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  • [239]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな ほっしほんじゅうろくかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月25日(日)02時35分38秒
 
0736~0739 ほっしほんじゅうろくかのだいじ。

0736    だいいち ほっしのこと。
0736    だいに じょうじゅだいがん、みんしゅじょうこ、しょうおあくせ、こうえんしきょうのこと。
0736    だいさん にょらいしょけん、ぎょうにょらいことのこと。
0736    だいよん よにょらいぐしゅくのこと。
0737    だいご ぜほけきょうぞうじんこゆおんむにんのうとうのこと。
0737    だいろく もんぽうしんじゅずいじゅんふぎゃくのこと。
0737    だいなな えざしつのこと
0737    だいはち よくしゃしょけだいおうとうちょうしきょうのこと。
0738    だいきゅう ふもんほけきょうこぶっちじんのんのこと。
0738    だいじゅっ にゃくせつしきょうじうにんあっくめかとうじょうがしゃくねんぶつこおうにんのこと。
0738    だい11じゅういち ぎっしょうしんしにょくようおほっしのこと。
0738    だい12じゅうに にゃくにんよくかあくとうじょうぎっがしゃくそくけんへんげにんいしさえごのこと。
0738    だい13じゅうさん にゃくしんごんほっしそくとくぼさつどうのこと。
0738    だい14じゅうし ずいじゅんぜしがくのこと。
0739    だい15じゅうご しとがくとのこと。
0739    だい16じゅうろく とくけんごうじゃぶつのこと。

0736    だいいち ほっしのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほうとはしょほうなり、しとはしょほうが、ただちにしとなるなり、しんらさんぜんのしょほうが、ただちにしとなり、でしとなるべきなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、ほっしのなかのだいほっしなり、しょほうじっそうの、かいかくあらわれてみれば、じごくのとうねんみょうか、ないし、ぶっかにいたるまで、ことごとくぐそくして、いちねんさんぜんのほっしなり、またいわく、ほうとはだいもく、しとはにちれんとうのたぐいなり。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんに、ほっしほんの、「ほっし」ということについて、つぎのようにのべられている。「ほう」とはしょほう あらゆるげんしょうをいうのである。「し」とはしょほうがただちにしとなる。すなわち、うちゅうのあらゆるげんしょうが、いちねんさんぜんのとうたい、つまり、ごほんぞんとあらわれて、それがただちに、しとなるのである。しんらさんぜんのしょほう、すなわちなんみょうほうれんげきょうが、ただちにししょうとなり、われわれは、そのでしとなり、じょうぶつできるのである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、ほっしのなかの、だいほっし、つまり、しどうしゃのなかの、だいしどうしゃである。また、あらゆる、げんしょうは、みょうほうれんげきょうのとうたいであるという、しょほうじっそうのりが、あらわれてみれば、じごくのとうねんみょうかから、ぶっかいにいたるまで、ことごとく、いちねんさんぜんの、ほうりということが、できるのである。また、ほっしの「ほう」とは、なんみょうほうれんげきょう、「し」とはにちれんだいしょうにんのことであり、にんぽういちかをあらわしているのである。

 にんぽういちかのもんであられる。しゃかぶっぽうは、にんぽうしょうれつ、ほうがまさりひとがおとる。にちれんだいしょうにんは、ぶっぽうは、にんぽういちかである。すなわち、ほうとは、なんみょうほうれんげきょうであり、にん、はにちれんだいしょうにんとなる。
 「ほうとは、しょほうなり、しとはしょほうがただちにしとなるなり」、のおんふみは、そうかんもんしょうの「しゃかにょらい、ごひゃくじんでんこうのとうしょ、ぼんぷにておわせしとき、わがみは、ちすいかふうくうなりと、しろしめして、そくざにさとりを、ひらきたまいき」(0568-13)うんぬんの、こころにつうずるところである。すなわち、ちすいかふうくうは、しょほうであり、なんみょうほうれんげきょうのことである。かいしごたまうほとけは、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしんにょらいであり、そく、にちれんだいしょうにんであられる。
 また、しらぎさんぜんのしょほうとは、かんげんすれば、うちゅうそれじたいなのである。そのこんぽんのほうをば、にちれんだいしょうにんは、いっぷくのまんだらとしてぐげんあそばされ、いっさいしゅじょうの「じょうぶつへのし」とされたのである。
 ごほんぞんをはいして、なんみょうほうれんげきょうをちゅうしんとした、じっかいさんぜんのおんふみは、いわゆるしょほうであり、ほうほんぞんである。「にちれん」とおしたためは、にんほんぞんをあらわされている。そのごほんぞんをししょうとしてごじし、おぶついをじっせんしていくものこそ、いっさいのしゃかいじじょうを、しょうけんすることができ、しゃかいのしんのしどうしゃといえるのである。それをおんふみに、「ほっしのなかのだいほっしなり」と、おおせである。すなわち「ほっし」とは、いっぱんてきにいえば、しどうしゃのことであり、だいほっしとは、けいざいのしどうしゃ、せいじ、かがくとうのしどうしゃなどを、さらにしどうしていくげんりと、ちからをゆうすることをいうのである。
 「しょほうじっそうの、かいかくあらわれてみれば、じごくのとうねんみょうか、ないし、ぶっかにいたるまで、ことごとくぐそくして、いちねんさんぜんのほっしなり」とは、なんみょうほうれんげきょうにてらしてみるならば、じごくかい、がきかい、ちくしょうかい、にんかい、てんかい、ないし、ぼさつかい、ぶっかいとう、それじたいが、うちゅうにじつざいせる、じったいであることが、あきらかである。
 ともに、われわれせいめいのじっそう、じったいのはんちゅうでもある。ここでだいじなことは、みょうほうがこんぽんでなければ、すなわち、ごほんぞんをちゅうしんとしなければ、くにそくばくされたせいめいかつどうを、くりかえすのみであり、ろくどうりんねのいきをでないのである。したがってここでは、われわれこ々このせいかつにおいても、しゃかいにおけるかつどうも、もしみょうほうをしどうりねんとするならば、じっかいのせいめいことごとく、こうふくへの、かちそうぞうをいとなむことが、できるのであるとのことばであられる。

0736    だいに じょうじゅだいがん みんしゅじょうこ しょうおあくせ こうえんしきょうのこと

 おんぎくでんにいわく、だいがんとはほっけぐつうなり、みんしゅじょうことはにほんこくの、いっさいしゅじょうなり、しょうおあくせのひととは、にちれんとうのたぐいなり、こうとはなんえんぶだいなり、しきょうとはだいもくなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほっしほんには、まっぽうにおいて、ほけきょうをひろめるひとは、じつはだいぼさつがねがって、あくせにうまれて、きたのであるとのべている。
 「このしょにんとうは、すでにかつて、じゅうまんおくのほとけをくようし、しょぶつのところにおいて、だいがんをじょうじゅして、しゅじょうをあわれむがゆえに、このにんげんに、しょうずるなり」、「このひとは、これだいぼさつの、あのくたらさんみゃくさんぼだいを、じょうじゅして、しゅじょうをあいみんし、ねがって、このあいだにうまれ、ひろくみょうほけきょうをべの、ふんべつするなり」、「このひとは、みずからしょうじょうのごうほうをすてて、わがめつどののちにおいて、しゅじょうをあわれむがこに、あくせにうまれて、ひろくこのきょうをのぶるなり」などのもんしょうがある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「だいがんをじょうじゅして」の「だいがん」とは、ほっけぐつうのことである。つまり、こうせんるふのことである。まっぽうしゅつげんのぢゆのぼさつは、すでに、たのせかいにおいて、こうせんるふをじょうじゅしてきたのである。
 「しゅじょうをあわれむがゆえに」の「しゅじょう」とは、にほんこくのいっさいしゅじょうのことである。そして、その「あくせにうまれて」の「ひろく」とはなんえんぶだい、いちえんぶだい、すなわち、せかいぜんたいにこうせんるふすることであり、「このきょう」とはだいもく、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょうのことである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうをとなえたてまつる、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかこそ、このほっしほんのもんしょうにあたるのである。

 このもんは、ぢゆのぼさつのしめい、もくてきをあかされている。「だいがんとはほっけぐつうなり」とは、ごほんぞんのこうせんるふである。すなわち、おのおの、ぢゆのぼさつとして、いっしょうじょうぶつ、すなわち、こうふくせいかつかくりつは、とうぜんのことであるが、さらにたたかいのこまをすすめて、ぶっぽうにみをささげる、このすがたこそ、しんのにちれんだいしょうにんのでしであり、さんぜじっぽうのほとけ、ぼさつよりだいしょうさんをうけるのである。
 「みんしゅじょうことは、にほんこくのいっさいしゅじょうなり」とは、べっしては、にちれんだいしょうにんが、にほんこくにごしゅつげんあそばされたがゆえに、とうぜん、にほんこくのひと々びとを、まず、おすくいくださるとの、だいじだいひとはいすることができるのである。そうじては、ぜんせかいのひと々びとが、「みんしゅじょうこ」のしゅじょうになることは、とうぜんのことである。
 げんじつに、インド、ちゅうごく、かんこくなど、かって、ぜんせいをほこったしゃかぶっぽうは、ほとんどしょうめつしてしまい、ぶっきょうはっしょうのちたる、インドにおいてすら、ヒンズーきょうとが、はちわりごぶをしめるありさまであって、ぶっきょうとは、ごくわずかしか、のこっていないのである。そのぶっきょうとも、しょうじょうきょうをやったり、ごんだいじょうきょうであったりして、ちしきじんから、まったくあいてにされない。
 ちゅうごくは、きょうさんけんであり、とうぜん、いきたぶっぽうが、そんざいするわけがない。おそらく、々ほそぼそとそんざいしているに、すぎないであろう。また、あったとしても、かせきのような、しゃくそん、てんだいぶっぽうのよじんである。
 にほんはどうかといえば、まったくどうようである。「ぶっぽう」なきにひとしい。しゅうきょうほうじんとなのつくものが、18じゅうはちまんもかぞえられるが、しゅうきょうのせいじゃ、ぜんあくはめいらんして、しゅうきょうはなんでもよいということになり、むしろ、じゃほう、じゃしゅうのために、しんのこうふくも、しんのへいわこっかも、けんせつできえないのである。それは、だいしょうにんございせも、こんにちもおなじであり、そのじゃほうにそまったひと々びとは、みんしゅじょうこのひと々びとにあたるのである。
 いちにちもはやく、だいしゃくぶくのしんぐんをし、はじゃけんしょうのつるぎをひっさげて、じゃしゅう、じゃぎをうちやぶり、ゆめにみる、ぶっこくどのけんせつを、じつげんしたいものである。そして、だいしょうにんのおんなげきを、およろこびに、かえていきたいものである。

0736    だいよん よにょらいぐしゅくのこと

おんぎくでんにいわく、ほっけのぎょうじゃは、だんじょともににょらいなり、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、よにょらいぐしゅくのものなり、ふだいしのしゃくにいわく、「ちょうちょう、ほとけとともにおき、せきせき、ほとけとともにふし、ときどきにじょうどうし、ときどきにけんぼんす」とうんぬん。

 まっぽうにほけきょうをぐつうするものについて、「このひとは、にょらいとともに、しゅくするなり」とある。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「ほけきょうのぎょうじゃ」すなわち、なんみょうほうれんげきょうをとなえ、しゃくぶくをぎょうずるものは、だんじょともに、にょらいである。それは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのせいかつをおくるからである。いま、なんみょうほうれんげきょうをとなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、「にょらいとともにしゅくする」ものである。みろくぼさつのこうしんであるといわれる、ふだいしは「まいあさ、ごほんぞんにおあいし、またまいばん、ごほんぞんとともにやすらかにねていく。まただいじなとき、だいじなもんだいについて、だいもくをとなえ、じかくにたって、こうどうすることである」とのべている。

 このもんは、だんじょどうけんのげんりを、とかれているもんである。とうようでは、とにかくじょせいのしゃかいてきちいがひくく、かんがえられているが、にちれんだいしょうにんのぶっぽうにおいては、じつにめいりょうに、だんじょのびょうどうをとかれているのである。しかも、700ねんまえにおいて。
 したがって、なんみょうほうれんげきょうをごじしただんじょは、ともに、さいこうのじんせいかんにたち、しゃかいかんをもって、こうふくなせいかつができるということである。これは、わががっかいのふじんぶ、じょしぶのかっぱつなかつどうが、じっしょうしている。これにたいし、たんなるほうりつじょうのだんじょどうけんは、かたちだけのものであって、ほんしつてきなどうけんとは、なりえないのである。
 「ふだいしのしゃくにいわく」とは、あさのごんぎょう、ゆうべのごんぎょう、せつなのだいもくとうは、われわれのじんせいこうろを、こんぽんてきにあやまちなく、もっとも、ゆういぎにせいかつできる、いんごうであることをといているのである。あたかも、ひ々びのごんぎょうは、そうもくのねに、まいにちみずをかけ、ひりょうをほどこしてねをはらせ、みき、くきをふとらせ、はなをさかせ、かをみのらせていくようなものである。
 もし、しん、ぎょうのないじんせいは、いくらえいよ、えいたつがあり、ゆうめい、にんきなどがあったとしても、はかない、ゆめのようなせいかつにおわってしまうのである。これにたいし、じみではあるが、まいにち、しんぎょうをつみかさねていくじんせいは、もっともとうとく、ただしく、そしてちゃくじつに、だいふくうんをつんでいくのである。ただ、わすれてはならぬことは、じぎょう、けたにわたるしんじんがなければ、りこしゅぎにおちいり、けんどんのつみを、まぬがれないということである。

0737    だいご ぜほけきょうぞう、じんごゆうおん、むにんのうとうのこと

 おんぎくでんにいわく、ぜほけきょうぞうとは、だいもくなり、じんごとはほんもんなり、ゆうおんとはしゃくもんなり、むにんのうとうとはほうぼうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、むにんのうとうのものに、あらざざるなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
「この、ほけきょうのぞうは、じんごゆうおんにして、ひとのよくいたるなし」とある。おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。「このほけきょうのぞう」とは、なんみょうほうれんげきょうのことである。じんことはほんもんのことであり、ゆうおんとはしゃくもんのことである。「むにんのうとう」とは、このじんのんな、ぶっぽうてつりをりかいできず、しんずることのできない、ほうぼうのもののことである。いまだいもくをとなえ、しんじんしゅぎょうにはげむにちれんだいしょうにん、ならびにそのもんかは、むにんのうとうのものではないのである。

 ここは、ほけきょうのせいめいてつがくの、じんのんなることを、しめされたもんである。よこには、くうけちゅうのさんたい、うちゅうぜんたいをとき、たてには、くおん、すなわちえいえんのせいめいを、ときあかしているがゆえに。
 そのせいめいてつがくこそ、ごじゅうのそうたい、さんじゅうひでん、しじゅうのこうはいとう、もんしょう、りしょう、げんしょうによって、どくぜんではなく、さいこうむにの、だいてつりであることは、けっじょうである。しょうじょうのてつりにしても、げどうよりみれば、いくえにもじんのんでることがうかがえる。いわんや、まっぽうのどいついっぽんもんのだいぶっぽうにおいてをやである。「むにんのうとう」とは、さんきょうのぼうじゃをいう。げんこんの、せんぱくなるてつがく、ひょうろんかのたぐいも、そのなかに、とうぜんはいる。ぶっぽうのおうていもきわめず、にんしきもせず、じつせんもせず、みだりに、イヌのとおぼえのごとくに、ひはんする、ぞうじょうまんのものこそ、みずから、ぼけつをほっているわけである。らんせい、らんごくには、あくにん、きょうゆうのみ、はばをきかすものである。
 いまのにほんこくに、しんじだいを、けんせつ、しどうしゆく、しんのしどうしゃ、がくしゃ、ひょうろんかのそんざいせぬことを、かなしむのは、わたしひとりではないとおもう。あたえていうならば、かならずや、あたらしきたかやま ちょぎゅうや、みやざわ けんじとうのようなふつほうがくしゃが、しゅつげんすることを、しんじてやまない。かいもくしょうには「ちしゃにわがぎやぶられずば、もちいじとなり、そのほかのだいなん、かぜのまえのちりなるべし、われ、にほんのはしらとならむ、われ、にほんのげんもくとならむ、われ、にほんのたいせんとならむとうとちかいしねがい、やぶるべからず。」(0232-04)と。しょせん、いかなるものが、いかに、ひそうてき、かんじょうてきに、そうかがっかいをひはんし、だんあつしようが、さんだいひほうのだいぶつほうを、やぶり、こわすことは、ぜったいにできないのである。
 きせいしゅうきょうは、きぎょうとなり、しのはかばんにすぎない。せいじゃのごとく、じんかくしゃのごとくみえるけれども、こころは、ちくしょうにもおとっている。しんこうしゅうきょうも、またおなじく、ほうをぬすみとり、ぜんぶきぎょうのためであり、たくみに、よわたりのみにしゅうしし、ひと々びとを、じごくにたたきこんでいるげんじょうである。そのしょうこには、かんこうちとか、あるいはてんねんきねんぶつのめいしょというようなところには、かならずといってよいほど、しんぶつをまつってあり、みるひとが、かえってきぶんをそこねている。なんのために、このようになっているのか、まったくはんだんにくるしむのである。したがって、しゅうきょうは、すでに、ちしきじんから、ぶべつされきっているのである。
 くにか、またはしどうしゃたちが、しゅうきょうのせいじゃを、しんけんにけんきゅうし、まどわぬようになるか、または、しゅうきょうはしゅうきょうのひろばにおいて、さかんにほうろん、ろんぎをさせ、しゅうきょうのせいじゃのしょうぶをば、さらに、さらに、すいしんさせゆくべきであろう。ぶっぽうをかいせぬ、ひょうろんかとうが、がっかいひはんをなすことは、まことにせいしんいじょうともいいたい。なぜならば、やおやが、かがくしゃをひはんし、こどもが、せきとりと、すもうをするとうなどうりと、かわらぬからである。

0737    だいろく もんぽうしんじゅ、ずいじゅんふぎゃくのこと。

おんぎくでんにいわく、もんとはみょうじそくなり、ほうとはだいもくなり、しんじゅとはじゅじなり、ずいじゅんふぎゃくとは、ほんしゃくにもんにずいじゅんするなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるもののことなり。

かいしゃくこうぎ。
「この、もろもろのけにん、ほうをきいてしんじゅし、ずいじゅんしてわじさから」についての、おんぎくでんである。
「もん」とは、みょうじそくのくらいである。「ほう」とは、なんみょうほうれんげきょうのことである。「しんじゅ」とは、ごほんぞんをじゅじすることである。「ずいじゅんふぎゃく」とは、ほんもんじゅりょうほんと、しゃくもんほうべんぽんにずいじゅんすることである。つまり、このりょうほんを、ごんぎょうにもちいていることを、いうのである。いま、この、「もんぽうしんじゅ、ずいじゅんふぎゃく」のものとは、なんみょうほうれんげきょうを、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかを、さすのである。

 じゅじそくかんじんを、あかしている。もんぽうのもんとは、ろくそくいのみょうじそくのことであり、たんにみみできくことではなく、みでほうをきくということであり、すなわち、さんだいひほうのごほんぞんをじゅじするならば、それがかんじん、しんじんというのである。ゆえに、しんじんを、まっとうするとは、「しきょうなんじ」の、ごきんげんのごよく、このごほんぞんをいっしょうがい、いかなるくなんにもくっせず、じゅじしとおすひとこそ、じょうぶつのきょうがいを、えとくできるのである。
 このごほんぞんを、こんぽんとして、だいもくをしょうぎょうとし、ほうべん、じゅりょうをじょぎょうとして、しょはしゃくもん、しょはしょゆうのうえから、ほんしゃくにもんに、ずいじゅんして、さからわないというのである。ゆえに、ほんもんじゅりょうほん、しゃくもんほうべんぽんを、よむのであるとの、おんふみとはいする。しょせん、だいしょうにんのもんかは、ただしくきょうもんどおりのじっせんを、しているとの、こころであるとおもう。

0737    だいなな えざしつのこと。

おんぎくでんにいわく、えざしつとは、ほっぽうおうのさんじんなり、くうけちゅうのさんたいしんくいのさんごうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、このさんきを、いちねんにじょうじゅするなり、ころもとはにゅうわにんにくのころも、とうじゃくにんにくかい、これなり、ざとはふしゃくしんみょうの、しゅぎょうなれば、くうざにこするなり、しつとは、じひにじゅうして、ひろむるゆえなり、ははのこをおもうがごとくなり、あに、いちねんにさんきをぐそくするにあらずや。

かいしゃくこうぎ。
 えざしつのさんきについては、ほっしほんにつぎのようにある。
 「やくおう、もしぜんなんじ、ぜんにょにんあって、にょらいのめつごに、ししゅうのために、ほけきょうをとかんほっせば、いかんがまさにとくべき、このぜんなんこ、ぜんにんは、にょらいのしつにはいり、にょらいのころもをき、にょらいのざにざして、しかして、ししゅうのためにひろく、このきょうをとくべし、にょらいのしつとは、いっさいしゅじょうのなかの、だいじひしん、これなり、にょらいのころもとは、にゅうわにんにくのこころ、これなり。にょらいのざとは、いっさいほっくう、これなり。このなかに、あんじゅうして、しかしてのちに、ふけたいのこころをもって、もろもろのぼさつ、および、ししゅうのために、ひろく、これのほけきょうをとくべし」と。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。えざしつのさんきとは、ほっぽうおうのさんじんである。くうけちゅうのさんたいであり、しんくいのさんごうである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、このえざしつの、さんきをみずからのいのちのなかに、じょうじゅするのである。「ころも」とは、だいなんをたえしのぶ、にゅうわにんにくのころもである。ゆうめいな、かんじほんだいじゅうさんのにじゅうぎょうのげのなかに「じょくこうあくせのなかには、おおくもろもろのくふあらん、あっきそのみにはいって、われをめりきにくせん、われら、ほとけをきょうしんして、まさににんにくのよろいをきるべし、このきょうを、とかんがためのゆえに、このもろもろのなんじを、しのばん、わが、しんみょうをあいせず、ただむじょうのどうをおしむ」とあるのが、これである。「ざ」とはふしゃくしんみょうのしゅぎょうであり、「くう」とは、なんみょうほうれんげきょうをとなえて、いちねんさんぜんのとうたいとしての、はたらきをいうのである。「しつ」とは、だいじひしんをもって、しゃくぶくするゆえである。ははがこのことを、しんぱいするようなきもちのことである。このように、みずからのいのちのなかに、えざしつのさんきを、そなえているではないか。

 まっぽうのさんきを、のべられている。さんきとは、すべてまっぽうの、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのおふるまいのことであり、はじめの、「にゅうわにんにくのころも」は、いっさいしゅじょうを、えいえんにおすくいくださるため、だいなんをしのばれ、さんだいひほうのごほんぞんを、ごこんりゅうたまわったことである。「くうきょにこする」とは、みょうもんみょうりに、いっさいかまわず、すべていちねんさんぜんのごとうたいとして、いっさいしゅじょうに、ぶっちをさずけんがための、おふるまいをいうのである。
 「しつとはじひにじゅうして、ひろむるゆえなり」ばっくよらくのぎであり、ほんげんてきに、しゅじょうのくをとりのぞかれ、こんぽんてきに、じょうらくがじょうのだいふくうんを、あたえたもうのである。それは、なんみょうほうれんげきょうの、ごとうたいとしての、しょさであられる。いま、わたしたちは、このごほんぶつのでしとして、だいしょうにんの、おふるまいの、まんぶんのいちでも、ちからをつくし、ごほうおんのまことを、じっせんかつどうのうえに、あらわさねばならぬとしんずる。

0737    だいはち よくしゃしょけだい、おうとうちょうしきょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、もろもろのけだいとは、よんじゅうよねんのほうべんのきょうきょうなり、ことごとくみな、けだいのきょうなり、しきょうとはだいもくなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、これすなわち、しょうじんなり、おうとうちょうしきょうはこれなり、まさに、にちれんにこのきょうをきくべしといえりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
「もろもろの、けだいをすてんとほっせば、なさに、このきょうをきくべし」とよむ。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「もろもろのけだい」とは、よんじゅうよねんのほうべんごんきょう、にぜんきょうのことで、これらはことごとく、けだいのきょうである。
 「しきょう」とは、だいもくのことである。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることは、けだいではなくして、しょうじんのことである。にちかんしょうにんは、「えぎはんもんしょう」のなかで、「しょうじんはすなわちこれしょうだいのぎょうなり、ゆえにしゃくにいわく、『むざつのゆえにしょう、むげんのゆえにしん』とうんぬん、しゅうそいわく、『もっぱらだいもくをもちて、よぶんをまじえず』うんぬん」ともうされている。
 すなわち、じゅんすいに、またかんだんなく、しょうだいにはげむゆえに、しょうじんぎょうにあたるのである。このようなすがたを、おうとうちょうしきょうというのである。このまさの「おう」といういみは、にちれんだいしょうにんにおうじて、すなわち、にちれんだいしょうにんにしたがって、なんみょうほうれんげきょうを、しんずべきであるといういみである。

 ぶっぽうてつり、しそうのこうていをのべられている。しゅうきょうやしそうの、ないよういかんによって、みんしゅうのこう、ふこうがけっていされてしまうからである。ひと々びとをだらくにみちびくしそうもある。また、みんしゅうをこうりゅうさせていくしそうもあれば、しゃかいをはかいしていくしそう、てつがくのないようこそ、こじんを、しゃかいをくるわし、もしくは、すくいもする、おおきなりきがあることは、われらは、めいきしなければならない。
 しゃくそんも、だいしょうにんも、ここでは、よんじゅうよねんのにぜんのきょう々きょうをさして、はっきりと、けだいのきょうであると、だんげんなされておられるのである。すなわち、けだいのきょうは、こじんをだらくさせ、ふこうにし、くにをほろぼすきょうである。とのけつろんである。このだいしょうにんのけいこくを、まじめにきくものは、だれであるか。
 にほんこくのげんざいのぶっきょうかい、ないし、とうなんアジアのしゅうきょうなど、こっか、しゃかいにおよぼすえいきょうをみるに、みな、このけだいのきょうのなかにはいることは、あきらかではないか。にほんにぜんこくてきそしきをもつぜんにちふつも、しんしゅうれんも、いずれもけだいのきょう々きょうを、ひょうぼうしているから、すでにしゅうきょうほんらいのしめいもすいこうできず、ましてや、しゃかいのかくめいなどは、おもいもよらぬことであろう。じつに、ひせいさんてきな、まったく、けだいのそんざいといわざるをえない。
 これにたいして、だいしょうにんは、なんみょうほうれんげきょうとしょうだいすることは、「しょうじん」であるとおおせである。すなわち、「しょう」とは「むざつ」、「しん」とは「むげん」とやくす。しょせん「しょう」とは、ごほんぞんであり、「しん」とは、かんだんないじっせんである。したがって、このみょうほうをこんぽんりねんとするならば、おのおのじたいけんしょうされて、しゃかいのはんえいのため、おおきくこうけんすることができるのである。みょうほうはそのげんせんであり、ちからとなることはろんをまたぬ。




0738    だいきゅう ふもんほけきょう こぶっちじんのんのこと。

おんぎくでんにいわく、ふもんとは、ほうぼうなり、じょうぶつのちをとおざかるべきなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものはぶっちかいごのものにして、じょうぶつのちかきゆえなり。

かいしゃくこうぎ。
「ほけきょうをきかずんば、ぶっちをさること、はなはだとおし」とよむ。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「ふもん」とは、ほけきょうすなわち、なんみょうほうれんげきょうのおしえをきかないがゆえにほうぼうである。それは、じょうぶつのきょうがいから、ひじょうにとおざかることになるのである。いまなんみょうほうれんげきょうを、となえるにちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、ぶっかいをゆげんし、げんじつせいかつのうえに、じょうぶつのしょうこをあらわすのである。

 「ぶっちかいごのものにして、じょうぶつちかきゆえなり」とは、なんみょうほうれんげきょうによらなければ、ぜったいにこうふくはかくりつできぬとのおんふみである。
 そうたいてきなこうふく、けんこう、ざいさん、めいよなどは、そのひとのふくうん、どりょく、ちえ、さいのうとうによって、たやすくえられるものである。しかるに、えいえんのせいめいをえとくし、えいえんにさかえゆくこんごうふえのぜったいてきこうふくは、ただ、みょうほうのごほんぞんをじゅじし、しんぎょうにはげむいがいには、ぜったいにえられない。
 いかなるゆうめいじん、せいこうしゃたりとも、おんぎくでんをそのままはいすれば、ぶっぽうにたいして「ふもん」であり、すなわち、ほうぼうとなる。したがって、そのふくうんはしだいにおとろえゆき、さいごはひげきにおわらざるをえないといえよう。このすがた、げんしょうは、わたしたちも、しばしばみせつけられているが、ぶっぽうのきびしさを、これによってあらためてしるのである。
 みょうほうのみは、せいかつほうのげんりであり、このむとこのまざるとにかかわらず、あらゆるひと々びとがぜったいひつようとするほうりなのである。きく、きかない、というそうたいてきなほうそくではけっしてない。みょうほうをじゅじせぬことは、じどうしゃにガソリンがないようなものであり、また、テレビやでんわがあっても、でんりゅうをひつようとしないとするかんがえににている。しゃくぶくをされても、ごほんぞんのはなしにみみをかさないようなひとは、せっかくのじんせいをかんきを、ついにしることなく、しょうがいをおえてしまうことは、まことにざんねんといういがいにない。

0738    だいじゅう にゃくせつしきょうじ、うにんあっくめかとうじょうがしゃく、ねんぶつこおうにんのこと。

 おんぎくでんにいわく、しきょうとはだいもくなり、あっくとはくごうなり、かとうじょうはしんごうなり、このしんくのにごうは、いごうよりおこるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、ぶつちょくをねんずるがゆえに、おうにんとはいうなり。

かいしゃくこうぎ。
「もしこのきょうをとかんとき、ひとあって、あっくしののしり、とうじょうがしゃくをくわうとも、ほとけをねんずるゆえにまさにしのぶべし」とよむ、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「このきょう」とはなんみょうほうれんげきょうのことである。また、あっくなどのなんを、しんくいのさんてんからみれば、「あっく」はくちのうごきであるからくごうである。「とうじょうがしゃくをくわう」ということはみのうごきであるから、しんごうである。
 そして、このしんくにごうのはくがいは、かれらのこころのはたらき、すなわちいごうからおきてくるのである。いまなんみょうほうれんげきょうをとなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、こうせんるふのぶつちょくをねんずるがゆえに、これらのなんをしのぶのである。

 だいさんるいのごうてきのもんである。だいしょうにんをはくがいした、へいのさえもんじょうのいちぞくのめつぼう、これはせんじしょうもんだんにしょうさいにのべられている。
 たいへいようせんそうのとき、そうかがっかいをだんあつしたかんけんが、おなじくげんぜんたるぶつばつをこうむったことも、とだぜんかいちょうのこうえんしゅうに、くわしくのべられている。なおこんにちおいても、がっかいひはんのれんちゅうのげんしょうは、おのおの、おそろしいほどみぢかにみるところである。
 これらのげんしょうはなぜか。これこそ、にちれんがいちもんのとうそうは、ぶつちょくをねんじてのとうそうであるからである。しこうして、さいおう、だいしょうにんのだいじだいひのおすがたをはいするならば「へいのさえもんこそだいばだった」とおおせあそばされ、じゅんずるものも、またぼうずるものも、ともに、おすくいくださるのである。
 したがって、このおんふみをはいし、しゃくぶくしてはんたいしたからといって、すぐかんじょうてきになってはならぬ。「おうにん」のにじを、よくよくこころにいれて、しゃくぶくをおこなうべきである
 われらは、ゆいいつ、むじょうのしょうほうをたもっているゆえに、たとえば、くにのほうりつでもつみあるひとをいましめ、つみするとどうように、ぶっぽうのせかいでも、ふついをほうずるわれわれをば、もしぼうじたり、ひはんしたりするならば、しょてんぜんじんが、これをきびしく、いましめていくことは、とうぜんのりであるとおもう。

0738    だい11 ぎゅうしょうしんじにょ、くようおほっしのこと。

おんぎくでんにいわく、じにょとはだんじょなり、ほっしとはにちれんとうのたぐいなり、しょうしんとはほけきょうにしんじんのものなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるもの、これなりうんぬん、これ、しょてんぜんじんとう、だんじょとあらわれて、ほけきょうのぎょうじゃを、くようすべしというきょうもんなり。

 ほっしほんには、しょてんぜんじんのはたらきについて、つぎのようなもんしょうがある「われ、けのししゅう、びくびくに、およびしょうしんにょをつかわして、ほっしをくようせしむ」うんぬんと。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「じにょ」とはだんじょということである。「ほっし」とは、ほけきょうのぎょうじゃである、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかのことである。「しょうしん」とは、ほけきょう=ごほんぞんをしんずるものについて、いうのである。いまなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんのでしだんなのしんじんは、しょうしんである。
 このもんしょうは、しょてんぜんじんが、しんじんごうじょうな、だんじょのすがたをとって、ほけきょうのぎょうじゃ、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかを、くようするというきょうもんである。

 ほけきょうのぎょうじゃは、かならず、さまざまなかたちで、まもられるというおんふみである。
 いっけんして、ふしぎにおもえるきょうもんであるが、せいめいろんよりふかくこうさつするならば、かんのうのげんりより、しょてんぜんじんのかごが、ぜったいにあるとかくしんするのである。
 にちれんだいしょうにんが、いずのいとうにるざいされたときには、ふなもりやさぶろうのふさいが、しんけんにおくようもうしあげ、だいしょうにんから「ことにごがつのころなれば、こめもとぼしかるらんに、にちれんをないないにて、はぐくみたまいしことは、にちれんがふぼのいずのいとう、かわなというところに、うまれかわりたまうか、ほけきょうだいしにいわく『ぎゅうしょうしんじにょくようおほっし』とうんぬん。ほけきょうをぎょうぜんものをば、しょてんぜんじん、あるいは、おとこになり、あるいはおんなとなり、かたちをかへさまざまに、くようして、たすくべしという、きょうもんなり、やさぶろうどのふうふのじにょとうまれて、にちれんほっしをくようすること、うたがいなし」(1445-08)とのおことばをたまわっている。また、さどごるざいのときのあぶつぼう、せんにちあまふさいのいのちをかけてのかつやくは、このきょうもんにふごうして、あわせたごとくではないか。
 また、げんざい、われわれも、しんこうのせいかつたいけんをとおして、だれひとも、しょてんのかごをみとめざるをえないのである。ぶっぽうはけっしてかんねんろんではない。げんじつろんであり、しょうこしゅぎである。したがって、ごほんぞんをじゅじするひとは、かならず、おやこ、きょうだい、ゆうじんなどから、またしょくばや、しゃかいとうにおいても、じじつ、さまざまなかたちをもって、まもられているのであり、よくくどくがないというひとも、しゅういをみつめたり、にゅうしんじにさかのぼってげんざいをかんがえてみたときに、いつのまにかだいくどくをうけているのに、きがつくのである。このだんは、そのげんりをとかれているとおもう。

0738    だい12 にゃくにんよっかあく、とうじょうきゅうがしゃく、そくけんへんげにん、いしさえごのこと。

 おんぎくでんにいわく、にんとは、たつのくちしゅごのはちまんだいぼさつなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものを、しゅごすべしというきょうもんなり。

 「もしりみだに、とうじょうおよびがしゃくを、くわえんとほっせば、すなわちへんげのひとをつかわして、これがために、えごをなさん」ということである。これも、しょてんぜんじんのはたらきをのべたものである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このへんげにんとは、たとえばたつのくちのくびのざのとき、はちまんだいぼさつが、しゅごのちからをはっきして、ひかりものがあらわれたことをさすのである。まっぽうにおいて、なんみょうほうれんげきょうをとなえる、にちれんだいしょうにんおよびそのでしだんなを、しょてんぜんじんがかならずしゅごするという、きょうもんなのである。

かいしゃくこうぎ。
 これも、しょてんぜんじんのはたらきのもんである。ぼんぷのそうぞうをぜっする、ごほんぶつへのはくがいや、これにまさずる、おふるまいについて、われらしんじゃとの、へだたりは、どうしようもない。しかして、このきょうもんのごとく、だいしょうにんにたいする、しょてんぜんじんのはたらきは、げんぜんとあらわれたのである。
 しょせん、このきょうのほうりは、われらしんじゃのたちばより、かんがえるならば、じこがかわれば、こくども、かんきょうも、しゅういのひと々びとも、みなかわるというじじつから、しさくし、えとくすべきであろう。
 これこそぶっぽうのしんずい、いちねんさんぜんのだいてつりであり、これをかくちせんがためのしんじんである。じこのせいめいかつどうが、だいうちゅうのせいめいかつどうにかんのうしていくかんけいであるがゆえに、いっさいを、じざいにうごかしえることは、まちがいないことといえるのである。

0738    だい13 にゃくしんごんほっし、そくとくぼさつどうのこと。

 おんぎくでんにいわく、しんごんとはしんじゅのいみょうなり、ほっしとはにちれんとうのたぐいなり、ぼさつとはぶっかをえるしたじなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるもののことなり。

かいしゃくこうぎ。
 「もし、ほっしにしんごんせば、すみやかに、ぼさつのどうをえ」の、もんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「しんごん」とは、しんじゅのべつめいである、「ほっし」とはにちれんだいしょうにんおよび、そのもんかのことである。ぼさつとは、ぶっかいにはいるしたじである。いま、ほっしである、にちれんだいしょうにんのおおしえをしんじゅし、なんみょうほうれんげきょうを、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんのでしだんなは、じょうぶつへの、じきどうであるぼさつのどうを、えたといえるのである。

ぼさつとはぶっかをえるしたじなり。
 ぼさつのぎょうをしなくては、ぶっかをうることができないのは、つうずのぶっぽうのていそくである。
 こんにちにおいては、われわれは、ぢゆのぼさつのこうどうをとり、じっせんかつどうをおこなっているのである。このぼさつどうをぎょうじて、はじめてほんかくのにょらいを、かくちすることができる。しょうがっこうでべんきょうせねば、ちゅうがっこうにしんきゅうできないとどうように、また、ちゅうがっこうやこうこうのしたじがなく、じつりょくがなければ、だいがくにははいれないのとどうように、ぶっかをめざしてすすむときは、げんざいのぼさつどうにしょうじんするのである。しかして、だいしょうにんのぶっぽうでは、このぼさつどうは、あくまでもげゆうのすがたであり、ないしょうのへんは、すでに、だいしょうにんのけんぞくなのである。

0738    だい14 ずいじゅんぜしがくのこと。

0739、おんぎくでんにいわく、ぜしとは、にちれんとうのたぐいなり、がくとはなんみょうほうれんげきょうなり、ずいじゅんとは、しんじゅなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「ぜし」とはにちれんだいしょうにんのことである。「がく」とは、なんみょうほうれんげきょうをまなぶのである。「ずいじゅん」するとは「しんじゅ」するということである。つまり、にちれんだいしょうにんを、ししょうとあおぎ、そのごきんげんをしんじゅし、にんぽういつかのごほんぞんにむかって、なんみょうほうれんげきょうととなえるということである。

 このもんは、じんせいにおける、こんぽんてきなしていろんをとかれている。「ぜし」とは、にちれんだいしょうにんであり、にんほんぞんとなる。「がく」とはみょうほうのことであり、ぽうほんぞんのことである。「ずいじゅん」とはしんじゅのぎであり、われらは、にちれんだいしょうにんを、「し」とさだめ、いっしょうがい、そのおしえをしんじゅし、なんみょうほうれんげきょうを、じっせんするのであり、すなわち、さんだいひほうのごほんぞんをしんじゅし、じっせんにはげむことである。ただし、あくしにずいじゅんしたときは、かならずふこうとこんらんをまねき、ぜんしにずいじゅんしてこそ、こうふくとはんえいがきょうじゅできるのである。
 げんざいのにほんにおいては、「し」にたいするかんねんが、ほとんどいしきされなくなった。これは、まことにふこうなことといわねばならない。せんご、とうとうとしてしんとうしたみんしゅしゅぎしそうを、そのしんのいぎをりかいせず、じしゅせいもかくりつしないままに、うけいれたゆえであるが、ただかこのそくばくから、とつぜんかいほうされたというだけであって、じんせいのこんぽんもんだいであるべきしていのみちを、まったくわすれてしまったかのようである。だが、このげんこんのじじつをもって、していのみちが、ふひつようであるとはいえない。いな、じんせいにおけるこうどうも、みんしゅうのしそうも、すべてしによってけっじょうされているのである。
 いちめんからいえば、みんしゅしゅぎそれじたいを、かくりつするためにも、そのだいちともいうべき、ほんげんてきな、いだいなる「ししょう」が、ぜったいにひつようなのである。しかして、しといっても、われらのじんせいにおいて、しょうがっこうのし、ちゅうがっこうのし、こうこうのし、だいがくのし、またきょうかしょとしてのし、あるいはじゅうどうのし、けんどうのし、かくスポーツのし、げいじゅつのし、いがくのし、かがくのし、けいざいがくのし、ぶんがくのし、てつがくのし、かくしょくばにおけるしとう々とう、まことにたしゅたようのしがある。 だが、これらのしは、すべて、こんぽんてきな「ししょう」とはいえないのである。なぜなら、かれらはしんにじんせいを、しどうしきれるものではないゆえである。しょせん、そのこんぽんてきなししょうこそ、さんぜにつうぎょうされた、まっぽうのごほんぶつたる、にちれんだいしょうにんであり、ほうにおいては、なんみょうほうれんげきょうとけっじょうすべきことを、しゅちょうしてやまない。
 もし、かりに、にちれんだいしょうにんいがいに、こんにちのしそうをよくしどうするものが、そんざいするとすれば、それは、だれびとであろうか。われらのしんしな、かがくてきけんきゅうによっても、そのだいてつりは、いまだみあたらない。また、そのしょうことしての、じじつもきかない。だが、にちれんだいしょうにんのだいてつがくをししんとして、じっせんするならば、すべてのひとのこうふくをかくりつできうることは、すでに、いくせんまんのがっかいいんのすがたが、これをよくしょうめいしているといえよう。これをしゃかいにあてはめたとき、せいじ、きょういく、かがくとうのいっさいのはんえいが、じつげんされることは、いうまでもない。
 いま、けつろんよりのべれば、まっぽういまどきは、ばんにんきょうつうのだいししょうである、さんだいひほうのごほんぞんを、しとするいがいに、じんせいのこんぽんてきな「し」は、そんざいしないのである。また、これをしんじゅするものこそ、しんじつの「していのみち」を、まっとうしたといえるのである。

0739    だい15 しとがくとのこと。

 おんぎくでんにいわく、にちれんとうのたぐいの、なんみょうほうれんげきょうはがくしゃのいちねんさんぜんなり、しもがくもともにほうかいさんぜんのしがくなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ぜんこうの、「だいじゅうしずいじゅんぜしがくのこと」に、かんれんしたないようである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。にちれんだいしょうにんならびにそのもんかのとなえる、なんみょうほうれんげきょうというのは、しんじつのぶっぽうをたんきゅうし、じっせんしていくものの、いちねんさんぜんのとうたいである。したがって、ししょうである、にちれんだいしょうにんも、また、そのししょうにちれんだいしょうにんのおしえ、なんみょうほうれんげきょうをしんじゅし、じっせんしていくもんかも、ともに、うちゅうしんらばんしょうの、いっさいのししょうであり、がくしゃとなるのである。しょせん、いちねんさんぜんをしったひとは、していふに、きょうちみょうごうのげんりによって、せかいさいこうのがくしゃである。あらゆるかいそう、あらゆるせかいにおいて、だいしどうしゃとしてくんりんすべきしかくがあるとのおんふみである。

 「しもがくもともに、ほうかいさんぜんのしがくなり」とは、していふにろん、きょうちみょうごうである。しとともに、またきゅうどうしゃのたちばとして、せいめいのほんしつをまなび、じっせんしていることをあかしている。
 これは、たきょうだんのきょうぎなどの、とおくおよばないとうてつしたろんりであり、またきせい、しんこうしゅうきょうのきょうそかんを、こんていよりくつがえしているてつりである。
 ししょうたるにちれんだいしょうにんのおせいめいも、ずいじゅんする、でしであるわれらぼんぷのせいめいも、ともにいちねんさんぜんのとうたいであるから、していふにである。しかるに、じゃしゅうきょうのきょうそとうは、じぶんのみがぶっきょうのしんずいをしり、しゅうきょうのおうぎをきわめたようなげんせつをはき、しかも、ていきゅうきわまるきょうぎを、なかなかりかいしがたいものであるといって、そのくせ、あたかもさとりをひらいた、せいじんのごとくにふるまうすがたは、まったく、しゃかいを、そしてみんしゅうをぎまんする、だいあくにんとだんぜざるをえない。
 われらは、あくまでも、いちねんさんぜんのてつりをまなび、また、みずからのせいめいがいちねんさんぜんのとうたいであることをかくしんして、ししょうとおなじく、でしもともに、さいこうしんじつのせいめいかんを、はあくせよというのが、にちれんだいせいてつのおおせである。このてつりは、げんこんの、みんしゅしゅぎしそうのこんていとなるものであり、みんしゅうひとりひとりのしゅたいせいと、じがのかくりつをかのうにするだいてつりであることをみのがしてはならない。こうかんでいわれる、ファッショとか、ぜんたいしゅぎ、こくすいしゅぎのごとき、かたにはまった、しゅうだんこうどうのきせいではだんじてない。そんなきゅうくつなものではけっしてない。このだいてつりを、まったくしらぬひと々びとのたわごとにすぎない。
 わががっかいこそ、こじんにただしきじんせいかんをかくりつせしめ、そして、こうふくなしゃかいけんせつのために、わごうそうというひとつのほうていしきより、くんれん、きょういくして、そのもくてきをたっせいせんとする、だんけつであることをめいきされたい。
 また、いっぱんしゃかいにおけるがくしゃには、きのうほうてきにけんきゅうするかがくしゃもおり、けいざいがくしゃがあり、ぶんがくしゃもいる。またてつがくしゃもいる。それらのがくしゃは、いまだ、うちゅうのほんげんたるいちねんさんぜんの、じょぶんのがくしゃにすぎないといえよう。これにたいし、みょうほうこそ、うちゅうのほんげんをといたがりょうてんせいのげんりであり、また、いっさいのかいそうのもとめんとする、しゅうきょくのだいてつりであって、あらゆるしゃかいのげんせんなのである。

0739    だい16 とくけんごうしゃぶつのこと。

おんぎくでんにいわく、けんごうしゃぶつとは、けんほうとうということなり、ごうしゃぶつとは、たほうのことなり、たほうのたとはほうかいなり、たからとはいちねんさんぜんのかいごなり、ほうかいをたほうぶつとみるを、けんごうしゃぶつというなり、ゆえに、ほっしほんのつぎに、ほうとうほんはくるなり、げぎょうしょうのほっしののりものは、ほうとうなりうんぬん、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、みょうげ、みょうぎょう、みょうしょうの、ふしぎのげ、ふしぎのぎょう、ふしぎのしょうとくなり、しんじついちねんさんぜんのかいごなりうんぬん、このごうしゃというは、あくをめっし、ぜんをしょうずるかわなり、ごうしゃぶつとは、いちいちもんもん、みな、こんじきのぶつたいなり、けんのじこれをおもうべし、ぶっけんということなり、ずいじゅんとは、ぶつちけんなり、とくけんのけんのじとけんほうとうのけんとは、えしょうのにほうなり、とくけんごうしゃのけんは、しょうほうなり、けんほうとうのけんはえほうなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここでも、まえのだいじゅうし、じゅうごにつづいて、「ごうしゃのほとけを、けんたてまつることをえん」というところの、おんぎくでんである。おんぎくでんには、「けんごうしゃぶつ」というのは、「けんほうとう」ということであるとおおせられている。
 「ごうしゃぶつ」とは、ガンジスかわのすなのように、おおいほとけであるから「たほう」のことになる。この「たほう」のたとは、おおいということであり、うちゅうぜんたいのしんらばんしょうことごとくをさし、それからじっかいさんぜんすべてが、なんみょうほうれんげきょうのとうたいであると、かいごすることを「たから」というのである。したがって、うちゅうのしんらばんしょうことごとく、「たほうぶつ」としんずることを、けんごうしゃぶつというのである。
 ゆえに、ほっしほんだいじゅうのつぎに、けんほうとうほんだいじゅういちが、とかれているのである。
 げぎょうしょうのほっし、つまり、さんだいひほうのぶっぽうをりかいし、そのおしえのとおりにじっせんし、そのぶっぽうのいだいなりきを、しょうとくしていくほっしののりもの、すなわち、「みょうほうぐつうのだいどうし」が、こんぽんとすべきは、ほうとうすなわちごほんぞんである。
 いま、にちれんだいしょうにんならびにそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるすがたは、みょうげ、みょうぎょう、みょうしょう、すなわち、ふかしぎのりかいと、ふかしぎのしゅぎょうと、ふかしぎのしょうとくが、できたすがたであり、しんじつのいちねんさんぜんを、かいごしたすがたである。
 このごうがというのは、あくすなわち、ほうぼうをめっし、ぜんをしょうずるかわである。すなわち、ごほんぞんをしんずれば、まよいをふくにてんじていくことが、できるのである。ごうしゃほとけとは、きょうもんいちじいちじが、みなりっぱなほとけのとうたいなのである。「とくけんごうしゃぶつ」の、「けん」のじについて、このことをよくよくかんがえるべきである。このけんは、ぶっけんということで、ごほんぞんをしんずるしんということである。
 ずいじゅんとは、ぶつちけんである。とくけんの「けん」のじと、けんほうとうの「けん」のじとは、えしょうのにほうになる。つまり、「とくけんごうしゃぶつ」のけん、すなわちごうぶつを、みようとするのはちになり、しょうほうとなる。そして「けんほうとう」のけん、すなわちしんじんするたいきょうが、ほうとうすなわちごほんぞんになるからえほうである。

 いちねんさんぜんを、かいごするもんである。
 「けんごうしゃぶつとは、けんほうとうということなり」のおんふみは、ほっしほんだいじゅうのもんのつぎに、けんほうとうほんだいじゅういちとなるだんかいを、すでにあかしている。ほっしほんのほっしとは、もんていよりはいせば、にちれんだいしょうにんのおんことであり、けんほうとうほんのほうとうとは、なんみょうほうれんげきょうのごほんぞんのことである。ともに、にんぽういっかのごほんぞんを、あらわされているのである。
 「たほう」の「た」ということは、ほうかい、すなわちうちゅうそれじたいである。「たから」とは、いちねんさんぜん、すなわち、なんみょうほうれんげきょうのことである。したがって、ぜんうちゅう、ほうかいのほんげんは、すべて、たほうぶつにあらざるものはなく、われらのせいかつにやくせば、しんらばんしょう、ことごとくむりょうのたからであり、くどくであり、じひであると、かいごすることが「けんごうしゃぶつ」というのである。
 「げぎょうしょうのほっしの、のりものはほうとうなり」とは、「わがみは、ちすいかふうくうなりと、しりしめして、そくざにさとりをひらきたまいき」(0568-13)のおんふみのとおり、いっさいをかいごしたもうかた、すなわち、にちれんだいしょうにんのしめされた、のりものは、ごほんぞんであるとのことばであられる。「みょうげ、みょうぎょう、みょうしょう」ということは、われらが、ごほんぞんをしんじ、だいもくをとなえ、しゃくぶくをぎょうじていくならば、かならず、しんのじんせいかん、うちゅうかんをかくりつして、さいこうのこうふくきょうがいを、うるとうことである。
 「みょうげ」とは、しんげである。みょうほうのじのいちねんさんぜんは、ごほんぞんをしんずることによってのみ、げりょうすることができる。
 すなわち、みょうほうのくどくを、ただちにみにかんずるのである。いしんとくにゅう、いしんだいえとは、このことでる。もしうたがいがあるときは、いっさいがとざされているように、いかなるおしえもこうぎも、みにつかないのである。また、そのせいかつはくうきょである。「みょうぎょう」とは、りゃくこうしゅぎょうではなく、じきたつしょうかんのなんみょうほうれんげきょうである。われらは、じぎょうけたのだいもくをとなえ、しゃくぶくしていくときに、げんせにおいて、ひ々びのしゅくめいだかいのうえに、いかなるふこうも、またしょうろうびょうしのじんせいも、わがしどあんのんのじんせいにかくめいできるのでる。「みょうしょう」とは、われわれがげんじつに、しょうじそくねはんのきょうがいをえて、ぶっしんとものしんのこうふくせいかつが、できるとのもんであり、これじんせいのくきょうのさとりである。
 またごうしゃについて、あくをめっし、ぜんをしょうずるかわといわれているが、これはごほんぞんのくりきを、といたもので、われらのあくごうをめっして、ぶっかいのせいめいを、ゆげんするように、あるのである。ずいじゅんとは、しんじゅといい、ぶつちけんといい、しょせん、しんじんのことであり、すなおなしんじんにより、はじめて、ほとけをちけんできるのである。じゅりょうほんの「いっしんよくけんぶつ、ふじしゃくしんみょう」が、さんだいひほうの、だいもくにあたるのぎと、おなじである。しかして、「とくけんのけんとは、えしょうのにほうなり」とは、とくけんごうしゃぶつのけんは、しょうほうであり、すなわち、われらがとうたいである。また「けんほうとう」のけんは、えほう、きゃくたいであり、すなわち、ごほんぞんのこととなるのである。


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