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  • おんぎくでん げ だいはち とうしわごう、よしりょうぶくのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月19日(木)02時00分36秒
 
おんぎくでん げ。
だいはち とうしわごう、よしりょうぶくのこと。

つうげ
じゅりょうほんだいじゅうろくの、「ちち、こらのくのうすること、かくのごとくなるをみて、もろもろのきょうほうによって、よきやくそうのしきこうみみ、みなことごとく、ぐそくせるをもとめて、つきふるいわごうして、こにあたえてふくせしむ、しかしてこのことばをなさく、このだいろうやくは、しきこうみみ、みなことごとくぐそくすべし、なんだちふくすべし、すみやかにくのうをのぞいて、またもろもろのうれえなけんと」の、もんについてのおんぎくでんにいわく。
 このきょうもんは、くうけちゅうのさんたい、かいじょうえのさんがくをあらわしている。これすなわち、しきこうみみをともにぐそくしたろうやく、すなわちだいごほんぞんなのである。このとうしわごうのさんたいにやくせば、とうは「つく」のこころで、くうたいである。しは「ふるう」のこころでけたいである。わごうは、かんぜんなひとつのくすりとしてしあげるのであり、ちゅうどうである。
 よしりょうぶくのよとは、じゅよといういみである。ことはほっけのぎょうじゃ、すなわちだいごほんぞんをしんじゅするぶっしのことである。ふくするということはじゅじのぎである。このとうしわごうよしりょうぶくを、さらにせつめいして、しだいろうやく、しきこうみみかいしつぐそくと、とかれたのである。
 かいしつのにじは、さんぜしょぶつのまんぎょうまんぜんのくどくも、ろくはらみつしゅぎょうのくどくも、ことごとくだいろうやくたるなんみょうほうれんげきょうにぐそくしていることをあらわしている。
 しきこうとうというのは、てんだいだいしがしかんのかんいちじょうに「いちしきいちこうもちゅうどうにあらざることなし」とのべているごとく、そうもくじょうぶつをあらわすのである。このじったいこそだいごほんぞんにほかならない。されば、だいもくのごじ、すなわちだいごほんぞんにいっぽうとしてぐそくしないものはない。ばんぽうがすべてぐそくしているのである。もしこれをふくするものは、きょうもんに「すみやかにくのうをのぞく」とあるごとく、ただちにくのうをしょうめつすることができるのである。
 されば、このみょうほうのだいろうやくをふくする。すなわちだいごほんぞんをしんずるものは、とんじんちのさんどくの、ぼんのうのやまいをのぞくことができるのである。
 ほけきょうのぎょうじゃ、すなわちだいごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなえるものは、ほうぼうのくようをうけることはない。
 これはとんじんちのさんどくのうちとんよくの、やまいをのぞくことになるのである。またほけきょうのぎょうじゃが、いかにせけんのひとびとから、あっくめりされても、にんにくをぎょうじ、ただそのひとのこうふくをおもってしゃくぶくをぎょうずるのは、しんにのやまいをのぞくことになるのである。また、ほっけのぎょうじゃは、じんりきほんに「このひとぶつどうにおいて、けつじょうしてうたがいあることなけん」ととかれているが、ごほんぞんをしんずることによって、そくしんじょうぶつできるのである。これをかくちすることは、ぐちのぼんのうをじすることになるのである。されば、このだいろうやくたるだいごほんぞんは、まっぽうのそくしんじょうぶつのかんろなのである。いま、まっぽうのごほんぶつにちれんだいしょうにんは、このだいごほんぞんのとうたいであり、まただいごほんぞんをしんずるにちれんだいしょうにんのもんかも、みょうほうのとうたいとなり、だいろうやくのほんしゅとなるのである。

こうぎ。
 このおんふみをはいし、まずにちれんだいしょうにんが、いっさいしゅじょうをわがことおもわれ、しきこうみみ、かいしつぐそくの、なんみょうほうれんげきょうのだいろうやくを、ふくせしめようとなされる、じひのおこころをふかくかんずるのである。
のみならず、くうけちゅうのさんたい、そうもくじょうぶつとうの、じんのんなるせいめいてつりが、このみじかいおんふみのなかに、すべてもうらされている。
 なかんずく、じゅじそくかんじんのげんりがとかれ、だいごほんぞんのいだいなるおちからと、それをじゅじするものの、いだいなるくどくをおのべになっている、このおんふみをば、ふかくこころにきざみ、つよきかくしんにたって、しんぎょうにはげむべきである。

 とうとは、くうたいなり、しは、けたいなり、わごうはちゅうどうなり。
 さんたいのたいとは、しんたいともいい、「つまびらか」または「あきらか」のこころで、くうけちゅうの、みっつのたちばからみていくときに、うちゅうのじっそうを、つまびらかに、あきらかにみることができるといういみである。また、たいは「しんじつふこ」のぎで、うちゅうおよびせいめいのしんじつふこのじっそうそれじたいをもいみする。
 じゅうにょぜじにいわく、「はじめににょぜそうとは、わがみのしきぎょうに、あらわれたるそうをいうなり、これをおうじんにょらいとも、またはげだつとも、またはけたいともいうなり。つぎに、にょぜしょうとは、わがしんしょうをいうなり、これをほうしんにょらいとも、またははんにゃとも、またはくうたいともいうなり、さんに、にょぜたいとは、わがこのしんたいなり、これをほっしんにょらいとも、またはちゅうどうとも、ほつしょうとも、じゃくめつともいうなり」(0410-02)と
 このもんによれば、じぶんいちこのせいめいにやくし、くうけちゅうのさんたいをろんずれば「わがみのしきぎょうにあらわれたるそうすなわち、わがこのにくたい、すがた、かたちは、けたいである。
けとは、いっさいのばんぽうが、おのおのかりにいんねんによってわごうしている、ひそうのめんをいい、ばんほうのそうをいう。われわれのこのにくたいにせよ、すがた、かたちにせよ、たえずへんかし、げんにあるすがたは、かりにわごうしたすがたとしかいいようがないからけたいである。
 「わがしんしょう」すなわち、われわれのしょうぶんとか、せいしんさようは、くうたいである。くうとは、うともむともこていすることのできない。うむのにどうのがいねんである。
 われわれのこころは、この「くう」にあたるものである。とだぜんかいちょうは、よくいかりのしょうぶんをれいにひかれせつめいされていた。われわれのこころのなかには、おこるというしょうぶんがある。このおこるというしょうぶんは、うむをけっすることはできないであろう。あるといおうとしても、どこにもそのじったいはなく、ないといおうとしてもいかりのしょうぶんは、えんにふれて、げんぜんとすがた、こうどう、ごんごとうにあらわれ、たのじょうたいとしきべつすることができる。したがって、こころのはたらき、しょうぶんとうをくうたいというのである。
 そして「わがこのしんたい」すなわち、せいめいのほんしつ、ほんたい、せいめいぜんたいをちゅうたい、ちゅうどうというのである。たとえば、さんさいのときのAとはたちになったときのAとでは、にくたいてきにもせいしんてきにもおおきくへんかしている。だが、さんさいのときのAも、はたちのときのAも、どういつじんぶつのAであり、そのひとそれじたいはいっかんしたほんしつをもっている。これが、ちゅうたいであり、ちゅうどうである。
 また、たんににくたいろんでいえば、そのひとじしんは、しょきかんのそうわであるはずである。だが、じじつはけっしてそうではない。そのひとのぜんたいとしてのせいめいは、きかんのそうわでもなければ、ぶぶんのそうごうでもない。いちこの、とくゆうのほんしつをもったとうたいである。ここに、たんにけたい、くうたいのみにあらずして、せいめいぜんたいとしてのちゅうたいをろんじなければ、せいめいのじっそうはつくせないことはめいかくであろう。
 べつのめんからいえば、われわれのせいめいのほんたいとはたらきにわけることができる。ほんたいは、ちゅうたいであり、ちゅうどうである。はたらきはせいしんさようのごとくすがた、かたちとしてとらえられないものと、にくたいかつどうのごとく、すがた、かたちとしてあらわれるものとにわかれる。ぜんしゃがくうたいであり、こうしゃがけたいである。しかして、くたいくゆうであり、ほんたいといえどもはたらきのなかにしかなく、はたらきといえども、そこにいっかんしたほんしつがあり、それにしたがっている。
 すなわち、ちゅうたい、ちゅうどうといえども、けたい、くうたいのなかにしかなく、けたい、くうたいといえどもいっかんしたほんしつ、ちゅうたいにもとづいているのである。
 このさんたいは、にんげんのみにあてはまるものではなく、ばんぽうにつうずるてつりである。
 たとえば、さいているはなのすがたをみれば、これは、かりである。いつちってしまうかわからないから、けわごうのすがたである。はながめぐみ、いろとりどりのはなをさかせるしょうぶんは、くうたいであり、はながかれても、さいても、そのそうもくじたいのほんしつにかわりはない。これちゅうたいである。
 すでに「じょぼん、ななこのだいじ だいご、げしあびじごくのこと」で、みずの、れいをひいてしめした。かんたんにいえば、みずのほんしつというものはHつうOというぶんししきであらわされる。おゆになろうが、ふつうのみずであろうが、こおりというこたいになろうが、またはすいじょうきというきたいになろうがHつうOそれじたいにはかわりない。これがちゅうたいである。しかして、すいじょうきとなり、あるいはこおりとなり、あるいはれいすいとなる。そのすがた、かたちはけたいである。また、みずは、ひょうめんちょうりょくがあり、あるいはようかいりょくがある。そしてまた、れいどいかではこおりとなり、ひゃくどいじょうではすいじょうきになるとう、そのたおおくのせいしつをもっている。これはくうたいといえる。
 てんだいは、まかしかん、まきだいいち、げで、かがみそれじたいと、かがみの、ぞうをはっきりうつしだすせいしつと、かがみにうつった、ぞうのみっつをもってさんたいをせつめいしている。すなわち「たとへばめいきょうのごとし、めいはそくくうにたとへ、ぞうはそくけにたとへ、かがみはそくちゅうにたとふ。あわせずちらせず、ごうさんおんねんたり」と。
 にぜんきょうにおいても、さんたいは、いちおう、とかれてはいるが、ここバラバラにとかれているにすぎない。すなわち、ぞうきょうでは「たんくうのり」、つうきょうでは「ふたんくうのり」、またべつきょうでは「たんちゅうのり」というように、ぶぶん、ぶぶんがとかれたのである。
 このようなさんたいをば「かくりゃくのさんたい」といい、ほけきょうでとくさんたいは、かんぜんむけつであり、さんたいはそくいちたいであり、いちたいはそくさんたいであり、えんゆうそうそくしているので、これを「えんゆうのさんたい」となづけるのである。いま、このかんけいを、あえてずしすれば、つぎのようになる。

          ┌─くう  ┐
     ┌─くう┼─け    ┼─そくくう┐
     │    └─ちゅう┘       │
     │    ┌─くう  ┐       │
  しょほう  け ┼─け    ┼─そくけ ┼─じっそう
     │    └─ちゅう┘       │
     │    ┌─くう ┐     │
     └─ちゅう─け  ┼そくちゅう┘
          └─ちゅう┘


 にちじゅんしょうにんは、このえんゆうのさんたいについて、つぎのようにしめされている。
 「くう・け・ちゅうのさんたいはおのおのまた、さんたいをぐすとして、そうそくをとくのであります。すなわちさんそくいち、いちそくさんといい、ふじゅう、ふおうといって、たてやよこにならぶのではないというのであります。もし、くうといえば、いっさいがそのままくう、けといえばいっさいがそのままけであるということであります。それをそくくう、そくけ、そくちゅうともうすのであります」
 「このえんゆうのさんたいはりろんてきにせつめいし、あるいはなっとくしようとすることは、ひじょうにこんなんであるので、ひう、ひくう、やくう、やくくうとか、またひゃくひといって、うにあらず、くうにあらず、ひうにあらず、ひくうにあらずとして、ひゃくのあらずをつけてもいいあらわせないなどといい、くうにあらず、けにあらず、ちゅうにあらず、そくくう、そくけ、そくちゅうなどともうして、ふかしぎきょうというのであります」
 すなわち、えんゆうのさんたいとは、せいめいにおいて、またしんらばんしょうにおいて、くう・け・ちゅうのさんたいが、こんぜんいったいとなっているじょうたいであり、かつそれらが、ぼうばくとしているのではなく、げんぜんたるくうけちゅうの、さんたいのそれぞれのすがたがあることをいうのである。
 されば、ほけきょうのてつりにねざした、くうたいは、たんなる、くうたいのみにあらずして、け・ちゅうの、にたいをほうがんした、いみのくうたいであり、けたいもまた、くう・ちゅうの、にたいをほうがんしたいみでの、けたいである。したがって、みょうほうのちゅうたい、ちゅうどうもまた、たんなるちゅうたいのみのちゅうたい、ちゅうどうのみのちゅうどうではなくして、そこにくうたいも、けたいもほうがんし、しかも、それをつらぬくせいめいのほんしつであり、ほんたいであることはあきらかである。

 つぎに、くうけちゅうのさんたいと、ほっぽうおうのさんじんのかんけいをめいかくにしておきたい。
 さんたいとさんじんとは、てつりのうえから、にんしきろんのうえからいえば、まったくどうぎとかんがえてよい。だが、こうふくろんのうえから、しゅじょうとほとけにやくしてろんずれば、さんたいはしゅじょうにやくし、さんじんとはぶっしんにやくすのである。
 さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく、「しゅじょうにあるときには、これをさんたいといい、ぶっかをじょうずるときには、これをさんじんという、いちぶつのいみょうなり」(0573-07)と。
 われわれのせいめいは、ほんらい、くうけちゅうのさんたいをぐびしている。だが、ぶっかをじょうずるときは、くうたいはそのままほうしんに、けたいはそのままおうじんに、またちゅうたいはそのままほっしんにとてんずるのである。
 このときは、われわれのせいめいそれじたいが、ぶっかいにてらされた、みょうほうのちからづよい、しょうじょうむくなとうたい、ほっしんとなり、われわれのごたいはいきいきとやくどうし、またかつどうはみょうほうのふるまい、ほとけのふるまいとなり、しぜんにだいうちゅうのリズムにがっちするおうじんとなり、われわれのしんちゅうは、たくましいぶっちがゆげんし、じだい、しゃかい、じんせいのしんじつのじっそうをみとおすほうしんとなり、あやまりなくゆう々ゆうたる、おうごんのじんせいこうろをあゆむことになる。
 ここに、われわれが、だいごほんぞんをしんじ、じぎょうけたにわたるぶつどうしゅぎょうにはげむゆえんがある。われらがしんりき、ぎょうりきにはげむならば、われらしゅじょうのくうけちゅうのさんたいが、だいごほんぞんのぶつりき、ほうりきにより、もったいなくも、じしんむささんじんにょらいとあらわれるのである。
 つぎにさんたいのとかれたいぎについてかんがえてみたい。
 さんたいとは、さきにのべたごとく、せいめいのしんじつのすがたをときあかしたものである。まさに、このてつりこそ、もっとも、とうようてつがくのこんかんをなすものであり、げんだいてつがく、げんだいかがくをも、ゆうゆうとみおろし、リードしていく、ちからづよいりろんたいけいである。
 せいようてつがくは、そのあしもとにもおよぶところではない。たとえば「くう」というがいねんのひとつをとりあげても、それはじつにふかきないようをもつことは、これまでのせつめいでも、りょうかいできよう。いっぱんのてつがくにおいては「う」と「む」のがいねんいじょうすすんでいない。ただ、ぶっぽうにおいてのみ、あるといえばない、ないといえばあるという、うむをけっすることのできないうちゅうしんらばんしょう、せいめいのとくしつが、かんぜんむけつにとかれているのである。かがくのぶんやにおいても、かってしんくうというのは、まったくくうきょな、なにものもないこととされてきた。だが、こんにちでは、かがくのはったつにより、しんくうはむではない。そこにはむすうのそりゅうしがつまっているとか、むすうのりきせんがあるとうとしゅちょうされるにいたっており、ほとけのとくくうかんをしょうみょうしつつあるすがたがみられる。
 なにも「くう」のみではない。「け」というかんがえかたも、またいだいなるたっけんである。あらゆるものが、しゅんかんしゅんかん、へんかしている。いっじょうのものはなにひとつない。たとえそりゅうしのごときびしょうのせかいであろうと、だいうちゅうにかがやくむすうのほしであろうと、ぎんがけいうちゅうであろうと、そのた、うちゅうのしんらばんしょうのことごとくがへんかし、しょうろうびょうし、しょうじゅういめつのそうをしめしている。
 だがおどろくことなかれ、このようなことがわかってきたのは、かがくしじょう、ついさいきんのことにすぎない。だが、ぶっぽうにおいては、さんぜんねんまえにそのほんしつをたっかんしていたのである。
 いわんや、ぶっぽうのちゅうたい、みょうほうのちゅうどうにおいては、たのてつがくのそうぞうをぜっするところである。しかも、ふしぎとこんにちにいたって、てつがくも、せいじ、けいざいも、いな、ぜんぶんめいがちゅうどうしゅぎのほうこうにむかいつつあることはとくひつすべきである。もし、ぶっぽうのさんたいをこんていにしていくならば、どれはどのすばらしいぶんめい、ぶんかがさきほこることであろうか。
 これとかんれんして、さんたいとげんだいのしはいてきなてつがくとのかんけいにふれておきたい。
 げんだいのしはいてきなしそう、てつがくとしてあげられるものは、ゆいしんしゅぎ、ゆいぶつしゅぎ、じつぞんしゅぎであろう。
 ごくがいりゃくてきに、これらのしそう、てつがくと、ぶっぽうでとくくうけちゅうのさんたいのげんりとをひかくそうたいしてみるならば、ゆいしんしゅぎは、くうたいのいちぶぶん、ゆいぶつしゅぎはけたいのいちぶぶん、そしてじつぞんしゅぎは、ちゅうたいのいちぶぶんを、きわめてひょうめんてきにといたにすぎないといえよう。しかも、かれらのさんたいはべつ々べつであり、あくまでもかくりゃくのさんたいであるにぜんきょうのいきをでぬものである。
 これらをすべてほうがんしたかんぜんむけつのてつりこそ、みょうほうのえんゆうのさんたいであることをきょうちょうしたい。
 こんにちまで、ゆいぶつしゅぎも、ゆいしんしゅぎもけっしてじんるいをこうふくにすることはできなかった。むしろ、たいりつこうそうにしゅうしし、にんげんせいをきずつけ、よくあつして、こんにちまできたといえまいか。しかも、げんじつとみらいにのしかかるじゅうだいなききにたいして、まったくむりょくかしているのが、ありのままのすがたであろう。じつぞんしゅぎとて、こんにち、みんしゅうのささえとなるべきちからあるてつがくとはなっていない。ただかんねんのくうてんをくりかえしているにすぎない。これ、てつがくのひくきゆえであり、ぶぶんをもってぜんたいとこんどうするへんけんのゆえである。
 いままさに、これらのしそう、てつがくを、さらにこうじげんよりしどうし、とういつしうるだいしそう、だいてつがくのしゅつげんすべきときである。
 すなわち、これらのぶぶんかんのしょてつがくの、せかいてきるふは、かんぜんむけつのだいぶっぽうのるふすべき、じょぶんであったとじっかんするものである。
 しょせん、えんゆうのさんたいとは、まっぽうにおいて、なんみょうほうれんげきょうである。
おんぎくでんにいわく「このえんゆうのさんたいはなにものぞいわゆるなんみょうほうれんげきょうこれなり」(0717-09)と。
 なんみょうほうれんげきょうのなかにいっさいがほうがんされる。
  だいうちゅうのさんたいも、しんらばんしょうのさんたいも、われらのせいめいのさんたいもそのほんげんはなんみょうほうれんげきょうであり、そのいっぽうがほうがんされる。これこそしんじつのえんゆうのさんたいである。
 しかも、なんみょうほうれんげきょうは、このさんたいを、もっともつよく、しょうじょうにかがやかしていくほんげんりきであり、そくほっぽうおうのさんじんとてんかんせしめるほったいである。されば、だいごほんぞんにむかい、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、うちゅうのじっそうを、なんらへんぱなく、ありのままにみていけることはもとより、じねんにわがみのさんたいそくむさのさんじんのかくたいとあらわれ、さいこうかちをしょうじていくことを、かさねてつよくしゅちょうしてやまない。

かいしつのにじ、まんぎょうまんぜん、しょはらみつをぐそくしたる、だいろうやくたるなんみょうほうれんげきょうなり。

 「しだいろうやく、しきこうみみかいしつぐそく」のきょうもんの、かいしつのにじは、さんぜじっぽうの、しょぶつのまんぎょうまんぜん、ろくどまんぎょうが、ことごとくなんみょうほうれんげきょうの、いっぽうにぐそくしていることをあらわしている、とのもんいである。
 これは、だいごほんぞんの、いだいなるくりきをとかれた、おんふみである。つぎの「されば、だいもくのごじにいっぽうとして、ぐそくせずということなし、もしふくするものは、そくじょくのうなり」とは、じゅじそくかんじんを、おおせられたものである。
 「ふくするというは、じゅじのぎ」であり、もしふくするものは「そくじょくのう」であるとは、かんじんである。
 すなわち、だいごほんぞんには、さんぜじっぽうのしょぶつの、まんぎょうまんぜん、ろくどまんぎょうがぐそくされており、まっぽうのわれらぼんぷは、すこしもりゃくこうしゅぎょうをつむひつようはなく、ただ、だいごほんぞんをじゅじすることによってのみ、わがせいめいに、これらのまんぎょうまんぜん、ろくどまんぎょうが、じねんにそなわり、わがみが、くるしみにそくばくされぬこんごうふえの、ぶっしんとあらわれる。これが、そくじょくのうであり、そくまっぽうのかんじんにほかならない。
 じゅじそくかんじんのじゅじとは、しんりき、ぎょうりきであり、だいごほんぞんをゆいいつむにとしんじ、じぎょうけたにわたるじっせんにつとめることである。かんじんとは、わがみじっかいごぐ、じのいちねんさんぜんのとうたいとかくちしていくことである。これ、ぶつりき、ほうりきのいたすこうのうである。
 きょうぎょうしょうごしょにいわく、「このほけきょうのほんもんのかんじん、みょうほうれんげきょうは、さんぜのしょぶつのまんぎょうまんぜんの、くどくをあつめてごじとなせり、このごじのうちに、あにまんかいのくどくをおさめざらんや、ただし、このぐそくのみょうかいは、いちどもってのち、ぎょうじゃやぶらんとすれどやぶれず、これをこんごうほうきかいとやもうしけん、なんどたつべし、さんぜのしょぶつは、このかいをたもって、ほっしん、ほうしん、おうじんなんど、いずれもむしむしゅうのほとけにならせたまふ」(1282-10)と。
 きょうぎょうしょうごしょのおんふみは、だいごほんぞんに、まんぎょうまんぜん、まんかいのくどくがぐそくしていることをおおせであり、かんじんほんぞんしょうのおんふみはじゅじそくかんじんをおおせられたのである。
 およそ、われわれがじゅじそくかんじんをじょうずることができるのは、だいごほんぞんがいだいであるからにほかならぬ。ほったいにちからがなければ、それだけしゅぎょうははんざつとなり、しかもちょうきにわたる。したがって、みんしゅうからゆうりし、いちぶのひとびとのぶっぽうとならざるをえない。
 かんじんほんぞんしょうにおいては、ただしくじゅじそくかんじんがあかされるまえに、ほんぞんのとくようがあかされている。
 それについて、にちかんしょうにんは、かんじんほんぞんしょうもんだんに、「およそとうけのかんじんは、これじりきのかんじんにあらず、まさにほんぞんのとくゆうによってそくかんじんのぎをじょうず、ゆえにもしほんぞんのとくゆうをあかさざればそのかんじんのそう、もっともあらわしかたきにあり、ゆえに、まずほんぞんのとくゆうをしめして、のちにかんじんのそうをあかすなり」とおおせられている。
 だいごほんぞんは、さんぜしょぶつののうしょうのこんげんであり、いっさいのほとけのまんぎょうまんぜんを、ことごとくそなえたほったいであられる。ゆえに、われわれがだいごほんぞんをじゅじしたてまつるとき、すみやかにかんじんをじょうずることができるのである。
 にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、みんしゅうのぶっぽうであり、ぜんみんしゅうをいっさいすくいきるだいびゃくほうである。したがって、そのほったいは、いかなるふこうのひとびとをもぜったいにこうふくにしきる、だいくりきをそなえておられるのである。また、そのしゅぎょうも、とうぜん、あらゆるひとびとが、せいかつのなかで、ごくしぜんにおこなえるものとなっているのである。
 こらい、ぶつどうしゅぎょうとしょうして、みんしゅうのむちにつけこみ、きわめてひにんげんてきな、ひじょうしきなこうどうを、しいる、しゅうはがおこなわれてきたが、これ、ほったいにちからなきしょうこであり、あたえていえば、しゃかぶっぽうのありゅうであり、うばっていえば、さんあくどう、しあくどうへの、しゅぎょうなりとだんずるものである。
 ちかくにだいしょうほうがありながら、ひとびとはそれをしらず、いたずらに、これらのあみのなかにとらわれているすがたは、まことにあわれといういがいにない。
 ひるがえって、われらがこれらのおんぎくでん、ほんぞんしょうのおんふみをはいするとき、こうだいむへんのくどくをそなえられただいごほんぞんをじゅじしえたわがみのだいふくうんを、つよくかんずるのである。まことに「むじょうほうじゅふぐじとく」とさけばざるをえない。しかんだいごじょうにいわく「こうじょうにほねをこなにし、せつれいにみをとうず、またなんぞもってとくにほうずるにたらん」と。まただいいちじょうにいわく「じょうたいはひがしにこい、ぜんざいはみなみにもとめ、やくおうはてをやき、ふみょうはこうべをはぬ。いちにちにみたび、ごうがしゃにみをすつるとも、なおいちくのちからに、ほうずるあたわず。いわんやりょうかたにかぶすること、ひゃくせんまんこうすとも、いずくんぞぶっぽうのおんにむくいんをや」と。だいごほんぞんのくどくはぜつだいであり、そのぶつおんのすべてにむくいることはふかのうである。ただ、このみをこうせんるふじつげんにささげ、だいしょうにんのごゆいめいのたっせいにぜんりょくをつくすことこそ、しんじつのほうおんのいちぶんであると、しんちゅうくふかおもいをいたすべきである。


 しきこうとうとは、いちしきいちこう、むひちゅうどうにして、そうもくじょうぶつなり。
 いちしきいちこう、むひちゅうどうとは、てんだいのしかんのことばであり、そうもくじょうぶつをのべたものである。
 いちしきについては、そうもくじょうぶつぐけつに「このいちしきとはごしきのなかにはいずれのいろぞや、あお、き、あか、しろ、くろのごしきをいちしきとしゃくせり」(1339-02)とあり、ひとつのいろといういみではなく、いろぜんたい、すなわち、あらゆるいろをさしているのである。およそ、いちしきいちこうのいちとは、すうりょうのいちではなく、ぜんほうそく、ぜんうちゅう、ちゅうどうほっしょうのふしぎなるじったい、い
ちねんのせいめいとうのいみの、いちである。
おんぎくでんじょうにいわく、「もんぐのよんにいわく、いちはすなわちいちじっそうなりごにあらず、さんにあらず、ななにあらず、きゅうにあらず、ゆえにいちというなり」(0716-だいさんゆいいいちだいじいんねんのこと-01)と。また、どうくでんにいわく「いちとはみょうなり」(0716-だいさんゆいいいちだいじいんねんのこと-06)さらに、どうくでんにいわく「いちとはちゅうたい」(0717-だいさんゆいいいちだいじいんねんのこと-09)また「いちとはいちねん」(0717-だいさんゆいいいちだいじいんねんのこと-12)と。
 したがって、さきにいんようのそうもくじょうぶつぐけつには、さらに「いちとはほっしょうなり、ここをもってみょうらくはしきこうちゅうどうとしゃくせり、てんだいだいしもむひちゅうどうといへり、いちしきいちこうのいちはにさんそうたいのいちにはあらざるなり、ちゅうどうほっしょうをさしていちというなり、しょせん、じっかい、さんぜん、えしょうとうをそなへずということなし」(1339-03)とおおせられているのである。
 それでは、ちゅうどうほっしょうとはなにか、これについては、みょうらくだいしは、ぐけつに「いちしきいちこうも、ちゅうどうにあらざることなしとは、ちゅうどうそくほうかい、ほうかいそくしかん、しかんふにきょうちみょういち、なり」と、しゃくしているごとく、ちゅうどうほっしょうというのである。いちねんさんぜんほうもんには、ひゃくかいは、けたい、せんにょはくうたい、さんぜんせけんは、ちゅうたいであり、ちゅうどうであるととかれている。
 つぎに、しきもこうもともにそうもくをいみする。しじょうきんごしゃかぶつくようじには「そうもくせけんともうすはごしきのゑのぐはそうもくなりがぞうこれよりおこる、きともうすはもくぞうこれよりしゅつたいす」(1145-01)と、おおせのごとく、しきはそうもくである。すなわち、あらゆるしきはそうもくからちゅうしゅつするがゆえに、しきをもって、そうもくをあらわすのである。また、こうも、こうぼくというがごとく、そうもくをあらわしている。
 いじょうのことをそうごうすれば「いちしきいちこうもちゅうどうにあらざることなし」とは、そうもくにも、じっかいさんぜん、えしょうがことごとくぐそくし、じょうぶつすることができることをいみするのである。
 おなじくそうもくじょうぶつぐけつにいわく「このしきこうはそうもくじょうぶつなりこれすなわちれんげのじょうぶつなり、しきこうとれんげとはことばは、かはれどもそうもくじょうぶつのことなり、ぐけつにいわく「そうにももくにもなるほとけなり」うんぬん」(1339-05)と。
 このそうもくじょうぶつは、いちねんさんぜんのてつりによりはじめてあかされるのであり、ごんきょうにしゅうするものにはきょうてんどうちのほうもんであった。このゆえに、みょうらくだいしは、ぐけつに「しかるにまたともにしきこうちゅうどうをゆるすむじょうぶっしょうわくにきょうしんす」とのべているのである。
 まっぽうにはいって、そうもくじょうぶつのじったいは、にちれんだいしょうにんこんりゅうのだいごほんぞんである。しょせん、そうもくじょうぶつのてつりも、まっぽうしゅつげんのごほんぞんのしょうみょうのためであり、じょぶんであった。
 かさねてそうもくじょうぶつぐけつの、もんをひくならば、ここにだいしょうにんは、げんぜんと、「いちねんさんぜんのほうもんを、ふりすすぎたてたるは、だいまんだらなり、とうせいのならいそこないのがくしゃ、ゆめにもしらざるほうもんなり、てんだい、みょうらく、でんぎょう、うちには、かんがみさせたまへども、ひろめたまはず、いちしきいちこうと、ののしり、わくにきょうしんとささやきたまいて、みょうほうれんげきょうというべきを、えんとんしかんと、かへさせたまいき」(1339-13)とおおせられているのである。
 されば、だいごほんぞんのしゅつげんなくば、いちしきいちこうむひちゅうどうとして、そうもくじょうぶつをあかしたことも、まったくいみをなさない。だいごほんぞんこそ、いちしきいちこうむひちゅうどうのぐげんであり、とうたいそのものである。
 もんちゅう「とうせいのならいそこないのがくしゃゆめにもしらざるほうもんなり」とは、げんだいにもあてはまるつうれつなるはしゃくではないか。だいごほんぞんのいだいなるくりきをしろうともせずして、ぶっぽうをしたりがおをしてろんずるものは、たとえだいがくしゃといえども、「ならいそこないのがくしゃ」であり、かれらにぶっぽうのじんのんなてつりがわかろうはずがない。
 だいごほんぞんは、もったいなくも、かみであり、そうもくである。だが、じのいちねんさんぜんのとうたいであり、ごほんぶつのせいめいそれじたいである。
 だいごほんぞんにおめしたたのおんもじは、おそれおおくも、これすべて、にちれんだいしょうにんのぜんせいめいであられる。
 てんだいのしゃくにいわく、「いちいちもんもんこれしんぶつ」と。しょしゅうもんどうしょうにいわく。「もんじはこれいっさいしゅじょうのしんぼうのあらわれたるすがたなりさればひとのかけるものをもってそのひとのこころねをしつてそうすることあり、およそこころとしきほうとはふにのほうにてあるあいだかきたるものをもって そのひとのひんぷくをもそうするなり、 しかればもんじはこれいっさいしゅじょうのしきしんふにのすがたなり 」(0380-12)と。しかるきかざるものをもって、そのひとのひんぷくをもそうするなり、しかればもんじはこれいっさいしゅじょうのしきしんふにのすがたなり」と。しかして、きょうおうどのごへんじにいわく、「にちれんが、たましいをすみにそめながして、かきてそうろうぞ、しんじさせたまえほとけのみこころは、ほけきょうなりにちれんがたましひは、なんみょうほうれんげきょうに、すぎたるはなし」(1124-12)と。
 したがって、だいごほんぞんを、たんにかみにじがかいてあるていどに、けいはくにかんがえているとすれば、それはだいほうぼうである。そこに、にちれんだいしょうにんがおいでになるおもいで、つよきしんじんにたち、しんけんなしょうだいにはげむべきである。
 にちかんしょうにんのかんじんほんぞんしょうもんだんじょうにいわく「いまあんちしたてまつるところのごほんぞんのぜんたい、ほんぬむさのいちねんさんぜんのしょうしんのみほとけなり、つつしんでもんじおよびもくがとおもうことなかれ」と。またどうもんだんげにいわく「いまいわくみょうほうごじのふくろのうちにくおんがんじょのじじゅゆうしんそくいちねんさんぜんのたまをつつむなり」「とうみょうほうごじのそのたいなにものぞや、いわくいちねんさんぜんのほんぞんこれなり、いちねんさんぜんのほんぞんそのたいなにものぞや、いわくれんそしょうにんこれなり」と。









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