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  •  おんぎくでんこうぎ げ  だいじゅうさん、じょうじゅうしせっぽうのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月24日(火)02時27分7秒
 
 おんぎくでんこうぎ げ
だいじゅうさん、じょうじゅうしせっぽうのこと。

つうげ。
   じゅりょうほん、だいじゅうろくの、「つねにここに、じゅうしてほうをとく」のもんについて、おんぎくでんではつぎのごとくおおせである。
 じょうじゅうとは、ほけきょうのぎょうじゃ、すなわちまっぽうのごほんぶつのじゅうしょをいうのである。
 こことはしゃばせかいをいい、やまであれ、たにであれ、こうやであれ、いずこであろうとも、ほけきょうのぎょうじゃの、じゅうするところは、じょうじゅうしせっぽうの、しであると、とかれるのである。
 せっぽうとは、りのうえでろんずるならば、いっさいしゅじょうのごごんのおんじょうが、ほんぬのじじゅゆうちのせっぽうなのである。これをいま、まっぽうにやくしてろんずるなら、せっぽうとはなんみょうほうれんげきょうである。
 にちれんだいしょうにん、ごじしんのせっぽうも、またでしだんなのせっぽうも、なんみょうほうれんげきょうの、せっぽういがいにないのである。

こうぎ。
じょうじゅうとはほけきょうのぎょうじゃのじゅうしょなり。
 ほけきょうのぎょうじゃとは、とうぜん、べっしてはまっぽうのごほんぶつにちれんだいしょうにんであらせられる。だが、そうじては、さんだいひほうのぶっぽうをもち、みょうほうるふにたたかうひともまたほけきょうのぎょうじゃとおおせくださっている。すなわち、みょうほうじゅじのひとのせかいこそ、しんじつのじょうじゅうのせかいであるととかれているのである。
 しんじんなくば、えいきゅうにるてんのせかいであり、むじょうなひあいのなかにとざされたままである。しんじんをひらいたときにはじめて、じょうじゅうのせかいがげんしゅつする。しんじつにこうふくなる、じゃっこうのせかいにじゅうし、このじんせい、しゃかい、じだいをぶたいに、じざいにふるまっていけるのである。

 しとは、しゃばせかいなりせんごくこうやをさして、しとはときたまう。
 われわれがいかなるせかいにおいても、たとえやまのなか、たにのなか、こうやにあっても、おのおののきょうぐうでしんじんにはげみ、かつやくしていくならば、それが、にんげんかくめいのどうじょうであり、しゅくめいてんかん、へんどくいやくのぶたいであり、ぜったいのこうふくきょうを、かくとくできることをしめされたおんふみである。
 にぜんしゃくもんのしょきょうでは、ぼんぷのすむ、このしゃばせかいを、ぼんのうとくのうのじゅうまんする、えどであるとし、じっぽうのこくどを、ほとけ・ぼさつのすむじょうどとしたのである。
 たとえば、さいほうじゅうまんおくのこくどをすぎたところに、あみだぶつのすむごくらくじょうどがあるとしたり、とうほうにやくしにょらいのすむじょうるりせかいがあるとしたり、またけぞうせかい、みつごんせかいとうと、きょうもんによりさまざまなせかいをといてきたのである。
 あるいは、しゃばせかいを、どうこのえど、ほとけのすむこくどをじゃっこうど、ぼさつのすむこくどをじつほうど、にじょうのすむこくどをほうべんどであるとよっつにくぶんし、それぞれのべっせかいであるとのべてきたのであった。これ、われわれのげんじつのこのせかいをいみきらい、とおきかなたに、りそうきょうをもとめるものであった。
 しかし、ほけきょうじゅりょうほんにいたり、じょうじゅうしせっぽうととかれ、このしゃばせかいにほとけがげんじつにじょうじゅうしてきたことがあかされ、いままで、あれほどきらわれていたしゃばせかいが、そくほんぬのじゃっこうどとあらわれたのである。また、しどもいちどとなり、そのこくどをじゃっこうどとするのも、えどとするのも、そこにじゅうするひとのいちねんによってきまるととかれたのである。
 かいもくしょうげにいわく、「いまにぜん、しゃくもんにしてじっぽうをじょうどと、がうしてこのどを、えどととかれしをうちかへして、このどはほんどなり、じっぽうのじょうどは、すいじゃくのえどとなる」(0214-03)と。
 さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく、「しどふににして、ほっしんのいちぶつなり、じっかいをしんとなすは、ほっしんなりじっかいをこころとなすは、ほうしんなり、じっかいをかたちとなすは、おうじんなり、じっかいのほかにほとけなし、ほとけのほかにじっかいなくして、えしょうふになり、しんどふになり、いちぶつのしんたいなるをもって じゃっこうどという、このゆえに、むそうのごくりとはいうなり」(0563-02)と。
 どうしょうにいわく、「じゃっこうをば、かがみにたとえ、どうごとほうべんと、じつほうのさんどをば、かがみにうつる、かたちにたとう、しどもいちどなり、さんじんもいちぶつなり、いまはこのさんじんと、しどとわごうして、ほとけのいったいの、とくなるをじゃっこうの、ほとけという」(0573-18)と。
 こうふくは、べっせかいやかくうのせかいにあるのではない。いま、げんじつにいきている、このせかい、このこくどにきずいていくことをしめされたげんりである。これ、ぶっぽうのきゅうきょくであり、にちれんだいしょうにんのぶっぽうにして、はじめて、これをじつげんしえるのである。しょせん、にぜんしゃくもんのごときていきゅうなてつがく、しそうでは、げんじつにこうふくをきずくことができない。ために、ことをみらいによせて、またべっせかいのこうふくをとき、げんじつのくのうを、あきらめによってけいげんするいがいにないのである。ほけきょうほんもんでは、これらのかせつをうちやぶり、このしゃばせかいをじょうじゅうのせかいであり、ほんどなりとときあかしたのである。
 しかして、いま、まっぽうに、はいっては、にちれんだいしょうにんのどくいっほんもんのぶっぽういがいに、いかなるせかいをもこうふくなせかいとてんかんしていく、ちからづよきだいぶっぽうはだんじてないことをしるべきである。ほんもんじゅりょうほんに、いかにこのげんりがあかされているとはいえ、まっぽうのだいびゃくほうなくば、うみょうむじつにならざるをえない。されば、だいしょうにんのぶっぽうをはなれては、ぜったいにじゃっこうどはひらかれず、くのうのせかいにしんぎんするのみとなろう。
 しんじつのこうふくはかんきょうがけっじょうするものでない。にんげんは、かんきょうによって、いっさいがしばりつけられる、はかないそんざいとおもうのは、じしんのせいめいのこうだいをしらざるびゃくけんである。

 いっしょうじょうぶつしょうにいわく、「しゅじょうのこころけがるれば、どもけがれこころきよければ、どもきよしとて、じょうどといひ、えどというも、どにふたつのへだたりなし、ただわれらがこころの、ぜんあくによるとみえたり」(0384-01)と。
 このせかいを、じょうどとするも、えどとするも、しょせん、われらのいちねんによって、けっていされるとおおせである。
 すなわち、おうていのいちねんがじごくであれば、われらがすむせかいはことごとくじごくである。ほんらい、たのしかるべきものも、そのおうていのいちねんに、へんかのないかぎり、そのひとのくをますものにしかならない。
 おうていのいちねんが、しゅらかいであれば、われわれをとりまくせかいは、いっさい、しゅらかいである。われわれのいちねんがてんかいでれば、こくどもてんかいである。わがいちねんにぶっかいをゆげんすれば、われわれがいくところは、いっさいじゃっこうどである。
 むしろ、こう、ふこうのしゅたいは、しょうほうにあり、えほうは、そのはんえいである。ゆえに、しんに、ちからづよき、しょうじょうなしゅたいをかくりつするとき、いかなるしゃばせかいも、じゃっこうのせかいへとかえていけるのである。
 さいれんぼうごへんじにいわく、「さればわれらがきょじゅうして、、いちじょうをしゅぎょうせんのところは、いずれのところにてもそうらへ、つねじゃっこうのみやこたるべし、われらがでしだんなとならんひとは、いっぽをいかずして、てんじくのりょうぜんをみ、ほんぬのじゃっこうどへ、ちゅうやにおうふくしたまふこと、うれしとも、もうすばかりなし、もうすばかりなし」(1343-08)と。
 これは、にちれんだいしょうにんが、るざいのちさどであらわされたごしょのいっせつである。みょうほうをじゅじしたひとが、ぶつどうしゅぎょうをはげむところは、いずれのちであれ、どのようなきょうぐうであれ、さいこうのこうふくなじゃっこうのせかいであるとおおせである。
 なんとすうこうな、いだいなるかくしんであり、おすがたであろうか、るにんのみとし、さむさのなかで、たべるものも、きるものもとぼしく、しかも、たえずせいめいのきけんにさらされた、いわばじごくのどんぞこのようなせいかつのなかで、このちこそぶつどうしゅぎょうのどうじょうであり、つねじゃっこうのせかいであるとさけばれ、むしろ、おでしをはげまされているのである。
 このだいしょうにんのおすがたこそ、なにものにもさゆうされず、しはいもされず、おかされもしない、ゆうゆうたる、ごほんぶつのきょうちであるといういがいにない。
 とだせんせいもまた、ろうのなかをじょうじゅうのじゃっこうどとし、そこでさとりをえている。たとえいかなるところでも、しんじんをまっとうし、にんげんかくめいし、しゅくめいてんかんしていける、しょうさである。
 されば、われらもまた、いかなるくきょうにたたされたじぶんであっても、しんじんによってきょうがいをひらけば、それは、ことごとくじこをせいちょうさせ、そうごんならしめるものとなるとけついしてすすむべきである。このとき、つよきだいせいめいりょくがゆうぜんとあらわれ、いっさいをきりひらいていけることをかくしんするものである。
 いま、ここにこじんにやくして、しゃばせかいそくじゃっこうどのげんりをのべたが、さらに、せかいこうふたっせいのじつげん、ぜんせかいのしゅくめいてんかんであり、しゃばせかいそくじゃっこうどのじつげんなりとだんずるものである。
 いま、まさしく、このちじょうはしゃばせかいであり、えどである。すなわち、げんじつはくのうのせかい、ききのせかい、きょうきのせかいともいうべきであろう。だが、そのほんげんをたずねれば、にんげんせいめいのにごりにあり、にんげんせいのゆがみにあることはいうまでもない。これを、ぶっぽうでは、とんじんちのさんどくとときさんさいのこんげんとなしているのである。
 これをかいけつすべきものは、にんげんせいのこんげんをついきゅうした、ぶっぽうてつりによるいがいになく、みょうほうのみが、このげんじつのしゃばせかいを、そくじゃっこうどにかえるほうなりと、しゅちょうするものである。


せっぽうとは、いっさいしゅじょうのごごんのおんじょうが、ほんぬのじじゅゆうちのせっぽうなり
 これは、せっぽうについてりのうえから、てつがくてきなかいしゃくをなされたところである。つぎの「まっぽうにはいって、せっぽうとはなんみょうほうれんげきょうなり」が、じのせっぽうである。
 いっさいしゅじょうのごごんおんじょうは、ことごとく、そのきょうがいをといているのである。ひとが、くるしいこえをはっするのも、はればれとしたこえをはっするのも、みずがのみたい、あついとうのことばをくちにだすのも、そのとうにんのいつわらざるしんじょうのはつろである。さらにいえば、じしんにほんらいそなわる、ちえのはつげんといえる。
 あかんぼうのなきごえも、ほんぬのじじゅゆうちのせっぽうである。うれしいとき、しぜんにうたがでるのも、ほんぬのじじゅゆうちのせっぽうである。おそろしいとき、ひめいをあげるのも、ほんぬのじじゅゆうちのせっぽうにほかならない。さらには、いっさいのげんげんくく、またはおんじょうは、ことごとくじじゅゆうちの、せっぽうであるとおおせなのである。
 ごしょ、さんもんの、そうじょうをひいていわく、「おとのあいらくをもって、くにのせいすいをしる、しのじょにいわく、ちせいのこえは、やすんじてもってたのしむ、そのまつりごと、やわらげばなり、らんせいのこえは、うらんでもっておこる。 そのまつりごとそむけばなり、ぼうこくのこえはあわれんでもって、おもう、そのたみ、くるしめばなりとうんぬん。きんだいねんぶつの、きょくをきくに、げんせぶみんのこえに、そむきすでにあいどうのひびきをなす、これぼうこくのこえなるべし」(0088-17)と。
 みんしゅうのこえは、じだいをしょうちょうする。みんしゅうのはつする、こえのおんちょうは、じだいのていりゅうである。されば、しどうしゃは、ひとびとの、いつわらざる、しんじょうのこえをきくべきである。そこに、むりょうのせっぽうがあることを、しんずべきである。つねに、せおんをびんかんにキャッチし、せんてをうち、かちそうぞうしていくひとこそ、しんのしどうしゃのありかたといえよう。


 まっぽうにはいって、せっぽうとはなんみょうほうれんげきょうなり、いま、にちれんとうのたぐいのせっぽうこれなり。
 さきのせっぽうは、りじょうのほうもんであり、そのせっぽうそれじたいが、こうふくへのせっぽうではなかった。だが、なんみょうほうれんげきょうのせっぽうこそしんじつのせっぽうであり、こうふくへのせっぽうである。
 せっぽうというと、そうりょが、じいんとうで、ぞくなんぞくにょにたいし“ありがたいおしえ”をとくというこうけいをおもいうかべるごとく、いっぱんには、とくべつなせかいのぎしきのようにおもわれている。
 だが、せっぽうとはけいしきではない。さいこうのほうたるなんみょうほうれんげきょうをとくひとは、だれひとであれ、さいこうのせっぽうをしているのであり、こんにちにおいては、いちたいいちのしゃくぶく、しどう、またざだんかいが、しんのせっぽうのすがたである。
 またなんみょうほうれんげきょうをこんていとしたげんげんくく、おんじょうは、ことごとくひとびとをすくい、せそうをかいかくし、こうふくなこくど、へいわなじんるいしゃかいをきずいていく、いだいなげんどうりょくとなっていく。
 げんぎのにじょいわく「こえぶつじをなす」と。
されば、いかなるところであれ、だいごほんぞんをもった、ひとのささほつほつとふるまうところ、こうふくな、せかいがじつげんしていくことはぜったいにまちがいない。やがて、こうふのとききたらば、どれほど、こうふくのこえ、かんきのさけびが、よにじゅうまんすることであろうか。





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