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  • おんぎくでんこうぎ げ   だいじゅうに、いどしゅうじょうこ、ほうべんげんねはんのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月23日(月)01時49分9秒
 
おんぎくでんこうぎ げ
だいじゅうに、いどしゅうじょうこ、ほうべんげんねはんのこと。

つうげ。
  じゅりょうほんだいじゅうろくの「しゅじょうをどせんがためのゆえに、ほうべんしてねはんをげんず」のもんについてのおんぎくでんにいわく。
これはねはんきょうはほけきょうよりでたものであることをしめすきょうもんである。すでにほけきょうをといたのちにほうべんとしてねはんきょうをといたと、このきょうもんにのべられているからである。


こうぎ。
 ここは、にちれんだいしょうにんが、きょうそうかん、きょうもんかんからとかれたところである。せいめいかん、せいめいろんでとけば、しとはほうべんであるという、せいと、しのかんけいをのべた、きょうもんであることはあきらかである。
 ねはんきょうは、ほけきょうのるつうぶんであり、ほけきょうにもとづいてとかれたきょうもんである。ねはんきょうのきょうもんは、りっしょうあんこくろんをはじめ、しょごしょにいんようされている。とくにうとくおう、かくとくびくのかんけいをといたもん、しゅごふぞくのもん、まっぽうのほうぼうのあくりょのすがたと、そのほんしつをするどくついたよげんのもんとう、まっぽうのるつうのようもんがしょしょにとかれている。
 これ、すなわち、しゃくそんのほけきょうが、まっぽうのためであることをしょうみょうするきょうもんであり、ここにねはんきょうのとくしつがある。だいしょうにんが、てらどまりごしょでねはんきょうのえんきょうは、ほけきょうのてつりをかさねてといたもので、それじたい、どくじのものではなく、ねはんきょうのとくぶんは、むしろぜんさんきょうにあるといわれたのはこのゆえである。
 いま、ここに、てらどまりごしょの、ねはんきょうについてのべられたもんをいんようしておく。
 「ねはんきょうのだいじゅうはちに、しょくみょうじゅうほうと、もうすほうもんあり、てんだいだいしのりょうけんにいわく、いのちとは、ほけきょうなり、じゅうほうとは、ねはんきょうにとくところの、ぜん、さんきょうなり。
 ただし、ねはんきょうにとくところの、えんきょうはいかん、このほけきょうにとくところの、ぶっしょう、じょうじゅうをかさねてこれをといて、きほんせしめ、ねはんきょうのえんじょうをもって、ほけきょうにせっす。
 ねはんきょうのとくぶんは、ただほうべんぜんさんきょうにかぎる、てんだいのげんぎのさんにいわく、「ねはんは、しょくみょうのじゅうほうなり、かさねて、てをうつのみ」もん、せんのさんにいわく、「こんけのいんいは、だいきょうの、ぶをさして、もってじゅうほうとなす」とううんぬん。
 てんだいだいしのしねんじょともうす、もんにほけきょうの、「すいじ、しゅじゅどう」のもんをひいて、まず、しみをまた、じゅうほうとさだめおわんぬ、もし、しからばほけきょうのせんごのしょきょうは、ほけきょうのためのじゅうほうなり」(0952-09)
 このもんにあきらかなように、ねはんきょうは、にぜんきょうとともに、ほっけというこんぽんのせいめいのための、じゅうほうであり、ほけきょうなくば、まったく、むいみなきょうもんとなってしまう。
 ほけきょうよりしゅっぱつし、ほけきょうにもとづき、またほけきょうの、るつうぶんとしてのきょうもんである。
 されば、ねはんきょうは、ほけきょうのほうべんせつであり、ほけきょうというたいこうのための、こうもくとして、そのしんかがあるといえるのである。
 しかして、まっぽうのほけきょうとは、だいごほんぞんであり、そのるつうのためのきょうもんとして、はじめていきるのである。ここに、じょうぶつのじったいがあるとして、これをまっぽうにもちいようとすれば、ほんまつてんとうの、びゃくけんであるといわざるをえない。

ほうべん、げん、ねはんについて。
 ねはんとはしであり、しはほうべんであるということである。しょうとしのかんけいについては、すでにほんぬのしょうじとしてのべたとおりである。これこそせいめいのしんじつのすがたであり、せいめいろんはここにつきるのである。いま、このほんぬのしょうじをだいぜんていとして、そのうえに、ほうべんげんねはんをろんじておきたい。
 ほうべんげんねはんということじたい、すでにふたたびあたらしきしょうのあることをとうぜんのこととしていることはめいはくであろう。すなわち、しは、あたらしきしょうのためのほうべんであり、ふたたび、はつらつとしたせいめいとしてたんじょうするためである。
 ぶっぽうを、あたかも、しのためのじゅんびのしゅうきょうであるかのごとくとくひとがいる。これは、ねんぶつとうのひくきしゅうきょうにとらわれたしそうであり、けっしてしんじつではない。むろん、ぶっぽうは、もっともりんじゅうをおもんずる。それは、りんじゅうこそ、こんぜのしょうのそうけっさんであり、そのじょうたいが、しごもれんぞくし、ふたたびたんじょうするときも、そのれんぞくであるからにほかならない。ぶっぽうは、せいのためのてつりであって、しのためのてつりではない。いきることにしゅがんがあり、せいのおうか、せいのかんきを、さいだいにじかくせしめるものである。

 きょうにいわく「きょうしじゅみょう」と。また、かえんじょうごうしょにいわく「いちにちのいのちはさんぜんかいのたからにもすぎてそうろうなり」(0986-11)と。これほどまでに、せいをおもんじ、そのそんげんなることをだんげんした、しゅうきょう、てつがくが、ほかのいずこにあるであろうか。
 されば、ひとびとが、すこしでもいきたい、ながくいきたい、というのは、にんげんせいのしぜんのはつろである。したがって、このとうときしょうを、じんいてきにふみにじろうとするものは、まさにてんまといういがいにない。
 しかして、そのとうときしょうを、さいこうにかちあるものとしていくのが、にちれんだいしょうにんのぶっぽうなのである。
 せいめいはえいえんである。このえいえんのせいめいからみれば、こんぜのせいめいは、ほんのせつなのようにおもわれるかもしれない。だが、それだけでは、あまりにもしゅたいせいなきしそうといわざるをえない。
 たしかに、こんぜのせいめいは、しゅんかんのごときものといえる。しかし、さいこうのぶっぽうは、このしゅんかんに、えいえんをはらんでいることをおしえている。えいえんなるがゆえに、このしゅんかんがとうといのである。もし、せいめいがえいえんでなければ、なんとはかないこんぜのせいめいであることか。
 ただいま、だいごほんぞんをしんじ、しゃくぶくぎょうにはげみ、こうせんるふにたたかうことは、このいっしょうを、さいだいにかざっていくことはおろか、えいえんのこうふくを、このしゅんかんにひらいていくのである。
 このせいめいが、えいえんであるとともに、そこにそなわるいんがのりほうも、きびしく、えいえんにれんぞくしていくことをしらねばならない。また、わがみにぐするじっかいそれじたいも、じょうじゅうであることをじかくしなければならない。じごくにしはいされたせいめいは、そのまま、にしょう、さんしょうとうと、ながきにわたってつづいていく、がきにしはいされたせいめいも、おなじく、れんぞくしていくのである。
 このたび、せいを、このみょうほう、うえんのちにうけ、けぎのこうふのときにめぐりあわせ、もし、いまにしてしょうじのばくをきり、しんじつのこうふくなるとうたいをきずかずして、また、いつのひにしゅくめいてんかんし、じしんのこうふくをじつげんしていくことができるであろうか。わざわざ、むじょうほうじゅをなげうち、むりょうこうにも、さんあく、しあくのくるしみのせかいをるてんするほどおろかなことはない。
 いまがだいじなのである。このしゅんかんしゅんかんは、かけがえのないしほうのしゅんかんである。このしゅんかんをむいにすごしてはならぬ。
 こんじょうを、このぶっぽうにいき、さいごのしのしゅんかんまでたたかいぬいたひとこそ、しんじつのえいえんのこうふくにかがやくのである。






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