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  • おんぎくでんこうぎ げ   だいじゅう、ぜこうりょうやく、こんるざいし、にょかしゅぶく、もつうふさいのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月21日(土)02時45分40秒
 
  おんぎくでんこうぎ げ

だいじゅう、ぜこうりょうやく、こんるざいし、にょかしゅぶく、もつうふさいのこと。



つうげ。
じゅりょうほんだいじゅうろくの、「このよきろうやくを、いまとどめてここにおく、なんじとってふくすべし、いえじとうれうることれなかれ」のもんについて、おんぎくでんにはつぎのようにもうされている。
 ぜこうろうやくとは、いっぱんてきには、あるいはきょうきょうあるいはしゃりとされている。だが、これはもんじょうのはんいないのことであり、まっぽうにおいては、なんみょうほうれんげきょうこそ、そのじったいなのである。
 こうとあるのは、さんぜしょぶつのこのみものは、だいもくのごじなるがゆえである。こんるとは、まっぽうをさすのである。ざいしのしとはせかいのなかでも、ごほんぞんがいますところのにほんこくである。にょとはまっぽうのいっさいしゅじょうのことであり、しゅとは、われわれがまっぽうのほけきょうたるだいごほんぞんをじゅじするときのぎしきである。ふくするということは、しょうだいすることである。ふくすることによってはじめて、わがみにぶっかいがゆげんし、むさのさんじんのとうたいとあらわれるのである。したがって、しじょうしょうかくにしゅうちゃくするというやまいがなおり、こんぜだけのあさいせいめいかんから、えいえんのせいめいのかくちへときょうがいをひらいていくことができるのである。いま、にちれんだいしょうにんおよびなんみょうほうれんげきょうととなえるもんかのことをいうのである。


こうぎ。
 ここはゆうめいなきょうもんであり、かつ、じゅうようなほうもんをないほうした、おんふみである。
 ぜこうろうやくとは、せんずるところ、もんていげしゅじぎょうのいちねんさんぜんのなんみょうほうれんげきょうであり、そのとうたいは、にちれんだいしょうにんごずけんのだいごほんぞんである。
 ぼうとうの、「ぜこうろうやくとは、あるいはきょうきょう、あるいはしゃりなり、さてまっぽうにては、なんみょうほうれんげきょうなり」の、おんふみは、ぜこうろうやくについての、しゅだつそうたいをあらわしているのである。
 こんるざいしの、こんるとは、まっぽうなのである。すなわち、にちれんだいしょうにんが、まっぽうにごしゅつげんあそばされ、だいごほんぞんをごこんりゅうになり、まっぽうまんねん、じんみらいさいにわたり、ぜんみんしゅうのために、のこしおく、との、がんいである。
 ここに、じゅりょうほんが、もんじょうではなくもんていのじゅりょうほんであることがめいかくである。すなわち、なんみょうほうれんげきょうにょらいのじゅりょうほんであり、ことごとくにちれんだいしょうにんのおんふるまいをあらわすじゅりょうほんとして、だいしょうにんがおよみであることが、りょうぜんとするのである。
 ざいしのこれとは、ぜんせかいのなかでもにほんこくとよむべきであるとだんげんされている。にほんこくこそ、ごほんぶつしゅつげんのくにであり、たいようのごとく、ぜんせかいの、やみをてらすだいしょうほうが、るふすべきさいしょのくにである、とのおこころとはいする。ちゅうりゃく。
にょかしゅぶくのなんじとは、まっぽうのいっさいしゅじょうであるとのべられ、いっさいしゅじょうを、すこしもへんぱなく、びょうどうにすくわれんとするのである。
 だいしょうにんのぶっぽうは、いちぶのひとの、またはとくていのくにの、とくべつのひとのためのものではない。あらゆるくにの、あらゆるかいそうのひと々びとにたいし、だいろうやくをさずけられたのである。
 しんじつのしゅうきょうは、にんげんせいのおうていをときあかしたものである。そこには、ちいとか、けんりょくとかひょうめんてきなもののかべも、みんぞくとか、こっきょうとか、じんしゅとうのさべつのしょうへきもない。だれびとといえども、このだいごほんぞんによって、しんじつのこうふくなる、とうたいをきずいていけることをしめされた、おんふみである。
 しゅとは、だいごほんぞんをじゅじするときのぎしきであり、だいごほんぞんをしんずるはじめである。ふくとは、しょうだいであり、しょうだいしてはじめて、じしんがむささんじんのとうたいとあらわれていくのであるとおおせである。
 およそしんじんとはじっせんであり、じっせんのなかにあらわれるのである。じっせんなきしんじんは、かんねんにすぎない。したがって、じじつのうえに、ちからづよき、じのいちねんさんぜんのとうたいとしてのじこをきずいていくことはできない。「ふくするよりむさのさんじんなり」とは、まさに、このじっせんをきょうちょうされた、おんふみと、はいするものである。
 「しじょうしょうかくのびょうげんいえるなり」とは、げんせしゅぎてきなひくきせいめいかんをうちやぶり、えいえんのせいめいをかくしんしていくことができることをおおせである。
 さらに、ひょうめんてきなけんい、めいせいとうの、あたかもねなしぐさのごとき、すいちゅうのつきのごときものにとらわれて、そのついきゅうのためにやっきとなっているすがたも、しじょうしょうかくのびょうげんである。そのびょうげんをうちやぶり、しんのにんげんかくめいにはげみ、またりんじんのため、しゃかいのため、こんていてきなこうふく、こうきゅうてきなへいわをもたらすことにせんしんしていくことじたい、おなじく「しじょうしょうかくのびょうげんいえるなり」ことである。ゆえに、さいごに、けつろんして「いまにちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるこれなり」とおおせられているのである。
 かくして、なんみょうほうれんげきょうは、せかいののしきしんのいっさいのびょうげんをなおすだいろうやくであることをせんげんされたのが、このおんふみである。
 このにちれんだいしょうにんの、つよきだいかくしん、ふかきおじあいに、ただただ、むねうたれるのみである。よのだれびとが、これほどのつよきしんねんにたって、せかいのひとびとをこうふくにせんとけついし、そのためにあらゆる、しょうまとたたかっているであろうか。
 さて、このきょうもんには、さんだいひほうがふくまれている。
 すなわち、ぜこうろうやくが、ほんもんのほんぞんであり、こんるざいしがほんもんのかいだんであり、にょかしゅぶくがほんもんのだいもくである。
 このことについて、にちかんしょうにんは、えぎはんもんしょうに、つぎのごとくおおせである。
 「じゅりょうほんにいわく、『このよきろうやくを、いまとどめてここにおく、なんじとってふくすべし、いえじとうれうることれなかれ』とう、うんぬん、まさにしるべし、このもんまさしく、さんだいひほうをあかすなり、いわゆる、ぜこうろうやくはすなわちほんもんのほんぞんなり、こんるざいしはこれほんもんのかいだんなり、にょかしゅぶくはすなわちこれほんもんのだいもくなり。
 とうてんだいだいしいわく、『きょうきょうをとどめておく、ゆえにぜこうろうやくという』とううんぬん、このしゃくのこころにじゅんぜば、つうじていちだいをさして、ただ、ぜこうろうやく、そくほんもんほんぞんと、なづくるとなすか、みょうらくだいしいわく、『とんぜんにこうむらしむといえども、もとはじつじょうにあり』とううんぬん、もしこのしゃくによれば、すなわちほけきょうをさして、なづけてぜこうろうやくとなすいずくんぞ、ほんもんのほんぞんというや。
 こたう、ぞうまつことにして、ふぞくおなじからざるゆえに、まっぽうほんげのふぞくにやくす、ゆえにほんもんのほんぞんというなり。ほんぞんしょうにいわく、『ぜこうろうやくとは、じゅりょうほんのかんよう、みょうたいしゅうゆうきょうのなんみょうほうれんげきょうこれなり。このろうやくをば、ほとけなおしゃくけにじゅよせず、いかにいわんや、たほうをや』うんぬん、これすなわち、じんりきふぞくのしょうたい、あに、ほんもんのほんぞんにあらずや、まさにしるべし、じゅりょうほんのかんようとは、かんよう、すなわちこれもんていなり。
 ゆえにかいもくしょうには、もんていといい、ほんぞんしょうにはかんようという。ゆえにしんぬ、もんていかんようは、げんもくのいみょうなり。ごそうでんにいわく、『もんていとは、くおんみょうじのみょうほうに、こんにち、じゅくだつのほけきょうの、きにゅうするところを、こころざしたまうなり。ゆえにみょうらくだいしいわく、すいだつざいげん、ぐとうほんしゅ、とうんぬん』これをおもいあわすべし。
みょうたいしゅうゆうきょうとは、てんだいすでにさんとくにやくして、ろうやくぐそくのしきこうみみをしゃくす、これすなわち、ごじゅうげんなるがゆえなり。もんのきゅうにいわく、『しきはこれはんにゃ、こうはこれげだつ、みはこれほっしんなり、さんとくふじゅうふおうを、ひみつぞうとなずづく、きょうによってしゅぎょうして、このぞうにはいることをえ』。
 みょうらくいわく、『たいとうのさんしょうは、ただこれさんとく』うんぬん、ゆえにしりぬ、しきはこれ、はんにゃ、そく、みょうしゅうなり、こうはこれ、げだつ、そく、みょうゆうなり、みはこれほっしん、そくみょうたいなり、ひみつぞうは、すなわちこれみょうみょうなり、えきょうしゅぎょうはすなわちこれ、みょうきょうなり。ゆえにぜこうろうやくはすなわちこれ、ごじゅうげんなり、もししきこうとうを、ぐそくせずんばなんぞ、よき、ろうやくとなづけん。しかるにしきこうみみ、みなことごとくぐそくす。
 ゆえにぜこうろうやくなり、あに、ごじゅうげんにあらずや、さらにまたじんいあり、われひとにむかってとかず。

 とう、そのしんい、いかん。
 こたう、これひじなりといえども、いちごんこれをしめさん、しょうしんほういんの、げんもんしきだいいちにいわく、『しかしてみょうほうの、なに、たいしゅうゆうをふくむ、ゆえにかならず、まさに、にんぽうのにぎをかぬべし』とううんぬん。
 しゅうそいわく、『さんとく、そくこれさんじんなり』とううんぬん。ゆえにしりぬ、しきはこれ、はんにゃ、そくほうしんなり、こうはこれ、げだつ、そくおうじんなり、みはこれ、ほうしんそく、ほっしんなり、これすなわち、じゅりょうかんよう、もんていのさんじんなり、ゆえにしりぬ、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしん、ほうちゅうろんさんの、むささんじんなり。
 このむささんじんのほうごうを、なんみょうほうれんげきょうというなり、ゆえにさんとくふじゅうふおう、みょうひみつぞうというなり、またこのむささんじんのしょさは、なにものぞ、すなわちなんみょうほうれんげきょうなり。
 ゆえにえきょうしゅぎょう、とくにゅうしぞうというなり、このむささんじんはすなわちこれ、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃなりうんぬん。
 もししからば、ぜこうろうやくのもん、あに、にんぽういったいのほんぞんにあらずや、ぎばがやくどう、これをおもいあわすべしうんぬん。

 こんるざいしは、すなわちこれほんもんのかいだんなり、これすなわちほんもんのほんぞんしょじゅうのところなり、ゆえにこれほんもんのかいだんなりうんぬん、にょかしゅぶくは、すなわちこれほんもんのだいもくなり。
 いわく、このもん、しんぎょうぐそくしてほんもんのだいもく、もっともあきらかなり、いわく、しゅはこれしんじん、ふくはこれしょうだいなり、およそ、しゅというはてをもってこれをとるゆえに、しんじんなり。
 だいろんだいいちにいわく、『きょうのなかにしんをといて、てとなす、てあってほうせんにはいれば、じざいによくとるがごとし』とううんぬん、いうところの、ふくは、くちをもってこれをふくす、ゆえにしょうだいなり、てんだいのいわゆるしゅぎょうをなづけてふくとす、とはこれなり」

 すなわち、ぜこうろうやくとは、ほんもんのほんぞんであるが、またにんぽういっかのごほんぞんであることをもあらわすのである。ぜこうろうやくとは、しきこうみみかいしつぐそくのろうやくである。しかして、しきとは、さんとくにやくせば、はんにゃであり、さんじんにやくせばほうしんである。こうとは、げだつであり、おうじんである。みとは、さんとくにやくしても、さんじんにやくしても、ともにほっしんである。このさんじんは、ないしょうのじゅりょうほんのさんじんであり、くおんがんじょのじじゅゆうほうしん、ほうちゅうろんさんのむささんじんである。これを、てんだいは、めいかくにいわず、さんとくふじゅうふおうとひょうげんしたにすぎなかった。このむさのさんじんのほうごうをなんみょうほうれんげきょうとなづけるのである。このことも、てんだいはみょうひみつぞうというにすぎなかった。だが、このむささんじんにょらいおよびなんみょうほうれんげきょうなのである。これもまた、てんだいは、えきょうしゅぎょう、とくにゅうしぞうというにすぎなかったのである。このむさのさんじんとは、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃであり、にんのほんぞんたる、にちれんだいしょうにんであらせられる。したがってまっぽうのぜこうろうやく、ほうほんぞんたるなんみょうほうれんげきょうは、まったくにちれんだいしょうにんであり、またにちれんだいしょうにんのほうごうをなんみょうほうれんげきょうともうしあげるのである。このゆえに、この、ぜこうろうやくのもんは、まったく、にんぽういっかのだいごほんぞんとあらわすのであると、にちかんしょうにんはとかれているわけである。
 また、こんるざいしとは、だいごほんぞんを、とどむるところであることはめいはくであり、だいごほんぞんしょじゅうのところであれば、ほんもんのかいだんであることはめいりょうである、と。
 また、にょかしゅぶくはほんもんのだいもくである。これをさらにわければ、しゅはしんじんであり、ふくはしょうだいである。
 しゅというのは、およそてをもってとるのである。だいごほんぞんという、ほうせんにはいって、じざいにたからを、てをもってとるとは、まさにしんじんをしめすいがいのなにものでもない。またふくとは、くちをもってふくするのであり、まさにしょうだいをあらわすいがいのなにものでもない、と。
 まことに、めいかいなる、にちかんしょうにんのおしどうであるとはいするものである。

ろうやくについて
 びょうきをなおすくすりが、ろうやくである。だが、びょうきにもけいちょうがあり、またそのしゅるいによってろうやくのないようもことなる。さらに、しきほうのびょうきだけがびょうきではない。しんぽうのびょうきもまた、じゅうだいなびょうきである。いな、このびょうきこそ、もっともなんじであり、げんだいのいかなるいがくしゃも、きょういくしゃも、しんりがくしゃも、なおすことのできぬ、やまいなのである。
このこころのびょうきにも、じゅうじゅうのけいちょうがある。
 にんげん、せいめいのおうていに、ふかくそまった、とんじんちのさんどくのやまいは、ぜったいに、ぶっぽうのだいろうやくによるいがいにない。
 ちびょうしょうにいわく、「それ、ひとに、にのやまいあり、いちにはみのやまい、いわゆる、ちだい、ひゃくいち、すいだい、ひゃくいち、かだい、ひゃくいち、ふうだい、ひゃくいち、いじょう、しひゃくしびょうなり。
このやまいは、たといほとけにあらざれども、これをなおす、いわゆるちすい、るすい、ぎば、へんじゃくとうが、ほうやく、これをじするに、ゆいていえずということなし、にには、こころのやまい、いわゆるさんどくないし、はちまんよんせんのやまいなり、このやまいは、にてん、さんせん、ろくしとうも、なおしがたし、いかにいわんや、しんのう、こうていとうのほうやく、およぶべしや」(0995-06)と。
 すなわち、みのやまいは、めいいであれば、これをなおすことはできるが、こころのやまいは、めいいであっても、なおすことができない、とのこころである。
 このおんふみは、20せいきのこんにちにおいても、そのまま、あてはまる。いな、むしろ、こんにちにおいて、せつじつさをましているすがたさえみられる。
 げんだいいがくでは、こころにかんけいしたびょうきは、ほとんどちりょうほうは、かいむであるといってもよいほどである。これは、むしろ、いっぱんのひとびとより、いがくしゃの、いつわらざるじっかんであり、こくはくなのだ。
 しかも、こころにかんけいしたびょうきとはいえ、いがくがとりあつかうはんいは、にくたいじょうに、あらわれるものにかぎるのであり、こころそれじたいのびょうきは、あつかうもんだいでもなければ、あつかえるものでもない。
 こころのはたらきのおうていは、せいめいそれじたいである。せいめいそれじたいが、とんじんちのさんどくにそまり、にごれるほんしつとなっているがゆえに、さくそうしたせいしんさようとなっていくのにほかならぬ。
 ゆえに、このびょうきをなおしていくほうは、せいめいそれじたいを、もっともちからづよく、しょうじょうに、かがやかしきとうたいにしていくものでなければならない。いじょうのことはこじんばかりでなくしゃかいとてどうようである。
 いま、にほんのしゃかい、またせかいかっこくのげんじょうをみるとき、せいじょうなしゃかい、くにのすがたであるといえるであろうか。あるひとはげんこんのしゃかいを“きょうきのしゃかい”となづけている。まさに、じゅうびょうにひんし、どうすることもできぬじつじょうであるといえる。
 きょだいなぶんめいしゃかいである、アメリカをはじめとするせいおうのゆたかなくにぐにも、そのないぶにはしんこくななやみをぞうしている。いわゆるにんげんそがい、にんげんせいそうしつ、しゅたいせいそうしつというげんしょうであり、なかんずくせいしょうねんのふりょうかは、どうしようもないしゃかいのびょうりとなっている。
 さらに、せいじてきには、ベトナムもんだいとう、つねに、ちみどろのかっとうがつづけられており、これにるいするこくさいしゃかいのびょうりは、いたるところにあるのがげんじつである。
 これをなおす、めいいもいなければ、ろうやくもない。
 だが、かつもくしてみるならば、このしゃかいのやまいは、ひとりひとりのこころのやまいにきちゃくしていく。
 ひんじゃくなるせいしんのどだいに、きょだいで、ふくざつなげんだいしゃかいというけんぞうぶつがたてられているのがじったいであり、これをせいつねにもどすためには、なによりも、ひとりひとりのにんげんかくめいがせんけつである。
 このようきゅうにこたえるだいろうやくこそ、にちれんだいしょうにんのぶっぽうであり、ほかにはぜったいにない。
 やくおうほんだいにじゅうさんいわく「このきょうは、すなわちこれ、えんぶだいのひとのやまいのろうやくなり」と。
 このきょうとは、けっしてしゃくそんのほけきょうではない。いちおうは、そのようにとれるが、さいおうはまっぽうごしゅつげんのだいごほんぞんをいみするのである。されば、たかはしにゅうどうどのごへんじにいわく、「しょうじょうきょう、だいじょうきょう、ならびにほけきょうはもんじはありとも、しゅじょうのやまいのくすりとはなるべからず、いわゆるやまいはおもし、くすりはあさし、そのときじょうぎょうぼさつしゅつげんして、みょうほうれんげきょうのごじを、いちえんぶだいの、いっさいしゅじょうにさづくべし」(1458-13)と。
 すなわち、まっぽうこんじの、いっさいしゅじょうのじゅうびょうは、だいごほんぞんによるいがいに、かいけつのほうなく、にちれんだいしょうにんは、このだいごほんぞんを、ぜんせかいのいっさいしゅじょうに、さずけることをせんげんされているのである。
 にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、せいめいそれじたいのへんかくであり、こんていてきなせいめいのかくめいをもたらす、だいしゅうきょうである。このだいぶっぽうをこんていとしたとき、いかばかりか、せいじょうなひとびと、せいじょうなしゃかい、せいじょうなこくど、せいじょうなせかいがげんしゅつすることかと、おもうものである。

 わたしは、あるいがくしゃのつぎのいちもんをよみ、つよい、かんどうをうけた。
 「それにしても、せいかつりょくの、こんていをなす、ぶっしつてきじょうけんのこうじょうは、こじんてきな、けいよにまつべきでなく、どこまでもしぜんかがくならびに、しゃかいかがくのしんぽにきたいせねばならぬ。
 しかし、それによって、ぶっしつぶんめいがこうどにはってんしたとしても、それはせいめいりょくが、よりおおくはっきせしめるための、じょうけんであって、せいめいりょくそのものを、たかめることではない。しんのじあいは、かくじんをして、そのちからそのものをたかしめるためにある。
 かんげんすれば、にんげんにいきるちからをあたえることこそ、さいだいのじあいである。けれどもにんげんが、にんげんにせいめいりょくをあたえることはできない。ではどうすればよいのであるか。
 しかし、じつは、かくじんはみずからのうちに、そのせいめいりょくをもっている。いな、せいめいをうちにぞうすればこそ、じこのそんざいがあるのである。いわば、ここのせいめいは、せいめいの、おおうなばらのうえに、うごくひとつひとつのなみにもひとしい。
 しかも、にんげんはそのたいかいをわすれ、みずから、いしゅくしてじこのむりょくをかこっている。にんげんに、せいめいりょくをあたえるとは、まさにそのこんていのだいせいめいを、じかくせしめることでなければならぬ。
 しんのじあいとは、ぶっしつをあたえることではなく、かくじんをして、そのせいめいほんらいのすがたを、さとらしめることである。このいみにおいて、もっともふかいじあいは、どうとくであるよりもてつがくてきである。
 それはいいかえれば、てつがくそのものがたんなるりろんのがくではなく、せいめいのじかくをつうじて、せいめいそのものをこうようするものでなければならぬということである。てつがくは、ゆめみるわこうどを、じさつにいざなうものではなく、しぬことすらゆるされぬ、げんじつをいきるひとびとに、いきるちからをあたえるものでなければならぬ。
 てつがくとは、たんなるしんりのけんきゅうではなく、せいのかんきのたんきゅうなのである」
 これは、しんじんはしていないが、いがくしゃとして、げんじつに、いくたの、いけるにんげんをあつかってきたひとの、にんげんせいへの、ふかきどうさつよりはっした、かくしんのことばであり、ぶっぽうにつうずるないようを、ほうがんしている。
 もし、このいちもんに、にちれんだいしょうにんのぶっぽう、そしてだいごほんぞんこそ、そのせいめいのおおうなばらをじかくし、だいせいめいりょくをけんげんする、こんげんであるとの、がりょうてんせいがあれば、そのまま、さいこうのぶっぽうのないようである。
 だが、おしいかな、そのがりょうてんせいがない。したがって、うみょうむじつであり、しゃくもんのげんげんくく、うんぬんにおわっている。
 にんげんに、しんじつのいきるちからをあたえ、こんていのだいせいめいをじかくせしめ、せいのかんきをあたえ、せいめいそれじたいを、こうようせしめる、しんのだいろうやくこそ、まさに、だいごほんぞんであり、ここにこそ、かのげんげんくくのじったいがあるとうったえたい。





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