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  • おんぎくでん げ。   だいにじゅうに、じがげ、しじゅうのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 5日(日)02時39分4秒
 
おんぎくでん げ。
だいにじゅうに、じがげ、しじゅうのこと。

じがげぜんたいについての、おんぎくでんにいわく。
 じがとくぶつらいの、じが、じがげのはじめのもんじであり、そくじょうじゅぶっしんのしんが、おわりのもんじである。
 したがって、はじめとおわりのもんじをあわして、じしんとなり、じがげぜんたいが、べっしては、にちれんだいしょうにんごじしんのことをとかれ、そうじては、しんじんしゅぎょうするものの、じしんのせいめいのことをあらわしている。
 はじめのじと、おわりしんをのぞいた、そのちゅうげんのもんじは、じゅよう、すなわち、かつどうをいみし、ほっぽうおうのさんじんにょらいのしょさなのである。したがって、じがげは、じじゅゆうしんとなるのである。
 ほうかい、すなわちだいうちゅうを、じしんとかいかくするならば、ほうかいはすべてじじゅゆうしんとなる。
 したがってじじゅゆうしん、そく、じがげであるがゆえに、だいうちゅうはことごとくじがげとなるのである。
 ほしいままにうけもちいるみとは、いちねんさんぜんなのである。
 でんぎょうだいしは、そのちょ、「ひみつそうごんろん」に、「いちねんさんぜんは、そくじじゅゆうしんであり、じじゅゆうしんとは、しきそうそうごんのほとけではない。そんぎょうをちょうしゅつした、ぼんぷそうのほとけである。
 しかして、しゅつそんぎょうぶつとは、むささんじんのことなのである」と。
 いま、にちれんだいしょうにんこそ、このもんのとおり、むささんじんのほとけであり、じのいちねんさんぜんのとうたいなのである。
 また、われわれでしもまた、なんみょうほうれんげきょうととなえることによって、むささんじんのほとけとかいかくし、じのいちねんさんぜんのとうたいとしての、かっこたるじこをきずくことができるのである。


 じがとくぶつらいのじと、そくじょうじゅぶっしんのしんで、このじがげはぜんたいとして、にちれんだいしょうにんごじしんのことがとかれているのである。また、じしんとは、しんじつのせいめいのしゅたい、じがのしゅたいであり、これをときしめしたのが、じがげである。はじめのじとおわりのしんとをのぞいた、なかのもんじは、すべて、じしんのふるまい、かつどうであり、じゅようとなる。したがって、じがげとは、じじゅゆうしんということになるのである。
 じじゅゆうしんとは、ほんぶんにおしめしのごとく「ほしいままにうけもちいるみ」といういみで、にちれんだいしょうにんのごせいめいは、なにものにもしはいされず、なにものにもさゆうされない、もっともしょうじょうであり、もっともちからづよく、あたかもだいうちゅうをじざいにゆうぎしているごとく、いっさいさわりなく、しかもえいえんにつづきゆくこんごうふえのこうふくなるとうたいであられることである。しんじつのじがのかくりつ、しゅたいせいのかくりつのきゅうきょくを、ごじしんのうえにしめされたものということができるのである。
 ここにいうじじゅゆうしんとは、くおんがんじょのじじゅゆうしんであり、にちれんだいしょうにんごないしょうであり、そく、にんほんぞんをしめされている。
 またいちねんさんぜんとは、かいもくしょうに、いちねんさんぜんもんていひちんとあるごとく、もんていげしゅ、じぎょうのいちねんさんぜんのなんみょうほうれんげきょう、そくほうほんぞんである。
 しかして、「じじゅゆうしんとは、いちねんさんぜんなり」とは、にんぽういっかをしめされ、にちれんだいしょうにんのごせいめいは、まったくこれ、いちねんさんぜんのだいごほんぞんであり、いちねんさんぜんのだいごほんぞんは、まったくこれ、にちれんだいしょうにんの、ごせいめいであることをとかれたのである。
 しゃくそんは、ほうしょうにんれつであり、にちれんだいしょうにんのばあいは、にんぽういっかである。ほんぞんとはすぐれたるをもちうべきである。したがってしゃくそんをほんぞんとしてはならない。まっぽうのわれらしゅじょうのしんぽうすべきごほんぞんは、にちれんだいしょうにんであり、まただいしょうにんのごせいめいを、いっぷくのだいまんだらとしてみとめられた、こうあん2ねん12791010がつ12にちのいちえんぶだいそうよのだいごほんぞんいがいにぜったいにないのである。
 ほんぞん、もんどうしょうにいわく、「とうていわく、まつだいあくせのぼんぷはなにものをもって、ほんぞんとさだむむべきや、こたえていわく、ほけきょうのだいもくをもってほんぞんとすべし」、(0365-01)、(ちゅうりゃく)、「これは、ほけきょうのきょうしゅを、ほんぞんとす、ほけきょうのしょういにはあらず、かみにあぐるところの、ほんぞんはしゃか、たほう、じっぽうのしょぶつのごほんぞん、ほけきょうのぎょうじゃのしょういなり」、(0365-14)(ちゅうりゃく)、「とうていわく、しからばなんじ、いかんぞ、しゃかをもってほんぞんとせずして、ほけきょうのだいもくをほんぞんとするや、こたう、かみにあぐるところのきょうしゃくを、みたまへ、わたしのぎにはあらず」、(0366-07)と。
 このおんふみをうけて、にっこうしょうにん、ふじいちせきもんと、ぞんちのことにいわく、「にっこうがいわく、しょうにんごりゅうのほうもんにおいては、まったくえぞう、もくぞうのほとけ、ぼさつをもってほんぞんとなさず、ただ、ごしょのこころにまかせてみょうほうれんげきょうのごじをもって、ほんぞんとなすべしと、すなわちごじひつの、ほんぞんこれなり」(1606-02)と。
 つぎの、でんぎょうだいしの、「ひみつそうごんろん」のもんは、きわめてゆうめいであり、かつじゅうようである。
 すなわち、にんぽういっかのしょうもんだからである。
 「いちねんさんぜんそくじじゅゆうしん」とは、ほうそくにんをしめすものであり、さきの、「じじゅゆうしんとは、いちねんさんぜんなり」の、おんふみはにんそくほうであり、あわせて、ほうそくにん、にんそくほうをしめすのである。
 いちねんさんぜん、すなわちもんていげしゅ、じぎょうのいちねんさんぜんのだいごほんぞんは、まったく、にちれんだいしょうにんのとうたいであるとのがんいである。
 「じじゅゆうしんとは、そんぎょうをいでたるほとけ」とは、まさしく、にちれんだいしょうにんが、ぼんぷそくごくの、ほとけであることをしめしている。
 そんぎょうとは、しきそうそうごんのほとけで、りそうぶつとやくす。
 ここでは、だつちゃくのほとけをさして、そんぎょうというのである。
 しゅつそんぎょうぶつとは、ぼんぷそうのほとけ、すなわちげしゅのほとけである。
 したがって「しゅつそんぎょうぶつとは、むさのさんじんということなり」と。
 そのとうたいをあかしているのである。
 このもんと、おんぎくでんげ、「さればむさのさんじんとは、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃなり、むさのさんじんのほうごうを、なんみょうほうれんげきょうというなり」(0752-06)のおんふみとを、よくよくおもいあわすべきである。
 されば、むすびのもんに、「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものこれなり」と、おおせられたのである。
 このところは、まったく、にちれんだいしょうにんのごじしんのことをとかれたところであるが、さいさんのべているごとく、ここでも、「とうのたぐい」とおおせられ、だいごほんぞんをしんじゅしたわれらをも、ふくめて、おおせくださっている。
 つねに、だいしょうにんが、われわれを、ごじしんとおなじきょうちにひきあげようとしてくださっている、おじひをつうかんするものである。
 じじゅゆうしんを、せいめいてつりのうえからいえば、せいめいは、ほかによってつくられたものではなく、じしんのうちにいんがのりほうをないほうし、じょうじゅうしているということである。
 かみによってつくられたとか、こんぜにおいて、はじめてたんじょうしたとかいうものでは、もうとうない。
 したがって、すべて、じぶんじしんのせきにんであり、じしんをかくりつするいがいにない。
 だが、げんじつには、じしんのせいめいは、ぼんのう、ごう、くにしばられ、さゆうされ、しはいされている。
 また、かんきょうのじゅうあつにおしつぶされ、まったくちいさな、よわよわしいそんざいとなってしまっている。
 これは、しんのじじゅゆうしんではない。
 ここに、じじゅゆうしんのきゅうきょくのとうたいである、だいごほんぞんときょうちみょうごうすべきゆえんがある。
 さきにものべたごとく、にちれんだいしょうにんは、なにものにもさゆうされない、こんごうふえのぶっしんであられる。
 ここにきょうちみょうごうするとき、われらもまた、ほうかいをじしんとひらき、ほうかいをじざいにかけめぐるごとき、つよき、ひろき、じがをかくりつし、しゅたいせいをじゅりつしていけるのである。
 「ほうかいは、じじゅゆうしんなれば、じがげにあらずということなし」とは、ほうかいそくじじゅゆうしん、ほうかいそくじがげということであり、それは、うちゅうだいの じこをけんげんしていくことにほかならぬ。
 さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく、「いっさいのほうはみなこれぶっぽうなりとしりぬれば、きょうくんすべきぜんちしきもはいるからず、おもうとおもい いうといい、なすとなし、ふるまいとふるまう、ぎょうじゅうざがの、し、いぎのしょさは、みな、ほとけのみこころとわごうして、いったいなればとがもなく、さわりもなきじざいのみとなるこれをじぎょうという」、(0570-01)と。
 いっさいのほうは、みなこれぶっぽうなり、としるとは、みょうじそくであり、われらにやくしていえば、じゅじそくかんじんであり、だいごほんぞんをしんじゅし、だいもくをとなえることであり、そくわれらのいっさいのかつどうが、ぶっぽうのりにかない、みょうほうのふるまいにつうじていくことである。この「しる」とは、しんじきるということである。
 このようにしんじたてまつるとき、わがみは、にちれんだいしょうにんのおせいめいとわごうして、いったいとなり、ぎょうじゅうざがのふるまい、ことごとくが、だいうちゅうのリズムとがっちした、しんじつのじゆうのきょうがい、じざいのきょうがいになるとのおおせである。
 これ、しんじつのわがみじじゅゆうしんとあらわれたるすがたであり、さいこうのじたいけんしょうのじこのかくりつなのである。
 こうかん、じがのかくりつ、しゅたいせいのかくりつ、あるいはじゆう、そんげんとうがさけばれているが、このことばのみありて、じつなく、しゃくもんのりょういきであり、しんじつのじったいは、ことごとくぶっぽうにあるといいたい。
 このじじゅゆうしんのかくりつ、かんぜんなるしゅたいせいのかくりつを、にんげんかくめいともいい、それをこんていとしたとき、はじめて、しんじつさいこうのみんしゅしゅぎがじつげんされることを、つよくしゅちょうしてやまぬものである。






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