにち、こうせんるふのじつげんにむかってしんじんをまっとうしている
じゆうのぼさつたるでしだんなであり、していふにをしめしてくださっているのである。
これは、じょうかんでもしばしばふれたてんであるので、しょうさいはさけることにする。



  • [252]
  • おんぎくでん げ だいはち とうしわごう、よしりょうぶくのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月19日(木)02時00分36秒
 
おんぎくでん げ。
だいはち とうしわごう、よしりょうぶくのこと。

つうげ
じゅりょうほんだいじゅうろくの、「ちち、こらのくのうすること、かくのごとくなるをみて、もろもろのきょうほうによって、よきやくそうのしきこうみみ、みなことごとく、ぐそくせるをもとめて、つきふるいわごうして、こにあたえてふくせしむ、しかしてこのことばをなさく、このだいろうやくは、しきこうみみ、みなことごとくぐそくすべし、なんだちふくすべし、すみやかにくのうをのぞいて、またもろもろのうれえなけんと」の、もんについてのおんぎくでんにいわく。
 このきょうもんは、くうけちゅうのさんたい、かいじょうえのさんがくをあらわしている。これすなわち、しきこうみみをともにぐそくしたろうやく、すなわちだいごほんぞんなのである。このとうしわごうのさんたいにやくせば、とうは「つく」のこころで、くうたいである。しは「ふるう」のこころでけたいである。わごうは、かんぜんなひとつのくすりとしてしあげるのであり、ちゅうどうである。
 よしりょうぶくのよとは、じゅよといういみである。ことはほっけのぎょうじゃ、すなわちだいごほんぞんをしんじゅするぶっしのことである。ふくするということはじゅじのぎである。このとうしわごうよしりょうぶくを、さらにせつめいして、しだいろうやく、しきこうみみかいしつぐそくと、とかれたのである。
 かいしつのにじは、さんぜしょぶつのまんぎょうまんぜんのくどくも、ろくはらみつしゅぎょうのくどくも、ことごとくだいろうやくたるなんみょうほうれんげきょうにぐそくしていることをあらわしている。
 しきこうとうというのは、てんだいだいしがしかんのかんいちじょうに「いちしきいちこうもちゅうどうにあらざることなし」とのべているごとく、そうもくじょうぶつをあらわすのである。このじったいこそだいごほんぞんにほかならない。されば、だいもくのごじ、すなわちだいごほんぞんにいっぽうとしてぐそくしないものはない。ばんぽうがすべてぐそくしているのである。もしこれをふくするものは、きょうもんに「すみやかにくのうをのぞく」とあるごとく、ただちにくのうをしょうめつすることができるのである。
 されば、このみょうほうのだいろうやくをふくする。すなわちだいごほんぞんをしんずるものは、とんじんちのさんどくの、ぼんのうのやまいをのぞくことができるのである。
 ほけきょうのぎょうじゃ、すなわちだいごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなえるものは、ほうぼうのくようをうけることはない。
 これはとんじんちのさんどくのうちとんよくの、やまいをのぞくことになるのである。またほけきょうのぎょうじゃが、いかにせけんのひとびとから、あっくめりされても、にんにくをぎょうじ、ただそのひとのこうふくをおもってしゃくぶくをぎょうずるのは、しんにのやまいをのぞくことになるのである。また、ほっけのぎょうじゃは、じんりきほんに「このひとぶつどうにおいて、けつじょうしてうたがいあることなけん」ととかれているが、ごほんぞんをしんずることによって、そくしんじょうぶつできるのである。これをかくちすることは、ぐちのぼんのうをじすることになるのである。されば、このだいろうやくたるだいごほんぞんは、まっぽうのそくしんじょうぶつのかんろなのである。いま、まっぽうのごほんぶつにちれんだいしょうにんは、このだいごほんぞんのとうたいであり、まただいごほんぞんをしんずるにちれんだいしょうにんのもんかも、みょうほうのとうたいとなり、だいろうやくのほんしゅとなるのである。

こうぎ。
 このおんふみをはいし、まずにちれんだいしょうにんが、いっさいしゅじょうをわがことおもわれ、しきこうみみ、かいしつぐそくの、なんみょうほうれんげきょうのだいろうやくを、ふくせしめようとなされる、じひのおこころをふかくかんずるのである。
のみならず、くうけちゅうのさんたい、そうもくじょうぶつとうの、じんのんなるせいめいてつりが、このみじかいおんふみのなかに、すべてもうらされている。
 なかんずく、じゅじそくかんじんのげんりがとかれ、だいごほんぞんのいだいなるおちからと、それをじゅじするものの、いだいなるくどくをおのべになっている、このおんふみをば、ふかくこころにきざみ、つよきかくしんにたって、しんぎょうにはげむべきである。

 とうとは、くうたいなり、しは、けたいなり、わごうはちゅうどうなり。
 さんたいのたいとは、しんたいともいい、「つまびらか」または「あきらか」のこころで、くうけちゅうの、みっつのたちばからみていくときに、うちゅうのじっそうを、つまびらかに、あきらかにみることができるといういみである。また、たいは「しんじつふこ」のぎで、うちゅうおよびせいめいのしんじつふこのじっそうそれじたいをもいみする。
 じゅうにょぜじにいわく、「はじめににょぜそうとは、わがみのしきぎょうに、あらわれたるそうをいうなり、これをおうじんにょらいとも、またはげだつとも、またはけたいともいうなり。つぎに、にょぜしょうとは、わがしんしょうをいうなり、これをほうしんにょらいとも、またははんにゃとも、またはくうたいともいうなり、さんに、にょぜたいとは、わがこのしんたいなり、これをほっしんにょらいとも、またはちゅうどうとも、ほつしょうとも、じゃくめつともいうなり」(0410-02)と
 このもんによれば、じぶんいちこのせいめいにやくし、くうけちゅうのさんたいをろんずれば「わがみのしきぎょうにあらわれたるそうすなわち、わがこのにくたい、すがた、かたちは、けたいである。
けとは、いっさいのばんぽうが、おのおのかりにいんねんによってわごうしている、ひそうのめんをいい、ばんほうのそうをいう。われわれのこのにくたいにせよ、すがた、かたちにせよ、たえずへんかし、げんにあるすがたは、かりにわごうしたすがたとしかいいようがないからけたいである。
 「わがしんしょう」すなわち、われわれのしょうぶんとか、せいしんさようは、くうたいである。くうとは、うともむともこていすることのできない。うむのにどうのがいねんである。
 われわれのこころは、この「くう」にあたるものである。とだぜんかいちょうは、よくいかりのしょうぶんをれいにひかれせつめいされていた。われわれのこころのなかには、おこるというしょうぶんがある。このおこるというしょうぶんは、うむをけっすることはできないであろう。あるといおうとしても、どこにもそのじったいはなく、ないといおうとしてもいかりのしょうぶんは、えんにふれて、げんぜんとすがた、こうどう、ごんごとうにあらわれ、たのじょうたいとしきべつすることができる。したがって、こころのはたらき、しょうぶんとうをくうたいというのである。
 そして「わがこのしんたい」すなわち、せいめいのほんしつ、ほんたい、せいめいぜんたいをちゅうたい、ちゅうどうというのである。たとえば、さんさいのときのAとはたちになったときのAとでは、にくたいてきにもせいしんてきにもおおきくへんかしている。だが、さんさいのときのAも、はたちのときのAも、どういつじんぶつのAであり、そのひとそれじたいはいっかんしたほんしつをもっている。これが、ちゅうたいであり、ちゅうどうである。
 また、たんににくたいろんでいえば、そのひとじしんは、しょきかんのそうわであるはずである。だが、じじつはけっしてそうではない。そのひとのぜんたいとしてのせいめいは、きかんのそうわでもなければ、ぶぶんのそうごうでもない。いちこの、とくゆうのほんしつをもったとうたいである。ここに、たんにけたい、くうたいのみにあらずして、せいめいぜんたいとしてのちゅうたいをろんじなければ、せいめいのじっそうはつくせないことはめいかくであろう。
 べつのめんからいえば、われわれのせいめいのほんたいとはたらきにわけることができる。ほんたいは、ちゅうたいであり、ちゅうどうである。はたらきはせいしんさようのごとくすがた、かたちとしてとらえられないものと、にくたいかつどうのごとく、すがた、かたちとしてあらわれるものとにわかれる。ぜんしゃがくうたいであり、こうしゃがけたいである。しかして、くたいくゆうであり、ほんたいといえどもはたらきのなかにしかなく、はたらきといえども、そこにいっかんしたほんしつがあり、それにしたがっている。
 すなわち、ちゅうたい、ちゅうどうといえども、けたい、くうたいのなかにしかなく、けたい、くうたいといえどもいっかんしたほんしつ、ちゅうたいにもとづいているのである。
 このさんたいは、にんげんのみにあてはまるものではなく、ばんぽうにつうずるてつりである。
 たとえば、さいているはなのすがたをみれば、これは、かりである。いつちってしまうかわからないから、けわごうのすがたである。はながめぐみ、いろとりどりのはなをさかせるしょうぶんは、くうたいであり、はながかれても、さいても、そのそうもくじたいのほんしつにかわりはない。これちゅうたいである。
 すでに「じょぼん、ななこのだいじ だいご、げしあびじごくのこと」で、みずの、れいをひいてしめした。かんたんにいえば、みずのほんしつというものはHつうOというぶんししきであらわされる。おゆになろうが、ふつうのみずであろうが、こおりというこたいになろうが、またはすいじょうきというきたいになろうがHつうOそれじたいにはかわりない。これがちゅうたいである。しかして、すいじょうきとなり、あるいはこおりとなり、あるいはれいすいとなる。そのすがた、かたちはけたいである。また、みずは、ひょうめんちょうりょくがあり、あるいはようかいりょくがある。そしてまた、れいどいかではこおりとなり、ひゃくどいじょうではすいじょうきになるとう、そのたおおくのせいしつをもっている。これはくうたいといえる。
 てんだいは、まかしかん、まきだいいち、げで、かがみそれじたいと、かがみの、ぞうをはっきりうつしだすせいしつと、かがみにうつった、ぞうのみっつをもってさんたいをせつめいしている。すなわち「たとへばめいきょうのごとし、めいはそくくうにたとへ、ぞうはそくけにたとへ、かがみはそくちゅうにたとふ。あわせずちらせず、ごうさんおんねんたり」と。
 にぜんきょうにおいても、さんたいは、いちおう、とかれてはいるが、ここバラバラにとかれているにすぎない。すなわち、ぞうきょうでは「たんくうのり」、つうきょうでは「ふたんくうのり」、またべつきょうでは「たんちゅうのり」というように、ぶぶん、ぶぶんがとかれたのである。
 このようなさんたいをば「かくりゃくのさんたい」といい、ほけきょうでとくさんたいは、かんぜんむけつであり、さんたいはそくいちたいであり、いちたいはそくさんたいであり、えんゆうそうそくしているので、これを「えんゆうのさんたい」となづけるのである。いま、このかんけいを、あえてずしすれば、つぎのようになる。

          ┌─くう  ┐
     ┌─くう┼─け    ┼─そくくう┐
     │    └─ちゅう┘       │
     │    ┌─くう  ┐       │
  しょほう  け ┼─け    ┼─そくけ ┼─じっそう
     │    └─ちゅう┘       │
     │    ┌─くう ┐     │
     └─ちゅう─け  ┼そくちゅう┘
          └─ちゅう┘


 にちじゅんしょうにんは、このえんゆうのさんたいについて、つぎのようにしめされている。
 「くう・け・ちゅうのさんたいはおのおのまた、さんたいをぐすとして、そうそくをとくのであります。すなわちさんそくいち、いちそくさんといい、ふじゅう、ふおうといって、たてやよこにならぶのではないというのであります。もし、くうといえば、いっさいがそのままくう、けといえばいっさいがそのままけであるということであります。それをそくくう、そくけ、そくちゅうともうすのであります」
 「このえんゆうのさんたいはりろんてきにせつめいし、あるいはなっとくしようとすることは、ひじょうにこんなんであるので、ひう、ひくう、やくう、やくくうとか、またひゃくひといって、うにあらず、くうにあらず、ひうにあらず、ひくうにあらずとして、ひゃくのあらずをつけてもいいあらわせないなどといい、くうにあらず、けにあらず、ちゅうにあらず、そくくう、そくけ、そくちゅうなどともうして、ふかしぎきょうというのであります」
 すなわち、えんゆうのさんたいとは、せいめいにおいて、またしんらばんしょうにおいて、くう・け・ちゅうのさんたいが、こんぜんいったいとなっているじょうたいであり、かつそれらが、ぼうばくとしているのではなく、げんぜんたるくうけちゅうの、さんたいのそれぞれのすがたがあることをいうのである。
 されば、ほけきょうのてつりにねざした、くうたいは、たんなる、くうたいのみにあらずして、け・ちゅうの、にたいをほうがんした、いみのくうたいであり、けたいもまた、くう・ちゅうの、にたいをほうがんしたいみでの、けたいである。したがって、みょうほうのちゅうたい、ちゅうどうもまた、たんなるちゅうたいのみのちゅうたい、ちゅうどうのみのちゅうどうではなくして、そこにくうたいも、けたいもほうがんし、しかも、それをつらぬくせいめいのほんしつであり、ほんたいであることはあきらかである。

 つぎに、くうけちゅうのさんたいと、ほっぽうおうのさんじんのかんけいをめいかくにしておきたい。
 さんたいとさんじんとは、てつりのうえから、にんしきろんのうえからいえば、まったくどうぎとかんがえてよい。だが、こうふくろんのうえから、しゅじょうとほとけにやくしてろんずれば、さんたいはしゅじょうにやくし、さんじんとはぶっしんにやくすのである。
 さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく、「しゅじょうにあるときには、これをさんたいといい、ぶっかをじょうずるときには、これをさんじんという、いちぶつのいみょうなり」(0573-07)と。
 われわれのせいめいは、ほんらい、くうけちゅうのさんたいをぐびしている。だが、ぶっかをじょうずるときは、くうたいはそのままほうしんに、けたいはそのままおうじんに、またちゅうたいはそのままほっしんにとてんずるのである。
 このときは、われわれのせいめいそれじたいが、ぶっかいにてらされた、みょうほうのちからづよい、しょうじょうむくなとうたい、ほっしんとなり、われわれのごたいはいきいきとやくどうし、またかつどうはみょうほうのふるまい、ほとけのふるまいとなり、しぜんにだいうちゅうのリズムにがっちするおうじんとなり、われわれのしんちゅうは、たくましいぶっちがゆげんし、じだい、しゃかい、じんせいのしんじつのじっそうをみとおすほうしんとなり、あやまりなくゆう々ゆうたる、おうごんのじんせいこうろをあゆむことになる。
 ここに、われわれが、だいごほんぞんをしんじ、じぎょうけたにわたるぶつどうしゅぎょうにはげむゆえんがある。われらがしんりき、ぎょうりきにはげむならば、われらしゅじょうのくうけちゅうのさんたいが、だいごほんぞんのぶつりき、ほうりきにより、もったいなくも、じしんむささんじんにょらいとあらわれるのである。
 つぎにさんたいのとかれたいぎについてかんがえてみたい。
 さんたいとは、さきにのべたごとく、せいめいのしんじつのすがたをときあかしたものである。まさに、このてつりこそ、もっとも、とうようてつがくのこんかんをなすものであり、げんだいてつがく、げんだいかがくをも、ゆうゆうとみおろし、リードしていく、ちからづよいりろんたいけいである。
 せいようてつがくは、そのあしもとにもおよぶところではない。たとえば「くう」というがいねんのひとつをとりあげても、それはじつにふかきないようをもつことは、これまでのせつめいでも、りょうかいできよう。いっぱんのてつがくにおいては「う」と「む」のがいねんいじょうすすんでいない。ただ、ぶっぽうにおいてのみ、あるといえばない、ないといえばあるという、うむをけっすることのできないうちゅうしんらばんしょう、せいめいのとくしつが、かんぜんむけつにとかれているのである。かがくのぶんやにおいても、かってしんくうというのは、まったくくうきょな、なにものもないこととされてきた。だが、こんにちでは、かがくのはったつにより、しんくうはむではない。そこにはむすうのそりゅうしがつまっているとか、むすうのりきせんがあるとうとしゅちょうされるにいたっており、ほとけのとくくうかんをしょうみょうしつつあるすがたがみられる。
 なにも「くう」のみではない。「け」というかんがえかたも、またいだいなるたっけんである。あらゆるものが、しゅんかんしゅんかん、へんかしている。いっじょうのものはなにひとつない。たとえそりゅうしのごときびしょうのせかいであろうと、だいうちゅうにかがやくむすうのほしであろうと、ぎんがけいうちゅうであろうと、そのた、うちゅうのしんらばんしょうのことごとくがへんかし、しょうろうびょうし、しょうじゅういめつのそうをしめしている。
 だがおどろくことなかれ、このようなことがわかってきたのは、かがくしじょう、ついさいきんのことにすぎない。だが、ぶっぽうにおいては、さんぜんねんまえにそのほんしつをたっかんしていたのである。
 いわんや、ぶっぽうのちゅうたい、みょうほうのちゅうどうにおいては、たのてつがくのそうぞうをぜっするところである。しかも、ふしぎとこんにちにいたって、てつがくも、せいじ、けいざいも、いな、ぜんぶんめいがちゅうどうしゅぎのほうこうにむかいつつあることはとくひつすべきである。もし、ぶっぽうのさんたいをこんていにしていくならば、どれはどのすばらしいぶんめい、ぶんかがさきほこることであろうか。
 これとかんれんして、さんたいとげんだいのしはいてきなてつがくとのかんけいにふれておきたい。
 げんだいのしはいてきなしそう、てつがくとしてあげられるものは、ゆいしんしゅぎ、ゆいぶつしゅぎ、じつぞんしゅぎであろう。
 ごくがいりゃくてきに、これらのしそう、てつがくと、ぶっぽうでとくくうけちゅうのさんたいのげんりとをひかくそうたいしてみるならば、ゆいしんしゅぎは、くうたいのいちぶぶん、ゆいぶつしゅぎはけたいのいちぶぶん、そしてじつぞんしゅぎは、ちゅうたいのいちぶぶんを、きわめてひょうめんてきにといたにすぎないといえよう。しかも、かれらのさんたいはべつ々べつであり、あくまでもかくりゃくのさんたいであるにぜんきょうのいきをでぬものである。
 これらをすべてほうがんしたかんぜんむけつのてつりこそ、みょうほうのえんゆうのさんたいであることをきょうちょうしたい。
 こんにちまで、ゆいぶつしゅぎも、ゆいしんしゅぎもけっしてじんるいをこうふくにすることはできなかった。むしろ、たいりつこうそうにしゅうしし、にんげんせいをきずつけ、よくあつして、こんにちまできたといえまいか。しかも、げんじつとみらいにのしかかるじゅうだいなききにたいして、まったくむりょくかしているのが、ありのままのすがたであろう。じつぞんしゅぎとて、こんにち、みんしゅうのささえとなるべきちからあるてつがくとはなっていない。ただかんねんのくうてんをくりかえしているにすぎない。これ、てつがくのひくきゆえであり、ぶぶんをもってぜんたいとこんどうするへんけんのゆえである。
 いままさに、これらのしそう、てつがくを、さらにこうじげんよりしどうし、とういつしうるだいしそう、だいてつがくのしゅつげんすべきときである。
 すなわち、これらのぶぶんかんのしょてつがくの、せかいてきるふは、かんぜんむけつのだいぶっぽうのるふすべき、じょぶんであったとじっかんするものである。
 しょせん、えんゆうのさんたいとは、まっぽうにおいて、なんみょうほうれんげきょうである。
おんぎくでんにいわく「このえんゆうのさんたいはなにものぞいわゆるなんみょうほうれんげきょうこれなり」(0717-09)と。
 なんみょうほうれんげきょうのなかにいっさいがほうがんされる。
  だいうちゅうのさんたいも、しんらばんしょうのさんたいも、われらのせいめいのさんたいもそのほんげんはなんみょうほうれんげきょうであり、そのいっぽうがほうがんされる。これこそしんじつのえんゆうのさんたいである。
 しかも、なんみょうほうれんげきょうは、このさんたいを、もっともつよく、しょうじょうにかがやかしていくほんげんりきであり、そくほっぽうおうのさんじんとてんかんせしめるほったいである。されば、だいごほんぞんにむかい、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、うちゅうのじっそうを、なんらへんぱなく、ありのままにみていけることはもとより、じねんにわがみのさんたいそくむさのさんじんのかくたいとあらわれ、さいこうかちをしょうじていくことを、かさねてつよくしゅちょうしてやまない。

かいしつのにじ、まんぎょうまんぜん、しょはらみつをぐそくしたる、だいろうやくたるなんみょうほうれんげきょうなり。

 「しだいろうやく、しきこうみみかいしつぐそく」のきょうもんの、かいしつのにじは、さんぜじっぽうの、しょぶつのまんぎょうまんぜん、ろくどまんぎょうが、ことごとくなんみょうほうれんげきょうの、いっぽうにぐそくしていることをあらわしている、とのもんいである。
 これは、だいごほんぞんの、いだいなるくりきをとかれた、おんふみである。つぎの「されば、だいもくのごじにいっぽうとして、ぐそくせずということなし、もしふくするものは、そくじょくのうなり」とは、じゅじそくかんじんを、おおせられたものである。
 「ふくするというは、じゅじのぎ」であり、もしふくするものは「そくじょくのう」であるとは、かんじんである。
 すなわち、だいごほんぞんには、さんぜじっぽうのしょぶつの、まんぎょうまんぜん、ろくどまんぎょうがぐそくされており、まっぽうのわれらぼんぷは、すこしもりゃくこうしゅぎょうをつむひつようはなく、ただ、だいごほんぞんをじゅじすることによってのみ、わがせいめいに、これらのまんぎょうまんぜん、ろくどまんぎょうが、じねんにそなわり、わがみが、くるしみにそくばくされぬこんごうふえの、ぶっしんとあらわれる。これが、そくじょくのうであり、そくまっぽうのかんじんにほかならない。
 じゅじそくかんじんのじゅじとは、しんりき、ぎょうりきであり、だいごほんぞんをゆいいつむにとしんじ、じぎょうけたにわたるじっせんにつとめることである。かんじんとは、わがみじっかいごぐ、じのいちねんさんぜんのとうたいとかくちしていくことである。これ、ぶつりき、ほうりきのいたすこうのうである。
 きょうぎょうしょうごしょにいわく、「このほけきょうのほんもんのかんじん、みょうほうれんげきょうは、さんぜのしょぶつのまんぎょうまんぜんの、くどくをあつめてごじとなせり、このごじのうちに、あにまんかいのくどくをおさめざらんや、ただし、このぐそくのみょうかいは、いちどもってのち、ぎょうじゃやぶらんとすれどやぶれず、これをこんごうほうきかいとやもうしけん、なんどたつべし、さんぜのしょぶつは、このかいをたもって、ほっしん、ほうしん、おうじんなんど、いずれもむしむしゅうのほとけにならせたまふ」(1282-10)と。
 きょうぎょうしょうごしょのおんふみは、だいごほんぞんに、まんぎょうまんぜん、まんかいのくどくがぐそくしていることをおおせであり、かんじんほんぞんしょうのおんふみはじゅじそくかんじんをおおせられたのである。
 およそ、われわれがじゅじそくかんじんをじょうずることができるのは、だいごほんぞんがいだいであるからにほかならぬ。ほったいにちからがなければ、それだけしゅぎょうははんざつとなり、しかもちょうきにわたる。したがって、みんしゅうからゆうりし、いちぶのひとびとのぶっぽうとならざるをえない。
 かんじんほんぞんしょうにおいては、ただしくじゅじそくかんじんがあかされるまえに、ほんぞんのとくようがあかされている。
 それについて、にちかんしょうにんは、かんじんほんぞんしょうもんだんに、「およそとうけのかんじんは、これじりきのかんじんにあらず、まさにほんぞんのとくゆうによってそくかんじんのぎをじょうず、ゆえにもしほんぞんのとくゆうをあかさざればそのかんじんのそう、もっともあらわしかたきにあり、ゆえに、まずほんぞんのとくゆうをしめして、のちにかんじんのそうをあかすなり」とおおせられている。
 だいごほんぞんは、さんぜしょぶつののうしょうのこんげんであり、いっさいのほとけのまんぎょうまんぜんを、ことごとくそなえたほったいであられる。ゆえに、われわれがだいごほんぞんをじゅじしたてまつるとき、すみやかにかんじんをじょうずることができるのである。
 にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、みんしゅうのぶっぽうであり、ぜんみんしゅうをいっさいすくいきるだいびゃくほうである。したがって、そのほったいは、いかなるふこうのひとびとをもぜったいにこうふくにしきる、だいくりきをそなえておられるのである。また、そのしゅぎょうも、とうぜん、あらゆるひとびとが、せいかつのなかで、ごくしぜんにおこなえるものとなっているのである。
 こらい、ぶつどうしゅぎょうとしょうして、みんしゅうのむちにつけこみ、きわめてひにんげんてきな、ひじょうしきなこうどうを、しいる、しゅうはがおこなわれてきたが、これ、ほったいにちからなきしょうこであり、あたえていえば、しゃかぶっぽうのありゅうであり、うばっていえば、さんあくどう、しあくどうへの、しゅぎょうなりとだんずるものである。
 ちかくにだいしょうほうがありながら、ひとびとはそれをしらず、いたずらに、これらのあみのなかにとらわれているすがたは、まことにあわれといういがいにない。
 ひるがえって、われらがこれらのおんぎくでん、ほんぞんしょうのおんふみをはいするとき、こうだいむへんのくどくをそなえられただいごほんぞんをじゅじしえたわがみのだいふくうんを、つよくかんずるのである。まことに「むじょうほうじゅふぐじとく」とさけばざるをえない。しかんだいごじょうにいわく「こうじょうにほねをこなにし、せつれいにみをとうず、またなんぞもってとくにほうずるにたらん」と。まただいいちじょうにいわく「じょうたいはひがしにこい、ぜんざいはみなみにもとめ、やくおうはてをやき、ふみょうはこうべをはぬ。いちにちにみたび、ごうがしゃにみをすつるとも、なおいちくのちからに、ほうずるあたわず。いわんやりょうかたにかぶすること、ひゃくせんまんこうすとも、いずくんぞぶっぽうのおんにむくいんをや」と。だいごほんぞんのくどくはぜつだいであり、そのぶつおんのすべてにむくいることはふかのうである。ただ、このみをこうせんるふじつげんにささげ、だいしょうにんのごゆいめいのたっせいにぜんりょくをつくすことこそ、しんじつのほうおんのいちぶんであると、しんちゅうくふかおもいをいたすべきである。


 しきこうとうとは、いちしきいちこう、むひちゅうどうにして、そうもくじょうぶつなり。
 いちしきいちこう、むひちゅうどうとは、てんだいのしかんのことばであり、そうもくじょうぶつをのべたものである。
 いちしきについては、そうもくじょうぶつぐけつに「このいちしきとはごしきのなかにはいずれのいろぞや、あお、き、あか、しろ、くろのごしきをいちしきとしゃくせり」(1339-02)とあり、ひとつのいろといういみではなく、いろぜんたい、すなわち、あらゆるいろをさしているのである。およそ、いちしきいちこうのいちとは、すうりょうのいちではなく、ぜんほうそく、ぜんうちゅう、ちゅうどうほっしょうのふしぎなるじったい、い
ちねんのせいめいとうのいみの、いちである。
おんぎくでんじょうにいわく、「もんぐのよんにいわく、いちはすなわちいちじっそうなりごにあらず、さんにあらず、ななにあらず、きゅうにあらず、ゆえにいちというなり」(0716-だいさんゆいいいちだいじいんねんのこと-01)と。また、どうくでんにいわく「いちとはみょうなり」(0716-だいさんゆいいいちだいじいんねんのこと-06)さらに、どうくでんにいわく「いちとはちゅうたい」(0717-だいさんゆいいいちだいじいんねんのこと-09)また「いちとはいちねん」(0717-だいさんゆいいいちだいじいんねんのこと-12)と。
 したがって、さきにいんようのそうもくじょうぶつぐけつには、さらに「いちとはほっしょうなり、ここをもってみょうらくはしきこうちゅうどうとしゃくせり、てんだいだいしもむひちゅうどうといへり、いちしきいちこうのいちはにさんそうたいのいちにはあらざるなり、ちゅうどうほっしょうをさしていちというなり、しょせん、じっかい、さんぜん、えしょうとうをそなへずということなし」(1339-03)とおおせられているのである。
 それでは、ちゅうどうほっしょうとはなにか、これについては、みょうらくだいしは、ぐけつに「いちしきいちこうも、ちゅうどうにあらざることなしとは、ちゅうどうそくほうかい、ほうかいそくしかん、しかんふにきょうちみょういち、なり」と、しゃくしているごとく、ちゅうどうほっしょうというのである。いちねんさんぜんほうもんには、ひゃくかいは、けたい、せんにょはくうたい、さんぜんせけんは、ちゅうたいであり、ちゅうどうであるととかれている。
 つぎに、しきもこうもともにそうもくをいみする。しじょうきんごしゃかぶつくようじには「そうもくせけんともうすはごしきのゑのぐはそうもくなりがぞうこれよりおこる、きともうすはもくぞうこれよりしゅつたいす」(1145-01)と、おおせのごとく、しきはそうもくである。すなわち、あらゆるしきはそうもくからちゅうしゅつするがゆえに、しきをもって、そうもくをあらわすのである。また、こうも、こうぼくというがごとく、そうもくをあらわしている。
 いじょうのことをそうごうすれば「いちしきいちこうもちゅうどうにあらざることなし」とは、そうもくにも、じっかいさんぜん、えしょうがことごとくぐそくし、じょうぶつすることができることをいみするのである。
 おなじくそうもくじょうぶつぐけつにいわく「このしきこうはそうもくじょうぶつなりこれすなわちれんげのじょうぶつなり、しきこうとれんげとはことばは、かはれどもそうもくじょうぶつのことなり、ぐけつにいわく「そうにももくにもなるほとけなり」うんぬん」(1339-05)と。
 このそうもくじょうぶつは、いちねんさんぜんのてつりによりはじめてあかされるのであり、ごんきょうにしゅうするものにはきょうてんどうちのほうもんであった。このゆえに、みょうらくだいしは、ぐけつに「しかるにまたともにしきこうちゅうどうをゆるすむじょうぶっしょうわくにきょうしんす」とのべているのである。
 まっぽうにはいって、そうもくじょうぶつのじったいは、にちれんだいしょうにんこんりゅうのだいごほんぞんである。しょせん、そうもくじょうぶつのてつりも、まっぽうしゅつげんのごほんぞんのしょうみょうのためであり、じょぶんであった。
 かさねてそうもくじょうぶつぐけつの、もんをひくならば、ここにだいしょうにんは、げんぜんと、「いちねんさんぜんのほうもんを、ふりすすぎたてたるは、だいまんだらなり、とうせいのならいそこないのがくしゃ、ゆめにもしらざるほうもんなり、てんだい、みょうらく、でんぎょう、うちには、かんがみさせたまへども、ひろめたまはず、いちしきいちこうと、ののしり、わくにきょうしんとささやきたまいて、みょうほうれんげきょうというべきを、えんとんしかんと、かへさせたまいき」(1339-13)とおおせられているのである。
 されば、だいごほんぞんのしゅつげんなくば、いちしきいちこうむひちゅうどうとして、そうもくじょうぶつをあかしたことも、まったくいみをなさない。だいごほんぞんこそ、いちしきいちこうむひちゅうどうのぐげんであり、とうたいそのものである。
 もんちゅう「とうせいのならいそこないのがくしゃゆめにもしらざるほうもんなり」とは、げんだいにもあてはまるつうれつなるはしゃくではないか。だいごほんぞんのいだいなるくりきをしろうともせずして、ぶっぽうをしたりがおをしてろんずるものは、たとえだいがくしゃといえども、「ならいそこないのがくしゃ」であり、かれらにぶっぽうのじんのんなてつりがわかろうはずがない。
 だいごほんぞんは、もったいなくも、かみであり、そうもくである。だが、じのいちねんさんぜんのとうたいであり、ごほんぶつのせいめいそれじたいである。
 だいごほんぞんにおめしたたのおんもじは、おそれおおくも、これすべて、にちれんだいしょうにんのぜんせいめいであられる。
 てんだいのしゃくにいわく、「いちいちもんもんこれしんぶつ」と。しょしゅうもんどうしょうにいわく。「もんじはこれいっさいしゅじょうのしんぼうのあらわれたるすがたなりさればひとのかけるものをもってそのひとのこころねをしつてそうすることあり、およそこころとしきほうとはふにのほうにてあるあいだかきたるものをもって そのひとのひんぷくをもそうするなり、 しかればもんじはこれいっさいしゅじょうのしきしんふにのすがたなり 」(0380-12)と。しかるきかざるものをもって、そのひとのひんぷくをもそうするなり、しかればもんじはこれいっさいしゅじょうのしきしんふにのすがたなり」と。しかして、きょうおうどのごへんじにいわく、「にちれんが、たましいをすみにそめながして、かきてそうろうぞ、しんじさせたまえほとけのみこころは、ほけきょうなりにちれんがたましひは、なんみょうほうれんげきょうに、すぎたるはなし」(1124-12)と。
 したがって、だいごほんぞんを、たんにかみにじがかいてあるていどに、けいはくにかんがえているとすれば、それはだいほうぼうである。そこに、にちれんだいしょうにんがおいでになるおもいで、つよきしんじんにたち、しんけんなしょうだいにはげむべきである。
 にちかんしょうにんのかんじんほんぞんしょうもんだんじょうにいわく「いまあんちしたてまつるところのごほんぞんのぜんたい、ほんぬむさのいちねんさんぜんのしょうしんのみほとけなり、つつしんでもんじおよびもくがとおもうことなかれ」と。またどうもんだんげにいわく「いまいわくみょうほうごじのふくろのうちにくおんがんじょのじじゅゆうしんそくいちねんさんぜんのたまをつつむなり」「とうみょうほうごじのそのたいなにものぞや、いわくいちねんさんぜんのほんぞんこれなり、いちねんさんぜんのほんぞんそのたいなにものぞや、いわくれんそしょうにんこれなり」と。








  • [251]
  • おんぎくでんこうぎ げだいなな、わくしつほんしん、わくふしっしゃのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月18日(水)02時04分14秒
 
おんぎくでんこうぎ げ だいなな、わくしつほんしん、わくふしっしゃのこと。

つうげ。
じゅりょうほんだいじゅうろくの、「あるいは、ほんしんをうしなえる、あるいはうしなわざるものあり」、のもんについて、おんぎくでんにいわく。
 ほんしんをうしなうとは、ほうぼうをおかすことである。ほんしんとは、かこにおいてほとけよりうけたじょうぶつのこんぽんのげしゅである。ふしん、すなわちうしなわないとは、ほけきょうのぎょうじゃのことである。にちれんだいしょうにんは、くおんがんじょいらい、なんみょうほうれんげきょうの、ごとうたいであり、そのおふるまいであり、いささかもほんしんも、うしなっておられない。
うしなうというのは、もともとあったほんげんのもの、すなわちなんみょうほうれんげきょうをうしなうことである。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるのは、ほんしんをうしなわないのである。

こうぎ。
 ほんしんとは、しょせん、なんみょうほうれんげきょうである。みょうほうこそ、わがせいめいのしほうであり、しんじんなきものは、いたずらに、これをすてさってしまっているのである。ほんしんをうしなったものは、もはや、むゆうびょうしゃどうぜんであり、かじをうしなったふねが、ながれのままうごいていくのとおなじである。
 また、ほんしんとは、しんじんしたわれわれにとっては、こうせんるふをじつげんしていく、ほんらいのこころであり、しめいである。いかに、みは、しんじんしたようにみえても、そのほんしんをうしなえば、だいしょうにんのでしではない。
 せんのろくにいわく「もとのしょじゅをわするゆえにしっしんという」と。
 ほんのしょじゅとは、くおんがんじょのげしゅである。またにょらいのつかいとしてのしめいであり、みょうほうこうふのじゅきである。
 いずこにあっても、いかなるときも、われらは、このほんしんをうしなってはならない。じゅんえんこうふのときであるこんにち、みょうほうしんじゅのひとが、せいじのぶたいであれ、けいざいのぶたいであれ、きょういく、げいじゅつとうのぶんかのぶたいであれ、かつやくしていくのはとうぜんのことである。だが、つねに、ほんしんは、ごほんぞんにあり、しんじんにあり、こうせんるふになくてはならない。それなくば、まさにきょうもんのごとく、ほんしんをうしなったものといわざるをえない。
 ほんしんがなにであるかによって、そのひとのいっさいがきまる。いっしょうがい、みょうほうのほんしんをつらぬくひとこそ、そのじんせいをさいこうにかざりゆくことをだんげんするものである。









  • [250]
  • おんぎくでんこうぎ げ   だいご、にゃくぶつ、くじゅうおせ、はくとくしにん、ふしゅぜんこん

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月16日(月)02時17分24秒
 
おんぎくでんこうぎ げ。
だいご、にゃくぶつ、くじゅうおせ、はくとくしにん、ふしゅぜんこん、びんぐげせん、とんじゃくごよく、にゅうおおくそう、もんけんもうちゅうのこと。

  じゅりょうほんだいじゅうろくの「もしほとけ、ひさしく、よにじゅうせば、はくとくのひとはぜんこんをうえず、びんぐげせんにして、ごよくにとんじゃくし、おくそうもんけんのあみのなかにはいりなん」のもんについて、おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 このきょうもんは、ほとけがよにひさしくじゅうしたまうと、はくとくのひとは、ほとけをかつごうするこころをわすれ、ぜんこんをふえることができなくなってしまう。しかして、これをもうけんもうちゅうときょうもんにとかれたのである。しょせん、このはくとくとは、しゃかざいせにしょうほうをきくことなく、またしんじゅすることなく、そのためとくだつもえられなかったしゅじょうが、いま、めつごまっぽうにおいて、このにほんこくにうまれてきたのである。いわゆるねんぶつ、ぜん、しんごんのほうぼうのものをいうのである。
 きょうもんのふしゅぜんこんとは、まっぽうこんじにおいてはだいもくである。またふしゅとは、いまだごほんぞんをたもち、だいもくをとなえないものをいうのである。おくそうとは、ねんぶつしゅうにおいてはほうねんがじょうどのさんぶきょういがいのほけきょうをはじめとするいっさいのしょきょうをすてよ、とじよ、さしおけ、なげうてとじゃぎをとなえたのも、しんごんしゅうにおいてはこうぼうが、ほけきょうはだいにちきょうにそうたいすれば、だいさんのれつであるとひぼうしたのも、まさしくこのおくそうにあたるのである。
 もうけんもうちゅうのもうとは、これらのごんきょうほうべんのもうごのきょうきょうをいうのである。けんとはじゃけんをいう。すなわちほっけさいだいいちであることがきょうもんにめいはくであるにもかかわらず、これをだいさんのれつとみるのが、まさにじゃけんなのである。いま、にちれんだいしょうにんおよびもんかのでしだんなが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるのは、このようなもうけんのきょう、もうちゅうのいえをはなれたものとだんずることができるのである。

ほとけ・よにくじゅうしたまわばはくとくのひとはぜんこんをうゆべからず。

 ほとけがもしひさしくこのせかいにじゅうしていれば、はくとくのひとは、ほとけがおいでになることのありがたさをわすれ、かつごうのこころ、れんぼのこころをうしなってしまい、かえってぜんこんをうえることはできない。とのこころである。はくとくのひととは、とんじんちのさんどくにおじょくされた、まっぽうのしゅじょうのことである。ほとけとは、まっぽうにやくしてにちれんだいしょうにんであらせられる。
 にちれんだいしょうにんは、まっぽうのぜんみんしゅうのこうふくをねがい、りっしょうあんこくのじつげんのために、こっかかんぎょうをなされた。さんどのこっかんは、あまりにもゆうめいである。だが、とうじのにほんのひとびとは、はくとくのゆえに、にちれんだいしょうにんをごほんぶつとしらず、かえって、ひなんし、はくがいをくわえた。なかんずく、へいのさえもんのじょうをはじめとするばくふのようろしゃは、じゃしゅうのそうとうのざんげんをもちい、だいしょうにんをなきものにしようと、あらゆるきょにでたのせある。むろん、だいしょうにんのいわおのごとき、ごほんぶつのきょうちを、はかいすることのできぬことはいうまでもない。
 だいしょうにんは、にんのうきょうの「しょうにんさるときしちなんかならずおこらん」のもんとうをひいて、しせいあるこっかんをさいごまでつづけられた。
 だが、ばくふは、だいしょうにんのさいごのこっかんまでふみにじったのである。まさしくもうけんもうちゅうのくるおしい、おろかしいすがたであった。だいしょうにんは「さんどいさめてもちいずんばくにをさる」といわれ、みのぶさんにこもられたのである。
 これは、だいしょうにんが、あきらめられたのではない、むしろ、ほとけがさり、とうじのしゅじょうをしてかつごうのこころをおこさしめんとし、かつは、りょうぼうくじゅうのために、でしのようせいにあたられようとしたからであるとおもう。したがって、にっこうしょうにんをはじめとするおでしかたには、しゃくぶくぐきょうを、たえずしどうされたのである。しかし、ついにばくふは、くいあらためることなく、だいしょうにんめつご51ねんにして、ひさんなまつろをとげた。そのご、だいしょうほうは、にほんにげんぜんとありながら、けっしてぜんみんしゅうのもちいるところとはならず、ひたすらこうせんるふのときをまったのである。
 かくして、にほんは、みぞうのはいせんをあじわい、そこからたちあがったものの、せんご20すうねんにして、さらにじゅうだいななんかんにつきあたっているのがげんじょうである。さらに、かつて、にほんをぶたいにしておこった、じかいほんぎゃくのなん、たこくしんぴつのなんは、せかいをぶたいに、いたるところにおこり、あまつさえ、じんるいめつぼうのききにさらされている。そのほか、じんるいがかかえたしんこくなくのうは、いっさいにわたり、ひつぜつにつくしがたい、いままさに、このちきゅうじょうに、へいおんなとちは、いずこをさがしてもありえない。
 このにほんのひとびとも、せかいのひとびとの、しんこくなくこそ、そのせいめいのていりゅうは、ほとけをかつごうし、れんぼしているじっそうであるとしんずる。だがおのれのへんけんにとらわれ、じんせいかん、しゃかいかんにまよい、そのめいもうのあみからぬけだせないために、ただあがくのみで、なんらのかいけつのほうともみいだせないのである。まことに「もうけんもうちゅう」のおんふみのとおりである。
 ここにそうかがっかいのしゅつげんのいぎがある。かんじんのほんぞんしょうにいわく「いまの、けんしげんごうは、ぢゆなり、ぜこうろうやくとはじゅりょうほんのかんようたる、みょうたいしゅうようきょうの、なんみょうほうれんげきょうこれなり」(0251-09)と。まさにそうかがっかいこそ、みんしゅうのかつごう、じだいのようきゅうにおうじてゆげんした、けんしげんごうたるじゆうのつどいであり、ひとびとのもうけんのあみをじひのりけんでたち、しんじつのこうふくとへいわをじつげんするみょうほうのしとであると、ふかくこころにめいきし、おのれがしめいにふるいたたざるをえないのである。
ぜんこんはだいもくなりふしゅとはいまだもたざるものなり
 まっぽうにおけるさいだいのぜんこんは、だいもくなのである。しかも、そのだいもくは、さんだいひほうしょうに「まっぽうに、はいって、いまにちれんがとなえるところのだいもくは、ぜんだいにことなり、じぎょうけたにわたりて、なんみょうほうれんげきょうなり」(1022-14)とおおせのごとく、しょうだいとしゃくぶくぎょうとをともにふくむのである。ぜんこんとは、じこにたいしても、たにんにたいしても、さいこうのこうふくをもたらすこんげんのこころである。すなわち、こうふくのしゅし、くどくのげんせんにほかならない。ひ々びたゆまず、ごんぎょうしょうだいとしゃくぶくぎょうにはげんでいくならば、そうぞうもできぬだいふくうんが、しおのみちつるがごとく、せいめいにそなわってくるのはとうぜん、それがしゃかいにたいしさいだいにこうけんするみちとなることをしらねばならない。
 また、しんじんよりはっするいっさいのかつどうはことごとくぜんこんとなる。いっしょうじょうぶつしょうにいわく、「ほとけのなをとなへ、きょうかんをよみ、はなをちらし、こうをひねるまでも、みな、わがいちねんにおさめたる、くどくぜんこんなりとしんじんをとるべきなり」(0383-14)と。すなわち、こんにちにおいてはだいごほんぞんをしんじ、ごんぎょうしょうだい、しゃくぶくぎょうにはげみ、こうせんるふを、それぞれのたちばにあってすいしんするひとの、いっきょしゅいちとうそくは、ことごとくいちねんにおさめたるくどくぜんこんとなっていくことを、ふかくしんずべきである。
「ふしゅとはいまだもたざるものなり」とは、だいごほんぞんをもたないひとには、こうふくのしゅしは、そなわららいとのこころである。したがって、だいごほんぞんをたもたないひとの、せいかつ、またじんせいは、さばくのごとくふもうなのである。ぎゃくに、しんじんしたひとの、せいかつ、じんせいは、せいめいにこうふくのしゅしがまかれたのであり、それがやがてこうふくのたいぼくとなり、ふくうんのはをおいしげらせ、くどくのはなをさかせていくことはぜったいにまちがいない。


  • [249]
  • おんぎくでんこうぎ げ。 だいよん、にょらいにょじつちけん、さんがいしそうむうしょうじのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月15日(日)03時05分6秒
 
   おんぎくでんこうぎ げ。
   だいよん、にょらいにょじつちけん、さんがいしそうむうしょうじのこと。

 つうげ。
じゅりょうほんだいじゅうろくの、「にょらいは、にょじつに、さんがいのそうをちけんす、しょうじの、もしはたい、もしはしゅつ、あることなく、またざいせ、およびめつどのものなし」のもんについておんぎくでんにいわく。
 にょらいにょじつちけんの、「にょらい」とは、けっして、しきそうそうごんのりそうじんかくをさすのではなく、このよくかい、しきかい、むしきかいのさんがいにじゅうする、まよいのしゅじょうたる、われらぼんぷのことである。
だがこのさんがいのしゅじょうたる、われらぼんぷのみが、ないしょうのじゅりょうほんたる、だいごほんぞんを、しんずるならばすなわちしんじんのまなこをひらくならば、われらしゅじょうの、せいまえいそれじたい、もとよりじごくかいよりぶっかいにいたるまでの、じっかいをぐびし、えいえんにつづきゆくせいめいの、とうたいであると、ありのままのじぶんをちけんしていけるのである。
 さんがいのそうというのは、しょうろうびょうしのしくをいう。それがほんぬのしょうじであるとみたとき、すなわちだいごほんぞんをじゅじし、えいえんのせいめいをかくちしていくならば、それがむうしょうじとなるのである。そうあればしょうじもなければ、たいしゅつもない。
 しかも、ただしょうじがないだけではない。しょうじをみて、それをおんりし、おそれるのをまよいといい、しかくというのである。しょせん、だいごほんぞんをしんぜず、だいもくをとなえないものに、ただしい、うちゅうかん、せいめいかんがわかるどうりがなく、あさはかな、こんぜろんにしゅうちゃくするのである。
さて、ほんぬのしょうじ、すなわちえいえんのせいめいであると、じかくすることをさとりといい、またみずからのせいめいのほんしつを、しったほんかくであるといえるのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかがなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときに、ほんぬのしょうじ、ほんぬのたいしゅつとかいかくし、みょうほうにてらされたしょうじのにほうをえいえんにくりかえしていくことができるのある、これすなわちしんのさとりであり、ほんかくなのである。
 またいわく、
 むうしょうじにゃくたいにゃくしゅつとうときょうもんにあるが、むもうも、しょうもしも、にゃくたいもにゃくしゅつも、またざいせもめつごもことごとくほんぬじょうじゅうのふるまいなのである。すなわちくおんいらい、じょうじゅうしてきたせいめいのほんしつにそなわるほんらい、ほんねんのすがたであり、はたらきなのである。
 さらにむうしょうじの「む」とは、ほうかいすなわちうちゅうのしんらばんしょうことごとくどうじにみょうほうれんげきょうのふるまいいがいのなにものでもない。またむうしょうじの「う」とは、じごくはじごくのありのまま、がきはがき、ちくしょうはちくしょうのまま、じっかいをもともとぐしており、それじたい、みょうほうのぜんたいである。
 むうしょうじの「しょう」とは、みょうほうそれじたい、くおんよりじょうじゅうするものであり、そのみょうほうをこんていとしたしょうであるから、いまはじめてしょうじたものではない。もともとあるものがねんにふれてあらわれたものである。むうしょうじの「し」とは、じゅりょうのし、すなわちえいえんのせいめいのたちばからみたしであるから、だいうちゅうにみょうぶくし、だいうちゅうそれじたいとなり、そこになんのさべつもない。ほうかいどうじにみょうほうそれじたいなのである。それは「もしはたい」のゆえにめつごすなわちしとなり、「もしはしゅつ」のゆえにざいせすなわちしょうとなるのであって、しりぞくかしゅつげんするかのちがいにすぎない。
 されば、むしたいめつすなわち、うにたいし、む、しょうにたいし、し、しゅつにたいし、たい、ざいせにたいしめつごは、くうけちゅうのさんたいよりろんずれば、くうたいとなる。
だいうちゅうにみょうぶくしているからである。
うしょうしゅつざい、すなわちむにたいして、う、しにたいして、しょう、たいにたいして、しゅつ、めつごにたいしざいせは、えんにふれて、めにみえるすがたとしてあらわれてきたものであるからけたいである。
うしょうしゅつざいにかたよらず、むしたいめつにかたよらず、しかもうしょうしゅつざい、むしたいめつをほうがんして、ありのままにせいめいのじっそうをみていくにょらいにょじつはちゅうどうである。
 これをむささんじんにょらいのしんにろんずるならば、むしたいめつはむさのほうしんであり、うしょうしゅつざいはむさのおうじんであり、にょらいにょじつはむさのほっしんである。このさんじんはくおんがんじょのじじゅゆうしんにょらいのいっしんにそなわるものである。てんだいがもんぐのきゅうに「いっしんそくさんじんなるをなずけてひとなす」とのべたのも、じつはこのことをいみしているのである。おなじく「さんじんそくいっしんなるをなずけてみつとなす」とあるのも、やはりこのことをいみするのである。
 しからば、むさのさんじんのとうたいのれんげのほとけとは、なんみょうほうれんげきょうにょらいたるにちれんだいしょうにんのことであり、またなんみょうほうれんげきょうととなえるにちれんだいしょうにんのもんかも、そうじてはこれにふくまれるのである。

 こうぎ。
 このこうは、せいめいろんのきわめてじゅうような、ふかきてつりをとかれたところであり、このもんをふかくしんぷにそめるべきであるとおもう。ぶっぽうのいだいなるてつりは、ここにきゅうきょくされるといってもかごんではない。


にょらいにょじつちけん。

 にょらいは、ありのままにただしく、じんせい、しゃかい、うちゅうのしんじつのすがたをみておられるとのこころである。
 いま、せかいをおおきく、にぶんしているしそうは、ゆいぶつ、ゆいしんの、にだいしそうである。これは、ともに、かたよったしそうであり、このいっぽうをもってぜったいとするかんがえかたが、じだいをおおきくこんらんとはめつのほうこうにおいやっていることは、めいはくである。むろん、ゆいぶつ、ゆいしんのりょうしそうだけではない。せかいには、さまざまなにんげんかん、じんせいかん、しゃかいかん、じだいかんがあり、それらがたがいにさくそうしている。
しゅうきょうにいたっては、さらにたしゅたようである。
しかしながら、それらのしそう、てつがくが、たとえぶぶんてきにはちがったないようをもっていても、ぶぶんかんであるがゆえに、それをげんじつにじっせんかしたばあいには、ゆがみをしょうずることはとうぜんである。しかるに、おのおのじこのしそうにしゅうちゃくしてへんきょうとなり、せかいをこんらんにおとしいれていることはざんねんでならない。
 いま、せけんで、がくしゃとしょうせられているひとたちのなかには、せんもんてきには、するどい、ふかいどうさつがんをもったひともいるであろう。
だが、これらぶんかされたがくもんのこんていにあるにんげんのもんだい、じんせいのもんだい、ぜんたいてきな、しゃかい、じだいのはあくについては、きわめてきんしがんてきであるてんがしてきされよう。
 にんげんせいめいをはじめ、いっさいのばんしょうについて、ありのままにただしくとらえ、そのほうりをかんぺきにときあかしたのがぶっぽうである。
しきしんふにといい、えいえんのせいめいてつりといい、えしょうふにといい、そのた、ぶっぽうてつりはことごとく、にょらいにょじつちけんのほうりである。 われわれが、しんに、ただしく、じんせい、しゃかい、じだいをかくちしていくためには、いっさいをにょじつちけんされるほとけのせっぽうをしんずるいがいにない。このしんじんにじゅうしたときに、われわれのじんせいも、にょらいにょじつちけんのじんせいとあらわれることをかくしんすべきである。

さんがいについて。
 さんがいとは、いうまでもなく、よっかい、しきかい、むしきかいである。よっかいとはよくぼうのせかいであり、しきかいとはぶっしつのせかいであり、むしきかいとは、よくぼうやぶっしつをはなれたせかいである。せいしんのせかいとかんがえることもできる。
 いちおう、ぶつきょうてんでは、さんがいのたてわけを、つぎのようにたてる。
すなわち、じごくかい、がきかい、ちくしょうかい、しゅらかい、にんげんかい、およびてんじょうかいのなかの、ろくよくてんが、よっかいにぞくする。
ろくよくてんとは、しおうてん、とうりてん、やまてん、とそつてん、けらくてん、たけじざいてんのろくてんである。
 このうち、しおうてんは、しゅみせんのちゅうふくにある、ゆかだせんのよっつのみねにある。ひがしはじこくてん、みなみはぞうちょうてん、にしはこうもくてん、きたはたもんてんである。
とうりてんはしゅみせんのいただきにあって、さんじゅうさんてんにわかれ、そのなかのたいしゃくてんはきけんじょうにいて、たのさんじゅうにてんをとうりょうするという。やまてんいじょうは、くうちゅうにあるので、これをくうごてんといい、さきのにてんをちごてんという。
よっかいのさいじょうにあるたけじざいてんにじゅうするのが、だいろくてんのまおうである。
 そのうえに、しきかいのじゅうひちてんがやまてんがあるとされる。いちおう、なまえをあげれば、だいいちじょうりょしょに、ぼんしゅてん、ぼんぷてん、だいぼんてん、だいに、じょうりょしょにしょうこうてん、むりょうこうてん、きょくこうじょうてん、だいさんじょうりょしょに、しょうじょうてん、むりょうじょうてん、へんじょうてん、だいよんじょうりょしょに、むうんてん、ふくしょうてん、こうかてん、むぼんてん、むねつてん、ぜんけんてん、ぜんげんてん、しきくきょうてんである。このさいごのしきくきょうてんを、うちょうてんともいう。
 いじょうが、よくぼうのせかい、ぶっしつのせかいであるが、これをはなれたむしきかいというせかいには、つぎのししょがあげられている。
すなわち、くうむへんしょ、しきむへんしょ、むしょゆうしょ、ひそう、ひひそうしょのよっつである。
 このようにさんがいとは、こだいインドのしゅみせんをちゅうしんとしたせかいかんをもちいた、うちゅうかんであることは、いうまでもない。
すなわち、これを、げんだいのてんもんがくの、ちしきにあてはめてかんがえるならば、じごくよりにんげんかいまで、われわれのせいかつをしはいするものを、よっかいとなし、てんかいのうち、たいよう、つき、あるいは、ひかくてきちきゅうにちかいてんたいは、われわれのせいかつに、ちょくせつに、またかんせつにかんけいあるところから、よっかいのはんちゅうに、おさめたとおもわれる。
さらにそのうえのせかいは、もはやわれわれのよくぼうとは、なんらかんけいのない、ただそんざいするというだけの、せかいであり、これをよくかいのほかにある、しきかいとしたとおもわれる。
 さらに、よっかい、しきかいだけではなく、むしきかいというせかいかんをかんがえたことは、いだいなるたっけんといわざるをえない。しかも、くうむへんしょといったことばがしめすごとく、だいうちゅうにはてしなくひろがる、うむをけっすることのできぬ、くうのせかい、あるいはしきむへんしょのことばのしめすごとく、ぶっしつのこんげんにまでさかのぼり、そのせかいをそうていしている。あるいは、むしょゆうしょ、ひそう、ひひそうしょのごとく、われわれのそうぞうをはるかにこえた、だいうちゅうのふしぎなるせかいをもかんがえているのである。
 バラモンのげどうにおいては、このひそうひひそうしょをきわめることをさいこうのさとりとしたが、ぶっぽうではこれらのさんがいは、いまなお、ろくどうのまよいのぼんぷのせかいであり、これいがいにせいじゃのさとりのせかいがあるとした。
すなわち、さんじょうのほうべんど、ぼさつのじっぽうど、ほとけのじゃっこうどとそれぞれのせかいがとかれたのである。
 しかも、これらは、いまだにぜんごんきょうのせつめいほうであって、しんじつのものではない。しんじつのだいぶっぽうは、これらのさんがいも、ほうべんど、じっぽうど、ほとけのじゃっこうども、すべて、われわれのいちねんのなかにあるとといている。あるいは、さんがいをはなれて、ほうべんども、じっぽうども、じゃっこうどもない。このわれわれのじゅうするさんがいをそくじゃっこうどとするげんりとじっせんのほうとをしめしたものである。
 さんがいとは、全宇宙と考えることが出来るし、それは即個人にも縮図される。

 こじんにやくしていえば、かんじんのほんぞんしょうにいわく、
 「いかるるはじごく、むさぼるはがき、おろかはちくしょう、てんごくなるはしゅら、よろこぶはてん、たいらかなるはにんなり」(0241-07)と。すなわち、さんがいろくどうは、ことごとく、われわれのせいめいのなかにあり、せいかつにすべて、あることをしるのである。
 このうち、てんかいは、われわれのよろこびのせいめいであり、せいかつであるが、これに、よっかい、しきかい、むしきかいのたてわけがあるとは、ぐたいてきには、いかなることか。
 ろくよくてんは、ぶっしつてきよくぼうがじゅうそくし、よろこぶじょうたいである。いしょくじゅうのまんぞくかんはこれにあたるであろうか。
しきかいのじゅうひちてんは、うつくしいこうけいにみとれて、こうこつとしているじょうたいとか、さんちょうにのぼり、ぞくせけんをはなれたようなよろこびにひたるのはこれにあたろう。
むしきかいのししょとは、たとえばなんかいな、すうじのもんだいがとけた、じっけんがせいこうした。
ろんぶんがかんせいしたとうのせいしんてきなよろこびにひたるのがこれにあたるともいえよう。
 また、がくもん、てつがくもまた、うちゅう、しゃかい、じんせいとうの、それぞれのたいしょうとのかんれんのうえから、おおきくさんがいにたてわけてろんずることができる。
すなわち、せいじがく、けいざいがく、しゃかいがくなどのしゃかいかがく、およびしんりがくなどのじんぶんかがくは、よっかいをたいしょうとしたがくもんといえる。
ぶつりがく、てんもんがくとうのしぜんかがくのたいしょうは、しきかいとたてることができよう。
また、こうかんのてつがくのおおくは、とくにゆいしんろんてきなてつがくはむしきかいのたいしょうとしたものということができる。
しかし、これらのがくもん、てつがくとうは、それぞれさんがいのいちぶぶんを、さらにさいぶんかしてのぞいているにすぎない。
 このうちゅうのじっそうを、にょじつにちけんできぬゆえに、げんだいのふこうにあることは、ぜんじゅつのとおりである。わたしは、いっさいのがくもん、てつがくも、しんににょじつちけんのしょうほうをこんていにおいてこそ、はじめてそれぞれのいちもめいかくとなり、じんるいしゃかいに、さいこうにいかされることをしんじてやまない。
 また、さんがいのそうをにょじつにちけんするとは、じんせい、しゃかいのしょもんだいをあやまりなくみつめ、ただしくたいしょしていくということである。よくぼうにのみしはいされたじんせいは、くのうのれんぞくとなり、また、おろかしい、ひさんなあらそいのせかいになってしまう。いっぽう、かんねんてきなことをのべ、こうしょうぶっていても、げんじつのもんだいはかいけつできないし、ひとをなっとくさせ、しどうすることもできない。
 ただしいじんせいかん、せかいかんにたって、みずからのじんせいをいき、ひと々びともしどうしきってこそ、こじんのこうふくも、せかいのへいわ、しゃかいのはんえいもじつげんできるのである。
 このさんがいのそうを、にょじつにちけんされる、だいちえしゃこそほとけであり、そのちえのとうたいを、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんは、ごほんぞんとしてげんぜんと、のこされたのだ。わたしは、みんしゅうも、しどうしゃも、このほとけのちえをいただいてさんがいのそうをにょじつにちけんしていくならば、せかいをこうふくへ、こうふくへとみちびいていけることはぜったいであるとしんずるものである。


ほんぬじょうじゅうのせいめいかん。
 ほんぬじょうじゅうのせいめいてつりは、じゅりょうほんのごくいであり、それなくしてはじゅりょうほんの、かちはまったくない。のみならず、いちだいせいきょうは、ほうまつにひとしい、にちれんだいしょうにんは、このほんぬじょうじゅうのてつりを、さらにふかくかんぺきにとかれ、みずからほんぬじょうじゅうのふるまいをしめされ、いっさいしゅじょうに、しんじつのこうふくのみちを、ひらかれたのである。
 ほんぬとは、われらせいめいは、だれからつくられたものでもない。
たとえばかみによってつくられたというものではない。また、しょうをうけて、はじめて、たんじょうしたものでもない。もともと、このだいうちゅうとともに、げんぜんとあったのだということである。
じょうじゅうとは、そのせいめいは、だいうちゅうとともに、えいえんにつづいているということであり、むしむしゅうであり、しかもだんぞくてきではなく、つねにこのだいうちゅうにあるということである。
 これはなんしんなんげちゅうの、なんしんなんげのてつりである。われわれのせいめいを、たんにへんかのめんのみに、ちゃくもくするならば、たしかに、ういてんぺんのむじょうのそうであり、しねばむであり、えいきゅうにふたたび、このよにしゅつげんすることはないとおもうのも、とうぜんのことであろう。
ゆえに、よのひとびとのほとんどは、げんせしゅぎかんにおちいり、ほんぬじょうじゅうのせいめいかんをしんじようとしないのである。
 だが、とうようのだいじょうぶっぽうのしんずいは、たんにへんかのせかい、けうのせかいだけでなく、そのおくにあるじょうじゅうのせかいをとききわめたのであった。
 ごしょにいわく「ちかきげんしょうをひいてとおきしんをとるべし」(1045-03)と。
 ほんぬじょうじゅうのせいめいてつりは、ほとけのないしょうのさとりであり、これをただちにりかいし、しんずることはできないかもしれない。だが、このほんぬじょうじゅうのせいめいかんをこつずいとするだいぶっぽうを、じっせんすることによって、げんじつに、いだいなるくどくのじっしょうのあることをもって、そのこんかんたるほんぬじょうじゅうのせいめいてつりをしんずべきである。
 いま、ふたたびほんぶんのいっせつをいんようしつつ、ほんぬじょうじゅうのせいめいてつりをろんじていきたい。
 おんぎくでんにいわく「にょらいとは、さんがいのしゅじょうなり、このしゅじょうをじゅりょうほんのまなこあけてみれば、じっかいほんぬとじつのごとくちけんせり」。
 「にょらい」とは、もっともしょうじょうな、ちからづよい、なにものにもさゆうされない、こんごうふえのほとけのせいめいである。それは、どこかのべっせかいにあるのではなく、われらしゅじょうのせいめいそれじたいである。とおおせである。われらのせいめいは、ほんらい、ぶっかいをないほうせるそんごくなるとうたいである。だが、せいめいのるてんのうえにせんぽうがくんじ、むみょうのくもが、ぶっかいをおおいかくし、さんあくどう、しあくしゅにおちこみ、そこがさながらじゅうしょとなってしまっているのである。
 しかしながら「じゅりょうほんのまなこあけてみれば」すなわち、ないしょうのじゅりょうほんのまなこがひらかれ、だいごほんぞんへのゆいいつむにのしんじんにじゅうしたときに、わがせいめいは、ほんらい、じっかいごぐのとうたいであり、そんごくむじょうのぶっかいのせいめいがあったことを、このごたいのうえにかくちしていくことができる。じじつのうえに、しんじつのこうふくきょうにじゅうし、ないおうよりしょうじょうむぜんな、ちからづよいせいめいのやくどうがあり、さいこうのかちそうぞうのじんせいをあゆんでいくことができる。
 ここにおしめしのごとく、わがせいめいがほんぬであるとともに、じっかいもほんぬである。じごくかいよりぶっかいにいたるまで、だれびとといえども、ほんらい、これをそなえていることをしらねばならぬ。
 これらのじっかいのせいめいかつどうは、つねにえんにふれてあらわれてくる。もともとあるがゆえにあらわれてくるのであり、むからうをしょうずるわけがない。
 じごくかいのびとが、つぎのしゅんかん、てんかいのせいめい、かつどう、すがたへとかわったとする。だが、それはげんみつにいえば、かわったのではない。まったくおなじとうたいでありながら、えんにふれててんかいがあらわれたにすぎない。
 げんじつのくのうにさいなまれ、ひびもんもんとしてたのしまざるひとに、このだいせいめいりょくたるぶっかいがないほうされているとは、おもいもおよばぬことかもしれない。だが、じじつは、いっさいしゅじょうに、ぶっかいのせいめいは、ほんぬのものとしてじょうじゅうしているのである。
 これをじじつのうえに、けんげんしていくには、わがとうたいをうつしだして、くもりなきめいきょうたる、じのいちねんさんぜんのだいごほんぞんによるいがいにないのである。
 「さんがいしそうとは、しょうろうびょうしなり、ほんぬのしょうじとみれば、むうしょうじなり、しょうじなければ、たいしゅつもなし。ただ、しょうじなきにあらざざるなり、しょうじをみておんりするを、まよいといい、しかくというなりさて、ほんぬのしょうじとちけんするを、さとるといい、ほんかくというなり、いまにちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるときほんぬのしょうじ、ほんぬのたいしゅつとかいかくするなり」。
 「さんがいのそう」とはしょうろうびょうしである。すなわち、ういてんぺんのむじょうのそうである。しょうろうびょうしのなかでもっともじゅうようなもんだいは、しょうとじである。したがって、しょうろうびょうしもしょうじのにほうにしゅうやくされる。だが、このしょうじもまた、ほんぬのものである、とおおせられているのである。いちおう、せいめいそれじたいをかんがえれば、せいめいは、しょうじたりめっしたりすることはなく、えいえんにじょうじゅうするものである。
さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく、「しょうと、しと、ふたつのりは、しょうじのゆめの、りなり、もうそうなり、てんどうなり、ほんかくのうつつをもって、わがしんしょうをただせば、しょうずべきはじめもなきがゆえに、しすべきおわりもなし。すでにしょうじをはなれたる、しんぽうにあらずや、ごうかにもやけず、すいさいにもくちず、つるぎかたなにもきられず、きゅうせんにもいられず、けしのなかにはいるれども、けしもひろからず、しんぽうもちぢまらず、こくうのなかにみつれども、こくうもひろからずしんぼうもせまからず」(0563-07)と。
 ここにしんぽうとは、せいめいのほんしつであり、せいめいそれじたいにほかならない。このせいめいそのものは、だいうちゅうとともにじょうじゅうするものであり、しょうずべきはじめも、しすべきおわりもない。しょうじをはなれたそんざいであり、したがって、ごうかにもやけることなく、すいさいにもくちることなく、つるぎかたなにもきられず、きゅうせんにもいられるものではない。けしつぶのようなきょくしょうのもののなかにいれても、けしつぶがひろがったり、しんぽうがせますぎることもないとのおんふみである。すなわち、ひろいとかせまいとか、おおきいとかちいさいとかいうそうたいてきなものではないということで、せいめいのふかしぎをおおせられたものである。
 しかし、これは、せいめいのほんしつ、せいめいそのものについていったものであり、しょうじにとらわれ、ほんぬじょうじゅうのせいめいをしらないものにたいするまなこをひらかしめるためのおんふみである。さいおう、しょうもしもほんぬじょうじゅうのものであり、しょうは、ほんぬのしょう、しもまたほんぬのしである。
 しゃくそんは、しを「ほうべんげんねはん」ととき、しょうのためのほうべんであるとしたのである。これまたしんじつであり、いきいきとしたせいめいのやくどうのためにほうべんとしていったんしぬというのもいだいなたっけんである。しかし、だいしょうにんは、さらにふかく、ほんぬのしょうじをとき、しょうもしも、ほんらい、ほんぬのものであり、せいめいのほんしつにそなわるはたらきであるととかれたのである。せいめいは、しょうじをはなれて、ほかにあるものではない。せいめいのじょうじゅうとともに、せいめいのほんしつにそなわるはたらきとしてじょうじゅうしてきたのである。したがって、せいめいは、あるときはしょうのすがたをとってああわれ、あるときはしのすがたをとってあらわれ、えいえんにつづきゆくとうたいなのである。にちれんだいしょうにんが、ぼうじきょうのことにおいて、ときにちじょうの、ははがなくなったことにたいして、「しょうじのりを、しめさんがために」(0977-09)とのべられたのは、この、ほんぬのしょうじのふかきてつりのうえから、おおせられたものであるとおもう。
 また、ほんぬのしょうじを、しんじんにやくしていえば、えいえんのせいめいをかくちしたうえでのしょうじであり、だいごほんぞんをしんじたもののしょうじである。
おんぎくでんげに、「じしんほつしょうのだいちを、しょうじしょうじとめぐりいくなりうんぬん」(0742-だいはちゆいういちもんのこと)とあるのは、このほんぬのしょうじをおおせられたものである。ほっしょうのだいちとは、みょうほうのだいちであり、こうふくのだいちである。しょうじのにほうは、だいびゃくごしゃのしゃりんのごとくである。えいえんにこうふくなせかいにおいて、しょうじのにほうをくりかえしていけるのである。
 しんじんなきひとびとのしょうじは、ろくどうりんねのしょうじであり、まよいのしょうじであり、ふこうのしょうじである。ゆえに、つねに、ふこうのちまたを、しょうじしょうじとめぐりゆくいがいにない。
 だいごほんぞんをしんじたものは、つねにこうふくのだいちにじゅうしたいっしょうをおくり、それがまたえいえんにつづいていくことを、しみじみとじっかんし、かくしんしきっていけるのである。ゆえに、ほんぶんに「いまにちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるとき、ほんぬのしょうじ、ほんぬのたいしゅつとかいかくするなり」とおおせられたのである。
 しょうじのにほうは、たんに、いわゆるしょうとしだけをいみするのではない。しゅんかんしゅんかんのせいめいかつどうが、また、そのまましょうじのにほうなのである。さきのじごくかいとてんかいのれいでいえば、じごくかいのせいめいであったひとが、つぎのしゅんかん、てんかいのせいめいへとてんずれば、じごくのしであり、てんかいのしょうである。わがせいめいはじっかいごぐのとうたいであり、しかもそのじっかいは、つねにしゅんかんしゅんかんに、えんにふれてしょうじのにほうをくりかえしているのである。
 しかして、このしゅんかんしゅんかんのせいめいかつどうにやくして、ほんぬのしょうじをろんずるならば、くおんがんじょのたいほうたる、だいごほんぞんをしんじゅしたせいかつこそ、ほんぬのしょうじであり、こうふくのしょうじである。
 しょうじいちだいじ、けちみゃくしょうにいわく、「みょうはし、ほうはしょうなり、このしょうじのにほうが、じっかいのとうたいなり。またこれをとうたいれんげともいうなり、でんぎょうだいしいわく、「まさにしるべし、えしょうのいんがはことごとくこれ、れんげのほうなり」とうんぬん。このしゃくに、えしょうというはしょうじなり、しょうじこれあれば、いんがまたれんげのほうなることあきらけし、でんぎょうだいしいわく、「しょうじのにほうは、いっしんのみょうゆう、うむのにどうは、ほんかくのしんとく」ともん。てんちおんようにちがつ、ごせい、じごく、ないしぶっか、しょうじのにほうにあらずということなし、これくのごとくしょうじもただみょうほうれんげきょうのしょうじなり 、てんだいのしかんにいわく 「きはこれほっしょうのき、めつはこれほっしょうのめつ」うんぬん」(1336-)と。
 このもんに、じっかいのせいめいことごとくしょうじのにほうであることはめいはくである。しかもそのしょうじのにほうはいっしんのみょうゆうなのである。また、しょうはき、しはめつであり、ほっしょうのき、ほっしょうのめつこそしんじつのきめつのすがたなのである。
 すなわち、だいごほんぞんをしんずる、そのしんじんのいっしんにより、じざいにしょうじのかつどうをしていくことができる。いっさいのかつどうを、こうふくのほうこうへ、はんえいのほうこうへとむかわしめることができる。すなわち、しんじつのこうふくのきめつをおこなっていくことができることをだんげんされているのである。
 しんじんなくば、しんじつのこうふくのしょうじ、きめつはない。つねにさんあくどう、しあくしゅのしょうじ、きめつのるてんのなかに、ぼつにゅうし、そのだくりゅうにながされていくのみである。しんじんごうじょうに、じぎそうおうのぶつどうしゅぎょうにはげむひとこそ、ぶっかいにてらされ、このじんせいを、じざいにらんぶし、えいえんのこうふくをひらいていくひとであることをつよくしんずべきである。


むしたいめつはくうなり、うしょうしゅつざいは、けなり、にょらいにょじつは、ちゅうどうなり。
 しょうじのにほうと、さんたいのかんけいについて、のべられたおんふみである。
 「むしたいめつ」、すなわち、うにたいしてむ、しょうにたいしてし、しゅつにたいしてたい、ざいせにたいしてめつごは、くうけちゅうのさんたいより、ろんずればくうたいである。
 くうとは、うとも、むとも、こていすることのできない、うむのにどういがいの、みょうぶくしたじょうたいで、しかもえんにふれて、げんぜんとあらわれ、たと、しきべつしえるようになるふしぎなじつざいである。しごのせいめいは、だいうちゅうにみょうぶくしているから、くうたいである。おんぎくでんじょうに、「じゅうざいくうちゅうとは、われらしゅじょうおわりに、めつにきすることなり」(0740-だいご、けんだいほうとうじゅうざいくうちゅうのこと)と、おおせられているのは、まさしく、われわれのしごのせいめいは、だいうちゅうにみょうぶくしていることを、しめされたものである。
 「うしょうしゅつざい」、すなわち、むにたいしてう、しにたいしてしょう、たいにたいしてしゅつ、めつごにたいしてざいせは、けたいである。しょうのせいめいはけたいである。けとは、いっさいのばんぽうが、おのおのかりにわごうしている、めにみえるすがたをいう。しょうのせいめいは、えんにふれてめにみえるすがたとしてあらわれ、しかもじじこっこくとかつどうし、しゅんじたりとも、とどまることがないからけたいである。
 うしょうしゅつざいにかたよらず、むしたいめつにかたよらず、しかも、うしょうしゅつざい、むしたいめつをほうがんした、せいめいのほんしつ、ありのままのせいめいのじっそうたる、にょらいにょじつは、ちゅうどうである。さきにそうかんもんしょうをひいて、せつめいした、「しょうじをはなれたるしんぽう」とは、ちゅうどうをいみしているわけである。このうしょうしゅつざい、むしたいめつ、にょらいにょじつの、ゆうごうこそ、まさにえんゆうのさんたいであり、しんじつのせいめいのじっそうをとききわめたものである。
 すなわち、ぜんじゅつのごとく、しょうもしもくおんいらい、じょうじゅうしてきたせいめいのほんしつにそなわる、ほんらい、ほんねんのすがた、はたらきであり、あるときはしょうのすがたとなってあらわれ、あるときはしのすがたとなってあらわれる。せいめいのほんしつは、しょうじにさゆうされないそんざい「しょうじをはなれたるしんぽう」・・・であるとともに、しょうじいがいにありえぬのが、せいめいのしんじつのじっそうである。
 また、しゅんかんのせいめいにやくしていえば、たとえば、そのひとのせいめいがじごくかいのじょうたいであれば、じごくかいは、うしょうしゅつざいであり、けたいである。たのきゅうかいは、むしたいめつであり、くうたいである。もしつぎのしゅんかん、てんかいがあらわれれば、てんかいは、いままでのくうたいであったのがけたいとなり、たのきゅうかいはむしたいめつであり、くうたいである。そのときは、いままでけたいであったじごくかいはとうぜん、くうたいとなっている。
 すなわち、わがしんしょうがみょうぶくしているじょうたいはくうたいであり、それがえんにふれてかつどうしてくるとき、それはけたいとなる。このじっかいのきめつをしているとうたいは、にょらいにょじつであり、ちゅうどうである。このわがとうたいが、だいごほんぞんにてらされた、ゆるぎなきみょうほうのとうたいとあらわれるとき、みょうほうのきめつとなり、くにそくばくされぬ、しんじつのこうふくきょうにいききることができるのである。
 このもんとかんれんし、つぎのいっしょうじょうぶつしょうのもんをかんがえてみたい。
 「そもそも、みょうとはなんというこころぞや、ただわがいちねんのこころ、ふしぎなるところを、みょうとはいうなり。ふしぎとは、こころもおよばずごもおよばず、ということなり、しかれば、すなはちおこるところのいちねんのこころを、たずねみればありといはんとすれば、いろもかたちもなし、またなしといはんとすれば、さまざまにこころおこるありとおもうべきにあらず、なしとおもうべきにもあらず、うむの、にのごもおよばず、うむのにのこころもおよばず、うむにあらずして、しかもうむにへんして、ちゅうどういちじつのみょうたいにして、ふしぎなるをみょうとはなずくるなり」(0384-06)
 このおんふみのありとなしは、おんぎくでんのうしょうしゅつざいのありとむしたいめつのむとおなじである。しからば、さきのおんぎくでんの、「むしたいめつは、くうなりうしょうしゅつは、けなり」のもんよりして、ありはけたい、むはくうたいである。
 ここにむとは、ぜったいむ、かんぜんむのこころではなく、くうたいのむたいともいうごとく、くうのぎである。おんぎくげにいわく、「くうはむのぎなり、ただし、このむは、だんむのむにあらず、そうそくのうえのくうなるところを、むといい、くうというなり」(0783-だいいち、むりょうぎきょうとくぎょうほん、だいいちのこと-01)と。せいようてつがくにおける、むとは、はるかにそのないようを、ことにすることをしるべきである。そして、いっしょうじょうぶつしょうの、「うむにあらずして、しかもうむにへんして、ちゅうどういちじつの、みょうたいにしてふしぎなるを、みょうとはなずくるなり」(0384-08)とは、ちゅうどうを、いみするのである。
 ぶっぽうは、さいこうに、かんぜんえんまんなるてつりである。しかも、そのてつりは、そくざにこうふくへと、ちょっけつしているのである。
 さらに、ほんぶんには、「むしたいめつはむさのほうしんなり、うしょうしゅつざいはむさのおうじんなり、にょらいにょじつは、むさのほっしんなり」と、おおせられている。すなわち、くうけちゅうのさんたいは、みょうほうのひかりにてらされて、そく、ほっぽうおうのさんじんとあらわれるのである。
 だいごほんぞんを、しんずるひとのせいめいそれじたいが、ぶっかいにてらされた、みょうほうのちからづよい、しょうじょうむくなとうたいとなり、またわれわれのせいめいかつどうは、そく、いきいきとしたみょうほうのふるまい、ほとけのふるまいとあらわれ、わがしんしょうもまた、ぶっちがじゅうまんし、えんにふれてかつどうのうえに、そのちえがげんぜんとあらわれてくるのである。また、みょうほうのとうたいとしていき、みょうほうのとうたいとしてじゃくにきし、えいえんにこうふくなるしょうじをつづけていくことができるのである。

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  • おんぎくでんこうぎ げ だいさん、がじつじょうぶついらい、むりょうむへんとうのこと

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月14日(土)03時03分9秒
 
  おんぎくでんこうぎ げ
だいさん、がじつじょうぶついらい、むりょうむへんとうのこと。

つうげ
じゅりょうほんだいじゅうろくの、「しかるにぜんなんし、われじつに、じょうぶつしてよりこのかた、むりょうむへんひゃくせんまんのくなゆたこうなり」の、もんについて、だいしょうにんのおんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 がじつとは、しゃくそんがしじょうしょうかくをやぶって、ごひゃくじんでんこうのむかしに、じょうどうしていたということが、とかれているのである。
しかしながら、とうほんのがんい、すなわちにちれんだいしょうにんの、ぶっぽうのたちばからこのもんをよむならば、このがというのは、ほうかいのいっさいのしゅじょう、すなわち、しんらばんしょうのじっかいのせいめいかつどう、ここのとうたいことごとくがというのである。
 じつとは、むささんじんのほとけであるとさだめるのである。これこそまことのじつであって、これいがいにきゅうきょくの、じつではないのである。
また、じょうとは、のうじょう、しょじょうのじょうということである。すなわちじょうとはひらくというぎである。ほうかいすなわちしんらばんしょう、ことごとくむささんじんのほとけであるとひらくのである。
ほとけとは、これをわがせいめいのうえに、かくちしていくことをいうのである。このかたのこのとはかこであり、かたとはみらいのことである。このかたのことばのなかにげんざいはふくまれるのである。
 ゆえに「がじつじょうぶついらい、むりょうむへん」のもんを、だいしょうにんの、ぶっぽうのたちばからよめば、「われじつにひらけたるほとけにして、いも、らいも、むりょうなり、むへんなり」と、なるのである。すなわち、ぼんぷのとうたい、ほんぬのままで、むささんじんのほとけであるとかくちし、それが、むしむしゅう、えいえんにつづいているとよむのである。
 また、このもんにはひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんがとかれている。
「むりょうむへん、ひゃくせんまんのくなゆたこうなり」の、ひゃくせんのにじは、ひゃくはひゃくかいをいみし、せんはせんにょをいみし、これはじのいちねんさんぜん、そくだいごほんぞんを、いみするのである。むささんじんのほとけは、にん、じのいちねんさんぜんが、ほうで、にんぽういっかを、あらわすのである。
 このように、じゅりょうほんのおうていは、まさしくにちれんだいしょうにんの、ぶっぽうにきちゃくしていくのである。されば、にちれんだいしょうにんこそ、じゅりょうほんのほんしゅ、すなわちじゅりょうもんていの、ほとけなのである。またそうじてなんみょうほうれんげきょうと、となえるだいしょうにんのもんかもまた、じゅりょうほんのほんしゅとあらわれるのである。
 したがって、ぜんたいをつうじて、しゃくけのぼさつは、ことごとくじゅりょうほんにてをつけ、あつかうことはできないものなのである。ただにちれんだいしょうにんのみがこのじゅりょうほんのしんいをしり、それをじじつのうえにあらわし、るふせしめているのである。
 すなわちなんがく、てんだいとうのしゃくけのぼさつは、しゃくもんをおもてとし、ほんもんをうらとして、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんをといたのであり、あくまでも、りである。だがにちれんだいしょうにんは、じゅりょうもんていの、どくいつほんもんをおもてとし、もんじょうのほけきょうを、ほんしゃくともに、うらとなしていくのである。
 このようにじゅりょうほんは、いだいであるとはいえ、これをしゃかぶっぽうとしてよむならば、けっしてまっぽうの、ぜんみんしゅうきゅうさいようほうとは、ならないのである。
そのりゆうは、このじゅりょうほんは、もんのとおりよむならば、ざいせのだっちゃくであり、ざいせのしゅじょうを、とくだつさせんがためにとかれた、きょうほうである。もはやそれは、まっぽうこんじのしゅじょうを、きゅうさいするちからはなく、ただ、だいもくのごじだけが、まっぽうのようほうであり、いっさいしゅじょうのこうふくのげしゅやくとなるのである。しかれば、ざいせはだつちゃくであり、めつごまっぽうは、げしゅである。よってげしゅぶっぽうたる、なんみょうほうれんげきょうをもって、こんぽんとするのである。

こうぎ
 「がじつじょうぶついらい、むりょうむへん」のもんは、いちおうは、インドのおうたんのしゃくそんの、くおんじつじょうどうをあらわすもんである。
 しかし、にちれんだいしょうにんは、このきょうもんをもって、もんじょうのしゃくそんのきょうちをのべようとは、もうとうされていない。このきょうもんをもちいて、ごじしんのくおんがんじょの、じょうどうをとかれるのである。
 したがって、ぼうとうに「がじつとは、しゃくそんのくおんじょうどうなりということを、とかれたり」と、まずいっぱんろんをあげ、つぎに「しかりといえども、とうほんのこころは」と、ないしょうのじゅりょうほんの、こころをとかれているわけである。
 なおさいごの、「しかもとうほんは、まっぽうのようほうにあらざるか、そのゆえはこのほんはざいせのだつちゃくなり、だいもくのごじばかりとうこんのげしゅなり、しかれば、ざいせはだつちゃく、めつごはげしゅなり、よってげしゅをもってまっぽうのせんとなすうんぬん」のもんは、しゅだつそうたいをめいかくにおおせられたものである。
 このおんふみを、はいするならば、いま、まっぽうにおいては、しゃかぶっぽうに、ちからなく、ただ、もんていげしゅのだいぶっぽうこそ、いっさいしゅじょうのかいじょうぶつどうの、ほうであることはりょうぜんとするのである。


 ほうかいのしゅじょうについて。

 まず、ほうかいについていえば、ほうとはしょほうであり、かいとはきょうかいのことである。おんぎくでんげにいわく、「ほうかいとはひろきにあらずせまきにあらずそうじてほうとは、しょほうなり、かいとはきょうかいなり」(0769、だい29ほうかい、らいはいじゅうしょのこと)と。すなわち、ほうとは、うちゅうのしんらばんしょうであり、かいとは、そのそれぞれがげんぜんと、ほかとくべつされ、どくじせいをつらぬいていることである。
 ほうべんぽんだいににいわく、「しょほうじっそう」と。みょうらくだいしは、このもんをしゃくしていわく、「じっそうはかならずしょほう、しょほうはかならずじゅうにょ、じゅうにょはかならずじっかい、じっかいはかならずしんど」と。
 じっそうといっても、しょほうをはなれてあるものではない。しょほうといっても、けっしてふとういつな、ばくぜんとしたものではなく、かならずじゅうにょ、じっかい、しんどを、ぐびすることをといた、きょうしゃくである。
キリストきょうとうでは、しょほうをはなれて、じっそうをもとめようとするかんがえかたである。だが、ぶっぽうではじっそうとは、しょほうのなかにあるととき、しかも、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、さんぜんせけんのたいけいをときあかしている。ぶっぽうは、かんねんのしゅうきょうではない。げんじつをけんおし、とうひする、ちからなきてつがくでもない。このうちゅう、しゃかい、じんせいをとうてつした、ぶつげんでしょうらんし、そこからしんのこうふくへの、ほうとをときあかした、だいしゅうきょうであり、だいてつりである。
 つぎにしゅじょうとは、じっかいをいみする。しゅじょうとは、こうぎにはほうかいのしゅじょう、すなわち、うちゅうしんらばんしょうのじっかいである。きょうぎには、うじょうかい、さらにはにんげんしゃかいをもいみする。また、ぶっかいにたいしてきゅうかいをしゅじょうといい、まよいのぼんぷをさすばあいもある。
 ここでは、こうぎにやくし、だいうちゅうのじっかいのせいめいを、さしているわけである。にんげんかいのじっかいはしんずるとしても、だいうちゅうのじっかいとは、まことになんしんなんげのほうである。
 だが、われわれのせいめいそれじたいは、だいうちゅうのしゅくずであり、にんげんかいにじっかいをぐすることをもって、だいうちゅうのじっかいもしんずべきである。しかして、そのじっかいはだいうちゅうにこんぜんいったいとなっているのである。じごくかいと、がきかいがかさなっているわけでもなければ、がきかいとしゅらかいがならんでいるわけでもない。ちょうどわれわれのせいめいのなかに、じっかいがこんぜんいったいとなり、そなわっているごとく、だいうちゅうという、いっこのだいせいめいに、じっかいがこんぜんいったいとなり、ぐそくしているのである。


じょうはひらくぎなり

 じょうぶつのじょうとは、ほとけになるということにほんぎがあるのではない。じしんのせいめいにあるぶっかいをひらいていくというのがしんいなのである。
 ほとけになるということは、ぼんぷのせいめいが、しだいにへんかしてほとけになっていくという、にぜんごんきょうのかんがえかたにつうずる。「ほとけなりとひらく」と、よむときは、ぼんぷのせいめいそれじたいに、ぶっかいをぐし、なんら、そのすがたをあらためず、ぶっかいをひらいていくことであり、これほけきょうのこころである。
 ぶっぽうのきゅうきょくのもくてきは、ぜんみんしゅうのないおうに、みょうぶくせる、ぶっかいをけんげんせしめ、こじんこじんのさいこうのこうふくを、じょうじゅするとともに、それをどだいとしてこうふくなしゃかいを、じつげんしていくことにほかならない。
 ぶっかいとは、しゃくそんいちだいごじゅうねんの、きょうせつに、あらゆるぜっさんのげんじをきわめてときあかした、もっともしょうじょうなちからづよい、こうふくにみちみちたきょうがいである。まっぽうこんじにおいて、ぶっかいとはべっしてだいごほんぞんである。だいごほんぞんに、しゃくそんもたほうも、じっぽうのしょぶつもことごとくほうがんされている。したがってだいごほんぞんをしんじて、しょうだいするとき、われわれもまたこしんのごほんぞんをひらき、あらわしていくことになるのである。
 にちにょごぜんごへんじに」いわく「このごほんぞんまったくよそにもとむることなかれ、ただわがれらしゅじょうのほけきょうをたもちてなんみょうほうれんげきょうととなうるきょうちゅうのにくだんにおはしますなり」(1244-09)と。
 こんにち、ひらくとはしんじんのことである。おんぎくでんじょうにいわく「ひらくとはしんじんのいみょうなり」(0716-だいさん、ゆいいちだいじ、いんねんのこと-09)と。
 しんじんこそ、いっさいのふくうんをひらき、わがせいめいをひらいて、うちゅうのしほうをけんげんしていく、ゆいいつのちからであるとかくしんすべきである。
 おもうに、ぶっぽうほど、ひとりひとりのにんげんせいめいのとうとさ、ひろさをといたものはない。
 19せいきのフランスのぶんごうビクトル、ユゴーは「たいかいよりもそうだいなものは、おおぞらである。おおぞらよりもなおそうだいなものは、ひとのこころである」とのべたといわれる。だいぶんごうの、ぶっぽうにつうずる、ひとつのさとりではなかろうか。
 だが、げんじつには、かんきょうにしばられ、しゅくめいにしばられ、へんきょうなひくつなこころとなっているひとがだいぶぶんである。しゅたいせいをうしない、うきくさのごとくしゃかいにふちんし、いける、しかばねのごとく、せいきをうしなっているひとがきわめておおい。まことになげかわしいかぎりである。
 これこそ、にんげんのそうだいなこころ、そうだいなるせいめいを、ひらいていく、いだいなるしゅうきょうが、ないからといいたい。
 たいかいよりも、おおぞらよりもそうだいなるにんげんのこころをかいはつしていくしゅうきょうとは、だいじょうぶっぽうのさいこうほうたるにちれんだいしょうにんのぶっぽういがいにない。
 きょだいなふつしつぶんめいのげんだいにあって、いまこそ、それをくしするにんげんをけいせいしていくことが、」なによりもじゅうようなかだいであるとしんずる。


 ほとけとは、これをかくちするをいうなり。

 ほとけとは、わがみが、むささんじんのとうたいであることを、かくちすることをいうのである。ほとけとしゅじょうとは、そのほんしつにおいて、ほうりのうえにおいて、なんらかわりない。ただ、かくちしたか、しないかのさいがあるのみである。
 かくちとはなにか、りろんてきに、わがみがほとけのとうたいであることを、なっとくすることをいうのであろうか。かんねんてきに、わがみがいちねんさんぜんのとうたいであることを、いしきすることをいうのであろうか。いな、いかに、りろんてきなっとくがあろうとも、かんねんてきいしきがあろうとも、それのみではかくちすることはできない。
 かくちとは、せいめいそれじたいの、かんとくのもんだいである。すなわち、せいめいそれじたいが、ぶっかいをかんずることをいうのである。
 とだぜんかいちょうは、ほとけのじひについて、「じひというものは、しゅぎょうではない。こうどうのなかに、こころのはたらきのなかに、むいしきにじねんに、はつげんすべきものであって、ほとけはいきていることじたいが、じひのじょうたいにいきるいがいに、みちをしらないものである」とのべている。
 これはじひについて、いったものであるが、ぶっかいのはたらきは、ことごとく、せいめいに、じねんにゆげんするものである。
 あふれるだいじひも、かがやかしきえいちも、やくどうするかんきも、たくましいせいめいりょくも、みな、せいめいそれじたいの、じっかんであり、けっしてかんねん、じょうのものではないのである。
 このかくちをえるじっせんしゅぎょうとして、てんだいけでは、かんねんかんぽうが、おこなわれたが、まっぽうにおいてはなんのちからもない。こんにちにおいては、しんじんこそかくちのげんせんである。いな、しんじんそれじたいがぶっかいであり、かくちにほかならないのである。


いとはかこなり、らいとはみらいなり、いらいのことばのなかに、げんざいはあるなり。

 かこ、みらいをはなれてげんざいはないとのおおせである。ぎゃくにいえば、げんざいというしゅんかんに、かことみらいがほうがんされているのである。かこもみらいも、じつざいではなく、ただげんざいのしゅんかんのみしんじつのじつざいであることはめいはくである。だが、このしゅんかんとおもったせつなは、ただちにかことなり、みらいのしゅんかんもまた、げんざいとなり、ただちにかこへとうつる。このしゅんかんは、うむをけっすることのできぬ「くう」のじつざいでもある。しかも、このしゅんかんに、こう、ふこうをかんじ、きどあいらくのじょうをかんずる。このしゅんかんにこそ、いっさいがふくまれる。したがって、げんざいのいっしゅんのせいめいがせいめいぜんたいである。

 だいじょうぶっぽうのしんずいたるにちれんだいしょうにんのぶっぽうは、このしゅんかんのせいめいをいちねんとし、このいちねんに、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、さんぜんせけんが、ひとつもかけることなく、げんぜんとられつしていることをあかしている。のみならず、いちねんにぶっかいをゆげんし、むしいらいのしゅくめいをてんかんし、ちからづよくみらいをきりひらいていくじっせんのほうとをときあかしているのである。
 しゃかぶっぽうはけっかをおもんじ、げんざいのすがたは、すべてかこのけっかであるとけっじょうしかこおん々のんごういらいのしゅくごうは、ぶつどうしゅぎょうをなんぜにもわたりつみかさね、しょうめつしていくいがいにないとしている。にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、かこがどうであったかよりも、げんざいのしゅんかんがだいじであるととく。いかにちょうおんのかこであろうとも、くおんがんじょにくらべればきのうのようなものである。しかして、にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、くおんがんじょのみょうほうであり、われらがだいごほんぞんをしんじゅしたてまつるとき、そく、くおんがんじょであり、いっさいのしゅくめいてんかんのほんげんにたちもどる。すなわち、ただいまがくおんがんじょであり、みらいへのちからづよいしゅっぱつとなる。なんみょうほうれんげきょうはだいうちゅうのへんかのほんげんりょくであり、わがこしんにみょうほうのゆげんがあるとき、すでにくおんがんじょいらいのほんぬじょうじゅうのせいめいのとうたいとあらわれ、いっさいをひらき、いっさいをかえ、しんじつ、こうふくにてりかがやくのである。どんなくなんのあらしも、どんなしょうまのどとうも、ほんぬじょうじゅうのこんごうふえのぶっしんとあらわれたるとうたいをはかいすることはできないのである。


しゃくひょうほんりと、ほんめんしゃくり。
 てんだいのぶっぽうは、しゃくひょうほんりであり、にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、ほんめんしゃくりである。
 てんだいは、いちねんさんぜんをとくにあたる、しゅつしょをほうべんぽんのじゅうにょじつそうのもんにもとめ、さんぜんのすうりょうをかんけつするために、ほんもんをもちいたのである。だが、あくまでもしゃくもんがぜんめんにだされ、ほんもんはひょうめんにだされなかった。てんだいは、しゃくもんのどうしであり、かつりのいちねんさんぜんをかんけつするところに、そのもくてきがあったからである。
 これにたいし、にちれんだいしょうにんは、ほんもんをおもてとし、しゃくもんをうらとして、ほうもんをたてられたのである。しかも、このほんもんとはどくいつほんもんであり、しゃくもんはもんじょうのほんしゃくともにしゃくとなるのである。
 しょもんりゅうでは、このほんめんしゃくりをほんもんじゅうよんほんをおもてとし、しゃくもんじゅうよんほんをうらとするというせつをたてるが、だいしょうにんのしんいをしらぬ、せんぱくなぎである。これについては、にちかんしょうにんのかんじんほんぞんしょうもんだんにくわしいので、そのもんをあげるにとどめておきたい。 「とう、しゅうもんの、ほんめんしゃくりのこころいかん、こたう、しょもんりゅうのこころは、かのしゃくひょうほんりをはんてんして、これをもちいるなりうんぬん。
もしとうりゅうのこころは、ほんしゃくのなは、はんてんしてこれをもちゆ、そのほんしゃくのたいは、ひしえいい、なり、いわく、かれはぜんじゅうよんほんを、しゃくめんとなし、のちのじゅうよんほんを、ほんりとなす、これはしゃくほんに、もんをつうじてしゃくりとなし、もんていげしゅのみょうほうを、ほんめんとなすなり。ゆえに、だいとうりょうけのこころ、てんちすいかなり、もんにいわく、いちねんさんぜんそのぎをつくすといえども、ただ、りぐをろんずとは、いま、めんひょうのしゃくほんをもってつうじて、しゃくもん、りのいちねんさんぜんとなずづく、ゆえに、たろんりぐというなり、これもんていげしゅの、ほんもんじのいちねんさんぜんに、のぞむるゆえなり、ちびょうしょうにいわく、『てんだいでんぎょうのおんときは、りなり、こんじはじなり、かれは、しゃくもんのいちねんさんぜん、これはほんもんのいちねんさんぜん、てんちはるかかにことなり』うんぬん、そくこのこころなり。
もんにいわく、じぎょうのなんみょうほうれんげきょうならびに、ほんもんのほんぞんとはすでに、めんりのしゃくほんに、もんをもってつうじて、ただろんりぐとなずづく、ゆえにしんぬ、もんていげしゅのみょうほうを、じぎょうのなんみょうほうれんげきょうといい、もんていげしゅのほんぞんを、ほんもんのほんぞんとなづくるなり」。
 なお、これとおなじないようが、さんじゅうひでんしょうの、「だいきゅうにしょうぞうみぐの、ゆえんをしめさば」に、あるので、さんしょうされたい。




  • [247]
  • おんぎくでんこうぎげ だいににょらいひみつじんつうしりきのこと

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月13日(金)02時32分15秒
 
だいににょらいひみつじんつうしりきのこと 753

 おんぎくでんにいわく、むささんじんのえもんなり、このもんにおいて、じゅうじゅうのそうでんこれあり、じんつうしりきとは、われらしゅじょうの、ささほつほつとふるまうところをじんずうというなり。
ごくそつのざいにんを、かしゃくするこえも、みなじんつうしりきなり、しょうじゅういめつの、しんらさんぜんのとうたいことごとく、じんつうしりきのたいなり、いまにちれんとうのたぐいのこころは、そくしんじょうぶつとかいかくするをにょらいひみつじんつうしりきとはいうなり。じょうぶつするよりほかのじんつうと、ひみつとはこれなきなり。
このむさのさんじんをば、いちじをもってえたり、いわゆるしんのいちじなり、よってきょうにいわく、「がとうとうしんじゅぶつご」と、しんじゅのにじに、こころをとどむべきなり。

つうげ
 みろくぼさつが、さんしょうしてやまず、にょらいのじょうたいのせっぽうを、ししょうしたので、ついにしゃくそんは、「なんだちあきらかにきけ、にょらいのひみつじんずうのちからを」とのべ、これよりたいほうをとくことを、つげるのである。
 この 「にょらいひみつじんつうしりき」のもんについて、おんぎくでんは、つぎのようにおおせである。
 このもんは、むさのさんじんのえもんである。このもんにおいて、じゅうじゅうのそうでんがある。「じんつうしりき」とは、われらしゅじょうが、しゅんかんしゅんかん、かつどうしていることじたい、じんずうといい、そのりきゆうがじんつうしりきなのである。したがって、ごくそつがざいにんを、かしゃくするこえも、みなじんつうしりきなのである。
さらに、しょうじ、じゅうし、へんかし、めっしていくしんらさんぜんのげんしょうのとうたいは、ことごとくじんつうしりきのほんたいなのである。
 だがこれは、にょらいひみつのじんつうしりきではない。にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかのがんいでいえば、そくしんじょうぶつと、かいかくすることをにょらいひみつじんつうしりきというのである。すなわち、なんみょうほうれんげきょうにょらいの、ひみつのじんつうしりきとなるのである。
じょうぶつすることいがいに、じんずうもひみつもありえないのである。このむさのさんじんを、かいかくしていくことは、いちじをもってえることができる。いわゆるしんのいちじである。ゆえにきょうに 「われらまさに、ほとけのみことをしんじゅしたてまつるべし」と。このしんじゅのにじに、こころをとどむべきである。

こうぎ
 せけんではじんずうのちからというと、なにか、かみがかりてきな、とくべつなちからとされている。だが、ぶっぽうほんらいのぎは、けっしてそのような、にんげんばなれしたちからをいみするものではない。
 むしろ、にちれんだいしょうにんは、このようなつうりきをば、しょうほっけだいもくしょうに、「りこんとつうりきとには、よるべからず」(0016-13)ときびしくいましめられている。
 じんずうのちからとは、ほんぶんに「われらしゅじょうの、ささほつほつとふるまうところをじんずうというなり、ごくそつのざいにんをかしゃくするこえもみなじんつうしりきなり。しょうじゅういめつのしんらさんぜんの、とうたいことごとく、じんつうしりきのたいなり」とあるごとく、われわれのせいめいのはたらき、ひろくいえば、せいめいぜんたいのりきゆうに、ほかならない。
 せいめいほどふしぎなものはなく、またいだいなものはない。そのはたらきもまた、ふしぎであり、いだいである。ずのうのはたらき、ごたいのはたらき、こころのはたらき、すべてじんずうのちからなのである。
 また、だいうちゅうにまなこをてんじても、しゃくねつのたいよう、せいしんのまたたき、ちきゅうのこうてん、じてん、またてんたいのしょうじゅういめつのしゅじゅそう、いずれもじんずうのちからにほかならない。
 だが、これらのじんずうのちからは、かならずしもぜんみんしゅうのこうふくに、つながるものではない。
ぶっぽうは、たんにしゅじょうのせいめい、ぜんうちゅうのとうたいの、りろんてきこうさつのみにしゅうしするものではない。そこから、いかにしてしゅじょうをこうふくにしていくか、そのげんりとじっせんをはっけんしたところに、ぶっぽうのいだいさがある。このたちばよりすれば、これまでのべたじんずうのちからは、ぶっぽうのほんしつでもなければ、きゅうきょくでもない。
 じゅりょうほんだいじゅうろくにとくところの、じんずうのちからは、にょらいひみつのじんずうのちからである。にょらいとは、ぜんこうとおなじく、なんみょうほうれんげきょうにょらいである。
ひみつとは、もんぐのかん、だいきゅうげに 「いっしんそくさんじんなるをなずけて、ひとなし、さんじんそくいっしんなるをなずけて、みつとなす、またむかしよりとかざるところをなずけて、ひとなし、ただほとけのみ、みずからしるをなずけてみつとなす」と、しゃくしているが、まっぽうこんにちにおいては、だいごほんぞんのことである。
ゆえにさんだいひほうしょうには、ほんもんのほんぞんをあかされたあと、このもんぐのまき、だいきゅう げのもんを、いんしょうしているのである。すなわち、なんみょうほうれんげきょうにょらいのひみつのほうとは、まったくじのいちねんさんぜんのだいごほんぞんのことなのである。

 それでは、なんみょうほうれんげきょうにょらい、およびそのひみつのほうたるだいごほんぞんの、じんつうのちからとはなにか、これこそ、いっさいしゅじょうをしてそくしんじょうぶつせしめるおちからなのである。
 ゆえにほんぶんに「いまにちれんらのたぐいのこころは、そくしんじょうぶつとかいかくするを、にょらいひみつじんつうしりきとはいうなり」とおおせられたのである。
 われわれのせいめいのなかにしょうじょうむぜんのちからづよきぶっかいがある。そのぶっかいのじじつのうえにけんげんし、さいこうにじゅうじつした、いきいきとした、せいめいのおうていよりまんぞくしきった、こうふくなるせいかつをいとなんでいくことができる。これこそ、さいこうのじんずうのちからなのである。
 にんげんせいをゆがめたり、めっきゃくしたりして、あたかもきょうきのごとく、なにか、ものにとりつかれたようなふるまいが、じんつうりきであるかのごとくおもうのはだいなるあやまりである。それは、まのつうりきではあっても、ほとけのつうりきではない。ほとけのつうりきとは、さいこうににんげんせいをはつようしていくものである。もっともにんげんらしい、あたりまえのにんげんでありながら、そのままのすがたで、しんじつのこうふくきょうにいききることこそ、にょらいひみつのじんずうのちからなのである。
 さて、にょらいひみつとじんづうしりきのかんけいについていえば、にょらいひみつはほんたいであり、じんつうしりきはそのりきゆうとなる。てんだいは、にょらいひみつはたいのさんじんであり、じんづうしりきとはゆうのさんじんであるとしゃくしている。にょらいひみつについてはさきのもんぐのげのもんのとおりである。じんづうしりきについても、もんぐのきゅう げにはつぎのようにある。
 「じんづうしりきとは、さんじんのゆうなり。じんはこれてんねんふどうのり、すなわちほっしょうじんなり、つうはこれむようふしぎのえ、すなわちほうしんなる。ちからはこれみきゆうじざい、すなわちおうじんなり。ほとけはさんぜにおいてひとしくさんじんあり、しょきょうのなかにおいてこれをひしてつたえず」と。
 さらに、にちれんだいしょうにんは、しょほうじっそうしょうにつぎのごとくおおせられている。
 「ぢゆのぼさつのなかの、じょうしゅしょうどう、じょうぎょう、むへんぎょうとうのぼさつよりほかは、まっぽうのはじめのごひゃくねんに、しゅつげんしてほったいのみょうほうれんげきょうの、ごじをひろめたまうのみならず、ほうとうのなかの、にぶつびょうざのぎしきをつくりあらわすべきひとなし、これそく、ほんもんじゅりょうほんのじのいちねんさんぜんのほうもんなるがゆえなり。さればしゃか、たほうのにぶつというもゆうのほとけなり、みょうほうれんげきょうこそほんぶつにてはおわしそうらへ、きょうにいわく「にょらいひみつじんづうしりき」これなり、にょらいひみつはたいのさんじんにしてほんぶつなり、じんづうしりきは、ゆうのさんじんにして、しゃくぶつぞかし、ぼんぷは、たいのさんじんにして、ほんぶつぞかし、ほとけはゆうのさんじんにして、しゃくぶつなり」(1385-09)
 「ぢゆのぼさつのなかのじょうしゅしょうどう、じょうぎょう、むへんぎょうとうのぼさつ」とは、まっぽうのごほんぶつ、にちれんだいしょうにんである。まっぽうこんじは、そうたいのじゆうであり、しぼさつののうとくは、まっぽうのごほんぶつのいっしんにぐびされる。「ほったいのみょうほうれんげきょう」とは、うちゅうばんぽうのほんたいたるなんみょうほうれんげきょうである。「ほうとうのなかの、にぶつびょうざのぎしき」とは、じのいちねんさんぜんのだいごほんぞんのことである。したがって「これそくほんもんじゅりょうほんのじのいちねんさんぜんのほうもんなるがゆえなり」とおおせられたのである。すなわち、まっぽうのごほんぶつにちれんだいしょうにんいがいになんみょうほうれんげきょうをひろめ、だいごほんぞんをこんりゅうするひとはいない、とおおせなのである。
 さらに「さればしゃか、たほうのにぶつというもゆうのほとけなり、みょうほうれんげきょうこそほんぶつにてはおわしそうらへ」とは、みょうほうれんげきょうそくだいごほんぞんのなかに、しゃか、たほうのにぶつのはたらきもふくまれていることをしめされたものである。ここでは、しゃか、たほうをだいひょうしてあげているが、じっぽうさんぜのしょぶつはことごとく、だいごほんぞんのゆうになるのである。
 また「にょらいひみつはたいのさんじんにしてぶつなり、じんづうしりきはゆうのさんじんにしてしゃくぶつぞかし」とは、にちれんだいしょうにんそくだいごほんぞんこそほんぶつであり、しゃか(ほうしん)、たほう(ほっしん)、またじっぽうぶんしんのほとけ(おうじん)ことごとく、しゃくぶつであり、にょらいひみつにたいしじんづうしりきのかんけいになるとおおせである。
 すなわち、じっぽうさんぜのしょぶつのあらゆるくどくぜんこん、しょせつのほったい、ことごとく、にちれんだいしょうにん、およびだいごほんぞんのいちぶつ、いっぽうにほうがんされることをしらねばならない。にちかんしょうにんは、とうりゅうぎょうじしょうに、「げんもん、だいななの、「ひゃくせんしよう、おなじくいちこんにおもむくがごとし」、をいんようして、「よこにじっぽうにへんじ、たてにさんぜにわたりみじんのしゅじょうを、りやくしたもう、すいじゃくけたのこう、みなおなじく、くおんがんじょのいちぶつ、いっぽうのほんちに、きしゅするなり」と、のべられているが、しょほうじっそうしょうの、おんふみとふかくかんがえあわすべきである。
 なお、このにょらいひみつじんづうしりきがむさのさんじんのえもんであることは、にょらいひみつはたいのさんじんであり、じんづうしりきはゆうのさんじんであり、ともににちれんだいしょうにんのとうたいおよびりきゆうをあらわしているからである。
 まただいごほんぞんにやくせば、にょらいひみつは、ちゅうおうの「なんみょうほうれんげきょう にちれん」であり、じんづうしりきは、さゆうのしゃか、たほう、そのたのじっかいのはたらきである。おんぎくでんげにいわく「このほんぞんのえもんとはにょらいひみつじんづうしりきのもんなり」(0760-だいにじゅうごこんりゅうごほんぞんとうのこと)と。
 もししんじんにやくせば、うちゅうだいのりきゆうをそなえた、だいごほんぞんをしんずるならば、われわれのせいめいにも、にょらいひみつたるみょうほうれんげきょうがゆげんする。ゆえに、いだいなるせいめいりょくをはっきし、たくましいかつどうをしていくのである。これじんづうしりきである。
 ゆえに、われらは、しんじんごうじょうにこのだいごほんぞんをきょうちゅうにいだき、すすむならば、いかなるしょうまもかぜのまえのちりのごときものとなり、さわりなきじんせい、しょうりのじんせいをあゆんでいくことができるのである。
・・・・・・・・
 このむさのさんじんをばいちじをもってえたりいわゆるしんのいちじなり。

 これは、じゅじそくかんじんをとかれたおんふみである。むさのさんじんとは、にちれんだいしょうにんのおんことである。にちれんだいしょうにんは、ぜんじゅつのごとく、じっぽうさんぜのしょぶつ、あらゆるくどくぜんこんをぐびされた、まっぽうごしゅつげんのごほんぶつであらせられる。
 それがしんのいちじをもってえることができるとはいかなることか。これすなわち、もったいなくも、われらしょうしんのものは、そくにちれんだいしょうにんとあらわれるとのおおせにほかならない。
 すなわち、われらは、かこにいかなるくどくぜんこんがなくとも、げんざいに、いかなるしょかいをたもたずとも、しんのいちじに、じっぽうさんぜのほとけのあらゆるくどくぜんこんをえることができるのである。なんとありがたいおおせであろうか。なんとすばらしいみにあまるふくうんであろうか。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく「しゃくそんの、いんぎょうかとくのにほうは、みょうほうれんげきょうの、ごじにぐそくす、われらこのごじをじゅじすれば、じねんにかのいんがのくどくを、ゆずりあたえたまう」(0246-15)と。
 ゆえに、まっぽうのわれらしゅじょうのさとりとは、しんじんいがいにないのである。しかして、しんとは、ぜったいにだいごほんぞんをうたがわず、だいしょうにんのおおせどおりじっせんすることにつきる。これをむぎわっしんといい、これがしんじんのごくりである。
 しょうじいちだいじけちみゃくしょうにいわく「しんじんのけちみゃくなくんばほけきょうをたもつともむやくなり」(1338-09)と。
 いかにだいごほんぞんをいただいても、しんじんのけちみゃくがなければむやくであるとのきびしきおおせである。
 いま、けぎのこうふのときにあたり、しんじんとは、だいごほんぞんをゆいいつむにとしんじ、しゃくぶくをぎょうじ、こうふにたたかうことであり、それいがいにない。
 されば、こんにち、そうかがっかいにいき、しんじんにいき、こうふのたたかいにいきるひとは、さんぜじっぽうのしょぶつのしょうらんがあり、かならずや、じんせいのしんじつのえいこうをかちえることはぜったいである。
 しかも、ときまさに、だいごほんぞんのくどくは、ちゅうてんのたいようのごとくさんぜんとかがやき、われらのぜんとをてらしている。
 けんぶつみらいきにいわく「じだいをもってかほうをろんずればりゅうじゅ、てんじんにちょうかしてんだい、でんぎょうにもまさるるなり。」(0505-06)と。
 まっぽうのごほんぶつとして、さんぜじっぽうのしょぶつのくどくをうんしゅうせるきょうちにたった、にちれんだいしょうにんのだいかくしんであられる。このおんふみをもって、われらのたちばをのべることはきょうくのいたりである。だが、よろこびのあまり、あえていうなら、じだいをもってかほうをろんずればまっぽうこんじ、けぎのこうふのときにうまれ、だいごほんぞんをいただき、こうせんるふじつげんに、まいしんできるわれらは、りゅうじゅ、てんじんはいうにおよばず、てんだい、でんぎょうをはるかにちょうかし、だいしょうにんございせの、でしだんなのかたがたにもまさるだいふくうんじであるとかくしんするものである。
 つらつらおもうに、ゆうめいのにじによいしれたひとは、そのよいがさめたあとは、ひあいのじんせいであろう。けんりょくにまんずるひとは、そのけんりょくがとりさられたあと、そこによわきいちこのにんげんをみるのみである。
きんりょくにたより、それですべてをかいけつしようとするひとは、そのきんりょくがほうかいしさったあとは、がきどうのじんせいであろう。
えいこせいすいはひとのよのつねである。ゆうめいのにじよりも、けんりょくよりも、きんりょくよりも、もっともとうとく、もっともちからづよい、しょうがいのざいほうはしんじんである。しんじんにいききるひとは、そのとうたいは、むさのさんじんであり、なにものにもまけず、なにものにもしはいされず、かっこふどうの、どうどうたるしょうがいをいききることができることを、こころからさけんでやまぬものである。




  • [246]
  • だいいちなんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくのこと

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 4月10日(火)01時36分25秒
 
    だいいちなんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくのこと。

 なんみょうほうれんげきょう、にょらいじゅりょうほんだいじゅうろくに、ついてのおんぎくでんである。
 もんぐのきゅうには、にょらいとはじっぽうさんぜのしょぶつ、しんぶつ・おうぶつのにぶつ、ほっぽうおうのさんぶつ、ほんぶつ、しゃくぶつのぜんたいにつうずるみょうごうである。だがべっしてはほんちさんぶつの、べつごうである。
じゅりょうほんのじゅりょうということには、このほんにはじっぽうさんぜ、にぶつ、さんぶつのしょぶつのいっさいのくどくを、ほうがんしていることをいみするのであり、ゆえにじゅりょうほんというのである、と。

 にちれんだいしょうにんのおんぎくでんにいわく、
 このなんみょうほうれんげきょう、にょらいじゅりょうほんだいじゅうろくという、だいごうは、にちれんだいしょうにんの、おんみにあたるだいじなものである。これこそじんりきほんだい21において、じょうぎょうぼさつとしてしゃくそんよりふぞくをうけたじったいなのである。
 もんぐのきゅうのもんをもんていよりよめば、にょらいとはしゃくそんのことである。すなわちそうじてはじっぽうさんぜのあらゆるほとけにつうずるのである。だがべっしては、ほんちむさのさんじん、すなわちくおんがんじょの、ぼんぷそくごくのほんぶつである。
いまにちれんだいしょうにんおよび、そのもんかのこころでにょらいをろんずるならば、そうじては、いっさいしゅじょうはことごとくにょらいである。だがこれはあくまで、りのうえでろんじたものであり、べっして、じのうえでろんずるならば、にちれんだいしょうにんおよびその、でしだんなのことである。
 されば、むさのさんじんとは、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃ、すなわちまっぽうに、ぜんみんしゅうきゅうさいのために、しゅつげんされたごほんぶつにちれんだいしょうにんのおんことである。
 このむさのさんじん、そくにちれんだいしょうにんのほうごうを、なんみょうほうれんげきょうというのである。これにんぽういっかのほんぞんであり、じゅりょうほんのじのさんだいじ、すなわちないしょうのじゅりょうほんにあらわされたじのいちねんさんぜんのとうたいたるほんもんのほんぞん・ほんもんのだいもく・ほんもんのかいだんのさんだいひほうとはこのことなのである。
 なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくのたちばからにょらいをろくそくにはいりゅうするならば、このほんのにょらいは、けっしてしきそうそうごんのほとけをいうのではなく、りそくのぼんぷをいうのである。われわれぼんぷのみをはなれてにょらいはないのである。
 だがこれはまだりのうえであり、われわれがだいごほんぞんをいただいたときは、みょうじそくである。そのゆえは、はじめてだいもくをきく、すなわちしんじゅしたからである。きき、たてまつって、さらにしんぎょうぐそくし、ごほんぞんをじゅじしきっていくことはかんぎょうそくである。このかんぎょうそくとは、じのいちねんさんぜんのほんぞんをかんずる、すなわちしんずることである。われわれが、だいごほんぞんをしんじしょうだいしていくならば、わがみのうちにぶっかいをけんげんし、ちからづよいせいめいがはっきされていくのである。
 さて、わくしょう、すなわち、われわれのさまざまなこころのまよい、なやみ、またさんしょうしま、さんるいのごうてきにうちかっていくことが、そうじそくなのである。さらにしゃくぶくぎょうにまいしんし、こうせんるふにむかってたたかうことは、ぶんしんそくというのである。
 このとき、わがみが、むさのさんじんと、くきょうすることができる。
すなわちせいめいのおうていに、むささんじんにょらいなりと、かくちしていくことができるのである。
これをくきょうそくというのである。
 ぜんたいをつうじていうならば、しゃかぶっぽうのような、りゃくこうしゅぎょうにより、しだいに、まどいをふし、ぶっかをえていくというのではなく、なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくの、こんぽんは、ぼんぷのとうたいほんぬのままで、くきょうそく、そくむささんじんにょらいのしんじつのこうふくきょうがいをえとくしていくことである。
これが、このほんのごくりであるとこころえるべきである。
 それではこのむささんじんにょらいのふるまいはなにかといえば、それはなんみょうほうれんげきょういがいにないのである。

 ここに、たんに「じゅりょうほんのこと」とおおせられずに「なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくのこと」とおおせられているのは、もっともこころにきざむべきさいじゅうようのことであり、にちれんだいしょうにんのごしんいをふかくりかいすべきである。
 「なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほん」とは、なんみょうほうれんげきょうそくまっぽうのごほんぶつにちれんだいしょうにんのじゅりょうほんということである。これ、もんじょうのじゅりょうほんにあらずして、もんていのほとけのじゅりょうほん、すなわちないしょうのじゅりょうほんであり、そのしょせんのじったいは、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうなのである。
 のうせつのほとけもなんみょうほうれんげきょうにょらいであり、しょせつのなんみょうほうれんげきょうである。にんにそくしてほう、ほうにそくしてにん、すなわちにんぽういっかであることはめいはくである。この「なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほん」のいちくに、にちれんだいしょうにんのぶっぽうのこつずいがようやくされているといってもかごんではない。

じゅりょうほんについて。

 「なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほん」についてろんずるにあたり、じゅりょうほんのとかれたいぎ、じゅりょうほんのもんじょうともんてい、ないしょうのじゅりょうほんについてめいかくにしておきたい。
 まず、じゅりょうほんのとかれたいぎについていえば、じゅりょうほんにとかれたことによって、しゃかぶっぽうはすべてかんけつするのである。
 じゅりょうほんとくいしょうにいわく、
 「いっさいきょうのなかにこのじゅりょうほんましまさずはてんににちがつなくくににだいおうなくさんかいにたまなくひとにたましゐなからんがごとし、さればじゅりょうほんなくしてはいっさいきょういたづらごとなるべし」(1211-17)と。
 はじめけごんきょうよりおわりねはんきょうにいたるいちだいごじゅうねんのせっぽうは、じゅりょうほんのがりょうてんせいをかくならば、すべて「いたづらごと」になってしまうとおおせられているのである。
 これほどまでにじゅりょうほんがじゅうようなのはなにゆえであろうか。いま、このりゆうを、にぜんきょうとほけきょう、さらにほけきょうしゃくもんとほんもんをそうたいしてかんがえてみたい。
 かいもくしょうじょうにいわく「これらのきょうきょうにふたつの、とがあり、いちにはぎょうふをそんするがゆえに、なおいまだ、ごんをかいせずとてしゃくもんのいちねんさんぜんをかくせり、にには、しじょうをいうがゆえに、なおいまだしゃくをはいせずとて、ほんもんのくおんをかくせり」(0197-10)と。
 「これらのきょうきょう」とは、ほけきょうがとかれるいぜんのよんじゅうよねんのきょうきょう、すなわちにぜんごんきょうのことである。このにぜんきょうにはふたつのじゅうだいなこんぽんてきけっかんがある。そのひとつは、いちねんさんぜんをといていないということであり、もうひとつは、くおんみじょうをといていないということである。
 「ぎょうふをそんする」とは、にちかんしょうにんの、さんじゅうひでんしょうにもおしめしのごとく、じっかいにさべつがあるということである。じごく・がき・ちくしょう、ないしぶっかいにいたるまで、まったくバラバラにとかれてあり、しかも、じごくがもっともしたにあり、がきはそのうえという。いわば、だんかいてきな、ときかたである。したがって、じっかいが、わがいちねんのせいめいにあるというのではなく、まったくそれぞれがべっせかいのものとしてとかれている。
 しょうもん・えんかく・ぼさつとうになると、きわめていちぶのひとがさとりきわめたとくしゅなせかいであり、それをえるためには、ひとなみはずれたとくしゅなしゅぎょうをしなくてはならない。
 いわんや、ぶっかいなどはぼんじんにおよびもつかぬ、はるかかなたのせかいであり、きょうちであるとされていたのである。
 よく、ぶっかいというと、ほとけのすむしょうじょうなせかいが、はるかかなたのせかいにあるとかんがえたり、ぼさつかいといえば、かんのんぼさつやもんじゅぼさつやみろくぼさつとうとうの、あのえでひょうげんされているようなべっせかいがあるとかんがえたりする。あるいは、てんかいといえば、てんのいっぽうに、てんごくのようなところがあって、ぼんてん・たいしゃくらがそこにいるというようにかんがえたり、じごくかいといえば、ちのしたのほうにあり、おにがすみ、わるいことをしたひとをせめるといったせかいがあるとかんがえたりする。
 これらは、ことごとくごんだいじょういかのきょうてんのせつめいほうであり、じっかいにさべつをもうけた、ひくきせいめいかんよりしょうじたものである。

 さらに、にじょうはぜったいにじょうぶつできないとしたり、にょにんはふじょうぶつ、あくにんもまたふじょうぶつとうとう、じっかいにあらゆるさべつをもうけているのが、にぜんごんきょうのもののかんがえかたである。これが「ぎょうふをそんする」ということであり、このようにぎょうふをそんするおしえは、ひくきせいめいかんであることはとうぜん、いっさいのひとびとをこうふくにしきるてつりではない。あくまでもほけきょうにゆういんするためのほうべんのせつであり、もしこれにしゅうするならば、にんげんせいをゆがめ、ふこうのちまたをるてんするいがいにない。
 ほけきょうしゃくもんにいたって、これらのぜんせつはことごとくくつがえされた。すでにほけきょうのじょぶんたるむりょうぎきょうでは「よんじゅうよねんにはいまだしんじつをあらわさず」ととき。ほうべんぽんでは「せそんはほうひさしくしてのち、かならずまさに、しんじつを、ときたもうべし」とせんげんし、それとともににじょうさぶつ、にょにんじょうぶつ、あくにんじょうぶつをとき、ここにじっかいごぐがあかされたのであった。また、しょほうじっそうとのべ、しんらばんしょうことごとく、みょうほうのとうたいであることをしめしたのである。かくして、いっさいのげんしょうは、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんなることがめいりょうとなり、かつまた、われわれのいちねんのせいめいに、じごくよりぶっかいにいたるせいめいかつどう、きょうちがえんねんとしてぐされていることがれきぜんとしたのである。


 ここにせいめいのしんじつのすがたがうきぼりにされるとともに、あらゆる、ひとびとにじょうぶつのみちがひらかれ、ばんにんがこうふくになるげんりが、りろんてきにかくりつされたわけである。
 ぶっぽうは、なにもにんげんのひょうめんてきなけいしきをもんだいにするものではなく、にんげんせいめいのおうていのいちねんをきわめたものである。だれびとであれ、もっともしょうじょうむくな、もっともちからづよきぶっかいというせいめいがひめられていることを、これほどまでにたいけいづけてときあかしただいてつりは、まさに、にんげんえいちのさいこうほうといういがいにない。
 だが、いまなおほけきょうしゃくもんのだんかいでは、ふかんぜんであった。それは、わがせいめいのりろんてき、てつがくてきこうさつのいきをでなかったからである。いかにわがみがみょうほうのとうたいであり、わがせいめいにぶっかいがないほうされていることを、りろんてきになっとくしてみても、げんじつに、わがみのうえに、ぶっかいがけんげんされ、みょうほうにかがやくせいめいのとうたいとして、じんせいをいききるのでなければ、いみをなさない。ふこうにあえぐみんしゅうを、そのほんしつはみょうほうのとうたいなりといかにりきせつしても、じじつ、しゅくめいてんかんさせ、こうふくへのだいどうをあゆまされるのではなくて、なんのいみがあろうか。
 およそ、ぶっぽうは、いっさいしゅじょうをげんじつにこうふくにせしめていくためにとかれたものである。たんなるりろんのてんかいでもなければ、がくもんのためでもない。したがって、じじつのうえにひとびとをじょうぶつせしめていくちからづよいおしえでなければ、なんのためのぶっぽうであろうか。ここにしゃくもんをりうえのきょうそうとも、りのいちねんさんぜんというのである。
 かいもくしょうにいわく「しゃくもんほうべんぽんは、いちねんさんぜん・にじょうさぶつを、といて、にぜん、にしゅのとが、ひとつをのがれたり、しかりと・いえども、いまだ、ほっしゃくけんぽんせざれば、まことのいちねんさんぜんも、あらはれず、にじょうさぶつもさだまらず、すいちゅうのつきを、みるがごとし、ねなしぐさの、なみのうえにうかべるに、にたり」(0197-)と。すなわちしゃくもんのいちねんさんぜん、にじょうさぶつはすいちゅうのつきのごとくうみょうむじつであり、ねなしぐさのごとく、ほんむこんぬであるとおおせられたのである。
 じょうぶつとは、じしんのぶっかいをひらき、けんげんしていくことである。けっして、じぶんじしんがへんかしてとくべつなものになるのではない。だが、かんじんほんぞんしょうに「ぶっかいばかりげんじがたし」(0241-13)ともおおせのごとく、まことにぶっかいけんげんこそ、もっともなんもんだいであり、ぶっぽうのきゅうきょくなのである。
 しかして、しゃくそんは、じじつのうえにぶっかいをけんげんしているほとけそれじたいである。ゆえに、とうじのしゅじょうがそのしんにぶっかいをげんずるためには、しゃくそんにそのはんをもとめなくてはならない。
 しゃくそんじしんが、いつ、どこで、いかなるげんいんにより、ほとけになったか、そしてしゃくそんととうじのしゅじょうとのかんけいせいはいかん。これらのもんだいが、かいけつされぬかぎり、とうじのしゅじょうは、じょうぶつできぬはずである。
 ところが、ほけきょうしゃくもんまでのだんかいでは、しゃくそんはインドにおうたんし、さんじゅうさいのときに、かやじょうちかくのぼだいじゅのしたで、はじめてじょうぶつしたのだとといている。いわゆる、しじょうしょうかくである。これはしゃくそんのほんしんではない。ただしゅじょうをけどうするために、インドにしゅつげんしてはじめてじょうぶつしたようにみせた、いわばすいじゃくのすがたであり、ここにじょうぶつのほんちがあるのでもなければ、じょうぶつのじったいがあるわけでもない。したがって、いかにその、しじょうしょうかくのほとけを、りそうとしてしゅぎょうしても、しょせん、それはまぼろしのごときものである。ほとけも、むちゅうのきょぶつであり、それにいたるしゅぎょうも、むちゅうのしゅぎょうにすぎない。
 このにぜんしゃくもんの、しじょうしょうかくを、いちごんにしてうちやぶったのが、じゅりょうほんだいじゅうろくの、「われじつに、じょうぶつしてよりこのかた、むりょうむへん」とうの、もんである。すなわち、じゅうらいのかんがえかたを180どかいてんして、じぶんは、ごひゃくじんでんこうという、くおんのむかしにすでにほとけであったと、といたのであった。これが、いわゆるじゅりょうほんにおける、くおんじつじょうである。このかいけんを、こうかいごんけんのん、ともなづけるのである。


 このくおんじつじょうとともに、しゃくそんがほとけになったほんにんも、「われもと、ぼさつのどうを、ぎょうじて、じょうぜしところのじゅみょう、いまなお、いまだつきず。またうえのかずに、ばいせり」と、とかれたのである。ぼさつどうはきゅうかいをだいひょうしている。そして、そのきゅうかいのせいめいは、ほとけになってからも、いや、こんにちにいたるまで、「いまなお、いまだつき」ていないとの、もんである。
 すなわち、しゃくそんじしん、むしいらい、きゅうかいのせいめいをぐびしていることをあかしたわけである。しゃくそんといえば、これまでしゅじょうのきょうがいからだっし、ただしょうじょうのせいめいのみじゅうまんしたほとけであり、もはやきゅうかいのせいめいなどありようはずがないとおもわれていた。ところが、じつはそうではなく、みずから、むしいらい、ぶっかいそくきゅうかい、きゅうかいそく、ぶっかいのせいめいの、とうたいであることを、ときあかしたのであった。
 かくして、しゃくもんのじっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんのてつりをば、ほんもんじゅりょうほんにおいて、しゃくそんじしん、じこのげんぜんたるいちこのだいせいめいのうえにてんかいしたのである。しゃくもんをりじょうのほっしょうというのにたいし、ほんもんじゅりょうをじのほうもんというのは、このゆえにほかならない。
 かいもくしょうにいわく、
 「ほんもんにいたりて、しじょうしょうかくをやぶれば、しきょうのかをやぶる、しきょうのかをやぶれば、しきょうのいん、やぶれぬ、にぜんしゃくもんの、じっかいのいんがをうちやぶって、ほんもんのじっかいの、いんがをときあらわす、これ、すなわちほんにん、ほんがのほうもんなり、きゅうかいも、むしのぶっかいに、ぐし、ぶっかいも、むしのきゅうかいに、そなわりて、しんのじっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんなるべし」(0197-15)と。
 さらに、しゃくそんは、どこでほとけになったかというほんごくどをあかすのである。いわゆる「これよりこのかた、われつねにこのしゃばせかいにあってせっぽうきょうけす」のもんである。
 これまで、このしゃばせかいは、えどと、きらわれ、ほとけのじゅうするじょうじゃっこうどは、べっせかいにあるとかんがえられてきた。ところが、じゅりょうほんにきたり、このしゃばせかいこそ、ほとけのじょうじゅうする、じょうじゃっこうのせかいであることが、あたかもごうほうをはなつごとくせんげんされたのである。しかも、これまで、あらゆるきょうきょうにとかれたぶっこくどは、ことごとくしゃくそんのけどうのくにぐにであることがあかされ、だいうちゅうそれじたい、みょうほうのせかいであることがせんめいとなったのである。もしこのしゃばせかいがそくじょうじゃっこうどというせっぽうがなければ、どうしてこくどもみょうほうのとうたいであることがあきらかとなりえようか。
 さきに、しゃくもんにおいて、いちねんさんぜんのてつりが、あかされたごとく、のべたが、うばっていえば、しゃくもんには、こくどせけんがあかされていないがゆえに、ひゃっかいせんにょの、いきをでない。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「そのきょうしゅをろんずれば、しじょうしょうかくのほとけ、ほんむこんぬのひゃっかいせんにょを、といて、いこんとうに、ちょうかせる、ずいじい」(0248-13)と。したがって、しゃくもんのだんかいでは、いまなお、うじょうかいのじょうぶつを、といたにすぎず、ほんもんにきて、はじめてうじょう、ひじょうともに、みょうほうのとうたいであり、じょうぶつできることが、ときつくされたのである。おなじく、かんじんほんぞんしょうにいわく、「とうていわく、ひゃっかいせんにょと、いちねんさんぜんと、さべついかん、こたえていわく、ひゃっかいせんにょは、うじょうかいにかぎり、いちねんさんぜんは、じょうひじょうにわたる」(0239-08)と。
 また、このしゃばそく、じゃっこうの、げんりがあかされることによって、こうふくはけっして、かなたのせかいにあるのではない。じょうぶつは、べっせかいにあるものではないことが、いよいよめいりょうと、なったわけである。


 いじょう、「がじつじょうぶつ、いらい、むりょうむへん」とうを、ほんがみょうのもん、「がほんぎょうぼさつどう」とうを、ほんにんみょうのもんといい、「しゃばせかい、せっぽうきょうけ」とうをほんごくどみょうの、もんという。じゅりょうほんには、このさんみょうが、あわせてとかれているので、これをさんみょうごうろんという。
 このように、ほんもんじゅりょうほんの、せっぽうは、しゃくもんにひし、そのてつりにおいても、さらにふかく、うちゅうのじかん、くうかんのじっそうをきわめ、そのじっしょうにおいては、しゃくそんじしんの、げんぜんたるしょうみょうがあり、あらゆるてんで、ひかくにならぬほど、すぐれたほうもんというべきである。
 もし、このじゅりょうほんだいじゅうろくのせっぽうがなければ、だれひともしゃくそんがほとけになったほんじも、ほんにんも、ほんごくどもしらず、ただじしんにぶっかいがぐびしているというだけで、りろんのくうろんにおわるところであった。まさしく、じゅりょうほんこそ、しゃくそんいちだいごじゅうねんのきょうせつにそびゆるぜっちょうであり、いっさいきょうのかんけつへんであることは、りょうりょうたるものがあろう。
 だが、ほんもんじゅりょうほんがたいせつなのは、このさんみょうごうろんのせっぽうがあるからであろうか。むろん、しかりである。しかしながら、これはもんじょうのりょういきでろんじたものであり、いちおうせんぱくなぎである。よりいちじゅうたちいってろんずるならば、じつに、このじゅりょうほんのもんていこそじぎょうのいちねんさんぜんのなんみょうほうれんげきょうがひしんされているからたいせつなのである。
 かいもくしょうにいわく「いちねんさんぜんのほうもんはただほけきょうのほんもん・じゅりょうほんのもんのそこにしづめたり」(0189-02)と。
 にちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうに、このもんをしゃくしていわく、
 「はじめはごんじっそうたい、いわゆる『ただほけきょう』のよんじこれなり、つぎはほんしゃくそうたい、いわゆる『ほんもんじゅりょうほん』のごじこれなり、さんはしゅだつそうたい、いわゆる『もんていひちん』のよんじこれなり、これそくじゅうせんししんしてしだいにこれをはんず。たとえばたかきにのぼるにかならずひくきよりし、とおきにゆくにかならずちかきよりするがごとし」「まさにしるべし、ただほけきょうのただのじはこれいちじなりといえどもこころはさんだんにかんむるなり、いわくいちねんさんぜんのほうもんはいちだいしょきょうのなかにはただほけきょう、ほけきょうのなかにはただほんもんじゅりょうほん、ほんもんじゅりょうほんのなかにはただもんていひちんとうんぬん」と。
 また、はじめにいんようした、じゅりょうほんとくいしょうの、もんのすぐつぎしもにもいわく、「しょせん、じゅりょうほんのかんじん、なんみょうほうれんげきょうこそ、じっぽうのしょぶつの、のうしょうのこんげんこそ、じゅりょうほんのもんていたる、なんみょうほうれんげきょうであると、おおせなのである。そのた、「じゅりょうほんのかんよう」、「じゅりょうほんのかんじん」とうと、おおせられた、おんふみはまいきょにいとまがない。そうじては、しゃくそんのはちまんほうぞう、べっしては、ほけきょうにじゅうはちほん、またそうじては、ほけきょうにじゅうはちほん、べっしては、じゅりょうのいちほんは、すべて、にちれんだいしょうにんの、ぶっぽうのために、とかれたのであり、だいしょうにんの、ぶっぽうがこんていとなり、はじめていきてくることを、しらねばならない。
 このことを、さらにめいかくにするために、じゅりょうほんだいじゅうろくの、もんじょうと、もんていのかんけいを、せんめいにしておきたい。
 にちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうに、「じゅりょうほんのもんてい」とは、さらに、じゅりょうほんだいじゅうろくの、いずれのもんていであるかというてんにげんきゅうされていわく、
 「きいてよく、これをしんぜよ、これおくたくにあらず、しのいわく、『ほんにん、しょじゅうのもんていに、くおん、みょうじのみょうほう、じのいちねんさんぜんを、ひちんしたまえり』うんぬん、まさにしるべし、のちのちの、くらいにのぼるは、さきざきのぎょうに、よるなりうんぬん」と。


 このもんちゅう「くおんみょうじのみょうほう、じのいちねんさんぜん」とは、なんみょうほうれんげきょうであり、そくじのいちねんさんぜんの、だいごほんぞんである。
 それでは、その「くおんみょうじのみょうほう、じのいちねんさんぜん」を「ほんにんしょじゅうの、もんていにひちん」したとは、いかなることか。ほんにんとは、ほんにん、ほんが、ほんごくどのさんみょうのうちの、ほんにんである。すなわち、「がほんぎょうぼさつどう」のもんが、それにあたる。ぼさつどうとは、しゃかぶっぽうでは、41いのだんかいをあかしている。すなわち、じゅうじゅう、じゅうぎょう、じゅうえこう、じゅっちの、しじゅういと、それに、とうかくが、くわわって、41のだんかいとなる。
 したがって、しゃくそんが、じょうぶつできたほんげんを、たずねていくと、どうしても、じゅうじゅうの、さいしょのくらいである、しょじゅういにまで、さかのぼらざるをえない。
むろん、しょじゅうい、いぜんにもじゅつしんという、だんかいをたてるばあいもあるが、じゅうじゅうのくらいは、まだあんていせず、いつたいてんするかわからないくらいである。しょじゅうにきて、はじめて、ふたいてんのくらいとなり、ひつぜんてきに、みょうかくいにまで、とうたつしていくのである。したがって、しょじゅういに、のぼったということは、じっしつてきには、じょうぶつしたのとどうようなのである。
 しからば、ふたいてんのくらいたる、しょじゅういにのぼりえたほんげんりょくは、なにであったか。これこそ、なんみょうほうれんげきょうであり、しゃくそんのじょうぶつのこんげんは、じつに、このなんみょうほうれんげきょうを、しんじゅしたからにほかならない。
 ほけきょうほんもんもんじょうの、はんいないでは、ほとけになった、ほんにんを、がほんぎょうぼさつどうの、しょじゅうのだんかいまでよみとれる。だが、しょじゅうに、のぼりえたほんげんりょく、こんぽんりょくは、なにかとたずねていけば、もはやもんじょうのはんいでは、かいけつしようがない。にちれんだいしょうにんは、そのしょじゅうにのぼりえたことの、おうていに、なんみょうほうれんげきょうが、ひちんされているとおしえられたのである。
 「のちのちのくらい」、すなわち、しょじゅうのくらい、さらににじゅう、さんじゅう、じゅうじゅう、じゅうぎょう、じゅうえこう、じゅうち、とうかく、そしてごひゃくじんてんごうの、じょうどうとすすんでいくことが、できたのは、「さきざきのぎょう」、すなわち、なんみょうほうれんげきょうを、しんじゅしたからである。
 しゃくそんが、きゅうきょくにおいては、なんみょうほうれんげきょうをしんじゅしてじょうぶつしえたことは、つぎのおんふみにもあきらかである。
 さんだいひほうしょうにいわく、「それ、しゃくそんしょじょうどうより、しみさんきょう、ないしほけきょうのこうかいさんけんいちの、せきをたちて、りゃくかいごんけんのんを、とかせたまいし、ゆじゅつほんまで、ひせさせたまいし、じっそうしょうとくの、そのかみ、しゅぎょうしたまいしところの、じゅりょうほんのほんぞんと、かいだんと、だいもくのごじなり」(1021-03)と。
 「じっそうしょうとく」とは、ごひゃくじんてんごうの、じょうどうである、「そのかみ」とは、がんじょのことであり、「じっそうしょうとくの、そのかみ」とは、くおんがんじょのことである。しょごしょに、「ごひゃくじんてんごうの、そのかみ」とあるのと、まったくどうぎと」はいすべきである。すなわち、このさんだいひほうしょうの、おんふみにめいかくに、しゃくそんじしん、くおんがんじょにおいて、さんだいひほうを、しゅぎょうしたことが、とかれているわけである。
 しゃくそんは、じぶんが、なんみょうほうれんげきょうによって、ほとけになったことはうちにひし、そとには、ぼさつどうをぎょうじて、ほとけになったと、といたのである。しかも、しゅじょうゆういんのために、わがみをかざり、しゅじょうをして、かつぎょうのこころを、おこさしめたのである。
 だがしゃくそんは、とうじのしゅじょうをして、さいしゅうてきには、なんみょうほうれんげきょうを、さとらしめんがために、はちまんほうぞうをとき、なかんづくほけきょうをとき、なかんずく、じゅりょうほんを、といたのであった。しかし、このことは、きょうもんのうえにあらわれていない。もんていの、まなこがあけて、はじめて、かくちしえるのである。
 したがって、しゅじょうもまた、じゅりょうほんにいたり、たんに、じゅりょうほんのもんじょうの、いきにとどまらず、そこにひちんされている、なんみょうほうれんげきょうを、しんじゅしてじょうぶつすることが、できたのである。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「くしゅをもって、げしゅとなし、だいつうぜんしみ、しゃくもんをじゅくとなして、ほんもんにいたつて、とうみょうにのぼらしむ」(0249-15)と。
 ほっけしゅようしょうにいわく、「いま、ほけきょうにらいしして、じつほうをじゅよし、ほけきょうほんもんの、りゃくかいごんけんのんにらいしして、けごんよりのだいぼさつ、にじょう、だいぼんてん、たいしゃく、にちがつ、してん、りゅうおうとうは、くらいみょうかくにとなり、またみょうかくのくらいに、はいるなり」(0334-12)と。
 ほっけしゅようしょうの、「ほけきょうほんもんの、りゃくかいごんけんのん」とは、もんじょうのゆじゅつほんの、りゃくかいごんけんのん、じゅりょうほんの、こうかいごんけんのんつうじて、にちれんだいしょうにんの、こうかいごんけんのんにたいし、りゃくかいごんけんのんとなづけるのである。したがって、かんじんのほんぞんしょうのもんと、ほっけしゅようしょうのもんは、どうぎとはいすべきである。
 ここで、ちゅうもくすべきは、とうじのしゅじょうが、じゅりょうほんのせっぽうをきいて、とうかくのみならずみょうかくをもしょうとくしているとのおおせである。
 ところで、ほけきょうのきょうもんのうえでは、またてんだいだいしのしょもんにおいては、りんごくといってとうきょくとはいっていない。すなわち、ざいせのしゅじょうは、じゅりょうほんをきいてとうかくいにまでのぼったのであり、とうかくいのひとは、きょうもんのうえではまったくいないのである。だが、かんじんほんぞんしょうにもほっけしゅようしょうにもげんぜんとみょうかくいにのぼったことがのべられている。いったいこれはいかなるわけか。ここに、じゅうようなほうもんがひめられているのである。
 ざいせのしゅじょうは、じゅりょうほんにいたり、そのせっぽうをきいて、とうかくいにいたり、さらにじゅりょうほんにとかれたくおんじつじょうがほんちではなく、そのほんにんしょじゅうのもんていになんみょうほうれんげきょうがひちんされていることをしり、それをしんじゅして、みょうかくいにのぼることができたのである。


 ほっけしゅようしょう、もんだんにいわく、「もんにいわく、『りょうぜんはちねんのあいだ、しょぼさつ、みなみょうかくのくらいにのぼる』とは、もしもんじょうの、こころによらば、しゃくもんは、なおとうかくのえきなし、いわんや、みょうかくのえきあらんや、ほんもんまたみょうかくのえきなし、ただ、ふしょにかぎるゆえなり、なんぞ、いましょぼさつ、みなみょうかくのくらいに、のぼるといわんや。ゆえにしんぬ、いまほんげふぞくの、ないしょうのじゅりょうほんの、こころをもってかえって、ざいせとくえきのそうをみるに、しょぼさつとう、みな、くおんのしんじん、みょうかくのくらいに、のぼる。ゆえに、みなみょうかくにのぼるという」と。
 すなわち、もんていのまなこをひらいて、ざいせとくだつの、そうをみれば、みょうかくにのぼったということが、わかるのであるとの、おおせである。
 また、とうりゅうぎょうじしょうにいわく、「もし、たいげのこころは、つねのしょだんのごとし、ざいせのしゅじょう、じゅりょうほんをきき、ただにじゅう、ないし、とうかくにいたる。しかも、みょうかくにいたるひとは、すべてきょうもんに、これなきなり、しかるに、たいないのこころは、りょうぜんいちえの、むりょうのぼさつ、たいないのじゅりょうを、ちょうもんして、ただ、もんじょうだつしゃくを、しんずるのみにあらず、また、もんていひちんの、しゅほんをりょうして、くおんがんじょのげしゅの、くらいにたちかえりて、ほんちなんしのきょうちのみょうほうを、しんずるがゆえに、みなことごとく、みょうじみょうかくのごくいにいたるなり、これ、すなわち、たいないとくだつのそうなり、ゆえに、けいけいいわく、『ゆえに、ちょうじゅをきいて、また、しゅうしをりょうす』うんぬん。またいわく、『もし、ただ、じちゅうのおんじゅを、しんぜば、なんぞよくこのもろもろの、ぼさつとうをして、ぞうどうそんしょうして、ごくいにいたらしめん、ゆえに、ほんちなんしのきょうちを、しんげす』とううんぬん、わがそ、きとうしょうに、『もろもろのぼさつ、みな、みょうかくのくらいにのぼりて、しゃかにょらいと、さとりひとし』《1349-12》と、はんじたもうこれなり、とうりゅうの、くでんにいわく、『とうかくいってん、みょうじみょうかく』うんぬん」と。

 もんちゅう、「とうかくいってん、みょうじみょうかく」とは、じゅりょうほんのせっぽうをきいて、とうかくいまでのぼったしゅじょうが、そのおうていに、ひちんされたるみょうほうを、しんじゅして、いってんしてみょうかくいに、いたったことをいうのである。すなわち、ざいせのしゅじょうといえども、じょうぶつしえた、こんげんは、なんみょうほうれんげきょうにあったことは、あきらかである。
 しょせん、なんみょうほうれんげきょうこそ、じょうぶつのこんぽんであり、いかなるじだい、いかなるしゅじょうであろうとも、みょうほうをはなれて、じょうぶつはありえぬことを、かくしんすべきである。どれほどいだいな、だいちえしゃであろうとも、いかなる、はくがくのひとであろうとも、はちまんほうぞうを、こころにうかべるごときぶっぽうにつうたつしたひとと、いえども、みょうほうにきちゃくしなければ、めいろをすすむいがいにない。
 とうりゅうぎょうじしょうにいわく、「しばらく、しんしのごときろくおんの、だんなくは、ただこれとうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくにあらず、これすなわち、しゅしをしらざるゆえなり、しかるに、ほっけにらいしして、だいつうのしゅしをかくちす、これすなわち、かせつのだんなくなり、しかりといえども、もしほんもんにのぞむれば、なおこれとうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくにあらず、いまだ、くおんげしゅを、りょうせざるのゆえなり。
しかるのち、ほんもんにいたって、くおんのげしゅをあらわす、これすなわちかせつのだんなくなり、しかりといえども、もしもんていにのぞむれば、なおこれとうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくにあらざるなり。
もしもんていのまなこをひらいて、かえって、かのとくどうをみれば、じつにくおんげしゅの、くらいにかえって、みょうじみょうかくのくらいにいたる、これすなわち、しんじつのかせつのだんなくなり。ゆえに、きょうにいわく、「いしんとくにゅう」とううんぬん、いしん、あにみょうじにあらずや、とくにゅうは、すなわちみょうかくなり。またいわく、『がとうとうしんじゅぶつご』うんぬん。
しゅうそ、しゃくしていわく、『このむささんじんをば、いちじをもってえたり、いわゆるしんのいちじなり』(0753-03)うんぬん、しんは、そく、えのいん、みょうじそくなり、むささんじん、あにみょうかくにあらずや、しんし、すでにしかり、いっさいみなしからん」と。


 だいち、しゃりほつすら、なおなんみょうほうれんげきょうを、しんじゅしてじょうぶつしたのである。いわんや、たのひとびとにおいてをや、されば、ひくきしそう、てつがくに、こしつして、いちぶんのさとりにまんぞくし、したりがおをしているやからは、おろかともあわれといういがいにない。
 いじょうのごとく、しゃくそんはけっきょく、いっさいしゅじょうをして、なんみょうほうれんげきょうをしんじゅせしめんがために、いっさいほうをといたのであった。
また、そのご、てんだい、でんぎょうとうがちゅうごく・にほんにしゅつげんして、ほけきょうのごくりをといたが、これまた、みょうほうをうちにいだき、みょうほうをげんもくとしてほうをといたのであった。ゆえに、てんだいは、まいにちいちまんへんのだいもくをとなえたといわれ、でんぎょうもまた、りんじゅうにいっしんさんかん、あるいはりんじゅうのいちねんさんぜんとして、なんみょうほうれんげきょうと、となうべきことをそうでんしている。

 しゅぜんじけつ22にいわく、「てんだいだいし、・まいにちぎょうほうにっきに、いわく、どくじゅしたてまつる、いっさいきょうのそうよう、まいにちいちまんへん」と。げんしでんにいわく、「いっさいきょうのそうようとは、いわゆるなんみょうほうれんげきょうのごじなり」と。
これ、てんだいだいしが、なんみょうほうれんげきょうを、となえた、めいしょうである。また、どうずいより、でんぎょうのそうでんにいわく、「りんじゅう、いっしんさんかんとは、このぎょうのぎしき、つうずのかんそうに、にず、ひとしゅうえんにのぞみ、だんまつまのくるしみ、すみやかにきたり、うたた、しんたいにせまるとき、しんしんこんまい、ぜじひじを、べんぜず、もし、りんじゅうのときにおいて、しゅつりのようぎょうを、しゅうせずんば、へいあんのしゅうがく、なんのせんようあらん。
ゆえに、このくらいにおいて、ほうぐのいっしんさんかんを、しゅうすべし、ほうぐのいっしんさんかんとは、すなわちみょうほうれんげきょうこれなり、ゆえに、りんじゅうのとき、なんみょうほうれんげきょうとうと、となうべきなり」と。
またいわく「いちねんさんぜんにさんじゅうあり、いちにはじょうようの、いちねんさんぜん、ににはべつじのいちねんさんぜん、さんにはりんじゅうのいちねんさんぜん、ないし、りんじゅうのいちねんさんぜんの、かんとは、みょうほうれんげきょうこれなり、みょうそく、いちねん、ほうそくさんぜん、このゆえに、いちねんさんぜんと、めいい、ぎどうなり。
りんじゅうのとき、せんしんにまさに、なんみょうほうれんげきょうと、となうべし」と。でんぎょうにおいても、りんじゅうという。ぶっぽうでもっともだいじなしゅんかんに、なんみょうほうれんげきょうと、となえることがそうでんされていることが、あきらかである。

 だが、これらのけんせいは、しゃくぶつのりょういきであり、なんみょうほうれんげきょうを、うちにはしりつつも、そとにむかっては、とかなかったのである。
また、ときいまだきたらず、きも、りゃくこうしゅぎょうや、しきそうそうごんをこのむしゅじょうのきであり、それにおうじたほうをとき、さいごには、なんみょうほうれんげきょうを、さとらしめんとしたのである。
 さらにふかくかんがえれば、しゃくそんのはちまんほうぞうも、てんだい、でんぎょうのろんしゃくも、ことごとく、まっぽうのためであり、まっぽうのだいびゃくほうの、しょうみょうのために、とかれたのである。

 あたかもしゅうるのたいかいにむかってすすむがごとく、はるかまっぽうのごほんぶつとだいびゃくほうをのぞんで、そのじょぶんとして、みずからのしめいのままに、せっぽうしたのである。
 ほっけしゅようしょう333ぺーじにいわく、「とうていわく、ほけきょうはだれひとのために、これをとくや、こたえていわく、ほうべんぽんよりにんきほんにいたるまでの、はちほんに、にいあり、うえよりしたにむかいて、しだいにこれをよめば、だいいちは、ぼさつ、だいには、にじょう、だいさんは、ぼんぷなり、あんらくぎょうより、かんじ、だいば、ほうとう、ほっしと、ぎゃくじにこれをよめば、めつごのしゅじょうをもって、ほんとなす、ざいせのしゅじょうは、ぼうなり、めつごをもってこれをろんずれば、しょうほういっせんねん、ぞうぼういっせんねんは、ぼうなり、まっぽうをもって、せいとなす、まっぽうのなかには にちれんをもって、せいとなすなり」(0333-16)と。

 これ、ほけきょうのしゃくもんとて、いちおうはざいせのためであるが、さいおうはまっぽうごしゅつげんの、にちれんだいしょうにんのしょうみょうのために、とかれたことはあきらかである。
いわんや、もんていになんみょうほうれんげきょうを、ひちんしたほんもんじゅりょうほんがめつごまっぽうのために、とかれたのはとうぜんのことである。

 ゆじゅつほんだいじゅうごに、いわく、「われらはまた、ほとけのずいぎのしょせつ、ほとけのしょすいのみこと、いまだかつてこもうならず、ほとけのしょちは、みなことごとく、つうだつしたまえりと、しんずといえども、しかももろもろのしんぼっちのぼさつ、ほとけのめつごにおいて、もしこのみことをきかば、あるいはしんじゅせずして、ほうをはする、ざいごうのいんねんをおこさん。
ただしかなり、せそん、ねがわくは、ためにげだつして、われらがうたがいを、のぞきたまえ、および、みらいせのもろもろのぜんなんし、このじをききおわりなば、またうたがいをしょうぜじ」と。
またいわく、「われらは、ほとけにしたがって、ききたてまつれば、このじにおいてうたがいなし、ねがわくは、ほとけみらいのためにえんぜつして、かいげせしめたまえ」と。
 これは、ゆじゅつほんだいじゅうごにおいて、「われ、くおんよりこのかた、これらのしゅうをきょうけせり」と、りゃくかいごんけんのんをのべたことにたいし、しょぼさつ、たいしゅうが、どうしゅうしょうぎし、みろくが、だいひょうしてしつもんしているところである。
これにたいしじゅりょうほんだいじゅうろくの、せっぽうがあるわけであるが、このしつもんであきらかなごとく、めつごのために、じゅりょうほんだいじゅうろくの、せっぽうをこうたのである。
すなわち、じゅりょうほんだいじゅうろくの、せっぽうは、めつごのためにあったのであり、めつごのなかにも、まっぽうのためにあったことを、しるべきである。

 ほっけしゅようしょうにいわく、「にには、ゆじゅつほんのどうしゅうしょうぎより、いちはんならびに、じゅりょうほん、ふんべつくどくほんのはんほん、いじょういちほんにはんを、こうかいごんけんのんと、なずく、いっこうにめつごのためなり」(0334-05)ちゅうりゃく、とうていわく、だれびとのために、こうかいごんけんのんの、じゅりょうほんをえんぜつするや、こたえていわく、じゅりょうほんのいちほんにはんは、はじめよりおわりにいたるまで、まさしくめつごしゅじょうのためなり、めつごのなかにはまっぽうこんじの、にちれんとうがためなり」(0334-15)と。

 いじょう、ほんもんじゅりょうほんも、まっぽうのにちれんだいしょうにんのぶっぽうのしょうみょうのためにとかれたことは、まったくめいはくである。
 またぞうぼうしゅつげんの、てんだいもでんぎょうも、まっぽうのごほんぶつと、だいびゃくほうをれんぼしてやまなかった。てんだいは「のちのごひゃくさいとおくみょうどうにうるおわん」とのべ、でんぎょうもまた、「しょうぞうややすぎおわって、まっぽうはなはだちかきにあり」とのべ、まっぽうをごんぐしている。
かくして、あらゆるきょうきょうがとかれ、あらゆるろんしゃくがのべられたあと、まっぽうにはいり、たいようのしゅつげんのごとく、ごほんぶつにちれんだいしょうにんのごしゅつげんがあり、まっぽうまんねん、じんみらいさいまでてらしゆく、だいびゃくほうがこんりゅうされたのである。
もはや、とききたり、きはじゅくしたのである。しゃくそんのごとく、みょうほうをうちにいだき、そとにはたのほうを、とくひつようはない。ただちに、もんていひちんのたいほうたる、なんみょうほうれんげきょうを、いっさいしゅじょうにとかれたのである。


 これまで、じゅりょうほんだいじゅうろくのいちを、ごんじつそうたい、ほんしゃくそうたい、しゅだつそうたいという、そうたいのうえでのべてきた。
 さらにここで、じゅりょうほんそれじたいのないようを、いちだんとほりさげていきたい。
 じゅりょうほんの、もっともじゅうようないぎは、ほつしゃくけんぽんにあることは、これまでのべてきたとおりである。
このけんぽんに、にぎがある。
いちにはもんじょうけんぽん、ににはもんていけんぽんである。もんじょうけんぽんとは、ごひゃくじんでんこうのけんぽんであり、もんていけんぽんとは、くおんがんじょのけんぽんである。しかして、じゅりょうほんだいじゅうろくの、もんもんくくをごひゃくじんでんこうをけんぽんとしてりかいしていくのを、もんじょうのじゅりょうほんといい、くおんがんじょのけんぽんとして、りかいしていくのをもんていのじゅりょうほん、またはないしょうのじゅりょうほんというのである。
 たとえば、がじつじょうぶつのもんについていえば、ごひゃくじんでんこうのじょうどうをがじつじょうぶつととくというならば、これはもんじょうけんぽんであり、もんじょうのじゅりょうほんのよみかたである。
 もしくおんがんじょのじょうどうを、がじつじょうぶつととくというならば、これはもんていけんぽんであり、もんていのじゅりょうほんのよみかたである。
ないしょうのじゅりょうほんのよみかたである。

おんしとだぜんかいちょうが、じゅりょうほんだいじゅうろくのこうぎにあたって、もんじょう、もんていのどうようのよみかたをしめされたのは、じつにこのためにほかならない。


 さらにもんじょうけんぽんに、にいがある。いちにはたいげ、ににはたいないである。
 これについては、とうりゅうぎょうじしょうに、つぎのごとくおおせである。
 「とう、たいないたいげ、そのそういかん、こたう、これすなわちけんとみけんと、ちとふちと、てんちはるかにことなり、いわくもんてい、いまだあらわれざるをなづけて、たいげとなす、なお、ふしきてんげつ、たんかんちげつのごとし。もんていすでにあらわるれば、すなわちたいないとなづく、ちげつはすなわちこれ、てんげつのかげとしるがごとし。しばらくがじつじょうぶつのもんのごとき、もし、ほんちだいいち、ほんがじぎょうのじょうどうを、がじつじょうぶつと、とくといわば、すなわちこれ、たいげのじゅりょうほんなり。もししゃくちゅうさいしょのほんがけたの、じょうどうをがじつじょうぶつと、とくといわば、すなわちこれたいないのじゅりょうほんなり。
ないげことなりといえども、ともにだつしゃくとなづく、これもんていのしゅほんにたいするゆえなり。まさにしるべし、しゃくもんすでにないげありいまのだつしゃく、あにしからざらんや、もし、たいげのじゅりょうほんは、てんだいじょうずのしゃくのごとし。もしたいないのじゅりょうほんは、けちみゃくしょうに、ほんがをしゃくとなづくがごとし」

 すなわち、ごひゃくじんでんこうのじょうどうがいっさいのこんぽんであり、ほんちであり、これよりきゅうきょくのものはなにもないとして、それをあかしたのがじゅりょうほんであるとするのがたいげのじゅりょうほんである。ごひゃくじんでんこうがほんちであるとはいっても、それはしゃくちゅうけたのはんいないのことであり、しんのほんちはくおんがんじょであるとしって、このじゅりょうほんは、このしゃくちゅうさいしょのほんがけたのじょうどうをあかしたほんであるとするのがたいないのじゅりょうほんである。このたいげ、たいないのじゅりょうほんはてんちのへだたりがあることはじじつだ。しかし、ともに、このじゅりょうほんは、ごひゃくじんでんこうのじょうどうをあかしたものであるとするてんではきょうつうしている。
 にちれんだいしょうにんが、おんぎくでんにじゅりょうほんだいじゅうろくのせっぽうをされるのは、なにもこれらのもんじょうのじゅりょうほんのせつめいではなくして、もんていのじゅりょうほん、ないしょうのじゅりょうほんをおときくださらんがためである。なぜならば、もんじょうのじゅりょうほんはざいせのしゅじょうのとくだつのためのほうもんであり、まっぽうのようほうではない。もんていのじゅりょうほん、ないしょうのじゅりょうほんこそ、めつごまっぽうのためのじゅりょうほんであるからである。
 したがってしょごしょに、ほんもんにふたつのこころがあり、いちにはざいせのため、にには、まっぽうのためとおおせられるのは、ざいせのためとはもんじょうであり、めつごのためとは、もんていであることをしるべきである。
 われわれが、じゅりょうほんだいじゅうろくを、よむしょういもまた、なにも、しゃくそんのごひゃくじんでんこうの、じょうどうをよむのではない。
むしろ、それはしゃくぶつのほうもんであり、まっぽうには、ゆうをなさないとはしてよむことはあっても、ぜったいにまっぽうのほうもんとして、もちいてよむことはない。
まさしく、にちれんだいしょうにんの、だいぶつほうをせつめいするげんげんくくとして、また、だいごほんぞんをさんたんすることばとして、もちいてよむのである。かつもくしてみるならば、じゅりょうのいっぽんとかれているものは、はじめからおわりまで、ことごとくにちれんだいしょうにんのいちぶつ、なんみょうほうれんげきょうの、いっぽうしかないのである。

 たとえば、がじつじょうぶつのもんを、もんていのじゅりょうほんのたちばからよめばどのようなるのか。
 とうりゅうぎょうじしょうにいわく、「もんていげしゅのじゅりょうほんに、がじつじょうぶつというはわれは、すなわちにちれん、 じょうぶつはすなわちこれじじゅゆうしんなり、いわく、のうじょうはこれち、しょじょうはこれきょうなり、きょうちみょうごう、あに、じじゅゆうしんのじょうどうにあらずや、ゆえに、もんいにいわく『にちれんじつに、じじゅゆうしんのじょうどうをとなえてよりこのかた、むりょうむへん、ひゃくせんまんのくこう』うんぬん」と。
 すなわち、にちれんだいしょうにんが、くおんがんじょにじじゅゆうしんを、しょうとくしてむりょうむへんとよみ、にちれんだいしょうにんが、くおんがんじょいらい、むしむしゅうのほとけであることを、あらわすのである。
 さらにとうりゅうぎょうじしょうに、ひゃくろくかしょうの、「われらが、ないしょうのじゅりょうほんとは、だつちゃくじゅりょうのもんていの、ほんにんみょうのことなり、そのきょうしゅは、それがしなり」(0863-げしゅのほけきょうきょうしゅのほんしゃく)のもんをがじつじょうぶつのきょうもんをれいにひいていわく、
 「のうせんのへんはただこれよんじ」なり、しょせんのへんはそくみょうほうなり、いわくのうじょうそくち、しょじょうそくきょう、あに、ほんちなんしきょうちのみょうほうにあらずや。ゆえにしんぬ、のうせんのへん、にせんよじこれをわがないしょうのじゅりょうほんとなずけ、しょせんのへん、みょうほうごじこれをほんにんみょうとなずくるなり、いましょせんをもってのうせんになずく、ゆえにないしょうのじゅりょうほんとはほんにんみょうのことなりというなり、」と。

 のうせん、しょせんのせんとは、じりをよくときあかすぎである。ないしょうのじゅりょうほんがのうせんで、みょうほうがしょせんとは、ないしょうのじゅりょうほんのせつめいするじったいはみょうほうなりということである。
 すなわち、じゅりょうほんだいじゅうろくのにせんよじのごとくなんみょうほうれんげきょうのせつめいであることは、りょうりょうとしてあきらかではないか。
 したがって、ないしょうのじゅりょうほんにより、にょらいじゅりょうほんだいじゅうろくの「にょらい」をかいしゃくするならば、にょらいとは、くおんほんがのさんじん、すなわちしきそうそうごんのほとけではない。ほんちむさのさんじん、すなわちくおんがんじょのじじゅゆうしんをにょらいというのである。
 しかして、くおんはいまにあり、いまはすなわちくおんである。くおんがんじょのじじゅゆうしんとは、まったくこれまっぽうのごほんぶつにちれんだいしょうにんであらせられる。ゆえに、まっぽうこんじ、ないしょうのじゅりょうほんだいじゅうろくのにょらいとは、にちれんだいしょうにんのおんことなのである。おんぎくでんになんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくとおおせあるのは、このことにほかならない。
 さきにのべたごとく、もんじょうのじゅりょうほんは、しゃくそんが、いつ、どこで、どのようにしてほとけになることができたかをあかし、それによってしゃくそんじしんのせいめいのうえに、じょうじゅうのせいめいをときあかしたものであった。いうなれば、しゃくそんというぶっしんにやくしてのせっぽうであった。しゃくそんのぶっぽうをほんがみょうのぶっぽうというのはそのためである。

 しかしながら、ごひゃくじんでんこうというときをげんていし、そのときいぜんにはほとけではなく、ぼさつどうをしゅぎょうしたとといている。しかもそのほとけもしきそうそうごんのりそうぶつのすがたであった。これすなわち、ごひゃくじんでんこうのほとけは、つくられたほとけであり、すいじゃくのほとけであることをしめすものであり、むしむしゅうのほとけとはいえないのである。したがって、そこに、じょうぶつのほんげんがあるのでもなければ、じょうぶつのじったいがあるのでもない。

 しんじつのむしむしゅうのほとけは、もんていにときあかされるのである。くおんがんじょとは、ごひゃくじんでんこうというげんていされたときではない。じかんにやくしていえばむしむしゅうであり、くうかんにやくしていえば、だいうちゅうそれじたいであり、そのじったいは、いっさいほうのこんげんであり、かつあらゆるものをへんかさせ、るてんせしめていくほんげんりょくたるなんみょうほうれんげきょうなのである。

 ゆえにおんぎくでんげには、「くおんとは、はたらかさず.、つくろわず、.もとのまま」(0759-だい23 くおんのこと)ととき、けつろんして「くおんとはなんみょうほうれんげきょうなり」と、おおせられたのである。

 したがって、そのほとけのすがたも、さんじゅうにそうはちじゅうしゅこうをそなえた、しきそうそうごんのほとけではない。ただぼんぷのとうたい、ほんぬのすがたで、そのままくきょうのしんぶつなのである。
 にちれんだいしょうにんは、まっぽうに、くおんがんじょじじゅゆうしんのさいたんとしてごしゅつげんになり、ぼんぷのとうたい、ほんぬのままで、いっさいしゅじょうのなかにとびこまれ、くおんがんじょのみょうほう、まんぽうのこんげん、だいうちゅうのいっさいのへんげのほんげんりきたるなんみょうほうれんげきょうをいっぷくのだいごほんぞんとしてあらわされ、いっさいしゅじょうにあたえられたのである。
これこそ、まっぽうのようほう、いっさいしゅじょうのかいじょうぶつどうのほうであるとつよくかくしんすべきである。

りょうじゅうのそうべつについて。
 にちかんしょうにんは、ほっけしゅようしょうもんだんにおいて、ほんちむさのさんじんについて、りょうじゅうのそうべつが、あるとのべておられる。
 それによれば、ほんちむさのさんじんとは、いちにはそうじてこれをろんずれば、いっさいしゅじょうであり、べっしてこれをいえば、にちれんだいしょうにんのまっていである。
 にには、そうじてこれをいえばにちれんだいしょうにんのまってい、べっしてこれをろんずれば、ただにちれんだいしょうにんのみが、しんじつくきょうのほんちむさのさんじんである。
 そうべつのそうとは、ぜんたい、べつとはこべつのこころである。だが、さらにそうとは、ぜんたいてき、そうたいてき、いっぱんろんてきな、たちばであるのにたいし、そのもののしょういがいずこにあるかを、せんじつめてこべつてきにろんずるたちばは、べつである。したがって、そうとはいちおうのひょうめんてきなたちばであり、べつとはさいおうのさらにふかく、つっこんでかんがえたたちばとするばあいがおおい。ここにおけるりょうじゅうのそうべつのばあいは、このいみである。
 そやどのごへんじにいわく、「そうべつの、にぎ、すこしもあいそむけば、じょうぶつおもいもよらず、りんねしょうじのもといたらん」(1055-11)と。そうべつのにぎを、わきまえることがいかに、じゅうようなことであるかは、このもんにて、めいはくである。もし、そうべつのにぎをわきまえなければ、まっぽうのごほんぶつもしらず、ただ、ふこうのちまたを、るてんするのみである。
 いっさいしゅじょうが、みょうほうのとうたいであり、ほんちむさのさんじんであるというのは、りにやくし、そうたいてきに、いっぱんろんてきにろんじたものである。げんじつには、くのうのせいかつにしんぎんしているしゅじょうが、どうしてほんちむさのさんじんといえるであろうか。しんじんのないものは、ほんちむさのさんじんとはいえない。しんじんなくば、いっしんはむみょうにおおわれ、そのほんしつは、さんあくどう、しあくしゅにほかならない。ゆえに、しんじんにやくし、べっしてほんちむさのさんじんをろんずれば、ただ、だいごほんぞんをゆいいつむにとしんずるひとが、ほんちむさのさんじんなのである。

すなわち、われらのせいめいはこんごうふえのぶっしんとあらわれるからむさのほっしんである。またぶっちがゆげんし、じんせい、しゃかい、じだいのちょうりゅうを、とうてつしたまなこでみていけるのは、むさのほうしんである。
また、じじつのせいかつのうえに、くどくがあらわれ、ふくうんにみちみち、いきいきとしたひびのこうどうを、していけるのはむさのおうじんである。

 だが、さらにろんきゅうすれば、われわれがむさのさんじんの、とうたいであるというのは、そうじてのたちばであり、べっしていえば、にちれんだいしょうにんのみ、むさのさんじんのとうたいであらせられる。

 われわれがだいごほんぞんをしんじて、むさのさんじんとひらくことができるのは、だいごほんぞんそれじたいがまったくむささんじんにょらいたるにちれんだいしょうにんのぜんせいめいであるからにほかならない。じだいのいかんをとわず、みんぞくのいかんをとわず、だれひとであれ、このだいごほんぞんしんずるならば、わがみみょうほうのとうたいとあらわれるのである。
 すなわち ぜんせかいのあらゆるみんしゅうが、きぶくすべきだいごほんぞん、そくにちれんだいしょうにんこそ、べっしてむさのさんじんの、とうたいであることはめいはくである。

 いじょうのかんけいについて、とうたいぎしょうには、めいかくにたてわけてとかれている。
 まず、ぼうとうには、「とう、みょうほうれんげきょうとはそのたいなにものぞや」(0510-01)という、といにたいし、「こたう、じっかいのえしょう、すなわちみょうほうれんげのとうたいなり」(0510-01)とのべられ、さらに「とう、もし、しかればわれらがごときいっさいしゅじょうも、みょうほうのぜんたいなりといわるべきか」(0510-01)。とのかさねてのといにも、「こたう、もちろんなり」(0510-02)として、ほうべんぽんだいにの、「しょいしょほう、ないし、ほんまつくきょうとう」のもん、みょうらく、なんがく、てんだいのしゃくをひいて、ろんしょうされている。

 これは、そうじて、りにやくしてろんじたものである。
だが、つぎのだんにいたり、べっしてしんじんにやくして、ろんじられている。
 「しょせん、みょうほうれんげのとうたいとは、ほけきょうをしんずるにちれんがでしだんなとうの、ふぼしょしょうのにくしんこれなり。しょうじきにほうべんをすて、ただほけきょうをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となうるひとはぼんのうごうくの、さんどう、ほっしん、はんにゃ、げだつのさんとくと、てんじてさんかん、さんたい、そくいっしんにあらわれ、そのひとのしょじゅうのところは、じょうじゃっこうどなり。
のうごしょご、しんど、しきしん、くたいくゆう、むささんじんのほんもんじゅりょうの、とうたいれんげのほとけとは、にちれんがでしだんなとうのなかのことなり」。(0512-09)
 このおんふみによれば、だいごほんぞんをしんじたひとのみが、とうたいれんげのほとけである。
「にちれんがでしだんならのなかのことなり」の「なか」について、にちかんしょうにんは、「しょうしんにあたる」とよまれている。
すなわち、かたちのうえではにゅうしんしていても、しんじんのないものは、とうたいれんげのほとけとはいえないのである。ただ、だいごほんぞんをふかくしんじたてまつり、こうせんるふのためにまいしんするひとこそ、しょうしんのものでり、とうたいれんげのほとけとあらわれるのである。
 だが、これは、そうじてのたちばである。べっしていえばにちれんだいしょうにんこそ、とうたいれんげのほとけで、あることはつぎのもんにあきらかである。
 「とう、こつしょよりこのかたなんびとか、とうたいのれんげをしょうとくせしや、こたう、しゃくそんごひゃくじんでんごうのそのかみ、このみょうほうのとうたいれんげをしょうとくして、せぜばんばんにじょうどうをとなえ、のうしょう、しょしょうのほんりをあらわしたまえり」(0513-14)。
 「ごひゃくじんでんこうのそのかみ」とは、くおんがんじょのことである。そのかみとは、がんじょのいみょうである。くおんがんじょのしゃくそんとは、くおんがんじょのじじゅゆうしんにょらい、そく、にちれんだいしょうにんであらせられる。
すなわち、にちれんだいしょうにんこそ、くおんがんじょいらい、むしむしゅうのとうたいれんげの、ほとけであることをのべられたおんふみである。
 いじょうの、りょうじゅうのそうべつのぎよりすれば、にちれんだいしょうにんこそ、むささんじんの、とうたいれんげのほとけであることは、あまりにもめいはくであり、これをしらぬやからは、もうもくのもの、じゃけんのものというべきであろう。

そうじて、ふくわくをもって、じゅりょうほんのごくとせず、ただぼんぷのとうたいほんぬのままを、このほんのごくりとこころうべきなり。

 このおんふみは、さきの「ろくそくの、はいりゅうのときは、このほんのにょらいは、りそくのぼんぷなり」のもんを、うけているのである。
 このなんみょうほうれんげきょうにょらいの、にょらいとは、けっして、しきそうそうごんのほとけではなく、すがた、かたちは、なんらりそくのぼんぷとことならない。
ぼんぷのすがたそのままで、くきょうそくのほとけである。とのこころが、さきのもんのこころである。
そしてそのもんをうけて、ないしょうのじゅりょうほんのこころは、ふくわくにあるのではない。ただぼんぷの、とうたいほんぬのままのほとけをときあかしたのが、ないしょうのじゅりょうほんのきゅうきょくであると、けつろんづけられたのである。
 りそくとは、りのうえでぶっかいをぐしている、しゅじょうのことである。いっさいしゅじょうが、みょうほうのとうたいであるというのは、このりそくを、あらわしていることにほかならない。
ぶっしょうをぐしているとはいえ、りそくのしゅじょうは、げんじつには、じゃけんにおおわれ、くのうのじゅうまんせる、まよいのしゅじょうなのである。
 しかるに、ほとけといえども、なんらこれらのしゅじょうとことならない。にぜんごんきょうには、くらいのしだいをといているため、りそくのぼんぷが、くきょうそくのほとけになるためには、わくをふして、しだいにしょうしんして、いくいがいになかった。
 だが、ほけきょうにおいては、くらいのしだいはなく、そくしつとんじょうのほうもんが、とかれているのである。

 さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく。
 「じゅっほうかいの、えほう、しょうほうはほっしんのほとけ、いったいさんじんのとくなりとしって、いっさいのほうは、みなこれぶっぽうなりとつうたつし、げりょうするこれをみょうじそくとなす、みょうじそくのくらいよりそくしんじょうぶつす、ゆえにえんどんのきょうには、じいのしだいなし。
ゆえにげんぎにいわく、「まつだいのがくしゃ、おおくきょうろんのほうべんのだんぶくをしゅうして、じょうとうす、みずのしょうのひやかなるがごときも、のまずんばいずくんぞしらん」いじょう。
てんだいのはんにいわく、「じいのこうもくは、にんのう、ようらくにより、だんぶくのこうげはだいぼん、ちろんによる」いじょう。
にんのう、ようらく、だいほん、だいちどろんこのきょうろんは、みなほっけいぜんのはちきょうの、きょうろんなり、ごんきょうのぎょうは、むりょうこうをへてしょうしんする、じいなればくらいのしだいをとけり、いまほっけは、はちきょうにこえたる、えんなればそくしつとんじょうにして、こころと、ほとけと、しゅじょうとこのみっつは、わがいちねんのしんちゅうにおさめて、こころのほかに、ほうなしとかんず 」(0566-14)と。
 ここに、ほけきょうとあっても、そのがんいは、ほけきょうほんもんじゅりょうほんのもんていたる、さんだいひほうであることは、いうまでもない。
 しゃかぶっぽうは、りろんてきにはそくしつとんじょうをといても、げんじつにはしきそうそうごんの、ほとけのいきをだっしていないからである。
このてんについては、ぜんじゅつしたとおりである。
 ここに、みょうじそくから、ただちに、そくしんじょうぶつするとあるのは、にちれんだいしょうにんの、ぶっぽうにおいては、しんじんこそじょうぶつのようていであり、しんじんのなかに、じょうぶつはおさまっていることを、いみするのである。
にちかんしょうにんは、みょうじそくとは、しんじんであるとおおせである。
また、しんじんごうじょうなるを、ぶっかいというのであるともおおせである。
したがって、おんぎくでんげにも、「このむさのさんじんをば、いちじをもってえたりいわゆる、しんのいちじなり」(0753-だいに、にょらいひみつじんつうしりきのこと-03)ととかれているのである。
 それでは、まっぽうのぶっぽうにおいては、まったくかんぎょうそく、そうじそく、ぶんしんそくとうは、ないのかというとそうではない。ただし、これは、ごんきょうなどのくらいのしだいや、てんだいのはいりゅうではもうとうない。
しんじんのうえのかんぎょうそく、しんじんのうえのそうじそく、しんじんのうえのぶんしんそくにほかならない。
いっさい、しんじんのなかに、ほうがんされるものであり、みょうじそくのなかにおさまるものである。
ゆえに、まつだいりそくのぼんぷが、だいごほんぞんをしんじたてまつるならば、それがみょうじそくであり、そく、くきょうそくのほとけとあらわれるのである。










  • [245]
  • 立正観抄 りつしょうかんしょう 、ほっけしかんどういけつ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月30日(日)16時24分29秒
 
りつしょうかんしょう 、ほっけしかんどういけつ。
    しっぴつ。ぶんえい、じゅういちねん。。
      たいごう。さいれんぼう、にちじょう。
              p527
 ほっけ、しかんどういけつ。          にちれん、せん。
 とうせい、てんだいのきょうほうを、しゅうがくするのともがらおおく、かんじんしゅぎょうを、とうとんで、ほっけ、ほんじゃくにもんを、すつとみえたり。
 いま、とう、そもそもかんじん、しゅぎょうというは、てんだいだいしの、まかしかんの、せつこしんちゅうしょぎょうほうもんの、いっしんさんがん、いちねんさんぜんの、かんによるか。
 はたまた、よ、るふの、だるまのぜんかんに、よるか、もし、だるまのぜんかんによるといわば、きょうぜんは、みけんしんじつ、もうごほうべんのぜんかんなり。ほけきょう、みょうぜんのときには、しょうじきしゃほうべんとすてらるるぜんなり。
そし、だるま、ぜんはきょうげべつでんの、てんまぜんなり、ともに、これむとくどう、もうごのぜんなり、よって、これをもちゆべからず、もしてんだいの、しかん、いっしんさんがんによるとならば、しかんいちぶの、はいりゅう、てんだいのほんいにそむくべからざるなり。
もし、、しかんしゅぎょうの、かんじんによるとならば、ほけきょうに、そむくべからず、しかんいちぶは、ほけきょうによつて、こんりゅうす、いっしんさんがんのしゅぎょうは、みょうほうのふかとくなるをかんとくせんがためなり。
ゆえにしんぬ、ほけきょうをすてて、ただかんをしょうとするのやからは、だいほうぼう、だいじゃけん、てんまのしょいなることを。
 そのゆえは、てんだいの、いっしんさんがんとは、ほけきょうによつて、さんまい、かいほつするを、こしんしょうとくのしかんとはいうゆえなり。
 とう、てんだいだいし、しかんいちぶならびに、いちねんさんぜん、いっしんさんがん、こしん、しょうとくの、みょうかんは、しかしながら、ほけきょうによるという、しょうこいかん、
 こたう、よ、はんきつしていわく、ほけきょうによらずとみえたるしょうもんいかん。
 ひと、これを、いだしていわく、「このしかんは、てんだいちしゃ、こしんちゅう、しょぎょうのほうもんをとく、あるいは、また、ゆえに、しかんにいたつてただしく、かんぽうをあかす、ならびに、さんぜんをもってしなんとなす、すなわちこれ、しゅうぐくきょうのごくせつなり。
 ゆえに、じょのなかに、せつこしんちゅうしょぎょうほうもんといえり、まことにゆえあるなり」、もん。
 なんじていわく、このもんは、まったく、ほけきょうによらずというもんに、あらず、すでに、せつこしんちゅうしょぎょうの、ほうもんというがゆえなり。
 てんだいの、しょぎょうのほうもんは、ほけきょうなるがゆえに。
このこころは、ほけきょうによるとみえたるしょうもんなり、ただし、たしゅうにたいするのときは、もんどう、たいこうをぞんすべきなり。
いわゆる、いうべし、もし、てんだいのしかん、によらずといわば、すみやかにすつべきなりと、
P528
そのゆえは、てんだいだいし、かねて、やくそくしていわく、「すたらとあわせば、ろくしてこれを、もちいよ、もんなくぎなきは、しんじゅすべからず」、うんぬん。
でんきょうだいしのいわく、「ぶっせつに、えひょうしてくでんを、しんずることなかれ」もん、りゅうじゅの、だいろんにいわく、「すたらによるは、びゃくろんなり、すたらによらざるは、こくろんなり」、もん。
きょうしゅしゃくそんのたまわく、「えほう、ふえにん」、もん、てんだいは、ほけきょうにより、りゅうじゅをこうそにしながら、きょうもんにたがいし、わがげんを、ほんじて、げどうじゃけんのほうに、よつて、しかんいちぶを、しゃくすること、まったくあるべからざるなり。
 とう、ただしく、しかんは、ほけきょうによるとみえたる、もんこれありや。
 こたう、あまりにおおきがゆえに、しょうしょうこれを、いださん、しかんにいわく、「ぜんとふじょうとは、おいてろんぜず、こんきょうによつて、さらに、えんどんをあかさん」、もん。
ぐけつにいわく、「ほけきょうのむねを、あつめて、ふしぎ、じゅうじょう、じゅうきょう、たいぜつめつぜつ、じゃくしょうのぎょうをじょうず」、もん。
 しかんたいいにいわく、「こんけのきょうもんは、りゅうじゅをもってしそとなす、えもんは、ただ、ないかんを、つらねて、しちょうするのみ、なんがく、てんだいに、およんで、また、ほっけざんまい、だらにをはっするによつて、ぎもんをかいたくして、かんぽうしゅうびす。
 ○もし、ほっけをしゃくするには、いよいよすべからくごんじつ、ほんじゃくを、ぎょうりょうすべし、まさにぎょうをたつべし。
 このきょう、ひとり、みょうとしょうすることをえ・まさに、ここによつて、もって、かんいをたつべし、
ごほうべん、および、じゅうじょうきぎょうと、いうは、すなわち、えんどんしかん、まったく、ほっけによる、えんどんしかんは、すなわち、ほっけざんまいの、いみょうなるのみ」、もん。
 もんぐのきにいわく「かんときょうとがっすればたのたからをかぞうるにあらず、まさにしんぬ、しかんいちぶはこれ、ほっけざんまいのせんていなり、もしこのこころをえれば、まさにきょうしにかなう」うんぬん。
 とうどのにんし、ぎょうまんのしゃくせる、がく、てんだいしゅうほうもんたいいにいわく、「まかしかんいちぶの、たいいは、ほっけざんまいのいみょうをいでず、きょうによつてかんをすしゅう」もん。
 これらのもんしょうふんみょうなり、だれかこれをろんぜん。
とう、てんだいししゅのしゃくをつくるのとき、かんじんのしゃくにいたつて、ほんじゃくのしゃくを、すつとみえたり、また、ほけきょうは、ぜんきのために、これをとき、しかんは、じきたつのきのために、これをとくといかん。
 こたう、ざんきのためにとけばおとり、とんきのためにとけばまさるとならば、いまの、てんだいしゅうのこころは、けごん、しんごんなどのきょうは、ほけきょうにすぐれたりと、ういべきや。
 いまの、てんだいしゅうの、あさましさは、しんごんはじりくみつのきょうなるゆえに、ほけきょうにすぐれたりといえり、ゆえに、しかんは、ほっけにまさるといえるも、どうりなり、どうりなり。
 つぎに、かんじんのしゃくのとき、ほんじゃくをすつという、なんは、ほけきょう、いずれのもん、にんしのしゃくをほんとなして、ぶっきょうをすてよとみえたるや。
P529
たとい、てんだいのしゃくなりとも、しゃくそんのきんげんにそむき、ほけきょうにそむかば、まったくこれをもちゆべからざるなり。
 えほうふえにんのゆえに、りゅうじゅ、てんだい、でんきょう、もとよりのおやくそくなるがゆえなり。
そのうえ、てんだいのしゃくのこころは、しゃくのたいきょうおこれば、にぜんのたいきょうぼうじ、ほんの、たいきょうおこれば、しゃくのたいきょうぼうじ、かんじんのたいきょうおこれば、ほんのたいきょうぼうずと、しゃくするはほんたいの、ほんぽうをば、みょうほうふしぎのいっぽうに、とりさだめてのうえに、しゅぎょうをたつるのとき、いま、ぞうほうのしゅぎょうは、かんじんしゅぎょうを、せんとするに、しゃくをたずぬれば、しゃく、ひろし、ほんをたずぬれば、ほん、たかうして、きわむべからず。
 ゆえに、まつがくきにかないがたし、ただ、こしんのみょうほうをかんぜよという、しゃくなり、しかりといえども、みょうほうをすてよとは、しゃくせざるなり、もしみょうほうをすてば、なにものを、こしんとなして、かんずべきや。
 にょいほうじゅをすて、がしゃくをとつて、たからとなすべきか、かなしいかな、とうせい、てんだいしゅうの、がくしゃは、ねんぶつ・しんごん・ぜんしゅう・などに、どういするがゆえに、てんだいのきょうしゃくをならい、うしなつて、ほけきょうにそむき、だいほうぼうのつみをえるえなり。
 もし、しかんをほけきょうに、まさるといわば、しゅじゅのとが、これあり、しかんは、てんだいのどうじょうしょとくのこしょうなり、ほけきょうは、しゃくそんのどうじょうしょとくの、だいほうなり、[これいち]、
 しゃくそんは、みょうかくかまんのほとけなり、てんだいは、じゅうぜんみしょうなれば、みょうじかんぎょう、そうじには、すぐべからず、よんじゅうにじゅうのれつなり、[これに]。
 ほっけは、しゃくそんないし、しょぶつしゅっせのほんかいなり、しかんは、てんだいしゅっせのこしょうなり、[これさん]。
 ほけきょうは、たほうのしょうみょうあり、らいじゅうのぶんしんはこうちょうぜつをだいぼんてんにつく、かいぜしんじつの、だいびゃくほうなり、[これよん]。
 しかんは、てんだいのせっぽうなり、かくのごときとうの、しゅじゅのそうい、これあれども、なおこれをりゃくするなり。
 また、つひとの、もんどうにいわく、しょひの、き じょうきなるゆえにまさるといわばじつをすてて、ごんをれとてんだいいわく、「きょういよいよごんなればくらいいよいよたかし」としゃくしたまうゆえなり、
 しょひのきげれつなるゆえに、おとるといわばごんをすててじつをとれ。
 てんだいのしゃくには、きょういよいよじつなれば、くらいいよいよひくしとういゆえなり。
 しこうしてしかんは、じょうきのためにこれをとき、 ほっけは、げきのために、これをとくといわば、しかんは、ほっけにおとれるゆえに、きをたかくとくときこえたり、じつにさもやるあらん。
 てんだいだいしは、りょうぜんのちょうしゅうとして、にょらいしゅっせのほんかいを、のべたもうといえども、ときいたらざるがゆえに、みょうほうのみょうじをかえて、しかんとごうす、しゃっけのしゅなるがゆえに、ほんげのふぞくを、ひろめたまわず、しょうじきのみょうほうを、しかんととき、まぎらかすゆえに、ありのままの、みょうほうならざれば、たいごんのほうににたり、ゆえにしんぬ、てんだいぐつうのしょけのきは、ざいせ、たいごんのえんきのごとし、ほんげぐつうのしょけのきは、ほっけほんもんのじききなり、しかんほっけは、まったく、たいどうといわん。
P530
なおにんしのしゃくをもって、ぶっせつにどうずるとが、じんじゅうなり。
 いかにいわんや、しかんは、ほけきょうにまさるというじゃぎを、もうしいだすは、ただこれ、ほんげのぐきょうと、しゃっけのぐつうと、ぞうほうとまっぽうと、しゃくもんのふぞくと、ほんもんのふぞくとを、まっぽうのぎょうじゃに、いいあらわさせんための、ぶってんのおんはからいなり。
 ここにしんぬ、とうせい、てんだいしゅうのなかに、このぎをいうひとは、そし、てんだいのためには、ふちおんのひとなり、あに、そのとかをまぬがれんや。
 それ、てんだいだいしは、むかし、りょうぜんにありては、やくおうとなずけ、いま、かんどにありては、てんだいとなずけ、にほんこくのなかにては、でんきょうとなずく、さんぜのぐつう、ともにみょうほうとなずく。
 かくのごとく、ほけきょうをぐつうしたまうひとは、 ざいせのしゃくそんよりほかは、さんごくに、そのなをきかず、ありがたくおわします、だいしを、のそまつがく、そのきょうしゃくを、あしくなろうて、とがなき、てんだいに、とがを、かけたてまつる、あに、だいざいにあらずや。
 いまとう、てんだいのほんいは、いかなるほうぞや、せきがくなどのいわく、「いっしんさんがんこれなり」、いまいわく、いちじつえんまんの、いっしんさんがんとは、まことにじんしんなるににたれども、なおもって、ぎょうじゃしゅぎょうの、ほうほうなり、さんがんとは、いんのぎなるがゆえなり。
 じかくだいしのしゃくにいわく、「さんがんとは、ほったいをえせしめんがための、しゅかんなり」うんぬん、でんきょうだいしいわく、「いま、しかんしゅぎょうとは、ほっけのみょうかを、じょうぜんがためなり」うんぬん、ゆえにしんぬ、いっしんさんがんとは、・かじ、かとくのほうもんを、じょうぜんがための、のうかんのこころなることを、いかにいわんや、さんがんとは、げんせつにいでたるほうなるゆえに、にょらいのかじかとくのみょうほうにたいすればかしぎのさんがんなり。
 とう、いっしんさんがんに、すぐれたるほうとは、いかなるほうぞや、
 こたう、このこと、まことにいちだいじのほうもんなり、ゆいぶつよぶつの、きょうがいなるがゆえに、われらがげんせつにいだすべからざるがゆえに、これをもうすべらざるなり。
 これをもって、きょうもんには、「わがほうは、みょうにして、おもいがたし、ことばをもってのべからず」うんぬん、
 みょうかくかまんのほとけすら、なおふかせつ、ふしぎのほうと、ときたまう、いかにいわんや、とうかくのぼさつ、いか、ないし、ぼんぷをや。
 とう、みょうじをきかずんば、なにをもって、しょうほうありとしることをえんや。
 こたう、てんだいこしょうのほうとは、これなり、とうせいのがくしゃは、けちみゃくそうじょうを、ならいうしなうゆえに、これをしらざるなり、
 ゆえに、あいかまえ、あいかまえて、ひすべく、ひすべきほうもんなり。
 しかりといえども、なんじがこころざし、しんみょうなれば、そのなをいだすなり、いちごんのほうこれなり、でんきょうだいしの、いっしんさんがん、いちごんにつたうとかきたまう、これなり。
 とう、いまだ、そのほったいを、きかずいかん、
 こたう、しょせん、いちごんとは、みょうほうこれなり。

とう、いっしんさんがんにすぐれたるほうとは、いかなるほうぞや。
 こたう、このこと、まことにいちだいじの、ほうもんなり、ゆいぶつよぶつのきょうがいなるがゆえに、われらがげんせつにいだすべからざるがゆえに、これをもうすべらざるなり。
 これをもってきょうもんには、「わがほうは、みょうにしておもいがたし、ことばをもってのぶべからず」、うんぬん。
みょうかくかまんのほとけすら、なおふかせつ・ふしぎのほうと、ときたまう、いかにいわんや、とうかくの、ぼさつ、いか、ないし、ぼんぷをや、
とう、みょうじをきかずんば、なにをもって、しょうほうありとしることを、えんや、
こたう、てんだいこしょうのほうとは、これなり、とうせいのがくしゃは、けちみゃくそうじょうを、ならいうしなうゆえに、これをしらざるなり、ゆえに、あいかまえ、あいかまえてひすべく、ひすべき、ほうもんなり、
 しかりといえども、なんじがこころざし、しんみょうなれば、そのなをいだすなり、いちごんのほうこれなり、
 でんきょうだいしの、いっしんさんがん、いちごんにつたうとかきたまう、これなり。
 とう、いまだそのほったいをきかず、いかん。
 こたう、しょせんいちごんとは、みょうほうこれなり。
 とうなにをもってみょうほうは、いっしんさんがんにすぐれたりということをしることをえるや。
 こたう、みょうほうは、しょせんのくどくなり、さんがんは、ぎょうじゃのかんもんなるゆえなり、このみょうほうを、ほとけといていわく、「どうじょうしょとくほう・がほうみょうなんし・ぜほうひしりょう・ふかいごんせん」うんぬん。
 てんだいのいわく、「みょうは、ふかしぎ・ごんごどうだん・しんぎょうしょめつなり、ほうはじっかい・じゅうにょ・いんがふにのほうなり」と。
 さんたいというも、さんがんというも、さんぜんというも、ともにふしぎほうとはいえども、てんだいのこしょう、てんだいのごしりょのおよぶところのほうもんなり。 このみょうほうは、しょぶつのしなり、いまのきょうもんのごとくならば、くおんじつじょうの、みょうかくごくかのほとけの、きょうがいにして、にぜんしゃくもんのきょうしゅ、しょぶつ、ぼさつのきょうがいにあらず、きょうにゆいぶつよぶつ、ないのうくじんとは、しゃくもんの、かいにょさんぜんのほうもんをば、しゃくもんのほとけが、とうぶん、くきょうのへんをとけるなり。
 ほんちなんしのきょうちのみょうほうは、しゃくぶつなどの、しりょにおよばず、いかにいわんや、ぼさつ、ぼんぷをや、しかんのにじをば、かんみょうぶっち、しみょうぶっけんと、しゃくすれども、しゃくもんの、ぶっち、ぶっけんにして、みょうかく、ごくかの、ちけんにはあらざるなり。
 のそゆえは、しかんはてんだいこしょうの、かいにょさんぜん、さんたいさんがんを、しょうとなす、しゃくもんのしょうい、これなり。
 ゆえにしんぬ、しゃくぶつの、ちけんなりとういことを、ただ、しかんに、ぜつたいふしぎのみょうかんを、あかすといえども、ただ、いちねんさんぜんの、みょうかんに、しばらく、あたえて、ぜったいふしぎと、なずけるなり。


 とう、てんだいだいし、しんじつに、このいちごんの、みょうほうをしょうとくしたまわざるや。
 こたう、ないしょうしからざるなり、げゆうにおいては、これを、ぐつうしたまわざるなり、いわゆる、ないしょうのへんをば、ひして、げゆうには、さんがんとごうして、いちねんさんぜんのほうもんを、じげんしたまなり。
 とう、なにがゆえぞ、しりながら、ぐつうしたまわざるや。
 こたう、とき、いたらざるがゆえに、ふぞくにあらざるがゆえに、しゃっけなるがゆえなり。
 とう、てんだい、このいちごんのみょうほうを、しょうとくしたまえる、しょうこ、これありや。
 こたう、このこと、てんだいいっけのひじなり、よにるふせる、がくしゃこれをしらず、かんちょうげんしのけつみゃくとて、てんだいだいし、じひつのけつみゃくいっし、これあり、てんだい、ごにゅうめつののちは、せきとうのなかに、これあり。
 でんきょうだいし、ごにっとうのとき、やつしたのかぎをもって、これをひらき、どうずいわじょうより、でんじゅしたまう、けつみゃくとはこれなり。
 このしょにいわく、「いちごんのみょうし、いちきょうのげんぎ」もん。
 でんきょうだいしの、けつみゃくにいわく、「それ、いちごんのみょうほうとは、りょうげんをひらいて、ごじんのきょうをみるときは、ずいえんしんにょなるべし、りょうげんをとじて、むねんにじゅうするときは、ふへんしんにょなるべし。
 ゆえに、このいちごんをきくに、ばんぽうここにたっし、いちだいのしゅたら、いちごんにがんす」もん。 このりょうだいしの、けつみゃくのごとくならば、てんだいだいしの、けつみゃくそうじょうの、さいようのほうは、みょうほうのいちごんなり。
 いっしんさんがんとは、しょせんみょうほうを、じょうじゅせんための、しゅぎょうのほうほうなり。 P532
 さんがんは、いんのぎ・みょうほうは、かのぎなり、ただ、いんのところに、かあり、かのところに、いんあり、いんがぐじの、みょうほうをかんずるがゆえに、かくのごとき、こうのうをえるなり。
 ここにしんぬ、てんだいしごくのほうもんは、ほっけほんじゃく、みぶんのところに、むねんのしかんをたてて、さいひの、だいほうとす、と、いえる。
 じゃぎ、だいなるびゃくけんなりということを、しえぐきょうの、だいさったは、すでに、ぶっきょうによつて、しょろんをつくる、てんだい、なんぞ、ぶっせつにそむいて、むねんのしかんをたてたまわんや。
 もしこのしかん、ほけきょうによらずといわば、てんだいのしかん、きょうげべつでんの、だるまのてんまのじゃほうにどうぜん、すべて、しかるべからず、あわれなり、あわれなり。
 でんきょうだいしのいわく、「こくしゅのせいにあらざれば、もってじゅんぎょうするなく、ほうおうのきょうに、あらざれば、もってしんじゅすることなけん」と、もん。
 またいわく、「しえ、ろんをつくるに、ごんあり、じつあり、さんじょう、むねをのぶるに、みっつあり、ひとつあり、ゆえに、てんだいちしゃは、さんじょうのむねにじゅんじて、しきょうのかいをさだめ、いちじつの、きょうによつて、いちぶつじょうをたつ。
 ろくどにべちあり、かいど、なんぞ、おなじからん、じゅほう、おなじからず、いぎ、あにおなじからんや。
 このゆえに、てんだいのでんぽうは、ふかく、しえにより、また、ぶっきょうにしたがう」もん。
 ほんちょうの、てんだいしゅうのほうもんは、でんきょうだいしより、これを、はじむ、もし、てんだいのしかん、ほけきょうによらずといわば、にほんにおいては、でんきょうのこうそにそむき、かんどにおいては、てんだいにそむく、りょうだいしのでんぽう、すでに、ほけきょうによる、あにそのまつがく、これに、いせんや。
 いするをもってしんぬ、とうせいのてんだいけのひとびと、そのなを、てんだいさんにかるといえども、しょがくのほうもんは、だるまのびゃくけんと、ぜんむいのもうごとに、よるということ。
 てんだい、でんきょうの、げしゃくのごとくんば、こしんちゅうの、ひほうは、ただ、みょうほうのいちごんにかぎるなり。
 しかして、とうせいの、てんだいしゅうのがくしゃは、てんだいのせきとうの、けつみゃくを、ひし、うしなうゆえに、てんだいのけつみゃくそうじょうの、ひほうをならい、うしないて、われと、いっしんさんがんの、けつみゃくとて、がいに、まかせて、しょをつくり、にしきのふくろにいれて、くびにかけ、はこのそこにうめて、こうじきにうるゆえに、じゃぎ、くにじゅうに、るふして、てんだいのぶっぽうはしつするなり。
 てんだいのほんいを、うしない、しゃくそんのみょうほうをくだす、これひとええに、だるまのきょうくん、ぜんむいのすすめなり。
 ゆえに、しかんをもしらず、いっしんさんがん、いっしんさんたいをもしらず、いちねんさんぜんのかんをもしらず、ほんじゃくにもんをもしらず、そうたい、ぜつたいの、にみょうをも、しらず、ほっけのみょうかんをもしらず、きょうそうをもしらず、ごんじつをもしらず、しきょう、はちきょうをも、しらず、ごじ、ごみの、せけをもしらず。
 きょう、き、じ、こく、そうおうのぎは、もうすにおよばず、じっきょうにもにず、ごんきょうにもにざるなり、どうりなり、どうりなり。 P533
 てんだい、でんきょうのしょでんは、ほけきょうはぜん、しんごんよりおとれりと、ならうゆえに、だるまのじゃぎ、しんごんのもうごと、うちなつて、ごんきょうにもにず、じつきょうにもにず、にとに、せつせざるなり。
 ゆえに、だいほうぼうざい、あらわれて、しかんは、ほけきょうにまさるという、じゃぎをもうしいだして、とがなきてんだいに、とがをかけたてまつるゆえに、こうそにそむく、ふこうのもの、ほけきょうにそむく、だいほうぼうざいのものと、なるなり。
 それ、てんだいのかんぽうを、たずぬれば、だいそどうじょうにおいて、さんまい、かいほつせしより、このかた、まなこをひらいて、みょうほうをおもえば、ずいえんしんにょなり、まなこをとじて、みょうほうをおもえばふへんしんにょなり、このりょうしゅのしんにょは、ただいちごんのみょうほうにあり、われ、みょうほうをとなうるとき、ばんぽうここにたっし、いちだいのしゅたら、いちごんにがんす。
 しょせん、しゃくもんをたずぬれば、しゃくひろく、ほんもんをたずねぬれば、ほんたかし、しかじ、こしんのみょうほうをかんぜんにはと、おぼしめされしなり。
 とうせいのがくしゃ、このこころをえざるがゆえに、てんだい、こしょうのみょうほうを、ならいうしないて、しかんは、ほけきょうにまさり、ぜんしゅうは、しかんにすぐれたりとおもいて、ほけきょうをすてて、しかんにつき、しかんをすてて、ぜんしゅうにつくなり。
 ぜんしゅうのいちもん、いわく、まつに、ふじかかる、まつ、かれ、ふじかれて、のち、いかにのぼらずして、いっしなんどいえる、てんまのことばを、ふかくしんずるゆえなり。
 しゅたらのきょうしゅは、まつのごとく、そのきょうほうは、ふじのごとし、おのおのに、じょうろんすといえども、ほとけも、にゅうめつして、きょうほうのいとくも、なし、ここにしんぬ、しゅたらの、ぶっきょうは、つきをさす、ゆびなり、ぜんのいっぽうのみ、どくみょうなり、これをかんずれば、けんしょうとくだつするなりという。
 だいほうぼうのてんまのしょいを、しんずるゆえなり。しかして、ほけきょうのほとけは、じゅみょうむりょうじょうじゅう、ふめつのほとけなり、ぜんしゅうは、めつどのほとけとみるがゆえに、げどうのむのけんなり、ぜほうじゅうほうい、せけんそう、じょうじゅうのきんげんにそむくびゃくけんなり。
 ぜんは、ほけきょうのほうべん、むとくどうのぜんなるを、しんじつ、じょうじゅうほうと、いうがゆえに、げどうのじょうけんなり。
 もし、あたえて、これをいわば、ほとけのほうべんさんぞうのぶんざいなり、もし、うばつて、これをいわば、ただげどうの、じゃほうなり、よはとうぶんのぎ、だつは、ほっけのぎなり、ほっけのだつのぎをもってのゆえに、ぜんは、てんまげどうのほうというなり。
 とう、ぜんをてんまのほうというしょうこいかん、
こたう、さきざきにもうすがごとし。

  • [244]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな ゆじゅつほんいちかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月25日(火)01時13分26秒
 
  おんぎくでんこうぎろく じょう

0750~0751 ゆじゅつほんいちかのだいじ。

0751    だいいち しょうどうのしのこと。

 おんぎくでんにいわく、ゆじゅつのいちほんは、ことごとく、ほんげのぼさつのことなり、ほんげのぼさつの、しょさとしては、なんみょうほうれんげきょうなり、これを、しょうというなり、どうとは、にほんこくのいっさいしゅじょうを、りょうぜんじょうどへ。
 いんどうすることなり、まっぽうのどうしとは、ほんげにかぎるというを、しというなり、このしだいぼさつのことを、しゃくするとき、じょのきゅうをうけて、ふしょうきのきゅうにいわく、「きょうに、しどうしありとは、いま、しとくをあらわす、じょうぎょうはがをあらわし、むへんぎょうはじょうをあらわし、じょうぎょうはじょうをあらわし、あんりゅうぎょうはぎょうをあらわす、あるときには、いちにんに、このしぎをぐす。
 にしのひょうにいづるを、じょうぎょうとなずけ、だんじょうのさいをこゆるを、むへんぎょうとしょうし、ごじゅうのくるいをこゆるゆえに、じょうぎょうとなずけ、どうじゅにして、とくまどかなりゆえに、あんりゅうぎょうとのたまうなり」と。
 いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、みな、ぢゆのるるいなり、またいわく、ひはものをやくをもってぎょうとし、みずはものをきよむるをもって、ぎょうとし、かぜはじんくをはらうをもって、ぎょうとし、だいちはそうもくをちょうずるを、もって、ぎょうとするなり、しぼさつのりやく、これなり、しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなり、
 このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、しゃくに、「ほっしょうのえんでい、げんしゅうのごく」といえり、かほうをもって、じゅうしょとす、かほうとはしんりなり、ふしょうきにいわく、「かほうとは、しょうこうのいわく、じゅうしてりにあるなり」とうんぬん、このりのじゅうしょより、あらわれいづるを、じというなり。
 またいわく、せんそうまんぼく、ぢゆのぼさつにあらずということなし、されば、ぢゆのぼさつを、ほんげといえり、ほんとは、かこくおんごひゃくじんでんよりのりやくとして、むしむしゅうのりやくなり。
 このぼさつは、ほんぽうしょじのひとなり、ほんぽうとはなんみょうほうれんげきょうなり、このだいもくはかならず、ぢゆのしょじのものにして、しゃくけのぼさつのしょじにあらず、このほんぽうのたいより、ゆうをいだして、しかんとひろめ、いちねんさんぜんという、そうじて、だいしにんしの、しょしゃくもこのみょうほうの、ゆうをひろめたまうなり、このほんぽうを、じゅじするは、しんのいちじなり、がんぽんのむみょうを、たいぢするりけんは、しんのいちじなり、むぎわっしんのしゃく、これをおもふべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ゆじゅつほんに、「このしぼさつ、そのなかにおいて、もっともこれ、じょうしゅしょうどうのしなり」とあるところについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 ゆじゅつほんのいちほんは、すべて、ほんげのぼさつである、ぢゆのぼさつのことについて、といているのである。そのぢゆのぼさつのふるまいは、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしているのである。これをしょうというのである。しょうどうこれしのどうとはにほんこくのいっさいしゅじょうに、ごほんぞんを、たもたせ、へいわでこうふくなせいかつへ、しどうすることをいうのである。まっぽうのどうし、しどうしゃとは、ぢゆのぼさつ、すなわちべっしては、にちれんだいしょうにん、そうじては、そのでしにかぎることをしというのである。
 このゆじゅつほんにしゅつげんする、じょうぎょう、むへんぎょう、じょうぎょう、あんりゅうぎょうをしゃくするとき、てんだいのもんぐのきゅうをうけて、どうせんのふしょうきのきゅうには、「ゆじゅつほんにしどうしがあるということは、じょうらくがじょうの、しとくをあらわしていうのである。じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうは、じょうをあらわし、じょうぎょうは、じょうをあらわし、あんりゅうぎょうは、ぎょうをあらわしている。
 あるときは、ひとりのせいめいに、このよんぼさつのぎをぐしているのである。ぶんだんのしょうじ、へんにゃくのしょうじを、でることをじょうぎょうとなづけ、だんけん、じょうけんのせいめいかんをこえて、えいえんのせいめいかんをえとくすることを、むへんぎょうとなづけ、さんがいのけんわく、よっかいのしわく、むしきかいのしわく、こんぽんむみょうわくとう、のごじゅうのまどいを、こえることをじょうぎょうとなづけ、そして、ぼだいじゅのように、しんじつただしいみちをあゆみ、えんまんなじんとくをもつことを、あんりゅうぎょうとなづけるのである」とある。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえるのは、すべてぢゆのぼさつのけんぞくなのである。
 また、ひはものをやくのが、そのしめいであり、じょうぎょうである。みずはものをきよめるのが、しめいであり、じょうぎょうである。かぜは、ちりやあかなどを、ふきはらうのがしめいであり、むへんぎょうである。だいちは、そうもくをいくせいするのが、しめいであって、あんりゅうぎょうである。
 しぼさつのぎょうは、ふどうであっても、ともに、なんみょうほうれんげきょうのしゅぎょうなのである。このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、てんだいはほっけもんぐで、「せいめいのおうていであり、きゅうきょくである」といったのである。かほうが、ぢゆのぼさつのじゅうしょなのである。そして、かほうとは、しんりなのである。どうせんのふしょうきには「かほうとは、じくのどうしょうのいうには、みょうほうれんげきょうのどうりにかなっていることである」とといている。
 このりのじゅうしょから、しゅつげんするのを、じというのである。また、いっさいのそうもくといえども、ぢゆのぼさつでないものはない。それゆえ、ぢゆのぼさつを、ほんげというのである。ほんとはきょうそうからいえば、ごひゃくじんでんこう、かんじんからいえばむしむしゅうの、くおんがんじょからの、りやくなのである。
 このぢゆのぼさつは、こんぽんのほうをもっているのである。ほんぽうとは、なんみょうほうれんげきょうである。このなんみょうほうれんげきょうのだいもくは、ぢゆのぼさつのたもつところであって、しゃくけのぼさつのたもちえないものである。このなんみょうほうれんげきょうの、たいからゆう、はたらきをだして、てんだいは、まかしかん、いちねんさんぜんをひろめているのである。このほんぽうを、じゅじするのはしんのいちじによるのである。じょうぶつをうたがい、ごほんぞんをうたがうという、こんぽんのまよいを、たいぢするりけんは、しんのいちじなのである。もんぐのきゅうの、「うたがいなきをしんとのたまう」という、しゃくをよくよくおもうべきである。

 ほんげのぼさつの、しょさとしては、なんみょうほうれんげきょうなり。

 ほんげのぼさつのふるまい、じっせんは、すべて、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしている。しゃくけのぼさつは、ぞう、つう、べつ、えんときょうけをうけ、きじゅくし、しょせんは、ほけきょうにじゅうはちほんをたもった、ふるまいであるけれども、ほんげのぼさつは、ほんらい、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとし、なんみょうほうれんげきょうをじゅじしきった、ふるまいなのである。ここに、しゃくけのぼさつと、こんぽんてきなそういがあるのである。
 かって、とだじょうせいぜんかいちょうは、「よのなかの、せいじかとうのしどうしゃは、しゃくけのぼさつである。われわれは、ほんげのぼさつである」と、せいかつにやくして、せつめいされたことがあった。いかにいだいなしどうしゃ、せいじかであったとしても、さんだいひほうの、ごほんぞんをたもっていなければ、こんぽんてきな、よのなかのかくめい、ひとりひとりのきゅうさいは、ぜったいにできない。
 したがって、あたらしいじだいに、あたらしいてつがくをもって、あたらしいしどうしゃが、ゆじゅつして、これからのにほんのくにの、はんえいのため、そしてまた、せかいのへいわと、こうふくのために、たたかっていくいがいにない。われわれこそ、みんしゅうのこうふく、せかいへいわをかちとる、たたかいのせんくしゃであり、しどうしゃであると、かくしんすべきである。

これをしょうというなり。
 しょうのしのしょうとは、なんみょうほうれんげきょうと、となえることである。また、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとして、だいしどうしゃになって、いっさいのみんしゅうのために、じんるいのぶんかのために、あらゆるかいそうに、たたかいをすすめて、こうけんしていくことを、いうのである。われわれの、みょうほうをこんていにした、いっさいのげんげんくくはしょうである。
 アメリカのだいとうりょうも、ロシアのさいこうしゅのうも、またフランスのだいとうりょうも、こっかのために、またはみんぞくのために、あるいは、せかいのへいわのために、ちょうじかんにわたる、えんぜつもするし、せいさくもはっぴょうする。
 また、そのた、ひょうろんかにしても、がくしゃにしても、さまざまなことをはっぴょうする。それらはぜんぶ、いちおうはしょうになるのである。だが、それらのしょうはうみょうむじつであり、かならずしもみんしゅうのこうふくにつながらない。かえって、みんしゅうに、ふあんとどうようをあたえるばあいも、た々たである。ごほんぞんをたもった、われわれの、いっさいのげんげんくくは、みょうほうれんげきょうのほうりにかない、へいわとこうふくのために、じじつのうえにつうじていくのである。

どうとは、にほんこくの、いっさいしゅじょうを、りょうぜんじょうどへいんどうすることなり。
 しょうどうのしのどうとは、にほんこくの、ぜんみんしゅうをりょうぜんじょうどへいんどうする。 ごほんぞんをたもたせ、そうかがっかいいんとして、こうせんるふにまいしんしていくことが、ちからづよいいぶきとなり、ぜんせかいへ、はきゅうしていくのである。

 まっぽうのどうしとは、ほんげにかぎるというを、しというなり。
 まっぽうのどうしとは、べっしては、にちれんだいしょうにん、そうじては、だいしょうにんのでしである。よのなかには、いろいろなしどうしゃやししょうがいる。しかし、ごじょくらんまんの、まっぽうのぜんみんしゅうを、きゅうさいしきるしんじつのしどうしゃは、ごほんぞんをじゅじしきっているものに、かぎるのである。
 このだいしょうにんの、おんふみをはいするならば、われら、ぢゆのだいぼさつが、あらゆるぶんやに、あらゆるかいそうにしんしゅつし、いっさいのひと々びとを、ゆういん、いんどうしきる、しんじつのなかのしんじつの、ししょうであり、しどうしゃたることを、かくしんすべきである。

 じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうはじょうをあらわし、じょうぎょうはじょうをあらわし、あんりゅうぎょうはらくをあらわす。
いまこのもんを、しんじんのうえからはいすれば、じょうぎょうは、なんみょうほうれんげきょうという、がをあらわす。われわれは、ろくどうりんね、きゅうかいそしてまた、じっかいのせいめいかつどうをしているけれども、そのこんぽんはなんみょうほうれんげきょうを、となえいくことである。いかなるばあいでも、ただなんみょうほうれんげきょうをとなえることを、わすれないというがである。むへんぎょうとは、いっさいほうこれぶっぽうで、いかなるせいかつ、どんなきょうぐう、どんなじだいであっても、つねに、なんみょうほうれんげきょうをわすれないことである。
 じょうぎょうは、どうように、いかなるじだいがこようとも、どんなきょうぐうであろうとも、どんなかなしいときでも、どんなつらいときでも、どんなうれしいときでも、ただ、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしたせいかつ、せいめいかつどうは、じょうのなかのじょうである。よのなかは、ごじょくらんまんであり、おごりたかぶり、にごりきった、ひとびとばかりである。
 だがれんげのはなが、ちょうど、どろぬまにさくごとく、どろぬまのような、きゅうかいのげんじつのせかいのなかで、だいもくをあげきっていく、じんせいかつどうは、もっとも、きよらかなせいめいかつどうなのである。あんりゅうぎょうは、じゅりょうほんの、「がしどあんのん」と。いかなるじだいにあっても、いかなるじたいがおころうとも、いつもなんみょうほうれんげきょうをじゅじし、となえているならば、らくである。
 すなわち、じょうらくがじょうをじょうぎょう、むへんぎょう、じょうぎょう、あんりゅうぎょうの、しぼさつからといたわけである。
 しょうじょうぶっきょうは、くじゅうめつどうであり、く、くう、むじょう、むがである。それにたいして、だいしょうにんのぶっぽうは、じょうらくがじょうである。まただいしょうにんは、「なんみょうほうれんげきょうは、かんきのなかのだいかんきなり」(0788-ごひゃくほん)ともおおせである。すなわちじょうらくがじょうである。まだまだ、いくえにもせいめいろんのたちばで、さまざまにかいしゃくができる。

 あるときには、ひとりに、このしぎをぐす、にしのひょうにいづるを、じょうぎょうとなずけ、だんじょうのさいをこゆるを、むへんぎょうとしょうし、ごじゅうのくるいをこゆるゆえに、じょうぎょうとなずけ、どうじゅにしてとくまどかなりゆえに、あんりゅうぎょうとのたまうなり。
 このもんについて、にちかんしょうにんの、かいもくしょうもんだんには、つぎのごとくとかれている。
 「にしのうらにぼっするとは、くだるぎであり、すなわち、けいばくふじざいである。にしのひょうにいずるのは、のぼるぎであり、すなわち、げだつじざいである。ゆえに、じょうぎょうは、がをあらわすのである。だんじょうをこえ、へんさいなしとは、ちゅうどうじょうじゅうであり、ゆえに、むへんぎょうはじょうをあらわすのである。ごじゅうのくるいを、こゆるとは、すなわちしょうじょうである。ゆえにじょうぎょうはじょうをあらわすのである。どうじょうぼだいじゅのしたで、まんとくえんまんすとは、あんらくにせいりつすることであり、ゆえに、あんりゅうぎょうはらくをあらわすのである。これらはべったいのぢゆである。

 つぎに、『あるときには、ひとりにこのしぎをぐす』とは、すなわち、そうたいのぢゆである。ざいせはべったいのぢゆであり、まっぽうは、そうたいのぢゆである。なぜなら、「あるとき」とは、まっぽうをさすからである。ゆえに、まっぽうのぢゆのぼさつには、じょうらくがじょうのしとくがいっしんにそなわっているのである。これこそ、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんであらせられる」。
 もし、このそうたいのぢゆを、われわれのしんじんせいかつにやくしていえば、われわれが、ごほんぞんをしんじて、しょうだいしていくならば、しぼさつのとくゆうが、わがこのいっしんに、そなわることである。
 いまそのたちばから、このもんをみていくことにする。

 「にしのひょうに、いづるをじょうぎょうとなずけ」ぶんだん、へんにゃくとうの、しょうじのくにそくばくされない、じゆうじざいのきょうがいを、じょうぎょうとなづけるのである。だいもくをとなえ、ぶっかいをゆげんした、せいかつは、なにものにもおかされない、ちからづよいせいめいかつどうの、あらわれである。じょうぎょうこそ、しんのじゆうのきょうがいなのである。
 「だんじょうのさいを、こゆるを、むへんぎょうとしょうし」だんけん、じょうけんとうの、ひくきせいめいかんをすてさり、えいえんのせいめいかんにたったとき、いっさいのいきづまりは、ことごとく、だはされ、ひろびろたる、みらいのしんきょうにいきることができる。これ、むへんぎょうのきょうがいである。「ごおうのくるいを、こえるゆえにじょうぎょうとなずけ」、ごおうのくるいとう、うちゅうのほんたい、せいめいのほんしつを、みわけることのできない、まどいからきたる。せいめいのけがれは、みょうほうのきょうりょくな、ぶっかいにてらされ、じょうかされ、しょうじょうむぜんのせいめいかつどうを、していくのである。これじょうぎょうのきょうがいである。
 「どうじゅにして」とは、どうじょうぼだいじゅのしたで、とのいみである。すなわち、しんじんせいかつにやくせば、いっさいを、ぶっぽうをこんぽんとして、にょじつちけんしていける、じんせいである。ものごとにたいして、みちすじをとおし、また、あくまでせいろんは、せいろんとして、いいきっていける、またみていけるせいかつである。
 「とくまどかなり」とは、もっとも、にんげんらしいじんかくしゃである。にんげんかくめいされきったじんかく、こじんもこうふくであり、りんじんをも、なさけをもって、こうふくにみちびいていけるじんかく、それをなづけてあんりゅうぎょうというのである。よく、とだじょうせいぜんかいちょうは、「わたしはりっぱな、へいぼんなだいぼんぷである」ともうされ、しょだいまきぐちかいちょうも、「しんじんしきったばあいには、けっきょくは、いっけんすれば、りっぱなへいぼんな、にんげんである」といわれたときく。しんじんすれば、じねんとえんまんなとくは、そなわるのである。
 むしろ、いまのゆうめいじんや、せいじかは、けんいをもち、きょえいをもち、せのびし、にんげんらしいにんげんではなく、いっしゅのかたわとなっているのである。われわれのばあいは、ありのままで、じねんと「とくまどか」な、すがたになっていくのである。せいめいのほんしつから、あらわれたじねんのすがたである。
 けっきょくこうみていくと、ごほんぞんをじゅじし、ごほんぞんにだいもくをあげていくこと、それじしんが、にしのひょうにでたことになり、だんじょうのさいを、こえたことになり、ごおうのくるいをこえたことにもなり、とくまどかなることに、なるのである。

いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、みな、ぢゆのるたぐいなり。
 しょほうじっそうしょうには、「みな、ぢゆのぼさつのしゅつげんにあらずんば、となへがたきだいもくなり」(1360-08)とある。すなわち、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、みな、ぢゆのぼさつの、けんぞくなることをいうのである。
 したがって、ほけきょうにじゅうはちほん、そして、じゅうぢゆしゅっほんに、とかれた、きょうそうにおける、ぢゆのぼさつは、このだいしょうにんの、かんじんしゃくによって、しょせんは、にちれんだいしょうにんのでしを、いみすることがわかろう。とおくきょうもんにあったものは、じつは、げんじつのわがみのうえのことなのである。
 ほけきょうをよむと、ひじょうに、すうがくてきにおおきいことが、とかれているばあいがおおい。たとえばきょうもんには、「ひゃくせんまんのくなゆたこう」とある。だがだいしょうにんのかんじんしゃくでは、それは、ひゃっかいせんにょとよむわけである。また「かんのんさんじゅうさんしん」とあるのを、だいしょうにんは、くうけちゅうのさんたいとよみ、じっかいとよみ、またほっぽうのさんじんとよむ。
 また「せんぶつのみて」とあるのを、せんにょとよむとう、けっして、きょうもんじょうのことではなく、いちぽふかく、せいかつにちょっけつしてとかれている。これがだいしょうにんのぶっぽうから、ほけきょうをかいしゃくするよみかたなのである。つぎにあげる、ゆじゅつほんのもんをきょうそうのままよんでも、げんざいのそうかがっかいのこうせんるふにむかうすがたに、ひじょうに、よくにていることが、うなずける。
 「いちいちのぼさつ、みなこれ、たいしゅうのしょうどうのしゅなり、おのおの、ろくまんごうがしゃとうの、けんぞくをひきいたり。いわんやごまん、よんまん、さんまん、にまん、いちまんごうがしゃとうの、けんぞくをひきいたるものをや。いわんや、また、ないしいちごうがしゃ、よんぶんのいち、ないし、せんまんのくなゆたぶんのいちなるをや。いわんやまた、せんまんのくなゆたのけんぞくなるをや、いわんや、また、おくまんのけんぞくなるをや。いわんやまた、せんまん、ひゃくまん、ないし、いちまんなるをや。いわんやまた、いっせん、いっぴゃく、ないしいちじゅうなるをや。いわんやまた、ご、よん、さん、に、いちのでしを、ひきいたるものをや。いわんやまた、たんごにして、おんりのぎょうをねがえるをや。これのごときとうの、るいひ、むりょうむへんにして、さんずひゆも、しることあたわざるところなり」。
 また、このきょうもんからすれば、まだまだ、しゃくぶくはできることになる、「ふつごじつぷこ」のじしんをもち、ゆうきをもって、ほまれたかく、すすんでいきたいものである。

またいわく、ひはものをやくをもって、ぎょうとし、みずはものをきよむるをもって、ぎょうとし、かぜはじんくをはらうをもって、ぎょうとし、だいちはそうもくをちょうずるをもって、ぎょうとするなり、しぼさつのりやくこれなり。
 ちすいかふうのしだいをしぼさつにはいりゅうしよむところである。
 これは、そらにあがるゆえに、じょうぎょうはひだいであり、かぜはへんさいがないゆえに、むへんぎょうはふうだいであり、みずはしょうじょうなるゆえに、じょうぎょうはすいだいであり、ちはばんぶつをあんりゅうするゆえに、あんりゅうぎょうはちだいにはいせられるのである。ふるくから、てんだいぶっぽうでは、しぼさつを、しだいにはいりゅうした、ぶんけんがのこっている。
 てんだいかのだいがくしゃといわれた、そんしゅんのしかんけんぶんのごには、「ぢゆうのしだいしは、そく、しだいなり、ちだいはばんぶつをはぐくみし、せいすいはじんくをあらい、ひだいは、かんくをふせぎ、りょうふうは、きゅうかのねつをすずます。みなこれ、ほんちのじひ、ほんがくしょせなり」とある。
 てんだいは、しぼさつのぎょうを、しだいにことよせてろんじているが、しょせんは、しぼさつとは、みょうほうれんげきょうそれじたいであることを、あらわそうとしたものである。すなわち、しぼさつとは、うちゅうほんねんに、そなわる、だいじひのせいめいかつどうであり、こじんにしゅうやくすれば、そんごくきわまりなき、みょうほうのせいめいかつどうをいう。

 しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなり。
 いっさいのうちゅうの、しんらばんしょうのなかにも、しぼさつのはたらきはある。おなじく、あるひとは、せいじかに、あるひとはじつぎょうかに、あるひとは、かがくしゃに、きょういくしゃに、あるひとは、かせいふに、あるひとはしょっこうに、あるひとは、しんぶんきしゃに、あるひとは、カメラマンにと、しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなのである。
 すなわち、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとするならば、どういうたちばであっても、いかなるきょうぐうであっても、おのおのしめいかんにたって、せいかつし、かつどうし、じんせいを、いききっていくことが、それじたい、りっぱなぶつどうしゅぎょうなのである。こうせんるふに、つながり、しゃかいをりやくしていくことに、つうじている。とのおおせである。
 これこそ、みんしゅしゅぎのげんりなのである。
 わがきょうだんは、せいじつであり、せいけつである。だんけつがつよい。がいけんからみたひとは、じゆうがないのではないかと、さっかくするであろう。これだいなるあやまりである。ひとりのにんげんが、めいれいてきにみんしゅうをひっぱっていけるとおもうことじたい、じだいさくごである。
 こんとんとしている、このにほんこくで、ほうじゅうなこのしゃかいにあって、だれが、めいれいでうごくかといいたい。わがこさえ、いけんをきかぬばあいがおおい。いわんや、なんびゃくまん、なんぜんまんのひとが、めいれいについてくるわけがぜったいにない。
 わがきょうだんは、わがわごうそうは、めいれいしゅぎでもない。えいゆうしゅぎでもない。また、そんなじだいでもなく、きこんもないのである。
 われわれは、しんじんいちずである。ゆえにつよいのである。このほんしつを、わきまえぬため、かれらはぐろんをくりかえしているにすぎないのだ。われわれは、ただ、ごほんぞんをじゅじすることをこんぽんとし、かくじんがいっしょうじょうぶつをめざしゆくことのみが、もくてきなのである。いかなるせいかつであろうが、しょくぎょうであろうが、またいかなるきょうぐうであれ、ぜんぶじゆうである。そうかがっかいは、それぞれしゅたいせいをもち、そのきょうぐうのなかから、こうせんるふをなしとげようというもくてきかんにたった、いたいどうしんのだんけつなのである。これみぞうの、しんせいきにふさわしい、だいしゅうだんのしゅつげんであり、だいしょうりのぜんしんのあしおととかくしんしたいものである。
 このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、しゃくに、「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」といえり、かほうをもって、じゅうしょとす、かほうとは、しんりなり、ふしょうきにいわく、「かほうとは、しょうこうのいわく、じゅうしてりにあるなり」とうんぬん、このりのじゅうしょより、あらわれいづるをじというなり。
 「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」とは、なんみょうほうれんげきょうのことである。すなわち、しんりのなかのしんり、せいめいのおうてい、うちゅうのほんげん、ほんたいであり、あらゆるほうり、どうりのこんぽんである。たとえば、エネルギーのこんぽん、そうもくがはんもしてゆく、そのちからのこんぽんりき、われわれがかつどうしてゆくげんせんりき、それをてんだいは「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」といったのである。
 われわれは、しんじんなきときは、りんじんのふこうをかえりみなかった。じぶんのことでいっぱいであったのである。しかし、いちど、ごほんぞんをじゅじして、せいめいりょくはわきでて、ふこうなひとをすくおうとの、じあいにみちているのである。にほんのくにのあんのんあんたいも、かんがえるようになった。せかいのみんしゅうのこうふくも、こころからねがいゆくようになった。
 これはかんねんろんではなく、じじつ、げんじつにかつどうをてんかいしているのである。これは、ぢゆのせいめいが、おうていよりゆげんしているすがたなのである。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、せいねんくんに「せいねんは、おやをもあいさぬようなものがおおいのに、どうしてたにんをあいせようか。そのむじひの、じぶんをのりこえて、ほとけのじひのきょうちをえとくする、にんげんかくめいのたたかいである」と、のべられている。ごほんぞんに、なむしたとき、ほとけのじひのきょうちに、りっきゃくし、あらゆるしゅじょうを、りやくするちからがわき、せかいへいわのため、ぜんみんしゅうのためにこうけんしていくことが、かのうになるのである。
 またおんぎくでんには、「ゆじゅつとは、じっかいのしゅじょうの、しゅつたいのそうなり」(0799-ゆじゅつほん-02)とあるごとく、ぢゆのぼさつのしゅつげんは、しとくをそなえた、そんげんなるせいめいが、ははのたいないよりゆじゅつすることを、いみするのである。
 「かほうとはしんりなり」の、しんりとは、どうりということである。かみがにんげんをつくったというふごうり、あるいは、かんねんてきなものでは、ないということである。また、かほうとは、じっさいにだいちと、とって、よいとおもう。われわれがあるくのも、だいちがなければならないし、いくら、ひこうきがとんでも、さいごは、だいちにもどってこなければならないし、とりも、やはりけっきょく、だいちにもどってこなければならない。われわれが、たべるものも、すべて、だいちよりせいいくされ、いくせいされるのである。さらにたいようのねつ、また、いっさいのいんりょくも、ほしのうんこうも、だいちに、ちょくせつかんけいをもつものである。なお、じくのどうしょうがのべた、「かほうとは、じゅうしてりにあるなり」のりとは、なんみょうほうれんげきょうをさしているのである。
 「このりのじゅうしょより、あらわれいづることというなり」とは、ことすなわち、せいかつじっせんをいう。また、げんしょうかいをさす。しょせん、あらゆるげんしょうは、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとしているということである。てんだいだいしが、「きはこれほっしょうのき、めつはこれほっしょうのめつ」と、ろんじたごとく、ぜんげんしょうのきめつとうは、ぜんぶ、みょうほうれんげきょうを、こんぽんとしてあらわれたすがたである。かんげんすれば、げんじつのなかに、みょうほうのたいほうそくがあって、けっして、かんねんてきなものではないということである。
またいわく、せんそうばんぼく、ぢゆのぼさつにあらずということなし。
 これ、みょうほうをこんぽんとすれば、いっさいのかつどうが、ぢゆのぼさつのはたらきに、かわるというもんである。たとえば、げんしばくだんたりとも、「ぢゆのぼさつに、あらずということなし」のどうりになるのである。これは、みょうほうをこんぽんとすれば、げんしばくだんも、かならずへいわかいたくりようにかわってゆくとのげんりである。はんたいにひぼう、ほうぼうのみ、せかいにじゅうまんしたばあい、あびきょうかんじごくになって、せんそうばんぼくは、しめつしてしまう。
 ともに、いっさいのものが、てんまのはたらきに、かわってしまうのである。せかいこうきゅうへいわを、こんぽんりねんとし、じんるいきょうえいのえいきゅうげんりとし、かつまた、ちきゅうみんぞくしゅぎの、いちだいししんとして、こころあるひとに、このだいほうりをば、つたえきらねばならない。

さればぢゆのぼさつはほんげといえりとう。
 「くおんごひゃくじんでん」とは、きょうそうである。「むしむしゅう」は、くおんがんじょであり、かんじんである。ここではとうぜん、くおんがんじょのにちれんだいしょうにんと、はいすべきなのである。「ほんぽうしょじのひと」とは、べっしては、にちれんだいしょうにん、きょうそうでは、じょうぎょうぼさつのことである。しんじんよりはいすれば、だいしょうにんのでしである。われわれをさすのである。

 このほんぽうのたいより、ゆうをだして、しかんとひろめ、いちねんさんぜんという、そうじて、だいし、にんしの、しょしゃくも、このみょうほうのゆうを、ひろめたまうなり。
 なんみょうほうれんげきょうが、ほんたいであり、それからゆうをいだして、しゃくそんは、ほけきょうにじゅうはちほんをとき、てんだいは、まかしかんをといたのである。また、あらゆるだいし、にんし、たとえば、りゅうじゅ、てんじん、みょうらく、でんぎょうとうも、なんみょうほうれんげきょうの、ほんたいのゆうをひろめたにすぎないのである。
 そのほんたいを、ちょくせつひろめていくのが、ほんげのぢゆのぼさつである。すなわち、われわれのことである。なんと、ふくうんのだいなることであろうか。かつ、じゅうだいなしめいを、つうかんしうるものである。

 このほんぽうを、じゅじするはしんのいちじなり、がんぽんのむみょうを、たいぢするりけんは、しんのいちじなり、むぎわっしんの、しゃくこれをふおもうべし。
 「このほんぽう」これすなわち、さんだいひほうの、ごほんぞんをじゅじするのは、しんのいちじである、とのおだんげんである。がんぽんのむみょうとは、ふこうのこんぽんをいう。それをたちきるりけんは、しんのいちじしかないとのおおせである。せいじ、ほうりつ、きこう、せいど、きょういく、かんきょうだけでは、このむみょう、ふこうのほんげんのかいけつは、えいきゅうにできえない。けっきょく、ばっぽんてきに、にほんのくにの、こうふくとへいわとはんえいをきずくのは、しんじんごうじょうなるぢゆのぼさつのみであるとのもんなりとだいかくしんすべきである。




  • [243]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな あんらくぎょうほんごかのだいじ

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月22日(土)02時05分17秒
 
あんらくぎょうほんごかのだいじ

おんぎくでんこうぎろく じょう

0750~0750 あんらくぎょうほんごかのだいじ。
0750    だいいち あんらくぎょうほんのこと。
0750    だいに いっさいほうくうのこと。
0750    だいさん うしょなんもん ふいしょうじょうほうとうとうのこと。
0750    だいよん むうふいか とうじょうとうのこと。
0750    だいご うにんらいよく なんもんじゃ しょてんちゅうやとうのこと。

0750~0750 あんらくぎょうほんごかのだいじ。
0750    だいいち あんらくぎょうほんのこと。

 おんぎくでんにいわく、みょうほうれんげきょうを、あんらくにぎょうぜむこと、まっぽうにおいて、いま、にちれんとうのたぐいのしゅぎょうは、みょうほうれんげきょうをしゅぎょうするに、なんきたるをもって、あんらくとこころうべきなり。

 あんらくぎょうほんには、みょうほうれんげきょうを、あんらくにしゅぎょうするほうほうが、とかれているが、それは、しょうぞうにおける、しょうじゅのしゅぎょうである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。みょうほうれんげきょうを、あんらくにぎょうずるということは、まっぽうにおいて、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかの、しゅぎょうにやくしていえば、ごほんぞんをしんじ、じぎょうけたにわたる、ぶつどうしゅぎょうをはげめば、かならずなんがある。そのなんがおきてくることが、じつはあんらくであると、こころえなければならない。

 あんらくぎょうほんには、しん、く、い、せいがんのしあんらくぎょうがとかれている。そのこころは、あっく、はくがいされず、あんのんにみょうほうを、しゅぎょうするには、いかにしたらよいかをしめしたものである。かんじほんにとく、さんるいのごうてきのあらしとたたかい、ぐほうするほうきとは、まったくことなり、おだやかな、しょうきょくてきなじっせんほうほうをいうのである。
 たとえば、くあんらくぎょうのもんには、「もしはくちにせんぜつし、もしはきょうをよまんとき、ねがつてひと、および、きょうてんのあやまちをとかざれ。また、しょよのほっしを、きょうまんせざれ、たにんのこうお、ちょうたんをとかざれ、しょうもんのひとにおいて、またなをしょうして、そのかあくをとかざれ。
 また、なをしょうして、そのうつくしきことを、さんたんせざれ」とうとあり、また、しんあんらきぎょうのもんにも「いかんなるをか、ぼさつ、まかさつ、こくおう、おうじ、だいじん、かんちょうにしんごんせざれ。もろもろのげどう、ぼんじ、にけんしとう、および、せぞくのぶんぴつ、さんえいのげどうをつくる、および、ろかやだ、ぎゃくろかやだ、のものにしんごんせざれ。
 また、もろもろのあらゆる、きょうぞく、そうさおよび、ならとうのしゅじゅのへんげんのたわむれに、しんごんせざれ、また、せんだら、および、いのししひつじ、けいくをやしない、でんりょうしさかなとりするもろもろのあくりちぎに、しんごんせざれ」とうとある。
 これらのもんによれば、ひとざとはなれた、へいおんぶじのところで、ぶつどうしゅぎょうすることになる。これらのしゅぎょうは、しょうほう、ぞうぼうじだいにはつうようしたかもしれない。しかし、まっぽうには、まったくようをなさないのである。げんこんは、ごじょくのじだい、しゅらとうじょうのさかんなじだいである。ふこうのひと、ほうぼうのものがじゅうまんしている。それらをみ、てをこまねいて、じぶんだけ、へいおんぶじに、ぶつどうしゅぎょうをねがうのは、ぶっぽうをしらざることばであり、ひとである。かくのごときやからは、りこしゅぎであり、ひきょうものであり、かいぶつのごときそんざいである。
 にょせつしゅぎょうしょうに、「いちじょうるふのときは、ごんきょうあつて、かたきとなりて、まぎらはしくば、じっきょうよりこれをせむべし、これを、しょうしゃくにもんのなかには、ほけきょうのしゃくぶくともうすなり。てんだいいわく「ほっけしゃくぶく、はごんもんり」と、まことにゆえあるかな、しかるに、しょうたる、しあんらくのしゅぎょうを、いまのとき、ぎょうずるならば、ふゆ、しゅしをくだして、はる、このみをもとむるものにあらずや。
 ニワトリの、あかつきになくはゆうなり、よいになくは、もっけなり、ごんじつぞうらんのとき、ほけきょうのおんてきを、せめずして、さんりんにとじこもり、しょうじゅをしゅぎょうせんは、あに、ほけきょうしゅぎょうのときをうしなう、もっけにあらずや。
 されば、まっぽう、いまのとき、ほけきょうのしゃくぶくの、しゅぎょうをば、だれか、きょうもんのごとく、ぎょうじたまへしぞ、だれひとにてもおわせ、しょきょうはむとくどう、だじごくのこんげん、ほけきょうひとり、じょうぶつのほうなりと、こえもおしまず、よばはりたまいて、しょしゅうの、にんぽうともにしゃくぶくして、ごらんぜよ。
 さんるいのごうてき、きたらんこと、うたがいなし」(0503-15)と。
 あっくをきにし、はくがいをおそれ、へいおんのみねがい、みずからのせっそうまで、まげるじんせいは、じゃくしゃのじんせいである。
 にちれんだいしょうにん、ございせじだいにおいても、はくがいのきびしさに、たえかねて、たいてんするひとがいくたもいた。
 これらのひとびとは、けっきょく、だいしょうにんの、ごほんぶつたることをしらず、しんぜず、ただただ、めさきのあんのんのみに、とらわれたひとびとである。そのめいよあるたちばを、すてさった、まことにあわれなすがたであった。
 さどごしょに、「にちれんごぼうは、ししょうにておはせども、あまりにこはし、われらはやはらかに、ほけきょうをひろむべしといわんは、ほたるびがにちがつをわらひ、ありづかが、かざんをくだし、せいこうがこうかいをあなづり、かささぎがらんほうをわらふなるべし、わらふなるべし」(0961-01)と。


 だいしょうにんめつごにおいても、ごろうそうは、てんだいしゃもんとなのってしまった。そしてしゃくぶくをすて、しょうじゅのぎょうに、はしったのである。ただいちにん、にっこうしょうにんのみが、にちれんだいしょうにんの、しょうほうしょうぎをごじし、いかなるけんりょく、あつりょくにくっせず、でんじなされ、こうふのきそを、つくられたのである。げんざい、そうかがっかいは、だいしょうにんのぶっぽうを、すんぶんたがうことなく、じゅじし、ぜんしんしている。
 ときにかなった、さいこう、さいぜんの、じっせんこういを、なしているのである。いっせんすうひゃくまんのひとびとが、ごほんぞんをたもったげんせんは、いちたいいちのしゃくぶくにあったことは、そのことをしめす、とうといしょうこではなかろうか。
 つぎに、「なんきたるをもって、あんらくとこころうべきなり」との、ごきんげんを、かくしんできるひとこそ、だいしょうにんより、おほめをいただけるひとである。このひとこそ、こんぜで、ほとけのちからをだし、ししてりょうぜんにかえり、さんぜじっぽうのほとけ、ぼさつよりしょうさんされる、さいこうのしんじゃ、じんせいといえるのである。
 これ、そのひとのいちねん、しんじんのつよさによってきまるのである。だいしょうにんのごいっしょうも、はくがいのれんぞくであった。しかし、だいなんのなか、しょうがい、ごきょうがいは、ゆう々ゆうたるものであった。われらもまた、しんじんをひらけば、いっさいがあんらくとなるのである。なんがあればあるほど、そのひとはせいちょうする。ふくうんをはやくつみゆくことを、わすれてはならない。
 つぎに「あんらく」とは、あらゆるひとが、あんらくをもとめている。びょうにんはけんこうになろうとし、ひんじゃはふしゃになろうと、どりょくする。かぎりなく、くをば、あんらくにだっきゃくしようとするのは、にんげんしぜんのすがたである。しかるに、このようなあんらくは、そうたいてきなあんらくである。しんじつぜったいのあんらくは、じょうぶつである。なにものにもおかされず、えいえんにあんらくしてゆける、きょうがいをかくりつすることこそ、さいこうのあんらくなのである。

0750    だいに いっさいほうくうのこと。

 おんぎくでんにいわく、このしたにおいて、じゅうはちくうこれあり、じゅうはちくうのたいとは、なんみょうほうれんげきょうこれなり、じゅうはちくうはいずれもみょうほうのことなり。

 ここは、あんらくぎょうほんに、「いっさいのほうをかんずるに、くうなり」とあり、いか、じゅうはちくうが、とかれているところの、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである、この、「いっさいほうくう」のもんのしたには、じゅうはちくうがとかれている。このじゅうはちくうのほんたいとは、なんみょうほうれんげきょうである。じゅうはちくうはいずれもみょうほうのことをあらわしている。

 あんらくぎょうほんのじゅうはちくうは、いずれも、せいめいのふかしぎなじょうたいを、さまざまなかくどから、ときあかしたものである。くうというと、いっぱんにはむとおなじような、いみにつかわれている。
 また、あるゆうめいなじてんにも、ぶっせつでとく「くう」を「うにたいして、そんざいをひていすること」とあるくらいである。また、ぶっきょうかんけいのがくしゃがろんずるくうも、かんねんてきであり、いたずらになんかいな、ぶっきょうようごをつかいながらも、じっさいには、しょうじょうきょうとうで、とくくうかんをもとにしたものがおおい。
 およそせいかつと、まったくかけはなれたものに、なっている。しんじつのぶっぽうのとくくうは、ぜったいに「む」ではない。「う」「む」とはべつの、がいねんである。ありといえばなく、なしといえばあるという、ふしぎなるせいめいのじょうたいをいう。
 いっぱんのてつがくにおいては、「う」と「む」のふたつをこんげんにしている。とくにせいようてつがくにおいては、「ある」か「ない」かのはんだんだけで、そこに「くう」というがいねんはない。くうをえいやくしてempty space とか vanity というごがあるが、これをえいやくするのに、あるじてんでは all is nothing としている。これでは、「すべてはむ」ということで、くうはたんなる「くうきょ」や、「む」のいみでしかなく、きゅうやくせいしょ、でんどうのしょにある、くうとどうようになってしまう。
 がいこくじんが、くうをむとおなじようにかんがえているれいとして、とだせんせいが、こんなはなしをされた。
 「こうたいしでんかの、えいごのせんせいで、イギリスじんのひとがいた。また、わしのともだちのなかに、にほんだいがくの、てつがくぶちょうがおりまして、そのひととふたりで、そのイギリスじんのところへあそびにいった。そのイギリスじんは、にほんのぶっきょうかいの、だいがくしゃといわれる、すずきだいせつというひとに、ぶっきょうをおそわっていた。そのイギリスじんに、わたしは、『せんせい、くうというのはなにですか』と。そしたらピアノのうえにあった、おりづるをくしゃくしゃにして、『これがくうだ』といった。
 そんなバカなことがあるか。だいせつせんせいに、えいこくからわざわざきて、にほんのぶっきょうがくをおそわりながら。それはむではないか。くうとむとはちがう。くうがわからなければ、ぶっきょうてつがくはわからんのです」と。
 なんでも、「ある」か「ない」かで、わりきろうとする、これがドイツてつがくを、はじめとするせいおうのてつがくしそうの、かんがえかたである。しかし、ぶっぽうにおいてう、むのほかに、もうひとつのがいねんとして、「くう」をとく。あるといえばない、ないといえばでてくる。うでもむでもない。しかもうであり、むであるというのが、くうのていぎである。
 たとえば、ここにラジオがあるとする。スイッチをひねると、せかいじゅうのほうそうをきくことができる。もしそこにラジオがないとすれば、ほうそうをきくこともできない。そこにはなにもないことになる。なにもないではないかといっても、ラジオがあると、ちゃんとおんぱとしての、はたらきをあらわすのである。
 またおこるというせいめいじょうたいがある。このおこるというせいめいを、もし、あるといおうとしても、どこにもそのじったいというものがない。つかむことがない。ないといおうとしても、おこるというせいめいじょうたいはげんぜんとしてそんざいするし、「あのひとはきげんがわるい」というように、おこっているじょうたいと、たのじょうたいとをしきべつすることができる。このように、あってなきがごとく、なくてあるがごとき、うむでろんずることのできないじったいを、くうともいい、みょうというのである。
 いっしょうじょうぶつしょうに「そもそも、みょうとはなんというこころぞや、ただ、わがいちねんのこころ、ふしぎなるところを、みょうとはいうなり、ふしぎとはこころもおよばず、ごもおよばずということなり。
 しかれば、すなはち、おこるところのいちねんのこころを、たずねみれば、ありといはんとすれば、いろもしつもなし、また、なしといはんとすれば、さまざまにこころおこる、うとおもうべきにあらず、むとおもうべきにもあらず、うむのにのごもおよばず、うむのふたつのこころもおよばず。うむにあらずして、しかもうむにへんして、ちゅうどういちじつの、みょうたいにして、ふしぎなるをみょうとは、なずくるなり、このみょうなるこころを、なずけてほうともいうなり」(0384-)と。
 しごのせいめいは、くうのじょうたいである。わかりやすいれいとして、すいみんをかんがえてみる。ねむっているあいだは、こころはどこにもない。ところがおきると、こころはかつどうする。ねむっているばあいには、こころがなくて、おきているばあいにはある。あるのがほんとうなのか。ないのがほんとうなのか。あるといえばなく、ないといえばでてくる。このようなじょうたいであるゆえに、くうともみょうともいうのである。
 うちゅうは、そく、せいめいであるから、ひとがしんだとき、ちょうどねむっているあいだ、こころがどこにもないように、しごのせいめいは、うちゅうのだいせいめいにとけこんで、どこをさがしてもないのである。おんぎくでんに、「かいざいこくうとは、われらがしのそうなり」(0742-だいじゅういち、せっしょだいしゅ、かいざいこくうのこと)と。こくうとは、だいうちゅうである。しごのせいめいは、だいうちゅうにみょうぶくしていることを、しめされたみょうもんである。それでは、なくなってしまったかといえば、けっしてそうではない。このだいうちゅうに、とけこんだしごのせいめいは、いかかのねんにふれて、われわれのめにうつる、せいめいかつどうとなって、あらわれてくるのである。ねむりのじょうたいから、めをさまして、きのうのこころの、かつどうじょうきょうを、そのままじぞくして、かつどうするように、あたらしいせいめいは、かこのせいめいのごういんを、そのままうけて、げんせのかほうとして、いきていくのである。ねてはおき、おきてはねていくのとおなじように、いきてはしに、しんではいきながら、えいえんにしょうじをくりかえしていくのが、せいめいのしんじつのすがたである。

0750    だいさん うしょなんもんふいしょうじょうほうとうとうのこと。

 おんぎくでんにいわく、たいぢのときは、ごんきょうをもって、えつうすべからず。
いっさいしゅちとは、なんみょうほうれんげきょうなり、いっさいは、ばんぶつなり、しゅちは、ばんぶつのしゅなり、みょうほうれんげきょうこれなり、またいわく、いっさいしゅちとは、われらがいっしんなり、いっしんとは、ばんぽうのそうたいなり、これをおもうべし。

かいしゃくこうぎ。
 あんらくぎょうほんに、「なんもんするところあらば、しょうじょうのほうをもって、こたえざれ、ただ、だいじょうをもって、ためにげだつして、いっさいしゅちをえせしめよ」とあり、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 ほうぼうをはしゃくすることは、ごんきょうらのひくいおしえで、えつうをくわえてはならない。「いっさいしゅちをせしめよ」とある。そのいっさいしゅちとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。いっさいとは、ばんぶつである。しゅちとは、ばんぶつのほんげんたる、なんみょうほうれんげきょうのことなのである。また、つぎのようにもいわれている。いっさいしゅちとは、われわれのいっしん、せいめいである。いっしんとは、あらゆるげんしょうのほんたいである。

 ひくいてつり、しそうでは、あらゆるひとのぎもんをはらすことはできない。しゅうちゃくをだんぱすることもできない。かならず、いきづまりをしょうずることは、とうぜんである。さいこうのてつがく、しそうをゆうするおしえこそが、えいきゅうにいきづまることなく、あらゆるひとびとをすくい、あらゆるひとびとから、さんどうのあらしをよぶことは、ひつぜんである。
 たとえば、はじめはしんじないひとでも、かならず、せいろんのまえにはくっせざるを、えないのである。われわれが、だれひとがはんたいしようが、ひなんしようが、つねにさいこうのぶっぽうを、ひとびとにとくのは、そのりゆうに、よるものである。

0750    だいよん むうふい かとうじょうとうのこと。

 おんぎくでんにいわく、しゃくけのぼさつに、とうじょうのなん、これあるべからずという、きょうもんなり、かんじほんは、まっぽうほっけのぎょうじゃに、ぎゅうかとうじょうしゃ さくさくけんひんずいと、このほんにはこれなし。それは、まっぽうのしゃくぶくのしゅぎょう、このほんは、ぞうぼうしょうじゅの、しゅぎょうなるがゆえなりうんぬん。

 かいしゃくこうぎ。
あんらくぎょうほんには、「わがめつどののちに、もしびくあって、よくこの、みょうほうれんげきょうを、えんぜつせば、こころに、しっち、しょのうしょうげなく、また、うしゅう、および、めりするもの、なく、ふいし、とうじょうをくわえらるるなどなく、また、ひんずいせられることなけん」うんぬんのもんがある。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 しゃくけのぼさつには、とうじょうがないというきょうもんである。かんじほんには、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃについて、「および、とうじょうをくわうるものあらん」あるいは、「さくさくひんずいせられ」とうととかれているが、このあんらくぎょうほんには、そのようなことはとかれていない。
 それは、かんじほんは、まっぽうしゃくぶくのしゅぎょうをあかし、このあんらくぎょうほんは、ぞうぼうしょうじゅのしゅぎょうをあかしているからである。

 しゃかめつご、ほけきょうのゆえに、だいなんにあったのは、にちれんだいしょうにんおいちにんであった。てんだい、でんぎょうといえども、しゃくけのぼさつであり、まったく、だいなんにあっていない。しょう々しょうあったとしてもあっくていどであり、とうじょうのなんを、うけたわけでもないし、さくさくけんひんずいのもんを、みをもってよんだわけでもない。
 また、てんだいもでんぎょうもともに、けんおうのほごがあり、なんをうけるどころか、むしろ、ゆうぐうされたのであった。まことに、あんらくぎょうほんに、とかれたとおりのすがたであった。
 だが、にちれんだいしょうにんは、かんじほんのよげんそのままの、ふるまいであられた。きょうもんにてらし、またじじつのうえから、かれらは、しゃくけのぼさつであり、にちれんだいしょうにんはほんげであり、またないしょうはまっぽうのごほんぶつであることは、れきぜんたるものがある。
 かいもくしょうに、「ぞうぼうのなかには、てんだいひとり、ほけきょう、いっさいきょうをよめり、なんぼくこれをあだみしかども、ちんずい、にだいのしょうしゅ、げんぜんにぜひを、あきらめしかば、てき、ついにつきぬ。ぞうのまつにでんぎょうひとり、ほけきょういっさいきょうを、ぶっせつのごとくよみたまへり、なんと、しちだいじほうおこせしかども、かんむ、ないし、さがとうのけんしゅ、われとあきらめたまいしかば、またことなし、いま、まっぽうのはじめ、にひゃくよねんなりきょうめつどごの、しるしにとうじょうのついでとなるべきゆへに、ひりをさきとして、じょくせのしるしに、めしあわせられずして、るざいないし、いのちにも、をよばんと、するなり。されば、にちれんが、ほけきょうのちげはてんだい、でんぎょうにはせんまんがいちぶんも、およぶことなけれども、なんをしのび、じひのすぐれたることは、をそれをも、いだきぬべし」(0202-03)と。
 また、ほんにんみょうしょうには、てんだいと、にちれんだいしょうにんのたちばを、ひかくしていわく、「かれは、あんらくふげんのせつそうにより、これは、かんじふきょうのぎょうそうをもちゆ」(0875-16)と。これをもって、しょうほう、ぞうぼう、ねんかんは、しょうじゅのしゅぎょうであり、まっぽうでは、しゃくぶくでなければならないことが、あきらかである。

0750    だいご うにんらいよくなんもんじゃ しょてんちゅうやとうのこと。

 おんぎくでんにいわく、まっぽうにおいて、ほっけをぎょうずるものをば、しょてん、しゅごこれあるべし、じょういほうこのほうとは、なんみょうほうれんげきょうこれなり。

かいしゃくこうぎ。
 あんらくぎょうほんに、「ひとあり、きたって、なんもんせんとほっせば、しょてんちゅうやに、つねに、ほうのためのゆえに、しかも、これをえいごし、よくきくものをして、みなかんきすることをえせしめん」とうとあり、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。まっぽうにおいて、ほけきょうすなわちさんだいひほうのごほんぞんをしんじぎょうずるものをば、しょてんぜんじんがかならずしゅごするのである。「つねにほうのためのゆえに」とある「ほう」とは、なんみょうほうれんげきょうのことである。

 しょてんぜんじんのかごは、ぜったいであるとのもんしょうである。しょてんぜんじんとは、みょうほうのはたらきである。ゆえになんみょうほうれんげきょうととなえるひとのせいめいに、こしんのしょてんぜんじんのかつどうがあらわれ、だいうちゅうのしょてんぜんじんのはたらきをよびおこし、ないげそうたいし、ゆうゆうとだいうちゅうのリズムに、がっちしたせいかつをしていくことができるげんりである。
 ほっけしょしんじょうぶつしょうにいわく「およそ、みょうほうれんげきょうとは、われらしゅじょうのぶっしょうと、ぼんのう、たいしゃくとうのぶっしょうと、しゃりほつ、もくれんとうのぶっしょうと、もんじゅ、みろくとうのぶっしょうと、さんぜのしょぶつのさとりのみょうほうと、いったいふになる、りを、みょうほうれんげきょうとなずけたるなり、ゆえにいちどみょうほうれんげきょうととなうれば、いっさいのほとけ、いっさいのほう、いっさいのぼさつ、いっさいのしょうもん、いっさいのぼんのう、たいしゃく、えんま、ほうおう、にちがつ、しゅうせい、てんじん、ちじん、ないし、じごく、がき、ちくしょう、しゅら、にんてん、いっさいしゅじょうのしんちゅうの、ぶっしょうを、ただひとこえに、よびあらわしたてまつるくどく、むりょうむへんなり、
 わがこしんの、みょうほうれんげきょうを、ほんぞんと、あがめたてまつりて、わが、こしんちゅうのぶっしょう、なんみょうほうれんげきょうと、よびよばれて、あらわれたまうところを、ほとけとはいうなり、たとえば、かごのなかのとりなけば、そらとぶとりのよばれて、あつまるがごとし、そらとぶとりのあつまれば、かごのなかのとりも、いでんとするがごとし。くちにみょうほうをよびたてまつれば、わがみのぶっしょうもよばれて、かならず、あらわれたまふ、ぼんのう、たいしゃくの、ぶっしょうはよばれて、われらをまもりたまふ、ぶつぼさつのぶっしょうは、よばれてよろこびたまふ」(0557-03)と。
 げんざい、そうかがっかいいんが、しょてんぜんじんに、まもられていることは、あらゆるめんでじっしょうされている。こうつうじこなどをいちれいにみても、せけんのそれにひかくすれば、とうけいてきにぶんせきして、はるかにすくない。また、ふけいきのときも、ふしぎと、がっかいいんのおおくが、まもられてきていることも、ぜったいのじじつである。また、しんじんをこんぽんとすれば、いっさいが、しょてんぜんじんのはたらきにかわる。たとえまおう、まみんたりといえども、これをくしし、しょてんぜんじんのはたらきに、かえていけるのである。


0750~0751 ゆじゅつほん いちかのだいじ。
0751    だいいち しょうどうのしのこと。

 おんぎくでんにいわく、ゆじゅつのいちほんは、ことごとく、ほんげのぼさつのことなり、ほんげのぼさつの、しょさとしては、なんみょうほうれんげきょうなり、これを、しょうというなり。どうとは、にほんこくのいっさいしゅじょうを、りょうぜんじょうどへ、いんどうすることなり。まっぽうのどうしとは、ほんげにかぎるというを、しというなり、このしだいぼさつのことを、しゃくするとき、じょのきゅうをうけて、ふしょうきのきゅうにいわく、「きょうに、しどうしありとは、いま、しとくをあらわす、じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうは、じょうをあらわし、じょうぎょうは、じょうをあらわし、あんりゅうぎょうは、ぎょうをあらわす。あるときには、いちにんに、このしぎをぐす。にしのひょうにいづるを、じょうぎょうとなずけ、だんじょうのさいをこゆるを、むへんぎょうとしょうし、ごじゅうのくるいをこゆるゆえに、じょうぎょうとなずけ、どうじゅにして、とくまどかなりゆえに、あんりゅうぎょうとのたまうなり」と。
 いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、みな、ぢゆのるるいなり、またいわく、ひはものをやくをもってぎょうとし、みずはものをきよむるをもって、ぎょうとし、かぜはじんくをはらうをもって、ぎょうとし、だいちはそうもくをちょうずるを、もって、ぎょうとするなり、しぼさつのりやく、これなり、しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなり、
 このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、しゃくに、「ほうしょうのえんでい、げんしゅうのごく」といえり、かほうをもって、じゅうしょとす、かほうとはしんりなり、ふしょうきにいわく、「かほうとは、しょうこうのいわく、じゅうしてりにあるなり」とうんぬん、このりのじゅうしょより、あらわれいづるを、じというなり、またいわく、せんそうまんぼく、ぢゆのぼさつにあらずということなし、されば、ぢゆのぼさつを、ほんげといえり、ほんとは、かこくおんごひゃくじんでんよりのりやくとして、むしむしゅうのりやくなり。
 このぼさつは、ほんぽうしょじのひとなり、ほんぽうとはなんみょうほうれんげきょうなり、このだいもくはかならず、ぢゆのしょじのものにして、しゃくけのぼさつのしょじにあらず、このほんぽうのたいより、ゆうをいだして、しかんとひろめ、いちねんさんぜんという、そうじて、だいしにんしの、しょしゃくもこのみょうほうの、ゆうをひろめたまうなり、このほんぽうを、じゅじするは、しんのいちじなり、がんぽんのむみょうを、たいぢするりけんは、しんのいちじなり、むぎわっしんのしゃく、これをおもふべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ゆじゅつほんに、「このしぼさつ、そのなかにおいて、もっともこれ、じょうしゅしょうどうのしなり」とあるところについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 ゆじゅつほんのいちほんは、すべて、ほんげのぼさつである、ぢゆのぼさつのことについて、といているのである。そのぢゆのぼさつのふるまいは、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしているのである。これをとなというのである。しょうどうこれしのどうとはにほんこくのいっさいしゅじょうに、ごほんぞんを、たもたせ、へいわでこうふくなせいかつへ、しどうすることをいうのである。まっぽうのどうし、しどうしゃとは、ぢゆのぼさつ、すなわちべっしては、にちれんだいしょうにん、そうじては、そのでしにかぎることをしというのである。
 このゆじゅつほんにしゅつげんする、じょうぎょう、むへんぎょう、じょうぎょう、あんりゅうぎょうをしゃくするとき、てんだいのもんぐのきゅうをうけて、どうせんのふしょうきのきゅうには、「ゆじゅつほんにしどうしがあるということは、じょうらくがじょうの、しとくをあらわしていうのである。じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうは、じょうをあらわし、じょうぎょうは、じょうをあらわし、あんりゅうぎょうは、ぎょうをあらわしている。
 あるときは、ひとりのせいめいに、このしぼさつのぎをぐしているのである。ぶんだんのしょうじ、へんにゃくのしょうじを、でることをじょうぎょうとなづけ、だんけん、じょうけんのせいめいかんをこえて、えいえんのせいめいかんをえとくすることを、むへんぎょうとなづけ、さんがいのしわく、よっかいのしわく、むしきかいのしわく、こんぽんむみょうわくとう、のごじゅうのまどいを、こえることをじょうぎょうとなづけ、そして、ぼだいじゅのように、しんじつただしいみちをあゆみ、えんまんなじんとくをもつことを、あんりゅうぎょうとなづけるのである」とある。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえるのは、すべてぢゆのぼさつのけんぞくなのである。
 また、ひはものをやくのが、そのしめいであり、じょうぎょうである。みずはものをきよめるのが、しめいであり、じょうぎょうである。かぜは、ちりやあかなどを、ふきはらうのがしめいであり、むへんぎょうである。だいちは、そうもくをいくせいするのが、しめいであって、あんりゅうぎょうである。
 しぼさつのぎょうは、ふどうであっても、ともに、なんみょうほうれんげきょうのしゅぎょうなのである。このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、てんだいはほっけもんぐで、「せいめいのおうていであり、きゅうきょくである」といったのである。かほうが、ぢゆのぼさつのじゅうしょなのである。そして、かほうとは、しんりなのである。どうせんのふしょうきには「かほうとは、じくのどうしょうのいうには、みょうほうれんげきょうのどうりにかなっていることである」とといている。
 このりのじゅうしょから、しゅつげんするのを、じというのである。また、いっさいのそうもくといえども、ぢゆのぼさつでないものはない。それゆえ、ぢゆのぼさつを、ほんげというのである。ほんとはきょうそうからいえば、ごひゃくじんでんこう、かんじんからいえばむしむしゅうの、くおんがんじょからの、りやくなのである。
 このぢゆのぼさつは、こんぽんのほうをもっているのである。ほんぽうとは、なんみょうほうれんげきょうである。このなんみょうほうれんげきょうのだいもくは、ぢゆのぼさつのたもつところであって、しゃくけのぼさつのたもちえないものである。このなんみょうほうれんげきょうの、たいからゆう、はたらきをだして、てんだいは、まかしかん、いちねんさんぜんをひろめているのである。このほんぽうを、じゅじするのはしんのいちじによるのである。じょうぶつをうたがい、ごほんぞんをうたがうという、こんぽんのまよいを、たいぢするりけんは、しんのいちじなのである。もんぐのきゅうの、「うたがいなきをしんとのたまう」という、しゃくをよくよくおもうべきである。

 ほんげのぼさつの、しょさとしては、なんみょうほうれんげきょうなり。
 ほんげのぼさつのふるまい、じっせんは、すべて、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしている。しゃくけのぼさつは、ぞう、つう、べつ、えんときょうけをうけ、きじゅくし、しょせんは、ほけきょうにじゅうはちほんをたもった、ふるまいであるけれども、ほんげのぼさつは、ほんらい、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとし、なんみょうほうれんげきょうをじゅじしきった、ふるまいなのである。ここに、しゃくけのぼさつと、こんぽんてきなそういがあるのである。
 かって、とだじょうせいぜんかいちょうは、「よのなかの、せいじかとうのしどうしゃは、しゃくけのぼさつである。われわれは、ほんげのぼさつである」と、せいかつにやくして、せつめいされたことがあった。いかにいだいなしどうしゃ、せいじかであったとしても、さんだいひほうの、ごほんぞんをたもっていなければ、こんぽんてきな、よのなかのかくめい、ひとりひとりのきゅうさいは、ぜったいにできない。
 したがって、あたらしいじだいに、あたらしいてつがくをもって、あたらしいしどうしゃが、ゆじゅつして、これからのにほんのくにの、はんえいのため、そしてまた、せかいのへいわと、こうふくのために、たたかっていくいがいにない。われわれこそ、みんしゅうのこうふく、せかいへいわをかちとる、たたかいのせんくしゃであり、しどうしゃであると、かくしんすべきである。

これをしょうというなり。
 しょうのしのしょうとは、なんみょうほうれんげきょうと、となえることである。また、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとして、だいしどうしゃになって、いっさいのみんしゅうのために、じんるいのぶんかのために、あらゆるかいそうに、たたかいをすすめて、こうけんしていくことを、いうのである。われわれの、みょうほうをこんていにした、いっさいのげんげんくくはしょうである。
 アメリカのだいとうりょうも、ロシアのさいこうしゅのうも、またフランスのだいとうりょうも、こっかのために、またはみんぞくのために、あるいは、せかいのへいわのために、ちょうじかんにわたる、えんぜつもするし、せいさくもはっぴょうする。
 また、そのた、ひょうろんかにしても、がくしゃにしても、さまざまなことをはっぴょうする。それらはぜんぶ、いちおうはしょうになるのである。だが、それらのしょうはうみょうむじつであり、かならずしもみんしゅうのこうふくにつながらない。かえって、みんしゅうに、ふあんとどうようをあたえるばあいも、た々たである。ごほんぞんをたもった、われわれの、いっさいのげんげんくくは、みょうほうれんげきょうのほうりにかない、へいわとこうふくのために、じじつのうえにつうじていくのである。

どうとは、にほんこくの、いっさいしゅじょうを、りょうぜんじょうどへいんどうすることなり。
 しょうどうのしのどうとは、にほんこくの、ぜんみんしゅうをりょうぜんじょうどへいんどうする。 ごほんぞんをたもたせ、そうかがっかいいんとして、こうせんるふにまいしんしていくことが、ちからづよいいぶきとなり、ぜんせかいへはきゅうしていくのである。

まっぽうのどうしとはほんげにかぎるというをしというなり。
 まっぽうのどうしとは、べっしては、にちれんだいしょうにん、そうじては、だいしょうにんのでしである。よのなかには、いろいろなしどうしゃやししょうがいる。しかし、ごじょくらんまんの、まっぽうのぜんみんしゅうを、きゅうさいしきるしんじつのしどうしゃは、ごほんぞんをじゅじしきっているものに、かぎるのである。
 このだいしょうにんの、おんふみをはいするならば、われら、ぢゆのだいぼさつが、あらゆるぶんやに、あらゆるかいそうにしんしゅつし、いっさいのひとびとを、ゆういん、いんどうしきる、しんじつのなかのしんじつの、ししょうであり、しどうしゃたることを、かくしんすべきである。

 じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうはじょうをあらわし、じょうぎょうはじょうをあらわし、あんりゅうぎょうはらくをあらわす。
いまこのもんを、しんじんのうえからはいすれば、じょうぎょうは、なんみょうほうれんげきょうという、がをあらわす。われわれは、ろくどうりんね、きゅうかいそしてまた、じっかいのせいめいかつどうをしているけれども、そのこんぽんはなんみょうほうれんげきょうを、となえいくことである。いかなるばあいでも、ただなんみょうほうれんげきょうをとなえることを、わすれないというがである。むへんぎょうとは、いっさいほうこれぶっぽうで、いかなるせいかつ、どんなきょうぐう、どんなじだいであっても、つねに、なんみょうほうれんげきょうをわすれないことである。
 じょうぎょうは、どうように、いかなるじだいがこようとも、どんなきょうぐうであろうとも、どんなかなしいときでも、どんなつらいときでも、どんなうれしいときでも、ただ、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしたせいかつ、せいめいかつどうは、じょうのなかのじょうである。よのなかは、ごじょくらんまんであり、おごりたかぶり、にごりきった、ひとびとばかりである。
 だがれんげのはなが、ちょうど、どろぬまにさくごとく、どろぬまのような、きゅうかいのげんじつのせかいのなかで、だいもくをあげきっていく、じんせいかつどうは、もっとも、きよらかなせいめいかつどうなのである。あんりゅうぎょうは、じゅりょうほんの、「がしどあんのん」と。いかなるじだいにあっても、いかなるじたいがおころうとも、いつもなんみょうほうれんげきょうをじゅじし、となえているならば、らくである。すなわち、じょうらくがじょうをじょうぎょう、むへんぎょう、じょうぎょう、あんりゅうぎょうの、しぼさつからといたわけである。
 しょうじょうぶっきょうは、くじゅうめつどうであり、く、くう、むじょう、むがである。それにたいして、だいしょうにんのぶっぽうは、じょうらくがじょうである。まただいしょうにんは、「なんみょうほうれんげきょうは、かんきのなかのだいかんきなり」(0788-ごひゃくほん)ともおおせである。すなわちじょうらくがじょうである。まだまだ、いくえにもせいめいろんのたちばで、さまざまにかいしゃくができる。

 あるときには、ひとりに、このしぎをぐす、にしのひょうにいづるを、じょうぎょうとなずけ、だんじょうのさいをこゆるを、むへんぎょうとしょうし、ごじゅうのくるいをこゆるゆえに、じょうぎょうとなずけ、どうじゅにしてとくまどかなりゆえに、あんりゅうぎょうというなり。
 このもんについて、にちかんしょうにんの、かいもくしょうもんだんには、つぎのごとくとかれている。
 「にしのうらにぼっするとは、くだるぎであり、すなわち、けいばくふじざいである。にしのひょうにいずるのは、のぼるぎであり、すなわち、げだつじざいである。ゆえに、じょうぎょうは、がをあらわすのである。だんじょうをこえ、へんさいなしとは、ちゅうどうじょうじゅうであり、ゆえに、むへんぎょうはじょうをあらわすのである。ごじゅうのくるいを、こゆるとは、すなわちしょうじょうである。ゆえにじょうぎょうはじょうをあらわすのである。どうじょうぼだいじゅのしたで、まんとくえんまんすとは、あんらくにせいりつすることであり、ゆえに、あんりゅうぎょうはぎょうをあらわすのである。これらはべったいのぢゆである。

 つぎに、『あるときには、ひとりにこのしぎをぐす』とは、すなわち、そうたいのぢゆである。ざいせはべったいのぢゆであり、まっぽうは、そうたいのぢゆである。なぜなら、「あるとき」とは、まっぽうをさすからである。ゆえに、まっぽうのぢゆのぼさつには、じょうらくがじょうのしとくがいっしんにそなわっているのである。これこそ、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんであらせられる」。
 もし、このそうたいのぢゆを、われわれのしんじんせいかつにやくしていえば、われわれが、ごほんぞんをしんじて、しょうだいしていくならば、しぼさつのとくゆうが、わがこのいっしんに、そなわることである。
 いまそのたちばから、このもんをみていくことにする。

 「にしのひょうに、いづるをじょうぎょうとなずけ」ぶんだん、へんにゃくとうの、しょうじのくにそくばくされない、じゆうじざいのきょうがいを、じょうぎょうとなづけるのである。だいもくをとなえ、ぶっかいをゆげんした、せいかつは、なにものにもおかされない、ちからづよいせいめいかつどうの、あらわれである。じょうぎょうこそ、しんのじゆうのきょうがいなのである。
 「だんじょうのさいを、こゆるを、むへんぎょうとしょうし」だんけん、じょうけんとうの、ひくきせいめいかんをすてさり、えいえんのせいめいかんにたったとき、いっさいのいきづまりは、ことごとく、だはされ、ひろ々びろたる、みらいのしんきょうにいきることができる。これ、むへんぎょうのきょうがいである。「ごおうのくるいを、こえるゆえにじょうぎょうとなずけ」、ごおうのくるいとう、うちゅうのほんたい、せいめいのほんしつを、みわけることのできない、まどいからきたる。せいめいのけがれは、みょうほうのきょうりょくな、ぶっかいにてらされ、じょうかされ、しょうじょうむぜんのせいめいかつどうを、していくのである。これじょうぎょうのきょうがいである。
 「どうじゅにして」とは、どうじょうぼだいじゅのしたで、とのいみである。すなわち、しんじんせいかつにやくせば、いっさいを、ぶっぽうをこんぽんとして、にょじつちけんしていける、じんせいである。ものごとにたいして、みちすじをとおし、また、あくまでせいろんは、せいろんとして、いいきっていける、またみていけるせいかつである。
 「とくまどかなり」とは、もっとも、にんげんらしいじんかくしゃである。にんげんかくめいされきったじんかく、こじんもこうふくであり、りんじんをも、なさけをもって、こうふくにみちびいていけるじんかく、それをなづけてあんりゅうぎょうというのである。よく、とだじょうせいぜんかいちょうは、「わたしはりっぱな、へいぼんなだいぼんぷである」ともうされ、しょだいまきぐちかいちょうも、「しんじんしきったばあいには、けっきょくは、いっけんすれば、りっぱなへいぼんな、にんげんである」といわれたときく。しんじんすれば、じねんとえんまんなとくは、そなわるのである。
 むしろ、いまのゆうめいじんや、せいじかは、けんいをもち、きょえいをもち、せのびし、にんげんらしいにんげんではなく、いっしゅのかたわとなっているのである。われわれのばあいは、ありのままで、じねんと「とくまどか」な、すがたになっていくのである。せいめいのほんしつから、あらわれたじねんのすがたである。
 けっきょくこうみていくと、ごほんぞんをじゅじし、ごほんぞんにだいもくをあげていくこと、それじしんが、にしのひょうにでたことになり、だんじょうのさいを、こえたことになり、ごおうのくるいをこえたことにもなり、とくまどかなることに、なるのである。

いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、みな、ぢゆのるたぐいなり。
 しょほうじっそうしょうには、「みな、ぢゆのぼさつのしゅつげんにあらずんば、となへがたきだいもくなり」(1360-08)とある。すなわち、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、みな、ぢゆのぼさつの、けんぞくなることをいうのである。
 したがって、ほけきょうにじゅうはちほん、そして、じゅうぢゆしゅっほんに、とかれた、きょうそうにおける、ぢゆのぼさつは、このだいしょうにんの、かんじんしゃくによって、しょせんは、にちれんだいしょうにんのでしを、いみすることがわかろう。とおくきょうもんにあったものは、じつは、げんじつのわがみのうえのことなのである。
 ほけきょうをよむと、ひじょうに、すうがくてきにおおきいことが、とかれているばあいがおおい。たとえばきょうもんには、「ひゃくせんまんのくなゆたこう」とある。だがだいしょうにんのかんじんしゃくでは、それは、ひゃっかいせんにょとよむわけである。また「かんのんさんじゅうさんしん」とあるのを、だいしょうにんは、くうけちゅうのさんたいとよみ、じっかいとよみ、またほっぽうのさんじんとよむ。
 また「せんぶつのみて」とあるのを、せんにょとよむとう、けっして、きょうもんじょうのことではなく、いちぽふかく、せいかつにちょっけつしてとかれている。これがだいしょうにんのぶっぽうから、ほけきょうをかいしゃくするよみかたなのである。つぎにあげる、ゆじゅつほんのもんをきょうそうのまましでも、げんざいのそうかがっかいのこうせんるふにむかうすがたに、ひじょうに、よくにていることが、うなずける。
 「いちいちのぼさつ、みなこれ、たいしゅうのしょうどうのしゅなり、おのおの、ろくまんごうがしゃとうの、けんぞくをひきいたり。いわんやごまん、しまん、さんまん、にまん、いちまんごうがしゃとうの、けんぞくをひきいたるものをや。いわんや、また、ないしいちごうがしゃ、しぶんのいち、ないし、せんまんのくなゆたぶんのいちなるをや。いわんやまた、せんまんのくなゆたのけんぞくなるをや、いわんや、また、おくまんのけんぞくなるをや。いわんやまた、せんまん、ひゃくまん、ないし、いちまんなるをや。いわんやまた、いっせん、いっぴゃく、ないしいちじゅうなるをや。いわんやまた、ご、し、さん、に、いちのでしを、ひきいたるものをや。いわんやまた、たんごにして、おんりのぎょうをねがえるをや。これのごときとうの、るいひ、むりょうむへんにして、さんずひゆも、しることあたわざるところなり」。
 また、このきょうもんからすれば、まだまだ、しゃくぶくはできることになる、「ふつごじつぷこ」のじしんをもち、ゆうきをもって、ほまれたかく、すすんでいきたいものである。

またいわく、ひはものをやくをもって、ぎょうとし、みずはものをきよむるをもって、ぎょうとし、かぜはじんくをはらうをもって、ぎょうとし、だいちはそうもくをちょうずるをもって、ぎょうとするなり、しぼさつのりやくこれなり。
 ちすいかふうのしだいをしぼさつにはいりゅうしよむところである。
 ひは、そらにあがるゆえに、じょうぎょうはひだいであり、かぜはへんさいがないゆえに、むへんぎょうはふうだいであり、みずはしょうじょうなるゆえに、じょうぎょうはすいだいであり、ちはばんぶつをあんりゅうするゆえに、あんりゅうぎょうはちだいにはいせられるのである。ふるくから、てんだいぶっぽうでは、しぼさつを、しだいにはいりゅうした、ぶんけんがのこっている。
 てんだいかのだいがくしゃといわれた、そんしゅんのしかんけんぶんのごには、「ぢゆうのしだいしは、そく、しだいなり、ちだいはばんぶつをいくし、せいすいはじんくをあらい、ひだいは、かんくをふせぎ、りょうふうは、きゅうかのねつをすずます。みなこれ、ほんちのじひ、ほんがくしょせなり」とある。
 てんだいは、しぼさつのぎょうを、しだいにことよせてろんじているが、しょせんは、しぼさつとは、みょうほうれんげきょうそれじたいであることを、あらわそうとしたものである。すなわち、しぼさつとは、うちゅうほんねんに、そなわる、だいじひのせいめいかつどうであり、こじんにしゅうやくすれば、そんごくごくまりなき、みょうほうのせいめいかつどうをいう。

 しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなり。
 いっさいのうちゅうの、しんらばんしょうのなかにも、しぼさつのはたらきはある。おなじく、あるひとは、せいじかに、あるひとはじつぎょうかに、あるひとは、かがくしゃに、きょういくしゃに、あるひとは、かせいふに、あるひとはしょっこうに、あるひとは、しんぶんきしゃに、あるひとは、カメラマンにと、しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなのである。
 すなわち、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとするならば、どういうたちばであっても、いかなるきょうぐうであっても、おのおのしめいかんにたって、せいかつし、かつどうし、じんせいを、いききっていくことが、それじたい、りっぱなぶつどうしゅぎょうなのである。こうせんるふに、つながり、しゃかいをりやくしていくことに、つうじている。とのおおせである。
 これこそ、みんしゅしゅぎのげんりなのである。
 わがきょうだんは、せいじつであり、せいけつである。だんけつがつよい。がいけんからみたひとは、じゆうがないのではないかと、さっかくするであろう。これだいなるあやまりである。ひとりのにんげんが、めいれいてきにみんしゅうをひっぱっていけるとおもうことじたい、じだいさくごである。
 こんとんとしている、このにほんこくで、ほうじゅうなこのしゃかいにあって、だれが、めいれいでうごくかといいたい。わがこさえ、いけんをきかぬばあいがおおい。いわんや、なんびゃくまん、なんぜんまんのひとが、めいれいについてくるわけがぜったいにない。
 わがきょうだんは、わがわごうそうは、めいれいしゅぎでもない。えいゆうしゅぎでもない。また、そんなじだいでもなく、きこんもないのである。
 われわれは、しんじんいちずである。ゆえにつよいのである。このほんしつを、わきまえぬため、かれらはぐろんをくりかえしているにすぎないのだ。われわれは、ただ、ごほんぞんをじゅじすることをこんぽんとし、かくじんがいっしょうじょうぶつをめざしゆくことのみが、もくてきなのである。いかなるせいかつであろうが、しょくぎょうであろうが、またいかなるきょうぐうであれ、ぜんぶじゆうである。そうかがっかいは、それぞれしゅたいせいをもち、そのきょうぐうのなかから、こうせんるふをなしとげようというもくてきかんにたった、いたいどうしんのだんけつなのである。これみぞうの、しんせいきにふさわしい、だいしゅうだんのしゅつげんであり、だいしょうりのぜんしんのあしおととかくしんしたいものである。
 このしぼさつはかほうにじゅうするゆえにしゃくに「ほっしょうのえんていげんしゅうのごくち」といえり、かほうをもって、じゅうしょとすかほうとは、しんりなり、ふしょうきにいわく、「かほうとはしょうこうのいわく、じゅうしてりにあるなり」とうんぬん、このりのじゅうしょより、あらわれいづるをじというなり
 「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」とは、ななんみょうほうれんげきょうのことである。すなわち、しんりのなかのしんり、せいめいのおうてい、うちゅうのほんげん、ほんたいであり、あらゆるほうり、どうりのこんぽんである。たとえば、エネルギーのこんぽん、そうもくがはんもしてゆく、そのちからのこんぽんりき、われわれがかつどうしてゆくげんせんりき、それをてんだいは「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」といったのである。
 われわれは、しんじんなきときは、りんじんのふこうをかえりみなかった。じぶんのことでいっぱいであったのである。しかし、いちど、ごほんぞんをじゅじして、せいめいりょくはわきでて、ふこうなひとをすくおうとの、じあいにみちているのである。にほんのくにのあんのんあんたいも、かんがえるようになった。せかいのみんしゅうのこうふくも、こころからねがいゆくようになった。
 これはかんねんろんではなく、じじつ、げんじつにかつどうをてんかいしているのである。これは、ぢゆのせいめいが、おうていよりゆげんしているすがたなのである。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、せいねんくんに「せいねんは、おやをもあいさぬようなものがおおいのに、どうしてたにんをあいせようか。そのむじひの、じぶんをのりこえて、ほとけのじひのきょうちをえとくする、にんげんかくめいのたたかいである」と、のべられている。ごほんぞんに、なむしたとき、ほとけのじひのきょうちに、りっきゃくし、あらゆるしゅじょうを、りやくするちからがわき、せかいへいわのため、ぜんみんしゅうのためにこうけんしていくことが、かのうになるのである。
 またおんぎくでんには、「ゆじゅつとは、じっかいのしゅじょうの、しゅつたいのそうなり」(0799-ゆじゅつほん-02)とあるごとく、ぢゆのぼさつのしゅつげんは、しとくをそなえた、そんげんなるせいめいが、ははのたいないよりゆじゅつすることを、いみするのである。
 「かほうとはしんりなり」の、しんりとは、どうりということである。かみがにんげんをつくったというふごうり、あるいは、かんねんてきなものでは、ないということである。また、かほうとは、じっさいにだいちと、とって、よいとおもう。われわれがあるくのも、だいちがなければならないし、いくら、ひこうきがとんでも、さいごは、だいちにもどってこなければならないし、とりも、やはりけっきょく、だいちにもどってこなければならない。われわれが、たべるものも、すべて、だいちよりせいいくされ、いくせいされるのである。さらにたいようのねつ、また、いっさいのいんりょくも、ほしのうんこうも、だいちに、ちょくせつかんけいをもつものである。なお、じくのどうしょうがのべた、「かほうとは、じゅうしてりにあるなり」のりとは、なんみょうほうれんげきょうをさしているのである。
 「このりのじゅうしょより、あらわれいづるじというなり」とは、じすなわち、せいかつじっせんをいう。また、げんしょうかいをさす。しょせん、あらゆるげんしょうは、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとしているということである。てんだいだいしが、「きはこれほっしょうのき、めつはこれほっしょうのめつ」と、ろんじたごとく、ぜんげんしょうのきめつとうは、ぜんぶ、みょうほうれんげきょうを、こんぽんとしてあらわれたすがたである。かんげんすれば、げんじつのなかに、みょうほうのたいほうそくがあって、けっして、かんねんてきなものではないということである。
またいわく、せんそうばんぼく、ぢゆのぼさつにあらずということなし。
 これ、みょうほうをこんぽんとすれば、いっさいのかつどうが、ぢゆのぼさつのはたらきに、かわるというもんである。たとえば、げんしばくだんたりとも、「ぢゆのぼさつに、あらずということなし」のどうりになるのである。これは、みょうほうをこんぽんとすれば、げんしばくだんも、かならずへいわかいたくりようにかわってゆくとのげんりである。はんたいにひぼう、ほうぼうのみ、せかいにじゅうまんしたばあい、あびきょうかんじごくになって、せんそうばんぼくは、しめつしてしまう。
 ともに、いっさいのものが、てんまのはたらきに、かわってしまうのである。せかいこうきゅうへいわを、こんぽんりねんとし、じんるいきょうえいのえいきゅうげんりとし、かつまた、ちきゅうみんぞくしゅぎの、いちだいししんとして、こころあるひとに、このだいほうりをば、つたえきらねばならない。

さればぢゆのぼさつはほんげといえりとう。
 「くおんごひゃくじんでん」とは、きょうそうである。「むしむしゅう」は、くおんがんじょであり、かんじんである。ここではとうぜん、くおんがんじょのにちれんだいしょうにんと、はいすべきなのである。「ほんぽうしょじのひと」とは、べっしては、にちれんだいしょうにん、きょうそうでは、じょうぎょうぼさつのことである。しんじんよりはいすれば、だいしょうにんのでしである。われわれをさすのである。

 このほんぽうのたいより、ゆうをだして、しかんとひろめ、いちねんさんぜんという、そうじて、だいしひとしのしょしゃくも、このみょうほうのゆうを、ひろめたまうなり。
 なんみょうほうれんげきょうが、ほんたいであり、それからゆうをいだして、しゃくそんは、ほけきょうにじゅうはちほんをとき、てんだいは、まかしかんをといたのである。また、あらゆるだいし、にんし、たとえば、りゅうじゅ、てんじん、みょうらく、でんぎょうとうも、なんみょうほうれんげきょうの、ほんたいのゆうをひろめたにすぎないのである。
 そのほんたいを、ちょくせつひろめていくのが、ほんげのぢゆのぼさつである。すなわち、われわれのことである。なんと、ふくうんのだいなることであろうか。かつ、じゅうだいなしめいを、つうかんしうるものである。

 このほんぽうを、じゅじするはしんのいちじなり、がんぽんのむみょうを、たいぢするりけんは、しんのいちじなり、むぎわっしんの、しゃくこれをふおもうべし。
 「このほんぽう」これすなわち、さんだいひほうの、ごほんぞんをじゅじするのは、しんのいちじである、とのおだんげんである。がんぽんのむみょうとは、ふこうのこんぽんをいう。それをたちきるりけんは、しんのいちじしかないとのおおせである。せいじ、ほうりつ、きこう、せいど、きょういく、かんきょうだけでは、このむみょう、ふこうのほんげんのかいけつは、えいきゅうにできえない。けっきょく、ばっぽんてきに、にほんのくにの、こうふくとへいわとはんえいをきずくのは、しんじんごうじょうなるぢゆのぼさつのみであるとのもんなりとだいかくしんすべきである。

  • [242]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな かんじほんじゅうさんかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月19日(水)02時33分28秒
 
おんぎくでんこうぎろく じょう

0747~0749 かんじほんじゅうさんかのだいじ。

0747    だいいち かんじのこと。
0747    だいに ふしゃくしんみょうのこと。
0748    だいさん しんふじつこのこと。
0748    だいよん きょうじゅんぶっちのこと。
0748    だいご さししくのこと。
0748    だいろく にょほうしゅぎょうのこと。
0748    だいなな うしょむちにんのこと。
0749    だいはち あくせちゅうびくのこと。
0749    だいきゅう わくうあれんにゃのこと。
0749    だいじゅう じさしきょうでんのこと。
0749    だい11 いししょきょうごんにょとうかいぜぶつのこと。
0749    だい12 あっきにゅうごしんのこと。
0749    だい13 たんしゃくむじょうどうのこと。

0747~0749 かんじほんじゅうさんかのだいじ。
0747    だいいち かんじのこと。

 おんぎくでんにいわく、かんとはけた、じとは、じぎょうなり、なんみょうほうれんげきょうは、じぎょうけたにわたるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうをすすめて、たもたしむるなり。

 かんじほんの、かんじということについて、おんぎくでんには、つぎのように、おおせである。かんとは、ほかにすすめることで、けたであり、じとは、みずからたもつことであり、じぎょうである。なんみょうほうれんげきょうは、じぎょうけたにわたるのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、なんみょうほうれんげきょうをすすめて、それを、いっさいしゅじょうに、たもためしているのである。

 かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんだいじゅういちには、さんかのちょくせんがあり、だいばほんだいじゅうにには、にかのかんぎょうがとかれ、これにつづいて、かんじほんだいじゅうさんでは、やくおうぼさつを、だいひょうとした、しゃくけのぼさつが、いっせいに、ほとけのめつごにおいて、ほけきょうをとけば、かならず、さんるいのごうてきによる、かず々かずのだいなんをうけるであろうが、かならず、ほとけのしょぞくのほうを、ぐつうするむねの、ちかいをたてるのである。
 ほうとうほんの、さんかのちょくせんについては、つぶさに、かいもくしょうにあるとおりである。ようするに、しゃくそんが、いちざのたいしゅうにむかい、さんどにわたって、めつごのぐきょうをかんじんするのである。
 そのなかにも、だいさんのちょくせんには、ろくなんくいがとかれている。これは、ほけきょうがいかに、なんしんなんげであるか、そして、めつごのぐきょうが、いかになんじちゅうのなんじであるかを、しめしたものであり、よほどの、けついがなければ、めつごのぐきょうはできないと、いましめているのである。
 つぎにだいばほんの、にかのかんぎょうとは、いうまでもなく、だいばだったのてんのうにょらいの、きべつと、りゅうにょのそくしんじょうぶつである。ともにほけきょうがいかにいだいであるかをしめし、ぐきょうのこころをおこさしめようとしたのである。
 ほうとうほんの、さんかのちょくせんと、だいばほんのにかのかんぎょうとをあわせて、ごかのかんぎょう、またはごかのほうしょうとうという。
 このごかのかんぎょうをうけて、かんじほんにおける、はちじゅうまんおくなゆたの、ぼさつのぐきょうのちかいがあるのであり、そのにじゅうぎょうのげには、さんるいのごうてきのすがたが、こくめいにえがかれている。
 だいいちるい、もろもろのむちのひとの、あっくめりとうし、および、とうじょうをくわうるものあらん、われら、まさにしのぶべし。
 だいにるい、あくせのなかのびくは、じゃちにして、こころてんごくに、いまだえざるをこれえたりと、いいがまんのこころ、じゅうまんせん。
 だいさんるい、あるいは、あれんにゃののうえにして、くうげんにあって、みずからしんのどうをぎょうずといいて、にんげんを、きょうせんするものあらん、りようにとんじゃくするがゆえに、びゃくえのために、ほうをといて、よにきょうけいせられることを、なること、ろくつうのらかんのごとくならん。
 これのひと、あくしんをきいだ、つねにせぞくのことをおもい、なずをあれんにゃにかりて、このんで、がとがをいださん。つねにたいしゅうのなかにあって、われらを、そしらんと、ほっするがゆえに、こくおう、だいじん、ばらもん、こじ、および、よのびくしゅうにむかって、ひぼうして、わがあくをといて、これ、じゃけんのひと、げどうのぎろんを、とくといわん。じょくこうあくせのなかには、おおく、もろもろの、くふあらん、あっきそのみにはいって、われを、めり、きにくせん。あくせのあくびくは、ほとけのほうべんずいぎの、しょせつのほうをしらず、あっく、ひんしゅくし、しばしばひんずいせられん。
 このかんじほんの、にじゅうぎょうのげを、みをもってよまれたかたは、にちれんだいしょうにん、おひとりであった。ゆえに、にちれんだいしょうにんの、しゅつげんがなければ、ほとけのよげんは、ことごとくもうごとなる。としょごしょに、しめされているのである。
 かいもくしょうじょうに、「しかるに、ほけきょうのだいごのかん、かんじほんのにじゅうぎょうのげは、にちれんだにも、このくににうまれずば、ほとをど、せそんはだいもうごのひと、はちじゅうまんおく、なゆたの、ぼさつは、だいばがこおうざいにも、おちぬべし、
 きょうにいわく、「もろもろの、むちのひとあつて、あっくめりとうし、とうじょうがしゃくをくわう」とううんぬん、いまのよをみるに、にちれんよりほかの、しょそうたれのひとか、ほけきょうにつけて、しょにんにあっくめりせられ、とうじょうとうを、くわえらるるものある、にちれんなくば、このいちげの、みらいきはもうごとなりぬ。
 「あくせのなかの、びくは、じゃちにして、こころてんごく」、またいわく、「びゃくえのために、ほうをといて、よにきょうけいせらるること、ろくつうのらかんのごとし」、これらのきょうもんは、いまのよのねんぶつしゃ、ぜんしゅう、りっしゅうとうの、ほっしなくば、せそんは、また、だいもうごのひと、じょうざいたいしゅうちゅう、ないしむこう、こくおう、だいじん、ばらもん、こじとう、いまのよの、そうとう、にちれんを、ざんそうして、るざいせずば、このきょうもんむなし、またいわく、「さくさくけんひんずい」とううんぬん、にちれん、ほけきょうのゆへに、たびたび、ながされずば、さくさくのにじいかんがせん、このにじは、てんだい、でんぎょうも、いまだ、よみたまはず、いわんや、よじんをや、まっぽうのはじめのしるし、くふあくせちゅうの、きんげんの、あふゆへに、ただ、にちれんいちにんこれをよめり」0202-11と。
 けんぶつみらいきに、「このめいきょうについて、ふつごをしんぜしめんがために、にほんこくじゅうの、おうしん、ししゅうのめんぼくに、ひきむかえたるに、よよりのほかには、いちにんもこれなし、ときをろんずれば、まっぽうのはじめ、いっじょうなり、しかるあいだ、もしにちれんなくんば、ふつごはこもうとならん、なんじていわく、なんじはだいまんのほっしにして、だいてんにすぎ、しぜんびくにもこえたり、いかん。
 こたえていわく、なんじ、にちれんをべつじょするのじゅうざい、また だいばだったにすぎ、むくろんしにもこえたり、わがことばは、だいまんににたれども、ぶつきをたすけ、にょらいのじつごをあらわさんがためなり、しかりといえども、にほんこくちゅうに、にちれんをのぞいては、だれひとをとりだして、ほけきょうのぎょうじゃとなさん、なんじにちれんを、そしらんとして、ぶつきをこもうにす、あに、だいあくにんにあらずや」0507-13と。
 しょうにんごなんじに、「りゅうじゅ、てんじん、てんだい、でんぎょうは、よにかたをならべがたし、にちれんまっぽうにいでずば、ほとけはだいもうごのひと、たほう、じっぽうのしょぶつは、だいこもうのしょうみょうなり、ふつめつご、にせんにひゃくさんじゅうよねんがあいだ、いちえんぶだいのうちに、ほとけのみことばを、たすけたるひと、ただ、にちれんいちにんなり」1189-18と。
 にちれんだいしょうにんは、これらのおんふみに、おしめしのごとく、しゃくそんのきょうもんと、だいしょうにんのおふるまいとがふごうすることをもって、わがみが、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃ、すなわちまっぽうのごほんぶつであるとの、しょうことされているのである。ゆえに、かんじほんこそ、まっぽうのせそうをうつしだして、くもりなく、にちれんだいしょうにんを、ごほんぶつなりと、しょうめいづけるみょうきょうである。
 かいもくしょうに、「にちれんといゐしものは、いぬるくがつじゅうににち、ねうしのときに、くびはねられぬ、これはこんぱく、さどのくににいたりて、かえるとしのにがつ、せっちゅうにしるして、うえんのでしへ、をくればをそろしくて、をそろしからず、みんひと、いかに、をぢぬらむ、これはしゃか、たほう、じっぽうのしょぶつの、みらいにほんこく、とうせいをうつしたまう、みょうきょうなり、かたみともみるべし」0223-16と。
だが、ここに、じつにだいふしぎがあるとおもう。それは、しゃくそんと、にちれんだいしょうにんとは、やく2000ねんのへだたりがある。2000ねんと、ひとくちにいうが、それはまことに、ながいきかんである。いまのよに、だれひとが、2000ねんいごのせそうを、よげんできるひとがあろうか。みずからのみに、ひきあててかんがえれば、いかに、しゃくそんがいだいなしょうにんだったかが、わかるであろう。しかも、そのひとつひとつのもんが、すんぶんもくるいなく、てきちゅうしていることは、ふしぎであり、じつに、いだいなことだとおもう。
 しゃくそんのさんヶかげつのちの、ねはんのてきちゅうも、ふほうぞうきょうのよげんもてきちゅうし、また、だいしつきょうのごごひゃくさいのよげんもてきちゅうし、そして、このかんじほんのよげんも、みごとてきちゅうしているのである。しょうにんちさんせじ、「きょうしゅしゃくそん、すでにちかくは、さつてのち、みつきのねはんこれをしり、とおくは、のちのごひゃくさい、こうせんるふ、うたがいなきものか、もし、しかれば、ちかきをもって、とおきをすいし、げんをもってとうをしる、にょぜそう、ないし、ほんまつくきょうとうこれなり」0974-05と。
 にちれんだいしょうにんは、しゃくそんよりも、ひゃくせんまんおくばいすぐれた、ごほんぶつである。だいしょうにんに、そうたいすれば、しゃくぶつである。しゃくそんはたいようのひかりにてらされて、ささやかなひかりをはなつ、つきのごときそんざいなのである。
 しもやまごしょうそくには、「きょうしゅしゃくそんより、だいじなるぎょうじゃを、ほけきょうのだいごのまきをもって、にちれんがこうべをうち」0363-01とおおせられ、かんぎょうはちまんしょうには、しゃくそんをつきにたとえ、にちれんだいしょうにんをひに、たとえられている。
 またほうれんしょうには、しゃくそんをいちこうのあいだ、さんごうそうおうで、くようするくどくよりも、まっぽうの、ほけきょうのぎょうじゃを、けろんにいちごん、あたかも、けいぼがけいしをほめるように、こころからではなくとも、さんたんし、くようするくどくのほうが、ひゃくせんまんおくばいすぐれていると、おおせられている。
 そのだいしょうにんの、みらいきいかん。けんぶつみらいきに、「とうていわく、ぶつき、すでにかくのごとし、なんじが、みらいきいかん、こたえていわく、ぶつきにじゅんじて、これをかんがえうるに、すでに、のちのごひゃくさいのはじめに、あいあたれり、ぶっぽうかならず、とうどのにほんよりいづべきなり」0508-10と。
 またほうおんしょうに、「にちれんが、じひこうだいならば、なんみょうほうれんげきょうはまんねんのほか、みらいまでもながるべし」0329-03とおおせられている。
 げんざい、そうかがっかいが、こうせんるふのために、まいしんしているのは、とりもなおさず、このだいしょうにんのおおせを、じつげんせんがためであり、せかいのこうせんるふも、また、まっぽうまんねんじんみらいさいまでのこうきゅうへいわも、われわれのてによって、じつげんできるとかくしんし、ぜんしんをつづけていこうではないか。

0747    だいに ふしゃくしんみょうのこと。

おんぎくでんにいわく、しんとはしきほう、いのちとはしんぼうなり、じりの、ふしゃくしんみょうこれあり、ほっけのぎょうじゃ、たはたとうをだつわるは、りのふしゃくしんみょうなり、みょうこんをたたるをことの、ふしゃくしんみょうというなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、じりともにあうなり。0748

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんの、「われら、まさに、だいにんりきをおこして、このきょうを、どくじゅし、じせつし、しょしゃし、しゅじゅにくようして、しんみょうをおしまざるべし」のところのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しんみょうのしんとはしきほう、いのちはしんぼうであり、しんみょうでしきしんふにのせいめいをさすのである。ふしゃくしんみょうに、じとりのふしゃくしんみょうがある。ほっけのぎょうじゃが、たはたとうをうばわれるのは、りのふしゃくしんみょうであり、みょうこんをたたれるのは、じのふしゃくしんみょうというのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつり、ぶつどうしゅぎょうにはげむならば、じのふしゃくしんみょう、りのふしゃくしんみょう、ともにあうのである。

 ふしゃくしんみょうとは、じゅりょうほんの「ふじしゃくしんみょう」とおなじいみである。にちかんしょうにんは、じゅりょうほんの「いっしんよっけんぶつ、ふじしゃくしんみょう」のもんをしんぎょうにわけて、「いっしんよっけんぶつ」をしんとたて、「ふじしゃくしんみょう」をぎょうとたてられている。
 すなわち、ごほんぞんをしんじて、しょうだいし、しゃくぶくにはげむことが、ふじしゃくしんみょうになるのである。しんじんし、しゃくぶくをやりとおしていけば、かならずなんがある。にちれんだいしょうにんはきょうだいしょうにてんだいだいしのまかしかんのだいごのもんをひいて、つぎのようにこのげんりをとかれている。
 「このほうもんをもうすには、かならずましゅったいすべし、まきそはずはしょうほうとしるべからず、だいごのまきにいわく、「ぎょうげすでにつとめぬれば、さんしょうしま、ふんぜんとしてきそいおこる、ないししたがうべらず、おそるべらず、これにしたがえば、まさにひとをして、あくどうにむかわしむ、これをおそれば、しょうほうをしゅうすることをぐさまた」とううんぬん、このしゃくは、にちれんがみにあたるのみならず、もんけのめいきょうなり、つつしんでならいつたえて、みらいのしりょうとせよ」1087-15
 なんがなければ、しょうほうとはいえないというのが、だいしょうにんのおおせである。
 にちれんだいしょうにんのおふるまいは、いっしょうがい、ふしゃくしんみょうのおすがたであった。こまつばらのほうなん、たつのくちのほうなん、いず、さどへのにどのるざいとう々とうである。またおでしについては、こまつばらのほうなんのさいのきょうにんぼう、くどうよしたか、あつはらのほうなんのさいの、じんしろう、やごろう、やろくろうとうのさんれっしとうもふしゃくしんみょうのすがたであった。また、だいにそにっこうしょうにんのごいっしょうも、ほんもんぐつうのために、しんみょうをなげうってたたかわれた。だいさんそにちしょうにんも、こっかかんぎょうのために、そのとうときせいめいをおしまれなかった。
 ちかくは、しょだいまきぐちかいちょうは、かんけんのためとらえられ、ろうしなされた。まさにふしゃくしんみょうであった。だいにだいとだかいちょうのごいっしょうもふしゃくしんみょうのすがたであった。また、げんざいのそうかがっかいいんが、いちにんでもおおくのひとをすくわんと、いかなるはんたいもあっぱくも、ものともせず、しんけつをそそぐすがたは、ふしゃくしんみょうではないか。
 だが、げんざいは、しんみょうにおよぶようななんなどは、ほとんどない。それはいま、けぎのこうせんるふはげんぜんであり、ごほんぞんのだいくどくは、ちゅうてんのたいようのごとくひかりかがやき、われわれがまもられているからである。しかしかならず、それぞれのたちばで、なんがあるのはとうぜんである。なんがなければ、しゅくめいてんかんできず、しんじつのこうふくもかくりつできないのである。なんがあったときがだいじである。じょうぶつするかじごくにおちるか、そのときのいちねんがけっじょうする。なんをのりこえたときは、たいふうのあとのせいてんのごとく、しんじつのこうふくかんに、みちみちてくるのである。
 したがってだいしょうにんの、なんにあったときの、しどうはじつにきびしい。だいしょうにんがさどごるざいちゅうに、あらわされたにょせつしゅぎょうしょうには、「いちごをすぐることほどもなければ、いかにごうてきかさなるとも、ゆめゆめたいするこころなかれ、おそるるこころなかれ、たとひ、くびをばのこぎりにてひききり、どうをばひしほこをもって、つつき、あしには、ほだしをうつて、きりをもってもむとも、いのちのかよはんほどは、なんみょうほうれんげきょう、なんみょうほうれんげきょうととなえてとなへしに、しるならば」(0504-18)とうとおおせられ、またあつはらのほうなんの、いっさいのしどうしょたる、しょうにんごなんじには、「かのあつわらのぐちのものども、いゐはげまして、をどすことなかれ、かれらには、ただいちえんにおもいきれ、よからんはふしぎ、わるからんはいっじょうとをもへ、ひだるしと、をもわば、がきどうを、をしへよ、さむしといわば、はちかんじごくを、をしへよ、をそろししと、いわば、たかにあへるきじ、ねこにあえるねずみを、たにんとをもうことなかれ」(1190-18)といわれている。
 このようなきびしいしどうも、しょせんは、じょうぶつさせたい、こうふくをつかませたい、とのじひであり、げんぷのあいなのである。もしも、われわれが、なんがこわいからといって、なんをうけないように、しんじんをあゆめれば、なんがなくなるかといえば、けっしてそうではない。しんじんしてなんをうけるいじょうの、だいなんをうけなくてはならない。
 ごほんぞんをおがんでのなんは、ざいしょうしょうめつされ、しゅくめいてんかんされていく。じょうぶつのためへのなんである。これはしょうにんごなんじに、「たとえばやいとのごとし、とうじはいたけれども、のちのくすりなれば、いたくて、いたからず」(1190-16)とおおせあるごとく、よろこびであり、たのしみである。だが、しんじんをやぶってうけたなんは、ゆきだるましきに、それがまた、いんとなって、じごくにおち、ふこうをまねくだけである。したがって、われわれは、ごほんぞんをこんぽんとして、そうかがっかいいんとして、さいごのさいごまで、いっしょうじょうぶつのため、こうせんるふのためたたかっていこうではないか。
 ふしゃくしんみょうについて、さらにいちごんしたい。しんじんにかぎらず、いっぱんに、これからなにかをしようとしているひとのこころは、はずんでいる。またそのすがたはうつくしくもある。とくに、いかなるこんなんともたたかい、じこのもくひょうにうちすすんでいくすがたは、さいびである。はつめいかがけんきゅうにぼっとうしているすがたも、また、いしゃがびょうにんをなおすために、けんめいになっているすがたも、またがくしゃがしんりのたんきゅうにみをうちこんでいるすがたも、そこには、なにかをつくりあげたい、はっけんしよう、といういよくがあふれている。
 あるもくひょうにむかって、しんみょうをうちこんでいくことは、ふしゃくしんみょうにつうずるものがある。ただし、もくひょうのこうてい、せんじん、ぜんあくいかんがもんだいである。あさきもの、またていきゅうなもの、あやまれるものに、しんみょうをなげうつほど、あわれなことはない。さいこうのものにきみょうしていくじんせいでなければならない。けつろんすれば、ごほんぞんにきみょうすることであり、じこのいっしょうじょうぶつ、またぜんせかいのへいわのために、しんみょうをとしてたたかうことが、さいこうのじんせいであり、しんじつさいこうのふしゃくしんみょうなのである。
 ふしゃくしんみょうのせいしんにたったひとほど、つよいものはない。しんじつのあんらくであり、いかに、たからこわそうとしても、こわすことはできない。だれをおそれるひつようもない。だれにもこびへつらうひつようもない。いわおのごとく、どう々どうとしており、たいようのごとくこうきにみちたじんせいこうろである。


0748    だいさん しんふじつこのこと。

おんぎくでんにいわく、しんふじつことは、ほっけさいだいいちのきょうもんをだいさんとよみ、さいいごじょうのきょうもんを、さいいごげとよみて、ほけきょうのいちねんさんぜんを、けごんだいにちとうにこれありと、ほっけのそくしんじょうぶつを、だいにちきょうにとりいるるは、らはみな、しんふじつこなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しんじつなるべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、かんじほんで、まっぽうのひとのしょうをよげんして、「しんふじつなるがゆえに」とといているところである。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。こころがふじつであるということは、ほけきょうが、いっさいきょうちゅうだいいちであるのに、こうぼうのように、だいさんにくだし、さいこうである、ほけきょうをさいていとよみ、ほけきょうにとかれている、いちねんさんぜんのほうもんを、けごんきょう、だいにちきょうにも、とかれているとして、ほけきょうのそくしんじょうぶつのおしえを、だいにちきょうにぬすみいれるようなことをさして、こころが、ふじつというのである。しかして、いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかの、なんみょうほうれんげきょうととなえるものは、がじつなのである。


 しんふじつことは、ただしきものを、ただしいとみることができない。すぐれているものを、すぐれているとみとめない。このように、へんきょうであり、ていきゅうなものにしゅうちゃくするこころを、ふじつというのである。わがそうかがっかいにたいし、そのほんしつ、じゅんすいせい、もくてきかんをもしらず、がけんのみで、ひはんし、おんしつをいだくこころなどは、ふじつのてんけいである。
 われらのだんけつのつよきをみては、きょうじんのごとく「ファッショ」というひとなど、とくにそのぶるいである。よきだんけつは、だれひともほっするところである。これいじょううるわしきすがたはないのだ。これができないところに、こんにちの、いくたのひげきがあるのではなかろうか。いっかも、しゃかいも、ろうどうくみあいも、せいとうも、こっかも、ぜんせかいも、だんけつしようだんけつしようと、けんめいにどりょくしているではないか。われわれが、だいぶっぽうをこんていにだんけつしているのは、さいだいのもはんとしょうさんして、とうぜんのことなのではなかあろうか。それをいじょうしすることじたい、いじょうであるとしらねばなるまい。
 そうかがっかいが、オリンピックいじょうの、どう々どうたるぶんかをてんかいした。これをにほんのほこりとし、せかいのほこりとしたひとが、いくひといたことであろうか。はんたいに、おそれをいだき、まゆをひそめたひとがいたときく、まことにざんねんなことである。しかし、じだいはとう々とうとながれている。ひと々びとのこころが、しだいに、めざめつつうごいている。かならずや、ぜんせかいから、かんしゃと、そんけいと、しんらいをえるひがまぢかであることを、つよくつよくかくしんするものである。かれらのかんじょうてき、ひそうてきなひはんは、これみな、「しんふじつこ」のしょうみょうにほかならないことを、ごきんげんにてらし、めいきしていくのみである。

0748    だいよん きょうじゅんぶっちのこと。

おんぎくでんにいわく、ほけきょうにじゅんずるは、きょうじゅんぶっちなり、こころとはなんみょうほうれんげきょうこれなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、きょうじゅんぶっちのこころなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「ときにもろもろのぼさつ、ほとけにきょうじゅんし」とあるところについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほけきょうにじゅんじ、なんみょうほうれんげきょうと、しんずるものは、ふついにきょうじゅんしているということである。ほとけのこころとは、なんみょうほうれんげきょうである。いま、にちれんだいしょうにんおよびもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえることは、ふついにきょうじゅんしていることをいみする。

 ぶついのほとけとは、にちれんだいしょうにん、こころとはなんみょうほうれんげきょうであり、ぶついで、にんぽういっかのごほんぞんをあらわす。きょうおうどのごへんじに「にちれんがたましひを、すみにそめながして、かきてそうらぞ、しんじさせたまへ、ほとけのみこころは、ほけきょうなり、にちれんが、たましひは、なんみょうほうれんげきょうに、すぎたるはなし」(1124-11)と。
 きょうじゅんとは、しんじんである。ごほんぞんをぜったいとしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となえることがしんのきょうじゅんぶっちである。

0748    だいご さししくのこと。

おんぎくでんにいわく、ししくとは、ほとけのせつなり、せっぽうとはほっけ、べっしては、なんみょうほうれんげきょうなり、しとはししょうくさずるところのみょうほう、しとはでしくうるところのみょうほう、くとはしていともに、となうるところのおんじょうなり、さとはおこすとよむなり、まっぽうにしてなんみょうほうれんげきょうをおこすなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「ときにもろもろのぼさつ、ほとけにきょうじゅんし」とあるところについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほけきょうにじゅんじ、なんみょうほうれんげきょうと、しんずるものは、ぶついに、きょうじゅんしているということである。ほとけのこころとは、なんみょうほうれんげきょうである。いま、にちれんだいしょうにんおよびもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえることは、ぶついにきょうじゅんしていることをいみする。

 「せっぽうとは、ほっけ、べっしては、なんみょうほうれんげきょうなり」とは、しゅだつそうたいをあらわしている。すなわち、せっぽうとは、ほけきょうであるが、べっしては、ほけきょうじゅりょうほん、もんていのなんみょうほうれんげきょうをさすのであるとの、いみなのである。
 つぎに、「しとは」、いかのもんは、していふにをしめされたものである。「しとはししょう」とは、にちれんだいしょうにんである。「くさずるところのみょうほう」とは、ごほんぞんのことである。にんぽういっかをしめす。「しとはでし」とは、ごほんぞんをしんずるものであり、「うくるところのみょうほう」とは、しんじんでうけとるところのみょうほう、すなわち、ごほんぞんをしんじて、わがこしんのごほんぞんを、ゆげんすることである。「くとは、していともにとなうるところの、おんじょうなり」とは、していふにである。
 また「なんみょうほうれんげきょうをおこす」とは、しんじんはじゅどうではなく、のうどうであるということであり、またこうせんるふも、たのひとがやるのをまつのではなく、おのれじしんがやるときめることである。とだかいちょうは、かって、「こうせんるふは、ひとりのせいねんがいのちをすてれば、かならずできる」ともうされ、また「せいねんよひとりたて」とも、こごうなされた。まずいちぽは、じぶんみずからやるのである。それがしだいにひろがっていくことは、まちがいない。われわれがやっていることは、たいしゅうのもっとも、ほっしていることを、しているからである。

0748    だいろく にょほうしゅぎょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、にょほうしゅぎょうのひととは、てんだい・みょうらく・でんぎょうとうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、にょほうしゅぎょうなりうんぬん。

 かんじほんで、しょぼさつが、「ほうのごとくしゅぎょうし、しょうおくねんせしめん」と、めつごのるつうをちかうもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほとけのきょうほうのごとく、しゅぎょうするひととは、てんだい、みょうらく、でんぎょうとうである。いま、まっぽうにおいては、にちれんだいしょうにんおよびもんかの、なんみょうほうれんげきょうととなえるものが、にょほうしゅぎょうである。

 にょせつしゅぎょうのほうとは、しそう、しゅぎょうとはじっせんである。にょせつしゅぎょうは、あらゆるものにつうじていることである。たとえばげどうの、にょせつしゅぎょうについていえば、しいだ、じゅうはちだいきょうなどのかれらのきょうてんを、そのとおりにじっせんするとすれば、それは、げどうのにょせつしゅぎょうである。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、かいもくしょうこうぎで、つぎのごとくのべられている。
 「ばらもんにおいても、ひくいていどのものであるが、せいめいのほんしつとはなんぞやというてんを、しこうして、そのえたけつろんを、じっせんかつどうにうつしたものである。ゆえにかれらは、これをごくせつとなして、たがいにろんそうし、またこのほうをば、じっせんこうどうにうつして、いちにちにさんど、ごうがにはいったり、あるいはかみをぬいたり、いわにみをなげたり、あるいは、みをひにあぶって、ごたいをやき、あるいは、らぎょうになり、うまをころせば、こうふくになるといったり、あるいは、そうもくをやいたり、いっさいのきをおがんだりしたのである。
 これこそ、さいこうのぶっきょうてつがくからみれば、ほんとうの、こどもだましであって、なんら、うるところのないのは、もちろんである」と。
 このようにほうのごとく、しゅぎょうするといっても、そのほうが、ていきゅうであったり、あやまれるものであったり、ふごうりなものであれば、それをじっせんしたときには、ゆがんだにんげんをつくりあげるだけであり、ふこうをまねくばかりである。
 またそのしそうが、ていきゅうであり、ふごうりであれば、ひつぜんてきに、それをこうどうにうつすのに、むりがでてくる。したがって、しそうとじっせんが、しだいにはいりしてくるのである。
 げんざい、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょういがいの、あらゆるしそうが、しそうとじっせんのはいりを、しんこくにしめしている。マルクスのしそうにしても、またじつぞんしゅぎのてつがくにしても、またとうようのじゅきょうてつがくにしても、あらゆるものが、そのじっせんにおいて、いきづまってしまっている。
 このてん、ことにあわれむべきは、キリストきょうである。
 「あなたがたは、てきをあいし、ひとによくしてやり、またなにもあてにしないでかしてやれ」また、「かれからりしもりそくもとってはならない。あなたのかみをおそれ、あなたのきょうだいを、あなたとともに、いきながらえさせなければならない」、これらのせいしょのもんぐを、しょせつのごとく、じっせんしているキリストきょうとが、はたしていくにんいるであろうか。
 つぎに、いかにさいこうのしそう、てつがくをゆうしていても、それをじっせんしなければ、かちはしょうじないことを、めいきすべきである。われわれのたもつほうは、はちまんほうぞうのしんずいであり、せかいさいこうのしきしんふにの、せいめいてつがくである。
 そのじっせんとは、ごほんぞんをしんじてしょうだいし、しゃくぶくにはげんでいくことである。テレビのスイッチをいれ、がめんにぞうをあらわすことは、かんたんであり、ちいさなこどもにもできる。だが、そのテレビのりろんというものは、きわめてふくざつ、かつなんげなものである。ごほんぞんは、ひみつのおうぞうであり、なんしんなんげである。
 だが、われわれが、それをじっせんにうつすときは、じゅじそくかんじんとなり、ただごほんぞんをしんじて、しょうだいするだけで、しんじつのこうふくをかちえていくことが、できるのである。


0748    だいなな うしょむちにんのこと。

おんぎくでんにいわく、いちもんふつうのだいぞくなり、あっくめりとう、ふんみょうなり、にほんこくのぞくを、もろもろというなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんの、「もろもろのむちのひとの、あっくめりし、および、とうじょうをくわうるものあらん」と。ぞくしゅうぞうじょうまんを、あかすもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。もろもろのむちのひととは、ぶっぽうのいちもんもしらない、ぞくじんのことである。しょうほうのぎょうじゃにあっくをいい、ばとうするのは、はっきりしていることである。もろもろとはにほんこくの、ぞくしゅうぞうじょうまんをいうのである。

 このもんは、だいいちるいの、ぞくしゅうぞうじょうまんのところである。このぞうじょうまんは、しんじんするとどうじに、でてくるものである。ふだんは、なにでもなく、こころよくまじわっているゆうじん、かていとうのひとが、しんじんのことになると、きまってはんたいをするものだ。ごきんげんのいかにてきちゅうするかを、おどろくほど、たいけんするものである。
 しかし、いかにはんたいしても、だいぶっぽうには、ぜったいにこうしきれるものではない。もうれつなるはんたいしゃが、のちで、かならず、ぞくぞくとにゅうしんするのも、まことにふしぎな、りきあるぶっぽうといわざるをえない。

0749    だいはち あくせちゅうびくのこと。

 おんぎくでんにいわく、あくせちゅう、びくのあくせとは、まっぽうなり、びくとはほうぼうたる、こうぼうとう、これなり、ほっけのしょうちをすて、ごんきょうのじゃちをほんとせり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しょうちのなかのたいしょうちなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あくせのなかのびくは、じゃちにしてこころてんごくに、いまだえざるをこれえたるといい、がまんのこころじゅうまんせん」と、どうもんぞうじょうまんをあかしたもんについて、おんぎくでんでは、つぎのようにおおせである。「あくせのなかのびく」の、あくせとは、まっぽうげんざいをさす。びくとは、こうぼうとうのほっけひぼうのじゃそうをいうのである。いま、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえるのは、しょうちのなかのたいしょうちである。

 あくせちゅうびくとは、どうもんぞうじょうまんをあかしているところである。
 だいにるい、どうもんぞうじょうまんとは、きせいしゅうきょうかい、しんこうしゅうきょうかいにふくまれる。すなわち、ぜんにちふつ、しんしゅうれんがこれである。じしゅうのせいぎ、しんねんをるふするを、しゅうきょうほんらいのしめい、じゅんすいせいであることをぼうきゃくし、せほうのみにとらわれ、れんごうして、おのがきぎょうをまもらんとする、ひきょうきわまりなき、しゅうだんをさす。
 しかし、どうもんぞうじょうまんは、すでにちからをうしない、そのつめをもぎとられてしまっている。きょうと、ならの々てらでらはさびれ、かんこうちとかし、じゃしゅうにちれんしゅうのほんざん、みのぶも、すでにこうはいのきわみにたっしている。どうもんぞうじょうまんの、さかんなりしじだいの、すぎさっているしょうこといえよう。
 わががっかいのれきしからいえば、とだじょうせいぜんかいちょうのしょうわ26ねんごろから、しょうわ30ねんのおたるほうろんを、さかいにして、じゃしゅうはいちだんとおとろえているかんを、もつものである。そのごは、ぜんにちふつとうが、ぼちまいそうきょひもんだいとうで、たしょうのうごきをみせているていどである。
 しんじだいは、つぎにのべるだいさんるい、せんしょうぞうじょうまんとのたたかいであり、このしょうりこそ、こうせんるふじつげんのさいごのくさびであるとかくしんしてやまない。

0749    だいきゅう わくうあれんにゃのこと。

 おんぎくでんにいわく、だいさんのびくなり、りょうかんとうなり、にょろくつうらかんのひととおもうなり。
 かんじほんに「あるいはあれんにゃに、のうえにして」と、せんしょうぞうじょうまんを、あかしたもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんは、さんるいのごうてきのなか、だいさんのせんしょうぞうじょうまんのじゃそうをさしている。ごくらくじりょうかんがそれである。せけんのひとは、ろくじんずうをえたあらかんのように、そのじゃそうをそんけいしているのである。

 かいしゃくこうぎ。
 だいさんるいの、せんしょうぞうじょうまんとは、こっかけんりょくをいう。なお、げんざいでは、いちりゅうひょうろんか、がくしゃ、いちりゅうにっかんしをさす。また、せいじか、ざいかいじんとうのけんりょくしゃが、われわれをいんにように、はくがいしてくることをいうのである。
 げんざいは、さんるいのごうてきのうち、とくにこの、だいさんるいの、せんしょうぞうじょうまんとの、たたかいのじだいなのである。かって、とだじょうせいぜんかいちょうは、かならず、だいさんるいのあらわれるときがくると、つねにもうされていた。そのときとは、まさにいまである。めざめたたいしゅうほど、ちからづよいものはない。とう々とうとながれゆく、たいがのごとく、たいしゅうのこころはうごき、しんぐんはこっ々こくと、てんかいされているのである。
 げんざい、せんしょうぞうじょうまんの、しゅつげんがあることは、だいしょうにんのごきんげんのとおりであり、こうせんるふたっせいは、ぜったいであることを、かくしんするものである。

0749    だいじゅっ じさしきょうでんのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほけきょうをしょさしてよむと、ぼうすべしと、いうきょうもんなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あるいはあれんにゃに、のうえにして」と、せんしょうぞうじょうまんをあかしたもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんはさんるいのごうてきのなか、だいさんのせんしょうぞうじょうまんの、じゃそうをさしている。
 ごくらくじりょうかんがそれである。せけんのひとはろくじんずうをえた、あらかんのように、そのじゃそうをそんけいしているのである。

 げんざいでいえば、じゃしゅうみのぶはにちれんしゅうとうが、みずからのしゅうはのひをかくすため、さんだいひほうしょうを、ぎしょあつかいにしたり、あるいは、おんぎくでん、ほんにんみょうしょう、ひゃくろくかしょうとうを、こうせいのぎさくであるなどというのは、まさにこのもんにあたるのである。
 にっこうしょうにんの、ゆいかいおきぶみには「いち、ごしょ、いずれもぎしょにぎし、とうもんりゅうをきぼうせんもの、これあるべし、もし、かようのあくりょしゅつたいせば、しんごんすべからざるじ」1617-07とある。
 さらに、ほんもんかいだんの、ごほんぞんにたいするぎなんなどは、そのさいたるものであろう。

0749    だい11 いししょきょうごんにょとうかいぜぶつのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほけきょうのぎょうじゃをあなづり、しょうぶつというべしというきょうもんなり、これはけいしんをもってそしるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものをいうべきなり。
 かんじほんの、「これにかろしめて、なんだちは、みなこれ、ほとけなりといわれん」と。ほけきょうのぎょうじゃがうけるなんのひとつを、しめしたもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほけきょうのぎょうじゃをけいべつして、しょうぶつとよぶであろうというきょうもんである。これはけいべつするこころで、ひぼうするのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、もんかの、なんみょうほうれんげきょうととなえるものが、このようにいわれているのである。

 かいしゃくこうぎ。
ほけきょうのぎょうじゃをあなづり、しょうぶつというべし。
 なんみょうほうれんげきょうのみ、ぜったいなりとかくしんもち、しゃくぶくにはげむと、かれらほうぼうのやからは、かならず、ひにくなけいべつのねんをもって、しょうぶつなどとよんで、そしるであろうということである。
しかし、あくまでたえ、みょうほうるふにまいしんせよとのしどうであられる。よく、しゃくぶくにあたり、そんなすごいしゅうきょうなら、すぐあめをふらしてみろ、すぐびょうきをなおしてみろ、たからくじをあててみろと、あざけられることもどういである。
 ほっけしょしんじょうぶつしょうには、「そのうえ、かんじほんには、ほけきょうのてきじん、さんるいをあげられたるに、いちには、ざいけのぞくなん、ぞくにょなり、このぞくなん、ぞくにょはほけきょうのぎょうじゃをにくみ ののしりうちはり、きりころし、ところをおひだしい、あるいは、かみへざんそうしておんるし、なさけなく、あだむものなり。
 にには、しゅっけのひとなり、このひとは、まんしんたかくして、ないしんには、ものもしらざれども、ちしゃげにもてなして、せけんのひとに、がくしょうとおもはれて、ほけきょうのぎょうじゃをみては、うらみそねみかろしめ、いやしみ、いぬやかんよりも、わろきようを、ひとにいいうとめ、ほけきょうをば、われひとり、こころうたりとおもうものなり。
 さんには、あれんにゃのそうなり、このそうは、きわめてとうときそうをかたちにあらわし、さんね、いっぱちをたいして、さんりんの、しずかなるところにこもりいて、ざいせのらかんのごとく、しょにんにとうとまれ、ほとけのごとくばんにんにあおがれて、ほけきょうをせつのごとくに、よみたもちたてまつらんそうをみては、にくみそねんでいわく、たいぐち、だいじゃけんのものなり、すべて、じひなきもの、げどうのほうをとくなんどいわん、かみいちにんより、あおいでしんをとらせたまはば、そのいか、ばんにんもほとけのごとくに、くようをなすべし、ほけきょうを、せつのごとくよみたもたんひとは、かならずこのさんるいのてきじんに、あだまるべきなりと、ことけときたまへり」(0556-06)ともうされている。

0749    だい12 あっきにゅうごしんのこと。

 おんぎくでんにいわく、あっきとは、ほうねん、こうぼうとうこれなり、いりごしんとはこくおう、だいじん、ばんみんとうのことなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものを、うらむべしということなり、おにとは、いのちをうばうものにして、だつくしゃというなり、ほけきょうはさんぜしょぶつのみょうこんなり、このきょうはいっさいしょぼさつのくどくを、おさめたるみきょうなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あっき、そのみにはいりて、われをめりきにくせん」と、まっぽうのなんを、あげたもんについての、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである。
 あっきとはほうねん、こうぼうのじゃしゅうのそうをいうのである。あっきがそのみにはいる、そのみとは、こくおう、だいじん、ばんみんなどをいう。そしてこれらのひと々びとが、にちれんだいしょうにん、およびもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえるのを、おんしつするのである。おにとはいのちをうばうもので、だつくどくじゃとやくすのである。ほけきょう、なんみょうほうれんげきょうは、さんぜのいっさいの、ほとけのいのちのこんぽんである。このなんみょうほうれんげきょうには、いっさいのぼさつの、くどくがおさまっているのである。あっきは、そのせいめいを、むしばまんとするのである。

 あっきとは、じゃしゅうきょう、あくしそうをいう。このだんは、これらのおそろしさをとかれているのである。
 しそうほど、つよいものはない。またしそうほど、こわいものもない。しゅうきょうほど、ちからあるものはない。また、しゅうきょうほど、おそろしいものもない。ざんねんなことに、いっぱんのひと々びとは、このがいどくのおそろしさをしらない。まなこにみえず、てにふれることができないゆえに、きにとめないのもむりもなかろう。
 しかし、じゃしゅうきょう、あくしそうは、しらずしらずのうちに、ひとのせいめいをむしばみ、せいめいりょくをうばってゆくあへんのごときものである。はじめはきづかず、きがついたときには、すでにおそく、どうしょうもないじょうたいになっているものである。ガンのごとく、でんせんびょうのごとく、あくえいきょうをおよぼしながら、あらゆるひとのこうふくをむしばんでゆくものである。じつに、おそるべきは、あくしそうであり、じゃしゅうきょうである。
 ときどのごしょには「ちしゃはおんけ、へび、かどく、いんだら、へきれき、とうじょうもろもろのあくじゅう、ころう、ししとうをおそるべからず、それはただよくいのちをだんじてひとをしておそるべきあびごくにはいらしむ」(0969-06)と。
 さんぜつうぎょうの、ごほんぶつのごしょうごんをば、いちにちもすみやかに、かつ、おおくのひとたちにしらしめていきたいものである。

0749    だい13 たんしゃくむじょうどうのこと。

 おんぎくでんにいわく、むじょうどうとはなんみょうほうれんげきょうこれなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうをむおしことは、みょうこんよりも、きおしことなり、これによつてむすぶところに、ほとけ、じちがしんととかれたり、ほけきょうのぎょうじゃのしんちゅうをば、きょうしゅしゃくそんのごぞんじあるべきなり、ほとけとは、しゃくそんがしんとはいま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あっきそのみにはいりて、われを、めりきにくせん」と、まっぽうのなんをあげたもんについての、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである。あっきとはほうねん、こうぼうのじゃしゅうの、そうをいうのである。あっきがそのみにはいる、そのみとは、こくおう、だいじん、ばんみんなどをいう。そして、これらのひと々びとが、にちれんだいしょうにんおよび、もんかがなんみょうほうれんげきょうととなえるのを、おんしつするのである。おにとは、いのちをうばうもので、だつくどくものとやくすのである。ほけきょう、なんみょうほうれんげきょうは、さんぜのいっさいの、ほとけのいのちのこんぽんである。このなんみょうほうれんげきょうには、いっさいのぼさつのくどくが、おさまっているのである。あっきは、そのせいめいを、むしばまんとするのである。

 むじょうどうとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。すなわち、さんだいひほうのごほんぞんのことである。たのいっさいの、じっぽうみじんのきょう々きょう、しそうてつがくは、うじょうどうなのである。むじょうどうをしんじんにやくせば、さいこうのこうふくせいかつのこととなる。けっきょく、だいぜんせいかつをさす。

いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうをむおしことはみょうこんよりもきおしことなり。
 たとえば、しょうがつに、こどもがおとしだまをもらったとする。こどもにとっては、だいじなおかねである。ひゃくまんえんのこぎってより、たいせつにしがみつくものである。これ「みょうこんよりもおしきことなり」のすがたとなろう。おとしだまが、こどもにとってのむじょうどうとなる。かいしゃのしゃちょうが、しょうがいかけて、だいがいしゃをつくりあげた。そのしゃを、ぜんたましいかたむけて、ゆずりたたかう。これとおなじく「みょうこんよりおしきことなり」に、つうずるところである。しかしみょうほうにひかくすれば、じぶんなりにむじょうどうとおもいこんでいるに、すぎないわけだ。
 またそうりだいじんは、じぶんのちいをむじょうどうとおもっていることだろう。たしかに、くかいぎいん、とかいぎいん、こっかいぎいんからみれば、そうもいえよう。そしてじこのけんりょくに、いのちがけでしがみついてく。このけんりょくのざをおしむこと「みょうこんよりもおしきこと」なのである。
 しかし、そうりだいじんたりとも、えいえんふめつのだいてつりを、こんていにせざるかぎり、みんしゅうのこんぽんてききゅうさいはありえない。ゆえに、ごほんぞんをこんぽんとしてみれば、それもうじょうどうである。しょせん、ひとともに、ごほんぶつにちれんだいしょうにんと、はちまんほうぞうのごくりたるいちだいひほうのごほんぞんにきすうするのである。
 「みょうこんよりもおしきことなり」のごきんげんのごとく、みょうほうをけんじし、みょうほうるふにかつやくするひとこそ、ごほんぞんにきょうちみょうごうした、むじょうどうのじんせいといえるのである。

これによつて、むすぶところに、ほとけじちがしんと、とかれたり。
 じょうぶつは、とおくになく、なんじじしんのないおうにあるを、あかされたもんである。「ほとけみずから、わがこころをしれり」とせんぜつされたごとく、じぶんじしんの、せいめいにやくどうするものである。しして、てんごくに、ゆくのでもけっしてない。せいほうじゅうまんおくどに、こうふくがあるのでもない。きょうさんかくめいがじょうじゅしてから、こうふくになるものでもない。しんじんそくにんげんかくめいであり、つねじゃっこうどにしてゆくのが、だいてつりのげんりなのである。これほど、かんたんにして、げんじつてきであるだいてつりが、いずこにあるであろうか。
ほけきょうのぎょうじゃのしんちゅうをばきょうしゅしゃくそんのごぞんじあるべきなり。
 「きょうしゅしゃくそん」とは、にちれんだいしょうにんのおんことである。ほけきょうのぎょうじゃとは、べっしては、とうぜん、まっぽうのごほんぶつ、にちれんだいしょうにんであられる。そうじては、しんぎょうがくにはげみゆくわれらもまた、ほけきょうのぎょうじゃと、じかくしてよいのである。ここは、ぼんぷのわれわれじしんが、にちれんだいしょうにんのおこころにかない、ほとけのとうたいとあらわれるとの、おおせなのである。
 したがって、いちおう、りじょうでは、だいしょうにんとおなじ、じっかいさんぜんのせいめいである。さいおうは、とうたいぎしょうによれば、「しょせん、みょうほうれんげのとうたいとは、ほけきょうをしんずる、にちれんがでしだんなとうの、ふぼしょしょうの、にくしんこれなり、しょうじきにほうべんをすて、ただ、ほけきょうをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなうるひとは、ぼんのうごう、くのさんどう、ほっしん、はんにゃ、げだつのさんとくとてんじて、さんかん、さんたい、そくいっしんにあらわれ、そのひとのしょじゅうのところは、じょうじゃっこうどなり、のうごしょご、しんど、しきしん、くたいくゆう、むささんじんのほんもんじゅりょうの、とうたいれんげのほとけとは、にちれんがでし、だんなとうのなかのことなり」(0512-09)とのべられている。このおんふみのごとく、しんじんあるひとこそ、ほとけのしょさにかわってくるとのおおせである。
 とだじょうせいぜんかいちょうも、「しんじんごうじょうなるものは、にちれんだいしょうにんのおんちが、わがせいめいにわいてくるのだ、しょうじょうな、たくましき、ひとをすくおうとするじひが、そして、じんせいをゆう々ゆうといききっていけるちからが、これこそ、けちみゃくをうけているのだ」と、まことに、もったいないかぎりである。われらは、だいほうおうたる、にちれんだいしょうにんのこどもとして、でしとして、めいよと、きんどとをもって、ぜんしんしていきたいものである。

  • [241]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな  だいばだったほんはちかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月 9日(日)10時43分56秒
  • 編集済
 
0744~0747 だいばだったほんはちかのだいじ。
0744    だいいち だいばだったのこと。
0744    だいに にゃくふいが とういせんぜつのこと。
0744    だいさん さいかぎっすい、じゅうしんせつじきのこと。
0745    だいよん じょうぞんみょうほうこ、しんじんむけげんのこと。
0745    だいご がおかいちゅう、ゆいじょうせんぜつのこと。
0745    だいろく ねんしはちさいのこと。
0746    だいなな ごんろんみこつのこと。
0747    だいはち ういちほうじゅのこと。


0744~0747 だいばだったほん、はちかのだいじ。
0744    だいいち だいばだったのこと。
 もんぐのはちにいわく、ほんちは、しょうりょうにして、しゃくにてんねつをしめすと。
 おんぎくでんにいわく、だいばとはほんちは、もんじゅなり、ほんちしょうりょうというなり、しゃくにはだいばというなり、てんねつをしめすこれなり、しょうりょうはみずなり、これは、しょうじそくねはんなり、てんねつはひなり、これはぼんのうそくぼだいなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるに、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんなり、だいばは、みょうほうれんげきょうのべつめいなり、かこのときに、あしせんにんなり、あしせんにんとはみょうほうのいみょうなり。あとはむのぎなり、わたしなきのほうとは、みょうほうなり、もんぐのはちにいわく、むしほうをもって、しゅじょうにそそぐといえり、あしせんにんとは、ほうかいさんぜんのべつめいなり、ゆえに、わたしなきなり、いちねんさんぜん、これをおもうべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ごぎゃくざいをおかした、あくぎゃくのだいばだったについて、もんぐのはちには、じつは、このようなあくぎゃくのだいばも、ほんちはしょうりょうなのであって、しゃくにてんねつをしめす。すなわちてんにねつのうをなまぜしめるような、あくにんのすがたをしめしたのである。といっている。
 これについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいばだったのほんちは、もんじゅなのである。したがって、もんぐのはちには「ほんちしょうりょう」というのである。ほんちはこのように、しょうりょうであって、すいじゃくとして、あくぎゃくのだいばのすがたをとったのである。したがって、「てんねつをしめす」というのである。しょうりょうは、みずについて、いうのであり、みずはしょうじをあらわし、それがしょうりょうなのであるから、しょうじそくねはんを、あらわすのである。てんねつとは、ぼんのうのひであり、そのてんねつの、だいばがじゅきをこうむるのであるから、ぼんのうそくぼだいをあらわすのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんとひらいて、いくことになるのである。
 あくぎゃくのだいばだったも、じつは、みょうほうれんげきょうのべつめいなのである。きょうもんには、かこにだいばは、あしせんにんであったことが、とかれている。このあしせんにんとはなにか。これこそ、じつにみょうほうのいみょうなのである。あしせんにんのあとは、むのぎであり、むし わたしなきほうとは、みょうほうなのである。みょうらくのほっけもんぐきのはちには、「むしほうをもってしゅじょうにそそぐ」とあり、このむしほうは、みょうほうをさしていることは、あきらかである。このようにみていけば、あしせんにんとは、ほうかいさんぜんのべつめいであり、しんらばんしょう、じっかいさんぜん、ことごとく、あしせんにんなのである。したがって、わたしなく、びょうどうだいえなのである。いちねんさんぜんこそ、じつにわたしなきほうである。これをよくよくかんがえなさい。

 だいばだったのじょうぶつは、ぜんあくふに、じゃしょうふに、じゃしょういちにょのげんりを、しめしたものである。しゃくそんを、しゅくせのかたきとまでにくみ、あらゆるはかりごとをめぐらし、しにおいやることいくど、そのだいばだったに、しゃくそんは、てんのうにょらいの、きべつをあたえたのであった。
 しかも、ほけきょうだいばほんにとくところによれば、だいばは、むりょうこうのむかし、あしせんにんというせんにんであって、ほけきょうを、たもっていたとある。そのとき、しゃくそんは、こくおうであって、このあしせんにんに、つかえたのである。
 じつにふしぎなことである。いままで、ごぎゃくざいとひぼうしょうほうのものは、えいきゅうにむげんじごくの、ほのおにむせび、ぜったいにすくわれないものとされていた。だいばだったは、ごぎゃくざいはおろか、しょうがいかけて、しゃくそんをののしり、はくがいし、しょうほうをひぼうしたのである。その、だいばだったが、かこにあしせんにんという、ほけきょうのぎょうじゃにあったということ、かつ、じょうぶつのきをあたえられるということは、りょうぜんいちえの、たいしゅうにとっては、おどろきであり、それまでの、めいもうをいちじに、たたきやぶられたかんが、あったことであろう。
 かこに、あしせんにんという、ほけきょうのぎょうじゃであったのが、なぜ、だいばだったのすがたをとり、むげんじごくにおちたかは、ひとつには、ごういんごうがのりを、しゅじょうにしめさんがためであり、ふたつには、しゃくそんのだいぜんを、いよいよ、さかんならしめようと、したためである。
 だいいちの、ごういんごうがのりについては、おんしのいわく、「さいおう、このもんだいをかんがえるときには、しゃくそんにしても、だいしょうにんにしても、およそ、ぶっぽうをとかれるにあたっては、ぜんせのごういんが、こんぜのごうがとあらわれることを、かくしんしているのである。また、それは、せいめいのてつりなのである。げんだいのひと々びとは、かこにいき、げんざいもいき、みらいもまた、せいめいかつどうをなすのであるということを、なかなかしんずるものがすくない。
 しかし、われわれはみな、かこせのごういんをもってげんせに、うまれてきているのである。されば、あしせんにんが、だいばだったとうまれてきて、しゃくそんのぶっぽうをたすけ、ごういんごうがのしゅじょうに、しめしたことはとうぜんのことである。かこのししょうが、こんぜのでしとなって、あらわれたのである」と。しゃくそんとだいばだったのかんけいは、こんぜだけではなく、かこおんのんごうよりの、かんけいである。あるときはしとなり、またあるときは、あくにんのすがたをとって、せっぽうをたすけるなどと、れんぞくしゆくものであることが、あかされているのである。

 だいにに、しゃくそんのだいぜんを、いよいよ、さかんならしめるためとは、およそ、あくがなければ、ぜんをあらわすことは、できない。ゆえににぜんきょうでは、「あくがなければ、もって、けんぜんをあらわすことができない。このゆえに、だいばだったはむすうこういらい、つねにしゃくそんとともにあって、しゃくそんはぶつどうをぎょうじ、だいばはひどうをぎょうじてきた。しこうして、たがいにけいはつしてきたものである」と。
 しかるに、たいあくけんぜんがおわれば、あくのぜんたいは、そくこれぜんである。ゆえに、ほけきょうではぜんあくふに、じゃしょういちにょ、ぎゃくそくぜじゅんとなるのである。このほうていしきは、にぜんきょうにはとかれなかった、おうていのぎである。
 ゆえに、ほけきょうで、だいばだったが、てんのうにょらいなりと、とかれたことは、ほけきょうのいだいさ、ふかさをしめすものである。かしゃくほうぼうめつざいしょうにいわく、「だいばだったはほとけのおんてき、よんじゅうよねんのきょうきょうにて、すてられ、りんじゅうわるくして、だいちやぶれてむげんじごくにいきしかども、ほけきょうにて、めしかえして、てんのうにょらいときせらる」(1131-16)と。しゅじゅおんふるまいごしょに、「しゃかにょらいのおんためには、だいばだったこそ、だいいちのぜんちしきなれ、いまのせけんをみるに、ひとをよくなすものは、かたうどよりも、ごうてきがひとをば、よくなしけるなり、げんぜんにみえたり、このかまくらのごいちもんのごはんじょうは、よしもりとおきほうおう、ましまさずんば、いかでか、にほんのあるじとなりたまうべき、されば、このひとびとは、このごいちもんのおんためには、だいいちのかたうどなり、にちれんが、ほとけにならんだいいちのかたうどは、かげのぶ、ほっしにはりょうかん、どうりゅう、どうあみだぶつと、へいのさえもんのじょう、こうどのましまさずんば、いかでかほけきょうのぎょうじゃとはなるべきと」(0917-05)と。
 また、だいばだったの、せいめいはだれにでもある。かって、とだかいちょうは、「だいばだったは、おとこのヤキモチ、りゅうにょは、おんなのヤキモチをあらわす」といわれた。げんざいのいっさいのひとびとは、みなことごとく、だいばだったである。しんにと、しっととくのう、はんもんのこころの、じゅうまんするよなれば、だが、ほけきょうによって、てんのうにょらいのきをうくるごとく、ごほんぞんのくりきにより、それらのだいばだったのせいめいも、そくてんのうにょらいとあらわれるのである。また、しゃくそんとだいばだったの、しれつなたたかいは、じつはいちこじんにしゅうやくされるのである。われわれの、ぶつどうしゅぎょうは、たえず、わがこしんのだいばだったとのたたかいである。また、そうかがっかいと、そのぜんしんをはばもうとする、やからとのたたかいをいみする。だが、ほとけのぐんはかならずかつ、まぐんはかならずやぶれる、げんりともはいせるのである。
わたしなきほうとはみょうほうなり。
 みょうほうは、ぜったいであるとのおんふみである。ごほんぞんには、へんぱがない。またあらゆる、うちゅうのしんらばんしょうを、いっぽうもかくるところなく、ぐびしている。いかにかたちのうえで、しんじんしているようにみえても、きょえいやけいしきで、ごほんぞんをごまかすことはできない。またしんじんにはんたいしたひとは、かならずばつがある。しんじんごうじょうなひとは、だいくどくをうける。また、あらゆるひとを、ことごとくすくいきっていく、ごほんぞんこそ、「わたしなきのほう」ではないか。

0744    だいに にゃくふいがとういせんぜつのこと。

おんぎくでんにいわく、みょうほうれんげきょうをせんぜつすることを、なんじはわれにたわがずして、せんぜつすべしということなり、にゃくのじはなんじなり、てんだいのいわく、「ほうをうけてぶぎょうす」と、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、にちれんにたがわずしてせんぜつすべきなり、あしせんにんとは、なんみょうほうれんげきょうなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
おうが、だいじょうのほうをもとめているのにたいし、あしせんにんが、「われ、だいじょうをたもてり。みょうほうれんげきょうとなづけたてまつる。もしわれに、たがわずんば、まさにために、せんぜつすべし」とのべられたところの、おんぎくでんです。
 このもんについて、つぎのようにおおせである「みょうほうれんげきょうを、せんぜつすることを、なんじはわれにたがわずして、せんぜつすべし」とよむべきなのである。にゃくのじは「もし」とよむのではなく、なんじと、よむべきなのである。
 てんだいのほっけもんぐのはちには、「ほうをうけて、ぶぎょうす」とあり、ほとけのおおせどおり、ほうをひろめるべきことが、しめされている。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかで、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、にちれんだいしょうにんに、たがわずに、そのままほうをひろめるべきである。あしせんにんとは、なんみょうほうれんげきょうのことなのである。

いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、にちれんにたがわずして、せんぜつすべきなり、このもんは、きわめてじゅうようである。にちれんだいしょうにんはしゅじゅおんふるまいごしょに、「かかるにちれんをもちいぬるとも、あしくうやまはば、くにほろぶべし」(0919-16)、しぼさつぞうりゅうしょうに、「わたしならざるほうもんを、びゃくあんせんひとは、ひとえにてんまはじゅんの、そのみにいりかわりて、ひとをして、じしんともにむげんだいじょうに、おつべきにてそうろう、つたなし、つたなし、このほうもんは、ねんらい、きへんにもうしふくめたるように、ひとびとにもひろうあるべきものなり、そうじて、にちれんがでしといつて、ほけきょうをしゅぎょうせんひとびとは、にちれんがごとくに、しそうらへ」(0989-09)とうとおおせられている。
 げんざい、なむみょうほうれんげきょうと、となえるしゅうきょうはかずおおくある。だが、ことごとく、にちれんだいしょうにんのおしえにそむき、だいほうぼうを、かさねているのである。まさに、ぼうこくのしゅうきょうであり、てんまはじゅんのすがたである。
 また、たとえそうかがっかいいんであっても、しんじんがなければ、「にちれんに、たがわずして」のごきんげんに、はんするものであり、けっしてくどくなく、いきづまり、あるいは、しゅくめいてんかんできえず、ふこうのちまたを、あいかわらず、さまようのである。
 また「せんぜつ」とは、しゃくぶくである。たとえみずからくちに、なんみょうほうれんげきょうととなえようとも、しゃくぶくがなければ、にょせつしゅぎょうのものとは、けっしていえない。しゃくぶくをしぬいていくものこそ、にちれんだいしょうにんの、おこころにかなうものであると、おおせられているのである。にょせつしゅぎょうしょうにいわく「ニワトリの、あかつきになくはゆうなり、よいになくはもっけなり、ごんじつぞうらんのとき、ほけきょうのおんてきをせめずして、さんりんにとじこもり、しょうじゅをしゅぎょうせんは、あに、ほけきょうしゅぎょうのときをうしなう、もっけにあらずや、さればまっぽう、いまのとき、ほけきょうのしゃくぶくのしゅぎょうをば、だれかきょうもんのごとく、ぎょうじたまへしぞ。だれひとにてもおわせ、しょきょうはむとくどう、だじごくのこんげん、ほけきょうひとり、じょうぶつのほうなりとこえもおしまず、よばはりたまいて、しょしゅうのにんぽうともに、しゃくぶくしてごらんぜよ。さんるいのごうてききたらんこと、うたがいなし」(0503-17)と。
 いま、そうかがっかいいんが、ぜんみんしゅうのこうふくのために、せかいへいわのために、まいしんしていることは、このもんを、みをもって、よんでいるすがたなのである。

0744    だいさん さいかぎゅうすいじゅう、しんせつじきのごと。
0745
 おんぎくでんにいわく、さいかとは、ちぼんのうなり、ぎゅうすいとは、とんぼんのうなり、じゅうしんとは、じんぼんのうなり。せつじきとは、まんぼんのうなり、このしたにはちしゅのきゅうじ、これれあり。このほかに、みょうほうれんげきょうのでんじゅ、これれなきなり。いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、すなわちせんさいきゅうじなり。これすなわち、いちねんさんぜんなり、とんじんちまんを、たいぢするなり。

かいしゃくこうぎ。
 しゃくそんが、かこせに、こくおうとなったとき、かんきゆやくして、あしせんにんにしじし、きゅうじをなし、「このみをとって、みずをくみ、たきぎをひろい、しょくをもうけた」という、きょうもんがある。
 このもんについて、おんぎくでんでは、つぎのようにおおせである。さいか、すなわち、「このみをとる」とは、とんじんちのしぼんのうのなかでは、ちぼんのうをあらわすのである。ぎゅうすい、すなわち、「みずをくむ」とは、とんぼんのうをあらわす。じゅうしん、すなわち、「たきぎをひろう」とは、じんぼんのうをあらわす。またせつじき、すなわち「しょくをくもう」とは、まんぼんのうをあらわすのである。
 しかして、このしたのもんには、はちしゅのきゅうじがとかれている。だいばほんには、しゃくそんがかこせに、あしせんにんについて、ほけきょうをでんじゅしたとき、このはちしゅの、きゅうじのほかの、しゅぎょうは、とかれて、いないのである。しょせん、いま、にちれんだいしょうにんおよび、だいしょうにんのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのは、すなわち、こくおうのあしせんにんにたいする、せんさいのあいだ、きゅうじにあたるのである。これすなわち、いちねんさんぜんであり、とんじんちのしぼんのうをたいぢする、こんぽんのしゅぎょうである。

 しゃくそんは、かって、かこせで、おくおうであった。そのとき、あしせんにんが、ほけきょうをすてるのをしって、こくいをすてて、あしせんにんのでしとなり、せんさいのあいだ、このみをとり、みずをくみ、たきぎをひろい、みをしょうざとなし、せんにんにつかえ、ほけきょうをしゅぎょうして、じょうぶつすることができたのである。これは、しゃかぶっぽうの、しゅぎょうほうほうである。にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、じゅじそくかんじんであり、ごほんぞんをたもつこと、それじたいが、せんさいきゅうじと、なっているのである。ゆえに、ほんぶんには、「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、すなわちせんさいきゅうじなり」としめされているのである。
 また、さいおうかんがえれば、ぶっぽうは、じょうずいきゅうじでなければ、わからないということである。けんりゅうしょういしょうにいわく、「いま、にちれんがでしとうも、またかくのごとし、あるいはしんじ、あるいはふし、あるいはしたがい、あるいはしたがう、ただだ、なのみこれをかりて、しんちゅうにまそざる、しんじんうすきものは、たといせんこうをばへずとも、あるいはいちむげん、あるいはにむげん、ないし、じゅうひゃくむげん、うたがいなからんものか、これをまぬがれんとほっせば、おのおの、やくおう、ぎょうぼうのごとく、ひじをやき、かわをはぎ、せつせんこくおうとうのごとく、みをなげ、こころをつかえよ、もし、しからずんば、ごたいをちになげ、ヘンしんにあせをながせ、もし、しからずんば、ちんぽうをもって、ぶつぜんにつめ、もししからずんば、ぬひとなつて、じしゃにえつかよ、もししからずんば、とううんぬん、ししつだんをもって、ときにかなうのみ、わがでしとうのなかにも、しんじん、うすきものは、りんじゅうのとき、あびごくのそうをげんずべし、そのとき、われをうらむべからず」(0537-13)と。
 いま、みんしゅうのこうふくをねがって、ほねをけずり、みのかわをはぐおもいで、にちやかつやくするわれわれ、そうかがっかいいんこそ、「せんさいきゅうじ」をしているのであり、じょうぶつはぜったいまちがいなしとだんずるものである。

0745    だいよん じょうぞんみょうほうこ しんしんむげけんのこと。

 おんぎくでんにいわく、しんしんのにじ、しきしんみょうほうとでんじゅするなり、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつりて、そくしんじょうぶつす、しんしんむけんとは、いちねんさんぜんなりうんぬん。

 かいしゃくこうぎ。
これはだいばほんに、「じょうにみょうほうを、ぞんせるがゆえに、しんしんげけんなかりき」、とあるところの、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである。しんしんのにじは、しきとしん、すなわちわれわれの、せいめいがそのまま、みょうほうのとうたいであるというのが、ほとけのでんじゅなのである。にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、なんみょうほうれんげきょうととなえて、そくしんじょうぶつするのである。しんしんげけんというのは、われわれが、いちねんさんぜんのとうたいであることをしめしている。

 しんしんとは、せいめいのことである。すなわち、さいこうのこうふくきょうがいである。「げけん」とは、くのうのせいかつのことである。かんきょうにながされ、しゅくめいになき、しゅくめいにくるしみゆく、ふこうなるせいめいかつどうである。
 「こころにみょうほうをぞんせるがゆえに」とは、ごほんぞんをたもつことである。みょうほうごじのじんせいは、かならずしゅくめいをだはし、そしてふくうんを、つみゆくことができる。じんせいこうろにあって、じざいのきょうがいをえとくすることが、できるのである。しんしんとは、しきしんとどういである。
 ゆえに、いかなる、にくたいてきくつう、せいしんてきはんもん、ことごとくかいしょうすることを、いみする。これこそ、われらの、いくせんまんのたいけん、たいとくが、にょじつにしょうみょうしているところである。
 なお、われわれは、つねになさねばならぬことが、たくさんある。しかし、しんじんがないと、あれもしなければならない、これもしなければいけないなどなどと、げんじつにたちふさがるさまざまなもんだいのじゅうあつに、たえかねてしまうものだ。よわよわしく、ひきさがるのか、あせりと、いらだちで、くのうするのがつねであろう。
 ぎゃくに、だいもくをとなえゆくひとは、みらいに、いかなるなんもんがよこたわっても、ゆうゆうとのりきってゆくちからがわく。げんじつのせいかつは、ひびにようようとあけゆき、たいようのごとく、いきづまるところをしらぬ。かくしんは、ばんじゃくのいわおのごとくである。しんきょうは、ゆたかでうるおいのあること、でんえんのごとくである。あらゆるはらんも、へんどくいやくして、それがすべて、そのひとのじんせいをかざりゆくものとなってしまうのである。
 「しんしんむけげん」とは、せいめいの、ぶぶんかんのみしかとかぬほう、てつがくしそうにたいし、いちねんさんぜんのほうもんは、ゆうずうむけげんの、てつりであることをあらわしている。いちねんさんぜんこそ、せいめいをかんぜんにとききった、だいてつりなるがゆえに、しんしんむけげんなのである。
 いちだいせいきょうたいいに、「しかんのごにいわく、『それいっしんにじゅっほうかいをぐす、いっほうかいにまたじゅっほうかいをぐすればひゃくほうかいなり、いちかいにさんじゅうしゅのせけんをぐすれば、ひゃくほうかいには、すなわちさんぜんしゅのせけんをぐす、このさんぜん、いちねんのこころにあり』もん、みょうらくうけ、しゃくしていわく、『まさにしるべし、しんどいちねんのさんぜんなり、ゆえにじょうどうのとき、このほんりにかなつて、いっしんいちねんほうかいにあまねし』」0402-08と。
 しんしんむけげんのしんしんとは、いちねんさんぜんのいちねんであり、みょうらくのいう、「いっしんいちねん」にあたる。むけげんとは、さんぜんのへんかであり、みょうらくのいう「ほうかいにあまねねし」に、あたるのである。ゆえに、しんしんむげとは、いちねんさんぜんなのである。

0745    だいご がおかいちゅう ゆいじょうせんぜつのこと。

 おんぎくでんにいわく、がとは、もんじゅなり。かいとはしょうじのうみなり、ゆいとはゆいう、いちじょうほうなり。つねとは、じょうじゅうしせっぽうなり。みょうほうれんげきょうとは、ほうかいのごんごおんじょうなり。いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるこれなり、しょうじのうみ、そくしんにょのたいかいなり、がとはほうかいの、ちえなり、もんじゅなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 これは、だいばほんに、「もんじゅしりのいわく、われ、かいちゅうにおいて、ただ、つねにみょうほうれんげきょうをせんぜつす」、とあるところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「が」とは、もんじゅしりぼさつのことである。うみでとくというのは、そのうみは、しょうじのくるしみの、うみである。きゅうかいでといたと、いうことである。「ゆい」とは、ほうべんぽんに、「ゆい、いちじょうのほうのみあり」とあるように、ほけきょうのみということである。
 「つねに」とは、じゅりょうほんに、「つねに、ここにじゅうして、ほうをとく」と、あるとうりに、しゃばせかいにじゅうして、とくということである。みょうほうれんげきょうとは、ほうかい、すなわち、うちゅうのしんらばんしょうのごんごおんじょうが、すべて、みょうほうれんげきょうのはたらきであることを、さすのである。いま、にちれんだいしょうにんおよびもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのが、これである。
 そのときには、しょうじのくるしみのうみが、そく、さとりのうみ、すなわち、ぶっかいとなるのである。がとは、ぜんうちゅうのもつちえであり、したがって、ちえだいいちのもんじゅが、それをだいひょうしているのである。

 しょうじのたいかいが、しんにょのたいかいとてんずるほうは、ただ、ごほんぞんに、みょうほうをとなえ、ちえをゆげんするいがいに、ないことを、しめされたおんふみである。
 われわれのじんせいを、しょうじのくかいにするも、しんにょのたいかいとするのも、わがいちねんに、きけつされてしまうものだ。
 しんじんごうじょうなれば、しんにょのたいかいにゆうげできるし、しんじんなきひとは、しょうじのくかいに、しずむいがいになく、きびしき、いんがりつともいえよう。われらの、しゅんかんしゅんかんのかつどうは、ぜんぶ、じしんのちえのはたらきがきめる。
 しかし、それが、じゃち、せんち、じごくかいのちえ、がきかい、ちくしょうかいのちえ、しゅらかいのちえのばあいがおおい。ここに、ふこうをまねくだいいちぽがあることをしらねばならない。
 げんこんの、たすうのひとのちえは、じゃちであり、しあくどう、ごどう、ろくどうのちえである。ゆえに、りこのひとのみじゅうまんし、じこのもくてきのためには、しゅだんをえらばず、そのためにのみ、えいりにちえを、はたらかすのである。
 せんそうのとき、てきがたの、たいりょうぎゃくさつのための、ちえは、じごくかいのちえといえる。はんたいに、しんじつこうふくのちえは、ぶっちである。いっしょうじょうぶつへのぜんしんは、とうぜんのことながら、ぜんじんるいを、すくいきっていくちえなのである。そして、このちえこそ、しんじんのにじにおさまることはいうまでもない。

0745    だいろく ねんしはちさいのこと。

 おんぎくでんにいわく、はちさいとは、はちかんなり、だいばはじごくかいなり、りゅうにょはぶっかいなり。しかるあいだ、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょいちねんさんぜんなり。またいわく、はちさいとは、ほけきょうはちかんなり、われら、はっくのぼんのうなり、そうじて、ほけきょうのじょうぶつは、はちさいなりとこころうべし。
はっくそくはちかんなり。はっくはちかん、そくはちさいのりゅうにょとあらわるるなり。いちぎにいわく、はちさいのことは、たまをひらくとよむなり、さいとは、りゅうにょのいっしんなり、はちとはさんぜんなり、さんぜんとはほっけのはちかんなり。よつて、はちさいとは、かいぶつちけんの、しょひょうなり、ちえりこんより、のうしぼだいまで、ほっけにきにゅうするなり。このなかに、しんねんくえんとは、くごうなり、しいわがとは、いごうなり、しつのうじゅじ、じんにゅうぜんじょうとは、しんごうなり。さんごうそくさんとくなれば、さんたいほっしょうなり。またいわく、しんねんとは、いちねんなり。くえんとは、さんぜんなり、しつのうじゅじとは、りゅうにょ、ほけきょうじゅじのもんなり。さいとは、にょいほうじゅなり、みょうほうなり、はちとはしきしんを、みょうほうとひらくなり。

かいしゃくこうぎ。
 これだいばほんに、「しゃからりゅうおうの、むすめあり、としはじめて、はちさいなり」とあるところの、おんぎくでんである。
 このもんについて、つぎのようにおおせである。りゅうにょがはちさいであるということは、すなわちほけきょうのはちかんをいみする。だいばだったは、じごくかいであり、りゅうにょはじょうぶつしているゆえに、ぶっかいなのである。
 ゆえにじっかいごぐとなり、したがって、ひゃっかいせんにょいちねんさんぜんをあらわしているのである。また、はちさいとは、ほけきょうはちかんであり、われわれのはっくのぼんのうである。そうじて、ほけきょうのじょうぶつは、はちさいであるとこころうべきである。はっくのぼんのうが、そくほけきょうはちかんであり、はっくはちかんが、そくはちさいのりゅうにょと、あらわれているのである。
 いちぎには、はちさいはたまを、ひらくとよむ。さいとは、たまのぎで、りゅうにょのいちねん、せいめいであり、はちとは、ひらくのぎで、そのいちねんが、さんぜんとひらくのである。さんぜんとは、ほけきょうのはちかんである。ゆえに、はちさいとは、ほうべんぽんに、「かいぶつちけん」とあるように、ぶつちけんをひらいて、あらわすところのものである。
 「ちえりこん」から、「のうおうぼだい」に、いたるまでのもんは、すべて、りゅうにょが、ほけきょうにきにゅうしたことを、ときあかしているのである。「じんにおもい、くちにのぶる」とは、しんくいさんごうにやくせばぐごうである。
 「しいわが」とは、いごうになり、「ことごとく、よくじゅじし、ふかく、ぜんじょうにはいって」とは、じっせんかつどうであり、しんごうである。しんくいのさんごうは、そく、ほっしん、はんにゃ、げだつとてんずるゆえに、さんたいがえんゆうして、さとりのきょうがいになるのである。また、じんねんくえんのしんねんとは、いちねんであり、くえんとは、さんぜんである。しつのうじゅじは、りゅうにょがほけきょうを、じゅじしたというもんである。さいとは、にょいほうじゅであり、みょうほうである。はちとは、われわれのせいめいを、みょうほうのとうたいであると、ひらきさとることである。

 だいばほんには、だいばだったの、じょうぶつのきとともに、りゅうにょのそくしんじょうぶつが、あげられている。りゅうにょといえばちくしんであり、にょにんのみである。それがそくしんじょうぶつするということは、それまでのにぜんきょうのかんがえかたとは、まったくあいはんするものである。
 ぶっぽうにおけるにぜんきょう、またげてんでは、てっていして、にょにんをきらっている。じゅきょうには、さんじゅうというものがある。それは、にょにんはしゅうざいのこんぽんであり、はこくのこんげんである。
 したがってにょにんを、ひょうめんにでさせてはいけないとし、にょにんはしたがわせるものとして、みっつのことをさだめたのである。すなわちいちは、ようにしては、ふぼにしたがう、にには、かしては、おっとにしたがう、さんには、おいては、こにしたがう、というものである。
 また、ぶっきょうにもごしょうというものがある。すなわち「いちには、ろくどうりんねのあいだ、だんしのごとく、だいぼんてんおうとならず、にには、たいしゃくとならず、さんには、まおうとならず、よんには、てんりんじょうおうとならず、ごには、つねにろくどうにとどまりて、さんがいをいでて、ほとけにならず、というのである。このごしょうさんじゅうといったかんがえかたが、どれだけじょせいのこころを、ひくつにさせ、またふこうを、うんだことか。
 また、さんこうていの、さんぷんごてんには、にょにんは、てんごくのものであると。あるいは、わざわいはさんにょよりおこるとうとも、いわれてきているのである。ぶっきょうにはいっても、けごんきょうには「にょにんは、じごくのつかいなり、よくしゅしをたつ、げめんはぼさつににて、ないしんはやしゃのごとし」、また「よくほとけのしゅしをたつ」とうとあり、また、ねはんきょうには、「いっさいのこうが、かならずかいきょくあり、いっさいのにょにん、かならずてんごくあり」、あるいは「しょゆうさんぜんかいのだんしの、もろもろのぼんのう、しゅうごうして、いちにんのごうしょうとなる」とうと、とかれているのである。
 またこんじきにょきょうというきょうもんには、「さんぜのしょぶつのまなこは、だいちにつおとも、にょにんはほとけになるべからず」ととかれ、だいろんには、「せいふうてんは、とるといえども、にょにんはとりがたし」とのべている。
 だが、ほけきょうでは、これらのもうしゅうを、ことごとくうちやぶったのである。
 りゅうにょのじょうぶつをきいて、あまりにもふしんにおもった、たほうぶつ、だいいちのでしである、ちしゃくぼさつ、しゃくそんのでしのなかで、ちえだいいちのでしである、しゃりほつも、りゅうにょがじょうぶつするなどということは、ぜったいにないと、40よねんのさまざまなきょうもんをひいて、なんもんするのである。
 だがりゅうにょのじょうぶつは、だいばほんに、めいめいはくはくであり、さすがのちしゃくも、しゃりほつもしたをまきくちをとじ、りょうぜんいちえのたいしゅうは、ほけきょうのいだいなるちからに、かんきのあまり、たなごころをあわせた、とある。
 かいもくしょうに、「りゅうにょがじょうぶつ、これいちにんにはあらず、いっさいのにょにんのじょうぶつをあらはす、ほっけいぜんの、もろもろのしょうじょうきょうには、にょにんのじょうぶつをゆるさず、もろもろのだいじょうきょうにはじょうぶつ、おうじょうをゆるすやうなれども、あるいは、かいてんのじょうぶつにして、いちねんさんぜんのじょうぶつにあらざれば、うみょうむじつのじょうぶつおうじょうなり、こいちれいしょともうして りゅうにょが、じょうぶつは、まつだいのにょにんのじょうぶつおうじょうのみちを、ふみあけたるなるべし」(0223-07)と。
 みんしゅしゅぎのこんぽんげんり、じつぎは、ぜったいに、だいびゃくほうにのみあると、しゅちょうするものである。へんぱなるしそう、ていきゅうなるてつがくは、かならず、なんらかのぎせいをともなうものである。ゆえに、みんしゅしゅぎのこんぽんてきりねんとは、いいきれないのである。
 せんご、みんしゅしゅぎは、じだいのだいめいしとされてきた。だんじょびょうどうも、おおいにさけばれている、これこそ、いだいなるじんるいのしんぽであり、りせいのしょうりである。
 だが、げんじつには、たんなるうみょうむじつとなり、そのほんしつは、しんけんにかいめいされぬまま、ながされている。いまだほうけんせいにしばられ、あるいは、かたちのみのじょせいかいほうに、しゅうししているといってもかごんではあるまい。
 しんのだんじょびょうどうは、だんじょともに、じんかくのかくりつをなしえて、はじめていいうる。したがって、だんじょびょうどうは、しんじつのにんげんけいせいの、こんぽんほうたる、にちれんだいしょうにんのぶっぽうを、どだいとしてせいりつすることを、きょうちょうしてやまない。
 あぶつぼうごしょに、「まっぽうにはいつて、ほけきょうをもつだんじょの、すがたよりほかには、ほうとうなきなり、もししかれば、きせんじょうげをえらばず、なんみょうほうれんげきょうと、となうるものは、わがみ、ほうとうにして、わがみ、また、たほうにょらいなり」(1304-06)と。ほうとうとは、そんごくなるせいめいの、とうたいである。ごほんぞんをこんぽんとしたときには、だんじょともに、そのみが、ほうとうとあらわれる。すなわち、だんじょともに、みょうほうのとうたいであり、びょうどうに、さいこうのこうふくきょうがいを、きょうじゅできるのである。
 しょほうじっそうしょうに、「まっぽうにして、みょうほうれんげきょうのごじをひろめんものは、だんじょは、きらふべからず、みな、ぢゆのぼさつのしゅつげんにあらずんば、となへがたきだいもくなり」(1360-08)と。
 だいしょうにんのぶっぽうを、ひろめるだんじょは、ともにぢゆのぼさつであり、くに、そくばくされない、じょうらくがじょうの、せいめいのとうたいであるとの、おおせである。しんじんによって、せいめいがしょうじょうとなり、じんせいかん、しゃかいかん、せかいかんのまなこがひらかれゆく、このしんのじがのかくりつである。そして、だんじょともにきょうりょくしあい、おぎないあい、それぞれのたちばで、こうふくになるじんせいを、あゆんでいくことこそ、しんのびょうどうであるとかくしんする。

0746    だいなな ごんろんみこつのこと。

 おんぎくでんにいわく、このもんは、むみょうそくほっしょうの、みょうもんなり、そのゆえは、ちしゃくなんもんのことば、いまだ、おらざるに、りゅうにょさんぎょうはんのげをもって、こたうるなり、なんもんのこころは、べつきょうのこころなり、むみょうなり。りゅうにょのこたえは、えんきょうのこころなり、ほっしょうなり、ちしゃくは、がんぽんのむみょうなり、りゅうにょはほっしょうのにょにんなり、よってむみょうにそくするほっしょう、ほっしょうにそくするむみょうなり。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、ごんろんみこつなり、ときとは、うえのことのすえずえのことの、はじめなり、ときとは、むみょうほっしょう、どうじのときなり、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときなり、ちしゃくぼさつを、がんぽんのむみょうということは、ふしんしにょの、ふしんのにじなり、ふしんとはぎわくなり、ぎわくを、こんぽんむみょうというなり。
 りゅうにょをほっしょうということは、がせんだいじょうきょうのもんなり、りゅうにょとは、りゅうはちちなり、にょははちさいのむすめなり、りゅうにょのにじは、ふしどうじのじょうぶつなり。そのゆえは、ときりゅうおう、にょのもんこれなり、すでにりゅうおうのむすめというあいだ、りゅうおうはちちなり、むすめとははちさいのこなり。
 されば、むすめのじょうぶつは、このほんにあり、ちちのりゅうのじょうぶつは、じょぼんにこれあり、うはちりゅうおうのもんこれなり、しかりといえども、ふしどうじのじょうぶつなり、じょぼんはいちきょうのじょなるゆえなり、また、もんじょうぼだいとは、りゅうにょがちしゃくをせめたることばなり、されば、ただ、わがじょうぶつをば、ほとけ、ごぞんじあるべしとて、また、もんじょうぼだい、ゆいぶつとうしょうちといえり、くのしゅじょうとは、べっして、にょにんのことなり。
 このさんぎょうはんのげは、いちねんさんぜんのほうもんなり、へんしょうおじっぽうとはじっかいなり、ことには、このはちさいのりゅうにょのじょうぶつは、ていおうじきょうのせんぞたり。にんおうのはじめは、じんむてんのうなり、じんむてんのうは、ちじんごだいの、だいごの、うかやふきあえずのみことのみこなり、この、ふきあえずのみことは、とよたまひめのこなり、このとよたまひめは、しゃからりゅうおうのむすめなり。 はちさいのりゅうにょのあねなり、さるあいだ、せんぞ、ほけきょうのぎょうじゃなり、じんじん、じんじんうんぬん。されば、このだいばのいちほんは、いってんのこしがたななり、むみょうぼんのうのてきをきり、しょうじあいちゃくのなわをきるひほうなり。かんこうさんしゃくのつるぎも、いちじのちけんにおよばざるなり、みょうのいちじのちけんをもって、しょうじぼんのうの、なわをきるなり。だいばは、ほのおをあらわし、りゅうにょはだいじゃをしめし、もんじゅはちけんをあらわすなり。よつて、ふどうみょうおうのそんぎょうと、くでんせり、だいばは、われらがぼんのうそくぼだいを、あらわすなり、りゅうにょは、しょうじそくねはんをあらわすなり、もんじゅをば、これには、みょうとくとほんずるなり、ぼんのうしょうじ、ぐそくして、とうほんののうけなり。747

かいしゃくこうぎ。
 だいばほんに、「げんろんいまだ、おわらざるときに、りゅうおうのむすめ、たちまちにみまえ、にげんじて」とあるもんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんは、むみょうそくほっしょうの、みょうもんである。なぜかならば、ちしゃくが、りゅうにょのじょうぶつを、うたがったといを、おえないうちに、りゅうにょが、さんぎょうはんのげをもって、こたえたので、そのちしゃくの、ひなんしたといは、そくしんじょうぶつ、にょにんじょうぶつをうたがうものであり、べつきょうの、こころをあらわし、むみょう、すなわちまよいである。
 りゅうにょのこたえは、そくしんじょうぶつ、にょにんじょうぶつをしめすもので、ほっけえんきょうのこころをあらわし、ほっしょう、すなわちさとりである。ちしゃくはみょうほうのちからを、しんずることのできないという、こんぽんのまよいであり、りゅうにょは、ぶっかいをしめした、にょにんである。よって、ちしゃくのといがおわらないうちに、りゅうにょがこたえたというのは、むみょうに、そくするほっしょうであり、ほっしょうにそくする、むみょうをあらわしたものである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかの、なんみょうほうれんげきょうと、となえるものは、ごんろんみこつのように、そくざに、むみょうそくほっしょう、すなわち、きゅうかいそくぶっかいなのである。
 げんろんいまだおわらざるとき」のときとは、うえのこと、すなわち、ちしゃくのといのおわりであり、すえのこと、すなわち、りゅうにょのこたえのはじめであって、ゆえにときとは、むみょうとほっしょうが、どうじであるというときを、しめすのである。すなわち、なんみょうほうれんげきょうととなえ、きゅうかいそくぶっかいとひらく、しゅんかんのときをさすのである。
 ちしゃくぼさつの、こんぽんのまよいというのは、「このむすめ、しゅゆのころにおいて、すなわち、しょうかくをじょうずることをしんぜじ」と、ちしゃくがいった。その「ふしん」をもって、いうのである。ふしんとは、うたがうということであり、うたがうということは、こんぽんのまよいなのである。りゅうにょが、さとりであるというのは、「われ、だいじょうのおしえをいひらて」と、いったもんによるのである。りゅうにょについて、いうならば、りゅうにょのちちは、しゃからりゅうおうであり、むすめとは、そのはちさいになるむすめである、りゅうにょである。りゅうにょのにじは、ふしどうじのじょうぶつをいうのである。そのゆえは、「ときにりゅうおうのむすめ」とあるもんが、それである。
 りゅうおうとはちちであり、むすめとははちさいのこである。ゆえにむすめのじょうぶつはこのだいばほんにとかれているのであり、ちちのりゅうおうのじょうぶつはじょぼんにあるのである。これはじょぼんに、「うはちりゅうおう」とあって、しゃからりゅうおうをふくめた、はちりゅうおうとうが、ほっけのえざにつらなっているからである。しかしふしどうじのじょうぶつである。じょぼんは、ほっけいちきょうのじょであるゆえである。
 「また、きいてぼだいを、じょうずること」とは、りゅうにょがちしゃくをせめたことばである。ゆえに、わがじょうぶつを、ほとけはしっているのであると、りゅうにょは、「また、きいてぼだいをじょうずること、ただほとけのみまさに、しょうちしたもうべし」といったのである。「くのしゅじょうを、どだっせん」といった、くのしゅじょうとは、べっしては、にょにんのことである。この、りゅうにょのさんぎょうはんのげは、いちねんさんぜんのほうもんをあらわしている。「あまねくじっぽうを、てらしたもう」は、じっかいをてらすことを、いうのである。
 ことに、このはちさいのりゅうにょのじょうぶつは、こっかのげんしゅ、しゅけんしゃが、ほけきょうをたもつ、せんれいである。にんおうのはじめは、じんむてんのうであり、じんむてんのうは、ちじんだいごだいの、うかやふきふきあえずみことのこである。このうかやふきふきあえずみことは、とよたまひめのこであり、とよたまひめは、しゃからりゅうおうのむすめであり、りゅうにょのあねである。ゆえににんおうのせんぞは、ほけきょうのぎょうじゃである。このことは、ふかいいぎがあるのである。ゆえに、このだいばほんは、いってんのこしがたななのである。むみょうやぼんのうという、てきをきり、しょうじのくるしみを、はなれられないなわをきる、ひほうなのである。かんのこうその、ぜつだいないりょくをしめした、さんじゃくのけんも、みょうのいちじのけんには、およばないのである。みょうのいちじのちけんで、しょうじのくるしみ、ぼんのうのまよいのなわを、きるのである。
 だいばはほのおをあらわし、りゅうにょはだいじゃをしめし、もんじゅは、ちけんをあらわすのであって、これは、ふどうみょうおうのそんぎょうを、かたちづくるのであるとの、くでんである。だいばは、われわれのぼんのうが、そくぼだいになることをあらわし、りゅうにょは、われわれのしょうじのくるしみが、そくねはん、じょうぶつのきょうがいになることを、あらわすのである。もんじゅとは、ぼんごで、みょうとくとほんやくするのであって、ぼんのうも、しょうじも、そのなかにぐしていて、このほんにおける、のうけのたちばである。

 げんろんみこつとは、むみょうそくほっしょうということである。そうかんもんしょうには、むみょうとほっしょうとのかんけいを、かがみにたとえて、つぎのようにといている。
 「わがこころのかがみと、ほとけのこころのかがみとは、ただいちきょうなりといえども、われらは、うらにむかつて、わがしょうのりをみず、ゆえにむみょうという、にょらいは、おもてにむかつて、わがしょうのりをみたまえり、ゆえにみょうとむみょうとは、そのたい、ただひとつなり、かがみはひとつのかがみなりといえども、むかいようによつて、みょうまいのさべつあり、かがみにうらありといえども、おもてのさわりとならず、ただ、むかいようによつて、とくしつのふたつあり、そうそくゆうずうして、いっぽうのにぎなり。
 けたのほうもんは、かがみのうらにむこうがごとく、じぎょうのかんじんは、かがみのめんにむこうがごとし、けたのときのかがみも、じぎょうのときのかがみも、わがしんしょうのかがみは ただひとつにして、かわることなし、かがみをそくしんにたとえ、おもてにむこうをば、じょうぶつにたとえ、うらにむこうをばしゅじょうにたとう、かがみにうらあるをば、しょうあくをだんぜざるに、たとえ、うらにむこうとき、おもてのとくなきをば、けたのくどくにたとうるなり、しゅじょうのぶっしょうのあらわれざるに、たとうるなり」(0570-05)
 むみょうとは、かがみのうらのごとく、それによって、じこをうつしだすことはできない。すなわち、わがみが、いちねんさんぜんのとうたいであるとは、じかくできない。したがって、むみょうをこんぽんとしたじんせいは、なんの、かっこたるししんもなく、くらきより、くらきにはいりゆく、まよいのじんせいである。ほっしょうとは、かがみのごとく、それによって、わがみは、いちねんさんぜんのとうたいであることが、うきぼりにされるのである。したがって、ほっしょうをこんぽんにすれば、ぶっかいにてらされ、いっさいをにょじつちけんし、ゆうゆうたる、じんせいをあゆむのである。
 むみょうと、ほっしょうは、かがみのうらとおもてのごとく、いったいふにであるが、ほっしょうが、かくされ、むみょうのみしはいするせいかつは、ふこうであり、ひあいである。だが「じぎょうのかんじんは、かがみのおもてにむかうがごとし」と、おおせのごとく、ごほんぞんをしんじて、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、むみょうは、そくほっしょうとてんじて、ほっしょうがこんていとなり、むみょうはめいふくし、こうふくきょうがいにじゅうすることが、できるのである。
 またむみょうそくほっしょうと、てんずるのは、われわれのしんじんの、いちねんのなかにあり、しゅんかんしゅんかんの、せいめいかつどうにあると、かくしんすべきである。それがまた、げんろんみこつなのである。ゆえに、ほんぶんには「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、ごんろんみこつなり、ときとは、うえのことのすえずえのことの、はじめなり、ときとは、むみょうほっしょうどうじのときなり、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときなり」と、おおせられているのである。
 しんじんをべつにして、いっぱんてきにみても、むみょうそくほっしょうに、つうずるすがたはある。たとえば、かがくのはってんなどは、たえず、むみょうそくほっしょうのれんぞくであった。あるかがくしゃが、じぶんのけんきゅうに、ぼっとうし、なんとかなっとくしたい、しんじじつをはっけんしたいとなやむ。このじょうたいは、むみょうである。だがあるしゅんかんに、はっけんできたばあい、そのしゅんかんは、むみょうそくほっしょうではないか。むみょうをほっしょうと、ひらいていくなかに、じんるいのしんぽがある。まよいからまよいへ それはしんぽではなく、たいほである。いちこじんにおいても、どうようである。むみょうを、そくほっしょうとひらいていくなかに、そのひとの、むげんのはってんがある。たえざるはってん、じこけいせい、そこには、たえざるよわきじこ、まよいのじことの、たたかいがある。だがだいもくをとなえないじんせいは、しょせん、むみょうにしはいされた、じんせいであり、じぶんでじぶんを、どうすることもできないのである。ただ、ごほんぞんをしんじ、だいもくをとなえたじんせいのみが、えいきゅうに、いきつまることなく、はってんがあり、みらいがあり、けんせつがあることを、しるべきである。


0747    だいはち ういちほうじゅのじ。

もんぐのはちにいわく、いちとはたまをけんじて、えんげをえることをあらわすと。
 おんぎくでんにいわく、いちとは、みょうほうれんげきょうなり、たからとはみょうほうのゆうなり、たまとはみょうほうのたいなり、みょうのゆえに、しんぼうなり、ほうのゆえにしきほうなり、しきほうはたまなり、しんぼうはたからなり、みょうほうとは、しきしんふになり、いちねんさんぜんをしょしひょうて、りゅうにょ、ほうじゅをたてまつるなり、しゃくにひょうとくえんげというは、いちねんさんぜんなり、りゅうにょが、てにたもてるときは、しょうとくのほうじゅなり、ほとけうけとりたまうときは、しゅうとくのほうじゅなり、なかにあるはしゅしょうふになり
 じんしつとは、とんごく、とんそく、とんしょうのほうもんなり、そくいしっとく、むじょうぶつどうなり、じんりきとは、かみはしんぼうなり、りきとはしきほうなり、かんがじょうぶつとは、しゃりほつ、りゅうにょが、じょうぶつとおもうが、ひがごとなり、わがじょうぶつぞとかんぜよと、せめたるなり、かんに、ろくそくかん、これれあり、ここ、もとのかんは、みょうじそくの、かんとこころうべきなり、そのゆえは、なんみょうほうれんげきょうと、きけるところを、いちねんざどうじょう、じょうぶつふこなりといえり、へんせいなんしとは、りゅうにょも、ほんち、なんみょうほうれんげきょうなり、そのこころ、きょうもんにふんみょうなり。

かいしゃくこうぎ。
 だいばほんに、「そのときにりゅうにょ、ひとつのほうじゅあり」うんぬんと、あるところの、おんぎくでんである。てんだいのもんぐのはちには、ひとつのほうじゅのいちとは、そのたまを、ほとけにけんじて、えんげをえることをあらわすと、といている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。いちとは、みょうほうれんげきょうである。ほうじゅのたからとは、たまのねうちをしめすゆえに、みょうほうのはたらきであり、ほうじゅのたまとは、みょうほうのたいそのものである。みょうのゆえに、しんぼうであり、ほうのゆえに、しきほうである。しきほうは、たまであり、しんぼうは、たからである。
 ゆえに、みょうほうは、しきしんふにを、しめすのである。いちねんさんぜんをあらわして、りゅうにょがほうじゅを、ほとけにたてまつるのである。もんぐのはちに、「えんげを、えることをあらわす」というのは、いちねんさんぜんのほうもんをいうのである。りゅうにょが、まだほうじゅを、てにたもつときは、しょうとく、すなわちわがせいめいに、ぐしているという、りのうえのほうじゅであり、ほとけが、それをうけたときは、しゅとく、すなわち、じっさいにせいめいのうえに、ぐげんしたじのうえの、ほうじゅである。
 そのなかに、しゅとくとしょうとくが、ふにである。すなわち、しゅしょうふにもんを、しめしているのである。りゅうにょが、ほとけにほうじゅをわたしたのを、しゃりほつが、「はなはだはやし」といったのは、じきたつしょうかん、そくしんじょうぶつのほうもんのことをいうのである。ほうとうほんに、「すなわちこれはやく、むじょうのぶつどうを、えたり」とあるのとおなじである。りゅうにょが、しゃりほつに、「なんじが、じんりきをもって、わがじょうぶつを、みよ」といった、じんりきとは、じんはしんぼうで、りきはしきほうである。
「わがじょうぶつをみよ」とは、しゃりほつが、そのじょうぶつが、りゅうにょのじょうぶつであるとおもうのは、まちがいであって、しゃりほつじしんの、じょうぶつであると、かんぜよとせめたことばである。かんに、ろくそくのかんがある。ここでのかんは、みょうじそくのくらいのかんである。そのゆえは、なんみょうほうれんげきょうときいたことが、すでに、もんぐのはちに、「いちねんに、どうじょうにざして、じょうぶつ、むなしからざるなり」とあるように、じょうぶつだからである。
 「りゅうにょの、こつねんのあいだに、へんじてなんしと、なって」とあるのは、りゅうにょも、そのほんちは、なんみょうほうれんげきょうであるということである。そのこころは、きょうもんにはっきりあらわれているのである。

 にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、とんごく、とんそく、とんしょうのほうもんである。すなわち、じきたつしょうかんの、ほうであり、そくしんじょうぶつのほうである。ほんにんみょうしょうに、「もんのそことは、くおんじつじょうのみょうじのみょうほうを、よぎょうにわたさず、じきたつのしょうかん、じぎょうのいちねんさんぜんの、なんみょうほうれんげきょうこれなり」(0877-04)と。じきたつしょうかんとはなにか。またとんごく、とんそく、とんしょうとはなにか。それはしんじんすれば、ただちにほとけであり、さいこうのこうふくきょうがいに、いたるということである。
 さいこうのぶっぽうは、しゅんかんのせいめいを、ときあかしている。しゃかぶっぽうのように、じかんてきけいかをおうものでもなければ、とおきかなたの、りそうきょうにこうふくをもとめるものでもない。
 じみょうほっけもんどうしょうに、「また、いのち、すでにいちねんにすぎざれば、ほとけはいちねんずいきの、くどくと、ときたまへり」(0466-14)と。
 また、むしもちごしょに、「いま、にほんこくのほけきょうを、かたきとしてわざわいを、せんりのそとよりまねきよせぬ、これをもつてをもうに、いままた、ほけきょうを、しんずるひとは、さいわいを、ばんりのそとよりあつむべし、かげはたいよりしょうずるもの、ほけきょうを、かたきとするひとのくには、たいに、かげのそうがごとく、わざわいきたるべし、ほけきょうをしんずるひとは、せんだんに、かをばしさのそなえたるがごとし」(1492-07)と。
 ごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなえるしゅんかんのせいめいに、あらゆるふくうん、くどくをしゅうせきできうるのである。
 ぎゃくにしんじんのないひとは、ただちにじごくなのである。だんだんとじごくにおちるのではない。たとえかたちはどうあろうと、せいめいのほんしつはすでにじごくである。なんと、せいめいのしゅんげんであり、ぶっぽうのきびしいことか。
 つぎに、「かんがじょうぶつとは、しゃりほつ、りゅうにょがじょうぶつとおもうが、ひがごとなり、わがじょうぶつぞとかんぜよと、せめたるなり」とは、りゅうにょのじょうぶつは、そく、しゃりほつのじょうぶつになるのであり、りゅうにょが、じょうぶつしなければ、しゃりほつとしても、じょうぶつできないとせめたことを、いみするということである。りゅうにょのじょうぶつは、こいちれいしょといって、あらゆる、しゅじょうをだいしひょうて、あげられたいちれいにすぎない。ぶっぽうには、れいがいがない。
 きょうに、「にゃくうもんぽうしゃ、むいちふじょうぶつ」と。「もしほうをきくことあらんものは」とは、ごほんぞんをしんずることである。「ひとりとして、じょうぶつせずということ、なけん」とは、ばんにんがひとりももれなく、じょうぶつできるということなのである。
 たとえ、いまはびんぼうであろうと、びょうしんであろうと、またふぐうのみであろうと、ひとたびごほんぞんをしんずるならば、すでにだいふくうんのもちぬしであり、ごねん、じゅうねん、にじゅうねんたったときには、そのしょうこは、れきぜんとしてくるのである。たねをまき、なえがしだいにせいちょうし、たいじゅになり、そらにそびえゆくがごとくに、これまっぽうのみょうえきである。


  • [240]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな ほうとうほん にじゅっかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月29日(木)02時01分2秒
 
  0739~0744 ほうとうほん にじゅっかのだいじ。

0739    だいいち ほうとうのこと。
0739    だいに うしっぽうのこと。
0740    だいさん しめんかいしゅつのこと。
0740    だいし しゅつだいおんじょうのこと。
0740    だいご けんだいほうとうじゅうざいくうじゅうのこと。
0740    だいろく こくみょうほうじょうひちゅううぶつ ごうわったほうのこと。
0740    だいなな おじっぽうこくど うせつほけきょうしょ がしとうみょう いちょうぜきょうこ ゆげんごぜん いさしょうみょう さんごんぜんざいのこと。
0741    だいはち なんざいほっぽうしゆいじょうげのこと  。
0741    だいきゅう かくさいほうけまんきくのこと。
0741    だいじゅう にょきやっけんやく かいだいじょうもんのこと。
0742    だい11 せつしょだいいしゅかいざいこくうのこと。
0742    だい12 ひにょだいふうすいしょうじゅしのこと。
0742    だい13 にゃくうのうじそくじぶっしんのこと。
0742    だい14 しきょうなんじのこと。
0742    だい15 がそっかんぎしょぶつやくねんのこと。
0743    だい16 どくじしきょうのこと。
0743    だい17 ぜしんぶっしのこと。
0743    だい18 ぜしょてんにんせけんしげんのこと。
0743    だい19 のうしゅゆせつのこと。
0743    だい20 しきょうなんじのこと。

0739~0744 ほうとうほん にじゅっかのだいじ。

    だいいちほうとうのこと。

 もんぐのはちにいわく、ぜんぶつ、すでにこし、こんぶつ、ならびにざす、とうぶつもまた、しかなりと。
おんぎくでんにいわく、たからとは、ごおんなり、とうとはわごうなり、ごおんわごうをもって、ほうとうというなり、このごおんわごうとは、みょうほうのごじなりとみる、これをけんとはいうなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、けんほうとうなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、「けんほうとう」というだいめいのごせつめいである。もんぐのはちに、「ぜんぶつであるたほうぶつはすでにおり、こんぶつであるしゃかぶつも、そこにならんですわった。とうぶつも、またそうである」ととかれている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。けんほうとうの「たから」とは、しきじゅそうぎょうしきのごおんである。けんほうとうの「とう」とは、わごうのぎである。このごおんがわごうしたすがたをもってほうとうというのである。そして、このごおんわごうは、みょうほうれんげきょうのごじであるとしんげする。これをけんほうとうの「けん」というのである。いま、にちれんだいしょうにんならびに、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつり、わがみ、そく、みょうほうごじの、とうたいであるとしんずるのは、けんほうとうである。

 ほうとうそくほんぞん、ほんぞんそく、わがとうたいのおんふみである。にちれんだいしょうにんの、かんじんよりはいするならば、ほうとうとは、さんだいひほうのごほんぞんである。そして、せいめいろん、およびしんじんのうえよりろんずれば、ほうとうは、われわれが、とうたいとなるのである。すなわち、ほうとうのたからとは、せいめいかつどうのしきじゅそうぎょうしきをいうのであり、とうとは、ちょうわ、わごうのことをしめされている。
 しょせん、わがいっしんの、とうたいをほうとうというのである。さどのあぶつぼうにたいし、にちれんだいしょうにんは、「いま、あぶつしょうにんのいっしんは、ちすいかふうくうのごだいなり、このごだいは、だいもくのごじなり、しかればあぶつぼうさながらほうとう、ほうとうさながらあぶつぼう、これよりほかの、さいかくむやくなり」(1034-09)とおおせられているのも、このもんのこころと、まったくおなじである。
 しかして、「ごおんわごうとは、みょうほうのごじなり」とは、われらがいっしんは、こうべはみょう、のどはほう、むねはれん、はらはげ、あしはきょうであるからである。すなわちおんぎくでん、ほうべんぽんだいさん、ゆいいいちだいじいんねんのことには、「われらがこうべはみょうなり、のどはほうなり、むねはれんなり、はらはげなり、あしはきょうなり、このごしゃくのしん、みょうほうれんげきょうのごじなり」(0716-07)とおおせである。
 さらに、さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅうには、みょうらくのぐけつのろくをひいて、
 「このみのなかに、つぶさに、てんちにならうことをしる、こうべのまどかなるは、てんにかたどり、あしのほうなるは、ちにかたどるとしり、みのうちのくうしゅなるは、すなわちこれ、こくうなり、はらのあたたかなるははるなつにのっとり、せのきつよはあきふゆにのっとり、よんたいは、よんじにのっとり、だいせつのじゅうにはじゅうにがつにのっとり、しょうせつのさんびゃくろくじゅうは、さんびゃくろくじゅうにちにのっとり、はなのいきのでいりは、さんたくけいこくのなかの、かぜにのっとり、くちのいきのでいりは、こくうのなかのかぜにのっとり、まなこはにちがつにのっとり、かいへいはちゅうやにのっとり、かみはせいしんにのっとり、まゆはほくとにのっとり、みゃくはこうがにのっとり、ほねはぎょくせきにのっとり、ひにくはちどにのっとり、けはそうりんにのっとり、ごぞうはてんにあつては、ごせいにのっとり、ちにあつてはごたけにのっとり、いん、ようにあつては、ごぎょうにのっとり、よにあつてはごじょうにのっとり、うちにあつてはごかみにのっとり、ぎょうをしゅうするにはごとくにのっとり、つみをおさむるにはごけいにのっとる。
 いいく、すみ、ギ、ヒ、ぐう、だいへき、《このごけいは、ひとをさまざまに、これをいたましむ、そのかず、さんぜんのばつあり、これをごけいという》、しゅりょうには、ごかんとなす、ごかんはしたの、だいはちのかんにはくぶつしをひくがごとし、いわく、こうぼうとうなり、てんにのぼつては、ごうんとのたまい、しけてごりゅうとなる、こころをしゅじゃくとなし、じんをげんぶとなし、きもをせいりゅうとなし、はいをびゃっことなし、ひをこうちんとなす」。
 またいわく「ごいん、ごみょう、りくげい、みなこれよりおこる、またまた、まさにないちのほうをしるべし、がくしんうちにだいおうとなつては、ひゃくえのうちにおり、いでては、すなわちごかんにじえいせらる、はいをば、しばとなし、きもをばしととなし、ひをばしくうとなし、ししをばみんしとなし、ひだりをば、しめいとなしみぎをば、しろくとなし、じんめいをしゅしす、ないし、ほぞをばたいいちくんとうとなすと、ぜんもんのなかにひろくそのそうをあかす」、いじょう。
 じんしんのほんたい、ことごとくけんすれば、かくのごとし、しかるに、このこんごうふえのみをもって、しょうめつむじょうのみなりとおもう、ひがおもいはたとえば、そうしゅうがゆめのちょうのごとしと、しゃくしたまえるなり、ごぎょうとは、ちすいふうくうなり、ごだいしゅともごおんとも、ごかいともごじょうとも、ごほうともごちとも、ごじともいう、ただいちぶつ、きょうきょうのいせつなり、ないてん、げてん、みょうもくのいみょうなり、こんきょうにこれをかいして、いっさいしゅじょうのしんちゅうのごぶっしょう、ごちのにょらいのしゅしととけり、これすなわち、みょうほうれんげきょうのごじなり、このごじをもって、じんしんのたいをつくるなり、ほんぬじょうじゅうなり、ほんかくのにょらいなり」(0567-06)と、おおせである。すなわちうちゅうそくわが、われそく、みょうほうれんげきょうのとうたいであるという、だいてつりをしめされたのである。
 こだいのてつじんソクラテスは、「なんじじしんをしれ」のめいくをのこした。しかし、「なんじじしん」にひょうげんされているないようは、あまりにもばくぜんとしたものである。むしろ、ソクラテスも、はあくすべきせいめいについては、そのへんりんだにも、しることができなかったといえる。ゆえに、こうふくのないようも、ついにこんにちになっても、けつろんされず、じんるいのへいわも、しょうらいされえないのである。
 しかし、にちれんだいしょうにんの、じのいちねんさんぜんのほうもんは、かくのごとく、てっていしたいちだいせいめいてつがくであり、そのきゅうきょくにおける、ぐたいてきごずけんこそ、さんだいひほうのごほんぞんなのである。しょせん、しんじんによって、じょうかされる、わがせいめいも、「なんじじしん」のせいめいも、いちねんさんぜんのとうたいであり、みょうほうれんげきょうのとうたいであって、そんごくむじょうのほとけのせいめいであることを、しるべきである。


0739    だいに うしっぽうのこと。

 おんぎくでんにいわく、しっぽうとは、もん、しん、かい、じょう、しん、しゃ、ざんなり、またいわく、ずじょうのななけつなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうは、うしっぽうのぎょうじゃなりうんぬん。0740

かいしゃくこうぎ。
けんほうとうほん、だいじゅういちのさいしょに、「そのときにぶつぜんに、しっぽうのとうあり」と、のべられている。これについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ななつのたからとは、もん、しん、かい、じょう、しん、しゃ、ざんのことで、ななしょうざいともいわれる。
 またしっぽうとは、ずじょうのななけつ、すなわちふたつのめ、ふたつのみみ、ふたつのはなのあな、ひとつのくちをいうのである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、しっぽうをゆうする、しんのほけきょうのぎょうじゃである。

 ほけきょうほうとうほんに、とかれたしっぽうのとうとは、もろもろのばんがいが、こん、ごん、るり、しゃこ、めのう、しんじゅ、まいえのしっぽうで、かざられた、うつくしいほうとうを、あらわしている。しかるに、にちれんだいしょうにんは、このしっぽうを、みょうほうをこんぽんとした、もん、しん、かい、じょう、しん、しゃ、ざんとけっじょうされて、そくしんじょうぶつ、にんげんかんせいの、じっせんげんりを、げんぜんとしめされたのである。
 「もん」とは、ただしいぶっぽうをきくことであり、きいてよく、ごほんぞんをしんじゅしていくのは、「しん」であり、ごほんぞんをじゅじして、しんくいのさんごうをもって、しょうほうをまもりきり、ひをふせぎあくをとめる、こんごうふえのかいを「かい」という。
 また「じょう」とは、ぜんじょうであり、みょうぜんである。しんじんしょうだいにより、あんしんりつめいのきょうがいをえとくできる、せいめいのことであり、「しん」とはだいもくをあげて、しゃくぶくをやりぬく、しょうじぎょうのことである。「しゃ」とは、ふじしゃくしんみょうであり、しんみょうをすてて、ぶっぽうを、もとめきることである。また、しんじんをつらぬいて、なおたれりとせず、さらに、こうじょうしていこうとするこころ、つねにはんせいしてぜんしんしていくこころは「ざん」である。
 また、しっぽうとは、ずじょうのななけつであるとおおせである。ふたつのめ、ふたつのみみ、ふたつのはな、ひとつのくちとあらわれている、ずじょうのななけつが、かんきょうやしゃかいにたいする、いっさいのアンテナとなり、せいかつにいろいろの、げんしょうをぐげんすることになるから、ななつのたからとなるのである。

0740    だいさん しめんかいすいのこと。

 もんぐのはちにいわく、しめんすいこうとは、したいのとうふう、しとくのこうをふくなりと。
 おんぎくでんにいわく、しめんとは、しょうろうびょうしなり、しそうをもって、われらがいっしんのとうを、しょうごんするなり、われらが、しょうろうびょうしに、ななんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、しかしながらしとくのこうをふくなり、なむとは、ぎょうはらみつ、みょうほうとは、がはらみつ、れんげとは、じょうはらみつ、きょうとは、じょうはらみつなり。

 ほうとうほんには、ほうとうのせつめいとして、「しめんにみな、たまらばつせんだんのこうをだして、せかいにじゅうまんせり」と、のべられている。ほっけもんぐのはちには、しめんにこうをいだすとは、したい、くたい、じったい、めったい、どうたい、すなわちくじっめつどうの、したいのとうふうによって、じょうらくがじょうの、しとくのこうがあらわれてくると、しゃくしている。
 したがって、したいのとうふう、すなわちぼんのう、しょうじも、ごほんぞんのちからによって、しとくのこう、すなわちぼだい、ねはんとあらわれてくるのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。すなわちしめんとは、しょうろうびょうしをさしていうのである。そのしょうろうびょうしのしそうとは、われわれのせいめいのじったいである。
 しかしながら、われわれがしょうろうびょうし、じんせいのくるしみにさいして、つねに、ななんみょうほうれんげきょうととなえていくならば、みょうほうにしょうごんされたせいめいとなり、じょうらくがじょうのしとくのこうを、ふくことになるのである。ななんみょうほうれんげきょうを、じょうらくがじょうのしとくのはらみつにあてはめれば、なむとはきみょうであり、ごほんぞんにいのちをささげることであって、さいこうのぎょうはらみつである。みょうほうとは、だいうちゅうそれじたいである。したがってわれはらみつである。
 れんげというのは、「にょれんげざいすい」といわれるように、「しょうじょう」といことをあらわすのであるから、じょうはらみつである。またきょうとは、「さんぜじょうごうなるをきょうという」のであるから、じょうはらみつとなるのである。

 ごほんぞんの、くどくをあかすもんである。しょうろうびょうしのよんそう、すなわち、しゅっしょう、ろうすい、びょうつう、しきょのしくは、じんしゅやみんぞくのそういに、かんけいなく、また、ろうにゃくなんにょのくべつなく、ひんぷかいきゅうのさべつなく、あらゆるひとが、とうめんする、じんせいのこんぽんもんだいである。
 ぶっきょうは、じつに、このもんだいをいかにかいけつするかを、ちゅうしんとしててんかいされている。しょうじょうきょうにおいては、したいのほうりん、ごんだいじょうきょうにおいては、じゅうにいんねんとうをとく。
 しかし、いずれも、しょうろうびょうしの、よんそうやせいめいのほんしつを、こんぽんてきにときあかしたのではない。ほけきょうにきて、じつには、にちれんだいしょうにんのぶっぽうにおいて、はじめて、こんぽんてきかいけつをみるのである。いわんや、このだいぶっぽういがいの、たきょうだんにおいては、ぜったいにかいけつされえないことは、とうぜんのりである。
 しょうろうびょうしは、われわれのぼんのうであり、しかして、しょうじ、しょうじをれんぞくするこのにほうは、せいめいのじったいでもある。だが、そのりろんがいくらわかったとしても、げんじつに、さんだいひほうのごほんぞんにむかって、しょうだいしないかぎりは、ぼんのうのくをかいけつすることは、ぜったいにできない。ごほんぞんとは、そのように、だいせいめいてつがくの、きゅうきょくのりにわたって、にちれんだいしょうにんが、ごずけんあそばされたのであって、さんだいひほう、すなわちほんもんのほんぞん、ほんもんのだいもく、ほんもんのかいだんをもって、ごくせつちゅうのごくせつとして、こんりゅうされたのである。
 「いちえんぶだいだいいちのほんぞん、このくににたつべし」(0254-09)と。にちかんしょうにんは、このごほんぞんのくどくについて、「いのりとして、かなわざるはなく、つみとしてめっせざるなく、ふくとしてきたらざるなく、りとしてあらわれざるなし」とおおせになっておられる。ゆえに、ごほんぞんをじゅじし、だいもくをじゅんしんにとなえるものは、みなざいしょうしょうめつ、しゅくめいてんかんをなしとげて、そのせいめいはちからにみちてかつどうてきとなり、どうじにそうごんになっていくのである。

0740    だいよん すいだいおんじょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、われらしゅじょうの、あさゆうはくところの、ごんごなり、だいおんじょうとは、ごんきょうはしょうおんじょう、ほけきょうは、だいおんじょうなり、にじゅうはちほんはしょうおんじょう、だいもくはだいおんじょうなり、そうじて、だいおんじょうとは、だいはほうかいなり、ほうかいのしゅじょうの、ごんごをみょうほうの、おんじょうとさたするを、だいおんじょうとはいうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるはだいおんじょうなり、またいわく、だいとはくうたい、おんじょうとはけたいなり、すいとは、ちゅうどうなりうんぬん。

 たほうにょらいが、たほうのなかから、だいおんじょうをだして、しゃくそんのせっぽうの、しんじつなるを、しょうみょうするところである。すなわち、ほうとうほんには、「そのときにほうとうのなかより、だいおんじょうをだして、たんじていわく、よいかな、よいかな、しゃかむにせそん、よくびょうどうだいえ、きょうぼさつほう、ぶつしょごねんの、みょうほうれんげきょうをもって、たいしゅうのためにときたまう。かくのごとし、かくのごとし、しゃかむにせそん、しょせつのごときは、みなこれしんじつなり」とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいおんじょうとは、われわれしゅじょうが、あさにゆうにはなしていることばである。ごんじつそうたいしていうならば、ごんきょうはしょうおんじょうであり、ほけきょうは、だいおんじょうである。
 またしゅだつそうたいしていうならば、ほけきょうにじゅうはちほんは、しょうおんじょうであり、なんみょうほうれんげきょうは、だいおんじょうである。そうじていうならば、だいおんじょうのだいとはほうかい、つまりうちゅうばんゆうの、おおきさをいう。ほうかいのいっさいしゅじょうのごんごは、すべてみょうほうのおんじょうであると、ふんべつしていく、そのおんじょうをだいおんじょうというのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるだいもくは、だいおんじょうである。また、すいだいおんじょうを、くうけちゅうのさんたいでろんずれば、だいとは、ほうかいであるから、くうたいであり、おんじょうとは、われらしゅじょうのごんごのことで、けたいである。このだいおんじょうのでるほんげん、いしは、あらゆる、じっかいのごんごおんじょうを、なさしむるから、すいとはちゅうどうである。

 ほうりき、ぶつりきのせんじん、こうげをあかすもんである。いちおうは、ごんきょうはしょうおんじょう、ほけきょうはだいおんじょうとなる。さいおうは、ほけきょうにじゅうはちほんは、しょうおんじょう、なんみょうほうれんげきょうのだいもくは、だいおんじょうとなる。
 むかしは、そうしんきのだすはちょうは、せいのうがわるく、きんきょりしかとどかなかったが、こんにちの、きかいは、せいこうなうえに、シンコムえいせいとうによって、ぜんせかいにまで、とどくことがかのうとなった。これ、だいおんじょうといえるのである。また「だいおんじょう」のだいは、ほうかい、うちゅうをいみする。そして、われらしゅじょうのおんじょうが、みょうほうのほうそくと、リズムにがっちしていくことを、だいおんじょうともいう。このいのりのげんりである。 ついぜんくようのげんりでもある。
 これは、げんざい、くうかんにむすうにながれるでんぱをれいにして、めいりょうに、すいさつすることができる。また、だいとはくうたい、おんじょうとはけたい、すいとはちゅうどう、すなわち、わがいっしんの、とうたいが、じゆうじざいに、きゅうかいにごうれいできうるものともいえる。かつ、だいうちゅうにわれらのへいわとあんのんをごうれいできうるほうていしきともいえる。
 いちにちもはやく、こうせんるふをじつげんして「ふくかぜえだをならさず、あまつちくれをくだかず、だいはぎのうのよとなりて、こんじょうにはふしょうのさいなんをはらいひ、ちょうせいのじゅつをえ、にんぽうともにふろうふしの、りあらわれんときを、おのおのごろうぜよ、げんせあんのんの、しょうもんうたがいあるべからざるものなり。」(0502-07)のしんじだいを、けんせつしたいものである。
 「われらしゅじょうの、あさゆうはくところの、ごんごなり」とは、しゅじょうのごんごは、そくほとけのしょさであることをとかれたもんである。しゅじょうのせいめいかつどうは、きゅうかいのかつどうであり、そのごんごも、またきゅうかいのごんごである。しかるに、なにゆえ、いだいおんじょうを、われらのごんごと、いわれるのであろうか。おもうに、だいもくをとなえるものは、きゅうかいそくぶっかいであり、そのにちじょうのごんごも、また、みんしゅうきゅうさいのごんごであるとしんずる。
 しゃくぶくにおけるごんごほど、とうといものはない。しどうにあたってのげん々げんく々くほど、ひと々びとのむねをうつものはない。またたいしゅうをリードするさけびほどえいきょうのだいなるものはなく、たいしゅうのしんじつのこえほどちからづよいものはないのである。
 いじょうのように、だいもくをこんぽんとした、にちじょうせいかつのおんじょうは、すべてのひとをすくいきっていくごんごなのである。
 われわれは、にちれんだいしょうにんめつご、700ねんにうまれ、だいしょうにんのだいおんじょうは、いかばかりであったかと、そうぞうするのみである。だが、にちれんだいしょうにんのおんじょうこそ、われわれの、となえるだいもくにつうずるものと、かくしんする。またにちれんだいしょうにんの、げん々げんく々くは、われらのてにする、ごしょぜんしゅうにあらわれ、これ、いだいなだいおんじょうであると、かくしんするものである。だいおんじょうとは、にほんいちこくのみならず、ぜんせかいに、とどろくこえでなければならない。したがって、このだいおんじょうたる、だいもくは、かならずせかいにこうふし、やがて、ぜんじんるいのおんじょうとなることは、ぜったいにまちがいない、じじつであろう。

0740    だいご けんだいほうとうじゅうざいくうちゅうのこと。

おんぎくでんにいわく、けんだいほうとうとは、わがとうがいっしんなり、じゅうざいくうちゅうとは、われらしゅじょうついにめつにきすることなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつりて、しんじんにじゅうするところが、じゅうざいくうちゅうなり、こくうえにじゅうするなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんに、「そのときにししゅう、だいほうとうのくうちゅうに、ざいじゅうせるをみ、また、とうのなかよりだしたもう、おんじょうをきいて…」とある。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「けんだいほうとう」とは、われらがいっしんである。「くうちゅうにざいじゅうせる」とは、われわれしゅじょうが、ついにめっし、だいうちゅうにきすることをいうのである。
 いまにちれんだいしょうにんならびに、われわれもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつりて、しんじんにはげんでいるところが、じゅうざいくうちゅうであり、こくうえにじゅうすることになるのである。

 これしきしんふに、しょうじふにのもんである。けんだいほうとうは、しきほうである。じゅうざいくうちゅうは、しんぼうである。けんだいほうとうは、けんぜんなるしんたい、じゅうざいくうちゅうは、かちそうぞうしきっていくちえ、せいしんともいえるのである。
 また、じゅうざいくうちゅうとは、えいえんのせいめいをとかれる。だいうちゅうへのかんげんのこころでもある。わがそんざいのこころでもある。いちねん、せいしん、いしき、きょうがいとうは、われらのきょうちゅうにさすいがいにありえない。それをじゅうざいくうちゅう、こくうえにじゅうすとといているのである。
 ゆいぶつろんによる、じんせいのへんせい、ゆいしんろんにながされてゆく、じんせいのあやまちを、このしきしんふにのおんふみによつて、ぜったいにふんさいすることが、できるのである。しきしんふにのてつがくこそ、じんるいたいぼうのだいてつがくである。われわれはぶっぽうてつがくこそ、あらゆるぶんめいのどじょうであることを、れきしのうえから、またしそうのほんしつうえからかくちしたのである。
 ちなみに、げんざいのせいじりねんをきゅうめいするとき、せいおうじんえいはキリストきょうを、こんていとするせいじしそうであり、とうおうじんえいは、「かみなきしゅうきょう」ともいわれる、マルクス、レーニンしゅぎを、こんていとするせいじしそうである。
 しかして、いかにこうまいらしく、つくろっても、キリストきょうのこんぽんしそうは、ゆいしんてつがくにすぎず、マルクス、レーニンしゅぎのこんぽんしそうは、ゆいぶつてつがくにすぎない。じんるいのへいわとこうふくは、そのいずれからも、ぜったいにえられなかったのである。
 また、じんるいしそうのれきしは、プラトン、ヘーゲルとうのゆいしんしそう、こだいギリシァにはじまるゆいぶつろん、あるいはいちげんろん、にげんろんのろんそうとう、これすべて、ゆいしんろんかゆいぶつろんかのそうこくをくりかえして、けっていてきなしそうのしょうりを、いずれもみなかったのである。
 「むりょうぎは、いっぽうよりしょうず」と。このしきしんふにのだいてつがくこそ、せいじ、けいざい、きょういくとうのあらゆるぶんかのほんげんであり、えいきゅうふへんのてつりである。あたかもたいがのながれのゆうきゅうなるごとく、なんびゃくねん、なんぜんねんのむかしからとうようみんぞくの、こころのおうていにながれてきた、とうようぶっぽうのしんずい、しきしんふにのだいてつがくこそ、こんめいせるせかいのしそうかい、せかいせいじをすくうゆいいつの、てつがくなることをしるべきである。

0740    だいろく こくみょうほうじょうひちゅううぶつごうわったほうのこと。

おんぎくでんにいわく、たからじょうせかいとは、わがとうがははのたいないなり、うぶつとは、しょほうじっそうのぶつなり、ここをもって、たほうぶつというなり、たいないとは、ぼんのうをいうなり、ぼんのうのおでいのなかに、しんにょのふつあり、われらしゅじょうのことなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるを、とうたいれんげのぶつというなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんで、だいぎょうせつぼさつが、ほとけに、ほうとうのことについてしつもんし、ほとけが、このほうとうのなかには、たほうにょらいというほとけがいるのだと、せつめいしたところである。「そのときにほとけ、だいぎょうせつぼさつにつげたまわく、このほうとうのなかには、にょらいのぜんしん、います…こくをほうじょうとなずづく。そのなかに、ほとけ、います。ごうを、たほうとのたまう…」とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。たほうにょらいのすむ、たからじょうせかいとは、ははおやのたいないのことである。なぜなら、ははのたいないとは、ほとけのしゅっしょうするところであり、せいめいいじょうにすぐれたたからはないゆえに、たからじょうせかいというのである。
 「うぶつ」つまり「ほとけいます」とは、しょほうじっそうのほとけ、ありのままのすがたで、げんじつにいるほとけである。とくべつのせかいにいるほとけではない。そのほとけを、たほうぶつとなづけたのである。また、たいないとは、ぼんのうである。そのぼんのうのおでいのなかに、ありのままのほとけがある。それは、われわれしゅじょうのことである。さらには、いまにちれんだいしょうにんならびにそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつっているのを、とうたいれんげのほとけと、いうのである。

 「たからじょうせかい」とは、とくべつなせかいを、さすのではけっしてない。また、かんねんのせかいをさすのでもだんじてない。ぐたいてきには、ははのたいないをいうと、おおせである。すなわち、これ、せいめいしゅっしょうの、もっともだいじなる、いぎをば、ほうじょうせかいとといておられるのである。
 「うぶつ」とは、いちぶつ、にぶつ、さんぶつ、さんじゅうにそうのほとけではない。しょほうじっそうのほとけを、いうのである。すなわち、ぼんぷそう、じどうぼんぷのほとけをさすのである。しょせん、にちれんだいしょうにんのことであられる。これこそ、しんじつ、ほんぬのだいせいめいてつがくといえるのである。おんぎくでんには、「まっぽうのほとけとは、ぼんぷなり、ぼんぷそうなり、ほうとは、だいもくなり、そうとはわれらぎょうじゃなり、ほとけともいわれ、また、ぼんぷそうともいわるるなり」(0766-だいじゅうさん、じょうふちぶつ、ふもんぽうふけんそうのこと)と。
 おなじく、おんぎくでんに、「いま、にちれんらのたぐいのこころは、そうじてはにょらいとは、いっさいしゅじょうなり、べっしては、にちれんのでしだんななり、されば、むさのさんじんとは、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃなり、むさのさんじんのほうごうを、なんみょうほうれんげきょうというなり」(0752-05)と。しょほうじっそうしょうに、「さればしゃか、たほうのにぶつというも、ゆうのほとけなり、みょうほうれんげきょうこそ、ほんぶつにてはござそうろうへ、きょうにいわく、「にょらいひみつじんずうしりき」これなり、にょらいひみつは、たいのさんじんにして、ほんぶつなり、じんずうしりきはゆうのさんじんにして、しゃくぶつぞかし、ぼんぷはたいのさんじんにして、ほんぶつぞかし、ほとけはゆうのさんじんにしてしゃくぶつなり」(1358-11)とある。
 すなわち、まっぽうのごほんぶつとは、べっしてはぼんぷそうの、にちれんだいしょうにんであられる。しかして、そうじては、にちれんだいしょうにんのぶっぽうをしんじまいらせる、われら、まっぽうのぼんぷこそ、しんじつのほとけなのである。ゆえに、にちれんだいしょうにんは、もったいなくも、「ぼんのうのおでいのなかに、しんにょのほとけあり、われらしゅじょうのことなり」とおおせられたのである。これ、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのごくとうというべきである。

0740    だいなな おじっぽうこくど うせつほけきょうしょ がしとうみょう いちょうぜきょうこ ゆげんごぜん いさしょうみょう さんごんぜんざいのこと。

0741、おんぎくでんにいわく、じっぽうとは、じっかいなり、ほけきょうとは、われらしゅじょう、るてんのじゅうにいんねんなり、よってごんごのおんじょうを、さすなりぜんざいとは、ぜんあくふに、じゃしょういちにょなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるところを、たほうゆげんというなり。

かいしゃくこうぎ。
 これは、たほうにょらいが、ぼさつのしゅぎょうを、していたときにたてた、ちかいのことばである。くわしくはほうとうほんに、『もしわれ、じょうぶつしてめつどののち、じっぽうのこくどにおいて、ほけきょうをとくところ、あらば、わがとうみょう、このきょうをきかんがためのゆえに、そのまえにゆげんし、ためにしょうみょうとなって、さんめて、よいかなといわん』とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。じっぽうとはじっかいである。ほけきょうには、われわれしゅじょうというものが、えいえんにしょうじのくかいを、るてんしていくのであるという、せいめいのじったいをとかれているのである。
 すなわち、ほけきょうとは、われわれしゅじょうの、るてんしゆくじゅうにいんねんをとく。じゅうにいんねんとは、ごんだいじょうきょうで、さんがいにおける、せいめいるてんのほうそくをじゅうににわけたもので、むみょう、ぎょう、しき、みょうしき、ろくしょ、しょく、じゅ、あい、しゅ、う、しょう、ろうしをいう。
 しかし、ここでは、にぜんごんきょうのじゅうにいんねんではなく、ほけきょうのせいめいてつがくのうえから、じゅうにいんねんとしるべきである。よって、ほけきょうとは、ごんごのおんじょう、つまりせいかつをときあらわしているのである。ぜんざいとは、ぜんあくふに、じゃしょういちにょである。すなわち、われわれのせいめいが、ぼんのうであるゆえに、だいもくをあげることによって、そくぼだいとなるのである。
 いま、にちれんだいしょうにんならびに、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるところに、ぶっかいがゆげんし、さいこうのこうふくきょうがいをつかむことが、できるのである。これを、たほうゆげんというのである。

「ほけきょうとは、われらしゅじょうるてんの、じゅうにいんねんなり」うんぬんとは、せいめいのほんしつ、ほんげん、じったい、いんがのにほう、せいめいはってんのほうそくを、めいかくにときあかしたのが、ほけきょうなりとの、もんであられる。つうずのほけきょうといっても、じつには、さんしゅるいあることをしるべきである。だいいちにしゃくそんのほけきょうは、ほけきょうにじゅうはちほん、ぞうぼうにおける、てんだいだいしのほけきょうは、まかしかん。まっぽうにおける、にちれんだいしょうにんのほけきょうは、ごじななじの、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうである。しょせん、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとして、まかしかんおよび、ほけきょうにじゅうはちほんは、そのせつめいしょにあたるわけである。そのひとつのしょうことして、ほけきょうにじゅうはちほんにおいても、みょうほうれんげきょうじょぼんだいいち、みょうほうれんげきょうほうべんぽんだいにと、いわれているではないか。
 けごんきょうは、じゅっしん、じゅっじゅう、じゅっぎょう、じゅっえこう、じゅっち、とうかく、みょうかくとうのほうもんを、しょぼさつ、ぼんぷだいきのために、べつえんにきょうとしてといたものである。このけごんをときたもうほとけを、たゆうほうしんにょらいといい、こくどをじっぽうどとしょうするのである。しかし、そのときのしゅじょうは、いまだだいじょうのりに、しんにききうるきこんではなかった。あごんきょうにおいては、くじゅうめつどうのしたいのほうもんを、ときあかした。これは、どんこんのきのために、しゅうしょうのほうをといたのであり、じゅうにねんかん、このしょうじょうきょうはとかれた。
 このきょうしゅは、いちじょうろくしゃくの、しゃばどうごのほとけであり、れつおうじんである。ほうとうぶは、にじょうがしょうじょうによって、けんじのぼんのうをだんじ、らかんのしょうがをえて、ねはんをじょうじたと、あやまったかんがえにしゅうちゃくしたので、ところ々どころに、しきょうのほうをといて、にじょうをだんかし、ぼさつをしょうようしたのである。はんにゃぶでは、にじょうをゆうどうしてだいじょうにむかわしむべく、つうべつえんのさんきょうを、たいどうして、じゅうよねんかんとかれたのである。
 しかして、ほけきょうにじゅうはちほんは、これらよんじゅうよねんの、ほうべんごんきょうをときおわって、ずいじいのたちばより、ほとけのきょうがいをとかれたのである。ほけきょうは、だいうちゅうにひろく、じっかいさんぜんのまんだらを、えがいたじょうたいともかんがえられる。また、われらのじっかいさんぜんのせいめいを、こくめいに、ときあかしたものともいえる。そのこんぽんたる、なんみょうほうれんげきょうのほうほんぞん、にちれんだいしょうにんのにんほんぞんを、すなわち、ぶっぽうのしんずい、こつずいをおしたためになった、いっぷくのまんだらをばごほんぞんというのである。
 にちにょごぜんごへんじにいわく、「されば、しゅだいのごじはちゅうおうにかかり、よんだいてんのうは、ほうとうのしほうにざし、しゃか、たほう、ほんげのしぼさつ、かたをならべ、ふげん、もんじゅとう、しゃりほつ、もくれんとう、ざをくっし、にちてん、がつてん、だいろくてんのまおう、りゅうおう、あしゅら、そのほか、ふどう、あいぞめはなんぼくのふたかたにじんをとり、あくぎゃくのだった、ぐちのりゅうにょいちざをはり、さんぜんせかいのひとの、じゅみょうをふうばあっきたるきしもじん、じゅっらせつにょとう、しかのみならずにほんこくのしゅごしんたる、てんしょうだいじん、はちまんだいぼさつ、てんじんななだい、ちじんごだいの、かみがみ、そうじてだいしょうのじんぎとう、たいのじんつらなる、そのよのゆうのじん、あにもるべきや」(1243-09)うんぬんと。
 「ごんごのしょうもん」とは、せいかつのことである。がっこうでも、しゃかいでも、げいじゅつ、かがく、ぶんがくとう、ぜんぱんにわたり、そのきほんはごんご、おんじょうをだいいっぽとしていることは、ろんをまたない。
 「ぜんざいとは、ぜんあくふに、じゃしょういちにょなり」とは、いかなるひとたりとも、みょうほうをしんじて、ぜんぶすくわれるとの、だいじひである。ぜんあくふに、じゃしょういちにょもまた、きゅうかいそくぶっかい、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんをさしている。しょせん、さんだいひほうの、ごほんぞんにきみょうすれば「たほうゆげんというなり」すなわち、たほうとは、ごほんぞんであり、ごほんぞんのだいくどくである。またちえ、ふくうん、せいめいりょくとやくすこともできるわけである。

0741    だいはち なんせいほっぽうしゆいじょうげのこと。

おんぎくでんにいわく、しほう、しゆい、じょうげしがって、じっぽうなり、すなわちじっかいなり、じっかいのしゅじょうともに、さんどくのひかり、これれあり、これをびゃくごうというなり、いっしんちゅうどうのちえなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、じっかいどうじのひかりさすなり。しょほうじっそうのこうみょうなるがゆえなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほとけがびゃくごうのひかりを、とうほうにはなち、また、なんせいほっぽう、しほうじっぽうをてらすのである。ほうとうほんには、「なんせいほっぽう、しゆいじょうげ、びゃくごうそうのひかりの、しょしょうのところも、またまた、かくのごとし」とある。そのひかりのいくところ、いたるところで、じっぽうぶんしんのしょぶつが、せっぽうしているすがたがある、ということである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。じっぽうとは、とうざいなんぼくのしほうと、とうほく、せいほく、とうなん、せいなんのしゆい、それにじょうげをあわせて、じっぽうとなるのである。これすなわち、じっかいのことである。じっかいのしゅじょうのせいめいは、じっかいともにとん、じん、ちのさんどくのひかりがある。
 このひかりをびゃくごうというのである。これはいっしんちゅうどう、すなわち、いちねんのしんじんよりいずる、ぶっちである。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうとだいもくをとなえるときは、じっかいのかっかい、どうじにくどくがあらわれるのである。それは、しょほうじっそうのあきらかなひかりに、てらされるから、くどくがあるのでる。

 「じっぽう」とは、うちゅうぜんたい、あますところなきをいう。これまた、われらじっかいのせいめいともなる。あるせいようのがくしゃが、「われわれのせいめいたいは、しょううちゅうなり」と。また、あるがくしゃは「わがせいめいは、だいうちゅうのいちさいぼうのようなものである」と。まことにゆえあるりろんといえる。じじつ、たいようのこくてんあらわれれば、でんぱにも、またじんたいにも、だいしょうぎをあたえ、およぼす。また、しゃかいせいかつにおよぼす、えいきょうもだいなるものがある。
 このせいめいとうちゅうとのかんけいは、きょうもんのいたるところにとかれている。しもやまごしょうそくに「きせいきょうにいわく、「もろもろのしゅじょうありて、ほういつをなし、しょうじょうのぎょうをすけがゆえに、てん、あめをくださず」」(0350-14)と。ずいそうごしょに、「それ、じっぽうはえほうなり、しゅじょうはしょうほうなり、たとへば、えほうはかげのごとし、しょうほうはたいのごとし、みなくばかげなし、しょうほうなくばえほうなし、また、しょうほうをば、えほうをもつてこれをつくる、げんこんをば、とうほうをもつて、これをつくる、したは、なんぽう、はなはせいほう、みみはほっぽう、みはしほう、こころはちゅうおうとうこれを、もつて、しんぬべし、かるがゆへに、しゅじょうのごこん、やぶれんとせば、しほうちゅうおうをどろうべし、されば、こくどやぶれんと、するしるしには、まづ、やまくづれそうもくかれ、こうがつくるしるしあり、ひとのげんにとう、おどろかそうとすれば、てんぺんありひとのこころをうごかせば、ちうごかす」(1140-06)と。
 またずいそうごしょに、「ひとのよろこびたたなれば、てんにきちずいをあらはし、ちにたいしゃくのうごきあり、ひとのあくしんさかんなれば、てんにきょうへん、ちにきょうようすしゅったい、しんにのだいしょうにしたがいて、てんぺんのだいしょうあり、ちようもまたかくのごとし」(1142-03)と。さんぜしょぶつそうかんもんしょうには「これをもって、あきらかにしんぬべし、てんくずるれば、わがみもくずるべし、ちさけれけばわがみもさくべし、ちすいかふうめつぼうせば、わがみもまた、めつぼうすべし、しかるに、このごだいしゅはかこ、げんざい、みらいのさんぜは、かわるといえども、ごだいしゅはかわることなし」(0568-05)と。
 いくせんまんおくのせいざにも、ぜんうちゅうに、それぞれ、なんらかのはどうえいきょうをおよぼす、せいめいかつどうがある。どうじに、しょううちゅうであるわれらも、さんどくのひかり、すなわち、りきゆうのはたらきがある。これ、ほんぬのせいめいかつどうであり、ほけきょうでは、びゃくごうととく、これ、ぼんのうそくぼだいであり、しょうじそくねはんのげんりである。すなわち、わがみのさんどく、てんじていくいがいに、しんじつのせいかつはありえないからである。これ、いっしんちゅうどうのちえとなすと。いっしんちゅうどうのちえとは、ぼんのう、ごう、くのさんどうを、ほっしん、はんにゃ、げだつとてんずる、しんじんのいっしんのことを、さすのである。
 しょせん、みょうほうごじのわれらは、「じっかいのどうじの、ひかりさすなり」のせいかつができえるのである。すなわち、いかなるきょうぐうのひとたりとも、いかなるしゅんかんの、じんせいたりとも、きゅうかいをゆうげし、くのう、しゅくめいにながされることなく、ゆう々ゆうといっさいのくなんを、のりこえ、ゆうらくのじんせいを、おくることができるとの、おことばとはいする。「しょほうじっそうのこうみょう」とは、さんだいひほうの、ごほんぞんにてらされ、わがにくだんの、ほんぞんがゆげんする、せいめいをいうのである。
 あるしそうかのいわく、「せいめいの、ほんげんてきかいけつなくして、しんのじんるいの、こうふくのぜんしんはけっしてありえない」と。どうらんのせかいにいきる、われらぢゆのぼさつは、せいめいをとして、このだいじだいひの、しょほうじっそうのこうみょうをば、あんこくのせかいに、てんじきっていこうではないか。

0741    だいきゅう かくさいほうけまんきくのこと。
01
 おんぎくでんにいわく、ほうけとはがっしょう、いちねんさんぜんのしょひょうなり、かくとはじっかいなり、まんのいちじを、いちねんさんぜんとこころうべし、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、ほとけにほうけをたてまつるなり、ほうけそくほうしゅなり、ほうしゅそくいちねんさんぜんなり、がっしょういきょうしんよくもんぐそくどう、これなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
「かくほうけをちも、もろてにみてて」とよむ。じっぽうぶんしんのしょぶつがじしゃをつかわして、しゃかほとけにあいさつするところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほうけとは、がっしょうをいみするのである。またじのいちねんさんぜん、なんみょうほうれんげきょうをあらわしている。したがって、ほうけとはごほんぞんのことである。
 かくとは、じごくかいよりぶっかいにいたるじっかいをいうのである。まんのいちじはかけることのない、みちている、といういみである。じのいちねんさんぜんとこころうべきである。いまにちれんだいしょうにん、およびそのもんかであるわれわれが、ごほんぞんになんみょうほうれんげきょうとしょうだいしたてまつれば、それは、ほとけにほうけをたてまつることになるのである。ほうけとは、そくほうしゅであり、ほうしゅはそくいちねんさんぜんのなんみょうほうれんげきょう、つまりごほんぞんのことである。
 ほうべんぽんだいにの「がっしょうしきょうしんをもって、ぐそくのどうをききたてまつらんとほっす」とは、このことをとかれているのである。

 せいかつそくしんじんのたいどについてのもんである。ほうけとは、しんじんのがっしょうのことである。ひゆほんにも、がっしょうとは、ほけきょうのいみょうなりとも、とかれている。したがって、まっぽうのほけきょう、そくさんだいひほうのごほんぞんになしむ、だいもくをあげるすがたが、ほうけであり、がっしょうとなる。たしゅうきょうのごとく、いんけいをむすんだり、また、さんだいひほうのほんぞんに、むかわざるがっしょうは、しんのがっしょうとは、けっしていえない。また、がっしょうの「がっ」とはみょうなり、「しょう」とはほうなり、ともとかれている。じゅじそくかんじんに、つうずるところであり、しんじんのいかにだいじかを、うかがうことができるのである。
 なお、しょひょうとは、たとえをもって、そのいみをあかすことである。ほうけをささげるこういをかりて、いちねんさんぜんのいぎをあらわしている。しょせん、ほうけを、まんきくしゆくこういとは、こんにちでは、ごほんぞんにがっしょうするすがたであり、これこそ、しんのしんじんのすがたであり、わがみが、とうたいれんげぶつとなるのである。
 なお、つうずには、ほうけは、ほうしゅとどういつぎに、もちいられている。かんじんのほんぞんしょうに「いちねんさんぜんを、しらざるものには、ほとけ、だいじひをおこし、ごじのうちにこのたまをつつみ、まつだいようちのくびにかけさしめたまう」0254-18うん々ぬんと。さいごに「がっしょうきょうしん」は、しんじんがっしょうをいみし、「ぐそくどう」は、いちねんさんぜんのほうりとなる。

0741    だいじゅっ にょきやっけんやく、かいだいじょうもんのこと。

 ほちゅうのよんにいわく、このかいとうけんぶつはけだし、しょひょうあるなり、 なんとなれば、すなわちかいとうはそくかいごんなり、けんぶつはそくけんじつなり、これまた、まえをあかし、また、まさにのちを、おこさんとするのみ、にょきやっけんやくとは、きゃくはなりのぞく、さわりのぞこり、きうごくことをあらわす、いわく、ほっしんのだいし、わくをはしりをあらわし、どうをまし、しょうをそんするなりと。
 おんぎくでんにいわく、けんやくとは、ほうぼうなり、むみょうなりかいとは、われらがじょうぶつなり、だいじょうもんとはわれらがしきしんのにほうなり、だいじょうとはしきほうなり、もんとはくちなり、いま、にちれんとうのたぐい、ななんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるとき、むみょうのわくしょうしりぞけて、こしんのしゃかたほうじゅうするなり、けんやくとはむみょうなり、かいとはほっしょうなり、やくとはみょうのいちじなり、てんだいのいわく、「ひみつのおうぞうをひらく、これをしょうしてみょうとなす」と、みょうのいちじをもって、やくとこころうべきなり、このきょうもんは、ほうぼうふしんのけんやくを、しりぞけて、こしんのほとけをひらくということなり、かいぶつちけんこれをおもうべしうんぬん。

 しゃくそんがほうとうをひらくところである。「ここにしゃかむにぶつ、みぎのゆびをもって、しちほうとうのとをひらききたもう。だいおんじょうをだすこと、けんやくをしりぞけて、だいじょうのもんをひらくがごとし」とのべられている。ほちゅうのよんには、このかいとうけんぶつは、かんがえてみるに、あらわすところがあるのである。なんとなれば、すなわち、「かいとう」ということは、そくかいごんということであり、「けんぶつ」は、そくけんじつということである。これは、また、まえのしゃくもんをしょうみょうし、のちのほんもんをおこそうとするいみがあるのである。にょきやっけんやくの「きゃく」とは、「のぞく」ということであり、じょうぶつするのにさまたげとなる。いろいろなしょうがいぶつをとりのぞき、じょうぶつするきこんになることを、あらわしているのである。ほっしんのぼさつが、いろいろなわくをはし、どうりをあらわし、ちゅうどうのちえをまし、へんにゃくしょうじをそんげんしていくのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。けんやくとはほうぼうということであり、むみょうということである。また「だいじょうのもんをひらく」という、ひらきとは、ほうぼうやむみょうをひらいていくがゆえに、われわれがじょうぶつするということである。だいじょうもんとは、われわれのしきしんのにほっである。だいじょうがしきほうであり、もんとはしんぼうをあらわしている。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときは、むみょうのわくしょうをしりぞけて、こしんのしゃかたほうがじゅうし、ぶっかいがゆげんしてきて、じょうぶつすることができるのであり。
 けんやくとはむみょうのことであり、そのけんやくをひらく、ひらきとは、ほっしょうということである。やくとは、じょうぶつのもんをひらくカギであるから、みょうのいちじになる。てんだいだいしは、このことを「ひみつのおうぎをひらくので、これをしょうしてみょうとなすのである」とといている。みょうのいちじをもって、やくとこころうべきである。
 このきょうもん、すなわちにょきやっけんやくかいだいじょうもんは、いろいろなほうぼうふしんの、けんやくをしりぞけて、われわれの、こしんのぶっかいをゆげんすることを、しめしているきょうもんである。「ぶつちけんをひらく」ということは、このようなことであり、このことをよくよくかんがえるべきである。

 ぼんのうそくぼだいの、てつりのもんである。「けんやく」とは、とびらのかぎのこころ。このけんやくとは、おんぎくでんでは、ほうぼう、むみょうなりとおおせである。なぜか。それは、とびらのかぎそれじたいでは、いまだないぶのかちはありえない。したがって、ぼんのう、きゅうかいをさしておられるが、ゆえである。「ひらき」とは、ぶっかいのことであり、じょうぶつをいみする。けっくは、しんじんのにじが、ひらきとなる。「だいじょうもん」とは、だいじょうがしきほう、もんがしんぼうをいみする。しきしんふにのせいめいのことである。
 しょせん、ぶっしつてきななやみ、せいしんてきななやみを、つまり、さんしょうしまをうちやぶってゆくしんじんによって、もんにはいることができるとの、しどうであられる。けっきょく、しゃくぶくぎょうも、だいもくもきょうがくも、いっさいのがっかいかつどうが、わがこしんのしゃかぶっぽうを、ハッキリみるためである。これ、えいえんのこうふくきょうがいにじゅうし、だいうちゅうのリズムに、がっちした、さいこうのせいかつをいうのである。だいかくしんにみちみちて、くのうのしゃかいを、ゆう々ゆうとゆうげしてゆける、じんせいをいうのである。これ、ただただ、われらがっかいいんの、しんじんのもくてきであることを、わすれてはならない。
 「やくとはみょうのいちじ」とは、むみょうぼんのうのなかに、われらのじょうぶつできうる、かぎがおさめられているてつりである。しょせん、ぼんのうそくぼだいのかぎが、われらのにくだんにぞうせられているので、まことにごんごひつぜつにつくせぬ、みょうといわざるをえない。おんぎくでんのほうべんぽんだいにに、「ひらきとはしんじんのいみょうなりうんぬん、しんじんの、かいぶつちけんをもって、しょういとせり」ともとかれている。
 このげんりによって、せいじかも、きょういくしゃも、がくしゃも、げいじゅつかも、にんげんかくめいし、しゃかいのこうふくと、へいわへのしどうしゃになって、もらいたいものである。かつ、このだいしどうげんりによって、ふこうとひさんなひとが、いちにんもなくなることを、いのってやまないものである。


0742    だい11 せっしょだいいしゅ、かいざいこくうのこと。

おんぎくでんにいわく、たいしゅうとはちょうしゅうなり、かいざいこくうとは、われらがしのそうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しょうじそくねはんとかいかくするを、かいざいこくうととくなり、しょうじそくねはんと、ひせつするなり、だいちはしきほうなり、こくうはしんぼうなり、しきしんふにとこころうべきなり、こくうとはじゃっこうどなり、またいわく、こくうとはれんげなり、きょうとはだいちなり、みょうほうはてんなり、こくうとはなかなり、いっさいしゅじょうのうち、ぼさつ、れんげにざするなり、これを、みょうほうれんげきょうととかれたり、きょうにいわく「にゃくざいぶつぜん、れんげけしょう」と。

かいしゃくこうぎ。
 しゃくそんが、ほうとうのなかにはいって、たほうとならんですわり、さらに、たいしゅうをも、こくうにおくのである。「そくじに、しゃかむにぶつ、じんつうりきをもって、もろもろのたいしゅうをせっして、みな、こくうにおきたもう…」とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「せっしょだいいしゅ」のたいしゅうとはちょうしゅうである。「みなこくうにあり」とは、われわれのせいめいが、だいうちゅうにみょうぶくし、しのそうをげんじているのである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかは、そのしんじんによって、しょうじそくねはんとかいかくするのである。そのすがたを、かいざいこくうととくのである。ぼとけのたちばからみるならば、しゅじょうは、とらわれるのである。
 だいちはしきほうであり、こくうはしんぼうである。このしきとこころは、ふにとこころうべきである。こくうとはじゃっこうどである。また、みょうほうれんげきょうという、たてわけからみるならば、こくうとはれんげであり、きょうとはだいちであり、みょうほうとはてんである。こくうとはなかである。いっさいしゅじょうのうち、ぼさつがれんげにざしているのである。これを、みょうほうれんげきょうととかれているのである。ほけきょうのだいばだったほんには、「にゃくざいぶつぜん、れんげけしょう」ととかれている。すなわち、もしごほんぞんのまえにあって、しんじんしゅぎょうにはげんでいくならば、いんがくじで、じょうぶつのきょうがいを、うることができるというのである。

 しょうじそくねはんのもんである。「たいしゅう」とはちょうしゅうであり、われわれいっぱんたいしゅうのことである。しょうじのうみにただよい、えいえんのせいめいにいきることを、しらないまよいのしゅじょうである。「かいざいこくう」とは、しのそうである。われわれのせいめいが、だいうちゅうのせいめいに、みょうふくしたじょうたいをいう。すなわち、えいえんふめつのせいめいにおけるめつのそうである。
 このみかたよりすれば、しょうもまた、えいえんのせいめいのなかにおいて、しょうのそうをげんじたものである。かくさとることが、ねはんであり、しょうじのくかいも、えいえんのらくどに、てんずることができるのである。
 これしょうじそくねはんである。しかし、このきょうがいにたっするためには、さんだいひほうのごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなうることが、こんぽんじょうけんである。ゆえに、「いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、しょうじそくねはんとかいかくするを、かいざいこくうととくなり、しょうじそくねはんとひせつするなり」とおおせなのである。
 しきしんふにの、てつりよりみれば、だいちはしきほう、こくうはしんぼうであって、このにしゃはいったいである。そのように、ただしくちけんすることが、せいめいのじったいをはあくすることになる。そのせいめいかんにたったとき、そこがこくうであり、したがってじょうじゃっこうどなのである。
 さらにみょうほうれんげきょうの、ごじよりたてわけるならば、こくうはれんげである。きょうは、われらのごごんおんじょうであり、いっさいのこうどうであるがゆえに、しきほうであり、だいちである。みょうほうはしんぼうなるがゆえにてんである。こくうはてんとちよりみれば、なかであって、しきしんふにとなる。
 さいごの「いっさいしゅじょうのうち、ぼさつ、れんげにざするなり、これをみょうほうれんげきょうととかれたり」とは、じょうぶつのようていをとかれたのである。われわれが、ごほんぞんをしんじて、なんみょうほうれんげきょうととなえ、ぶつどうにはげむとき、しょうじそくねはん、しきしんふにのせいめいかつどうをけんげんし、みょうほうれんげきょうの、とうたいとあらわれるのである。だいばだったほんにとく「にゃくざいぶつぜん、れんげけしょう」とはこれをいう。

0742    だい12 ひにょだいふう すいしょうじゅしのこと。

 おんぎくでんにいわく、このげしょうの、にょしょうりょうちと、ひにょだいふうと、ねんだいこかとは、さんじんなり、そのなかに、ひにょだいふうとは、だいもくのごじなり、すいしょうじゅしとはしゃくぶくもんなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、だいふうのふくがごとくなり。

 「たとえばだいふうの、しょうじゅのえだをふくがごとし」とよむ。ほとけのせっぽうのすがたを、ひょうげんしているのである。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほうとうほんのげしょうの「しょうりょうちの、れんげそうごんせるがごとし」、「たとえば、だいふうのしょうじゅのえだを、ふくがごとし」、「よるのやみのなかに、おおいなるこかを、せるもやがごとし」、このみっつは、ほっぽうおうのさんじんをあらわしているのである。
 そのなかの、「たとえば、だいふうのしょうじゅのえだを、ふくがごとし」とは、だいもくのごじをいうのである。
 「しょうじゅのえだをふく」とは、だいふうともいうべき、だいもくによって、しょうじゅのえだのような、じゃしゅうきょうがしゃくぶくされるのである。すなわち「ほっけしゃくぶく、はごんもんり」のことを、もうされているのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえ、しゃくぶくしていく、そのすがたというものは、だいふうのふくようなものである。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんのげしょうに、「にょしょうりょうち、ひにょだいふう、ねんだいこか」とあるが、これは、さんじんをあらわしている。にょしょうりょうちは、「しょうりょういけの、れんげそうごんせるがごとし」とあり、くどくあふれるしょうじょうなるぶっしん、すなわちおうじんともいえよう。ひにょだいふうは、「たとえばだいふうの、しょうじゅのえだをふくがごとし」とあり、ほとけのちえ、はたらきとうを、さすがゆえに、ほうしんともかんがえられる。「ねんだいこか」とは、「よるのやみのなかに、おおいなるこかを、せるもやがごとし」とあり、ほとけのちから、ほんしつをあかしたもので、ほっしんとはいすることできる。
 つぎに、「ひにょだいふう」とは、だいもくであり、「すいしょうじゅし」とは、しゃくぶくのことである。われわれのとなえるだいもくは、じぎょうけたにわたる、なんみょうほうれんげきょうである。いっさいきょうのすべてのりほう、すべてのくどくは、このいちくのなかに、、ほうせつされるのである。ゆえに、きょうちゅうのおうであり、とだじょうせいぜんかいちょうが、このだいもくをとなえ、しゃくぶくにはげむそうかがっかいを、しゅうきょうかいのおうじゃといわれたいぎはここにある。
 いっさいのきょうだんが、なんみょうほうれんげきょうのまえには、あたかも、しょうじゅがだいふうにふかれて、なびくようなものである。げんざいにおける、いっさいのしそう、てつがくといえども、なんみょうほうれんげきょうの、いだいなてつりと、ちからにたいしては、とうていおよぶものではない。
 もともと、「むりょうぎはいっぽうよりしょうず」といい、「ひゃくせんしよう、ことごとくいちこんにおもむく」ととかれているが、そのいっぽう、あるいはいちこんこそ、なんみょうほうれんげきょうなのである。このだいもくをこんぽんとして、すべてのてつがくは、いかされるものであるとしるべきである。

0742    だい13 にゃくうのうじ そくじぶっしんのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほけきょうをたもちたてまつるとは、わがみ、ぶっしんとたもつなり、 そくのいちじは、しょうぶつふになり、うえののうじの、じはぼんぷなり、たもつたいは、みょうほうのごじなり、ぶっしんをたもつというは、いちいちもんもん、かい、こんじき、ぶつたいのゆえなり、さて、ぶっしんをたもつとは、わがみのほかに、ほとけなしと、たもつをいうなり、 りそくのぼんぷと、くきょうそくのほとけと、ふたつむきなり そくのじは そくゆえ、しょごふにのゆえなりうんぬん。

 これは、ほうとうほんの、「もしよく、たもつことあらば、すなわち、ぶっしんをたもつなり」とあるところである。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。さんだいひほうの、ごほんぞんをたもちたてまつるというのは、わがみ、すなわち、ほとけなりとかくしんすることである。
 そくじぶっしんのそくのいちじは、しょうぶつふに、すなわち、しゅじょうもほとけも、べつのものではないのである。にゃくうのうじのじというのは、われわれ、ぼんぷがたもつのである。たもつたいは、なんみょうほうれんげきょうのごじである。これ、ごほんぞんじゅじにつきる。これが、ぶっしんをたもつことになる。なんみょうほうれんげきょうのいちじいちじが、みなこんじきのぶつたい、すなわち、だいしょうにんのせいめい、それじたいであるがゆえである。
 さて、われわれが、ぶっしんをたもつということは、わがみ、そく、ほとけであり、それいがいに、ほとけはないと、かくしんすることを、いうのである。りそくのぼんぷ、すなわち、きゅうかいのしゅじょうと、くきょうそくのほとけとは、べつのものではないのである。そくのいちじは、そくこしょごふに、すなわち、はじめのりそくのぼんぷと、のちわりのくきょうそくのほとけとは、ふにである。くべつされるべきものでは、ないというのである。

 そくしんじょうぶつの、おうぎをあかし、にんげんのそんげんせいをしめされている。われわれぼんぷが、ごほんぞんをたもちたてまつるとは、わがみ、そく、ぶっしんをたもつことであると、おおせである。しゃかぶっぽうにおいてはごじゅうにいをたて、りゃくこうしゅぎょうによる、じょうぶつをとくのであるが、にちれんだいしょうにんのぶっぽうにおいては、ごほんぞんをたもつこと、それじたい、じょうぶつなのである。「じゅじそくかんじん」である。
 てんだいも、りそくよりくきょうそくまで、ろくそくをもうけているが、だいしょうにんは、「りそくのぼんぷと、くきょうそくのほとけと、ふたつなきなり」とおおせられ、しょうぶつふに、すなわち、しゅじょうとほとけとは、べつのものでないととかれている。
 つうずのぶっぽうかんのだいかくめいといえる。しかも、ぶっしんをたもつとは、わがみのほかに、ほとけなしとたもつをいう。まことに、めいかくなせいめいのそんげんをとかれているではないか。
 げんざい、みんしゅしゅぎを、くちにするものはおおいが、せいめいのそんげんが、どこにあるかをりかいせずして、しんのみんしゅしゅぎが、あろうはずがない
 じんけんをおもんじ、にんげんせいをむししてならないことは、みんしゅしゅぎのこんかんである。しかし、なにゆえに、じんけんをおもんずべきか。いま、にんげんせいのほんしつはどこにあるかを、きゅうめいせずして、こ々このにんげんかくめいも、しゃかいかくめいもきたいすることは、けっしてできない。
 いま、にちれんだいしょうにんの、てつりによれば、にんげんは、ほんらいほとけである。みょうほうれんげきょうの、とうたいであると、だんていなさっているのである。これせいめいのほんしつであり、じったいである。このせいめいかんにたって、はじめて、みんしゅしゅぎのきばんがかくりつし、そうごにしんらいし、そんちょうし、たすけあう、りそうのしゃかいがけんせつされてゆくのは、とうぜんである。
 ただし、ぶっぽうは、そうべつのにぎを、わきまえなければならない。そうじては、いっさいしゅじょうはほとけであるが、べっしては、にちれんだいしょうにんであらせられる。
 しゅじょうが、そく、ほとけであるといっても、せいめいろんのうえからとく、りじょうのもんだいであって、しんじつわれわれが、ほとけのせいめいをゆげんし、こうふくせいかつをじつげんするためには、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのおいのちである、さんだいひほうのごほんぞんをしんじて、なんみょうほうれんげきょうと、となえるいがいには、ぜったいにありえないのである。


0742    だい14 しきょうなんじのこと。

 おんぎくでんにいわく、このほけきょうをたもつものは、なんにあわんと、こころえてたもつなり、されば、そくいしっとく、むじょうぶつどうの、じょうぶつはいま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるこれなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんの、「このきょうはたもちがたし」について、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このごほんぞんをしんじ、ぶつどうしゅぎょうにはげむものは、かならずや、なんにあうであろうとこころえて、しんじんすべきである。それゆえ、「すなわちこれ、とく、むじょうのぶつどうをえたり」というじょうぶつは、いまなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、はたすことができるのである。
 さいこうのこうふくろんがとかれている。ごしょに、「にちれんがでしとうは、おくびょうにてはかなうべからず」1282-02と。また「なんきたるをもって、あんらくとこころうべきなり」0750-だいいちあんらくぎょうほんのことと、これらのおんふみはすべて、ほんぶんのこころにつうずるものである。
 さんだいひほうのごほんぞんをたもついじょうは、「なんにあわんとこころえてたもつなり」とのおおせである。そこにむじょうさいだいのこうふく、すなわち、そくしんじょうぶつのきょうがいはえられるのである。
 ぶっぽうのほうていしきを、げんぜんととかれているではないか。とおくは、しゃくそんはくおうのだいなんにあい、てんだいは、なんさんほくしちにせめられ、でんぎょうは、ろくしゅうにあだまれている。そのたのれいはかずかぎりない。ちかくは、しょだいまきぐちつねさぶろうかいちょうは、ろうごくでおなくなりになり、にだいとだじょうせいかいちょうもまた、にヵねんのながきにわたって、ごくちゅうせいかつをおくられたのである。しかしながら、ぶっぽうのために、みをすつるは、「いしにこかねをかへ、ふんをこめにかうるなり」0910-16との、ごきんげんをおもうとき、いかなるなんにあおうとも、ごほんぞんを、ごじして、いっしょうじょうぶつのほんかいを、まっとうすべきではないか。
 しゅししんのさんとくを、ぐびされたごほんぶつ、にちれんだいしょうにんが、われわれに、じひをたれたまわぬわけがない。なんをうけるのをごらんになって、ふびんにおもわぬわけはない。だが、てんじゅうきょうじゅのぶっぽうのだいてっそくであり、うけるべきなんを、こくふくせずして、じょうぶつはありえない。
 さらに、なんにあうことを、かくごしてこそ、まをふせぐこともできるがゆえに、きびしくおおせになるのであって、だいじだいひの、ごきんげんをつよくつよく、しんじなくてはならぬ。しかるにぼんぷは、だいじなときにめさきのあんらくをもとめて、しんじんをわすれがちなものである。
 ゆえにごしょに、「『そくいしっとく、むじょうぶつどう』はうたがいなし、さんぜのしょぶつの、だいじたる、なんみょうほうれんげきょうを、ねんずるをじとはいうなり」1136-06と。また「いっしょうむなしくすごして、ばんさいくゆることなかれ」0970-14と、しょうがいごうじょうに、しんじんをつらぬきとおし、おのおの、くいなきじんせいを、まっとうしようではないか。

0742    だい15 がそくかんぎ、しょぶつやくねんのこと。

  おんぎくでんにいわく、われとはしんのうなり、しょぶつとはしんずなり、ほけきょうをたもちたてまつるときは、しんのうしんず、どうじにかんきするなり、またいわく、われとはぼんぷなり、しょぶつとはさんぜしょぶつなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえて、かんきするこれなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんの、「このきょうはたもちがたし、もししばらくもたもつものは、われすなわちかんきす、しょぶつもまた、しかなり」とあるところの、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。がそくかんぎの、われとは、しんのうつまり、せいめいそれじたいであり、しょぶつとはしんず、つまりせいめいのはたらきをいうのである。ごほんぞんをじゅじし、しんじんにはげむときは、せいめいのこんぽんも、せいめいのはたらきも、どうじにかんきするのである。
 また、われとは、ぼんぷのことであり、ぼんぷそくほとけで、にちれんだいしょうにんのことである。しょぶつとは、さんぜじっぽうのしょぶつのことである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえて、かんきすれば、しょぶつもまた、かんきするのである。これを、がそくかんぎ、しょぶつやくねんというのである。

 だいもくをとなえることが、さいこうのかんきであるとのおんふみである。われわれが、なんみょうほうれんげきょうととなうることは、われわれのせいめいに、いだいなるえいきょうをあたえることであり、やくどうするせいめいかつどうとなるのである。かおいろはすぐれ、せいかつのうえに、くどくがぐんぐんあらわれてくるのは、そのしょうこである。これこそしんじつのかんきであり、にちれんだいしょうにんは、「かんきのなかのだいかんきなり」0788-ごひゃくほんとも、おおせである。
 きょうぎにかった、こかねがもうかった、びょうきがなおった。だいじんになった。すべてはよろこびにちがいない。だが、それはえいえんのよろこびであろうか。そうではない、いちじてきのものであり、そうたいてきなものであって、けっしてえいきゅうてきなものではなく、ぜったいてきなものでもない。ばあいによっては、むしろ、そうしたいっぱんてきなかんきが、かえってしょうらいのあだになり、ふこうのげんいんになることは、にちじょうせいかつにつねにけいけんすることではないか。
 ごほんぞんをしんじ、だいもくをしっかりとなえるいがいに、ほんねんてきなかんきは、ありえないのである。このかんきこそ、じょうじゅうのものであり、いっさいのかんきは、ここにほうがんされて、はじめてわれわれのこうふくのないようとなるのである。
 ゆえに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつれば、ごほんぶつにちれんだいしょうにんは、およろこびくださり、たのいっさいのさんぜのしょぶつも、よろこぶのである。われわれが、みょうほうをとなえ、しゃくぶくすると、いろいろとひなんをうけ、はくがいされるばあいもある。
 しかし「ほけきょうを、たもちたてまつるときの、しんのうしんず、どうじにかんきするなり」とは、いかをいみするのであろうか。ひょうめんてきにははんたいするようであっても、いっさいのしゅじょうに、ぶっしょうがあるいじょう、ほんねんてきには、かんきしているのである。
 はんたいするのは、そのぶっしょうが、けんげんすることをおそれて、まがぼうがいするげんしょうを、みるべきではなかろうか。われわれは、よろこんでいる、ぶっしょうにちゃくもくせず、ひょうめんてきなまのはたらきに、げんわくされるのである。なんみょうほうれんげきょうは、ほんらい、いっさいしゅじょうが、こころのおうていにおいて、もとめているものであることを、かくしんして、たからかにだいもくを、となえぬいていこうではないか。

0743    だい16 どくじしきょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、ごしゅのしゅぎょうのどくじゅと、じゅじとのにぎょうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるはどくなり、このきょうをたもつは、じなり、しきょうとは、だいもくのごじなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ほうとうほんの、「このきょうをよみたもたんは」、とあるところで、おんぎくでんでは、つぎのようにおおせである。じゅじ、どく、じゅ、げだつ、しょしゃのごしゅの、しゅぎょうのなかの、どくじゅとじゅじとの、ふたつのしゅぎょうのことである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるのは、「どく」であり、このきょうを、じゅじしきっていくのは、「じ」になるのである。このきょうとは、だいもくのごじであり、なんみょうほうれんげきょう、じのいちねんさんぜんの、ごほんぞんのことである。

 ぶつどうしゅぎょうには、じゅじ、どく、じゅ、げせつ、しょしゃの、ごしゅのしゅぎょうがあるが、まっぽうにおいては、じゅじとどくじゅの、にぎょうのかんじんであって、ほかは、すべてこれに、ふくまれるのである。
 まず、われわれは、ごほんぞんを、おうけしたならば、なんみょうほうれんげきょうととなえる。ごほんぞんにむかって、となえればどくであり、ごほんぞんにむかわずして、となえるばあいはじゅである。このだいもくのくどくは、むりょうであり、ごんごにぜっするものである。
 たとえ、かりそめに、ままははがこどもをほめるように、こころならずも、いちかいとなえただいもくの、くどくさえ、はかりしれないほどおおきい。みょうらくは、「ほっしんしんじつならざるものも、しょうきょうにねんすればくどくなおおおし」ともといている。しかし、これは、ごほんぞんのちからの、いだいなることを、あらわしたものであって、われわれは、いっしょうじょうぶつするためには、しょうがいだいもくを、あげつづけねばならない。
 とうたいぎしょうには、「しょうじきにほうべんをすて、ただ、ほけきょうをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、うたうるひとは」、0512-10うんぬんと、じょうけんをおしめしになり、いか、ごほんぞんの、くどくがあげられている。
 また、ほうおんしょうには、「にほん、ないしかんど、げっし、いちえんぶだいにひとごとに、うちむちをきらはず、いちどうにたじをすてて、なんみょうほうれんげきょうととなうべし」0328-16とある。
 「たじをすてて」とあるとこに、こころをとどめるべきである。みょうもん、みょうりにとらわれず、ひたぶるに、だいもくをあげてこそ、ごほんいにかなうのである。
 かかるだいもくを、あげることは、ごほんぞんをじゅじすることと、ひょうりいったいである。「くうるは、やすく、たもつはかたし、さるあいだ、じょうぶつは、たもつにあり」1136-05と。ごほんぞんをじゅんしんにしんじまいらせ、だいもくをあげぬき、いかなるだいなんがあろうとも、ぜったいにごほんぞんをじゅじしきってこそ、じょうぶつできるのである。

0743    だい17 ぜしんぶっしのこと。


 おんぎくでんにいわく、ほけきょうのぎょうじゃは、しんにしゃかほうおうのみこなり、さるあいだ、おういをつぐべきなり、しっぜごしのこと、ぜしんぶっしのこと、よくよくこころえ、あわすべきなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しゃかほうおうのみこなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんの、「これしんのぶっし」とあるところの、おんぎくでんで、つぎのようにおおせである。ほけきょうのぎょうじゃは、しんに、しゃかほうおうのみこである。それゆえ、しゃかほうおうのおういをつぐことができるのである。ひゆほんの、しっぜごし、=ことごとくこれわがこなりのことは、ぜしんぶっしのこと、よくよくこころえるべきである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、しゃかほうおう、つまり、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしんにょらいの、みこである。



  • [239]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな ほっしほんじゅうろくかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月25日(日)02時35分38秒
 
0736~0739 ほっしほんじゅうろくかのだいじ。

0736    だいいち ほっしのこと。
0736    だいに じょうじゅだいがん、みんしゅじょうこ、しょうおあくせ、こうえんしきょうのこと。
0736    だいさん にょらいしょけん、ぎょうにょらいことのこと。
0736    だいよん よにょらいぐしゅくのこと。
0737    だいご ぜほけきょうぞうじんこゆおんむにんのうとうのこと。
0737    だいろく もんぽうしんじゅずいじゅんふぎゃくのこと。
0737    だいなな えざしつのこと
0737    だいはち よくしゃしょけだいおうとうちょうしきょうのこと。
0738    だいきゅう ふもんほけきょうこぶっちじんのんのこと。
0738    だいじゅっ にゃくせつしきょうじうにんあっくめかとうじょうがしゃくねんぶつこおうにんのこと。
0738    だい11じゅういち ぎっしょうしんしにょくようおほっしのこと。
0738    だい12じゅうに にゃくにんよくかあくとうじょうぎっがしゃくそくけんへんげにんいしさえごのこと。
0738    だい13じゅうさん にゃくしんごんほっしそくとくぼさつどうのこと。
0738    だい14じゅうし ずいじゅんぜしがくのこと。
0739    だい15じゅうご しとがくとのこと。
0739    だい16じゅうろく とくけんごうじゃぶつのこと。

0736    だいいち ほっしのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほうとはしょほうなり、しとはしょほうが、ただちにしとなるなり、しんらさんぜんのしょほうが、ただちにしとなり、でしとなるべきなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、ほっしのなかのだいほっしなり、しょほうじっそうの、かいかくあらわれてみれば、じごくのとうねんみょうか、ないし、ぶっかにいたるまで、ことごとくぐそくして、いちねんさんぜんのほっしなり、またいわく、ほうとはだいもく、しとはにちれんとうのたぐいなり。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんに、ほっしほんの、「ほっし」ということについて、つぎのようにのべられている。「ほう」とはしょほう あらゆるげんしょうをいうのである。「し」とはしょほうがただちにしとなる。すなわち、うちゅうのあらゆるげんしょうが、いちねんさんぜんのとうたい、つまり、ごほんぞんとあらわれて、それがただちに、しとなるのである。しんらさんぜんのしょほう、すなわちなんみょうほうれんげきょうが、ただちにししょうとなり、われわれは、そのでしとなり、じょうぶつできるのである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、ほっしのなかの、だいほっし、つまり、しどうしゃのなかの、だいしどうしゃである。また、あらゆる、げんしょうは、みょうほうれんげきょうのとうたいであるという、しょほうじっそうのりが、あらわれてみれば、じごくのとうねんみょうかから、ぶっかいにいたるまで、ことごとく、いちねんさんぜんの、ほうりということが、できるのである。また、ほっしの「ほう」とは、なんみょうほうれんげきょう、「し」とはにちれんだいしょうにんのことであり、にんぽういちかをあらわしているのである。

 にんぽういちかのもんであられる。しゃかぶっぽうは、にんぽうしょうれつ、ほうがまさりひとがおとる。にちれんだいしょうにんは、ぶっぽうは、にんぽういちかである。すなわち、ほうとは、なんみょうほうれんげきょうであり、にん、はにちれんだいしょうにんとなる。
 「ほうとは、しょほうなり、しとはしょほうがただちにしとなるなり」、のおんふみは、そうかんもんしょうの「しゃかにょらい、ごひゃくじんでんこうのとうしょ、ぼんぷにておわせしとき、わがみは、ちすいかふうくうなりと、しろしめして、そくざにさとりを、ひらきたまいき」(0568-13)うんぬんの、こころにつうずるところである。すなわち、ちすいかふうくうは、しょほうであり、なんみょうほうれんげきょうのことである。かいしごたまうほとけは、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしんにょらいであり、そく、にちれんだいしょうにんであられる。
 また、しらぎさんぜんのしょほうとは、かんげんすれば、うちゅうそれじたいなのである。そのこんぽんのほうをば、にちれんだいしょうにんは、いっぷくのまんだらとしてぐげんあそばされ、いっさいしゅじょうの「じょうぶつへのし」とされたのである。
 ごほんぞんをはいして、なんみょうほうれんげきょうをちゅうしんとした、じっかいさんぜんのおんふみは、いわゆるしょほうであり、ほうほんぞんである。「にちれん」とおしたためは、にんほんぞんをあらわされている。そのごほんぞんをししょうとしてごじし、おぶついをじっせんしていくものこそ、いっさいのしゃかいじじょうを、しょうけんすることができ、しゃかいのしんのしどうしゃといえるのである。それをおんふみに、「ほっしのなかのだいほっしなり」と、おおせである。すなわち「ほっし」とは、いっぱんてきにいえば、しどうしゃのことであり、だいほっしとは、けいざいのしどうしゃ、せいじ、かがくとうのしどうしゃなどを、さらにしどうしていくげんりと、ちからをゆうすることをいうのである。
 「しょほうじっそうの、かいかくあらわれてみれば、じごくのとうねんみょうか、ないし、ぶっかにいたるまで、ことごとくぐそくして、いちねんさんぜんのほっしなり」とは、なんみょうほうれんげきょうにてらしてみるならば、じごくかい、がきかい、ちくしょうかい、にんかい、てんかい、ないし、ぼさつかい、ぶっかいとう、それじたいが、うちゅうにじつざいせる、じったいであることが、あきらかである。
 ともに、われわれせいめいのじっそう、じったいのはんちゅうでもある。ここでだいじなことは、みょうほうがこんぽんでなければ、すなわち、ごほんぞんをちゅうしんとしなければ、くにそくばくされたせいめいかつどうを、くりかえすのみであり、ろくどうりんねのいきをでないのである。したがってここでは、われわれこ々このせいかつにおいても、しゃかいにおけるかつどうも、もしみょうほうをしどうりねんとするならば、じっかいのせいめいことごとく、こうふくへの、かちそうぞうをいとなむことが、できるのであるとのことばであられる。

0736    だいに じょうじゅだいがん みんしゅじょうこ しょうおあくせ こうえんしきょうのこと

 おんぎくでんにいわく、だいがんとはほっけぐつうなり、みんしゅじょうことはにほんこくの、いっさいしゅじょうなり、しょうおあくせのひととは、にちれんとうのたぐいなり、こうとはなんえんぶだいなり、しきょうとはだいもくなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほっしほんには、まっぽうにおいて、ほけきょうをひろめるひとは、じつはだいぼさつがねがって、あくせにうまれて、きたのであるとのべている。
 「このしょにんとうは、すでにかつて、じゅうまんおくのほとけをくようし、しょぶつのところにおいて、だいがんをじょうじゅして、しゅじょうをあわれむがゆえに、このにんげんに、しょうずるなり」、「このひとは、これだいぼさつの、あのくたらさんみゃくさんぼだいを、じょうじゅして、しゅじょうをあいみんし、ねがって、このあいだにうまれ、ひろくみょうほけきょうをべの、ふんべつするなり」、「このひとは、みずからしょうじょうのごうほうをすてて、わがめつどののちにおいて、しゅじょうをあわれむがこに、あくせにうまれて、ひろくこのきょうをのぶるなり」などのもんしょうがある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「だいがんをじょうじゅして」の「だいがん」とは、ほっけぐつうのことである。つまり、こうせんるふのことである。まっぽうしゅつげんのぢゆのぼさつは、すでに、たのせかいにおいて、こうせんるふをじょうじゅしてきたのである。
 「しゅじょうをあわれむがゆえに」の「しゅじょう」とは、にほんこくのいっさいしゅじょうのことである。そして、その「あくせにうまれて」の「ひろく」とはなんえんぶだい、いちえんぶだい、すなわち、せかいぜんたいにこうせんるふすることであり、「このきょう」とはだいもく、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょうのことである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうをとなえたてまつる、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかこそ、このほっしほんのもんしょうにあたるのである。

 このもんは、ぢゆのぼさつのしめい、もくてきをあかされている。「だいがんとはほっけぐつうなり」とは、ごほんぞんのこうせんるふである。すなわち、おのおの、ぢゆのぼさつとして、いっしょうじょうぶつ、すなわち、こうふくせいかつかくりつは、とうぜんのことであるが、さらにたたかいのこまをすすめて、ぶっぽうにみをささげる、このすがたこそ、しんのにちれんだいしょうにんのでしであり、さんぜじっぽうのほとけ、ぼさつよりだいしょうさんをうけるのである。
 「みんしゅじょうことは、にほんこくのいっさいしゅじょうなり」とは、べっしては、にちれんだいしょうにんが、にほんこくにごしゅつげんあそばされたがゆえに、とうぜん、にほんこくのひと々びとを、まず、おすくいくださるとの、だいじだいひとはいすることができるのである。そうじては、ぜんせかいのひと々びとが、「みんしゅじょうこ」のしゅじょうになることは、とうぜんのことである。
 げんじつに、インド、ちゅうごく、かんこくなど、かって、ぜんせいをほこったしゃかぶっぽうは、ほとんどしょうめつしてしまい、ぶっきょうはっしょうのちたる、インドにおいてすら、ヒンズーきょうとが、はちわりごぶをしめるありさまであって、ぶっきょうとは、ごくわずかしか、のこっていないのである。そのぶっきょうとも、しょうじょうきょうをやったり、ごんだいじょうきょうであったりして、ちしきじんから、まったくあいてにされない。
 ちゅうごくは、きょうさんけんであり、とうぜん、いきたぶっぽうが、そんざいするわけがない。おそらく、々ほそぼそとそんざいしているに、すぎないであろう。また、あったとしても、かせきのような、しゃくそん、てんだいぶっぽうのよじんである。
 にほんはどうかといえば、まったくどうようである。「ぶっぽう」なきにひとしい。しゅうきょうほうじんとなのつくものが、18じゅうはちまんもかぞえられるが、しゅうきょうのせいじゃ、ぜんあくはめいらんして、しゅうきょうはなんでもよいということになり、むしろ、じゃほう、じゃしゅうのために、しんのこうふくも、しんのへいわこっかも、けんせつできえないのである。それは、だいしょうにんございせも、こんにちもおなじであり、そのじゃほうにそまったひと々びとは、みんしゅじょうこのひと々びとにあたるのである。
 いちにちもはやく、だいしゃくぶくのしんぐんをし、はじゃけんしょうのつるぎをひっさげて、じゃしゅう、じゃぎをうちやぶり、ゆめにみる、ぶっこくどのけんせつを、じつげんしたいものである。そして、だいしょうにんのおんなげきを、およろこびに、かえていきたいものである。

0736    だいよん よにょらいぐしゅくのこと

おんぎくでんにいわく、ほっけのぎょうじゃは、だんじょともににょらいなり、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、よにょらいぐしゅくのものなり、ふだいしのしゃくにいわく、「ちょうちょう、ほとけとともにおき、せきせき、ほとけとともにふし、ときどきにじょうどうし、ときどきにけんぼんす」とうんぬん。

 まっぽうにほけきょうをぐつうするものについて、「このひとは、にょらいとともに、しゅくするなり」とある。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「ほけきょうのぎょうじゃ」すなわち、なんみょうほうれんげきょうをとなえ、しゃくぶくをぎょうずるものは、だんじょともに、にょらいである。それは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのせいかつをおくるからである。いま、なんみょうほうれんげきょうをとなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、「にょらいとともにしゅくする」ものである。みろくぼさつのこうしんであるといわれる、ふだいしは「まいあさ、ごほんぞんにおあいし、またまいばん、ごほんぞんとともにやすらかにねていく。まただいじなとき、だいじなもんだいについて、だいもくをとなえ、じかくにたって、こうどうすることである」とのべている。

 このもんは、だんじょどうけんのげんりを、とかれているもんである。とうようでは、とにかくじょせいのしゃかいてきちいがひくく、かんがえられているが、にちれんだいしょうにんのぶっぽうにおいては、じつにめいりょうに、だんじょのびょうどうをとかれているのである。しかも、700ねんまえにおいて。
 したがって、なんみょうほうれんげきょうをごじしただんじょは、ともに、さいこうのじんせいかんにたち、しゃかいかんをもって、こうふくなせいかつができるということである。これは、わががっかいのふじんぶ、じょしぶのかっぱつなかつどうが、じっしょうしている。これにたいし、たんなるほうりつじょうのだんじょどうけんは、かたちだけのものであって、ほんしつてきなどうけんとは、なりえないのである。
 「ふだいしのしゃくにいわく」とは、あさのごんぎょう、ゆうべのごんぎょう、せつなのだいもくとうは、われわれのじんせいこうろを、こんぽんてきにあやまちなく、もっとも、ゆういぎにせいかつできる、いんごうであることをといているのである。あたかも、ひ々びのごんぎょうは、そうもくのねに、まいにちみずをかけ、ひりょうをほどこしてねをはらせ、みき、くきをふとらせ、はなをさかせ、かをみのらせていくようなものである。
 もし、しん、ぎょうのないじんせいは、いくらえいよ、えいたつがあり、ゆうめい、にんきなどがあったとしても、はかない、ゆめのようなせいかつにおわってしまうのである。これにたいし、じみではあるが、まいにち、しんぎょうをつみかさねていくじんせいは、もっともとうとく、ただしく、そしてちゃくじつに、だいふくうんをつんでいくのである。ただ、わすれてはならぬことは、じぎょう、けたにわたるしんじんがなければ、りこしゅぎにおちいり、けんどんのつみを、まぬがれないということである。

0737    だいご ぜほけきょうぞう、じんごゆうおん、むにんのうとうのこと

 おんぎくでんにいわく、ぜほけきょうぞうとは、だいもくなり、じんごとはほんもんなり、ゆうおんとはしゃくもんなり、むにんのうとうとはほうぼうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、むにんのうとうのものに、あらざざるなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
「この、ほけきょうのぞうは、じんごゆうおんにして、ひとのよくいたるなし」とある。おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。「このほけきょうのぞう」とは、なんみょうほうれんげきょうのことである。じんことはほんもんのことであり、ゆうおんとはしゃくもんのことである。「むにんのうとう」とは、このじんのんな、ぶっぽうてつりをりかいできず、しんずることのできない、ほうぼうのもののことである。いまだいもくをとなえ、しんじんしゅぎょうにはげむにちれんだいしょうにん、ならびにそのもんかは、むにんのうとうのものではないのである。

 ここは、ほけきょうのせいめいてつがくの、じんのんなることを、しめされたもんである。よこには、くうけちゅうのさんたい、うちゅうぜんたいをとき、たてには、くおん、すなわちえいえんのせいめいを、ときあかしているがゆえに。
 そのせいめいてつがくこそ、ごじゅうのそうたい、さんじゅうひでん、しじゅうのこうはいとう、もんしょう、りしょう、げんしょうによって、どくぜんではなく、さいこうむにの、だいてつりであることは、けっじょうである。しょうじょうのてつりにしても、げどうよりみれば、いくえにもじんのんでることがうかがえる。いわんや、まっぽうのどいついっぽんもんのだいぶっぽうにおいてをやである。「むにんのうとう」とは、さんきょうのぼうじゃをいう。げんこんの、せんぱくなるてつがく、ひょうろんかのたぐいも、そのなかに、とうぜんはいる。ぶっぽうのおうていもきわめず、にんしきもせず、じつせんもせず、みだりに、イヌのとおぼえのごとくに、ひはんする、ぞうじょうまんのものこそ、みずから、ぼけつをほっているわけである。らんせい、らんごくには、あくにん、きょうゆうのみ、はばをきかすものである。
 いまのにほんこくに、しんじだいを、けんせつ、しどうしゆく、しんのしどうしゃ、がくしゃ、ひょうろんかのそんざいせぬことを、かなしむのは、わたしひとりではないとおもう。あたえていうならば、かならずや、あたらしきたかやま ちょぎゅうや、みやざわ けんじとうのようなふつほうがくしゃが、しゅつげんすることを、しんじてやまない。かいもくしょうには「ちしゃにわがぎやぶられずば、もちいじとなり、そのほかのだいなん、かぜのまえのちりなるべし、われ、にほんのはしらとならむ、われ、にほんのげんもくとならむ、われ、にほんのたいせんとならむとうとちかいしねがい、やぶるべからず。」(0232-04)と。しょせん、いかなるものが、いかに、ひそうてき、かんじょうてきに、そうかがっかいをひはんし、だんあつしようが、さんだいひほうのだいぶつほうを、やぶり、こわすことは、ぜったいにできないのである。
 きせいしゅうきょうは、きぎょうとなり、しのはかばんにすぎない。せいじゃのごとく、じんかくしゃのごとくみえるけれども、こころは、ちくしょうにもおとっている。しんこうしゅうきょうも、またおなじく、ほうをぬすみとり、ぜんぶきぎょうのためであり、たくみに、よわたりのみにしゅうしし、ひと々びとを、じごくにたたきこんでいるげんじょうである。そのしょうこには、かんこうちとか、あるいはてんねんきねんぶつのめいしょというようなところには、かならずといってよいほど、しんぶつをまつってあり、みるひとが、かえってきぶんをそこねている。なんのために、このようになっているのか、まったくはんだんにくるしむのである。したがって、しゅうきょうは、すでに、ちしきじんから、ぶべつされきっているのである。
 くにか、またはしどうしゃたちが、しゅうきょうのせいじゃを、しんけんにけんきゅうし、まどわぬようになるか、または、しゅうきょうはしゅうきょうのひろばにおいて、さかんにほうろん、ろんぎをさせ、しゅうきょうのせいじゃのしょうぶをば、さらに、さらに、すいしんさせゆくべきであろう。ぶっぽうをかいせぬ、ひょうろんかとうが、がっかいひはんをなすことは、まことにせいしんいじょうともいいたい。なぜならば、やおやが、かがくしゃをひはんし、こどもが、せきとりと、すもうをするとうなどうりと、かわらぬからである。

0737    だいろく もんぽうしんじゅ、ずいじゅんふぎゃくのこと。

おんぎくでんにいわく、もんとはみょうじそくなり、ほうとはだいもくなり、しんじゅとはじゅじなり、ずいじゅんふぎゃくとは、ほんしゃくにもんにずいじゅんするなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるもののことなり。

かいしゃくこうぎ。
「この、もろもろのけにん、ほうをきいてしんじゅし、ずいじゅんしてわじさから」についての、おんぎくでんである。
「もん」とは、みょうじそくのくらいである。「ほう」とは、なんみょうほうれんげきょうのことである。「しんじゅ」とは、ごほんぞんをじゅじすることである。「ずいじゅんふぎゃく」とは、ほんもんじゅりょうほんと、しゃくもんほうべんぽんにずいじゅんすることである。つまり、このりょうほんを、ごんぎょうにもちいていることを、いうのである。いま、この、「もんぽうしんじゅ、ずいじゅんふぎゃく」のものとは、なんみょうほうれんげきょうを、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかを、さすのである。

 じゅじそくかんじんを、あかしている。もんぽうのもんとは、ろくそくいのみょうじそくのことであり、たんにみみできくことではなく、みでほうをきくということであり、すなわち、さんだいひほうのごほんぞんをじゅじするならば、それがかんじん、しんじんというのである。ゆえに、しんじんを、まっとうするとは、「しきょうなんじ」の、ごきんげんのごよく、このごほんぞんをいっしょうがい、いかなるくなんにもくっせず、じゅじしとおすひとこそ、じょうぶつのきょうがいを、えとくできるのである。
 このごほんぞんを、こんぽんとして、だいもくをしょうぎょうとし、ほうべん、じゅりょうをじょぎょうとして、しょはしゃくもん、しょはしょゆうのうえから、ほんしゃくにもんに、ずいじゅんして、さからわないというのである。ゆえに、ほんもんじゅりょうほん、しゃくもんほうべんぽんを、よむのであるとの、おんふみとはいする。しょせん、だいしょうにんのもんかは、ただしくきょうもんどおりのじっせんを、しているとの、こころであるとおもう。

0737    だいなな えざしつのこと。

おんぎくでんにいわく、えざしつとは、ほっぽうおうのさんじんなり、くうけちゅうのさんたいしんくいのさんごうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、このさんきを、いちねんにじょうじゅするなり、ころもとはにゅうわにんにくのころも、とうじゃくにんにくかい、これなり、ざとはふしゃくしんみょうの、しゅぎょうなれば、くうざにこするなり、しつとは、じひにじゅうして、ひろむるゆえなり、ははのこをおもうがごとくなり、あに、いちねんにさんきをぐそくするにあらずや。

かいしゃくこうぎ。
 えざしつのさんきについては、ほっしほんにつぎのようにある。
 「やくおう、もしぜんなんじ、ぜんにょにんあって、にょらいのめつごに、ししゅうのために、ほけきょうをとかんほっせば、いかんがまさにとくべき、このぜんなんこ、ぜんにんは、にょらいのしつにはいり、にょらいのころもをき、にょらいのざにざして、しかして、ししゅうのためにひろく、このきょうをとくべし、にょらいのしつとは、いっさいしゅじょうのなかの、だいじひしん、これなり、にょらいのころもとは、にゅうわにんにくのこころ、これなり。にょらいのざとは、いっさいほっくう、これなり。このなかに、あんじゅうして、しかしてのちに、ふけたいのこころをもって、もろもろのぼさつ、および、ししゅうのために、ひろく、これのほけきょうをとくべし」と。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。えざしつのさんきとは、ほっぽうおうのさんじんである。くうけちゅうのさんたいであり、しんくいのさんごうである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、このえざしつの、さんきをみずからのいのちのなかに、じょうじゅするのである。「ころも」とは、だいなんをたえしのぶ、にゅうわにんにくのころもである。ゆうめいな、かんじほんだいじゅうさんのにじゅうぎょうのげのなかに「じょくこうあくせのなかには、おおくもろもろのくふあらん、あっきそのみにはいって、われをめりきにくせん、われら、ほとけをきょうしんして、まさににんにくのよろいをきるべし、このきょうを、とかんがためのゆえに、このもろもろのなんじを、しのばん、わが、しんみょうをあいせず、ただむじょうのどうをおしむ」とあるのが、これである。「ざ」とはふしゃくしんみょうのしゅぎょうであり、「くう」とは、なんみょうほうれんげきょうをとなえて、いちねんさんぜんのとうたいとしての、はたらきをいうのである。「しつ」とは、だいじひしんをもって、しゃくぶくするゆえである。ははがこのことを、しんぱいするようなきもちのことである。このように、みずからのいのちのなかに、えざしつのさんきを、そなえているではないか。

 まっぽうのさんきを、のべられている。さんきとは、すべてまっぽうの、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのおふるまいのことであり、はじめの、「にゅうわにんにくのころも」は、いっさいしゅじょうを、えいえんにおすくいくださるため、だいなんをしのばれ、さんだいひほうのごほんぞんを、ごこんりゅうたまわったことである。「くうきょにこする」とは、みょうもんみょうりに、いっさいかまわず、すべていちねんさんぜんのごとうたいとして、いっさいしゅじょうに、ぶっちをさずけんがための、おふるまいをいうのである。
 「しつとはじひにじゅうして、ひろむるゆえなり」ばっくよらくのぎであり、ほんげんてきに、しゅじょうのくをとりのぞかれ、こんぽんてきに、じょうらくがじょうのだいふくうんを、あたえたもうのである。それは、なんみょうほうれんげきょうの、ごとうたいとしての、しょさであられる。いま、わたしたちは、このごほんぶつのでしとして、だいしょうにんの、おふるまいの、まんぶんのいちでも、ちからをつくし、ごほうおんのまことを、じっせんかつどうのうえに、あらわさねばならぬとしんずる。

0737    だいはち よくしゃしょけだい、おうとうちょうしきょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、もろもろのけだいとは、よんじゅうよねんのほうべんのきょうきょうなり、ことごとくみな、けだいのきょうなり、しきょうとはだいもくなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、これすなわち、しょうじんなり、おうとうちょうしきょうはこれなり、まさに、にちれんにこのきょうをきくべしといえりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
「もろもろの、けだいをすてんとほっせば、なさに、このきょうをきくべし」とよむ。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「もろもろのけだい」とは、よんじゅうよねんのほうべんごんきょう、にぜんきょうのことで、これらはことごとく、けだいのきょうである。
 「しきょう」とは、だいもくのことである。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることは、けだいではなくして、しょうじんのことである。にちかんしょうにんは、「えぎはんもんしょう」のなかで、「しょうじんはすなわちこれしょうだいのぎょうなり、ゆえにしゃくにいわく、『むざつのゆえにしょう、むげんのゆえにしん』とうんぬん、しゅうそいわく、『もっぱらだいもくをもちて、よぶんをまじえず』うんぬん」ともうされている。
 すなわち、じゅんすいに、またかんだんなく、しょうだいにはげむゆえに、しょうじんぎょうにあたるのである。このようなすがたを、おうとうちょうしきょうというのである。このまさの「おう」といういみは、にちれんだいしょうにんにおうじて、すなわち、にちれんだいしょうにんにしたがって、なんみょうほうれんげきょうを、しんずべきであるといういみである。

 ぶっぽうてつり、しそうのこうていをのべられている。しゅうきょうやしそうの、ないよういかんによって、みんしゅうのこう、ふこうがけっていされてしまうからである。ひと々びとをだらくにみちびくしそうもある。また、みんしゅうをこうりゅうさせていくしそうもあれば、しゃかいをはかいしていくしそう、てつがくのないようこそ、こじんを、しゃかいをくるわし、もしくは、すくいもする、おおきなりきがあることは、われらは、めいきしなければならない。
 しゃくそんも、だいしょうにんも、ここでは、よんじゅうよねんのにぜんのきょう々きょうをさして、はっきりと、けだいのきょうであると、だんげんなされておられるのである。すなわち、けだいのきょうは、こじんをだらくさせ、ふこうにし、くにをほろぼすきょうである。とのけつろんである。このだいしょうにんのけいこくを、まじめにきくものは、だれであるか。
 にほんこくのげんざいのぶっきょうかい、ないし、とうなんアジアのしゅうきょうなど、こっか、しゃかいにおよぼすえいきょうをみるに、みな、このけだいのきょうのなかにはいることは、あきらかではないか。にほんにぜんこくてきそしきをもつぜんにちふつも、しんしゅうれんも、いずれもけだいのきょう々きょうを、ひょうぼうしているから、すでにしゅうきょうほんらいのしめいもすいこうできず、ましてや、しゃかいのかくめいなどは、おもいもよらぬことであろう。じつに、ひせいさんてきな、まったく、けだいのそんざいといわざるをえない。
 これにたいして、だいしょうにんは、なんみょうほうれんげきょうとしょうだいすることは、「しょうじん」であるとおおせである。すなわち、「しょう」とは「むざつ」、「しん」とは「むげん」とやくす。しょせん「しょう」とは、ごほんぞんであり、「しん」とは、かんだんないじっせんである。したがって、このみょうほうをこんぽんりねんとするならば、おのおのじたいけんしょうされて、しゃかいのはんえいのため、おおきくこうけんすることができるのである。みょうほうはそのげんせんであり、ちからとなることはろんをまたぬ。




0738    だいきゅう ふもんほけきょう こぶっちじんのんのこと。

おんぎくでんにいわく、ふもんとは、ほうぼうなり、じょうぶつのちをとおざかるべきなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものはぶっちかいごのものにして、じょうぶつのちかきゆえなり。

かいしゃくこうぎ。
「ほけきょうをきかずんば、ぶっちをさること、はなはだとおし」とよむ。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「ふもん」とは、ほけきょうすなわち、なんみょうほうれんげきょうのおしえをきかないがゆえにほうぼうである。それは、じょうぶつのきょうがいから、ひじょうにとおざかることになるのである。いまなんみょうほうれんげきょうを、となえるにちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、ぶっかいをゆげんし、げんじつせいかつのうえに、じょうぶつのしょうこをあらわすのである。

 「ぶっちかいごのものにして、じょうぶつちかきゆえなり」とは、なんみょうほうれんげきょうによらなければ、ぜったいにこうふくはかくりつできぬとのおんふみである。
 そうたいてきなこうふく、けんこう、ざいさん、めいよなどは、そのひとのふくうん、どりょく、ちえ、さいのうとうによって、たやすくえられるものである。しかるに、えいえんのせいめいをえとくし、えいえんにさかえゆくこんごうふえのぜったいてきこうふくは、ただ、みょうほうのごほんぞんをじゅじし、しんぎょうにはげむいがいには、ぜったいにえられない。
 いかなるゆうめいじん、せいこうしゃたりとも、おんぎくでんをそのままはいすれば、ぶっぽうにたいして「ふもん」であり、すなわち、ほうぼうとなる。したがって、そのふくうんはしだいにおとろえゆき、さいごはひげきにおわらざるをえないといえよう。このすがた、げんしょうは、わたしたちも、しばしばみせつけられているが、ぶっぽうのきびしさを、これによってあらためてしるのである。
 みょうほうのみは、せいかつほうのげんりであり、このむとこのまざるとにかかわらず、あらゆるひと々びとがぜったいひつようとするほうりなのである。きく、きかない、というそうたいてきなほうそくではけっしてない。みょうほうをじゅじせぬことは、じどうしゃにガソリンがないようなものであり、また、テレビやでんわがあっても、でんりゅうをひつようとしないとするかんがえににている。しゃくぶくをされても、ごほんぞんのはなしにみみをかさないようなひとは、せっかくのじんせいをかんきを、ついにしることなく、しょうがいをおえてしまうことは、まことにざんねんといういがいにない。

0738    だいじゅう にゃくせつしきょうじ、うにんあっくめかとうじょうがしゃく、ねんぶつこおうにんのこと。

 おんぎくでんにいわく、しきょうとはだいもくなり、あっくとはくごうなり、かとうじょうはしんごうなり、このしんくのにごうは、いごうよりおこるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、ぶつちょくをねんずるがゆえに、おうにんとはいうなり。

かいしゃくこうぎ。
「もしこのきょうをとかんとき、ひとあって、あっくしののしり、とうじょうがしゃくをくわうとも、ほとけをねんずるゆえにまさにしのぶべし」とよむ、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「このきょう」とはなんみょうほうれんげきょうのことである。また、あっくなどのなんを、しんくいのさんてんからみれば、「あっく」はくちのうごきであるからくごうである。「とうじょうがしゃくをくわう」ということはみのうごきであるから、しんごうである。
 そして、このしんくにごうのはくがいは、かれらのこころのはたらき、すなわちいごうからおきてくるのである。いまなんみょうほうれんげきょうをとなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、こうせんるふのぶつちょくをねんずるがゆえに、これらのなんをしのぶのである。

 だいさんるいのごうてきのもんである。だいしょうにんをはくがいした、へいのさえもんじょうのいちぞくのめつぼう、これはせんじしょうもんだんにしょうさいにのべられている。
 たいへいようせんそうのとき、そうかがっかいをだんあつしたかんけんが、おなじくげんぜんたるぶつばつをこうむったことも、とだぜんかいちょうのこうえんしゅうに、くわしくのべられている。なおこんにちおいても、がっかいひはんのれんちゅうのげんしょうは、おのおの、おそろしいほどみぢかにみるところである。
 これらのげんしょうはなぜか。これこそ、にちれんがいちもんのとうそうは、ぶつちょくをねんじてのとうそうであるからである。しこうして、さいおう、だいしょうにんのだいじだいひのおすがたをはいするならば「へいのさえもんこそだいばだった」とおおせあそばされ、じゅんずるものも、またぼうずるものも、ともに、おすくいくださるのである。
 したがって、このおんふみをはいし、しゃくぶくしてはんたいしたからといって、すぐかんじょうてきになってはならぬ。「おうにん」のにじを、よくよくこころにいれて、しゃくぶくをおこなうべきである
 われらは、ゆいいつ、むじょうのしょうほうをたもっているゆえに、たとえば、くにのほうりつでもつみあるひとをいましめ、つみするとどうように、ぶっぽうのせかいでも、ふついをほうずるわれわれをば、もしぼうじたり、ひはんしたりするならば、しょてんぜんじんが、これをきびしく、いましめていくことは、とうぜんのりであるとおもう。

0738    だい11 ぎゅうしょうしんじにょ、くようおほっしのこと。

おんぎくでんにいわく、じにょとはだんじょなり、ほっしとはにちれんとうのたぐいなり、しょうしんとはほけきょうにしんじんのものなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるもの、これなりうんぬん、これ、しょてんぜんじんとう、だんじょとあらわれて、ほけきょうのぎょうじゃを、くようすべしというきょうもんなり。

 ほっしほんには、しょてんぜんじんのはたらきについて、つぎのようなもんしょうがある「われ、けのししゅう、びくびくに、およびしょうしんにょをつかわして、ほっしをくようせしむ」うんぬんと。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「じにょ」とはだんじょということである。「ほっし」とは、ほけきょうのぎょうじゃである、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかのことである。「しょうしん」とは、ほけきょう=ごほんぞんをしんずるものについて、いうのである。いまなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんのでしだんなのしんじんは、しょうしんである。
 このもんしょうは、しょてんぜんじんが、しんじんごうじょうな、だんじょのすがたをとって、ほけきょうのぎょうじゃ、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかを、くようするというきょうもんである。

 ほけきょうのぎょうじゃは、かならず、さまざまなかたちで、まもられるというおんふみである。
 いっけんして、ふしぎにおもえるきょうもんであるが、せいめいろんよりふかくこうさつするならば、かんのうのげんりより、しょてんぜんじんのかごが、ぜったいにあるとかくしんするのである。
 にちれんだいしょうにんが、いずのいとうにるざいされたときには、ふなもりやさぶろうのふさいが、しんけんにおくようもうしあげ、だいしょうにんから「ことにごがつのころなれば、こめもとぼしかるらんに、にちれんをないないにて、はぐくみたまいしことは、にちれんがふぼのいずのいとう、かわなというところに、うまれかわりたまうか、ほけきょうだいしにいわく『ぎゅうしょうしんじにょくようおほっし』とうんぬん。ほけきょうをぎょうぜんものをば、しょてんぜんじん、あるいは、おとこになり、あるいはおんなとなり、かたちをかへさまざまに、くようして、たすくべしという、きょうもんなり、やさぶろうどのふうふのじにょとうまれて、にちれんほっしをくようすること、うたがいなし」(1445-08)とのおことばをたまわっている。また、さどごるざいのときのあぶつぼう、せんにちあまふさいのいのちをかけてのかつやくは、このきょうもんにふごうして、あわせたごとくではないか。
 また、げんざい、われわれも、しんこうのせいかつたいけんをとおして、だれひとも、しょてんのかごをみとめざるをえないのである。ぶっぽうはけっしてかんねんろんではない。げんじつろんであり、しょうこしゅぎである。したがって、ごほんぞんをじゅじするひとは、かならず、おやこ、きょうだい、ゆうじんなどから、またしょくばや、しゃかいとうにおいても、じじつ、さまざまなかたちをもって、まもられているのであり、よくくどくがないというひとも、しゅういをみつめたり、にゅうしんじにさかのぼってげんざいをかんがえてみたときに、いつのまにかだいくどくをうけているのに、きがつくのである。このだんは、そのげんりをとかれているとおもう。

0738    だい12 にゃくにんよっかあく、とうじょうきゅうがしゃく、そくけんへんげにん、いしさえごのこと。

 おんぎくでんにいわく、にんとは、たつのくちしゅごのはちまんだいぼさつなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものを、しゅごすべしというきょうもんなり。

 「もしりみだに、とうじょうおよびがしゃくを、くわえんとほっせば、すなわちへんげのひとをつかわして、これがために、えごをなさん」ということである。これも、しょてんぜんじんのはたらきをのべたものである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このへんげにんとは、たとえばたつのくちのくびのざのとき、はちまんだいぼさつが、しゅごのちからをはっきして、ひかりものがあらわれたことをさすのである。まっぽうにおいて、なんみょうほうれんげきょうをとなえる、にちれんだいしょうにんおよびそのでしだんなを、しょてんぜんじんがかならずしゅごするという、きょうもんなのである。

かいしゃくこうぎ。
 これも、しょてんぜんじんのはたらきのもんである。ぼんぷのそうぞうをぜっする、ごほんぶつへのはくがいや、これにまさずる、おふるまいについて、われらしんじゃとの、へだたりは、どうしようもない。しかして、このきょうもんのごとく、だいしょうにんにたいする、しょてんぜんじんのはたらきは、げんぜんとあらわれたのである。
 しょせん、このきょうのほうりは、われらしんじゃのたちばより、かんがえるならば、じこがかわれば、こくども、かんきょうも、しゅういのひと々びとも、みなかわるというじじつから、しさくし、えとくすべきであろう。
 これこそぶっぽうのしんずい、いちねんさんぜんのだいてつりであり、これをかくちせんがためのしんじんである。じこのせいめいかつどうが、だいうちゅうのせいめいかつどうにかんのうしていくかんけいであるがゆえに、いっさいを、じざいにうごかしえることは、まちがいないことといえるのである。

0738    だい13 にゃくしんごんほっし、そくとくぼさつどうのこと。

 おんぎくでんにいわく、しんごんとはしんじゅのいみょうなり、ほっしとはにちれんとうのたぐいなり、ぼさつとはぶっかをえるしたじなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるもののことなり。

かいしゃくこうぎ。
 「もし、ほっしにしんごんせば、すみやかに、ぼさつのどうをえ」の、もんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「しんごん」とは、しんじゅのべつめいである、「ほっし」とはにちれんだいしょうにんおよび、そのもんかのことである。ぼさつとは、ぶっかいにはいるしたじである。いま、ほっしである、にちれんだいしょうにんのおおしえをしんじゅし、なんみょうほうれんげきょうを、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんのでしだんなは、じょうぶつへの、じきどうであるぼさつのどうを、えたといえるのである。

ぼさつとはぶっかをえるしたじなり。
 ぼさつのぎょうをしなくては、ぶっかをうることができないのは、つうずのぶっぽうのていそくである。
 こんにちにおいては、われわれは、ぢゆのぼさつのこうどうをとり、じっせんかつどうをおこなっているのである。このぼさつどうをぎょうじて、はじめてほんかくのにょらいを、かくちすることができる。しょうがっこうでべんきょうせねば、ちゅうがっこうにしんきゅうできないとどうように、また、ちゅうがっこうやこうこうのしたじがなく、じつりょくがなければ、だいがくにははいれないのとどうように、ぶっかをめざしてすすむときは、げんざいのぼさつどうにしょうじんするのである。しかして、だいしょうにんのぶっぽうでは、このぼさつどうは、あくまでもげゆうのすがたであり、ないしょうのへんは、すでに、だいしょうにんのけんぞくなのである。

0738    だい14 ずいじゅんぜしがくのこと。

0739、おんぎくでんにいわく、ぜしとは、にちれんとうのたぐいなり、がくとはなんみょうほうれんげきょうなり、ずいじゅんとは、しんじゅなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「ぜし」とはにちれんだいしょうにんのことである。「がく」とは、なんみょうほうれんげきょうをまなぶのである。「ずいじゅん」するとは「しんじゅ」するということである。つまり、にちれんだいしょうにんを、ししょうとあおぎ、そのごきんげんをしんじゅし、にんぽういつかのごほんぞんにむかって、なんみょうほうれんげきょうととなえるということである。

 このもんは、じんせいにおける、こんぽんてきなしていろんをとかれている。「ぜし」とは、にちれんだいしょうにんであり、にんほんぞんとなる。「がく」とはみょうほうのことであり、ぽうほんぞんのことである。「ずいじゅん」とはしんじゅのぎであり、われらは、にちれんだいしょうにんを、「し」とさだめ、いっしょうがい、そのおしえをしんじゅし、なんみょうほうれんげきょうを、じっせんするのであり、すなわち、さんだいひほうのごほんぞんをしんじゅし、じっせんにはげむことである。ただし、あくしにずいじゅんしたときは、かならずふこうとこんらんをまねき、ぜんしにずいじゅんしてこそ、こうふくとはんえいがきょうじゅできるのである。
 げんざいのにほんにおいては、「し」にたいするかんねんが、ほとんどいしきされなくなった。これは、まことにふこうなことといわねばならない。せんご、とうとうとしてしんとうしたみんしゅしゅぎしそうを、そのしんのいぎをりかいせず、じしゅせいもかくりつしないままに、うけいれたゆえであるが、ただかこのそくばくから、とつぜんかいほうされたというだけであって、じんせいのこんぽんもんだいであるべきしていのみちを、まったくわすれてしまったかのようである。だが、このげんこんのじじつをもって、していのみちが、ふひつようであるとはいえない。いな、じんせいにおけるこうどうも、みんしゅうのしそうも、すべてしによってけっじょうされているのである。
 いちめんからいえば、みんしゅしゅぎそれじたいを、かくりつするためにも、そのだいちともいうべき、ほんげんてきな、いだいなる「ししょう」が、ぜったいにひつようなのである。しかして、しといっても、われらのじんせいにおいて、しょうがっこうのし、ちゅうがっこうのし、こうこうのし、だいがくのし、またきょうかしょとしてのし、あるいはじゅうどうのし、けんどうのし、かくスポーツのし、げいじゅつのし、いがくのし、かがくのし、けいざいがくのし、ぶんがくのし、てつがくのし、かくしょくばにおけるしとう々とう、まことにたしゅたようのしがある。 だが、これらのしは、すべて、こんぽんてきな「ししょう」とはいえないのである。なぜなら、かれらはしんにじんせいを、しどうしきれるものではないゆえである。しょせん、そのこんぽんてきなししょうこそ、さんぜにつうぎょうされた、まっぽうのごほんぶつたる、にちれんだいしょうにんであり、ほうにおいては、なんみょうほうれんげきょうとけっじょうすべきことを、しゅちょうしてやまない。
 もし、かりに、にちれんだいしょうにんいがいに、こんにちのしそうをよくしどうするものが、そんざいするとすれば、それは、だれびとであろうか。われらのしんしな、かがくてきけんきゅうによっても、そのだいてつりは、いまだみあたらない。また、そのしょうことしての、じじつもきかない。だが、にちれんだいしょうにんのだいてつがくをししんとして、じっせんするならば、すべてのひとのこうふくをかくりつできうることは、すでに、いくせんまんのがっかいいんのすがたが、これをよくしょうめいしているといえよう。これをしゃかいにあてはめたとき、せいじ、きょういく、かがくとうのいっさいのはんえいが、じつげんされることは、いうまでもない。
 いま、けつろんよりのべれば、まっぽういまどきは、ばんにんきょうつうのだいししょうである、さんだいひほうのごほんぞんを、しとするいがいに、じんせいのこんぽんてきな「し」は、そんざいしないのである。また、これをしんじゅするものこそ、しんじつの「していのみち」を、まっとうしたといえるのである。

0739    だい15 しとがくとのこと。

 おんぎくでんにいわく、にちれんとうのたぐいの、なんみょうほうれんげきょうはがくしゃのいちねんさんぜんなり、しもがくもともにほうかいさんぜんのしがくなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ぜんこうの、「だいじゅうしずいじゅんぜしがくのこと」に、かんれんしたないようである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。にちれんだいしょうにんならびにそのもんかのとなえる、なんみょうほうれんげきょうというのは、しんじつのぶっぽうをたんきゅうし、じっせんしていくものの、いちねんさんぜんのとうたいである。したがって、ししょうである、にちれんだいしょうにんも、また、そのししょうにちれんだいしょうにんのおしえ、なんみょうほうれんげきょうをしんじゅし、じっせんしていくもんかも、ともに、うちゅうしんらばんしょうの、いっさいのししょうであり、がくしゃとなるのである。しょせん、いちねんさんぜんをしったひとは、していふに、きょうちみょうごうのげんりによって、せかいさいこうのがくしゃである。あらゆるかいそう、あらゆるせかいにおいて、だいしどうしゃとしてくんりんすべきしかくがあるとのおんふみである。

 「しもがくもともに、ほうかいさんぜんのしがくなり」とは、していふにろん、きょうちみょうごうである。しとともに、またきゅうどうしゃのたちばとして、せいめいのほんしつをまなび、じっせんしていることをあかしている。
 これは、たきょうだんのきょうぎなどの、とおくおよばないとうてつしたろんりであり、またきせい、しんこうしゅうきょうのきょうそかんを、こんていよりくつがえしているてつりである。
 ししょうたるにちれんだいしょうにんのおせいめいも、ずいじゅんする、でしであるわれらぼんぷのせいめいも、ともにいちねんさんぜんのとうたいであるから、していふにである。しかるに、じゃしゅうきょうのきょうそとうは、じぶんのみがぶっきょうのしんずいをしり、しゅうきょうのおうぎをきわめたようなげんせつをはき、しかも、ていきゅうきわまるきょうぎを、なかなかりかいしがたいものであるといって、そのくせ、あたかもさとりをひらいた、せいじんのごとくにふるまうすがたは、まったく、しゃかいを、そしてみんしゅうをぎまんする、だいあくにんとだんぜざるをえない。
 われらは、あくまでも、いちねんさんぜんのてつりをまなび、また、みずからのせいめいがいちねんさんぜんのとうたいであることをかくしんして、ししょうとおなじく、でしもともに、さいこうしんじつのせいめいかんを、はあくせよというのが、にちれんだいせいてつのおおせである。このてつりは、げんこんの、みんしゅしゅぎしそうのこんていとなるものであり、みんしゅうひとりひとりのしゅたいせいと、じがのかくりつをかのうにするだいてつりであることをみのがしてはならない。こうかんでいわれる、ファッショとか、ぜんたいしゅぎ、こくすいしゅぎのごとき、かたにはまった、しゅうだんこうどうのきせいではだんじてない。そんなきゅうくつなものではけっしてない。このだいてつりを、まったくしらぬひと々びとのたわごとにすぎない。
 わががっかいこそ、こじんにただしきじんせいかんをかくりつせしめ、そして、こうふくなしゃかいけんせつのために、わごうそうというひとつのほうていしきより、くんれん、きょういくして、そのもくてきをたっせいせんとする、だんけつであることをめいきされたい。
 また、いっぱんしゃかいにおけるがくしゃには、きのうほうてきにけんきゅうするかがくしゃもおり、けいざいがくしゃがあり、ぶんがくしゃもいる。またてつがくしゃもいる。それらのがくしゃは、いまだ、うちゅうのほんげんたるいちねんさんぜんの、じょぶんのがくしゃにすぎないといえよう。これにたいし、みょうほうこそ、うちゅうのほんげんをといたがりょうてんせいのげんりであり、また、いっさいのかいそうのもとめんとする、しゅうきょくのだいてつりであって、あらゆるしゃかいのげんせんなのである。

0739    だい16 とくけんごうしゃぶつのこと。

おんぎくでんにいわく、けんごうしゃぶつとは、けんほうとうということなり、ごうしゃぶつとは、たほうのことなり、たほうのたとはほうかいなり、たからとはいちねんさんぜんのかいごなり、ほうかいをたほうぶつとみるを、けんごうしゃぶつというなり、ゆえに、ほっしほんのつぎに、ほうとうほんはくるなり、げぎょうしょうのほっしののりものは、ほうとうなりうんぬん、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、みょうげ、みょうぎょう、みょうしょうの、ふしぎのげ、ふしぎのぎょう、ふしぎのしょうとくなり、しんじついちねんさんぜんのかいごなりうんぬん、このごうしゃというは、あくをめっし、ぜんをしょうずるかわなり、ごうしゃぶつとは、いちいちもんもん、みな、こんじきのぶつたいなり、けんのじこれをおもうべし、ぶっけんということなり、ずいじゅんとは、ぶつちけんなり、とくけんのけんのじとけんほうとうのけんとは、えしょうのにほうなり、とくけんごうしゃのけんは、しょうほうなり、けんほうとうのけんはえほうなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここでも、まえのだいじゅうし、じゅうごにつづいて、「ごうしゃのほとけを、けんたてまつることをえん」というところの、おんぎくでんである。おんぎくでんには、「けんごうしゃぶつ」というのは、「けんほうとう」ということであるとおおせられている。
 「ごうしゃぶつ」とは、ガンジスかわのすなのように、おおいほとけであるから「たほう」のことになる。この「たほう」のたとは、おおいということであり、うちゅうぜんたいのしんらばんしょうことごとくをさし、それからじっかいさんぜんすべてが、なんみょうほうれんげきょうのとうたいであると、かいごすることを「たから」というのである。したがって、うちゅうのしんらばんしょうことごとく、「たほうぶつ」としんずることを、けんごうしゃぶつというのである。
 ゆえに、ほっしほんだいじゅうのつぎに、けんほうとうほんだいじゅういちが、とかれているのである。
 げぎょうしょうのほっし、つまり、さんだいひほうのぶっぽうをりかいし、そのおしえのとおりにじっせんし、そのぶっぽうのいだいなりきを、しょうとくしていくほっしののりもの、すなわち、「みょうほうぐつうのだいどうし」が、こんぽんとすべきは、ほうとうすなわちごほんぞんである。
 いま、にちれんだいしょうにんならびにそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるすがたは、みょうげ、みょうぎょう、みょうしょう、すなわち、ふかしぎのりかいと、ふかしぎのしゅぎょうと、ふかしぎのしょうとくが、できたすがたであり、しんじつのいちねんさんぜんを、かいごしたすがたである。
 このごうがというのは、あくすなわち、ほうぼうをめっし、ぜんをしょうずるかわである。すなわち、ごほんぞんをしんずれば、まよいをふくにてんじていくことが、できるのである。ごうしゃほとけとは、きょうもんいちじいちじが、みなりっぱなほとけのとうたいなのである。「とくけんごうしゃぶつ」の、「けん」のじについて、このことをよくよくかんがえるべきである。このけんは、ぶっけんということで、ごほんぞんをしんずるしんということである。
 ずいじゅんとは、ぶつちけんである。とくけんの「けん」のじと、けんほうとうの「けん」のじとは、えしょうのにほうになる。つまり、「とくけんごうしゃぶつ」のけん、すなわちごうぶつを、みようとするのはちになり、しょうほうとなる。そして「けんほうとう」のけん、すなわちしんじんするたいきょうが、ほうとうすなわちごほんぞんになるからえほうである。

 いちねんさんぜんを、かいごするもんである。
 「けんごうしゃぶつとは、けんほうとうということなり」のおんふみは、ほっしほんだいじゅうのもんのつぎに、けんほうとうほんだいじゅういちとなるだんかいを、すでにあかしている。ほっしほんのほっしとは、もんていよりはいせば、にちれんだいしょうにんのおんことであり、けんほうとうほんのほうとうとは、なんみょうほうれんげきょうのごほんぞんのことである。ともに、にんぽういっかのごほんぞんを、あらわされているのである。
 「たほう」の「た」ということは、ほうかい、すなわちうちゅうそれじたいである。「たから」とは、いちねんさんぜん、すなわち、なんみょうほうれんげきょうのことである。したがって、ぜんうちゅう、ほうかいのほんげんは、すべて、たほうぶつにあらざるものはなく、われらのせいかつにやくせば、しんらばんしょう、ことごとくむりょうのたからであり、くどくであり、じひであると、かいごすることが「けんごうしゃぶつ」というのである。
 「げぎょうしょうのほっしの、のりものはほうとうなり」とは、「わがみは、ちすいかふうくうなりと、しりしめして、そくざにさとりをひらきたまいき」(0568-13)のおんふみのとおり、いっさいをかいごしたもうかた、すなわち、にちれんだいしょうにんのしめされた、のりものは、ごほんぞんであるとのことばであられる。「みょうげ、みょうぎょう、みょうしょう」ということは、われらが、ごほんぞんをしんじ、だいもくをとなえ、しゃくぶくをぎょうじていくならば、かならず、しんのじんせいかん、うちゅうかんをかくりつして、さいこうのこうふくきょうがいを、うるとうことである。
 「みょうげ」とは、しんげである。みょうほうのじのいちねんさんぜんは、ごほんぞんをしんずることによってのみ、げりょうすることができる。
 すなわち、みょうほうのくどくを、ただちにみにかんずるのである。いしんとくにゅう、いしんだいえとは、このことでる。もしうたがいがあるときは、いっさいがとざされているように、いかなるおしえもこうぎも、みにつかないのである。また、そのせいかつはくうきょである。「みょうぎょう」とは、りゃくこうしゅぎょうではなく、じきたつしょうかんのなんみょうほうれんげきょうである。われらは、じぎょうけたのだいもくをとなえ、しゃくぶくしていくときに、げんせにおいて、ひ々びのしゅくめいだかいのうえに、いかなるふこうも、またしょうろうびょうしのじんせいも、わがしどあんのんのじんせいにかくめいできるのでる。「みょうしょう」とは、われわれがげんじつに、しょうじそくねはんのきょうがいをえて、ぶっしんとものしんのこうふくせいかつが、できるとのもんであり、これじんせいのくきょうのさとりである。
 またごうしゃについて、あくをめっし、ぜんをしょうずるかわといわれているが、これはごほんぞんのくりきを、といたもので、われらのあくごうをめっして、ぶっかいのせいめいを、ゆげんするように、あるのである。ずいじゅんとは、しんじゅといい、ぶつちけんといい、しょせん、しんじんのことであり、すなおなしんじんにより、はじめて、ほとけをちけんできるのである。じゅりょうほんの「いっしんよくけんぶつ、ふじしゃくしんみょう」が、さんだいひほうの、だいもくにあたるのぎと、おなじである。しかして、「とくけんのけんとは、えしょうのにほうなり」とは、とくけんごうしゃぶつのけんは、しょうほうであり、すなわち、われらがとうたいである。また「けんほうとう」のけんは、えほう、きゃくたいであり、すなわち、ごほんぞんのこととなるのである。

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  • 御義口伝講義録上 ひらがな ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ にんきほんにかのだいじ

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月23日(金)03時23分39秒
 
  にちれんだいしょうにんごしょこうぎ、  おんぎくでん。 ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ。

0734~0734 ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ。

0734    だいいち えりのこと。
0734    だいに すいしゅにがのこと。
0735    だいさん しんしんへんかんきのこと 。

 だいいち えりのこと。

 おんぎくでんにいわく、このほんには、むげのほうしゅを、えりにかくることをとくなり、しょせんにちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、いちじょうみょうほうの、ちほうをしんじゅするなり、しんじんをもって、えりにかくというなり。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 この、ごひゃくでしじゅきほんには、さけによって、ふしていえる、ゆうじんのころものうらに、むげのほうぎょく=むじょうのほうしゅを、かけたというはなしが、とかれている。われわれのせいめいじたいに、ぶっかいがあるということを、いみしている。
 またかんじんのほんぞんしょうに、「いちねんさんぜんを、しらざるものには、ほとけ、だいじひをおこし、ごじのうちにこのたまをつつみ、まつだいようちのくびに、かけさしめたまう」(0254-18)とあるように、もとめずしてむじょうのほうしゅである、ごほんぞんをいただくことが、できたことをいみしているとおもわれる。
 しょせん、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、われわれにちれんだいしょうにんのもんかこそ、いちじょうみょうほうの、ちほう、すなわち、ごほんぞんをしんじゅすることに、なるのである。
 しんじんがあることを、ころものうらにかけるというのである。

 ぶっかいしょぐのもんである。すなわち、むげのほうしゅとは、ぶっかい=みょうほうのことであり、えりとは、せいめいのおうてい、いちねんのことである。われわれは、ひとよりこうふくをもらうものではない。あくまでも、こうふくは、じぶんじしんがつくるものである。そのこんぽんが、しんじんである。
 そこで、こんどは、かんきょうをととのえてゆくところに、こじんのこうふくと、しゃかいのはんえいがいっちするのである。えしょうふにろんより、ろんずれば、えほうは、かんきょうであり、しょうほうはこじんとなる。すなわち、しょうほうのこんぽんのかいけつはぶっぽう、えほうのかいかくはおうほうとなるのである。

0734    だいに すいしゅにがのこと

おんぎくでんにいわく、さけとはむみょうなり、むみょうはほうぼうなり、がとはほうぼうのいえにるうまることなり、さんぜんじんでんのとうしょに、あくえんのさけをのみて、ごどうろくどうによいまわりて、いま、ほうぼうのいえにふしたり、よいとはふしんなり、かくとはしんなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるとき、むみょうのさけさめたり、またいわく、さけにじゅうじゅうこれあり、ごんきょうはさけ、ほけきょうはさめたり、ほんしゃくそうたいするとき、しゃくもんはさけなり、しかくのゆえなり、ほんもんはさめたり、ほんかくのゆえなり、また、ほんしゃくにもんはさけなり、なんみょうほうれんげきょうはさめたり、さけとむさるとはあいはなれざるなり、さけはむみょうなり、むさるはほっしょうなり、ほうはさけなり、みょうはさめたり、みょうほうととなうれば、むみょうほっしょう、たいいちなり、しのいちにいわく、むみょうじんろう、そくぜぼだいと。

かいしゃくこうぎ。
 「せそん、たとえばひとあり、しんゆうのいえにいたりて、さけにようてふせり、このときにしんゆう、かんじのまさにいくべきあって、むげのほうしゅをもって、そのえのりにかけ、これをあたえてさりぬ。そのひと、よいふして、すべてかくちせず…」のところの、おんぎくでんである。
 このさけとは、むみょう(まよい)であり、まよいのけっか、ほうぼうをしているじょうたいである。さけによって、ふしているとは、ほうぼうのいえにうまれることを、たとえているのである。
 しゃくもんのこころは、しゃかぶっぽうのしゅじょうは、さんぜんじんでんこうという、とおいむかしに、あくえんのさけ ふしん、ほうぼうのじんをおこして、そのけっか、じごくからにん、てんにわたる、ごどうろくどうのふこうなせいかつを、よいめぐってきて、いままた、じゃしゅう、ほうぼうのよいが、さめたといえるのである。
 いま、にちれんだいしょうにんもんかの、われわれが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときには、むみょう、ほうぼうのよいが、さめたといえるのである。
 さて、このよっている、さめているということも、なんだんかいもあるのである。
 ごんじつそうたいして、ごんきょうはさけで、ほけきょうはさめているじょうたいである。
 またほんしゃくそうたいして、しゃくもんはさけである、しょじょうしょうかく インドではじめてほとけになったと、といているからからである。ほんもんはさめている、くおんじつじょうの、ごひゃくじんでんこうの、じょうどうをといているからである。
 また、もんじょうのほんしゃくにもんはさけである。もんていの、なんみょうほうれんげきょうは、まったくさめているじょうたいである。
 さけによっていることと、さめていることとは、はなれたことではない。さけはむみょう、まよいであり、さめていることは、ほっしょう、さとりである。みょうほうの「ほう」はさけ、すなわちむみょうであり、「みょう」はさめていること、すなわちほっしょうである。なんみょうほうれんげきょうと、となえればむみょうとほっしょう、まよいとさとりは、そのたいがおなじであることをさとるのである。
 まかしかんのいちには、「むみょうじんろう、そくぜぼだい」といっている。むみょうとはがんぽんのむみょうわく、じんろうとは、とんじんちのさんどく、したがって、むみょうじんろうとは、ぼんのうのことであり、てんだいは、ぼんのうそくぼだいといっているのである。

さけとはむみょうなり、むみょうはほうぼうなり、がとはほうぼうのいえにうまるることなり。
 いちおうは、しゅくめいろんである。さいおうは、しゅくめいだかいろんにはいるわけである。
 「さんぜんじんでんのとうしょ」のだんは、あらあらえいえんのせいめいをとき、ふこうのこんぽんは、こんぜだけのものではない。あくまで、ぜんせ、かこせのこんげんがあることをあかしているもんとなる。せいめいは、えいえんである。このふこうのえんいんを、あかしているかしょとも、よめるわけである。
 だいしょうにんのぶっぽうは、いんがくじのいちりをとかれてる。すなわち、くおんがんじょのほんたいこそ、さんだいひほうの、ほんぞんであられる。したがって、わがみのいちねんのしゅんかんに、えいえんをはらみ、しゅんかんのれんぞくが、えいえんとなる。そのいちねんいっしゅんのとうたいこそ、げんりこそ、ほんにんみょうのだいぶっぽうなのである。
 さけとは、むみょうである。あくしそう、じゃしゅう、じゃぎとうをさすことはとうぜんである。
 また「ほんしゃくにもんは、さけなり、なんみょうほうれんげきょうは、さめたり」とは、しゅだつそうたいのところである。すなわち、まっぽうこんじにおいては、いっさいのかいけつは、にちれんだいしょうにんのぶっぽうによるいがい、ぜったいにありえないとの、ごせんげんである。

0735    だいさん しんしんへんかんきのこと

 おんぎくでんにいわく、しんとはしょうじそくねはんなり、こころとはぼんのうそくぼだいなり、へんとは、じっかいどうじなり、かんきとはほうかいどうじのかんきなり、このかんきのうちには、さんぜしょぶつのかんき、おさまるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつれば、われそくかんきとて、しゃくそん、かんきしたまうなり、かんきとは、ぜんあくともにかんきなり、じっかいどうじなり、ふかくこれをおもうべしうんぬん。

 ごひゃくでしじゅきほんのさいごに「われいま、ほとけにしたがって、じゅきそうごんのこと、および、てんじにじゅけつせんことを、ききたてまって、しんしんあまねくかんきす」とある。
 このもんについて、おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 しんがかんきするとは、しょうじそくねはんということである。こころがかんきするとは、ぼんのうそくぼだいということである。しんしんともに、きゅうかいそくぶっかいとひらくことをいうのである。また「へん」とは、じっかいどうじであることである。かんきは、わがしんしんだけが、かんきするのではなく、いちねんさんぜんのりほうによって、ほうかいのすべてが、どうじにかんきするのである。
 このかんきのなかには、さんぜしょぶつのかんきも、はいっているのである。けんほうとうほんだいじゅういちに、「このきょうは、たもちがたし、もししばらくも、たもつものは、われすなわちかんきす、しょぶつもまた、しかなり」とあるように、いま、にちれんだいしょうにんのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつれば、「われすなわちかんきす」とて、しゃくそん、すなわち、もんていのしゃくそんである、にちれんだいしょうにんは、ごかんきあそばされるのである。このかんきは、ぜんあくともに、つまりぶっかいも、きゅうかいもともにかんきするのである。じっかいがどうじにかんきし、じょうぶつしていくのである。このことをふかくしさくしてくべきである。

 「しんしんへんかんき」のしんしんは、しきしんふにのこころであり、へんとは、じっかいどうじのせいめいぜんたいに、かつどうがあることをいみする。じごくより、ぶっかいにいたるまで、しょううちゅうである。わがとうたいは、きょくぶだけのせいめいかつどうでなく、かならずぜんせいめいに、そのせいめいかつどうがなされるのが、じったいであり、じっそうなのである。のみならず、われらじしんのじっかいのせいめいかつどうが、そく、だいうちゅうであり、ほうかいにどうじにはんえいするとのことばを、そのふしぎを、よくよくしさくすべきであろう。
 「このかんきのうちには、さんぜしょぶつのかんき、、おさまるなり」のところでは、ついぜんくようのげんり、もふくまれている。また、じしんが、しんじんにより、こうふくかつどうのたいけんをえた、このじっしょうよりみて、せんぞのばっくよらくにつうじ、せんぞも、また、よろこんでいるとも、かんがえられるわけである。「われそくかんきとて、しゃくそんかんきしたまうなり」とは、われわれが、みょうほうをごじして、よろこんでしゃくぶくし、きょうがくにはげんでいけば、だいしょうにんがよろこばれる。もし、くるしんでいれば、だいしょうにんは、かなしまれるのである。しょせん、かんきのぜんしんをしきってゆくことが、しんじんのさいじといえる。きょうに「いちねんずいきのくどく」うんぬんとあるように、かんきのしんじんのあるところに、かならずくどくはわいてくるのである。
 がっかいうちでいえば、せいねんがせいちょうしてくれれば、おやもよろこぶであろうし、わたしもうれしい。せいねんがせいちょうしなければ、おやもかなしみ、わたしもくるしい。
 いま、かくせいとうでも、また、かいしゃでも、ろうどうくみあいでも、くにぜんたいがこのほうていしきをかんがえるべきである。みなが、こうふくになることをねがい、しどうしゃたちが、「ああほんとうによかった、よろこばしいことだ」ときょうおうより、いえるじだいが、こなくてはならない。
 ところが、はばつこうそう、けんりょくとうそうとう、ひとをおしのけ、おしたおし、じぶんだけよくなり、ひとをつきおとしても、かまわぬという、りこしゅぎが、じゅうまんするげんじつのせかいと、いわざるをえない。そのこんぽんかいけつこそ、すべてのひとが、ごほんぞんをじゅじすることに、つきるわけである。
 さいごに、「ぜんあくともに」は、いかなるきょうぐうたりとも、びょうにん、びんぼう、けんこう、ふしゃとう、ばんにんが、みょうほうじゅじのじんせいになれば、かならずじょうぶつできうるとの、おんふみである。
 ほんぬのみょうほうに、てらされてみれば、だいば、じゅうらせつにょも、みな、みょうほうのとうたいとなるわけである。しょせん、いかなるひとたりとも、しゅくめいてんかんをなし、ほんぬじょうじゅうに、こうふくなじんせいをいとなむことは、ひつじょうなりとのおんふみとかいする。

0735~0736 にんきほんにかのだいじ
0735    だいいち がくむがくのこと
0735    だいに さんかいえじざいつうおうぶつのこと

だいいち がくむがくのこと

 おんぎくでんにいわく、がくとはむちなり、むがくとはうちなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、がくむがくのひとに、にょがとうむいのきを、くさずるにあらずや、しきほうは、むがくなり、しんぼうはがくなり、また、しんぼうはむがくなり、しきほうはがくなり、がくむがくのひととはにほんこくの、いっさいしゅじょうなり、ちしゃぐしゃをしなべて、なんみょうほうれんげきょうのきをときて、にごうどくしするなり。

かいしゃくこうぎ。
 にんきほんにおいては、がくむがくの、しょうもんのでしにせんにんが、じょうぶつのきをうけるのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「がく」とは、これからべんきょうすべきむちのものをいい、「むがく」とはがくもんのしゅぎょうがしゅうりょうした、うちのものをいう。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえてしゃくぶくをぎょうずるのは、にほんこくのがくむがくのひとを「わがごとくひとしくして、ことなることなからしむる」すなわち、ぜんいんを、じょうぶつのこうふくきょうがいにみちびくこういではないか。しきほうはむがくであり、しんぼうはがくである。またしんぼうはむがくであり、しきほうはがくである。がくむがくのひととは、にほんこくのいっさいしゅじょうである。にほんこくのいっさいの、ちしゃぐしゃをひっくるめて、なんみょうほうれんげきょうの、きべつをといて、ごうしゃくするのである。

 「がく」とは、がくもんのみじゅくなひと。「むがく」とは、すでにがくもんにとうてつしたひと、いまのせけんでつかわれている、ことばとはんたいになる。ぶっぽうをしってくると、げんだいようごのなかに、いかにたすうのぶっぽうようごが、ながくひろくつかわれているかがうかがえる。その、げんだいにるふされているようごが、こんどは、ひじょうにきょっかいされて、きていることもじじつである。「がまんづよい」ということばは、ふつう、よいばあいにつかわれる。しかしぶっぽうのうえでは、がまんへんしゅうといって、よくないこととされている。
 さて「しきほうは、むがくなり、しんぼうはがくなり、また、しんぼうはむがくなり、しきほうはがくなり」うんぬんのかしょを、おうようしてかいしゃくしてかんがえてみたい。ゆいぶつろんは、しきほうはむがくとなり、しんぼうはがくとなる。ゆいしんろんでは、しんぼうはむがくであり、しきほうはがくといわざるをえなくなる。りょうしゃこそ、ていきゅうなてつりといわざるをえない。また、「しきほうはむがくなり」とは、にくたいはけんぜんである。しかし「しんぼうはがくなり」せいしんは、はくじゃくである。あたまはわるい。はんたいに「しんぼうはむがくなり」とは、ずのうはじつにめいせきである。しかし、「しきほうはがくなり」、しんたいはひじょうにわるい、きょじゃくである、…とう々とう、さまざまに、かいしゃくすることができる。しょせん、しきともに、「むがく」にとうたつすることが、しんじんしゅぎょうのもくてきとなる。
 げんだいごでいえば、かんぜんなるぼんぷ、にんげん、じんかくということであろう。「ちしゃぐしゃをしなべて、なんみょうほうれんげきょう」とは、いかなるちじん、だいがくしゃたりといえども、また、ぐしゃであっても、ぜったいのこうふくは、じょうぶつだけは、みょうほうによるいがいにだんじてないとの、ごしどうであられる。
 「にごうどくし」とは、しいてこれをどくすとよみ、ごうしゃくのことである。しょせん、ごほんぞんをじゅじせしむるほうほうは、しゃくぶくをもってするいがいに、みちはないとのおおせであられる。

0735    だいに さんかいさとしじざいつうおうぶつのこと
0736
 おんぎくでんにいわく、さんとは、ぼんのうそくぼだいなり、かいとはしょうじそくねはんなり、えとはわれらがはくところのごんごなり、じざいとはむしょうげなり、つうおうとは、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんなり、またいわく、さんとはしゃくもんのこころなり、かいとはほんもんのこころなり、えとはみょうほうのごじなり、いま、にちとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、さんかいえじざいつうおうぶつなり、まったくほかにあらざざるなり、われらぎょうじゃのほかに、あなんこれれなきなり、あなんとは、かんきなり、いちねんさんぜんのかいかくなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
にんきほんにおいて、しょうもんのでしのあなんが、さんかいえじざいつうおうにょらいの、きべつをうけている。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。その「さん」とは、ぼんのうそくぼだいをあらわし、「かい」とはしょうじそくねはんをあらわし、「え」とは、われわれがはくところの、ことばをあらわしている。「じざい」とは、むしょうげであることをいみし、「つうおう」とは、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんをいみしている。また「さん」とはしゃくもん、「かい」とはほんもん、「え」とはみょうほう、すなわちもんていどくいつほんもんを、いみしているのである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、さんかいえじざいつうおうぶつである。このほとけも、われわれのことを、さしているのであって、まったくべつのことではないのである。われわれ、ほけきょうのぎょうじゃいがいに、あなんはないのである。あなんとは、ぼんごでかんきといういみである。われわれが、いちねんさんぜんのとうたいである。ほとけであるとかいかくして、かんきすることをさすのである。

 にんげんはみな、じゆうじざいをほっし、むしょうげ、すなわち、くにしばられないせいかつを、ようきゅうしているのである。そのこんぽんせいかつほうが、みょうほうによるいがいに、けっしてないとのおんふみである。
 「あなんとはかんきなり」うんぬんのもんは、われらこしんのあなんであり、しんじんほど、さいこうのよろこびは、ぜったいにないとの、ごしどうである。これは、じじつ、われわれがたいとく、たいけんしているとおりである。しゃくそんざいせにおける、あなんは、じょうずいきゅうじ、たもんだいいちといわれ、かしょうにつづき、だいにのふほうぞうとされた。
 すなわち、しんじんしゅぎょうのかがみといわれ、そのいちねんは、えいえんのせいめいをさとるため、かんきにもえていちずにしゅぎょうしてきたことを、だいしょうにんが、おひきあそばされた、もんとはいする。

じざいとは、むしょうげなり。
 じざいとは、じゆうじざい、しゅじょうしょゆうらくといういみであり、むしょうげとは、ふこうなしゅくごうにしばられないことである。すなわち、ぜったいてきこうふくきょうがい、ぶっかいのゆげんのことである。われわれは、このじざい、むしょうげのえとく、かくりつをがんぼうし、どりょくしているといえる。
 しょせん、しんじんのもくてきも、じざい、むしょうげの、じんせいかくりつにつきるわけである。そのほうほうとはなにか。それは、さんだいひほうのほんぞんにだいもくをあげるいがいにない。じざいのきょうがいとは、とくべつなすがたになるのではけっしてない。もっともぼんじんらしく、にんげんらしく、そのままのすがたで、だいふくうんをつみ、よのどうりをわきまえ、しゅくめいてきな、さんあくどう、しあくしゅのちからに、ひきずりまわされないせいめいかつどうのことである。
 たとえば、いかりはしゅら、このいのちのつよいひとは、いかりにひきまわされ、とんだふこうをまねいてしまう。くるしみはじごく、このせいめいのつよいひとは、びょうきのくのう、しゃっきんとうのなやみがあり、このしゅくめいとたたかい、じざい、むしょうげのじんせいをきずきたいことは、とうぜんのりとなろう。いか、きゅうかいのせいめいかつどうも、これにじゅんじてかんがえていただきたい。


  • [237]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな けじょうゆほんななかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月18日(日)03時51分5秒
 
  0732~0734 けじょうゆほんななかのだいじ。

0732    だいいち けじょうのこと。
0732    だいに だいつうちしょうぶつのこと。
0733    だいさん しょもていきゅうのこと。
0733    だいよん ごそてんりんじょうおうのこと。
0733    だいご じゅうろくおうじのこと。
0734    だいろく そくめつけじょうのこと。
0734    だいなな かいぐしほうしょのこと。

0732~0734 けじょうゆほんななかのだいじ。

 おんぎくでんにいわく、けとはしきほうなり、じょうとはしんぼうなり、このしきしんのにほうを、むじょうととくはごんきょうのこころなり、ほけきょうのこころは、むじょうをじょうじゅうととくなり、けじょうそくほうしょなり、しょせん、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、しきしんみょうほうとひらくを、けじょうそくほうしょというなり。
 じっかい、みな、けじょう、じっかいおのおの、ほうしょなり、けじょうはきゅうかいなり、ほうしょはぶっかいなり、けじょうをさつて、ほうしょにいたるというは、ごひゃくゆじゅんのあいだなり、このごひゃくゆじゅんとは、けんじ、じんじゃ、むみょうなり、このぼんのうの、ごひゃくゆじゅんを、みょうほうのごじと、ひらくを、けじょうそくほうしょというなり。
 けじょうそくほうしょとは、そくのいちじは、なんみょうほうれんげきょうなり、ねんねんのけじょう、ねんねんのほうしょなり、われらがしきしんのにほうを、むじょうととくは、ごんきょうなり、じょうじゅうととくはほけきょうなり、むじょうとしゅうするしゅうじょうをめっするを、そくめつけじょうというなり。
 けじょうはひにく、ほうしょはこつなり、しきしんのにほうを、みょうほうとかいかくするを、けじょうそくほうしょのじったいというなり、じったいとは、むじょうじょうじゅう、くじそうそく、ずいえんふへん、いちねんじゃくしょうなり、いちねんとは、なんみょうほうれんげきょう、むぎわっしんのいちねんなり、そくのいちじ、こころをとどめてこれを、おもうべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。けじょうのけとは、しきほうであり、じょうとは、しんぼうである。このしきしんのにほうを、むじょうであるととくのは、にぜんごんきょうのこころである。ほけきょうのしんいは、このむじょうをじょうじゅうととく。「かり」のものである、けじょうが、じつは、そのままほうしょなりととくのが、もんていなのである。
 しょせん、いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、ごほんぞんに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつり、わがしきしんが、そく、みょうほうれんげきょうのとうたいとひらき、そくしんじょうぶつを、とげることを、けじょうそくほうしょというのである。じっかいはみな、けじょうであるが、しかも、そのじっかいのおのおのがほうしょである。けじょうとはきゅうかいであり、ほうしょはぶっかいである。
 けじょうをさって、ほうしょにいたるまで、ごひゃくゆじゅんのみちのりがあるというが、このごひゃくゆじゅんとは、けんじ、じんじゃ、むみょうのさんわくである。このさんわく、ぼんのうのごひゃくゆじゅんを、みょうほうのごじをかいかくするのを、けじょうそくほうしょというのである。けじょうそくほうしょのそくのいちじは、なんみょうほうれんげきょうである。われわれが、なんみょうほうれんげきょうととなえるときに、ねんねんのけじょう、きゅうかいのせいめいは、ねんねんのほうしょ、すなわち、ぶっかいのせいめいとなるのである。
 われわれのしきしんのにほう、せいめいを、むじょうととくのはごんきょうであり、じょうじゅうふめつととくのは、ほけきょうである。ごんきょうのむじょうのおしえに、しゅうするじょうねつをめっすることを、そくめつけじょうというのである。
 けじょうはかわやにくであり、ほうしょは、こつである。しきしんのにほうの、わがみ、そくみょうほうとかいかくすることを、けじょうそくほうしょのじったいというのである。
 じったいとは、むじょうにしてじょうじゅう、くじにしてそうそく、ずいえんであって、しかもふへんなるものであり、みょうほうにてらされた、いちねんのはたらき、せいめいじたいをいう。
 いちねんじゃくしょうのいちねんとは、なんみょうほうれんげきょうであり、みょうほうをしんじきった、「うたがいなきをしんとのたまう」のいちねんである。けじょうそくほうしょの、そくのいちじは、とくにこころをとどめて、これをおもうべきである。

 はちまんほうぞうは、ことごとく、せいめいのじったい、うちゅうのじっそうを、あかしといている。ここは、けじょうといい、ほうしょといい、すべて、われわれのしきしんなりとの、おんふみであられる。すなわち、けっしてかんねんろん、おとぎばなしのきょう々きょうでなく、「けじょうはひにく、ほうしょはこつなり」うんぬんというがごとくに、せいめいあるいは、せいかつをとかれているのである。
 だいしょうにんは、せいめいろんを、しきしんふにろんでとくばあい、さんじんじょうじゅうろんでとかれるばあい、えしょうふにろんでろんずるばあい、とう々とう、さま々ざまなかんてんからとかれている。
 しょせん、いっさいのきょう、げ、くは、ことごとく、なんみょうほうれんげきょうきょうにふくまれているのである。にちかんしょうにんは、「かんようとは、ゆいいつをあげて、いっさいをせっするぎなり」うんぬんと。しかして、ぶっぽうのしんずい、かんようは、ほんぞんであることは、とうぜんであり、あとは、われわれの、むぎわっしんのしんじんが、じょうぶつのきょうがいをえとくできえる、じきどうなりとのしどうである。

じっかいみなけじょう、じっかいおのおのほうしょなり、けじょうはきゅうかいなり、ほうしょはぶっかいなり。
 「じっかいみなけじょう」これはしんじんのないじんせい。じごくよりぶっかいにいたるまで、こっ々こくとへんかしゆくせいめいかつどうは、けじょうである。「じっかいおのおのほうしょなり」これは、じのうえである。みょうほうをごじし、しんじんしたばあいである。じごくより、ぶっかいにいたるまで、ほんぬのみょうほうにてらされた、せいめいかつどうである。
 けじょうは、きゅうかいであるとは、むみょうるてんのじんせいである。ほうしょとは、ぶっかいである。またほんぞんのことである。そして、にくだんのみょうほうをゆげんした、せいめいかつどうのことである。なお、しんじんのうむにかかわらず、りじょうには、すべてじっかいさんぜんのせいめいである。しかしながら、みょうほうじゅじのせいめいは、じっかいおのおのほうしょとなる。ほんぬじょうじゅう、じょうじゃっこうどがわかり、しんじんなくば、ろくどう、きゅうかいのむみょうによい、えいえんのこうふくきょうがいを、かくりつすることができえぬとの、てつりであるとはいしたい。
けじょうをさつて、ほうしょにいたるというは、ごひゃくゆじゅんのあいだなり、このごひゃくゆじゅんとは、けんじ、じんじゃ、むみょうなり、このぼんのうの、ごひゃくゆじゅんを、みょうほうのごじとひらくを、けじょうそくほうしょというなり、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのもんである。
 きょうもんのうえで、「けじょうをさってうんぬん」というひょうげんがあるが、だいしょうにんのかんじんのたちばから、この、ごひゃくゆじゅんということは、じつは、けんじわく、じんじゃわく、むみょうわくのことであるともうされているのである。
 けじょうをさることはできない。このみで、ほとけになるいがいにない。ぼんのうをさるとか、ぼんのうをだんずるというのは、にぜんのおしえであり、ぼんのうそくぼだいがだいしょうにんのてつがくである。

けじょうそくほうしょとは、そくのいちじは、なんみょうほうれんげきょうなり、ねんねんのけじょうねんねんのほうしょなり。
 けじょうも、われわれのせいめい、ほうしょもわれわれのせいめい、ほとけになるといっても、われわれのせいめいの、ぶっかいをゆげんすることにつきる。だんだんとしゅぎょうしてほとけになるのではない。けじょうそくほうしょ、きゅうかいそくぶっかいの、こんぽんとはなにかといえば、ごほんぞんにむかってしょうだいしゅぎょうし、なんみょうほうれんげきょうのとうたいを、じかくすることにある。
 「ねんねんのけじょう、ねんねんのほうしょなり」とは、われわれのいちねんのしょさは、むすうむりょうといえる。しかし、そこに、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、ぜんぶわがみ、すなわちほとけなり、とうたいなりと、かくしんしきることにつきる。それをせいかつのうえ、せいめいりょくのうえで、ゆげんするには、なんみょうほうれんげきょうを、となえるいがいにない。
 けじょうは、かんねんろんであり、ほうしょはせいかつである。けじょうはりで、ほうしょはじになる。べんきょうしているというのは、けじょうのねんねんであって、それをせいかつにぐげんしたばあいには、ほうしょのねんねんにかわるのである。

しきしんのにほうを、むじょうととく。
 「しきしんのにほう」とは、せいめいのぜんたいのこと。「むじょうをとく」は、こんぜろんであり、えいえん、ちょうおんでないといういみである。したがって、ごんきょうはげんせろんであり、ほけきょうはえいえんろんである。しょうじょうは、さんじんのうち、おうじんをちゅうじくとしてとかれ、ごんだいじょうは、ほうしんまたはほうしんとなる。じつだいじょうは、さんじんじょうじゅうをあかし、なかんずく、ほっちゅうろんさんで、じじゅゆうほうしんをこんぽんととかれている。また、しょうじょうは、しきしんの、しきのめん、めにみえる、せいめいじょうたいのほうをつよくとく、おうじんろんである。だいにちきょうは、ほうしんろんであり、はんにゃきょうは、ちえ、ほうしんのめんをといている。ほけきょうは、さんたいえんゆう、さんじんえいえんをあかし、かんぺきな、だいせいめいてつがくである。
 ゆいぶつろんは、しきろんである。そのほんしつは、しょうじょうてつりにちかいといえよう。ゆいしんろんは、しんろんのみであり、またしょうじょう、ごんだいじょうしそうに、そのないようは、にているとかんがえられるのである。

けじょうはひにく、ほうしょはほねなり。
 ほけきょうしゃくもんの、けいりたる「けじょう」と、「ほうしょ」をば、わがせいめいにあてはめてみてば、「けじょう」は、「ひにく」となり、「ほうしょ」はにくたいのこつずいと、よむことができる。すなわち、「ほうしょ」は、きょうがいろんでは、ぶっかいであるとどうじに、じんたいにやくせば、もっともちゅうかくたるほねとなる。とうぜん、せいめいは、ひにくこつどうしょうのものであるが、こつであって、ひにくがあると、だんかいをへて、かんがえることもどうりであろう。
 また、けじょうはきゅうかい、ほうしょはぶっかいであることを、いろ々いろのめんからろんじ、わからせようとされたとも、はいすることができる。しんじんして、にんげんかくめいをなし、びょうきとうがなおせるげんりも、すいさつできうることである。なお、だいうちゅうはすなわち、わがとうたいであるしょううちゅうと、ひとしいものであるから、だいもくのちからによって、かんせいされた、しきしんふにのせいめいを、じゅりつすることこそ、わがみの、こうせんるふともいえよう。
 こくどせけんに、あてはめてみれば、そのこくどはほうじょうとなり、みんしゅうが、ゆたかに、こうりゅうしゆくげんせんとなることは、まちがいないげんりといえよう。だいうちゅうと、ぜんじんるいがみょうほうのリズムにがっちした、せいかつ、かつどうをしてゆけば、しょせんは、ふくかぜえだをならさずのへいわきょう、りそうきょうがとうらいすることも、ひつぜんと、いいきれるのである。わがみも、こくども、うちゅうも、ほうていしきは、どういつほうほうとかんがえていけるのである。

むじょうじょうじゅう、くじそうそく。
 「むじょう」はへんか、「じょうじゅう」はえいえん、「むじょう」ははちしきよりごしき、「じょうじゅう」はくしき、「むじょう」はきゅうかい、「じょうじゅう」はぶっかいともいえる。
 このせいめいに、りょうしゃがげんそんする。しんじんのうむにかかわらず、むじょうじょうじゅう、くじそうそくされていることも、うたがいないじじつである。しかしながら、りのうえのろんじかた、ことのうえのろんじかたとにとおりになる。りのうえでは、せいめいはひとしく、りのいちねんさんぜんのとうたいとなる。
 だが、だいもくをとなえなければ、ぶっかいのゆげんは、ありえない。したがって、かんぜんなるいちねんさんぜんのせいめいかつどうとはなりえない。なお、われらのせいめいは、いちおうは、むじょうである。いっしゅん々々、へんかのれんぞくである。にさいのときと、はたちのときとは、しきほうのだいへんかがなされてきている。さらに、こうつうじこ、びょうまとう々とうのふしょうじも、せいかつのじょうじゅうをゆるさない。
 さいおう、にょじつちけんして、せいめいのほんしつをみれば、ほとけはじょうじゅう、えいえんをとく。じじつ、われらのせいめいそれじたいは、むしむしゅうであり、そのほんしつは、めっせず、しょうぜず、うちゅうとともにえいえんであるからである。そのりょうしゃのせいめいじょうたいをば「むじょうじょうじゅう」とかんがえられる。たとえば、だいちはじょうじゅう、そうもくはむじょう、そのかんけいをば、「くじそうそく」というのである。
 「じゃくしょう」とはしょうじょうでは「くうじゃく」また「じゃくめつ」といい、だいじょうきょうでは「じゃくしょう」となる。「くうじゃく」は、けしんめっちであり、「じゃくしょう」は、じょうらくがじょうとなる。
 こんぽんてきに、しゅぎょうかん、せいめいかんのそういがある。しょうじょうきょうでは、すべてを、ぎせいにして、さとりをえようとつとめる。りこしゅぎ、きわまりない。だいじょうきょうでは、じんせいをたのしみつつ、しゃかいにかちそうぞうしながら、さとりをえようとする。しゃくそんじしん「よんじゅうよねん、みけんしんじつ」と、しょうじょうきょうのしゅぎょうをうちやぶっている。
 あくまで、「くうじゃく」は、じしんのぼんのうをだんじてゆかねば、とうたつできぬしゅぎょうほうである。かいりつにしばられ、せいやくされながらの、じんせいであり、まことに、ざんこくといわざるをえない。それにたいし、まっぽうのほけきょうは、みょうほうにてらされ、きゅうかいにゆうげしていくじんせいである。じこを、さいこうどにはっきして、ぜったいのこうふくせいかつをなしつつ、しゃかいのはんえいにいそしむ、さいこうぜんのふるまいをいうのである。げんしゃかいにおいて、ていきゅうしそうにしゅうちゃくし、まんぞくしきっているひと、なお、りこしゅぎにてっし、ひとのこうふこうをかんがえぬひとたちこそ、しょうじょうてきなじんせいかんといわざるをえない。


0732    だいに だいつうちしょうぶつのこと

 おんぎくでんにいわく、だいつうはしんのうなり、ちしょうはしんずなり、だいつうはしゃくもん、ちしょうはほんもんなり、だいつうちしょうは、われらがいっしんなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、だいつうなり、だいもくをとなうるはちしょうなり、ほけきょうのぎょうじゃのちは、ごんしゅうのだいちよりもひゃくせんまんばい、すぐれたるところを、ちしょうとこころうべきなり、だいは、しきほう、つうはしんぼうなり、われらがしょうじを、だいつうというなり、このしょうじの、しんしんにふるまう、きねんをちしょうとはいうなり、ここをもってこれをおもうに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるぎょうじゃは、だいつうちしょうぶつなり、じゅうろくおうじとはわれらがしんずなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、さんぜんじんでんこうのむかしに、だいつうちしょうぶつというほとけがおり、そのほとけはしゅっけするまえは、おうさまであって、16にんのおうじがあった。そしてその16おうじは、みな、だいつうちしょうぶつから、ほけきょうのせっぽうをうけたことについての、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいつうちしょうぶつの、だいつうとはしんのうであり、ちしょうとはしんつうである。しんのうはせいめいのこんぽん、しんずはせいめいのはたらきのことである。したがって、だいつうはしゃくもん、ちしょうはほんもんである。だいつうちしょうとは、われらがいっしんのことである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、だいつうであり、そのだいもくをとなえることは、ちしょうとなるのである。
 ほけきょうのぎょうじゃ、べっしてはにちれんだいしょうにん、そうじては、ごほんぞんにだいもくをとなえるわれら、のちは、ごんきょうをきわめた、こうそう、いっさいのじゃしゅうのきょうそ、またいっさいのがくしゃよりも、ひゃくせんまんばいもすぐれている。これをちしょうとこころうべきである。
 だいはしきほう、つうはしんぼうである。われ々われのせいめいをだいつうというのである。このせいめいのしんしん、しきしんのにほうに、ふるまうきねんをちしょうというのである。
 いじょうのことからけつろんするに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、ぎょうじゃは、だいつうちしょうぶつであり、16おうじとは、われわれがだいもくをとなえたてまつって、でてくるところの、はたらきをいみするのである。
 ほけきょうもんじょうの、ほとけ、ぼさつが、みな、じつざいであったということは、しんずるいがいにない。しかしだいしょうにんは、このもんじょうのきょうりをば、げんじつに、じっさいてきに、わがみに、わがせいかつに、おときくださっているのである。しゃりほつをば、くうけちゅうのさんたいにやくし、いおんのうぶつをば、しきしんふににやくするごとくに、いま、ごほんぞんにだいもくをとなうれば、けじょうゆほんのだいつうちしょうぶつも、また、わがみのふるまいとひとしいというのである。
 16おうじといっても、また、みょうほうをとなう、わがいちねんいっしんのはたらきをさすのだとおときである。
 だいしょうにんのぶっぽうは、けっして、かんねんろんではない。げんじつろんであり、すうこうなるせいめいろんのおうぎのあらわれである。
 しんのうのしんずについては、しんのうは、がんぽん、せいめいかつどうのほんげんであり、しんずは、いちねんのしょさ、かつどうのことである。なお、ほんしゃくよりろんずれば、しんのうは、せいめいのこんぽん、ふへんしんにょ、しゃくもんである。しんずは、げんじつにぐげんされた、せいしんのかつどうじょうたいであり、ずいえんしんにょ、ほんもんである。かなしみ、くるしみ、よろこびとう々とうのしんりじょうたいは、しんずである。したがって、しんずがじであり、ほんもんとなる。しんのうは、りでありしゃくもんとなる。
 わたしたちのいちねんは、とうぜんこっ々こくとへんかする、ないめんより、かつは、がいぶのえんによって、あるときは、ひとをすくおう、あるときは、たいてんしようか、また、あそびたい、まなびたい、かたりたい、とう々とうと。
これがしんじつのせいしんかつどうであり、じであり、ほんもんなのである。しょせん、だいもくをあげて、みょうほうのとうたいの、かくしんあるせいめいかつどうが、こうふくかくりつのしんのう、しんずとなっているわけである。

0733    だいさん しょもたいきゅうのこと

 おんぎくでんにいわく、しょもとは、もろもろはじゅうろくひとのははということなり、じつぎにはははとは、がんぽんのむみょうなり、このむみょうよりおこる、わくしょうをしょもともいうなり、るてんのときは、むみょうのははとつれていで、げんめつのときは、むみょうのははをころすなり、むみょうのははとは、ねんぶつ、ぜん、しんごんとうのひとびとなり、にずいそうしとは、ぼうにんをさすなり、しかりといえども、ついにほけきょうのこうせんるふ、あらわれて、てんかいちどうにほけきょうのぎょうじゃとなるべきなり、「ずいしどうじょう、げんよくしんごん」これなり。

 「そのほとけ、いまだしゅっけしたまわざりしときに、じゅうろくのこあり。そのだいいちのなをば、ちしゃくとのたまう。しょし、おのおの、しゅじゅのちんい、がんこうのぐ、あり、ちち、あのくたらさんみゃくさんぼだいを、じょうずることをえたもうときいて、みな、しょちんをすてて、ぶつしょにおうげいす。しょもたいきゅうして、したがいてこれをおくる。そのそ、てんりんじょうおう、いっぴゃくのだいじん、およびあまりの、ひゃくせんまんおくのじんみんと、みなともにいにょうして、したがいてどうじょうにいたり、ことごとく、だいつうちしょうにょらいに、しんごんして、くようきょうけい、そんちょう、さんたんしたてまつらんとほっす」の、ところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しょもとは、じゅうろくにんのははのことである。ほんとうのいみは、ははとはがんぽんのむみょう こんぽんのまよいである。このむみょうからおこるわくしょう、けんじわく、じんじゃわく、むみょうわくのさんわくと、ぼんのうしょう、ごうしょう、ほうしょうのさんしょうなどを、しょもというのである。
 るてん、すなわちきゅうかいのときは、このむみょうというははと、つれだっているのであり、げんめつ、すなわちぶっかいのときは、むみょうのはは まよいをたつのである。
 また、このむみょうのははとは、ねんぶつ、ぜん、しんごんとうのひと々びとである。じゃしゅうをしんずるひと々びとである。「しょも、たいきゅうして、したがいてこれをおくる」というのは、ほうぼうのひと々びとをいうのである。ぶつどうしゅぎょうにはげむひとを、ひきとめようとするすがたである。
 しかしながら、ついには、けぎのこうせんるふがじつげんして、てんかいちどうに、ごほんぞんをしんじ、だいもくをとなえるようになるのである。
 「したがいて、どうじょうにいたり、かえって、だいつうちしょうにょらいにしんごんして」とあるように、みんな、ごほんぞんに、おあいすることができるのである。


 じんるい、いくせんまんねんのれきしは、「く」のいちじを、のぞくことができえなかった。だいしょうにんはく、ふこうのこんぽんは、じゃしゅうじゃぎにあると、だんげんなされた。じじつ、われわれのたいけんじょう、めいかくにじっしょうすることができなかった。じゃしゅう、じゃぎをうちやぶっていくたたかいこそ、だいしょうにんもんかのしんのしめいといわなくてはならない。
 ぶっぽうでは、くをばひらいて、しくはっくととく。そのふこうをうけるこんぽんは、むちよりしょうずるとおもう。むちなるがゆえに、しゅうきょうのせいじゃをわきまえることができず、だまされて、くをかいけつすることができない。せけんいっぱんのことには、うちのひとはたすういる。しかしながら、こんぽんのせいめいというもんだいになると、うちのひとはまったくすくないものである。
 なお、せいめいには、むみょうとほうしょうがほんぬであり、むみょうは、ふこう、くをよび、ほうしょうは、さちをよぶ。
 いま、じゅうにんのははとは、がんぽんのむみょうをさす。このむみょうをたつ。すなわち、みょうぶくさせるところに、こじんとせかいのこうふく、へいわがじゅりつできるとのおだんげんとはいすべきである。
 ほけきょうとは、まっぽうのごじしちじのほけきょう、てんかいちどうとは、べっしてにほんこくいちどう、そうじて、ぜんせかい、ぜんじんるいのことである。ぎょうじゃとは、みょうほうをごじし、だいしょうにんのごきんげんどおりじっせんするひとである。しょせん、にほんこくちゅうのひとが、ひろくは、ぜんせかいのひと々びとが、みな、ごほんぞんをもつとのだいかくしんであられる。

むみょうのははをころすなり。
 ははをころす、ちちをころすということは、すでにじょぼんでのべたように、けっしていのちをたつといういみではない。あくまで、じゃしゅう、じゃぎを、はすとよむのである。また、ぼんのうそくぼだいとひらくことを、「むみょうのははをころす」ともうされているのである。
 ある、おろかながっかいひはんしゃが、このいみがわからず、きりもんして「がっかいはケシカラン、ちちをころせ、ははをころせとおしえている。おやをころせばくどくがあるとおしえている」とかってにかいしゃくして、きょうじんのごとく、ひはんしてぼうげんをはいていた。
 かいもくしょうには「しゅじょうのそんけいすべきもの」(0168-01)として、「しゅししん」をあげられ、ほうおんしょうには「ぶっきょうをならはんものふぼ、ししょう、こくおんをわするべしや」(0293-03)ともうされ、また、しおんしょうでも、ふぼのおんをほうぜんみちをとかれているのを、よくよくはいすべきである。
 おんぎくでんじょぼんしちかのだいじにも「なんみょうほうれんげきょうのけんをとつてとんあいむみょうのふぼをがいしてきょうしゅしゃくそんのごとくぶっしんをかんとくするなり」(0711-01)とある。いのちをたつとは、すべて、じゃしゅうじゃぎのふこうのこんぽんをば、みょうほうのりけんをもってたちきるのである。そしてぼんのうそくぼだいをえるのである。
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0733    だいよん ごそてんりんじょうおうのこと

 おんぎくでんにいわく、ほんちしんのほとけとは、このもんをならうなり、そとは、ほうかいのいみょうなりこれはほうべんぽんのそうしょうたいの、さんにょぜをそというなり、このさんにょぜよりほかに、てんりんじょうおうこれきなりなてんりんとは、しょうじゅういめつなり、じょうおうとはしんぼうなり、このさんにょぜは、さんぜのしょぶつのふぼなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、さんぜのしょぶつのふぼにして、ごそ、てんりんじょうおうなり、きんぎんどうてつとは、こがねはしょう、しろがねははっこつにして、しなり、あかがねはろうのそう、くろがねはやまいなり、これすなわちかいじごにゅうの、しぶつちけんなり、さんぜじょうごうに、しょうじ、しょうじとめぐるを、てんりんじょうおうというなり、この、てんりんじょうおう、しゅつげんのときのりんぽうとは、われらがはくところのごんごおんじょうなり、このおんじょうのりんぽうとは、なんみょうほうれんげきょうなり、ここをもってびょうどうだいえとはいうなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、だいさん、しょもたいきゅうのことの、つうげでいんようした、けじょうゆほんのもんのなかに、「そてんりんじょうおう」とあるところの、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほんちしんのほとけとは、このもんからでているのである。
 そとは、ほうかいのいみょうであり、ほうべんぽんのそうしょうたいのさんにょぜを、そというのである。さんにょぜはさんたいであり、さんしんであり、せんずるところの、ごほんぞんであり、にちれんだいしょうにんのおんことである。このさんにょぜいがいに、てんりんじょうおうはないのである。てんりんとは、しょう、じゅう、い、めつという、へんかのすがたをいうのである。
 じょうおうとは、そのこんぽんのせいめいを、いうのである。このさんにょぜ、ごほんぞんこそ、いっさいのさんぜのしょぶつのふぼ、すなわち、さんぜのしょぶつを、たんじょうさせるこんぽんなのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのは、さんぜのしょぶつのふぼであり、ごそ、てんりんじょうおうにあたるのである。べっしては、にちれんだいしょうにんおいちにんが、さんぜのしょぶつのふぼである。
 てんりんじょうおうは、こんりん、ぎんりん、どうりん、てつりんとわかれているが、こかねはしょう、ぎんははっこつ すなわちし、どうはろうのそう、くろがねはやまいのそうを、いみしているのである。きんぎんどうてつで、しょうろうびょうしを、いみしているのである。これはすなわち、かいじごにゅうのしぶつちけん、かいぶつちけん、しぶつちけん、ごぶつちけん、にゅうぶつちけんになるのである。
 さんぜじょうごう、えいえんのせいめいのなかで、しょうじ、しょうじとめぐりゆくのを、てんりんじょうおうというのである。
 このてんりんじょうおうは、りんぽうといって、どんなものでもうちやぶれる、ほうきをもっているといわれるが、これは、われらがはくところの、ごんごおんじょうである。このおんじょうのりんぽうとは、なにかといえば、なんみょうほうれんげきょうのことである。
 このなんみょうほうれんげきょうこそ、しんじつのびょうどうだいえとなるのである。

 てんりんじょうおうとは、つうずに、しゅみせん、ししゅうのとうちのおうといわれる。りんおうは、かならずりんぽうをもって、さんがもへいたんにし、いっさいのものを、かんぷくせしめるといわれている。そのりんぽうのひんしつによって、こんりん、ぎんりん、どうりん、てつりんおうのしおうにわかれる。りんおうのしゅるいによって、りょうどもだいしょうとなる。また、りんおうは、さんじゅうにそうをそなえ、じんるいのじゅみょうが、はちまんさいいかに、さがったじだいには、もうしゅつげんしないといわれている。
 だいしょうにんは、こんりんおう、ないし、てつりんおうをば、われわれの、しょうろうびょうしにおときくださっている。われらだいもくをとなえるものこそ、りんたからをじせるしゃなりと、けっじょうされておられる。ひとりのこらず、にんげんかくめいし、じょうぶのふるまいが、できうるものとのことばであられる。
 しょうじゅういめつについては、むりょうぎきょうの、せっぽうほんには「ほうのそう、これのごとくして、これのごとき、ほうをしょうず、これのごとき、ほうをじゅうす、これのごとき、ほうをいす、これのごとき、ほうをめっす」と、ほうのそうというものの、しょうじゅういめつをといている。このもんちゅう、ほうとは、げんしょうのことをいうのである。すなわち、しんらばんしょうのげんしょうなのである。
 「しょうじゅういめつ」と、「しょうろうびょうし」、「じょうじゅうえくう」とのかんけいについていえば、さんしゃとも、しょせん、おなじいみである。「しょうじゅういめつ」は、しゅかくてきに、しんらばんしょうを、みつめているすがたともいえよう。「しょうろうびょうし」は、とくに、われらしゅじょう、うじょうにあてはめてかんがえられる。「じょうじゅうえくう」は、うちゅうかん、および、ひじょうせけんにも、あてはめていけるほうていしきであろう。ちょうど、くうけちゅうのさんたいと、ほっぽうおうのさんじんのかんけいのごとく、イコールのかんけいである。
 このてつりは、ばんにんきょうつうのだいほうそくである。ほうは、みょうほう、ごんきょう、ゆいしんろん、ヒンズーきょう、じゅきょうとう、かぞえきれない。しかしながら、しんじつのほうそく、げんしょうのほんげんは、なんみょうほうれんげきょうなのである。ゆえに、そのぐげんされたじっそうが、いちねんさんぜんのまんだらとなるのである。
 「しょうじゅういめつ」をわけてろんづれば、「ほうをしょうず」みょうほうより、うちゅうげんしょうをしょうずる。また、さんぜじっぽうの、いっさいのみじんのきょう々きょうをしょうずる。
 「ほうをじゅうす」、さんぜんのうちゅうげんしょう、せいめいげんしょうを、いっぷくのほんぞんにじゅうしている。
 「ほうをことにす」、みょうほうとごんきょう、げどうとほうは、みずからことにしている。また、きゅうかいとはとうぜんことなる。じねんげんしょうからみても、ふうう、あらし、ゆきとう、ぜんぶことにするすがたをしめしている。
 「ほうをめっす」、ちからあるほう、しんりのほう、すなわち、こんぽんほう、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとして、じゃほう、じゃぎ、ふこうをまねく、きょうほうをめっせねばならない。ぜったいみょうのうえから、あくまでもみょうほうをこんぽんとすべきであるとの、ごきんげんである。
 こくほうにやくせば、けんぽうはみょうほうである。たほうはごんきょうであろう。けんぽうがこつずいになって、そのたのほうりつが、ひらかれていかなければならない。
 このなかにしょうじゅういめつのことなりということがあるが、これはへんかとかんがえてよい。きにはながさいたり、はがおちゆくのもことなりであり、こんにち、こうがんのびしょうねんであったひとが、やがてしらがのろうじんになり、シワでだらけのかおになるのもことなりである。
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0733    だいご じゅうろくおうじのこと

 おんぎくでんにいわく、じゅうとはじっかいなり、ろくとはろっこんなり、おうとはしんのうなり、ことはしんずなりこれすなわち、じっそうのいちりのだいつうのこなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、じゅうろくおうじなり、はっぽうさぶつとは、われらがはっくの、ぼんのうそくぼだいとひらくなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 さんぜんじんでんこうのむかしに、だいつうちしょうぶつというほとけがおり、そのほとけはしゅっけするまえはおうさまであって、じゅうろくひとのおうじがあった。そしてそのじゅうろくおうじは、みな、だいつうちしょうぶつから、ほけきょうのせっぽうをうけ、やがて、はっぽうのこくどにしょうじて、じょうぶつしたということについての、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。じゅうろくおうじの「じゅう」とは、じごくからぶっかいにいたる、じっかいをいみしているのである。そして「ろく」は、げんにびぜつしんいの、ろっこんをいみしている。
 また「おう」とはしんのう=せいめいかつどうのほんげんであり、「こ」はしんず=ぐたいてきなせいめいかつどうのことである。
 なわち、じゅうろくおうじとは、じっそうのいちりのだいつうのこ=すべてじのいちねんさんぜんである、みょうほうれんげきょうのとうたい、じっかいさんぜんのせいめい、これをだいつうのこというのである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんのもんかは、じゅうろくおうじにあたるのである。
 また、はっぽうさぶつとは、じゅうろくおうじがはっぽうのこくどに、ふたりずつしょうじてじょうぶつしたことである。はっぽうとは、とうざいなんぼくのしほうに、とうなん、せいなん、とうほく、せいほくのしいである。このことは、どこのせかいにおいても、アメリカにおいても、ロシアにおいても、イギリスにいても、なんみょうほうれんげきょうを、となえれば、ほとけになれるということを、あらわしているのである。
 そして、このはっぽうさぶつは、われわれのはっくの、ぼんのうが、そくぼだいとひらくことをいみする。はっくとは、しょうろうびょうしのしくに、あいべつりく、おんぞうえく、ぐふとくく、ごじょうおんくのよっつをくわえたものである。

 しゅうきょうのためのしゅうきょう、ぶっぽうのためのぶっぽうは、けっしてありえない。がいして、せけんのひと々びとには、しゅうきょうはすうこうなもの、げんじつのしゃかいは、きたなきもの、したがって、しゅうきょうは、げんじつをきりはなしてかんがえるべきである。とおもいこんでいるけいこうがある。これこそ、しゅうきょうのほんしつをしらない、せけんいっぱんのしゅうきょうのかめんに、たぶらかされてのすがたと、だんぜざるをえない。
 げんじつのきゅうさい、げんじつのしゃかいへんかく、また、ぶっしんりょうめんにわたるこうふくかくりつのげんせんこそ、しんじつのしゅうきょうのりきであり、しめいであることは、とうぜんのりである。
 いま、だいしょうにんのかんじんよりはいし、みょうほうれんげきょうのにじゅうはちほんには、いちげいちくたりとも、せいめいろんから、はなれたぎろんはないのである。せいめいかつどうは、せいかつである。すなわち、せいかつをはなれた、しゅうきょう、しんじんは、ぜったいにありえないのである。じゅうろくおうじというのも、かんじんのたちばよりろんずれば、みょうほうごじの、われわれのじしんのこととなる。
 すなわち、じっかい、ろっこん、しんのう、しんずをときあかしたてつりである。
 じっそうのいちりとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。しかして、われらは、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのこどもであるとはいすべきであると。
 しんじつのだいしょうにんのでしは、このもんにてらし、しんじつのえいえんのおうじなりと、かくしんすべきである。いかに、ふくとくにみちみちたじんせいであろうが、せけんのおうじは、「こんぜだけ」のおうじである。われらは、きゅうでんこそないが、ゆめのごときとっけんこそないが、だいおうのことして、みんしゅうのなかに、みんしゅうとともにいきてゆく、えいこうにかがやくだいおうじなのである。
 はっぽうさぶつとは、じゅうにんのおうじが、ふたりずつそれぞれわかれて、はっぽうにほけきょうをときにいき、じょうぶつした。いまだいしょうにんは、はっぽうとははっくのことである。だいもくをとなえることにより、はっぽうにいかずして、そのばで、そのとうたいで、ぼだいをさとらしめるほうもんなりと、おときである。

0734    だいろく そくめつけじょうのこと

 おんぎくでんにいわく、われらがめっするとうたいは、けじょうなり、このめつを、めつとみれば、けじょうなり、ふめつのめつとちけんするを、ほうしょとはいうなり、これを、じゅりょうほんにしては、にじつふめつどとはとくなり、めつというけんを、めっするをめつというなり、さんごんそくいちじつのほうもん、これをおもうべし、あるいはそくめつけじょうとは、ほうぼうのじとうをめっすることなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、けじょうそくほうしょなり、われらがきょじゅうのせんこくこうや、みなみなつねじゃっこうの、ほうしょなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 これはけじょうゆほんに、「そのときに、どうし、このにんしゅの、すでにしそくすることをえて、またひげんなきをしって、すなわちけじょうをめっして、しゅにんにかたって、なんだち、こらいほうしょは、ちかきにあり、むかいのだいじょうは、わがけさするところなり。しそくせんがためのみに、いわんがごとし」とあるところである。
 すなわちどうしが、みんながけじょうできゅうそくし、つかれをのぞいたのをみ、そのけじょうをしょうめつさせ、さあほんらいのもくてきちである、ほうしょにいこうとうながすところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。われわれのにくたいというものは、かならずめっする。それゆえに、けじょう=「カリ」のすがたである。
 この、そくけじょうのめつを、めつぼうとみれば、すなわち、せいめいをこんぜかぎりとすれば、けじょうである。ふめつのめつとちけんする、つまり、えいえんのせいめいをかくしんすれは、ほうしょになるのである。
 このことを、じゅりょうほんでは、「にじつふめつど」(しかもじつには、めっせず)とといているのである。
 また、せいめいは、こんぜかぎりであるというみかたを、めっするを、めつといっているのである。
 さんごんそくいちじつの、ほうもんとは、さんじょうそくいちぶつじょうであり、けじょうそくほうしょのことである。ほとけのきょうがいは、とおくにあるものでもなければ、だんだんと、ほとけになるものでもない。わがみがすなわちほとけなり、ほとけのとうたいなりと、かくしんすることに、つきるのである。
 また、そくめつけじょうとは、ほうぼうのじとうを、しゃくぶくしつくすことである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかとして、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、きゅうかいそくぶっかいなることを、かくちするのである。われわれが、きょじゅうしているところのやまやたに、こうやなど、すべてのところが、じょうじゃっこうのほうしょ=ぶつどとなるのである。

 えいえんのせいめいを、あかしている、てつりである。「ふめつのめつ」のちけんとは、さんだいひほうのほんぞんに、なしむ、かくじんが、かんとくするいがいに、わからぬことである。
 せいめいはえいえんでない、という、ひくいしそうのいきづまりから、げんざいのせいじ、きょういく、けいざい、しゃかいのいきづまりがある、といえるのである。すなわち、みんしゅしゅぎのこんぽんどだいが、できあがっていない。いっさいのしゃかいがさじょうのろうかくとなっている。まことに、かなしむべきじょうたいといわなければならない。いちにちもはやく、こうせんるふし、こじんも、しゃかいも、せかいも、いきづまりのないじだいをむかえたいものである。
 さんごんとは、しょうもん、えんかく、ぼさつのことである。ちしき、ぎじゅつとうががりょうてんせいたる、みょうほうをこんぽんとすれば、さいこうにいかされ、こうふくへのちしき、ぎじゅつとなるということである。すなわち、ほんぞんをじゅじしない、さんごんは、けじょうとおなじく、ぜったいのこうふくはありえない。さんごんそくいちじつとは、みょうほうをとなえれば、さんじょう、さんごんのぎじゅつ、ちしきが、ぜんぶ、いかされるじょうたいとかんがえられよう。
 「けじょうそくほうしょなり」については、すでにのべたが、さらにいえば、けじょうはかんねん、ほうしょはせいかつ、けじょうはり、ほうしょはことにわたることでもある。
 われわれが、どうしを、こうはいを、しんけんにげきれいする。このげきれいじたいは、まだけじょうである。このげきれいによって、たちあがり、しんじんがすすみ、きょうがいがひらけば、それじたいはほうしょで、すなわち、けじょうそくほうしょになるわけである。
 たとえば、がくせいとして、もくひょうをかかげ、べんきょうしようとけついする。これは、まだけじょうである。それじたいには、くどくがない。そのけついをしゅっぱつとして、しんけんにどりょくし、じつりょくがついてくる、それじたいはほうしょである。

0734    だいなな かいぐしほうしょのこと

 おんぎくでんにいわく、かいとは、じっかいなり、ぐとはにょがとうむいなり、しとは、ごくかのじゅうしょなりほうしょとは、りょうぜんなり、にちれんとうのたぐい、ななんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、いちどうに、かいぐしほうしょなり、ぐのいちじは、にちれんにぐするときは、ほうしょにいたるべし、ふぐならばあびだいじょうに、おつべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 「かいぐにほうしょにいたる」の「かい」とは、じごくよりぶっかいにいたる、すべてをいうのである。「ぐ」とは、「にょがとうむい」、ほうべんぽんの「わががごとくひとしくして、ことなることなからしめんとほっしき」、つまり、いっさいしゅじょうをほとけとおなじきょうがいに、はいらしめるということである。
 「し」とは、ごくかのじゅうしょへいたる。すなわち、さいこうのこうふくきょうがいにいたるということである。「ほうしょ」とは、りょうじゅせんのことである。ごほんぞんのいますところであり、また、さいこうのこうふくきょうがいをいみしている。
 いま、ごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんのもんかは、いちどうにかいぐしほうしょ、すなわち、じょうぶつすることができるのである。
 とくに、「ぐ」のいちじは、にちれんだいしょうにんとともにいる、だいしょうにんをしんずるときは、じょうぶつすることができる。またにちれんだいしょうにんとぐでない、すなわち、はなれ、ふしんのねんをおこすならば、あびじごくにおちる、ふこうのドンぞこにおちるということを、しめしているのである。

 「かいぐしほうしょ」のもんこそ、じゆう、びょうどう、そんげんの、みんしゅしゅぎのいちだいげんりである。「かい」とは、じっかいさんぜんのとうたいのことである。にほんじんも、イギリスじんも、フランスじんも、ドイツじんも、ソロシアじんも、みな、おなじせいめいであるとのことばであられる。すなわち、じんるいびょうどうの、だいせいめいてつがくとはいすべきである。「ぐ」とは、いかなるひとたりとも、ひとしく、ぶっかいをぐしている。
 しんじんによって、ぶっかいをゆげんすることによって、ほとけのせいめいとひとしくなる。みょうほうのとうたいとなるとの、もったいないびょうどうろんである。「し」とは、ごくかにいたるしんじんのことである。すなわち、ひたぶるにしんじんにはげみ、しゃかいにかちそうぞうしゆく、われらのじゅうしょこそ、そんごくであり、りょうぜんなりとのことばであられる。
 「にちれんにぐするとき」とは、だいしょうにんのでしとして、しんけんにしんじんし、じっせんにすすむひとのことである。すなわち、そうかがっかいである。したがって、われらのじゅうしょは、ほうしょである。わがしどあんのんである。へいわとこうふくをきょうじゅできうることは、ぜったいにまちがいないわけである。ふぐ、ほうぼうのひと々びとは、あびだいじょうに、おちざるをえない。ごきんげんにてらし、げんじつのせかいをみて、いちにちもはやく、いかなるしょうまにもうちかって、らくどにほんを、きずいていきたいものである。



  • [236]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな じゅきほんしかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月17日(土)10時21分35秒
 
  0730~0732 じゅきほんしかのだいじ。

0730    だいいち じゅきのこと。
0731    だいに かしょうこうみょうのこと。
0731    だいさん しゃぜしんいのこと。
0731    だいし しゅくせいいんねんごこんとうせつのこと。


0730~0732 じゅきほんしかのだいじ。

 もんぐのななにいわく、じゅとはこれあたえるのぎなりと。
 おんぎくでんにいわく、きとはなんみょうほうれんげきょうきょうなり、じゅとは、にほんこくのいっさいしゅじょうなり、ふしんのものには、さずけざるなり、またこれをうけざるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうのきを、くうるなり、またいわく、じゅきとは、ほうかいのじゅきなり、じごくのじゅきはあくいんなれば、あくごうのじゅきを、ざいにんにくさずるなり、あまりはこれにじゅんじて、しるべきなり、しょうのきあれば、かならずしす、しのきあれば、また しょうず、さんぜじょうごうのじゅきなり、しょせん、ちゅうこんのよんだいしょうもんとは、われらがしょうろうびょうしのしそうなり、0731。
 かしょうはしょうのそう、かせんねんはろうのそう、もくれんはやまいのそう、しゅぼだいはしのそうなり、ほっけにつてきた、しょうろうびょうしのしそうを、よんだいしょうもんとあらわしたり、これすなわちはちそうさぶつなり、しょほうじっそうのふるまいなりときをくさずるなり、みょうほうのじゅきなるがゆえに、ほうかいのじゅきなり、れんげのじゅきなるがゆえに、ほうかいしょうじょうなり、きょうのじゅきなるがゆえに、しゅじょうのごごんおんじょうは、さんぜじょうごうのじゅきなり、ゆいいつごんにじゅきすべきなんみょうほうれんげきょうきょうなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 もんぐのななに、じゅきのじゅとは、あたえるといういみであるとしゃくしている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。きとはなんみょうほうれんげきょうきょうのことである。そしてじゅとは、にほんこくのいっさいしゅじょうに、さずけるのである。ただし、ふしんのものにはさずけないし、また、ふしんのものは、この、なんみょうほうれんげきょうきょうのきをうけない。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、なんみょうほうれんげきょうきょうのきを、うけるのである。また、じゅきとはほうかいのじゅきということであって、たとえば、じごくのじゅきは、あくいんであるから、あくごうのじゅきをざいにんに、さずけることなのである。がき、ちくしょう・・・ぼさつ、ぶっかいと、じっかいそれぞれ、これにじゅんじてしるべきである。また、しょうのきがあれは、かならずしがあり、くのきがあれば、またしょうずるのであって、さんぜじょうごうのじゅきなのである。
 しょせん、ほけきょうしゃくもんにとかれる、ちゅうこんのよんだいしょうもんとは、われわれのしょうろうびょうしの、よんそうをあらわしているのである。すなわち、かしょうはしょうのそうをあらわし、かせんねんはろうのそう、もくれんはやまいのそう、しゅぼだいは、しのそうをしめしているのである。このしょうろうびょうしのよんそうを、ほけきょうにきて、よんだいしょうもんとして、あらわしたのである。これすなわちはちそうさぶつである。
 このしょうろうびょうしはしょほうじっそうのふるまいである。すなわち、みょうほうれんげきょうのしょさであるとの、きをさずけたのである。みょうほうのじゅきで、あるがゆえに、ほうかいのじゅきである。れんげのじゅきであるがゆえに、ほうかいしょうじょうである。きょうのじゅきであるがゆえに、しゅじょうのごんごおんじょうは、さんぜじょうごうである。これらを、なんみょうほうれんげきょうきょうの、ただいちごんにおさめ、われわれしゅじょうにじゅきさられたのである。
 いまどきにおいては、しんじつのじゅきは、ただ、さんだいひほうのほんぞんである。なぜならば、ぜったいに、これいがいに、じょうぶつできえぬからである・・・、とごだんげんのもんである。
 たの、いかなるしゅうきょう、ほんぞんを、しんぽうしじっせんしても、あたかもしゃくとりむしのてんにいたらざるがごとく、けっしてじょうぶつできえない。ここんとうざいのてつがく、しそうも、みな、さんだいひほうのだいぶつほうのじょぶんであり、るつうぶんにすぎない。せいかつかくめいのげんせん、にんげんかくめいのきゅうきょくのげんりこそ、みょうほうなのである。そのじゅきこそ、ただしいじゅきなのである。あくしそう、じゃぎのじゅきをこうむれば、あくごうのじゅきをうけることになり、ついにふこうをまねかざるをえない。
 「しそうはいきている、しそうほどおそろしきものはない」とさけんだてつじんがいた。こじんもばんにんもともに、ほんげんてきに、ふへんだとうせいをもって、きゅうさいできえるだいしそう、すなわち、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうきょうにいきることが、さいだいいちのかちあるじんせいとかくしんされたい。
 また、たとえば、けんどうやじゅうどうにおいて、ゆうだんしゃになることも、そのせかいのじゅきである。だいがくをそつぎょうして、もらうめんじょうも、ひとつのじゅきである。だいぎしがとうせんしてうけるとうせんしょうしょも、そのみちのじゅきである。なお、おやよりざいさんをうけて、そうぞくしたしょるいも、またじゅきといえよう。しかし、さいこうのじんせいかん、せかいかん、うちゅうかんをかくりつして、えいえんにこうふくにいきゆけるしんじつ、こんぽんのじゅきこそがだいじなのである。いっさいのきょうぐう、いっさいのしょくぎょうの、ぜんじんるいがうけるべきじゅきがごほんぞんとはいすべきであろう。

ちゅうこんの、よんだいしょうもんとは、われらがしょうろうびょうしの、よんそうなり。
 よんだいしょうもんをば、われわれのせいめいかつどう、またいっしょうのじっそうのせいめいろんとして、とかれたとおもわれる。じょうじゅうえくうのほうりも、おなじいみとなろう。かしょうは、しょうのそう、すなわち、しゃくそんしょうもんのじゅうだいでしのひとりで、ずだぎょうだいいちである。しゅぎょうだいいち、じっせんだいいちといういみであるから、じょうねつをたぎらせ、ふきょうに、しゅぎょうに、ゆうやくしょうじんしたせいめいなるがゆえに、しょうをあらわしているわけである。したがって、われわれのしんじんじつぜにも、こしんのかしょうということができる。
 かせんねんは、ろうのそう、ろんぎだいいち、がくもんしゅうがくをへて、じゅうこうなじんかくで、きょうぎをうけもって、しゃかぶっぽうにこうふにつくしたせいめいをいみする。したがって、われわれのしゃくぶく、こうぎ、こうえんらも、りっぱに、こしんのかせんねんのはたらきとみることもできるのである。
 もくれんは、やまいのそう、じんずうだいいちである。そのはは、しょうだいにょががきどうにおちているのを、じんつうりきによってしり、ほけきょうにより、すくうことができたというはなしはゆうめいである。また、しゃくそんにゅうめつちょくご、ちくじょうげどうにかこまれ、いったんだっしゅつしたが、かこせのざいごうであることをしり、げどうにころされ、そのごうをめっしたといわれる。すなわち、しゅくめいのごうを、たちきるため、いっしょうのそうけっさんをじかくした、やまいのそうを、せいめいろんからといたとおもえる。われらのかせんねん、ざいしょうしょうめつのいちねんは、とうぜん、こしんのもくれんともかんがえられるであろう。
 しゅぼだいは、しのそう、げくうだいいちである。よく、くうりにつうじているゆえに、しょうじふにのぶっぽうげんりなれば、しをいみしたのである。われらが、えしょうふに、いちねんさんぜんのほうりをしることは、こしんのしゅぼだいといちおうかんがえられる。

みょうほうのじゅきなるがゆえに、ほうかいのじゅきなり。
 みょうほうには、はちまんほうぞうが、ことごとく、ほうがんされている。はちまんよんせんのぶっぽうは、ぜんうちゅうのげんしょう、ほんしつを、ときあかしたものである。したがって、みょうほうそくほんぞんのじゅきは、うちゅうにある、ちから、たから、とう々とうを、いっさい、わがせいめいに、じゅきされたことにつうずるのである。せかいといえば、にほんも、べいこくも、ロシアも、ひゃくじゅういくかこくも、くまなくふくまれているごとくに。
 くうたいのほんぞんは、うちゅうそれじたい、けたいのほんぞんはわがとうたい、ちゅうたいのほんぞんは、さんだいひほうのごほんぞんとなる。くうたいのほんぞんを、いっぷくのだいまんだらとなされたのが、じっかいさんぜんのほうりをぐびしたほんぞんである。すいそとさんそをかごうさせてみずをつくるためには2H2+O=2H2Oのげんりがある。しかし、じっさいにみずとするためには、このほうていしきにはっきんとうのしょくばいのひつようあることは、かがくのじょうしきである。もったいないたとえであるが、ちゅうどうほっそうのごほんぞんに、きえせねば、うちゅうのリズムとのがっち、ならびに、わがせいめいのしんじつのじょうか、せいめいりょく、ちえは、ゆげんできえないのである。
 「れんげの、じゅきなるがゆえに、ほうかいしょうじょうなり」とは、れんげのじゅきは、いんがくじ、せつないちねんのじゅきであり、なんみょうほうれんげきょうきょうのことである。ほうかいしょうじょうとは、じょうぶつのきょうがいをさす。しゅくめいだはしゆくほんにんのちから、ふくうん、ちえをつくり、じひしんをかつどうさせゆく、いちねんのほうそくである。
 「きょうのじゅきなるがゆえに、しゅじょうのごごんおんじょうは、さんぜじょうごうのじゅきなり」のもん。きょうとは、つうずには、いっさいのふるまい、げんしょうのいみょうである。このきょうの、ほうそくにのっとったせいかつは、さいこう、むじょうのじんせい、せいめいかつどうとなり、かちそうぞうとなり、しゃかいにたいする、こうけんにつうずるとのこころである。しゅじょうとはせいめいとやくす。しょせん、えいえんににんげんとうまれ、みょうほうをごじして、なんみょうほうれんげきょうきょうとくしょうし、きゅうかいにゆうげして、ぜったいのこうふくなきょうがい、じんせいをあゆみゆくことができるとのこころである。

0731    だいに かしょうこうみょうのこと

 おんぎくでんにいわく、こうみょうとは、いっさいしゅじょうのそうごうなり、ひかりとはじごくのとうねんみょうか、これすなわちほんかくじじゅゆうのちかなり、ないし、ぶっかこれれおなじ、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうのこうみょうを、ほうぼうのあんみょうのなかにさしいだす、これすなわち、かしょうのこうみょうにょらいなり、かしょうはずだをほんとす、ずだはここに、とソウというなり、いま、まっぽうにはいつて、よぎょうをとソウして、もっぱら、なんみょうほうれんげきょうきょうとしゅうするは、しきょうなんじ、ぎょうずだしゃ、これなりうんぬん。

 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。こうみょうにょらいのこうみょうとは、いっさいしゅしょうのそうごう (すがた)、かたちをいう。ひかりとは、じごくのひのことである。またほんかくじじゅゆうのちかのことでもある。ぶっかにいたるほかのきゅうかいもこれとおなじである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、ほうぼうのくらやみのよに、なんみょうほうれんげきょうきょうをおしえ、こうみょうをさしだしているのは、すなわち、かしょうのこうみょうにょらいということである。かしょうはずだだいいちのひとである。ずだとは、やくすれば「ものをはらいさる」という。いま、まっぽうにはいって、われわれが、ほうぼうのよぎょうをいっさいはらいさって、もっぱらなんみょうほうれんげきょうきょうをとなえ、じぎょうけたのしゅぎょうにはげむのは、けんほうとうほんだいじゅういちに「このきょうはたもちくかた、もししばらくもたもつものは、われすなわちかんきす。しょぶつもまたしかなり、これのごときのひとは、しょぶつのほめたもうところなり、これ、すなわち、ゆうもうなり、これすなわち、しょうじんなり、これをかいをたもち、ずだをぎょうずるものとなずづく」ととかれていることにあたるのである。
おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。こうみょうにょらいのこうみょうとは、いっさいしゅしょうのそうごう(すがた)、かたちをいう。ひかりとは、じごくのひのことである。またほんかくじじゅゆうの、ちかのことでもある。ぶっかにいたる、ほかのきゅうかいもこれとおなじである。

  じんりきほんに、「にちがつこうみょうの、よくもろもろの、ゆうみょうをのぞくがごとく、このひと、せけんにぎょうじて、よくしゅじょうの、やみをめっし」とある。しんじつのこうみょうは、なんみょうほうれんげきょうである。「このひと」とは、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしんにょらい、そく、にちれんだいしょうにんであられる。
 ほうにやくして、みょうほう、ひとにやくしてだいしょうにん、ひとほういちかのごほんぞんのみが、いっさいしゅじょうにこんぽんてきこうふくをあたえるこうみょうなのである。やみよのごときごじょくのげんじょうをきゅうさいしきるちからは、てつがくは、こうみょうは、いずこにあろうか。
 ゆいしんてつがくかゆいぶつてつがくか、じつぞんしゅぎか。 きそんの、るふされきったてつがくでは、じじつ、きゅうさいできえないのがげんじつである。
 あとは、にちれんだいしょうにんのさんだいひほうのだいぶつほうを、ぜんせかいのしどうしゃが、けんきょにきき、じっせんしてみるいがいに、かいけつのみちはありえないとだんげんするものである。
 ほうとうほんの「しきょうなんじ」のきょうもんを、われらはしんくいのさんごうでよみきり、こんじょうのしめいを、おのおの、りっぱにはたし、りょうじゅせんにて、だいしょうにんのおほめをいただきたいものである。
 「ないしぶっかこれれおなじ」とうのもん。「じごくのとうねんみょうか、これすなわちほんかくじじゅゆうのちかなり」とは、ひとくちにいえば、「しょうじそくねはん、ぼんのうそくぼだい」とはいせるとおもう。ふこうのどんぞこのひとが、ほんぞんをじゅじすれば、このごせいくんになるとかくしんする。したがって、こうみょうとか、ちかとか、きゃっかんしすれば、せいかつのじょうたいであり、しゅかんしすれば、せいめいのかつどうじょうたいとかんがえられる。
 じごくかいは、いきては、くるしみ、おうのうし、ししては、ともしび、ねんしょう、みょうかのなか。しゅらかいのひかりとは、いかりのまなこ、がき、ちくしょうのこうみょうもまた、どうぶつがえものを、とるまなこをそうぞうすべきである。にんかいよりぼさつかいになれば、よろこびのせいかつ、たのしみのじんせいこうろ、けんきゅうどりょくのまなこのひかり、ちえのりき、じひこうい、かつまた、ひと々びとをすくおうとおもうどりょく、かがやくじょうねつのまなこのこうみょうとかんがえるべきである。

0731    だいさん しゃぜしんいのことtop

 おんぎくでんにいわく、このもんだんより、しゃふしゃのおこりなり、てんしゃにして、えいしゃにあらず、てんしゃはほんもんなり、えいしゃはしゃくもんなり、このみをすてるは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのむねに、そむくなりうんぬん、しょせん、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、しゃぜしんいなり、ふしゃくしんみょうのゆえなりうんぬん、またいわく、このみをしゃすとよむときは、ほうかいにごだいをしゃすなり、すつるところのぎにあらず、このみをすてて、ほとけになるというは、ごんもんのこころなり、かかるしゅうじょうをすつるを、しゃぜしんいととくなり、このもんは、いちねんさんぜんのほうもんなり、しゃぜしんいとは、げんきほんり、いちねんさんぜんのこころなり、みょうらくだいしの、とうちみど、いちねんさんぜん、こじょうどうじ、しょうしぼんり、いっしんいちねん、へんおほうかいとしゃくするは、このこころなりうんぬん。

 ここは じゅきほんさいごのげに、「わがこのでし、だいもっけんれんは、このみをすておわって、はっせん、にひゃくまんのくのしょぶつせそんをみたてまつることをえ」うんぬんのところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいもっけんれんがそのみをすておわって、はっせん、またにひゃくまんのくのしょぶつせそんをみたてまつることができた。すなわちじょうぶつしたととくこのだんから、すふしゃということがおこるのである。ほんいはてんしゃ=かりにすてるであって、えいしゃ=えいきゅうにすててしまうことではない。てんしゃはぼんもんであり、えいしゃはしゃくもんのおしえである。われわれのこのみをえいしゃすることは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのほんしにそむくことになるのである。しょせん、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるのは、ふしゃくしんみょうであるから、しゃぜしんいである。
 また、このみをほどこすすとよむときは、うちゅうほうかいにごだい、すなわちこのにくたいをほどこすのであって、すてるというぎではないのである。このみをすててほとけになるというのは、にぜんごんきょうのこころであって、このようなにぜんごんきょうにしゅうちゃくするこころをすてることをしゃぜしんいととかれているのである。さらにふかくはいすれば、このしゃぜしんいのもんはいちねんさんぜんのほうもんをあらわしている。すなわちしゃぜしんいとは「げんきほんり、いちねんさんぜん」ぼんりであることのいちねんさんぜん、なんみょうほうれんげきょうのごほんぞんにきみょうするといういみである。みょうらくだいしが「まさにしるべし、みどはいちねんのさんぜんなり、ゆえにじょうどうのとき、このぼんりにかなって、いっしんいちねんほうかいにあまねし」としゃくしているのは、このいみである。

 さどごしょに「せけんにひとのおそるるものはほのおのなかととうけんのかげとこれみのしするとなるべしぎゅうばなおみをむおしいわんやじんしんをやらいにんなおいのちをむおしいかにいわんやそうにんをや」(0956-04)うん々ぬんと。また、かえんじょうごうしょには「いちにちのいのちはさんぜんかいのたからにもすぎてそうらなり」(0986-11)うんぬんとある。ぶっぽうは、せいめいのそんげんをとき、せいめいのだいじをとく。したがって、ぶっぽうにはぎせいはありえないのである。なむとはきみょうというこころであり、また、なむとは、ぎょうはらみつなりとおおせである。げんきほんりのいちねんさんぜんのきみょうなれば、しょせんは、むじょうどうにいきているせいめ