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  • おんぎくでんこうぎ げ。だいじゅうひち、 だいじゅうはち、ぎょうどうふぎょうどうのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 8月 1日(水)00時44分2秒
 
おんぎくでんこうぎ げ。
だいじゅうはち、ぎょうどうふぎょうどうのこと。

つうげ
 じゅりょうほんだいじゅうろくの、「みちをぎょうじみちをぎょうぜざるをしって」のもんについておんぎくでんにいわく。
 これはじっかいのしゅじょうのことをといているのである。ぎょうどうは、しょうもん、えんかく、ぼさつ、ほとけのしせいであり、ふぎょうどうは、じごく、がき、ちくしょう、しゅら、にん、てんのろくどうである。
 またいわく、さらにろくどうをぎょうどう、ぎょうどうにたてわければ、ぎょうどうはしゅら、にん、てんであり、ふぎょうどうはじごく、がき、ちくしょうのさんあくどうである。だが、しょせん、まっぽうにはいって、だいしょうにんのたちばからいえば、ほけきょうのぎょうじゃはぎょうどうであり、ほうぼうのものがふぎょうどうになるのである。ぎょうどう、ふぎょうどうのみちということは、けっきょく、ほけきょうすなわちまっぽうにおいては、だいごほんぞんのことなのである。そのしょうこにてんだいは、「ぶつどうとは、べっしてほけきょうをさすのである」と。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるでしだんなは、ぎょうどうであり、となえないものは、ふぎょうどうになるのである。

こうぎ
 ほとけは、ぎょうどうのもの、ふぎょうどうのものをぜんぶちしつしておられることを、「わがつねにしゅじょうの、みちをぎょうじぎょうぜざるをしって」というのである。
 しかして「ぎょうどう、ふぎょうどうとは、まっぽうこんじにおいては「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、ぎょうどうなり、となえざるはふぎょうどうなり」と、けつろんされているのである。
 この「となえたてまつるはぎょうどう、となえざるはふぎょうどう」のところは、いちおうは、とうぜんしんじんしていないひとはふぎょうどうであり、しんじんしているひとがぎょうどうである。
 だがさいおうは、ごほんぞんをひたすらしんじまいらせ、じぎょうけたにわたる、ぶつどうしゅぎょうにまいしんし、こうせんるふにたたかうひとでなければ、しんじつのぎょうどうではない。
 にちれんだいしょうにんは、だれがしんけんにたたかい、だれがようりょうよくふるまい、だれがこころにふたごころをいだいているかなど、ぜんぶごぞんじであられる。ということは、だいごほんぞんのかがみ、ぜんうちゅうのかがみ、なんじじしんの、せいめいのかがみに、そのひとのこうどうが、すべてうつしだされることをいみする。
 ぶっぽうは、けっして、へんぱなほうではない。いんがくじのみょうほうであり、げんぜんと、そのひとのしんじん、そのひとのこうどう、そしてふくうんは、せいめいにきざみつけられていく。
 ようりょうをつかい、しょうさいをきかし、うまくたちまわったひとは、そのぶんだけ、かならずのちでそんをする。
 なやまなくてならない。だれひとがみていようといなかろうと、つねにだいしょうにんのおこころをむねに、こうせんるふに、まじめにたたかうひとは、かならずふくうんのはなをひらいていく。そうでなければ、どうしてびょうどうだいえのほうといえるのであろうか。
 まなこにみえざるせかいを、かくしんしていくのがしんじんである。まなこにみえるせかいをおい、こうをあせり、けいしきにながれるひとは、かならずいきづまる。
 おうていのいちねんはみえない。だが、かならず、そのいちねんは、さんぜんられつのめにみえるすがたとして、かがやいてくる。これがぶっぽうである。みょうのしょうらんをどこまでもかくしんしきったひとが、さいごの、しかもえいえんのしょうりしゃになる。
 かいもくしょう、じょうにいわく、「せんずるところは、てんもすてたまえしょなんにもあえ、しんみょうをごとせん」(0232-01)と。
 これ、みょうほうをばぜったいにかくしんしきった、だいしょうにんの、れつれつたるきょうちであり、さけびである。
 わがみのあんじゅうのみをもとめてもくぜんのりがいにはしるすがたは、まことのしんじんではない。ただいまがどうであれ、だれがちょうしょうしようと、ゆうぜんと、だいしょうにんのおおせどおり、まっしぐらにすすんでいくところに、しんじんのきゅうきょくであるといいたい。


おんぎくでんこうぎ げ。
 だいじゅうひち、ほういつじゃくごよく、だおあくどうちゅうのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほういつとは、ほうぼうのななり、にゅうあびごくうたがいなきものなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、このきょうもんをめんりせりうんぬん。

つうげ
 じゅりょうほんだいじゅうろくの、「ほういつにして、ごよくにじゃくし、あくどうのなかにおちなん」のもんについて、おんぎくでんにつぎのようにおおせである。
 ほういつとはほうぼうの、なである。
 にゅうあびごくうたがいなきものである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかとしてなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、このきょうもんからまぬかれているのである。

こうぎ
 ほういつとは、ほうぼうのひとのすがたをいうのである。すなわち、こうふくへのだいどうがあるにもかかわらず、わざわざそのだいどうをあゆまず、ふこうにおちゆくひとのことである。
 だが、さいおうは、このもんはしんじんしているひとにも、つうずるものである。
 にんげんというものは、ほっておけば、そしきからはなれ、ごほんぞんからはなれ、ごよくにじゃくし、やがてじぶんをくるしめていくことになる。
 ここにしどうがたいせつなゆえんがある。また、つねにこじんこじんにおいて、ほっしんすることがたいせつなのである。
 いつのまにかだせいにながされ、けいしきかし、なれてしまっているじこにきづくことがだいじである。まんしんがあると、それがみえない。
 ごしょのもろもろのところに、「こころのしとはなるとも、こころをしとせざれ」(1088-15)とある。
 こころのしとは、ごほんぞんである。また、つねにごほんぞんにこころをむけていこうとするじこじしんもこころのしである。だじゃくなこころにながされるのではなく、つねにこころをただしいほうこうにむかわしめる、しゅたいしゃでなくてはならない。
 けっして、じこのきょうまんなこころ、よわいこころ、ひきょうなこころをしとして、それをちゅうしんとした、こうどうであってはならない。
 じぶんのこころのしゅたいしゃに」なることは、しんのじがのかくりつである。じぶんのこころにひきずられ、そのこころのままにふるまうことは、じがのかくりつではなく、じがのめっしつであり、ほういつであり、がよくにしはいされた、じゃくしゃであるといいたい。
 つねに、だいごほんぞんをこんぽんとしたじんせいほどつよいものはなく、こうふくなものはない。ごほんぞんにてらされた、じたいけんしょうのじんせいを、さらに、ともにすすんでいただきたいとおもう。


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