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  • おんぎくでん げ。 だいじゅうよん、じがぎゅうしゅそう、くしゅつりょうじゅせんのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月25日(水)02時15分42秒
 
 おんぎくでん げ。
だいじゅうよん、じがぎゅうしゅそう、くしゅつりょうじゅせんのこと。

つうげ。
   じゅりょうほんだいじゅうろくの、「ときにわれ、およびしゅそう、ともにりょうじゅせんにいず」のおんぎくでんにいわく。
 このもんは、てんだいがほっけしゅうでん、ほうげにかいしゃくしているごとく、「りょうぜんいちえ、げんねんみさん」のもんである。
 じがぎゅうしゅそうの、じとは、かんのうまっぽうのとき、すなわち、しゅじょうがごほんぶつのしゅつげんをかんじ、ごほんぶつもまた、これにおうじてしゅつげんするという、じゅうだいなときをさすのである。
 われとはしゃくそん、すなわちぶっかいをいみし、ぎゅうとはぼさつかい、そしてせいしゅう、すなわちにじょうかいのせいじゃを、、しゅそうと、とかれたのである。またくとはじっかいをいみするのである。
 りょうじゅせんとは、じゃっこうどのことである。このまっぽうのこんじにおいて、われもぎゅうも、しゅそうもともに、すなわちじっかいことごとくが、りょうじゅせんすなわち、じゃっこうどにあらわれるのである。このことは、じんぴのほうもんであり、かたくひすべきである。しょせん、このもんは、もんていげしゅどくいっほんもん、じぎょうのいちねんさんぜんの、みょうもんである。ごほんぞんは、このもんを、じじつのうえにぐげんかされたものである。
 さればくしゅつのくとは、だいごほんぞんにじっかいのせいめいが、おんねんとしてそなわっていることであり、これじたいはふへんしんにょのりなのである。しゅつとはしんじんによって、だいごほんぞんのじっかいのせいめいかつどうがわれわれにかんのうしてくることであり、ずいえんしんにょのちなのである。さらにくとは、しんじんのいちねんであり、これがふへんしんにょのりとなり、しゅつとは、しんじんがあって、はじめてずいえんしんにょのちとなり、さんぜんのかつどうが、みょうほうにてらされたこうふくなかつどうになっていく。このように、くしゅつをばにじゅうにはいすべきなのである。
 またいわく、じがぎゅうしゅそうくしゅつりょうじゅせんのときとは、このしゃばせかいにだいごほんぞんがしゅつげんした、くおんそくまっぽうのときなのである。したのがぎゅうしゅそうくしゅつりょうじゅせんとは、じっかいごぐ、じのいちねんさんぜんのだいごほんぞんをあらわすもんである。
 そのわけは、ときとは、まっぽう、ごごひゃくさいのはじめ、だいごほんぞんごしゅつげんのときであり、われとはしゃくそん、ぎゅうはぼさつ、しゅそうはにじょう、くとはろくどうであり、しゅつとは、これらのじっかいのせいめいかつどうが、りょうぜんじょうどにれつしゅつすることをいう。しかして、りょうぜんとは、ごほんぞんのことであり、ごほんぞんにじっかいのせいめいがれつしゅつすることをいみするからである。りょうぜんとは、またにちれんだいしょうにんおよびそのもんかがなんみょうほうれんげきょうととなえる、そのひとのじゅうしょがりょうぜんであり、いずこであれ、ぶっかいにてらされ、こうふくなるせいかつをしていくことができるのである。

こうぎ。
 このところは、にちかんしょうにんの、えぎはんもんしょうによれば、「いっしんよっけんぶつ、ふじしゃくしんみょう」のもんとあわせて、さんだいひほうのえもんになる。
 すなわち、ずしすれば、つぎのようになる。
   いっしんよっけんぶつ、ふじしゃくしんみょう・・・ほんもんのだいもく
   じがぎゅうしゅそうくしゅつ・・・・・・・・・・・ほんもんのほんぞん
   りょうじゅせん・・・・・・・・・・・・・・・・・ほんもんのかいだん
 ほんもんのだいもくのもんは、またしんぎょうにわかれ、いっしんよっけんぶつとは、しんじんであり、ふじしゃくしんみょうとは、しょうだいしゅぎょうである。
 じがぎゅうしゅそう、くしゅつがほんもんのほんぞんであることは、このおんぎくでんのもんでめいかくであり、りょうじゅせんは、ごほんぞんのましますところであり、ほんもんのかいだんとなることはめいはくである。

りょうぜんいちえ、げんねんみさん。
 てんだいだいしのことばではあるが、だいしょうにんのぶっぽうにおいてろんずるとき、まことにじんのんなてつりをほうがんしている。
 りょうぜんいちえとは、ほけきょうがとかれたりょうじゅせんのえざであり、そのぎしきは、うちゅう、せいめいのぎしきであり、だいうちゅうのじっそうであり、そのすがたは、いまなおげんぜんとしてなくてはならず、えいえんにじょうじゅうしているのである、とのこころである。
 りょうじゅせんのぎしきといっても、しゃくそんこしんのぎしきであり、じこのせいめいのじっそうを、じそうとして、せつめいとして、きょうもんにといたのが、ほけきょうである。りょうぜんいちえとは、せいめいそれじたいに、じっかいさんぜんがげんぜんとしてぐしているすがたであり、にちれんだいしょうにんは、このぎしきをかりて、ごじしんのないしょうたるくおんがんじょのじじゅゆうしんにょらいのいちねんさんぜんのせいめいをば、いっぷくのだいまんだらとして、ごずけんあそばされたのである。
 これにかんれんして、とだぜんかいちょうの、ほうとうほんだいじゅういちのぎしきについてのつぎのしさくはまことにじゅうだいであり、かんめいぶかきものなので、ここにいんようしておきたい。
 「しゃくもんのるつうぶんたる、けんほうとうほんにおいて、たほうとうがこくうにたち、しゃか、たほうのにぶつが、ほうとうのなかにびょうざし、じっぽうぶんしんのしょぶつ、しゃくけ、たほうのだいぼさつ、にじょう、にんてんとうがこれにつらなる、いわゆるこくうえのぎしきがとかれている。これは、はなはだひかがくてきのように、おもわれるがいかん。しかしぶっぽうのおうていより、これをみるならばきわめてしぜんのぎしきである。もしこれをうたがうなら、じょぼんのときにすでにだいふしぎがある。すうじゅうまんのぼさつやしょうもんや、じっかいのしゅじょうがことごとくあつまって、しゃかぶつのせっぽうをきくようになっているが、こんなことができるかどうか。かくせいきもなければ、またそんなおおきなこえがでるわけがない。まして、はちねんかんもそれがつづけられるわけがない。すなわち、これはしゃかこしんの、しゅじょうであり、しゃかこしんのじっかいであるから、なんじゅうまんあつまったといってもふしぎはない。されば、ほうとうほんのぎしきも、かんじんのうえにてんかいされた、ぎしきなのである。
 われわれのせいめいには、ぶっかいというだいふしぎのせいめいが、みょうぶくしている。このせいめいのちからおよび、じょうたいはそうぞうにもおよばなければ、ひつぜつにもつくせない。しかし、これを、われわれのせいめいたいのうえに、ぐげんすることはできる。げんじつにわれわれのせいめいそれじたいもみょうぶくせるぶっかいをぐげんできるのだとときしめしたのが、このほうとうほんのぎしきである。
 すなわち、しゃかはほうとうのぎしきをもってこしんのじっかいごぐいちねんさんぜんをあらわしているのである。にちれんだいしょうにんは、おなじくほうとうのぎしきをかりてじゅりょうもんていげしゅのほうもんをいっぷくのごほんぞんとしてこんりゅうされたのである。さればごほんぞんはしゃかぶつのほうとうのぎしきをかりてこそおれ、だいしょうにんのこしんのじっかいごぐいちねんさんぜん ほんぶつのおせいめいである。このごほんぞんはごほんぶつのえいえんのせいめいをごずけんあそばされたので、まっぽうゆいいつむにのそくしんじょうぶつのだいごほんぞんであらせられる。まっぽうのみんしゅうは、このごほんぞんによってのみきゅうさいされるのである。
 ほうとうほんだいじゅういちよりこくうえのぎしきははじまる。だが、いまだ、じゆうのぼさつのしゅつげんもなければ、じょうじゅうのせいめいもときあかされていない。じゅりょうほんだいじゅうろくにいたって、こくうえのぎしきはかんぺきにととのうのである。ほうとうほんだいじゅういちのたほうのとうに、しょうぜんのほうとう、きごのほうとうのにいがあり、きごのほうとうにしょういがあるかというのは、まさにほうとうほんだいじゅういちが、じゅりょうほんだいじゅうろくのぜんていであることをしめすことにほかならない。
 すなわちじゅりょうほんのぎしきこそ、しゃくそんいちだいごじゅうねんのさいこうのぎしきであり、せいめいのしんじつのすがたをときあかしたものである。
 しかしながら、このじゅりょうほんだいじゅうろくのぎしきといえども、いまなお、もんじょうのはんいないであり、じつにもんていげしゅじぎょうのいちねんさんぜんのだいごほんぞんのせつめいしょとなるのである。
 じゅりょうほんだいじゅうろくにしゃかこしんのじっかいさんぜんのせいめいがことごとくられつしているといえども、もんじょうのはんいないでは、ごひゃくじんでんこうのしきそうそうごんのしゃくそんのしんぐのじっかいさんぜんにすぎない。すなわち、くおんがんじょのじじゅゆうしんのいちねんのしんぽうにぐびするじっかいさんぜんではなく、あくまでも、きょうそうのはんちゅうである。
 にちれんだいしょうにんごずけんのだいごほんぞんは、じゅりょうもんていにときあかされた、くおんがんじょのじじゅゆうしんのいちねんのしんぽうそくなんみょうほうれんげきょうがこんていとなり、したがってさゆうのじっかいさんぜんは、たとえじゅりょうほんだいじゅうろくのぎしきをかりてこそおれ、くおんがんじょじじゅゆうしんにょらいのいちねんのしんぽうにぐびするじっかいさんぜんであり、ごほんぶつのせいめいそれじたいである。
 わかりやすくいえば、こくうえのぎしきは、しゃくそんが、だいうちゅうに、またこしんにごほんぞんのすがたをえがいたものである。ただし「なんみょうほうれんげきょう にちれん」というこんぽんがない。したがって、それはじっかいさんぜんのすがたのみにとどまる。すなわち、そのこんげんであるなんみょうほうれんげきょうのはたらき、あらわれたるすがた、げんしょうをときあかしたものともいえる。
 ゆえにりょうじゅせんのぎしきそくこくうえのぎしきは、ことごとく、だいごほんぞんにおさまり、いっぽうもあますところがない。
 しょせん、りょうぜんいちえ、げんねんみさんとは、てんだいが、じゅりょうほんだいじゅうろくの「じがぎゅうしゅそう、くしゅつりょうじゅせん」のもんにより、だいごほんぞんのすがたをのべたものにほかならない。
 てんだいだいしのがんいをくんでこのもんをよめば、りょうぜんいちえのぎしきは、いまだげんぜんとしてちっていない、すべて、まっぽうしゅつげんのだいごほんぞんにほうがんされているのである、と。
 にちにょごぜんごへんじにいわく、
 「ここににちれんいかなるふしぎにてやそうやらんりゅうじゅてんじんとう、てんだいみょうらくとうだにもあらわしたまはざるだいまんだらを、まっぽうにひゃくよねんのころはじめてほっけぐつうのはたじるしとしてあらわしたてまつるなり、これまったくにちれんがじさくにあらずたほうたっちゅうのだいむにせそんぶんしんのしょぶつすりかたぎたるほんぞんなり、さればしゅだいのごじはちゅうおうにかかり、しだいてんのうはほうとうのしほうにざし、しゃか、たほう、ほんげのしぼさつかたをならべふげん、もんじゅとう、しゃりほつ、もくれんとうざをくっし、にってん、がってん、だいろくてんのまおう、りゅうおう、あしゅら、そのほか、ふどう、あいぜんはなんぼくのふたかたにじんをとり、あくぎゃくのだった、ぐちのりゅうにょいちざをはり、さんぜんせかいのひとのじゅみょうをうばふあっきたるきしもじん、じゅっらせつにょとう、しかのみならずにほんこくのしゅごしんたるてんしょうだいじん、はちまんだいぼさつ、てんじんななだい、ちじんごだいのかみがみ、そうじてだいしょうのじんぎとう、たいのかみつらなる、そのあまりのゆうのかみあにもるべきや、ほうとうほんにいわく「もろもろのたいしゅうをせっしてみなこくうにあり」うんぬん、これらのぶつぼさつ、たいとう、そうじてじょぼんれつざのにかいはちばんのざつしゅうとういちにんももれず、このごほんぞんのなかにじゅうしたまいみょうほうごじのこうみょうにてらされてほんぬのそんぎょうとなるこれをほんぞんとはもうすなり」(1243-)と。
 さらに、われらみょうほうじゅじのでしにやくして、りょうぜんいちえげんねんみさんとは、だいごほんぞんにむかってしょうだいするときのすがたであり、こしんのりょうじゅせんが、わがとうたいにかがやいてくることをいうのである。すなわち、わがせいめいそれじたいがこくうえとなる。また、だいごほんぞんをたもってのにちじょうせいかつも、ことごとくりょうじゅせんにおけるふるまいとなり、だいうちゅうのリズムにかなったこうどうとなるのである。
 また、こんにちのそうかがっかいのすがたこそ、りょうぜんいちえげんねんみさんである。にちれんだいしょうにんのごほんぶつのせいめいは、ただ、そうかがっかいのみにあることはいうまでもない。
 したがって、ここにこそ、さんぜじっぽうのしょぶつ、ぼさつもらいしゅうし、しょてんもちからをまし、まさにりょうじゅせんのえざそのものとなっているのである。
 いま、こうふのひ、いやましてちかきにあり、りょうぜんいちえ、げんねんみさんのもんをつよく、ふかくかくしんし、そうかがっかいのしめいのじゅうだいなるをじかくし、あたらしきじだいのけんせつに、しんじつのこうきゅうへいわじつげんのために、まいしんしていっていただきたい。

 されば、くとは、ふへんしんにょのりなり、しゅつとは、ずいえんしんにょのちなり、くとはいちねんなり、しゅつとはさんぜんなり。
 くしゅつをずいえんふへん、またいちねんさんぜんにやくしてかいしゃくせられたおんふみである。
 くとは、だいごほんぞんに、じっかいのせいめいがおんねんとしてぐしているすがたであり、これは、くおんがんじょいらい、ふへんじょうじゅうのすがたであり、ふへんしんにょのりとなる。だいごほんぞんは、はちまんほうぞうのごくりであり、だいうちゅうのこんぽんであり、ぜんしゅじょうのいちどうにきしたてまつるべきほんげんである。さればふへんしんにょのりのきゅうきょくであり、あらゆるりは、すべて、ここにつくされている。
 しかして、だいごほんぞんは、またずいえんしんにょのちのとうたいであられる。にちれんだいしょうにんのおせいめいそれじたいであり、われらがだいごほんぞんをしんじゅしたてまつるとき、だいごほんぞんのじっかいのせいめいかつどうが、われらのせいめいにかんのうし、しんじつのこうふくなるせいめいかつどうをしていくことができる。
 「しゅつとはずいえんしんにょのち」とは、このごほんぞんのいだいなるくりきのゆげんをいうのである。だが、このゆげんは、わがらのしんじんのいちねんによるのであり、しんじんのいちねんこそ、まさにくしゅつのしゅつであり、ずいえんしんにょのちというべきである。
 さらに、こんどは、くしゅつのくをしんじんのいちねんとし、しゅつを、さんぜんのせいめいかつどうにたてわけるのである。したがって、このばあいは、しんじんのいちねんがふへんしんにょのりとなり、さんぜんのせいめいかつどうが、ずいえんしんにょのちとなる。
 おんぎくでんじょうにいわく、「しんはふへんしんにょのりなり、そのゆえはしんは、ちいっさいほう、かいぜぶっぽうと、たいだつしてじっそうのいちりとしんずるなり」(0725-だいいちしんげほんのじ-09)と。
 すなわち、しんとは、むぎわっしんのしんであり、だいごほんぞんいがいにこうふくになるみちはぜったいにないとしんずることをいうのである。もし、すがたのみしんずるようであっても、ほかにもこうふくのみちがあるとこころにおもえば、それは、よぎょうをまじえるものであり、しんとはならない。しかも、だれひとも、このごほんぞんをゆいいつむにとしんずるしんにとうたつするのであり、これは、ばんこふへんであり、すべてのひとにつうずるぜったいのものである。したがって、これをふへんしんにょのりとするのである。
 しかるに、このぜったいふへんのしんにたったときに、わがごたいに、ぶっちがいずみのごとくわきでて、こうふくなるせいめいかつどう、いだいなるかちそうぞうのかつどうをしていくことができるのである。
 このもんは、かくのごとく、にじゅうにはいすべきである。
 だいごほんぞんがいかにいだいなくりきをゆうするとはいえ、これをけんげんするのは、ただ、わがしんじんによるのであり、しんじんとはじっせんであり、こうせんるふにまいしんし、みずからのとうたいが、しんにじじゅゆうちにかがやき、いだいなるかちそうぞうのじんせいをあゆんでこそ、まことのしんじんであり、だいごほんぞんのくどくのじっしょうであるといえるのである


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