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  • おんぎくでんこうぎ げ。 だいよん、にょらいにょじつちけん、さんがいしそうむうしょうじのこと。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月15日(日)03時05分6秒
 
   おんぎくでんこうぎ げ。
   だいよん、にょらいにょじつちけん、さんがいしそうむうしょうじのこと。

 つうげ。
じゅりょうほんだいじゅうろくの、「にょらいは、にょじつに、さんがいのそうをちけんす、しょうじの、もしはたい、もしはしゅつ、あることなく、またざいせ、およびめつどのものなし」のもんについておんぎくでんにいわく。
 にょらいにょじつちけんの、「にょらい」とは、けっして、しきそうそうごんのりそうじんかくをさすのではなく、このよくかい、しきかい、むしきかいのさんがいにじゅうする、まよいのしゅじょうたる、われらぼんぷのことである。
だがこのさんがいのしゅじょうたる、われらぼんぷのみが、ないしょうのじゅりょうほんたる、だいごほんぞんを、しんずるならばすなわちしんじんのまなこをひらくならば、われらしゅじょうの、せいまえいそれじたい、もとよりじごくかいよりぶっかいにいたるまでの、じっかいをぐびし、えいえんにつづきゆくせいめいの、とうたいであると、ありのままのじぶんをちけんしていけるのである。
 さんがいのそうというのは、しょうろうびょうしのしくをいう。それがほんぬのしょうじであるとみたとき、すなわちだいごほんぞんをじゅじし、えいえんのせいめいをかくちしていくならば、それがむうしょうじとなるのである。そうあればしょうじもなければ、たいしゅつもない。
 しかも、ただしょうじがないだけではない。しょうじをみて、それをおんりし、おそれるのをまよいといい、しかくというのである。しょせん、だいごほんぞんをしんぜず、だいもくをとなえないものに、ただしい、うちゅうかん、せいめいかんがわかるどうりがなく、あさはかな、こんぜろんにしゅうちゃくするのである。
さて、ほんぬのしょうじ、すなわちえいえんのせいめいであると、じかくすることをさとりといい、またみずからのせいめいのほんしつを、しったほんかくであるといえるのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかがなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときに、ほんぬのしょうじ、ほんぬのたいしゅつとかいかくし、みょうほうにてらされたしょうじのにほうをえいえんにくりかえしていくことができるのある、これすなわちしんのさとりであり、ほんかくなのである。
 またいわく、
 むうしょうじにゃくたいにゃくしゅつとうときょうもんにあるが、むもうも、しょうもしも、にゃくたいもにゃくしゅつも、またざいせもめつごもことごとくほんぬじょうじゅうのふるまいなのである。すなわちくおんいらい、じょうじゅうしてきたせいめいのほんしつにそなわるほんらい、ほんねんのすがたであり、はたらきなのである。
 さらにむうしょうじの「む」とは、ほうかいすなわちうちゅうのしんらばんしょうことごとくどうじにみょうほうれんげきょうのふるまいいがいのなにものでもない。またむうしょうじの「う」とは、じごくはじごくのありのまま、がきはがき、ちくしょうはちくしょうのまま、じっかいをもともとぐしており、それじたい、みょうほうのぜんたいである。
 むうしょうじの「しょう」とは、みょうほうそれじたい、くおんよりじょうじゅうするものであり、そのみょうほうをこんていとしたしょうであるから、いまはじめてしょうじたものではない。もともとあるものがねんにふれてあらわれたものである。むうしょうじの「し」とは、じゅりょうのし、すなわちえいえんのせいめいのたちばからみたしであるから、だいうちゅうにみょうぶくし、だいうちゅうそれじたいとなり、そこになんのさべつもない。ほうかいどうじにみょうほうそれじたいなのである。それは「もしはたい」のゆえにめつごすなわちしとなり、「もしはしゅつ」のゆえにざいせすなわちしょうとなるのであって、しりぞくかしゅつげんするかのちがいにすぎない。
 されば、むしたいめつすなわち、うにたいし、む、しょうにたいし、し、しゅつにたいし、たい、ざいせにたいしめつごは、くうけちゅうのさんたいよりろんずれば、くうたいとなる。
だいうちゅうにみょうぶくしているからである。
うしょうしゅつざい、すなわちむにたいして、う、しにたいして、しょう、たいにたいして、しゅつ、めつごにたいしざいせは、えんにふれて、めにみえるすがたとしてあらわれてきたものであるからけたいである。
うしょうしゅつざいにかたよらず、むしたいめつにかたよらず、しかもうしょうしゅつざい、むしたいめつをほうがんして、ありのままにせいめいのじっそうをみていくにょらいにょじつはちゅうどうである。
 これをむささんじんにょらいのしんにろんずるならば、むしたいめつはむさのほうしんであり、うしょうしゅつざいはむさのおうじんであり、にょらいにょじつはむさのほっしんである。このさんじんはくおんがんじょのじじゅゆうしんにょらいのいっしんにそなわるものである。てんだいがもんぐのきゅうに「いっしんそくさんじんなるをなずけてひとなす」とのべたのも、じつはこのことをいみしているのである。おなじく「さんじんそくいっしんなるをなずけてみつとなす」とあるのも、やはりこのことをいみするのである。
 しからば、むさのさんじんのとうたいのれんげのほとけとは、なんみょうほうれんげきょうにょらいたるにちれんだいしょうにんのことであり、またなんみょうほうれんげきょうととなえるにちれんだいしょうにんのもんかも、そうじてはこれにふくまれるのである。

 こうぎ。
 このこうは、せいめいろんのきわめてじゅうような、ふかきてつりをとかれたところであり、このもんをふかくしんぷにそめるべきであるとおもう。ぶっぽうのいだいなるてつりは、ここにきゅうきょくされるといってもかごんではない。


にょらいにょじつちけん。

 にょらいは、ありのままにただしく、じんせい、しゃかい、うちゅうのしんじつのすがたをみておられるとのこころである。
 いま、せかいをおおきく、にぶんしているしそうは、ゆいぶつ、ゆいしんの、にだいしそうである。これは、ともに、かたよったしそうであり、このいっぽうをもってぜったいとするかんがえかたが、じだいをおおきくこんらんとはめつのほうこうにおいやっていることは、めいはくである。むろん、ゆいぶつ、ゆいしんのりょうしそうだけではない。せかいには、さまざまなにんげんかん、じんせいかん、しゃかいかん、じだいかんがあり、それらがたがいにさくそうしている。
しゅうきょうにいたっては、さらにたしゅたようである。
しかしながら、それらのしそう、てつがくが、たとえぶぶんてきにはちがったないようをもっていても、ぶぶんかんであるがゆえに、それをげんじつにじっせんかしたばあいには、ゆがみをしょうずることはとうぜんである。しかるに、おのおのじこのしそうにしゅうちゃくしてへんきょうとなり、せかいをこんらんにおとしいれていることはざんねんでならない。
 いま、せけんで、がくしゃとしょうせられているひとたちのなかには、せんもんてきには、するどい、ふかいどうさつがんをもったひともいるであろう。
だが、これらぶんかされたがくもんのこんていにあるにんげんのもんだい、じんせいのもんだい、ぜんたいてきな、しゃかい、じだいのはあくについては、きわめてきんしがんてきであるてんがしてきされよう。
 にんげんせいめいをはじめ、いっさいのばんしょうについて、ありのままにただしくとらえ、そのほうりをかんぺきにときあかしたのがぶっぽうである。
しきしんふにといい、えいえんのせいめいてつりといい、えしょうふにといい、そのた、ぶっぽうてつりはことごとく、にょらいにょじつちけんのほうりである。 われわれが、しんに、ただしく、じんせい、しゃかい、じだいをかくちしていくためには、いっさいをにょじつちけんされるほとけのせっぽうをしんずるいがいにない。このしんじんにじゅうしたときに、われわれのじんせいも、にょらいにょじつちけんのじんせいとあらわれることをかくしんすべきである。

さんがいについて。
 さんがいとは、いうまでもなく、よっかい、しきかい、むしきかいである。よっかいとはよくぼうのせかいであり、しきかいとはぶっしつのせかいであり、むしきかいとは、よくぼうやぶっしつをはなれたせかいである。せいしんのせかいとかんがえることもできる。
 いちおう、ぶつきょうてんでは、さんがいのたてわけを、つぎのようにたてる。
すなわち、じごくかい、がきかい、ちくしょうかい、しゅらかい、にんげんかい、およびてんじょうかいのなかの、ろくよくてんが、よっかいにぞくする。
ろくよくてんとは、しおうてん、とうりてん、やまてん、とそつてん、けらくてん、たけじざいてんのろくてんである。
 このうち、しおうてんは、しゅみせんのちゅうふくにある、ゆかだせんのよっつのみねにある。ひがしはじこくてん、みなみはぞうちょうてん、にしはこうもくてん、きたはたもんてんである。
とうりてんはしゅみせんのいただきにあって、さんじゅうさんてんにわかれ、そのなかのたいしゃくてんはきけんじょうにいて、たのさんじゅうにてんをとうりょうするという。やまてんいじょうは、くうちゅうにあるので、これをくうごてんといい、さきのにてんをちごてんという。
よっかいのさいじょうにあるたけじざいてんにじゅうするのが、だいろくてんのまおうである。
 そのうえに、しきかいのじゅうひちてんがやまてんがあるとされる。いちおう、なまえをあげれば、だいいちじょうりょしょに、ぼんしゅてん、ぼんぷてん、だいぼんてん、だいに、じょうりょしょにしょうこうてん、むりょうこうてん、きょくこうじょうてん、だいさんじょうりょしょに、しょうじょうてん、むりょうじょうてん、へんじょうてん、だいよんじょうりょしょに、むうんてん、ふくしょうてん、こうかてん、むぼんてん、むねつてん、ぜんけんてん、ぜんげんてん、しきくきょうてんである。このさいごのしきくきょうてんを、うちょうてんともいう。
 いじょうが、よくぼうのせかい、ぶっしつのせかいであるが、これをはなれたむしきかいというせかいには、つぎのししょがあげられている。
すなわち、くうむへんしょ、しきむへんしょ、むしょゆうしょ、ひそう、ひひそうしょのよっつである。
 このようにさんがいとは、こだいインドのしゅみせんをちゅうしんとしたせかいかんをもちいた、うちゅうかんであることは、いうまでもない。
すなわち、これを、げんだいのてんもんがくの、ちしきにあてはめてかんがえるならば、じごくよりにんげんかいまで、われわれのせいかつをしはいするものを、よっかいとなし、てんかいのうち、たいよう、つき、あるいは、ひかくてきちきゅうにちかいてんたいは、われわれのせいかつに、ちょくせつに、またかんせつにかんけいあるところから、よっかいのはんちゅうに、おさめたとおもわれる。
さらにそのうえのせかいは、もはやわれわれのよくぼうとは、なんらかんけいのない、ただそんざいするというだけの、せかいであり、これをよくかいのほかにある、しきかいとしたとおもわれる。
 さらに、よっかい、しきかいだけではなく、むしきかいというせかいかんをかんがえたことは、いだいなるたっけんといわざるをえない。しかも、くうむへんしょといったことばがしめすごとく、だいうちゅうにはてしなくひろがる、うむをけっすることのできぬ、くうのせかい、あるいはしきむへんしょのことばのしめすごとく、ぶっしつのこんげんにまでさかのぼり、そのせかいをそうていしている。あるいは、むしょゆうしょ、ひそう、ひひそうしょのごとく、われわれのそうぞうをはるかにこえた、だいうちゅうのふしぎなるせかいをもかんがえているのである。
 バラモンのげどうにおいては、このひそうひひそうしょをきわめることをさいこうのさとりとしたが、ぶっぽうではこれらのさんがいは、いまなお、ろくどうのまよいのぼんぷのせかいであり、これいがいにせいじゃのさとりのせかいがあるとした。
すなわち、さんじょうのほうべんど、ぼさつのじっぽうど、ほとけのじゃっこうどとそれぞれのせかいがとかれたのである。
 しかも、これらは、いまだにぜんごんきょうのせつめいほうであって、しんじつのものではない。しんじつのだいぶっぽうは、これらのさんがいも、ほうべんど、じっぽうど、ほとけのじゃっこうども、すべて、われわれのいちねんのなかにあるとといている。あるいは、さんがいをはなれて、ほうべんども、じっぽうども、じゃっこうどもない。このわれわれのじゅうするさんがいをそくじゃっこうどとするげんりとじっせんのほうとをしめしたものである。
 さんがいとは、全宇宙と考えることが出来るし、それは即個人にも縮図される。

 こじんにやくしていえば、かんじんのほんぞんしょうにいわく、
 「いかるるはじごく、むさぼるはがき、おろかはちくしょう、てんごくなるはしゅら、よろこぶはてん、たいらかなるはにんなり」(0241-07)と。すなわち、さんがいろくどうは、ことごとく、われわれのせいめいのなかにあり、せいかつにすべて、あることをしるのである。
 このうち、てんかいは、われわれのよろこびのせいめいであり、せいかつであるが、これに、よっかい、しきかい、むしきかいのたてわけがあるとは、ぐたいてきには、いかなることか。
 ろくよくてんは、ぶっしつてきよくぼうがじゅうそくし、よろこぶじょうたいである。いしょくじゅうのまんぞくかんはこれにあたるであろうか。
しきかいのじゅうひちてんは、うつくしいこうけいにみとれて、こうこつとしているじょうたいとか、さんちょうにのぼり、ぞくせけんをはなれたようなよろこびにひたるのはこれにあたろう。
むしきかいのししょとは、たとえばなんかいな、すうじのもんだいがとけた、じっけんがせいこうした。
ろんぶんがかんせいしたとうのせいしんてきなよろこびにひたるのがこれにあたるともいえよう。
 また、がくもん、てつがくもまた、うちゅう、しゃかい、じんせいとうの、それぞれのたいしょうとのかんれんのうえから、おおきくさんがいにたてわけてろんずることができる。
すなわち、せいじがく、けいざいがく、しゃかいがくなどのしゃかいかがく、およびしんりがくなどのじんぶんかがくは、よっかいをたいしょうとしたがくもんといえる。
ぶつりがく、てんもんがくとうのしぜんかがくのたいしょうは、しきかいとたてることができよう。
また、こうかんのてつがくのおおくは、とくにゆいしんろんてきなてつがくはむしきかいのたいしょうとしたものということができる。
しかし、これらのがくもん、てつがくとうは、それぞれさんがいのいちぶぶんを、さらにさいぶんかしてのぞいているにすぎない。
 このうちゅうのじっそうを、にょじつにちけんできぬゆえに、げんだいのふこうにあることは、ぜんじゅつのとおりである。わたしは、いっさいのがくもん、てつがくも、しんににょじつちけんのしょうほうをこんていにおいてこそ、はじめてそれぞれのいちもめいかくとなり、じんるいしゃかいに、さいこうにいかされることをしんじてやまない。
 また、さんがいのそうをにょじつにちけんするとは、じんせい、しゃかいのしょもんだいをあやまりなくみつめ、ただしくたいしょしていくということである。よくぼうにのみしはいされたじんせいは、くのうのれんぞくとなり、また、おろかしい、ひさんなあらそいのせかいになってしまう。いっぽう、かんねんてきなことをのべ、こうしょうぶっていても、げんじつのもんだいはかいけつできないし、ひとをなっとくさせ、しどうすることもできない。
 ただしいじんせいかん、せかいかんにたって、みずからのじんせいをいき、ひと々びともしどうしきってこそ、こじんのこうふくも、せかいのへいわ、しゃかいのはんえいもじつげんできるのである。
 このさんがいのそうを、にょじつにちけんされる、だいちえしゃこそほとけであり、そのちえのとうたいを、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんは、ごほんぞんとしてげんぜんと、のこされたのだ。わたしは、みんしゅうも、しどうしゃも、このほとけのちえをいただいてさんがいのそうをにょじつにちけんしていくならば、せかいをこうふくへ、こうふくへとみちびいていけることはぜったいであるとしんずるものである。


ほんぬじょうじゅうのせいめいかん。
 ほんぬじょうじゅうのせいめいてつりは、じゅりょうほんのごくいであり、それなくしてはじゅりょうほんの、かちはまったくない。のみならず、いちだいせいきょうは、ほうまつにひとしい、にちれんだいしょうにんは、このほんぬじょうじゅうのてつりを、さらにふかくかんぺきにとかれ、みずからほんぬじょうじゅうのふるまいをしめされ、いっさいしゅじょうに、しんじつのこうふくのみちを、ひらかれたのである。
 ほんぬとは、われらせいめいは、だれからつくられたものでもない。
たとえばかみによってつくられたというものではない。また、しょうをうけて、はじめて、たんじょうしたものでもない。もともと、このだいうちゅうとともに、げんぜんとあったのだということである。
じょうじゅうとは、そのせいめいは、だいうちゅうとともに、えいえんにつづいているということであり、むしむしゅうであり、しかもだんぞくてきではなく、つねにこのだいうちゅうにあるということである。
 これはなんしんなんげちゅうの、なんしんなんげのてつりである。われわれのせいめいを、たんにへんかのめんのみに、ちゃくもくするならば、たしかに、ういてんぺんのむじょうのそうであり、しねばむであり、えいきゅうにふたたび、このよにしゅつげんすることはないとおもうのも、とうぜんのことであろう。
ゆえに、よのひとびとのほとんどは、げんせしゅぎかんにおちいり、ほんぬじょうじゅうのせいめいかんをしんじようとしないのである。
 だが、とうようのだいじょうぶっぽうのしんずいは、たんにへんかのせかい、けうのせかいだけでなく、そのおくにあるじょうじゅうのせかいをとききわめたのであった。
 ごしょにいわく「ちかきげんしょうをひいてとおきしんをとるべし」(1045-03)と。
 ほんぬじょうじゅうのせいめいてつりは、ほとけのないしょうのさとりであり、これをただちにりかいし、しんずることはできないかもしれない。だが、このほんぬじょうじゅうのせいめいかんをこつずいとするだいぶっぽうを、じっせんすることによって、げんじつに、いだいなるくどくのじっしょうのあることをもって、そのこんかんたるほんぬじょうじゅうのせいめいてつりをしんずべきである。
 いま、ふたたびほんぶんのいっせつをいんようしつつ、ほんぬじょうじゅうのせいめいてつりをろんじていきたい。
 おんぎくでんにいわく「にょらいとは、さんがいのしゅじょうなり、このしゅじょうをじゅりょうほんのまなこあけてみれば、じっかいほんぬとじつのごとくちけんせり」。
 「にょらい」とは、もっともしょうじょうな、ちからづよい、なにものにもさゆうされない、こんごうふえのほとけのせいめいである。それは、どこかのべっせかいにあるのではなく、われらしゅじょうのせいめいそれじたいである。とおおせである。われらのせいめいは、ほんらい、ぶっかいをないほうせるそんごくなるとうたいである。だが、せいめいのるてんのうえにせんぽうがくんじ、むみょうのくもが、ぶっかいをおおいかくし、さんあくどう、しあくしゅにおちこみ、そこがさながらじゅうしょとなってしまっているのである。
 しかしながら「じゅりょうほんのまなこあけてみれば」すなわち、ないしょうのじゅりょうほんのまなこがひらかれ、だいごほんぞんへのゆいいつむにのしんじんにじゅうしたときに、わがせいめいは、ほんらい、じっかいごぐのとうたいであり、そんごくむじょうのぶっかいのせいめいがあったことを、このごたいのうえにかくちしていくことができる。じじつのうえに、しんじつのこうふくきょうにじゅうし、ないおうよりしょうじょうむぜんな、ちからづよいせいめいのやくどうがあり、さいこうのかちそうぞうのじんせいをあゆんでいくことができる。
 ここにおしめしのごとく、わがせいめいがほんぬであるとともに、じっかいもほんぬである。じごくかいよりぶっかいにいたるまで、だれびとといえども、ほんらい、これをそなえていることをしらねばならぬ。
 これらのじっかいのせいめいかつどうは、つねにえんにふれてあらわれてくる。もともとあるがゆえにあらわれてくるのであり、むからうをしょうずるわけがない。
 じごくかいのびとが、つぎのしゅんかん、てんかいのせいめい、かつどう、すがたへとかわったとする。だが、それはげんみつにいえば、かわったのではない。まったくおなじとうたいでありながら、えんにふれててんかいがあらわれたにすぎない。
 げんじつのくのうにさいなまれ、ひびもんもんとしてたのしまざるひとに、このだいせいめいりょくたるぶっかいがないほうされているとは、おもいもおよばぬことかもしれない。だが、じじつは、いっさいしゅじょうに、ぶっかいのせいめいは、ほんぬのものとしてじょうじゅうしているのである。
 これをじじつのうえに、けんげんしていくには、わがとうたいをうつしだして、くもりなきめいきょうたる、じのいちねんさんぜんのだいごほんぞんによるいがいにないのである。
 「さんがいしそうとは、しょうろうびょうしなり、ほんぬのしょうじとみれば、むうしょうじなり、しょうじなければ、たいしゅつもなし。ただ、しょうじなきにあらざざるなり、しょうじをみておんりするを、まよいといい、しかくというなりさて、ほんぬのしょうじとちけんするを、さとるといい、ほんかくというなり、いまにちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるときほんぬのしょうじ、ほんぬのたいしゅつとかいかくするなり」。
 「さんがいのそう」とはしょうろうびょうしである。すなわち、ういてんぺんのむじょうのそうである。しょうろうびょうしのなかでもっともじゅうようなもんだいは、しょうとじである。したがって、しょうろうびょうしもしょうじのにほうにしゅうやくされる。だが、このしょうじもまた、ほんぬのものである、とおおせられているのである。いちおう、せいめいそれじたいをかんがえれば、せいめいは、しょうじたりめっしたりすることはなく、えいえんにじょうじゅうするものである。
さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく、「しょうと、しと、ふたつのりは、しょうじのゆめの、りなり、もうそうなり、てんどうなり、ほんかくのうつつをもって、わがしんしょうをただせば、しょうずべきはじめもなきがゆえに、しすべきおわりもなし。すでにしょうじをはなれたる、しんぽうにあらずや、ごうかにもやけず、すいさいにもくちず、つるぎかたなにもきられず、きゅうせんにもいられず、けしのなかにはいるれども、けしもひろからず、しんぽうもちぢまらず、こくうのなかにみつれども、こくうもひろからずしんぼうもせまからず」(0563-07)と。
 ここにしんぽうとは、せいめいのほんしつであり、せいめいそれじたいにほかならない。このせいめいそのものは、だいうちゅうとともにじょうじゅうするものであり、しょうずべきはじめも、しすべきおわりもない。しょうじをはなれたそんざいであり、したがって、ごうかにもやけることなく、すいさいにもくちることなく、つるぎかたなにもきられず、きゅうせんにもいられるものではない。けしつぶのようなきょくしょうのもののなかにいれても、けしつぶがひろがったり、しんぽうがせますぎることもないとのおんふみである。すなわち、ひろいとかせまいとか、おおきいとかちいさいとかいうそうたいてきなものではないということで、せいめいのふかしぎをおおせられたものである。
 しかし、これは、せいめいのほんしつ、せいめいそのものについていったものであり、しょうじにとらわれ、ほんぬじょうじゅうのせいめいをしらないものにたいするまなこをひらかしめるためのおんふみである。さいおう、しょうもしもほんぬじょうじゅうのものであり、しょうは、ほんぬのしょう、しもまたほんぬのしである。
 しゃくそんは、しを「ほうべんげんねはん」ととき、しょうのためのほうべんであるとしたのである。これまたしんじつであり、いきいきとしたせいめいのやくどうのためにほうべんとしていったんしぬというのもいだいなたっけんである。しかし、だいしょうにんは、さらにふかく、ほんぬのしょうじをとき、しょうもしも、ほんらい、ほんぬのものであり、せいめいのほんしつにそなわるはたらきであるととかれたのである。せいめいは、しょうじをはなれて、ほかにあるものではない。せいめいのじょうじゅうとともに、せいめいのほんしつにそなわるはたらきとしてじょうじゅうしてきたのである。したがって、せいめいは、あるときはしょうのすがたをとってああわれ、あるときはしのすがたをとってあらわれ、えいえんにつづきゆくとうたいなのである。にちれんだいしょうにんが、ぼうじきょうのことにおいて、ときにちじょうの、ははがなくなったことにたいして、「しょうじのりを、しめさんがために」(0977-09)とのべられたのは、この、ほんぬのしょうじのふかきてつりのうえから、おおせられたものであるとおもう。
 また、ほんぬのしょうじを、しんじんにやくしていえば、えいえんのせいめいをかくちしたうえでのしょうじであり、だいごほんぞんをしんじたもののしょうじである。
おんぎくでんげに、「じしんほつしょうのだいちを、しょうじしょうじとめぐりいくなりうんぬん」(0742-だいはちゆいういちもんのこと)とあるのは、このほんぬのしょうじをおおせられたものである。ほっしょうのだいちとは、みょうほうのだいちであり、こうふくのだいちである。しょうじのにほうは、だいびゃくごしゃのしゃりんのごとくである。えいえんにこうふくなせかいにおいて、しょうじのにほうをくりかえしていけるのである。
 しんじんなきひとびとのしょうじは、ろくどうりんねのしょうじであり、まよいのしょうじであり、ふこうのしょうじである。ゆえに、つねに、ふこうのちまたを、しょうじしょうじとめぐりゆくいがいにない。
 だいごほんぞんをしんじたものは、つねにこうふくのだいちにじゅうしたいっしょうをおくり、それがまたえいえんにつづいていくことを、しみじみとじっかんし、かくしんしきっていけるのである。ゆえに、ほんぶんに「いまにちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるとき、ほんぬのしょうじ、ほんぬのたいしゅつとかいかくするなり」とおおせられたのである。
 しょうじのにほうは、たんに、いわゆるしょうとしだけをいみするのではない。しゅんかんしゅんかんのせいめいかつどうが、また、そのまましょうじのにほうなのである。さきのじごくかいとてんかいのれいでいえば、じごくかいのせいめいであったひとが、つぎのしゅんかん、てんかいのせいめいへとてんずれば、じごくのしであり、てんかいのしょうである。わがせいめいはじっかいごぐのとうたいであり、しかもそのじっかいは、つねにしゅんかんしゅんかんに、えんにふれてしょうじのにほうをくりかえしているのである。
 しかして、このしゅんかんしゅんかんのせいめいかつどうにやくして、ほんぬのしょうじをろんずるならば、くおんがんじょのたいほうたる、だいごほんぞんをしんじゅしたせいかつこそ、ほんぬのしょうじであり、こうふくのしょうじである。
 しょうじいちだいじ、けちみゃくしょうにいわく、「みょうはし、ほうはしょうなり、このしょうじのにほうが、じっかいのとうたいなり。またこれをとうたいれんげともいうなり、でんぎょうだいしいわく、「まさにしるべし、えしょうのいんがはことごとくこれ、れんげのほうなり」とうんぬん。このしゃくに、えしょうというはしょうじなり、しょうじこれあれば、いんがまたれんげのほうなることあきらけし、でんぎょうだいしいわく、「しょうじのにほうは、いっしんのみょうゆう、うむのにどうは、ほんかくのしんとく」ともん。てんちおんようにちがつ、ごせい、じごく、ないしぶっか、しょうじのにほうにあらずということなし、これくのごとくしょうじもただみょうほうれんげきょうのしょうじなり 、てんだいのしかんにいわく 「きはこれほっしょうのき、めつはこれほっしょうのめつ」うんぬん」(1336-)と。
 このもんに、じっかいのせいめいことごとくしょうじのにほうであることはめいはくである。しかもそのしょうじのにほうはいっしんのみょうゆうなのである。また、しょうはき、しはめつであり、ほっしょうのき、ほっしょうのめつこそしんじつのきめつのすがたなのである。
 すなわち、だいごほんぞんをしんずる、そのしんじんのいっしんにより、じざいにしょうじのかつどうをしていくことができる。いっさいのかつどうを、こうふくのほうこうへ、はんえいのほうこうへとむかわしめることができる。すなわち、しんじつのこうふくのきめつをおこなっていくことができることをだんげんされているのである。
 しんじんなくば、しんじつのこうふくのしょうじ、きめつはない。つねにさんあくどう、しあくしゅのしょうじ、きめつのるてんのなかに、ぼつにゅうし、そのだくりゅうにながされていくのみである。しんじんごうじょうに、じぎそうおうのぶつどうしゅぎょうにはげむひとこそ、ぶっかいにてらされ、このじんせいを、じざいにらんぶし、えいえんのこうふくをひらいていくひとであることをつよくしんずべきである。


むしたいめつはくうなり、うしょうしゅつざいは、けなり、にょらいにょじつは、ちゅうどうなり。
 しょうじのにほうと、さんたいのかんけいについて、のべられたおんふみである。
 「むしたいめつ」、すなわち、うにたいしてむ、しょうにたいしてし、しゅつにたいしてたい、ざいせにたいしてめつごは、くうけちゅうのさんたいより、ろんずればくうたいである。
 くうとは、うとも、むとも、こていすることのできない、うむのにどういがいの、みょうぶくしたじょうたいで、しかもえんにふれて、げんぜんとあらわれ、たと、しきべつしえるようになるふしぎなじつざいである。しごのせいめいは、だいうちゅうにみょうぶくしているから、くうたいである。おんぎくでんじょうに、「じゅうざいくうちゅうとは、われらしゅじょうおわりに、めつにきすることなり」(0740-だいご、けんだいほうとうじゅうざいくうちゅうのこと)と、おおせられているのは、まさしく、われわれのしごのせいめいは、だいうちゅうにみょうぶくしていることを、しめされたものである。
 「うしょうしゅつざい」、すなわち、むにたいしてう、しにたいしてしょう、たいにたいしてしゅつ、めつごにたいしてざいせは、けたいである。しょうのせいめいはけたいである。けとは、いっさいのばんぽうが、おのおのかりにわごうしている、めにみえるすがたをいう。しょうのせいめいは、えんにふれてめにみえるすがたとしてあらわれ、しかもじじこっこくとかつどうし、しゅんじたりとも、とどまることがないからけたいである。
 うしょうしゅつざいにかたよらず、むしたいめつにかたよらず、しかも、うしょうしゅつざい、むしたいめつをほうがんした、せいめいのほんしつ、ありのままのせいめいのじっそうたる、にょらいにょじつは、ちゅうどうである。さきにそうかんもんしょうをひいて、せつめいした、「しょうじをはなれたるしんぽう」とは、ちゅうどうをいみしているわけである。このうしょうしゅつざい、むしたいめつ、にょらいにょじつの、ゆうごうこそ、まさにえんゆうのさんたいであり、しんじつのせいめいのじっそうをとききわめたものである。
 すなわち、ぜんじゅつのごとく、しょうもしもくおんいらい、じょうじゅうしてきたせいめいのほんしつにそなわる、ほんらい、ほんねんのすがた、はたらきであり、あるときはしょうのすがたとなってあらわれ、あるときはしのすがたとなってあらわれる。せいめいのほんしつは、しょうじにさゆうされないそんざい「しょうじをはなれたるしんぽう」・・・であるとともに、しょうじいがいにありえぬのが、せいめいのしんじつのじっそうである。
 また、しゅんかんのせいめいにやくしていえば、たとえば、そのひとのせいめいがじごくかいのじょうたいであれば、じごくかいは、うしょうしゅつざいであり、けたいである。たのきゅうかいは、むしたいめつであり、くうたいである。もしつぎのしゅんかん、てんかいがあらわれれば、てんかいは、いままでのくうたいであったのがけたいとなり、たのきゅうかいはむしたいめつであり、くうたいである。そのときは、いままでけたいであったじごくかいはとうぜん、くうたいとなっている。
 すなわち、わがしんしょうがみょうぶくしているじょうたいはくうたいであり、それがえんにふれてかつどうしてくるとき、それはけたいとなる。このじっかいのきめつをしているとうたいは、にょらいにょじつであり、ちゅうどうである。このわがとうたいが、だいごほんぞんにてらされた、ゆるぎなきみょうほうのとうたいとあらわれるとき、みょうほうのきめつとなり、くにそくばくされぬ、しんじつのこうふくきょうにいききることができるのである。
 このもんとかんれんし、つぎのいっしょうじょうぶつしょうのもんをかんがえてみたい。
 「そもそも、みょうとはなんというこころぞや、ただわがいちねんのこころ、ふしぎなるところを、みょうとはいうなり。ふしぎとは、こころもおよばずごもおよばず、ということなり、しかれば、すなはちおこるところのいちねんのこころを、たずねみればありといはんとすれば、いろもかたちもなし、またなしといはんとすれば、さまざまにこころおこるありとおもうべきにあらず、なしとおもうべきにもあらず、うむの、にのごもおよばず、うむのにのこころもおよばず、うむにあらずして、しかもうむにへんして、ちゅうどういちじつのみょうたいにして、ふしぎなるをみょうとはなずくるなり」(0384-06)
 このおんふみのありとなしは、おんぎくでんのうしょうしゅつざいのありとむしたいめつのむとおなじである。しからば、さきのおんぎくでんの、「むしたいめつは、くうなりうしょうしゅつは、けなり」のもんよりして、ありはけたい、むはくうたいである。
 ここにむとは、ぜったいむ、かんぜんむのこころではなく、くうたいのむたいともいうごとく、くうのぎである。おんぎくげにいわく、「くうはむのぎなり、ただし、このむは、だんむのむにあらず、そうそくのうえのくうなるところを、むといい、くうというなり」(0783-だいいち、むりょうぎきょうとくぎょうほん、だいいちのこと-01)と。せいようてつがくにおける、むとは、はるかにそのないようを、ことにすることをしるべきである。そして、いっしょうじょうぶつしょうの、「うむにあらずして、しかもうむにへんして、ちゅうどういちじつの、みょうたいにしてふしぎなるを、みょうとはなずくるなり」(0384-08)とは、ちゅうどうを、いみするのである。
 ぶっぽうは、さいこうに、かんぜんえんまんなるてつりである。しかも、そのてつりは、そくざにこうふくへと、ちょっけつしているのである。
 さらに、ほんぶんには、「むしたいめつはむさのほうしんなり、うしょうしゅつざいはむさのおうじんなり、にょらいにょじつは、むさのほっしんなり」と、おおせられている。すなわち、くうけちゅうのさんたいは、みょうほうのひかりにてらされて、そく、ほっぽうおうのさんじんとあらわれるのである。
 だいごほんぞんを、しんずるひとのせいめいそれじたいが、ぶっかいにてらされた、みょうほうのちからづよい、しょうじょうむくなとうたいとなり、またわれわれのせいめいかつどうは、そく、いきいきとしたみょうほうのふるまい、ほとけのふるまいとあらわれ、わがしんしょうもまた、ぶっちがじゅうまんし、えんにふれてかつどうのうえに、そのちえがげんぜんとあらわれてくるのである。また、みょうほうのとうたいとしていき、みょうほうのとうたいとしてじゃくにきし、えいえんにこうふくなるしょうじをつづけていくことができるのである。


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