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  • 御義口伝講義録上 ひらがな あんらくぎょうほんごかのだいじ

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月22日(土)02時05分17秒
 
あんらくぎょうほんごかのだいじ

おんぎくでんこうぎろく じょう

0750~0750 あんらくぎょうほんごかのだいじ。
0750    だいいち あんらくぎょうほんのこと。
0750    だいに いっさいほうくうのこと。
0750    だいさん うしょなんもん ふいしょうじょうほうとうとうのこと。
0750    だいよん むうふいか とうじょうとうのこと。
0750    だいご うにんらいよく なんもんじゃ しょてんちゅうやとうのこと。

0750~0750 あんらくぎょうほんごかのだいじ。
0750    だいいち あんらくぎょうほんのこと。

 おんぎくでんにいわく、みょうほうれんげきょうを、あんらくにぎょうぜむこと、まっぽうにおいて、いま、にちれんとうのたぐいのしゅぎょうは、みょうほうれんげきょうをしゅぎょうするに、なんきたるをもって、あんらくとこころうべきなり。

 あんらくぎょうほんには、みょうほうれんげきょうを、あんらくにしゅぎょうするほうほうが、とかれているが、それは、しょうぞうにおける、しょうじゅのしゅぎょうである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。みょうほうれんげきょうを、あんらくにぎょうずるということは、まっぽうにおいて、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかの、しゅぎょうにやくしていえば、ごほんぞんをしんじ、じぎょうけたにわたる、ぶつどうしゅぎょうをはげめば、かならずなんがある。そのなんがおきてくることが、じつはあんらくであると、こころえなければならない。

 あんらくぎょうほんには、しん、く、い、せいがんのしあんらくぎょうがとかれている。そのこころは、あっく、はくがいされず、あんのんにみょうほうを、しゅぎょうするには、いかにしたらよいかをしめしたものである。かんじほんにとく、さんるいのごうてきのあらしとたたかい、ぐほうするほうきとは、まったくことなり、おだやかな、しょうきょくてきなじっせんほうほうをいうのである。
 たとえば、くあんらくぎょうのもんには、「もしはくちにせんぜつし、もしはきょうをよまんとき、ねがつてひと、および、きょうてんのあやまちをとかざれ。また、しょよのほっしを、きょうまんせざれ、たにんのこうお、ちょうたんをとかざれ、しょうもんのひとにおいて、またなをしょうして、そのかあくをとかざれ。
 また、なをしょうして、そのうつくしきことを、さんたんせざれ」とうとあり、また、しんあんらきぎょうのもんにも「いかんなるをか、ぼさつ、まかさつ、こくおう、おうじ、だいじん、かんちょうにしんごんせざれ。もろもろのげどう、ぼんじ、にけんしとう、および、せぞくのぶんぴつ、さんえいのげどうをつくる、および、ろかやだ、ぎゃくろかやだ、のものにしんごんせざれ。
 また、もろもろのあらゆる、きょうぞく、そうさおよび、ならとうのしゅじゅのへんげんのたわむれに、しんごんせざれ、また、せんだら、および、いのししひつじ、けいくをやしない、でんりょうしさかなとりするもろもろのあくりちぎに、しんごんせざれ」とうとある。
 これらのもんによれば、ひとざとはなれた、へいおんぶじのところで、ぶつどうしゅぎょうすることになる。これらのしゅぎょうは、しょうほう、ぞうぼうじだいにはつうようしたかもしれない。しかし、まっぽうには、まったくようをなさないのである。げんこんは、ごじょくのじだい、しゅらとうじょうのさかんなじだいである。ふこうのひと、ほうぼうのものがじゅうまんしている。それらをみ、てをこまねいて、じぶんだけ、へいおんぶじに、ぶつどうしゅぎょうをねがうのは、ぶっぽうをしらざることばであり、ひとである。かくのごときやからは、りこしゅぎであり、ひきょうものであり、かいぶつのごときそんざいである。
 にょせつしゅぎょうしょうに、「いちじょうるふのときは、ごんきょうあつて、かたきとなりて、まぎらはしくば、じっきょうよりこれをせむべし、これを、しょうしゃくにもんのなかには、ほけきょうのしゃくぶくともうすなり。てんだいいわく「ほっけしゃくぶく、はごんもんり」と、まことにゆえあるかな、しかるに、しょうたる、しあんらくのしゅぎょうを、いまのとき、ぎょうずるならば、ふゆ、しゅしをくだして、はる、このみをもとむるものにあらずや。
 ニワトリの、あかつきになくはゆうなり、よいになくは、もっけなり、ごんじつぞうらんのとき、ほけきょうのおんてきを、せめずして、さんりんにとじこもり、しょうじゅをしゅぎょうせんは、あに、ほけきょうしゅぎょうのときをうしなう、もっけにあらずや。
 されば、まっぽう、いまのとき、ほけきょうのしゃくぶくの、しゅぎょうをば、だれか、きょうもんのごとく、ぎょうじたまへしぞ、だれひとにてもおわせ、しょきょうはむとくどう、だじごくのこんげん、ほけきょうひとり、じょうぶつのほうなりと、こえもおしまず、よばはりたまいて、しょしゅうの、にんぽうともにしゃくぶくして、ごらんぜよ。
 さんるいのごうてき、きたらんこと、うたがいなし」(0503-15)と。
 あっくをきにし、はくがいをおそれ、へいおんのみねがい、みずからのせっそうまで、まげるじんせいは、じゃくしゃのじんせいである。
 にちれんだいしょうにん、ございせじだいにおいても、はくがいのきびしさに、たえかねて、たいてんするひとがいくたもいた。
 これらのひとびとは、けっきょく、だいしょうにんの、ごほんぶつたることをしらず、しんぜず、ただただ、めさきのあんのんのみに、とらわれたひとびとである。そのめいよあるたちばを、すてさった、まことにあわれなすがたであった。
 さどごしょに、「にちれんごぼうは、ししょうにておはせども、あまりにこはし、われらはやはらかに、ほけきょうをひろむべしといわんは、ほたるびがにちがつをわらひ、ありづかが、かざんをくだし、せいこうがこうかいをあなづり、かささぎがらんほうをわらふなるべし、わらふなるべし」(0961-01)と。


 だいしょうにんめつごにおいても、ごろうそうは、てんだいしゃもんとなのってしまった。そしてしゃくぶくをすて、しょうじゅのぎょうに、はしったのである。ただいちにん、にっこうしょうにんのみが、にちれんだいしょうにんの、しょうほうしょうぎをごじし、いかなるけんりょく、あつりょくにくっせず、でんじなされ、こうふのきそを、つくられたのである。げんざい、そうかがっかいは、だいしょうにんのぶっぽうを、すんぶんたがうことなく、じゅじし、ぜんしんしている。
 ときにかなった、さいこう、さいぜんの、じっせんこういを、なしているのである。いっせんすうひゃくまんのひとびとが、ごほんぞんをたもったげんせんは、いちたいいちのしゃくぶくにあったことは、そのことをしめす、とうといしょうこではなかろうか。
 つぎに、「なんきたるをもって、あんらくとこころうべきなり」との、ごきんげんを、かくしんできるひとこそ、だいしょうにんより、おほめをいただけるひとである。このひとこそ、こんぜで、ほとけのちからをだし、ししてりょうぜんにかえり、さんぜじっぽうのほとけ、ぼさつよりしょうさんされる、さいこうのしんじゃ、じんせいといえるのである。
 これ、そのひとのいちねん、しんじんのつよさによってきまるのである。だいしょうにんのごいっしょうも、はくがいのれんぞくであった。しかし、だいなんのなか、しょうがい、ごきょうがいは、ゆう々ゆうたるものであった。われらもまた、しんじんをひらけば、いっさいがあんらくとなるのである。なんがあればあるほど、そのひとはせいちょうする。ふくうんをはやくつみゆくことを、わすれてはならない。
 つぎに「あんらく」とは、あらゆるひとが、あんらくをもとめている。びょうにんはけんこうになろうとし、ひんじゃはふしゃになろうと、どりょくする。かぎりなく、くをば、あんらくにだっきゃくしようとするのは、にんげんしぜんのすがたである。しかるに、このようなあんらくは、そうたいてきなあんらくである。しんじつぜったいのあんらくは、じょうぶつである。なにものにもおかされず、えいえんにあんらくしてゆける、きょうがいをかくりつすることこそ、さいこうのあんらくなのである。

0750    だいに いっさいほうくうのこと。

 おんぎくでんにいわく、このしたにおいて、じゅうはちくうこれあり、じゅうはちくうのたいとは、なんみょうほうれんげきょうこれなり、じゅうはちくうはいずれもみょうほうのことなり。

 ここは、あんらくぎょうほんに、「いっさいのほうをかんずるに、くうなり」とあり、いか、じゅうはちくうが、とかれているところの、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである、この、「いっさいほうくう」のもんのしたには、じゅうはちくうがとかれている。このじゅうはちくうのほんたいとは、なんみょうほうれんげきょうである。じゅうはちくうはいずれもみょうほうのことをあらわしている。

 あんらくぎょうほんのじゅうはちくうは、いずれも、せいめいのふかしぎなじょうたいを、さまざまなかくどから、ときあかしたものである。くうというと、いっぱんにはむとおなじような、いみにつかわれている。
 また、あるゆうめいなじてんにも、ぶっせつでとく「くう」を「うにたいして、そんざいをひていすること」とあるくらいである。また、ぶっきょうかんけいのがくしゃがろんずるくうも、かんねんてきであり、いたずらになんかいな、ぶっきょうようごをつかいながらも、じっさいには、しょうじょうきょうとうで、とくくうかんをもとにしたものがおおい。
 およそせいかつと、まったくかけはなれたものに、なっている。しんじつのぶっぽうのとくくうは、ぜったいに「む」ではない。「う」「む」とはべつの、がいねんである。ありといえばなく、なしといえばあるという、ふしぎなるせいめいのじょうたいをいう。
 いっぱんのてつがくにおいては、「う」と「む」のふたつをこんげんにしている。とくにせいようてつがくにおいては、「ある」か「ない」かのはんだんだけで、そこに「くう」というがいねんはない。くうをえいやくしてempty space とか vanity というごがあるが、これをえいやくするのに、あるじてんでは all is nothing としている。これでは、「すべてはむ」ということで、くうはたんなる「くうきょ」や、「む」のいみでしかなく、きゅうやくせいしょ、でんどうのしょにある、くうとどうようになってしまう。
 がいこくじんが、くうをむとおなじようにかんがえているれいとして、とだせんせいが、こんなはなしをされた。
 「こうたいしでんかの、えいごのせんせいで、イギリスじんのひとがいた。また、わしのともだちのなかに、にほんだいがくの、てつがくぶちょうがおりまして、そのひととふたりで、そのイギリスじんのところへあそびにいった。そのイギリスじんは、にほんのぶっきょうかいの、だいがくしゃといわれる、すずきだいせつというひとに、ぶっきょうをおそわっていた。そのイギリスじんに、わたしは、『せんせい、くうというのはなにですか』と。そしたらピアノのうえにあった、おりづるをくしゃくしゃにして、『これがくうだ』といった。
 そんなバカなことがあるか。だいせつせんせいに、えいこくからわざわざきて、にほんのぶっきょうがくをおそわりながら。それはむではないか。くうとむとはちがう。くうがわからなければ、ぶっきょうてつがくはわからんのです」と。
 なんでも、「ある」か「ない」かで、わりきろうとする、これがドイツてつがくを、はじめとするせいおうのてつがくしそうの、かんがえかたである。しかし、ぶっぽうにおいてう、むのほかに、もうひとつのがいねんとして、「くう」をとく。あるといえばない、ないといえばでてくる。うでもむでもない。しかもうであり、むであるというのが、くうのていぎである。
 たとえば、ここにラジオがあるとする。スイッチをひねると、せかいじゅうのほうそうをきくことができる。もしそこにラジオがないとすれば、ほうそうをきくこともできない。そこにはなにもないことになる。なにもないではないかといっても、ラジオがあると、ちゃんとおんぱとしての、はたらきをあらわすのである。
 またおこるというせいめいじょうたいがある。このおこるというせいめいを、もし、あるといおうとしても、どこにもそのじったいというものがない。つかむことがない。ないといおうとしても、おこるというせいめいじょうたいはげんぜんとしてそんざいするし、「あのひとはきげんがわるい」というように、おこっているじょうたいと、たのじょうたいとをしきべつすることができる。このように、あってなきがごとく、なくてあるがごとき、うむでろんずることのできないじったいを、くうともいい、みょうというのである。
 いっしょうじょうぶつしょうに「そもそも、みょうとはなんというこころぞや、ただ、わがいちねんのこころ、ふしぎなるところを、みょうとはいうなり、ふしぎとはこころもおよばず、ごもおよばずということなり。
 しかれば、すなはち、おこるところのいちねんのこころを、たずねみれば、ありといはんとすれば、いろもしつもなし、また、なしといはんとすれば、さまざまにこころおこる、うとおもうべきにあらず、むとおもうべきにもあらず、うむのにのごもおよばず、うむのふたつのこころもおよばず。うむにあらずして、しかもうむにへんして、ちゅうどういちじつの、みょうたいにして、ふしぎなるをみょうとは、なずくるなり、このみょうなるこころを、なずけてほうともいうなり」(0384-)と。
 しごのせいめいは、くうのじょうたいである。わかりやすいれいとして、すいみんをかんがえてみる。ねむっているあいだは、こころはどこにもない。ところがおきると、こころはかつどうする。ねむっているばあいには、こころがなくて、おきているばあいにはある。あるのがほんとうなのか。ないのがほんとうなのか。あるといえばなく、ないといえばでてくる。このようなじょうたいであるゆえに、くうともみょうともいうのである。
 うちゅうは、そく、せいめいであるから、ひとがしんだとき、ちょうどねむっているあいだ、こころがどこにもないように、しごのせいめいは、うちゅうのだいせいめいにとけこんで、どこをさがしてもないのである。おんぎくでんに、「かいざいこくうとは、われらがしのそうなり」(0742-だいじゅういち、せっしょだいしゅ、かいざいこくうのこと)と。こくうとは、だいうちゅうである。しごのせいめいは、だいうちゅうにみょうぶくしていることを、しめされたみょうもんである。それでは、なくなってしまったかといえば、けっしてそうではない。このだいうちゅうに、とけこんだしごのせいめいは、いかかのねんにふれて、われわれのめにうつる、せいめいかつどうとなって、あらわれてくるのである。ねむりのじょうたいから、めをさまして、きのうのこころの、かつどうじょうきょうを、そのままじぞくして、かつどうするように、あたらしいせいめいは、かこのせいめいのごういんを、そのままうけて、げんせのかほうとして、いきていくのである。ねてはおき、おきてはねていくのとおなじように、いきてはしに、しんではいきながら、えいえんにしょうじをくりかえしていくのが、せいめいのしんじつのすがたである。

0750    だいさん うしょなんもんふいしょうじょうほうとうとうのこと。

 おんぎくでんにいわく、たいぢのときは、ごんきょうをもって、えつうすべからず。
いっさいしゅちとは、なんみょうほうれんげきょうなり、いっさいは、ばんぶつなり、しゅちは、ばんぶつのしゅなり、みょうほうれんげきょうこれなり、またいわく、いっさいしゅちとは、われらがいっしんなり、いっしんとは、ばんぽうのそうたいなり、これをおもうべし。

かいしゃくこうぎ。
 あんらくぎょうほんに、「なんもんするところあらば、しょうじょうのほうをもって、こたえざれ、ただ、だいじょうをもって、ためにげだつして、いっさいしゅちをえせしめよ」とあり、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 ほうぼうをはしゃくすることは、ごんきょうらのひくいおしえで、えつうをくわえてはならない。「いっさいしゅちをせしめよ」とある。そのいっさいしゅちとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。いっさいとは、ばんぶつである。しゅちとは、ばんぶつのほんげんたる、なんみょうほうれんげきょうのことなのである。また、つぎのようにもいわれている。いっさいしゅちとは、われわれのいっしん、せいめいである。いっしんとは、あらゆるげんしょうのほんたいである。

 ひくいてつり、しそうでは、あらゆるひとのぎもんをはらすことはできない。しゅうちゃくをだんぱすることもできない。かならず、いきづまりをしょうずることは、とうぜんである。さいこうのてつがく、しそうをゆうするおしえこそが、えいきゅうにいきづまることなく、あらゆるひとびとをすくい、あらゆるひとびとから、さんどうのあらしをよぶことは、ひつぜんである。
 たとえば、はじめはしんじないひとでも、かならず、せいろんのまえにはくっせざるを、えないのである。われわれが、だれひとがはんたいしようが、ひなんしようが、つねにさいこうのぶっぽうを、ひとびとにとくのは、そのりゆうに、よるものである。

0750    だいよん むうふい かとうじょうとうのこと。

 おんぎくでんにいわく、しゃくけのぼさつに、とうじょうのなん、これあるべからずという、きょうもんなり、かんじほんは、まっぽうほっけのぎょうじゃに、ぎゅうかとうじょうしゃ さくさくけんひんずいと、このほんにはこれなし。それは、まっぽうのしゃくぶくのしゅぎょう、このほんは、ぞうぼうしょうじゅの、しゅぎょうなるがゆえなりうんぬん。

 かいしゃくこうぎ。
あんらくぎょうほんには、「わがめつどののちに、もしびくあって、よくこの、みょうほうれんげきょうを、えんぜつせば、こころに、しっち、しょのうしょうげなく、また、うしゅう、および、めりするもの、なく、ふいし、とうじょうをくわえらるるなどなく、また、ひんずいせられることなけん」うんぬんのもんがある。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 しゃくけのぼさつには、とうじょうがないというきょうもんである。かんじほんには、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃについて、「および、とうじょうをくわうるものあらん」あるいは、「さくさくひんずいせられ」とうととかれているが、このあんらくぎょうほんには、そのようなことはとかれていない。
 それは、かんじほんは、まっぽうしゃくぶくのしゅぎょうをあかし、このあんらくぎょうほんは、ぞうぼうしょうじゅのしゅぎょうをあかしているからである。

 しゃかめつご、ほけきょうのゆえに、だいなんにあったのは、にちれんだいしょうにんおいちにんであった。てんだい、でんぎょうといえども、しゃくけのぼさつであり、まったく、だいなんにあっていない。しょう々しょうあったとしてもあっくていどであり、とうじょうのなんを、うけたわけでもないし、さくさくけんひんずいのもんを、みをもってよんだわけでもない。
 また、てんだいもでんぎょうもともに、けんおうのほごがあり、なんをうけるどころか、むしろ、ゆうぐうされたのであった。まことに、あんらくぎょうほんに、とかれたとおりのすがたであった。
 だが、にちれんだいしょうにんは、かんじほんのよげんそのままの、ふるまいであられた。きょうもんにてらし、またじじつのうえから、かれらは、しゃくけのぼさつであり、にちれんだいしょうにんはほんげであり、またないしょうはまっぽうのごほんぶつであることは、れきぜんたるものがある。
 かいもくしょうに、「ぞうぼうのなかには、てんだいひとり、ほけきょう、いっさいきょうをよめり、なんぼくこれをあだみしかども、ちんずい、にだいのしょうしゅ、げんぜんにぜひを、あきらめしかば、てき、ついにつきぬ。ぞうのまつにでんぎょうひとり、ほけきょういっさいきょうを、ぶっせつのごとくよみたまへり、なんと、しちだいじほうおこせしかども、かんむ、ないし、さがとうのけんしゅ、われとあきらめたまいしかば、またことなし、いま、まっぽうのはじめ、にひゃくよねんなりきょうめつどごの、しるしにとうじょうのついでとなるべきゆへに、ひりをさきとして、じょくせのしるしに、めしあわせられずして、るざいないし、いのちにも、をよばんと、するなり。されば、にちれんが、ほけきょうのちげはてんだい、でんぎょうにはせんまんがいちぶんも、およぶことなけれども、なんをしのび、じひのすぐれたることは、をそれをも、いだきぬべし」(0202-03)と。
 また、ほんにんみょうしょうには、てんだいと、にちれんだいしょうにんのたちばを、ひかくしていわく、「かれは、あんらくふげんのせつそうにより、これは、かんじふきょうのぎょうそうをもちゆ」(0875-16)と。これをもって、しょうほう、ぞうぼう、ねんかんは、しょうじゅのしゅぎょうであり、まっぽうでは、しゃくぶくでなければならないことが、あきらかである。

0750    だいご うにんらいよくなんもんじゃ しょてんちゅうやとうのこと。

 おんぎくでんにいわく、まっぽうにおいて、ほっけをぎょうずるものをば、しょてん、しゅごこれあるべし、じょういほうこのほうとは、なんみょうほうれんげきょうこれなり。

かいしゃくこうぎ。
 あんらくぎょうほんに、「ひとあり、きたって、なんもんせんとほっせば、しょてんちゅうやに、つねに、ほうのためのゆえに、しかも、これをえいごし、よくきくものをして、みなかんきすることをえせしめん」とうとあり、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。まっぽうにおいて、ほけきょうすなわちさんだいひほうのごほんぞんをしんじぎょうずるものをば、しょてんぜんじんがかならずしゅごするのである。「つねにほうのためのゆえに」とある「ほう」とは、なんみょうほうれんげきょうのことである。

 しょてんぜんじんのかごは、ぜったいであるとのもんしょうである。しょてんぜんじんとは、みょうほうのはたらきである。ゆえになんみょうほうれんげきょうととなえるひとのせいめいに、こしんのしょてんぜんじんのかつどうがあらわれ、だいうちゅうのしょてんぜんじんのはたらきをよびおこし、ないげそうたいし、ゆうゆうとだいうちゅうのリズムに、がっちしたせいかつをしていくことができるげんりである。
 ほっけしょしんじょうぶつしょうにいわく「およそ、みょうほうれんげきょうとは、われらしゅじょうのぶっしょうと、ぼんのう、たいしゃくとうのぶっしょうと、しゃりほつ、もくれんとうのぶっしょうと、もんじゅ、みろくとうのぶっしょうと、さんぜのしょぶつのさとりのみょうほうと、いったいふになる、りを、みょうほうれんげきょうとなずけたるなり、ゆえにいちどみょうほうれんげきょうととなうれば、いっさいのほとけ、いっさいのほう、いっさいのぼさつ、いっさいのしょうもん、いっさいのぼんのう、たいしゃく、えんま、ほうおう、にちがつ、しゅうせい、てんじん、ちじん、ないし、じごく、がき、ちくしょう、しゅら、にんてん、いっさいしゅじょうのしんちゅうの、ぶっしょうを、ただひとこえに、よびあらわしたてまつるくどく、むりょうむへんなり、
 わがこしんの、みょうほうれんげきょうを、ほんぞんと、あがめたてまつりて、わが、こしんちゅうのぶっしょう、なんみょうほうれんげきょうと、よびよばれて、あらわれたまうところを、ほとけとはいうなり、たとえば、かごのなかのとりなけば、そらとぶとりのよばれて、あつまるがごとし、そらとぶとりのあつまれば、かごのなかのとりも、いでんとするがごとし。くちにみょうほうをよびたてまつれば、わがみのぶっしょうもよばれて、かならず、あらわれたまふ、ぼんのう、たいしゃくの、ぶっしょうはよばれて、われらをまもりたまふ、ぶつぼさつのぶっしょうは、よばれてよろこびたまふ」(0557-03)と。
 げんざい、そうかがっかいいんが、しょてんぜんじんに、まもられていることは、あらゆるめんでじっしょうされている。こうつうじこなどをいちれいにみても、せけんのそれにひかくすれば、とうけいてきにぶんせきして、はるかにすくない。また、ふけいきのときも、ふしぎと、がっかいいんのおおくが、まもられてきていることも、ぜったいのじじつである。また、しんじんをこんぽんとすれば、いっさいが、しょてんぜんじんのはたらきにかわる。たとえまおう、まみんたりといえども、これをくしし、しょてんぜんじんのはたらきに、かえていけるのである。


0750~0751 ゆじゅつほん いちかのだいじ。
0751    だいいち しょうどうのしのこと。

 おんぎくでんにいわく、ゆじゅつのいちほんは、ことごとく、ほんげのぼさつのことなり、ほんげのぼさつの、しょさとしては、なんみょうほうれんげきょうなり、これを、しょうというなり。どうとは、にほんこくのいっさいしゅじょうを、りょうぜんじょうどへ、いんどうすることなり。まっぽうのどうしとは、ほんげにかぎるというを、しというなり、このしだいぼさつのことを、しゃくするとき、じょのきゅうをうけて、ふしょうきのきゅうにいわく、「きょうに、しどうしありとは、いま、しとくをあらわす、じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうは、じょうをあらわし、じょうぎょうは、じょうをあらわし、あんりゅうぎょうは、ぎょうをあらわす。あるときには、いちにんに、このしぎをぐす。にしのひょうにいづるを、じょうぎょうとなずけ、だんじょうのさいをこゆるを、むへんぎょうとしょうし、ごじゅうのくるいをこゆるゆえに、じょうぎょうとなずけ、どうじゅにして、とくまどかなりゆえに、あんりゅうぎょうとのたまうなり」と。
 いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、みな、ぢゆのるるいなり、またいわく、ひはものをやくをもってぎょうとし、みずはものをきよむるをもって、ぎょうとし、かぜはじんくをはらうをもって、ぎょうとし、だいちはそうもくをちょうずるを、もって、ぎょうとするなり、しぼさつのりやく、これなり、しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなり、
 このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、しゃくに、「ほうしょうのえんでい、げんしゅうのごく」といえり、かほうをもって、じゅうしょとす、かほうとはしんりなり、ふしょうきにいわく、「かほうとは、しょうこうのいわく、じゅうしてりにあるなり」とうんぬん、このりのじゅうしょより、あらわれいづるを、じというなり、またいわく、せんそうまんぼく、ぢゆのぼさつにあらずということなし、されば、ぢゆのぼさつを、ほんげといえり、ほんとは、かこくおんごひゃくじんでんよりのりやくとして、むしむしゅうのりやくなり。
 このぼさつは、ほんぽうしょじのひとなり、ほんぽうとはなんみょうほうれんげきょうなり、このだいもくはかならず、ぢゆのしょじのものにして、しゃくけのぼさつのしょじにあらず、このほんぽうのたいより、ゆうをいだして、しかんとひろめ、いちねんさんぜんという、そうじて、だいしにんしの、しょしゃくもこのみょうほうの、ゆうをひろめたまうなり、このほんぽうを、じゅじするは、しんのいちじなり、がんぽんのむみょうを、たいぢするりけんは、しんのいちじなり、むぎわっしんのしゃく、これをおもふべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ゆじゅつほんに、「このしぼさつ、そのなかにおいて、もっともこれ、じょうしゅしょうどうのしなり」とあるところについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 ゆじゅつほんのいちほんは、すべて、ほんげのぼさつである、ぢゆのぼさつのことについて、といているのである。そのぢゆのぼさつのふるまいは、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしているのである。これをとなというのである。しょうどうこれしのどうとはにほんこくのいっさいしゅじょうに、ごほんぞんを、たもたせ、へいわでこうふくなせいかつへ、しどうすることをいうのである。まっぽうのどうし、しどうしゃとは、ぢゆのぼさつ、すなわちべっしては、にちれんだいしょうにん、そうじては、そのでしにかぎることをしというのである。
 このゆじゅつほんにしゅつげんする、じょうぎょう、むへんぎょう、じょうぎょう、あんりゅうぎょうをしゃくするとき、てんだいのもんぐのきゅうをうけて、どうせんのふしょうきのきゅうには、「ゆじゅつほんにしどうしがあるということは、じょうらくがじょうの、しとくをあらわしていうのである。じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうは、じょうをあらわし、じょうぎょうは、じょうをあらわし、あんりゅうぎょうは、ぎょうをあらわしている。
 あるときは、ひとりのせいめいに、このしぼさつのぎをぐしているのである。ぶんだんのしょうじ、へんにゃくのしょうじを、でることをじょうぎょうとなづけ、だんけん、じょうけんのせいめいかんをこえて、えいえんのせいめいかんをえとくすることを、むへんぎょうとなづけ、さんがいのしわく、よっかいのしわく、むしきかいのしわく、こんぽんむみょうわくとう、のごじゅうのまどいを、こえることをじょうぎょうとなづけ、そして、ぼだいじゅのように、しんじつただしいみちをあゆみ、えんまんなじんとくをもつことを、あんりゅうぎょうとなづけるのである」とある。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえるのは、すべてぢゆのぼさつのけんぞくなのである。
 また、ひはものをやくのが、そのしめいであり、じょうぎょうである。みずはものをきよめるのが、しめいであり、じょうぎょうである。かぜは、ちりやあかなどを、ふきはらうのがしめいであり、むへんぎょうである。だいちは、そうもくをいくせいするのが、しめいであって、あんりゅうぎょうである。
 しぼさつのぎょうは、ふどうであっても、ともに、なんみょうほうれんげきょうのしゅぎょうなのである。このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、てんだいはほっけもんぐで、「せいめいのおうていであり、きゅうきょくである」といったのである。かほうが、ぢゆのぼさつのじゅうしょなのである。そして、かほうとは、しんりなのである。どうせんのふしょうきには「かほうとは、じくのどうしょうのいうには、みょうほうれんげきょうのどうりにかなっていることである」とといている。
 このりのじゅうしょから、しゅつげんするのを、じというのである。また、いっさいのそうもくといえども、ぢゆのぼさつでないものはない。それゆえ、ぢゆのぼさつを、ほんげというのである。ほんとはきょうそうからいえば、ごひゃくじんでんこう、かんじんからいえばむしむしゅうの、くおんがんじょからの、りやくなのである。
 このぢゆのぼさつは、こんぽんのほうをもっているのである。ほんぽうとは、なんみょうほうれんげきょうである。このなんみょうほうれんげきょうのだいもくは、ぢゆのぼさつのたもつところであって、しゃくけのぼさつのたもちえないものである。このなんみょうほうれんげきょうの、たいからゆう、はたらきをだして、てんだいは、まかしかん、いちねんさんぜんをひろめているのである。このほんぽうを、じゅじするのはしんのいちじによるのである。じょうぶつをうたがい、ごほんぞんをうたがうという、こんぽんのまよいを、たいぢするりけんは、しんのいちじなのである。もんぐのきゅうの、「うたがいなきをしんとのたまう」という、しゃくをよくよくおもうべきである。

 ほんげのぼさつの、しょさとしては、なんみょうほうれんげきょうなり。
 ほんげのぼさつのふるまい、じっせんは、すべて、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしている。しゃくけのぼさつは、ぞう、つう、べつ、えんときょうけをうけ、きじゅくし、しょせんは、ほけきょうにじゅうはちほんをたもった、ふるまいであるけれども、ほんげのぼさつは、ほんらい、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとし、なんみょうほうれんげきょうをじゅじしきった、ふるまいなのである。ここに、しゃくけのぼさつと、こんぽんてきなそういがあるのである。
 かって、とだじょうせいぜんかいちょうは、「よのなかの、せいじかとうのしどうしゃは、しゃくけのぼさつである。われわれは、ほんげのぼさつである」と、せいかつにやくして、せつめいされたことがあった。いかにいだいなしどうしゃ、せいじかであったとしても、さんだいひほうの、ごほんぞんをたもっていなければ、こんぽんてきな、よのなかのかくめい、ひとりひとりのきゅうさいは、ぜったいにできない。
 したがって、あたらしいじだいに、あたらしいてつがくをもって、あたらしいしどうしゃが、ゆじゅつして、これからのにほんのくにの、はんえいのため、そしてまた、せかいのへいわと、こうふくのために、たたかっていくいがいにない。われわれこそ、みんしゅうのこうふく、せかいへいわをかちとる、たたかいのせんくしゃであり、しどうしゃであると、かくしんすべきである。

これをしょうというなり。
 しょうのしのしょうとは、なんみょうほうれんげきょうと、となえることである。また、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとして、だいしどうしゃになって、いっさいのみんしゅうのために、じんるいのぶんかのために、あらゆるかいそうに、たたかいをすすめて、こうけんしていくことを、いうのである。われわれの、みょうほうをこんていにした、いっさいのげんげんくくはしょうである。
 アメリカのだいとうりょうも、ロシアのさいこうしゅのうも、またフランスのだいとうりょうも、こっかのために、またはみんぞくのために、あるいは、せかいのへいわのために、ちょうじかんにわたる、えんぜつもするし、せいさくもはっぴょうする。
 また、そのた、ひょうろんかにしても、がくしゃにしても、さまざまなことをはっぴょうする。それらはぜんぶ、いちおうはしょうになるのである。だが、それらのしょうはうみょうむじつであり、かならずしもみんしゅうのこうふくにつながらない。かえって、みんしゅうに、ふあんとどうようをあたえるばあいも、た々たである。ごほんぞんをたもった、われわれの、いっさいのげんげんくくは、みょうほうれんげきょうのほうりにかない、へいわとこうふくのために、じじつのうえにつうじていくのである。

どうとは、にほんこくの、いっさいしゅじょうを、りょうぜんじょうどへいんどうすることなり。
 しょうどうのしのどうとは、にほんこくの、ぜんみんしゅうをりょうぜんじょうどへいんどうする。 ごほんぞんをたもたせ、そうかがっかいいんとして、こうせんるふにまいしんしていくことが、ちからづよいいぶきとなり、ぜんせかいへはきゅうしていくのである。

まっぽうのどうしとはほんげにかぎるというをしというなり。
 まっぽうのどうしとは、べっしては、にちれんだいしょうにん、そうじては、だいしょうにんのでしである。よのなかには、いろいろなしどうしゃやししょうがいる。しかし、ごじょくらんまんの、まっぽうのぜんみんしゅうを、きゅうさいしきるしんじつのしどうしゃは、ごほんぞんをじゅじしきっているものに、かぎるのである。
 このだいしょうにんの、おんふみをはいするならば、われら、ぢゆのだいぼさつが、あらゆるぶんやに、あらゆるかいそうにしんしゅつし、いっさいのひとびとを、ゆういん、いんどうしきる、しんじつのなかのしんじつの、ししょうであり、しどうしゃたることを、かくしんすべきである。

 じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうはじょうをあらわし、じょうぎょうはじょうをあらわし、あんりゅうぎょうはらくをあらわす。
いまこのもんを、しんじんのうえからはいすれば、じょうぎょうは、なんみょうほうれんげきょうという、がをあらわす。われわれは、ろくどうりんね、きゅうかいそしてまた、じっかいのせいめいかつどうをしているけれども、そのこんぽんはなんみょうほうれんげきょうを、となえいくことである。いかなるばあいでも、ただなんみょうほうれんげきょうをとなえることを、わすれないというがである。むへんぎょうとは、いっさいほうこれぶっぽうで、いかなるせいかつ、どんなきょうぐう、どんなじだいであっても、つねに、なんみょうほうれんげきょうをわすれないことである。
 じょうぎょうは、どうように、いかなるじだいがこようとも、どんなきょうぐうであろうとも、どんなかなしいときでも、どんなつらいときでも、どんなうれしいときでも、ただ、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしたせいかつ、せいめいかつどうは、じょうのなかのじょうである。よのなかは、ごじょくらんまんであり、おごりたかぶり、にごりきった、ひとびとばかりである。
 だがれんげのはなが、ちょうど、どろぬまにさくごとく、どろぬまのような、きゅうかいのげんじつのせかいのなかで、だいもくをあげきっていく、じんせいかつどうは、もっとも、きよらかなせいめいかつどうなのである。あんりゅうぎょうは、じゅりょうほんの、「がしどあんのん」と。いかなるじだいにあっても、いかなるじたいがおころうとも、いつもなんみょうほうれんげきょうをじゅじし、となえているならば、らくである。すなわち、じょうらくがじょうをじょうぎょう、むへんぎょう、じょうぎょう、あんりゅうぎょうの、しぼさつからといたわけである。
 しょうじょうぶっきょうは、くじゅうめつどうであり、く、くう、むじょう、むがである。それにたいして、だいしょうにんのぶっぽうは、じょうらくがじょうである。まただいしょうにんは、「なんみょうほうれんげきょうは、かんきのなかのだいかんきなり」(0788-ごひゃくほん)ともおおせである。すなわちじょうらくがじょうである。まだまだ、いくえにもせいめいろんのたちばで、さまざまにかいしゃくができる。

 あるときには、ひとりに、このしぎをぐす、にしのひょうにいづるを、じょうぎょうとなずけ、だんじょうのさいをこゆるを、むへんぎょうとしょうし、ごじゅうのくるいをこゆるゆえに、じょうぎょうとなずけ、どうじゅにしてとくまどかなりゆえに、あんりゅうぎょうというなり。
 このもんについて、にちかんしょうにんの、かいもくしょうもんだんには、つぎのごとくとかれている。
 「にしのうらにぼっするとは、くだるぎであり、すなわち、けいばくふじざいである。にしのひょうにいずるのは、のぼるぎであり、すなわち、げだつじざいである。ゆえに、じょうぎょうは、がをあらわすのである。だんじょうをこえ、へんさいなしとは、ちゅうどうじょうじゅうであり、ゆえに、むへんぎょうはじょうをあらわすのである。ごじゅうのくるいを、こゆるとは、すなわちしょうじょうである。ゆえにじょうぎょうはじょうをあらわすのである。どうじょうぼだいじゅのしたで、まんとくえんまんすとは、あんらくにせいりつすることであり、ゆえに、あんりゅうぎょうはぎょうをあらわすのである。これらはべったいのぢゆである。

 つぎに、『あるときには、ひとりにこのしぎをぐす』とは、すなわち、そうたいのぢゆである。ざいせはべったいのぢゆであり、まっぽうは、そうたいのぢゆである。なぜなら、「あるとき」とは、まっぽうをさすからである。ゆえに、まっぽうのぢゆのぼさつには、じょうらくがじょうのしとくがいっしんにそなわっているのである。これこそ、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんであらせられる」。
 もし、このそうたいのぢゆを、われわれのしんじんせいかつにやくしていえば、われわれが、ごほんぞんをしんじて、しょうだいしていくならば、しぼさつのとくゆうが、わがこのいっしんに、そなわることである。
 いまそのたちばから、このもんをみていくことにする。

 「にしのひょうに、いづるをじょうぎょうとなずけ」ぶんだん、へんにゃくとうの、しょうじのくにそくばくされない、じゆうじざいのきょうがいを、じょうぎょうとなづけるのである。だいもくをとなえ、ぶっかいをゆげんした、せいかつは、なにものにもおかされない、ちからづよいせいめいかつどうの、あらわれである。じょうぎょうこそ、しんのじゆうのきょうがいなのである。
 「だんじょうのさいを、こゆるを、むへんぎょうとしょうし」だんけん、じょうけんとうの、ひくきせいめいかんをすてさり、えいえんのせいめいかんにたったとき、いっさいのいきづまりは、ことごとく、だはされ、ひろ々びろたる、みらいのしんきょうにいきることができる。これ、むへんぎょうのきょうがいである。「ごおうのくるいを、こえるゆえにじょうぎょうとなずけ」、ごおうのくるいとう、うちゅうのほんたい、せいめいのほんしつを、みわけることのできない、まどいからきたる。せいめいのけがれは、みょうほうのきょうりょくな、ぶっかいにてらされ、じょうかされ、しょうじょうむぜんのせいめいかつどうを、していくのである。これじょうぎょうのきょうがいである。
 「どうじゅにして」とは、どうじょうぼだいじゅのしたで、とのいみである。すなわち、しんじんせいかつにやくせば、いっさいを、ぶっぽうをこんぽんとして、にょじつちけんしていける、じんせいである。ものごとにたいして、みちすじをとおし、また、あくまでせいろんは、せいろんとして、いいきっていける、またみていけるせいかつである。
 「とくまどかなり」とは、もっとも、にんげんらしいじんかくしゃである。にんげんかくめいされきったじんかく、こじんもこうふくであり、りんじんをも、なさけをもって、こうふくにみちびいていけるじんかく、それをなづけてあんりゅうぎょうというのである。よく、とだじょうせいぜんかいちょうは、「わたしはりっぱな、へいぼんなだいぼんぷである」ともうされ、しょだいまきぐちかいちょうも、「しんじんしきったばあいには、けっきょくは、いっけんすれば、りっぱなへいぼんな、にんげんである」といわれたときく。しんじんすれば、じねんとえんまんなとくは、そなわるのである。
 むしろ、いまのゆうめいじんや、せいじかは、けんいをもち、きょえいをもち、せのびし、にんげんらしいにんげんではなく、いっしゅのかたわとなっているのである。われわれのばあいは、ありのままで、じねんと「とくまどか」な、すがたになっていくのである。せいめいのほんしつから、あらわれたじねんのすがたである。
 けっきょくこうみていくと、ごほんぞんをじゅじし、ごほんぞんにだいもくをあげていくこと、それじしんが、にしのひょうにでたことになり、だんじょうのさいを、こえたことになり、ごおうのくるいをこえたことにもなり、とくまどかなることに、なるのである。

いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、みな、ぢゆのるたぐいなり。
 しょほうじっそうしょうには、「みな、ぢゆのぼさつのしゅつげんにあらずんば、となへがたきだいもくなり」(1360-08)とある。すなわち、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、みな、ぢゆのぼさつの、けんぞくなることをいうのである。
 したがって、ほけきょうにじゅうはちほん、そして、じゅうぢゆしゅっほんに、とかれた、きょうそうにおける、ぢゆのぼさつは、このだいしょうにんの、かんじんしゃくによって、しょせんは、にちれんだいしょうにんのでしを、いみすることがわかろう。とおくきょうもんにあったものは、じつは、げんじつのわがみのうえのことなのである。
 ほけきょうをよむと、ひじょうに、すうがくてきにおおきいことが、とかれているばあいがおおい。たとえばきょうもんには、「ひゃくせんまんのくなゆたこう」とある。だがだいしょうにんのかんじんしゃくでは、それは、ひゃっかいせんにょとよむわけである。また「かんのんさんじゅうさんしん」とあるのを、だいしょうにんは、くうけちゅうのさんたいとよみ、じっかいとよみ、またほっぽうのさんじんとよむ。
 また「せんぶつのみて」とあるのを、せんにょとよむとう、けっして、きょうもんじょうのことではなく、いちぽふかく、せいかつにちょっけつしてとかれている。これがだいしょうにんのぶっぽうから、ほけきょうをかいしゃくするよみかたなのである。つぎにあげる、ゆじゅつほんのもんをきょうそうのまましでも、げんざいのそうかがっかいのこうせんるふにむかうすがたに、ひじょうに、よくにていることが、うなずける。
 「いちいちのぼさつ、みなこれ、たいしゅうのしょうどうのしゅなり、おのおの、ろくまんごうがしゃとうの、けんぞくをひきいたり。いわんやごまん、しまん、さんまん、にまん、いちまんごうがしゃとうの、けんぞくをひきいたるものをや。いわんや、また、ないしいちごうがしゃ、しぶんのいち、ないし、せんまんのくなゆたぶんのいちなるをや。いわんやまた、せんまんのくなゆたのけんぞくなるをや、いわんや、また、おくまんのけんぞくなるをや。いわんやまた、せんまん、ひゃくまん、ないし、いちまんなるをや。いわんやまた、いっせん、いっぴゃく、ないしいちじゅうなるをや。いわんやまた、ご、し、さん、に、いちのでしを、ひきいたるものをや。いわんやまた、たんごにして、おんりのぎょうをねがえるをや。これのごときとうの、るいひ、むりょうむへんにして、さんずひゆも、しることあたわざるところなり」。
 また、このきょうもんからすれば、まだまだ、しゃくぶくはできることになる、「ふつごじつぷこ」のじしんをもち、ゆうきをもって、ほまれたかく、すすんでいきたいものである。

またいわく、ひはものをやくをもって、ぎょうとし、みずはものをきよむるをもって、ぎょうとし、かぜはじんくをはらうをもって、ぎょうとし、だいちはそうもくをちょうずるをもって、ぎょうとするなり、しぼさつのりやくこれなり。
 ちすいかふうのしだいをしぼさつにはいりゅうしよむところである。
 ひは、そらにあがるゆえに、じょうぎょうはひだいであり、かぜはへんさいがないゆえに、むへんぎょうはふうだいであり、みずはしょうじょうなるゆえに、じょうぎょうはすいだいであり、ちはばんぶつをあんりゅうするゆえに、あんりゅうぎょうはちだいにはいせられるのである。ふるくから、てんだいぶっぽうでは、しぼさつを、しだいにはいりゅうした、ぶんけんがのこっている。
 てんだいかのだいがくしゃといわれた、そんしゅんのしかんけんぶんのごには、「ぢゆうのしだいしは、そく、しだいなり、ちだいはばんぶつをいくし、せいすいはじんくをあらい、ひだいは、かんくをふせぎ、りょうふうは、きゅうかのねつをすずます。みなこれ、ほんちのじひ、ほんがくしょせなり」とある。
 てんだいは、しぼさつのぎょうを、しだいにことよせてろんじているが、しょせんは、しぼさつとは、みょうほうれんげきょうそれじたいであることを、あらわそうとしたものである。すなわち、しぼさつとは、うちゅうほんねんに、そなわる、だいじひのせいめいかつどうであり、こじんにしゅうやくすれば、そんごくごくまりなき、みょうほうのせいめいかつどうをいう。

 しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなり。
 いっさいのうちゅうの、しんらばんしょうのなかにも、しぼさつのはたらきはある。おなじく、あるひとは、せいじかに、あるひとはじつぎょうかに、あるひとは、かがくしゃに、きょういくしゃに、あるひとは、かせいふに、あるひとはしょっこうに、あるひとは、しんぶんきしゃに、あるひとは、カメラマンにと、しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなのである。
 すなわち、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとするならば、どういうたちばであっても、いかなるきょうぐうであっても、おのおのしめいかんにたって、せいかつし、かつどうし、じんせいを、いききっていくことが、それじたい、りっぱなぶつどうしゅぎょうなのである。こうせんるふに、つながり、しゃかいをりやくしていくことに、つうじている。とのおおせである。
 これこそ、みんしゅしゅぎのげんりなのである。
 わがきょうだんは、せいじつであり、せいけつである。だんけつがつよい。がいけんからみたひとは、じゆうがないのではないかと、さっかくするであろう。これだいなるあやまりである。ひとりのにんげんが、めいれいてきにみんしゅうをひっぱっていけるとおもうことじたい、じだいさくごである。
 こんとんとしている、このにほんこくで、ほうじゅうなこのしゃかいにあって、だれが、めいれいでうごくかといいたい。わがこさえ、いけんをきかぬばあいがおおい。いわんや、なんびゃくまん、なんぜんまんのひとが、めいれいについてくるわけがぜったいにない。
 わがきょうだんは、わがわごうそうは、めいれいしゅぎでもない。えいゆうしゅぎでもない。また、そんなじだいでもなく、きこんもないのである。
 われわれは、しんじんいちずである。ゆえにつよいのである。このほんしつを、わきまえぬため、かれらはぐろんをくりかえしているにすぎないのだ。われわれは、ただ、ごほんぞんをじゅじすることをこんぽんとし、かくじんがいっしょうじょうぶつをめざしゆくことのみが、もくてきなのである。いかなるせいかつであろうが、しょくぎょうであろうが、またいかなるきょうぐうであれ、ぜんぶじゆうである。そうかがっかいは、それぞれしゅたいせいをもち、そのきょうぐうのなかから、こうせんるふをなしとげようというもくてきかんにたった、いたいどうしんのだんけつなのである。これみぞうの、しんせいきにふさわしい、だいしゅうだんのしゅつげんであり、だいしょうりのぜんしんのあしおととかくしんしたいものである。
 このしぼさつはかほうにじゅうするゆえにしゃくに「ほっしょうのえんていげんしゅうのごくち」といえり、かほうをもって、じゅうしょとすかほうとは、しんりなり、ふしょうきにいわく、「かほうとはしょうこうのいわく、じゅうしてりにあるなり」とうんぬん、このりのじゅうしょより、あらわれいづるをじというなり
 「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」とは、ななんみょうほうれんげきょうのことである。すなわち、しんりのなかのしんり、せいめいのおうてい、うちゅうのほんげん、ほんたいであり、あらゆるほうり、どうりのこんぽんである。たとえば、エネルギーのこんぽん、そうもくがはんもしてゆく、そのちからのこんぽんりき、われわれがかつどうしてゆくげんせんりき、それをてんだいは「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」といったのである。
 われわれは、しんじんなきときは、りんじんのふこうをかえりみなかった。じぶんのことでいっぱいであったのである。しかし、いちど、ごほんぞんをじゅじして、せいめいりょくはわきでて、ふこうなひとをすくおうとの、じあいにみちているのである。にほんのくにのあんのんあんたいも、かんがえるようになった。せかいのみんしゅうのこうふくも、こころからねがいゆくようになった。
 これはかんねんろんではなく、じじつ、げんじつにかつどうをてんかいしているのである。これは、ぢゆのせいめいが、おうていよりゆげんしているすがたなのである。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、せいねんくんに「せいねんは、おやをもあいさぬようなものがおおいのに、どうしてたにんをあいせようか。そのむじひの、じぶんをのりこえて、ほとけのじひのきょうちをえとくする、にんげんかくめいのたたかいである」と、のべられている。ごほんぞんに、なむしたとき、ほとけのじひのきょうちに、りっきゃくし、あらゆるしゅじょうを、りやくするちからがわき、せかいへいわのため、ぜんみんしゅうのためにこうけんしていくことが、かのうになるのである。
 またおんぎくでんには、「ゆじゅつとは、じっかいのしゅじょうの、しゅつたいのそうなり」(0799-ゆじゅつほん-02)とあるごとく、ぢゆのぼさつのしゅつげんは、しとくをそなえた、そんげんなるせいめいが、ははのたいないよりゆじゅつすることを、いみするのである。
 「かほうとはしんりなり」の、しんりとは、どうりということである。かみがにんげんをつくったというふごうり、あるいは、かんねんてきなものでは、ないということである。また、かほうとは、じっさいにだいちと、とって、よいとおもう。われわれがあるくのも、だいちがなければならないし、いくら、ひこうきがとんでも、さいごは、だいちにもどってこなければならないし、とりも、やはりけっきょく、だいちにもどってこなければならない。われわれが、たべるものも、すべて、だいちよりせいいくされ、いくせいされるのである。さらにたいようのねつ、また、いっさいのいんりょくも、ほしのうんこうも、だいちに、ちょくせつかんけいをもつものである。なお、じくのどうしょうがのべた、「かほうとは、じゅうしてりにあるなり」のりとは、なんみょうほうれんげきょうをさしているのである。
 「このりのじゅうしょより、あらわれいづるじというなり」とは、じすなわち、せいかつじっせんをいう。また、げんしょうかいをさす。しょせん、あらゆるげんしょうは、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとしているということである。てんだいだいしが、「きはこれほっしょうのき、めつはこれほっしょうのめつ」と、ろんじたごとく、ぜんげんしょうのきめつとうは、ぜんぶ、みょうほうれんげきょうを、こんぽんとしてあらわれたすがたである。かんげんすれば、げんじつのなかに、みょうほうのたいほうそくがあって、けっして、かんねんてきなものではないということである。
またいわく、せんそうばんぼく、ぢゆのぼさつにあらずということなし。
 これ、みょうほうをこんぽんとすれば、いっさいのかつどうが、ぢゆのぼさつのはたらきに、かわるというもんである。たとえば、げんしばくだんたりとも、「ぢゆのぼさつに、あらずということなし」のどうりになるのである。これは、みょうほうをこんぽんとすれば、げんしばくだんも、かならずへいわかいたくりようにかわってゆくとのげんりである。はんたいにひぼう、ほうぼうのみ、せかいにじゅうまんしたばあい、あびきょうかんじごくになって、せんそうばんぼくは、しめつしてしまう。
 ともに、いっさいのものが、てんまのはたらきに、かわってしまうのである。せかいこうきゅうへいわを、こんぽんりねんとし、じんるいきょうえいのえいきゅうげんりとし、かつまた、ちきゅうみんぞくしゅぎの、いちだいししんとして、こころあるひとに、このだいほうりをば、つたえきらねばならない。

さればぢゆのぼさつはほんげといえりとう。
 「くおんごひゃくじんでん」とは、きょうそうである。「むしむしゅう」は、くおんがんじょであり、かんじんである。ここではとうぜん、くおんがんじょのにちれんだいしょうにんと、はいすべきなのである。「ほんぽうしょじのひと」とは、べっしては、にちれんだいしょうにん、きょうそうでは、じょうぎょうぼさつのことである。しんじんよりはいすれば、だいしょうにんのでしである。われわれをさすのである。

 このほんぽうのたいより、ゆうをだして、しかんとひろめ、いちねんさんぜんという、そうじて、だいしひとしのしょしゃくも、このみょうほうのゆうを、ひろめたまうなり。
 なんみょうほうれんげきょうが、ほんたいであり、それからゆうをいだして、しゃくそんは、ほけきょうにじゅうはちほんをとき、てんだいは、まかしかんをといたのである。また、あらゆるだいし、にんし、たとえば、りゅうじゅ、てんじん、みょうらく、でんぎょうとうも、なんみょうほうれんげきょうの、ほんたいのゆうをひろめたにすぎないのである。
 そのほんたいを、ちょくせつひろめていくのが、ほんげのぢゆのぼさつである。すなわち、われわれのことである。なんと、ふくうんのだいなることであろうか。かつ、じゅうだいなしめいを、つうかんしうるものである。

 このほんぽうを、じゅじするはしんのいちじなり、がんぽんのむみょうを、たいぢするりけんは、しんのいちじなり、むぎわっしんの、しゃくこれをふおもうべし。
 「このほんぽう」これすなわち、さんだいひほうの、ごほんぞんをじゅじするのは、しんのいちじである、とのおだんげんである。がんぽんのむみょうとは、ふこうのこんぽんをいう。それをたちきるりけんは、しんのいちじしかないとのおおせである。せいじ、ほうりつ、きこう、せいど、きょういく、かんきょうだけでは、このむみょう、ふこうのほんげんのかいけつは、えいきゅうにできえない。けっきょく、ばっぽんてきに、にほんのくにの、こうふくとへいわとはんえいをきずくのは、しんじんごうじょうなるぢゆのぼさつのみであるとのもんなりとだいかくしんすべきである。


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