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  • おんぎくでんこうぎ げ。 だいにじゅうさん、くおんのこと

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 6日(月)00時28分10秒
 
おんぎくでんこうぎ げ。
だいにじゅうさん、くおんのこと

つうげ
 くおんということについて、おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 じゅりょうほんだいじゅうろくのしょせんは、くおんじつじょうである。
 このくおんじつじょうは、もんていよりみれば、ごひゃくじんでんこうのじょうどうではなく、くおんがんじょのじょうどうなのである。
 くおんとは、そのしんじつのいみは、はたらかさず、つくろわず、もとのままであり、くおんがんじょのほとけのすがた、またせいめいのほんしつをあらわすのである。
 むささんじんであるがゆえに、あるときに、はじめてじょうどうしたというような、つくられたほとけではない。
 これをはたらかさずというのである。
 おうけのほとけのごとく、さんじゅうにそう、はちじゅうしゅこうをぐそくせず、そのままのすがたであるがゆえに、つくろわずというのである。
 またほんぬじょうじゅうのほとけであるがゆえに、もとのままというのである。
 このはたらかさず、つくろわず、もとのままのことをくおんというのである。
 したがって、くおんとは、きゅうきょくは、なんみょうほうれんげきょうそのものなのである。
 いじょうが、くおんということであるが、さらにくおんじつじょうの、じつじょうとは「まことにひらけたり」とよむのである。
 すなわち、むさとひらけたことをいうのである。
 しょせん、くおんじつじょうとは、くおんがんじょにおいて、わがみがむささんじんのとうたいれんげぶつであると、かいかくしたことである。


こうぎ
 ここにときあかされるくおんじつじょうとは、つうずのいみとはまったくちがい、なんみょうほうれんげきょうにょらいの、じゅりょうほんにおける、くおんじつじょうである。
 したがって、ここにゆうくおんとは、くおんがんじょとどういであり、はたらかさず、つくろわず、もとのままのぎである。じつじょうのじつも、むささんじんのほとけということであり、じょうも、なるということではなく、ひらくぎとなる。
 さらに、だいしょうにんは、このくおんの、はたらかさず、つくろわず、もとのままとのいぎを、ひとつひとつこくめいに、とかれている。
 「はたらかさず」については、「むさのさんじんなれば、はじめてじょうぜず、これはたらかざるなり」とおおせられ、「つくろわず」については「さんじゅうにそう、はちじゅうしゅこうをぐそくせずこれつくろわざるなり」と、また「もとのまま」については「ほんぬじょうじゅうのほとけなればもとのままなり」と、とかれている。すなわち、ともにくおんがんじょじじゅゆうしんにょらいのおせいめいをあらわしていることはあきらかである。
 くおんといえば、いっぱんてきには「ときのむきゅうなこと」「とおいむかし」あるいは「えいえん」ということである。しかるにくおんがんじょのくおんとは、これらのじかんてきかんねんをふくめて、だいうちゅうのほんげん、せいめいのほんげんといういみである。すなわち、むさほんぬじょうじゅうのせいめい、むしむしゅうのせいめいのほんたいであり、それは、くおんがんじょのじじゅゆうしんにょらいのおせいめいそれじたいである。これはまた、そくなんみょうほうれんげきょうであり、したがってほんぶんには「くおんとはなんみょうほうれんげきょうなり」とけつろんあそばされているのである。
 さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく、「しゃかにょらい、ごひゃくじんでんごうのそのかみ、ぼんぷにておわせしとき、わがみは、ちすいかふうくうなりとしろしめして、そくざにさとりをひらきたまいき、のちにけたのためにせせ、ばんばんにしゅっせ、じょうどうし、ざいざい、しょしょにはちそうさぶつす」(0568-)と「しゃかにょらい」とは、けっしてほんがだいいちばん、じょうどうのしゃくそんではなく、みょうじぼんぷいのしゃくそん、すなわちくおんがんじょの、じじゅゆうしんにょらいである。
 「ごひゃくじんでんごうのそのかみ」とは、くおんがんじょのことである。
 「わがみは、ちすいかふうくう」は、わがみそく、ぜんうちゅうということである。
 これ、にちれんだいしょうにんの、くおんがんじょのじょうどうであり、にちれんだいしょうにんが、むしむしゅうに、むささんじんのとうたいとして、じょうじゅうであることをとかれたおんふみにほかならぬ。
 しかして、これまた、せいめいろんのごくていを、ときあかしたものである。
 われらのせいめいは、かみによってつくられたものでもなく、ぐうぜんにはっせいしたものでもなく、くおんがんじょよりうちゅうとともにじつざいし、しょうじ、しょうじとれんぞくし、げんざいにいたっている。
 またかつ、みらいえいえんにわたり、そのれんぞくであることにかわりない。
 「わがみは、ちすいかふうくう」の、おんふみも、われらのせいめいはそく、うちゅうそれじたいであり、うちゅうと、どうじにそんざいし、うちゅうが、るてんしていくかぎり、うちゅうとともにむげんに、つづきゆくものである。
 とだぜんかいちょうは、これについてつぎのごとく、はなされたことがある。
 「にちれんだいしょうにんさまは、くおんがんじょというときに、わがみは、ちすいかふうくうなりとしろしめして、そくざにさとりをひらかれたとおっしゃっております。
 わがみがちすいかふうくう、すなわち、だいうちゅうそれじたいのせいめいであるとおっしゃっております。わがみ、ちすいかふうくううんぬんとは、すなわちだいうちゅうそれじたいのせいめいである。とおさとりになったことです。
 ですから、にちれんだいしょうにんさまのせいめいというものも、われわれのせいめいというものも、むしむしゅうということなのです。
 これをくおんがんじょといいます。はじめもなければ、おわりもないのです。
 だいうちゅうそれじたいが、だいせいめいたいなのです。だいうちゅうですから、はじめもなければおわりもないのです。
 このままの、ちきゅうだけなら、はじめもおわりもあるのです」と。
 されば、くおんがんじょとは、さきにのべたごとく、もはや、あるいっていのときをさすのではなく、このゆうきゅうにつづきゆく、うちゅうのだいせいめい、そして、さんぜじょうじゅうに、しょうじをくりかえし、むしむしゅうにつづきゆく、せいめいのきゅうきょく、ほんげんをいうべきか。
 これを、にちれんだいしょうにんは「はたらかさず、つくろわず、もとのまま」とおおせられたのである。

 しんじんおよびせいかつにやくしていえば、「はたらかさず」とは、まずいっぱんてきにいぬがほえるのも、ねこがなくのも、とりがさえずるのも、みなこれ「はたらかさず」であり、せいめいのしぜんのはつどうである。
 しんじんにやくしていえば、だいごほんぞんにしょうだいし、またこうせんるふにかつやくし、せいめいのおうていからの、かんきのやくどうのことである。
 これはだれびとが、あたえるものでもない。じぶんじしんのないおうからしぜんにはつげんするものである。
 これ「はたらかさず」ではないか。
 また、じしんのせいめいのうえにきずくぜったいのこうふくきょうがいである。
 こうふくは、ほかからあたえてくれるものではない。じしんのせいめいのうえにきずいていくものである。
 さきの「じがげしじゅうのこと」でのべた、しんの、じゆうじざいのきょうがいである。 これは、しゃかぶっぽうのごとく、りゃくこうしゅぎょうや、てんだいけのごとく、かんねんかんぽうで、はたらかしてきずくべきものではない。
 ただ、だいごほんぞんときょうちみょうごうするとき、われらのぎょうじゅうざがの、ふるまい、すべてだいうちゅうのリズムとがっちし、さわりなく、ゆうゆうたる、ふるまいをしていけることが、むささんじんのかくりつであり、まさに「はたらかさず」になることをしるべきである。
 また「つくろわず」とは、きょえいではなく、しんじんにてっし、ありのままのにんげんせいでいくことをいうのである。
 ほんぶんに、「さんじゅうにそう、はちじゅうしゅこうをぐそくせず」の、さんじゅうにそう、はちじゅうしゅこうとは、げんじつせいかつのうえでいえば、きょえいであり、かたがきである。
 これをもとむることに、けんめいとなり、じこをこちょうしようとしたり、せのびしてとくべつな、にんげんにみせようとすることである。
 そんなことは、こんていてきにはまったくひつようない。
 しょせん、しんじんにいき、じぶんらしく、もっともこせいをはっきし、しゃかいのため、ひとびとのため、かちそうぞうしていくじんせいこそ、まさに「つくろわず」なのである。
 また「もとのまま」とは、だいもくをとなえるすがたこそ、もっともだいうちゅうのリズムにかなった、ほんねんのすがたであり、ほんぬのすがたである。
 みずからは、じっかいほんぬのとうたいである。
 だいもくをとなえたとき、こしんのじごくかいは、じごくかいのまま、がきかいはがきかいのまま、みょうほうにてらされ、すべてこうふくへとうごきはたらくのである。
 これ「もとのまま」ではないか。
 また、しんじんにいき、ほんにんみょうのせいしんにてっすることである。
 だいごほんぞんにはいきづまりがなく、また、しんじんも、つねにむりょうのちえをはつげんするげんせんである。
 きのうまでのこうせきにひたり、みらいをひらくことをわすれたひとは、だいごほんぞんをわすれ、しんじんをわすれたひとであり、いきづまってくる。
 このとき、ふたたびしんじんにもどり、ほんにんみょうのせいしんで、みらいをひらくとき、かならずせいちょうがあり、ぜんしんがある。
 これ、ほんぬじょうじゅうのふるまいであり、「もとのまま」にきちゃくしたひとのすがたといえる。

 かつまた、みずからのしめいをじかくし、そのしめいのままにいきることも、ほんぬじょうじゅうのすがたである。
 すなわち、みょうほうのだいどうにいきる、ぢゆのじかくこそ、くおんがんじょいらいの、ほんけんぞくのじかくであり「もとのまま」ではなかろうか。
 しょせん、しんじんにいき、みょうほうにいききるひとこそ、いまが、くおんがんじょであり、だいうちゅうのほんげんにたちもどり、つねにこうだいな、みらいをひらいていくひとであると、つよくかくしんすべきである。
 また、さいごの、「まことにひらけたり、むさとひらけたるなり」とは、ぶっかいのゆげんである。
 がいぶから、だんだんとかたちづくっていく、こうふくではなく、ぜったいにこわれないこうふくをいみする。
 にんげんかくめいによって、こんていてきに、じこじしんをかくりつしていくことが、もっともただしいじんせいであると、ふえんしてかいしゃくすることもできる。
 まずしょうほうたるじこを、かくりつしていくことだ。
 そのうえに、えほうのあらゆるきゃっかんてきじょうけんが、ととのっていくことが、もっともただしいいきかたである。
 そうすれば、いっさいがいかされる。
 がくれきも、ちしきも、ちいも、ざいさんも、けいけんも、すべてにんげんかくめいのどじょうのうえに、さいこうにいかされていくことを、しっていただきたい。
 これ、にんげんかんせいのきゅうきょくであり、いだいなるじんせいこうろの、いきたししんであるとうったえたい。





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