<思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

投稿者
メール
題名
*内容 入力補助
URL
sage

  • [247]
  • おんぎくでんこうぎげ だいににょらいひみつじんつうしりきのこと

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 7月13日(金)02時32分15秒
 
だいににょらいひみつじんつうしりきのこと 753

 おんぎくでんにいわく、むささんじんのえもんなり、このもんにおいて、じゅうじゅうのそうでんこれあり、じんつうしりきとは、われらしゅじょうの、ささほつほつとふるまうところをじんずうというなり。
ごくそつのざいにんを、かしゃくするこえも、みなじんつうしりきなり、しょうじゅういめつの、しんらさんぜんのとうたいことごとく、じんつうしりきのたいなり、いまにちれんとうのたぐいのこころは、そくしんじょうぶつとかいかくするをにょらいひみつじんつうしりきとはいうなり。じょうぶつするよりほかのじんつうと、ひみつとはこれなきなり。
このむさのさんじんをば、いちじをもってえたり、いわゆるしんのいちじなり、よってきょうにいわく、「がとうとうしんじゅぶつご」と、しんじゅのにじに、こころをとどむべきなり。

つうげ
 みろくぼさつが、さんしょうしてやまず、にょらいのじょうたいのせっぽうを、ししょうしたので、ついにしゃくそんは、「なんだちあきらかにきけ、にょらいのひみつじんずうのちからを」とのべ、これよりたいほうをとくことを、つげるのである。
 この 「にょらいひみつじんつうしりき」のもんについて、おんぎくでんは、つぎのようにおおせである。
 このもんは、むさのさんじんのえもんである。このもんにおいて、じゅうじゅうのそうでんがある。「じんつうしりき」とは、われらしゅじょうが、しゅんかんしゅんかん、かつどうしていることじたい、じんずうといい、そのりきゆうがじんつうしりきなのである。したがって、ごくそつがざいにんを、かしゃくするこえも、みなじんつうしりきなのである。
さらに、しょうじ、じゅうし、へんかし、めっしていくしんらさんぜんのげんしょうのとうたいは、ことごとくじんつうしりきのほんたいなのである。
 だがこれは、にょらいひみつのじんつうしりきではない。にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかのがんいでいえば、そくしんじょうぶつと、かいかくすることをにょらいひみつじんつうしりきというのである。すなわち、なんみょうほうれんげきょうにょらいの、ひみつのじんつうしりきとなるのである。
じょうぶつすることいがいに、じんずうもひみつもありえないのである。このむさのさんじんを、かいかくしていくことは、いちじをもってえることができる。いわゆるしんのいちじである。ゆえにきょうに 「われらまさに、ほとけのみことをしんじゅしたてまつるべし」と。このしんじゅのにじに、こころをとどむべきである。

こうぎ
 せけんではじんずうのちからというと、なにか、かみがかりてきな、とくべつなちからとされている。だが、ぶっぽうほんらいのぎは、けっしてそのような、にんげんばなれしたちからをいみするものではない。
 むしろ、にちれんだいしょうにんは、このようなつうりきをば、しょうほっけだいもくしょうに、「りこんとつうりきとには、よるべからず」(0016-13)ときびしくいましめられている。
 じんずうのちからとは、ほんぶんに「われらしゅじょうの、ささほつほつとふるまうところをじんずうというなり、ごくそつのざいにんをかしゃくするこえもみなじんつうしりきなり。しょうじゅういめつのしんらさんぜんの、とうたいことごとく、じんつうしりきのたいなり」とあるごとく、われわれのせいめいのはたらき、ひろくいえば、せいめいぜんたいのりきゆうに、ほかならない。
 せいめいほどふしぎなものはなく、またいだいなものはない。そのはたらきもまた、ふしぎであり、いだいである。ずのうのはたらき、ごたいのはたらき、こころのはたらき、すべてじんずうのちからなのである。
 また、だいうちゅうにまなこをてんじても、しゃくねつのたいよう、せいしんのまたたき、ちきゅうのこうてん、じてん、またてんたいのしょうじゅういめつのしゅじゅそう、いずれもじんずうのちからにほかならない。
 だが、これらのじんずうのちからは、かならずしもぜんみんしゅうのこうふくに、つながるものではない。
ぶっぽうは、たんにしゅじょうのせいめい、ぜんうちゅうのとうたいの、りろんてきこうさつのみにしゅうしするものではない。そこから、いかにしてしゅじょうをこうふくにしていくか、そのげんりとじっせんをはっけんしたところに、ぶっぽうのいだいさがある。このたちばよりすれば、これまでのべたじんずうのちからは、ぶっぽうのほんしつでもなければ、きゅうきょくでもない。
 じゅりょうほんだいじゅうろくにとくところの、じんずうのちからは、にょらいひみつのじんずうのちからである。にょらいとは、ぜんこうとおなじく、なんみょうほうれんげきょうにょらいである。
ひみつとは、もんぐのかん、だいきゅうげに 「いっしんそくさんじんなるをなずけて、ひとなし、さんじんそくいっしんなるをなずけて、みつとなす、またむかしよりとかざるところをなずけて、ひとなし、ただほとけのみ、みずからしるをなずけてみつとなす」と、しゃくしているが、まっぽうこんにちにおいては、だいごほんぞんのことである。
ゆえにさんだいひほうしょうには、ほんもんのほんぞんをあかされたあと、このもんぐのまき、だいきゅう げのもんを、いんしょうしているのである。すなわち、なんみょうほうれんげきょうにょらいのひみつのほうとは、まったくじのいちねんさんぜんのだいごほんぞんのことなのである。

 それでは、なんみょうほうれんげきょうにょらい、およびそのひみつのほうたるだいごほんぞんの、じんつうのちからとはなにか、これこそ、いっさいしゅじょうをしてそくしんじょうぶつせしめるおちからなのである。
 ゆえにほんぶんに「いまにちれんらのたぐいのこころは、そくしんじょうぶつとかいかくするを、にょらいひみつじんつうしりきとはいうなり」とおおせられたのである。
 われわれのせいめいのなかにしょうじょうむぜんのちからづよきぶっかいがある。そのぶっかいのじじつのうえにけんげんし、さいこうにじゅうじつした、いきいきとした、せいめいのおうていよりまんぞくしきった、こうふくなるせいかつをいとなんでいくことができる。これこそ、さいこうのじんずうのちからなのである。
 にんげんせいをゆがめたり、めっきゃくしたりして、あたかもきょうきのごとく、なにか、ものにとりつかれたようなふるまいが、じんつうりきであるかのごとくおもうのはだいなるあやまりである。それは、まのつうりきではあっても、ほとけのつうりきではない。ほとけのつうりきとは、さいこうににんげんせいをはつようしていくものである。もっともにんげんらしい、あたりまえのにんげんでありながら、そのままのすがたで、しんじつのこうふくきょうにいききることこそ、にょらいひみつのじんずうのちからなのである。
 さて、にょらいひみつとじんづうしりきのかんけいについていえば、にょらいひみつはほんたいであり、じんつうしりきはそのりきゆうとなる。てんだいは、にょらいひみつはたいのさんじんであり、じんづうしりきとはゆうのさんじんであるとしゃくしている。にょらいひみつについてはさきのもんぐのげのもんのとおりである。じんづうしりきについても、もんぐのきゅう げにはつぎのようにある。
 「じんづうしりきとは、さんじんのゆうなり。じんはこれてんねんふどうのり、すなわちほっしょうじんなり、つうはこれむようふしぎのえ、すなわちほうしんなる。ちからはこれみきゆうじざい、すなわちおうじんなり。ほとけはさんぜにおいてひとしくさんじんあり、しょきょうのなかにおいてこれをひしてつたえず」と。
 さらに、にちれんだいしょうにんは、しょほうじっそうしょうにつぎのごとくおおせられている。
 「ぢゆのぼさつのなかの、じょうしゅしょうどう、じょうぎょう、むへんぎょうとうのぼさつよりほかは、まっぽうのはじめのごひゃくねんに、しゅつげんしてほったいのみょうほうれんげきょうの、ごじをひろめたまうのみならず、ほうとうのなかの、にぶつびょうざのぎしきをつくりあらわすべきひとなし、これそく、ほんもんじゅりょうほんのじのいちねんさんぜんのほうもんなるがゆえなり。さればしゃか、たほうのにぶつというもゆうのほとけなり、みょうほうれんげきょうこそほんぶつにてはおわしそうらへ、きょうにいわく「にょらいひみつじんづうしりき」これなり、にょらいひみつはたいのさんじんにしてほんぶつなり、じんづうしりきは、ゆうのさんじんにして、しゃくぶつぞかし、ぼんぷは、たいのさんじんにして、ほんぶつぞかし、ほとけはゆうのさんじんにして、しゃくぶつなり」(1385-09)
 「ぢゆのぼさつのなかのじょうしゅしょうどう、じょうぎょう、むへんぎょうとうのぼさつ」とは、まっぽうのごほんぶつ、にちれんだいしょうにんである。まっぽうこんじは、そうたいのじゆうであり、しぼさつののうとくは、まっぽうのごほんぶつのいっしんにぐびされる。「ほったいのみょうほうれんげきょう」とは、うちゅうばんぽうのほんたいたるなんみょうほうれんげきょうである。「ほうとうのなかの、にぶつびょうざのぎしき」とは、じのいちねんさんぜんのだいごほんぞんのことである。したがって「これそくほんもんじゅりょうほんのじのいちねんさんぜんのほうもんなるがゆえなり」とおおせられたのである。すなわち、まっぽうのごほんぶつにちれんだいしょうにんいがいになんみょうほうれんげきょうをひろめ、だいごほんぞんをこんりゅうするひとはいない、とおおせなのである。
 さらに「さればしゃか、たほうのにぶつというもゆうのほとけなり、みょうほうれんげきょうこそほんぶつにてはおわしそうらへ」とは、みょうほうれんげきょうそくだいごほんぞんのなかに、しゃか、たほうのにぶつのはたらきもふくまれていることをしめされたものである。ここでは、しゃか、たほうをだいひょうしてあげているが、じっぽうさんぜのしょぶつはことごとく、だいごほんぞんのゆうになるのである。
 また「にょらいひみつはたいのさんじんにしてぶつなり、じんづうしりきはゆうのさんじんにしてしゃくぶつぞかし」とは、にちれんだいしょうにんそくだいごほんぞんこそほんぶつであり、しゃか(ほうしん)、たほう(ほっしん)、またじっぽうぶんしんのほとけ(おうじん)ことごとく、しゃくぶつであり、にょらいひみつにたいしじんづうしりきのかんけいになるとおおせである。
 すなわち、じっぽうさんぜのしょぶつのあらゆるくどくぜんこん、しょせつのほったい、ことごとく、にちれんだいしょうにん、およびだいごほんぞんのいちぶつ、いっぽうにほうがんされることをしらねばならない。にちかんしょうにんは、とうりゅうぎょうじしょうに、「げんもん、だいななの、「ひゃくせんしよう、おなじくいちこんにおもむくがごとし」、をいんようして、「よこにじっぽうにへんじ、たてにさんぜにわたりみじんのしゅじょうを、りやくしたもう、すいじゃくけたのこう、みなおなじく、くおんがんじょのいちぶつ、いっぽうのほんちに、きしゅするなり」と、のべられているが、しょほうじっそうしょうの、おんふみとふかくかんがえあわすべきである。
 なお、このにょらいひみつじんづうしりきがむさのさんじんのえもんであることは、にょらいひみつはたいのさんじんであり、じんづうしりきはゆうのさんじんであり、ともににちれんだいしょうにんのとうたいおよびりきゆうをあらわしているからである。
 まただいごほんぞんにやくせば、にょらいひみつは、ちゅうおうの「なんみょうほうれんげきょう にちれん」であり、じんづうしりきは、さゆうのしゃか、たほう、そのたのじっかいのはたらきである。おんぎくでんげにいわく「このほんぞんのえもんとはにょらいひみつじんづうしりきのもんなり」(0760-だいにじゅうごこんりゅうごほんぞんとうのこと)と。
 もししんじんにやくせば、うちゅうだいのりきゆうをそなえた、だいごほんぞんをしんずるならば、われわれのせいめいにも、にょらいひみつたるみょうほうれんげきょうがゆげんする。ゆえに、いだいなるせいめいりょくをはっきし、たくましいかつどうをしていくのである。これじんづうしりきである。
 ゆえに、われらは、しんじんごうじょうにこのだいごほんぞんをきょうちゅうにいだき、すすむならば、いかなるしょうまもかぜのまえのちりのごときものとなり、さわりなきじんせい、しょうりのじんせいをあゆんでいくことができるのである。
・・・・・・・・
 このむさのさんじんをばいちじをもってえたりいわゆるしんのいちじなり。

 これは、じゅじそくかんじんをとかれたおんふみである。むさのさんじんとは、にちれんだいしょうにんのおんことである。にちれんだいしょうにんは、ぜんじゅつのごとく、じっぽうさんぜのしょぶつ、あらゆるくどくぜんこんをぐびされた、まっぽうごしゅつげんのごほんぶつであらせられる。
 それがしんのいちじをもってえることができるとはいかなることか。これすなわち、もったいなくも、われらしょうしんのものは、そくにちれんだいしょうにんとあらわれるとのおおせにほかならない。
 すなわち、われらは、かこにいかなるくどくぜんこんがなくとも、げんざいに、いかなるしょかいをたもたずとも、しんのいちじに、じっぽうさんぜのほとけのあらゆるくどくぜんこんをえることができるのである。なんとありがたいおおせであろうか。なんとすばらしいみにあまるふくうんであろうか。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく「しゃくそんの、いんぎょうかとくのにほうは、みょうほうれんげきょうの、ごじにぐそくす、われらこのごじをじゅじすれば、じねんにかのいんがのくどくを、ゆずりあたえたまう」(0246-15)と。
 ゆえに、まっぽうのわれらしゅじょうのさとりとは、しんじんいがいにないのである。しかして、しんとは、ぜったいにだいごほんぞんをうたがわず、だいしょうにんのおおせどおりじっせんすることにつきる。これをむぎわっしんといい、これがしんじんのごくりである。
 しょうじいちだいじけちみゃくしょうにいわく「しんじんのけちみゃくなくんばほけきょうをたもつともむやくなり」(1338-09)と。
 いかにだいごほんぞんをいただいても、しんじんのけちみゃくがなければむやくであるとのきびしきおおせである。
 いま、けぎのこうふのときにあたり、しんじんとは、だいごほんぞんをゆいいつむにとしんじ、しゃくぶくをぎょうじ、こうふにたたかうことであり、それいがいにない。
 されば、こんにち、そうかがっかいにいき、しんじんにいき、こうふのたたかいにいきるひとは、さんぜじっぽうのしょぶつのしょうらんがあり、かならずや、じんせいのしんじつのえいこうをかちえることはぜったいである。
 しかも、ときまさに、だいごほんぞんのくどくは、ちゅうてんのたいようのごとくさんぜんとかがやき、われらのぜんとをてらしている。
 けんぶつみらいきにいわく「じだいをもってかほうをろんずればりゅうじゅ、てんじんにちょうかしてんだい、でんぎょうにもまさるるなり。」(0505-06)と。
 まっぽうのごほんぶつとして、さんぜじっぽうのしょぶつのくどくをうんしゅうせるきょうちにたった、にちれんだいしょうにんのだいかくしんであられる。このおんふみをもって、われらのたちばをのべることはきょうくのいたりである。だが、よろこびのあまり、あえていうなら、じだいをもってかほうをろんずればまっぽうこんじ、けぎのこうふのときにうまれ、だいごほんぞんをいただき、こうせんるふじつげんに、まいしんできるわれらは、りゅうじゅ、てんじんはいうにおよばず、てんだい、でんぎょうをはるかにちょうかし、だいしょうにんございせの、でしだんなのかたがたにもまさるだいふくうんじであるとかくしんするものである。
 つらつらおもうに、ゆうめいのにじによいしれたひとは、そのよいがさめたあとは、ひあいのじんせいであろう。けんりょくにまんずるひとは、そのけんりょくがとりさられたあと、そこによわきいちこのにんげんをみるのみである。
きんりょくにたより、それですべてをかいけつしようとするひとは、そのきんりょくがほうかいしさったあとは、がきどうのじんせいであろう。
えいこせいすいはひとのよのつねである。ゆうめいのにじよりも、けんりょくよりも、きんりょくよりも、もっともとうとく、もっともちからづよい、しょうがいのざいほうはしんじんである。しんじんにいききるひとは、そのとうたいは、むさのさんじんであり、なにものにもまけず、なにものにもしはいされず、かっこふどうの、どうどうたるしょうがいをいききることができることを、こころからさけんでやまぬものである。





スレッド一覧

  1. ひらがなプロジェクト(260)
  2. アルベア論(975)
  3. 虚構の大石寺疑惑(3)
  4. 掲示板の注意事項(1)
  5. 2015年安保法制(977)
  6. アラシ行為記録(21)
スレッド一覧(全6)  他のスレッドを探す  掲示板に戻る

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成