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  • 御義口伝講義録上 ひらがな ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ にんきほんにかのだいじ

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月23日(金)03時23分39秒
 
  にちれんだいしょうにんごしょこうぎ、  おんぎくでん。 ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ。

0734~0734 ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ。

0734    だいいち えりのこと。
0734    だいに すいしゅにがのこと。
0735    だいさん しんしんへんかんきのこと 。

 だいいち えりのこと。

 おんぎくでんにいわく、このほんには、むげのほうしゅを、えりにかくることをとくなり、しょせんにちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、いちじょうみょうほうの、ちほうをしんじゅするなり、しんじんをもって、えりにかくというなり。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 この、ごひゃくでしじゅきほんには、さけによって、ふしていえる、ゆうじんのころものうらに、むげのほうぎょく=むじょうのほうしゅを、かけたというはなしが、とかれている。われわれのせいめいじたいに、ぶっかいがあるということを、いみしている。
 またかんじんのほんぞんしょうに、「いちねんさんぜんを、しらざるものには、ほとけ、だいじひをおこし、ごじのうちにこのたまをつつみ、まつだいようちのくびに、かけさしめたまう」(0254-18)とあるように、もとめずしてむじょうのほうしゅである、ごほんぞんをいただくことが、できたことをいみしているとおもわれる。
 しょせん、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、われわれにちれんだいしょうにんのもんかこそ、いちじょうみょうほうの、ちほう、すなわち、ごほんぞんをしんじゅすることに、なるのである。
 しんじんがあることを、ころものうらにかけるというのである。

 ぶっかいしょぐのもんである。すなわち、むげのほうしゅとは、ぶっかい=みょうほうのことであり、えりとは、せいめいのおうてい、いちねんのことである。われわれは、ひとよりこうふくをもらうものではない。あくまでも、こうふくは、じぶんじしんがつくるものである。そのこんぽんが、しんじんである。
 そこで、こんどは、かんきょうをととのえてゆくところに、こじんのこうふくと、しゃかいのはんえいがいっちするのである。えしょうふにろんより、ろんずれば、えほうは、かんきょうであり、しょうほうはこじんとなる。すなわち、しょうほうのこんぽんのかいけつはぶっぽう、えほうのかいかくはおうほうとなるのである。

0734    だいに すいしゅにがのこと

おんぎくでんにいわく、さけとはむみょうなり、むみょうはほうぼうなり、がとはほうぼうのいえにるうまることなり、さんぜんじんでんのとうしょに、あくえんのさけをのみて、ごどうろくどうによいまわりて、いま、ほうぼうのいえにふしたり、よいとはふしんなり、かくとはしんなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるとき、むみょうのさけさめたり、またいわく、さけにじゅうじゅうこれあり、ごんきょうはさけ、ほけきょうはさめたり、ほんしゃくそうたいするとき、しゃくもんはさけなり、しかくのゆえなり、ほんもんはさめたり、ほんかくのゆえなり、また、ほんしゃくにもんはさけなり、なんみょうほうれんげきょうはさめたり、さけとむさるとはあいはなれざるなり、さけはむみょうなり、むさるはほっしょうなり、ほうはさけなり、みょうはさめたり、みょうほうととなうれば、むみょうほっしょう、たいいちなり、しのいちにいわく、むみょうじんろう、そくぜぼだいと。

かいしゃくこうぎ。
 「せそん、たとえばひとあり、しんゆうのいえにいたりて、さけにようてふせり、このときにしんゆう、かんじのまさにいくべきあって、むげのほうしゅをもって、そのえのりにかけ、これをあたえてさりぬ。そのひと、よいふして、すべてかくちせず…」のところの、おんぎくでんである。
 このさけとは、むみょう(まよい)であり、まよいのけっか、ほうぼうをしているじょうたいである。さけによって、ふしているとは、ほうぼうのいえにうまれることを、たとえているのである。
 しゃくもんのこころは、しゃかぶっぽうのしゅじょうは、さんぜんじんでんこうという、とおいむかしに、あくえんのさけ ふしん、ほうぼうのじんをおこして、そのけっか、じごくからにん、てんにわたる、ごどうろくどうのふこうなせいかつを、よいめぐってきて、いままた、じゃしゅう、ほうぼうのよいが、さめたといえるのである。
 いま、にちれんだいしょうにんもんかの、われわれが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときには、むみょう、ほうぼうのよいが、さめたといえるのである。
 さて、このよっている、さめているということも、なんだんかいもあるのである。
 ごんじつそうたいして、ごんきょうはさけで、ほけきょうはさめているじょうたいである。
 またほんしゃくそうたいして、しゃくもんはさけである、しょじょうしょうかく インドではじめてほとけになったと、といているからからである。ほんもんはさめている、くおんじつじょうの、ごひゃくじんでんこうの、じょうどうをといているからである。
 また、もんじょうのほんしゃくにもんはさけである。もんていの、なんみょうほうれんげきょうは、まったくさめているじょうたいである。
 さけによっていることと、さめていることとは、はなれたことではない。さけはむみょう、まよいであり、さめていることは、ほっしょう、さとりである。みょうほうの「ほう」はさけ、すなわちむみょうであり、「みょう」はさめていること、すなわちほっしょうである。なんみょうほうれんげきょうと、となえればむみょうとほっしょう、まよいとさとりは、そのたいがおなじであることをさとるのである。
 まかしかんのいちには、「むみょうじんろう、そくぜぼだい」といっている。むみょうとはがんぽんのむみょうわく、じんろうとは、とんじんちのさんどく、したがって、むみょうじんろうとは、ぼんのうのことであり、てんだいは、ぼんのうそくぼだいといっているのである。

さけとはむみょうなり、むみょうはほうぼうなり、がとはほうぼうのいえにうまるることなり。
 いちおうは、しゅくめいろんである。さいおうは、しゅくめいだかいろんにはいるわけである。
 「さんぜんじんでんのとうしょ」のだんは、あらあらえいえんのせいめいをとき、ふこうのこんぽんは、こんぜだけのものではない。あくまで、ぜんせ、かこせのこんげんがあることをあかしているもんとなる。せいめいは、えいえんである。このふこうのえんいんを、あかしているかしょとも、よめるわけである。
 だいしょうにんのぶっぽうは、いんがくじのいちりをとかれてる。すなわち、くおんがんじょのほんたいこそ、さんだいひほうの、ほんぞんであられる。したがって、わがみのいちねんのしゅんかんに、えいえんをはらみ、しゅんかんのれんぞくが、えいえんとなる。そのいちねんいっしゅんのとうたいこそ、げんりこそ、ほんにんみょうのだいぶっぽうなのである。
 さけとは、むみょうである。あくしそう、じゃしゅう、じゃぎとうをさすことはとうぜんである。
 また「ほんしゃくにもんは、さけなり、なんみょうほうれんげきょうは、さめたり」とは、しゅだつそうたいのところである。すなわち、まっぽうこんじにおいては、いっさいのかいけつは、にちれんだいしょうにんのぶっぽうによるいがい、ぜったいにありえないとの、ごせんげんである。

0735    だいさん しんしんへんかんきのこと

 おんぎくでんにいわく、しんとはしょうじそくねはんなり、こころとはぼんのうそくぼだいなり、へんとは、じっかいどうじなり、かんきとはほうかいどうじのかんきなり、このかんきのうちには、さんぜしょぶつのかんき、おさまるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつれば、われそくかんきとて、しゃくそん、かんきしたまうなり、かんきとは、ぜんあくともにかんきなり、じっかいどうじなり、ふかくこれをおもうべしうんぬん。

 ごひゃくでしじゅきほんのさいごに「われいま、ほとけにしたがって、じゅきそうごんのこと、および、てんじにじゅけつせんことを、ききたてまって、しんしんあまねくかんきす」とある。
 このもんについて、おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 しんがかんきするとは、しょうじそくねはんということである。こころがかんきするとは、ぼんのうそくぼだいということである。しんしんともに、きゅうかいそくぶっかいとひらくことをいうのである。また「へん」とは、じっかいどうじであることである。かんきは、わがしんしんだけが、かんきするのではなく、いちねんさんぜんのりほうによって、ほうかいのすべてが、どうじにかんきするのである。
 このかんきのなかには、さんぜしょぶつのかんきも、はいっているのである。けんほうとうほんだいじゅういちに、「このきょうは、たもちがたし、もししばらくも、たもつものは、われすなわちかんきす、しょぶつもまた、しかなり」とあるように、いま、にちれんだいしょうにんのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつれば、「われすなわちかんきす」とて、しゃくそん、すなわち、もんていのしゃくそんである、にちれんだいしょうにんは、ごかんきあそばされるのである。このかんきは、ぜんあくともに、つまりぶっかいも、きゅうかいもともにかんきするのである。じっかいがどうじにかんきし、じょうぶつしていくのである。このことをふかくしさくしてくべきである。

 「しんしんへんかんき」のしんしんは、しきしんふにのこころであり、へんとは、じっかいどうじのせいめいぜんたいに、かつどうがあることをいみする。じごくより、ぶっかいにいたるまで、しょううちゅうである。わがとうたいは、きょくぶだけのせいめいかつどうでなく、かならずぜんせいめいに、そのせいめいかつどうがなされるのが、じったいであり、じっそうなのである。のみならず、われらじしんのじっかいのせいめいかつどうが、そく、だいうちゅうであり、ほうかいにどうじにはんえいするとのことばを、そのふしぎを、よくよくしさくすべきであろう。
 「このかんきのうちには、さんぜしょぶつのかんき、、おさまるなり」のところでは、ついぜんくようのげんり、もふくまれている。また、じしんが、しんじんにより、こうふくかつどうのたいけんをえた、このじっしょうよりみて、せんぞのばっくよらくにつうじ、せんぞも、また、よろこんでいるとも、かんがえられるわけである。「われそくかんきとて、しゃくそんかんきしたまうなり」とは、われわれが、みょうほうをごじして、よろこんでしゃくぶくし、きょうがくにはげんでいけば、だいしょうにんがよろこばれる。もし、くるしんでいれば、だいしょうにんは、かなしまれるのである。しょせん、かんきのぜんしんをしきってゆくことが、しんじんのさいじといえる。きょうに「いちねんずいきのくどく」うんぬんとあるように、かんきのしんじんのあるところに、かならずくどくはわいてくるのである。
 がっかいうちでいえば、せいねんがせいちょうしてくれれば、おやもよろこぶであろうし、わたしもうれしい。せいねんがせいちょうしなければ、おやもかなしみ、わたしもくるしい。
 いま、かくせいとうでも、また、かいしゃでも、ろうどうくみあいでも、くにぜんたいがこのほうていしきをかんがえるべきである。みなが、こうふくになることをねがい、しどうしゃたちが、「ああほんとうによかった、よろこばしいことだ」ときょうおうより、いえるじだいが、こなくてはならない。
 ところが、はばつこうそう、けんりょくとうそうとう、ひとをおしのけ、おしたおし、じぶんだけよくなり、ひとをつきおとしても、かまわぬという、りこしゅぎが、じゅうまんするげんじつのせかいと、いわざるをえない。そのこんぽんかいけつこそ、すべてのひとが、ごほんぞんをじゅじすることに、つきるわけである。
 さいごに、「ぜんあくともに」は、いかなるきょうぐうたりとも、びょうにん、びんぼう、けんこう、ふしゃとう、ばんにんが、みょうほうじゅじのじんせいになれば、かならずじょうぶつできうるとの、おんふみである。
 ほんぬのみょうほうに、てらされてみれば、だいば、じゅうらせつにょも、みな、みょうほうのとうたいとなるわけである。しょせん、いかなるひとたりとも、しゅくめいてんかんをなし、ほんぬじょうじゅうに、こうふくなじんせいをいとなむことは、ひつじょうなりとのおんふみとかいする。

0735~0736 にんきほんにかのだいじ
0735    だいいち がくむがくのこと
0735    だいに さんかいえじざいつうおうぶつのこと

だいいち がくむがくのこと

 おんぎくでんにいわく、がくとはむちなり、むがくとはうちなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、がくむがくのひとに、にょがとうむいのきを、くさずるにあらずや、しきほうは、むがくなり、しんぼうはがくなり、また、しんぼうはむがくなり、しきほうはがくなり、がくむがくのひととはにほんこくの、いっさいしゅじょうなり、ちしゃぐしゃをしなべて、なんみょうほうれんげきょうのきをときて、にごうどくしするなり。

かいしゃくこうぎ。
 にんきほんにおいては、がくむがくの、しょうもんのでしにせんにんが、じょうぶつのきをうけるのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「がく」とは、これからべんきょうすべきむちのものをいい、「むがく」とはがくもんのしゅぎょうがしゅうりょうした、うちのものをいう。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえてしゃくぶくをぎょうずるのは、にほんこくのがくむがくのひとを「わがごとくひとしくして、ことなることなからしむる」すなわち、ぜんいんを、じょうぶつのこうふくきょうがいにみちびくこういではないか。しきほうはむがくであり、しんぼうはがくである。またしんぼうはむがくであり、しきほうはがくである。がくむがくのひととは、にほんこくのいっさいしゅじょうである。にほんこくのいっさいの、ちしゃぐしゃをひっくるめて、なんみょうほうれんげきょうの、きべつをといて、ごうしゃくするのである。

 「がく」とは、がくもんのみじゅくなひと。「むがく」とは、すでにがくもんにとうてつしたひと、いまのせけんでつかわれている、ことばとはんたいになる。ぶっぽうをしってくると、げんだいようごのなかに、いかにたすうのぶっぽうようごが、ながくひろくつかわれているかがうかがえる。その、げんだいにるふされているようごが、こんどは、ひじょうにきょっかいされて、きていることもじじつである。「がまんづよい」ということばは、ふつう、よいばあいにつかわれる。しかしぶっぽうのうえでは、がまんへんしゅうといって、よくないこととされている。
 さて「しきほうは、むがくなり、しんぼうはがくなり、また、しんぼうはむがくなり、しきほうはがくなり」うんぬんのかしょを、おうようしてかいしゃくしてかんがえてみたい。ゆいぶつろんは、しきほうはむがくとなり、しんぼうはがくとなる。ゆいしんろんでは、しんぼうはむがくであり、しきほうはがくといわざるをえなくなる。りょうしゃこそ、ていきゅうなてつりといわざるをえない。また、「しきほうはむがくなり」とは、にくたいはけんぜんである。しかし「しんぼうはがくなり」せいしんは、はくじゃくである。あたまはわるい。はんたいに「しんぼうはむがくなり」とは、ずのうはじつにめいせきである。しかし、「しきほうはがくなり」、しんたいはひじょうにわるい、きょじゃくである、…とう々とう、さまざまに、かいしゃくすることができる。しょせん、しきともに、「むがく」にとうたつすることが、しんじんしゅぎょうのもくてきとなる。
 げんだいごでいえば、かんぜんなるぼんぷ、にんげん、じんかくということであろう。「ちしゃぐしゃをしなべて、なんみょうほうれんげきょう」とは、いかなるちじん、だいがくしゃたりといえども、また、ぐしゃであっても、ぜったいのこうふくは、じょうぶつだけは、みょうほうによるいがいにだんじてないとの、ごしどうであられる。
 「にごうどくし」とは、しいてこれをどくすとよみ、ごうしゃくのことである。しょせん、ごほんぞんをじゅじせしむるほうほうは、しゃくぶくをもってするいがいに、みちはないとのおおせであられる。

0735    だいに さんかいさとしじざいつうおうぶつのこと
0736
 おんぎくでんにいわく、さんとは、ぼんのうそくぼだいなり、かいとはしょうじそくねはんなり、えとはわれらがはくところのごんごなり、じざいとはむしょうげなり、つうおうとは、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんなり、またいわく、さんとはしゃくもんのこころなり、かいとはほんもんのこころなり、えとはみょうほうのごじなり、いま、にちとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、さんかいえじざいつうおうぶつなり、まったくほかにあらざざるなり、われらぎょうじゃのほかに、あなんこれれなきなり、あなんとは、かんきなり、いちねんさんぜんのかいかくなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
にんきほんにおいて、しょうもんのでしのあなんが、さんかいえじざいつうおうにょらいの、きべつをうけている。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。その「さん」とは、ぼんのうそくぼだいをあらわし、「かい」とはしょうじそくねはんをあらわし、「え」とは、われわれがはくところの、ことばをあらわしている。「じざい」とは、むしょうげであることをいみし、「つうおう」とは、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんをいみしている。また「さん」とはしゃくもん、「かい」とはほんもん、「え」とはみょうほう、すなわちもんていどくいつほんもんを、いみしているのである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、さんかいえじざいつうおうぶつである。このほとけも、われわれのことを、さしているのであって、まったくべつのことではないのである。われわれ、ほけきょうのぎょうじゃいがいに、あなんはないのである。あなんとは、ぼんごでかんきといういみである。われわれが、いちねんさんぜんのとうたいである。ほとけであるとかいかくして、かんきすることをさすのである。

 にんげんはみな、じゆうじざいをほっし、むしょうげ、すなわち、くにしばられないせいかつを、ようきゅうしているのである。そのこんぽんせいかつほうが、みょうほうによるいがいに、けっしてないとのおんふみである。
 「あなんとはかんきなり」うんぬんのもんは、われらこしんのあなんであり、しんじんほど、さいこうのよろこびは、ぜったいにないとの、ごしどうである。これは、じじつ、われわれがたいとく、たいけんしているとおりである。しゃくそんざいせにおける、あなんは、じょうずいきゅうじ、たもんだいいちといわれ、かしょうにつづき、だいにのふほうぞうとされた。
 すなわち、しんじんしゅぎょうのかがみといわれ、そのいちねんは、えいえんのせいめいをさとるため、かんきにもえていちずにしゅぎょうしてきたことを、だいしょうにんが、おひきあそばされた、もんとはいする。

じざいとは、むしょうげなり。
 じざいとは、じゆうじざい、しゅじょうしょゆうらくといういみであり、むしょうげとは、ふこうなしゅくごうにしばられないことである。すなわち、ぜったいてきこうふくきょうがい、ぶっかいのゆげんのことである。われわれは、このじざい、むしょうげのえとく、かくりつをがんぼうし、どりょくしているといえる。
 しょせん、しんじんのもくてきも、じざい、むしょうげの、じんせいかくりつにつきるわけである。そのほうほうとはなにか。それは、さんだいひほうのほんぞんにだいもくをあげるいがいにない。じざいのきょうがいとは、とくべつなすがたになるのではけっしてない。もっともぼんじんらしく、にんげんらしく、そのままのすがたで、だいふくうんをつみ、よのどうりをわきまえ、しゅくめいてきな、さんあくどう、しあくしゅのちからに、ひきずりまわされないせいめいかつどうのことである。
 たとえば、いかりはしゅら、このいのちのつよいひとは、いかりにひきまわされ、とんだふこうをまねいてしまう。くるしみはじごく、このせいめいのつよいひとは、びょうきのくのう、しゃっきんとうのなやみがあり、このしゅくめいとたたかい、じざい、むしょうげのじんせいをきずきたいことは、とうぜんのりとなろう。いか、きゅうかいのせいめいかつどうも、これにじゅんじてかんがえていただきたい。



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