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  • 御義口伝講義録上 ひらがな かんじほんじゅうさんかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月19日(水)02時33分28秒
 
おんぎくでんこうぎろく じょう

0747~0749 かんじほんじゅうさんかのだいじ。

0747    だいいち かんじのこと。
0747    だいに ふしゃくしんみょうのこと。
0748    だいさん しんふじつこのこと。
0748    だいよん きょうじゅんぶっちのこと。
0748    だいご さししくのこと。
0748    だいろく にょほうしゅぎょうのこと。
0748    だいなな うしょむちにんのこと。
0749    だいはち あくせちゅうびくのこと。
0749    だいきゅう わくうあれんにゃのこと。
0749    だいじゅう じさしきょうでんのこと。
0749    だい11 いししょきょうごんにょとうかいぜぶつのこと。
0749    だい12 あっきにゅうごしんのこと。
0749    だい13 たんしゃくむじょうどうのこと。

0747~0749 かんじほんじゅうさんかのだいじ。
0747    だいいち かんじのこと。

 おんぎくでんにいわく、かんとはけた、じとは、じぎょうなり、なんみょうほうれんげきょうは、じぎょうけたにわたるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうをすすめて、たもたしむるなり。

 かんじほんの、かんじということについて、おんぎくでんには、つぎのように、おおせである。かんとは、ほかにすすめることで、けたであり、じとは、みずからたもつことであり、じぎょうである。なんみょうほうれんげきょうは、じぎょうけたにわたるのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、なんみょうほうれんげきょうをすすめて、それを、いっさいしゅじょうに、たもためしているのである。

 かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんだいじゅういちには、さんかのちょくせんがあり、だいばほんだいじゅうにには、にかのかんぎょうがとかれ、これにつづいて、かんじほんだいじゅうさんでは、やくおうぼさつを、だいひょうとした、しゃくけのぼさつが、いっせいに、ほとけのめつごにおいて、ほけきょうをとけば、かならず、さんるいのごうてきによる、かず々かずのだいなんをうけるであろうが、かならず、ほとけのしょぞくのほうを、ぐつうするむねの、ちかいをたてるのである。
 ほうとうほんの、さんかのちょくせんについては、つぶさに、かいもくしょうにあるとおりである。ようするに、しゃくそんが、いちざのたいしゅうにむかい、さんどにわたって、めつごのぐきょうをかんじんするのである。
 そのなかにも、だいさんのちょくせんには、ろくなんくいがとかれている。これは、ほけきょうがいかに、なんしんなんげであるか、そして、めつごのぐきょうが、いかになんじちゅうのなんじであるかを、しめしたものであり、よほどの、けついがなければ、めつごのぐきょうはできないと、いましめているのである。
 つぎにだいばほんの、にかのかんぎょうとは、いうまでもなく、だいばだったのてんのうにょらいの、きべつと、りゅうにょのそくしんじょうぶつである。ともにほけきょうがいかにいだいであるかをしめし、ぐきょうのこころをおこさしめようとしたのである。
 ほうとうほんの、さんかのちょくせんと、だいばほんのにかのかんぎょうとをあわせて、ごかのかんぎょう、またはごかのほうしょうとうという。
 このごかのかんぎょうをうけて、かんじほんにおける、はちじゅうまんおくなゆたの、ぼさつのぐきょうのちかいがあるのであり、そのにじゅうぎょうのげには、さんるいのごうてきのすがたが、こくめいにえがかれている。
 だいいちるい、もろもろのむちのひとの、あっくめりとうし、および、とうじょうをくわうるものあらん、われら、まさにしのぶべし。
 だいにるい、あくせのなかのびくは、じゃちにして、こころてんごくに、いまだえざるをこれえたりと、いいがまんのこころ、じゅうまんせん。
 だいさんるい、あるいは、あれんにゃののうえにして、くうげんにあって、みずからしんのどうをぎょうずといいて、にんげんを、きょうせんするものあらん、りようにとんじゃくするがゆえに、びゃくえのために、ほうをといて、よにきょうけいせられることを、なること、ろくつうのらかんのごとくならん。
 これのひと、あくしんをきいだ、つねにせぞくのことをおもい、なずをあれんにゃにかりて、このんで、がとがをいださん。つねにたいしゅうのなかにあって、われらを、そしらんと、ほっするがゆえに、こくおう、だいじん、ばらもん、こじ、および、よのびくしゅうにむかって、ひぼうして、わがあくをといて、これ、じゃけんのひと、げどうのぎろんを、とくといわん。じょくこうあくせのなかには、おおく、もろもろの、くふあらん、あっきそのみにはいって、われを、めり、きにくせん。あくせのあくびくは、ほとけのほうべんずいぎの、しょせつのほうをしらず、あっく、ひんしゅくし、しばしばひんずいせられん。
 このかんじほんの、にじゅうぎょうのげを、みをもってよまれたかたは、にちれんだいしょうにん、おひとりであった。ゆえに、にちれんだいしょうにんの、しゅつげんがなければ、ほとけのよげんは、ことごとくもうごとなる。としょごしょに、しめされているのである。
 かいもくしょうじょうに、「しかるに、ほけきょうのだいごのかん、かんじほんのにじゅうぎょうのげは、にちれんだにも、このくににうまれずば、ほとをど、せそんはだいもうごのひと、はちじゅうまんおく、なゆたの、ぼさつは、だいばがこおうざいにも、おちぬべし、
 きょうにいわく、「もろもろの、むちのひとあつて、あっくめりとうし、とうじょうがしゃくをくわう」とううんぬん、いまのよをみるに、にちれんよりほかの、しょそうたれのひとか、ほけきょうにつけて、しょにんにあっくめりせられ、とうじょうとうを、くわえらるるものある、にちれんなくば、このいちげの、みらいきはもうごとなりぬ。
 「あくせのなかの、びくは、じゃちにして、こころてんごく」、またいわく、「びゃくえのために、ほうをといて、よにきょうけいせらるること、ろくつうのらかんのごとし」、これらのきょうもんは、いまのよのねんぶつしゃ、ぜんしゅう、りっしゅうとうの、ほっしなくば、せそんは、また、だいもうごのひと、じょうざいたいしゅうちゅう、ないしむこう、こくおう、だいじん、ばらもん、こじとう、いまのよの、そうとう、にちれんを、ざんそうして、るざいせずば、このきょうもんむなし、またいわく、「さくさくけんひんずい」とううんぬん、にちれん、ほけきょうのゆへに、たびたび、ながされずば、さくさくのにじいかんがせん、このにじは、てんだい、でんぎょうも、いまだ、よみたまはず、いわんや、よじんをや、まっぽうのはじめのしるし、くふあくせちゅうの、きんげんの、あふゆへに、ただ、にちれんいちにんこれをよめり」0202-11と。
 けんぶつみらいきに、「このめいきょうについて、ふつごをしんぜしめんがために、にほんこくじゅうの、おうしん、ししゅうのめんぼくに、ひきむかえたるに、よよりのほかには、いちにんもこれなし、ときをろんずれば、まっぽうのはじめ、いっじょうなり、しかるあいだ、もしにちれんなくんば、ふつごはこもうとならん、なんじていわく、なんじはだいまんのほっしにして、だいてんにすぎ、しぜんびくにもこえたり、いかん。
 こたえていわく、なんじ、にちれんをべつじょするのじゅうざい、また だいばだったにすぎ、むくろんしにもこえたり、わがことばは、だいまんににたれども、ぶつきをたすけ、にょらいのじつごをあらわさんがためなり、しかりといえども、にほんこくちゅうに、にちれんをのぞいては、だれひとをとりだして、ほけきょうのぎょうじゃとなさん、なんじにちれんを、そしらんとして、ぶつきをこもうにす、あに、だいあくにんにあらずや」0507-13と。
 しょうにんごなんじに、「りゅうじゅ、てんじん、てんだい、でんぎょうは、よにかたをならべがたし、にちれんまっぽうにいでずば、ほとけはだいもうごのひと、たほう、じっぽうのしょぶつは、だいこもうのしょうみょうなり、ふつめつご、にせんにひゃくさんじゅうよねんがあいだ、いちえんぶだいのうちに、ほとけのみことばを、たすけたるひと、ただ、にちれんいちにんなり」1189-18と。
 にちれんだいしょうにんは、これらのおんふみに、おしめしのごとく、しゃくそんのきょうもんと、だいしょうにんのおふるまいとがふごうすることをもって、わがみが、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃ、すなわちまっぽうのごほんぶつであるとの、しょうことされているのである。ゆえに、かんじほんこそ、まっぽうのせそうをうつしだして、くもりなく、にちれんだいしょうにんを、ごほんぶつなりと、しょうめいづけるみょうきょうである。
 かいもくしょうに、「にちれんといゐしものは、いぬるくがつじゅうににち、ねうしのときに、くびはねられぬ、これはこんぱく、さどのくににいたりて、かえるとしのにがつ、せっちゅうにしるして、うえんのでしへ、をくればをそろしくて、をそろしからず、みんひと、いかに、をぢぬらむ、これはしゃか、たほう、じっぽうのしょぶつの、みらいにほんこく、とうせいをうつしたまう、みょうきょうなり、かたみともみるべし」0223-16と。
だが、ここに、じつにだいふしぎがあるとおもう。それは、しゃくそんと、にちれんだいしょうにんとは、やく2000ねんのへだたりがある。2000ねんと、ひとくちにいうが、それはまことに、ながいきかんである。いまのよに、だれひとが、2000ねんいごのせそうを、よげんできるひとがあろうか。みずからのみに、ひきあててかんがえれば、いかに、しゃくそんがいだいなしょうにんだったかが、わかるであろう。しかも、そのひとつひとつのもんが、すんぶんもくるいなく、てきちゅうしていることは、ふしぎであり、じつに、いだいなことだとおもう。
 しゃくそんのさんヶかげつのちの、ねはんのてきちゅうも、ふほうぞうきょうのよげんもてきちゅうし、また、だいしつきょうのごごひゃくさいのよげんもてきちゅうし、そして、このかんじほんのよげんも、みごとてきちゅうしているのである。しょうにんちさんせじ、「きょうしゅしゃくそん、すでにちかくは、さつてのち、みつきのねはんこれをしり、とおくは、のちのごひゃくさい、こうせんるふ、うたがいなきものか、もし、しかれば、ちかきをもって、とおきをすいし、げんをもってとうをしる、にょぜそう、ないし、ほんまつくきょうとうこれなり」0974-05と。
 にちれんだいしょうにんは、しゃくそんよりも、ひゃくせんまんおくばいすぐれた、ごほんぶつである。だいしょうにんに、そうたいすれば、しゃくぶつである。しゃくそんはたいようのひかりにてらされて、ささやかなひかりをはなつ、つきのごときそんざいなのである。
 しもやまごしょうそくには、「きょうしゅしゃくそんより、だいじなるぎょうじゃを、ほけきょうのだいごのまきをもって、にちれんがこうべをうち」0363-01とおおせられ、かんぎょうはちまんしょうには、しゃくそんをつきにたとえ、にちれんだいしょうにんをひに、たとえられている。
 またほうれんしょうには、しゃくそんをいちこうのあいだ、さんごうそうおうで、くようするくどくよりも、まっぽうの、ほけきょうのぎょうじゃを、けろんにいちごん、あたかも、けいぼがけいしをほめるように、こころからではなくとも、さんたんし、くようするくどくのほうが、ひゃくせんまんおくばいすぐれていると、おおせられている。
 そのだいしょうにんの、みらいきいかん。けんぶつみらいきに、「とうていわく、ぶつき、すでにかくのごとし、なんじが、みらいきいかん、こたえていわく、ぶつきにじゅんじて、これをかんがえうるに、すでに、のちのごひゃくさいのはじめに、あいあたれり、ぶっぽうかならず、とうどのにほんよりいづべきなり」0508-10と。
 またほうおんしょうに、「にちれんが、じひこうだいならば、なんみょうほうれんげきょうはまんねんのほか、みらいまでもながるべし」0329-03とおおせられている。
 げんざい、そうかがっかいが、こうせんるふのために、まいしんしているのは、とりもなおさず、このだいしょうにんのおおせを、じつげんせんがためであり、せかいのこうせんるふも、また、まっぽうまんねんじんみらいさいまでのこうきゅうへいわも、われわれのてによって、じつげんできるとかくしんし、ぜんしんをつづけていこうではないか。

0747    だいに ふしゃくしんみょうのこと。

おんぎくでんにいわく、しんとはしきほう、いのちとはしんぼうなり、じりの、ふしゃくしんみょうこれあり、ほっけのぎょうじゃ、たはたとうをだつわるは、りのふしゃくしんみょうなり、みょうこんをたたるをことの、ふしゃくしんみょうというなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、じりともにあうなり。0748

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんの、「われら、まさに、だいにんりきをおこして、このきょうを、どくじゅし、じせつし、しょしゃし、しゅじゅにくようして、しんみょうをおしまざるべし」のところのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しんみょうのしんとはしきほう、いのちはしんぼうであり、しんみょうでしきしんふにのせいめいをさすのである。ふしゃくしんみょうに、じとりのふしゃくしんみょうがある。ほっけのぎょうじゃが、たはたとうをうばわれるのは、りのふしゃくしんみょうであり、みょうこんをたたれるのは、じのふしゃくしんみょうというのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつり、ぶつどうしゅぎょうにはげむならば、じのふしゃくしんみょう、りのふしゃくしんみょう、ともにあうのである。

 ふしゃくしんみょうとは、じゅりょうほんの「ふじしゃくしんみょう」とおなじいみである。にちかんしょうにんは、じゅりょうほんの「いっしんよっけんぶつ、ふじしゃくしんみょう」のもんをしんぎょうにわけて、「いっしんよっけんぶつ」をしんとたて、「ふじしゃくしんみょう」をぎょうとたてられている。
 すなわち、ごほんぞんをしんじて、しょうだいし、しゃくぶくにはげむことが、ふじしゃくしんみょうになるのである。しんじんし、しゃくぶくをやりとおしていけば、かならずなんがある。にちれんだいしょうにんはきょうだいしょうにてんだいだいしのまかしかんのだいごのもんをひいて、つぎのようにこのげんりをとかれている。
 「このほうもんをもうすには、かならずましゅったいすべし、まきそはずはしょうほうとしるべからず、だいごのまきにいわく、「ぎょうげすでにつとめぬれば、さんしょうしま、ふんぜんとしてきそいおこる、ないししたがうべらず、おそるべらず、これにしたがえば、まさにひとをして、あくどうにむかわしむ、これをおそれば、しょうほうをしゅうすることをぐさまた」とううんぬん、このしゃくは、にちれんがみにあたるのみならず、もんけのめいきょうなり、つつしんでならいつたえて、みらいのしりょうとせよ」1087-15
 なんがなければ、しょうほうとはいえないというのが、だいしょうにんのおおせである。
 にちれんだいしょうにんのおふるまいは、いっしょうがい、ふしゃくしんみょうのおすがたであった。こまつばらのほうなん、たつのくちのほうなん、いず、さどへのにどのるざいとう々とうである。またおでしについては、こまつばらのほうなんのさいのきょうにんぼう、くどうよしたか、あつはらのほうなんのさいの、じんしろう、やごろう、やろくろうとうのさんれっしとうもふしゃくしんみょうのすがたであった。また、だいにそにっこうしょうにんのごいっしょうも、ほんもんぐつうのために、しんみょうをなげうってたたかわれた。だいさんそにちしょうにんも、こっかかんぎょうのために、そのとうときせいめいをおしまれなかった。
 ちかくは、しょだいまきぐちかいちょうは、かんけんのためとらえられ、ろうしなされた。まさにふしゃくしんみょうであった。だいにだいとだかいちょうのごいっしょうもふしゃくしんみょうのすがたであった。また、げんざいのそうかがっかいいんが、いちにんでもおおくのひとをすくわんと、いかなるはんたいもあっぱくも、ものともせず、しんけつをそそぐすがたは、ふしゃくしんみょうではないか。
 だが、げんざいは、しんみょうにおよぶようななんなどは、ほとんどない。それはいま、けぎのこうせんるふはげんぜんであり、ごほんぞんのだいくどくは、ちゅうてんのたいようのごとくひかりかがやき、われわれがまもられているからである。しかしかならず、それぞれのたちばで、なんがあるのはとうぜんである。なんがなければ、しゅくめいてんかんできず、しんじつのこうふくもかくりつできないのである。なんがあったときがだいじである。じょうぶつするかじごくにおちるか、そのときのいちねんがけっじょうする。なんをのりこえたときは、たいふうのあとのせいてんのごとく、しんじつのこうふくかんに、みちみちてくるのである。
 したがってだいしょうにんの、なんにあったときの、しどうはじつにきびしい。だいしょうにんがさどごるざいちゅうに、あらわされたにょせつしゅぎょうしょうには、「いちごをすぐることほどもなければ、いかにごうてきかさなるとも、ゆめゆめたいするこころなかれ、おそるるこころなかれ、たとひ、くびをばのこぎりにてひききり、どうをばひしほこをもって、つつき、あしには、ほだしをうつて、きりをもってもむとも、いのちのかよはんほどは、なんみょうほうれんげきょう、なんみょうほうれんげきょうととなえてとなへしに、しるならば」(0504-18)とうとおおせられ、またあつはらのほうなんの、いっさいのしどうしょたる、しょうにんごなんじには、「かのあつわらのぐちのものども、いゐはげまして、をどすことなかれ、かれらには、ただいちえんにおもいきれ、よからんはふしぎ、わるからんはいっじょうとをもへ、ひだるしと、をもわば、がきどうを、をしへよ、さむしといわば、はちかんじごくを、をしへよ、をそろししと、いわば、たかにあへるきじ、ねこにあえるねずみを、たにんとをもうことなかれ」(1190-18)といわれている。
 このようなきびしいしどうも、しょせんは、じょうぶつさせたい、こうふくをつかませたい、とのじひであり、げんぷのあいなのである。もしも、われわれが、なんがこわいからといって、なんをうけないように、しんじんをあゆめれば、なんがなくなるかといえば、けっしてそうではない。しんじんしてなんをうけるいじょうの、だいなんをうけなくてはならない。
 ごほんぞんをおがんでのなんは、ざいしょうしょうめつされ、しゅくめいてんかんされていく。じょうぶつのためへのなんである。これはしょうにんごなんじに、「たとえばやいとのごとし、とうじはいたけれども、のちのくすりなれば、いたくて、いたからず」(1190-16)とおおせあるごとく、よろこびであり、たのしみである。だが、しんじんをやぶってうけたなんは、ゆきだるましきに、それがまた、いんとなって、じごくにおち、ふこうをまねくだけである。したがって、われわれは、ごほんぞんをこんぽんとして、そうかがっかいいんとして、さいごのさいごまで、いっしょうじょうぶつのため、こうせんるふのためたたかっていこうではないか。
 ふしゃくしんみょうについて、さらにいちごんしたい。しんじんにかぎらず、いっぱんに、これからなにかをしようとしているひとのこころは、はずんでいる。またそのすがたはうつくしくもある。とくに、いかなるこんなんともたたかい、じこのもくひょうにうちすすんでいくすがたは、さいびである。はつめいかがけんきゅうにぼっとうしているすがたも、また、いしゃがびょうにんをなおすために、けんめいになっているすがたも、またがくしゃがしんりのたんきゅうにみをうちこんでいるすがたも、そこには、なにかをつくりあげたい、はっけんしよう、といういよくがあふれている。
 あるもくひょうにむかって、しんみょうをうちこんでいくことは、ふしゃくしんみょうにつうずるものがある。ただし、もくひょうのこうてい、せんじん、ぜんあくいかんがもんだいである。あさきもの、またていきゅうなもの、あやまれるものに、しんみょうをなげうつほど、あわれなことはない。さいこうのものにきみょうしていくじんせいでなければならない。けつろんすれば、ごほんぞんにきみょうすることであり、じこのいっしょうじょうぶつ、またぜんせかいのへいわのために、しんみょうをとしてたたかうことが、さいこうのじんせいであり、しんじつさいこうのふしゃくしんみょうなのである。
 ふしゃくしんみょうのせいしんにたったひとほど、つよいものはない。しんじつのあんらくであり、いかに、たからこわそうとしても、こわすことはできない。だれをおそれるひつようもない。だれにもこびへつらうひつようもない。いわおのごとく、どう々どうとしており、たいようのごとくこうきにみちたじんせいこうろである。


0748    だいさん しんふじつこのこと。

おんぎくでんにいわく、しんふじつことは、ほっけさいだいいちのきょうもんをだいさんとよみ、さいいごじょうのきょうもんを、さいいごげとよみて、ほけきょうのいちねんさんぜんを、けごんだいにちとうにこれありと、ほっけのそくしんじょうぶつを、だいにちきょうにとりいるるは、らはみな、しんふじつこなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しんじつなるべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、かんじほんで、まっぽうのひとのしょうをよげんして、「しんふじつなるがゆえに」とといているところである。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。こころがふじつであるということは、ほけきょうが、いっさいきょうちゅうだいいちであるのに、こうぼうのように、だいさんにくだし、さいこうである、ほけきょうをさいていとよみ、ほけきょうにとかれている、いちねんさんぜんのほうもんを、けごんきょう、だいにちきょうにも、とかれているとして、ほけきょうのそくしんじょうぶつのおしえを、だいにちきょうにぬすみいれるようなことをさして、こころが、ふじつというのである。しかして、いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかの、なんみょうほうれんげきょうととなえるものは、がじつなのである。


 しんふじつことは、ただしきものを、ただしいとみることができない。すぐれているものを、すぐれているとみとめない。このように、へんきょうであり、ていきゅうなものにしゅうちゃくするこころを、ふじつというのである。わがそうかがっかいにたいし、そのほんしつ、じゅんすいせい、もくてきかんをもしらず、がけんのみで、ひはんし、おんしつをいだくこころなどは、ふじつのてんけいである。
 われらのだんけつのつよきをみては、きょうじんのごとく「ファッショ」というひとなど、とくにそのぶるいである。よきだんけつは、だれひともほっするところである。これいじょううるわしきすがたはないのだ。これができないところに、こんにちの、いくたのひげきがあるのではなかろうか。いっかも、しゃかいも、ろうどうくみあいも、せいとうも、こっかも、ぜんせかいも、だんけつしようだんけつしようと、けんめいにどりょくしているではないか。われわれが、だいぶっぽうをこんていにだんけつしているのは、さいだいのもはんとしょうさんして、とうぜんのことなのではなかあろうか。それをいじょうしすることじたい、いじょうであるとしらねばなるまい。
 そうかがっかいが、オリンピックいじょうの、どう々どうたるぶんかをてんかいした。これをにほんのほこりとし、せかいのほこりとしたひとが、いくひといたことであろうか。はんたいに、おそれをいだき、まゆをひそめたひとがいたときく、まことにざんねんなことである。しかし、じだいはとう々とうとながれている。ひと々びとのこころが、しだいに、めざめつつうごいている。かならずや、ぜんせかいから、かんしゃと、そんけいと、しんらいをえるひがまぢかであることを、つよくつよくかくしんするものである。かれらのかんじょうてき、ひそうてきなひはんは、これみな、「しんふじつこ」のしょうみょうにほかならないことを、ごきんげんにてらし、めいきしていくのみである。

0748    だいよん きょうじゅんぶっちのこと。

おんぎくでんにいわく、ほけきょうにじゅんずるは、きょうじゅんぶっちなり、こころとはなんみょうほうれんげきょうこれなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、きょうじゅんぶっちのこころなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「ときにもろもろのぼさつ、ほとけにきょうじゅんし」とあるところについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほけきょうにじゅんじ、なんみょうほうれんげきょうと、しんずるものは、ふついにきょうじゅんしているということである。ほとけのこころとは、なんみょうほうれんげきょうである。いま、にちれんだいしょうにんおよびもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえることは、ふついにきょうじゅんしていることをいみする。

 ぶついのほとけとは、にちれんだいしょうにん、こころとはなんみょうほうれんげきょうであり、ぶついで、にんぽういっかのごほんぞんをあらわす。きょうおうどのごへんじに「にちれんがたましひを、すみにそめながして、かきてそうらぞ、しんじさせたまへ、ほとけのみこころは、ほけきょうなり、にちれんが、たましひは、なんみょうほうれんげきょうに、すぎたるはなし」(1124-11)と。
 きょうじゅんとは、しんじんである。ごほんぞんをぜったいとしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となえることがしんのきょうじゅんぶっちである。

0748    だいご さししくのこと。

おんぎくでんにいわく、ししくとは、ほとけのせつなり、せっぽうとはほっけ、べっしては、なんみょうほうれんげきょうなり、しとはししょうくさずるところのみょうほう、しとはでしくうるところのみょうほう、くとはしていともに、となうるところのおんじょうなり、さとはおこすとよむなり、まっぽうにしてなんみょうほうれんげきょうをおこすなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「ときにもろもろのぼさつ、ほとけにきょうじゅんし」とあるところについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほけきょうにじゅんじ、なんみょうほうれんげきょうと、しんずるものは、ぶついに、きょうじゅんしているということである。ほとけのこころとは、なんみょうほうれんげきょうである。いま、にちれんだいしょうにんおよびもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえることは、ぶついにきょうじゅんしていることをいみする。

 「せっぽうとは、ほっけ、べっしては、なんみょうほうれんげきょうなり」とは、しゅだつそうたいをあらわしている。すなわち、せっぽうとは、ほけきょうであるが、べっしては、ほけきょうじゅりょうほん、もんていのなんみょうほうれんげきょうをさすのであるとの、いみなのである。
 つぎに、「しとは」、いかのもんは、していふにをしめされたものである。「しとはししょう」とは、にちれんだいしょうにんである。「くさずるところのみょうほう」とは、ごほんぞんのことである。にんぽういっかをしめす。「しとはでし」とは、ごほんぞんをしんずるものであり、「うくるところのみょうほう」とは、しんじんでうけとるところのみょうほう、すなわち、ごほんぞんをしんじて、わがこしんのごほんぞんを、ゆげんすることである。「くとは、していともにとなうるところの、おんじょうなり」とは、していふにである。
 また「なんみょうほうれんげきょうをおこす」とは、しんじんはじゅどうではなく、のうどうであるということであり、またこうせんるふも、たのひとがやるのをまつのではなく、おのれじしんがやるときめることである。とだかいちょうは、かって、「こうせんるふは、ひとりのせいねんがいのちをすてれば、かならずできる」ともうされ、また「せいねんよひとりたて」とも、こごうなされた。まずいちぽは、じぶんみずからやるのである。それがしだいにひろがっていくことは、まちがいない。われわれがやっていることは、たいしゅうのもっとも、ほっしていることを、しているからである。

0748    だいろく にょほうしゅぎょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、にょほうしゅぎょうのひととは、てんだい・みょうらく・でんぎょうとうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、にょほうしゅぎょうなりうんぬん。

 かんじほんで、しょぼさつが、「ほうのごとくしゅぎょうし、しょうおくねんせしめん」と、めつごのるつうをちかうもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほとけのきょうほうのごとく、しゅぎょうするひととは、てんだい、みょうらく、でんぎょうとうである。いま、まっぽうにおいては、にちれんだいしょうにんおよびもんかの、なんみょうほうれんげきょうととなえるものが、にょほうしゅぎょうである。

 にょせつしゅぎょうのほうとは、しそう、しゅぎょうとはじっせんである。にょせつしゅぎょうは、あらゆるものにつうじていることである。たとえばげどうの、にょせつしゅぎょうについていえば、しいだ、じゅうはちだいきょうなどのかれらのきょうてんを、そのとおりにじっせんするとすれば、それは、げどうのにょせつしゅぎょうである。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、かいもくしょうこうぎで、つぎのごとくのべられている。
 「ばらもんにおいても、ひくいていどのものであるが、せいめいのほんしつとはなんぞやというてんを、しこうして、そのえたけつろんを、じっせんかつどうにうつしたものである。ゆえにかれらは、これをごくせつとなして、たがいにろんそうし、またこのほうをば、じっせんこうどうにうつして、いちにちにさんど、ごうがにはいったり、あるいはかみをぬいたり、いわにみをなげたり、あるいは、みをひにあぶって、ごたいをやき、あるいは、らぎょうになり、うまをころせば、こうふくになるといったり、あるいは、そうもくをやいたり、いっさいのきをおがんだりしたのである。
 これこそ、さいこうのぶっきょうてつがくからみれば、ほんとうの、こどもだましであって、なんら、うるところのないのは、もちろんである」と。
 このようにほうのごとく、しゅぎょうするといっても、そのほうが、ていきゅうであったり、あやまれるものであったり、ふごうりなものであれば、それをじっせんしたときには、ゆがんだにんげんをつくりあげるだけであり、ふこうをまねくばかりである。
 またそのしそうが、ていきゅうであり、ふごうりであれば、ひつぜんてきに、それをこうどうにうつすのに、むりがでてくる。したがって、しそうとじっせんが、しだいにはいりしてくるのである。
 げんざい、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょういがいの、あらゆるしそうが、しそうとじっせんのはいりを、しんこくにしめしている。マルクスのしそうにしても、またじつぞんしゅぎのてつがくにしても、またとうようのじゅきょうてつがくにしても、あらゆるものが、そのじっせんにおいて、いきづまってしまっている。
 このてん、ことにあわれむべきは、キリストきょうである。
 「あなたがたは、てきをあいし、ひとによくしてやり、またなにもあてにしないでかしてやれ」また、「かれからりしもりそくもとってはならない。あなたのかみをおそれ、あなたのきょうだいを、あなたとともに、いきながらえさせなければならない」、これらのせいしょのもんぐを、しょせつのごとく、じっせんしているキリストきょうとが、はたしていくにんいるであろうか。
 つぎに、いかにさいこうのしそう、てつがくをゆうしていても、それをじっせんしなければ、かちはしょうじないことを、めいきすべきである。われわれのたもつほうは、はちまんほうぞうのしんずいであり、せかいさいこうのしきしんふにの、せいめいてつがくである。
 そのじっせんとは、ごほんぞんをしんじてしょうだいし、しゃくぶくにはげんでいくことである。テレビのスイッチをいれ、がめんにぞうをあらわすことは、かんたんであり、ちいさなこどもにもできる。だが、そのテレビのりろんというものは、きわめてふくざつ、かつなんげなものである。ごほんぞんは、ひみつのおうぞうであり、なんしんなんげである。
 だが、われわれが、それをじっせんにうつすときは、じゅじそくかんじんとなり、ただごほんぞんをしんじて、しょうだいするだけで、しんじつのこうふくをかちえていくことが、できるのである。


0748    だいなな うしょむちにんのこと。

おんぎくでんにいわく、いちもんふつうのだいぞくなり、あっくめりとう、ふんみょうなり、にほんこくのぞくを、もろもろというなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんの、「もろもろのむちのひとの、あっくめりし、および、とうじょうをくわうるものあらん」と。ぞくしゅうぞうじょうまんを、あかすもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。もろもろのむちのひととは、ぶっぽうのいちもんもしらない、ぞくじんのことである。しょうほうのぎょうじゃにあっくをいい、ばとうするのは、はっきりしていることである。もろもろとはにほんこくの、ぞくしゅうぞうじょうまんをいうのである。

 このもんは、だいいちるいの、ぞくしゅうぞうじょうまんのところである。このぞうじょうまんは、しんじんするとどうじに、でてくるものである。ふだんは、なにでもなく、こころよくまじわっているゆうじん、かていとうのひとが、しんじんのことになると、きまってはんたいをするものだ。ごきんげんのいかにてきちゅうするかを、おどろくほど、たいけんするものである。
 しかし、いかにはんたいしても、だいぶっぽうには、ぜったいにこうしきれるものではない。もうれつなるはんたいしゃが、のちで、かならず、ぞくぞくとにゅうしんするのも、まことにふしぎな、りきあるぶっぽうといわざるをえない。

0749    だいはち あくせちゅうびくのこと。

 おんぎくでんにいわく、あくせちゅう、びくのあくせとは、まっぽうなり、びくとはほうぼうたる、こうぼうとう、これなり、ほっけのしょうちをすて、ごんきょうのじゃちをほんとせり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しょうちのなかのたいしょうちなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あくせのなかのびくは、じゃちにしてこころてんごくに、いまだえざるをこれえたるといい、がまんのこころじゅうまんせん」と、どうもんぞうじょうまんをあかしたもんについて、おんぎくでんでは、つぎのようにおおせである。「あくせのなかのびく」の、あくせとは、まっぽうげんざいをさす。びくとは、こうぼうとうのほっけひぼうのじゃそうをいうのである。いま、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえるのは、しょうちのなかのたいしょうちである。

 あくせちゅうびくとは、どうもんぞうじょうまんをあかしているところである。
 だいにるい、どうもんぞうじょうまんとは、きせいしゅうきょうかい、しんこうしゅうきょうかいにふくまれる。すなわち、ぜんにちふつ、しんしゅうれんがこれである。じしゅうのせいぎ、しんねんをるふするを、しゅうきょうほんらいのしめい、じゅんすいせいであることをぼうきゃくし、せほうのみにとらわれ、れんごうして、おのがきぎょうをまもらんとする、ひきょうきわまりなき、しゅうだんをさす。
 しかし、どうもんぞうじょうまんは、すでにちからをうしない、そのつめをもぎとられてしまっている。きょうと、ならの々てらでらはさびれ、かんこうちとかし、じゃしゅうにちれんしゅうのほんざん、みのぶも、すでにこうはいのきわみにたっしている。どうもんぞうじょうまんの、さかんなりしじだいの、すぎさっているしょうこといえよう。
 わががっかいのれきしからいえば、とだじょうせいぜんかいちょうのしょうわ26ねんごろから、しょうわ30ねんのおたるほうろんを、さかいにして、じゃしゅうはいちだんとおとろえているかんを、もつものである。そのごは、ぜんにちふつとうが、ぼちまいそうきょひもんだいとうで、たしょうのうごきをみせているていどである。
 しんじだいは、つぎにのべるだいさんるい、せんしょうぞうじょうまんとのたたかいであり、このしょうりこそ、こうせんるふじつげんのさいごのくさびであるとかくしんしてやまない。

0749    だいきゅう わくうあれんにゃのこと。

 おんぎくでんにいわく、だいさんのびくなり、りょうかんとうなり、にょろくつうらかんのひととおもうなり。
 かんじほんに「あるいはあれんにゃに、のうえにして」と、せんしょうぞうじょうまんを、あかしたもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんは、さんるいのごうてきのなか、だいさんのせんしょうぞうじょうまんのじゃそうをさしている。ごくらくじりょうかんがそれである。せけんのひとは、ろくじんずうをえたあらかんのように、そのじゃそうをそんけいしているのである。

 かいしゃくこうぎ。
 だいさんるいの、せんしょうぞうじょうまんとは、こっかけんりょくをいう。なお、げんざいでは、いちりゅうひょうろんか、がくしゃ、いちりゅうにっかんしをさす。また、せいじか、ざいかいじんとうのけんりょくしゃが、われわれをいんにように、はくがいしてくることをいうのである。
 げんざいは、さんるいのごうてきのうち、とくにこの、だいさんるいの、せんしょうぞうじょうまんとの、たたかいのじだいなのである。かって、とだじょうせいぜんかいちょうは、かならず、だいさんるいのあらわれるときがくると、つねにもうされていた。そのときとは、まさにいまである。めざめたたいしゅうほど、ちからづよいものはない。とう々とうとながれゆく、たいがのごとく、たいしゅうのこころはうごき、しんぐんはこっ々こくと、てんかいされているのである。
 げんざい、せんしょうぞうじょうまんの、しゅつげんがあることは、だいしょうにんのごきんげんのとおりであり、こうせんるふたっせいは、ぜったいであることを、かくしんするものである。

0749    だいじゅっ じさしきょうでんのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほけきょうをしょさしてよむと、ぼうすべしと、いうきょうもんなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あるいはあれんにゃに、のうえにして」と、せんしょうぞうじょうまんをあかしたもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんはさんるいのごうてきのなか、だいさんのせんしょうぞうじょうまんの、じゃそうをさしている。
 ごくらくじりょうかんがそれである。せけんのひとはろくじんずうをえた、あらかんのように、そのじゃそうをそんけいしているのである。

 げんざいでいえば、じゃしゅうみのぶはにちれんしゅうとうが、みずからのしゅうはのひをかくすため、さんだいひほうしょうを、ぎしょあつかいにしたり、あるいは、おんぎくでん、ほんにんみょうしょう、ひゃくろくかしょうとうを、こうせいのぎさくであるなどというのは、まさにこのもんにあたるのである。
 にっこうしょうにんの、ゆいかいおきぶみには「いち、ごしょ、いずれもぎしょにぎし、とうもんりゅうをきぼうせんもの、これあるべし、もし、かようのあくりょしゅつたいせば、しんごんすべからざるじ」1617-07とある。
 さらに、ほんもんかいだんの、ごほんぞんにたいするぎなんなどは、そのさいたるものであろう。

0749    だい11 いししょきょうごんにょとうかいぜぶつのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほけきょうのぎょうじゃをあなづり、しょうぶつというべしというきょうもんなり、これはけいしんをもってそしるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものをいうべきなり。
 かんじほんの、「これにかろしめて、なんだちは、みなこれ、ほとけなりといわれん」と。ほけきょうのぎょうじゃがうけるなんのひとつを、しめしたもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほけきょうのぎょうじゃをけいべつして、しょうぶつとよぶであろうというきょうもんである。これはけいべつするこころで、ひぼうするのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、もんかの、なんみょうほうれんげきょうととなえるものが、このようにいわれているのである。

 かいしゃくこうぎ。
ほけきょうのぎょうじゃをあなづり、しょうぶつというべし。
 なんみょうほうれんげきょうのみ、ぜったいなりとかくしんもち、しゃくぶくにはげむと、かれらほうぼうのやからは、かならず、ひにくなけいべつのねんをもって、しょうぶつなどとよんで、そしるであろうということである。
しかし、あくまでたえ、みょうほうるふにまいしんせよとのしどうであられる。よく、しゃくぶくにあたり、そんなすごいしゅうきょうなら、すぐあめをふらしてみろ、すぐびょうきをなおしてみろ、たからくじをあててみろと、あざけられることもどういである。
 ほっけしょしんじょうぶつしょうには、「そのうえ、かんじほんには、ほけきょうのてきじん、さんるいをあげられたるに、いちには、ざいけのぞくなん、ぞくにょなり、このぞくなん、ぞくにょはほけきょうのぎょうじゃをにくみ ののしりうちはり、きりころし、ところをおひだしい、あるいは、かみへざんそうしておんるし、なさけなく、あだむものなり。
 にには、しゅっけのひとなり、このひとは、まんしんたかくして、ないしんには、ものもしらざれども、ちしゃげにもてなして、せけんのひとに、がくしょうとおもはれて、ほけきょうのぎょうじゃをみては、うらみそねみかろしめ、いやしみ、いぬやかんよりも、わろきようを、ひとにいいうとめ、ほけきょうをば、われひとり、こころうたりとおもうものなり。
 さんには、あれんにゃのそうなり、このそうは、きわめてとうときそうをかたちにあらわし、さんね、いっぱちをたいして、さんりんの、しずかなるところにこもりいて、ざいせのらかんのごとく、しょにんにとうとまれ、ほとけのごとくばんにんにあおがれて、ほけきょうをせつのごとくに、よみたもちたてまつらんそうをみては、にくみそねんでいわく、たいぐち、だいじゃけんのものなり、すべて、じひなきもの、げどうのほうをとくなんどいわん、かみいちにんより、あおいでしんをとらせたまはば、そのいか、ばんにんもほとけのごとくに、くようをなすべし、ほけきょうを、せつのごとくよみたもたんひとは、かならずこのさんるいのてきじんに、あだまるべきなりと、ことけときたまへり」(0556-06)ともうされている。

0749    だい12 あっきにゅうごしんのこと。

 おんぎくでんにいわく、あっきとは、ほうねん、こうぼうとうこれなり、いりごしんとはこくおう、だいじん、ばんみんとうのことなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものを、うらむべしということなり、おにとは、いのちをうばうものにして、だつくしゃというなり、ほけきょうはさんぜしょぶつのみょうこんなり、このきょうはいっさいしょぼさつのくどくを、おさめたるみきょうなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あっき、そのみにはいりて、われをめりきにくせん」と、まっぽうのなんを、あげたもんについての、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである。
 あっきとはほうねん、こうぼうのじゃしゅうのそうをいうのである。あっきがそのみにはいる、そのみとは、こくおう、だいじん、ばんみんなどをいう。そしてこれらのひと々びとが、にちれんだいしょうにん、およびもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえるのを、おんしつするのである。おにとはいのちをうばうもので、だつくどくじゃとやくすのである。ほけきょう、なんみょうほうれんげきょうは、さんぜのいっさいの、ほとけのいのちのこんぽんである。このなんみょうほうれんげきょうには、いっさいのぼさつの、くどくがおさまっているのである。あっきは、そのせいめいを、むしばまんとするのである。

 あっきとは、じゃしゅうきょう、あくしそうをいう。このだんは、これらのおそろしさをとかれているのである。
 しそうほど、つよいものはない。またしそうほど、こわいものもない。しゅうきょうほど、ちからあるものはない。また、しゅうきょうほど、おそろしいものもない。ざんねんなことに、いっぱんのひと々びとは、このがいどくのおそろしさをしらない。まなこにみえず、てにふれることができないゆえに、きにとめないのもむりもなかろう。
 しかし、じゃしゅうきょう、あくしそうは、しらずしらずのうちに、ひとのせいめいをむしばみ、せいめいりょくをうばってゆくあへんのごときものである。はじめはきづかず、きがついたときには、すでにおそく、どうしょうもないじょうたいになっているものである。ガンのごとく、でんせんびょうのごとく、あくえいきょうをおよぼしながら、あらゆるひとのこうふくをむしばんでゆくものである。じつに、おそるべきは、あくしそうであり、じゃしゅうきょうである。
 ときどのごしょには「ちしゃはおんけ、へび、かどく、いんだら、へきれき、とうじょうもろもろのあくじゅう、ころう、ししとうをおそるべからず、それはただよくいのちをだんじてひとをしておそるべきあびごくにはいらしむ」(0969-06)と。
 さんぜつうぎょうの、ごほんぶつのごしょうごんをば、いちにちもすみやかに、かつ、おおくのひとたちにしらしめていきたいものである。

0749    だい13 たんしゃくむじょうどうのこと。

 おんぎくでんにいわく、むじょうどうとはなんみょうほうれんげきょうこれなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうをむおしことは、みょうこんよりも、きおしことなり、これによつてむすぶところに、ほとけ、じちがしんととかれたり、ほけきょうのぎょうじゃのしんちゅうをば、きょうしゅしゃくそんのごぞんじあるべきなり、ほとけとは、しゃくそんがしんとはいま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あっきそのみにはいりて、われを、めりきにくせん」と、まっぽうのなんをあげたもんについての、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである。あっきとはほうねん、こうぼうのじゃしゅうの、そうをいうのである。あっきがそのみにはいる、そのみとは、こくおう、だいじん、ばんみんなどをいう。そして、これらのひと々びとが、にちれんだいしょうにんおよび、もんかがなんみょうほうれんげきょうととなえるのを、おんしつするのである。おにとは、いのちをうばうもので、だつくどくものとやくすのである。ほけきょう、なんみょうほうれんげきょうは、さんぜのいっさいの、ほとけのいのちのこんぽんである。このなんみょうほうれんげきょうには、いっさいのぼさつのくどくが、おさまっているのである。あっきは、そのせいめいを、むしばまんとするのである。

 むじょうどうとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。すなわち、さんだいひほうのごほんぞんのことである。たのいっさいの、じっぽうみじんのきょう々きょう、しそうてつがくは、うじょうどうなのである。むじょうどうをしんじんにやくせば、さいこうのこうふくせいかつのこととなる。けっきょく、だいぜんせいかつをさす。

いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうをむおしことはみょうこんよりもきおしことなり。
 たとえば、しょうがつに、こどもがおとしだまをもらったとする。こどもにとっては、だいじなおかねである。ひゃくまんえんのこぎってより、たいせつにしがみつくものである。これ「みょうこんよりもおしきことなり」のすがたとなろう。おとしだまが、こどもにとってのむじょうどうとなる。かいしゃのしゃちょうが、しょうがいかけて、だいがいしゃをつくりあげた。そのしゃを、ぜんたましいかたむけて、ゆずりたたかう。これとおなじく「みょうこんよりおしきことなり」に、つうずるところである。しかしみょうほうにひかくすれば、じぶんなりにむじょうどうとおもいこんでいるに、すぎないわけだ。
 またそうりだいじんは、じぶんのちいをむじょうどうとおもっていることだろう。たしかに、くかいぎいん、とかいぎいん、こっかいぎいんからみれば、そうもいえよう。そしてじこのけんりょくに、いのちがけでしがみついてく。このけんりょくのざをおしむこと「みょうこんよりもおしきこと」なのである。
 しかし、そうりだいじんたりとも、えいえんふめつのだいてつりを、こんていにせざるかぎり、みんしゅうのこんぽんてききゅうさいはありえない。ゆえに、ごほんぞんをこんぽんとしてみれば、それもうじょうどうである。しょせん、ひとともに、ごほんぶつにちれんだいしょうにんと、はちまんほうぞうのごくりたるいちだいひほうのごほんぞんにきすうするのである。
 「みょうこんよりもおしきことなり」のごきんげんのごとく、みょうほうをけんじし、みょうほうるふにかつやくするひとこそ、ごほんぞんにきょうちみょうごうした、むじょうどうのじんせいといえるのである。

これによつて、むすぶところに、ほとけじちがしんと、とかれたり。
 じょうぶつは、とおくになく、なんじじしんのないおうにあるを、あかされたもんである。「ほとけみずから、わがこころをしれり」とせんぜつされたごとく、じぶんじしんの、せいめいにやくどうするものである。しして、てんごくに、ゆくのでもけっしてない。せいほうじゅうまんおくどに、こうふくがあるのでもない。きょうさんかくめいがじょうじゅしてから、こうふくになるものでもない。しんじんそくにんげんかくめいであり、つねじゃっこうどにしてゆくのが、だいてつりのげんりなのである。これほど、かんたんにして、げんじつてきであるだいてつりが、いずこにあるであろうか。
ほけきょうのぎょうじゃのしんちゅうをばきょうしゅしゃくそんのごぞんじあるべきなり。
 「きょうしゅしゃくそん」とは、にちれんだいしょうにんのおんことである。ほけきょうのぎょうじゃとは、べっしては、とうぜん、まっぽうのごほんぶつ、にちれんだいしょうにんであられる。そうじては、しんぎょうがくにはげみゆくわれらもまた、ほけきょうのぎょうじゃと、じかくしてよいのである。ここは、ぼんぷのわれわれじしんが、にちれんだいしょうにんのおこころにかない、ほとけのとうたいとあらわれるとの、おおせなのである。
 したがって、いちおう、りじょうでは、だいしょうにんとおなじ、じっかいさんぜんのせいめいである。さいおうは、とうたいぎしょうによれば、「しょせん、みょうほうれんげのとうたいとは、ほけきょうをしんずる、にちれんがでしだんなとうの、ふぼしょしょうの、にくしんこれなり、しょうじきにほうべんをすて、ただ、ほけきょうをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなうるひとは、ぼんのうごう、くのさんどう、ほっしん、はんにゃ、げだつのさんとくとてんじて、さんかん、さんたい、そくいっしんにあらわれ、そのひとのしょじゅうのところは、じょうじゃっこうどなり、のうごしょご、しんど、しきしん、くたいくゆう、むささんじんのほんもんじゅりょうの、とうたいれんげのほとけとは、にちれんがでし、だんなとうのなかのことなり」(0512-09)とのべられている。このおんふみのごとく、しんじんあるひとこそ、ほとけのしょさにかわってくるとのおおせである。
 とだじょうせいぜんかいちょうも、「しんじんごうじょうなるものは、にちれんだいしょうにんのおんちが、わがせいめいにわいてくるのだ、しょうじょうな、たくましき、ひとをすくおうとするじひが、そして、じんせいをゆう々ゆうといききっていけるちからが、これこそ、けちみゃくをうけているのだ」と、まことに、もったいないかぎりである。われらは、だいほうおうたる、にちれんだいしょうにんのこどもとして、でしとして、めいよと、きんどとをもって、ぜんしんしていきたいものである。


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