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  • [240]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな ほうとうほん にじゅっかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月29日(木)02時01分2秒
 
  0739~0744 ほうとうほん にじゅっかのだいじ。

0739    だいいち ほうとうのこと。
0739    だいに うしっぽうのこと。
0740    だいさん しめんかいしゅつのこと。
0740    だいし しゅつだいおんじょうのこと。
0740    だいご けんだいほうとうじゅうざいくうじゅうのこと。
0740    だいろく こくみょうほうじょうひちゅううぶつ ごうわったほうのこと。
0740    だいなな おじっぽうこくど うせつほけきょうしょ がしとうみょう いちょうぜきょうこ ゆげんごぜん いさしょうみょう さんごんぜんざいのこと。
0741    だいはち なんざいほっぽうしゆいじょうげのこと  。
0741    だいきゅう かくさいほうけまんきくのこと。
0741    だいじゅう にょきやっけんやく かいだいじょうもんのこと。
0742    だい11 せつしょだいいしゅかいざいこくうのこと。
0742    だい12 ひにょだいふうすいしょうじゅしのこと。
0742    だい13 にゃくうのうじそくじぶっしんのこと。
0742    だい14 しきょうなんじのこと。
0742    だい15 がそっかんぎしょぶつやくねんのこと。
0743    だい16 どくじしきょうのこと。
0743    だい17 ぜしんぶっしのこと。
0743    だい18 ぜしょてんにんせけんしげんのこと。
0743    だい19 のうしゅゆせつのこと。
0743    だい20 しきょうなんじのこと。

0739~0744 ほうとうほん にじゅっかのだいじ。

    だいいちほうとうのこと。

 もんぐのはちにいわく、ぜんぶつ、すでにこし、こんぶつ、ならびにざす、とうぶつもまた、しかなりと。
おんぎくでんにいわく、たからとは、ごおんなり、とうとはわごうなり、ごおんわごうをもって、ほうとうというなり、このごおんわごうとは、みょうほうのごじなりとみる、これをけんとはいうなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、けんほうとうなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、「けんほうとう」というだいめいのごせつめいである。もんぐのはちに、「ぜんぶつであるたほうぶつはすでにおり、こんぶつであるしゃかぶつも、そこにならんですわった。とうぶつも、またそうである」ととかれている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。けんほうとうの「たから」とは、しきじゅそうぎょうしきのごおんである。けんほうとうの「とう」とは、わごうのぎである。このごおんがわごうしたすがたをもってほうとうというのである。そして、このごおんわごうは、みょうほうれんげきょうのごじであるとしんげする。これをけんほうとうの「けん」というのである。いま、にちれんだいしょうにんならびに、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつり、わがみ、そく、みょうほうごじの、とうたいであるとしんずるのは、けんほうとうである。

 ほうとうそくほんぞん、ほんぞんそく、わがとうたいのおんふみである。にちれんだいしょうにんの、かんじんよりはいするならば、ほうとうとは、さんだいひほうのごほんぞんである。そして、せいめいろん、およびしんじんのうえよりろんずれば、ほうとうは、われわれが、とうたいとなるのである。すなわち、ほうとうのたからとは、せいめいかつどうのしきじゅそうぎょうしきをいうのであり、とうとは、ちょうわ、わごうのことをしめされている。
 しょせん、わがいっしんの、とうたいをほうとうというのである。さどのあぶつぼうにたいし、にちれんだいしょうにんは、「いま、あぶつしょうにんのいっしんは、ちすいかふうくうのごだいなり、このごだいは、だいもくのごじなり、しかればあぶつぼうさながらほうとう、ほうとうさながらあぶつぼう、これよりほかの、さいかくむやくなり」(1034-09)とおおせられているのも、このもんのこころと、まったくおなじである。
 しかして、「ごおんわごうとは、みょうほうのごじなり」とは、われらがいっしんは、こうべはみょう、のどはほう、むねはれん、はらはげ、あしはきょうであるからである。すなわちおんぎくでん、ほうべんぽんだいさん、ゆいいいちだいじいんねんのことには、「われらがこうべはみょうなり、のどはほうなり、むねはれんなり、はらはげなり、あしはきょうなり、このごしゃくのしん、みょうほうれんげきょうのごじなり」(0716-07)とおおせである。
 さらに、さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅうには、みょうらくのぐけつのろくをひいて、
 「このみのなかに、つぶさに、てんちにならうことをしる、こうべのまどかなるは、てんにかたどり、あしのほうなるは、ちにかたどるとしり、みのうちのくうしゅなるは、すなわちこれ、こくうなり、はらのあたたかなるははるなつにのっとり、せのきつよはあきふゆにのっとり、よんたいは、よんじにのっとり、だいせつのじゅうにはじゅうにがつにのっとり、しょうせつのさんびゃくろくじゅうは、さんびゃくろくじゅうにちにのっとり、はなのいきのでいりは、さんたくけいこくのなかの、かぜにのっとり、くちのいきのでいりは、こくうのなかのかぜにのっとり、まなこはにちがつにのっとり、かいへいはちゅうやにのっとり、かみはせいしんにのっとり、まゆはほくとにのっとり、みゃくはこうがにのっとり、ほねはぎょくせきにのっとり、ひにくはちどにのっとり、けはそうりんにのっとり、ごぞうはてんにあつては、ごせいにのっとり、ちにあつてはごたけにのっとり、いん、ようにあつては、ごぎょうにのっとり、よにあつてはごじょうにのっとり、うちにあつてはごかみにのっとり、ぎょうをしゅうするにはごとくにのっとり、つみをおさむるにはごけいにのっとる。
 いいく、すみ、ギ、ヒ、ぐう、だいへき、《このごけいは、ひとをさまざまに、これをいたましむ、そのかず、さんぜんのばつあり、これをごけいという》、しゅりょうには、ごかんとなす、ごかんはしたの、だいはちのかんにはくぶつしをひくがごとし、いわく、こうぼうとうなり、てんにのぼつては、ごうんとのたまい、しけてごりゅうとなる、こころをしゅじゃくとなし、じんをげんぶとなし、きもをせいりゅうとなし、はいをびゃっことなし、ひをこうちんとなす」。
 またいわく「ごいん、ごみょう、りくげい、みなこれよりおこる、またまた、まさにないちのほうをしるべし、がくしんうちにだいおうとなつては、ひゃくえのうちにおり、いでては、すなわちごかんにじえいせらる、はいをば、しばとなし、きもをばしととなし、ひをばしくうとなし、ししをばみんしとなし、ひだりをば、しめいとなしみぎをば、しろくとなし、じんめいをしゅしす、ないし、ほぞをばたいいちくんとうとなすと、ぜんもんのなかにひろくそのそうをあかす」、いじょう。
 じんしんのほんたい、ことごとくけんすれば、かくのごとし、しかるに、このこんごうふえのみをもって、しょうめつむじょうのみなりとおもう、ひがおもいはたとえば、そうしゅうがゆめのちょうのごとしと、しゃくしたまえるなり、ごぎょうとは、ちすいふうくうなり、ごだいしゅともごおんとも、ごかいともごじょうとも、ごほうともごちとも、ごじともいう、ただいちぶつ、きょうきょうのいせつなり、ないてん、げてん、みょうもくのいみょうなり、こんきょうにこれをかいして、いっさいしゅじょうのしんちゅうのごぶっしょう、ごちのにょらいのしゅしととけり、これすなわち、みょうほうれんげきょうのごじなり、このごじをもって、じんしんのたいをつくるなり、ほんぬじょうじゅうなり、ほんかくのにょらいなり」(0567-06)と、おおせである。すなわちうちゅうそくわが、われそく、みょうほうれんげきょうのとうたいであるという、だいてつりをしめされたのである。
 こだいのてつじんソクラテスは、「なんじじしんをしれ」のめいくをのこした。しかし、「なんじじしん」にひょうげんされているないようは、あまりにもばくぜんとしたものである。むしろ、ソクラテスも、はあくすべきせいめいについては、そのへんりんだにも、しることができなかったといえる。ゆえに、こうふくのないようも、ついにこんにちになっても、けつろんされず、じんるいのへいわも、しょうらいされえないのである。
 しかし、にちれんだいしょうにんの、じのいちねんさんぜんのほうもんは、かくのごとく、てっていしたいちだいせいめいてつがくであり、そのきゅうきょくにおける、ぐたいてきごずけんこそ、さんだいひほうのごほんぞんなのである。しょせん、しんじんによって、じょうかされる、わがせいめいも、「なんじじしん」のせいめいも、いちねんさんぜんのとうたいであり、みょうほうれんげきょうのとうたいであって、そんごくむじょうのほとけのせいめいであることを、しるべきである。


0739    だいに うしっぽうのこと。

 おんぎくでんにいわく、しっぽうとは、もん、しん、かい、じょう、しん、しゃ、ざんなり、またいわく、ずじょうのななけつなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうは、うしっぽうのぎょうじゃなりうんぬん。0740

かいしゃくこうぎ。
けんほうとうほん、だいじゅういちのさいしょに、「そのときにぶつぜんに、しっぽうのとうあり」と、のべられている。これについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ななつのたからとは、もん、しん、かい、じょう、しん、しゃ、ざんのことで、ななしょうざいともいわれる。
 またしっぽうとは、ずじょうのななけつ、すなわちふたつのめ、ふたつのみみ、ふたつのはなのあな、ひとつのくちをいうのである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、しっぽうをゆうする、しんのほけきょうのぎょうじゃである。

 ほけきょうほうとうほんに、とかれたしっぽうのとうとは、もろもろのばんがいが、こん、ごん、るり、しゃこ、めのう、しんじゅ、まいえのしっぽうで、かざられた、うつくしいほうとうを、あらわしている。しかるに、にちれんだいしょうにんは、このしっぽうを、みょうほうをこんぽんとした、もん、しん、かい、じょう、しん、しゃ、ざんとけっじょうされて、そくしんじょうぶつ、にんげんかんせいの、じっせんげんりを、げんぜんとしめされたのである。
 「もん」とは、ただしいぶっぽうをきくことであり、きいてよく、ごほんぞんをしんじゅしていくのは、「しん」であり、ごほんぞんをじゅじして、しんくいのさんごうをもって、しょうほうをまもりきり、ひをふせぎあくをとめる、こんごうふえのかいを「かい」という。
 また「じょう」とは、ぜんじょうであり、みょうぜんである。しんじんしょうだいにより、あんしんりつめいのきょうがいをえとくできる、せいめいのことであり、「しん」とはだいもくをあげて、しゃくぶくをやりぬく、しょうじぎょうのことである。「しゃ」とは、ふじしゃくしんみょうであり、しんみょうをすてて、ぶっぽうを、もとめきることである。また、しんじんをつらぬいて、なおたれりとせず、さらに、こうじょうしていこうとするこころ、つねにはんせいしてぜんしんしていくこころは「ざん」である。
 また、しっぽうとは、ずじょうのななけつであるとおおせである。ふたつのめ、ふたつのみみ、ふたつのはな、ひとつのくちとあらわれている、ずじょうのななけつが、かんきょうやしゃかいにたいする、いっさいのアンテナとなり、せいかつにいろいろの、げんしょうをぐげんすることになるから、ななつのたからとなるのである。

0740    だいさん しめんかいすいのこと。

 もんぐのはちにいわく、しめんすいこうとは、したいのとうふう、しとくのこうをふくなりと。
 おんぎくでんにいわく、しめんとは、しょうろうびょうしなり、しそうをもって、われらがいっしんのとうを、しょうごんするなり、われらが、しょうろうびょうしに、ななんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、しかしながらしとくのこうをふくなり、なむとは、ぎょうはらみつ、みょうほうとは、がはらみつ、れんげとは、じょうはらみつ、きょうとは、じょうはらみつなり。

 ほうとうほんには、ほうとうのせつめいとして、「しめんにみな、たまらばつせんだんのこうをだして、せかいにじゅうまんせり」と、のべられている。ほっけもんぐのはちには、しめんにこうをいだすとは、したい、くたい、じったい、めったい、どうたい、すなわちくじっめつどうの、したいのとうふうによって、じょうらくがじょうの、しとくのこうがあらわれてくると、しゃくしている。
 したがって、したいのとうふう、すなわちぼんのう、しょうじも、ごほんぞんのちからによって、しとくのこう、すなわちぼだい、ねはんとあらわれてくるのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。すなわちしめんとは、しょうろうびょうしをさしていうのである。そのしょうろうびょうしのしそうとは、われわれのせいめいのじったいである。
 しかしながら、われわれがしょうろうびょうし、じんせいのくるしみにさいして、つねに、ななんみょうほうれんげきょうととなえていくならば、みょうほうにしょうごんされたせいめいとなり、じょうらくがじょうのしとくのこうを、ふくことになるのである。ななんみょうほうれんげきょうを、じょうらくがじょうのしとくのはらみつにあてはめれば、なむとはきみょうであり、ごほんぞんにいのちをささげることであって、さいこうのぎょうはらみつである。みょうほうとは、だいうちゅうそれじたいである。したがってわれはらみつである。
 れんげというのは、「にょれんげざいすい」といわれるように、「しょうじょう」といことをあらわすのであるから、じょうはらみつである。またきょうとは、「さんぜじょうごうなるをきょうという」のであるから、じょうはらみつとなるのである。

 ごほんぞんの、くどくをあかすもんである。しょうろうびょうしのよんそう、すなわち、しゅっしょう、ろうすい、びょうつう、しきょのしくは、じんしゅやみんぞくのそういに、かんけいなく、また、ろうにゃくなんにょのくべつなく、ひんぷかいきゅうのさべつなく、あらゆるひとが、とうめんする、じんせいのこんぽんもんだいである。
 ぶっきょうは、じつに、このもんだいをいかにかいけつするかを、ちゅうしんとしててんかいされている。しょうじょうきょうにおいては、したいのほうりん、ごんだいじょうきょうにおいては、じゅうにいんねんとうをとく。
 しかし、いずれも、しょうろうびょうしの、よんそうやせいめいのほんしつを、こんぽんてきにときあかしたのではない。ほけきょうにきて、じつには、にちれんだいしょうにんのぶっぽうにおいて、はじめて、こんぽんてきかいけつをみるのである。いわんや、このだいぶっぽういがいの、たきょうだんにおいては、ぜったいにかいけつされえないことは、とうぜんのりである。
 しょうろうびょうしは、われわれのぼんのうであり、しかして、しょうじ、しょうじをれんぞくするこのにほうは、せいめいのじったいでもある。だが、そのりろんがいくらわかったとしても、げんじつに、さんだいひほうのごほんぞんにむかって、しょうだいしないかぎりは、ぼんのうのくをかいけつすることは、ぜったいにできない。ごほんぞんとは、そのように、だいせいめいてつがくの、きゅうきょくのりにわたって、にちれんだいしょうにんが、ごずけんあそばされたのであって、さんだいひほう、すなわちほんもんのほんぞん、ほんもんのだいもく、ほんもんのかいだんをもって、ごくせつちゅうのごくせつとして、こんりゅうされたのである。
 「いちえんぶだいだいいちのほんぞん、このくににたつべし」(0254-09)と。にちかんしょうにんは、このごほんぞんのくどくについて、「いのりとして、かなわざるはなく、つみとしてめっせざるなく、ふくとしてきたらざるなく、りとしてあらわれざるなし」とおおせになっておられる。ゆえに、ごほんぞんをじゅじし、だいもくをじゅんしんにとなえるものは、みなざいしょうしょうめつ、しゅくめいてんかんをなしとげて、そのせいめいはちからにみちてかつどうてきとなり、どうじにそうごんになっていくのである。

0740    だいよん すいだいおんじょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、われらしゅじょうの、あさゆうはくところの、ごんごなり、だいおんじょうとは、ごんきょうはしょうおんじょう、ほけきょうは、だいおんじょうなり、にじゅうはちほんはしょうおんじょう、だいもくはだいおんじょうなり、そうじて、だいおんじょうとは、だいはほうかいなり、ほうかいのしゅじょうの、ごんごをみょうほうの、おんじょうとさたするを、だいおんじょうとはいうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるはだいおんじょうなり、またいわく、だいとはくうたい、おんじょうとはけたいなり、すいとは、ちゅうどうなりうんぬん。

 たほうにょらいが、たほうのなかから、だいおんじょうをだして、しゃくそんのせっぽうの、しんじつなるを、しょうみょうするところである。すなわち、ほうとうほんには、「そのときにほうとうのなかより、だいおんじょうをだして、たんじていわく、よいかな、よいかな、しゃかむにせそん、よくびょうどうだいえ、きょうぼさつほう、ぶつしょごねんの、みょうほうれんげきょうをもって、たいしゅうのためにときたまう。かくのごとし、かくのごとし、しゃかむにせそん、しょせつのごときは、みなこれしんじつなり」とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいおんじょうとは、われわれしゅじょうが、あさにゆうにはなしていることばである。ごんじつそうたいしていうならば、ごんきょうはしょうおんじょうであり、ほけきょうは、だいおんじょうである。
 またしゅだつそうたいしていうならば、ほけきょうにじゅうはちほんは、しょうおんじょうであり、なんみょうほうれんげきょうは、だいおんじょうである。そうじていうならば、だいおんじょうのだいとはほうかい、つまりうちゅうばんゆうの、おおきさをいう。ほうかいのいっさいしゅじょうのごんごは、すべてみょうほうのおんじょうであると、ふんべつしていく、そのおんじょうをだいおんじょうというのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるだいもくは、だいおんじょうである。また、すいだいおんじょうを、くうけちゅうのさんたいでろんずれば、だいとは、ほうかいであるから、くうたいであり、おんじょうとは、われらしゅじょうのごんごのことで、けたいである。このだいおんじょうのでるほんげん、いしは、あらゆる、じっかいのごんごおんじょうを、なさしむるから、すいとはちゅうどうである。

 ほうりき、ぶつりきのせんじん、こうげをあかすもんである。いちおうは、ごんきょうはしょうおんじょう、ほけきょうはだいおんじょうとなる。さいおうは、ほけきょうにじゅうはちほんは、しょうおんじょう、なんみょうほうれんげきょうのだいもくは、だいおんじょうとなる。
 むかしは、そうしんきのだすはちょうは、せいのうがわるく、きんきょりしかとどかなかったが、こんにちの、きかいは、せいこうなうえに、シンコムえいせいとうによって、ぜんせかいにまで、とどくことがかのうとなった。これ、だいおんじょうといえるのである。また「だいおんじょう」のだいは、ほうかい、うちゅうをいみする。そして、われらしゅじょうのおんじょうが、みょうほうのほうそくと、リズムにがっちしていくことを、だいおんじょうともいう。このいのりのげんりである。 ついぜんくようのげんりでもある。
 これは、げんざい、くうかんにむすうにながれるでんぱをれいにして、めいりょうに、すいさつすることができる。また、だいとはくうたい、おんじょうとはけたい、すいとはちゅうどう、すなわち、わがいっしんの、とうたいが、じゆうじざいに、きゅうかいにごうれいできうるものともいえる。かつ、だいうちゅうにわれらのへいわとあんのんをごうれいできうるほうていしきともいえる。
 いちにちもはやく、こうせんるふをじつげんして「ふくかぜえだをならさず、あまつちくれをくだかず、だいはぎのうのよとなりて、こんじょうにはふしょうのさいなんをはらいひ、ちょうせいのじゅつをえ、にんぽうともにふろうふしの、りあらわれんときを、おのおのごろうぜよ、げんせあんのんの、しょうもんうたがいあるべからざるものなり。」(0502-07)のしんじだいを、けんせつしたいものである。
 「われらしゅじょうの、あさゆうはくところの、ごんごなり」とは、しゅじょうのごんごは、そくほとけのしょさであることをとかれたもんである。しゅじょうのせいめいかつどうは、きゅうかいのかつどうであり、そのごんごも、またきゅうかいのごんごである。しかるに、なにゆえ、いだいおんじょうを、われらのごんごと、いわれるのであろうか。おもうに、だいもくをとなえるものは、きゅうかいそくぶっかいであり、そのにちじょうのごんごも、また、みんしゅうきゅうさいのごんごであるとしんずる。
 しゃくぶくにおけるごんごほど、とうといものはない。しどうにあたってのげん々げんく々くほど、ひと々びとのむねをうつものはない。またたいしゅうをリードするさけびほどえいきょうのだいなるものはなく、たいしゅうのしんじつのこえほどちからづよいものはないのである。
 いじょうのように、だいもくをこんぽんとした、にちじょうせいかつのおんじょうは、すべてのひとをすくいきっていくごんごなのである。
 われわれは、にちれんだいしょうにんめつご、700ねんにうまれ、だいしょうにんのだいおんじょうは、いかばかりであったかと、そうぞうするのみである。だが、にちれんだいしょうにんのおんじょうこそ、われわれの、となえるだいもくにつうずるものと、かくしんする。またにちれんだいしょうにんの、げん々げんく々くは、われらのてにする、ごしょぜんしゅうにあらわれ、これ、いだいなだいおんじょうであると、かくしんするものである。だいおんじょうとは、にほんいちこくのみならず、ぜんせかいに、とどろくこえでなければならない。したがって、このだいおんじょうたる、だいもくは、かならずせかいにこうふし、やがて、ぜんじんるいのおんじょうとなることは、ぜったいにまちがいない、じじつであろう。

0740    だいご けんだいほうとうじゅうざいくうちゅうのこと。

おんぎくでんにいわく、けんだいほうとうとは、わがとうがいっしんなり、じゅうざいくうちゅうとは、われらしゅじょうついにめつにきすることなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつりて、しんじんにじゅうするところが、じゅうざいくうちゅうなり、こくうえにじゅうするなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんに、「そのときにししゅう、だいほうとうのくうちゅうに、ざいじゅうせるをみ、また、とうのなかよりだしたもう、おんじょうをきいて…」とある。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「けんだいほうとう」とは、われらがいっしんである。「くうちゅうにざいじゅうせる」とは、われわれしゅじょうが、ついにめっし、だいうちゅうにきすることをいうのである。
 いまにちれんだいしょうにんならびに、われわれもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつりて、しんじんにはげんでいるところが、じゅうざいくうちゅうであり、こくうえにじゅうすることになるのである。

 これしきしんふに、しょうじふにのもんである。けんだいほうとうは、しきほうである。じゅうざいくうちゅうは、しんぼうである。けんだいほうとうは、けんぜんなるしんたい、じゅうざいくうちゅうは、かちそうぞうしきっていくちえ、せいしんともいえるのである。
 また、じゅうざいくうちゅうとは、えいえんのせいめいをとかれる。だいうちゅうへのかんげんのこころでもある。わがそんざいのこころでもある。いちねん、せいしん、いしき、きょうがいとうは、われらのきょうちゅうにさすいがいにありえない。それをじゅうざいくうちゅう、こくうえにじゅうすとといているのである。
 ゆいぶつろんによる、じんせいのへんせい、ゆいしんろんにながされてゆく、じんせいのあやまちを、このしきしんふにのおんふみによつて、ぜったいにふんさいすることが、できるのである。しきしんふにのてつがくこそ、じんるいたいぼうのだいてつがくである。われわれはぶっぽうてつがくこそ、あらゆるぶんめいのどじょうであることを、れきしのうえから、またしそうのほんしつうえからかくちしたのである。
 ちなみに、げんざいのせいじりねんをきゅうめいするとき、せいおうじんえいはキリストきょうを、こんていとするせいじしそうであり、とうおうじんえいは、「かみなきしゅうきょう」ともいわれる、マルクス、レーニンしゅぎを、こんていとするせいじしそうである。
 しかして、いかにこうまいらしく、つくろっても、キリストきょうのこんぽんしそうは、ゆいしんてつがくにすぎず、マルクス、レーニンしゅぎのこんぽんしそうは、ゆいぶつてつがくにすぎない。じんるいのへいわとこうふくは、そのいずれからも、ぜったいにえられなかったのである。
 また、じんるいしそうのれきしは、プラトン、ヘーゲルとうのゆいしんしそう、こだいギリシァにはじまるゆいぶつろん、あるいはいちげんろん、にげんろんのろんそうとう、これすべて、ゆいしんろんかゆいぶつろんかのそうこくをくりかえして、けっていてきなしそうのしょうりを、いずれもみなかったのである。
 「むりょうぎは、いっぽうよりしょうず」と。このしきしんふにのだいてつがくこそ、せいじ、けいざい、きょういくとうのあらゆるぶんかのほんげんであり、えいきゅうふへんのてつりである。あたかもたいがのながれのゆうきゅうなるごとく、なんびゃくねん、なんぜんねんのむかしからとうようみんぞくの、こころのおうていにながれてきた、とうようぶっぽうのしんずい、しきしんふにのだいてつがくこそ、こんめいせるせかいのしそうかい、せかいせいじをすくうゆいいつの、てつがくなることをしるべきである。

0740    だいろく こくみょうほうじょうひちゅううぶつごうわったほうのこと。

おんぎくでんにいわく、たからじょうせかいとは、わがとうがははのたいないなり、うぶつとは、しょほうじっそうのぶつなり、ここをもって、たほうぶつというなり、たいないとは、ぼんのうをいうなり、ぼんのうのおでいのなかに、しんにょのふつあり、われらしゅじょうのことなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるを、とうたいれんげのぶつというなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんで、だいぎょうせつぼさつが、ほとけに、ほうとうのことについてしつもんし、ほとけが、このほうとうのなかには、たほうにょらいというほとけがいるのだと、せつめいしたところである。「そのときにほとけ、だいぎょうせつぼさつにつげたまわく、このほうとうのなかには、にょらいのぜんしん、います…こくをほうじょうとなずづく。そのなかに、ほとけ、います。ごうを、たほうとのたまう…」とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。たほうにょらいのすむ、たからじょうせかいとは、ははおやのたいないのことである。なぜなら、ははのたいないとは、ほとけのしゅっしょうするところであり、せいめいいじょうにすぐれたたからはないゆえに、たからじょうせかいというのである。
 「うぶつ」つまり「ほとけいます」とは、しょほうじっそうのほとけ、ありのままのすがたで、げんじつにいるほとけである。とくべつのせかいにいるほとけではない。そのほとけを、たほうぶつとなづけたのである。また、たいないとは、ぼんのうである。そのぼんのうのおでいのなかに、ありのままのほとけがある。それは、われわれしゅじょうのことである。さらには、いまにちれんだいしょうにんならびにそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつっているのを、とうたいれんげのほとけと、いうのである。

 「たからじょうせかい」とは、とくべつなせかいを、さすのではけっしてない。また、かんねんのせかいをさすのでもだんじてない。ぐたいてきには、ははのたいないをいうと、おおせである。すなわち、これ、せいめいしゅっしょうの、もっともだいじなる、いぎをば、ほうじょうせかいとといておられるのである。
 「うぶつ」とは、いちぶつ、にぶつ、さんぶつ、さんじゅうにそうのほとけではない。しょほうじっそうのほとけを、いうのである。すなわち、ぼんぷそう、じどうぼんぷのほとけをさすのである。しょせん、にちれんだいしょうにんのことであられる。これこそ、しんじつ、ほんぬのだいせいめいてつがくといえるのである。おんぎくでんには、「まっぽうのほとけとは、ぼんぷなり、ぼんぷそうなり、ほうとは、だいもくなり、そうとはわれらぎょうじゃなり、ほとけともいわれ、また、ぼんぷそうともいわるるなり」(0766-だいじゅうさん、じょうふちぶつ、ふもんぽうふけんそうのこと)と。
 おなじく、おんぎくでんに、「いま、にちれんらのたぐいのこころは、そうじてはにょらいとは、いっさいしゅじょうなり、べっしては、にちれんのでしだんななり、されば、むさのさんじんとは、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃなり、むさのさんじんのほうごうを、なんみょうほうれんげきょうというなり」(0752-05)と。しょほうじっそうしょうに、「さればしゃか、たほうのにぶつというも、ゆうのほとけなり、みょうほうれんげきょうこそ、ほんぶつにてはござそうろうへ、きょうにいわく、「にょらいひみつじんずうしりき」これなり、にょらいひみつは、たいのさんじんにして、ほんぶつなり、じんずうしりきはゆうのさんじんにして、しゃくぶつぞかし、ぼんぷはたいのさんじんにして、ほんぶつぞかし、ほとけはゆうのさんじんにしてしゃくぶつなり」(1358-11)とある。
 すなわち、まっぽうのごほんぶつとは、べっしてはぼんぷそうの、にちれんだいしょうにんであられる。しかして、そうじては、にちれんだいしょうにんのぶっぽうをしんじまいらせる、われら、まっぽうのぼんぷこそ、しんじつのほとけなのである。ゆえに、にちれんだいしょうにんは、もったいなくも、「ぼんのうのおでいのなかに、しんにょのほとけあり、われらしゅじょうのことなり」とおおせられたのである。これ、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのごくとうというべきである。

0740    だいなな おじっぽうこくど うせつほけきょうしょ がしとうみょう いちょうぜきょうこ ゆげんごぜん いさしょうみょう さんごんぜんざいのこと。

0741、おんぎくでんにいわく、じっぽうとは、じっかいなり、ほけきょうとは、われらしゅじょう、るてんのじゅうにいんねんなり、よってごんごのおんじょうを、さすなりぜんざいとは、ぜんあくふに、じゃしょういちにょなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるところを、たほうゆげんというなり。

かいしゃくこうぎ。
 これは、たほうにょらいが、ぼさつのしゅぎょうを、していたときにたてた、ちかいのことばである。くわしくはほうとうほんに、『もしわれ、じょうぶつしてめつどののち、じっぽうのこくどにおいて、ほけきょうをとくところ、あらば、わがとうみょう、このきょうをきかんがためのゆえに、そのまえにゆげんし、ためにしょうみょうとなって、さんめて、よいかなといわん』とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。じっぽうとはじっかいである。ほけきょうには、われわれしゅじょうというものが、えいえんにしょうじのくかいを、るてんしていくのであるという、せいめいのじったいをとかれているのである。
 すなわち、ほけきょうとは、われわれしゅじょうの、るてんしゆくじゅうにいんねんをとく。じゅうにいんねんとは、ごんだいじょうきょうで、さんがいにおける、せいめいるてんのほうそくをじゅうににわけたもので、むみょう、ぎょう、しき、みょうしき、ろくしょ、しょく、じゅ、あい、しゅ、う、しょう、ろうしをいう。
 しかし、ここでは、にぜんごんきょうのじゅうにいんねんではなく、ほけきょうのせいめいてつがくのうえから、じゅうにいんねんとしるべきである。よって、ほけきょうとは、ごんごのおんじょう、つまりせいかつをときあらわしているのである。ぜんざいとは、ぜんあくふに、じゃしょういちにょである。すなわち、われわれのせいめいが、ぼんのうであるゆえに、だいもくをあげることによって、そくぼだいとなるのである。
 いま、にちれんだいしょうにんならびに、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるところに、ぶっかいがゆげんし、さいこうのこうふくきょうがいをつかむことが、できるのである。これを、たほうゆげんというのである。

「ほけきょうとは、われらしゅじょうるてんの、じゅうにいんねんなり」うんぬんとは、せいめいのほんしつ、ほんげん、じったい、いんがのにほう、せいめいはってんのほうそくを、めいかくにときあかしたのが、ほけきょうなりとの、もんであられる。つうずのほけきょうといっても、じつには、さんしゅるいあることをしるべきである。だいいちにしゃくそんのほけきょうは、ほけきょうにじゅうはちほん、ぞうぼうにおける、てんだいだいしのほけきょうは、まかしかん。まっぽうにおける、にちれんだいしょうにんのほけきょうは、ごじななじの、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうである。しょせん、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとして、まかしかんおよび、ほけきょうにじゅうはちほんは、そのせつめいしょにあたるわけである。そのひとつのしょうことして、ほけきょうにじゅうはちほんにおいても、みょうほうれんげきょうじょぼんだいいち、みょうほうれんげきょうほうべんぽんだいにと、いわれているではないか。
 けごんきょうは、じゅっしん、じゅっじゅう、じゅっぎょう、じゅっえこう、じゅっち、とうかく、みょうかくとうのほうもんを、しょぼさつ、ぼんぷだいきのために、べつえんにきょうとしてといたものである。このけごんをときたもうほとけを、たゆうほうしんにょらいといい、こくどをじっぽうどとしょうするのである。しかし、そのときのしゅじょうは、いまだだいじょうのりに、しんにききうるきこんではなかった。あごんきょうにおいては、くじゅうめつどうのしたいのほうもんを、ときあかした。これは、どんこんのきのために、しゅうしょうのほうをといたのであり、じゅうにねんかん、このしょうじょうきょうはとかれた。
 このきょうしゅは、いちじょうろくしゃくの、しゃばどうごのほとけであり、れつおうじんである。ほうとうぶは、にじょうがしょうじょうによって、けんじのぼんのうをだんじ、らかんのしょうがをえて、ねはんをじょうじたと、あやまったかんがえにしゅうちゃくしたので、ところ々どころに、しきょうのほうをといて、にじょうをだんかし、ぼさつをしょうようしたのである。はんにゃぶでは、にじょうをゆうどうしてだいじょうにむかわしむべく、つうべつえんのさんきょうを、たいどうして、じゅうよねんかんとかれたのである。
 しかして、ほけきょうにじゅうはちほんは、これらよんじゅうよねんの、ほうべんごんきょうをときおわって、ずいじいのたちばより、ほとけのきょうがいをとかれたのである。ほけきょうは、だいうちゅうにひろく、じっかいさんぜんのまんだらを、えがいたじょうたいともかんがえられる。また、われらのじっかいさんぜんのせいめいを、こくめいに、ときあかしたものともいえる。そのこんぽんたる、なんみょうほうれんげきょうのほうほんぞん、にちれんだいしょうにんのにんほんぞんを、すなわち、ぶっぽうのしんずい、こつずいをおしたためになった、いっぷくのまんだらをばごほんぞんというのである。
 にちにょごぜんごへんじにいわく、「されば、しゅだいのごじはちゅうおうにかかり、よんだいてんのうは、ほうとうのしほうにざし、しゃか、たほう、ほんげのしぼさつ、かたをならべ、ふげん、もんじゅとう、しゃりほつ、もくれんとう、ざをくっし、にちてん、がつてん、だいろくてんのまおう、りゅうおう、あしゅら、そのほか、ふどう、あいぞめはなんぼくのふたかたにじんをとり、あくぎゃくのだった、ぐちのりゅうにょいちざをはり、さんぜんせかいのひとの、じゅみょうをふうばあっきたるきしもじん、じゅっらせつにょとう、しかのみならずにほんこくのしゅごしんたる、てんしょうだいじん、はちまんだいぼさつ、てんじんななだい、ちじんごだいの、かみがみ、そうじてだいしょうのじんぎとう、たいのじんつらなる、そのよのゆうのじん、あにもるべきや」(1243-09)うんぬんと。
 「ごんごのしょうもん」とは、せいかつのことである。がっこうでも、しゃかいでも、げいじゅつ、かがく、ぶんがくとう、ぜんぱんにわたり、そのきほんはごんご、おんじょうをだいいっぽとしていることは、ろんをまたない。
 「ぜんざいとは、ぜんあくふに、じゃしょういちにょなり」とは、いかなるひとたりとも、みょうほうをしんじて、ぜんぶすくわれるとの、だいじひである。ぜんあくふに、じゃしょういちにょもまた、きゅうかいそくぶっかい、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんをさしている。しょせん、さんだいひほうの、ごほんぞんにきみょうすれば「たほうゆげんというなり」すなわち、たほうとは、ごほんぞんであり、ごほんぞんのだいくどくである。またちえ、ふくうん、せいめいりょくとやくすこともできるわけである。

0741    だいはち なんせいほっぽうしゆいじょうげのこと。

おんぎくでんにいわく、しほう、しゆい、じょうげしがって、じっぽうなり、すなわちじっかいなり、じっかいのしゅじょうともに、さんどくのひかり、これれあり、これをびゃくごうというなり、いっしんちゅうどうのちえなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、じっかいどうじのひかりさすなり。しょほうじっそうのこうみょうなるがゆえなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほとけがびゃくごうのひかりを、とうほうにはなち、また、なんせいほっぽう、しほうじっぽうをてらすのである。ほうとうほんには、「なんせいほっぽう、しゆいじょうげ、びゃくごうそうのひかりの、しょしょうのところも、またまた、かくのごとし」とある。そのひかりのいくところ、いたるところで、じっぽうぶんしんのしょぶつが、せっぽうしているすがたがある、ということである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。じっぽうとは、とうざいなんぼくのしほうと、とうほく、せいほく、とうなん、せいなんのしゆい、それにじょうげをあわせて、じっぽうとなるのである。これすなわち、じっかいのことである。じっかいのしゅじょうのせいめいは、じっかいともにとん、じん、ちのさんどくのひかりがある。
 このひかりをびゃくごうというのである。これはいっしんちゅうどう、すなわち、いちねんのしんじんよりいずる、ぶっちである。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうとだいもくをとなえるときは、じっかいのかっかい、どうじにくどくがあらわれるのである。それは、しょほうじっそうのあきらかなひかりに、てらされるから、くどくがあるのでる。

 「じっぽう」とは、うちゅうぜんたい、あますところなきをいう。これまた、われらじっかいのせいめいともなる。あるせいようのがくしゃが、「われわれのせいめいたいは、しょううちゅうなり」と。また、あるがくしゃは「わがせいめいは、だいうちゅうのいちさいぼうのようなものである」と。まことにゆえあるりろんといえる。じじつ、たいようのこくてんあらわれれば、でんぱにも、またじんたいにも、だいしょうぎをあたえ、およぼす。また、しゃかいせいかつにおよぼす、えいきょうもだいなるものがある。
 このせいめいとうちゅうとのかんけいは、きょうもんのいたるところにとかれている。しもやまごしょうそくに「きせいきょうにいわく、「もろもろのしゅじょうありて、ほういつをなし、しょうじょうのぎょうをすけがゆえに、てん、あめをくださず」」(0350-14)と。ずいそうごしょに、「それ、じっぽうはえほうなり、しゅじょうはしょうほうなり、たとへば、えほうはかげのごとし、しょうほうはたいのごとし、みなくばかげなし、しょうほうなくばえほうなし、また、しょうほうをば、えほうをもつてこれをつくる、げんこんをば、とうほうをもつて、これをつくる、したは、なんぽう、はなはせいほう、みみはほっぽう、みはしほう、こころはちゅうおうとうこれを、もつて、しんぬべし、かるがゆへに、しゅじょうのごこん、やぶれんとせば、しほうちゅうおうをどろうべし、されば、こくどやぶれんと、するしるしには、まづ、やまくづれそうもくかれ、こうがつくるしるしあり、ひとのげんにとう、おどろかそうとすれば、てんぺんありひとのこころをうごかせば、ちうごかす」(1140-06)と。
 またずいそうごしょに、「ひとのよろこびたたなれば、てんにきちずいをあらはし、ちにたいしゃくのうごきあり、ひとのあくしんさかんなれば、てんにきょうへん、ちにきょうようすしゅったい、しんにのだいしょうにしたがいて、てんぺんのだいしょうあり、ちようもまたかくのごとし」(1142-03)と。さんぜしょぶつそうかんもんしょうには「これをもって、あきらかにしんぬべし、てんくずるれば、わがみもくずるべし、ちさけれけばわがみもさくべし、ちすいかふうめつぼうせば、わがみもまた、めつぼうすべし、しかるに、このごだいしゅはかこ、げんざい、みらいのさんぜは、かわるといえども、ごだいしゅはかわることなし」(0568-05)と。
 いくせんまんおくのせいざにも、ぜんうちゅうに、それぞれ、なんらかのはどうえいきょうをおよぼす、せいめいかつどうがある。どうじに、しょううちゅうであるわれらも、さんどくのひかり、すなわち、りきゆうのはたらきがある。これ、ほんぬのせいめいかつどうであり、ほけきょうでは、びゃくごうととく、これ、ぼんのうそくぼだいであり、しょうじそくねはんのげんりである。すなわち、わがみのさんどく、てんじていくいがいに、しんじつのせいかつはありえないからである。これ、いっしんちゅうどうのちえとなすと。いっしんちゅうどうのちえとは、ぼんのう、ごう、くのさんどうを、ほっしん、はんにゃ、げだつとてんずる、しんじんのいっしんのことを、さすのである。
 しょせん、みょうほうごじのわれらは、「じっかいのどうじの、ひかりさすなり」のせいかつができえるのである。すなわち、いかなるきょうぐうのひとたりとも、いかなるしゅんかんの、じんせいたりとも、きゅうかいをゆうげし、くのう、しゅくめいにながされることなく、ゆう々ゆうといっさいのくなんを、のりこえ、ゆうらくのじんせいを、おくることができるとの、おことばとはいする。「しょほうじっそうのこうみょう」とは、さんだいひほうの、ごほんぞんにてらされ、わがにくだんの、ほんぞんがゆげんする、せいめいをいうのである。
 あるしそうかのいわく、「せいめいの、ほんげんてきかいけつなくして、しんのじんるいの、こうふくのぜんしんはけっしてありえない」と。どうらんのせかいにいきる、われらぢゆのぼさつは、せいめいをとして、このだいじだいひの、しょほうじっそうのこうみょうをば、あんこくのせかいに、てんじきっていこうではないか。

0741    だいきゅう かくさいほうけまんきくのこと。
01
 おんぎくでんにいわく、ほうけとはがっしょう、いちねんさんぜんのしょひょうなり、かくとはじっかいなり、まんのいちじを、いちねんさんぜんとこころうべし、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、ほとけにほうけをたてまつるなり、ほうけそくほうしゅなり、ほうしゅそくいちねんさんぜんなり、がっしょういきょうしんよくもんぐそくどう、これなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
「かくほうけをちも、もろてにみてて」とよむ。じっぽうぶんしんのしょぶつがじしゃをつかわして、しゃかほとけにあいさつするところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほうけとは、がっしょうをいみするのである。またじのいちねんさんぜん、なんみょうほうれんげきょうをあらわしている。したがって、ほうけとはごほんぞんのことである。
 かくとは、じごくかいよりぶっかいにいたるじっかいをいうのである。まんのいちじはかけることのない、みちている、といういみである。じのいちねんさんぜんとこころうべきである。いまにちれんだいしょうにん、およびそのもんかであるわれわれが、ごほんぞんになんみょうほうれんげきょうとしょうだいしたてまつれば、それは、ほとけにほうけをたてまつることになるのである。ほうけとは、そくほうしゅであり、ほうしゅはそくいちねんさんぜんのなんみょうほうれんげきょう、つまりごほんぞんのことである。
 ほうべんぽんだいにの「がっしょうしきょうしんをもって、ぐそくのどうをききたてまつらんとほっす」とは、このことをとかれているのである。

 せいかつそくしんじんのたいどについてのもんである。ほうけとは、しんじんのがっしょうのことである。ひゆほんにも、がっしょうとは、ほけきょうのいみょうなりとも、とかれている。したがって、まっぽうのほけきょう、そくさんだいひほうのごほんぞんになしむ、だいもくをあげるすがたが、ほうけであり、がっしょうとなる。たしゅうきょうのごとく、いんけいをむすんだり、また、さんだいひほうのほんぞんに、むかわざるがっしょうは、しんのがっしょうとは、けっしていえない。また、がっしょうの「がっ」とはみょうなり、「しょう」とはほうなり、ともとかれている。じゅじそくかんじんに、つうずるところであり、しんじんのいかにだいじかを、うかがうことができるのである。
 なお、しょひょうとは、たとえをもって、そのいみをあかすことである。ほうけをささげるこういをかりて、いちねんさんぜんのいぎをあらわしている。しょせん、ほうけを、まんきくしゆくこういとは、こんにちでは、ごほんぞんにがっしょうするすがたであり、これこそ、しんのしんじんのすがたであり、わがみが、とうたいれんげぶつとなるのである。
 なお、つうずには、ほうけは、ほうしゅとどういつぎに、もちいられている。かんじんのほんぞんしょうに「いちねんさんぜんを、しらざるものには、ほとけ、だいじひをおこし、ごじのうちにこのたまをつつみ、まつだいようちのくびにかけさしめたまう」0254-18うん々ぬんと。さいごに「がっしょうきょうしん」は、しんじんがっしょうをいみし、「ぐそくどう」は、いちねんさんぜんのほうりとなる。

0741    だいじゅっ にょきやっけんやく、かいだいじょうもんのこと。

 ほちゅうのよんにいわく、このかいとうけんぶつはけだし、しょひょうあるなり、 なんとなれば、すなわちかいとうはそくかいごんなり、けんぶつはそくけんじつなり、これまた、まえをあかし、また、まさにのちを、おこさんとするのみ、にょきやっけんやくとは、きゃくはなりのぞく、さわりのぞこり、きうごくことをあらわす、いわく、ほっしんのだいし、わくをはしりをあらわし、どうをまし、しょうをそんするなりと。
 おんぎくでんにいわく、けんやくとは、ほうぼうなり、むみょうなりかいとは、われらがじょうぶつなり、だいじょうもんとはわれらがしきしんのにほうなり、だいじょうとはしきほうなり、もんとはくちなり、いま、にちれんとうのたぐい、ななんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるとき、むみょうのわくしょうしりぞけて、こしんのしゃかたほうじゅうするなり、けんやくとはむみょうなり、かいとはほっしょうなり、やくとはみょうのいちじなり、てんだいのいわく、「ひみつのおうぞうをひらく、これをしょうしてみょうとなす」と、みょうのいちじをもって、やくとこころうべきなり、このきょうもんは、ほうぼうふしんのけんやくを、しりぞけて、こしんのほとけをひらくということなり、かいぶつちけんこれをおもうべしうんぬん。

 しゃくそんがほうとうをひらくところである。「ここにしゃかむにぶつ、みぎのゆびをもって、しちほうとうのとをひらききたもう。だいおんじょうをだすこと、けんやくをしりぞけて、だいじょうのもんをひらくがごとし」とのべられている。ほちゅうのよんには、このかいとうけんぶつは、かんがえてみるに、あらわすところがあるのである。なんとなれば、すなわち、「かいとう」ということは、そくかいごんということであり、「けんぶつ」は、そくけんじつということである。これは、また、まえのしゃくもんをしょうみょうし、のちのほんもんをおこそうとするいみがあるのである。にょきやっけんやくの「きゃく」とは、「のぞく」ということであり、じょうぶつするのにさまたげとなる。いろいろなしょうがいぶつをとりのぞき、じょうぶつするきこんになることを、あらわしているのである。ほっしんのぼさつが、いろいろなわくをはし、どうりをあらわし、ちゅうどうのちえをまし、へんにゃくしょうじをそんげんしていくのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。けんやくとはほうぼうということであり、むみょうということである。また「だいじょうのもんをひらく」という、ひらきとは、ほうぼうやむみょうをひらいていくがゆえに、われわれがじょうぶつするということである。だいじょうもんとは、われわれのしきしんのにほっである。だいじょうがしきほうであり、もんとはしんぼうをあらわしている。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときは、むみょうのわくしょうをしりぞけて、こしんのしゃかたほうがじゅうし、ぶっかいがゆげんしてきて、じょうぶつすることができるのであり。
 けんやくとはむみょうのことであり、そのけんやくをひらく、ひらきとは、ほっしょうということである。やくとは、じょうぶつのもんをひらくカギであるから、みょうのいちじになる。てんだいだいしは、このことを「ひみつのおうぎをひらくので、これをしょうしてみょうとなすのである」とといている。みょうのいちじをもって、やくとこころうべきである。
 このきょうもん、すなわちにょきやっけんやくかいだいじょうもんは、いろいろなほうぼうふしんの、けんやくをしりぞけて、われわれの、こしんのぶっかいをゆげんすることを、しめしているきょうもんである。「ぶつちけんをひらく」ということは、このようなことであり、このことをよくよくかんがえるべきである。

 ぼんのうそくぼだいの、てつりのもんである。「けんやく」とは、とびらのかぎのこころ。このけんやくとは、おんぎくでんでは、ほうぼう、むみょうなりとおおせである。なぜか。それは、とびらのかぎそれじたいでは、いまだないぶのかちはありえない。したがって、ぼんのう、きゅうかいをさしておられるが、ゆえである。「ひらき」とは、ぶっかいのことであり、じょうぶつをいみする。けっくは、しんじんのにじが、ひらきとなる。「だいじょうもん」とは、だいじょうがしきほう、もんがしんぼうをいみする。しきしんふにのせいめいのことである。
 しょせん、ぶっしつてきななやみ、せいしんてきななやみを、つまり、さんしょうしまをうちやぶってゆくしんじんによって、もんにはいることができるとの、しどうであられる。けっきょく、しゃくぶくぎょうも、だいもくもきょうがくも、いっさいのがっかいかつどうが、わがこしんのしゃかぶっぽうを、ハッキリみるためである。これ、えいえんのこうふくきょうがいにじゅうし、だいうちゅうのリズムに、がっちした、さいこうのせいかつをいうのである。だいかくしんにみちみちて、くのうのしゃかいを、ゆう々ゆうとゆうげしてゆける、じんせいをいうのである。これ、ただただ、われらがっかいいんの、しんじんのもくてきであることを、わすれてはならない。
 「やくとはみょうのいちじ」とは、むみょうぼんのうのなかに、われらのじょうぶつできうる、かぎがおさめられているてつりである。しょせん、ぼんのうそくぼだいのかぎが、われらのにくだんにぞうせられているので、まことにごんごひつぜつにつくせぬ、みょうといわざるをえない。おんぎくでんのほうべんぽんだいにに、「ひらきとはしんじんのいみょうなりうんぬん、しんじんの、かいぶつちけんをもって、しょういとせり」ともとかれている。
 このげんりによって、せいじかも、きょういくしゃも、がくしゃも、げいじゅつかも、にんげんかくめいし、しゃかいのこうふくと、へいわへのしどうしゃになって、もらいたいものである。かつ、このだいしどうげんりによって、ふこうとひさんなひとが、いちにんもなくなることを、いのってやまないものである。


0742    だい11 せっしょだいいしゅ、かいざいこくうのこと。

おんぎくでんにいわく、たいしゅうとはちょうしゅうなり、かいざいこくうとは、われらがしのそうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しょうじそくねはんとかいかくするを、かいざいこくうととくなり、しょうじそくねはんと、ひせつするなり、だいちはしきほうなり、こくうはしんぼうなり、しきしんふにとこころうべきなり、こくうとはじゃっこうどなり、またいわく、こくうとはれんげなり、きょうとはだいちなり、みょうほうはてんなり、こくうとはなかなり、いっさいしゅじょうのうち、ぼさつ、れんげにざするなり、これを、みょうほうれんげきょうととかれたり、きょうにいわく「にゃくざいぶつぜん、れんげけしょう」と。

かいしゃくこうぎ。
 しゃくそんが、ほうとうのなかにはいって、たほうとならんですわり、さらに、たいしゅうをも、こくうにおくのである。「そくじに、しゃかむにぶつ、じんつうりきをもって、もろもろのたいしゅうをせっして、みな、こくうにおきたもう…」とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「せっしょだいいしゅ」のたいしゅうとはちょうしゅうである。「みなこくうにあり」とは、われわれのせいめいが、だいうちゅうにみょうぶくし、しのそうをげんじているのである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかは、そのしんじんによって、しょうじそくねはんとかいかくするのである。そのすがたを、かいざいこくうととくのである。ぼとけのたちばからみるならば、しゅじょうは、とらわれるのである。
 だいちはしきほうであり、こくうはしんぼうである。このしきとこころは、ふにとこころうべきである。こくうとはじゃっこうどである。また、みょうほうれんげきょうという、たてわけからみるならば、こくうとはれんげであり、きょうとはだいちであり、みょうほうとはてんである。こくうとはなかである。いっさいしゅじょうのうち、ぼさつがれんげにざしているのである。これを、みょうほうれんげきょうととかれているのである。ほけきょうのだいばだったほんには、「にゃくざいぶつぜん、れんげけしょう」ととかれている。すなわち、もしごほんぞんのまえにあって、しんじんしゅぎょうにはげんでいくならば、いんがくじで、じょうぶつのきょうがいを、うることができるというのである。

 しょうじそくねはんのもんである。「たいしゅう」とはちょうしゅうであり、われわれいっぱんたいしゅうのことである。しょうじのうみにただよい、えいえんのせいめいにいきることを、しらないまよいのしゅじょうである。「かいざいこくう」とは、しのそうである。われわれのせいめいが、だいうちゅうのせいめいに、みょうふくしたじょうたいをいう。すなわち、えいえんふめつのせいめいにおけるめつのそうである。
 このみかたよりすれば、しょうもまた、えいえんのせいめいのなかにおいて、しょうのそうをげんじたものである。かくさとることが、ねはんであり、しょうじのくかいも、えいえんのらくどに、てんずることができるのである。
 これしょうじそくねはんである。しかし、このきょうがいにたっするためには、さんだいひほうのごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなうることが、こんぽんじょうけんである。ゆえに、「いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、しょうじそくねはんとかいかくするを、かいざいこくうととくなり、しょうじそくねはんとひせつするなり」とおおせなのである。
 しきしんふにの、てつりよりみれば、だいちはしきほう、こくうはしんぼうであって、このにしゃはいったいである。そのように、ただしくちけんすることが、せいめいのじったいをはあくすることになる。そのせいめいかんにたったとき、そこがこくうであり、したがってじょうじゃっこうどなのである。
 さらにみょうほうれんげきょうの、ごじよりたてわけるならば、こくうはれんげである。きょうは、われらのごごんおんじょうであり、いっさいのこうどうであるがゆえに、しきほうであり、だいちである。みょうほうはしんぼうなるがゆえにてんである。こくうはてんとちよりみれば、なかであって、しきしんふにとなる。
 さいごの「いっさいしゅじょうのうち、ぼさつ、れんげにざするなり、これをみょうほうれんげきょうととかれたり」とは、じょうぶつのようていをとかれたのである。われわれが、ごほんぞんをしんじて、なんみょうほうれんげきょうととなえ、ぶつどうにはげむとき、しょうじそくねはん、しきしんふにのせいめいかつどうをけんげんし、みょうほうれんげきょうの、とうたいとあらわれるのである。だいばだったほんにとく「にゃくざいぶつぜん、れんげけしょう」とはこれをいう。

0742    だい12 ひにょだいふう すいしょうじゅしのこと。

 おんぎくでんにいわく、このげしょうの、にょしょうりょうちと、ひにょだいふうと、ねんだいこかとは、さんじんなり、そのなかに、ひにょだいふうとは、だいもくのごじなり、すいしょうじゅしとはしゃくぶくもんなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、だいふうのふくがごとくなり。

 「たとえばだいふうの、しょうじゅのえだをふくがごとし」とよむ。ほとけのせっぽうのすがたを、ひょうげんしているのである。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほうとうほんのげしょうの「しょうりょうちの、れんげそうごんせるがごとし」、「たとえば、だいふうのしょうじゅのえだを、ふくがごとし」、「よるのやみのなかに、おおいなるこかを、せるもやがごとし」、このみっつは、ほっぽうおうのさんじんをあらわしているのである。
 そのなかの、「たとえば、だいふうのしょうじゅのえだを、ふくがごとし」とは、だいもくのごじをいうのである。
 「しょうじゅのえだをふく」とは、だいふうともいうべき、だいもくによって、しょうじゅのえだのような、じゃしゅうきょうがしゃくぶくされるのである。すなわち「ほっけしゃくぶく、はごんもんり」のことを、もうされているのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえ、しゃくぶくしていく、そのすがたというものは、だいふうのふくようなものである。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんのげしょうに、「にょしょうりょうち、ひにょだいふう、ねんだいこか」とあるが、これは、さんじんをあらわしている。にょしょうりょうちは、「しょうりょういけの、れんげそうごんせるがごとし」とあり、くどくあふれるしょうじょうなるぶっしん、すなわちおうじんともいえよう。ひにょだいふうは、「たとえばだいふうの、しょうじゅのえだをふくがごとし」とあり、ほとけのちえ、はたらきとうを、さすがゆえに、ほうしんともかんがえられる。「ねんだいこか」とは、「よるのやみのなかに、おおいなるこかを、せるもやがごとし」とあり、ほとけのちから、ほんしつをあかしたもので、ほっしんとはいすることできる。
 つぎに、「ひにょだいふう」とは、だいもくであり、「すいしょうじゅし」とは、しゃくぶくのことである。われわれのとなえるだいもくは、じぎょうけたにわたる、なんみょうほうれんげきょうである。いっさいきょうのすべてのりほう、すべてのくどくは、このいちくのなかに、、ほうせつされるのである。ゆえに、きょうちゅうのおうであり、とだじょうせいぜんかいちょうが、このだいもくをとなえ、しゃくぶくにはげむそうかがっかいを、しゅうきょうかいのおうじゃといわれたいぎはここにある。
 いっさいのきょうだんが、なんみょうほうれんげきょうのまえには、あたかも、しょうじゅがだいふうにふかれて、なびくようなものである。げんざいにおける、いっさいのしそう、てつがくといえども、なんみょうほうれんげきょうの、いだいなてつりと、ちからにたいしては、とうていおよぶものではない。
 もともと、「むりょうぎはいっぽうよりしょうず」といい、「ひゃくせんしよう、ことごとくいちこんにおもむく」ととかれているが、そのいっぽう、あるいはいちこんこそ、なんみょうほうれんげきょうなのである。このだいもくをこんぽんとして、すべてのてつがくは、いかされるものであるとしるべきである。

0742    だい13 にゃくうのうじ そくじぶっしんのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほけきょうをたもちたてまつるとは、わがみ、ぶっしんとたもつなり、 そくのいちじは、しょうぶつふになり、うえののうじの、じはぼんぷなり、たもつたいは、みょうほうのごじなり、ぶっしんをたもつというは、いちいちもんもん、かい、こんじき、ぶつたいのゆえなり、さて、ぶっしんをたもつとは、わがみのほかに、ほとけなしと、たもつをいうなり、 りそくのぼんぷと、くきょうそくのほとけと、ふたつむきなり そくのじは そくゆえ、しょごふにのゆえなりうんぬん。

 これは、ほうとうほんの、「もしよく、たもつことあらば、すなわち、ぶっしんをたもつなり」とあるところである。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。さんだいひほうの、ごほんぞんをたもちたてまつるというのは、わがみ、すなわち、ほとけなりとかくしんすることである。
 そくじぶっしんのそくのいちじは、しょうぶつふに、すなわち、しゅじょうもほとけも、べつのものではないのである。にゃくうのうじのじというのは、われわれ、ぼんぷがたもつのである。たもつたいは、なんみょうほうれんげきょうのごじである。これ、ごほんぞんじゅじにつきる。これが、ぶっしんをたもつことになる。なんみょうほうれんげきょうのいちじいちじが、みなこんじきのぶつたい、すなわち、だいしょうにんのせいめい、それじたいであるがゆえである。
 さて、われわれが、ぶっしんをたもつということは、わがみ、そく、ほとけであり、それいがいに、ほとけはないと、かくしんすることを、いうのである。りそくのぼんぷ、すなわち、きゅうかいのしゅじょうと、くきょうそくのほとけとは、べつのものではないのである。そくのいちじは、そくこしょごふに、すなわち、はじめのりそくのぼんぷと、のちわりのくきょうそくのほとけとは、ふにである。くべつされるべきものでは、ないというのである。

 そくしんじょうぶつの、おうぎをあかし、にんげんのそんげんせいをしめされている。われわれぼんぷが、ごほんぞんをたもちたてまつるとは、わがみ、そく、ぶっしんをたもつことであると、おおせである。しゃかぶっぽうにおいてはごじゅうにいをたて、りゃくこうしゅぎょうによる、じょうぶつをとくのであるが、にちれんだいしょうにんのぶっぽうにおいては、ごほんぞんをたもつこと、それじたい、じょうぶつなのである。「じゅじそくかんじん」である。
 てんだいも、りそくよりくきょうそくまで、ろくそくをもうけているが、だいしょうにんは、「りそくのぼんぷと、くきょうそくのほとけと、ふたつなきなり」とおおせられ、しょうぶつふに、すなわち、しゅじょうとほとけとは、べつのものでないととかれている。
 つうずのぶっぽうかんのだいかくめいといえる。しかも、ぶっしんをたもつとは、わがみのほかに、ほとけなしとたもつをいう。まことに、めいかくなせいめいのそんげんをとかれているではないか。
 げんざい、みんしゅしゅぎを、くちにするものはおおいが、せいめいのそんげんが、どこにあるかをりかいせずして、しんのみんしゅしゅぎが、あろうはずがない
 じんけんをおもんじ、にんげんせいをむししてならないことは、みんしゅしゅぎのこんかんである。しかし、なにゆえに、じんけんをおもんずべきか。いま、にんげんせいのほんしつはどこにあるかを、きゅうめいせずして、こ々このにんげんかくめいも、しゃかいかくめいもきたいすることは、けっしてできない。
 いま、にちれんだいしょうにんの、てつりによれば、にんげんは、ほんらいほとけである。みょうほうれんげきょうの、とうたいであると、だんていなさっているのである。これせいめいのほんしつであり、じったいである。このせいめいかんにたって、はじめて、みんしゅしゅぎのきばんがかくりつし、そうごにしんらいし、そんちょうし、たすけあう、りそうのしゃかいがけんせつされてゆくのは、とうぜんである。
 ただし、ぶっぽうは、そうべつのにぎを、わきまえなければならない。そうじては、いっさいしゅじょうはほとけであるが、べっしては、にちれんだいしょうにんであらせられる。
 しゅじょうが、そく、ほとけであるといっても、せいめいろんのうえからとく、りじょうのもんだいであって、しんじつわれわれが、ほとけのせいめいをゆげんし、こうふくせいかつをじつげんするためには、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのおいのちである、さんだいひほうのごほんぞんをしんじて、なんみょうほうれんげきょうと、となえるいがいには、ぜったいにありえないのである。


0742    だい14 しきょうなんじのこと。

 おんぎくでんにいわく、このほけきょうをたもつものは、なんにあわんと、こころえてたもつなり、されば、そくいしっとく、むじょうぶつどうの、じょうぶつはいま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるこれなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんの、「このきょうはたもちがたし」について、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このごほんぞんをしんじ、ぶつどうしゅぎょうにはげむものは、かならずや、なんにあうであろうとこころえて、しんじんすべきである。それゆえ、「すなわちこれ、とく、むじょうのぶつどうをえたり」というじょうぶつは、いまなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、はたすことができるのである。
 さいこうのこうふくろんがとかれている。ごしょに、「にちれんがでしとうは、おくびょうにてはかなうべからず」1282-02と。また「なんきたるをもって、あんらくとこころうべきなり」0750-だいいちあんらくぎょうほんのことと、これらのおんふみはすべて、ほんぶんのこころにつうずるものである。
 さんだいひほうのごほんぞんをたもついじょうは、「なんにあわんとこころえてたもつなり」とのおおせである。そこにむじょうさいだいのこうふく、すなわち、そくしんじょうぶつのきょうがいはえられるのである。
 ぶっぽうのほうていしきを、げんぜんととかれているではないか。とおくは、しゃくそんはくおうのだいなんにあい、てんだいは、なんさんほくしちにせめられ、でんぎょうは、ろくしゅうにあだまれている。そのたのれいはかずかぎりない。ちかくは、しょだいまきぐちつねさぶろうかいちょうは、ろうごくでおなくなりになり、にだいとだじょうせいかいちょうもまた、にヵねんのながきにわたって、ごくちゅうせいかつをおくられたのである。しかしながら、ぶっぽうのために、みをすつるは、「いしにこかねをかへ、ふんをこめにかうるなり」0910-16との、ごきんげんをおもうとき、いかなるなんにあおうとも、ごほんぞんを、ごじして、いっしょうじょうぶつのほんかいを、まっとうすべきではないか。
 しゅししんのさんとくを、ぐびされたごほんぶつ、にちれんだいしょうにんが、われわれに、じひをたれたまわぬわけがない。なんをうけるのをごらんになって、ふびんにおもわぬわけはない。だが、てんじゅうきょうじゅのぶっぽうのだいてっそくであり、うけるべきなんを、こくふくせずして、じょうぶつはありえない。
 さらに、なんにあうことを、かくごしてこそ、まをふせぐこともできるがゆえに、きびしくおおせになるのであって、だいじだいひの、ごきんげんをつよくつよく、しんじなくてはならぬ。しかるにぼんぷは、だいじなときにめさきのあんらくをもとめて、しんじんをわすれがちなものである。
 ゆえにごしょに、「『そくいしっとく、むじょうぶつどう』はうたがいなし、さんぜのしょぶつの、だいじたる、なんみょうほうれんげきょうを、ねんずるをじとはいうなり」1136-06と。また「いっしょうむなしくすごして、ばんさいくゆることなかれ」0970-14と、しょうがいごうじょうに、しんじんをつらぬきとおし、おのおの、くいなきじんせいを、まっとうしようではないか。

0742    だい15 がそくかんぎ、しょぶつやくねんのこと。

  おんぎくでんにいわく、われとはしんのうなり、しょぶつとはしんずなり、ほけきょうをたもちたてまつるときは、しんのうしんず、どうじにかんきするなり、またいわく、われとはぼんぷなり、しょぶつとはさんぜしょぶつなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえて、かんきするこれなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんの、「このきょうはたもちがたし、もししばらくもたもつものは、われすなわちかんきす、しょぶつもまた、しかなり」とあるところの、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。がそくかんぎの、われとは、しんのうつまり、せいめいそれじたいであり、しょぶつとはしんず、つまりせいめいのはたらきをいうのである。ごほんぞんをじゅじし、しんじんにはげむときは、せいめいのこんぽんも、せいめいのはたらきも、どうじにかんきするのである。
 また、われとは、ぼんぷのことであり、ぼんぷそくほとけで、にちれんだいしょうにんのことである。しょぶつとは、さんぜじっぽうのしょぶつのことである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえて、かんきすれば、しょぶつもまた、かんきするのである。これを、がそくかんぎ、しょぶつやくねんというのである。

 だいもくをとなえることが、さいこうのかんきであるとのおんふみである。われわれが、なんみょうほうれんげきょうととなうることは、われわれのせいめいに、いだいなるえいきょうをあたえることであり、やくどうするせいめいかつどうとなるのである。かおいろはすぐれ、せいかつのうえに、くどくがぐんぐんあらわれてくるのは、そのしょうこである。これこそしんじつのかんきであり、にちれんだいしょうにんは、「かんきのなかのだいかんきなり」0788-ごひゃくほんとも、おおせである。
 きょうぎにかった、こかねがもうかった、びょうきがなおった。だいじんになった。すべてはよろこびにちがいない。だが、それはえいえんのよろこびであろうか。そうではない、いちじてきのものであり、そうたいてきなものであって、けっしてえいきゅうてきなものではなく、ぜったいてきなものでもない。ばあいによっては、むしろ、そうしたいっぱんてきなかんきが、かえってしょうらいのあだになり、ふこうのげんいんになることは、にちじょうせいかつにつねにけいけんすることではないか。
 ごほんぞんをしんじ、だいもくをしっかりとなえるいがいに、ほんねんてきなかんきは、ありえないのである。このかんきこそ、じょうじゅうのものであり、いっさいのかんきは、ここにほうがんされて、はじめてわれわれのこうふくのないようとなるのである。
 ゆえに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつれば、ごほんぶつにちれんだいしょうにんは、およろこびくださり、たのいっさいのさんぜのしょぶつも、よろこぶのである。われわれが、みょうほうをとなえ、しゃくぶくすると、いろいろとひなんをうけ、はくがいされるばあいもある。
 しかし「ほけきょうを、たもちたてまつるときの、しんのうしんず、どうじにかんきするなり」とは、いかをいみするのであろうか。ひょうめんてきにははんたいするようであっても、いっさいのしゅじょうに、ぶっしょうがあるいじょう、ほんねんてきには、かんきしているのである。
 はんたいするのは、そのぶっしょうが、けんげんすることをおそれて、まがぼうがいするげんしょうを、みるべきではなかろうか。われわれは、よろこんでいる、ぶっしょうにちゃくもくせず、ひょうめんてきなまのはたらきに、げんわくされるのである。なんみょうほうれんげきょうは、ほんらい、いっさいしゅじょうが、こころのおうていにおいて、もとめているものであることを、かくしんして、たからかにだいもくを、となえぬいていこうではないか。

0743    だい16 どくじしきょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、ごしゅのしゅぎょうのどくじゅと、じゅじとのにぎょうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるはどくなり、このきょうをたもつは、じなり、しきょうとは、だいもくのごじなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ほうとうほんの、「このきょうをよみたもたんは」、とあるところで、おんぎくでんでは、つぎのようにおおせである。じゅじ、どく、じゅ、げだつ、しょしゃのごしゅの、しゅぎょうのなかの、どくじゅとじゅじとの、ふたつのしゅぎょうのことである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるのは、「どく」であり、このきょうを、じゅじしきっていくのは、「じ」になるのである。このきょうとは、だいもくのごじであり、なんみょうほうれんげきょう、じのいちねんさんぜんの、ごほんぞんのことである。

 ぶつどうしゅぎょうには、じゅじ、どく、じゅ、げせつ、しょしゃの、ごしゅのしゅぎょうがあるが、まっぽうにおいては、じゅじとどくじゅの、にぎょうのかんじんであって、ほかは、すべてこれに、ふくまれるのである。
 まず、われわれは、ごほんぞんを、おうけしたならば、なんみょうほうれんげきょうととなえる。ごほんぞんにむかって、となえればどくであり、ごほんぞんにむかわずして、となえるばあいはじゅである。このだいもくのくどくは、むりょうであり、ごんごにぜっするものである。
 たとえ、かりそめに、ままははがこどもをほめるように、こころならずも、いちかいとなえただいもくの、くどくさえ、はかりしれないほどおおきい。みょうらくは、「ほっしんしんじつならざるものも、しょうきょうにねんすればくどくなおおおし」ともといている。しかし、これは、ごほんぞんのちからの、いだいなることを、あらわしたものであって、われわれは、いっしょうじょうぶつするためには、しょうがいだいもくを、あげつづけねばならない。
 とうたいぎしょうには、「しょうじきにほうべんをすて、ただ、ほけきょうをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、うたうるひとは」、0512-10うんぬんと、じょうけんをおしめしになり、いか、ごほんぞんの、くどくがあげられている。
 また、ほうおんしょうには、「にほん、ないしかんど、げっし、いちえんぶだいにひとごとに、うちむちをきらはず、いちどうにたじをすてて、なんみょうほうれんげきょうととなうべし」0328-16とある。
 「たじをすてて」とあるとこに、こころをとどめるべきである。みょうもん、みょうりにとらわれず、ひたぶるに、だいもくをあげてこそ、ごほんいにかなうのである。
 かかるだいもくを、あげることは、ごほんぞんをじゅじすることと、ひょうりいったいである。「くうるは、やすく、たもつはかたし、さるあいだ、じょうぶつは、たもつにあり」1136-05と。ごほんぞんをじゅんしんにしんじまいらせ、だいもくをあげぬき、いかなるだいなんがあろうとも、ぜったいにごほんぞんをじゅじしきってこそ、じょうぶつできるのである。

0743    だい17 ぜしんぶっしのこと。


 おんぎくでんにいわく、ほけきょうのぎょうじゃは、しんにしゃかほうおうのみこなり、さるあいだ、おういをつぐべきなり、しっぜごしのこと、ぜしんぶっしのこと、よくよくこころえ、あわすべきなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しゃかほうおうのみこなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんの、「これしんのぶっし」とあるところの、おんぎくでんで、つぎのようにおおせである。ほけきょうのぎょうじゃは、しんに、しゃかほうおうのみこである。それゆえ、しゃかほうおうのおういをつぐことができるのである。ひゆほんの、しっぜごし、=ことごとくこれわがこなりのことは、ぜしんぶっしのこと、よくよくこころえるべきである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、しゃかほうおう、つまり、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしんにょらいの、みこである。




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