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  • 御義口伝講義録上 ひらがな  だいばだったほんはちかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月 9日(日)10時43分56秒
  • 編集済
 
0744~0747 だいばだったほんはちかのだいじ。
0744    だいいち だいばだったのこと。
0744    だいに にゃくふいが とういせんぜつのこと。
0744    だいさん さいかぎっすい、じゅうしんせつじきのこと。
0745    だいよん じょうぞんみょうほうこ、しんじんむけげんのこと。
0745    だいご がおかいちゅう、ゆいじょうせんぜつのこと。
0745    だいろく ねんしはちさいのこと。
0746    だいなな ごんろんみこつのこと。
0747    だいはち ういちほうじゅのこと。


0744~0747 だいばだったほん、はちかのだいじ。
0744    だいいち だいばだったのこと。
 もんぐのはちにいわく、ほんちは、しょうりょうにして、しゃくにてんねつをしめすと。
 おんぎくでんにいわく、だいばとはほんちは、もんじゅなり、ほんちしょうりょうというなり、しゃくにはだいばというなり、てんねつをしめすこれなり、しょうりょうはみずなり、これは、しょうじそくねはんなり、てんねつはひなり、これはぼんのうそくぼだいなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるに、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんなり、だいばは、みょうほうれんげきょうのべつめいなり、かこのときに、あしせんにんなり、あしせんにんとはみょうほうのいみょうなり。あとはむのぎなり、わたしなきのほうとは、みょうほうなり、もんぐのはちにいわく、むしほうをもって、しゅじょうにそそぐといえり、あしせんにんとは、ほうかいさんぜんのべつめいなり、ゆえに、わたしなきなり、いちねんさんぜん、これをおもうべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ごぎゃくざいをおかした、あくぎゃくのだいばだったについて、もんぐのはちには、じつは、このようなあくぎゃくのだいばも、ほんちはしょうりょうなのであって、しゃくにてんねつをしめす。すなわちてんにねつのうをなまぜしめるような、あくにんのすがたをしめしたのである。といっている。
 これについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいばだったのほんちは、もんじゅなのである。したがって、もんぐのはちには「ほんちしょうりょう」というのである。ほんちはこのように、しょうりょうであって、すいじゃくとして、あくぎゃくのだいばのすがたをとったのである。したがって、「てんねつをしめす」というのである。しょうりょうは、みずについて、いうのであり、みずはしょうじをあらわし、それがしょうりょうなのであるから、しょうじそくねはんを、あらわすのである。てんねつとは、ぼんのうのひであり、そのてんねつの、だいばがじゅきをこうむるのであるから、ぼんのうそくぼだいをあらわすのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんとひらいて、いくことになるのである。
 あくぎゃくのだいばだったも、じつは、みょうほうれんげきょうのべつめいなのである。きょうもんには、かこにだいばは、あしせんにんであったことが、とかれている。このあしせんにんとはなにか。これこそ、じつにみょうほうのいみょうなのである。あしせんにんのあとは、むのぎであり、むし わたしなきほうとは、みょうほうなのである。みょうらくのほっけもんぐきのはちには、「むしほうをもってしゅじょうにそそぐ」とあり、このむしほうは、みょうほうをさしていることは、あきらかである。このようにみていけば、あしせんにんとは、ほうかいさんぜんのべつめいであり、しんらばんしょう、じっかいさんぜん、ことごとく、あしせんにんなのである。したがって、わたしなく、びょうどうだいえなのである。いちねんさんぜんこそ、じつにわたしなきほうである。これをよくよくかんがえなさい。

 だいばだったのじょうぶつは、ぜんあくふに、じゃしょうふに、じゃしょういちにょのげんりを、しめしたものである。しゃくそんを、しゅくせのかたきとまでにくみ、あらゆるはかりごとをめぐらし、しにおいやることいくど、そのだいばだったに、しゃくそんは、てんのうにょらいの、きべつをあたえたのであった。
 しかも、ほけきょうだいばほんにとくところによれば、だいばは、むりょうこうのむかし、あしせんにんというせんにんであって、ほけきょうを、たもっていたとある。そのとき、しゃくそんは、こくおうであって、このあしせんにんに、つかえたのである。
 じつにふしぎなことである。いままで、ごぎゃくざいとひぼうしょうほうのものは、えいきゅうにむげんじごくの、ほのおにむせび、ぜったいにすくわれないものとされていた。だいばだったは、ごぎゃくざいはおろか、しょうがいかけて、しゃくそんをののしり、はくがいし、しょうほうをひぼうしたのである。その、だいばだったが、かこにあしせんにんという、ほけきょうのぎょうじゃにあったということ、かつ、じょうぶつのきをあたえられるということは、りょうぜんいちえの、たいしゅうにとっては、おどろきであり、それまでの、めいもうをいちじに、たたきやぶられたかんが、あったことであろう。
 かこに、あしせんにんという、ほけきょうのぎょうじゃであったのが、なぜ、だいばだったのすがたをとり、むげんじごくにおちたかは、ひとつには、ごういんごうがのりを、しゅじょうにしめさんがためであり、ふたつには、しゃくそんのだいぜんを、いよいよ、さかんならしめようと、したためである。
 だいいちの、ごういんごうがのりについては、おんしのいわく、「さいおう、このもんだいをかんがえるときには、しゃくそんにしても、だいしょうにんにしても、およそ、ぶっぽうをとかれるにあたっては、ぜんせのごういんが、こんぜのごうがとあらわれることを、かくしんしているのである。また、それは、せいめいのてつりなのである。げんだいのひと々びとは、かこにいき、げんざいもいき、みらいもまた、せいめいかつどうをなすのであるということを、なかなかしんずるものがすくない。
 しかし、われわれはみな、かこせのごういんをもってげんせに、うまれてきているのである。されば、あしせんにんが、だいばだったとうまれてきて、しゃくそんのぶっぽうをたすけ、ごういんごうがのしゅじょうに、しめしたことはとうぜんのことである。かこのししょうが、こんぜのでしとなって、あらわれたのである」と。しゃくそんとだいばだったのかんけいは、こんぜだけではなく、かこおんのんごうよりの、かんけいである。あるときはしとなり、またあるときは、あくにんのすがたをとって、せっぽうをたすけるなどと、れんぞくしゆくものであることが、あかされているのである。

 だいにに、しゃくそんのだいぜんを、いよいよ、さかんならしめるためとは、およそ、あくがなければ、ぜんをあらわすことは、できない。ゆえににぜんきょうでは、「あくがなければ、もって、けんぜんをあらわすことができない。このゆえに、だいばだったはむすうこういらい、つねにしゃくそんとともにあって、しゃくそんはぶつどうをぎょうじ、だいばはひどうをぎょうじてきた。しこうして、たがいにけいはつしてきたものである」と。
 しかるに、たいあくけんぜんがおわれば、あくのぜんたいは、そくこれぜんである。ゆえに、ほけきょうではぜんあくふに、じゃしょういちにょ、ぎゃくそくぜじゅんとなるのである。このほうていしきは、にぜんきょうにはとかれなかった、おうていのぎである。
 ゆえに、ほけきょうで、だいばだったが、てんのうにょらいなりと、とかれたことは、ほけきょうのいだいさ、ふかさをしめすものである。かしゃくほうぼうめつざいしょうにいわく、「だいばだったはほとけのおんてき、よんじゅうよねんのきょうきょうにて、すてられ、りんじゅうわるくして、だいちやぶれてむげんじごくにいきしかども、ほけきょうにて、めしかえして、てんのうにょらいときせらる」(1131-16)と。しゅじゅおんふるまいごしょに、「しゃかにょらいのおんためには、だいばだったこそ、だいいちのぜんちしきなれ、いまのせけんをみるに、ひとをよくなすものは、かたうどよりも、ごうてきがひとをば、よくなしけるなり、げんぜんにみえたり、このかまくらのごいちもんのごはんじょうは、よしもりとおきほうおう、ましまさずんば、いかでか、にほんのあるじとなりたまうべき、されば、このひとびとは、このごいちもんのおんためには、だいいちのかたうどなり、にちれんが、ほとけにならんだいいちのかたうどは、かげのぶ、ほっしにはりょうかん、どうりゅう、どうあみだぶつと、へいのさえもんのじょう、こうどのましまさずんば、いかでかほけきょうのぎょうじゃとはなるべきと」(0917-05)と。
 また、だいばだったの、せいめいはだれにでもある。かって、とだかいちょうは、「だいばだったは、おとこのヤキモチ、りゅうにょは、おんなのヤキモチをあらわす」といわれた。げんざいのいっさいのひとびとは、みなことごとく、だいばだったである。しんにと、しっととくのう、はんもんのこころの、じゅうまんするよなれば、だが、ほけきょうによって、てんのうにょらいのきをうくるごとく、ごほんぞんのくりきにより、それらのだいばだったのせいめいも、そくてんのうにょらいとあらわれるのである。また、しゃくそんとだいばだったの、しれつなたたかいは、じつはいちこじんにしゅうやくされるのである。われわれの、ぶつどうしゅぎょうは、たえず、わがこしんのだいばだったとのたたかいである。また、そうかがっかいと、そのぜんしんをはばもうとする、やからとのたたかいをいみする。だが、ほとけのぐんはかならずかつ、まぐんはかならずやぶれる、げんりともはいせるのである。
わたしなきほうとはみょうほうなり。
 みょうほうは、ぜったいであるとのおんふみである。ごほんぞんには、へんぱがない。またあらゆる、うちゅうのしんらばんしょうを、いっぽうもかくるところなく、ぐびしている。いかにかたちのうえで、しんじんしているようにみえても、きょえいやけいしきで、ごほんぞんをごまかすことはできない。またしんじんにはんたいしたひとは、かならずばつがある。しんじんごうじょうなひとは、だいくどくをうける。また、あらゆるひとを、ことごとくすくいきっていく、ごほんぞんこそ、「わたしなきのほう」ではないか。

0744    だいに にゃくふいがとういせんぜつのこと。

おんぎくでんにいわく、みょうほうれんげきょうをせんぜつすることを、なんじはわれにたわがずして、せんぜつすべしということなり、にゃくのじはなんじなり、てんだいのいわく、「ほうをうけてぶぎょうす」と、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、にちれんにたがわずしてせんぜつすべきなり、あしせんにんとは、なんみょうほうれんげきょうなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
おうが、だいじょうのほうをもとめているのにたいし、あしせんにんが、「われ、だいじょうをたもてり。みょうほうれんげきょうとなづけたてまつる。もしわれに、たがわずんば、まさにために、せんぜつすべし」とのべられたところの、おんぎくでんです。
 このもんについて、つぎのようにおおせである「みょうほうれんげきょうを、せんぜつすることを、なんじはわれにたがわずして、せんぜつすべし」とよむべきなのである。にゃくのじは「もし」とよむのではなく、なんじと、よむべきなのである。
 てんだいのほっけもんぐのはちには、「ほうをうけて、ぶぎょうす」とあり、ほとけのおおせどおり、ほうをひろめるべきことが、しめされている。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかで、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、にちれんだいしょうにんに、たがわずに、そのままほうをひろめるべきである。あしせんにんとは、なんみょうほうれんげきょうのことなのである。

いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、にちれんにたがわずして、せんぜつすべきなり、このもんは、きわめてじゅうようである。にちれんだいしょうにんはしゅじゅおんふるまいごしょに、「かかるにちれんをもちいぬるとも、あしくうやまはば、くにほろぶべし」(0919-16)、しぼさつぞうりゅうしょうに、「わたしならざるほうもんを、びゃくあんせんひとは、ひとえにてんまはじゅんの、そのみにいりかわりて、ひとをして、じしんともにむげんだいじょうに、おつべきにてそうろう、つたなし、つたなし、このほうもんは、ねんらい、きへんにもうしふくめたるように、ひとびとにもひろうあるべきものなり、そうじて、にちれんがでしといつて、ほけきょうをしゅぎょうせんひとびとは、にちれんがごとくに、しそうらへ」(0989-09)とうとおおせられている。
 げんざい、なむみょうほうれんげきょうと、となえるしゅうきょうはかずおおくある。だが、ことごとく、にちれんだいしょうにんのおしえにそむき、だいほうぼうを、かさねているのである。まさに、ぼうこくのしゅうきょうであり、てんまはじゅんのすがたである。
 また、たとえそうかがっかいいんであっても、しんじんがなければ、「にちれんに、たがわずして」のごきんげんに、はんするものであり、けっしてくどくなく、いきづまり、あるいは、しゅくめいてんかんできえず、ふこうのちまたを、あいかわらず、さまようのである。
 また「せんぜつ」とは、しゃくぶくである。たとえみずからくちに、なんみょうほうれんげきょうととなえようとも、しゃくぶくがなければ、にょせつしゅぎょうのものとは、けっしていえない。しゃくぶくをしぬいていくものこそ、にちれんだいしょうにんの、おこころにかなうものであると、おおせられているのである。にょせつしゅぎょうしょうにいわく「ニワトリの、あかつきになくはゆうなり、よいになくはもっけなり、ごんじつぞうらんのとき、ほけきょうのおんてきをせめずして、さんりんにとじこもり、しょうじゅをしゅぎょうせんは、あに、ほけきょうしゅぎょうのときをうしなう、もっけにあらずや、さればまっぽう、いまのとき、ほけきょうのしゃくぶくのしゅぎょうをば、だれかきょうもんのごとく、ぎょうじたまへしぞ。だれひとにてもおわせ、しょきょうはむとくどう、だじごくのこんげん、ほけきょうひとり、じょうぶつのほうなりとこえもおしまず、よばはりたまいて、しょしゅうのにんぽうともに、しゃくぶくしてごらんぜよ。さんるいのごうてききたらんこと、うたがいなし」(0503-17)と。
 いま、そうかがっかいいんが、ぜんみんしゅうのこうふくのために、せかいへいわのために、まいしんしていることは、このもんを、みをもって、よんでいるすがたなのである。

0744    だいさん さいかぎゅうすいじゅう、しんせつじきのごと。
0745
 おんぎくでんにいわく、さいかとは、ちぼんのうなり、ぎゅうすいとは、とんぼんのうなり、じゅうしんとは、じんぼんのうなり。せつじきとは、まんぼんのうなり、このしたにはちしゅのきゅうじ、これれあり。このほかに、みょうほうれんげきょうのでんじゅ、これれなきなり。いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、すなわちせんさいきゅうじなり。これすなわち、いちねんさんぜんなり、とんじんちまんを、たいぢするなり。

かいしゃくこうぎ。
 しゃくそんが、かこせに、こくおうとなったとき、かんきゆやくして、あしせんにんにしじし、きゅうじをなし、「このみをとって、みずをくみ、たきぎをひろい、しょくをもうけた」という、きょうもんがある。
 このもんについて、おんぎくでんでは、つぎのようにおおせである。さいか、すなわち、「このみをとる」とは、とんじんちのしぼんのうのなかでは、ちぼんのうをあらわすのである。ぎゅうすい、すなわち、「みずをくむ」とは、とんぼんのうをあらわす。じゅうしん、すなわち、「たきぎをひろう」とは、じんぼんのうをあらわす。またせつじき、すなわち「しょくをくもう」とは、まんぼんのうをあらわすのである。
 しかして、このしたのもんには、はちしゅのきゅうじがとかれている。だいばほんには、しゃくそんがかこせに、あしせんにんについて、ほけきょうをでんじゅしたとき、このはちしゅの、きゅうじのほかの、しゅぎょうは、とかれて、いないのである。しょせん、いま、にちれんだいしょうにんおよび、だいしょうにんのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのは、すなわち、こくおうのあしせんにんにたいする、せんさいのあいだ、きゅうじにあたるのである。これすなわち、いちねんさんぜんであり、とんじんちのしぼんのうをたいぢする、こんぽんのしゅぎょうである。

 しゃくそんは、かって、かこせで、おくおうであった。そのとき、あしせんにんが、ほけきょうをすてるのをしって、こくいをすてて、あしせんにんのでしとなり、せんさいのあいだ、このみをとり、みずをくみ、たきぎをひろい、みをしょうざとなし、せんにんにつかえ、ほけきょうをしゅぎょうして、じょうぶつすることができたのである。これは、しゃかぶっぽうの、しゅぎょうほうほうである。にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、じゅじそくかんじんであり、ごほんぞんをたもつこと、それじたいが、せんさいきゅうじと、なっているのである。ゆえに、ほんぶんには、「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、すなわちせんさいきゅうじなり」としめされているのである。
 また、さいおうかんがえれば、ぶっぽうは、じょうずいきゅうじでなければ、わからないということである。けんりゅうしょういしょうにいわく、「いま、にちれんがでしとうも、またかくのごとし、あるいはしんじ、あるいはふし、あるいはしたがい、あるいはしたがう、ただだ、なのみこれをかりて、しんちゅうにまそざる、しんじんうすきものは、たといせんこうをばへずとも、あるいはいちむげん、あるいはにむげん、ないし、じゅうひゃくむげん、うたがいなからんものか、これをまぬがれんとほっせば、おのおの、やくおう、ぎょうぼうのごとく、ひじをやき、かわをはぎ、せつせんこくおうとうのごとく、みをなげ、こころをつかえよ、もし、しからずんば、ごたいをちになげ、ヘンしんにあせをながせ、もし、しからずんば、ちんぽうをもって、ぶつぜんにつめ、もししからずんば、ぬひとなつて、じしゃにえつかよ、もししからずんば、とううんぬん、ししつだんをもって、ときにかなうのみ、わがでしとうのなかにも、しんじん、うすきものは、りんじゅうのとき、あびごくのそうをげんずべし、そのとき、われをうらむべからず」(0537-13)と。
 いま、みんしゅうのこうふくをねがって、ほねをけずり、みのかわをはぐおもいで、にちやかつやくするわれわれ、そうかがっかいいんこそ、「せんさいきゅうじ」をしているのであり、じょうぶつはぜったいまちがいなしとだんずるものである。

0745    だいよん じょうぞんみょうほうこ しんしんむげけんのこと。

 おんぎくでんにいわく、しんしんのにじ、しきしんみょうほうとでんじゅするなり、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつりて、そくしんじょうぶつす、しんしんむけんとは、いちねんさんぜんなりうんぬん。

 かいしゃくこうぎ。
これはだいばほんに、「じょうにみょうほうを、ぞんせるがゆえに、しんしんげけんなかりき」、とあるところの、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである。しんしんのにじは、しきとしん、すなわちわれわれの、せいめいがそのまま、みょうほうのとうたいであるというのが、ほとけのでんじゅなのである。にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、なんみょうほうれんげきょうととなえて、そくしんじょうぶつするのである。しんしんげけんというのは、われわれが、いちねんさんぜんのとうたいであることをしめしている。

 しんしんとは、せいめいのことである。すなわち、さいこうのこうふくきょうがいである。「げけん」とは、くのうのせいかつのことである。かんきょうにながされ、しゅくめいになき、しゅくめいにくるしみゆく、ふこうなるせいめいかつどうである。
 「こころにみょうほうをぞんせるがゆえに」とは、ごほんぞんをたもつことである。みょうほうごじのじんせいは、かならずしゅくめいをだはし、そしてふくうんを、つみゆくことができる。じんせいこうろにあって、じざいのきょうがいをえとくすることが、できるのである。しんしんとは、しきしんとどういである。
 ゆえに、いかなる、にくたいてきくつう、せいしんてきはんもん、ことごとくかいしょうすることを、いみする。これこそ、われらの、いくせんまんのたいけん、たいとくが、にょじつにしょうみょうしているところである。
 なお、われわれは、つねになさねばならぬことが、たくさんある。しかし、しんじんがないと、あれもしなければならない、これもしなければいけないなどなどと、げんじつにたちふさがるさまざまなもんだいのじゅうあつに、たえかねてしまうものだ。よわよわしく、ひきさがるのか、あせりと、いらだちで、くのうするのがつねであろう。
 ぎゃくに、だいもくをとなえゆくひとは、みらいに、いかなるなんもんがよこたわっても、ゆうゆうとのりきってゆくちからがわく。げんじつのせいかつは、ひびにようようとあけゆき、たいようのごとく、いきづまるところをしらぬ。かくしんは、ばんじゃくのいわおのごとくである。しんきょうは、ゆたかでうるおいのあること、でんえんのごとくである。あらゆるはらんも、へんどくいやくして、それがすべて、そのひとのじんせいをかざりゆくものとなってしまうのである。
 「しんしんむけげん」とは、せいめいの、ぶぶんかんのみしかとかぬほう、てつがくしそうにたいし、いちねんさんぜんのほうもんは、ゆうずうむけげんの、てつりであることをあらわしている。いちねんさんぜんこそ、せいめいをかんぜんにとききった、だいてつりなるがゆえに、しんしんむけげんなのである。
 いちだいせいきょうたいいに、「しかんのごにいわく、『それいっしんにじゅっほうかいをぐす、いっほうかいにまたじゅっほうかいをぐすればひゃくほうかいなり、いちかいにさんじゅうしゅのせけんをぐすれば、ひゃくほうかいには、すなわちさんぜんしゅのせけんをぐす、このさんぜん、いちねんのこころにあり』もん、みょうらくうけ、しゃくしていわく、『まさにしるべし、しんどいちねんのさんぜんなり、ゆえにじょうどうのとき、このほんりにかなつて、いっしんいちねんほうかいにあまねし』」0402-08と。
 しんしんむけげんのしんしんとは、いちねんさんぜんのいちねんであり、みょうらくのいう、「いっしんいちねん」にあたる。むけげんとは、さんぜんのへんかであり、みょうらくのいう「ほうかいにあまねねし」に、あたるのである。ゆえに、しんしんむげとは、いちねんさんぜんなのである。

0745    だいご がおかいちゅう ゆいじょうせんぜつのこと。

 おんぎくでんにいわく、がとは、もんじゅなり。かいとはしょうじのうみなり、ゆいとはゆいう、いちじょうほうなり。つねとは、じょうじゅうしせっぽうなり。みょうほうれんげきょうとは、ほうかいのごんごおんじょうなり。いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるこれなり、しょうじのうみ、そくしんにょのたいかいなり、がとはほうかいの、ちえなり、もんじゅなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 これは、だいばほんに、「もんじゅしりのいわく、われ、かいちゅうにおいて、ただ、つねにみょうほうれんげきょうをせんぜつす」、とあるところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「が」とは、もんじゅしりぼさつのことである。うみでとくというのは、そのうみは、しょうじのくるしみの、うみである。きゅうかいでといたと、いうことである。「ゆい」とは、ほうべんぽんに、「ゆい、いちじょうのほうのみあり」とあるように、ほけきょうのみということである。
 「つねに」とは、じゅりょうほんに、「つねに、ここにじゅうして、ほうをとく」と、あるとうりに、しゃばせかいにじゅうして、とくということである。みょうほうれんげきょうとは、ほうかい、すなわち、うちゅうのしんらばんしょうのごんごおんじょうが、すべて、みょうほうれんげきょうのはたらきであることを、さすのである。いま、にちれんだいしょうにんおよびもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのが、これである。
 そのときには、しょうじのくるしみのうみが、そく、さとりのうみ、すなわち、ぶっかいとなるのである。がとは、ぜんうちゅうのもつちえであり、したがって、ちえだいいちのもんじゅが、それをだいひょうしているのである。

 しょうじのたいかいが、しんにょのたいかいとてんずるほうは、ただ、ごほんぞんに、みょうほうをとなえ、ちえをゆげんするいがいに、ないことを、しめされたおんふみである。
 われわれのじんせいを、しょうじのくかいにするも、しんにょのたいかいとするのも、わがいちねんに、きけつされてしまうものだ。
 しんじんごうじょうなれば、しんにょのたいかいにゆうげできるし、しんじんなきひとは、しょうじのくかいに、しずむいがいになく、きびしき、いんがりつともいえよう。われらの、しゅんかんしゅんかんのかつどうは、ぜんぶ、じしんのちえのはたらきがきめる。
 しかし、それが、じゃち、せんち、じごくかいのちえ、がきかい、ちくしょうかいのちえ、しゅらかいのちえのばあいがおおい。ここに、ふこうをまねくだいいちぽがあることをしらねばならない。
 げんこんの、たすうのひとのちえは、じゃちであり、しあくどう、ごどう、ろくどうのちえである。ゆえに、りこのひとのみじゅうまんし、じこのもくてきのためには、しゅだんをえらばず、そのためにのみ、えいりにちえを、はたらかすのである。
 せんそうのとき、てきがたの、たいりょうぎゃくさつのための、ちえは、じごくかいのちえといえる。はんたいに、しんじつこうふくのちえは、ぶっちである。いっしょうじょうぶつへのぜんしんは、とうぜんのことながら、ぜんじんるいを、すくいきっていくちえなのである。そして、このちえこそ、しんじんのにじにおさまることはいうまでもない。

0745    だいろく ねんしはちさいのこと。

 おんぎくでんにいわく、はちさいとは、はちかんなり、だいばはじごくかいなり、りゅうにょはぶっかいなり。しかるあいだ、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょいちねんさんぜんなり。またいわく、はちさいとは、ほけきょうはちかんなり、われら、はっくのぼんのうなり、そうじて、ほけきょうのじょうぶつは、はちさいなりとこころうべし。
はっくそくはちかんなり。はっくはちかん、そくはちさいのりゅうにょとあらわるるなり。いちぎにいわく、はちさいのことは、たまをひらくとよむなり、さいとは、りゅうにょのいっしんなり、はちとはさんぜんなり、さんぜんとはほっけのはちかんなり。よつて、はちさいとは、かいぶつちけんの、しょひょうなり、ちえりこんより、のうしぼだいまで、ほっけにきにゅうするなり。このなかに、しんねんくえんとは、くごうなり、しいわがとは、いごうなり、しつのうじゅじ、じんにゅうぜんじょうとは、しんごうなり。さんごうそくさんとくなれば、さんたいほっしょうなり。またいわく、しんねんとは、いちねんなり。くえんとは、さんぜんなり、しつのうじゅじとは、りゅうにょ、ほけきょうじゅじのもんなり。さいとは、にょいほうじゅなり、みょうほうなり、はちとはしきしんを、みょうほうとひらくなり。

かいしゃくこうぎ。
 これだいばほんに、「しゃからりゅうおうの、むすめあり、としはじめて、はちさいなり」とあるところの、おんぎくでんである。
 このもんについて、つぎのようにおおせである。りゅうにょがはちさいであるということは、すなわちほけきょうのはちかんをいみする。だいばだったは、じごくかいであり、りゅうにょはじょうぶつしているゆえに、ぶっかいなのである。
 ゆえにじっかいごぐとなり、したがって、ひゃっかいせんにょいちねんさんぜんをあらわしているのである。また、はちさいとは、ほけきょうはちかんであり、われわれのはっくのぼんのうである。そうじて、ほけきょうのじょうぶつは、はちさいであるとこころうべきである。はっくのぼんのうが、そくほけきょうはちかんであり、はっくはちかんが、そくはちさいのりゅうにょと、あらわれているのである。
 いちぎには、はちさいはたまを、ひらくとよむ。さいとは、たまのぎで、りゅうにょのいちねん、せいめいであり、はちとは、ひらくのぎで、そのいちねんが、さんぜんとひらくのである。さんぜんとは、ほけきょうのはちかんである。ゆえに、はちさいとは、ほうべんぽんに、「かいぶつちけん」とあるように、ぶつちけんをひらいて、あらわすところのものである。
 「ちえりこん」から、「のうおうぼだい」に、いたるまでのもんは、すべて、りゅうにょが、ほけきょうにきにゅうしたことを、ときあかしているのである。「じんにおもい、くちにのぶる」とは、しんくいさんごうにやくせばぐごうである。
 「しいわが」とは、いごうになり、「ことごとく、よくじゅじし、ふかく、ぜんじょうにはいって」とは、じっせんかつどうであり、しんごうである。しんくいのさんごうは、そく、ほっしん、はんにゃ、げだつとてんずるゆえに、さんたいがえんゆうして、さとりのきょうがいになるのである。また、じんねんくえんのしんねんとは、いちねんであり、くえんとは、さんぜんである。しつのうじゅじは、りゅうにょがほけきょうを、じゅじしたというもんである。さいとは、にょいほうじゅであり、みょうほうである。はちとは、われわれのせいめいを、みょうほうのとうたいであると、ひらきさとることである。

 だいばほんには、だいばだったの、じょうぶつのきとともに、りゅうにょのそくしんじょうぶつが、あげられている。りゅうにょといえばちくしんであり、にょにんのみである。それがそくしんじょうぶつするということは、それまでのにぜんきょうのかんがえかたとは、まったくあいはんするものである。
 ぶっぽうにおけるにぜんきょう、またげてんでは、てっていして、にょにんをきらっている。じゅきょうには、さんじゅうというものがある。それは、にょにんはしゅうざいのこんぽんであり、はこくのこんげんである。
 したがってにょにんを、ひょうめんにでさせてはいけないとし、にょにんはしたがわせるものとして、みっつのことをさだめたのである。すなわちいちは、ようにしては、ふぼにしたがう、にには、かしては、おっとにしたがう、さんには、おいては、こにしたがう、というものである。
 また、ぶっきょうにもごしょうというものがある。すなわち「いちには、ろくどうりんねのあいだ、だんしのごとく、だいぼんてんおうとならず、にには、たいしゃくとならず、さんには、まおうとならず、よんには、てんりんじょうおうとならず、ごには、つねにろくどうにとどまりて、さんがいをいでて、ほとけにならず、というのである。このごしょうさんじゅうといったかんがえかたが、どれだけじょせいのこころを、ひくつにさせ、またふこうを、うんだことか。
 また、さんこうていの、さんぷんごてんには、にょにんは、てんごくのものであると。あるいは、わざわいはさんにょよりおこるとうとも、いわれてきているのである。ぶっきょうにはいっても、けごんきょうには「にょにんは、じごくのつかいなり、よくしゅしをたつ、げめんはぼさつににて、ないしんはやしゃのごとし」、また「よくほとけのしゅしをたつ」とうとあり、また、ねはんきょうには、「いっさいのこうが、かならずかいきょくあり、いっさいのにょにん、かならずてんごくあり」、あるいは「しょゆうさんぜんかいのだんしの、もろもろのぼんのう、しゅうごうして、いちにんのごうしょうとなる」とうと、とかれているのである。
 またこんじきにょきょうというきょうもんには、「さんぜのしょぶつのまなこは、だいちにつおとも、にょにんはほとけになるべからず」ととかれ、だいろんには、「せいふうてんは、とるといえども、にょにんはとりがたし」とのべている。
 だが、ほけきょうでは、これらのもうしゅうを、ことごとくうちやぶったのである。
 りゅうにょのじょうぶつをきいて、あまりにもふしんにおもった、たほうぶつ、だいいちのでしである、ちしゃくぼさつ、しゃくそんのでしのなかで、ちえだいいちのでしである、しゃりほつも、りゅうにょがじょうぶつするなどということは、ぜったいにないと、40よねんのさまざまなきょうもんをひいて、なんもんするのである。
 だがりゅうにょのじょうぶつは、だいばほんに、めいめいはくはくであり、さすがのちしゃくも、しゃりほつもしたをまきくちをとじ、りょうぜんいちえのたいしゅうは、ほけきょうのいだいなるちからに、かんきのあまり、たなごころをあわせた、とある。
 かいもくしょうに、「りゅうにょがじょうぶつ、これいちにんにはあらず、いっさいのにょにんのじょうぶつをあらはす、ほっけいぜんの、もろもろのしょうじょうきょうには、にょにんのじょうぶつをゆるさず、もろもろのだいじょうきょうにはじょうぶつ、おうじょうをゆるすやうなれども、あるいは、かいてんのじょうぶつにして、いちねんさんぜんのじょうぶつにあらざれば、うみょうむじつのじょうぶつおうじょうなり、こいちれいしょともうして りゅうにょが、じょうぶつは、まつだいのにょにんのじょうぶつおうじょうのみちを、ふみあけたるなるべし」(0223-07)と。
 みんしゅしゅぎのこんぽんげんり、じつぎは、ぜったいに、だいびゃくほうにのみあると、しゅちょうするものである。へんぱなるしそう、ていきゅうなるてつがくは、かならず、なんらかのぎせいをともなうものである。ゆえに、みんしゅしゅぎのこんぽんてきりねんとは、いいきれないのである。
 せんご、みんしゅしゅぎは、じだいのだいめいしとされてきた。だんじょびょうどうも、おおいにさけばれている、これこそ、いだいなるじんるいのしんぽであり、りせいのしょうりである。
 だが、げんじつには、たんなるうみょうむじつとなり、そのほんしつは、しんけんにかいめいされぬまま、ながされている。いまだほうけんせいにしばられ、あるいは、かたちのみのじょせいかいほうに、しゅうししているといってもかごんではあるまい。
 しんのだんじょびょうどうは、だんじょともに、じんかくのかくりつをなしえて、はじめていいうる。したがって、だんじょびょうどうは、しんじつのにんげんけいせいの、こんぽんほうたる、にちれんだいしょうにんのぶっぽうを、どだいとしてせいりつすることを、きょうちょうしてやまない。
 あぶつぼうごしょに、「まっぽうにはいつて、ほけきょうをもつだんじょの、すがたよりほかには、ほうとうなきなり、もししかれば、きせんじょうげをえらばず、なんみょうほうれんげきょうと、となうるものは、わがみ、ほうとうにして、わがみ、また、たほうにょらいなり」(1304-06)と。ほうとうとは、そんごくなるせいめいの、とうたいである。ごほんぞんをこんぽんとしたときには、だんじょともに、そのみが、ほうとうとあらわれる。すなわち、だんじょともに、みょうほうのとうたいであり、びょうどうに、さいこうのこうふくきょうがいを、きょうじゅできるのである。
 しょほうじっそうしょうに、「まっぽうにして、みょうほうれんげきょうのごじをひろめんものは、だんじょは、きらふべからず、みな、ぢゆのぼさつのしゅつげんにあらずんば、となへがたきだいもくなり」(1360-08)と。
 だいしょうにんのぶっぽうを、ひろめるだんじょは、ともにぢゆのぼさつであり、くに、そくばくされない、じょうらくがじょうの、せいめいのとうたいであるとの、おおせである。しんじんによって、せいめいがしょうじょうとなり、じんせいかん、しゃかいかん、せかいかんのまなこがひらかれゆく、このしんのじがのかくりつである。そして、だんじょともにきょうりょくしあい、おぎないあい、それぞれのたちばで、こうふくになるじんせいを、あゆんでいくことこそ、しんのびょうどうであるとかくしんする。

0746    だいなな ごんろんみこつのこと。

 おんぎくでんにいわく、このもんは、むみょうそくほっしょうの、みょうもんなり、そのゆえは、ちしゃくなんもんのことば、いまだ、おらざるに、りゅうにょさんぎょうはんのげをもって、こたうるなり、なんもんのこころは、べつきょうのこころなり、むみょうなり。りゅうにょのこたえは、えんきょうのこころなり、ほっしょうなり、ちしゃくは、がんぽんのむみょうなり、りゅうにょはほっしょうのにょにんなり、よってむみょうにそくするほっしょう、ほっしょうにそくするむみょうなり。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、ごんろんみこつなり、ときとは、うえのことのすえずえのことの、はじめなり、ときとは、むみょうほっしょう、どうじのときなり、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときなり、ちしゃくぼさつを、がんぽんのむみょうということは、ふしんしにょの、ふしんのにじなり、ふしんとはぎわくなり、ぎわくを、こんぽんむみょうというなり。
 りゅうにょをほっしょうということは、がせんだいじょうきょうのもんなり、りゅうにょとは、りゅうはちちなり、にょははちさいのむすめなり、りゅうにょのにじは、ふしどうじのじょうぶつなり。そのゆえは、ときりゅうおう、にょのもんこれなり、すでにりゅうおうのむすめというあいだ、りゅうおうはちちなり、むすめとははちさいのこなり。
 されば、むすめのじょうぶつは、このほんにあり、ちちのりゅうのじょうぶつは、じょぼんにこれあり、うはちりゅうおうのもんこれなり、しかりといえども、ふしどうじのじょうぶつなり、じょぼんはいちきょうのじょなるゆえなり、また、もんじょうぼだいとは、りゅうにょがちしゃくをせめたることばなり、されば、ただ、わがじょうぶつをば、ほとけ、ごぞんじあるべしとて、また、もんじょうぼだい、ゆいぶつとうしょうちといえり、くのしゅじょうとは、べっして、にょにんのことなり。
 このさんぎょうはんのげは、いちねんさんぜんのほうもんなり、へんしょうおじっぽうとはじっかいなり、ことには、このはちさいのりゅうにょのじょうぶつは、ていおうじきょうのせんぞたり。にんおうのはじめは、じんむてんのうなり、じんむてんのうは、ちじんごだいの、だいごの、うかやふきあえずのみことのみこなり、この、ふきあえずのみことは、とよたまひめのこなり、このとよたまひめは、しゃからりゅうおうのむすめなり。 はちさいのりゅうにょのあねなり、さるあいだ、せんぞ、ほけきょうのぎょうじゃなり、じんじん、じんじんうんぬん。されば、このだいばのいちほんは、いってんのこしがたななり、むみょうぼんのうのてきをきり、しょうじあいちゃくのなわをきるひほうなり。かんこうさんしゃくのつるぎも、いちじのちけんにおよばざるなり、みょうのいちじのちけんをもって、しょうじぼんのうの、なわをきるなり。だいばは、ほのおをあらわし、りゅうにょはだいじゃをしめし、もんじゅはちけんをあらわすなり。よつて、ふどうみょうおうのそんぎょうと、くでんせり、だいばは、われらがぼんのうそくぼだいを、あらわすなり、りゅうにょは、しょうじそくねはんをあらわすなり、もんじゅをば、これには、みょうとくとほんずるなり、ぼんのうしょうじ、ぐそくして、とうほんののうけなり。747

かいしゃくこうぎ。
 だいばほんに、「げんろんいまだ、おわらざるときに、りゅうおうのむすめ、たちまちにみまえ、にげんじて」とあるもんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんは、むみょうそくほっしょうの、みょうもんである。なぜかならば、ちしゃくが、りゅうにょのじょうぶつを、うたがったといを、おえないうちに、りゅうにょが、さんぎょうはんのげをもって、こたえたので、そのちしゃくの、ひなんしたといは、そくしんじょうぶつ、にょにんじょうぶつをうたがうものであり、べつきょうの、こころをあらわし、むみょう、すなわちまよいである。
 りゅうにょのこたえは、そくしんじょうぶつ、にょにんじょうぶつをしめすもので、ほっけえんきょうのこころをあらわし、ほっしょう、すなわちさとりである。ちしゃくはみょうほうのちからを、しんずることのできないという、こんぽんのまよいであり、りゅうにょは、ぶっかいをしめした、にょにんである。よって、ちしゃくのといがおわらないうちに、りゅうにょがこたえたというのは、むみょうに、そくするほっしょうであり、ほっしょうにそくする、むみょうをあらわしたものである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかの、なんみょうほうれんげきょうと、となえるものは、ごんろんみこつのように、そくざに、むみょうそくほっしょう、すなわち、きゅうかいそくぶっかいなのである。
 げんろんいまだおわらざるとき」のときとは、うえのこと、すなわち、ちしゃくのといのおわりであり、すえのこと、すなわち、りゅうにょのこたえのはじめであって、ゆえにときとは、むみょうとほっしょうが、どうじであるというときを、しめすのである。すなわち、なんみょうほうれんげきょうととなえ、きゅうかいそくぶっかいとひらく、しゅんかんのときをさすのである。
 ちしゃくぼさつの、こんぽんのまよいというのは、「このむすめ、しゅゆのころにおいて、すなわち、しょうかくをじょうずることをしんぜじ」と、ちしゃくがいった。その「ふしん」をもって、いうのである。ふしんとは、うたがうということであり、うたがうということは、こんぽんのまよいなのである。りゅうにょが、さとりであるというのは、「われ、だいじょうのおしえをいひらて」と、いったもんによるのである。りゅうにょについて、いうならば、りゅうにょのちちは、しゃからりゅうおうであり、むすめとは、そのはちさいになるむすめである、りゅうにょである。りゅうにょのにじは、ふしどうじのじょうぶつをいうのである。そのゆえは、「ときにりゅうおうのむすめ」とあるもんが、それである。
 りゅうおうとはちちであり、むすめとははちさいのこである。ゆえにむすめのじょうぶつはこのだいばほんにとかれているのであり、ちちのりゅうおうのじょうぶつはじょぼんにあるのである。これはじょぼんに、「うはちりゅうおう」とあって、しゃからりゅうおうをふくめた、はちりゅうおうとうが、ほっけのえざにつらなっているからである。しかしふしどうじのじょうぶつである。じょぼんは、ほっけいちきょうのじょであるゆえである。
 「また、きいてぼだいを、じょうずること」とは、りゅうにょがちしゃくをせめたことばである。ゆえに、わがじょうぶつを、ほとけはしっているのであると、りゅうにょは、「また、きいてぼだいをじょうずること、ただほとけのみまさに、しょうちしたもうべし」といったのである。「くのしゅじょうを、どだっせん」といった、くのしゅじょうとは、べっしては、にょにんのことである。この、りゅうにょのさんぎょうはんのげは、いちねんさんぜんのほうもんをあらわしている。「あまねくじっぽうを、てらしたもう」は、じっかいをてらすことを、いうのである。
 ことに、このはちさいのりゅうにょのじょうぶつは、こっかのげんしゅ、しゅけんしゃが、ほけきょうをたもつ、せんれいである。にんおうのはじめは、じんむてんのうであり、じんむてんのうは、ちじんだいごだいの、うかやふきふきあえずみことのこである。このうかやふきふきあえずみことは、とよたまひめのこであり、とよたまひめは、しゃからりゅうおうのむすめであり、りゅうにょのあねである。ゆえににんおうのせんぞは、ほけきょうのぎょうじゃである。このことは、ふかいいぎがあるのである。ゆえに、このだいばほんは、いってんのこしがたななのである。むみょうやぼんのうという、てきをきり、しょうじのくるしみを、はなれられないなわをきる、ひほうなのである。かんのこうその、ぜつだいないりょくをしめした、さんじゃくのけんも、みょうのいちじのけんには、およばないのである。みょうのいちじのちけんで、しょうじのくるしみ、ぼんのうのまよいのなわを、きるのである。
 だいばはほのおをあらわし、りゅうにょはだいじゃをしめし、もんじゅは、ちけんをあらわすのであって、これは、ふどうみょうおうのそんぎょうを、かたちづくるのであるとの、くでんである。だいばは、われわれのぼんのうが、そくぼだいになることをあらわし、りゅうにょは、われわれのしょうじのくるしみが、そくねはん、じょうぶつのきょうがいになることを、あらわすのである。もんじゅとは、ぼんごで、みょうとくとほんやくするのであって、ぼんのうも、しょうじも、そのなかにぐしていて、このほんにおける、のうけのたちばである。

 げんろんみこつとは、むみょうそくほっしょうということである。そうかんもんしょうには、むみょうとほっしょうとのかんけいを、かがみにたとえて、つぎのようにといている。
 「わがこころのかがみと、ほとけのこころのかがみとは、ただいちきょうなりといえども、われらは、うらにむかつて、わがしょうのりをみず、ゆえにむみょうという、にょらいは、おもてにむかつて、わがしょうのりをみたまえり、ゆえにみょうとむみょうとは、そのたい、ただひとつなり、かがみはひとつのかがみなりといえども、むかいようによつて、みょうまいのさべつあり、かがみにうらありといえども、おもてのさわりとならず、ただ、むかいようによつて、とくしつのふたつあり、そうそくゆうずうして、いっぽうのにぎなり。
 けたのほうもんは、かがみのうらにむこうがごとく、じぎょうのかんじんは、かがみのめんにむこうがごとし、けたのときのかがみも、じぎょうのときのかがみも、わがしんしょうのかがみは ただひとつにして、かわることなし、かがみをそくしんにたとえ、おもてにむこうをば、じょうぶつにたとえ、うらにむこうをばしゅじょうにたとう、かがみにうらあるをば、しょうあくをだんぜざるに、たとえ、うらにむこうとき、おもてのとくなきをば、けたのくどくにたとうるなり、しゅじょうのぶっしょうのあらわれざるに、たとうるなり」(0570-05)
 むみょうとは、かがみのうらのごとく、それによって、じこをうつしだすことはできない。すなわち、わがみが、いちねんさんぜんのとうたいであるとは、じかくできない。したがって、むみょうをこんぽんとしたじんせいは、なんの、かっこたるししんもなく、くらきより、くらきにはいりゆく、まよいのじんせいである。ほっしょうとは、かがみのごとく、それによって、わがみは、いちねんさんぜんのとうたいであることが、うきぼりにされるのである。したがって、ほっしょうをこんぽんにすれば、ぶっかいにてらされ、いっさいをにょじつちけんし、ゆうゆうたる、じんせいをあゆむのである。
 むみょうと、ほっしょうは、かがみのうらとおもてのごとく、いったいふにであるが、ほっしょうが、かくされ、むみょうのみしはいするせいかつは、ふこうであり、ひあいである。だが「じぎょうのかんじんは、かがみのおもてにむかうがごとし」と、おおせのごとく、ごほんぞんをしんじて、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、むみょうは、そくほっしょうとてんじて、ほっしょうがこんていとなり、むみょうはめいふくし、こうふくきょうがいにじゅうすることが、できるのである。
 またむみょうそくほっしょうと、てんずるのは、われわれのしんじんの、いちねんのなかにあり、しゅんかんしゅんかんの、せいめいかつどうにあると、かくしんすべきである。それがまた、げんろんみこつなのである。ゆえに、ほんぶんには「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、ごんろんみこつなり、ときとは、うえのことのすえずえのことの、はじめなり、ときとは、むみょうほっしょうどうじのときなり、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときなり」と、おおせられているのである。
 しんじんをべつにして、いっぱんてきにみても、むみょうそくほっしょうに、つうずるすがたはある。たとえば、かがくのはってんなどは、たえず、むみょうそくほっしょうのれんぞくであった。あるかがくしゃが、じぶんのけんきゅうに、ぼっとうし、なんとかなっとくしたい、しんじじつをはっけんしたいとなやむ。このじょうたいは、むみょうである。だがあるしゅんかんに、はっけんできたばあい、そのしゅんかんは、むみょうそくほっしょうではないか。むみょうをほっしょうと、ひらいていくなかに、じんるいのしんぽがある。まよいからまよいへ それはしんぽではなく、たいほである。いちこじんにおいても、どうようである。むみょうを、そくほっしょうとひらいていくなかに、そのひとの、むげんのはってんがある。たえざるはってん、じこけいせい、そこには、たえざるよわきじこ、まよいのじことの、たたかいがある。だがだいもくをとなえないじんせいは、しょせん、むみょうにしはいされた、じんせいであり、じぶんでじぶんを、どうすることもできないのである。ただ、ごほんぞんをしんじ、だいもくをとなえたじんせいのみが、えいきゅうに、いきつまることなく、はってんがあり、みらいがあり、けんせつがあることを、しるべきである。


0747    だいはち ういちほうじゅのじ。

もんぐのはちにいわく、いちとはたまをけんじて、えんげをえることをあらわすと。
 おんぎくでんにいわく、いちとは、みょうほうれんげきょうなり、たからとはみょうほうのゆうなり、たまとはみょうほうのたいなり、みょうのゆえに、しんぼうなり、ほうのゆえにしきほうなり、しきほうはたまなり、しんぼうはたからなり、みょうほうとは、しきしんふになり、いちねんさんぜんをしょしひょうて、りゅうにょ、ほうじゅをたてまつるなり、しゃくにひょうとくえんげというは、いちねんさんぜんなり、りゅうにょが、てにたもてるときは、しょうとくのほうじゅなり、ほとけうけとりたまうときは、しゅうとくのほうじゅなり、なかにあるはしゅしょうふになり
 じんしつとは、とんごく、とんそく、とんしょうのほうもんなり、そくいしっとく、むじょうぶつどうなり、じんりきとは、かみはしんぼうなり、りきとはしきほうなり、かんがじょうぶつとは、しゃりほつ、りゅうにょが、じょうぶつとおもうが、ひがごとなり、わがじょうぶつぞとかんぜよと、せめたるなり、かんに、ろくそくかん、これれあり、ここ、もとのかんは、みょうじそくの、かんとこころうべきなり、そのゆえは、なんみょうほうれんげきょうと、きけるところを、いちねんざどうじょう、じょうぶつふこなりといえり、へんせいなんしとは、りゅうにょも、ほんち、なんみょうほうれんげきょうなり、そのこころ、きょうもんにふんみょうなり。

かいしゃくこうぎ。
 だいばほんに、「そのときにりゅうにょ、ひとつのほうじゅあり」うんぬんと、あるところの、おんぎくでんである。てんだいのもんぐのはちには、ひとつのほうじゅのいちとは、そのたまを、ほとけにけんじて、えんげをえることをあらわすと、といている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。いちとは、みょうほうれんげきょうである。ほうじゅのたからとは、たまのねうちをしめすゆえに、みょうほうのはたらきであり、ほうじゅのたまとは、みょうほうのたいそのものである。みょうのゆえに、しんぼうであり、ほうのゆえに、しきほうである。しきほうは、たまであり、しんぼうは、たからである。
 ゆえに、みょうほうは、しきしんふにを、しめすのである。いちねんさんぜんをあらわして、りゅうにょがほうじゅを、ほとけにたてまつるのである。もんぐのはちに、「えんげを、えることをあらわす」というのは、いちねんさんぜんのほうもんをいうのである。りゅうにょが、まだほうじゅを、てにたもつときは、しょうとく、すなわちわがせいめいに、ぐしているという、りのうえのほうじゅであり、ほとけが、それをうけたときは、しゅとく、すなわち、じっさいにせいめいのうえに、ぐげんしたじのうえの、ほうじゅである。
 そのなかに、しゅとくとしょうとくが、ふにである。すなわち、しゅしょうふにもんを、しめしているのである。りゅうにょが、ほとけにほうじゅをわたしたのを、しゃりほつが、「はなはだはやし」といったのは、じきたつしょうかん、そくしんじょうぶつのほうもんのことをいうのである。ほうとうほんに、「すなわちこれはやく、むじょうのぶつどうを、えたり」とあるのとおなじである。りゅうにょが、しゃりほつに、「なんじが、じんりきをもって、わがじょうぶつを、みよ」といった、じんりきとは、じんはしんぼうで、りきはしきほうである。
「わがじょうぶつをみよ」とは、しゃりほつが、そのじょうぶつが、りゅうにょのじょうぶつであるとおもうのは、まちがいであって、しゃりほつじしんの、じょうぶつであると、かんぜよとせめたことばである。かんに、ろくそくのかんがある。ここでのかんは、みょうじそくのくらいのかんである。そのゆえは、なんみょうほうれんげきょうときいたことが、すでに、もんぐのはちに、「いちねんに、どうじょうにざして、じょうぶつ、むなしからざるなり」とあるように、じょうぶつだからである。
 「りゅうにょの、こつねんのあいだに、へんじてなんしと、なって」とあるのは、りゅうにょも、そのほんちは、なんみょうほうれんげきょうであるということである。そのこころは、きょうもんにはっきりあらわれているのである。

 にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、とんごく、とんそく、とんしょうのほうもんである。すなわち、じきたつしょうかんの、ほうであり、そくしんじょうぶつのほうである。ほんにんみょうしょうに、「もんのそことは、くおんじつじょうのみょうじのみょうほうを、よぎょうにわたさず、じきたつのしょうかん、じぎょうのいちねんさんぜんの、なんみょうほうれんげきょうこれなり」(0877-04)と。じきたつしょうかんとはなにか。またとんごく、とんそく、とんしょうとはなにか。それはしんじんすれば、ただちにほとけであり、さいこうのこうふくきょうがいに、いたるということである。
 さいこうのぶっぽうは、しゅんかんのせいめいを、ときあかしている。しゃかぶっぽうのように、じかんてきけいかをおうものでもなければ、とおきかなたの、りそうきょうにこうふくをもとめるものでもない。
 じみょうほっけもんどうしょうに、「また、いのち、すでにいちねんにすぎざれば、ほとけはいちねんずいきの、くどくと、ときたまへり」(0466-14)と。
 また、むしもちごしょに、「いま、にほんこくのほけきょうを、かたきとしてわざわいを、せんりのそとよりまねきよせぬ、これをもつてをもうに、いままた、ほけきょうを、しんずるひとは、さいわいを、ばんりのそとよりあつむべし、かげはたいよりしょうずるもの、ほけきょうを、かたきとするひとのくには、たいに、かげのそうがごとく、わざわいきたるべし、ほけきょうをしんずるひとは、せんだんに、かをばしさのそなえたるがごとし」(1492-07)と。
 ごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなえるしゅんかんのせいめいに、あらゆるふくうん、くどくをしゅうせきできうるのである。
 ぎゃくにしんじんのないひとは、ただちにじごくなのである。だんだんとじごくにおちるのではない。たとえかたちはどうあろうと、せいめいのほんしつはすでにじごくである。なんと、せいめいのしゅんげんであり、ぶっぽうのきびしいことか。
 つぎに、「かんがじょうぶつとは、しゃりほつ、りゅうにょがじょうぶつとおもうが、ひがごとなり、わがじょうぶつぞとかんぜよと、せめたるなり」とは、りゅうにょのじょうぶつは、そく、しゃりほつのじょうぶつになるのであり、りゅうにょが、じょうぶつしなければ、しゃりほつとしても、じょうぶつできないとせめたことを、いみするということである。りゅうにょのじょうぶつは、こいちれいしょといって、あらゆる、しゅじょうをだいしひょうて、あげられたいちれいにすぎない。ぶっぽうには、れいがいがない。
 きょうに、「にゃくうもんぽうしゃ、むいちふじょうぶつ」と。「もしほうをきくことあらんものは」とは、ごほんぞんをしんずることである。「ひとりとして、じょうぶつせずということ、なけん」とは、ばんにんがひとりももれなく、じょうぶつできるということなのである。
 たとえ、いまはびんぼうであろうと、びょうしんであろうと、またふぐうのみであろうと、ひとたびごほんぞんをしんずるならば、すでにだいふくうんのもちぬしであり、ごねん、じゅうねん、にじゅうねんたったときには、そのしょうこは、れきぜんとしてくるのである。たねをまき、なえがしだいにせいちょうし、たいじゅになり、そらにそびえゆくがごとくに、これまっぽうのみょうえきである。



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