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  • 御義口伝講義録上 ひらがな じゅきほんしかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月17日(土)10時21分35秒
 
  0730~0732 じゅきほんしかのだいじ。

0730    だいいち じゅきのこと。
0731    だいに かしょうこうみょうのこと。
0731    だいさん しゃぜしんいのこと。
0731    だいし しゅくせいいんねんごこんとうせつのこと。


0730~0732 じゅきほんしかのだいじ。

 もんぐのななにいわく、じゅとはこれあたえるのぎなりと。
 おんぎくでんにいわく、きとはなんみょうほうれんげきょうきょうなり、じゅとは、にほんこくのいっさいしゅじょうなり、ふしんのものには、さずけざるなり、またこれをうけざるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうのきを、くうるなり、またいわく、じゅきとは、ほうかいのじゅきなり、じごくのじゅきはあくいんなれば、あくごうのじゅきを、ざいにんにくさずるなり、あまりはこれにじゅんじて、しるべきなり、しょうのきあれば、かならずしす、しのきあれば、また しょうず、さんぜじょうごうのじゅきなり、しょせん、ちゅうこんのよんだいしょうもんとは、われらがしょうろうびょうしのしそうなり、0731。
 かしょうはしょうのそう、かせんねんはろうのそう、もくれんはやまいのそう、しゅぼだいはしのそうなり、ほっけにつてきた、しょうろうびょうしのしそうを、よんだいしょうもんとあらわしたり、これすなわちはちそうさぶつなり、しょほうじっそうのふるまいなりときをくさずるなり、みょうほうのじゅきなるがゆえに、ほうかいのじゅきなり、れんげのじゅきなるがゆえに、ほうかいしょうじょうなり、きょうのじゅきなるがゆえに、しゅじょうのごごんおんじょうは、さんぜじょうごうのじゅきなり、ゆいいつごんにじゅきすべきなんみょうほうれんげきょうきょうなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 もんぐのななに、じゅきのじゅとは、あたえるといういみであるとしゃくしている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。きとはなんみょうほうれんげきょうきょうのことである。そしてじゅとは、にほんこくのいっさいしゅじょうに、さずけるのである。ただし、ふしんのものにはさずけないし、また、ふしんのものは、この、なんみょうほうれんげきょうきょうのきをうけない。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、なんみょうほうれんげきょうきょうのきを、うけるのである。また、じゅきとはほうかいのじゅきということであって、たとえば、じごくのじゅきは、あくいんであるから、あくごうのじゅきをざいにんに、さずけることなのである。がき、ちくしょう・・・ぼさつ、ぶっかいと、じっかいそれぞれ、これにじゅんじてしるべきである。また、しょうのきがあれは、かならずしがあり、くのきがあれば、またしょうずるのであって、さんぜじょうごうのじゅきなのである。
 しょせん、ほけきょうしゃくもんにとかれる、ちゅうこんのよんだいしょうもんとは、われわれのしょうろうびょうしの、よんそうをあらわしているのである。すなわち、かしょうはしょうのそうをあらわし、かせんねんはろうのそう、もくれんはやまいのそう、しゅぼだいは、しのそうをしめしているのである。このしょうろうびょうしのよんそうを、ほけきょうにきて、よんだいしょうもんとして、あらわしたのである。これすなわちはちそうさぶつである。
 このしょうろうびょうしはしょほうじっそうのふるまいである。すなわち、みょうほうれんげきょうのしょさであるとの、きをさずけたのである。みょうほうのじゅきで、あるがゆえに、ほうかいのじゅきである。れんげのじゅきであるがゆえに、ほうかいしょうじょうである。きょうのじゅきであるがゆえに、しゅじょうのごんごおんじょうは、さんぜじょうごうである。これらを、なんみょうほうれんげきょうきょうの、ただいちごんにおさめ、われわれしゅじょうにじゅきさられたのである。
 いまどきにおいては、しんじつのじゅきは、ただ、さんだいひほうのほんぞんである。なぜならば、ぜったいに、これいがいに、じょうぶつできえぬからである・・・、とごだんげんのもんである。
 たの、いかなるしゅうきょう、ほんぞんを、しんぽうしじっせんしても、あたかもしゃくとりむしのてんにいたらざるがごとく、けっしてじょうぶつできえない。ここんとうざいのてつがく、しそうも、みな、さんだいひほうのだいぶつほうのじょぶんであり、るつうぶんにすぎない。せいかつかくめいのげんせん、にんげんかくめいのきゅうきょくのげんりこそ、みょうほうなのである。そのじゅきこそ、ただしいじゅきなのである。あくしそう、じゃぎのじゅきをこうむれば、あくごうのじゅきをうけることになり、ついにふこうをまねかざるをえない。
 「しそうはいきている、しそうほどおそろしきものはない」とさけんだてつじんがいた。こじんもばんにんもともに、ほんげんてきに、ふへんだとうせいをもって、きゅうさいできえるだいしそう、すなわち、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうきょうにいきることが、さいだいいちのかちあるじんせいとかくしんされたい。
 また、たとえば、けんどうやじゅうどうにおいて、ゆうだんしゃになることも、そのせかいのじゅきである。だいがくをそつぎょうして、もらうめんじょうも、ひとつのじゅきである。だいぎしがとうせんしてうけるとうせんしょうしょも、そのみちのじゅきである。なお、おやよりざいさんをうけて、そうぞくしたしょるいも、またじゅきといえよう。しかし、さいこうのじんせいかん、せかいかん、うちゅうかんをかくりつして、えいえんにこうふくにいきゆけるしんじつ、こんぽんのじゅきこそがだいじなのである。いっさいのきょうぐう、いっさいのしょくぎょうの、ぜんじんるいがうけるべきじゅきがごほんぞんとはいすべきであろう。

ちゅうこんの、よんだいしょうもんとは、われらがしょうろうびょうしの、よんそうなり。
 よんだいしょうもんをば、われわれのせいめいかつどう、またいっしょうのじっそうのせいめいろんとして、とかれたとおもわれる。じょうじゅうえくうのほうりも、おなじいみとなろう。かしょうは、しょうのそう、すなわち、しゃくそんしょうもんのじゅうだいでしのひとりで、ずだぎょうだいいちである。しゅぎょうだいいち、じっせんだいいちといういみであるから、じょうねつをたぎらせ、ふきょうに、しゅぎょうに、ゆうやくしょうじんしたせいめいなるがゆえに、しょうをあらわしているわけである。したがって、われわれのしんじんじつぜにも、こしんのかしょうということができる。
 かせんねんは、ろうのそう、ろんぎだいいち、がくもんしゅうがくをへて、じゅうこうなじんかくで、きょうぎをうけもって、しゃかぶっぽうにこうふにつくしたせいめいをいみする。したがって、われわれのしゃくぶく、こうぎ、こうえんらも、りっぱに、こしんのかせんねんのはたらきとみることもできるのである。
 もくれんは、やまいのそう、じんずうだいいちである。そのはは、しょうだいにょががきどうにおちているのを、じんつうりきによってしり、ほけきょうにより、すくうことができたというはなしはゆうめいである。また、しゃくそんにゅうめつちょくご、ちくじょうげどうにかこまれ、いったんだっしゅつしたが、かこせのざいごうであることをしり、げどうにころされ、そのごうをめっしたといわれる。すなわち、しゅくめいのごうを、たちきるため、いっしょうのそうけっさんをじかくした、やまいのそうを、せいめいろんからといたとおもえる。われらのかせんねん、ざいしょうしょうめつのいちねんは、とうぜん、こしんのもくれんともかんがえられるであろう。
 しゅぼだいは、しのそう、げくうだいいちである。よく、くうりにつうじているゆえに、しょうじふにのぶっぽうげんりなれば、しをいみしたのである。われらが、えしょうふに、いちねんさんぜんのほうりをしることは、こしんのしゅぼだいといちおうかんがえられる。

みょうほうのじゅきなるがゆえに、ほうかいのじゅきなり。
 みょうほうには、はちまんほうぞうが、ことごとく、ほうがんされている。はちまんよんせんのぶっぽうは、ぜんうちゅうのげんしょう、ほんしつを、ときあかしたものである。したがって、みょうほうそくほんぞんのじゅきは、うちゅうにある、ちから、たから、とう々とうを、いっさい、わがせいめいに、じゅきされたことにつうずるのである。せかいといえば、にほんも、べいこくも、ロシアも、ひゃくじゅういくかこくも、くまなくふくまれているごとくに。
 くうたいのほんぞんは、うちゅうそれじたい、けたいのほんぞんはわがとうたい、ちゅうたいのほんぞんは、さんだいひほうのごほんぞんとなる。くうたいのほんぞんを、いっぷくのだいまんだらとなされたのが、じっかいさんぜんのほうりをぐびしたほんぞんである。すいそとさんそをかごうさせてみずをつくるためには2H2+O=2H2Oのげんりがある。しかし、じっさいにみずとするためには、このほうていしきにはっきんとうのしょくばいのひつようあることは、かがくのじょうしきである。もったいないたとえであるが、ちゅうどうほっそうのごほんぞんに、きえせねば、うちゅうのリズムとのがっち、ならびに、わがせいめいのしんじつのじょうか、せいめいりょく、ちえは、ゆげんできえないのである。
 「れんげの、じゅきなるがゆえに、ほうかいしょうじょうなり」とは、れんげのじゅきは、いんがくじ、せつないちねんのじゅきであり、なんみょうほうれんげきょうきょうのことである。ほうかいしょうじょうとは、じょうぶつのきょうがいをさす。しゅくめいだはしゆくほんにんのちから、ふくうん、ちえをつくり、じひしんをかつどうさせゆく、いちねんのほうそくである。
 「きょうのじゅきなるがゆえに、しゅじょうのごごんおんじょうは、さんぜじょうごうのじゅきなり」のもん。きょうとは、つうずには、いっさいのふるまい、げんしょうのいみょうである。このきょうの、ほうそくにのっとったせいかつは、さいこう、むじょうのじんせい、せいめいかつどうとなり、かちそうぞうとなり、しゃかいにたいする、こうけんにつうずるとのこころである。しゅじょうとはせいめいとやくす。しょせん、えいえんににんげんとうまれ、みょうほうをごじして、なんみょうほうれんげきょうきょうとくしょうし、きゅうかいにゆうげして、ぜったいのこうふくなきょうがい、じんせいをあゆみゆくことができるとのこころである。

0731    だいに かしょうこうみょうのこと

 おんぎくでんにいわく、こうみょうとは、いっさいしゅじょうのそうごうなり、ひかりとはじごくのとうねんみょうか、これすなわちほんかくじじゅゆうのちかなり、ないし、ぶっかこれれおなじ、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうのこうみょうを、ほうぼうのあんみょうのなかにさしいだす、これすなわち、かしょうのこうみょうにょらいなり、かしょうはずだをほんとす、ずだはここに、とソウというなり、いま、まっぽうにはいつて、よぎょうをとソウして、もっぱら、なんみょうほうれんげきょうきょうとしゅうするは、しきょうなんじ、ぎょうずだしゃ、これなりうんぬん。

 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。こうみょうにょらいのこうみょうとは、いっさいしゅしょうのそうごう (すがた)、かたちをいう。ひかりとは、じごくのひのことである。またほんかくじじゅゆうのちかのことでもある。ぶっかにいたるほかのきゅうかいもこれとおなじである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、ほうぼうのくらやみのよに、なんみょうほうれんげきょうきょうをおしえ、こうみょうをさしだしているのは、すなわち、かしょうのこうみょうにょらいということである。かしょうはずだだいいちのひとである。ずだとは、やくすれば「ものをはらいさる」という。いま、まっぽうにはいって、われわれが、ほうぼうのよぎょうをいっさいはらいさって、もっぱらなんみょうほうれんげきょうきょうをとなえ、じぎょうけたのしゅぎょうにはげむのは、けんほうとうほんだいじゅういちに「このきょうはたもちくかた、もししばらくもたもつものは、われすなわちかんきす。しょぶつもまたしかなり、これのごときのひとは、しょぶつのほめたもうところなり、これ、すなわち、ゆうもうなり、これすなわち、しょうじんなり、これをかいをたもち、ずだをぎょうずるものとなずづく」ととかれていることにあたるのである。
おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。こうみょうにょらいのこうみょうとは、いっさいしゅしょうのそうごう(すがた)、かたちをいう。ひかりとは、じごくのひのことである。またほんかくじじゅゆうの、ちかのことでもある。ぶっかにいたる、ほかのきゅうかいもこれとおなじである。

  じんりきほんに、「にちがつこうみょうの、よくもろもろの、ゆうみょうをのぞくがごとく、このひと、せけんにぎょうじて、よくしゅじょうの、やみをめっし」とある。しんじつのこうみょうは、なんみょうほうれんげきょうである。「このひと」とは、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしんにょらい、そく、にちれんだいしょうにんであられる。
 ほうにやくして、みょうほう、ひとにやくしてだいしょうにん、ひとほういちかのごほんぞんのみが、いっさいしゅじょうにこんぽんてきこうふくをあたえるこうみょうなのである。やみよのごときごじょくのげんじょうをきゅうさいしきるちからは、てつがくは、こうみょうは、いずこにあろうか。
 ゆいしんてつがくかゆいぶつてつがくか、じつぞんしゅぎか。 きそんの、るふされきったてつがくでは、じじつ、きゅうさいできえないのがげんじつである。
 あとは、にちれんだいしょうにんのさんだいひほうのだいぶつほうを、ぜんせかいのしどうしゃが、けんきょにきき、じっせんしてみるいがいに、かいけつのみちはありえないとだんげんするものである。
 ほうとうほんの「しきょうなんじ」のきょうもんを、われらはしんくいのさんごうでよみきり、こんじょうのしめいを、おのおの、りっぱにはたし、りょうじゅせんにて、だいしょうにんのおほめをいただきたいものである。
 「ないしぶっかこれれおなじ」とうのもん。「じごくのとうねんみょうか、これすなわちほんかくじじゅゆうのちかなり」とは、ひとくちにいえば、「しょうじそくねはん、ぼんのうそくぼだい」とはいせるとおもう。ふこうのどんぞこのひとが、ほんぞんをじゅじすれば、このごせいくんになるとかくしんする。したがって、こうみょうとか、ちかとか、きゃっかんしすれば、せいかつのじょうたいであり、しゅかんしすれば、せいめいのかつどうじょうたいとかんがえられる。
 じごくかいは、いきては、くるしみ、おうのうし、ししては、ともしび、ねんしょう、みょうかのなか。しゅらかいのひかりとは、いかりのまなこ、がき、ちくしょうのこうみょうもまた、どうぶつがえものを、とるまなこをそうぞうすべきである。にんかいよりぼさつかいになれば、よろこびのせいかつ、たのしみのじんせいこうろ、けんきゅうどりょくのまなこのひかり、ちえのりき、じひこうい、かつまた、ひと々びとをすくおうとおもうどりょく、かがやくじょうねつのまなこのこうみょうとかんがえるべきである。

0731    だいさん しゃぜしんいのことtop

 おんぎくでんにいわく、このもんだんより、しゃふしゃのおこりなり、てんしゃにして、えいしゃにあらず、てんしゃはほんもんなり、えいしゃはしゃくもんなり、このみをすてるは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのむねに、そむくなりうんぬん、しょせん、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、しゃぜしんいなり、ふしゃくしんみょうのゆえなりうんぬん、またいわく、このみをしゃすとよむときは、ほうかいにごだいをしゃすなり、すつるところのぎにあらず、このみをすてて、ほとけになるというは、ごんもんのこころなり、かかるしゅうじょうをすつるを、しゃぜしんいととくなり、このもんは、いちねんさんぜんのほうもんなり、しゃぜしんいとは、げんきほんり、いちねんさんぜんのこころなり、みょうらくだいしの、とうちみど、いちねんさんぜん、こじょうどうじ、しょうしぼんり、いっしんいちねん、へんおほうかいとしゃくするは、このこころなりうんぬん。

 ここは じゅきほんさいごのげに、「わがこのでし、だいもっけんれんは、このみをすておわって、はっせん、にひゃくまんのくのしょぶつせそんをみたてまつることをえ」うんぬんのところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいもっけんれんがそのみをすておわって、はっせん、またにひゃくまんのくのしょぶつせそんをみたてまつることができた。すなわちじょうぶつしたととくこのだんから、すふしゃということがおこるのである。ほんいはてんしゃ=かりにすてるであって、えいしゃ=えいきゅうにすててしまうことではない。てんしゃはぼんもんであり、えいしゃはしゃくもんのおしえである。われわれのこのみをえいしゃすることは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのほんしにそむくことになるのである。しょせん、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるのは、ふしゃくしんみょうであるから、しゃぜしんいである。
 また、このみをほどこすすとよむときは、うちゅうほうかいにごだい、すなわちこのにくたいをほどこすのであって、すてるというぎではないのである。このみをすててほとけになるというのは、にぜんごんきょうのこころであって、このようなにぜんごんきょうにしゅうちゃくするこころをすてることをしゃぜしんいととかれているのである。さらにふかくはいすれば、このしゃぜしんいのもんはいちねんさんぜんのほうもんをあらわしている。すなわちしゃぜしんいとは「げんきほんり、いちねんさんぜん」ぼんりであることのいちねんさんぜん、なんみょうほうれんげきょうのごほんぞんにきみょうするといういみである。みょうらくだいしが「まさにしるべし、みどはいちねんのさんぜんなり、ゆえにじょうどうのとき、このぼんりにかなって、いっしんいちねんほうかいにあまねし」としゃくしているのは、このいみである。

 さどごしょに「せけんにひとのおそるるものはほのおのなかととうけんのかげとこれみのしするとなるべしぎゅうばなおみをむおしいわんやじんしんをやらいにんなおいのちをむおしいかにいわんやそうにんをや」(0956-04)うん々ぬんと。また、かえんじょうごうしょには「いちにちのいのちはさんぜんかいのたからにもすぎてそうらなり」(0986-11)うんぬんとある。ぶっぽうは、せいめいのそんげんをとき、せいめいのだいじをとく。したがって、ぶっぽうにはぎせいはありえないのである。なむとはきみょうというこころであり、また、なむとは、ぎょうはらみつなりとおおせである。げんきほんりのいちねんさんぜんのきみょうなれば、しょせんは、むじょうどうにいきているせいめいといえるのである。
 ふしゃくしんみょうは、とうぜん、まっぽうのほけきょうのしんどくである。ごほんぞんをじゅじし、だいしょうにんのごきんげんどおり、つよく、ただしく、じっせんかつどうしていることは、ふしゃくしんみょうであり、しゅくめいだはをなし、ふくうんをつみ、じょうぶつすることはうたがいないわけである。じょせいのために、ふしゃくしんみょうのひともある。かねだけのために、ふしゃくしんみょうのひともある、けんりょく、せいりょくだけのために、ふしゃくしんみょうのひともある。はかないふしゃくしんみょうというべきであろう。われわれのふしゃくしんみょうは、だいしょうにんのごゆいめいをたっせいしゆく、すうこうなるもくてきじつげんへのこうどうそれじたいである。ふしゃくしんみょうについては、さらにかんじほんの「だいにふしゃくしんみょうのこと」でろんずることにする。
 「またいわくこのみをしゃすとよむときはほうかいにごだいをしゃすなり」のもん。このもんは、じゅりょうほんのにゃくたいにゃくしゅつのもんのこころにつうずる。かんげんすれば、それぞれのしゅくごうにより、だいうちゅうにかんげんするといういみである。すなわち、うじょう、ひじょうともにさんせいじょうごうである。ちきゅうぜんたいが、げんぜんたるいちこのせいめいといえよう。ほのおのちきゅうがさめ、さまざまなさようとうをえ、げんじつに、うじょう、ひじょうのせいめいをげんしゅつしたふしぎは、とうぜん、しきしんふにのせいめいたいが、いっさいのこんぽんであることは、めいかくといえよう。しょうろうびょうし、じょうじゅうえくう、だいしぜんのせつりなれば、いっさいのせいめいが、しょせん、うちゅうにすきことになる。そのかんげんしてゆくうちゅうにじっかいのあらゆることをしらねばならない。
 そこで、こんじょうのぶっぽうのぜったいひつようせいがそんするわけである。また、こんじょうのせいめいのいんが、みらいのかをけっじょうし、みらいのかがそく、いんとなり、つぎのしゃばせかいしゅっしょうのかをつくりあげているのである。
 きょうもんに、ふじしゃくしんみょうとある。なむとはきみょう、だいもくをあげきることが、だいしょうにんのごきんげんをじっせんすることが、なむであり、ふじしゃくしんみょうとなる。このとうといせいめいを、しょうじにすててはならない。みょうほうにきみょうすることは、すてるのではなくほどこすのである。これは、りっぱに、ぎょうはらみつとなるとおおせである。
 がばくにくるしむきょうがいより、むじょうのらくをえられることが、しんじつのぶっぽうのげんりなのである。けっきょく、だいもくをあげきったじんせいが、みずからもりやくし、ひと々びとにも、こくどせけんにも、だいうちゅうにも、くどく、せいきをあたえきり、えいえんに、ほうしんをほどこすことになるわけである。
 したがって、じっさいもんだいとして、あらゆるひじょう、しょくもつ、のみもの、かおく、ようふくとうが、すべて、われらにほどこしたといえるのである。うじょうのせいめいも、とうぜん、いちおうは、いきてはぶんかしゃかいのそうぞうに、せいめいかつどうをもて、ほどこしをなしたといえようし、ししてもまた、うちゅうのなかに、かんげんされ、とけこみ、うちゅうかつどうのはたらきをきしていることはかんがえられることである。


0731    だいよん しゅくせいんねんごこんとうせつのこと

おんぎくでんにいわく、しゅくせいのいんねんとは、さんぜんじんでんのむかしのことなり、げこんのためにしゅくせのいんねんを、とかんということなり、いんねんとはいんはしゅなり、えんはむかしにかえるぎなり、もとづくとぜりくん、だいつうけちえんのげしゅに、もとづくということをいんねんというなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、かこのいんにもとづきたり、ここをもって、みょうらくだいしのいわく、「ゆえにしんぬ、まつだい、いちじきくことをえて、ききおわってしんをしょうずこと、すべからくしゅくしゅなるべし」と、しゅくとは、だいつうのおうじなり、しゅとはげしゅのなんみょうほうれんげきょうなり、このげしゅにもとずくを、いんねんというなり、ほんもんのこころは、ごひゃくじんでんのげしゅにもとずくべきなり、しんじつみょうほうのいんにもとずくくを、じょうぶつというなり。0732

かいしゃくこうぎ。
 ここは、じゅきほんのいちばんさいごに「わがもろもろのでしの、いとくぐせるそく。そのかずごひゃくなるも、みなまさにじゅきすべし、みらいせにおいて、ことごとくじょうぶつすることをえん、わがおよびなんじらが、しゅくせいのいんねん、われいま、まさにとくべし、なんじら、よくきけ」とのべられているだんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しゅくせいのいんねんとは、さんぜんじんでんこうの、むかしのことをいうのである。げこんのしょうもん、つまりいんねんしゅうのために、しゅくせいのいんねんを、とこうというのである。いんねんとは、いんはげしゅ、えんはむかしにかえるといういみで、「もとづく」とくんずる。つぎのけじょうゆほん、だいななでとかれる、だいつうけちえんのげしゅにもとづくということを、ここでいんねんといっているのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのは、かこのいん=くおんがんじょのいんにもとづく、くおんがんじょにかえるのである。
 このゆえに、みょうらくだいしは、「まっぽうにおいて、なんみょうほうれんげきょうのだいびゃくほうを、きくことができ、ききおわって、しんをしょうずるのは、しゅくしゅがあるゆえであることがわかる」と、のべている。このしゅくとは、だいつうちしょうぶつのむかしのこと、しゅとは、げしゅのほったいである、なんみょうほうれんげきょうであり、このげしゅにもとづくことを、いんねんというのである。そして、ほんもんのこころは、ごひゃくじんでんこうのげしゅに、もとづくべきであり、しょせん、しんじつのみょうほう、くおんがんじょの、なんみょうほうれんげきょうのいんにもとずくことを、じょうぶつというのである。

 じんせいのもくてきは、なにか。そうたいてきこうふくでなく、ぜったいてきこうふくのかくりつにある。そのこんぽんげんそくとして、えいえんのせいめいをえとくすることにあり、そのいちどうは、みょうほうを、じゅじじっせんするいがいにない。しょせん、わがせいめいのほんしつを、かくちせよとのだんのおんふみである。
 しゃかぶっぽうのせいめいろん、だいしょうにんのぶっぽうのせいめいろんのそういが、めいかくになされている。しゃくそんのくおんろんは、まだ、うしうしゅうであり、にちれんだいしょうにんの、くおんろんはむしむしゅうであられる。しゃくそんは、こしんのえいえんのせいめいかんを、とかれたのにたいし、だいしょうにんは、さんじんじょうじゅうを、あかされている。しんじつのいんねんのいんとは、くおんがんじょのいんにもとづく、くおんがんじょにきする。くおんがんじょは、すなわちなんみょうほうれんげきょうである。したがって、ほんぞんに、みょうほうをくしょうすることじたい、ぶっかいをゆげんし、むしむしゅうのえいえんのせいめいに、ほんしつてきに、いきることになるのである。
 やれ、じねんしゅぎだ、ぶっしつしぜんしゅぎだ、りそうしゅぎだ、きゃっかんてきりそうしゅぎだ、しんぴしゅぎだ、とせいようてつがくでろんぎされるが、このだいしょうにんのせいめいかん、うちゅうかんとくらべれば、てんちうんでいなることがわかるであろう。



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