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  • だいいちなんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくのこと

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2018年 4月10日(火)01時36分25秒
 
    だいいちなんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくのこと。

 なんみょうほうれんげきょう、にょらいじゅりょうほんだいじゅうろくに、ついてのおんぎくでんである。
 もんぐのきゅうには、にょらいとはじっぽうさんぜのしょぶつ、しんぶつ・おうぶつのにぶつ、ほっぽうおうのさんぶつ、ほんぶつ、しゃくぶつのぜんたいにつうずるみょうごうである。だがべっしてはほんちさんぶつの、べつごうである。
じゅりょうほんのじゅりょうということには、このほんにはじっぽうさんぜ、にぶつ、さんぶつのしょぶつのいっさいのくどくを、ほうがんしていることをいみするのであり、ゆえにじゅりょうほんというのである、と。

 にちれんだいしょうにんのおんぎくでんにいわく、
 このなんみょうほうれんげきょう、にょらいじゅりょうほんだいじゅうろくという、だいごうは、にちれんだいしょうにんの、おんみにあたるだいじなものである。これこそじんりきほんだい21において、じょうぎょうぼさつとしてしゃくそんよりふぞくをうけたじったいなのである。
 もんぐのきゅうのもんをもんていよりよめば、にょらいとはしゃくそんのことである。すなわちそうじてはじっぽうさんぜのあらゆるほとけにつうずるのである。だがべっしては、ほんちむさのさんじん、すなわちくおんがんじょの、ぼんぷそくごくのほんぶつである。
いまにちれんだいしょうにんおよび、そのもんかのこころでにょらいをろんずるならば、そうじては、いっさいしゅじょうはことごとくにょらいである。だがこれはあくまで、りのうえでろんじたものであり、べっして、じのうえでろんずるならば、にちれんだいしょうにんおよびその、でしだんなのことである。
 されば、むさのさんじんとは、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃ、すなわちまっぽうに、ぜんみんしゅうきゅうさいのために、しゅつげんされたごほんぶつにちれんだいしょうにんのおんことである。
 このむさのさんじん、そくにちれんだいしょうにんのほうごうを、なんみょうほうれんげきょうというのである。これにんぽういっかのほんぞんであり、じゅりょうほんのじのさんだいじ、すなわちないしょうのじゅりょうほんにあらわされたじのいちねんさんぜんのとうたいたるほんもんのほんぞん・ほんもんのだいもく・ほんもんのかいだんのさんだいひほうとはこのことなのである。
 なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくのたちばからにょらいをろくそくにはいりゅうするならば、このほんのにょらいは、けっしてしきそうそうごんのほとけをいうのではなく、りそくのぼんぷをいうのである。われわれぼんぷのみをはなれてにょらいはないのである。
 だがこれはまだりのうえであり、われわれがだいごほんぞんをいただいたときは、みょうじそくである。そのゆえは、はじめてだいもくをきく、すなわちしんじゅしたからである。きき、たてまつって、さらにしんぎょうぐそくし、ごほんぞんをじゅじしきっていくことはかんぎょうそくである。このかんぎょうそくとは、じのいちねんさんぜんのほんぞんをかんずる、すなわちしんずることである。われわれが、だいごほんぞんをしんじしょうだいしていくならば、わがみのうちにぶっかいをけんげんし、ちからづよいせいめいがはっきされていくのである。
 さて、わくしょう、すなわち、われわれのさまざまなこころのまよい、なやみ、またさんしょうしま、さんるいのごうてきにうちかっていくことが、そうじそくなのである。さらにしゃくぶくぎょうにまいしんし、こうせんるふにむかってたたかうことは、ぶんしんそくというのである。
 このとき、わがみが、むさのさんじんと、くきょうすることができる。
すなわちせいめいのおうていに、むささんじんにょらいなりと、かくちしていくことができるのである。
これをくきょうそくというのである。
 ぜんたいをつうじていうならば、しゃかぶっぽうのような、りゃくこうしゅぎょうにより、しだいに、まどいをふし、ぶっかをえていくというのではなく、なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくの、こんぽんは、ぼんぷのとうたいほんぬのままで、くきょうそく、そくむささんじんにょらいのしんじつのこうふくきょうがいをえとくしていくことである。
これが、このほんのごくりであるとこころえるべきである。
 それではこのむささんじんにょらいのふるまいはなにかといえば、それはなんみょうほうれんげきょういがいにないのである。

 ここに、たんに「じゅりょうほんのこと」とおおせられずに「なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくのこと」とおおせられているのは、もっともこころにきざむべきさいじゅうようのことであり、にちれんだいしょうにんのごしんいをふかくりかいすべきである。
 「なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほん」とは、なんみょうほうれんげきょうそくまっぽうのごほんぶつにちれんだいしょうにんのじゅりょうほんということである。これ、もんじょうのじゅりょうほんにあらずして、もんていのほとけのじゅりょうほん、すなわちないしょうのじゅりょうほんであり、そのしょせんのじったいは、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうなのである。
 のうせつのほとけもなんみょうほうれんげきょうにょらいであり、しょせつのなんみょうほうれんげきょうである。にんにそくしてほう、ほうにそくしてにん、すなわちにんぽういっかであることはめいはくである。この「なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほん」のいちくに、にちれんだいしょうにんのぶっぽうのこつずいがようやくされているといってもかごんではない。

じゅりょうほんについて。

 「なんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほん」についてろんずるにあたり、じゅりょうほんのとかれたいぎ、じゅりょうほんのもんじょうともんてい、ないしょうのじゅりょうほんについてめいかくにしておきたい。
 まず、じゅりょうほんのとかれたいぎについていえば、じゅりょうほんにとかれたことによって、しゃかぶっぽうはすべてかんけつするのである。
 じゅりょうほんとくいしょうにいわく、
 「いっさいきょうのなかにこのじゅりょうほんましまさずはてんににちがつなくくににだいおうなくさんかいにたまなくひとにたましゐなからんがごとし、さればじゅりょうほんなくしてはいっさいきょういたづらごとなるべし」(1211-17)と。
 はじめけごんきょうよりおわりねはんきょうにいたるいちだいごじゅうねんのせっぽうは、じゅりょうほんのがりょうてんせいをかくならば、すべて「いたづらごと」になってしまうとおおせられているのである。
 これほどまでにじゅりょうほんがじゅうようなのはなにゆえであろうか。いま、このりゆうを、にぜんきょうとほけきょう、さらにほけきょうしゃくもんとほんもんをそうたいしてかんがえてみたい。
 かいもくしょうじょうにいわく「これらのきょうきょうにふたつの、とがあり、いちにはぎょうふをそんするがゆえに、なおいまだ、ごんをかいせずとてしゃくもんのいちねんさんぜんをかくせり、にには、しじょうをいうがゆえに、なおいまだしゃくをはいせずとて、ほんもんのくおんをかくせり」(0197-10)と。
 「これらのきょうきょう」とは、ほけきょうがとかれるいぜんのよんじゅうよねんのきょうきょう、すなわちにぜんごんきょうのことである。このにぜんきょうにはふたつのじゅうだいなこんぽんてきけっかんがある。そのひとつは、いちねんさんぜんをといていないということであり、もうひとつは、くおんみじょうをといていないということである。
 「ぎょうふをそんする」とは、にちかんしょうにんの、さんじゅうひでんしょうにもおしめしのごとく、じっかいにさべつがあるということである。じごく・がき・ちくしょう、ないしぶっかいにいたるまで、まったくバラバラにとかれてあり、しかも、じごくがもっともしたにあり、がきはそのうえという。いわば、だんかいてきな、ときかたである。したがって、じっかいが、わがいちねんのせいめいにあるというのではなく、まったくそれぞれがべっせかいのものとしてとかれている。
 しょうもん・えんかく・ぼさつとうになると、きわめていちぶのひとがさとりきわめたとくしゅなせかいであり、それをえるためには、ひとなみはずれたとくしゅなしゅぎょうをしなくてはならない。
 いわんや、ぶっかいなどはぼんじんにおよびもつかぬ、はるかかなたのせかいであり、きょうちであるとされていたのである。
 よく、ぶっかいというと、ほとけのすむしょうじょうなせかいが、はるかかなたのせかいにあるとかんがえたり、ぼさつかいといえば、かんのんぼさつやもんじゅぼさつやみろくぼさつとうとうの、あのえでひょうげんされているようなべっせかいがあるとかんがえたりする。あるいは、てんかいといえば、てんのいっぽうに、てんごくのようなところがあって、ぼんてん・たいしゃくらがそこにいるというようにかんがえたり、じごくかいといえば、ちのしたのほうにあり、おにがすみ、わるいことをしたひとをせめるといったせかいがあるとかんがえたりする。
 これらは、ことごとくごんだいじょういかのきょうてんのせつめいほうであり、じっかいにさべつをもうけた、ひくきせいめいかんよりしょうじたものである。

 さらに、にじょうはぜったいにじょうぶつできないとしたり、にょにんはふじょうぶつ、あくにんもまたふじょうぶつとうとう、じっかいにあらゆるさべつをもうけているのが、にぜんごんきょうのもののかんがえかたである。これが「ぎょうふをそんする」ということであり、このようにぎょうふをそんするおしえは、ひくきせいめいかんであることはとうぜん、いっさいのひとびとをこうふくにしきるてつりではない。あくまでもほけきょうにゆういんするためのほうべんのせつであり、もしこれにしゅうするならば、にんげんせいをゆがめ、ふこうのちまたをるてんするいがいにない。
 ほけきょうしゃくもんにいたって、これらのぜんせつはことごとくくつがえされた。すでにほけきょうのじょぶんたるむりょうぎきょうでは「よんじゅうよねんにはいまだしんじつをあらわさず」ととき。ほうべんぽんでは「せそんはほうひさしくしてのち、かならずまさに、しんじつを、ときたもうべし」とせんげんし、それとともににじょうさぶつ、にょにんじょうぶつ、あくにんじょうぶつをとき、ここにじっかいごぐがあかされたのであった。また、しょほうじっそうとのべ、しんらばんしょうことごとく、みょうほうのとうたいであることをしめしたのである。かくして、いっさいのげんしょうは、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんなることがめいりょうとなり、かつまた、われわれのいちねんのせいめいに、じごくよりぶっかいにいたるせいめいかつどう、きょうちがえんねんとしてぐされていることがれきぜんとしたのである。


 ここにせいめいのしんじつのすがたがうきぼりにされるとともに、あらゆる、ひとびとにじょうぶつのみちがひらかれ、ばんにんがこうふくになるげんりが、りろんてきにかくりつされたわけである。
 ぶっぽうは、なにもにんげんのひょうめんてきなけいしきをもんだいにするものではなく、にんげんせいめいのおうていのいちねんをきわめたものである。だれびとであれ、もっともしょうじょうむくな、もっともちからづよきぶっかいというせいめいがひめられていることを、これほどまでにたいけいづけてときあかしただいてつりは、まさに、にんげんえいちのさいこうほうといういがいにない。
 だが、いまなおほけきょうしゃくもんのだんかいでは、ふかんぜんであった。それは、わがせいめいのりろんてき、てつがくてきこうさつのいきをでなかったからである。いかにわがみがみょうほうのとうたいであり、わがせいめいにぶっかいがないほうされていることを、りろんてきになっとくしてみても、げんじつに、わがみのうえに、ぶっかいがけんげんされ、みょうほうにかがやくせいめいのとうたいとして、じんせいをいききるのでなければ、いみをなさない。ふこうにあえぐみんしゅうを、そのほんしつはみょうほうのとうたいなりといかにりきせつしても、じじつ、しゅくめいてんかんさせ、こうふくへのだいどうをあゆまされるのではなくて、なんのいみがあろうか。
 およそ、ぶっぽうは、いっさいしゅじょうをげんじつにこうふくにせしめていくためにとかれたものである。たんなるりろんのてんかいでもなければ、がくもんのためでもない。したがって、じじつのうえにひとびとをじょうぶつせしめていくちからづよいおしえでなければ、なんのためのぶっぽうであろうか。ここにしゃくもんをりうえのきょうそうとも、りのいちねんさんぜんというのである。
 かいもくしょうにいわく「しゃくもんほうべんぽんは、いちねんさんぜん・にじょうさぶつを、といて、にぜん、にしゅのとが、ひとつをのがれたり、しかりと・いえども、いまだ、ほっしゃくけんぽんせざれば、まことのいちねんさんぜんも、あらはれず、にじょうさぶつもさだまらず、すいちゅうのつきを、みるがごとし、ねなしぐさの、なみのうえにうかべるに、にたり」(0197-)と。すなわちしゃくもんのいちねんさんぜん、にじょうさぶつはすいちゅうのつきのごとくうみょうむじつであり、ねなしぐさのごとく、ほんむこんぬであるとおおせられたのである。
 じょうぶつとは、じしんのぶっかいをひらき、けんげんしていくことである。けっして、じぶんじしんがへんかしてとくべつなものになるのではない。だが、かんじんほんぞんしょうに「ぶっかいばかりげんじがたし」(0241-13)ともおおせのごとく、まことにぶっかいけんげんこそ、もっともなんもんだいであり、ぶっぽうのきゅうきょくなのである。
 しかして、しゃくそんは、じじつのうえにぶっかいをけんげんしているほとけそれじたいである。ゆえに、とうじのしゅじょうがそのしんにぶっかいをげんずるためには、しゃくそんにそのはんをもとめなくてはならない。
 しゃくそんじしんが、いつ、どこで、いかなるげんいんにより、ほとけになったか、そしてしゃくそんととうじのしゅじょうとのかんけいせいはいかん。これらのもんだいが、かいけつされぬかぎり、とうじのしゅじょうは、じょうぶつできぬはずである。
 ところが、ほけきょうしゃくもんまでのだんかいでは、しゃくそんはインドにおうたんし、さんじゅうさいのときに、かやじょうちかくのぼだいじゅのしたで、はじめてじょうぶつしたのだとといている。いわゆる、しじょうしょうかくである。これはしゃくそんのほんしんではない。ただしゅじょうをけどうするために、インドにしゅつげんしてはじめてじょうぶつしたようにみせた、いわばすいじゃくのすがたであり、ここにじょうぶつのほんちがあるのでもなければ、じょうぶつのじったいがあるわけでもない。したがって、いかにその、しじょうしょうかくのほとけを、りそうとしてしゅぎょうしても、しょせん、それはまぼろしのごときものである。ほとけも、むちゅうのきょぶつであり、それにいたるしゅぎょうも、むちゅうのしゅぎょうにすぎない。
 このにぜんしゃくもんの、しじょうしょうかくを、いちごんにしてうちやぶったのが、じゅりょうほんだいじゅうろくの、「われじつに、じょうぶつしてよりこのかた、むりょうむへん」とうの、もんである。すなわち、じゅうらいのかんがえかたを180どかいてんして、じぶんは、ごひゃくじんでんこうという、くおんのむかしにすでにほとけであったと、といたのであった。これが、いわゆるじゅりょうほんにおける、くおんじつじょうである。このかいけんを、こうかいごんけんのん、ともなづけるのである。


 このくおんじつじょうとともに、しゃくそんがほとけになったほんにんも、「われもと、ぼさつのどうを、ぎょうじて、じょうぜしところのじゅみょう、いまなお、いまだつきず。またうえのかずに、ばいせり」と、とかれたのである。ぼさつどうはきゅうかいをだいひょうしている。そして、そのきゅうかいのせいめいは、ほとけになってからも、いや、こんにちにいたるまで、「いまなお、いまだつき」ていないとの、もんである。
 すなわち、しゃくそんじしん、むしいらい、きゅうかいのせいめいをぐびしていることをあかしたわけである。しゃくそんといえば、これまでしゅじょうのきょうがいからだっし、ただしょうじょうのせいめいのみじゅうまんしたほとけであり、もはやきゅうかいのせいめいなどありようはずがないとおもわれていた。ところが、じつはそうではなく、みずから、むしいらい、ぶっかいそくきゅうかい、きゅうかいそく、ぶっかいのせいめいの、とうたいであることを、ときあかしたのであった。
 かくして、しゃくもんのじっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんのてつりをば、ほんもんじゅりょうほんにおいて、しゃくそんじしん、じこのげんぜんたるいちこのだいせいめいのうえにてんかいしたのである。しゃくもんをりじょうのほっしょうというのにたいし、ほんもんじゅりょうをじのほうもんというのは、このゆえにほかならない。
 かいもくしょうにいわく、
 「ほんもんにいたりて、しじょうしょうかくをやぶれば、しきょうのかをやぶる、しきょうのかをやぶれば、しきょうのいん、やぶれぬ、にぜんしゃくもんの、じっかいのいんがをうちやぶって、ほんもんのじっかいの、いんがをときあらわす、これ、すなわちほんにん、ほんがのほうもんなり、きゅうかいも、むしのぶっかいに、ぐし、ぶっかいも、むしのきゅうかいに、そなわりて、しんのじっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんなるべし」(0197-15)と。
 さらに、しゃくそんは、どこでほとけになったかというほんごくどをあかすのである。いわゆる「これよりこのかた、われつねにこのしゃばせかいにあってせっぽうきょうけす」のもんである。
 これまで、このしゃばせかいは、えどと、きらわれ、ほとけのじゅうするじょうじゃっこうどは、べっせかいにあるとかんがえられてきた。ところが、じゅりょうほんにきたり、このしゃばせかいこそ、ほとけのじょうじゅうする、じょうじゃっこうのせかいであることが、あたかもごうほうをはなつごとくせんげんされたのである。しかも、これまで、あらゆるきょうきょうにとかれたぶっこくどは、ことごとくしゃくそんのけどうのくにぐにであることがあかされ、だいうちゅうそれじたい、みょうほうのせかいであることがせんめいとなったのである。もしこのしゃばせかいがそくじょうじゃっこうどというせっぽうがなければ、どうしてこくどもみょうほうのとうたいであることがあきらかとなりえようか。
 さきに、しゃくもんにおいて、いちねんさんぜんのてつりが、あかされたごとく、のべたが、うばっていえば、しゃくもんには、こくどせけんがあかされていないがゆえに、ひゃっかいせんにょの、いきをでない。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「そのきょうしゅをろんずれば、しじょうしょうかくのほとけ、ほんむこんぬのひゃっかいせんにょを、といて、いこんとうに、ちょうかせる、ずいじい」(0248-13)と。したがって、しゃくもんのだんかいでは、いまなお、うじょうかいのじょうぶつを、といたにすぎず、ほんもんにきて、はじめてうじょう、ひじょうともに、みょうほうのとうたいであり、じょうぶつできることが、ときつくされたのである。おなじく、かんじんほんぞんしょうにいわく、「とうていわく、ひゃっかいせんにょと、いちねんさんぜんと、さべついかん、こたえていわく、ひゃっかいせんにょは、うじょうかいにかぎり、いちねんさんぜんは、じょうひじょうにわたる」(0239-08)と。
 また、このしゃばそく、じゃっこうの、げんりがあかされることによって、こうふくはけっして、かなたのせかいにあるのではない。じょうぶつは、べっせかいにあるものではないことが、いよいよめいりょうと、なったわけである。


 いじょう、「がじつじょうぶつ、いらい、むりょうむへん」とうを、ほんがみょうのもん、「がほんぎょうぼさつどう」とうを、ほんにんみょうのもんといい、「しゃばせかい、せっぽうきょうけ」とうをほんごくどみょうの、もんという。じゅりょうほんには、このさんみょうが、あわせてとかれているので、これをさんみょうごうろんという。
 このように、ほんもんじゅりょうほんの、せっぽうは、しゃくもんにひし、そのてつりにおいても、さらにふかく、うちゅうのじかん、くうかんのじっそうをきわめ、そのじっしょうにおいては、しゃくそんじしんの、げんぜんたるしょうみょうがあり、あらゆるてんで、ひかくにならぬほど、すぐれたほうもんというべきである。
 もし、このじゅりょうほんだいじゅうろくのせっぽうがなければ、だれひともしゃくそんがほとけになったほんじも、ほんにんも、ほんごくどもしらず、ただじしんにぶっかいがぐびしているというだけで、りろんのくうろんにおわるところであった。まさしく、じゅりょうほんこそ、しゃくそんいちだいごじゅうねんのきょうせつにそびゆるぜっちょうであり、いっさいきょうのかんけつへんであることは、りょうりょうたるものがあろう。
 だが、ほんもんじゅりょうほんがたいせつなのは、このさんみょうごうろんのせっぽうがあるからであろうか。むろん、しかりである。しかしながら、これはもんじょうのりょういきでろんじたものであり、いちおうせんぱくなぎである。よりいちじゅうたちいってろんずるならば、じつに、このじゅりょうほんのもんていこそじぎょうのいちねんさんぜんのなんみょうほうれんげきょうがひしんされているからたいせつなのである。
 かいもくしょうにいわく「いちねんさんぜんのほうもんはただほけきょうのほんもん・じゅりょうほんのもんのそこにしづめたり」(0189-02)と。
 にちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうに、このもんをしゃくしていわく、
 「はじめはごんじっそうたい、いわゆる『ただほけきょう』のよんじこれなり、つぎはほんしゃくそうたい、いわゆる『ほんもんじゅりょうほん』のごじこれなり、さんはしゅだつそうたい、いわゆる『もんていひちん』のよんじこれなり、これそくじゅうせんししんしてしだいにこれをはんず。たとえばたかきにのぼるにかならずひくきよりし、とおきにゆくにかならずちかきよりするがごとし」「まさにしるべし、ただほけきょうのただのじはこれいちじなりといえどもこころはさんだんにかんむるなり、いわくいちねんさんぜんのほうもんはいちだいしょきょうのなかにはただほけきょう、ほけきょうのなかにはただほんもんじゅりょうほん、ほんもんじゅりょうほんのなかにはただもんていひちんとうんぬん」と。
 また、はじめにいんようした、じゅりょうほんとくいしょうの、もんのすぐつぎしもにもいわく、「しょせん、じゅりょうほんのかんじん、なんみょうほうれんげきょうこそ、じっぽうのしょぶつの、のうしょうのこんげんこそ、じゅりょうほんのもんていたる、なんみょうほうれんげきょうであると、おおせなのである。そのた、「じゅりょうほんのかんよう」、「じゅりょうほんのかんじん」とうと、おおせられた、おんふみはまいきょにいとまがない。そうじては、しゃくそんのはちまんほうぞう、べっしては、ほけきょうにじゅうはちほん、またそうじては、ほけきょうにじゅうはちほん、べっしては、じゅりょうのいちほんは、すべて、にちれんだいしょうにんの、ぶっぽうのために、とかれたのであり、だいしょうにんの、ぶっぽうがこんていとなり、はじめていきてくることを、しらねばならない。
 このことを、さらにめいかくにするために、じゅりょうほんだいじゅうろくの、もんじょうと、もんていのかんけいを、せんめいにしておきたい。
 にちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうに、「じゅりょうほんのもんてい」とは、さらに、じゅりょうほんだいじゅうろくの、いずれのもんていであるかというてんにげんきゅうされていわく、
 「きいてよく、これをしんぜよ、これおくたくにあらず、しのいわく、『ほんにん、しょじゅうのもんていに、くおん、みょうじのみょうほう、じのいちねんさんぜんを、ひちんしたまえり』うんぬん、まさにしるべし、のちのちの、くらいにのぼるは、さきざきのぎょうに、よるなりうんぬん」と。


 このもんちゅう「くおんみょうじのみょうほう、じのいちねんさんぜん」とは、なんみょうほうれんげきょうであり、そくじのいちねんさんぜんの、だいごほんぞんである。
 それでは、その「くおんみょうじのみょうほう、じのいちねんさんぜん」を「ほんにんしょじゅうの、もんていにひちん」したとは、いかなることか。ほんにんとは、ほんにん、ほんが、ほんごくどのさんみょうのうちの、ほんにんである。すなわち、「がほんぎょうぼさつどう」のもんが、それにあたる。ぼさつどうとは、しゃかぶっぽうでは、41いのだんかいをあかしている。すなわち、じゅうじゅう、じゅうぎょう、じゅうえこう、じゅっちの、しじゅういと、それに、とうかくが、くわわって、41のだんかいとなる。
 したがって、しゃくそんが、じょうぶつできたほんげんを、たずねていくと、どうしても、じゅうじゅうの、さいしょのくらいである、しょじゅういにまで、さかのぼらざるをえない。
むろん、しょじゅうい、いぜんにもじゅつしんという、だんかいをたてるばあいもあるが、じゅうじゅうのくらいは、まだあんていせず、いつたいてんするかわからないくらいである。しょじゅうにきて、はじめて、ふたいてんのくらいとなり、ひつぜんてきに、みょうかくいにまで、とうたつしていくのである。したがって、しょじゅういに、のぼったということは、じっしつてきには、じょうぶつしたのとどうようなのである。
 しからば、ふたいてんのくらいたる、しょじゅういにのぼりえたほんげんりょくは、なにであったか。これこそ、なんみょうほうれんげきょうであり、しゃくそんのじょうぶつのこんげんは、じつに、このなんみょうほうれんげきょうを、しんじゅしたからにほかならない。
 ほけきょうほんもんもんじょうの、はんいないでは、ほとけになった、ほんにんを、がほんぎょうぼさつどうの、しょじゅうのだんかいまでよみとれる。だが、しょじゅうに、のぼりえたほんげんりょく、こんぽんりょくは、なにかとたずねていけば、もはやもんじょうのはんいでは、かいけつしようがない。にちれんだいしょうにんは、そのしょじゅうにのぼりえたことの、おうていに、なんみょうほうれんげきょうが、ひちんされているとおしえられたのである。
 「のちのちのくらい」、すなわち、しょじゅうのくらい、さらににじゅう、さんじゅう、じゅうじゅう、じゅうぎょう、じゅうえこう、じゅうち、とうかく、そしてごひゃくじんてんごうの、じょうどうとすすんでいくことが、できたのは、「さきざきのぎょう」、すなわち、なんみょうほうれんげきょうを、しんじゅしたからである。
 しゃくそんが、きゅうきょくにおいては、なんみょうほうれんげきょうをしんじゅしてじょうぶつしえたことは、つぎのおんふみにもあきらかである。
 さんだいひほうしょうにいわく、「それ、しゃくそんしょじょうどうより、しみさんきょう、ないしほけきょうのこうかいさんけんいちの、せきをたちて、りゃくかいごんけんのんを、とかせたまいし、ゆじゅつほんまで、ひせさせたまいし、じっそうしょうとくの、そのかみ、しゅぎょうしたまいしところの、じゅりょうほんのほんぞんと、かいだんと、だいもくのごじなり」(1021-03)と。
 「じっそうしょうとく」とは、ごひゃくじんてんごうの、じょうどうである、「そのかみ」とは、がんじょのことであり、「じっそうしょうとくの、そのかみ」とは、くおんがんじょのことである。しょごしょに、「ごひゃくじんてんごうの、そのかみ」とあるのと、まったくどうぎと」はいすべきである。すなわち、このさんだいひほうしょうの、おんふみにめいかくに、しゃくそんじしん、くおんがんじょにおいて、さんだいひほうを、しゅぎょうしたことが、とかれているわけである。
 しゃくそんは、じぶんが、なんみょうほうれんげきょうによって、ほとけになったことはうちにひし、そとには、ぼさつどうをぎょうじて、ほとけになったと、といたのである。しかも、しゅじょうゆういんのために、わがみをかざり、しゅじょうをして、かつぎょうのこころを、おこさしめたのである。
 だがしゃくそんは、とうじのしゅじょうをして、さいしゅうてきには、なんみょうほうれんげきょうを、さとらしめんがために、はちまんほうぞうをとき、なかんづくほけきょうをとき、なかんずく、じゅりょうほんを、といたのであった。しかし、このことは、きょうもんのうえにあらわれていない。もんていの、まなこがあけて、はじめて、かくちしえるのである。
 したがって、しゅじょうもまた、じゅりょうほんにいたり、たんに、じゅりょうほんのもんじょうの、いきにとどまらず、そこにひちんされている、なんみょうほうれんげきょうを、しんじゅしてじょうぶつすることが、できたのである。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「くしゅをもって、げしゅとなし、だいつうぜんしみ、しゃくもんをじゅくとなして、ほんもんにいたつて、とうみょうにのぼらしむ」(0249-15)と。
 ほっけしゅようしょうにいわく、「いま、ほけきょうにらいしして、じつほうをじゅよし、ほけきょうほんもんの、りゃくかいごんけんのんにらいしして、けごんよりのだいぼさつ、にじょう、だいぼんてん、たいしゃく、にちがつ、してん、りゅうおうとうは、くらいみょうかくにとなり、またみょうかくのくらいに、はいるなり」(0334-12)と。
 ほっけしゅようしょうの、「ほけきょうほんもんの、りゃくかいごんけんのん」とは、もんじょうのゆじゅつほんの、りゃくかいごんけんのん、じゅりょうほんの、こうかいごんけんのんつうじて、にちれんだいしょうにんの、こうかいごんけんのんにたいし、りゃくかいごんけんのんとなづけるのである。したがって、かんじんのほんぞんしょうのもんと、ほっけしゅようしょうのもんは、どうぎとはいすべきである。
 ここで、ちゅうもくすべきは、とうじのしゅじょうが、じゅりょうほんのせっぽうをきいて、とうかくのみならずみょうかくをもしょうとくしているとのおおせである。
 ところで、ほけきょうのきょうもんのうえでは、またてんだいだいしのしょもんにおいては、りんごくといってとうきょくとはいっていない。すなわち、ざいせのしゅじょうは、じゅりょうほんをきいてとうかくいにまでのぼったのであり、とうかくいのひとは、きょうもんのうえではまったくいないのである。だが、かんじんほんぞんしょうにもほっけしゅようしょうにもげんぜんとみょうかくいにのぼったことがのべられている。いったいこれはいかなるわけか。ここに、じゅうようなほうもんがひめられているのである。
 ざいせのしゅじょうは、じゅりょうほんにいたり、そのせっぽうをきいて、とうかくいにいたり、さらにじゅりょうほんにとかれたくおんじつじょうがほんちではなく、そのほんにんしょじゅうのもんていになんみょうほうれんげきょうがひちんされていることをしり、それをしんじゅして、みょうかくいにのぼることができたのである。


 ほっけしゅようしょう、もんだんにいわく、「もんにいわく、『りょうぜんはちねんのあいだ、しょぼさつ、みなみょうかくのくらいにのぼる』とは、もしもんじょうの、こころによらば、しゃくもんは、なおとうかくのえきなし、いわんや、みょうかくのえきあらんや、ほんもんまたみょうかくのえきなし、ただ、ふしょにかぎるゆえなり、なんぞ、いましょぼさつ、みなみょうかくのくらいに、のぼるといわんや。ゆえにしんぬ、いまほんげふぞくの、ないしょうのじゅりょうほんの、こころをもってかえって、ざいせとくえきのそうをみるに、しょぼさつとう、みな、くおんのしんじん、みょうかくのくらいに、のぼる。ゆえに、みなみょうかくにのぼるという」と。
 すなわち、もんていのまなこをひらいて、ざいせとくだつの、そうをみれば、みょうかくにのぼったということが、わかるのであるとの、おおせである。
 また、とうりゅうぎょうじしょうにいわく、「もし、たいげのこころは、つねのしょだんのごとし、ざいせのしゅじょう、じゅりょうほんをきき、ただにじゅう、ないし、とうかくにいたる。しかも、みょうかくにいたるひとは、すべてきょうもんに、これなきなり、しかるに、たいないのこころは、りょうぜんいちえの、むりょうのぼさつ、たいないのじゅりょうを、ちょうもんして、ただ、もんじょうだつしゃくを、しんずるのみにあらず、また、もんていひちんの、しゅほんをりょうして、くおんがんじょのげしゅの、くらいにたちかえりて、ほんちなんしのきょうちのみょうほうを、しんずるがゆえに、みなことごとく、みょうじみょうかくのごくいにいたるなり、これ、すなわち、たいないとくだつのそうなり、ゆえに、けいけいいわく、『ゆえに、ちょうじゅをきいて、また、しゅうしをりょうす』うんぬん。またいわく、『もし、ただ、じちゅうのおんじゅを、しんぜば、なんぞよくこのもろもろの、ぼさつとうをして、ぞうどうそんしょうして、ごくいにいたらしめん、ゆえに、ほんちなんしのきょうちを、しんげす』とううんぬん、わがそ、きとうしょうに、『もろもろのぼさつ、みな、みょうかくのくらいにのぼりて、しゃかにょらいと、さとりひとし』《1349-12》と、はんじたもうこれなり、とうりゅうの、くでんにいわく、『とうかくいってん、みょうじみょうかく』うんぬん」と。

 もんちゅう、「とうかくいってん、みょうじみょうかく」とは、じゅりょうほんのせっぽうをきいて、とうかくいまでのぼったしゅじょうが、そのおうていに、ひちんされたるみょうほうを、しんじゅして、いってんしてみょうかくいに、いたったことをいうのである。すなわち、ざいせのしゅじょうといえども、じょうぶつしえた、こんげんは、なんみょうほうれんげきょうにあったことは、あきらかである。
 しょせん、なんみょうほうれんげきょうこそ、じょうぶつのこんぽんであり、いかなるじだい、いかなるしゅじょうであろうとも、みょうほうをはなれて、じょうぶつはありえぬことを、かくしんすべきである。どれほどいだいな、だいちえしゃであろうとも、いかなる、はくがくのひとであろうとも、はちまんほうぞうを、こころにうかべるごときぶっぽうにつうたつしたひとと、いえども、みょうほうにきちゃくしなければ、めいろをすすむいがいにない。
 とうりゅうぎょうじしょうにいわく、「しばらく、しんしのごときろくおんの、だんなくは、ただこれとうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくにあらず、これすなわち、しゅしをしらざるゆえなり、しかるに、ほっけにらいしして、だいつうのしゅしをかくちす、これすなわち、かせつのだんなくなり、しかりといえども、もしほんもんにのぞむれば、なおこれとうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくにあらず、いまだ、くおんげしゅを、りょうせざるのゆえなり。
しかるのち、ほんもんにいたって、くおんのげしゅをあらわす、これすなわちかせつのだんなくなり、しかりといえども、もしもんていにのぞむれば、なおこれとうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくにあらざるなり。
もしもんていのまなこをひらいて、かえって、かのとくどうをみれば、じつにくおんげしゅの、くらいにかえって、みょうじみょうかくのくらいにいたる、これすなわち、しんじつのかせつのだんなくなり。ゆえに、きょうにいわく、「いしんとくにゅう」とううんぬん、いしん、あにみょうじにあらずや、とくにゅうは、すなわちみょうかくなり。またいわく、『がとうとうしんじゅぶつご』うんぬん。
しゅうそ、しゃくしていわく、『このむささんじんをば、いちじをもってえたり、いわゆるしんのいちじなり』(0753-03)うんぬん、しんは、そく、えのいん、みょうじそくなり、むささんじん、あにみょうかくにあらずや、しんし、すでにしかり、いっさいみなしからん」と。


 だいち、しゃりほつすら、なおなんみょうほうれんげきょうを、しんじゅしてじょうぶつしたのである。いわんや、たのひとびとにおいてをや、されば、ひくきしそう、てつがくに、こしつして、いちぶんのさとりにまんぞくし、したりがおをしているやからは、おろかともあわれといういがいにない。
 いじょうのごとく、しゃくそんはけっきょく、いっさいしゅじょうをして、なんみょうほうれんげきょうをしんじゅせしめんがために、いっさいほうをといたのであった。
また、そのご、てんだい、でんぎょうとうがちゅうごく・にほんにしゅつげんして、ほけきょうのごくりをといたが、これまた、みょうほうをうちにいだき、みょうほうをげんもくとしてほうをといたのであった。ゆえに、てんだいは、まいにちいちまんへんのだいもくをとなえたといわれ、でんぎょうもまた、りんじゅうにいっしんさんかん、あるいはりんじゅうのいちねんさんぜんとして、なんみょうほうれんげきょうと、となうべきことをそうでんしている。

 しゅぜんじけつ22にいわく、「てんだいだいし、・まいにちぎょうほうにっきに、いわく、どくじゅしたてまつる、いっさいきょうのそうよう、まいにちいちまんへん」と。げんしでんにいわく、「いっさいきょうのそうようとは、いわゆるなんみょうほうれんげきょうのごじなり」と。
これ、てんだいだいしが、なんみょうほうれんげきょうを、となえた、めいしょうである。また、どうずいより、でんぎょうのそうでんにいわく、「りんじゅう、いっしんさんかんとは、このぎょうのぎしき、つうずのかんそうに、にず、ひとしゅうえんにのぞみ、だんまつまのくるしみ、すみやかにきたり、うたた、しんたいにせまるとき、しんしんこんまい、ぜじひじを、べんぜず、もし、りんじゅうのときにおいて、しゅつりのようぎょうを、しゅうせずんば、へいあんのしゅうがく、なんのせんようあらん。
ゆえに、このくらいにおいて、ほうぐのいっしんさんかんを、しゅうすべし、ほうぐのいっしんさんかんとは、すなわちみょうほうれんげきょうこれなり、ゆえに、りんじゅうのとき、なんみょうほうれんげきょうとうと、となうべきなり」と。
またいわく「いちねんさんぜんにさんじゅうあり、いちにはじょうようの、いちねんさんぜん、ににはべつじのいちねんさんぜん、さんにはりんじゅうのいちねんさんぜん、ないし、りんじゅうのいちねんさんぜんの、かんとは、みょうほうれんげきょうこれなり、みょうそく、いちねん、ほうそくさんぜん、このゆえに、いちねんさんぜんと、めいい、ぎどうなり。
りんじゅうのとき、せんしんにまさに、なんみょうほうれんげきょうと、となうべし」と。でんぎょうにおいても、りんじゅうという。ぶっぽうでもっともだいじなしゅんかんに、なんみょうほうれんげきょうと、となえることがそうでんされていることが、あきらかである。

 だが、これらのけんせいは、しゃくぶつのりょういきであり、なんみょうほうれんげきょうを、うちにはしりつつも、そとにむかっては、とかなかったのである。
また、ときいまだきたらず、きも、りゃくこうしゅぎょうや、しきそうそうごんをこのむしゅじょうのきであり、それにおうじたほうをとき、さいごには、なんみょうほうれんげきょうを、さとらしめんとしたのである。
 さらにふかくかんがえれば、しゃくそんのはちまんほうぞうも、てんだい、でんぎょうのろんしゃくも、ことごとく、まっぽうのためであり、まっぽうのだいびゃくほうの、しょうみょうのために、とかれたのである。

 あたかもしゅうるのたいかいにむかってすすむがごとく、はるかまっぽうのごほんぶつとだいびゃくほうをのぞんで、そのじょぶんとして、みずからのしめいのままに、せっぽうしたのである。
 ほっけしゅようしょう333ぺーじにいわく、「とうていわく、ほけきょうはだれひとのために、これをとくや、こたえていわく、ほうべんぽんよりにんきほんにいたるまでの、はちほんに、にいあり、うえよりしたにむかいて、しだいにこれをよめば、だいいちは、ぼさつ、だいには、にじょう、だいさんは、ぼんぷなり、あんらくぎょうより、かんじ、だいば、ほうとう、ほっしと、ぎゃくじにこれをよめば、めつごのしゅじょうをもって、ほんとなす、ざいせのしゅじょうは、ぼうなり、めつごをもってこれをろんずれば、しょうほういっせんねん、ぞうぼういっせんねんは、ぼうなり、まっぽうをもって、せいとなす、まっぽうのなかには にちれんをもって、せいとなすなり」(0333-16)と。

 これ、ほけきょうのしゃくもんとて、いちおうはざいせのためであるが、さいおうはまっぽうごしゅつげんの、にちれんだいしょうにんのしょうみょうのために、とかれたことはあきらかである。
いわんや、もんていになんみょうほうれんげきょうを、ひちんしたほんもんじゅりょうほんがめつごまっぽうのために、とかれたのはとうぜんのことである。

 ゆじゅつほんだいじゅうごに、いわく、「われらはまた、ほとけのずいぎのしょせつ、ほとけのしょすいのみこと、いまだかつてこもうならず、ほとけのしょちは、みなことごとく、つうだつしたまえりと、しんずといえども、しかももろもろのしんぼっちのぼさつ、ほとけのめつごにおいて、もしこのみことをきかば、あるいはしんじゅせずして、ほうをはする、ざいごうのいんねんをおこさん。
ただしかなり、せそん、ねがわくは、ためにげだつして、われらがうたがいを、のぞきたまえ、および、みらいせのもろもろのぜんなんし、このじをききおわりなば、またうたがいをしょうぜじ」と。
またいわく、「われらは、ほとけにしたがって、ききたてまつれば、このじにおいてうたがいなし、ねがわくは、ほとけみらいのためにえんぜつして、かいげせしめたまえ」と。
 これは、ゆじゅつほんだいじゅうごにおいて、「われ、くおんよりこのかた、これらのしゅうをきょうけせり」と、りゃくかいごんけんのんをのべたことにたいし、しょぼさつ、たいしゅうが、どうしゅうしょうぎし、みろくが、だいひょうしてしつもんしているところである。
これにたいしじゅりょうほんだいじゅうろくの、せっぽうがあるわけであるが、このしつもんであきらかなごとく、めつごのために、じゅりょうほんだいじゅうろくの、せっぽうをこうたのである。
すなわち、じゅりょうほんだいじゅうろくの、せっぽうは、めつごのためにあったのであり、めつごのなかにも、まっぽうのためにあったことを、しるべきである。

 ほっけしゅようしょうにいわく、「にには、ゆじゅつほんのどうしゅうしょうぎより、いちはんならびに、じゅりょうほん、ふんべつくどくほんのはんほん、いじょういちほんにはんを、こうかいごんけんのんと、なずく、いっこうにめつごのためなり」(0334-05)ちゅうりゃく、とうていわく、だれびとのために、こうかいごんけんのんの、じゅりょうほんをえんぜつするや、こたえていわく、じゅりょうほんのいちほんにはんは、はじめよりおわりにいたるまで、まさしくめつごしゅじょうのためなり、めつごのなかにはまっぽうこんじの、にちれんとうがためなり」(0334-15)と。

 いじょう、ほんもんじゅりょうほんも、まっぽうのにちれんだいしょうにんのぶっぽうのしょうみょうのためにとかれたことは、まったくめいはくである。
 またぞうぼうしゅつげんの、てんだいもでんぎょうも、まっぽうのごほんぶつと、だいびゃくほうをれんぼしてやまなかった。てんだいは「のちのごひゃくさいとおくみょうどうにうるおわん」とのべ、でんぎょうもまた、「しょうぞうややすぎおわって、まっぽうはなはだちかきにあり」とのべ、まっぽうをごんぐしている。
かくして、あらゆるきょうきょうがとかれ、あらゆるろんしゃくがのべられたあと、まっぽうにはいり、たいようのしゅつげんのごとく、ごほんぶつにちれんだいしょうにんのごしゅつげんがあり、まっぽうまんねん、じんみらいさいまでてらしゆく、だいびゃくほうがこんりゅうされたのである。
もはや、とききたり、きはじゅくしたのである。しゃくそんのごとく、みょうほうをうちにいだき、そとにはたのほうを、とくひつようはない。ただちに、もんていひちんのたいほうたる、なんみょうほうれんげきょうを、いっさいしゅじょうにとかれたのである。


 これまで、じゅりょうほんだいじゅうろくのいちを、ごんじつそうたい、ほんしゃくそうたい、しゅだつそうたいという、そうたいのうえでのべてきた。
 さらにここで、じゅりょうほんそれじたいのないようを、いちだんとほりさげていきたい。
 じゅりょうほんの、もっともじゅうようないぎは、ほつしゃくけんぽんにあることは、これまでのべてきたとおりである。
このけんぽんに、にぎがある。
いちにはもんじょうけんぽん、ににはもんていけんぽんである。もんじょうけんぽんとは、ごひゃくじんでんこうのけんぽんであり、もんていけんぽんとは、くおんがんじょのけんぽんである。しかして、じゅりょうほんだいじゅうろくの、もんもんくくをごひゃくじんでんこうをけんぽんとしてりかいしていくのを、もんじょうのじゅりょうほんといい、くおんがんじょのけんぽんとして、りかいしていくのをもんていのじゅりょうほん、またはないしょうのじゅりょうほんというのである。
 たとえば、がじつじょうぶつのもんについていえば、ごひゃくじんでんこうのじょうどうをがじつじょうぶつととくというならば、これはもんじょうけんぽんであり、もんじょうのじゅりょうほんのよみかたである。
 もしくおんがんじょのじょうどうを、がじつじょうぶつととくというならば、これはもんていけんぽんであり、もんていのじゅりょうほんのよみかたである。
ないしょうのじゅりょうほんのよみかたである。

おんしとだぜんかいちょうが、じゅりょうほんだいじゅうろくのこうぎにあたって、もんじょう、もんていのどうようのよみかたをしめされたのは、じつにこのためにほかならない。


 さらにもんじょうけんぽんに、にいがある。いちにはたいげ、ににはたいないである。
 これについては、とうりゅうぎょうじしょうに、つぎのごとくおおせである。
 「とう、たいないたいげ、そのそういかん、こたう、これすなわちけんとみけんと、ちとふちと、てんちはるかにことなり、いわくもんてい、いまだあらわれざるをなづけて、たいげとなす、なお、ふしきてんげつ、たんかんちげつのごとし。もんていすでにあらわるれば、すなわちたいないとなづく、ちげつはすなわちこれ、てんげつのかげとしるがごとし。しばらくがじつじょうぶつのもんのごとき、もし、ほんちだいいち、ほんがじぎょうのじょうどうを、がじつじょうぶつと、とくといわば、すなわちこれ、たいげのじゅりょうほんなり。もししゃくちゅうさいしょのほんがけたの、じょうどうをがじつじょうぶつと、とくといわば、すなわちこれたいないのじゅりょうほんなり。
ないげことなりといえども、ともにだつしゃくとなづく、これもんていのしゅほんにたいするゆえなり。まさにしるべし、しゃくもんすでにないげありいまのだつしゃく、あにしからざらんや、もし、たいげのじゅりょうほんは、てんだいじょうずのしゃくのごとし。もしたいないのじゅりょうほんは、けちみゃくしょうに、ほんがをしゃくとなづくがごとし」

 すなわち、ごひゃくじんでんこうのじょうどうがいっさいのこんぽんであり、ほんちであり、これよりきゅうきょくのものはなにもないとして、それをあかしたのがじゅりょうほんであるとするのがたいげのじゅりょうほんである。ごひゃくじんでんこうがほんちであるとはいっても、それはしゃくちゅうけたのはんいないのことであり、しんのほんちはくおんがんじょであるとしって、このじゅりょうほんは、このしゃくちゅうさいしょのほんがけたのじょうどうをあかしたほんであるとするのがたいないのじゅりょうほんである。このたいげ、たいないのじゅりょうほんはてんちのへだたりがあることはじじつだ。しかし、ともに、このじゅりょうほんは、ごひゃくじんでんこうのじょうどうをあかしたものであるとするてんではきょうつうしている。
 にちれんだいしょうにんが、おんぎくでんにじゅりょうほんだいじゅうろくのせっぽうをされるのは、なにもこれらのもんじょうのじゅりょうほんのせつめいではなくして、もんていのじゅりょうほん、ないしょうのじゅりょうほんをおときくださらんがためである。なぜならば、もんじょうのじゅりょうほんはざいせのしゅじょうのとくだつのためのほうもんであり、まっぽうのようほうではない。もんていのじゅりょうほん、ないしょうのじゅりょうほんこそ、めつごまっぽうのためのじゅりょうほんであるからである。
 したがってしょごしょに、ほんもんにふたつのこころがあり、いちにはざいせのため、にには、まっぽうのためとおおせられるのは、ざいせのためとはもんじょうであり、めつごのためとは、もんていであることをしるべきである。
 われわれが、じゅりょうほんだいじゅうろくを、よむしょういもまた、なにも、しゃくそんのごひゃくじんでんこうの、じょうどうをよむのではない。
むしろ、それはしゃくぶつのほうもんであり、まっぽうには、ゆうをなさないとはしてよむことはあっても、ぜったいにまっぽうのほうもんとして、もちいてよむことはない。
まさしく、にちれんだいしょうにんの、だいぶつほうをせつめいするげんげんくくとして、また、だいごほんぞんをさんたんすることばとして、もちいてよむのである。かつもくしてみるならば、じゅりょうのいっぽんとかれているものは、はじめからおわりまで、ことごとくにちれんだいしょうにんのいちぶつ、なんみょうほうれんげきょうの、いっぽうしかないのである。

 たとえば、がじつじょうぶつのもんを、もんていのじゅりょうほんのたちばからよめばどのようなるのか。
 とうりゅうぎょうじしょうにいわく、「もんていげしゅのじゅりょうほんに、がじつじょうぶつというはわれは、すなわちにちれん、 じょうぶつはすなわちこれじじゅゆうしんなり、いわく、のうじょうはこれち、しょじょうはこれきょうなり、きょうちみょうごう、あに、じじゅゆうしんのじょうどうにあらずや、ゆえに、もんいにいわく『にちれんじつに、じじゅゆうしんのじょうどうをとなえてよりこのかた、むりょうむへん、ひゃくせんまんのくこう』うんぬん」と。
 すなわち、にちれんだいしょうにんが、くおんがんじょにじじゅゆうしんを、しょうとくしてむりょうむへんとよみ、にちれんだいしょうにんが、くおんがんじょいらい、むしむしゅうのほとけであることを、あらわすのである。
 さらにとうりゅうぎょうじしょうに、ひゃくろくかしょうの、「われらが、ないしょうのじゅりょうほんとは、だつちゃくじゅりょうのもんていの、ほんにんみょうのことなり、そのきょうしゅは、それがしなり」(0863-げしゅのほけきょうきょうしゅのほんしゃく)のもんをがじつじょうぶつのきょうもんをれいにひいていわく、
 「のうせんのへんはただこれよんじ」なり、しょせんのへんはそくみょうほうなり、いわくのうじょうそくち、しょじょうそくきょう、あに、ほんちなんしきょうちのみょうほうにあらずや。ゆえにしんぬ、のうせんのへん、にせんよじこれをわがないしょうのじゅりょうほんとなずけ、しょせんのへん、みょうほうごじこれをほんにんみょうとなずくるなり、いましょせんをもってのうせんになずく、ゆえにないしょうのじゅりょうほんとはほんにんみょうのことなりというなり、」と。

 のうせん、しょせんのせんとは、じりをよくときあかすぎである。ないしょうのじゅりょうほんがのうせんで、みょうほうがしょせんとは、ないしょうのじゅりょうほんのせつめいするじったいはみょうほうなりということである。
 すなわち、じゅりょうほんだいじゅうろくのにせんよじのごとくなんみょうほうれんげきょうのせつめいであることは、りょうりょうとしてあきらかではないか。
 したがって、ないしょうのじゅりょうほんにより、にょらいじゅりょうほんだいじゅうろくの「にょらい」をかいしゃくするならば、にょらいとは、くおんほんがのさんじん、すなわちしきそうそうごんのほとけではない。ほんちむさのさんじん、すなわちくおんがんじょのじじゅゆうしんをにょらいというのである。
 しかして、くおんはいまにあり、いまはすなわちくおんである。くおんがんじょのじじゅゆうしんとは、まったくこれまっぽうのごほんぶつにちれんだいしょうにんであらせられる。ゆえに、まっぽうこんじ、ないしょうのじゅりょうほんだいじゅうろくのにょらいとは、にちれんだいしょうにんのおんことなのである。おんぎくでんになんみょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんだいじゅうろくとおおせあるのは、このことにほかならない。
 さきにのべたごとく、もんじょうのじゅりょうほんは、しゃくそんが、いつ、どこで、どのようにしてほとけになることができたかをあかし、それによってしゃくそんじしんのせいめいのうえに、じょうじゅうのせいめいをときあかしたものであった。いうなれば、しゃくそんというぶっしんにやくしてのせっぽうであった。しゃくそんのぶっぽうをほんがみょうのぶっぽうというのはそのためである。

 しかしながら、ごひゃくじんでんこうというときをげんていし、そのときいぜんにはほとけではなく、ぼさつどうをしゅぎょうしたとといている。しかもそのほとけもしきそうそうごんのりそうぶつのすがたであった。これすなわち、ごひゃくじんでんこうのほとけは、つくられたほとけであり、すいじゃくのほとけであることをしめすものであり、むしむしゅうのほとけとはいえないのである。したがって、そこに、じょうぶつのほんげんがあるのでもなければ、じょうぶつのじったいがあるのでもない。

 しんじつのむしむしゅうのほとけは、もんていにときあかされるのである。くおんがんじょとは、ごひゃくじんでんこうというげんていされたときではない。じかんにやくしていえばむしむしゅうであり、くうかんにやくしていえば、だいうちゅうそれじたいであり、そのじったいは、いっさいほうのこんげんであり、かつあらゆるものをへんかさせ、るてんせしめていくほんげんりょくたるなんみょうほうれんげきょうなのである。

 ゆえにおんぎくでんげには、「くおんとは、はたらかさず.、つくろわず、.もとのまま」(0759-だい23 くおんのこと)ととき、けつろんして「くおんとはなんみょうほうれんげきょうなり」と、おおせられたのである。

 したがって、そのほとけのすがたも、さんじゅうにそうはちじゅうしゅこうをそなえた、しきそうそうごんのほとけではない。ただぼんぷのとうたい、ほんぬのすがたで、そのままくきょうのしんぶつなのである。
 にちれんだいしょうにんは、まっぽうに、くおんがんじょじじゅゆうしんのさいたんとしてごしゅつげんになり、ぼんぷのとうたい、ほんぬのままで、いっさいしゅじょうのなかにとびこまれ、くおんがんじょのみょうほう、まんぽうのこんげん、だいうちゅうのいっさいのへんげのほんげんりきたるなんみょうほうれんげきょうをいっぷくのだいごほんぞんとしてあらわされ、いっさいしゅじょうにあたえられたのである。
これこそ、まっぽうのようほう、いっさいしゅじょうのかいじょうぶつどうのほうであるとつよくかくしんすべきである。

りょうじゅうのそうべつについて。
 にちかんしょうにんは、ほっけしゅようしょうもんだんにおいて、ほんちむさのさんじんについて、りょうじゅうのそうべつが、あるとのべておられる。
 それによれば、ほんちむさのさんじんとは、いちにはそうじてこれをろんずれば、いっさいしゅじょうであり、べっしてこれをいえば、にちれんだいしょうにんのまっていである。
 にには、そうじてこれをいえばにちれんだいしょうにんのまってい、べっしてこれをろんずれば、ただにちれんだいしょうにんのみが、しんじつくきょうのほんちむさのさんじんである。
 そうべつのそうとは、ぜんたい、べつとはこべつのこころである。だが、さらにそうとは、ぜんたいてき、そうたいてき、いっぱんろんてきな、たちばであるのにたいし、そのもののしょういがいずこにあるかを、せんじつめてこべつてきにろんずるたちばは、べつである。したがって、そうとはいちおうのひょうめんてきなたちばであり、べつとはさいおうのさらにふかく、つっこんでかんがえたたちばとするばあいがおおい。ここにおけるりょうじゅうのそうべつのばあいは、このいみである。
 そやどのごへんじにいわく、「そうべつの、にぎ、すこしもあいそむけば、じょうぶつおもいもよらず、りんねしょうじのもといたらん」(1055-11)と。そうべつのにぎを、わきまえることがいかに、じゅうようなことであるかは、このもんにて、めいはくである。もし、そうべつのにぎをわきまえなければ、まっぽうのごほんぶつもしらず、ただ、ふこうのちまたを、るてんするのみである。
 いっさいしゅじょうが、みょうほうのとうたいであり、ほんちむさのさんじんであるというのは、りにやくし、そうたいてきに、いっぱんろんてきにろんじたものである。げんじつには、くのうのせいかつにしんぎんしているしゅじょうが、どうしてほんちむさのさんじんといえるであろうか。しんじんのないものは、ほんちむさのさんじんとはいえない。しんじんなくば、いっしんはむみょうにおおわれ、そのほんしつは、さんあくどう、しあくしゅにほかならない。ゆえに、しんじんにやくし、べっしてほんちむさのさんじんをろんずれば、ただ、だいごほんぞんをゆいいつむにとしんずるひとが、ほんちむさのさんじんなのである。

すなわち、われらのせいめいはこんごうふえのぶっしんとあらわれるからむさのほっしんである。またぶっちがゆげんし、じんせい、しゃかい、じだいのちょうりゅうを、とうてつしたまなこでみていけるのは、むさのほうしんである。
また、じじつのせいかつのうえに、くどくがあらわれ、ふくうんにみちみち、いきいきとしたひびのこうどうを、していけるのはむさのおうじんである。

 だが、さらにろんきゅうすれば、われわれがむさのさんじんの、とうたいであるというのは、そうじてのたちばであり、べっしていえば、にちれんだいしょうにんのみ、むさのさんじんのとうたいであらせられる。

 われわれがだいごほんぞんをしんじて、むさのさんじんとひらくことができるのは、だいごほんぞんそれじたいがまったくむささんじんにょらいたるにちれんだいしょうにんのぜんせいめいであるからにほかならない。じだいのいかんをとわず、みんぞくのいかんをとわず、だれひとであれ、このだいごほんぞんしんずるならば、わがみみょうほうのとうたいとあらわれるのである。
 すなわち ぜんせかいのあらゆるみんしゅうが、きぶくすべきだいごほんぞん、そくにちれんだいしょうにんこそ、べっしてむさのさんじんの、とうたいであることはめいはくである。

 いじょうのかんけいについて、とうたいぎしょうには、めいかくにたてわけてとかれている。
 まず、ぼうとうには、「とう、みょうほうれんげきょうとはそのたいなにものぞや」(0510-01)という、といにたいし、「こたう、じっかいのえしょう、すなわちみょうほうれんげのとうたいなり」(0510-01)とのべられ、さらに「とう、もし、しかればわれらがごときいっさいしゅじょうも、みょうほうのぜんたいなりといわるべきか」(0510-01)。とのかさねてのといにも、「こたう、もちろんなり」(0510-02)として、ほうべんぽんだいにの、「しょいしょほう、ないし、ほんまつくきょうとう」のもん、みょうらく、なんがく、てんだいのしゃくをひいて、ろんしょうされている。

 これは、そうじて、りにやくしてろんじたものである。
だが、つぎのだんにいたり、べっしてしんじんにやくして、ろんじられている。
 「しょせん、みょうほうれんげのとうたいとは、ほけきょうをしんずるにちれんがでしだんなとうの、ふぼしょしょうのにくしんこれなり。しょうじきにほうべんをすて、ただほけきょうをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となうるひとはぼんのうごうくの、さんどう、ほっしん、はんにゃ、げだつのさんとくと、てんじてさんかん、さんたい、そくいっしんにあらわれ、そのひとのしょじゅうのところは、じょうじゃっこうどなり。
のうごしょご、しんど、しきしん、くたいくゆう、むささんじんのほんもんじゅりょうの、とうたいれんげのほとけとは、にちれんがでしだんなとうのなかのことなり」。(0512-09)
 このおんふみによれば、だいごほんぞんをしんじたひとのみが、とうたいれんげのほとけである。
「にちれんがでしだんならのなかのことなり」の「なか」について、にちかんしょうにんは、「しょうしんにあたる」とよまれている。
すなわち、かたちのうえではにゅうしんしていても、しんじんのないものは、とうたいれんげのほとけとはいえないのである。ただ、だいごほんぞんをふかくしんじたてまつり、こうせんるふのためにまいしんするひとこそ、しょうしんのものでり、とうたいれんげのほとけとあらわれるのである。
 だが、これは、そうじてのたちばである。べっしていえばにちれんだいしょうにんこそ、とうたいれんげのほとけで、あることはつぎのもんにあきらかである。
 「とう、こつしょよりこのかたなんびとか、とうたいのれんげをしょうとくせしや、こたう、しゃくそんごひゃくじんでんごうのそのかみ、このみょうほうのとうたいれんげをしょうとくして、せぜばんばんにじょうどうをとなえ、のうしょう、しょしょうのほんりをあらわしたまえり」(0513-14)。
 「ごひゃくじんでんこうのそのかみ」とは、くおんがんじょのことである。そのかみとは、がんじょのいみょうである。くおんがんじょのしゃくそんとは、くおんがんじょのじじゅゆうしんにょらい、そく、にちれんだいしょうにんであらせられる。
すなわち、にちれんだいしょうにんこそ、くおんがんじょいらい、むしむしゅうのとうたいれんげの、ほとけであることをのべられたおんふみである。
 いじょうの、りょうじゅうのそうべつのぎよりすれば、にちれんだいしょうにんこそ、むささんじんの、とうたいれんげのほとけであることは、あまりにもめいはくであり、これをしらぬやからは、もうもくのもの、じゃけんのものというべきであろう。

そうじて、ふくわくをもって、じゅりょうほんのごくとせず、ただぼんぷのとうたいほんぬのままを、このほんのごくりとこころうべきなり。

 このおんふみは、さきの「ろくそくの、はいりゅうのときは、このほんのにょらいは、りそくのぼんぷなり」のもんを、うけているのである。
 このなんみょうほうれんげきょうにょらいの、にょらいとは、けっして、しきそうそうごんのほとけではなく、すがた、かたちは、なんらりそくのぼんぷとことならない。
ぼんぷのすがたそのままで、くきょうそくのほとけである。とのこころが、さきのもんのこころである。
そしてそのもんをうけて、ないしょうのじゅりょうほんのこころは、ふくわくにあるのではない。ただぼんぷの、とうたいほんぬのままのほとけをときあかしたのが、ないしょうのじゅりょうほんのきゅうきょくであると、けつろんづけられたのである。
 りそくとは、りのうえでぶっかいをぐしている、しゅじょうのことである。いっさいしゅじょうが、みょうほうのとうたいであるというのは、このりそくを、あらわしていることにほかならない。
ぶっしょうをぐしているとはいえ、りそくのしゅじょうは、げんじつには、じゃけんにおおわれ、くのうのじゅうまんせる、まよいのしゅじょうなのである。
 しかるに、ほとけといえども、なんらこれらのしゅじょうとことならない。にぜんごんきょうには、くらいのしだいをといているため、りそくのぼんぷが、くきょうそくのほとけになるためには、わくをふして、しだいにしょうしんして、いくいがいになかった。
 だが、ほけきょうにおいては、くらいのしだいはなく、そくしつとんじょうのほうもんが、とかれているのである。

 さんぜしょぶつ、そうかんもんしょうにいわく。
 「じゅっほうかいの、えほう、しょうほうはほっしんのほとけ、いったいさんじんのとくなりとしって、いっさいのほうは、みなこれぶっぽうなりとつうたつし、げりょうするこれをみょうじそくとなす、みょうじそくのくらいよりそくしんじょうぶつす、ゆえにえんどんのきょうには、じいのしだいなし。
ゆえにげんぎにいわく、「まつだいのがくしゃ、おおくきょうろんのほうべんのだんぶくをしゅうして、じょうとうす、みずのしょうのひやかなるがごときも、のまずんばいずくんぞしらん」いじょう。
てんだいのはんにいわく、「じいのこうもくは、にんのう、ようらくにより、だんぶくのこうげはだいぼん、ちろんによる」いじょう。
にんのう、ようらく、だいほん、だいちどろんこのきょうろんは、みなほっけいぜんのはちきょうの、きょうろんなり、ごんきょうのぎょうは、むりょうこうをへてしょうしんする、じいなればくらいのしだいをとけり、いまほっけは、はちきょうにこえたる、えんなればそくしつとんじょうにして、こころと、ほとけと、しゅじょうとこのみっつは、わがいちねんのしんちゅうにおさめて、こころのほかに、ほうなしとかんず 」(0566-14)と。
 ここに、ほけきょうとあっても、そのがんいは、ほけきょうほんもんじゅりょうほんのもんていたる、さんだいひほうであることは、いうまでもない。
 しゃかぶっぽうは、りろんてきにはそくしつとんじょうをといても、げんじつにはしきそうそうごんの、ほとけのいきをだっしていないからである。
このてんについては、ぜんじゅつしたとおりである。
 ここに、みょうじそくから、ただちに、そくしんじょうぶつするとあるのは、にちれんだいしょうにんの、ぶっぽうにおいては、しんじんこそじょうぶつのようていであり、しんじんのなかに、じょうぶつはおさまっていることを、いみするのである。
にちかんしょうにんは、みょうじそくとは、しんじんであるとおおせである。
また、しんじんごうじょうなるを、ぶっかいというのであるともおおせである。
したがって、おんぎくでんげにも、「このむさのさんじんをば、いちじをもってえたりいわゆる、しんのいちじなり」(0753-だいに、にょらいひみつじんつうしりきのこと-03)ととかれているのである。
 それでは、まっぽうのぶっぽうにおいては、まったくかんぎょうそく、そうじそく、ぶんしんそくとうは、ないのかというとそうではない。ただし、これは、ごんきょうなどのくらいのしだいや、てんだいのはいりゅうではもうとうない。
しんじんのうえのかんぎょうそく、しんじんのうえのそうじそく、しんじんのうえのぶんしんそくにほかならない。
いっさい、しんじんのなかに、ほうがんされるものであり、みょうじそくのなかにおさまるものである。
ゆえに、まつだいりそくのぼんぷが、だいごほんぞんをしんじたてまつるならば、それがみょうじそくであり、そく、くきょうそくのほとけとあらわれるのである。











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