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  • [238]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ にんきほんにかのだいじ

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月23日(金)03時23分39秒
 
  にちれんだいしょうにんごしょこうぎ、  おんぎくでん。 ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ。

0734~0734 ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ。

0734    だいいち えりのこと。
0734    だいに すいしゅにがのこと。
0735    だいさん しんしんへんかんきのこと 。

 だいいち えりのこと。

 おんぎくでんにいわく、このほんには、むげのほうしゅを、えりにかくることをとくなり、しょせんにちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、いちじょうみょうほうの、ちほうをしんじゅするなり、しんじんをもって、えりにかくというなり。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 この、ごひゃくでしじゅきほんには、さけによって、ふしていえる、ゆうじんのころものうらに、むげのほうぎょく=むじょうのほうしゅを、かけたというはなしが、とかれている。われわれのせいめいじたいに、ぶっかいがあるということを、いみしている。
 またかんじんのほんぞんしょうに、「いちねんさんぜんを、しらざるものには、ほとけ、だいじひをおこし、ごじのうちにこのたまをつつみ、まつだいようちのくびに、かけさしめたまう」(0254-18)とあるように、もとめずしてむじょうのほうしゅである、ごほんぞんをいただくことが、できたことをいみしているとおもわれる。
 しょせん、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、われわれにちれんだいしょうにんのもんかこそ、いちじょうみょうほうの、ちほう、すなわち、ごほんぞんをしんじゅすることに、なるのである。
 しんじんがあることを、ころものうらにかけるというのである。

 ぶっかいしょぐのもんである。すなわち、むげのほうしゅとは、ぶっかい=みょうほうのことであり、えりとは、せいめいのおうてい、いちねんのことである。われわれは、ひとよりこうふくをもらうものではない。あくまでも、こうふくは、じぶんじしんがつくるものである。そのこんぽんが、しんじんである。
 そこで、こんどは、かんきょうをととのえてゆくところに、こじんのこうふくと、しゃかいのはんえいがいっちするのである。えしょうふにろんより、ろんずれば、えほうは、かんきょうであり、しょうほうはこじんとなる。すなわち、しょうほうのこんぽんのかいけつはぶっぽう、えほうのかいかくはおうほうとなるのである。

0734    だいに すいしゅにがのこと

おんぎくでんにいわく、さけとはむみょうなり、むみょうはほうぼうなり、がとはほうぼうのいえにるうまることなり、さんぜんじんでんのとうしょに、あくえんのさけをのみて、ごどうろくどうによいまわりて、いま、ほうぼうのいえにふしたり、よいとはふしんなり、かくとはしんなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるとき、むみょうのさけさめたり、またいわく、さけにじゅうじゅうこれあり、ごんきょうはさけ、ほけきょうはさめたり、ほんしゃくそうたいするとき、しゃくもんはさけなり、しかくのゆえなり、ほんもんはさめたり、ほんかくのゆえなり、また、ほんしゃくにもんはさけなり、なんみょうほうれんげきょうはさめたり、さけとむさるとはあいはなれざるなり、さけはむみょうなり、むさるはほっしょうなり、ほうはさけなり、みょうはさめたり、みょうほうととなうれば、むみょうほっしょう、たいいちなり、しのいちにいわく、むみょうじんろう、そくぜぼだいと。

かいしゃくこうぎ。
 「せそん、たとえばひとあり、しんゆうのいえにいたりて、さけにようてふせり、このときにしんゆう、かんじのまさにいくべきあって、むげのほうしゅをもって、そのえのりにかけ、これをあたえてさりぬ。そのひと、よいふして、すべてかくちせず…」のところの、おんぎくでんである。
 このさけとは、むみょう(まよい)であり、まよいのけっか、ほうぼうをしているじょうたいである。さけによって、ふしているとは、ほうぼうのいえにうまれることを、たとえているのである。
 しゃくもんのこころは、しゃかぶっぽうのしゅじょうは、さんぜんじんでんこうという、とおいむかしに、あくえんのさけ ふしん、ほうぼうのじんをおこして、そのけっか、じごくからにん、てんにわたる、ごどうろくどうのふこうなせいかつを、よいめぐってきて、いままた、じゃしゅう、ほうぼうのよいが、さめたといえるのである。
 いま、にちれんだいしょうにんもんかの、われわれが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときには、むみょう、ほうぼうのよいが、さめたといえるのである。
 さて、このよっている、さめているということも、なんだんかいもあるのである。
 ごんじつそうたいして、ごんきょうはさけで、ほけきょうはさめているじょうたいである。
 またほんしゃくそうたいして、しゃくもんはさけである、しょじょうしょうかく インドではじめてほとけになったと、といているからからである。ほんもんはさめている、くおんじつじょうの、ごひゃくじんでんこうの、じょうどうをといているからである。
 また、もんじょうのほんしゃくにもんはさけである。もんていの、なんみょうほうれんげきょうは、まったくさめているじょうたいである。
 さけによっていることと、さめていることとは、はなれたことではない。さけはむみょう、まよいであり、さめていることは、ほっしょう、さとりである。みょうほうの「ほう」はさけ、すなわちむみょうであり、「みょう」はさめていること、すなわちほっしょうである。なんみょうほうれんげきょうと、となえればむみょうとほっしょう、まよいとさとりは、そのたいがおなじであることをさとるのである。
 まかしかんのいちには、「むみょうじんろう、そくぜぼだい」といっている。むみょうとはがんぽんのむみょうわく、じんろうとは、とんじんちのさんどく、したがって、むみょうじんろうとは、ぼんのうのことであり、てんだいは、ぼんのうそくぼだいといっているのである。

さけとはむみょうなり、むみょうはほうぼうなり、がとはほうぼうのいえにうまるることなり。
 いちおうは、しゅくめいろんである。さいおうは、しゅくめいだかいろんにはいるわけである。
 「さんぜんじんでんのとうしょ」のだんは、あらあらえいえんのせいめいをとき、ふこうのこんぽんは、こんぜだけのものではない。あくまで、ぜんせ、かこせのこんげんがあることをあかしているもんとなる。せいめいは、えいえんである。このふこうのえんいんを、あかしているかしょとも、よめるわけである。
 だいしょうにんのぶっぽうは、いんがくじのいちりをとかれてる。すなわち、くおんがんじょのほんたいこそ、さんだいひほうの、ほんぞんであられる。したがって、わがみのいちねんのしゅんかんに、えいえんをはらみ、しゅんかんのれんぞくが、えいえんとなる。そのいちねんいっしゅんのとうたいこそ、げんりこそ、ほんにんみょうのだいぶっぽうなのである。
 さけとは、むみょうである。あくしそう、じゃしゅう、じゃぎとうをさすことはとうぜんである。
 また「ほんしゃくにもんは、さけなり、なんみょうほうれんげきょうは、さめたり」とは、しゅだつそうたいのところである。すなわち、まっぽうこんじにおいては、いっさいのかいけつは、にちれんだいしょうにんのぶっぽうによるいがい、ぜったいにありえないとの、ごせんげんである。

0735    だいさん しんしんへんかんきのこと

 おんぎくでんにいわく、しんとはしょうじそくねはんなり、こころとはぼんのうそくぼだいなり、へんとは、じっかいどうじなり、かんきとはほうかいどうじのかんきなり、このかんきのうちには、さんぜしょぶつのかんき、おさまるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつれば、われそくかんきとて、しゃくそん、かんきしたまうなり、かんきとは、ぜんあくともにかんきなり、じっかいどうじなり、ふかくこれをおもうべしうんぬん。

 ごひゃくでしじゅきほんのさいごに「われいま、ほとけにしたがって、じゅきそうごんのこと、および、てんじにじゅけつせんことを、ききたてまって、しんしんあまねくかんきす」とある。
 このもんについて、おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 しんがかんきするとは、しょうじそくねはんということである。こころがかんきするとは、ぼんのうそくぼだいということである。しんしんともに、きゅうかいそくぶっかいとひらくことをいうのである。また「へん」とは、じっかいどうじであることである。かんきは、わがしんしんだけが、かんきするのではなく、いちねんさんぜんのりほうによって、ほうかいのすべてが、どうじにかんきするのである。
 このかんきのなかには、さんぜしょぶつのかんきも、はいっているのである。けんほうとうほんだいじゅういちに、「このきょうは、たもちがたし、もししばらくも、たもつものは、われすなわちかんきす、しょぶつもまた、しかなり」とあるように、いま、にちれんだいしょうにんのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつれば、「われすなわちかんきす」とて、しゃくそん、すなわち、もんていのしゃくそんである、にちれんだいしょうにんは、ごかんきあそばされるのである。このかんきは、ぜんあくともに、つまりぶっかいも、きゅうかいもともにかんきするのである。じっかいがどうじにかんきし、じょうぶつしていくのである。このことをふかくしさくしてくべきである。

 「しんしんへんかんき」のしんしんは、しきしんふにのこころであり、へんとは、じっかいどうじのせいめいぜんたいに、かつどうがあることをいみする。じごくより、ぶっかいにいたるまで、しょううちゅうである。わがとうたいは、きょくぶだけのせいめいかつどうでなく、かならずぜんせいめいに、そのせいめいかつどうがなされるのが、じったいであり、じっそうなのである。のみならず、われらじしんのじっかいのせいめいかつどうが、そく、だいうちゅうであり、ほうかいにどうじにはんえいするとのことばを、そのふしぎを、よくよくしさくすべきであろう。
 「このかんきのうちには、さんぜしょぶつのかんき、、おさまるなり」のところでは、ついぜんくようのげんり、もふくまれている。また、じしんが、しんじんにより、こうふくかつどうのたいけんをえた、このじっしょうよりみて、せんぞのばっくよらくにつうじ、せんぞも、また、よろこんでいるとも、かんがえられるわけである。「われそくかんきとて、しゃくそんかんきしたまうなり」とは、われわれが、みょうほうをごじして、よろこんでしゃくぶくし、きょうがくにはげんでいけば、だいしょうにんがよろこばれる。もし、くるしんでいれば、だいしょうにんは、かなしまれるのである。しょせん、かんきのぜんしんをしきってゆくことが、しんじんのさいじといえる。きょうに「いちねんずいきのくどく」うんぬんとあるように、かんきのしんじんのあるところに、かならずくどくはわいてくるのである。
 がっかいうちでいえば、せいねんがせいちょうしてくれれば、おやもよろこぶであろうし、わたしもうれしい。せいねんがせいちょうしなければ、おやもかなしみ、わたしもくるしい。
 いま、かくせいとうでも、また、かいしゃでも、ろうどうくみあいでも、くにぜんたいがこのほうていしきをかんがえるべきである。みなが、こうふくになることをねがい、しどうしゃたちが、「ああほんとうによかった、よろこばしいことだ」ときょうおうより、いえるじだいが、こなくてはならない。
 ところが、はばつこうそう、けんりょくとうそうとう、ひとをおしのけ、おしたおし、じぶんだけよくなり、ひとをつきおとしても、かまわぬという、りこしゅぎが、じゅうまんするげんじつのせかいと、いわざるをえない。そのこんぽんかいけつこそ、すべてのひとが、ごほんぞんをじゅじすることに、つきるわけである。
 さいごに、「ぜんあくともに」は、いかなるきょうぐうたりとも、びょうにん、びんぼう、けんこう、ふしゃとう、ばんにんが、みょうほうじゅじのじんせいになれば、かならずじょうぶつできうるとの、おんふみである。
 ほんぬのみょうほうに、てらされてみれば、だいば、じゅうらせつにょも、みな、みょうほうのとうたいとなるわけである。しょせん、いかなるひとたりとも、しゅくめいてんかんをなし、ほんぬじょうじゅうに、こうふくなじんせいをいとなむことは、ひつじょうなりとのおんふみとかいする。

0735~0736 にんきほんにかのだいじ
0735    だいいち がくむがくのこと
0735    だいに さんかいえじざいつうおうぶつのこと

だいいち がくむがくのこと

 おんぎくでんにいわく、がくとはむちなり、むがくとはうちなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、がくむがくのひとに、にょがとうむいのきを、くさずるにあらずや、しきほうは、むがくなり、しんぼうはがくなり、また、しんぼうはむがくなり、しきほうはがくなり、がくむがくのひととはにほんこくの、いっさいしゅじょうなり、ちしゃぐしゃをしなべて、なんみょうほうれんげきょうのきをときて、にごうどくしするなり。

かいしゃくこうぎ。
 にんきほんにおいては、がくむがくの、しょうもんのでしにせんにんが、じょうぶつのきをうけるのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「がく」とは、これからべんきょうすべきむちのものをいい、「むがく」とはがくもんのしゅぎょうがしゅうりょうした、うちのものをいう。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえてしゃくぶくをぎょうずるのは、にほんこくのがくむがくのひとを「わがごとくひとしくして、ことなることなからしむる」すなわち、ぜんいんを、じょうぶつのこうふくきょうがいにみちびくこういではないか。しきほうはむがくであり、しんぼうはがくである。またしんぼうはむがくであり、しきほうはがくである。がくむがくのひととは、にほんこくのいっさいしゅじょうである。にほんこくのいっさいの、ちしゃぐしゃをひっくるめて、なんみょうほうれんげきょうの、きべつをといて、ごうしゃくするのである。

 「がく」とは、がくもんのみじゅくなひと。「むがく」とは、すでにがくもんにとうてつしたひと、いまのせけんでつかわれている、ことばとはんたいになる。ぶっぽうをしってくると、げんだいようごのなかに、いかにたすうのぶっぽうようごが、ながくひろくつかわれているかがうかがえる。その、げんだいにるふされているようごが、こんどは、ひじょうにきょっかいされて、きていることもじじつである。「がまんづよい」ということばは、ふつう、よいばあいにつかわれる。しかしぶっぽうのうえでは、がまんへんしゅうといって、よくないこととされている。
 さて「しきほうは、むがくなり、しんぼうはがくなり、また、しんぼうはむがくなり、しきほうはがくなり」うんぬんのかしょを、おうようしてかいしゃくしてかんがえてみたい。ゆいぶつろんは、しきほうはむがくとなり、しんぼうはがくとなる。ゆいしんろんでは、しんぼうはむがくであり、しきほうはがくといわざるをえなくなる。りょうしゃこそ、ていきゅうなてつりといわざるをえない。また、「しきほうはむがくなり」とは、にくたいはけんぜんである。しかし「しんぼうはがくなり」せいしんは、はくじゃくである。あたまはわるい。はんたいに「しんぼうはむがくなり」とは、ずのうはじつにめいせきである。しかし、「しきほうはがくなり」、しんたいはひじょうにわるい、きょじゃくである、…とう々とう、さまざまに、かいしゃくすることができる。しょせん、しきともに、「むがく」にとうたつすることが、しんじんしゅぎょうのもくてきとなる。
 げんだいごでいえば、かんぜんなるぼんぷ、にんげん、じんかくということであろう。「ちしゃぐしゃをしなべて、なんみょうほうれんげきょう」とは、いかなるちじん、だいがくしゃたりといえども、また、ぐしゃであっても、ぜったいのこうふくは、じょうぶつだけは、みょうほうによるいがいにだんじてないとの、ごしどうであられる。
 「にごうどくし」とは、しいてこれをどくすとよみ、ごうしゃくのことである。しょせん、ごほんぞんをじゅじせしむるほうほうは、しゃくぶくをもってするいがいに、みちはないとのおおせであられる。

0735    だいに さんかいさとしじざいつうおうぶつのこと
0736
 おんぎくでんにいわく、さんとは、ぼんのうそくぼだいなり、かいとはしょうじそくねはんなり、えとはわれらがはくところのごんごなり、じざいとはむしょうげなり、つうおうとは、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんなり、またいわく、さんとはしゃくもんのこころなり、かいとはほんもんのこころなり、えとはみょうほうのごじなり、いま、にちとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、さんかいえじざいつうおうぶつなり、まったくほかにあらざざるなり、われらぎょうじゃのほかに、あなんこれれなきなり、あなんとは、かんきなり、いちねんさんぜんのかいかくなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
にんきほんにおいて、しょうもんのでしのあなんが、さんかいえじざいつうおうにょらいの、きべつをうけている。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。その「さん」とは、ぼんのうそくぼだいをあらわし、「かい」とはしょうじそくねはんをあらわし、「え」とは、われわれがはくところの、ことばをあらわしている。「じざい」とは、むしょうげであることをいみし、「つうおう」とは、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんをいみしている。また「さん」とはしゃくもん、「かい」とはほんもん、「え」とはみょうほう、すなわちもんていどくいつほんもんを、いみしているのである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、さんかいえじざいつうおうぶつである。このほとけも、われわれのことを、さしているのであって、まったくべつのことではないのである。われわれ、ほけきょうのぎょうじゃいがいに、あなんはないのである。あなんとは、ぼんごでかんきといういみである。われわれが、いちねんさんぜんのとうたいである。ほとけであるとかいかくして、かんきすることをさすのである。

 にんげんはみな、じゆうじざいをほっし、むしょうげ、すなわち、くにしばられないせいかつを、ようきゅうしているのである。そのこんぽんせいかつほうが、みょうほうによるいがいに、けっしてないとのおんふみである。
 「あなんとはかんきなり」うんぬんのもんは、われらこしんのあなんであり、しんじんほど、さいこうのよろこびは、ぜったいにないとの、ごしどうである。これは、じじつ、われわれがたいとく、たいけんしているとおりである。しゃくそんざいせにおける、あなんは、じょうずいきゅうじ、たもんだいいちといわれ、かしょうにつづき、だいにのふほうぞうとされた。
 すなわち、しんじんしゅぎょうのかがみといわれ、そのいちねんは、えいえんのせいめいをさとるため、かんきにもえていちずにしゅぎょうしてきたことを、だいしょうにんが、おひきあそばされた、もんとはいする。

じざいとは、むしょうげなり。
 じざいとは、じゆうじざい、しゅじょうしょゆうらくといういみであり、むしょうげとは、ふこうなしゅくごうにしばられないことである。すなわち、ぜったいてきこうふくきょうがい、ぶっかいのゆげんのことである。われわれは、このじざい、むしょうげのえとく、かくりつをがんぼうし、どりょくしているといえる。
 しょせん、しんじんのもくてきも、じざい、むしょうげの、じんせいかくりつにつきるわけである。そのほうほうとはなにか。それは、さんだいひほうのほんぞんにだいもくをあげるいがいにない。じざいのきょうがいとは、とくべつなすがたになるのではけっしてない。もっともぼんじんらしく、にんげんらしく、そのままのすがたで、だいふくうんをつみ、よのどうりをわきまえ、しゅくめいてきな、さんあくどう、しあくしゅのちからに、ひきずりまわされないせいめいかつどうのことである。
 たとえば、いかりはしゅら、このいのちのつよいひとは、いかりにひきまわされ、とんだふこうをまねいてしまう。くるしみはじごく、このせいめいのつよいひとは、びょうきのくのう、しゃっきんとうのなやみがあり、このしゅくめいとたたかい、じざい、むしょうげのじんせいをきずきたいことは、とうぜんのりとなろう。いか、きゅうかいのせいめいかつどうも、これにじゅんじてかんがえていただきたい。


  • [237]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな けじょうゆほんななかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月18日(日)03時51分5秒
 
  0732~0734 けじょうゆほんななかのだいじ。

0732    だいいち けじょうのこと。
0732    だいに だいつうちしょうぶつのこと。
0733    だいさん しょもていきゅうのこと。
0733    だいよん ごそてんりんじょうおうのこと。
0733    だいご じゅうろくおうじのこと。
0734    だいろく そくめつけじょうのこと。
0734    だいなな かいぐしほうしょのこと。

0732~0734 けじょうゆほんななかのだいじ。

 おんぎくでんにいわく、けとはしきほうなり、じょうとはしんぼうなり、このしきしんのにほうを、むじょうととくはごんきょうのこころなり、ほけきょうのこころは、むじょうをじょうじゅうととくなり、けじょうそくほうしょなり、しょせん、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、しきしんみょうほうとひらくを、けじょうそくほうしょというなり。
 じっかい、みな、けじょう、じっかいおのおの、ほうしょなり、けじょうはきゅうかいなり、ほうしょはぶっかいなり、けじょうをさつて、ほうしょにいたるというは、ごひゃくゆじゅんのあいだなり、このごひゃくゆじゅんとは、けんじ、じんじゃ、むみょうなり、このぼんのうの、ごひゃくゆじゅんを、みょうほうのごじと、ひらくを、けじょうそくほうしょというなり。
 けじょうそくほうしょとは、そくのいちじは、なんみょうほうれんげきょうなり、ねんねんのけじょう、ねんねんのほうしょなり、われらがしきしんのにほうを、むじょうととくは、ごんきょうなり、じょうじゅうととくはほけきょうなり、むじょうとしゅうするしゅうじょうをめっするを、そくめつけじょうというなり。
 けじょうはひにく、ほうしょはこつなり、しきしんのにほうを、みょうほうとかいかくするを、けじょうそくほうしょのじったいというなり、じったいとは、むじょうじょうじゅう、くじそうそく、ずいえんふへん、いちねんじゃくしょうなり、いちねんとは、なんみょうほうれんげきょう、むぎわっしんのいちねんなり、そくのいちじ、こころをとどめてこれを、おもうべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。けじょうのけとは、しきほうであり、じょうとは、しんぼうである。このしきしんのにほうを、むじょうであるととくのは、にぜんごんきょうのこころである。ほけきょうのしんいは、このむじょうをじょうじゅうととく。「かり」のものである、けじょうが、じつは、そのままほうしょなりととくのが、もんていなのである。
 しょせん、いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、ごほんぞんに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつり、わがしきしんが、そく、みょうほうれんげきょうのとうたいとひらき、そくしんじょうぶつを、とげることを、けじょうそくほうしょというのである。じっかいはみな、けじょうであるが、しかも、そのじっかいのおのおのがほうしょである。けじょうとはきゅうかいであり、ほうしょはぶっかいである。
 けじょうをさって、ほうしょにいたるまで、ごひゃくゆじゅんのみちのりがあるというが、このごひゃくゆじゅんとは、けんじ、じんじゃ、むみょうのさんわくである。このさんわく、ぼんのうのごひゃくゆじゅんを、みょうほうのごじをかいかくするのを、けじょうそくほうしょというのである。けじょうそくほうしょのそくのいちじは、なんみょうほうれんげきょうである。われわれが、なんみょうほうれんげきょうととなえるときに、ねんねんのけじょう、きゅうかいのせいめいは、ねんねんのほうしょ、すなわち、ぶっかいのせいめいとなるのである。
 われわれのしきしんのにほう、せいめいを、むじょうととくのはごんきょうであり、じょうじゅうふめつととくのは、ほけきょうである。ごんきょうのむじょうのおしえに、しゅうするじょうねつをめっすることを、そくめつけじょうというのである。
 けじょうはかわやにくであり、ほうしょは、こつである。しきしんのにほうの、わがみ、そくみょうほうとかいかくすることを、けじょうそくほうしょのじったいというのである。
 じったいとは、むじょうにしてじょうじゅう、くじにしてそうそく、ずいえんであって、しかもふへんなるものであり、みょうほうにてらされた、いちねんのはたらき、せいめいじたいをいう。
 いちねんじゃくしょうのいちねんとは、なんみょうほうれんげきょうであり、みょうほうをしんじきった、「うたがいなきをしんとのたまう」のいちねんである。けじょうそくほうしょの、そくのいちじは、とくにこころをとどめて、これをおもうべきである。

 はちまんほうぞうは、ことごとく、せいめいのじったい、うちゅうのじっそうを、あかしといている。ここは、けじょうといい、ほうしょといい、すべて、われわれのしきしんなりとの、おんふみであられる。すなわち、けっしてかんねんろん、おとぎばなしのきょう々きょうでなく、「けじょうはひにく、ほうしょはこつなり」うんぬんというがごとくに、せいめいあるいは、せいかつをとかれているのである。
 だいしょうにんは、せいめいろんを、しきしんふにろんでとくばあい、さんじんじょうじゅうろんでとかれるばあい、えしょうふにろんでろんずるばあい、とう々とう、さま々ざまなかんてんからとかれている。
 しょせん、いっさいのきょう、げ、くは、ことごとく、なんみょうほうれんげきょうきょうにふくまれているのである。にちかんしょうにんは、「かんようとは、ゆいいつをあげて、いっさいをせっするぎなり」うんぬんと。しかして、ぶっぽうのしんずい、かんようは、ほんぞんであることは、とうぜんであり、あとは、われわれの、むぎわっしんのしんじんが、じょうぶつのきょうがいをえとくできえる、じきどうなりとのしどうである。

じっかいみなけじょう、じっかいおのおのほうしょなり、けじょうはきゅうかいなり、ほうしょはぶっかいなり。
 「じっかいみなけじょう」これはしんじんのないじんせい。じごくよりぶっかいにいたるまで、こっ々こくとへんかしゆくせいめいかつどうは、けじょうである。「じっかいおのおのほうしょなり」これは、じのうえである。みょうほうをごじし、しんじんしたばあいである。じごくより、ぶっかいにいたるまで、ほんぬのみょうほうにてらされた、せいめいかつどうである。
 けじょうは、きゅうかいであるとは、むみょうるてんのじんせいである。ほうしょとは、ぶっかいである。またほんぞんのことである。そして、にくだんのみょうほうをゆげんした、せいめいかつどうのことである。なお、しんじんのうむにかかわらず、りじょうには、すべてじっかいさんぜんのせいめいである。しかしながら、みょうほうじゅじのせいめいは、じっかいおのおのほうしょとなる。ほんぬじょうじゅう、じょうじゃっこうどがわかり、しんじんなくば、ろくどう、きゅうかいのむみょうによい、えいえんのこうふくきょうがいを、かくりつすることができえぬとの、てつりであるとはいしたい。
けじょうをさつて、ほうしょにいたるというは、ごひゃくゆじゅんのあいだなり、このごひゃくゆじゅんとは、けんじ、じんじゃ、むみょうなり、このぼんのうの、ごひゃくゆじゅんを、みょうほうのごじとひらくを、けじょうそくほうしょというなり、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのもんである。
 きょうもんのうえで、「けじょうをさってうんぬん」というひょうげんがあるが、だいしょうにんのかんじんのたちばから、この、ごひゃくゆじゅんということは、じつは、けんじわく、じんじゃわく、むみょうわくのことであるともうされているのである。
 けじょうをさることはできない。このみで、ほとけになるいがいにない。ぼんのうをさるとか、ぼんのうをだんずるというのは、にぜんのおしえであり、ぼんのうそくぼだいがだいしょうにんのてつがくである。

けじょうそくほうしょとは、そくのいちじは、なんみょうほうれんげきょうなり、ねんねんのけじょうねんねんのほうしょなり。
 けじょうも、われわれのせいめい、ほうしょもわれわれのせいめい、ほとけになるといっても、われわれのせいめいの、ぶっかいをゆげんすることにつきる。だんだんとしゅぎょうしてほとけになるのではない。けじょうそくほうしょ、きゅうかいそくぶっかいの、こんぽんとはなにかといえば、ごほんぞんにむかってしょうだいしゅぎょうし、なんみょうほうれんげきょうのとうたいを、じかくすることにある。
 「ねんねんのけじょう、ねんねんのほうしょなり」とは、われわれのいちねんのしょさは、むすうむりょうといえる。しかし、そこに、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、ぜんぶわがみ、すなわちほとけなり、とうたいなりと、かくしんしきることにつきる。それをせいかつのうえ、せいめいりょくのうえで、ゆげんするには、なんみょうほうれんげきょうを、となえるいがいにない。
 けじょうは、かんねんろんであり、ほうしょはせいかつである。けじょうはりで、ほうしょはじになる。べんきょうしているというのは、けじょうのねんねんであって、それをせいかつにぐげんしたばあいには、ほうしょのねんねんにかわるのである。

しきしんのにほうを、むじょうととく。
 「しきしんのにほう」とは、せいめいのぜんたいのこと。「むじょうをとく」は、こんぜろんであり、えいえん、ちょうおんでないといういみである。したがって、ごんきょうはげんせろんであり、ほけきょうはえいえんろんである。しょうじょうは、さんじんのうち、おうじんをちゅうじくとしてとかれ、ごんだいじょうは、ほうしんまたはほうしんとなる。じつだいじょうは、さんじんじょうじゅうをあかし、なかんずく、ほっちゅうろんさんで、じじゅゆうほうしんをこんぽんととかれている。また、しょうじょうは、しきしんの、しきのめん、めにみえる、せいめいじょうたいのほうをつよくとく、おうじんろんである。だいにちきょうは、ほうしんろんであり、はんにゃきょうは、ちえ、ほうしんのめんをといている。ほけきょうは、さんたいえんゆう、さんじんえいえんをあかし、かんぺきな、だいせいめいてつがくである。
 ゆいぶつろんは、しきろんである。そのほんしつは、しょうじょうてつりにちかいといえよう。ゆいしんろんは、しんろんのみであり、またしょうじょう、ごんだいじょうしそうに、そのないようは、にているとかんがえられるのである。

けじょうはひにく、ほうしょはほねなり。
 ほけきょうしゃくもんの、けいりたる「けじょう」と、「ほうしょ」をば、わがせいめいにあてはめてみてば、「けじょう」は、「ひにく」となり、「ほうしょ」はにくたいのこつずいと、よむことができる。すなわち、「ほうしょ」は、きょうがいろんでは、ぶっかいであるとどうじに、じんたいにやくせば、もっともちゅうかくたるほねとなる。とうぜん、せいめいは、ひにくこつどうしょうのものであるが、こつであって、ひにくがあると、だんかいをへて、かんがえることもどうりであろう。
 また、けじょうはきゅうかい、ほうしょはぶっかいであることを、いろ々いろのめんからろんじ、わからせようとされたとも、はいすることができる。しんじんして、にんげんかくめいをなし、びょうきとうがなおせるげんりも、すいさつできうることである。なお、だいうちゅうはすなわち、わがとうたいであるしょううちゅうと、ひとしいものであるから、だいもくのちからによって、かんせいされた、しきしんふにのせいめいを、じゅりつすることこそ、わがみの、こうせんるふともいえよう。
 こくどせけんに、あてはめてみれば、そのこくどはほうじょうとなり、みんしゅうが、ゆたかに、こうりゅうしゆくげんせんとなることは、まちがいないげんりといえよう。だいうちゅうと、ぜんじんるいがみょうほうのリズムにがっちした、せいかつ、かつどうをしてゆけば、しょせんは、ふくかぜえだをならさずのへいわきょう、りそうきょうがとうらいすることも、ひつぜんと、いいきれるのである。わがみも、こくども、うちゅうも、ほうていしきは、どういつほうほうとかんがえていけるのである。

むじょうじょうじゅう、くじそうそく。
 「むじょう」はへんか、「じょうじゅう」はえいえん、「むじょう」ははちしきよりごしき、「じょうじゅう」はくしき、「むじょう」はきゅうかい、「じょうじゅう」はぶっかいともいえる。
 このせいめいに、りょうしゃがげんそんする。しんじんのうむにかかわらず、むじょうじょうじゅう、くじそうそくされていることも、うたがいないじじつである。しかしながら、りのうえのろんじかた、ことのうえのろんじかたとにとおりになる。りのうえでは、せいめいはひとしく、りのいちねんさんぜんのとうたいとなる。
 だが、だいもくをとなえなければ、ぶっかいのゆげんは、ありえない。したがって、かんぜんなるいちねんさんぜんのせいめいかつどうとはなりえない。なお、われらのせいめいは、いちおうは、むじょうである。いっしゅん々々、へんかのれんぞくである。にさいのときと、はたちのときとは、しきほうのだいへんかがなされてきている。さらに、こうつうじこ、びょうまとう々とうのふしょうじも、せいかつのじょうじゅうをゆるさない。
 さいおう、にょじつちけんして、せいめいのほんしつをみれば、ほとけはじょうじゅう、えいえんをとく。じじつ、われらのせいめいそれじたいは、むしむしゅうであり、そのほんしつは、めっせず、しょうぜず、うちゅうとともにえいえんであるからである。そのりょうしゃのせいめいじょうたいをば「むじょうじょうじゅう」とかんがえられる。たとえば、だいちはじょうじゅう、そうもくはむじょう、そのかんけいをば、「くじそうそく」というのである。
 「じゃくしょう」とはしょうじょうでは「くうじゃく」また「じゃくめつ」といい、だいじょうきょうでは「じゃくしょう」となる。「くうじゃく」は、けしんめっちであり、「じゃくしょう」は、じょうらくがじょうとなる。
 こんぽんてきに、しゅぎょうかん、せいめいかんのそういがある。しょうじょうきょうでは、すべてを、ぎせいにして、さとりをえようとつとめる。りこしゅぎ、きわまりない。だいじょうきょうでは、じんせいをたのしみつつ、しゃかいにかちそうぞうしながら、さとりをえようとする。しゃくそんじしん「よんじゅうよねん、みけんしんじつ」と、しょうじょうきょうのしゅぎょうをうちやぶっている。
 あくまで、「くうじゃく」は、じしんのぼんのうをだんじてゆかねば、とうたつできぬしゅぎょうほうである。かいりつにしばられ、せいやくされながらの、じんせいであり、まことに、ざんこくといわざるをえない。それにたいし、まっぽうのほけきょうは、みょうほうにてらされ、きゅうかいにゆうげしていくじんせいである。じこを、さいこうどにはっきして、ぜったいのこうふくせいかつをなしつつ、しゃかいのはんえいにいそしむ、さいこうぜんのふるまいをいうのである。げんしゃかいにおいて、ていきゅうしそうにしゅうちゃくし、まんぞくしきっているひと、なお、りこしゅぎにてっし、ひとのこうふこうをかんがえぬひとたちこそ、しょうじょうてきなじんせいかんといわざるをえない。


0732    だいに だいつうちしょうぶつのこと

 おんぎくでんにいわく、だいつうはしんのうなり、ちしょうはしんずなり、だいつうはしゃくもん、ちしょうはほんもんなり、だいつうちしょうは、われらがいっしんなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、だいつうなり、だいもくをとなうるはちしょうなり、ほけきょうのぎょうじゃのちは、ごんしゅうのだいちよりもひゃくせんまんばい、すぐれたるところを、ちしょうとこころうべきなり、だいは、しきほう、つうはしんぼうなり、われらがしょうじを、だいつうというなり、このしょうじの、しんしんにふるまう、きねんをちしょうとはいうなり、ここをもってこれをおもうに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるぎょうじゃは、だいつうちしょうぶつなり、じゅうろくおうじとはわれらがしんずなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、さんぜんじんでんこうのむかしに、だいつうちしょうぶつというほとけがおり、そのほとけはしゅっけするまえは、おうさまであって、16にんのおうじがあった。そしてその16おうじは、みな、だいつうちしょうぶつから、ほけきょうのせっぽうをうけたことについての、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいつうちしょうぶつの、だいつうとはしんのうであり、ちしょうとはしんつうである。しんのうはせいめいのこんぽん、しんずはせいめいのはたらきのことである。したがって、だいつうはしゃくもん、ちしょうはほんもんである。だいつうちしょうとは、われらがいっしんのことである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、だいつうであり、そのだいもくをとなえることは、ちしょうとなるのである。
 ほけきょうのぎょうじゃ、べっしてはにちれんだいしょうにん、そうじては、ごほんぞんにだいもくをとなえるわれら、のちは、ごんきょうをきわめた、こうそう、いっさいのじゃしゅうのきょうそ、またいっさいのがくしゃよりも、ひゃくせんまんばいもすぐれている。これをちしょうとこころうべきである。
 だいはしきほう、つうはしんぼうである。われ々われのせいめいをだいつうというのである。このせいめいのしんしん、しきしんのにほうに、ふるまうきねんをちしょうというのである。
 いじょうのことからけつろんするに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、ぎょうじゃは、だいつうちしょうぶつであり、16おうじとは、われわれがだいもくをとなえたてまつって、でてくるところの、はたらきをいみするのである。
 ほけきょうもんじょうの、ほとけ、ぼさつが、みな、じつざいであったということは、しんずるいがいにない。しかしだいしょうにんは、このもんじょうのきょうりをば、げんじつに、じっさいてきに、わがみに、わがせいかつに、おときくださっているのである。しゃりほつをば、くうけちゅうのさんたいにやくし、いおんのうぶつをば、しきしんふににやくするごとくに、いま、ごほんぞんにだいもくをとなうれば、けじょうゆほんのだいつうちしょうぶつも、また、わがみのふるまいとひとしいというのである。
 16おうじといっても、また、みょうほうをとなう、わがいちねんいっしんのはたらきをさすのだとおときである。
 だいしょうにんのぶっぽうは、けっして、かんねんろんではない。げんじつろんであり、すうこうなるせいめいろんのおうぎのあらわれである。
 しんのうのしんずについては、しんのうは、がんぽん、せいめいかつどうのほんげんであり、しんずは、いちねんのしょさ、かつどうのことである。なお、ほんしゃくよりろんずれば、しんのうは、せいめいのこんぽん、ふへんしんにょ、しゃくもんである。しんずは、げんじつにぐげんされた、せいしんのかつどうじょうたいであり、ずいえんしんにょ、ほんもんである。かなしみ、くるしみ、よろこびとう々とうのしんりじょうたいは、しんずである。したがって、しんずがじであり、ほんもんとなる。しんのうは、りでありしゃくもんとなる。
 わたしたちのいちねんは、とうぜんこっ々こくとへんかする、ないめんより、かつは、がいぶのえんによって、あるときは、ひとをすくおう、あるときは、たいてんしようか、また、あそびたい、まなびたい、かたりたい、とう々とうと。
これがしんじつのせいしんかつどうであり、じであり、ほんもんなのである。しょせん、だいもくをあげて、みょうほうのとうたいの、かくしんあるせいめいかつどうが、こうふくかくりつのしんのう、しんずとなっているわけである。

0733    だいさん しょもたいきゅうのこと

 おんぎくでんにいわく、しょもとは、もろもろはじゅうろくひとのははということなり、じつぎにはははとは、がんぽんのむみょうなり、このむみょうよりおこる、わくしょうをしょもともいうなり、るてんのときは、むみょうのははとつれていで、げんめつのときは、むみょうのははをころすなり、むみょうのははとは、ねんぶつ、ぜん、しんごんとうのひとびとなり、にずいそうしとは、ぼうにんをさすなり、しかりといえども、ついにほけきょうのこうせんるふ、あらわれて、てんかいちどうにほけきょうのぎょうじゃとなるべきなり、「ずいしどうじょう、げんよくしんごん」これなり。

 「そのほとけ、いまだしゅっけしたまわざりしときに、じゅうろくのこあり。そのだいいちのなをば、ちしゃくとのたまう。しょし、おのおの、しゅじゅのちんい、がんこうのぐ、あり、ちち、あのくたらさんみゃくさんぼだいを、じょうずることをえたもうときいて、みな、しょちんをすてて、ぶつしょにおうげいす。しょもたいきゅうして、したがいてこれをおくる。そのそ、てんりんじょうおう、いっぴゃくのだいじん、およびあまりの、ひゃくせんまんおくのじんみんと、みなともにいにょうして、したがいてどうじょうにいたり、ことごとく、だいつうちしょうにょらいに、しんごんして、くようきょうけい、そんちょう、さんたんしたてまつらんとほっす」の、ところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しょもとは、じゅうろくにんのははのことである。ほんとうのいみは、ははとはがんぽんのむみょう こんぽんのまよいである。このむみょうからおこるわくしょう、けんじわく、じんじゃわく、むみょうわくのさんわくと、ぼんのうしょう、ごうしょう、ほうしょうのさんしょうなどを、しょもというのである。
 るてん、すなわちきゅうかいのときは、このむみょうというははと、つれだっているのであり、げんめつ、すなわちぶっかいのときは、むみょうのはは まよいをたつのである。
 また、このむみょうのははとは、ねんぶつ、ぜん、しんごんとうのひと々びとである。じゃしゅうをしんずるひと々びとである。「しょも、たいきゅうして、したがいてこれをおくる」というのは、ほうぼうのひと々びとをいうのである。ぶつどうしゅぎょうにはげむひとを、ひきとめようとするすがたである。
 しかしながら、ついには、けぎのこうせんるふがじつげんして、てんかいちどうに、ごほんぞんをしんじ、だいもくをとなえるようになるのである。
 「したがいて、どうじょうにいたり、かえって、だいつうちしょうにょらいにしんごんして」とあるように、みんな、ごほんぞんに、おあいすることができるのである。


 じんるい、いくせんまんねんのれきしは、「く」のいちじを、のぞくことができえなかった。だいしょうにんはく、ふこうのこんぽんは、じゃしゅうじゃぎにあると、だんげんなされた。じじつ、われわれのたいけんじょう、めいかくにじっしょうすることができなかった。じゃしゅう、じゃぎをうちやぶっていくたたかいこそ、だいしょうにんもんかのしんのしめいといわなくてはならない。
 ぶっぽうでは、くをばひらいて、しくはっくととく。そのふこうをうけるこんぽんは、むちよりしょうずるとおもう。むちなるがゆえに、しゅうきょうのせいじゃをわきまえることができず、だまされて、くをかいけつすることができない。せけんいっぱんのことには、うちのひとはたすういる。しかしながら、こんぽんのせいめいというもんだいになると、うちのひとはまったくすくないものである。
 なお、せいめいには、むみょうとほうしょうがほんぬであり、むみょうは、ふこう、くをよび、ほうしょうは、さちをよぶ。
 いま、じゅうにんのははとは、がんぽんのむみょうをさす。このむみょうをたつ。すなわち、みょうぶくさせるところに、こじんとせかいのこうふく、へいわがじゅりつできるとのおだんげんとはいすべきである。
 ほけきょうとは、まっぽうのごじしちじのほけきょう、てんかいちどうとは、べっしてにほんこくいちどう、そうじて、ぜんせかい、ぜんじんるいのことである。ぎょうじゃとは、みょうほうをごじし、だいしょうにんのごきんげんどおりじっせんするひとである。しょせん、にほんこくちゅうのひとが、ひろくは、ぜんせかいのひと々びとが、みな、ごほんぞんをもつとのだいかくしんであられる。

むみょうのははをころすなり。
 ははをころす、ちちをころすということは、すでにじょぼんでのべたように、けっしていのちをたつといういみではない。あくまで、じゃしゅう、じゃぎを、はすとよむのである。また、ぼんのうそくぼだいとひらくことを、「むみょうのははをころす」ともうされているのである。
 ある、おろかながっかいひはんしゃが、このいみがわからず、きりもんして「がっかいはケシカラン、ちちをころせ、ははをころせとおしえている。おやをころせばくどくがあるとおしえている」とかってにかいしゃくして、きょうじんのごとく、ひはんしてぼうげんをはいていた。
 かいもくしょうには「しゅじょうのそんけいすべきもの」(0168-01)として、「しゅししん」をあげられ、ほうおんしょうには「ぶっきょうをならはんものふぼ、ししょう、こくおんをわするべしや」(0293-03)ともうされ、また、しおんしょうでも、ふぼのおんをほうぜんみちをとかれているのを、よくよくはいすべきである。
 おんぎくでんじょぼんしちかのだいじにも「なんみょうほうれんげきょうのけんをとつてとんあいむみょうのふぼをがいしてきょうしゅしゃくそんのごとくぶっしんをかんとくするなり」(0711-01)とある。いのちをたつとは、すべて、じゃしゅうじゃぎのふこうのこんぽんをば、みょうほうのりけんをもってたちきるのである。そしてぼんのうそくぼだいをえるのである。
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0733    だいよん ごそてんりんじょうおうのこと

 おんぎくでんにいわく、ほんちしんのほとけとは、このもんをならうなり、そとは、ほうかいのいみょうなりこれはほうべんぽんのそうしょうたいの、さんにょぜをそというなり、このさんにょぜよりほかに、てんりんじょうおうこれきなりなてんりんとは、しょうじゅういめつなり、じょうおうとはしんぼうなり、このさんにょぜは、さんぜのしょぶつのふぼなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、さんぜのしょぶつのふぼにして、ごそ、てんりんじょうおうなり、きんぎんどうてつとは、こがねはしょう、しろがねははっこつにして、しなり、あかがねはろうのそう、くろがねはやまいなり、これすなわちかいじごにゅうの、しぶつちけんなり、さんぜじょうごうに、しょうじ、しょうじとめぐるを、てんりんじょうおうというなり、この、てんりんじょうおう、しゅつげんのときのりんぽうとは、われらがはくところのごんごおんじょうなり、このおんじょうのりんぽうとは、なんみょうほうれんげきょうなり、ここをもってびょうどうだいえとはいうなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、だいさん、しょもたいきゅうのことの、つうげでいんようした、けじょうゆほんのもんのなかに、「そてんりんじょうおう」とあるところの、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほんちしんのほとけとは、このもんからでているのである。
 そとは、ほうかいのいみょうであり、ほうべんぽんのそうしょうたいのさんにょぜを、そというのである。さんにょぜはさんたいであり、さんしんであり、せんずるところの、ごほんぞんであり、にちれんだいしょうにんのおんことである。このさんにょぜいがいに、てんりんじょうおうはないのである。てんりんとは、しょう、じゅう、い、めつという、へんかのすがたをいうのである。
 じょうおうとは、そのこんぽんのせいめいを、いうのである。このさんにょぜ、ごほんぞんこそ、いっさいのさんぜのしょぶつのふぼ、すなわち、さんぜのしょぶつを、たんじょうさせるこんぽんなのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのは、さんぜのしょぶつのふぼであり、ごそ、てんりんじょうおうにあたるのである。べっしては、にちれんだいしょうにんおいちにんが、さんぜのしょぶつのふぼである。
 てんりんじょうおうは、こんりん、ぎんりん、どうりん、てつりんとわかれているが、こかねはしょう、ぎんははっこつ すなわちし、どうはろうのそう、くろがねはやまいのそうを、いみしているのである。きんぎんどうてつで、しょうろうびょうしを、いみしているのである。これはすなわち、かいじごにゅうのしぶつちけん、かいぶつちけん、しぶつちけん、ごぶつちけん、にゅうぶつちけんになるのである。
 さんぜじょうごう、えいえんのせいめいのなかで、しょうじ、しょうじとめぐりゆくのを、てんりんじょうおうというのである。
 このてんりんじょうおうは、りんぽうといって、どんなものでもうちやぶれる、ほうきをもっているといわれるが、これは、われらがはくところの、ごんごおんじょうである。このおんじょうのりんぽうとは、なにかといえば、なんみょうほうれんげきょうのことである。
 このなんみょうほうれんげきょうこそ、しんじつのびょうどうだいえとなるのである。

 てんりんじょうおうとは、つうずに、しゅみせん、ししゅうのとうちのおうといわれる。りんおうは、かならずりんぽうをもって、さんがもへいたんにし、いっさいのものを、かんぷくせしめるといわれている。そのりんぽうのひんしつによって、こんりん、ぎんりん、どうりん、てつりんおうのしおうにわかれる。りんおうのしゅるいによって、りょうどもだいしょうとなる。また、りんおうは、さんじゅうにそうをそなえ、じんるいのじゅみょうが、はちまんさいいかに、さがったじだいには、もうしゅつげんしないといわれている。
 だいしょうにんは、こんりんおう、ないし、てつりんおうをば、われわれの、しょうろうびょうしにおときくださっている。われらだいもくをとなえるものこそ、りんたからをじせるしゃなりと、けっじょうされておられる。ひとりのこらず、にんげんかくめいし、じょうぶのふるまいが、できうるものとのことばであられる。
 しょうじゅういめつについては、むりょうぎきょうの、せっぽうほんには「ほうのそう、これのごとくして、これのごとき、ほうをしょうず、これのごとき、ほうをじゅうす、これのごとき、ほうをいす、これのごとき、ほうをめっす」と、ほうのそうというものの、しょうじゅういめつをといている。このもんちゅう、ほうとは、げんしょうのことをいうのである。すなわち、しんらばんしょうのげんしょうなのである。
 「しょうじゅういめつ」と、「しょうろうびょうし」、「じょうじゅうえくう」とのかんけいについていえば、さんしゃとも、しょせん、おなじいみである。「しょうじゅういめつ」は、しゅかくてきに、しんらばんしょうを、みつめているすがたともいえよう。「しょうろうびょうし」は、とくに、われらしゅじょう、うじょうにあてはめてかんがえられる。「じょうじゅうえくう」は、うちゅうかん、および、ひじょうせけんにも、あてはめていけるほうていしきであろう。ちょうど、くうけちゅうのさんたいと、ほっぽうおうのさんじんのかんけいのごとく、イコールのかんけいである。
 このてつりは、ばんにんきょうつうのだいほうそくである。ほうは、みょうほう、ごんきょう、ゆいしんろん、ヒンズーきょう、じゅきょうとう、かぞえきれない。しかしながら、しんじつのほうそく、げんしょうのほんげんは、なんみょうほうれんげきょうなのである。ゆえに、そのぐげんされたじっそうが、いちねんさんぜんのまんだらとなるのである。
 「しょうじゅういめつ」をわけてろんづれば、「ほうをしょうず」みょうほうより、うちゅうげんしょうをしょうずる。また、さんぜじっぽうの、いっさいのみじんのきょう々きょうをしょうずる。
 「ほうをじゅうす」、さんぜんのうちゅうげんしょう、せいめいげんしょうを、いっぷくのほんぞんにじゅうしている。
 「ほうをことにす」、みょうほうとごんきょう、げどうとほうは、みずからことにしている。また、きゅうかいとはとうぜんことなる。じねんげんしょうからみても、ふうう、あらし、ゆきとう、ぜんぶことにするすがたをしめしている。
 「ほうをめっす」、ちからあるほう、しんりのほう、すなわち、こんぽんほう、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとして、じゃほう、じゃぎ、ふこうをまねく、きょうほうをめっせねばならない。ぜったいみょうのうえから、あくまでもみょうほうをこんぽんとすべきであるとの、ごきんげんである。
 こくほうにやくせば、けんぽうはみょうほうである。たほうはごんきょうであろう。けんぽうがこつずいになって、そのたのほうりつが、ひらかれていかなければならない。
 このなかにしょうじゅういめつのことなりということがあるが、これはへんかとかんがえてよい。きにはながさいたり、はがおちゆくのもことなりであり、こんにち、こうがんのびしょうねんであったひとが、やがてしらがのろうじんになり、シワでだらけのかおになるのもことなりである。
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0733    だいご じゅうろくおうじのこと

 おんぎくでんにいわく、じゅうとはじっかいなり、ろくとはろっこんなり、おうとはしんのうなり、ことはしんずなりこれすなわち、じっそうのいちりのだいつうのこなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、じゅうろくおうじなり、はっぽうさぶつとは、われらがはっくの、ぼんのうそくぼだいとひらくなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 さんぜんじんでんこうのむかしに、だいつうちしょうぶつというほとけがおり、そのほとけはしゅっけするまえはおうさまであって、じゅうろくひとのおうじがあった。そしてそのじゅうろくおうじは、みな、だいつうちしょうぶつから、ほけきょうのせっぽうをうけ、やがて、はっぽうのこくどにしょうじて、じょうぶつしたということについての、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。じゅうろくおうじの「じゅう」とは、じごくからぶっかいにいたる、じっかいをいみしているのである。そして「ろく」は、げんにびぜつしんいの、ろっこんをいみしている。
 また「おう」とはしんのう=せいめいかつどうのほんげんであり、「こ」はしんず=ぐたいてきなせいめいかつどうのことである。
 なわち、じゅうろくおうじとは、じっそうのいちりのだいつうのこ=すべてじのいちねんさんぜんである、みょうほうれんげきょうのとうたい、じっかいさんぜんのせいめい、これをだいつうのこというのである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんのもんかは、じゅうろくおうじにあたるのである。
 また、はっぽうさぶつとは、じゅうろくおうじがはっぽうのこくどに、ふたりずつしょうじてじょうぶつしたことである。はっぽうとは、とうざいなんぼくのしほうに、とうなん、せいなん、とうほく、せいほくのしいである。このことは、どこのせかいにおいても、アメリカにおいても、ロシアにおいても、イギリスにいても、なんみょうほうれんげきょうを、となえれば、ほとけになれるということを、あらわしているのである。
 そして、このはっぽうさぶつは、われわれのはっくの、ぼんのうが、そくぼだいとひらくことをいみする。はっくとは、しょうろうびょうしのしくに、あいべつりく、おんぞうえく、ぐふとくく、ごじょうおんくのよっつをくわえたものである。

 しゅうきょうのためのしゅうきょう、ぶっぽうのためのぶっぽうは、けっしてありえない。がいして、せけんのひと々びとには、しゅうきょうはすうこうなもの、げんじつのしゃかいは、きたなきもの、したがって、しゅうきょうは、げんじつをきりはなしてかんがえるべきである。とおもいこんでいるけいこうがある。これこそ、しゅうきょうのほんしつをしらない、せけんいっぱんのしゅうきょうのかめんに、たぶらかされてのすがたと、だんぜざるをえない。
 げんじつのきゅうさい、げんじつのしゃかいへんかく、また、ぶっしんりょうめんにわたるこうふくかくりつのげんせんこそ、しんじつのしゅうきょうのりきであり、しめいであることは、とうぜんのりである。
 いま、だいしょうにんのかんじんよりはいし、みょうほうれんげきょうのにじゅうはちほんには、いちげいちくたりとも、せいめいろんから、はなれたぎろんはないのである。せいめいかつどうは、せいかつである。すなわち、せいかつをはなれた、しゅうきょう、しんじんは、ぜったいにありえないのである。じゅうろくおうじというのも、かんじんのたちばよりろんずれば、みょうほうごじの、われわれのじしんのこととなる。
 すなわち、じっかい、ろっこん、しんのう、しんずをときあかしたてつりである。
 じっそうのいちりとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。しかして、われらは、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのこどもであるとはいすべきであると。
 しんじつのだいしょうにんのでしは、このもんにてらし、しんじつのえいえんのおうじなりと、かくしんすべきである。いかに、ふくとくにみちみちたじんせいであろうが、せけんのおうじは、「こんぜだけ」のおうじである。われらは、きゅうでんこそないが、ゆめのごときとっけんこそないが、だいおうのことして、みんしゅうのなかに、みんしゅうとともにいきてゆく、えいこうにかがやくだいおうじなのである。
 はっぽうさぶつとは、じゅうにんのおうじが、ふたりずつそれぞれわかれて、はっぽうにほけきょうをときにいき、じょうぶつした。いまだいしょうにんは、はっぽうとははっくのことである。だいもくをとなえることにより、はっぽうにいかずして、そのばで、そのとうたいで、ぼだいをさとらしめるほうもんなりと、おときである。

0734    だいろく そくめつけじょうのこと

 おんぎくでんにいわく、われらがめっするとうたいは、けじょうなり、このめつを、めつとみれば、けじょうなり、ふめつのめつとちけんするを、ほうしょとはいうなり、これを、じゅりょうほんにしては、にじつふめつどとはとくなり、めつというけんを、めっするをめつというなり、さんごんそくいちじつのほうもん、これをおもうべし、あるいはそくめつけじょうとは、ほうぼうのじとうをめっすることなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、けじょうそくほうしょなり、われらがきょじゅうのせんこくこうや、みなみなつねじゃっこうの、ほうしょなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 これはけじょうゆほんに、「そのときに、どうし、このにんしゅの、すでにしそくすることをえて、またひげんなきをしって、すなわちけじょうをめっして、しゅにんにかたって、なんだち、こらいほうしょは、ちかきにあり、むかいのだいじょうは、わがけさするところなり。しそくせんがためのみに、いわんがごとし」とあるところである。
 すなわちどうしが、みんながけじょうできゅうそくし、つかれをのぞいたのをみ、そのけじょうをしょうめつさせ、さあほんらいのもくてきちである、ほうしょにいこうとうながすところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。われわれのにくたいというものは、かならずめっする。それゆえに、けじょう=「カリ」のすがたである。
 この、そくけじょうのめつを、めつぼうとみれば、すなわち、せいめいをこんぜかぎりとすれば、けじょうである。ふめつのめつとちけんする、つまり、えいえんのせいめいをかくしんすれは、ほうしょになるのである。
 このことを、じゅりょうほんでは、「にじつふめつど」(しかもじつには、めっせず)とといているのである。
 また、せいめいは、こんぜかぎりであるというみかたを、めっするを、めつといっているのである。
 さんごんそくいちじつの、ほうもんとは、さんじょうそくいちぶつじょうであり、けじょうそくほうしょのことである。ほとけのきょうがいは、とおくにあるものでもなければ、だんだんと、ほとけになるものでもない。わがみがすなわちほとけなり、ほとけのとうたいなりと、かくしんすることに、つきるのである。
 また、そくめつけじょうとは、ほうぼうのじとうを、しゃくぶくしつくすことである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかとして、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、きゅうかいそくぶっかいなることを、かくちするのである。われわれが、きょじゅうしているところのやまやたに、こうやなど、すべてのところが、じょうじゃっこうのほうしょ=ぶつどとなるのである。

 えいえんのせいめいを、あかしている、てつりである。「ふめつのめつ」のちけんとは、さんだいひほうのほんぞんに、なしむ、かくじんが、かんとくするいがいに、わからぬことである。
 せいめいはえいえんでない、という、ひくいしそうのいきづまりから、げんざいのせいじ、きょういく、けいざい、しゃかいのいきづまりがある、といえるのである。すなわち、みんしゅしゅぎのこんぽんどだいが、できあがっていない。いっさいのしゃかいがさじょうのろうかくとなっている。まことに、かなしむべきじょうたいといわなければならない。いちにちもはやく、こうせんるふし、こじんも、しゃかいも、せかいも、いきづまりのないじだいをむかえたいものである。
 さんごんとは、しょうもん、えんかく、ぼさつのことである。ちしき、ぎじゅつとうががりょうてんせいたる、みょうほうをこんぽんとすれば、さいこうにいかされ、こうふくへのちしき、ぎじゅつとなるということである。すなわち、ほんぞんをじゅじしない、さんごんは、けじょうとおなじく、ぜったいのこうふくはありえない。さんごんそくいちじつとは、みょうほうをとなえれば、さんじょう、さんごんのぎじゅつ、ちしきが、ぜんぶ、いかされるじょうたいとかんがえられよう。
 「けじょうそくほうしょなり」については、すでにのべたが、さらにいえば、けじょうはかんねん、ほうしょはせいかつ、けじょうはり、ほうしょはことにわたることでもある。
 われわれが、どうしを、こうはいを、しんけんにげきれいする。このげきれいじたいは、まだけじょうである。このげきれいによって、たちあがり、しんじんがすすみ、きょうがいがひらけば、それじたいはほうしょで、すなわち、けじょうそくほうしょになるわけである。
 たとえば、がくせいとして、もくひょうをかかげ、べんきょうしようとけついする。これは、まだけじょうである。それじたいには、くどくがない。そのけついをしゅっぱつとして、しんけんにどりょくし、じつりょくがついてくる、それじたいはほうしょである。

0734    だいなな かいぐしほうしょのこと

 おんぎくでんにいわく、かいとは、じっかいなり、ぐとはにょがとうむいなり、しとは、ごくかのじゅうしょなりほうしょとは、りょうぜんなり、にちれんとうのたぐい、ななんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、いちどうに、かいぐしほうしょなり、ぐのいちじは、にちれんにぐするときは、ほうしょにいたるべし、ふぐならばあびだいじょうに、おつべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 「かいぐにほうしょにいたる」の「かい」とは、じごくよりぶっかいにいたる、すべてをいうのである。「ぐ」とは、「にょがとうむい」、ほうべんぽんの「わががごとくひとしくして、ことなることなからしめんとほっしき」、つまり、いっさいしゅじょうをほとけとおなじきょうがいに、はいらしめるということである。
 「し」とは、ごくかのじゅうしょへいたる。すなわち、さいこうのこうふくきょうがいにいたるということである。「ほうしょ」とは、りょうじゅせんのことである。ごほんぞんのいますところであり、また、さいこうのこうふくきょうがいをいみしている。
 いま、ごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんのもんかは、いちどうにかいぐしほうしょ、すなわち、じょうぶつすることができるのである。
 とくに、「ぐ」のいちじは、にちれんだいしょうにんとともにいる、だいしょうにんをしんずるときは、じょうぶつすることができる。またにちれんだいしょうにんとぐでない、すなわち、はなれ、ふしんのねんをおこすならば、あびじごくにおちる、ふこうのドンぞこにおちるということを、しめしているのである。

 「かいぐしほうしょ」のもんこそ、じゆう、びょうどう、そんげんの、みんしゅしゅぎのいちだいげんりである。「かい」とは、じっかいさんぜんのとうたいのことである。にほんじんも、イギリスじんも、フランスじんも、ドイツじんも、ソロシアじんも、みな、おなじせいめいであるとのことばであられる。すなわち、じんるいびょうどうの、だいせいめいてつがくとはいすべきである。「ぐ」とは、いかなるひとたりとも、ひとしく、ぶっかいをぐしている。
 しんじんによって、ぶっかいをゆげんすることによって、ほとけのせいめいとひとしくなる。みょうほうのとうたいとなるとの、もったいないびょうどうろんである。「し」とは、ごくかにいたるしんじんのことである。すなわち、ひたぶるにしんじんにはげみ、しゃかいにかちそうぞうしゆく、われらのじゅうしょこそ、そんごくであり、りょうぜんなりとのことばであられる。
 「にちれんにぐするとき」とは、だいしょうにんのでしとして、しんけんにしんじんし、じっせんにすすむひとのことである。すなわち、そうかがっかいである。したがって、われらのじゅうしょは、ほうしょである。わがしどあんのんである。へいわとこうふくをきょうじゅできうることは、ぜったいにまちがいないわけである。ふぐ、ほうぼうのひと々びとは、あびだいじょうに、おちざるをえない。ごきんげんにてらし、げんじつのせかいをみて、いちにちもはやく、いかなるしょうまにもうちかって、らくどにほんを、きずいていきたいものである。



  • [236]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな じゅきほんしかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月17日(土)10時21分35秒
 
  0730~0732 じゅきほんしかのだいじ。

0730    だいいち じゅきのこと。
0731    だいに かしょうこうみょうのこと。
0731    だいさん しゃぜしんいのこと。
0731    だいし しゅくせいいんねんごこんとうせつのこと。


0730~0732 じゅきほんしかのだいじ。

 もんぐのななにいわく、じゅとはこれあたえるのぎなりと。
 おんぎくでんにいわく、きとはなんみょうほうれんげきょうきょうなり、じゅとは、にほんこくのいっさいしゅじょうなり、ふしんのものには、さずけざるなり、またこれをうけざるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうのきを、くうるなり、またいわく、じゅきとは、ほうかいのじゅきなり、じごくのじゅきはあくいんなれば、あくごうのじゅきを、ざいにんにくさずるなり、あまりはこれにじゅんじて、しるべきなり、しょうのきあれば、かならずしす、しのきあれば、また しょうず、さんぜじょうごうのじゅきなり、しょせん、ちゅうこんのよんだいしょうもんとは、われらがしょうろうびょうしのしそうなり、0731。
 かしょうはしょうのそう、かせんねんはろうのそう、もくれんはやまいのそう、しゅぼだいはしのそうなり、ほっけにつてきた、しょうろうびょうしのしそうを、よんだいしょうもんとあらわしたり、これすなわちはちそうさぶつなり、しょほうじっそうのふるまいなりときをくさずるなり、みょうほうのじゅきなるがゆえに、ほうかいのじゅきなり、れんげのじゅきなるがゆえに、ほうかいしょうじょうなり、きょうのじゅきなるがゆえに、しゅじょうのごごんおんじょうは、さんぜじょうごうのじゅきなり、ゆいいつごんにじゅきすべきなんみょうほうれんげきょうきょうなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 もんぐのななに、じゅきのじゅとは、あたえるといういみであるとしゃくしている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。きとはなんみょうほうれんげきょうきょうのことである。そしてじゅとは、にほんこくのいっさいしゅじょうに、さずけるのである。ただし、ふしんのものにはさずけないし、また、ふしんのものは、この、なんみょうほうれんげきょうきょうのきをうけない。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、なんみょうほうれんげきょうきょうのきを、うけるのである。また、じゅきとはほうかいのじゅきということであって、たとえば、じごくのじゅきは、あくいんであるから、あくごうのじゅきをざいにんに、さずけることなのである。がき、ちくしょう・・・ぼさつ、ぶっかいと、じっかいそれぞれ、これにじゅんじてしるべきである。また、しょうのきがあれは、かならずしがあり、くのきがあれば、またしょうずるのであって、さんぜじょうごうのじゅきなのである。
 しょせん、ほけきょうしゃくもんにとかれる、ちゅうこんのよんだいしょうもんとは、われわれのしょうろうびょうしの、よんそうをあらわしているのである。すなわち、かしょうはしょうのそうをあらわし、かせんねんはろうのそう、もくれんはやまいのそう、しゅぼだいは、しのそうをしめしているのである。このしょうろうびょうしのよんそうを、ほけきょうにきて、よんだいしょうもんとして、あらわしたのである。これすなわちはちそうさぶつである。
 このしょうろうびょうしはしょほうじっそうのふるまいである。すなわち、みょうほうれんげきょうのしょさであるとの、きをさずけたのである。みょうほうのじゅきで、あるがゆえに、ほうかいのじゅきである。れんげのじゅきであるがゆえに、ほうかいしょうじょうである。きょうのじゅきであるがゆえに、しゅじょうのごんごおんじょうは、さんぜじょうごうである。これらを、なんみょうほうれんげきょうきょうの、ただいちごんにおさめ、われわれしゅじょうにじゅきさられたのである。
 いまどきにおいては、しんじつのじゅきは、ただ、さんだいひほうのほんぞんである。なぜならば、ぜったいに、これいがいに、じょうぶつできえぬからである・・・、とごだんげんのもんである。
 たの、いかなるしゅうきょう、ほんぞんを、しんぽうしじっせんしても、あたかもしゃくとりむしのてんにいたらざるがごとく、けっしてじょうぶつできえない。ここんとうざいのてつがく、しそうも、みな、さんだいひほうのだいぶつほうのじょぶんであり、るつうぶんにすぎない。せいかつかくめいのげんせん、にんげんかくめいのきゅうきょくのげんりこそ、みょうほうなのである。そのじゅきこそ、ただしいじゅきなのである。あくしそう、じゃぎのじゅきをこうむれば、あくごうのじゅきをうけることになり、ついにふこうをまねかざるをえない。
 「しそうはいきている、しそうほどおそろしきものはない」とさけんだてつじんがいた。こじんもばんにんもともに、ほんげんてきに、ふへんだとうせいをもって、きゅうさいできえるだいしそう、すなわち、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうきょうにいきることが、さいだいいちのかちあるじんせいとかくしんされたい。
 また、たとえば、けんどうやじゅうどうにおいて、ゆうだんしゃになることも、そのせかいのじゅきである。だいがくをそつぎょうして、もらうめんじょうも、ひとつのじゅきである。だいぎしがとうせんしてうけるとうせんしょうしょも、そのみちのじゅきである。なお、おやよりざいさんをうけて、そうぞくしたしょるいも、またじゅきといえよう。しかし、さいこうのじんせいかん、せかいかん、うちゅうかんをかくりつして、えいえんにこうふくにいきゆけるしんじつ、こんぽんのじゅきこそがだいじなのである。いっさいのきょうぐう、いっさいのしょくぎょうの、ぜんじんるいがうけるべきじゅきがごほんぞんとはいすべきであろう。

ちゅうこんの、よんだいしょうもんとは、われらがしょうろうびょうしの、よんそうなり。
 よんだいしょうもんをば、われわれのせいめいかつどう、またいっしょうのじっそうのせいめいろんとして、とかれたとおもわれる。じょうじゅうえくうのほうりも、おなじいみとなろう。かしょうは、しょうのそう、すなわち、しゃくそんしょうもんのじゅうだいでしのひとりで、ずだぎょうだいいちである。しゅぎょうだいいち、じっせんだいいちといういみであるから、じょうねつをたぎらせ、ふきょうに、しゅぎょうに、ゆうやくしょうじんしたせいめいなるがゆえに、しょうをあらわしているわけである。したがって、われわれのしんじんじつぜにも、こしんのかしょうということができる。
 かせんねんは、ろうのそう、ろんぎだいいち、がくもんしゅうがくをへて、じゅうこうなじんかくで、きょうぎをうけもって、しゃかぶっぽうにこうふにつくしたせいめいをいみする。したがって、われわれのしゃくぶく、こうぎ、こうえんらも、りっぱに、こしんのかせんねんのはたらきとみることもできるのである。
 もくれんは、やまいのそう、じんずうだいいちである。そのはは、しょうだいにょががきどうにおちているのを、じんつうりきによってしり、ほけきょうにより、すくうことができたというはなしはゆうめいである。また、しゃくそんにゅうめつちょくご、ちくじょうげどうにかこまれ、いったんだっしゅつしたが、かこせのざいごうであることをしり、げどうにころされ、そのごうをめっしたといわれる。すなわち、しゅくめいのごうを、たちきるため、いっしょうのそうけっさんをじかくした、やまいのそうを、せいめいろんからといたとおもえる。われらのかせんねん、ざいしょうしょうめつのいちねんは、とうぜん、こしんのもくれんともかんがえられるであろう。
 しゅぼだいは、しのそう、げくうだいいちである。よく、くうりにつうじているゆえに、しょうじふにのぶっぽうげんりなれば、しをいみしたのである。われらが、えしょうふに、いちねんさんぜんのほうりをしることは、こしんのしゅぼだいといちおうかんがえられる。

みょうほうのじゅきなるがゆえに、ほうかいのじゅきなり。
 みょうほうには、はちまんほうぞうが、ことごとく、ほうがんされている。はちまんよんせんのぶっぽうは、ぜんうちゅうのげんしょう、ほんしつを、ときあかしたものである。したがって、みょうほうそくほんぞんのじゅきは、うちゅうにある、ちから、たから、とう々とうを、いっさい、わがせいめいに、じゅきされたことにつうずるのである。せかいといえば、にほんも、べいこくも、ロシアも、ひゃくじゅういくかこくも、くまなくふくまれているごとくに。
 くうたいのほんぞんは、うちゅうそれじたい、けたいのほんぞんはわがとうたい、ちゅうたいのほんぞんは、さんだいひほうのごほんぞんとなる。くうたいのほんぞんを、いっぷくのだいまんだらとなされたのが、じっかいさんぜんのほうりをぐびしたほんぞんである。すいそとさんそをかごうさせてみずをつくるためには2H2+O=2H2Oのげんりがある。しかし、じっさいにみずとするためには、このほうていしきにはっきんとうのしょくばいのひつようあることは、かがくのじょうしきである。もったいないたとえであるが、ちゅうどうほっそうのごほんぞんに、きえせねば、うちゅうのリズムとのがっち、ならびに、わがせいめいのしんじつのじょうか、せいめいりょく、ちえは、ゆげんできえないのである。
 「れんげの、じゅきなるがゆえに、ほうかいしょうじょうなり」とは、れんげのじゅきは、いんがくじ、せつないちねんのじゅきであり、なんみょうほうれんげきょうきょうのことである。ほうかいしょうじょうとは、じょうぶつのきょうがいをさす。しゅくめいだはしゆくほんにんのちから、ふくうん、ちえをつくり、じひしんをかつどうさせゆく、いちねんのほうそくである。
 「きょうのじゅきなるがゆえに、しゅじょうのごごんおんじょうは、さんぜじょうごうのじゅきなり」のもん。きょうとは、つうずには、いっさいのふるまい、げんしょうのいみょうである。このきょうの、ほうそくにのっとったせいかつは、さいこう、むじょうのじんせい、せいめいかつどうとなり、かちそうぞうとなり、しゃかいにたいする、こうけんにつうずるとのこころである。しゅじょうとはせいめいとやくす。しょせん、えいえんににんげんとうまれ、みょうほうをごじして、なんみょうほうれんげきょうきょうとくしょうし、きゅうかいにゆうげして、ぜったいのこうふくなきょうがい、じんせいをあゆみゆくことができるとのこころである。

0731    だいに かしょうこうみょうのこと

 おんぎくでんにいわく、こうみょうとは、いっさいしゅじょうのそうごうなり、ひかりとはじごくのとうねんみょうか、これすなわちほんかくじじゅゆうのちかなり、ないし、ぶっかこれれおなじ、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうのこうみょうを、ほうぼうのあんみょうのなかにさしいだす、これすなわち、かしょうのこうみょうにょらいなり、かしょうはずだをほんとす、ずだはここに、とソウというなり、いま、まっぽうにはいつて、よぎょうをとソウして、もっぱら、なんみょうほうれんげきょうきょうとしゅうするは、しきょうなんじ、ぎょうずだしゃ、これなりうんぬん。

 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。こうみょうにょらいのこうみょうとは、いっさいしゅしょうのそうごう (すがた)、かたちをいう。ひかりとは、じごくのひのことである。またほんかくじじゅゆうのちかのことでもある。ぶっかにいたるほかのきゅうかいもこれとおなじである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、ほうぼうのくらやみのよに、なんみょうほうれんげきょうきょうをおしえ、こうみょうをさしだしているのは、すなわち、かしょうのこうみょうにょらいということである。かしょうはずだだいいちのひとである。ずだとは、やくすれば「ものをはらいさる」という。いま、まっぽうにはいって、われわれが、ほうぼうのよぎょうをいっさいはらいさって、もっぱらなんみょうほうれんげきょうきょうをとなえ、じぎょうけたのしゅぎょうにはげむのは、けんほうとうほんだいじゅういちに「このきょうはたもちくかた、もししばらくもたもつものは、われすなわちかんきす。しょぶつもまたしかなり、これのごときのひとは、しょぶつのほめたもうところなり、これ、すなわち、ゆうもうなり、これすなわち、しょうじんなり、これをかいをたもち、ずだをぎょうずるものとなずづく」ととかれていることにあたるのである。
おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。こうみょうにょらいのこうみょうとは、いっさいしゅしょうのそうごう(すがた)、かたちをいう。ひかりとは、じごくのひのことである。またほんかくじじゅゆうの、ちかのことでもある。ぶっかにいたる、ほかのきゅうかいもこれとおなじである。

  じんりきほんに、「にちがつこうみょうの、よくもろもろの、ゆうみょうをのぞくがごとく、このひと、せけんにぎょうじて、よくしゅじょうの、やみをめっし」とある。しんじつのこうみょうは、なんみょうほうれんげきょうである。「このひと」とは、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしんにょらい、そく、にちれんだいしょうにんであられる。
 ほうにやくして、みょうほう、ひとにやくしてだいしょうにん、ひとほういちかのごほんぞんのみが、いっさいしゅじょうにこんぽんてきこうふくをあたえるこうみょうなのである。やみよのごときごじょくのげんじょうをきゅうさいしきるちからは、てつがくは、こうみょうは、いずこにあろうか。
 ゆいしんてつがくかゆいぶつてつがくか、じつぞんしゅぎか。 きそんの、るふされきったてつがくでは、じじつ、きゅうさいできえないのがげんじつである。
 あとは、にちれんだいしょうにんのさんだいひほうのだいぶつほうを、ぜんせかいのしどうしゃが、けんきょにきき、じっせんしてみるいがいに、かいけつのみちはありえないとだんげんするものである。
 ほうとうほんの「しきょうなんじ」のきょうもんを、われらはしんくいのさんごうでよみきり、こんじょうのしめいを、おのおの、りっぱにはたし、りょうじゅせんにて、だいしょうにんのおほめをいただきたいものである。
 「ないしぶっかこれれおなじ」とうのもん。「じごくのとうねんみょうか、これすなわちほんかくじじゅゆうのちかなり」とは、ひとくちにいえば、「しょうじそくねはん、ぼんのうそくぼだい」とはいせるとおもう。ふこうのどんぞこのひとが、ほんぞんをじゅじすれば、このごせいくんになるとかくしんする。したがって、こうみょうとか、ちかとか、きゃっかんしすれば、せいかつのじょうたいであり、しゅかんしすれば、せいめいのかつどうじょうたいとかんがえられる。
 じごくかいは、いきては、くるしみ、おうのうし、ししては、ともしび、ねんしょう、みょうかのなか。しゅらかいのひかりとは、いかりのまなこ、がき、ちくしょうのこうみょうもまた、どうぶつがえものを、とるまなこをそうぞうすべきである。にんかいよりぼさつかいになれば、よろこびのせいかつ、たのしみのじんせいこうろ、けんきゅうどりょくのまなこのひかり、ちえのりき、じひこうい、かつまた、ひと々びとをすくおうとおもうどりょく、かがやくじょうねつのまなこのこうみょうとかんがえるべきである。

0731    だいさん しゃぜしんいのことtop

 おんぎくでんにいわく、このもんだんより、しゃふしゃのおこりなり、てんしゃにして、えいしゃにあらず、てんしゃはほんもんなり、えいしゃはしゃくもんなり、このみをすてるは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのむねに、そむくなりうんぬん、しょせん、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、しゃぜしんいなり、ふしゃくしんみょうのゆえなりうんぬん、またいわく、このみをしゃすとよむときは、ほうかいにごだいをしゃすなり、すつるところのぎにあらず、このみをすてて、ほとけになるというは、ごんもんのこころなり、かかるしゅうじょうをすつるを、しゃぜしんいととくなり、このもんは、いちねんさんぜんのほうもんなり、しゃぜしんいとは、げんきほんり、いちねんさんぜんのこころなり、みょうらくだいしの、とうちみど、いちねんさんぜん、こじょうどうじ、しょうしぼんり、いっしんいちねん、へんおほうかいとしゃくするは、このこころなりうんぬん。

 ここは じゅきほんさいごのげに、「わがこのでし、だいもっけんれんは、このみをすておわって、はっせん、にひゃくまんのくのしょぶつせそんをみたてまつることをえ」うんぬんのところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいもっけんれんがそのみをすておわって、はっせん、またにひゃくまんのくのしょぶつせそんをみたてまつることができた。すなわちじょうぶつしたととくこのだんから、すふしゃということがおこるのである。ほんいはてんしゃ=かりにすてるであって、えいしゃ=えいきゅうにすててしまうことではない。てんしゃはぼんもんであり、えいしゃはしゃくもんのおしえである。われわれのこのみをえいしゃすることは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのほんしにそむくことになるのである。しょせん、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるのは、ふしゃくしんみょうであるから、しゃぜしんいである。
 また、このみをほどこすすとよむときは、うちゅうほうかいにごだい、すなわちこのにくたいをほどこすのであって、すてるというぎではないのである。このみをすててほとけになるというのは、にぜんごんきょうのこころであって、このようなにぜんごんきょうにしゅうちゃくするこころをすてることをしゃぜしんいととかれているのである。さらにふかくはいすれば、このしゃぜしんいのもんはいちねんさんぜんのほうもんをあらわしている。すなわちしゃぜしんいとは「げんきほんり、いちねんさんぜん」ぼんりであることのいちねんさんぜん、なんみょうほうれんげきょうのごほんぞんにきみょうするといういみである。みょうらくだいしが「まさにしるべし、みどはいちねんのさんぜんなり、ゆえにじょうどうのとき、このぼんりにかなって、いっしんいちねんほうかいにあまねし」としゃくしているのは、このいみである。

 さどごしょに「せけんにひとのおそるるものはほのおのなかととうけんのかげとこれみのしするとなるべしぎゅうばなおみをむおしいわんやじんしんをやらいにんなおいのちをむおしいかにいわんやそうにんをや」(0956-04)うん々ぬんと。また、かえんじょうごうしょには「いちにちのいのちはさんぜんかいのたからにもすぎてそうらなり」(0986-11)うんぬんとある。ぶっぽうは、せいめいのそんげんをとき、せいめいのだいじをとく。したがって、ぶっぽうにはぎせいはありえないのである。なむとはきみょうというこころであり、また、なむとは、ぎょうはらみつなりとおおせである。げんきほんりのいちねんさんぜんのきみょうなれば、しょせんは、むじょうどうにいきているせいめいといえるのである。
 ふしゃくしんみょうは、とうぜん、まっぽうのほけきょうのしんどくである。ごほんぞんをじゅじし、だいしょうにんのごきんげんどおり、つよく、ただしく、じっせんかつどうしていることは、ふしゃくしんみょうであり、しゅくめいだはをなし、ふくうんをつみ、じょうぶつすることはうたがいないわけである。じょせいのために、ふしゃくしんみょうのひともある。かねだけのために、ふしゃくしんみょうのひともある、けんりょく、せいりょくだけのために、ふしゃくしんみょうのひともある。はかないふしゃくしんみょうというべきであろう。われわれのふしゃくしんみょうは、だいしょうにんのごゆいめいをたっせいしゆく、すうこうなるもくてきじつげんへのこうどうそれじたいである。ふしゃくしんみょうについては、さらにかんじほんの「だいにふしゃくしんみょうのこと」でろんずることにする。
 「またいわくこのみをしゃすとよむときはほうかいにごだいをしゃすなり」のもん。このもんは、じゅりょうほんのにゃくたいにゃくしゅつのもんのこころにつうずる。かんげんすれば、それぞれのしゅくごうにより、だいうちゅうにかんげんするといういみである。すなわち、うじょう、ひじょうともにさんせいじょうごうである。ちきゅうぜんたいが、げんぜんたるいちこのせいめいといえよう。ほのおのちきゅうがさめ、さまざまなさようとうをえ、げんじつに、うじょう、ひじょうのせいめいをげんしゅつしたふしぎは、とうぜん、しきしんふにのせいめいたいが、いっさいのこんぽんであることは、めいかくといえよう。しょうろうびょうし、じょうじゅうえくう、だいしぜんのせつりなれば、いっさいのせいめいが、しょせん、うちゅうにすきことになる。そのかんげんしてゆくうちゅうにじっかいのあらゆることをしらねばならない。
 そこで、こんじょうのぶっぽうのぜったいひつようせいがそんするわけである。また、こんじょうのせいめいのいんが、みらいのかをけっじょうし、みらいのかがそく、いんとなり、つぎのしゃばせかいしゅっしょうのかをつくりあげているのである。
 きょうもんに、ふじしゃくしんみょうとある。なむとはきみょう、だいもくをあげきることが、だいしょうにんのごきんげんをじっせんすることが、なむであり、ふじしゃくしんみょうとなる。このとうといせいめいを、しょうじにすててはならない。みょうほうにきみょうすることは、すてるのではなくほどこすのである。これは、りっぱに、ぎょうはらみつとなるとおおせである。
 がばくにくるしむきょうがいより、むじょうのらくをえられることが、しんじつのぶっぽうのげんりなのである。けっきょく、だいもくをあげきったじんせいが、みずからもりやくし、ひと々びとにも、こくどせけんにも、だいうちゅうにも、くどく、せいきをあたえきり、えいえんに、ほうしんをほどこすことになるわけである。
 したがって、じっさいもんだいとして、あらゆるひじょう、しょくもつ、のみもの、かおく、ようふくとうが、すべて、われらにほどこしたといえるのである。うじょうのせいめいも、とうぜん、いちおうは、いきてはぶんかしゃかいのそうぞうに、せいめいかつどうをもて、ほどこしをなしたといえようし、ししてもまた、うちゅうのなかに、かんげんされ、とけこみ、うちゅうかつどうのはたらきをきしていることはかんがえられることである。


0731    だいよん しゅくせいんねんごこんとうせつのこと

おんぎくでんにいわく、しゅくせいのいんねんとは、さんぜんじんでんのむかしのことなり、げこんのためにしゅくせのいんねんを、とかんということなり、いんねんとはいんはしゅなり、えんはむかしにかえるぎなり、もとづくとぜりくん、だいつうけちえんのげしゅに、もとづくということをいんねんというなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、かこのいんにもとづきたり、ここをもって、みょうらくだいしのいわく、「ゆえにしんぬ、まつだい、いちじきくことをえて、ききおわってしんをしょうずこと、すべからくしゅくしゅなるべし」と、しゅくとは、だいつうのおうじなり、しゅとはげしゅのなんみょうほうれんげきょうなり、このげしゅにもとずくを、いんねんというなり、ほんもんのこころは、ごひゃくじんでんのげしゅにもとずくべきなり、しんじつみょうほうのいんにもとずくくを、じょうぶつというなり。0732

かいしゃくこうぎ。
 ここは、じゅきほんのいちばんさいごに「わがもろもろのでしの、いとくぐせるそく。そのかずごひゃくなるも、みなまさにじゅきすべし、みらいせにおいて、ことごとくじょうぶつすることをえん、わがおよびなんじらが、しゅくせいのいんねん、われいま、まさにとくべし、なんじら、よくきけ」とのべられているだんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しゅくせいのいんねんとは、さんぜんじんでんこうの、むかしのことをいうのである。げこんのしょうもん、つまりいんねんしゅうのために、しゅくせいのいんねんを、とこうというのである。いんねんとは、いんはげしゅ、えんはむかしにかえるといういみで、「もとづく」とくんずる。つぎのけじょうゆほん、だいななでとかれる、だいつうけちえんのげしゅにもとづくということを、ここでいんねんといっているのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのは、かこのいん=くおんがんじょのいんにもとづく、くおんがんじょにかえるのである。
 このゆえに、みょうらくだいしは、「まっぽうにおいて、なんみょうほうれんげきょうのだいびゃくほうを、きくことができ、ききおわって、しんをしょうずるのは、しゅくしゅがあるゆえであることがわかる」と、のべている。このしゅくとは、だいつうちしょうぶつのむかしのこと、しゅとは、げしゅのほったいである、なんみょうほうれんげきょうであり、このげしゅにもとづくことを、いんねんというのである。そして、ほんもんのこころは、ごひゃくじんでんこうのげしゅに、もとづくべきであり、しょせん、しんじつのみょうほう、くおんがんじょの、なんみょうほうれんげきょうのいんにもとずくことを、じょうぶつというのである。

 じんせいのもくてきは、なにか。そうたいてきこうふくでなく、ぜったいてきこうふくのかくりつにある。そのこんぽんげんそくとして、えいえんのせいめいをえとくすることにあり、そのいちどうは、みょうほうを、じゅじじっせんするいがいにない。しょせん、わがせいめいのほんしつを、かくちせよとのだんのおんふみである。
 しゃかぶっぽうのせいめいろん、だいしょうにんのぶっぽうのせいめいろんのそういが、めいかくになされている。しゃくそんのくおんろんは、まだ、うしうしゅうであり、にちれんだいしょうにんの、くおんろんはむしむしゅうであられる。しゃくそんは、こしんのえいえんのせいめいかんを、とかれたのにたいし、だいしょうにんは、さんじんじょうじゅうを、あかされている。しんじつのいんねんのいんとは、くおんがんじょのいんにもとづく、くおんがんじょにきする。くおんがんじょは、すなわちなんみょうほうれんげきょうである。したがって、ほんぞんに、みょうほうをくしょうすることじたい、ぶっかいをゆげんし、むしむしゅうのえいえんのせいめいに、ほんしつてきに、いきることになるのである。
 やれ、じねんしゅぎだ、ぶっしつしぜんしゅぎだ、りそうしゅぎだ、きゃっかんてきりそうしゅぎだ、しんぴしゅぎだ、とせいようてつがくでろんぎされるが、このだいしょうにんのせいめいかん、うちゅうかんとくらべれば、てんちうんでいなることがわかるであろう。


  • [235]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな やくそうゆほんごかのだいじ

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月17日(土)01時58分59秒
 
    0728~0730 やくそうゆほんごかのだいじ。

0728    だいいち やくそうゆほんのこと。
0729    だいに このほんじゅつじょうだんのこと。
0729    だいさん ゆいいちじしょしょう、いちうしょじゅんとうのこと。
0729    だいよん はうほうおう、しゅつげんせけんのこと。
0730    だいご がかんいっさい、ふかいびょうどう、むうひし、あいぞうししん、がむとんじゃく、やくむげんげのこと。

0728    だいいち やくそうゆほんのこと。

かいしゃくこうぎ。
 きのななにいわく、むしのしょうとくは、ちのごとく、だいじょうのこころをはっするは、しゅのごとし、にじょうのこころをはっするは、そうもくのめくきのごとし、いま、しょじゅうにはいるは、おなじく、ぶつじょうのめくきとうを、じょうずるがごとしと。
 おんぎくでんにいわく、ほっけのこころをしんずるは、しゅなり、しょほうじっそうのないしょうにはいれば。ぶっかをじょうずるなり、くすりとは、きゅうかいのしゅじょうのしんぼうなり、そのゆえは、ごんきょうのこころは、どくそうなり、ほっけにあいぬれば、さんどくのぼんのうのしんちを、さんじんがまんのしゅなりと、かいかくするをくすりとはいうなり、いま、にちれんとうのたぐい、みょうほうのくすりをぼんのうのくさにくうるなり、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんと、さとらしむるを、ゆとはいうなり、しゃくにいわく、「ゆとはぎょうくんなり」と、やくそうゆとは、われらぎょうじゃのことなり。

 みょうらくだいしの、ほっけもんぐきに、むしのしょうとく、しゅじょうのほんしょうは、だいちのようなものであり、だいじょうのこころをおこすのは、たねをまいたようなものである。にじょうのこころを、おこすのは、そうもくのめやくきのようなものであり、いま、しょじゅうのくらい、ふたいちにはいるのは、ぶつじょうのめやくきを、じょうずるようなものであるといっている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほっけのこころ ごほんぞんをしんずることは、ぶつしゅをうえたことであり、しょほうのないしょう、なんみょうほうれんげきょうの、さとりにはいれば、じょうぶつのきょうがいとなるのである。
 やくそうゆほんの、「くすり」とは、きゅうかいのしゅじょうのしんぼうのことである。そのゆえは、ごんきょうをしんずるこころは、やくそうにたとられるが、ごほんぞんにおあいすれば、とん、じん、ちのさんどくの、ぼんのうのこころが、じつは、ほっぽうおうのさんじんを、そなえた、ほとけのしゅであるとかいかくするのを、「くすり」というのである。いま、まっぽうにおいて、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかは、みょうほうのくすり、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうきょうを、ぼんのうのくさにうけているのである。
 ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんと、さとらせることをば、「ゆ」というのである。もんぐのごには、「ゆとはぎょうくん、おしえさとすことである」といっている。けっきょく、やくそうゆとは、われわれほけきょうのぎょうじゃについて、いっているのである。

 ほけきょう、やくそうゆほんだいごの、たいいは、まえの、しんげほんだいよんにとける、よんだいしょうもんが、いちじょうのたとえをきき、さんじょうほうべん、いちじょうしんじつのてつりをしって、りょうげした。しかし、このきょうは、ほんらいいちそういちみであるけれども、しゅじょうのきこんにしたがって、さんじょう、ごじょうのべつが、あることをといていない。そこでやくそうゆほんにはいって、さらにいちぽすすめて、じっそういちみのほうが、きによって、さんじょうごじょうのほうに、わかれることを、しめしたものである。
 ここで、ゆうめいなたとえは、さんそうにもくのたとえである。「いちじしょしょう、いちうのしょじゅんなりといえども、しかももろもろのそうもく、おのおの、さべつあるがごとし」うんぬん。いちじしょしょう、いちうしょじゅんはほけきょうである。もろもろの、そうもく、すなわちさんそうにもくは、さんじょうであり、ごじょうのきこんのことである。いま、われわれの、しんじんのたちばから、ろんずれば、ごほんぞんのたいくりきが、いちちのしょしょうであり、いちうのしょじゅんとはいするのである。おのおの、いかなるきょうぐうにあるひとたりとも、いかなるせいしつのもちぬしであっても、びょうどうだいえの、だいくどくをうけることが、できるとのげんりである。
 すなわち、せいじかはせいじかとして、じつぎょうかはじつぎょうかとして、がくせいはがくせいとして、また、ろうじんもせいねんも、しょうねんも、こういんものうみんも、にほんじんも、がいこくじんも、ひとりももれなく、みょうほうれんげきょうにてらされて、ぜったいのこうふくきょうがい、すなわち、じょうぶつすることができるのである。これいじょう、げんじつにちからをしょうみょうしている、だいてつりが、だいしゅうきょうが、いずこにあろうかと、うったえたいものである。とうたいぎしょうにいわく、「しょうじきにほうべんをすて、ただ、ほけきょうをしんじ、なんみょうほうれんげきょうきょうととなうるひとは、ぼんのうごう、くのさんどう、ほっしん、はんにゃ、げだつの、さんとくとてんじてさんかん、さんたい、そくいっしんにあらわれ、そのひとの、しょじゅうのところは、じょうじゃっこうどなり」(0512-10)と。

0729    だいに このほんじゅつじょうだんのこと

 おんぎくでんにいわく、じゅつとは、かしょうなり、じょうとはしゃくそんなり、じゅつじょうのにじは、かしょう、しゃくそんいっちするぎなり、しょせん、じゅつはしょけのりょうげ、じょうはほとけのいんかなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうとりょうするは、じゅつなり、にちれんがさんたんするは、じょうなり、われらがそくしんじょうぶつを、とききわめたるほんなり、じゅつじょういっち、ふけいするは、じゅつじょうふにの、そくしんじょうぶつなり、このじゅつじょうはほうかいさんぜんのかいじょうぶつどうのじゅつじょうなり。

かいしゃくこうぎ。
 じゅつじょうというのは、しんげほんだいよんで、よんだいしょうもんが、ほとけのひゆほんの、せっぽうをりょうげしたむねを、もうしのべたのにたいし、それをほとけがしょうにんして、さらに、せつめいをかさねたことを、いうのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。じゅつとは、かしょうのりょうげのたちばであり、じょうとはしょうにんのたちばである。つまりじゅつじょうとは、かしょうとしゃくそんのきょうがいが、いっちしたことをしめしているのである。つまるところ、じゅつじょうとは、しゃくそんとかしょうのかんけいにかぎるのではなく、じゅつとはしょけ、すなわち、でしのりょうげであり、じょうとは、ほとけのしょうにんなのである。
 いま、にちれんだいしょうにんのもんかが、まっぽうのじょうぶつは、なんみょうほうれんげきょういがいにないと、なっとくすることは「じゅつ」であり、にちれんだいしょうにんが、そのしんじんをさんたんされるのは、「じょう」にあたるのである。やくそうゆほんは、われわれが、なんみょうほうれんげきょうによって、そくしんじょうぶつできることを、とききったほんである。かしょうのじゅつと、ほとけのじょうとがふせつをあわせたように、いっちするのは、じゅつじょうふに(していふに)の、そくしんじょうぶつをあらわしているのである。このじょうぶつということは、ほうかいさんぜん あらゆる、しんらばんしょうがかいじょうぶつどう、すなわち、みょうほうのとうたいであり、ふかいほんいの、かくたいであるということを、りょうげし、またしょうにんしたことを、いみするのである。

 やくそうゆほんは、ひせつしゅうの、じゅつじょうをといているのである。ほけきょうしゃくもんでは、ほうせつしゅう、ひせつしゅう、いんねんしゅうの、いわゆるさんしゅうのしょうもんの、じょうぶつをゆるされ、それぞれしょうせつ、りょうげ、じゅつじょう、じゅきがとかれている。
 すなわち、じょうこんのしゃりほつは、ほうせつしゅうのしょうもんとして、ほうべんぽんでしょうせつ、ひゆほんでりょうげ、じゅつじょう、じゅきをうけ、ほうせつのみでさとったのである。つぎにちゅうこんのかしょう、かせんねん、しゅぼだい、もっけんれんのよんだいしょうもんは、ひせつしゅうといわれ、じゅんりのみではしげがたいのでたとえをもってといている。ひゆほんはしょうせつとなり、さんしゃかたくのたとえをとき、ちょうじゃぐうじのりょうげを、しんげほんにとき、やくそうゆほんでじゅつじょうし、じゅきほんでじゅきをうけた。だいさんに、げこんのふるなは、いんねんしゅうといわれ、ほうせつとひせつでもりかいできず、かこせのいんねんをきいて、とくどうする。だいつうちしょうぶついらいの、けちえんをといたけじょうゆほんは、いんねんしゅうのしょうせつであり、ごひゃくでしじゅきほんと、じゅがくむがくにんきほんは、りょうげ、じゅつじょう、じゅきのみっつをあかしている。じゅきとはいわゆるこう、くに、みょうごうとうをそなえた、じょうぶつのきべつをうけることがある。
 つぎにさんしゅうのしょうもんを、わかりやすく、ずししてみよう。

 りゃくかいさんけんいち ───────────┬─ ほうべんぽんだいに
             ┌ しょうせつ ┘
             ├ りょうげ ┐
       ┌ せっぽうしゅう ┼ じゅつじょう ┼┐
       │     └ じゅき ┘├ ひゆほんだいさん
       │     ┌ しょうせつ ─┘
       │     ├ りょうげ ── しんげほんだいよん
 こうかいさんけんいち ┼ ひせつしゅう ┼ じゅつじょう ── やくそうゆほんだいご
       │     └ じゅき ── じゅきほんだいろく
       │     ┌ しょうせつ ── けじょうゆほんだいしち
       └ いんねんしゅう ┼ りょうげ ┐
             ├ じゅつじょう ┼┬ ごひゃくでしじゅきほんだいはち
             └ じゅき ┘└ じゅがくむがくにんきほんだいきゅう

 いままで、のべてきたのは、てんだいのきょうそうである。このじゅつじょうを、われわれの、しんじんのたちばからかんがえれば、どのようになるであろうか。おんぎくでんにいわく、「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうとりょうするは、じゅつなり、にちれんがさんたんするはじょうなり」と。
 すなわちじゅつじょうとは、していふに、きょうちみょうごうを、あらわしていると、はいすべきである。にちれんだいしょうにんとにっこうしょうにんの、おすがたこそ、じゅつじょうであり、していふになのである。にちれんだいしょうにんの、なんみょうほうれんげきょうの、だいぶっぽうを、ただおひとりあますところなく、りょうげされ、だいしょうにんを、ただしく、ごほんぶつとはいした、だいにそ、にっこうしょうにんこそ、べっして、「いま、にちれんとうのたぐい」のおかたである。また、そうじては、われわれがっかいいんが、もったいなくも、「いま、にちれんとうのたぐい」とのおおせに、あたるものといえよう。
 しかして、ごろうそうやそのまつりゅうは、にちれんだいしょうにんを、ごほんぶつとあおげず、なんみょうほうれんげきょうのごほんぞんを、しんじないゆえに、ほうぼうのたからであり、だんじて、していふにのぎは、なりたたぬのである。われわれが、ごほんぞんをしんじて、あさにゆうに、だいもくをとなえることによって、ごほんぞんに、きょうちみょうごうできうるのである。
 すなわち、わがみに、ぶっかいがゆげんして、せいめいりょくゆたかに、ちえあふれ、えいえんのせいめいを、かんとくすることができるのである。
 だいしょうにんが、ごしょのいたるところに、「にちれんとうのたぐい」、「にちれんがでしだんな」と、おおせくださるのは、われら、ぼんぷをごほんぶつのきょうがいにまで、ひきあげよう、きょうちみょうごうさせてあげようという、ごじひのあらわれであり、まことに、かんげきにたえないものである。
 しかるに、じゃしゅうのきょうそとうと、しょうするとはいは、しんじゃをあたかも、どれいのごとくぐうし、しんじゃのぎせいのうえに、くんりんしたすがたであり、すこしも、していふに、きょうちみょうごうの、てつりをそなえていないのは、とうぜんのことであろう。われわれの、しどうのありかたのこんぽんは、だいしょうにんの、ごせいしんのままに、すべて、ほんにんのただしいしんじん、こうふくをえさしめるための、きょうがいをおおきく、ひらかせるための、しどうでなければならない。また、だいがくとうのきょういくにおいても、ただぎむてきに、こうぎをくりかえすのみではなく、じぶんとおなじきょうがいにまで、こうじょうさせよう、りかいせしめようという、すがたがあってこそ、はじめて、しんのきょういくのほんぎが、たっせいされるものであるとおもう。

0729    だいさん ゆいいちじしょしょう、いちうしょじゅんとうのこと

 おんぎくでんにいわく、ずいえんふへんのおこるところのもんなり、みょうらくだいしいわく、「ずいえんふへんのせつは、だいきょうよりいで、ぼくせきむしんのことばは、しょうそうよりしょうず」と、このだいきょうとは、いちきょうのそうたいにあらず、このゆいいちち、ところしょうとうの、じゅうひちじをさすなり、いちじしょしょう、いちうしょじゅんは、むしゃべつひ、にしょそうもく、おのおの、うしゃべつは、うしゃべつひなり、むしゃべつひのゆえにみょうなり、うしゃべつひのゆえにほうなりうんぬん。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうととなえたてまつるは、うしゃをおくなり、にじゅうはちほんはうしゃべつなり、みょうほうのごじはむしゃべつなり、いちちとはしゃくもんのだいち、いちうとはほんもんのぎ、てん、いちじとはじゅういんしか、いちうとはじゅうかこういん、まっぽうにしつて、じゅうかこういんのいちうを、ぐつうするなり。
 いちうとは、だいもくによぎょうをまじえざるなり、じょぼんのときは、うたいほううととき、このほんのときは、いちうしょじゅんととけり、いちうしょじゅんはじょぼんの、うたいほううをかさねて、ほとけときたまうなり、いちじとは、ごじのなかの、きょうのいちじなり、いちうとはごじのなかのみょうのいちじなり、ほうれんはなのさんじは、さんせんまんほう、なかにもそうもくなり、さんじょう、ごじょう、ななほうべん、きゅうほうかいなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここでは、「ゆいいちじしょしょう いちうしょじゅん、にしょそうもく、おのおのうしゃべつ(いちちのしょしょう、いちうのしょじゅんなりといえども、しかももろもろのそうもく、おの々おのしゃべつあるがごとし)についてのおんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんからずいえんしんにょ、ふへんしんにょということがいわれているのである。みょうらくだいしは、「ずいえんふへんのせつは、だいじょうよりいて、ぼくせきむしんのことばは、しょうそうよりしょうず」とのべてる。
 ずいえんはほんもん、ふへんはしゃくもん、しょうそうはにぜんきょう、しょうじょうきょうをさすとおもわれる。「ぼくせきをもって、むしんとみる」のことばは、すなわち、えいえんのせいめいをとかない、じょうぶつをみとめない、しょうじょうきょうのおしえから、きているということである。ここでいう、だいきょうとは、ほけきょうぜんたいをさすのではなく、「ゆいいちじしょしょう」とうのじゅうひちじをさしているのである。
 「いちちのしょしょう、いちうのしょじゅん」ということは、ものごとのむしゃべつのめんを、たとえたのであり、「しかももろもろのそうもく、おの々おのしゃべつあるがごとし」ということは、ものごとにさべつのあることを、たとえているのである。みょうほうのみょうは、むしゃべつひをいみし、ほうは、うしゃべつひをいみするのである。
 いま、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうきょうととなえたてまつることは、うしゃべつをさしおくのであり、すなわち、むしゃべつなのである。
 にじゅうはちほんは、うしゃべつであり、みょうほうのごじは、むしゃべつである。いちじというのは、しゃくもんというだいち、いちうというのは、ほんもんというてん、またいちじとは、じゅういんしか、いちうとは、じゅうかこういんをいみしているのである。いままっぽうになって、じゅうかこういんのいちう、すなわち、なんみょうほうれんげきょうきょうをぐつうしているのである。
 いちうとは、だいもくにだいもくいがいのよけいなものを、すこしもまぜないということである。じょぼんにはうたいほうう(いま、ほとけせそん、たいほうをとき、たいほうのあめをふらし)ととき、このやくそうゆほんでは、いちうしょじゅんとといているが、いちうしょじゅんは、じょぼんのうたいほううをかさねてのべたものである。いちじとは、ごじのなかの、いちばんしたのきょうの、いちじであり、いちうとは、ごじのなかのいちばんうえのみょうのいちじである。
 ちゅうげんのほうれんげのさんじは、さんぜんまんほう、とりわけそうもくである。さんじょう、(しょうもん、えんかく、にじょうのぼさつ)、ごじょう、(さんじょう+にん、てん)ななほうべん(、ぞうきょうのしょうもん、えんかく、ぼさつと、つうきょうのしょうもん、えんかく、ぼさつと、べつきょうのぼさつ)のきゅうほうかいである。

 「いちうしょじゅん」とは、だいもくをあげていくことである。やくそうゆほんに、「ひとしくほうふをふらし」とあるように、びょうき、ひんこん、かていふわなど、どんななやみがあろうとも、ごほんぞんをしんじ、だいもくをあげることによって、すべてのなやみはかいけつできうることをいみしているのである。これごほんぞんの、むしゃべつ、びょうどうのじひである。
 またいちうとは、じっかいのげんご、おんじょうのふるまいのすべてである。なかでも、げんご、おんじょうをもって、しゃくぶくしていくのは、おなじく、いちうしょじゅんである。そして、このしゃくぶくのほうふは、じごくのしゅじょう、がきのしゅじょう、ちくしょうのしゅじょうとう、あらゆるきょうがいのひと々びとにふりそそぐのである。
 ゆえにしゃくぶくは、あいてのちいや、きょうぐうのいかんをえらぶことなく、あらゆるひとにたいして、しゃくぶくできるのである。そして、すべてのひとがごほんぞんをしんじて、だいくどくをうけることを、しらなければならない。
 つぎに、じゅういんしかとじゅうかこういんに、ついてかんがえてみよう。まずじゅういんしかと、じゅうかこういんというほうもんは、でんぎょうだいしのくでんのほうもんといわれている。すなわち、げんぎしるいじゅうだいいちに、「でんぎょうだいし、いちょうにはいり、ぎょうまんざすにあいて、じゅういんしかのしだいをつたえ、どうずいおしょうにしたがって、じゅうかこういんのしだいをでんうるなり」とうと、つたえられている。またてんだいしゅうの、げんぎたいもうけんもんにも、「しかくもんに、せんせらるるところの、じっそうのりというものは、じゅういんしか、だんめいかいごのけんなり、さて、ほんかくのきょうの、せんせらるるところのりは、じゅうかこういん、むぞうむさのじつりなり」と、でている。
 ゆえに、じゅうかこういんとは、しゃくもんのだんどうで、まよいのしゅじょうが、しゅぎょうのいんによって、じょうぶつのかにむかうすがたを、しめしている。またじゅうかこういんとは、ほんもんのほんかくのほうもんとして、もちいられているのである。
 いらい、てんだいしゅうでもちいられ、しんごんしゅうでも、いちぶとうようしたが、にちれんだいしょうにんが、ほけきょうのしゃくもんは、じゅういんしかであり、ほけきょうほんもんは、じゅうかこういんなりとして、このおんぎくでんでもちいられたのである。
 さらに、ごそうでんしょたる、ひゃくろくかしょうのなかには、さらにふかいほうもんとして、おおくいんようされているが、ほんがの、みょうほうれんげきょうのほんしゃくのなかの、「こんにちのほんがは、じゅういんしかなれば、ほんのほんがにはおとるなり」(0855)のもんについて、にちかんしょうにんは、まっぽうそうおうしょうに、つぎのようにといている。
 すなわち、「これはこんにちのほんがと、ほんのほんがとの、しょうれつをはんじている。おなじく、おうぶつしょうしんといえども、もししょけんにしたがえば、しょうれつがある。こんにちの、ほんがは、しゃくのいんもんをかいして、ほんのかもんをあらわすゆえに、じゅういんしかである。もし、ほんのほんがは、しゃくのほんがをかいして、ほんのほんにんをあらわすゆえに、じゅうかこういんである。しょうれつをいえば、こんにちの、ほんがはしゃくのいんもんをかいして、ほんのかもんをあらわす。
 しょけんのほんがを、もしほんにんにのぞむれば、なおほんのうえのしゃくなるゆえに、こんにちのほんがは、おとるのである。もし、ほんのほんがはしゃくのほんにんをかいして、ほんのほんにんをあらわす。しょけんのほんにんは、どくいちのほんもんのゆえに、ほんのほんがはすぐれるのである。しょけんのほうもん、しょうれつことなりといえども、こんにちのほんがはおなじくこれ、しきそうそうごんのおうぶつのしょうしんの、じじゅゆうしんである」と。
 ここでは、じゅういんしかは、こんにちのほんが、すなわちさんぜんねんまえの、ほけきょうほんもんもんうえのおしえであるとし、じゅうかこういんは、ほんのほんが、すなわちごひゃくじんでんこうまえの、くおんのほけきょうほんもん、もんじょうのおしえであるとして、もちいられているわけである。すなわち、じゅうかこういんとは、しゃかぶっぽうのほんがのおしえをひらいて、にちれんだいしょうにんの、ほんにんみょうのぶっぽうをあらわすいみで、もちいられているわけである。
 それでは、われわれのせいかつに、やくしてろんずれば、どうなるかといえば、われわれがしゃくぶくをうけてにゅうしんし、ぶつどうしゅぎょうにはげんで、こうふくになっていくすがたは、じゅういんしかであるが、そのこうふくになったというけっかの、そもそもの、こんぽんげんいんをたずねていくと、くおんがんじょいらい、ごほんぞんのほんけんぞくとして、さんだいひほうをしんじていたという、ほんにんがあるわけで、これが、じゅうかこういんといえるであろう。
 しょほうじっそうしょうに、「ぢゆのぼさつのしゅつげんにあらざずんば、となへがたきだいもくなり」(1360-07)と、おおせられるのは、じゅうかこういんである。また、このよにうまれてきたということは、けっかであり、じゅういんしかであるが、なぜこのよに、うまれなければならなかったかと、しゅくせのげんいんをたずねていくのは、じゅうかこういんとなる。じぶんのせいかつじょうたいをみれば、いろいろなげんいんによってこうふこう、せいこうとしっぱいがしょうじてくる。しかし、ほんげんをたずねれば、すべてしんじんのいちねんにおさまり、みょうほうにてらされているのである。
 また、ここで、みょうほうれんげきょうのみょうということについて、とくにかんがえてみよう。いくおくまんのほしのそんざい、ちきゅうのはっせい、さらにせいめいのたんじょう、とうとう、いんがのりほうにざるあらものは、ないはずである。それらのこんかんをさして、みょうというのである。たとえばまなこがわるい、どうしてまなこがわるいようにしゅくめいづけられてうまれたか、べんきょうしすぎてわるくなったといえば、これはきんいんである。 べんきょうしても、わるくならないひともたすういる。そのいんがを、いちだんいちだんふかくしさくしてみれば、じつに、ふしぎなことと、かんぜざるをえない。ふしぎとは、むということでもない。そしてひとつのほうそくが、ありえぬという、いみでもけっしてない。ひじょうに、しぎしがたき、だいほうそくといういみを、ひとくちにみょうととかれたものである。ゆえに、じったいのちからはげんぜんとある。
 そのじったいの、ほんげんをばふしぎというのである。げんだいかがくでは、せつめいできえぬ、おうぎをさすともいえよう。
 つぎに、さべつとの、びょうどうのかんけいについてかんがえてみょう。なんみょうほうれんげきょうを、となえることは、びょうどうのなかのびょうどうである。すなわちひゆほんに、「さんがいはみなこれ、わがうなり…わがこなり」うん々ぬんと。だいしょうにんのもとに、ぜんぶ、こどもであり、でしなのである。じょうぶつするためには、だいじんでも、ざいばつでも、がくせいでも、だんじょ、ろうにゃく、きせんをとわず、ごほんぞんにだいもくをとなえるいがい、ぜったいにないのである。このように、こんぽんはむしゃべつなのである。ただし、じっさいのせかいにおいては、さべつがそんざいするのである。
 しゅじょうせけんや、こくどせけんのせけんとは、さべつのぎである。つぎの「だいよんはうほうおう、しゅつげんせけんのこと」には、「せけんとはにほんこくなり」とある。アメリカとか、フランスとか、にほんとか、そうたいすればさべつになる。こくどせけんである。しゅじょうせけんのばあいにも、イヌやネコ、そのたからみれば、にんげんはさべつされるわけである。こんどは、にんげんのなかでも、ぎじゅつしゃである、せいじかである。または、かていのしゅふである。かがくしゃである。げいじゅつかだとか、おのずからさべつができてくるものである。さべつはぜったいに、くおんがんじょいらい、じんみらいさいまであるのが、どうりなのである。であるから、こくどせけん、しゅじょうせけん、ごおんせけんと、すべてていぎづけられるわけである。こうせんるふができても、とうぜんさべつはある。これが、じっそうでありしゃかいのどうりなのである。
 せいねん、ふじん、そうねんとう々とう、じんせいをみてもさべつはあり、しょくぎょうも、みなまちまちなのがじったいとなろう。
 のうりょく、しどうしゃ…というてんでも、てきざいてきしょというてんでも、じねんにさべつがでてくるものである。
 ただし、いかなるさべつがあっても、じょうぶつはうたがいない。みょうほうをこんていとしたこうふくのかくりつにはさべつはなくなってくるわけである。

0729    だいよん はうほうおうしゅつげんせけんのこと

 おんぎくでんにいわく、うとは、ほうぼうのものなり、はとはしゃくぶくなり、ほうおうとはほけきょうのぎょうじゃなり、せけんとはにほんこくなり、 またいわくははくう、うはけ、.ほうおうはちゅうどうなり、されば、このもんをばしゃかにょらいのしゅしと、つたうるなり、そうじてさんぜのしょぶつの、しゅっせはこのもんによるなり、うとはさんがいにじゅうごうなり、はとはうしゅうをはするなり、ほうおうとはじっかいのしゅじょうのしんぼうなり、おうとはしんぼうをいうなり。0730
しょほうじっそうとひらくを、はうほうおうとはいうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうととなえたてまつるは、ほうぼうのうしゅうをだんじて、しゃかほうおうとなるということなり、はうのにじをもって、しゃかにょらいのしゅしとはいうなり、またいわく、うというはわれらが、ぼんのうしょうじなり、このぼんのうしょうじをすてて、べつにぼだいねはんありというは、ごんきょうごんもんのこころなり、いまきょうのこころは、ぼんのうしょうじをそのままおいて、ぼだいねはんと、ひらくところをはというなり、うとはぼんのう、はとは、なんみょうほうれんげきょうきょうなり、うはしょはなり、ははのうはなりのうは、しょはともに、じっそうのいちりなり、じょぼんのときは、じんしょうけつととき、このほんには、はうほうおうととき、ひゆほんのときは、かいぜがうとのべたりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 「うをはするほうおう、せけんにしゅつげんして、しゅじょうのよくにしたがいて、しゅじゅにほうをとく」というところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。うとはほうぼうのじゃである。はとはしゃくぶくすることである。ほうおうとは、ほけきょうのぎょうじゃである。せけんとは、にほんこくのことである。つまり、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんが、にほんにしゅつげんされて、ほうぼうのじゃを、しゃくぶくされるということである。
 また、やぶるはくう、うはけ、ほうおうはちゅうどうで、さんたいをいみしているのである。それゆえ、このもんはしゃかにょらいとなる。すなわち、じょうぶつのしゅであると、つたえられておる。そうじて、さんぜのしょぶつのしゅつげんは、このもんに、したがっているのである。うとは、さんがいにじゅうごうである。はとはうにたいする、しゅうちゃくをはするのである。ほうおうとは、じっかいのしゅじょうのしんぼうである。おうとは、しんぼうをいみするのである。しょほうじっそうとひらく、すなわち、ごほんぞんをしんずることを、はうほうおうというのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることは、ほうぼうにたいする、しゅうちゃくをはするところの、ほけきょうのぎょうじゃのたちばなのである。はう、すなわちほうぼうはしゃくこそ、ほとけになるしゅしなのである。また、うとは、われわれのぼんのうや、しょうろうびょうしのくるしみである。
 このぼんのうしょうじを、すてたところに、べつに、ぼだいねはんがあるというのは、ごんきょうごんもんのけつろんである。しかし、だいしょうにんのぶっぽうの、こんぽんは、ごほんぞんをしんずることにより、ぼんのうをぼだいにひらき、しょうじを、そくねはんとひらく、すなわち、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんであり、そのことをはといっているのである。
 は、うのうとは、ぼんのう、はとは、なんみょうほうれんげきょうにあたるのである。う、すなわち、ぼんのうは、やぶるべきものでもあり、は、すなわち、なんみょうほうれんげきょうは、やぶっていくほうであるが、やぶっていくほうも、やぶられるべきものも、ともにしょほうじっそうのいちりであり、しょうじのしんのすがたなのである。じょぼんのときは、もろもろのうけつを、つくしてととき、このやくそうゆほんでは、はうほうおうととき、ひゆほんのときは、みなこれ、わがうなりと、のべている。

 まずにじゅうごうとは、このよに、げんぜんとじつざいしているということが「う」なのである。
 めにみえぬから、むであるとは、だんていできないものである。よくぼうかい、ぶっしつかい、ならびにせいしんかいとう、すべてげんじつにじつざいして、なんらかのえいきょうを、たがいにおよぼしている。そのじつざいもまたさようかつどうをば、「う」というのである。くうきも、ばいえんも、ぜんぶ「う」であるといえる。かぜをひいた、そのでんせんのげんいんになるものも、やはり「う」である。
 ようするに、あらゆるいみで、わがせいめいかつどうに、えいきょうのあるじつざいをいうのである。このうちゅうにあるものは、おたがいにかんけいしあっているのである。これがみょうほうのげんりである。
 なおねんのためにいえば、さんがいとはよくかい、しきかい、むしきかいのことである。またにじゅうごうとは、さんがいろくどうをふんべつしたもので、まずよくかいでは、ししゅう、ししゅ、ろくよくてんのじゅうしうであり、しきかいではつぎのごう、だいぼんてんとしきかいのしぜん、おわりむしきかいのしてん、さらにむそうてん、あなごんてんあわせてにじゅうごうとなり、このうをはするのがぶっぽうである。
 なぜにじゅうごのかずを、さんしゅつしたのかといえば、「さんぞうほうすう」につぎのようにといている。
 「にじゅうごうは、ろくどうのまよいをでてない。しょうありしあり、いんががほろびないゆえである。しかして、ぼんてんおう、むそうてんおよびあなごんてんが、しぜんてんのなかにあるのに、べつにここに、そのなをだしている。それは、げどうがぼんてんおうを、ばんぶつをしょうずるしゅとして、あしくうやまい、またむそうてんはむしんをもってねはんとなし、ごなごんてんは、しんげだつであるとうとげどうがあやまって、かんがえているので、このさんてん、とくにさんうとしてうちやぶり、げどうをはしゃくしているのである」と。

0730 だいご がかんいっさい、ふかいびょうどう、むうひし、あいぞうししん、がむとんじゃく、やくむげんげのこと。

おんぎくでんにいわく、このろくくのもんは、ごしきなり、がかんいっさい、ふかいびょうどうとは、くしきなり、むうひしとは、はちしきなり、あいぞうししんとは、ななしきなり、がむとんじゃくとは、ろくしきなり、やくむげんげとは、ごしきなり、われらしゅじょうのかんぽうの、だいたいなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、あに、がかんいっさい、ふかいびょうどうの、くしきのしゅぎょうにあらずや、しからば、むうひしにあらずや、あいぞうししんにあらずや、がむとんじゃくにあらずや、やくむげんげにあらずや。

かいしゃくこうぎ。
 これは、やくそうゆほんに、「われいっさいを、みること、あまねく、みなびょうどうにして、ひし、あいぞうのこころあることなし、われ、とんじゃくなく、やくげんげなし、つねに、いっさいのために、びょうどうのぽうをとく、いちにんのためにするがごとく、しゅだもまた、しかなり」とあるところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このろくくのもんは、いつつのしき、すなわち、くしき、はちしき、ななしき、ろくしき、ごしきのいつつのしきを、あらわしている。
 「われ、いっさいを、みること、あまねく、びょうどうにして」とは、だいくしきである。「ひし、あることなし」とは、だいはちしきをさして、はちしきのせんじょうのにぽうをふくむ、そうたいてきなせかいを、はなれていることをいみする。「あいぞうのこころなし」とは、だいななしきをさして、あるものをにくみ、あるものをあいするという、さべつかんをはいするのである。「われ、とんじゃくなく」とは、だいろくしきをさし、ほとけは、まだ、とんじゃくをそんする、だいろくのきょうがいをひらいて、へんぱのないきょうちにたっていることをしめすのである。「また、げんげなし」とは、ごしきをさし、いしきがなく、ただ、ほんのうてきにごかんではんだんするところにしょうずる、さわりをはなれることをいみする。これらの、ごしきないし、くしきが、われらしゅじょうのかんぽう、もののみかたのだいたいである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのは、どうして、「いっさいをみること、あまねくみな、びょうどうにして」のくしきのしゅぎょうでないことがあろうか。したがって、ほとけのきょうちにりっきゃくするいじょう、むうひしであり、あいぞうししんが、ないということであり、われむとんじゃくであり、またむげんげである。

 このだんには、ごしき、ろくしき、ななしき、はちしき、きゅうしきとしてとうの、ゆいしきろんがとかれている。ゆいしきろんは、みろく、むじゃく、せしんとうのぼさつによってとかれたものである。りゅうじゅ、てんじん、てんだいのいわゆる、ちゅうかんろんはとよばれる、ぶっぽうのせいとうにたいして、ゆいしきてつがくをもって、たいこうしたいっぱである。ほつそうしゅう、さんろんしゅうなどが、ゆいしきてつがくによっている。
 ゆいしきとは、ただしきのみというこころで、いっさいのしょほうは、みなこころや、しきのてんぺんであり、じつうなるものは、しんしきのみであるというせつである。ゆいしきろんは、このように、かんねんろん、ゆいしんろんとそうじしたものであるが、げんだいのそれに、くらべてみれば、かくだんにすぐれたものといえよう。しかし、このせしんとうの、ゆいしきてつがくも、てんだいだいしの、さんたいえんゆう、いちねんさんぜんのほうもんより、みれば、まだぶぶんかんであり、ていきゅうのそしりを、まぬがれないのもあきらかである。
 にちれんだいしょうにんは、そのうえにたって、ごしき、ろくしき、ななしきとうを、えんゆうされ、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのきょうちゅうのにくだんに、おわします、くしきしんのうは、こしんのほんぞんなりと、もうされている。にちにょごぜごへんじに、「このごほんぞん、まったくよそにもとむることなかれ、ただ、われれらしゅじょうの、ほけきょうをたもちて、なんみょうほうれんげきょうととなうる、きょうちゅうのにくだんに、おはしますなり、これを、くしきしんのうしんにょのみやことは、もうすなり」(1244-)と。
 ほつそうしゅうでは、せしんのゆいしきさんじゅうろんじゅ、ゆいしきにじゅうろんとうを、しょえのきょうろんとしている。げんみつにいえば、ゆいしきてつがくのなかでも、みろくけいとう、むじゃくけいとう、せしんけいとうでは、それぞれたてる、ほうもんにことなりがある。せしんのゆいしきさんじゅうろんじゅによれば、しきのてんぺんとは、いねつとしりょうと、きょうのばんべつのさんしゅとなるといい、このみっつは、あらやしき、しりょうしき、ろくしきであるという。
 そして、いっさいはゆいしきのみであるとたて、にんしきのたいきょうは、しんないにえいげんするそうぶんで、ほんしつをねんとして、しょうじたえいぞうにすぎず、そのほんしつは、だいはち、あらやしきにふくまれる、しゅしよりしょうじたものであるから、けっきょくは、すべて、しきのしょへんに、ほかならぬとといている。
 いま、われわれのせいかつにてらして、かんたんにのべれば、つぎのとうになるであろう。
 ごしきとは、げん、に、び、ぜつ、しんのしきによって、こころのしきを、ふくまれないゆえに、こうどうそれじたいが、ごしきといえよう。あめがふり、かぜがふき、くもがわく、げかいのじょうたいそれじたいを、かんずるすがたである。ろくしきになると、いしきがくわわり、われわれのつうじょうの、にちじょうじんである。ごしきになかった、ひりょうやすいろんをするようになる。すなわち、ごしきでは、まだなわをへびとみあやまったりするが、ろくしきでは、そのようなことなく、さらにぐたいてきに、どれほどはげしくあめがふり、かぜがふいたかも、ひりょうすることができるじょうたいである。ななしきになると、さらに、しりょうのはたらきをふして、かんがえたりする。
 すなわちこうどうしようと、しこうするちょくぜんのじょうたいである。あめやかぜをねがい、ようせいするすがたである。はちしきになると、あめをふらせようか、かぜをふかせようかと、あきらかにしこうして、ぐたいてきにこうどうするすがたである。
 だいきゅうしきは、さいこうのしきであるがゆえに、くしきしんのうともいい、われらのしんじんのいちねんである。うちゅうそのものであり、われそくうちゅうの、いちねんにもつうずるものである。さらにぐたいてきには、わがこしんのぶっかいということができる。


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  • 御義口伝講義録上 しんげほん、ろくかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月16日(金)16時27分42秒
 
  にちれんだいしょうにんごしょこうぎ おんぎくでん しんげほんろくかのだいじ。

0725~0728 しんげほん、ろくかのだいじ。
0725    だいいち しんげほんのこと。
0725    だいに しゃぶじょうぜいのこと。
0726    だいさん かぶ、ぐうこんのこと。
0726    だいし しんね、けこんのこと。
0727    だいご むじょうほうじゅ、ふぐじとくのこと。
0727    だいろく せそん、だいおんのこと。

0725~0728 しんげほんろくかのだいじ。
0725    だいいち しんげほんのこと。

 きのろくにいわく、しょうほっけには、しんぎょうほんとなずく、そのぎつうずといえども、ぎょうはげにおよばず、いまはりょうげをあかす、なにをもってか、ぎょうといわんや。
 おんぎくでんにいわく、ほっけいちぶにじゅうはちほんの、だいごうのなかに、しんげのだいごう、このほんにこれあり、いちねんさんぜんも、しんのいちじよりおこり、さんぜのしょぶつのじょうどうも、しんのいちじよりおこるなり。
 このしんのじ、がんぽんのむみょうを、きる、りけんなり、そのゆえは、しんはむぎわっしんとて、ぎわくを、だんぱするりけんなり。
 げとは、ちえのいみょうなり、しんはあたいのごとく、げはたからのごとし、さんぜのしょぶつのちえをかうは、しんのいちじなり、ちえとはなんみょうほうれんげきょうなり、しんは、ちえのいんにして、みょうじそくなり、しんのほかにげなく、げのほかにしんなし、しんのいちじをもって、みょうかくのしゅしとさだめたり。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、しんじゅ、りょうのうするゆえに、むじょうほうじゅ、ふぐじとくの、だいほうじゅをえるなり、しんは、ちえのたねなり、ふしんは、だごくのいんなり、またいわく、しんはふへんしんにょのりなり、そのゆえは、しんは、ちいっさいほう、かいぜぶっぽうと、たいたつして、じっそうのいちりとしんずるなり。
 げは、ずいえんしんにょなり、じじゅゆうちをいうなり、もんぐのくにいわく、うたがいなきをしんといい、めいりょうなるを、げというと、もんぐのろくにいわく、ちゅうこんのひと、ひゆをとくをききて、はじめて、ぎわくをぱして、だいじょうのけんどうに、はいる、ゆえになずけて、しんとなす。
 すすんで、だいじょうのしゅうどうに、はいるゆえに、なずけてげとなす、きのろくにいわく、だいをもってこれにのぞむるに、すなわちりょうじをわかちてもって、にどうにぞくす、ぎをはするがゆえに、しんなり、すすんではいるを、げとなずく、しんはにどうにつうじ、げは、ただ、しゅうにあり、ゆえにしゅうどうを、げとなずくというと。P726

かいしゃくこうぎ。
 みょうらくだいしの、「ほっけもんぐき」のろくには、インドのほけきょうを、じくほうごがかんぶんにやくした、「しょうほけきょう」においては、らじゅうしゃく、「みょうほうれんげきょう」のしんげほんにあたるものを、しんぎょうほんと、なづけているとある。みょうらくは、しんぎょうほんは、しんげほんにかなりにかよった、いみにはなるが、「ぎょう」ということは、「げ」にはおよばないのである。
 なぜかならば、このほんにおいては、よんだいしょうもんが、いちぶつじょうにめざめたとのりょうげを、のべているのであり、ぎょうとなづけて、とかれている、じんじんのほうもんに、こんぽんてきにことなってしまうのである。したがって、しんぎょうほんなどと、なづけることは、とうてい、できえないのである、といっている。
 おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 ほけきょう、いちぶにじゅうはちほんの、だいごうのなかで、「しんげ」というだいじなだいごうは、このほんについているのである。「いちねんさんぜんもしんのいちじよりおこり」とは、ぶっかいがゆげんするのでなければ、いちねんさんぜんにはならない。ぶっかいは、ごほんぞんをしんじてなんみょうほうれんげきょうきょうととなえて、はじめてあらわれるのである。
 すなわち、しんによっていちねんさんぜんは、なりたつのである。またさんぜのあらゆるほとけも、みなごほんぞんをしんじて、だいもくをとなえたからこそ、じょうどうしたのである。
 しんということは、がんぽんのむみょう=こんぽんのまよい、すなわち、ごほんぞんにたいする、まよいをきるのである。そのゆえは「うたがいなきをしんという」ということで、しんはぎわくをたちきる、りけんなのである。げということは、ちえのべつめいである。しんずることによって、ちえというたからをかうことができる。さんぜのあらゆるほとけのちえを、かうのはしんによるのである。ちえとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。ごほんぞんをしんずることは、にちれんだいしょうにんのちえをいただくことでもあり、みょうじそくのくらいである。しんとげ=ごほんぞんを、しんずることとほとけをさとることは、いったいである。しんのいちじこそ、みょうかく=ほとけの、さとりのたねである。
 いまにちれんだいしょうにん、およびそのもんかが、ごほんぞんにむかって、なんみょうほうれんげきょうととなえることが、じょうぶつのこんぽんであると、しんじゅしなっとくすることは、しんげほんに、「むじょうのほうじゅ、もとめざるにみずからえたり」とある、そのだいほうじゅを、えたことになるのである。しんはちえ=そのばで、さいこうのはんだんをくだしていく、ごほんぶつのちをいうのである。
 もんぐのくに、うたがいがないことを、しんというのであり、あきらかにわかることを、げというのであるといっている。もんぐのろくには、しゅぼだい、かせんねん、かしょう、もっけんらの、よんだいしょうもんたちが、ほとけのひゆをとくのをきいて、はじめて、ぎわくをはして、だいじょう=いちぶつじょうの、けんどうにはいるゆえに、なづけてしんとなし、すすんで、だいじょうのしゅぎょうどうに、はいるゆえに、なづけてげとなすとといている。
 みょうらくの、もんぐきろくには、さらにこのことをとき、だいじょうをもって、しんげのことをしめすのに、すなわち、しんげのりょうじをわかちて、けんどう、しゅうどうのにどうにぞくす。うたがいをはして、うたがいなきゆえにしんである。すすんで、げりょうにはいるを、げとなづけるのである。すなわち、しんはけんどう、しゅうどうのにどうにつうじ、げは、ただしゅうどうのいちどうにつうずるのみである。ゆえに、しゅうどうをげとなずけるのであるといっている。

 しんげほんだいよんは、じんずうだいいちの、もっけんそんじゃをはじめ、しゅぼだい、かせんねん、かしょうのよんだいしょうもんが、かいさんけんいちの、ほうりをりょうげした、ひせつしゅうである、「ちょうじゃぐうじのたとえ」をといての、りょうげはゆうめいである。
 ちょうじゃぐうじのたとえは、たくみにしゅじゅくだつの、さんじをば、ごじにわたって、せつじょしてりょうげをあかしているわけである。いま、かんじんからよめば、とうぜん、われらは、にちれんだいしょうにん、すなわちごほんぞんのこであり、だいふくうんのもちぬしであるが、ぶっしょうをあらわさず、ろくどうくかいのきょうがいのみに、るてんしてしまっている。
 みずから、きゅうどうしんをおこして、せいめいのほんしつ、ぶっぽうのしんずいをしろうとしない。しゃくぶくされてにげたり、いやいやながらしんじんにはいったような、じょうたいであった。まさに、ぐうじのすがたそのものであった。みょうほうをだきしめ、しんじんごうじょうとなれば、すなわち、まっぽういまどきの、しんげである。これによって、ちょうじゃとふしのえんをむすび、わがみが、みょうほうのとうたいとあらわれるのである。ゆえに、まっぽうにおけるしんげこそ、ぜったいのこうふくげんりであることは、まちがいないことである。
 このおんふみにあるとおり、しんげのしんということは、じつに、いっさいのこんぽんなのである。「いちねんさんぜんも、しんのいちじよりおこり、さんぜしょぶつのじょうどうも、しんのいちじよりおこるなり」との、おおせは、しんずるということが、なければ、ぶっぽうはなりたたないことを、いみするものである。われわれは、ゆうじんをしんじ、おやをしんじ、またじこをしんじ、あるいはほんをしんじ、にんのはなしをしんじ、あるいは、しんぶんにほうどうされたことが、じじつであるとしんずる。しんじたり、しんじなかったりすることが、げんじつのせいかつであろう。せいかつから、しんずるということを、とりのぞいたら、あとはなにがのこるだろうか。しゃかいというもののほんしつが、おたがいにしんらいしあい、そんけいしあって、はじめてなりたつものである。
 しかしながら、げんじつのしゃかいは、あまりにもふしんと、ぎまんにみちみちているではないか。そこに、いっさいしんずべきものを、うしなったせいねんは、しゃかいをのろい、けつにくをわけた、おやきょうだいをのろい、たいはいてきになり、あるときは、ばくはつてきにみずからのエネルギーを、かいらくのためにはっさんする。
 もし、かれが、じこをしんずることが、できなくなれば、もはや、いきるはりあいを、いっさい、なくしてしまうことであろう。なにごとも、しんがこんぽんであることが、うかがえるものだ。しゃかいをへんかくしようと、するいぶきも、げいじゅつかがいだいなげいじゅつを、うんでいくのも、かがくしゃが、いだいなはっけんをするのも、しんがあればこそである。
 いっぱんのがくもんにおいても、にんしきするという、このだいいっぽは、すべて、しんずるということからはじまり、じっけんしょうめいによって、はじめてただしくにんしきできうるのである。いわんや、ぶっぽうのこんぽんにおいては、かならずしんのいちじよりおこることは、とうぜんのなかの、とうぜんの、りなのである。

 とだじょうせいぜんかいちょうの、かんとうげん「しそうの、こんらん」には、つぎのようにいわれている。
 「せかいのぶんかじんが、めいらんしているしそうには、ふたつある。ひとつはちしきが、そくちえであるというかんがえかたである。ちしきはちえを、ゆうどうし、ちえをひらくもんにはなるが、けっして、ちしきぜんたいが、ちえではない、(ちゅうりゃく)ちえとちしきは、こんぽんてきな、そういがある。ただし、ちえのほんどうに、はいるためには、ちえのもんをひらいて、はいらなければならぬことは、いうまでもない。ぶっぽうにおいても、ずいきくどくほんにおいて、ごはらみつをすてよとはいうが、はんにゃはらみつをばすてよとは、いっていない。
 ちえのないにんげんは、いぬねこにもおとるのであるから、ちえをみがくということを、よくよくかんがうべきであるとおもう・・・ようするに、こんぽんは、つよきせいめいりょくと、たくましきちえによって、わがじんせいをしはいしていかなくては、ほんとうのこうふくはえられないことを、しらねばならぬ。これをじっせんにうつし、いかにすべきかというもんだいは、わがそうかがっかいの、しゅちょうのごとく、ごほんぞんになむするいがい、ほうほうのないことを、ふきしておく」と。
 すなわち、かくのごとく、じんせいのこうふくのげんせんたる、ちえは、ぶっぽうの「いしんだいえ」、「いしんとくにゅう」という、げんりをしめすごとく、けっきょくは、さんだいひほうの、ごほんぞんにたいする、つよきしんをもってちえにかえ、しょうほうにたいするしんをもって、こうふくきょうがいを、きずくいがいにないことを、しらねばならない。
 しかし、このしんのたいきょうを、あやまれば、またふこうに、おちいらざるをえないのである。みょうらくだいしいわく、「たとい、ほっしんしんじつならざるものも、しょうきょうにねんすれば、くどくなおおおし、しょうきょうにあらずんば、たとい、ぎもうなきも、また、しゅとならず」と。すなわち、「いわしのあたまも、しんじんから」というような、あさはかな、しゅうきょうかんは、まったく、ひかがくてきであり、めいしんであり、じゃけんであることを、しるべきである。あくまでもぶっぽうは、もんりげんのさんしょう、ぐびで、なければならない。
 いま、われわれの、しんじんのすがたをみて、おろかなひとは、たのしゅうきょうとおなじとおもい、よく、「もうしん」であると、、ひはんする。しかし、かれらは、われわれが、つねにだいしょうにんの、じんのんなるせいめいてつがくを、たんきゅうしていることをしらない。そのゆうげんで、しかもめいせきなるだいてつりに、われわれは、ぜんせいめいからほとばしりでる、よろこびのかつどうを、しているのである。あるてつがくしゃは、「しんこうとは、りせいのえんちょうなり」といった。まことに、ふかきしさくの、けっかのさけびであろう。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、また、「りはしんをしょうじ、しんはりをもとめる。もとめられたりは、さらにしんを、ふかめるのである」とのべられている。このじんのんなるどうりを、わきまえるじっせんをばしるならば、どうして「もうしん」などと、ひはんできようか。あえてそう、ひはんするひとたちこそ、いっさいのせいかつに、かつどうに、しんずるという、じゅんぼくなにんげんせいをそうしつしてしまった。あわれなそんざいであると、いわれてもやむをえなかろう。
 つぎに、「しん」と「げ」の、かんけいであるが、しんとは、ごほんぞんをしんずること、せいかつのげんせんをいみする。げとは、じっさいせいかつ、かつやくにあって、ぐたいてきに、はたらく、ちえのいみである。いま、われらほとけのぐんの、いのり、いちねん、いっしんは、しんである。そのたたかいの、かんすいへの、いっぽいっぽのぐたいてきなこうそう、きかく、かつどうとうは、げと、とるのである。

しんは、むぎわっしんとて、ぎわくをだんぱするりけんなり。
 うたがいなきを、しんという。さんだいひほうの、ごほんぞんのだいくどくを、ぜったいにしんじ、にちれんだいしょうにんのしきしんふにの、せいめいてつがくを、さいこうゆいいつとしんずることが、ぶっぽうのこんぽんである。
 たとえ、いちじてきにはばつをうけようが、びょうきになろうが、いえがやけようが、どんなことがあっても、ごほんぞんをうたがわない。だいしょうにんのおおせどおりに、しんじんしゅぎょうをまっとうしきる。 これが、むぎわっしんであり、そのしんじんをしているひとが、じょうぶつできうるのである。すこしせけんからひはんされたり、はくがいをうけたり、そんなことでうたがってはならない。それでは、しんがよわいのであり、うすいのである。いっしょうがい、えいえんにごほんぞんをだきしめて、はなさない。どんなことがあっても、だいもくをとなえきっていく、これが、むぎわっしんのしんじんといいえるのである。
 さて、ぶっぽうにおいては、いじょうのごとく、しんずるということが、こんぽんであり、そこになんらのぎもんもない。これはひとえに、ぶっぽうがもんしょう、りしょう、げんしょうのうえにたって、ぜったいにゆるぎない、だいてつがくである。
 ところが、さんこうのために、ひとたびまなこを、せいようのしゅうきょう、てつがくにてんじてみると、そこには、およそわれわれには、かんがえられないような、きみょうなぎろんがくりかえされている。それは、キリストきょうの、「かみ」をめぐってのろんぎである。
 せいようぶんめいは、そのしょきにおいて、ふごうりきわまる、キリストきょうをとりいれ、それに、しはいされてしまった。それいらい、かれらは、なにかじんせいについて、うちゅうについて、かんがえようとするときに、「ゆいいつぜったい、ぜんちぜんのうのかみ」というものを、むししてかんがえをすすめることが、ぜったいに、できなくなってしまったのである。
 しかしながら、その「ゆいいつぜったいのかみ」については、こうとうむけいな、きせきをといた、バイブルがあるだけで、りろんてきなうらづけはなく、げんしょうとして、じっさいせいかつに、あらわれるべきくどくなどはまったくない。したがって、かれらは、あるいはしんじ、あるいはうたがい、あるいは、いっぽうでしんじつつ、いっぽうではうたがうという、さんたんたるせいしんてき、なやみをもって、せいようしそうしを、けいせいしてきた。さんこうまでに、そのおもなものを、こうさつしてみよう。
 まず、カトリックきょうかいの、きょうぎをかくりつし、きそずけようとした、いわゆる、「きょうふてつがく」の、だいひょうてきしそうかのいちにん、テルトゥリアヌスは、すべて、てつがくによって、キリストきょうを、きそづけようとすることを、はいげきして、キリストきょうてき、しんこうの、ひごうりてきせいかくを、きょうちょうした。
 「かみのこは、はりつけにしょせられた。これは、はずべきことなるがゆえに、よはこれを、はじない。かみのこはしんだ。これおろかなることなるが、ゆえに、ぜったいに、しんじなければならぬ。 またかれは、ほうむられてのちに、ふっかつした。これは、ふかのうなるがゆえに、かくじつである」という、かれのしゅちょうは、そのしそうをめいかくにあらわしている。それゆえ、つうじょう、かれのしそうは、「ふごうりなるが、ゆえにしんず」ということを、といたものとしてしられている。これはまったく、にんげんのりせいを、むしした、もうしんであるといわざるを、えないではないか。
 また、ちゅうせいのスコラてつがくの、しょきのだいひょうしゃアンセルムスに、おいては、きょうかいのしんこうは、ぜったいてきなものであり、それはけっして、うたがわれることが、できないものであった。しかし、かれは、このしんこうを、ちしきによって、きそづけうることを、かくしんしていた。ゆうめいな、「しらんがために、われしんずる」という、かれのことばは、かれのいとを、めいりょうにしめすものということができよう。
 さて、きんだいせいようてつがくの、だいひょうしゃといわれ、るデカルトはなにをかんがえていたか。かれは、「しん」にかんし、ぎは「こころ」にかんするものと、「ち」にかんするものがあると、いいだして、「ちせいにかんする、かいぎといしにかんする、かいぎとはくべつされるべきである。
 ひとは、みずからのちせいが、かみのそんざいをしょうめいしえないかぎり、ちせいでもって、かみのそんざいをうたがわなければならないが、しかしひとは、かみのそんざいをしんずることができる。なぜなら、しんこうはいしの、もんだいであるからである」
 といういみのことを、のべている。
 このデカルトのたいどにたいして、とうじのひとびとは、かみのそんざいを、うたがうなどということは、いったいゆるされて、よいことだろうかと、つよくひなんしている。ところが、いっぽう、ぎゃくにこの、デカルトのたいどにたいして、のちの、じつぞんしゅぎしゃたち、キェルケゴール、ニーチェ、ヤスパースとうは、かいぎのしかたが、ふてっていであると、ひなんしている。
 とくに、げんだいドイツの、じつぞんしゅぎしゃ、ヤスパースは、「デカルトとてつがく」というほんのなかで、「デカルトの、かいぎは、ちせいのほうてきかいぎであって、しんこうのじつぞんてきかいぎではない。それは、それによって、ごうりてきかくじつせいにとうたつしようとする、けいかくてきちせいてきなこころみであって、デカルトを、おそうところの、じつぞんのけいけんはない。それは、デカルトが、そのしゅであるところの、こういであって、しんこうそうしつという、しんえんへおちこむことは、できない」とうといい、もっと、てっていしてうたがって、ぜつぼうにまで、いたるべきであるといっている。
 われわれは、いじょうのような、ろんぎをみて、まことにくだらないと、おもういがいにないのである。しかしながら、かれらは、じつに、こうした、ろんぎにいのちを、かけていたのである。ということは、せいようのきんせいに、おいては、もしかみについて、あからさまに、ふしんをひょうめいすれば、それは、ひと々びとをまよわすものとされ、カトリックきょうかいにおいて、ついきゅうされ、しばしば、しけいにされていたからである。
 それは、はなはだれいこくなものであった。また、げんだいにおいては、かみにたいするしんこうは、いちじるしく、よわまってきているわけであるが、やはりそれは、せいようじんの、じんせいかんのちゅうしんとなるものであり、もしかみのそんざいを、ひていするならば、かれらのじんせいかんは、こんていからくつがえり、こんごどのように、いくべきかについて、くのうせざるを、えなくなるのである。
 われわれは、いじょうのこうさつから、せいようのてつがくしゃたちが、ほんらいありもしない、「ゆいいつぜったいのかみ」をめぐって、どれほど、しんこくになやんだかを、うかがいしるとどうじに、もんしょう、りしょう、げんしょうにてらして、いってんのうたがわしきところもない、だいせいめいてつがくを、ほうずるわれわれが、いかにめぐまれた、じんせいであるかを、つうかんせずにはおられないではないか。

0725    だいに しゃぶじょうぜいのこと

 もんぐのろくにいわく、しゃぶじょうぜいとは、だいをたいするをしゃとなし、むみょう、みずからおおうを、じょうとのたまい、しょうじにしゅこうするを、ぜいとなすと。
 おんぎくでんにいわく、ちちにおいて、みつこれあり、ほけきょう、しゃくそん、にちれん、これなり、ほけきょうは、いっさいしゅじょうのちちなり、このちちにそむくゆえに、るてんのぼんぷとなる、しゃくそんはいっさいしゅじょうのちちなり、このほとけにそむくゆえに、つぶさにしょどうをめぐるなり。
 いま、にちれんはにほんこくの、いっさいしゅじょうのちちなり、しょうあんだいしのいわく、「かれがためにあくをのぞく、すなわちこれ、かれがおやなり」と、たいだいのだいは、なんみょうほうれんげきょうなり、むみょうとは、ぎわくほうぼうなり、みずからおおうとは、ほうねん、こうぼう、じかく、ちしょう、どうりゅう、りょうかんとうの、あくびく、ほうぼうのとがを、ほしいままにおおいかくすなり。

かいしゃくこうぎ
 ここは、ゆうめいなぐうじの、たとえのところで、かねもちのむすこが、ちちをすててにげさったことをのべている。きょうもんには「たとえばひと、あって、としすでに、ようちにして、ちちをすてて、じょうぜいし、ひさしく、たこくにじゅうしてうんぬん」とある。
 もんぐのろくにいうには、「しゃ」ということは、だいじょう、すなわちいちぶつじょうのおしえから、たいてんすることであり、むみょうわくが、いのちをおおっているじょうたいを、じょうと、たとえたのであり、しょうじのくるしみにおもむくことを、ぜいといったのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しゃぶじょうぜいのちちとは、さんとおりによむことができる。ほけきょうと、しゃくそんと、にちれんだいしょうにんとである。ほけきょうはいっさいしゅじょうのちちである。このちちにそむくから、きゅうかいをさまようぼんぷとなるのである。しゃくそんはいっさいしゅじょうのちちである。このちちなるほとけに、そむいたものは、もろもろのあくどうを、りんねしたのである。
 いま、まっぽうにおいては、にちれんだいしょうにんが、ごほんぶつとして、にほんこくの、いっさいしゅじょうにたいして、ちちのとくをそなえておられるのである。しょうあんだいしは、「みんしゅうのために、ふこうのこんげんである、じゃしゅうをとりのぞいてあげるひとこそ、しんのおやである」といっているが、まっぽうにはいって、じゃしゅうをてっていてきにしゃくぶくされたのは、にちれんだいしょうにん、おひとりであったではないか。
 もんぐにいう、「たいだい」のだいとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。「むみょう」とは、ぎわくほうぼう=うたがうという、ほうぼうである。
 「みずからおおう」というのは、ほうねん、こうぼう、じかく、ちしょう、どうりゅう、りょうかんとうの、あくぼうずどもが、じぶんの、ほうぼうのざいあくを、ほしいままに、おおいかくしている、じょうたいをいうのである。

 しょうあんだいしのいわく、「かれがためにあくをのぞく、すなわちこれ、かれがおやなり」とは、ねはんきょうのちょうじゅほんのもんを、しゃくしたもんである。まえのもんは「じなくして、いつわりしたしむはこれ、かれがあだなり」といい、ともにしゃくぶくのいぎをしめしたものである。
 このおやとは、じゃしゅうにちれんしゅうのやからのいうがごとく、「しんみのとも」というような、なまやさしいものではない。べっしては、しゅししん、さんとくぐびのごほんぶつ、にちれんだいしょうにんの、しんとくであり、そうじては、しゃくぶくのじひのしょぎょうを、ふつちょくのままにおこなう、われわれは、もったいなくも、ほとけのつかいとして、このぎにかなうことを、しるべきである。しかして、しょうほうをしらず、しゃくぶくのわるくちをいうものは、いっさいしゅじょうのあだになることを、しるべきである。「るてん」とは、るてんしょうじのぎで、ろくどうりんねということと、おなじである。さんがいろくどうのせかいを、しょうじしょうじと、ふこうなすがたで、めぐることである。これいっさいしゅじょうの、ちちたるごほんぶつ、にちれんだいしょうにんの、だいぶっぽうにそむくがゆえんである。

0726    だいさん かぶぐうこんのこと

もんぐのろくにいわく、しゅつようのじゅつをえざるを、また、ぐとなし、はっくのひに、やかるるがゆえに、こんとなすと。
 おんぎくでんにいわく、しゅつようとは、なんみょうほうれんげきょうなり、じゅつとはしんじんなり。
 いま、にちれんとうのたぐい、ぐうこんを、めんりすることは、ほけきょうをじゅじし、たてまつるがゆえなり、またいわく、みょうほうにあいたてまつるときは、はっくのぼんのうのひ、じじゅゆうほうしんの、ちかと、かいかくするなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ぜんこうの「しゃぶじょうぜい」の、つづきのところで、ぐうじがちょうずるにしたがって、「かぶぐうこんし」て、しだいに、じぶんのほんごくにかえって、くるというところである。
 もんぐのろくには、しゅつりしょうじのようほうのじゅつを、えないのをぐといい、はっくのぼんのうのひにやかれるじょうたいを、こんというのである、といっている。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しゅつりしょうじのようほうとは、なんみょうほうれんげきょうのことであり、「じゅつ」とはしんじんをいみするのである。いまにちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、ぐうこんしない、ぼんのうのひに、やかれるようにならないのは、ごほんぞんを、じゅじしたてまつるがゆえである。また、なんみょうほうれんげきょうに、あいたてまつるときは、はっくのぼんのうのひが、てんじてじじゅゆうほうしん、ごほんぶつのちえの、ひとなり、さとりとなるのである。

 じんせいのもくてきが、こうふくのかくりつにあることは、とうぜんのことである。ぶっぽうでとく、じょうぶつということ、すなわちこうふくは、こらい、せいようてつがくにとく、「こうふくしゅぎ」、「こうふくろん」よりは、いちだんとふかきてつりである。げんじつのふこうのしゅくめいは、いかんともしがたいげんじょうである。そのこんぽんてきかいけつのじゅつが、さんだいひほうの、ごほんぞんによるとのおだんげんである。
 ちびょうだいしょうごんじついもくにいわく、「がんぽんのほうしょうは、ぼんてん、たいしゃくとうとあらわれ、がんぽんのむみょうは、だいろくてんのまおうと、あらわれたり」(0997-07)と。また、しぼさつぞうりゅうしょうに「にちれんは、せけんにはにほんだいいちの、まずしきものなれども、ぶっぽうをもってろんずれば、いちえんぶだいだいいちのとめるものなり」(0988-14)うんぬん。このごほんぞんに、きみょうするとき、はっくのぼんのうのひが、じじゅゆうほうしんのちかに、てんじ、すなわち、ぶっかいをこんていにして、きゅうかいに、ゆうげするきょうがいを、かくりつできうるのである。また、ひとりもぎせいにすることなく、だれびとも、しゅんかんしゅんかん、たのしみきっていける、じんせいをいききるちえのはたらき、そしてせいめいりょくを、うけることができるとのおんふみである。

  0726    だいよん しんね けこんのこと。

もんぐのろくにいわく、けをちちにやくし、こんをこにやくすと、きのろくにいわく、ちちにもけこんあり、こにもけこんありと。
 おんぎくでんにいわく、にほんこくのいっさいしゅじょうは、このごとく、にちれんはちちのごとし、ほっけふしんの、とがによつて、むげんだいじょうにおちて、かえつてにちれんをうらみん、また、にちれんもこえもおしまず、ほっけをすつべからずと、いうべきものを、りょうぜんにてくいること、これあるべきか。
 もんぐのろくにいわく、 「しんねけこんとは、。むかしつとめに、きょうしょうせず、おしうることなくして、じょうぜいせしむることを、いたすことを、くい、この、おんぎをおもわずして、われをうとんじ、ほかにしたしむるをうらむ」と。

かいしゃくこうぎ。
しんげほんの、ぐうじのたとえのつづきのところで、「ちち、つねにこをおもう。ことりべつして、ごじゅうよねん、しかも、いまだかつて、ひとにむかって、これのごときことを、とかず、ただ、みずからしゆいして、こころにけこんをいだくうんぬん」とある。
 もんぐのろくには、けこんのけとは、ちちのたちばであり、こんとは、このたちばであるといっている。もんぐのろくには、ちちにもけこんがあり、こにもけこんがあるといっている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。にほんこくのいっさいしゅじょうは、あたかも、ぐうじのようであり、にちれんだいしょうにんは、そのちちのようである。にほんこくのいっさいしゅじょうは、ごほんぞんをしんじないばつとして、むげんじごくにおちて、せっかくかれらを、すくおうと、どりょくなさっている、だいしょうにんのことを、かえってうらむであろう。また、だいしょうにんとしては、こえもおしまず、ごほんぞんをもつべきことを、おしえているのに、にほんこくのいっさいしゅじょうが、なかなかみみをかたむけないで、かってに、むげんじごくにおちてしまったことを、りょうぜんで、ほとけさまとしてのごきょうがいから、くいることがあるであろう。
 もんぐのろくに、「こころにけこんを、いだくというのは、むかし、ねんごろに、おしえなかったために、ぐうじが、にげていって、しまったことをくい、また、そのこが、ちちのおんをかんじないで、ちちをたにんあつかいし、かえって、ぐうじ、たにんとしたしんでいるのを、うらむのである」といっている。

 ふしいったい、していふにの、だいじひをおときくださっているところである。にほんこくのいっさいしゅじょうは、このごとし、にちれんはちちのごとしと。
 ほうおんしょうにいわく、「にちれんが、じひこうだいならば、なんみょうほうれんげきょうは、まんねんのほか、みらいまでもながるべし」(0329-03)うんぬん。ときどのごしょにいわく、「いっしょうむなしくすごして、ばんさいくいることなかれ」(0970-14)うんぬん。
 「このおんぎをおもわずして、われをうとんじ、ほかにしたしむるをうらむ」と。おんぎとは、ほうけんしゃかいの、おんぎではなくして、「じんじんむりょうの、ごほんぞんのおんぎである。われとは、にちれんだいしょうにんのおんことである。ほかのおやにしたしむとは、じゃしゅうじゃぎのことである。したがって、いまだしんじんなきひと、だいしょうにんよりみれば、むしろ、かわいい、こであり、ひとりおなやみぶかく、だれびとたりとも、すくってあげたいとの、だいじひと、はいすべきである。

0727    だいご むじょうほうじゅ、ふぐじとくのこと

おんぎくでんにいわく、むじょうにじゅうじゅうのしさいあり、げどうのほうにたいすれば、さんぞうきょうはむじょう、げどうのほうは、うじょうなり、またさんぞうきょうはうじょう、つうきょうはむじょう、つうきょうはうじょう、べつきょうはむじょう、.べつきょうはうじょう、えんきょうはむじょう、また、にぜんのえんはうじょう、ほっけのえんはむじょう。
 またしゃくもんのえんはうじょう、ほんもんのえんはむじょう、また、しゃくもんじゅうさんほんはうじょう、ほうべんぽんはむじょう、また、ほんもんじゅうさんほんはうじょう、いちほんにはんは、むじょう、また、てんだいだいし、しょぐの、しかんは、むじょう、げんもん、にぶは、うじょうなり。
 いま、にちれんとうのたぐいのこころは、むじょうとは、なんみょうほうれんげきょう、むじょうのなかの、ごくむじょうなり、この、みょうほうをさして、むじょうほうじゅとときたまうなり、ほうじゅとは、さんぜのしょぶつの、まんぎょうまんぜんの、しょはらみつのたからを、あつめたる、なんみょうほうれんげきょうなり。
 このむじょうほうじゅを、しんろうもなく、ぎょうこうもなく、ひとことにうけとるしんじんなり、ふぐじとくとは、これなり。
 じのじは、じっかいなり、じっかい、おのおのえるなり、しょほうじっそうこれなり、しかるあいだ、このもん、みょうかくのしゃくそん、われらしゅじょうのこつにくなり、よくよくこれをあんずべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 しんげほんにおいて、まかかしょうらの、しょうもんがじょうぶつをやくそくされ、おおいによろこび、「むじょうのほうじゅ、もとめざるに、みずからえたり」とさけんだのである。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「むじょう」といういみは、なんだんかいにも、かんがえられるのである。
 げどうとないどうの、さんぞうきょうをそうたいすれば、ないげそうたいして、げどうのほうはうじょう、すなわち、さらに、そのうえがあるおしえとなり、さんぞうきょうは、このうえない、すぐれたおしえとなるのである。また、さんぞうきょうはうじょう、つうきょうはむじょう、つうきょうはうじょう、べつきょうはむじょう、べつきょうはむじょう、えんきょうはむじょうとぞう、つう、べつ、えんのじゅんで、うじょう、むじょうということが、いえるのである。
 また、おなじくえんきょうといっても、にぜんきょうのえんと、ほけきょうのえんでは、にぜんのえんがうじょう、ほっけのえんがむじょうである。さらに、ほけきょうのえんのなかでも、しゃくもんのえんはうじょう、ほんもんのえんはむじょうという、かんけいになるのである。また、しゃくもんについていえば、しょうしゅうぶんである、ほうべんぽんはむじょうで、たのじゅうさんほんは、うじょうとなるし、ほんもんについていえば、しょうしゅうぶんのいっほんにはん、じゅりょうほんいっほんとゆじゅつほんのこうはん、ふんべつくどくほんのぜんはん、 けいいっほんにはんはむじょうで、たの、じゅうさんほんはうじょうとなるのである。
 また、てんだいだいしがひろめた、さんだいぶについていえば、まかしかんはむじょうで、たの、ほっけげんぎと、ほっけもんぐはうじょうということになるのである。いま、にちれんだいしょうにんのおこころからすれば、むじょうのほうとは、なんみょうほうれんげきょうのことであり、これは、そうたいてきなむじょうでなく、きゅうきょくのむじょうである。
 この、なんみょうほうれんげきょうをさして、むじょうほうじゅとといているのである。ほうじゅとは、さんぜのあらゆるしゅぎょう、くどくをあつめた、なんみょうほうれんげきょうなのである。
このむじょうのほうじゅを、なんのくろうもなく、しゅぎょうもせず、ただだいもくをとなえることによって、わがみにうけとる。
 すなわち、ぶっかいをゆげんさせることが、できるのは、しんじんによるのである。ゆえに、ふぐじとくというのである。じとは、じっかいをいみしているのである。じっかいがすべて、なんみょうほうれんげきょうのとうたいなのである。これを、しょほうじっそうというのである。それゆえ、かんじんのほんぞんしょうにも「みょうかくのしゃくそんは、われらがけつにくなり、いんがのくどくは、こつずいにあらずや」(0246-18)とおおせられているように、われわれのしんじんによって、ほとけのすべての、くどくをえることができるのである。

 むじょうほうじゅとは、ごほんぞんのことである。すなわち、ごほんぞんが、むじょうのたからの、あつまりなのである。ゆえにおんふみに、「いま、にちれんとうのたぐいのこころは、むじょうのなんみょうほうれんげきょう、むじょうのなかのごくむじょうなり、このみょうほうをさして、むじょうほうじゅとときたまうなり、ほうじゅとは、さんぜのしょぶつのまんぎょうまんぜんの、しょはらみつのたからをあつめたる、なんみょうほうれんげきょうなり」とおおせられているのである。
 また、きょうぎょうしょうごしょに、「このほけきょうのほんもんのかんじん、みょうほうれんげきょうは、さんぜのしょぶつの、まんぎょうまんぜんの、くどくをあつめて、ごじとなせり、このごじのうちに、あに、まんかいのくどくをおさめざらんや」(1282-10)ともおおせられている。
 このおんふみによれば、ごほんぞんには、しゃくそんが、にぜんきょうでといたくどくも、ほけきょうしゃくもんでといたくどくも、また、ほっしくどくほん、ずいきくどくほん、ふんべつくどくほんとうでとく、ほけきょうほんもんのくどくも、てんだいやでんぎょうのさとりも、また、しゃりほつやもんじゅのちえも、やくおうぼさつのよくびょうまを、こくふくするちからも、ゆぜぼさつのはたらきも、みろくぼさつのじひのちからも、さらにいえば、じっぽうさんぜの、しょぶつのまんぎょう、まんぜんのくどくが、ぐそくしているのである。ゆえに、たてには、えいえんであり、よこには、うちゅうだいのいっさいのちから、はたらきは、ことごとく、ごほんぞんにおさまっていると、かくしんすべきである。
 そして、ごほんぞんが、むじょうほうじゅであるのみならず、ごほんぞんをしんじ、ただよねんなく、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、われわれのせいめいも、むじょうほうじゅとなるのである。すなわち、われわれの、せいめいのなかに、いっさいのたからが、みちみちてくるのである。びんぼうのしゅくじゅうをもつひとも、びょうきにさいなまれ、くのうするひとも、せいめいりょくよわく、なにごとにもむきりょくになっているひとも、せいしんてきに、なやみをもつひとも、ひとたび、ごほんぞんをしんぎょうするならば、そくざに、そのひとのせいめいのうちに、むりょうのたからがみちみち、たいようが、ふたたび、ちゅうてんにのぼりゆくごとく、みらいへの、いだいなるちからは、せいめいのおうていより、こんこんとわきいずるのである。
 ゆえに、ごほんぞんをもったものは、せかいさいこうのしあわせものなのである。
ししんごほんしょうにいわく、「とう、なんじがでし、いちぶんのげなくして、ただ、ひとくちに、なんみょうほうれんげきょうとしょうする、そのくらいいかん。こたう、このひとは、ただ、しみさんきょうのごくいならびに、にぜんのえんにんにちょうかするのみにあらず、はたまた、しんごんとうのしょしゅうのがんそ、い、ごん、おん、ぞう、せん、ま、どうとうにしょうしゅつすること、ひゃくせんまんおくばいなり。こう、くにじゅうのしょにん、わがまっていとうをかろんずることなかれ、すすんでかこをたずぬれば、はちじゅうまんおくこうにくようせし、だいぼさつなり、あに、きれんいちごうのものにあらずや。しりぞいてみらいをろんずれば、はちじゅうねんのふせにちょうかして、ごじゅうのくどくをそなうべし。てんしのむつきにまとわれ、だいりゅうのはじめて、しょうずるがごとし、べつじょすることなかれ、べつじょすることなかれ」(0342-06)と。
 また、まつのどのごしょうそくにいわく、「また、ほけきょうのやくおうほんにいわく、よくこれのきょうてんを、じゅじすることらんあものも、またまたかくのごとし いっさいしゅじょうのなかにおいて、やくいだいいちとううんぬん、もんのこころは、ほけきょうをもつひとは、おとこならば、いかなるでんぷにてもそうらへ、さんがいのしゅたる、だいぼんてんおう、しゃくだいかんにん、よんだいてんのう、てんりんじょうおう、ないしかんど、にほんのこくしゅとうにもすぐれたり。
 いかにいわんや、にほんこくのだいじん、くぎょう、げんぺいのさむらい、ひゃくしょうとうにすぐれたること、もうすにおよばず、にょにんならば、きょうしかにょ、きっしょうてんにょ、かんのりふじん、ようきひとうの、むりょうむへんのいっさいのにょにんに、すぐれたりととかれてそうろう」(1378-06)と。
 つぎに、「ふぐじとく」と、いうことであるが、これは、おんふみに、「このむじょうほうじゅを、しんろうもなく、ぎょうこうもなく、ひとことに、うけとるしんじんなり」とおおせられているごとくである。じっさいには、われわれは、いったい、ごほんぞんをなんじゅうねんもかかって、もとめぬいてきたかというと、そうではない。はじめは、きもすすまず、はんしんはんぎのきもちで、にゅうしんした。そして、じっせんしてみて、はじめて、いだいなだいぶつほうであることがわかった。なんのしんろうもなく、ぎょうこうもなく、われわれは、ごほんぞんを、じゅじしてきたではないか。
 また、しんじんしたたちばからいえば、しゃかぶっぽうの、ばあいは、りゃくこうしゅぎょうであるのにたいし、にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、じゅじそくかんじんであり、じきたつしょうかんであるということである。いまの、しゅうきょうかいのげんじょうをどうみるか、なんじゅうまん、なんびゃくまんのきんせんをつぎこんで、しゅぎょうしているひともいる。さむいときに、しにものぐるいで、みずをあびて、しゅぎょうしているひともいる。かれらは、それでなんとかすくいをえよう、ただしいものをもとめようと、しているのである。ところが、われわれは、そんなろうくは、まったくひつようとしない。
 ただ、じょうしきじんちゅうの、じょうしきじんとして、こうどうしてゆけば、よいのである。たべたいときに、たべ、ねたいときにね、なんじゅうじかん、ごんぎょうするわけでもない。まことに、もったいない、ごほんぞんと、かんしゃを、わすれてはならない。ゆうしゅうなるきかいになればなるほど、じつようのときは、かんたんであり、のうりつもよいとどうように、さいこうのぶっぽうであり、てつがくであるがゆえに、しゅぎょうもかんたんであり、くどくも、ぜつだいなのである。
 また、「むじょうにじゅうじゅうのしさいあり」として、むじょうとうじょうとを、そうたいしてはんじ、さいごに、なんみょうほうれんげきょうこそ、むじょうのなかのごくむじょうであると、けつろんされているてんについて、ふれよう。およそ、もろもろのほっしょうは、しょたいにしたがって、ふどうである。そのことを、しらずして、がんめいなこうべでぶっぽうを、みようとすれば、そこに、じゅうだいなあやまりをしょうずるのである。
 たとえば、かいもくしょう、じょうに「このぶっだは、さんじゅうじょうどうより、はちじゅうごにゅうめつにいたるまで、ごじゅうねんがあいだ、いちだいのせいきょうを、ときたまへり、 いちじいちく、みな、しんごんなり、いちもんいちげ、もうごにあらず、げてん、げどうのなかの、せいけんのことばすら、いうこと、あやまりなし、こととこころと、あいあへり、いわんやぶっだは、むりょうこうごうよりの、ふもうごのひと、されば、いちだい、ごじゅうよねんのせっきょうは、げてんげどうにたいすれば、だいじょうなり、おとなのじつごなるべし、しょじょうどうのはじめより、ないおんのゆうべにいたるまで、とくところのしょせつ、みなしんじつなり。」(0188-10)とのおんふみがある。ごじゅうねんのせっぽうが、ことごとく、しんじつでありながら、なぜ、むりょうぎきょうの、とくごとく、よんじゅうよねんのきょうきょうは、みけんしんじつのおしえなのだろうか。
 これは、ぶっぽうをまなぶひとが、まずつきあたるぎもんといえよう。しかししゅうきょうひはんのげんりをしるなら、そのぎもんは、すぐにきえさるものだ。いちだいごじゅうねんのせっぽう、ことごとく、しんじつとするのは、げどうにそうたいしてのろんである。したがって、「げてんげどうにたいすれば、だいじょうなり、だいにんのじつごなるべし」と、おおせのとおりである。

 また、みけんしんじつというのは、ごんじつそうたいして、はんじたものなのである。ゆえに、かいもくしょうじょうには、「ただし、ぶっきょうにいりて、ごじゅうよねんのきょうきょう、はちまんほうぞうをかんがえたるに、しょうじょうあり、だいじょうありごんきょうあり、じつきょうあり、けんきょう、みっきょう、なんご、そご、じつご、もうご、しょうけん、じゃけんとうの、しゅじゅのさべつあり、ただし、ほけきょうばかり、きょうしゅしゃくそんの、しょうごんなり、さんぜ、じっぽうのしょぶつの、しんごんなり」(0188-14)と、おおせられているのである。
 ところが、これらの、しょたいふどうの、げんりをしらず、いたずらに、ひくいきょうもんに、しゅうちゃくするのは、いつまでも、くいをまもり、うさぎをとろうとする、おろかな、きこりとおなじであり、みずからのむち、むのうをひょうめいしている、いがいのなにものでもない。
 ほっけしゅようしょうにいわく、「いま、まつのろんし、ほんのにんしの、じゃぎをすておいて、もっぱら、ほんきょうほんろんをひきみるに、ごじゅうよねんのしょきょうのなかに、ほけきょう、だいよんほっしほんのなかの、いこんとうのさんじ、もっともだいいちなり。もろもろのろんし、もろもろのにんし、さだめて、この、きょうもんをみけるか、しかりといえども、あるいはそうじの、きょうもんにくるい、あるいはほんしの、じゃえにしゅうし、あるいはおうしんとうのきえをおそるるか。いわゆる、こんきょうみょうきょうの、「これ、しょきょうのおう」、みつごんきょうの、「いっさいきょうちゅう、しょう」、ろくはらみつきょうの、「そうじ、だいいち」だいにちきょうの、「うんが、ぼだい」。けごんきょうの、「のうしんぜきょう、さいいなん」、はんにゃきょうの、「えにゅうほっしょう、ふけんいちじ」、だいちどろんの、「はんにゃはらみつ、さいだいいち」、ねはんろんの、「こんじゃねはんり」とうなり。これらのしょもんは、ほけきょうの、いこんとうのさんじに、せそうじ、せるもんなり、しかりといえども、あるいは、ぼんたい、してんとうの、しょきょうにたいとうすれば、これ、しょきょうのおうなり。あるいは、しょうじょうきょうにそうたいすれば、しょきょうのなかのおうなり、あるいはけごん、しょうまんとうのきょうにそうたいすれば、いっさいきょうのなかにすぐれたり。まったくごじゅうよねんのだいしょう、ごんじつ、けんみつのしょきょうにそうたいして、これ、しょきょうのおうの、だいおうなるにあらず。しょせん、しょたいをみて、きょうきょうのしょうれつをわきまうべきなり」(0331-14)とうと。
 この、おんふみによれば、にぜんの々きょうきょうにも、「しょきょうのちゅうのおう」とか、「だいいちのきょうなり」という、ことばはある。しかれども、それは、あるはんいないでだいいちであり、また、それいぜんのきょうもんとそうたいして、いわれたものである。けっきょく、「いっさいきょうのなかのおう」とか、「いっさいきょうのなかでだいいっ」といういみとは、まったくちがうのである。かくのごとく、ぶっぽうでは、たえず、そうたいというだんかいを、ねんとうにおかなければ、りかいできえないのである。
 にちれんだいしょうにんの、ぶっぽうにおいても、とうじ、ねんぶつとうがひろまっていたので、しばしば、ごんじつそうたいのたちばで、おとき、なされているのである。そして、あるときは、ほけきょうにじゅうはちほんをたて、あるいは、しゃくそんをたてたり、されたばあいもある。これらのいぎをしらず、しゃくそんのぶつぞうとうをほんぞんとするが、だいしょうにんの、ほんぎであるがごとき、あやまりをおかしているのが、じゃしゅう、にちれんしゅうのじったいなのである。

0727    だいろく せそんだいおんのこと

 おんぎくでんにいわく、せそんとは、しゃくそんだいおんとは、なんみょうほうれんげきょうなり、しゃくそんのだいおんをほうぜんとおもわば、ほけきょうをじゅじすべきものなり、これすなわち、しゃくそんのごおんをほうじたてまつるなり。
 だいおんを、だいもくということは、つぎしもに、いけうじと、とく、けうのこととは、だいもくなり、このだいおんの、みょうほうれんげきょうを、よんじゅうよねんのあいだ、ひしたまいてのち、はちかねんにだいおんをひらきたまうなり。
 もんぐのいっにいわく、「ほうおう、うんをひらく」と、うんとは、だいおんのみょうほうれんげきょうなりうんぬん、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつりて、にほんこくのいっさいしゅじょうを、たすけんとおもうは、あに、せそんのだいおんにあらずや。しょうあんだいし、じゅっしゅのおんを、あげたりしなり、だいいちには、じひとうもつのおん、だいにには、さいしょげしゅのおん、だいさんには、ちゅうげんずいちくのおん、だいよんには、おんとくじせつのおん、だいごには、ろくおんせしょうのおん、だいろくには、ちしょうぼだいのおん、。だいななには、りょうち、けぎょうのおん、だいはちには、ふしけつじょうのおん、だいきゅうにはけとくあんのんのおん、だいじゅうには、げんゆうりたのおんなり。
 このじゅうおん、すなわち、えざしつのさんきなりとうんぬん、 きのろくにいわく、「しゅくみょうややさけて、なおいまだ、ふえいせず、ちょうおんのおん、いかによりてか、ほうずべき」と、0728。
 またいわく、「ちゅうけは、ただ、ものとして、せをてんちにこたえず、ことしてしょうをふぼにしゃせず、かんほう、ここにもうするをもってなり、といえり」。ふしょうきのろくにいわく、「ものは、せをてんちにこたえずとは、いわく、ものはてんちによりて、しょうずといえども、しかもてんちのたくをほうずといわず、こもまた、かくのごとし」と。
 きのろくにいわく、「いわんや、また、ただ、われをして、ほうせもうしむるによる、このおん、ほうじがたきをや」と。ふしょうきにいわく、「しえんりょうがほうもうとは、こころにいわく、ただ、にょらいのしょうもんをして、ひとしくもうほうのりを、えせしむるによるなり、りはいわく、いちだいねはんなり」と。
 おんぎくでんにいわく、かくのごとく、じゅうじゅうのしょしゃく、これありといえども、しょせん、なんみょうほうれんげきょうのげしゅなり、げしゅのゆえに、にょえいずいぎょうしたまうなり、いま、にちれんも、かくのごときなり、みょうほうれんげきょうを、にほんこくのいっさいしゅじょうとうに、あたえさずくる、あに、しゃくそんのじゅうおんにあらずや。
 じゅうおんは、すなわち、えざしつのさんきなりとは、だいいち、だいに、だいさんは、だいじいしつの、ごおんなり、だいよん、だいご、だいろく、だいななは、にゅうわにんにくえのおんなり、だいはち、だいきゅう、だいじゅうは、しょほうくういざのおんなり、だいろくの、ちしょうぼだいのおんを、きのろくにいわく、「ゆえに、とんののちに、おいて、すなわち、しょうけをたれ、だんしゃくとうたし、ついちんたんれんす」と。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、よんだいしょうもんのいちにんである、まかかしょうが、ほとけのだいおんを、さんたんしているところである。「せそんは、だいおんまします、けうのことをもって、れんびんきょうけして、われらをりやくしたもう。むりょうおっこうにも、だれかよく、ほうずるものあらん」と。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。せそんとはほとけのことであり、だいおんとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。ほとけのだいおんをかんじ、それにむくいようとおもうならば、ほけきょうをじゅじすべきである。
 これが、すなわち、ほとけのごおんを、ほうじたてまつることに、なるのである。だいおんを、だいもくというわけは、つぎに、「けうのことをもって」と、だいおんのないようをせつめいしているが、そのけうのこととは、なんみょうほうれんげきょうのことだからである。
 ほとけは、このだいおんの、みょうほうれんげきょうを、よんじゅうよねんかんは、とかず、さいごのはちヵねんに、といたのである。もんぐのいちに、「ほうおううんをひらく」といっているのも、おなじしゅしで、ほうおうとは、ほとけ、うんとは、
 だいおんのみょうほうれんげきょうのことである。いままっぽうにおいて、にちれんだいしょうにんが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつって、にほんこくの、ぜんみんしゅうを、ふこうからすくおうとしているのは、せそんがだいおんをほどこすすがたではないか。
てんだいのでしのしょうあんだいしは、このだいおんということをじゅうしゅにぶんせきしている。
だいいちにじひとうしゃのおん  これは、ほとけのじひはものにまでとどまるということで、じひのこうだいさをしめしたものである。
だいににさいしょげしゅのおん  さいしょ、ちゅうげん、こんにちとわけたいみでのさいしょで、しゃくもんのこころではさんぜんじんでんこう、ほんもんのこころでは、ごひゃくじんでんこうをさす。
だいさんにちゅうげんだすいのおん  さいしょげしゅから、こんにちまでのかんであり、そのかんになんかいもしゅつげんして、しだいにしゅじょうのきこんをじゅくしていったこと。
だいよんにいんとくしせつのおん  もともとほとけであるにもかかわらず、インドにおいてしゅぎょうしてほとけになったと、とくをかくして、つたないすがたをしめしたこと。
だいごにろくおんせしょうのおん  ろくやおんということで、しょうじょうきょうをといてしゅじょうをゆういんしたこと。
だいろくに、ちしょうぼだいのおん  しょうじょうきょうにしゅうちゃくすることをちとさせ、だいじょうきょうをねがわしめたこと。すなわちほうとうぶのおしえをといたこと。
だいななにりょうちけぎょうのおん  りょうちけぎょうとは、しんげほんのぐうじのたとえのなかで、ちちのちょうじゃ、そのいっさいの、かざいをぐうじにしらしめることで、じつは、はんにゃぶのおしえをといたことをいみする。
だいはちにふしけっじょうのおん  ふしけっじょうとは、おなじくぐうじのたとえで、ぐうじがちょうじゃのこであることをさとったことをいみする。
 すなわち、ほけきょうによって、いっさいしゅじょうがじょうぶつのきべつを、あたえられたことをいみする。
だいきゅうに、けとくあんのんのおん  ひゆほんに「しんにたいねん、けとくあんのん」とあり、しゅじょうがじょうぶつのきをうけてしんにかんきしえたこと。
だいじゅうに、げんゆうりたのおん  しゅじょうが、すすんで、たのしゅじょうをりやくすることができるようになったこと。
 このじゅうおんはえざしつのさんきにあたるのである。
 ほっけもんぐきろくには、「くおんに、げしゅされたぶつしゅは、ややわれて、めばえようとしているが、まださかえるにはいたっていない。ちょうおんの、おんを、なにによってほうずることができようか」といっている。
 また、「ちゅうしゃくは、ただ、ものとしてせをてんちにこたえず、ことしてしょうを、ふぼにしゃせず。かんほう、ここにもうすをもってなり、といった」といっている。
 どうせんの、ほっけ、てんだいもんぐふしょうきのろくに、このもんをせつめいして、「ものはせをてんちにこたえずということは、ものはてんちによって、しょうずるけれども、そのてんちのめぐみにたいして、ほうおんしようとしない。ひとのこもまたどうようである」と、いっている。
 ほとけのだいおんは、ほうじがたいということを、たとえたものである。さらにきのろくには、「いわんや、また、ただ、われをして、ほうもうせしむる、よるこのおんほうじ、かたきをや」といっている。ふしょうきに、このもんをせつめいし、「ただ、われをして、ほうもうせしむるに、よるとは、ほとけが、しょうもんをひとしく、いちだいねはんのきょうちにいたらしめたということは、ぜったいにほうずることのできないおんである」といっている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このように、じゅう々じゅうのかいしゃくがあるけれども、つまるところの、なんみょうほうれんげきょうのげしゅの、だいおんということである。げしゅのゆえに、かげのかたちにしたがうがごとく、なんみょうほうれんげきょうのもとにしたがっていくのである。いま、まっぽうにおいて、にちれんだいしょうにんが、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょうをいっさいしゅじょうに、おあたえくださったことは、しゃくそんの、じゅうおんにあたるのである。
 しょうあんだいしが、じゅうおんのえざしつのさんきに、なるといったのは、ほっしほんに、「この、ぜんなんし、ぜんにょにんは、にょらいのしつにはいり、にょらいのころもをちゃく、にょらいのざにざして、そして、ないし、ししゅうのためにひろく、このきょうをとくべし。にょらいのしつとは、いっさいしゅじょうの、だいじひしん、これなり。にょらいのころもとは、にゅうわにんにくのこころ、これなり、にょらいのざとは、いっさいほうくう、これなり」とあり。おんぎくでんには「ころもとは、にゅうわにんにくのころも、とうちょにんにく、にゅうわにんにくがい、これなり。ざとは、ふしゃくしんみょうの、しゅぎょうなればくうざに、ごするなり、しつとは、じひにじゅうして、ひろむるゆえなり、ははのこをおもうがごとくなり」とあり。じゅうおんのだいいち、だいに、だいさんはだいじいしつの、ごおんにあたり、だいよん、だいご、だいろく、だいななは、にゅうわにんにくの、ごおんにあたり。だいはち、だいきゅう、だいじゅうは、しょほうくういざにあたるのである。だいろくのちしょうぼだいのおんについて、きのろくには、「ゆえに、とん=とんきょうである、ほけきょうをといたあとで、しょうけ=あごんきょうをとき、つぎに、だんしゃくとうたし、ほうとうぶのきょうをとき、ツチやヌタでうつように、しゅじょうのきこんを、ととのえていったのである」といっている。

 おんについては、われわれのほうずべきものに、しおんがある。いちにはいっさいしゅじょうのおん、ににはふぼのおん、さんにはこくおうのおん、よんには、さんぽうのおんである。
 さいきんでは、あまりおんについて、やかましくいわれていない。しかし、にんげんのこんぽんりんりとして、ぼうおんでよいとは、けっしていえぬとおもう。もしぼうおんでよいとなれば、しゃかいにあっては、じゃくにくきょうしょくの、ちくしょうどうにおちいり、かていにあっては、まったく、うるおいのない、つめたいふこうなかていに、しゅうしせざるをえなかろう。したがって、にちれんだいしょうにんは、ほうおんしょうに、「ろうこは、つかをあとにせず、はくきはもうほうがおんをほうず、ちくしょうすらかくのごとし、いわうやじんりんをや」(0293-01)とおんをほうずべき、ひつようせいを、きょうちょうあそばされている。しかし、しんじつのほうおんのりも、しょうほうに、よらなければならないともいえる。
 げんだいしゃかいにおいては、ふこうなことに、ぜんあくのきじゅんすらない。めいかくでなくなっている。りんりのはいたいは、まことにかなしむべきことである。そのみちとして、なによりもまず、さんぽうのしんずいをしることである。まっぽう、こんにちのしょうほうたる、さんだいひほうのごほんぞんのいわれを、つよくしることに、つきるのである。そして、しんぎょうにすすみゆくことが、いっさいのおんをほうずるこんぽんになるのである。にちれんだいしょうにんの、ごせいくんどおりに、じぎょうけたにわたる、じっせんこそが、ふぼのため、ほうのため、しゅじょうのため、しゃかいのためにも、さいだいなるほうおんになっているのである。

  • [233]
  • 御義口伝講義録上 ひゆほんきゅうかのだいじ だいはち ゆいう、いちもんのこと 8から9まで 3/3

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 5月28日(日)16時45分58秒
  • 編集済
 
0724    だいはち ゆいう、いちもんのこと。

 もんぐのごにいわく、ゆいういちもんとは、かみの、いしゅじゅほうもん、せんじおぶつどうに、たとう、もんに、また、ふたつあり、たくもんとしゃもんとなり、たくとはしょうじなり、もんとはいずるようろなり、 これは、ほうべんきょうのせんなり、しゃとはだいじょうのほうなり、もんとはえんきょうのせんなりと。
 おんぎくでんにいわく、いちもんとは、ほけきょうのしんじんなり、しゃとは、ほけきょうなり、ごとはなんみょうほうれんげきょうなり、たくとはぼんのうなり、じしんほうしょうのだいちを、しょうじしょうじと、めぐりいくなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ひゆほんの、ゆうめいなさんしゃかたくのたとえの、さいしょのところである。「しゃりほつ、もし、こくおおじゅらくの、だいちょうじゃあらん。そのとし、すいまいして、ざいふむりょうなり。おおく、たたくおよび、もろもろのどうぼくあり。そのいえ、こうだいにして、ゆいいちもんあり」と。
 もんぐのごには、つぎのようにのべている。ゆいいちもんありというのは、ほうべんぽんに「しゅじゅのほうもんをもって、ぶつどうをせんじす」の、もんをたとえて、ぶつどうこそ、さいこうであり、ゆいいつであることを、のべているのである。もんにまた、ふたつがある。たくのもんとしゃのもんとである。たくとはしょうじ、くのうのせいかつをいみし、たくもんとは、そのせいかつからでる、ようろをいみする。これは、ほうべんごんきょうのきゅうきょくである。しゃとはだいじょうのほうをいい、しゃもんとはえんきょうのきゅうきょくをいみする。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。いちもんとはほけきょうのしんじんのことであり、しゃとはほけきょう、だいびゃくごしゃの、ごとは、なんみょうほうれんげきょうである。また、たくとは、ぼんのうをいみする。じしんほうしょうのだいちとは、じょうぶつという。えいえんのせいめいを、かくちした、ぜったいのこうふくきょうがいであり、しょうじしょうじと、めぐりいくとは、そのえいえんの、こうふくきょうがいのうえにたって、いっさいのせいかつをしていくことである。

 いちもんとは、ほけきょうのしんじんなり。
 じんせいのきゅうきょくのもくてきは、はかせになることでもなく、せいじか、じつぎょうか、きょういくしゃになるだけがもくてきでもけっしてない。だいぶっぽうによって、えいえんのせいめいをえとくし、えいえんにぜったいのこうふくきょうがいを、じして、かちそうぞうしていくことにある。そのかくりつは、まっぽうのほけきょうをしんじんするいがいにない、とのことばであられる。しんじんとは、げんだいごで、ひとくちにいうならば、じっせんということになるとおもう。ぎょうたいそくしんじんともいわれている。
 くるまとは、ほけきょうなり、ごとは、なんみょうほうれんげきょうなり。
 「くるまとはほけきょうなり」とは、ごほんぞんは、けんなんなるやまには、つえとなり、ししてめいどのともしびとなり、さんずのかわには、ふねとなるごとく、われらのこうぼう、せいすい、るてんきわまりなき、げんじつのしゃかいにおいては、けんごな、そしてじゆうじざいの、くるまであると、たたえておられるわけである。「ごとは、なんみょうほうれんげきょうなり」とは、にんほんぞんともはいせる。「たくとはぼんのうなり」とは、ぼんのうそくぼだいの、せいかつをいみしているところである。

 じしんほっしょうのだいちを、しょうじしょうじとめぐりいくなり。
 このおんふみは、せいめいのえいえんをといておられる。だれひとが、ひていしようが、うたがおうが、せいめいのえいえんは、げんぜんたるじじつなりと、しめされておられる。かみがにんげんをつくったのでもなく、こんぜのみで、にんげんのせいめいがきえてなくなるものでもなく、いんがのりほうにより、むしむしゅうに、さんじんじょうじゅうするのが、せいめいのほんしつである。
 また、われわれのせいかつに、やくしていえば、きょうおうどのごへんじの「いかなるところにて、あそび、たはふるとも、つつがあるべからず、ゆぎょうしておそれなきこと、ししおうのごとくなるべし」(1124-09)といういみである。
 こうふくというものは、ぜったいに、じぶんじしんできずいていくものである。ひとからあたえられるものではない。ひとからあたえられたものは、くずれてしまう。いつ、たよるおやがしに、おっとがしぬかわからない。
 げんじつは、あまりにもきびしい、またじだいがかわって、どれだけのひとが、ふこうになったか、ぜんぶ、じぶんじしんのちから、じぶんじしんのちえ、じぶんじしんのふくうん、それがだいいちぎのもんだいとなるのである。
 そして、ふくうん、ちえともに、なんみょうほうれんげきょうによって、えられるのである。すなわち、じぶんじしんが、さいこうどにじたいけんしょうして、ゆうゆうとちからづよく、たたかいいきていける、ほんげんりょくはなにか、そのげんせんは、ごほんぞんしかないということである。それが「じしんほっしょうのだいち」といういみである。

0724    だいきゅう こんし、さんがいとうのこと

 もんぐのごにいわく、つぎに、こんしさんがいより、しも、だいにに、いっぎょうはんは、かみの、しょけん、しょしゅじょうい、しょうろうびょうし、ししょ、しょうしゃを、じゅして、だいにのしょけん、ひのたとえをがっす、ゆいがいちにんより、しも、だいさんに、はんげは、かみの、ぶっけんしい、べんさぜねんを、じゅして、きょうにゅうかたくを、がっするなりと。
 おんぎくでんにいわく、このもんは、いちねんさんぜんのもんなり、いちねんさんぜんのほうもんは、しゃくもんには、しょういんにせんのせけんをあかし、ほんもんには、こくどせけんをあかすなり、また、いわく、こんしさんがいのもんは、こくどせけんなり、ごちゅうしゅじょうのもんは、ごおんせけんなり、にこんししょたしょげんなんゆいがいちにん、のもんは、しゅじょうせけんなり、またいわく、こんしさんがいは、ほっしんにょらいなり、ごちゅうしゅじょうしっぜごしは、ほうしんにょらいなり、にこんししょとうは、おうじんにょらいなり、0725。

かいしゃくこうぎ
 ここは、ゆうめいな「にょらいはすでに、さんがいのかたくをはなれて、じゃくねんとしてかんきょし、りんやにあんしょせり」。
 「いま、このさんがいは、みなこれ、わがうなり、そのなかのしゅじょうは、ことごとくこれ、わがこなり、しかも、いま、このところはもろもろのげんなんおおし、ただわれ、いちにんのみ、よくくごをなす」、ところである。
 もんぐのごに、じゅごうちょうじゃひひの、だいにのしょけんにあたる、「こんしのさんがい・・・もろもろのげんなんおおし」の、いっぎょうはんのげは、ひゆほんのまえのほうにある、「もろもろのしゅじょうをみるに、しょうろうびょうしに、しょうしゃせらる」の、ちょうぎょうのもんを、げとしてしょうして、だいにのしょけん、ひのたとえを、ほっせつとがっして、といていたのである。
 おなじく、だいさんのしょけんにある、「ただ、われいちにんのみ、よくくごをなす」の、はんげのもんは、ひゆほんのまえのほうにある、「ほとけ、これをみおわって、すなわち、このねんをなさく」の、ちょうぎょうのもんをしょうして、きょうにゅうかたくのたとえを、ほうせつとしがって、といているのであると。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんは、いちねんさんぜんを、あらわしているのである。いちねんさんぜんのほうもんは、ほけきょうしゃくもんで、しゅじょうせけん、ごおんせけんのにせんのせけんを、あきらかにし、ほんもんでこくどせけんを、あきらかにしているのである。
 また、つぎのようにも、とることができる。すなわち、こんしさんがいのもんは、こくどせけんであり、ごちゅうしゅじょうのもんは、ごおんせけんであり、にこんししょたしょげんなん、ゆいがいちにんは、しゅじょうせけんである。
 また、ほっぽうおうのさんじんに、あてはめれば、こんしさんがいはほうじんにょらい、ごちゅうしゅじょうしっぜごしは、ほうじんにょらい、にこんししょとうのもんは、おうじんにょらいとなるのである。

 この「こんしさんがい」のもんを、はいするたびにおもうことは、このちきゅう、うちゅうは、いったいだれのものか、ということである。
 このきょうもんより、すいするならば、アメリカや、ロシアや、ちゅうごく、フランスとうのせかいのきょうこくのしどうしゃだけのものではない。しゅししんのさんとくをおもちの、ごほんぶつのものであるといえる。こくじんも、おうしょくじんしゅも、はくじんも、ごほんぞんよりみれば、みなおなじであり、こどもである。
 にちれんだいしょうにんのじひは、びょうどうだいえであられる。にほんじん、ちゅうごくじん、アメリカじん、アフリカじんとうとうにたいするじひは、まったくおなじである。このぶっぽうによってのみ、ぜんせかいのこっきょうをのぞくことができるこんぽんりねんなることは、めいはくであろう。いんしゅうづよきにほんでも、げんじつにいっせんまんひとちかいひとびとの、しあわせなこうりゅうをみている。
 かいがいにある。ごまんせたいいじょうのかっこくのひとびとも、たがいにこうりゅうして、たのしくしんじんにはげんでいる。 このげんじつは、みらいの、こっきょうなきせかいへいわのしゅくずともいえる。
 ふしいったい、していふにが、ぶっぽうのげんりであるから、にちれんだいしょうにんのごきんげんを、しゅじょうがそのままじっせんしたときこそ、ぶっこくどすなわち、りそうきょうができうるのである。そのだいいっぽを、わがそうかがっかいは、じじつのうえに、しょうめいしているわけである。
 つぎに、いちねんさんぜんのほうもんは、しゃくもんにおいてはしゅじょうせけん、ごおんせけんの、にせんをあかしている。ほんもんにおいては、さらに、こくどせけんをもあかしている。とだじょうせいぜんかいちょうは、げんだいかがくで、このさんせけんをろんずるならば、ほうりつ、けいざい、しゃかいがくとうが、しゅじょうせけんのがくもんといえよう。でんき、かがく、ぶつり、すうがくとうはこくどせけんのがくもんである。



  • [232]
  • 御義口伝講義録上 ひゆほんきゅうかのだいじ だいよん とくぶっぽうぶんのこと 2/3

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 5月28日(日)11時43分41秒
  • 編集済
 
0723    だいよん とくぶっぽうぶんのこと

 おんぎくでんにいわく、ぶっぽうのぶんとは、しょじゅういちぶのちゅうどうを、いうなり、しゃくもん、しょじゅう、ほんもん、にじゅういじょうということは、このぶんのじより、おこるなり、しょせん、このぶんのいちじは、いちねんさんぜんのほうもんなり、そのゆえは、じごくはじごくのぶんで、ぶっかをあかし、ないし、さんぜんのしょほう、おのおののとうたいのぶんで、ぶっかをしょうしたるなり、しんじつのわれらがそくしんじょうぶつなり。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなうるぶんで、ぶっかをあかしたるなり、ぶんとは、ごんきょうはむとくどう、ほけきょうはじょうぶつと、わかつとこころえべきなり、またいわく、ぶんとはほんもんじゅりょうほんのこころなり、おのおのほんぶんのぶんなり、そうじて、しゃくもん、しょじゅうぶんしょうというは、きょうそうなり、しんじつは、しょじゅうぶんしょうのところにて、いちきょうはきわまりたるなり。

かいしゃくこうぎ
 ここは、ぜんこうの「しんいたいねん、けとくあんらく」のつぎの「きょう、すなわち、しんぬ。しんに、これぶっしなり。ほとけのくちよりしょうじ、ほうけよりしょうじて、ぶっぽうをえたり」とあるところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 この「ぶっぽうのぶん」とは、しゃりほつが、しゃくもんのかいさんけんいちのせっぽうにおいて、ちゅうどうのさとりのいちぶをえて、しょじゅうのくらいにのぼったということである。しゃくもんにおいてしょじゅうのくらい、ほんもん、かいごんけんのんにらいしして、にじゅういじょうのくらいということは、このひゆほんにおいて、「ぶっぽうのぶんをえたり」ということから、ふんべつされているのである。
 しょせん、このぶんのいちじは、ちゅうどう、いちねんさんぜんのことである。そのゆえは、じごくはじごくのとうたいのぶんざいにおいて、ぶっかをしょうとくするのであり、かように、さんぜんのしょほうは、すべて、おのおののとうたいのぶんにおいて、ぶっかをしょうとくしたのである。
 これこそ、しんじつのわれらの、そくしんじょうぶつなのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、なんみょうほうれんげきょうととなえるとき、そのとうたいのぶんにおいて、ぶっかをしょうとくしたのである。これこそ、しんじつのわれらのそくしんじょうぶつなのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、なんみょうほうれんげきょうととなえるとき、そのとうたいのぶんにおいて、ぶっかをじょうずる、そくしんじょうぶつするのである。
 また「ぶん」とは、ほうべんごんきょうは、むとくどう、なんみょうほうれんげきょうによってのみ、じょうぶつできるのであると、きびしくふんべつすることを、こころえるべきである。
 また、「ぶん」とは、ほんもんじゅりょうほんの、もんていにひしんされたる、なんみょうほうれんげきょうのことである。おのおのほんぶんのぶんという、いみになるのである。
 そうじて、しゃくもんのしょじゅういにおいて、いちぶんのしょうとくというのは、もんじょうきょうそうのしょだんであり、しんじつのもんていかんじんのこころでは、ほんにん、しょじゅういにおいて、みょうほうれんげきょうの、きゅうきょくのさとりを、えるのである。

 「ぶっぽうのぶんをえたり」とあるが、しゃりほつは、りゃくかいさんけんいちにおいては、しょじゅうのきょうがい、みょうほうれんげきょうの、いちぶんのきょうがいをえたとされている。しゃくもんにおいては、しょじゅうのきょうがいをえ、ほんもんにおいて、にじゅう、ないし、とうかく、みょうかくとのぼっていくのである。
 したがって、しゃかぶっぽうでは、たとえそれが、ほけきょうであっても、しだいにくらいがのぼって、ほとけになるというかんがえかたが、しはいてきである。たしかに、ほけきょうしゃくもんでは、にぜんきょうのかんがえかたをうちやぶって、いっさいしゅじょうに、ことごとくぶっしょうのあることを、ときあかしている。そして、いままで、ようふじょうぶつとされていたにじょうに、こう、こく、みょうごうのきべつをさずけている。
 しかし、これは、あくまでもみらいにおける、じょうぶつをやくそくしたのであって、じょうぶつのかのうせいをといたまでである。
 すなわち、いっさいしゅじょうのしんちゅうには、もともと、ぶっしょうがあるというげんりをときあかしたにすぎない。そして、げんじつにぶっかをしょうとくするには、にじゅう、さんじゅう、じゅうじゅう…じゅっち、とうかくとしょうしんしていくいがいにないとされ、それは、ほんもんじゅりょうほんによって、しょうとくすることをといている。
 しかも、きょうもんのめんにも、またてんだいだいしも、しょもんにも、とうかくいまでしか、といていないのである。これはしゃかぶっぽうでは、いまだ、ほとけのきょうがいというものが、りゃくこうしゅぎょうして、ようやくとうたつできる、とくべつのきょうがいとされているからである。
 したがって、ほけきょうに、じっかいごぐがとかれているというのも、そくしんじょうぶつがあかされているというのも、またほけきょうにきて、じきたつしょうかんが、とかれているというのも、ひとつは、にぜんきょうに、そうたいしていっているのであり、もうひとつには、にちれんだいしょうにんの、ぶっぽうのたちばからはんじて、そのようにおおせられているのである。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「いわゆる、いちおうこれをみるときは、くしゅをもって、げしゅとなし、だいつうぜんしみ、しゃくもんをじゅくとなして、ほんもんにいたつて、とうみょうにのぼらしむ」(0249-15)と。
 これにたいして、にちかんしょうにんのもんだんには、とだじょうせいせんせいのかいせつによれば、つぎのようになる。
 「このおんふみは、しゃかざいせの、しょうしゅうをいちおうとして、あかされているのであって、ほけきょう、ほんもんじゅうよんほんを、みるときは、ごひゃくじんでんこう、すなわちくおんにおいて、げしゅをうけたやからが、だいつうちしょうぶつにあい、あるいは、じゅうろくのおうじにけちえんし、また、ほけきょういぜんの、あごん、ほうとう、はんにゃ、けごんとうの、ぜんしみをちょうもんし、あるいはしゃくもんにいたって、くおんのげしゅが、だんだんとじゅくしてきて、ほんもんにいたって、とうかくのくらいにのぼったのである。
 もんじょうのこころとしては、ほんもんはただとうかくに、のぼっただけのりやくであったが、もんていのまなこ、あけてみれば、『とうかくいってん、みょうじみょうかく』して、みょうじみょうかくのくらいにのぼられたのである。
 とうしょうがくを、じょうじたほとけが、くおんのげしゅを、かんとくし、くおんいらいの、していのちぎりをかくごして、そのほっしんが、みな、じのいちねんさんぜん、なんみょうほうれんげきょうにあったことを、しって、ただちに、みょうじみょうかくのくらいをじょうじたのである。
ゆえに、ほんもんにいたって、とうみょうにのぼらせしむるとおおせである」。
 このもんだんのなかに、「もんていのまなこ、あけてみれば、『とうかくいってん、みょうじみょうかく』と、みょうじみょうかくのくらいに、のぼられたのである」とあるが、これによれば、しゃかぶっぽうのはんいでは、しんじつのそくしんじょうぶつはない。あくまでも、だいしょうにんのぶっぽうによって、はじめて、じじつのうえに、そくしんじょうぶつ、じきたつしょうかんが、あかされているといえるのである。ゆえに、しゃくそんざいせのしゅじょうが、みょうかくいすなわちぶっかいのくらいに、のぼったというのは、だいしょうにんのぶっぽうによって、はんじて、そのようにいえるのである。
 とうかくいってん、みょうじみょうかくというのは、しゃくそんのほけきょうでは、とうかくいまでしかといていないし、そのくらいまでしか、いかないのである。なぜなら、さんぜじっぽうのしょぶつ、ことごとく、なんみょうほうれんげきょうによって、みょうかくのほとけになるのであって、それをとかない、ほけきょうでは、とうかくいまでのぼるとしか、いいようがないのである。しかし、とうかくいまでいけば、いってんしてなんみょうほうれんげきょうが、わかるのである。しぜんにゆげんするとまでいいえようか。
 ちょうど、しなのまちのえきまで、おそわってくれば、あそこが、がっかいほんぶだとわかるようなものである。そのばあい、しなのまちのえきがとうかくで、ほんぶがみょうかくである。しなのまちのえきまでおしえるのが、しゃかぶっぽう、ほんぶをちょくせつおしえてくれるのが、だいしょうにんのぶっぽうなのである。
 または、だいがくまでいかせるのが、しゃかぶっぽうであり、だいがくをそつぎょうするということは、にんしきのくんれん、じんかくのけいせいをおこない、しゃかいじんとして、しゃかいにこうけんできる、じんざいをつくるということである。それをぜんぶふくめて、すぐさましゃかいじんとして、しゃかいのもこうけんでき、じんるいにもこうけんでき、じぶんじしんも、ゆうゆうとかちそうぞうしていくことを、ちょくせつにおしえるのが、だいしょうにんのぶっぽうである。
 だいがくまでいっても、さまざまながくもんを、おそわり、いってんして、りっぱなしゃかいじんとしてたつことが、とうかくいってん、みょうじみょうかくのれいともいえよう。

 しんじつは、しょじゅうぶんしょうのところにて、いっきょうのきわまりたるなり。
 にちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうに、かいもくしょうの、「いちねんさんぜんのほうもんは、ただ、ほけきょうのほんもん、じゅりょうほんのもんのそこに、しづめたり、りゅうじゅ、てんじん、しつてしかも、いまだ、ひろいいださず、ただ、わがてんだいちしゃのみ、これをいだけり」(0189-02)のもんをうけて、いったい、どのもんていなのかを、のべられて、「ひらいて、よく、これをしんぜよ、これ、おくたくにあらず、しのいわく、『ほんにんしょじゅうの、もんていに、くおんみょうじのみょうほう、じのいちねんさんぜんを、ひちんしたまえり』うんぬん、まさにしるべし、々のちのちのくらいにのぼるは、まえまえのぎょうに、よるなりうんぬん」ととかれている。
 しょじゅうとは、ふたいてんのくらいである。しゃくそんは、じぶんがほとけになるまえに、ぼさつどうをぎょうじたのだとといている。いわゆるじゅりょうほんの、「がほんぎょうぼさつどう」のもんである。そのがほんぎょうぼさつどうの、しょじゅうのとき、すでに、ふたいのけついがかたまり、ほとけになることが、けっじょうされているのである。
 では、いったい、そのしょじゅうにのぼるげんせんのりきは、なんであったか。こうなると、もはや、しゃかぶっぽうではせつめいできない。しょじゅうから、ほとけになるかていは、いちおう、しゃかぶっぽうでせつめいしえても、いったい、いかなるほとけにあい、なにをたいしょうに、しょじゅうにのぼることができたのかを、せつめいできない。これこそ、そのげんせんは、なんみょうほうれんげきょうであり、くおんがんじょ、じじゅゆうほうしんにょらいであることを、だいしょうにんのぶっぽうによって、しりうるのである。
 ゆえにせんじしょうもんだんにいわく、「ごひゃくじんでんこうは、ほんがのしょしょうなり、ぶばいじょうすうは、ほんにんのしょじゅうなり、やくばいじょうすうの、とうしょは、ほんにんのしょしょうのみょうほうなり」と。この、「ほんにんのしょしょう」とは、なんみょうほうれんげきょうである。このように、ほんにんしょじゅうのもんていに、じのいちねんさんぜんの、なんみょうほうれんげきょうがひちんしているがゆえに、「じつしんは、しょじゅうぶんしょうのところにて、いっきょうはきわまりたるなり」と、おおせられているのである。
 しょじゅうとは、いまでいえば、ぜったいにたいてんしないというけついであり、しんじんとなろう。しんにごほんぞんをぜったいなりとかくしんし、いっしょうがい、ごほんぞんをたもちぬこう。こうせんるふにむかってすすんでいこうとけついしたときに、すでに、ぜったいにくずれることのなき、こうふくきょうがいが、そのいちねんのせいめいのなかにきずかれていくのである。
 これが、「いっきょうは、きわまりたるなり」のいみである。そこには、いっさいのくどくが、うんじゅうしてくることは、ぜったいである。わがいちねんのせいめいに、みょうほうのきょうがいがあらわれれば、のちは、てんだいの「もうけいをさぐるに、まなことして、うごかざること、むきがごとし」のせつのごとく、いっさいのふくうん、いっさいのみらいのかほうは、ぜんぶ、そこにふくまれるのである。
 ゆえに、むしもちごしょにいわく、「いま、にほんこくのほけきょうを、かたきとして、わざわいをせんりのそとより、まねきよせぬ、これをもつてをもうに、いままた、ほけきょうをしんずるひとは、さいわいを、ばんりのそとよりあつむべし」(1492-07)と。

0723    だいろく いちじぐさのこと

おんぎくでんにいわく、いちじとは、まっぽうのいちじなり、ぐさとは、なんみょうほうれんげきょうなり、ぐとはひっきょうじゅういっじょうなり、いま、にちれんとうのたぐいの、しょさには、だいもくのごじなり、よぎょうをまじえざるなり、またいわく、じっかいのごごんは、いっぺんのだいもくをぐさしたり、これあにかんのうにあらずや。0724

かいしゃくこうぎ
 これは、ぜんこうの、「にじえてん」のつぎに、「しょてんのぎがく、ひゃくせんまんしゅ、こくうのなかにおいて、いちじにぐをなし、しゅのてんげを、ふらして…」とあるところの、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである。
 いちじとは、まっぽうのことをさしているのである。ぐさとは、なんみょうほうれんげきょうをいうのである。そして「ぐ」というのは、じんりきほんの「ひっきょうじゅういっじょうのもんに、あたるのである。すなわち、「ともに」というのは、まっぽう、こうせんるふのときに、おいて、すべて、ただ、なんみょうほうれんげきょうのいっぽうによって、じょうぶつするのである。
 いま、にちれんだいしょうにんそのもんかのしょさは、すべて、なんみょうほうれんげきょうをちゅうしんとして、いっさいのよぎょうは、まじえないということである。またおおせられるには、じっかいの、しんらばんしょうのげんごというものは、いっぺんのだいもく、なんみょうほうれんげきょうを、こんていとしているのである。したがって、われわれのだいもくというものは、だいうちゅうに、へんまんし、かんのうしていくのである。

 「いちじ」とは、ごぜんいちじとか、ごぜんにじとかいう、いちじではない。ぶっぽうのばあいの、いちじとは、ひゆほんの「いちじぐさ」をさし、ここでは、まっぽうということなのである。まっぽうにおいて、ぜんみんしゅうは、ごほんぶつのしゅつげんをたいぼうし、それにおうじた、にちれんだいしょうにんがしゅつげんされ、なんみょうほうれんげきょうが、るふされるからである。
 「ひっきょうじゅういっじょう」のひっきょうとは、こうせんるふであり、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのきゅうきょくもくひょうである、ぜんみんしゅうきゅうさいであり、えいえんにくずれない、ぶっこくどのしゅつげんである。じゅういっじょうとは、いっさいの、ひとびとが、だいもくをとなえ、みょうほうをこんていとして、こうふくなせいかつを、しきっていくことである。

 じっかいの、ごごんは、いっぺんのだいもくを、ぐさしたり。
 りによって、ろんずるならば、いっさいのひとびとの、はなしている、げんげんくくとうも、ぜんぶみょうほうのしょさから、でてくるものであるという、いみである。なくのも、さわぐのも、わらうのも、こうえんするのも、みな、みょうほうのさようからなっているのである。もし、しんじんにやくせば、ごほんぞんをしんじて、なんみょうほうれんげきょうと、となえることであり、また、しんじんをこんていとした、いっさいのげんげんくくをいみする。

 これあに、かんのうにあらずや。
 もんぐのよんには、「そうとは、しじょくぞうぎゃくして、このときにじゅざいす。しんにぞうぎゃくして、とうひょうおこり、とんよくぞうぎゃくして、きがおこり、ぐちぞうぎゃくして、しつえきおこる。さんさいおこるがゆえに、ぼんのうばいりゅうに、しょけんてんしきなり」とある。これは、とん、じん、ちのさんどくが、せんそうをおこし、さいなんをまねき、でんせんびょうをまんえんさせるとうの、こんぽんであるとしている。じぶんのいちねん、いっしんが、いかにしゃかい、こくどにだいなるえいきょうを、しめしゆくかが、うかがえるおんふみである。
 おなじように、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとしていけば、まさに、「がしどあんのん」のせかいが、きずかれるのである。こうせんるふ、たっせいのあかつきには、いちねんさんぜんのほうりによって、たいふうはすくなく、またあったとしても、ひがいはわずかであることも、とうぜんといえよう。かさいがおこるもおこらないも、せんそうがなくなるもなくならないも、ぜんぶ、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとした、いちねんをうちゅうにかんのうせしめるか、または、あくしんをもって、うちゅうにかんのうせしめるか、それによって、よのなかのじょうたいが、けっていされることを、よくよく、しらねばならない。

だいろく にじえてんのこと  とうこうできません。

0723    だいなな い、ひゆとくげのこと。

 しかんのごにいわく、ちとはひによるに、このこころ、しるししありと。
 おんぎくでんにいわく、このもんをもって、きょうぞう、えんゆうのさんたいのことを、つたうるなり、そうじて、きょうぞうのひとは、じふじようのかがみのことなり、このかがみとは、いっしんのかがみなり、そうじて、かがみにつけてじゅうじゅうのそうでんこれあり。
 しょせん、かがみののうとくとは、まんぞうをうぶるをほんとせり、みょうほうれんげきょうのごじは、まんぞうをうかべて、いっぽうものこるものこれなし、またいわく、かがみにおいて、ごきょうこれあり、みょうのかがみには、ほうかいのふしぎをうかべ、ほうのかがみには、ほうかいのたいをうかべ、れんのかがみにはほうかいのかをうかべ、げのかがみには、ほうかいのいんをうかべ、きょうのかがみにはまんぽうのげんごをうかべたり。
またいわくみょうのかがみにはけごんをうかべ、ほうのかがみにはあごんをうかべ.れんのかがみにはほうどうをうかべ、げのかがみには、はんにゃをうかべ、きょうのかがみにはほっけをうかぶるなり。
 じゅんぎゃく、しだいしてこころうべきなり、われらしゅじょうの、ごたいごりん、みょうほうれんげきょうと、うかびいでたるあいだ、ほうとうほんをもって、かがみとならうなり、しんぼうのうかびよう、よくよくこれをあんずべし、じふじようのかがみとはなんみょうほうれんげきょう、これなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ
 ここは、ひゆほんで、ほとけが、しゃりほつにむかい、「われさきに、しょぶつせそんの、しゅじゅのいんねん、ひゆげんじをもつて、ほうべんして、ほうをときたもうは、みな、あのくたらさんみゃくさんぼだいのためなりと、いわずや、このもろもろのしょせつは、みな、ぼさつをせけんが、ためのゆえなり。
 しかも、しゃりほつ、いままさに、また、ひゆをもって、さらに、このぎをあかすべし。もろもろのちあらんもの、ひゆをもって、げすることをえん」と、のべたところにある。
 てんだいだいしは、まかしかんのだいごに、「ちとは、ひによるに、このこころ、しるししあり…ちとは、ひゆによって、そのしんいを、あきらかにすることをいう」とのべている。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 このもんは、きょうぞうえんゆうの、さんたいをつたえるのである。すなわち、まかしかんに、「たとへば、めいきょうのごとし、めいはそくくうにたとへ、ぞうはそくけにたとへ、かがみはそくちゅうにたとふ、あわせずさんせず、ごうさんえんねんなり」と、あるように、きょうぞうをもって、えんゆうのさんたいが、せつめいされているのである。えんゆうのさんたいとは、にぜんで、バラバラにといた、さんたいではなく、ほっけで、くうけちゅうのさんたいは、そうそくして、えんゆうむげであり、ひとつであるととかれた、さんたいである。

 そうじて、きょうぞうのひとは、みずからのかげを、うかべるかがみのことである。
 このかがみとは、いっしんのことである。そうじて、かがみについては、じゅうじゅうのそうでんがある。つまるところ、かがみののうりょく、とくせいというのは、あらゆるものの、すがたをうかべるところにあるのである。みょうほうれんげきょうのごじは、あらゆるもののすがたを、すべてうかべて、ひとつのげんしょうをも、うかべのこすことは、ないのである。
 かがみにはみょう、ほう、れん、げ、きょうのいつつのかがみがあり、みょうのかがみには、ほうかいのふしぎをうかべ、ほうのかがみには、ほうかいのたいをうかべ、れんのかがみには、ほうかいのかをうかべ、げのかがみには、ほうかいのいんをうかべ、きょうのかがみには、ばんほうのげんごを、うかべるのである。
 またみょうのかがみには、けごんをうかべ、ほうのかがみには、あごんをうかべ、れんのかがみには、ほうどうをうかべ、げのかがみには、はんにゃをうかべ、きょうのかがみには、ほっけをうかべるのである。みょうほうれんげきょうは、けごん、あごん、ほうどう、はんにゃのいずれにもとかれず、ほけきょうにきて、はじめてとかれるのである。 これは、せっぽうのじゅんじょにしたがって、そうたいてきにはんじていった、たちばであるが、こんどは、ぎゃくに、ぜったいみょうのたちばから、はちまんほうぞうをはんじていったときに、けごんも、あごんも、ほうどうも、はんにゃも、ことごとく、みょうほうれんげきょうの、いっぽうにおさまるのである。このように、じゅんぎゃくしだいして、はちまんほうぞうを、はんじていかなければならない。
 われらの、しゅじょうのごたいごりん、すなわちこのしんたいが、みょうほうれんげきょうのとうたいであり、このわれわれの、しゅじょうのせいめいを、うつしだすかがみこそ、ほうとうほんにおいて、しゃくそんがこしんにえがいた、そしてだいしょうにんが、そのぎしきをかりて、じじつのうえにあらわされた、ごほんぞんなのである。
 しんじんしたばあい、ほうぼうしたばあい、どういうげんしょうが、あるかということは、このかがみによってわかるのである。
けつろんすれば、じふじようのかがみとは、なんみょうほうれんげきょうの、ごほんぞんとこころえるべきである。

 きょうぞうのひとは、じふじようのかがみのことなり、このかがみとはいっしんのかがみなり。
 じぶんのすがたが、かがみをみて、はじめてわかるとどうように、いっさいのこうどうの、かがみとなるのは、いったいなんであろうか。
 ソクラテスは「なんじ、じしんをしれ」といった。かれは、じぶんのこうどうを、うつしだし、ただしいほうこうにもっていくのは、ほかならぬじぶんじしんであることを、きょうちょうしたのだった。
 また、これらのことは、げんだいのてつがくしゃの、おおくのひとびとがしゅちょうするところでもある。じつぞんしゅぎしゃが、にんげんのしゅたいせいをかいふくしようとし、にんげんそんざいにいだいなかちを、みいだそうとしたのも、けっきょく、じぶんじしんこそ、みずからのはってんと、こうじょうのげんせんであることに、きづいたからである。
 てんだいだいしもまた、いっしんさんかんをとき、かんねんかんほうにより、みずからのこころをみつめ、そこにさとりをひらこうとしたのであった。
 しかしながら、これらのてつがくは、げんざいのわれわれのこうふくをきずく、ちからある、しそうとはなりえないのである。じぶんじしんをみつめることができたとしても、じぶんでじぶんをどうすることができないのが、げんじつではないだろうか。ゆえにソクラテスは、どくはいをあおいで、せいめいをたち、また、じつぞんしゅぎは、いたずらに、にんげんのくのう、ひあいのせかいにとじこもり、ちからあるにんげんけいせいのてつがくとはなりえていない。
 また、てんだいのぶっぽうも、もはやみんしゅうをすくうちからの、なくなっていることは、かんねんかんほうが、いかに、げんじつふそうおうであるかという、いちじじつをもってしても、あきらかなことである。
 じぶんをいかにみつめても、それはたんなる、じこのぶんせきにほかならない。そこには、なんのかちを、しょうずるかといいたい。たとえば、かんきょうにまけ、また、じこのよわさにひきずられている、じぶんをみつめても、さらには、とん、じん、ちのさんどくにしはいされている、じぶんをみつめることが、できたとしても、そこにしんにちからづよき、じこのかくりつがなされなくては、かんきょうをかえ、またかがやかしき、じんせいこうろを、あゆむことは、ふかのうである。

 しからば、ちからづよいじこのかくりつは、いかにして、なしえるのであろうか。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「かんじんとは、わがこしんをかんじて、じゅっほうかいをみる、これをかんじんというなり、たとえば、たにんのろっこんをみるといえども、いまだ、じめんのろっこんを、みざれば、じぐのろっこんをしらず、めいきょうに、むかうのとき、はじめて、じぐのろっこんをみるがごとし。
 たとい、しょきょうのなかに、ところどころに、ろくどうならびに、しせいをのすといえども、ほけきょうならびに、てんだいだいししょじゅつの、まかしかんとうの、めいきょうをみざれば、じぐのじっかい、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんをしらざるなり」(0240-01)と。
 このなかの、「わがこしんをかんじて、じゅっほうかいをみる、これをかんじんというなり」の、もんについて、にちかんしょうにんは、「ふもんのへんと、がんいのへんがあると、のべられている。ふもんのへんから、このもんのいみをとると、てんだいのかんじんとなり、じぶんのこころをよくかんさつして、じぶんのせいめいのなかに、おこるしゅ々じゅのげんしょうを、じっかい、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんと、さとることである。がんいのへんで、ろんずれば、だいしょうにんのかんじんであり、「こしんをかんじて」とは、ごほんぞんをしんずることであり、「じゅっほうかいをみる」とは、なんみょうほうれんげきょうととなえることである。
 また、「めいきょうにむかうとき」の、めいきょうとはふもんのへんからいえば、ほけきょうや、てんだいしょじゅつのまかしかんであり、がんいのへんからいえば、いちねんさんぜんの、ほんぞんなのである。
 すなわち、ごほんぞんをしんじ、しょうだいしていくときに、しぜんとごほんぞんと、わがせいめいが、きょうちみょうごうし、ぶっかいという、いだいなるせいめいりょくが、ゆげんする。ここにつよき、じこがかくりつされるのである。

 とだじょうせいぜんかいちょうは、「じこじしんにいきよ」とさけばれ、つぎのようにもうされている。
 「ここにおいて、じっかいごぐ、いちねんさんぜんをとく、だいぶっぽうをしんずるわれわれは、にちじょうのせいかつのせきにんが、ことごとく、じぶんじしんにあることを、しらなくてはならない。びんぼうして、なやむのも、じぎょうにしっぱいして、くるしむのも、ふうふげんかをして、ひあいをあじわうのも、あるいはひばちにつまずいて、けがをするのも、けっきょく、それは、みな、じぶんじしんのせいかつである。
 すなわち、じこじしんの、せいめいげんしょうのはつろである。かくかんがえるならば、いっさいの、じんせいはじこのせいめいの、へんかである。ゆえに、よりよくへんかして、たえず、こうふくをつかんでいくということが、だいじではないか。
 されば、じこじしんにいきよ・・・や、じこじしんに、いきるいがいにないのだ、ということを、しらねばならない。あるひとが、こうしてくれればよいのだとか、このよのなかがこうであれば、、しあわせだといって、たにんにいき、たいきょうにいきるということは、まちがいではないか。
 しかし、にんげんのちからというものは、よわいものである。じこじしんにいきていると、いかにりきんでみても、たにんにしはいされ、たいきょうに、しはいされやすいものなのである。されば、いかにかんねんてきに、じこじしん、みずからいきていると、りきんでみても、それで、こうふくであるといえないばあいがおおい。そこで、じこじしんのせいめいが、もっともつよく、もっともかがやかしく、もっともこうふくであるためには、じっかいごぐ、いちねんさんぜんのぶっぽうに、いきるいがいにないと、ごじんはしんずるものである。
 これこそ、ななひゃくねんまえに、にちれんだいしょうにんが、だいうちゅうにたいして、こごうされただいてつりである。われらを、ようちなるものとよんで、いちねんさんぜんのたまをさずけて、こうふくきょうがいを、かくとくせしめると、おおせられたのは、このゆえで、そのいちねんさんぜんのたまとは、ごほんぞんであられる。されば、まつだいようちのやからは、このごほんぞんをしんじまいらせて、つよくりっぱに、じこじしんにいきようではないか」。
 いままでのところは、あたえて、じぶんじしんをみつめることが、できたとしてもという、かていのもとでろんじてきた。もしも、うばっていえば、ごほんぞんによらずしては、じぶんじしんをみつめることは、ぜったいにできないのである。
 しんじかんきょうにいわく、『かこのいんをしらんとほっせば、そのげんざいのかをみよ、みらいのかをしらんとほっせば、そのげんざいのいんをみよ』」(0231-04)と。すなわち、げんざいのしゅんかんのなかに、かこのいんのいっさいがふくまれ、またみらいえいごうの、いっさいのかがふくまれているのである。このしゅんかんしゅんかんの、いちねんのせいめいをみきわめていくのは、ごほんぞんに、てらされるいがいには、ぜったいにできえないのである。
 つぎに、かがみとは、またぶっかいである。このかがみのほかのきゅうかい、すなわち「むさぼり」、あるいは「おろか」あるいは、「てんごく」あるいは「たいらか」、あるいは「よろこび」、あるいは「むじょう」、あるいは「じあい」とうの、せいめいかつどうが、うつしだされるのである。しかもにちかんしょうにんが、「みょうらくいわく、『ぶっかいのこころづよきをなづけて、ぶっかいとなし、あくごうじんじゅうなるを、なづけてじごくとなす』うんぬん、すでに、ほけきょうをしんずる、こころづよきあくごうじんじゅうとごうして、じごくかいとなずづくるなり」と、あおせらるるごとく、しんじんごうじょうであることが、ぶっかいなのである。
 そうであるあらば、しんじんこそ、われわれのこうどうのきはんであり、かがみである。ゆえに「いっしんのかがみ」のいっしんとは、しんじんとやくすべきである。すなわち、いっしんとは、しにやくし、じじゅゆうしんのいちねんのしんぽうとなる。これ、じのいちねんさんぜんの、まんだらとやくす。そして、でしにやくして、ごほんぞんを、しんずるこころとやくするのである。
 われわれは、しんじんによって、ぶっちをあらわす。こころをすまし、じこのせいかつをみつめることができる。いかなるぎゃっきょうをも、へんどくいやくし、じんせいをたのしみきっていくことが、できるのである。
 さらに、しゃかいのげんしょう、じだいのちょうりゅうをも、みきわめていけるのである。これ、われわれのしんじんが、いっさいの、かがみであるゆえんである。

 みょうのかがみには、ほうかいのふしぎをうかべ、ほうのかがみには、ほうかいのたいをうかべ、れんのかがみには、ほうかいのかをうかべ、げのかがみには、ほうかいのいんをうかべ、きょうのかがみには、ばんぽうのげんごをうかべたり。
 これは、ひじょうにふかいてつがくである。ごほんぞんが、うちゅうのじっそう、それじたいということにもなり、うちゅうのしゅくずともいえるし、また、ごほんぞんをかがみにし、いっさいの、うちゅうをみていけば、ぜんぶ、みとおしていけるということにもなる。
①  みょうのかがみには、ほうかいのふしぎをうかべ。
 うちゅうしらぎばんしょうの、ふしぎというものは、いまのぶつりがくしゃでも、かがくしゃでも、どうしてもかいめいできないものがあるのである。みょうほうによって、えとくし、かんとくし、りかいするいがいにないものである。
 ソれんのあるかがくしゃが、だいうちゅうのほしを、けんきゅうしながら、あまりのしんぴさにうたれて、「じぶんはキリストのような、かみをしんじたりしない。ただし、そのふしぎな、あまりにもふしぎな、うちゅうをけいせいしている、、ほんしつとといったものを、かみというのだったら、わたしはしんずる」といったことが、しんぶんに、ほうどうされていたが、じつにうちゅうそれじたいというものは、ふかしぎ、そのものである。
②  ほうのかがみには、ほうかいのたいをうかべ。
 うちゅうしらぎばんしょうは、ふしぎであるとどうじに、げんぜんたるじったいなのである。けっしてあいまいなるものではない。あるいは、ぼうばくとしたものではなく、かならず、たいがあるのである。にんげんとかイヌとか、ネコとか、あるいはチョウチョウにしても、ミミズにしても、ほうかいのたいであり、たとげんぜんとくべつすべき、いっていのほうをもってつくられている。また、ふじさんというたい、アルプスというたい、また、ようすこうだ、アマゾンがわだというのも、ほうかいのたいであり、じつにふしぎな、そんざいではなかろうか。
③  れんのかがみには、ほうかいのかをうかべ。
 いちねん、さんびゃくろくじゅうごにちとか、しゅんかしゅうとうとか、またくにによっては、ねつこく、かんこく、しょうこく、たいこく、また、にんげんでも、こくしょくじんしゅだ、こうしょくじんしゅだ、はくしょくじんしゅだというのも、ぜんぶかである。これらは、こくどせけんにやくし、またしゅじょうせけんにやくした、かのすがたである。
④  げのかがみには、ほうかいのいんをうかべ。
 うちゅうのしんらばんしょうは、たえずへんかしている。しかも、それぞれ、それじたいのなかに、へんかして、そうなるべきもともとの、いんをもっているのである。つばきのたねから、さくらのはなはさかない。ひとつぶのたねのなかに、もうすでに、さくらにはならず、さくらに、つばきにには、かならず、つばきになるげんいんを、もっているのである。
⑤  きょうのかがみには、ばんぽうのげんごをうかべたり。
 やれえいごだ、やれにほんごだ、ちゅうごくごだ、ロシアごだというように、げんごというものは、じつにおおいが、まことに、ふしぎなものである。にほんじんは、にほんごをとおして、いしをつうじあい、またちゅうごくじんは、ちゅうごくごでいしを、つうじあうというように、それぞれの、じこくごでかたりあう。しかし、ほんやくさえすれば、ことばのちがう、くにどうし、ひとどうしが、たがいのいしの、こうかんがじゆうにできるのだ。これは、げんごのこんげんも、なんみょうほうれんげきょうであることを、しめすものとおもう。
 こんどは、こじんにあてはめてろんじてみよう。まず、「みょうのかがみは、ほうかいのふしぎをうかべ」とは、じぶんじしんのせいめいというものは、じつにふしぎである。かみがつくったものでも、キリストがつくったものでもない。ぶつりがくでつくったものでもけっしてない。これ、せいめいそれじたいにそなわる、いんがのりほうによるものであり、ずいじいであり、じじゅゆうしんなのである。
 つぎに「ほうのかがみには、ほうかいのたいをうかべ」とは、ひと、みなそれぞれ、そのひとじたいの、たいがあるといういみである。「A」というひとがいたとする。「A」はあるいているとき、すわっているとき、しょくじをしているときもある。かいしゃでしごとをしているときも「A」である。つねに、いっしゅんいっしゅん、へんかした、こうどうをとっている。にもかかわらず、「A」というひとは、あくまでも「A」であって、そのこうどうに、へんかがあるといっても、そては「A」というこうどうのはんちゅうであり、「B」というひとになったり、「C」というひとになったりするものではない。このような「A」というひとのほんしつは「A」という、いっていのほうていしきであり、ほうなのである。
 つぎに「れんのかがみには、ほうかいのかをうかべ」とは、せがひくいとか、なにをたべてもふとらないとか、いくらべんきょうしてもあたまがよくならないとか、びょうじゃくであるとうは、かをうかべているのである。
 「げのかがみには、ほうかいのいんをうかべ」とは、どうしてじぶんは、このようなしゅくめいをもってうまれてきたのだろうか、なぜこのようになやむかといった、げんざいのかほうのげんいんをうかべることである。ごほんぞんにてらされてみれば、さらにかこのいんも、めい々めいはく々はくとうかびでるのである。

 「きょうのかがみには、ばんぽうのげんごをうかべたり」、しんじんあるひとのはつげんは、じつにはっきりしてくる、げんげんくくというものは、そのひとの、いっしんのはつろであり、とん、じん、ちのせいめいに、しはいされたひとのはつげんは、どんなにかざろうと、そこにいやみがある。ゆえに、しんじんなきひとのげんげんくくは、そこにじひもなく、しんねんもなく、つよいせいめいりょくのひびきもかんじない。またごほんぞんをごじしていても、しんじんがスッキリしないと、じぶんのはつげんが、なんとなくかくしんがなく、ひびきがなく、リズムにあわないのである。
 また、じぶんのこうどうも、しんじんしておれば、リズムにがっちし、はつらつとしてくる。ぎゃくにしんじんがとおざかったばあいには、なにをやっても、うまくいかないし、また、なんとなくくうきょとなってゆく。これは、きょうのかがみに、じぶんのいっさいのげんご、こうどうをうかべていることである。

われらしゅじょうの、ごたい、ごりん、みょうほうれんげきょうとうかびいでたるあいだ、ほうとうほんをもって、かがみとならうなり。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、このほうとうほんのぎしきについて、かいもくしょうのこうぎに、つぎのようにいわれている。
 「しゃくもんのるつうぶんたる、けんほうとうほんにおいて、たほうとうがこくうにたち、しゃか、たほうのにぶつがほうとうのなかにびょうざし、じっぽうぶんしんの、しょぶつしゃくけ、たほうのだいぼさつ、にじょう、にんでんとうが、これにつらなるいわゆる、こくうえのぎしきがとかれている。これは、はなはだひかがくてきのように、おもわれるがいかん、しかしぶっぽうのおうていより、これをみるならば、きわめてしぜんのぎしきである。
 もしこれをうたがうなら、じょぼんのときに、すでにだいふしぎがある。すうじゅうまんのぼさつや、しょうもんやじっかいのしゅじょうがことごとくあつまって、しゃかぶつのせっぽうをきくようになっているが、そんなことができるかどうか、かくせいきもなければ、また、そんなおおきなこえが、でるわけがない、ましてはちかんもそれがつづけられるわけがない、すなわちこれは、しゃかこしんのしゅじょうであり、しゃかこしんのじっかいであるから、なんじゅうまんあつまったといっても、ふしぎはない、さればほうとうほんのぎしきも、かんじんのうえにてんかいされた、ぎしきなのである。
 われわれのせいめいには、ぶっかいというだいふしぎのせいめいが、みょうぶくしている。このせいめいのちから、および、じょうたいは、そうぞうもおよばなければ、ひつぜつにもつくせない、しかし、これをわれわれのせいめいたいのうえに、ぐげんすることはできる。げんじつに、ほうどうのせいめいそれじたいも、みょうぶくせる、ぶっかいをぐげんできると、ときしめしたのが、このほうとうほんのぎしきである。すなわち、しゃかはほうとうのぎしきをもって、こしんのじっかいごぐ、いちねんさんぜんをあらわしているのである。
 にちれんだいしょうにんは、おなじくほうとうのぎしきをかりて、じゅりょうもんていげしゅのほうもんを、いっぷくのごほんぞんとしてこんりゅうされたのである、されば、ごほんぞんは、しゃぶつのほうとうのぎしきを、かりてこそおれ、だいしょうにんこしんの、じっかいごぐいちねんさんぜん、ほんぶつのごせいめいである、この、ごほんぞんはごほんぶつの、えいえんのせいめいを、ごずけんあそばされたので、まっぽうゆいいつ、むにの、そくしんじょうぶつのごほんぞんで、あらせられる、まっぽうのみんしゅうは、このごほんぞんによってのみ、きゅうさいせられるのである」と。


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  • 御義口伝講義録上 ひゆほんきゅうかのだいじ だい3まで 1/3

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 5月28日(日)10時46分40秒
 
0721~0725 ひゆほんきゅうかのだいじ。

0721    だいいち ひゆほんのこと。
0722    だいに そくきがっしょうのこと。
0722    だいさん しんい、たいねんけとくあんのんのこと。
0723    だいよん とくぶっぽうぶんのこと。
0723    だいご にじえてんのこと。
0723    だいろく いちじぐさのこと。
0723    だいなな いひゆとくげのこと。
0724    だいはち ゆいう、いちもんのこと。
0724    だいきゅう こんし、さんがいとうのこと。

0721~0725 ひゆほんきゅうかのだいじ。
0721    だいいち ひゆほんのこと。

 もんぐのごにいわく、ひとは、ひきょうなり、ゆとは、ぎょうくんなり、だいひ、やまず、ぎょうちむへんなれば、さらにきをうごかして、かぜをおしえ、おうぎをあげて、つきをさとすと。
 おんぎくでんにいわく、だいひとは、ははのこをおもうじひのごとし、いま、にちれんとうのじひなり。
 しょうあんいわく、「かれのために、あくをのぞくは、そく、これかれのおや」と、ぎょうちとは、なんみょうほうれんげきょうなり、しょしゅうむとくどうのりゅうぎなり、ぎょうおなんもんどうのこころなり。
 きょうとは、ざいせについで、めつごのこととこころうべきなり、きをうごかすとは、ぼんのうなり、かぜをおしえるとは、そくぼだいなり、おうぎをあぐとは、しょうじなり、つきをさとすとは、そくねはんなり。
  いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるとき、だいびゃくごしゃにじょうじて、じきしどうじょうするなり、きのごにいわく、「きとおうぎと、かぜとつきとは、ただ、えんきょうの、りなり」と、またいわく、「ほうせつのじっそうは、なんぞかくれ、なんぞあらわれんや、ちょうふうやむこと、なびく、くうげつ、つねにかかれり」と。
 このしゃく、これをおもうべし、おんとは、しなり、けんとは、しょうなり、ちょうふうとは、われらが、いきなり、くうげつとは、しんげつなり、ほっけのしょうじとは、さんぜ、じょうごうにして、おんけんこれなし、われらが、そくふうとは、はくところのげんごなり、これ、なんみょうほうれんげきょうなり。
 いっしんほうかいのかくげつ、じょうじゅうにして、かかれり、これをさして、ただ、えんきょうのりと、しゃくせり、えんとはほうかいなり、きょうとは、さんぜんられつなり、りとはじっそうの、いちりなりうんぬん。

 かいしゃくこうぎ。
 ひゆほんということについて、もんぐのごには、つぎのようにある。ひとは、ひきょう・・・、これをあげて、それとひし、ゆとはぎょうくん・・・、あさきによって、ふかきをおしえるのである。ほとけのだいじひは、やむことなく、たくみなる、ちえはむへんにはたらくのであり、さらに、まようもののために、きをうごかして、かぜというものを、おしえ、おうぎをかかげて、つきというものを、わからせるのであると。
 おんぎくでんには、つぎのように、おおせである。「だいひ」とは、ははおやが、こをおもう、じひ、じあいのねんのごときものであって、いま、にちれんだいしょうにんのじひこそ、いっさいしゅじょうを、あくまで、すくいきっていこうという、だいじひなのである。
 しょうあんだいしが、ねはんきょうじょに、「かれがために、あくをのぞきさることは、すなわち、これ、かれのおや」というように、いっさいしゅじょうの、ふこうのこんげんたる、じゃしゅうじゃぎを、しゃくぶくし、とりのぞく、ばっくよらくの、ふるまいこそ、じひなのである。
 「ぎょうち」とは、さいこうのちえの、ほうもんである、なんみょうほうれんげきょうのことである。しょしゅうによっては、いっさいじょうぶつすることはできないと、だんずるのである。ゆじゅつほんに、ぢゆのぼさつを、さして「ぎょうお、なんもんどう」とあるように、ぎょうちとは、しゃくぶくにはげむ、われわれ、ぢゆのぼさつに、やくするのである。
 「さらに」とは、いちおうは、しゃくそんざいせのちゅう、げのきこんのしゅじょうのために、ひゆをとくのであるが、さいおうは、めつごまっぽうの、しゅじょうのためであると、しるべきである。
 「きをうごかす」とは、ぼんのうをあらわし、それにより、「かぜをおしえる」とは、そくぼだいをあらわす。すなわち、ぼんのうそくぼだいとなる。「おうぎをあげる」とはしょうじをあらわし、それにより、「つきをさとしおしえる」とは、そくねはんをあらわす。しょうじそくねはんとなるからである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるとき、だいびゃくごしゃたる、いっぶつじょうのなんみょうほうれんげきょうにより、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんとてんじ、そくしんじょうぶつすることが、できるのである。
 しかして、みょうらくは「き」のごに、「きと、おうぎと、かぜと、つきとは、いずれもただ、えんきょうのりをあらわしているのである」と、といている。また「ほうせつしゅうにおいて、あかされた、じっそうというのは、どうして、かくれたり、あらわれたりするで、あろうか。まったくそうではない。ちょうふうはやむことなく、つづいているのであり、そらのつきは、つねに、こくうにかかっているのである」と。このしゃくを、よくよくかんがえるべきである。
 このしゃくで、「おん」とは「し」、「けん」とは「しょう」をあらわす。ちょうふうとは、われらのいきであり、くうげつとはこころのつきを、あらわしている。すなわち、ほっけのしょうじ、しんじつのせいめいかんにたってみるならば、せいめいというものは、かこ、げんざい、みらいのさんぜにわたって、じょうじゅうふへんに、そんざいするのであり、おんけんということは、ありえないのである。
 さて、われわれのそくふうとは、はくところの、げんごであり、これすなわち、なんみょうほうれんげきょうのあらわれである。いっしんほうかいの、かくげつはじょうじゅうにして、えいえんに、そんざいしつづけるのである。このせいめいの、ほんねんのすがたを「えんきょうのり」と、みょうらくはしゃくしているのである。「えん」とはほうかいさんぜんを、あらわすのであり、「きょう」とは、さんぜんられつのきびしき、いんがのりほうであり、「り」とは、じっそうのいちりである、なんみょうほうれんげきょうである。

 ひゆほんは、さんしゅうのせっぽうのうち、ゆせっしゅうである。せっぽうしゅうのしょうせつは、ほうべんぽんで、とかれるが、そこでは、ちえだいいっのしゃりほつ、ひとりが、しょほうじっそうのみょうりをえとくしている。すなわち、しゃりほつは、さんじょうをひらいて、いちぶつじょうをあらわすことが、じょうぶつのげんりであると、りょうげしたのである。そして、しゃくそんが、そのしゃりほつの、りょうげをしょうみょうして、かれにこう、こく、みょうごうをとき、みらいじょうぶつのきべつをあたえて、せっぽうしゅうのいっだんがおわる。
 そこで、しゃりほついがいの、みりょうげのしょうもんたちは、さらに、ぼとけにしょうせつをこうたのである。これが、さんしゃかたくのひゆせつ、すなわち、ゆせっしゅうのしょうせつだんとなるのである。この、さんしゃかたくのひゆこそ、さんしゃさんじょうのごんをひらき、いっしゃいちぶつじょう、すなわち、だいびゃくごしゃのじつをあらわしているのである。
 また、このほんには、ゆうめいなじゅうよんのいましめ、じゅうしひぼうのないようが、とかれている。これは「まつのどのごへんじ」に、でているとおりである。
 まず、もんぐのごの、「ひとは、ひきょうなり、ゆとはぎょうくんなり、だいひ、やまずぎょうちむへんなれば、さらにきをうごかして、かぜをおしえ、おうぎをあげて、つきをさとす」とあるのは、つぎの「そうかんもんしょう」のおんふみと、たいひしてみれば、あきらかである。
 「いっさいきょうのごは、むちゅうのごとは、たとえばおうぎときとのごとし、ほけきょうのうつつのこころを、あらわす、ことばとは、たとえばつきとかぜとのごとし、ゆえに、ほんかくのうつつのこころのげつりんのひかりは、むみょうのやみをてらし、じっそうはんにゃのちえのかぜは、もうそうのちりをはらう、ゆえにゆめのごのおうぎときとをもって、うつつのこころのつきとかぜとをしらしむ、これのゆえにゆめのよはをさんじて、うつつのほんしんにきせしむるなり。
 ゆえにしかんにいわく、「つき、じゅうざんにかくるれば、おうぎをあげて、これにるいし、かぜ、だいこに、やみぬれば、きをうごかして、これをおしゆるがごとし」もん。 ぐけつにいわく、「しんじょうしょうのつき、ぼんのうのやまにかくる、ぼんのうひとつにあらず、ゆえになずけて、じゅうとなす、えんいんきょうの、かぜは、けをやめて、じゃくにすき、じゃくりむげなること、なお、だいこのごとし、しえのぐきょうはおうぎときとのごとし、ないし、つきとかぜとを、しらしむるなり、いじょう、むちゅうのぼんのうのくも、ちょうじょうせること、やまのごとく、そのかず、はちまんよんせんのじんろうにて、しんしょう、ほんがくの、げつりんをかくす、おうぎと、きとの、ごとくなる、きょうろんのもんじ、げんごのきょうをもって、つきとかぜとのごとくなる、ほんがくのりを、かくちせしむる、しょうきょうなり、ゆえに、もんとごとは、おうぎときとのごとし」もん。
 じょうしゃくは、いちおうのしゃくとて、じつぎにあらざるなり、つきのごとくなる、みょうほうのしんしょうのげつりんとかぜのごとくなる、わがこころのはんにゃの、えげとをおしえしらしむるを、みょうほうれんげきょうとなずく」(0562-09)と。
 ひゆとは、あくまで、じったいのせつめいである。しこうして、じったいとはなにか、これこそ、なんみょうほうれんげきょうなのである。またひゆとは、あるいみで、われわれのせいかつである。
 そして、じったいとは、ごほんぞんである。われわれのせいかつのいっさいが、ごほんぞんのいだいなくどくをせつめいしているともいえる。「ひとは、ひきょうなり」とは、きのうのせいかつ、いちねんまえのせいかつ、またしんじんするいぜんのせいかつと、こんにちのせいかつと、ぜんぶひきょうとなろう。
 「ゆとはぎょうくんなり」とは、そのせいかつのじっそうそのものが、いだいな、ごほんぞんのちからをおしえさとされて、いることである。

  また、ひゆとは、くどくとばつである。われわれが、ごほんぞんをしんじ、しょうだいし、しゃくぶくぎょうにはげむのは、そくしんじょうぶつのためである。われわれが、さいしょ、しんじんしたどうきは、びんぼう、びょうき、せいしんてきなくるしみ、かていふわとうで、さまざまななやみ、どうきがあったわけである。それが、しんじんにはげんだときに、しだいしだいに、かいけつしていく。これこそ、だいしょうにんが、「ちかきげんしょうをひいて、とおきしんをとるべし」(1054-03)とのおおせのごとく、そくしんじょうぶつは、ぜったいにまちがいないと、かくしんすべきこんきょなのである。
 また、しんじんにはんたいすれば、かならずばつがある。だいしょうにんは「かこげんざいの、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃを、きょうせんする、おうしんばんみん、はじめはことなきやうにて、ついにほろびざるはそうらはず」(1190-)とだんげんなされている。ゆえに、そのばつは、むげんじごくに、おちるということを、いみするものである。それはすなわち、ごほんぞんによるいがいに、こうふくになるみちは、ぜったいにないというしょうこでもある。

だいひとは、ははのこをおもうじひのごとし、いま にちれんとうのじひなり。

 じひとは、あいぞうのごときそうたいてきなものでなく、ぜったいてきなものである。じとはたのしみをあたえ、ひとはくるしみをぬいてあげるぎをいう。キリストきょうでとくあいとは、こんぽんてきにちがいがあり、じたともにえいえんにきゅうさいしきるはたらきがふくまれているのである。
 しかも、じひとは、しゅぎょうによってえられるものではない。ごほんぞんをしんじ、しょうだいしていくときに、しぜんとほとけの、じひのきょうちに、りっきゃくし、わがせいめいのなかに、ほどばしりでるものである。
 ゆえに、じひほどつよいものはない。こうふくをねがってのこころからのげんげんくくは、そのひとのこころを、こんていからゆりうごかさずにおかないであろう。
 いま、われわれは、ごほんぞんを、そく、にちれんだいしょうにんをはいし、ぶつでしとしてじんじんのじひをこうむっているのだ、とかくしんし、かんしゃをわすれてはならない。そして、いまだしょうほうをしらぬひとびとにたいし、このごほんぞんのくどくをおしえてあげることが、わたしたちのじひのこういとなっているのである。はしをつくったり、がっこうにきふしたり、ひとにしんせつにすることは、もちろん、ぜんではあるが、これは、いちじてきなしゃかいのぜんにすぎない。これをしょうぜんというのである。また、これらはほんらい、せいじで、かいけつすべきもんだいでもある。じひはだいぜんである。だいぜんは、こんぽんてきに、しかもえいきゅうに、もっともおおくのひとの、こうふくのためにする、こういである。したがって、われわれの、しゃくぶくかつどうこそ、だいぜんのなかの、ごくだいぜんであることを、つよくつよく、かくしんすべきである。
 げんざい、しゃかいにもっともひつようなことは、このじひということである。にちれんだいしょうにんのだいじひにつつまれながら、だいせいめいてつがくをまなび、せいかつのげんせんとしていくいがいに、しんにあんしんりつめいのじんせいはない。また、しゃかいも、おたがいのじひがなければ、まるでやみのようになり、さんあくどうからぬけることは、えいきゅうにできないでであろう。

 せっぽうのじっそうは、なんぞかくれ、なんぞあらわれんや、ちょうふうやむことなく、くうげつ、つねにかかれり。
 これを、せいめいろんにやくせば、えいえんのせいめいであって、その、ほんぬのうえのしょうであり、しなのである。せっぽうのじっそうとは、せいめいであり、おんはしょうである。「ほっけのしょうじは、さんぜじょうごうにしておんけんこれなし」とは、そうかんもんしょうに「しょうとしと、ふたつのりは、しょうじのゆめのりなり、もうそうなり、てんとうなり、ほんかくのうつつをもって、わがしんしょうをただせば、しょうずべき、はじめもなきがゆえに、しすべき、おわりもなし、すでにしょうじをはなれたる、しんぽうにあらずや、」(0563-07)とのおおせのごとくである。にぜんのしょうじ、すなわちしょうろうびょうしは、こんぜだけをとき、ほっけにとくせいめいろんは、せいめいのじったいは、えいえんであるということである。
 この、「ほっけのしょうじ」ということについて、さらにいえば、おんぎくでんに、「さんがいしそうとは、しょうろうびょうしなり、ほんぬのしょうじとみれば、むうしょうじなり、しょうじなければ、たいしゅつもなし、ただ、しょうじなきにあらざざるなり、しょうじをみて、おんりするをまよいといい、しかくというなり。
 さて、ほんぬのしょうじと、ちけんするをさとるといい、ほんかくというなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるとき、ほんぬのしょうじ、ほんぬのたいしゅつとかいかくするなり」、(0753-だいよん、にょらいにょじつちけん、さんがいしそう、むうしょうじのこと)とあり、おなじく、おんぎくでんに、「じしん、ほっしょうのだいちを、しょうじしょうじと、めぐりいくなり」(0724-だいはち、ゆいういちもんのこと)とあり、ろくどうりんねの、しょうじではなく、えいえんのせいめいかんにりっきゃくし、みょうほうにてらされた、しょうじが、ほっけのしょうじなのである。
 しんじんにやくせば、ほっせつのじっそうとは、ごほんぞんである。ごほんぞんのおちからというものは、かくれたり、あらわれたりするものではない。そうたいてきにいちぶのひとをすくうようなものでもない。ぜんみんしゅうをこんていよりすくいきるものであり、またあるきかんのみ、てきようするげんかいがあるほうでもなく、えいえんにてりかがやいているものである。われわれもまた、このごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなえることによって、ごほんぞんときょうちみょうごうし、われらのにくだんのほんぞん、ぶっかいがゆげんし、げんじつのあれくるうしゃかいに、てりかがやき、ししおうのごとく、ゆうゆうたるじんせいを、たのしくいききっていくことができることをいみするのである。
 さいごのぎょうの、「きょうとは、さんぜんられつなり」とは、なんみょうほうれんげきょうは、きびしきいんがのりほうを、とききったものであるということである。さんぜんとは、せいめいかつどうのはんちゅうである。
 せけんほうは、あみのめがいまだおおきい、こくほうでもまた、あみのめがある。つみをおかしたものが、にげとおすばあいがある。しかし、ぶっぽうりつはきびしい、いんがのりほうをとききっているから、あみのめがまったくないのである。
 ひとがみていようが、みていなかろうが、まちがいなく、われわれのじんせいは、げんいんけっかによって、れんぞくしている。おまけもなければ、わりびきもない。とくに、みょうほうのかがみにてらしてみれば、げんいん、けっかがあきらかであるから、だれひとたりとも、このいっしょうをだいじに、ゆういぎにいきねばならぬことを、みをふるわしておもうであろう。
 げんだいは、らんせいで、せつなしゅぎである。まったくただしいじんせいかんをもったひとがすくない。かなしむべきじだいである。しかしせいめいは、げんぜんとえいえんなのである。こんぜのみであるなら、だれがほうをもとめて、しゅぎょうするひつようがあるだろうか。しょせん、みょうほうをかがみとして、じんせいをただしくいききっていくべきである。またみょうほうのかがみにてらして、いっさいのしゃかい、せかいを、あきらかにみていくべきである。したがってわれわれの、しゅかんからすれば、きゃっかんすればせいめいじたいが、ぜんぶいんがのりほうのなかにあって、にげることができないということを、かくじんがかくちすべきである。

0722    だいに そくきがっしょうのこと
 もんぐのごにいわく、げぎをじょするとは、そくきがっしょうは、しんのりょうげとなずく、むかしは、ごんじつふたつとなす、たなごころのあわざるがごとし、いまは、ごんそくじつと、わかる、ふたつのたなごころの、がっするがごとし、こうぶつとは、むかしはごん、ふついんにあらず、じつぶっかにあらず、いま、ごんそくじつとかいして、だいえんいんをじょうず、いんはかならず、かにおもむく、ゆえに、がっしょうこうぶつというと。
 おんぎくでんにいわく、がっしょうとは、ほけきょうのいみょうなり、こうぶつとは、ほけきょうにあいたてまつるというなり。がっしょうはしきほうなり、こうぶつはしんぼうなり、しきしんのにほうを、みょうほうとかいごするを、かんきゆやくととくなり。がっしょうにおいて、また、ふたつのこころ、これあり、がつとは、みょうなり、たなごころとは、ほうなり。
 また、いわく、がつとは、みょうほうれんげきょうなり、たなごころとは、28ほんなり、また、いわく、がっとは、ぶっかいなり、たなごころとは、きゅうかいなり、きゅうかいはごん、ぶっかいはじつなり、みょうらくだいしのいわく、「きゅうかいをごんとなし、ぶっかいをじつとなす」と。
 じっかいことごとく、がっしょうのにじに、おさまつて、しんらさんぜんのしょほうは、がっしょうにあらざることなきなり、そうじて、さんしゅのほっけのがっしょうこれあり、いまの、みょうほうれんげきょうは、さんしゅのほっけみぶんなり、しかりといえども、まず、けんぜつほっけを、しょういとなすなり。
 これによつて、でんぎょうだいしは、おいちぶつじょうとは、こんぽんほっけのおしえなり、○みょうほうのほか、さらにいっくのよきょうなしと、こうぶつとは、いちいちもんもん、みな、こんじきのぶつたいと、むかいたてまつることなり、がっしょうのにじに、ほうかいをつくしたるなり。
 じごく、がきの、おのおののとうたい、そのほか、さんぜんのしょほう、そのまま、がっしょうこうぶつなり、しかるあいだ、ほうかいことごとく、しゃりほつなり、しゃりほつとは、ほけきょうなり、しゃとはくうたい、りとはけたい、ほつとは、ちゅうどうなり、えんゆうさんたいの、みょうほうなり、しゃりほつとはぼんご、これにはしんしという、しんしとは、じっかいのしきしんなり、しんとはじっかいのしきほう、しとはじっかいのしんぼうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、ことごとくしゃりほつなり。
 しゃりほつは、そくしゃかにょらい、しゃかにょらいはそく、ほけきょう、ほけきょうはそく、われらがしきしんのにほうなり、よって、しんし、このほんのとき、もんしほういんとりょうげせり、もんとは、みょうじそく、ほういんとはしょほうのおとなり、しょほうのおととは、みょうほうなり、ここをもって、もんぐにしゃくするとき、ちょうふうやむことなしと、ちょうふうとはほうかいのおんじょうなり、このおんじょうを、しんげほんに、いぶつどうしょうりょういっさいもんといえり、いっさいとは、ほうかいのしゅじょうのことなり、このおんじょうとは、なんみょうほうれんげきょうなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ひゆほんのさいしょに「そのとき、しゃりほつはゆやくかんきし、すなわちたちてがっしょうし、そんがんをせんぎょうしてほとけにもうしてもうさく、いま、せそんよりこのほういんをきき、こころにゆやくをいだき、みぞうなることをえたり…」とのおんぎくでんである。
 もんぐのごには、つぎのようにしゃくしている。りょうげの、そとにあらわれたふるまいについてのべるならば「そくきがっしょう」はりょうげがしんぎょうにあらわれたものであり、しんのりょうげとなづけるのである。にぜんきょうにおいては、さんじょうといっじょうがかくべつであり、ごんじつかくべつであり、じっかいごぐしていないから、あたかもたなごころがあわないようなものである。いまは、ほうべんぽんにおいて、かいさんけんいちがあかされ、さんじょうそくいっじょう、ごんそくじつであるとりょうげすることができたのであるから、ふたつのたなごころがあわしたようなものである。こうぶつとは、むかしは、ごんである。さんじょうのしゅぎょうは、しんのぶついんではなかったし、じつであるいっじょうもしんのぶっかではなかったのである。いま、ほうべんぽんにおいてかいさんけんいちして、ごんそくじつとりょうげしたときに、はじめてじょうぶつのいんをじょうじ、そのいんはかならずぶっかにおもむくのである。ゆえに「がっしょうしてほとけにむかう」というのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「がっしょう」とはほけきょうのいみょうである。「こうぶつ」とは、みょうほうれんげきょうにあいたてまつるということである。がっしょうはしきほうのすがたであり、こうぶつとはしんじんであり、しんぽうである。しきしんのにほうをみょうほうれんげきょうであるとかいごするのをひゆほんで、しゃりほつがかんきゆやくしたととくのであり、かんきゆやくとはしきほうしんぽういったいのすがたなのである。
 がっしょうにおいては、またふたつのいみがある。がっとは「みょう」であり、しょうとは「ほう」である。また、がっとは、みょうほうれんげきょうであり、しょうとは、それをひらいたにじゅうはちほんである。また、がっとはぶっかいであり、しょうとはきゅうかいである。きゅうかいはごん、ぶっかいはじつである。みょうらくだいしは「きゅうかいをごんとなし、ぶっかいをじつとなす」といっている。かくして、じっかいはことごとくがっしょうのにじにおさまっており、しんらさんぜんのあらゆるげんしょうは、がっしょうのとうたいでないものはないのである。
 そうじて、さんしゅのほっけのがっしょうということがある。でんぎょうだいしは、いっだいぶっきょうを、おんみつほっけ、こんぽんほっけ、けんぜつほっけのさんしゅるいにわけている。おんみつほっけというのは、ほけきょうをおんみつしてにぜんきょうをといたがゆえに、にぜんきょうをさしておんみつほっけといい、こんぽんほっけとはにじゅうはちほんをさし、けんぜつほっけとはほけきょうぼんもんをさす。
 いまこのみょうほうれんげきょうは、さんしゅのほっけを、べつ々べつにわけていっているのではない。しかしながら、まず、けんぜつほっけをしょういとするのである。それゆえに、でんぎょうだいしは、しゅごしょうに、「おいちぶつじょう」とはこんぽんのおしえである。・・・みょうほうのほかに、さらにいっくのよきょうもない。といっているのである。
 こうぶつとは、みょうほうれんげきょうの、いちいちもんもんが、みなほとけのせいめいである。また、ことごとくほとけの、しんじつのげんげんくくであると、しんげしむかいたてまつることである。われわれのたちばからいえば、ごほんぞんさまは、ほとけのとうたいであると、はいすることが、こうぶつといういみである。がっしょうのにじに、ほうかいのすべてをせっしつくしているのである。したがって、じごく、がき、のおのおののとうたい、そのほかさんぜんの、もろもろのげんしょうは、そのままみょうほうの、とうたいであり、がっしょうこうぶつ、しているのである。それゆえ、ほうかいは、ことごとくがっしょう、こうぶつする、しゃりほつのすがたである。しゃりほつとは、ほけきょうをいみするのである。しゃとはくうたい、りとはけたい、ほつとはちゅうどう、すなわちしゃりほつは、えんゆうさんたいの、みょうほうをあらわしているのである。

 しゃりほつとはぼんごでありしんしとやくする。しんしとはじっかいのしきしんをあらわすのである。しんとはじっかいのしきほう、しとはじっかいのしんぽう、すなわちしんしとはじっかいのしきしんふにのせいめいをあらわしている。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかとしてなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、ことごとくしゃりほつであり、しゃりほつがほとけにむかいたてまつったごとく、ごほんぞんにむかいたてまつっているすがたである。
 しゃりほつはそくしゃかにょらいであり、しゃかにょらいはそくほけきょうである。ほけきょうはそくわれらのしきしんのにほうである。もんていにやくすれば、しゃりほつとはまっぽうのわれわれであり、われわれとにちれんだいしょうにんはしていふにである。にちれんだいしょうにんとごほんぞんはにんぽういっかである。ごほんぞんをしんずることによって、われわれのしきしんのにほう、われわれのせいめいが、ほとけのせいめいとあらわれるということである。したがって、しゃりほつは、このひゆほんにおいて、「もんしほういん」とりょうげする かいさんけんいちのほうをきいてさとったというのである。じつは、われらしゅじょうのりょうげである。
 もんとは、みょうじそくである。みょうほうれんげきょうの、みょうじをきくがゆえに、みょうじそくという。ほういんとは、しょほうのおとである。しょほうのおととは、みょうほうをいみするのである。ここをもって、もんぐにしゃくするに「ちょうふうそくがっしょう、こうぶつやむことなし」という。ちょうふうとは、ほうかいのおんじょうであり、それは、じょうじゅうにして、やむことがないのである。このおんじょうを、しんげほんにおいては、「ぶつどうのこえをもって、いっさいをきかしむべし」と、といている。いっさいとは、ほうかいのいっさいしゅじょうのことである。このおんじょうとはなんみょうほうれんげきょうである。

 「むかしは、ごんじつ、に、なす、たなごころの、あわざるがごとし」とは、そうたいみょうのたちばであり、げんざいでいえば、いっさいのしゅうきょう、てつがく、しそうが、げんじつのせいかつとゆうりしているともいえる。すなわち、こうふくせいかつかくりつのげんどうりょくでなく、かんねんろんであるということである。
 「いまはごんそくじつとわかる」ことはぜったいみょうのたちばである。じつがたいかい、ごんがかせんにあたるわけである。したがって、なんみょうほうれんげきょうのいちだいひほうをひらいてさんだいひほう、またひらいてろくだいひほう、またひらいてにじゅうはちほん、はちまんほうぞうになるのである。せいかつにやくせば、いっさいほうこれみょうほうであり、ぶっぽうである。しんじんそくせいかつであり、ぶっぽうはたい、せほうはかげなりとりょうげすることをいうのである。

 こうぶつとは、むかしはごん、ぶついんにあらず、じつ、ぶっかにあらず。
 けんめいににぜんきょうをしゅぎょうしても、けっしてほとけになれない。こうふくになろうと、いかなるどりょくをはらっても、ふこうのげんいんをだかいすることはできない。にぜんきょうのしゅぎょうは、たとえば、かおくそれじたいをつくっているのではなく、そのやぐらをつくっているにすぎない。またインドへひこうきでりょこうするとする。もくてきはインドである。しかし、にぜんきょうは、くうこうにいくとちゅうのバスのなかにいるようなものである。すべてもくてきへのしゅぎょうかつどうにすぎない。これにたいし、じょうぶつのもくてきたる、またりろんじょうかんぺきなごくりとなる、いちねんさんぜんをといたのがほうべんぽんである。せっぽうしゅうであるしゃりほつは、このほうべんぽんにきて、はじめてせいめいのほんしつをさとることができたのである。そして、きょうもんじょうではひゆほんにきて、しゃくそんにたいしてがっしょうしたぎしきをふむわけである。
 「しきしんのにほうをみょうほうとかいごするをかんきゆやくととくなり」とは、せいめいてつがくのごくりであり、ちえだいいちのしゃりほつが、さいごにえとくしたのも、このしきしんふにのせいめいてつりいがいのなにものでもない、ということである。うちゅう、せいめいのこんぽんは、こころでもない、しきしん、ふに、なのである。げんざい、しんのちじん、てつじん、がくしゃがいるならば、しゃりほつのごとく、ごほんぞんのまえで、かんきゆやくすることは、とうぜんであろう。

 こうぶつとは、いちいちもんもん、みなこんじきの、ぶつたいとむかいたてまつることなり、がっしょうのにじに、ほうかいをつくしたるなり。
 ここで「こんじきのぶつたい」の、こんじきといういみは、ほけきょうで、とかれている、ひとつひとつのもんが、ことごとく、ほとけのしんじつの、げんげんくくであるということであり、もんじそれじたいが、しきしんふにの、ほとけのせいめいであるともいえる。
 ゆえに、しょしゅうもんどうしょうにいわく、「もんじは、これ、いっさいしゅじょうの、しんぽうのあらわれたるすがたなり、されば、ひとのかけるものをもって、そのひとのこころねをしって、そうすることあり、およそ、しんとしきほうとは、ふにのほうにてあるあいだ、かきたるものをもって、そのひとのひんぷくをも、そうするなり、しかれば、もんじは、これ、いっさいしゅじょうのしきしんふにの、すがたなり」(0380-12)と。
 また、もくえ、にぞうかいげんのことにいわく、「ほけきょうのもんじは、ほとけの、ぼんのんじょうの、ふかけんむたいしきを、かけんうたいしきの、かたちと、あらはしぬれば、けんぎょうのにしきとなれるなり、めっせる、ぼんのんじょう、かへつて、かたちをあらはして、もんじとなつて、しゅじょうをりやくするなり。
 ひとのこえをだすに、ふたつあり、ひとつには、じしんはぞんぜざれども、ひとをたぶらかさむがために、こえをいだす、これはずいたいのこえ、じしんのおもいをこえにあらはすことあり、されば、こころがこえとあらはる、こころはしんぽう、こえはしきほう、こころよりしきをあらはす、また、こえをきいて、こころをしる、しきほうがしんぽうをあらわすなり、しきしんふになるがゆへに、ににと、あらはれて、ほとけのぎょいあらはれて、ほっけのもんじとなれり、もんじへんじて、また、ほとけのぎょいとなる、さればほけきょうを、よませたまはむひとは、もんじとおぼしめすことなかれ、すなわちほとけのぎょいなり、」(0468-13)と。
 ごほんぞんは、たんなるもんじでもなければ、かみでもない。まっぽうのごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのおいのちそのものである。ゆえに、きょうおうどのごへんじにいわく、「にちれんがたましひを、すみにそめながして、かきてそうろうぞ、しんじさせたまへ、ほとけのみこころは、ほけきょうなり、にちれんが、たましひは、なんみょうほうれんげきょうに、すぎたるはなし」(1124-)と。「にちれんがたましひ」とは、にちれんだいしょうにんの、おいのちということである。ゆえに、われわれは、このごほんぞんによって、だいしょうにんのせいめいを、わが、にくだんのきょうちゅうにゆげんし、こんごうふえの、ぜったいのこうふくきょうがいを、ひらいていくことができるのである。
 しかしながら、しんじんのないものは、ごほんぞんをかるくかんがえるのである。ごほんぞんは、ほとけのせいめいそのものであるなどとは、おもいもよらず、たんに、かみにじがかいてあるぐらいにしか、かんがえないのである。ゆえに、いかにごほんぞんにむかったとしても、それは、がっしょうこうぶつのこうぶつにはならない。
 このことを、そやにゅうどうどのごへんじには、つぎのようにおおせられている。「このきょうのもんじは、みな、ことごとく、しょうしんみょうかくの、みほとけなり、しかれどもわれらは、にくげんなれば、もんじとみるなり、れいせば、がきはごうがを、ひとみる、ひとはみずとみる、てんにんは、かんろとみる、みずは、ひとつなれども、かほうにしたがつて、べつべつなり、このきょうのもんじは、もうげんのものは、これをみず、にくげんのものは、もんじとみる、にじょうは、こくうとみる、ぼさつはむりょうの、ほうもんとみる、ほとけは、いちいちのもんじを、こんじきの、しゃくそんと、ごらんあるべきなり、そくじぶつしんとは、これなり」(1025-01)と。
 だからといって、ごほんぞんにむかって、しょうだいしたときに、ごほんぞんが、だいしょうにんのおすがたとしてみえたなどというのは、おおきなあやまりである。そのようなことは、ぜったいにありえないことである。われわれは、ごほんぞんのそのままのすがたを、はいすればよいのである。ただごほんぞんのぜったいのくどくを、かくしんし、しょうだいし、だいかんきをしょうじていくことが「いちいちもんもん、みな、こんじきのぶつたいとむかいたてまつることなり」にあたるのである。

 じごく、がきの、おのおののとうたい、そのほか、さんぜんのしょほう、そのまま、がっしょうこうぶつなり。
 これを、われわれのせいかつに、やくしていえば、いっさいしゅじょうことごとくが、みょうほうれんげきょうのとうたいであるがゆえに、しんじんしていないひとであっても、ぜんぶ、がっしょうこうぶつしている。すなわち、なむみょうほうれんげきょうを、もとめているすがたといえよう。
 しゃくぶくされ、はんたいしていても、そのひとのこころのうごきは、ほんねんてきに、くらやみのむしが、でんとうをもとめるように、みずがたかきよりひくきにながれるように、みょうほうをもとめているものなのである。もうはんたいしながらも、しだいに、しんこうしなくてはならないじょうたいに、なってくるものだ。これこそあきらかにこうぶつのすがたなのである。
 それは、われわれのたいけんが、なによりもよく、じっしょうしているではないか。また、うじょうのみではなく、ひじょうもおなじく、みょうほうのとうたいである。そうもくにも、またじっかいがごぐしているのである。このことについては、なんしんなんげであるのに、そうもくじょうぶつぐけつとうの、ごしょをよくよくはいすべきで、いっぷくのまんだら、すなわち、もったいなくも、ごほんぞんのおちからも、ひじょうのぶっかいである。
 また、われわれがしんで、いしになり、そうもくになることも、ごしょにてらしてあきらかなことである。また、かみのけ、つめはひじょうである。これもまたひじょうとうじょうとのあいだには、ぜったいてきくべつがあるのではなく、がいめんてきなものであり、ともにじっかいごぐのとうたいであることは、あきらかである。ゆえに、ひじょうもまた、がっしょうこうぶつしているとかんがえられるのである。たとえていえば、そうもくは、たいようをもとめる、かげにさきせいちょうするより、なんとかたいようをもとめ、のびのびとせいちょうしようとしている、ほんしょうがあるものだ。そうもくのしゅくめいにより、そのぶんぷは、おのずからちがうのもふしぎなことといえよう。
 しかし、いきぬくためには、ぜんりょくをあげて、みずとひかりをもとめぬいて、ねをはり、はなをさかせようとする。これらのはたらきのほんげんをたずねれば、やはりだいうちゅうのリズムにかなっていきようとするすがたであり、がっしょうこうぶつなのである。

 つぎに、しゃりほつをくう、け、ちゅうのさんたいにたてわけ、またそのかんごやくの「しんし」を、しきしんのにほうでみていくということ、しゃくそんの、じゅうだいでしのひとりである、しゃりほつとのかんけいをかんがえてみよう。たしかに、しゃりほつというなのひとは、じつざいしていたにちがいない。じつに、あたまがよく、ちえだいいっといわれるぐらい、しゃくそんのせっぽうを、よくりかいしたひとといわれている。しかし、ほけきょうは、ばんにんにつうずる、ほうていしきをしめしたものである。したがって、しゃりほつというひとを、とおして、ばんにんがこうふくになる、げんりをといているわけなのである。そうなれば、しゃりほつは、もはやこじんとしての、しゃりほつではない。
 いっさいしゅじょうをだいひょうしての、しゃりほつとなってくる。 しゃりほつは、ほけきょうのせっぽうをきき、みょうほうれんげきょうをしんじゅし、みずからも、えんゆうのさんたい、すなわち、みょうほうのとうたいであるとかくちし、また、しきしんを、みょうほうとひらいたのであった。ゆえに、ほけきょうにおける、しゃりほつは、えんゆうのさんたいのみょうほうそのものであり、しきしんをみょうほうと、ひらいた、かくたいである。したがって、しゃりほつをくう、け、ちゅうのさんたいにやくし、また、しんしを、しきしんとやくするものである。
 しかも、ふしぎとしゃりほつというなも、しんしというなも、さんたい、しきしんのいみをもっているということは、しゃりほつのしゅつげんは、ぐうぜんではなく、ぶつえんがふかいものともいえるし、おおきなしめいをゆうしてうまれてきたといえようか。

 しゃりほつが、ほけきょうのせっぽうをきいて、いったいなにをさとったのか、それはあとにもせつめいするが、じのいちねんさんぜんの、なんみょうほうれんげきょうをさとって、じょうぶつしたのである。このみょうほうに、がっしょうすることが、きょうちみょうごうであり、しんのがっしょうになるのである。ゆえにしゃりほつにせよ、ぼんぐのわれらにせよ、じのいちねんさんぜんのとうたいにむかって、しょうだいするとき、くうけちゅうのさんたい、ほっぽうおうのさんじんを、かくちすることになるのである。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、ことごとくしゃりほつなり、しゃりほつは、そくしゃかにょらい、しゃかにょらいは、そく、ほけきょう、ほけきょうは、そくわれらがしきしんのにほうなり、よって、しんし、このほんのとき、もんしほうおんとりょうげせり、もんとは、みょうじそくほうおんとは、しょほうのおんなり、しょほうのおんとはみょうほうなり。
 ここに、しゃりほつとは、まっぽうのわれらしゅじょうであり、しゃかにょらいとは、にんほんぞんたる、にちれんだいしょうにんであり、ほけきょうとは、ほうほんぞんである、ほけきょうである。すなわち、まっぽうのわれらしゅじょうは、にんぽういっかの、ごほんぞんをしんずることによって、だいしょうにんと、われわれはしていふにとなり、わがみも、みょうほうのとうたいと、あらわれるのである。「もんしほうおん」の「もん」がみょうじそくということは、しんじゅのいみである、たんに「きく」といったいみではない。しんがなければ、いかに、きいても、しんにきいたことにはならない。ゆえににちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうに、「まさにしるべし、よくきくとは、これしんじゅのぎなり、もし、しんじゅせずんば、なんぞよくきくといわんや」とおおせられている。
 しゃりほつも、けっきょく、しんずることによって、じょうぶつしたのである。しかも、それはもんじょうのほけきょうではなく、もんていげしゅ、じぎょうのいちねんさんぜんの、なんみょうほうれんげきょうをしんじて、みょうかくのごくいにいたったのである。
 このことは、とうりゅうぎょうじしょうにつぎのごとくのべられている。
 「とう、こんにち、ざいせとくだつのしゅじょうは、さんごげしゅのやからなり、なんぞ、くおんがんじょのげしゅとうというや、こたう、さんごげしゅというとは、しばらくこれ、とうけだいいっだいにのきょうそうのこころなり、もし、だいさんのきょうそう、あらわれおわれば、ざいせのしゅじょうは、みなことごとく、くおんがんじょげしゅのひとなり、しばらくしんしのごときろくおんの、だんなくは、ただこれ、とうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくにあらず、これすなわち、しゅしをしらざるゆえなり、しかるに、ほっけにらいしして、だいつうのしゅしをかくちす、これすなわち、かせつのだんなくなり。
 しかりといえども、もしほんもんにのぞむれば、なお、これ、とうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくにあらず、いまだ、くおんげしゅを、りょうせざるのゆえなり、しかるのち、ほんもんにいたって、くおんのげしゅを、あらわす、これすなわち、かせつのだんなくなり、しかりといえども、もし、もんていにのぞむれば、なお、これとうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくに、あらざるなり。
 もし、もんていのまなこをひらいて、かえって、かのとくどうをみれば、じつに、くおんげしゅのくらいにかえって、みょうじみょうかくのごくいにいたる、これすなわち、しんじつのかせつのだんなくなり、ゆえに、きょうにいわく、『いしんとくにゅう』とううんぬん。
 いしん、あに、みょうじにあらずや、とくにゅうは、すなわち、これみょうかくなり、また、いわく『がとうとうしんじゅぶつご』うんぬん、しゅうそ、しゃくしていわく、『このむささんしんは、いっじをもってえたり、いわゆるしんのいちじなり』うんぬん、しんはそく、えのいん、みょうじそくなり、むささんしん、あに、みょうかくにあらずや、しんし、すでにしかり、いっさいみな、しからん』うんぬん、とうりゅうじんぴ、さんじゅうひでんうんぬん」。
 しんげほんの「ぶつどうのこえをもって、いっさいをきかしむべし」のもんはいっさいしゅじょうのことである。
 いっさいしゅじょうに、じっかいのせいめいがある。じごく、がき、ちくしょう、しゅら、にん、てん、えんかく、ぼさつ、ほとけのじっかいであり、それぞれ、ぶっしょうをそなえている。このぶっかいを、ゆげんせしめるちからが、みょうほうなのである。そして、そのおんじょうとは、なんみょうほうれんげきょうなのである。それをずけんしたのがごほんぞんである。
 ごほんぞんとは、くどくじゅ、または、りんえんぐそくともいう。ちょうどここに、123のすうじがあって、このすうじは、うちゅうにくおんより、じつざいするほうりである。これを、こくばんまたは、ちょうめんにずけんして、われわれのせいかつと、かんけいをむすぶ、あたかもそのように、うちゅうのほんげんりきたる、なんみょうほうれんげきょうを、だいしょうにんは、ごほんぞんとして、ずけんあそばされたのである。


P0722    だいさん しんいたいねんけとくあんのんのこと。

  もんぐのごにいわく、じゅうぶつは、これ、しんのきをけっするなり、もんぽうはこれ、くちのきをけっするなり、だんしょぎくいとは、これいのきをけっすと。P0723
 おんぎくでんにいわく、しんいたいねんとは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんなり、しんとは、しょうじそくねはんなり、いとはぼんのうそくぼだいなり。
 じゅうぶつとは、にちれんにしたがう、たぐいとうのことなり、くちのきとはなんみょうほうれんげきょうなり、いのきとは、むみょうのわくしょうなきゆえなり、ここをもってこれをおもうに、このもんはいっしんさんかん、いちねんさんぜん、われらが、そくしんじょうぶつなり。ほうべんのおしえは、たいねんにあらず、あんのんにあらざるなり、ぎょうおけんきょうたるなんゆえのおしえなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここでは、ひゆほんでしゃりほつが、「せそん、われむかしよりこのかた、ひねもすよもすがら、つねにみずからこくしゃくしき。しかるにいま、ほとけにしたがいたてまつり、いまだきかざるところの、みぞうのぽうをきいて、もろもろのぎかいをだんじ、しんいたいねんとして、こころよくあんのんなることをえたり」と、よろこんでいるぶぶんである。
 もんぐのごには、つぎのようにしゃくしている。じゅうぶつとは「しん」のよろこびをけつじょうする。もんぽうは「くち」のきをけつじょうする。だんしょぎかいとは、「こころ」のきをけつじょうすると。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「しんいたいねん」とは、みょうほうにより、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんときいて、こうふくきょうがいにじゅうすることである。「しんい」をわけて「しん」のたいねんとは、しょうじそくねはんである。「こころ」のたいねんとは、ぼんのうそくぼだいである。「じゅうぶつ」しんのきをけっするので、それは、にちれんだいしょうにんにずいじゅんするもんかのことである。くちのきとは、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることである。こころのきとは、ふこうのこんげんの、むみょうわくのさわりをのぞくがゆえである。
 ここをもってかんがえてみるのに、このもんは、いっしんさんかん、いちねんさんぜんのりほう、われらが、そくしんじょうぶつのほうもんなのである。ほうべんごんきょうのおしえは、あんたいでもなく、あんのんでもないのである。ほうべんのおしえは、けんきょうをいく、けんきょうにるなんおおきがゆえに、ついにぶつどうをなすることは、できないのである、われわれは、しんじんし、しんいたいねん、けとくあんらくに、ならなくてはならない。それがしんじんのもくてきである。

 じゅうぶつはこれみのよろこびをけっするなり。
 いま、われわれは、だいしょうにんのおおせどおりに、しゃくぶくぎょうにまいしんしている。そしてまた、けぎのこうせんるふに、まいしんしている。それにはんし、せけんのひと々びとのなかには、いっしょうをむなしくすごすひとのなんとおおいことか。せつなしゅぎにながされ、あるいはじこのりやくをついきゅうすることのみにぼっとうしているすがたは、まさにちくしょうかい、がきかいそのものではないか。しんにいきがいのあるじんせい、それは、みずからのいっしょうじょうぶつをめざし、しゃかいのはんえいのために、みをなげうってすすむことにつきる。
 われわれは、うけがたきじんしんをうけ、しかも、だいじょううえんの、にほんこくにたんじょうし、あいがたき、だいぶつぽうにめぐりあえ、しかもときをえて、けぎのこうせんるふ、たっせいのじだいに、いきるとは、なんたるふくうん、なんたるよろこびであろうか。
 せんじしょうにいわく、「どうしんあらんひとびとは、これをみ、ききて、よろこばせたまえ、しょうぞう、にせんねんのだいおうよりも、こうせいを、をもはんひとびとは、まっぽうのいまの、たみにてこそあるべけれ、これをしんぜざらんや、かの、てんだいのざすよりも、なんみょうほうれんげきょうととなうる、らいにんとはなるべし」(0260-09)と。このおんふみを、そのままじっせんできるのは、われわれをおいて、ほかにあろうか。われわれは、よろこびに、みのふるえるすがたで、なくてはならない。
 そしてまた、「もろもろのぎかいをだんずる」、 なにがただしいせいめいかんなのか、ただしいじんせいのありかたなのか、さいこうぜんなのか、こうしたなやみや、ぎもんはなんみょうほうれんげきょうによって、ぜんぶかいけつできる。しゅくめいてんかんできる。これは「ぜん」のよろこびではないか。
 われわれは、しんじんするいぜんは、かっこたるもくてきかんもなく、もんもんとして、たのしまざるひびがおおかった。しんこうなきじんせいは、まさに、やみよのごとくである。そして、なんとかしんじつをつかもうと、あんちゅうもさくしていたのである。
 しかも、いったいなにがえられるというのだろう。おおくのひとは、ざせつし、げんじつとだきょうし、じりゅうにげいごうし、そのなかにうきくさのごとく、はかなきじんせいをおくり、いっぽう、じこにちゅうじつに、いきようとすれば、ますます、げんじつとじこのきぼうとの、むじゅんにうちひしがれ、おきばのないじこを、みいだすほかあるまい。そして、これまた、げんじつのまえに、くっぷくせざるをえないのである。

かのゆうめいな、たいしょうきのさっか、あくたがわりゅうのすけは、しんけいすいじゃくのすえ、じさつし、きたむらとうこくもまた、「じんせいにあいわたるとは、なんのいいぞ」とじんせいにはんもんし、ついには、とうしんじさつした。さらにまた、いちこうのしゅうさい、ふじむらみさおも「じんせいとはなにか、いわくふかかい」とのことばをのこし、わかきいのちをたった。なお、せんごのこんらんきにあって、たすうのせいねんを、そのじょうねつてきな、ぶんしょうでわかした、だざいおさむも、たまがわじょうすいにみをなげ、よのひとびとに、おおきな、はもんをなげかけた。
 かの、ロシアのぶんごう、トルストイは、ふじんとのあいだがうまくいかず、「アンナ、カレニーナ」、「せんそうとへいわ」などの、たいさくをみずからひていし、しゅっけしたのち、いっかんそんでのたれじにしたことは、まことにあわれであった。
 また、かのフランスのぶんごう、モーパッサンもくるいじにし、ドイツのてつがくしゃニーチェもきょうらんのすえ、ひごうのしをとげている。
 いずれにせよ、こころのおくそこにある、さまざまなぎねんは、ついにはれずはんもんし、またはんもんしたさいごのけっかが、これであったとおもう。しんのてつがく、さいこうの、しそうにとうたつ、できぬじんせいが、いかにみじめなものかを、ゆうべんにものがたっている。
 もしも、かれらが、にちれんだいせいてつのだいせいめいてつがくをしったならば、「みずからもとめていたものは、これなり」と、つよきつよきかくしんをもち、きょうちゅうには、あらたなる、きぼうと、ゆうきが、わきおこったにちがいあるまい。
 つぎに、「しんいたいねん」をわけると、しんのとたいねん、いのとたいねんにわかれる。しんのとたいねんは、しょうじそくねはんであり、いのとたいねんは、ぼんのうそくぼだいである。しょうじは、ここでは「くるしみ」とやくす。すなわち、「しょうじのくかい」というばあいの、しょうじである。ぼんのうが、こころのもんだいがちゅうしんであるのにたいし、しょうじとは、せいかつのうえにあらわれた、くるしみをいう。
 たとえば、「しょうばいがふしんでこまった」というのは、しょうじである。それを、ごほんぞんをもち、ふくうんをつみ、ちえをはたらかして、あらなみをゆうゆうとのりきり、うちかち、せいこうすれば、ねはんである。
 また、がくせいがいっしょうけんめいにべんきょうして、なんとかしけんにパスしようとおもい、どりょくしているのは、しょうじである。しかし、それによってパスできたとすれば、ねはんである。それにたいし、ぼんのうは、こころのもんだいであり、ないめんてきなさまざまななやみである。また、とん、じん、ち、まん、ぎとうのせいめいのにごりである。
 そのぼんのうを、だいもくのちからによって、しゅくめいてんかんし、ぼだいにかえきっていく、すなわち、ぼんのうのくさりにしばられないで、ぼんのうをちえによって、つかいきっていく、これが、ぼんのうそくぼだいである。ぼんのうそくぼだいも、しょうじそくねはんも、ともにおなじげんりであり、そこに、ぜったいてきなくべつがあるわけではない。またひょうりいったいのかんけいともいえる。しかし、いちおう、ぼんのうとしょうじのあいだには、すこしニュアンスのちがいがある。
 まず、ここでしめされているように、ぼんのうは、どちらかといえば、こころのもんだいであり、しょうじとは、せいかつにあらわれたじょうたいにおいていわれる。
 ごひゃく、でしほんに「しんしんへんかんき」とあり、それにたいする、だいしょうにんのおんぎくでんにも、「しんはしょうじそくねはんなり、しんとはぼんのうそくぼだいなり」とあるがごとくである。
 つぎに、ぼんのうは、いっさいのくるしみの、げんいんとされ、ぼんのうのないようである、とん、じん、ちとうにしはいされたせいかつ、すなわち、ぼんのうのけっかとしての、せいかつが、しょうじであるというように、いんがのかんけいとして、とらえることもできる。また、ぼんのうは、あるいちじてんにおいて、なやみ、はんもんするという、よこのかんけいであるのにたいし、しょうじは、せいめいのるてんのうえにおいて、ろんぜられる、ぼんのうのせいかつであり、たてのかんけいにあるといえる。
 ゆえに、ぼんのうそくぼだいは、じっかいかいじょうをといた、ほけきょうしゃくもんのこころであり、しょうじそくねはんは、えいえんのせいめいを、ときあかしたほんもんのこころである。

 じゅうぶつとは、にちれんにしたがう、たぐいとうのことなり。
 にちれんだいしょうにんこそ、まっぽうのいっさいしゅじょうにとって、しゅであり、しであり、おやであるところの、ごほんぶつであるという、ごせんげんとはいすることができる。しかもこのおんふみによれば、だいしょうにんをごほんぶつとあおぐ、われらこそ、じゅうぶつであり、たとえ、だいしょうにんをあがむとも、「にちれんだいぼさつ」などと、よぶことは、じゅうぶつではけっしてなく、これこそ、ほとけにそむくぶつてきである。
 「にちれんにしたがう」とは、にちれんだいしょうにんのおおせどおり、すんぶんのくるいもなくじっせんすることである。
 にちれんだいしょうにんは、みでしの、そやにゅうどうどのが、かんじんのほんぞんしょうの、「いっほんにはんよりのほかは、しょうじょうきょう、じゃきょう、みとくどうきょう、ふぞうきょうとなずく」(0249-06)とのもんをきょっかいし。
 「しゃくもんふどく」のけんかいをたてたときに、しぼさつぞうりゅうしょうにおいて、それをきびしくいましめられ、つぎのようにいわれている。
 「わたくしならざるほうもんを、びゃくあんせんひとは、ひとえに、てんまはじゅんのそのみにいりかわりて、ひとをして、じしんともに、むげんだいじょうに、おつべきにてそうろう、つたなし、つたなし、このほうもんは、ねんらい、きへんにもうしふくめたるように、ひとびとにも、ひろうあるべきものなり、そうじて、にちれんがでしといつて、ほけきょうを、しゅぎょうせんひとびとは、にちれんがごとくにしそうらへ」(0989-09)また、しゅじゅおんふるまいごしょには、「にちれんをもちいぬるとも、あしくうやまはば、くにほろぶべし」(0919-16)とも、おおせられている。
 このようにみて、げんざい、にちれんだいしょうにんのおおせのごとく、いかなるこんなんをも、ものともせずすすんでいるのが、そうかがっかいなのである。まさにわれわれこそ、じゅうぶつではないか。そうであれば、しんいたいねん、けとくあんらくの、しんじつのこうふくきょうがいをるうとは、ぜったいであると、かくしんすべきである。
 つぎに、むりょうぎきょうの、「けんきょうたるなんこ」(けんきょうをいくにるなんおおきがゆえに)との、もんであるが、これは、にぜんきょうでは、るなんがおおいということである。すなわち、るなんおおきじんせいのなかを、さまよいいくしかないのである。
 すなわち、てんじょうかいであっても、ごすいをうけるし、どんなにいましあわせであっても、にほんのくにがせんそうで、たこくからしんぴつされたらどうするのか。
 としをとったならば、あるいはしんだばあいどうするのかとうとう、かんがえてみれば、まことに、るなんおおきじんせいである。
 それにたいし、われわれは、なんみょうほうれんげきょうととなえることによって、へんどくいやくができ、しゅくめいてんかんができ、ばっそくりやくにかえていけるのである。これほどの、さちはないではないか。これをかくしんしたときに、そのひとは、しんいたいねん、けとくあんのんのひとといえるのである。すなわち、がしどあんのんなのである。それをかくしんするか、しないかが、じんせいのいっさいの、こうふこうの、けっていせんになる。まことにしんじんのきゅうきょくはそれしかないのである。

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  • おんぎくでん ほうべんぽんはちかのだいじ 3 から8まで

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 5月23日(火)01時17分8秒
 
  0716    だいさん ゆいいいちだいじいんねんのこと

 もんぐのよんにいわく、いちは、すなわち、いちじっそうなり、ごにあらず、さんにあらず、ななにあらず、きゅうにあらずゆえに、いちというなり、そのしょう、こうはくにして、ごさんななきゅうより、ひろし、ゆえになずけて、だいとなす、しょぶつしゅっせのぎしきなり、ゆえになずけてじとなす。
 しゅじょうに、このき、つてあ、ほとけをかんず、ゆえに、なずけて、いんとなす、ほとけ、きをうけて、しかも、おうず、ゆえになずけて、えんとなす、これを、しゅっせのほんいとなす。
 おんぎくでんにいわく、いちとは、ほけきょうなり、だいとはけごんなり、じとはちゅうかんのさんまいなり、ほっけいぜんにも、さんたいあれども、くだけたるたまは、たからに、あらざるが、ごとしうんぬん、また、いわく、いちとはみょうなり、だいとは、ほうなり、じとはれんなり、いんとは、げなり、えんとはきょうなりうんぬん。
 また、いわく、われらが、こうべはみょうなり、のどはほうなり、むねはれんなり、はらはげなり、あしはきょうなり、このごしゃくのみ、みょうほうれんげきょうのごじなり、このだいじを、しゃかにょらい、しじゅうよねんのあいだ、おんみつしたもうなり、こんきょうのとき、ときいだしたもう、このだいじを、とかんがために、ほとけはしゅっせしたもう、われらがいっしんの、みょうほうごじなりと、かいぶつちけんするとき、そくしんじょうぶつするなり。
 かいとは、しんじんのいみょうなり、しんじんをもって、みょうほうをとなえたてまつらば、やがて、かいぶつちけんするなり、しかるあいだ、しんじんをひらくとき、なんみょうほうれんげきょうとしめすを、しぶつちけんというなり、しめすときに、りょうぜんじょうどの、じゅうしょとさとり、そくしんじょうぶつとさとるを、ごぶつちけんというなり、さとるとうたい、じきしどうじょうなるを、にゅうぶつちけんというなり、しかるあいだ、しんじんの、かいぶつちけんをもって、しょういとせり。
 にゅうぶつちけんのにゅうのじは、しゃくもんのこころは、じっそうのりないにきにゅうするを、にゅうというなり、ほんもんのこころは、りそくほんかくとはいるなり、いま、にちれんらのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるほどのものは、ほうとうにはいるなりうんぬん。P717
 またいわく、かいぶつちけんの、ほとけとは、きゅうかいしょぐのぶっかいなり、ちけんとは、みょうほうのにじ、しかんのにじ、じゃくしょうのにとく、しょうじのにほうなり、しきしんいんがなり、しょせんちけんとは、みょうほうなり、きゅうかいしょぐの、ぶっしんを、ほけきょうのちけんにて、ひらくことなり、ここをもって、これをおもうに、ほとけとは、きゅうかいのしゅじょうのことなり、このかいかく、あらわれて、こんじんよりぶっしんにいたるまで、たもつやいなやと、しめすところが、みょうほうをしめす、しぶつちけんというなり。
 していかんのうして、うけとるとき、にょがとうむいと、さとるを、ごぶつちけんというなり、さとるつてみれば、ほうかいさんぜんの、おのおののとうたい、ほけきょうなり、このないしょうにはいるを、にゅうぶつちけんというなり、ひすべしうんぬん。
 またいわく、しぶつちけんとは、はちそうなりかいとは、しょうのそうなり、にゅうとはしのそうなり、ちゅうかんのじごはろくそうなり、げてんたくたいとうは、しぶつちけんなり、しゅっけごうま、じょうどうてんぽうりんとうは、ごぶつちけんなり、 ごんきょうのこころは、しょうじをおんりする、きょうなるがゆえに、しぶつちけんにあらざるなり、こんきょうのとき、しょうじのにぽうは、いっしんのみょうゆう、うむのにどうは、ほんかくのしんとくとかいかくするを、しぶつちけんというなり、 しぶつちけんをもって、さんぜのしょぶつは、いちだいじとおぼしめし、よにしゅつげんしたもうなり、このかいぶつちけんの、ほけきょうを、ほうねんは、しゃへいかくほうといい、こうぼうだいしは、だいさんのれつ、けろんのぽうと、ののしれり。
 ごぶつどうどうのしたを、きるものにあらずや、じかくだいし、ちしょうとうは、あくしにつるぎをあたえて、わがおやのこうべを、きらするものに、あらずやうんぬん。
 またいわく、いっとはちゅうたい、だいとはくうたい、じとはけたいなり、このえんゆうのさんたいは、なにものぞ、いわゆる、なんみょうほうれんげきょうこれなり、このごじ、にちれんしゅっせのほんかいなり、これをなずけて、じとなす、にほんこくのいっさいしゅじょうのなかに、にちれんが、でしだんなとなるひとは、しゅじょううし、きかんぶつこ、みょういいんのひとなり。
 それがために、ほけきょうのごくりを、ひろめたるは、しょうきにおうこ、みょういえんにあらずや、
 いんはげしゅなり、えんはさんごのしゅくえんに、きするなり、じのいちねんさんぜんは、にちれんがみにあたりてのだいじなり、いちとはいちねん、だいとはさんぜんなり、このさんぜんときたるは、じのいんねんなり、じとはしゅじょうせけん、いんとはごおんせけん、えんとはこくどせけんなり、こくどせけんのえんとは、なんえんぶだいは、みょうほうれんげきょうを、ひろむべきほんえんのくになり、きょうにいわく、「えんぶだいない、こうりょうるふ、しふだんぜつ」これなりうんぬん。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34ー1
かいしゃくこうぎ
 *、ほうべんぽんだいにには、ほとけのしゅっせのほんかいについて、つぎのようにのべられている。
 「このほうはしりょうふんべつのよくするげところにあらず。ただしょぶつのみゆうして、ないしよくこれをしるしめせり、ゆえんはいかん。しょぶつせそんは、ゆいいちだいじのいんねんをもつてのゆえに、よにしゅつげんしたまう。しゃりほつ、いかなるをかしょぶつせそんは、ゆいいちだいじのいんねんをもってのゆえに、よにしゅつげんしたもうとなづくる。しょぶつせそんは、しゅじょうをしてぶつちけんをひらかしめ、せいじょうなるをえせしめんとほっするがゆえによにしゅつげんしたもう。
 しゅじょうにぶつちけんをしめさんとほっするがゆえに、よにしゅつげんしたもう。しゅじょうをして、ぶつちけんをさとらしめんとほっするがゆえに、よにしゅつげんしたもう。しゅじょうをして、ぶつちけんのみちにはいらしめんとほっするがゆえに、よにしゅつげんしたもう。しゃりほつ、これをしょぶつはゆいいちだいじのいんねんをもってのゆえに、よにしゅつげんしたもうとなづく」と。
 この「ゆいいいちだいじいんねん」のきょうもんをについて、もんぐのよんではつぎのようにいっている。いちだいじいんねんの「いち」とはごとかさんとかななとかきゅうとかいうすうじをそうたいしていういちではない。いっさいのこんぽんといった、ぜったいてきないみでのいちでいちじっそうをいみする。
 また、さんじょうでもなく、ごじょうでもなく、ななほうべんでもなく、きゅうほうかいでもない。あらゆるものをそうかつしていちというのである。すなわち、ここにゆういちとは、みょうほうれんげきょうをさすのであり、そのみょうほうれんげきょうというものはしんらばんしょうことごとくにわたっており、ごじょう、さんじょう、ななほうべん、きゅうほうかいよりもひろい、ゆえに「だい」というのである。
 このみょうほうれんげきょうをとくぎしきがしょぶつしゅっせのぎしきであり、これはじそうであり、ゆえに、これを「じ」となづけるのである。ほとけがよにしゅつげんするには、しゅじょうにほとけをかつぼうするきこんがなければならない。すなわち、ほとけをかつぼうするしゅじょうのきが「いん」となり、ほとけはこれにおうじてしゅつげんするのである。これを「えん」というのである。このいちだいじいんねんこそ、ほとけのしゅっせのほんい、ほんかいである。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「いち」とはちゅうどうじっそうをといたほけきょうであり、「だい」とはくうたいをといたけごんきょうであり、「じ」とはけたいをといたあごん、かたとう、ねはんとう、ちゅうかんのさんまいなのである。これはいちだいのさんたいである。ほけきょうにおいてこのさんたいがえんゆうそうそくしてとかれているのであるが、ほけきょういぜんのきょう々きょうでは、ばらばらにとかれており。「きゃくりゃくのさんたい」である。あたかも、くだけたたまはたからとしてもちいられないように、しんじつこうふくへのおしえとしてもちいられることはできないのである。
 まただいしょうにんがおおせられるには、いちとはみょうであり、だいとはほうであり、じとはれんであり、いんとはげであり、えんとはきょうである。すなわちいちだいじいんねんとはみょうほうれんげきょうのことである。
 また、だいしょうにんのおおせには、われわれのこうべはみょうであり、のどはほうであり、むねはれんであり、はらはげであり、あしはきょうである。すなわち、われわれの、しんたいじたいが、みょうほうれんげきょうの、とうたいなのである。
 この、だいじをしゃかにょらいは、しじゅうよねんのあいだ、おんみつして、とかなかったのである。ほけきょうにきて、はじめてといたのである。また、このだいじをとくために、ほとけはしゅつげんしたのである。われわれのいっしんが、みょうほうれんげきょうのごじであると、かいぶつちけんするとき、そくしんじょうぶつするのである。
 「かいぶつちけん」の、「かい」とは、「しんじん」のいみょうである。しんじんをもって、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるならば、そのまま、かいぶつちけんするのである。そしてしんじんをひらくとき、にんげんかくめいしたじっそうをしめし、なんみょうほうれんげきょうの、くどくをわがみのうえにけんげんし、ほかにもしめすことが、しぶつちけんなのである。
 みょうほうと、、しめしたときに、こうふくは、ほかのせかいの、どこかにあるのではない。この、げんじつのせかいが、そく、りょうぜんじょうどのじゃっこうどとさとり、わがみが、このままほとけである。そくしんじょうぶつできるのであるとかくしんすることが、ごぶつちけんなのである。そうかくしんしたときに、ひゆほんに、「このほうじょうにじょうじて、ただちに、どうじょうにいたらしむ」とあるように、いかなるなんがあろうと、もうすでに、ぶっかいにてらされた、ゆうゆうたるじんせいこうろと、なっているのである。これを、にゅうぶつちけんと、いうのである。
 ところで、これらの、よんぶつちけんを、いっかんしてつらぬいているものは、しんのいちじであり、またこのように、かい、じ、ご、にゅうと、よっつにたてわけることは、できるけれども、それはぜんぶ、べつのものではなく、ぜんぶ、しんじんのなかに、ふくまれるのであるから、しんじんのかいぶつちけんをもって、しょういとするのである。にゅうぶつちけんの、「にゅう」のじは、しゃくもんのこころでよめば、じっそうのりない、すなわち、ひゃっかいせんにょ、りのいちねんさんぜんの、きょうがいにはいることである。
 ほんもんのこころで、このにゅうのじをよめば、いっさいしゅじょうの、せいめいにじつざいする、ぶっかいがげんじつにぐげんし、りそくほんさとるとはいる、すなわち、わがみが、そくほんさとる、じのいちねんさんぜんの、とうたいとあらわれることが、にゅうなのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかで、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるほどのものは、ほうとうにはいるのである。すなわち、だいごほんぞんの、たいないにはいり、おのれこころのだいごほんぞんを、ゆげんし、だいうちゅうのリズムと、がっちしたかつどうとなるのであると。
 また、だいしょうにんのおおせには、かいぶつちけんとは、きゅうかいしょぐのぶっかいなのである。この、ちけんということは、みょうほうのにじ、しかんのにじ、じゃくしょうのにとく、しょうじのにほうであり、また、しきしんいんがなのである。しょせん、ちけんとはみょうほうのことなのである。
 ゆえに、かいぶつちけんというのは、きゅうかいしょぐのぶっしん、すなわち、しゅじょうにもともとあった、ぶっかいを、ほけきょうのちけん、すなわち、ごほんぞんによって、ひらくことをいうのである。これをもってかんがえるに、ほとけとは、きゅうかいのしゅじょうのことであって、しゅじょうを、はなれてあるものではない。
 このかいかく、すなわち、しゅじょうにもともと、いだいなる、ぶっかいというせいめいが、あるというかいかくが、あらわれて、こんじん、すなわち、きゅうかいのしゅじょうであるところの、われわれが、ごほんぞんをごじし、いっしょうしんじんを、つらぬきとおし、わがみが、ぶっしんであることを、しめしていくことが、しぶつちけんなのである。
 かくして、その、しんりきぎょうりきによって、ごほんぞんときょうちみょうごうし、ぶつりき、ほうりきがあらわれ、ししょうである、にちれんだいしょうにんおよび、ごほんぞんのせいめいが、われわれの、でしのみのなかに、けんげんされ、ほうべんぽんの、「わがごとく、ひとしくして、ことなること、なからしめんと、ほっしき」のもんのごとく、わがみ、ほとけなりとの、だいかくしんにたつことができる。
 これが、ごぶつちけんである。このように、さとってみれば、うちゅうのありとあらゆるものは、すべて、みょうほうれんげきょうのとうたいなのである。このないしょう、すなわちさとりのきょうがいに、はいることが、にゅうぶつちけんなのである。これは、じつにじゅうだいなことであるから、ひすべきである。
 また、だいしょうにんは、つぎのようにもおおせられている。しぶつちけんとは、はちそうのことである。「かい」とは、「しょう」のそうであり、しゅつたいをさし、「にゅう」はにゅうねはんであり「し」のそうである。かいとにゅうのちゅうかんの、「し」と「さとる」は、ろくそうである。すなわち、げてん、たくたいは、しぶつちけんであり、しゅっけ、ごうまじょうどう、てんぽうりんは、ごぶつちけんである。ごんきょうでは、しょうもしも、はなれたねはんのきょうちが、さとりであるととくが、しんじつは、しょうじのなかに、しぶつちけんをさとることはできない。
 ほけきょうにきて、はじめて、しょうじのにほうは、なんみょうほうれんげきょうの、ふしぎなはたらきであり、うむのにどうも、かいかくのしんとく、すなわち、みょうほうれんげきょうと、あらわれるのであると、かいかくすることが、しぶつちけんであると、とかれたのである。しぶつちけんをもって、さんぜのしょぶつは、いちだいじとおもい、よに、しゅつげんしたのである。
 このしゅじょうの、ぶつちけんをひらくところの、さいこうのきょうである、ほけきょうを、ほうねんは、すてよ、とじよ、けさしおけ、なげうてと、ひぼうし、こうぼうだいしは、だいさんのれつ、けろんのぽうであると、あっくをいい、だいほうぼうを、おかしている。
 これこそ、そうしょぶつ、かこぶつ、みらいぶつ、げんざいぶつ、しゃかぶつのごぶつが、ともに、しゅじょうの、ぶつちけんをひらくことを、いちだいじのいんねんとして、ほけきょうをといた、ごふつどうどうの、ぎしきをふみにじるものであり、ごぶつのしたを、きるものではないか。ひえいざんのざすでありながら、しんごんのあくほうをとりいれたじかく、ちしょうとうは、あくしにつるぎをあたえて、じぶんのおやのこうべを、きらせるものではないかと。
 また、だいしょうにんのおおせには、いちとは、ちゅうどうほっしょうで、ちゅうたい、だいとは、せいめいが、だいうちゅうにへんまんしているということで、くうたい、じとは、じじつのそう、こうどうでけたいである。このさんたいが、バラバラでなく、こんぜんいったいとなっているじったい、すなわち、えんゆうのさんたいとはなんであろうか。それはいわゆる、なんみょうほうれんげきょうなのである。この、なんみょうほうれんげきょうのごじ、すなわち、ごほんぞんをあらわすことこそ、にちれんだいしょうにんの、しゅっせのほんかいなのであり、この、じぎょうのいちねんさんぜんのだいまんだらを、なづけて、じというのである。
 にほんこくの、いっさいしゅじょうのなかでも、にちれんだいしょうにんの、でしだんなとなるひとは、もんぐにある、「しゅじょうに、このき、あって、ほとけをかんずゆえに、なけて、いんとなす」ひとである。そのために、ほけきょうのごくりたる、なんみょうほうれんげきょうをひろめる、にちれんだいしょうにんは、まさに、まっぽうのごほんぶつであり、「ほとけきをうけて、しかも、おうずゆえに、なずけてえんとなす」に、あたるではないか。いんとは、くおんがんじょの、げしゅである。えんとは、さんぜんじんでんごう、ごひゃくじんでんごうの、しゅくえんにきするのである。
 ゆえに、しゃかぶっぽうにおいて、さんぜんじんでんごうのげしゅ、ごひゃくじんでんごうのげしゅというが、それはたんなるえんに、すぎないのであって、いっさいしゅじょうは、ことごとく、くおんがんじょのげしゅに、たちかえって、じょうぶつするのである。
 にちれんだいしょうにんは、その、くおんがんじょの、げしゅである、なんみょうほうれんげきょうを、まっぽうにひろめられたのである。これこそ、じのいちねんさんぜんであり、それは、にちれんだいしょうにんの、ごせいめいそのものであり、だいしょうにんのみにあたる、だいじなのである。
 いちとは、いちねんのせいめいであり、それが、さんぜんとあらわれるのである。しんらばんしょうは、ことごとく、さんぜんのはんちゅうにおさまるゆえに、だいとは、さんぜんなのである。またこのさんぜんの、かつどう、げんしょうというものは、ぜんぶ、いんとえんがわごうしているすがたなのである。
 またじとは、じじつのせいめいかつどうであり、しゅじょうせけん、いんとは、それをこうせいする、ごおんせけん、えんとは、いっさいがかんけいするところの、こくどせけんなのである。こくどせけんであるえんとは、なんえんぶだいは、ほけきょうをひろめるべき、もともと、えんのあるこくどである。ゆえに、ほけきょうの、かんぱつほんには、「えんぶだいのうちに、ひろくるふせしめて、だんぜつせざらしめん」とあるのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・34-1

 *、ここは、ほうべんぽんの、「いちだいじいんねん」のもんを、あらゆるかくどから、とかれているところである。
 まず、いちだいじいんねんとは、ほとけがなにゆえ、しゅつげんしたのかという、いんねんである。
 これすなわち、ほとけのしゅつげんのもくてきは、しゅじょうの、ぶつちけんを、ひらかせるためであり、しゅじょうに、ぶつちけんを、しめすためであり、しゅじょうに、ぶつちけんを、さとらせるためであり、しゅじょうを、ぶつちけんのみちに、はいらしめるためである。このかいじごにゅうが、ほとけのいちだいじいんねんなのである。
 まっぽうのごほんぶつ、にちれんだいしょうにんの、いちだいじいんねんは、ごほんぞんを、こんりゅうせられて、まっぽうまんねんの、いっさいしゅじょうを、すくおうとなされたところに、あらわれる。まっぽうのしゅじょうは、ごほんぞんを、しんじてのみ、ぜったいのこうふくきょうがいを、ひらいていくことができるのである。また、われわれのたちばでいちだいじいんねんとは、ごほんぞんをこんぽんに、みずからのいっしょうじょうぶつをめざし、こうせんるふに、まいしんしていくことにつきるのである。
 また、いちだいじいんねんを、せいめいろんからろんずれば、おんふみに、いちがちゅうたい、だいがくうたい、じがけたいとあるごとく、いちだいじとは、くうけちゅうの、さんたいのことであり、せいめいのほんしつをいう。いんねんとは、せいめいの、うんどうしゆく、ほんしつのげんいん、けっかのかていである。
 たとえば、「A」というひとがいたとする。「A」というしょうぶんは、くうたいであり、すがた、かたちはけたいである。また「A」というひとは、たのいかなるひとでもなく、「A」そのひとである。これはちゅうたいである。「A」というひとのいっしゅんをとらえたとき、くう、け、ちゅうのさんたいが、げんぜんとそなわっている。あるしゅんかんの「A」は、しょくじをしており、あるしゅんかんの「A」は、かいしゃで、しごとをしている。そのじっそうは、くうけちゅうのさんたいで、はあくできるものである。
 しかし、それがどうして、そうなったかといううんどう、へんかの、こんげんてききちょうは、いんがのほうそくである。そうなるべきいんがあり、それがえんに、ふれることによって、かをむすぶ。それがげんざいのじじつとなって、あらわれているのである。すなわち、あるひとつのじじつも、それまでのむりょうのいんとえんとが、むすびあって、きているのである。ゆえにいちだいじいんねんということばで、よこにせいめいのほんしつ、じっそうがとかれ、たてにうんどうし、へんかしている、きちょうである、いんががとかれているのである。
 また、いちだいじいんねんとは、みょうほうれんげきょうのことである。すなわち、おんふみに「いちとは、みょうなりだいとは、ほうなり、じとはれんなり、いんとはげなり、えんとはきょうなり」とあるがごとくである。いちとは、いちじっそうであり、いちじっそうとは、いちねんのせいめいである。
 いったい、せいめいとは、うとおもうべきなのか、むとおもうべきなのか。
 だいしょうにんは、これを、いっしょうじょうぶつしょうにつぎのようにおおせである。「そもそも、みょうとは、なんという、こころぞや、ただ、わがいちねんのこころ、ふしぎなるところを、みょうとはいうなり、ふしぎとは、こころもおよばず、ことばもおよばずと、いうことなり。
 しかれば、すなはち、おこるところの、いちねんのこころを、たずねみれば、ありといはんとすれば、いろもしつもなし、また、なしといはんとすれば、さまざまにこころおこる、ありとおもうべきにあらず、なしとおもうべきにもあらず、うむのふたつのことばも、およばず、うむのふたつのこころも、およばず、うむにあらずして、しかも、うむにへんして、ちゅうどういちじつのみょうたいにして、ふしぎなるを、みょうとは、なずくるなり」(0384-06)と。
 つぎに、「だいとは、ほうなり」ということは、だいとは、しんらばんしょうでり、ほうとは、げんしょうをいみするからである。いかに、せいめいのじったいが、みょうであるからといって、それは、ぼうばくとした、そんざいでは、ぜったいにないのであって、ふしぎであり、しかも、げんぜんたるほうが、みょうほうなのである。
 「じとは、れんなり」とは、れんとは、じつであり、かである。
 げんざい、ぐたいてきな、じじつのすがたとして、あらわれていることをいう。「いんとは、げなり」とは、げがかじつを、むすぶいんだからである。しかしながら、このいんがは、いんがいじの、いんがではなく、いんがくじの、いんがである。それは、れんげは、はなとかじつがどうじに、せいちょうするのであり、いんがくじを、しめすからである。
 「えんとはきょうなり」とは、われわれのせいめいが、じじつのかつどうとして、あらわれるのは、えんがあるからである。ほんねんてきに、おこるというしょうぶんを、もっていたとしても、えんにふれなければ、そのしょうぶんは、あらわれない。ぐたいてきな、じじつのせいめいかつどうは、ことごとく、えんによるのである。
 えんにふれながら、さんぜじょうごうの、せいめいかつどうをつづけていくことが、きょうなのである。
 また、みょうほうれんげきょうのきょうこそが、いっさいしゅじょうのしんちゅうにある、ぶっかいをけんげんさせる、しょえんのきょうであるゆえに「えんとは、きょうなり」とおおせられているのである。さらに、いちだいじいんねんは、じのいちねんさんぜんとも、はいせるし、いちだいじを、さんだいひほうとも、やくせるのである。
 さて、かいじごにゅうのことであるが、これこそ、まことにもって、せいめいのそんげんを、あかしたものである。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「いて、これをみるに、きょうもん、ふんみょうに、じっかいごぐこれをとく、いわゆる、「よくりょうしゅじょう、かいぶつちけん」とううんぬん、てんだい、このきょうもんを、うけていわく、「もししゅじょうに、ほとけのちけんなくんば、なんぞ、かいをろんずるところあらん、まさにしるべし、ほとけのちけん、しゅじょうにうんざいすることを」うんぬん。
 しょうあんだいしのいわく、「しゅじょうに、もし、ほとけのちけんなくくんば、なんぞ、かいごするところあらん、もしひんにょに、くらなくんば、なんぞしめすところ、あらんや」とううんぬん」(0244-14)と。
 ここに、しゅじょうとは、せいめいとどういである。せいめいは、ぶっかいのたまを、つつむほうきである。しこうして、この、ぶっかいのたまを、あらわすためには、しんじんいがいに、ありえないのである。ゆえに、「かいとは、しんじんのいみょうなり、しんじんをもって、みょうほうをとなえたてまつらば、やがて、かいぶつちけんするなり」と、おおせられている、ゆえんである。
 *、つぎに、しんとはじっせんであり、じっせんなきしんこうは、かんねんである。
 ゆえに、しんじんをひらいて、じぎょうけたにわたって、なんみょうほうれんげきょうと、となえるのを、しぶつちけんという。そのとき、わがみが、みょうほうのとうたいなりと、じかくしたときに、いっさいが、だいうちゅうのリズムに、がっちした、せいめいかつどうとなりゆく、これが、にゅうぶつちけんである。
 いかに、せいめいはそんげんといっても、ひんこんにうちひしがれ、びょうきにさいなまれ、あるいはかていふわに、もんもんたるひびをおくり、さらには、まるで、むしけらどうようのあつかいを、うけたり、いきることじたいがくるしく、せいめいりょくが、よわまり、きぼうなき、じんせいをおくったり、まやくかんじゃのような、がきどうのせいかつを、しているひとの、せいめいが、どうしてそんげんと、いえようか。
 またまた、せんそうであえなく、じぶんのみを、ぎせいにするひとの、せいめいが、なんで、そんげんといえようか。
 せいめいのそんげんこそ、いっさいのしゃかい、じんるいにとって、こんぽんのなかのこんぽんであり、だいじのなかの、だいじである。また、みんしゅしゅぎの、さいじゅうようなもんだいでもある。これをほんしつてきに、いちぶのむじゅんもなく、ときあかされたのが、にちれんだいしょうにんの、だいせいめいてつがくなのである。
 このだいてつがくの、じつぜにあるところ、ぶっかいにてらされた、しんのそんげんにじかくした、ちからづよきじんせいを、あゆむことができるのである。ゆえに、みょうほうのこうせんるふいがいに、ぶっこくどのけんせつはなく、しんのみんしゅしゅぎの、たっせいは、ぜったいありえぬと、さけぶゆえんなのである。

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0717    だいよん ごじょくのこと。

 もんぐのよんにいわく、こうじょくは、べつのたいなし、こうはこれ、ちょうじ、せつなは、これ、たんじなり、しゅじょうじょくは、べつのたいなし、けんまんかほうをとる、ぼんのうじょくは、ごどんしをさして、たいとなし、けんじょくは、ごりしをさして、たいとなし、みょうじょくは、れんじしきしんをさして、たいとなす。
 おんぎくでんにいわく、にちれんとうのたぐいは、このごじょくを、はなるるなり、がしどあんのん、なれば、こうじょくにあらず、じっそうむさの、ぶっしんなればしゅじょうじょくにあらず、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんの、みょうしなれば、ぼんのうじょくにあらず、ごひゃくじんでんこうより、むしほんぬのみなれば、みょうじょくにあらざざるなり、しょうじきしゃほうべん、たんせつむじょうどうの、ぎょうじゃなれば、けんじょくにあらざるなり、しょせん、なんみょうほうれんげきょうをきょうとして、おこるところのごじょくなれば、にほんこくの、いっさいしゅじょう、ごじょくのしょういなり。
 されば、もんぐよんにいわく「そうとは、しじょくぞうぎゃくにして、このときに、じゅざいせり、しんにぞうぎゃくにして、とうひょうおこり、とんよくぞうぎゃくにして、きがおこり、ぐちぞうぎゃくにして、しつえきおこり、さんさいおこるがゆえに、ぼんのう、ますます、さかんに、しょけん、うたたさかんなり」、きょうに、にょらいげんざい、ゆたおんしつ、きょうめつどごという、これなり、ほけきょう、ふしんのものを、もって、ごじょくしょうじゅうのものとす、きょうにいわく「いごじょく、あくせ、たんぎょうじゃくしょよく、にょぜとうしゅじょう、じゅうふぐぶつどう」うんぬん、ぶつどうとは、ほけきょうのべつめいなり、てんだいいわく、「ぶつどうとはべっして、こんきょうをさす」と。

かいしゃくこうぎ
 これは、ほうべんぽんの、「しゃりほつ、しょぶつは、ごじょくのあくせに、いでたもう。いわゆる、こうじょく、ぼんのうじょく、しゅじょうじょく、けんじょく、みょうじょくなり、かくのごとし、しゃりほつ、こうのじょくらんのときは、しゅじょう、あかおもくけんどん、しっとにして、もろもろのふぜんこんを、じょうじゅするがゆえに、しょぶつ、ほうべんりきをもって、いちふつじょうに、おいてふんべっして、さんとときたまう」のぶぶんである。
 てんだいだいしは、ほっけもんぐよんに、つぎのようにのべている、まず「こうじょく」とは、なにかひとつのじったいがあるものではない。
 こうとは、たんじをいみするせつなにたいして、ながい、ときの、ながれをいうのである。すなわち、こうじょくとは、じだいのにごりであり、しじょくが、さかんである、じだいをいうのである。「しゅじょうじょく」とは、やはり、とくに、べつのじったいがあるのではない。がけん、まんしんがさかんになることによって、しゅじょうしゃかいのうえに、それにたいする、かほうをうけているじょうたいである。
 「ぼんのうじょく」は、とん、じん、ち、まん、ぎのごどんしに、おいつかわれているじょうたいであり、「けんじょく」とは、ごりしによっておこるところの、ぼんのうへんけんである。またみょうじょくは、しきしんをれんじ、すなわちしきしんのれんぞくのうえに、にごりがあり、せいめいりょくを、そんもうしているところのものである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。いま、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょうを、しんじゅする、にちれんだいしょうにん、および、そのもんかは、このごじょくを、はなれているのである。
 ごじょくのなかにありながら、それをのりこえた、きよらかな、きょうがい、せいかつを、けんげんせしめているのである。
 そのりゆうは、つぎのとおりである。すなわちじゅりょうほんに、「わがこのどは、あんのんなり」とあるように、じょうじゃっこうのこくどせけんに、じゅうしているのである。ゆえに、われわれは、こうじょくという、じだいのにごりのなかで、ゆう々ゆうとたのしみきった、せいかつこうどうをしていくのである。またわれわれは、じっそうむささんじんの、にょらいとあらわれるのであり、ほんかくのにょらいである、わがみには、しゅじょうのにごりは、ないことは、とうぜんである。ゆえに、しゅじょうじょくを、はなれているのである。
 みょうほうは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんの、てつりをといたおしえである。ゆえに、みょうほうを、ごじするものには、ぼんのうじょくはないのである。
 また、われわれのせいめいは、くおんがんじょいらい、むしむしゅうに、えいえんに、さんじんじょうじゅうするのである。したがって、せいめいのうえに、つづくところの、にごり、みょうじょくを、こんぽんてきに、はなれているのである。また、にぜん、ごんきょう、もんじょうのほうべんの、おしえをすて、ただひたすらに、なんみょうほうれんげきょうというさいこうのてつがく、しゅうきょうをしんじ、じつぜにする、われわれは、ただしいしそう、ただしいじんせいかん、しゃかいかん、せかいかんをかくりつしているのであるから、けんじょくではないのである。
 せんずるところは、これらすべての、ごじょくは、なんみょうほうれんげきょうを、しんずるかいなかにより、そのうむが、さだまるものであるから、ふしんのしゅじょうである、にほんこくのいっさいしゅじょうこそ、このごじょくのもんに、あたるひとびとなのである。
 したがって、もんぐのよんには、「こうじょくのそうというのは、しじょくがきわめてはげしく、あるじだいに、あつまっていることなのである。しんにが、はげしくなれば、そのこくどに、せんそうがおき、とんよくが、さかんなときは、ききんがおき、ぐちがおおいときには、でんせんびょうがおきる。かようにしてさんさいがおこってくると、ひとびとの、ぼんのうは、ますますさかんになり、もろもろのじゃあくなしそうや、しゅうきょうがはびこることに、なるのである」といっている。
 ほけきょうほっしほんに、「にょらいのげんざいにすら、なおおんしつを、うけるのであるから、いわんやめつど、とくに、まっぽうにおいては、なんがさらに、はげしいのはとうぜんである」ととかれているのは、このような、ごじょくのじだいを、さしているのである。
 ほけきょう、すなわち、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうを、しんぜざるものこそ、ごじょくのさわり、おもく、ふこうのきょうがいに、しずむ、しゅじょうであるというべきである。このような、しゅじょうのすがたを、ほうべんぽんには、「ごじょくの、あくせのときには、ただいろいろの、よくぼうをねがい、それに、しゅうちゃくするしゅじょうが、じゅうまんするのであり、これらの、しゅじょうはついに、ぶつどうをもとめることがない」とといている。この「ぶつどう」とは、ほけきょうさんだいひほうの、ごほんぞんのべつめいである。てんだいだいしは「ぶつどうというものは、ほとけのさまざまな、おしえのうちで、べっしては、こんきょうをさしている」とのべている。いま、にちれんだいしょうにんの、ぶっぽうのうえからは、ぶっぽうとは、ほけきょう、すなわち、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうと、いうのである。

 まことに、このおんふみこそ、げんこんの、せそうをうつしだしているものであり、どうじに、ごほんぞんをしんじゅした、われわれが、このしゃかいを、じょうかしていくいがいに、ないことをしめされたものといえよう。
 まず、こうじょくとは、じだいのにごりである。たしかに、じだいによって、こんらんした、にごりきったじだいもあったし、ひかくてき、へいわなじだいでもあった。じだいのにごりといっても、じったいというものは、ないのであるが、たの、しじょくがはげしく、さかんであり、そのにごりが、ながくつづいているばあい、こうじょくというのである。こうとはちょうじといういみであるが、これはそうたいてきなものである。したがって、あるいちねんかんならいちねんかんのみだれをこうじょくととってもよいし、ごねん、じゅうねんをこうじょくとかんがえてもよいし、またひゃくねん、にひゃくねんをこうじょくとしてもよいのである。
 あの、だいにじせかいたいせんのじだいは、まさに、こうじょくそのものであった。このじだいは、かこの、あくむともいうべき、ちなまぐさい、さつりく、こうはいしたこくど、どごうとひめいとに、みちたしゅらばを、めのまえにてんかいしたのである。しかし、げんざいもまた、けっして、こうじょくをはなれたとはいえない。かくせんそうのきき、しかも、だれがのぞむのでもなく、だれのいしにもよらないで、おこる、ぐうはつせんそうの、ききとうにさらされる、つめたいたいりつも、かならずしも、かんわされたわけではない。
 ベトナムのふんそうや、ちゅうロろんそうや、せいおうれっきょうのふくざつな、ないぶじじょうによって、たいりつのようそうは、じょじょに、かわってきているが、それは、たいりつそのものの、へんこうをいみするものとは、いえない。くにとくにが、たがい、あいてのすきをうかがい、こしたんたんと、めをひからせ、ひつようによっては、てをむすんだり、あるいは、てきたいするなど、りがいによる、だきょうとてきたいいがいの、なにものでもない。これこそ、こうじょくのじだいではないか。
 つぎに、しゅじょうじょくであるが、これもやはり、しゃかいぜんたいのにごりであり、べつに、ほんたいがあるわけではない。しかし、げんざいのしゃかいをみたときに、にほんのせいじを、かんがえただけでも、いかににごりきっているかが、わかるのである。あくとくせいじかたちは、きせいのけんいにしがみつき、しりしよくにあけくれている。ふはいは、まんせいてきになり、せいじかとは、やしんかとか、はらげいのうまいひとの、だいめいしのごとく、おもわれている。こうしたせいじかを、うむのもけっきょく、みんしゅうのむきりょく、むち、そしてながいものには、まかれろしきの、ほうけんせいがげんいんしているのである。このようなしゃかいぜんたいのにごりが、しゅじょうじょくである。
 いじょうのふたつのにごりは、あくまでも、ぜんたいとしてのにごりであり、そうごうてきにかんがえたうえでのにごりである。つぎにあげる、ぼんのうじょく、けんじょく、みょうじょくは、こんどは、いずれもこじんこじんについていえるものである。
 ぼんのうじょくは、ごどんし、すなわち、とん、じん、ち、まん、ぎという、むしろほんのうてきな、まよいである。じぶんのりやくばかりを、むさぼるようにもとめて、たにんをかえりみないのは、「とん」である。じたいをれいせいにはんだんできず、すぐにかんじょうにはしり、せいかつをはかいするのは、「じん」である。めさきのことのみに、とらわれて、じぶんのいっしょうを、だいなしにするのは、「ち」である。しょうしょうのことを、はなにかけ、ただしいものを、うけいれようとしないのは「ぎ」である。いずれにしても、まっぽうの、われらしゅじょうのすがたに、まったく、ぴったりとあてはまるではないか。たまには、じぶんはなんとりこてきで、おこりっぽく、ばかで、いばっていて、うたがいぶかいかと、はんせいするときもあろうが、そのじぶんを、どうしようもないのが、げんじつではなかろうか。
 つぎにけんじょくとは、しそうのにごりである。ごりしとは、ごどんしが、せいめいそれじたいに、そなわった、いわば、だれにでもできる、ほんのうてきな、にごりであるのにたいし、さいちあるじゃけん、ぼんのうで、えいりてきなものと、されている。ごりしについては、しんけんといい、へんけんといい、けんしゅけんといい、かいきんしゅけんといい、じゃけんといい、まったく、げんだいの、いわゆる、えせ、ちしきじんにあてはまるではないか。とくに、ぶっぽうのなんたるかも、しらずして、そうかがっかいをひなんし、ちゅうしょうするひょうろんかこそ、ぐにんのなかの、ぐにんであることを、ばくろしているようなものである。
 つぎに、みょうじょくとは、せいめいそれじたいのにごりである。せんじょうの、にぽうのなかには、せんぽうである。すなわち、ぼんのうじょくや、けんじょくがげんいんで、せいめいそれじたいがにごり、せいめいりょくがよわまり、いよくがなくなっていくことを、いうのである。

 とだじょうせい、ぜんかいちょうは、このことについて、つぎのようにのべられている。
 「われわれの、せいめいには、せんじょうのにぽうが、そんざいする。きよらかなせいめいは、げかいのいっさいを、すなおにうけて、うちゅうのだいリズムにちょうわして、せいめいがるてんするから、けっして、むりはない。このせいめいこそ、いだいなせいめいりょくを、はっきするがゆえに、じんせいをたのしむことができるのである。
 ところが、せいめいの、せんぽうともうすのは、せいめいが、いくたのるてんの、とじょうに、みな、あやまった、せいかつが、せいめいにそまって、ひとつのクセをもつことになる。そのクセをつくるもとが、よくばり、いかり、バカ、しっととうのもので、これによって、しゅじゅにそめられた、せいめいは、うちゅうのリズムと、ちょうわしなくなって、せいめいりょくを、しぼめていくのである。このしぼんだせいめいは、うちゅうのしゅじゅの、じたいにたいおうできなくて、いきることじたいが、くるしくなるので、すなわち、ふこうなげんしょうを、しょうずるのである」と。
 このように、せいめいのれんぞくのうえに、にごりがあり、せいめいりょくが、よわまるのがみょうじょくである。たしかに、われわれは、しんこうするまえは、なんとくのうに、みちみちたじんせいをあゆんできたことか。また、げんざい、しんじんしていないひとびとは、みずからのしゅくめいになき、いきるよろこびを、うしなっているのである。どんなに、じぶんをこちょうしようとしても、りっぱそうにしても、しんにいきがいあるじんせいは、おくれないのである。
 いじょうが、ごじょくのせつめいであるが、にちれんだいしょうにんは、「にちれんとうのたぐいは、このごじょくをはなるるなり」とおおせれているのである。げんざい、ごじょくあくせのよであるとしても、われわれ、ごほんぞんをもったものは、このごじょくにそまらないのである。どんなじだいがこようとも、どこへいこうとも、それにさゆうされることなく、かんきょうをかえ、このしゃばせかいを、おもうがままに、らんぶするのは、じだいのにごりに、そまらないといえるのである。
 さらに、ごほんぞんをもつびとが、いっこくにおおくなり、やがて、けぎのこうせんるふのときがやってくるならば、そのくには、いかに、せかいがどうらんのちまたにあっても、それに、うごかされることなく、むしろ、せかいのしどう、こっかとして、どうらんをしずめ、へいわなせかいをもたらすことに、いだいなこうけんをするようになるのである。
 ちいさくは、こじんのみのまわりから、おおきくは、せかいぜんたいにいたるまで、じょうじゃっこうのせかいをじつげんさせるのは、われわれしかないことを、めいきすべきである。これこそ、「がしどあんのん、なればこうじょくにあらず」とおおせられたことにあるのである。ゆえに、りっしょうあんこくろんには「なんじ、はやくしんこうのすんしんをあらためて、すみやかに、じつじょうのいちぜんに、きせよ、しかれば、すなわち、さんがいはみなぶっこくなり、ぶっこくそれんおとろえや、じっぽうは、ことごとくほうどなり、ほうどなんぞこわれんや、くにに、すいびなく、どにはえなくんば みは、これあんぜん、こころは、これぜんじょうならん」(0032-14)とおおせられているのである。
 また、ひとりひとりが、にんげんかくめいすれば、しゃかいぜんたいは、かっきにみち、おたがいにそんちょうし、しんらいしあい、せいじも、けいざいも、きょういくもはってんし、しんにうるおいのある、ゆたかな、ぶんかしゃかいが、けんせつされていくのである。
 これが、「じっそうむさの、ぶっしんなれば、しゅじょうじょくにあらず」ということである。じじつ、そうかがっかいという、いちだいわごうそうだんは、なんと、きよらかなせかいであろうか。がくせいも、きんろうせいねんも、おいもわかきも、おとこもおんなも、ひとつのもくてきにむかって、だんけつし、おたがいが、それぞれのぶんやで、じこのしめいと、せきにんとをもって、すすんでいるのである。
 よくせけんのひとは、そうかがっかいの、だんけつのすがたをみて、めいれいてきであるとか、もうもくてきであるとかいうが、これは、おおいなるあやまりである。そうかがっかいの、だんけつは、ひとりひとりのじかくと、せきにんかんあっての、だんけつである。いったい、めいれいで、すうひゃくまんせたいいじょうのひとが、うごくであろうか。そんな、ぜんじだいてきな、きゅうしきのほうほうで、ひとびとがうごくとかんがえることじたいが、きせいのちしきに、しばりつけられ、それに、もうもくてきにしたがっている、ぐにんのすがたではなかろうか。また「ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんの、みょうしなれば、ぼんのうじょくにあらず」とは、ぼんのうや、くるしみにしはいされ、じぶんでじぶんを、どうしようもなかった、じんせいをこくふくし、ぼんのうをつかいきり、くきょうをだかいし、おもうがままに、じんせいをゆうげする、じざいのきょうがいをひらき、こうふくじんせいを、あゆんでいくことを、いうのである。このときは、だいしょうにんが、「なんみょうほうれんげきょうは、かんきのなかのだいかんきなり」(0788-ごひゃくほん)と、おおせられているように、われわれは、しゅんかんしゅんかん、ひび、つきづき、ねんねん、たのしいのである。「ごひゃくじんでんこうより、むしほんぬのみなれば、みょうじょくにあらざるなり」とは、えいえんのせいめいかんに、りっきゃくすることである。じんせいにおける、いっさいのいきづまりは、せいめいはこんぜしかないという、せつなしゅぎからおきてくるのである。
 では、えいえんのせいめいかんに、りっきゃくするとは、いかなることであろうか。かんねんてきに、せいめいはえいえんであると、かんがえたところで、それは、えいえんのせいめいかんに、りっきゃくしたことにはならない。かんがえてみれば、われわれのせいめいには、むしいらいの、むりょうのしゅくめいが、ないざいしているのである。せいめいのるてんのうちに、せいめいりょくはよわまり、ふこうにさいなまれ、くのうのなかに、ぼつにゅうしていたのである。しかしながら、いかなるいんねんがあってか、ごほんぞんにめぐりあえたのである。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「しゃくそんの、いんぎょうかとくのにほうは、みょうほうれんげきょうのごじに、ぐそくす、われら、このごじをじゅじすれば、じねんに、かのいんがのくどくを、ゆずりあたえたまう」(0246-15)と。たとえ、かこにいかなる、しゅくごうがあろうと、ごほんぞんをもつならば、それらの、しゅくごうはことごとくきえ、かこせに、むりょうのぜんこんをつんできたと、おなじけっかがあらわれる。そして、みらいえいごうに、いきづまらないとの、おおせなのである。これ、えいえんのせいめいかんにりっきゃくし、みょうじょくを、はなれたすがたではないか。
 「しょうじきしゃほうべん、たんせつむじょうどうの、ぎょうじゃなれば、けんじょくにあらざるなり」とは、へんぱな、しそうのもちぬしではないということである。じゅりょうほんには、「にょらいはにょじつに、さんがいのそうをちけんす」とある。まことにぶっぽうこそ、うちゅう、じんせいのじっそうをとききわめた、さいこうのしそうであり、てつがくである。われわれは、そのぜったいに、ただしいこんぽんしそうの、もちぬしであるがゆえに、じんせいかん、うちゅうかん、しゃかいかん、こっかかんとうも、ひらけてくるのである。これけんじょくを、はなれたすがたではないか。
 「しょうじきに、ほうべんをすてて、ただ、むじょうどうをとく」の、むじょうどうとは、さいこうのてつがく、こうふくをもたらす、いだいなしそうということである。だいしょうにんは、おんぎくでんの、しんげほんのこうで、つぎのようにおおせられている。
 「おんぎくでんにいわく、むじょうに、じゅうじゅうのしさいあり、げどうのほうにたいすれば、さんぞうきょうはむじょう、げどうのほうは、うじょうなり、また、さんぞうきょうはうじょう、つうきょうはむじょう、つうきょうはうじょう、べつきょうはむじょう、べつきょうはうじょう、えんきょうはむじょう、また、にぜんのえんは、うじょう、ほっけのえんは、むじょう、また、しゃくもんのえんは、うじょう、ほんもんのえんは、むじょう、また、しゃくもんじゅうさんほんは、うじょう、ほうべんぽんは、むじょう、また、ほんもんじゅうさんほんは、うじょう、いっほんにぱんは、むじょう、また、てんだいだいし、しょぐのしかんは、むじょう、げんもんにぶは、うじょうなり、いま、にちれんらのたぐいのこころは、むじょうとは、なんみょうほうれんげきょう、むじょうのなかの、ごくむじょうなり」(0727-だいご むじょうほうじゅふぐじとくのこと)と。
 われわれは、この、「むじょうのなかのごくむじょう」たる、なんみょうほうれんげきょうをとなえるがゆえに、ぶっちをゆげんし、じねんに、いっさいを、みとおしていけるようになってくるのである。
 つぎに、もんぐのよんの、こうじょくのせつめいのところは、まことにきょうみぶかい。「しんに、ぞうぎゃくにして、とうひょうおこり」とは、せんそうのほんしつをついたものである。せんそうなど、きょうじんでないかぎり、だれひとりとして、のぞんではいなかろう。もしせんそうをのぞむような、にんげんがいるとすれば、それは、にんげんではなくして、にんげんのかめんをかぶった、まものである。
 だれもねがっていないのに、なぜ、かくへいきがせいぞうされ、せかいは、いっしょくそくはつのききにさらされ、また、じゃくしょうこくにはどうらんがたえないのであろうか。ひとびとを、たいりょうぎゃくさつしたり、せんしゃのしたじきにしたり、げんばくとうかによって、おおくのぎせいしゃを、だすなどということは、りせいでは、とうていかんがえられないことである。
 これは、まったくしんに、すなわち、いかりからくるのである。「しゅらは、しんちょう、はちまんよんせんゆじゅん」とあるが、せいめいろんからいえば、いかりのきょうがいを、あらわしたものであろう。ひとは、いかりくるっているときは、すべての、ものが、ちいさくみえてしまうのである。したがって、ひごろ、だいじにしていた、しなものを、いかりのあまり、なげつけて、こわしたり、たにんのいえに、ひをつけたり、あげくのはては、ひとごろしまで、しかねないのである。せんそうのさいの、あの、ざんぎゃくさもどうようである。げきどと、げきどのしょうとつが、せんそうのはなびとなって、あらわれるのである。
 「とんよく、ぞうぎゃくにして、きがおこり」とは、ひとびとが、りこしゅぎで、じぶんのりやくを、ついきゅうすることのみ、あくせくしているならば、たまたまの、てんさいは、みんしゅうに、だいだげきをあたえ、せいじのれつあくは、ひとびとにおおくの、ふそくをもたらすのである。ひとびとは、たにんを、けおとしてまで、じこのほしんのために、やっきとなり、とくに、しどうしゃが、とんよくであれば、みんしゅうはとたんのくるしみを、あじわわなければならない。
 「ぐちぞうぎゃくにして、しつえきおこり」とは、ぐちすなわち、おろかであるために、びょうきがおこるというのである。すべての、びょうきは、ただしい、リズムからはずれたときに、おこる。ぐちもうまいにして、めさきのことのみに、めをうばわれ、へんけん、じゃけんのために、すなおな、こころがおおわれて、せいめいりょくはおとろえ、むきりょくとなり、そこに、えきびょうが、まんえんするのである。
 「さんさいおこるが、ゆえに、ぼんのうますますさかんに、しょけん、うたたさかんなり」とは、こうしたひとびとのせいめいの、にごりがげんいんで、ひょうとう、きが、しつえきの、さんさいがおこるのであるが、このさんさいが、またげんいんとなって、さらに、ぼんのうやじゃけんをますという、あくじゅんかんを、くりかえすのである。

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0718
だいご びくびくに、うえ、じょうぞうじょうまん、うばそく がまん うばいふしんのこと。

 もんぐのよんにいわく、じょうまんとがまんと、ふしんとししゅう、つうじてあり、ただし、しゅっけのにしゅうは、おおくみちをしゅうし、ぜんをえてあやまって、しょうかといい、ひとえにじょうまんをおこす、ざいぞくは、こうこうにして、おおくがまんをおこす、にょにんは、ちあさくして、おおくじゃへきをしょうず、みずからそのかをみずとは、さんしっしんをおおう、きずをかくし、とくをあげて、みずからかえりみること、あたわざるはこれ、むざんのひとなり、もし、みずからかをみれば、これ、うしゅうのそうなり。
 きのよんにいわく、きずをかくすとうとは、さんしつをしゃくするなり、きずをかくし、とくをぐあは、じょうまんをしゃくす、みずから、かえりみること、あたわざるは、がまんをしゃくす、むざんのひととは、ふしんをしゃくす、もし、みずからかをみるは、このさんしつなし、いまだかを、しょうせずといえども、しばらく、うしゅうとなずく。
 おんぎくでんにいわく、これほんまつのしゃくのこころは、ごせんのじょうまんをしゃくするなり、くわしくは、ほんまつをみるべきなり、びく、びくにのににんはしゅっけなり、ともにぞうじょうまんとなずく、きずをかくし、とくをあぐるをもって、ほんとせり、うばそくは、おとこなり、がまんをもってほんとせり。
 うばいはにょにんなり、むざんをもってほんとせり、このししゅうは、いま、にほんこくにさかんなり、きょうには、ごしゆうごせんとあれども、にほんこくに、しじゅうきゅうおくきゅうまんよんせんはっぴゃくにじゅうはちにんとみえたり、ざいせには、ごせんにん、ほとけのざをたてり、いま、まっぽうにては、にほんこくのいっさいしゅじょう、ことごとくにちれんがしょざをたてり。 びく、びくに、ぞうじょうまんとは、どうりゅう、りょうかんとうにあらずや、また、かまくらちゅうのびくにとうに、あらずや、うばそくとは、さいみょうじ、うばいとは、じょうげのにょにんにあらずや、あえて、わがかをしるべからざるなり、いま、にちれんとうのたぐいをひぼうして、あくみょうをたつ、 あに、ふじけん、ごかのものに、あらずや、だいほうぼうのざいにんなり、ほっけのみざをたつこと、うたがいなきものなり。0719
 しかりといえども、にちれんにあうこと、これ、しかしながら、らいぶつにたいのぎなり、この、らいぶつにたいは、きょうせんのぎなり、まったく、しんげのらいたいにあらざるなり、これらのしゅうは、おかいうけつろのものなり。
 もんぐのよんにいわく、「おかいうけつろとは、りつぎとがあるをば、けつとなずけ、じょうぐどう、ぐしつあるをば、ろとなずく」と、このごせんのじょうまんとは、われら、しょぐのごじゅうのぼんのうなり。
 いま、ほけきょうにあいたてまつるとき、まんそくほうかいとひらきて、らいぶつにたいするを、ぶつい、とくここ、というなり、ほとけとは、われら、しょぐのぶっかいなり、いとくとは、なんみょうほうれんげきょうなり、こことは、にこふこのこころなり、ふげんほんの、さらいにこ、これをおもうべきなり、またいわく、ごせんのたいざということ、ほっけのこころは、ふたいざなり、そのゆえは、しょほうじっそう、りゃくかいさんけんいちのかいごなり。

 さて、そのときは、がまんぞうじょうまんとは、まんそくほうかいとひらきて、ほんぬのまんきなり、ごすううごせんとは、われらが、ごじゅうのぼんのうなり、もし、また、ごじゅうのぼんのうなしというは、ほっけのこころをうしないたり、ごじゅうのぼんのうありながら、ほんぬじょうじゅうぞというとき、ごすううごせんととくなり、だんなくにとりあわず、そのまま、ほんぬみょうほうのごじゅうとみれば、ふじけん、ごかと、いうなり。
 さて、おかいうけつろとは、しょうじょうごんきょうの、、たいぢしゅうびょうのかいほうにては、なきなり、ぜみょうじかいのみょうほうなり、ゆえにけつろのとうたいそのまま、ぜみょうじかいのたいなり、しかるに、けつろをそのまま、ほんぬとだんずるゆえに、ごしゃくごけしとは、とくなり。
 もとより、いちじょうのみょうかいなれば、いちじんがんほうかい、いちねんへん、じっぽうするゆえに、ぜしょうちいしゅつと、いうなり、そうこうとは、じんじんほうほう、ほんがくのさんじんなり、ゆえにすくなきふくとくのとうたいも、ほんがくむさのがくていなり、ふかんじゅぜほうとは、りゃくかいの、しょほうじっそうのほったいを、ききて、そのまま、かいごするなり、
 さて、しんしそんじゃ、どんこんのために、ふんべつ、げせつしたまえと、こう、こうかいさんの、ほうもんをば、ふかんじゅぜほうととく、さて、ほっけのじつぎに、かえりてみれば、みょうほうのほったいは、さらに、のうじゅ、しょじゅを、わするるなり、ふしぎのみょうほうなり、ほんぽうのじゅうをさとりて、。みるゆえに、ししゅう、むしようというなり、かかるないしょうは、じゅんいちじっそう、じっそうがいこうむべっぽうなれば、ゆいうしょじょうじつなり、
 しょせん、じょうじつとは、しきしんをみょうほうとひらくことなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるところを、ゆいうしょじょうじつととくなり、しょとは、しょほうじっそうのほとけなり、しょはじっかいなり、じょうじつはじっかいのしきしん、をみょうほうというなり。
 こんきょうにかぎる、ゆえにゆいというなり、ごせんのじょうまんのほか、まったくほけきょうこれなし、ごせんのまんにんとは、われらが、ごだいなり、ごだいそく、みょうほうれんげきょうなり、0720。
 ごせんのじょうまんは、がんぽんのむみょうなり、ゆえに、らいぶつにたいなり、これは、くしき、はちしき、ろくしきと、くだるぶんなり、るてんもんの、だんどうなり、ぶついとく、こことは、げんめつもんなり、しからば、いとくとは、なんみょうほうれんげきょうなり、ほんめい、ほんごのぜんたいなり、よくよくこれをあんずべしうんぬん。

・・・・・・・・・・36-2

こうぎ かいしゃく
 ほうべんぽんにおいて、ほとけが、いよいよこうかいさんけんいちの、せっぽうをはじめようとしたとき、えちゅうにいた、ごせんにんのぞうじょうまんのびく、びくにが、ざをたってさっていく。
 ちょうぎょうには、「このごを、せつきたもうとき、えちゅうにびく、びくに、うばそく、うばい、ごせんにんとうあり、すなわち、ざよりたって、ほとけをらいしてのきぬ。ゆえんはいかん。このやからは、ざいこんじんじゅうに、および、ぞうじょうまんにして、いまだえざるを、えたりといい、いまだしょうせざるを、しょうせりといえり。
 このごとき、とがあり、これをもって、じゅうせず。せそんもくねんとして、せいししたまわず」うんぬんとあり、「びくげ」のぼうとうには、「びく、びくにの、ぞうじょうまんを いだくことある。うばそくの、がまんなる。うばいの、ふしんなる、これのごとき、ししゅうとう、そのかずごせんあり、みずから、そのかをみず、かいにおいて、けつろあって、そのけしを、まもりおしむ、これのしょうちは、すでにいでぬ。しゅうちゅうのそうこうなり、ほとけのいとくのゆえに、さりぬ。
 このひとは、ふくとくすくなくして、このぽうをうくるに、たえず。このしゅうは、しようなし、ただ、もろもろのじょうじつのみあり」うんぬんと、とかれている。ここは、しゅとして、のちのげについての、おんぎくでんである。
 てんだいの、もんぐのしには、つぎのようにといている。ぞうじょうまんと、がまんとふしんとは、ししゅうにつうじて、あるものである。ただし、そのなかで、べっして、しゅっけのにしゅうは、おおく、ぶつどうしゅぎょうをし、ぜんじょうのかをえて、それをあやまって、ぶっかとおもい、ひたすら、ぞうじょうまんをおこすのである。 ざいけは、おごりたかく、がまんのこころをおこす。にょにんは、、ちえあさく、がけんをしょうずることが、おおい。「みずからそのかをみず」とは、じょうまん、がまん、ふしんのさんしつが、こころをおおいかくしていることである。
 そのきずをかくし、しかも、げめんには、とくあるがごときすがたをしめして、みずから、はんせいすることのできないのは、これは、はじをしらないもののことである。もし、このかをみずからみるならば、そのひとは、うしゅうのそうというべきである。

・・・・・・・・・・・・・・・・36-3

 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。この「もんぐ」のかいしゃくは、ごせんのじょうまんについてであり、くわしくは「もんぐ」「き」をみるべきである。びくびくにのにしゅうはしゅっけであり、ともにぞうじょうまんである。きずをかくし、ひょうめんにはとくあるすがたをせんようすることをもってこんぽんとしている。うばそくは、ざいけのおとこであり、がまんをそのほんしつとしている。うばいは、ざいけのにょにんであり、むざんをそのほんしつとしている。
 しかして、このししゅうは、いま、にほんこくにさかんである。きょうには「そのかずごせんあり」とあるけれども、にほんこくの、じょうまんのししゅは、4,994,828にんとかぞえられる。すなわち、しゃかざいせにおいては、ごせんにんが、ほけきょうのえざから、たちさったが、いま、まっぽうにおいては、にほんこくのいっさいしゅじょうが、ことごとく、にちれんだいしょうにんのぐつうにたいして、ひぼうしているのである。
 びく、びくに、ぞうじょうまんとは、けんちょうじのどうりゅうや、ごくらくじのりょうかんとうのごとき、そとに、けんぜんのそうをしめし、うちに、とんしつをいだく、そうりょにもとめずして、ほかにだれがあるか、また、かまくらじゅうの、びくにとうではないか。うばそくとは、さいみょうじにゅうどうときよりとうのことであり、うばいとは、みぶんのじょうげをとわず、いっさいのふしんの、にょにんではないか。これらのひとびとは、おのれの、あやまちをしらないものなのである。
 いま、にちれんだいしょうにんのいちもんを、ひぼうして、にちれんもんかのあくみょうを、ながすものは、きょうもんの「みずから、そのかをみず」のものというべきではないか。まことに、だいほうぼうのじゅうざいにんであり、これらのひとは、ほけきょうのえざ、すなわち、にちれんだいしょうにんのせっぽうのざを、たつことはうたがいないのである。
 しかしながら、にちれんだいしょうにんにあうことは、らいぶつにたいのぎである。このらいぶつにたいは、きょうせんのいみであり、しんげのらいたいではない。これらのしゅを、きょうに「かいにおいて、けつろある」ものといっているのである。
 もんぐのよんには、「かいにおいて、けつろありとは、りちぎかいにとがあることを、けつといい、じょうぐかい、どうぐかいに、とがあることをろという」といっている。
 さて、さらに、ふかくかんがえるならば、このごせんの、じょうまんとは、われらが、こしんにそなえているところの、ごじゅうのぼんのうをあらわすのである。いま、もんていげしゅのほけきょうに、あいたてまつるとき、まんそくほうかいのすがたであると、かいしかくて、らいぶつにたいすることを「ほとけのいとくのゆえにさる」というのである。
 このほとけとは、われら、こしんのぶっかいである。いとくとは、なんみょうほうれんげきょうである。「ここ」の「こ」とは、「さってさらず」のこころである。ふげんほんの、らいぶつにたいとどうように、しんげの「こ」なのである。
 また、べつのみかたをすれば、ごせんのたいざということは、ほけきょうの、しんいからみれば、まったく、ふたいざなのである。そのゆえは、すでにしょほうじっそう、じゅっにょぜのりゃくかいさんけんいちを、かいごしているからである。
 さて、そのうえからみるときには、がまん、ぞうじょうまんということは、まんそくほうかいとかいかくするのであり、せいめいにほんぬにそなわっているところのまんになる。「ごすううごせん」とは、われらのせいめいにごじゅうのぼんのうがあるとうことにほかならない。もしごじゅうのぼんのうがないというならば、それはほっけのしんのしめいかんをうしなうものである。ごじゅうのぼんのうがせいめいにほんぬじょうじゅうのものとみるとき、これをごすううごせんととくのである。ぼんのう、わくをだんずるというにぜんしょうじょうのしそうにとりあわず、そのままほんぬのみょうほうをごじゅうのぼんのうとみる、これを「ふじけんごか」というのである。
 さて「おかいうけつろ」とは、しょうじょうごんきょうにおける、しゅうびょうたいぢのための、かいぽうのことではなく、じゅじそくじゅかい、ぜみょうじかいの、みょうほうのじゅかいである。ゆえに、しょうじょうごんきょうにおける、かいというてんからみて、けつろがある。われわれのせいめいのとうたいが、そのままぜみょうじかいのかいたいとあらわれるのである。しかるに、ここにおいてけつろ、ぼんのうをほんぬとだんずるゆえに、「ごしゃくごけし」とといているのである。ほんらいいちぶつじょうのみょうかいであり、いっじんにほうかいをことごとくふくみ、いちねんはまたじっぽうほうかいに、へんまんするのであるから、しょうじょうごんきょうのしょうちは、すでにいでぬというのである。そうこうとは、いちじん、いちげんしょうにいたるまで、ほうかいのすべてのものは、ほんがくのほとけの、とうたいであるから、ふくとくのすくなきとうたいも、ほんがくのむささんしんの、かくたいとあらわれるのである。

 「ふかんじゅぜほう」とは、りゃくかいさんけんいちのしょほうじっそうのいちねんさんぜんのほったいをとくのをきいて、そのままかいごするのであり、そのごにしゃりほつそんじゃが、どんこんのためにふんべつ、げだつしたまうとこうて、しゃくそんがときはじめるところの、こうかいさんけんいちのほうもんをば、ふかんじゅぜほうととくのである。
 さて、もんていげしゅのほけきょうのじつぎにたちかえってこれをみるならば、みょうほうれんげきょうのほったいは、のうしょふにである。のうじゅのひと、しょじゅのみょうほう、ともにみょうほうれんげきょうのとうたいである。じつにふしぎのみょうほうである。このもんていのほけきょうにおもきにていれ、そのさとりのうえからみるとき「ししゅうむしよう」、いっさいぽうことごとくみょうほうとうたいであるとひらくのである、このようなふかたちのさとりは、じゅんいちじっそう、なんみょうほうれんげきょうという。じっそうのほかにさらにべつのぽうはないのである。ゆえに「ゆいうしょじょうじつ」なのである。しょせん「じょうじつ」とは、わがしきほうをみょうほうのとうたいとかいごすることなのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかがなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることを「ゆいうしょじょうじつ」ととくのである。「しょ」とはしんらばんしょうことごとくしょほうじっそうのほとけであるということであり、またじっかいをあらわしている。じょうじつとは、じっかいのあらゆるしきしんを、そのまま、みょうほうのとうたいであるとひらくことである。それをとき、またそれをかいごしうるのは、こんきょう、すなわちもんていげしゅのほけきょうたるなんみょうほうれんげきょうにかぎるゆえに「ゆい」というのである。
 こうしてみるならば、ごせんのじょうまんいがい、まったくほけきょうのとうたいはないのである。すなわち、ごせんのまんにんとは、わがしきほうをこうせいするところのちすいかふうくうのごだいをあらわすのであり、そのごだいは、そくみょうほうれんげきょうをあらわしているのである。
 またごせんのじょうまんとは、がんぽんのむみょうわくをあらわす。がんぽんのむみょうわくをおこして、ほっけふしんなるゆえに「らいぶつにたい」するのである。これはくしき、はちしき、ろくしきと、さいこうのじょうほうから、しだいにおせんのしょうほうへとくだるへんをいうのであり、るてんもんからみたのである。「ふついとくここ」とは、こんどは、せんぽうからじょうほうへ、じゃくめつ、じゃくしょうのさとりのきょうがいへたちかえってくすがたである。それゆえ、じゃくめつにかえるこんぽんとなるほとけのいとくとは、なんみょうほうれんげきょうであるとだんずることができるのである。みょうほうは、ほんぬのまよいとさとりのぜんたいをふくんでいるのである。これはしんおうのほうもんであるから、よくよくあんずべきである。

 「じょうまんとがまんとししゅつうじてあり」についてもんぐにせつめいしているが、このことは、がっかいのしゃくぶくかつどうにあたってつうせつにじっかんするところである。じょうまんとは、ぞうじょうまんのことである。ちしきじんとしょうせられるひとにおおくけんじゅをこじしようとするこころをいうのである。いっぱんのひと々びとにもおおくあてはまるもので、じぶんのかんがえはぜったいにただしいとして、すこしのはんせいのないことをいうのである。ふしんとは、むちなひとが、ていきゅうなもの、あやまったものにしゅうちゃくし、ただしいものをしんじょうとしないことをいうのである。
 これは、いちおう、このようにたてわけるけれども、このみっつは、けっして、ばらばらにどくりつしているものではない。ぞうじょうまんのひとは、そくがまんのひとであり、ふしんのひとなのである。ひごろどんなにえらそうなひとであっても、ものわかりのよさそうなひとであっても、ひとたびごほんぞんのはなしをするや、けっそうをかえておこりだしたり、じぶんのむちさをさらけだしたりするものである。ふだんみえなかったじょうまん、がまん、ふしんのこころが、しゃくぶくによってうきぼりにされてくるげんしょうなのである。
 なかんずく、げんだいちしきじんのまんしんは、はなはだしい。たしかにじぶんの、せんもんぶんやについては、ほうふなしりょうをもって、かがくてきにこうさつしようと、どりょくする。ところが、いっぽせんもんがいのこと、とくにしゅうきょうにかんしては、たちまちかがくせいをうしない、わずかばかりの、せんにゅうかんねんでろんじょうと、たいへんである。かがくてきたんきゅうをもって、そのにんとするちしきじんが、かがくせいを、ほうきするにひとしい。
 かれらの、そうかがっかいひはんは、しばしばへんどうし、じつに、むていけんきわまりない、ひはんがおおい。かれとうは、がっかいをファッショであるとか、じみんとうにみかたする、はんどうだんたいであるとか、また、いぜんには、ぎゃくに、かげきな、アカのだんたいであるとか、めいしんじゃきょうであるとか、いってきたのである。
 したがって、がっかいをひなんするという、いってんにおいては、いっちしているようであるが、そのひはんのないようは、たしゅたようであり、かがくせいなど、みじんもなく、ひそうてき、かんじょうてきそのものであった。また、かれらは、きせいのじじつと、そうかがっかいをむすびつけようとした。あるいは、そしきのすばらしさ、だんたいのすがたを、ナチス、ヒットラーとむすびつけて、あるいは、かってのフランスのプジャードとうと、がっかいとおなじであるとし、さいきんでは、いっこういっきになぞらえたりしている。まさに、そうかがっかいのほんしつをしらず、うおうさおうとうろたえたすがたである。
 しかしながら、そうかがっかいのしゅちょうは、えいえんにいっかんして、かわるものではない。みぎでもない。ひだりでもない。ぜんみんしゅうをこうふくにするべく、にちれんだいしょうにんのしきしんふにの、だいせいめいてつがくをもってすすんでいるのが、そうかがっかいなのである。
 さきにのべたように、むていけんは、いっけん、はなばなしくみえるばあいもある。それは、むていけんは、おおくのいけんがあり、むせきにんに、なにごとも、いえるたちばであるからである。ていけんはただひとつであり、せきにんがある。しかして、ていけんは、かならずむていけんをうちやぶる、これをじっしょうしているのが、まさにそうかがっかいの、こんにちのすがたであるとかくしんされたい。

 ごせんのたいざということ、ほっけのこころは、ふたいざなり、そのゆえはしょほうじっそう、りゃくかいさんけんいちの、かいごなり。

 きょうもんのうえには、ごせんにんのぞうじょうまんのやからが、ほけきょうのせっぽうを、もう、これいじょう、きくひつようがないとして、たいざしたのであった。これは、ほけきょうのこころでよめば、ふたいてんだということである。なぜかならば、しょほうじっそう、りゃくかいさんけんいちの、せっぽうがあったのちであるからだ、というのである。
 およそ、しょほうじっそうにしろ、りゃくかいさんけんいち、すなわち、じゅっにょじっそうにせよ、しんらばんしょうの、ことごとく、みょうほうのとうたいであることを、あかされたものであった。したがって、どんなひとであっても、ほんしつてきのみょうほうの、とうたいであるいじょう、なんみょうほうれんげきょうから、のがれることはえいきゅうに、できないのである。ゆえに、ふたいざなのである。これはひみょうほうべんをせつめいするところで、のべたとおりである。
 つぎに「まんそくほうかい」とは、このまんは、ほんぬのまんであり、ほっけのまんなのである。ごほんぞんは、ぜったいであるとのだいかくしんは、ほけきょうのまんであり、それが、そくだいうちゅうのリズムと、がっちしたせいかつとなって、あらわれるのである。にちれんだいしょうにんは、いっさいのふこうの、こんげんは、じゃしゅうじゃきょうにありとかっぱされ、このふこうをすくうのは、にちれんのみであるとせんげんされ、まただいしょうにんこそまっぽうの、ごほんぶつであると、しめされているのである。これこそほっけのまんではなかろうか。ゆえにだいしょうにんは、けんぶつみらいきに、つぎのようにおおせられているのである。
 「なんじていわく、なんじはだいまんのほっしにして、だいてんにすぎ、しぜんびくにも、こえたりいかん、こたえていわく、なんじにちれんをべつじょするの、じゅうざいまた、だいばだったにすぎ、むくろんしにもこえたり、わがことばは、だいまんににたれども、ぶつきをたすけにょらいのじつごを、あらわさんがためなり、しかりといえども、にほんこくちゅうに、にちれんをのぞいては、だれびとをとりだして、ほけきょうのぎょうじゃとなさん、なんじにちれんをそしらんとして、ぶつきをこもうにす、あにだいあくにんにあらずや」(0507-15)うんぬんと。

・・・・・・・・・・・・・・・37

0720    だいろく、 にょがとうむい、にょがしゃくしょがんのこと。

  じょにいわく、いんをあげて、しんをすすむと。
 おんぎくでんにいわく、がとはしゃくそん、がじつじょうぶつ、くおんのほとけなり、このほんもんの、しゃくそんは、われらしゅじょうのことなり、にょがのがは、じゅうにょぜのまつの、しちにょぜなり、きゅうかいのしゅじょうは、はじめのさんにょぜなり、われらしゅじょうは、おやなり、ほとけはこなり、ふしいったいにして、ほんまつくきょうとうなり。
 この、われらをじゅりょうほんに、むさのさんじんと、ときたるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなうるもの、これなり、ここをもって、これをおもうに、しゃくそんのそうべつのにがんとは、われらしゅじょうのために、たてたもうところの、がんなり、このゆえに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつりて、にほんこくのいっさいしゅじょうを、わがじょうぶつせしめんと、いうところのがん、しかしながら、にょがしゃくしょがんなり。
 ついにいんどうして、こしんとわごうするを、こんじゃいまんぞくと、こころうべきなり、このこんじゃいまんぞくの、いのじ、すでにとよむなり、のいずれところをさして、すでにとはとけるや、およそところしゃくのこころは、しょほうじっそうのもんをさして、すでにとはいえり。
 しかりといえども、とうけのりゅうぎとしては、なんみょうほうれんげきょうをさして、こんじゃいまんぞくと、とかれたりと、こころうべきなり、されば、このにょがとうむいのもん、かんようなり、にょがしゃくしょがんは、ほんにんみょう、にょわれらむいは、ほんがみょうなり。
 みょうかくのしゃくそんは、われらがけつにくなり、いんがのくどく、こつずいにあらずや、しゃくには、こいんかんじんと、こいんはすなわち、ほんがなり、いま、にちれんがとなうるところの、なんみょうほうれんげきょうは、まっぽういちまんねんの、しゅじょうまで、じょうぶつせしむるなり、あに、こんじゃいまんぞくにあらずや。
 いとは、けんちょうごねん、うつき、28にちに、はじめてとなえだすところの、だいもくをさして、いとこころえべきなり、みょうほうのだいろうやくをもって、いっさいしゅじょうのむみょうのたいびょうを、ちせんこと、うたがいなきなり、これをおもいやるときんば、まんぞくなり、まんぞくとは、じょうぶつということなり、しゃくにいわく、「えんはえんゆうえんまんになずけ、とんはとんごくとんそくになずく」と、これをおもうべしうんぬん。

・・・・・・・・・・・37-2

かいしゃくこうぎ
 これは、ほうべんぽんに、「しゃりほつまさにしるべし、われもとせいがんをたてて、いっさいのしゅうをして、わがごとく、ひとしくして、ことなることなからしめんと、ほっしき、わがむかしの、しょがんのごとき、こんじゃはすでにまんぞくしぬ。いっさいしゅじょうをけして、みな、ぶつどうにはいらしむ」とあるところの、おんぎくでんである。
 てんだいのじょ、すなわちもんぐのよんには、これは「ほとけのいんいをあげて、しんじんをすすめるのである」とといている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「われ」とは、ほんもんじゅりょう、もんていのしゃくそん、くおんがんじょのほとけである。このほんもんのしゃくそんとは、べっして、ごほんぶつに

  • [229]
  • おんぎくでん ほうべんぽんはちかのだいじ 1 2

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 5月17日(水)02時33分6秒
 
にちれんだいしょうにんごしょこうぎ  おんぎくでん ほうべんぽんはちかのだいじ。

0713~0713 ほうべんぽんはちかのだいじ。
0713    だいいち ほうべんぽんのこと。
0714    だいに しょぶつちえ、じんじんむりょう、ごちえもんのこと。
0716    だいさん ゆいいいちだいじ、いんねんのこと。
0717    だいよん ごじょくのこと。
0718    だいご びくびくに うえぞうじょうまん、うばそくがまん、うばいふしんのこと。
0720    だいろく にょがとうむい、にょがしゃくしょがんのこと。
0720    だいなな おしょぼさつちゅう、しょうじきしゃほうべんのこと。
0721    だいはち とうらいせあくにん、もんぶっせついちじょう、めいわくふしんじゅ、はほうだあくどうのこと。

0713~0713 ほうべんぽんはちかのだいじ。
0713    だいいち ほうべんぽんのこと。

 だいいちほうべんぽんのこと、もんぐのさんにいわく、ほうとはひなり、べんとはみょうなり、みょうにほうに、たっするにすなわち、これしんのひなり、ないえりの、むげのたまを、てんずるに、おうのちょうじょうの、ゆいいつ、たまあると、になく、べつなし、かくさのひとをさすに、これ、ちょうじゃのこにして、またになく、べつなし、 このごときのげんは、これひ、これみょうなり、 きょうの、ゆいがちぜそう、じっぽうぶつやくねん、ししふしゅせつ、がほうみょうなんしのごとし、ゆえに、ひをもってほうをしゃくし、みょうをもって、べんをしゃくす、しくまさこれ、いまのほんのこころなり、ゆえに、ほうべんぽんというなり、きのさんにいわく、だいさんに、ひみょうにやくして、しゃくするとは、みょうをもってのゆえに、そくなり、えんをもってそくとなし、さんをふそくとなす、ゆえにさらに、ふそくにたいして、もって、そくをしゃくす。
 おんぎくでんにいわく、このしゃくのなかに、いちじゅとは、えりじゅそく、ちょうじょうしゅなり、 かくさのひとと、ちょうじゃのこと、まったくふどうこれなし、しょせん、ほうぼうふしんのひとは、たいげのごんにして、ほうゆう、のうつうの、にしゅのほうべんなり、ここをもって、むにむべつに、あらざるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、これ、ひみょうほうべんにして、たいないなり、ゆえに、みょうほうれんげきょうとだいして、つぎにほうべんぽんといえり、みょうらくのきのさんのしゃくに、ほんじょの、そくぜしんぴのそくを、いえんいそくと、しょうしゃくせり、そくはえんなれば、ほけきょうのべつめいなり、そくとはぼんぷそくごく、しょほうじっそうのほとけなり。
 えんとは、いちねんさんぜんなり、そくと、えんと、ことばは、かわれどもみょうのべつめいなり、いっさいしゅじょう、じっそうのほとけなれば、みょうなりふしぎなり、ほうぼうのひと、いま、これをしらざるゆえに、これをひという、また、いわく、ほうかいさんぜんを、ひみょうとはいうなり、ひとはきびしきなり、さんぜんられつなり、これよりほかに、ふしぎこれなし、だいほうぼうのひとたりというとも、みょうほうれんげきょうをじゅじしたてまつるところを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとはいうなり。
 いま、まっぽうにはいつて、まさしく、にちれんとうのたぐいのことなり、みょうほうれんげきょうのたいないに、にぜんのにんぽうをはいるを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとは、いうなり、これを、そくしんじょうぶつとも、にょぜほんまつくきょうとうともとく、また、ほうべんとは、じっかいのことなり、または、むみょうなり、みょうほうれんげきょうは、じっかいのちょうじょうなり。
 または、ほっしょうなり、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんこれなり、いえんいそくとは、いちねんさんぜんなりみょうとそくとは、おなじものなり、いちじのいちねんさんぜんということは、えんとみょうとをいうなり、えんとはしょほうじっそうなり、えんとは、しゃくにいわく、えんをえんゆうえんまんになずくと、えんゆうは、しゃくもん、えんまんはほんもんなり。
 または、しかんのにほうなり、または、われらがしきしんのにほうなり、いちじのいちねんさんぜんとは、えしんりゅうのひぞうなり、くちはいちねんなり、かずはさんぜんなり、いちねんさんぜんとは、ふしぎということなり、このみょうは、ぜんさんきょうに、いまだこれをとかず、ゆえにひというなり、ゆえにしりぬ、なんみょうほうれんげきょうは、いっしんのほうべんなり、みょうほうれんげきょうは、くしきなり、じっかいははちしきいかなり、こころをとどめてこれをあんずべし、ほうとはそく、じっぽうじっぽうは、そくじっかいなり、べんとはふしぎということなりうんぬん。

かいしゃく こうぎ。
 ほうべんぽんについて、もんぐのだいさんに、つぎのようにいっている。「ほうとはひであり、べんとは、みょうである。
 みょうの、ほうにたっする、すなわち、みょうほうという、ばんぽうのこんげんの、ひみつのうちに、たっすることが、しんのひ、なのである。500でし、じゅきほんの、“えりじゅのたとえ”のなかにある、あのひんにんの、ころもにぬいつけられてあった、むげのたまを、しらべてみると、そのほうしゅと、あんらくぎょうほんの“けいちゅうみょうしゅのたとえ”にある、てんりんじょうおうの、ちょうじょうにあった、たまとは、まったくおなじこころである。
 またしんげほん、だいよんの“ちょうじゃぐうじのたとえ”にでてくる、「かくさのひと」すなわち、しょこくをへんれきしてきたところの、ぐうじは、じつはちょうじゃのこに、ほかならなかったのである。これこそきゅうかいそくぶっかい、ぶっかいそくきゅうかいであり、われわれのせいめいのなかに、しんじつにせいじょうむぜんで、ちからづよいぶっかいのせいめいがあるということであり、ひでありみょうである。
 ほうべんぽんは、“ただわがこのそうをしれり、じっぽうのほとけも、また、しかなり”、“やみなん、やみなん、すべからず、わがぽうは、みょうにしておもいがたし”とあり、ほうべんぽんに、とかれるところの、みょうほうれんげきょうは、ふかしぎであり、ほとけのみが、よくこれをしることができると、いっているのである。
 ゆえに、ひもってほうをしゃくし、みょうをもって、べんをしゃくすることが、このほうべんぽんのいとなのである、このひみょうといういみで、ほうべんぽんというのである」
 これをうけて、みょうらくのほっけもんぐきのだいさんには、つぎのようにいっている。「ほっけもんぐでは、ほうべんを、だいいちにほうゆう、だいににのうつう、だいさんにひみょうにやくしてしゃくし、だいさんに、ひみょうにやくしてしゃくすのが、このきょうの、ほんいであるといっているが、それでは、だいさんにひみょうにやくして、しゃくすとは、どういういみであろうか、とくに、そくぜしんぴの、そくとは、みょうなるがゆえに、そくなのである。
 えんをもって、そくとなし、さんしゅすなわち、さんじょうまたは、ふそくなのである、すなわち、ほけきょうにおいては、うちゅうのこんげんたる、みょうほうれんげきょうを、ときあかしたのであるから、かんぜんむけつであり、えんであり、そくである。ところが、さんじょうやさんきょうは、ふかんぜんであり、ふそくである。ゆえにさらに、ふそくすなわち、ふかんぜんなおしえのほうゆうほうべんや、のうつうほうべんにそうたいして、そく、かんぜんむけつのひみょうほうべんを、しゃくしたのである」と。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである、このほっけもんぐの、ほうべんについての、しゃくのなかにある、「ただ、いちじゅあると、になくべつなし」の「いちじゅ」とは、えりじゅであり、そくそれは、ちょうじょうしゅなのである、すなわちちょうじょうしゅとは、ぶっかいであり、さいこうのたからであり、われわれの、せいめいのなかに、ほんねんてきに、そなわっているというのが、えりじゅなのである。

  また、かくさのひとと、ちょうじゃのことは、まったく、ふどうがない。すなわち、われらごほんぞんをしんずるものは、そく、にちれんだいしょうにんと、あらわれることが、できるのである。しょせん、ほうぼうふしんのひとは、たいげのごんであって、ほうゆう、のうつうの、にしゅのほうべんであり、ぶっぽうをけんげんし、みょうほうのとうたいと、あらわれることが、できない。
 ゆえにもんぐにいう、「むにむべつ」とはいえないのである、いま、われわれ、ごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となえるものは、ひみつほうべんであり、ごほんぞんのたいないであり、ぶっかいにてらされた、きゅうかいのせいかつを、おもうがままにゆうぎしきって、いけるのである。これこそ、みょうほうのたいないの、ほうべんである。
 したがって、みょうほうれんげきょうとだいして、つぎに、ほうべんというのである、みょうらくはほっけもんぐきで、もんぐの、「そくぜしんぴ」のそくを、「えんをもって、そくとなす」とかいしゃくしている。そくとは、えんであるから、ほけきょうのべつめいである、そくとはぼんぷそくごくをいみし、うさではなくして、しょほうじっそうのほとけなのである。
 ここに、ほけきょうとは、いちおうは、28ほん、さいおう、もんていからは、ごほんぞんであり、ぼんぷそくごく、しょほうじっそうの、ほとけとは、ほんぬむさのさんじんの、にちれんだいしょうにんである。
 えんとは、いちねんさんぜんである、「そく」もいちねんさんぜん、ことばは、ちがうが、ともにおなじ、みょうのべつめいである、いっさいしゅじょうは、もともと、じっそうのほとけであるからみょうであり、ふしぎである、われわれ、ごほんぞんをしんずるものは、ほんらい、じっそうのほとけであることを、じじつのうえに、けんげんしてしることが、できるけれども、ほうぼうふしんのひとは、これをしることが、できないから、ひなのである。
 また、だいしょうにんは、つぎのようにもおおせられている、ほうかいさんぜん、すなわち、うちゅうのしんらばんしょうことごとく、さんぜんのへんかがそなわっている、これをひみょうという。ひとは、きびしいことをいう、みょうほうは、きびしき、だいうちゅうのほうそくである。
 いっさい、うちゅうのしんらばんしょうには、さんぜんが、ひとつもかけることなく、きびしく、られつしているのである、これよりほかに、ふしぎなものはない、ゆえに、みょうなのである。
 だいほうぼうの、ひとであっても、しょせんは、みょうほうのとうたいであり、かならず、みょうほうれんげきょうをじゅじするのである、このように、いかなるひとといえども、ごほんぞんから、はなれることはできず、かならず、ごほんぞんを、じゅじするところを、みょうほうれんげきょう、ほうべんぽんというのである。
 すなわち、これは、いま、まっぽうに、はいっては、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかが、ほうぼうをたちきり、ごほんぞんをしんじ、しょうだいすることによって、ぶっかいにてらされた、じゆうじざいの、せいかつをしているものの、ことなのである。
 みょうほうれんげきょうのたいないに、にせんの、にんぽうをいれるのを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんというのである。すなわち、きゅうかいのしゅじょうが、みょうほうをこんていに、いっさいのかつどうをなし、また、いままでの、しゃかいかん、せかいかんが、ことごとく、みょうほうによって、いかされるのである、これを、そくしんじょうぶつとも、にょぜほんまつくきょうとうとも、いうのである。
 ほうべんぽんの、ほうべんとは、じっかいのことであり、または、むみょうということである、みょうほうれんげきょうは、じっかいのちょうじょうであり、または、ほっしょうである、みょうほうれんげきょうほうべんぽんであるから、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんである。
 きの、「いえんいそく」とは、いちねんさんぜんなのである、みょうとそくとはおなじものであり、ともにいちねんさんぜんなのである、えんとはてんだいのしゃくに、「えんをえんゆうえんまんになづく」とある、えんゆうは、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんのりを、ときあかしたところの、しゃくもんであり、えんまんとは、げんじつに、ぶっかいをけんげんしていくことを、あかしたところの、ほんもんである。
 または、しかんのにぽうである、しは「とどまる」ことであり、うちゅうのほんげんの、うごかないり、すなわち、ふへんしんにょのりをいみし、えんゆうである。
かんとは、「かんずる」ことであり、ぶっかいをげんずるちえであり、ずいえんしんにょのちをいい、えんまんである、また、しきしんにほうに、やくせば、みをもって、じっせんかつどうしていくことは、えんまんである。こころはゆうずうむげであり、よくわがこころに、ばんぽうをうかべることが、できるのでえんゆうである、つまりしきが、えんまんで、こころがえんゆうである。
 いちじの、いちねんさんぜんとは、えしんそうずげんしんを、しそとする、えしんりゅうのひぞうである、それによると、えんのじをわけて、くちはいちねんであり、かずはさんぜんということである、いちねんさんぜんとは、このように、いちねんにさんぜんをぐすのであるから、ふしぎとしか、いいようがない。
 このふしぎなる、じったいは、ぞうつうべつのぜんさんきょうには、いまだこれをとかなかった、ゆえにひというのである。
 いじょうのことから、わかるように、なんみょうほうれんげきょうとは、いっしんのほうべんなのである、いっしんとはいちねんであり、ほうべんとは、さんぜんなのである、すなわち、いちねんにさんぜんを、ぐしているじったいが、なんみょうほうれんげきょうなのである。このことを、よくよくしんじんをもって、しさくして、ゆきなさい、「ほう」とは、じっぽう、すなわちぜんうちゅうであり、ぜんうちゅうの、じっそうはじっかいである、「べん」とは、ふしぎということである。

 このこうでだいじなことは、ひみつほうべんということである。
 ほうゆうほうべん、のうつうほうべんは、にぜんきょうでとくほうべんであり、しんじつのほうべんではない、。ほうべんぽんのほうべんとは、これらにしゅにたいして、ひみょうほうべんとは、ひみょうもんともやくすべきほうもんで、じっきょうのことである、ひとは、ほとけのみがしっていること、みょうとは、しゅじょうのしぎしがたいきょうがいをいう。
 ぐたいてきにいうならば、ちょうじゃぐうじのたとえや、えりじゅのたとえによって、わかるように、まっぽうのしゅじょうは、しゅじゅのなやみや、ぼんぷそのままのおろかな、きょうがいにすんでいる、しかし、そのみがそのままが、くおんがんじょいらい、ごほんぶつにちれんだいしょうにんのけんぞくであり、ほとけなのだとさとる、これがひみつほうべんである。
 なやんでいるときの、われらも、ほとけであるとじかくして、しゃくぶくぎょうにはげむときも、そのからだは、ひとつでそのひとにはかわりはない、これは、ほとけのみしれる、ふしぎであるから、ひみょうほうべんという。
 そして、これをひろげると、さまざまなかくどから、ろんずることができる、まずひみょうほうべんということであり、きゅうかいそくぶっかいということである、そもそもひみょうほうべんとは、そうたいてきにみるのではなく、しんじつにりっきゃくして、みょうようするほうべんである。
 ほうべんとはごんであり、きゅうかいである。ゆえにせいめいろんからいえば、ぶっかいにてらされ、みょうほうれんげきょうにりっきゃくして、きゅうかいのせいかつを、おもうがままに、ゆうげすることなのである。

 これについて、もうすこし、くわしくしてみよう、ひとびとは、いっしゅんいっしゅんをいとなんでいる。それぞれのたちばで、またいろいろなすがたで、あるひとはさかなやであり、あるひとはがくせいであり、あるひとはとこやであるとうと、しかし、そのかつどうは、ことごとく、そのひとじしんの、せいめいかつどうであり、そのひとじしんの、せいめいのあらわれである。
 いまここに、ふたりのさかなやがいたとする、そのひとりは、ごほんぞんをもち、もうひとりはしんじんしていないとする、しんじんしている、いないにかかわらず、ふたりともさかなやをやっているてんにおいてはおなじである、したがって、だいたいおなじようにかつどうし、おなじようなすがたであるかもしれない。 けっして、しんじんしているからといって、とくべつなことを、やるわけではない、このいみにおいて、しんじんはあくまでも、しんじんであって、せいかつはあくまでも、せいかつである。しかしいまのべたとおり、そのひとのせいかつは、そのひとじしんの、せいめいかつどうであり、せいめいのあれわれであることをわすれてはならない、したがって、ごほんぞんによって、せいめいりょくゆたかに、かくしんときぼうにみなぎっているならば、さかなやをやっているなかに、おおきなよろこびをかんじ、しょうばいをさらにはってんさせていくのである。
 むろん、ときにはそんをすることもある、しっぱいもあろう、しかし、いくらしっぱいしたとしても、それをのりきっていく、ちからがあれば、かならず、げんじょうをだかいしていく、たんにだかいしていくだけでなく、それによってえたるちからは、さらにはってんしていくちからとなる、ゆえに、はじめはなんでもないようであるが、しんこうをして、じゅうねんにじゅうねんたったときには、しんじんをしているひとの、せいかつと、していないひとのせいかつには、おおきなひらきがでてくる。
 このように、しんじんしているものは、いっけんなんら、ほかとかわりないようにみえながらも、そのじつは、しらずしらずのうちに、みょうほうれんげきょうのだいリズムにかなったせいかつを、しているのである。
 これは、みょうほうのたいないのほうべんであり、ひみょうほうべんなのである。
 ゆえに、にちれんだいしょうにんは、「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、これ、ひみょうほうべんにして、たいないなり、ゆえに、みょうほうれんげきょうとだいして、つぎにほうべんぽんといえり」と、おおせられているのである。

 *、そくは、えんなれば、ほけきょうのべつめいなり、そくとは、ぼんぷそくごく、しょほうじっそうのほとけなり。
 また、ほんぶんに、「そくはえんなれば、ほけきょうのべつめいなり、そくとはぼんぷそくごく、しょほうじっそうのほとけなり」とのおおせも、われわれのせいかつにやくせば、おなじいみである。
 ここに、ほけきょうとは、もんていげしゅ、ずぎょうのいちねんさんぜんの、まんだらである。ぼんぷそくごく、しょほうじっそうのほとけとは、うさではなく、ほんぬむさ、さんしんにょらいの、まっぽうごほんぶつ、にちれんだいしょうにんであられる。 しかしながら、そうじては、われわれ、ごほんぞんに、なんみょうほうれんげきょうと、となえるものは、やはりぼんぷそくごくであり、しょほうじっそうのほとけなのである、しょほうじっそうのほとけとは、ありのままのすがた、そのままで、それがそくほとけということである。
 ごほんぞんさまをおがんだものは、しょほうじっそうのほとけであるがゆえに、がくせいはがくせいとして、しょほうじっそうのほとけなのである、こういんはこういんとしてしょほうじっそうであり、それで、そくほとけなのである、りょうしはりょうしとして、そのふるまいじたいが、もうすでにほとけのしょさになっている、かんげんすればぜったいの、こうふくきょうがいのうえにたった、りょうしのかつどうである。
 それでは、ほとけとはなにか、しゅんかんしゅんかんの、せいめいかつどうが、たのしくてたまらないというきょうがい、これを、ほとけといちおうていぎづけられる、ほとけとはとおくのせかいにあるものではない、せいほうじゅうまんおくどにあるものでもぜったいにない。
 きんピカなすがたをしているものでもない、せのびして、りっぱそうなじんかくをみせるものでもない、そのままのじんせいのすがたが、もうほとけのすがたであり、ほとけのかつどうになっているのである。
 げんざい、せけんでは、しゃかぶっぽうにとらわれて、じゃしゅうきょうのきょうそなどが、しんじゃのまえや、またしゃかいにあって、せいじゃぶって、ぎぜんしゃにあるにもかかわらず、さもきれいに、りっぱそうにみせようとするのがある。それらは、しゃかぶっぽうのながれをくむものであり、じぶんのために、たいしゅうをたぶらかす、まのすがたなりとだんぜざるをえない。

  あくまでも、ぶっかいのせいめいは、きゅうかいのわれらしゅじょうのなかに、そんざいしているのである、われわれ、ぼんぐのせいめいのなかに、うちゅうだいの、ちからづよいだいせいめいが、そんざいしていることは、とうていわからないことであり、うちゅうのじっそうをたいとくなされたほとけにしかわからないことである。ゆえにひなのである。
 しかしながら、われわれが、ごほんぞんをじゅじしたときに、たとえ、われわれが、いしきしなくても、しぜんに、わがせいめいのなかに、ぶっかいがゆげんし、みょうほうのきょうがいを、えとくし、ゆうゆうたるじんせいを、かっぽできるのである。
 すなわち、ひにしてみょうではないか、ゆえにきゅうかいそくぶっかいは、まさにひみつほうべんなのである。これをそくしんじょうぶつとも、ぼんのうそくぼだいとも、しょうじそくねはんとも、にょぜほんまつくきょうとうともいうのである。
 つぎに、ほうぼうのひとと、くきょうとういえども、かならず、しんじんするようになることが、ひみつほうべんなのである、ゆえに、ほんぶんには、「だいほうぼうのひとたりというとも、みょうほうれんげきょうを、じゅじしたてまつるところを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとは、いうなり」と、おおせられているのである、なぜだいほうぼうのひとでも、かならず、ごほんぞんをじゅじするようになるのか。それは、だいほうぼうのひとたりとも、ほんらい、みょうほうのとうたいだからである。
 そやにゅうどうどの、ごへんじにいわく、「きょうというは、ばんぽうのたいをいい、ちというは、じたいけんしょうのすがたをいうなり、しかるに、きょうのふちほとりなく、ふかきときは、ちえのみずながるること、つつがなし、このきょうちがっしぬれば、そくしんじょうぶつするなり、ほっけいぜんのきょうはきょうち、かくべつにして、しかもごんきょうほうべんなるがゆえに、じょうぶつせず、いま、ほけきょうにして、きょうちいちにょなるあいだ、かいじごにゅうのしふつちけんをさとりて、じょうぶつするなり、このないしょうに、しょうもん、ひゃくしぶつ、さらにおよばざるところを つぎしもに、いっさいしょうもん、ひゃくしぶつ、しょふのうちと、とかるるなり、 このきょうちの、にぽうは、なにものぞただ、なんみょうほうれんげきょうのごじなり」(1055-02)と。
 このおんふみを、われわれのしんじんに、やくせば、きょうとは、ごほんぞんである。
 ちとはわれらのいちねんのせいめいである、そして、ごほんぞんにむかい、なんみょうほうれんげきょうととなえるときに、わがせいめいのなかの、みょうほうがよばれて、けんげんし、きょうも、なんみょうほうれんげきょう、ちも、なんみょうほうれんげきょうであり、ここに、きょうちみょうごうし、そくしんじょうぶつ、すなわち、さいこうのこうふくきょうがいをかくとくすることができるのである。
 ところが、ほうぼうのひとは、うちに、なんみょうほうれんげきょうをひめながらも、へんけん、じゃけんのために、その、せいじょうむぜんで、ちからづよいせいめいはおおわれてしまい、ちは、じたいけんしょうのすがたとはならないのである。じゃちにそまってしまい、きょうもまた、じごくかいのとうたいたる、じゃきょうのほんぞんであり、ここに、いよいよせいめいりょくは、よわくなり、しんの、きょうちみょうごうはせず、だいうちゅうの、リズムにがっちすることができず、しらず、しらずに、ふこうへ、ふこうへとしずんでいくのである。
 しかし、いかに、ほうぼうのひととはいえ、もともと、みょうほうれんげきょうのとうたいである、ねがうところは、さいこうのこうふくである。もとむるところは、さいこうのかちあるじんせいである。ひとびとのこうどうは、きょうちみょうごうへ、きょうちみょうごうへとうごいているのである。
 きょうちみょうごうは、だいうちゅうのリズムに、がっちしたせいかつであり、それを、ききゅうするのは、にんげんのほんねんてきな、すがたである、あたかもそれは、みずがたかきより、ひくきにむかって、ながれるごとくである。
げんじつに、そうかがっかいいんが700まんせたいをとっぱしているじじつは、なににもまして、これをゆうべんにものがたっているではないか。
 そのなかには、しんじんすることに、もうはんたいしてきたひともいる、もうはんたいはしなくても、すべてのひとが、おおかれすくなかれ、ひはんのめをもっていてきたのである、しかし、そのようなひとが、みなしんじんするようになったのである。
 われわれが、しゃくぶくするのも、また、いっさいしゅじょうが、せいめいのとうたいだからである、あいてがみょうほうのとうたいでなければ、なんで、しゃくぶくするひつようがあるだろうか、しゃくぶくしておけば、たとえそのときは、しんじんしなくても、かならずや、そのしゃくぶくという、えんによって、もともと、そなわっていた、みょうほうのぶっしゅが、くんぱつされて、しんじんするときが、くるのである。
 あいてが、もうはんたいするのをば、なにゆえに、ごうしゃくするのか、それはもともと、もうはんたいするひととて、みょうほうのとうたいであるいじょう、しんじんせざるをえないからである、すなわち、われわれがしゃくぶくするのは、そのにんげんを、だめだとひはんするのではない。
 あいてのもつ、じゃほうをうちやぶり、じゃけん、へんけんのために、おおいかくされた、せいじょうな、そしてそんげんな、みょうほうれんげきょうという、せいめいを、あらわさんがためである、これぐらい、あいてをそんけいしているこういは、ほかにない、あいてがそんげんな、みょうほうのとうたいであることを、しんじてのふるまいだからである。
 かこにおいて、ふきょうぼさつは、「たんぎょうらいはい」といって、いっさいしゅじょうを、らいはいしてあるいた、なぜ、らいはいしたかというと、それは、あいてのせいめいの、おくそこにぶっしょうがあるだからというのである。
 これは、あいてをさいこうに、そんけいしたこういをしめしているのである、しかし、らいはいのぎょうは、げんざいでは、なんのやくにもたたない、むしろがいがあるのである。らいはいしたところで、なんであいてをすくうことができるのか、あいてのあくをたちきらずして、すくえるわけがない。したがって、まっぽうのこんにちにおいては、しゃくぶくをすることが、もっともあいてを、そんけいするこういなのである、しゃくぶくこそ、せいめいのそんげんを、かくしんした、みんしゅしゅぎのじつぜにである。
 とまれ、だいほうぼうのひとたりとも、ごほんぞんを、しんずるようになることは、うちゅうの、だいてっそくであり、これぐらい、きびしいことがあろうか、これぐらい、ふしぎなことがあろうか。 また、ひみつほうべんとは、みょうほうをこんていに、いっさいのひとびと、また、いっさいのしそう、てつがくをしどうし、もちいていけるということである。ゆえに、だいしょうにんは、ほんぶんちゅうに「みょうほうれんげきょうの、たいないに、にぜんのにんぽうをはいるを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとは、いうなり」とおおせられているのである。 すなわち、いっさいのきょうきょうが、なんみょうほうれんげきょうの、るつうぶんとして、もちいていけるのであるし、また、「いっさいぽう、これぶっぽうなり」という、しんじんのたちばから、いかなるがくしゃ、しどうしゃといえども、ぜんぶ、それをいかしきって、こうせんるふのために、かつどうさせていけるのである。
 おおきい、ようようたる、たいへいようのようなぶっぽうであり、そしてまた、そうかがっかいが、こうせんるふしていくに、ふさわしいおんふみではないか。
 しからば、なにゆえ、いっさいの々きょうきょうを、はしゃくするのか、それには、そうたいみょうとぜったいみょうとがあることを、しらねばならない、そうたいみょうとは、かれとこれとを、そうたいして、しゅしゃをさだめ、もんていげしゅの、ごほんぞんのみが、ゆいいつむにの、そくしんじょうぶつのじきどうであると、けっじょうするのが、そうたいみょうである。
 ぜったいみょうとは、だいごほんぞんを、しんじてしゅぎょうするにあたっては、ほけきょうはもとより、いっさいきょう、あらゆるぜんろんをとりいれるたちばである、だいしょうにんは、いちだいせいきょうたいいに、「そうたいみょうのこころは、まえのよじの、いちだいせいきょうに、ほけきょうをたいして、にぜんとこれをきらい、にぜんをば、とうぶんといい、ほっけをかせつともうす、ぜったいみょうのこころは、いちだいせいきょうは、すなわちほけきょうなりと、かいえす」(0403-18)とおおせられている。
 ここに、「とうぶん」とは、ぶぶんかんをいみし、「かせつ」とは、ぜんたいかんをいみする、そもそも、ぶぶんはぶぶんとして、いみをもつのである、ぶぶんとぜんたいをこんどうし、ぶぶんかんをもって、ぜんたいかんとするのは、まったくの、あやまりである、ぶぶんかんにしゅうちゃくし、それをもって、さいこうであるとおもいこむさっかくは、ことごとく、うちやぶらなければならない。
もし、ぶぶんをぶぶんとして、ぜんたいかんに、りっきゃくしてもちいるならば、それは、ことごとくいきてくるのである。
 ゆえに、にちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうに、つぎのようにのべられている。
 「とう、むかしのきょうきょうのなかに、いちねんさんぜんをあかさずんば、てんだいなんぞ、けごんしんぞうのもんをひいていちねんさんぜんを、しょうするや、こたう、かのきょうに、きしょうくじょうをあかさず、なんぞ、いちねんさんぜんをあかさんや、もし、だいしいんようのこころは、じょうかくいわく、『いまのいんようは、えにゅうののちにしたがう』とううんぬん、また、ことくいわく、『けごんは、しのほうもんにして、ほっけはかつのほうもんなり』うんぬん、かのきょうの、とうぶんは、うみょうむじつなるゆえに、しのほうもんという、らくてんいわく、『りゅうもんげんの、うえのつち、ほねをうめて、なをうめず』と。いずみしきぶいわく『もろともに、こけのしたにはくちずして、りもれぬなを、みるぞかなしき』うんぬん。もし、えにゅうののちは、なお、そせいのごとし、ゆえに、かつのほうもんというなり」と。
 このげんりは、さらに、げんざいにおけるしそう、てつがく、またいっさいのがくもん、さらには、しゃかいせいどとうにも、あてはまるものである、まことに、いちねんさんぜんの、だいぶっぽうを、こんていにしない、いっさいのがくもん、せいどとうは、「しのほうもん」である。
 しかるに、ひとたびそれが、ごほんぞんをこんていにしたとき、みょうほうのちすいによって、いきいきとかがやいてくる、さに「かつのほうもん」である、このように、いっさいのしそう、てつがく、また、いっさいのしどうしゃ、がくしゃとうを、ことごとく、みょうほうのたいないに、ひきいれるのを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんといい、ひみょうほうべんというのである。
 また、だいしょうにんは、「ほうとは、そくじっぽう、じっぽうは、そくじっかいなり、べんとはふしぎということなり」と、おおせられている、ほうとは、とうざいなんぼくのしほう、さらにとうほく、とうなん、せいほく、せいなんのしほうを、くわえてはっぽう、それと、じょうげをくわえれば、じっぽうである。
 すなわち、じっぽうとは、ぜんうちゅうということである、ぜんうちゅうが、いかにふしぎであるかということが、また、ひみょうほうべんなのである、いじょう、ひみょうほうべんについてのべたが、さらにだいじなに、さんのもんをあげて、これに、ついてかんがえてみたい。

*、ひとは、きびしきなり、さんぜんられつなり、これよりほかに、ふしぎこれなし。
 これは、みょうほうは、きびしきだいうちゅうのほうそくで、あるともいえるし、また、ごほんぞんさまのおすがたともはいせる。
 ちゅうおうに、「なんみょうほうれんげきょう にちれん」とおしたためであり、さゆうには、じっかいさんぜんのしょほうが、いっぽうも、かけることなく、そなわっているのである。
 ごほんぞんは、だいうちゅうのいっさいをそなえて、あますところがないのである、まことにもってきびしいすがたではないか。
 また「きびしい」とは、いんがくじだから、きびしいのである、われわれの、しゅんかんしゅんかんのせいめいのなかに、みらいの、いっさいをふくんでいるのである、しょうにんごなんじに、「かこげんざいの、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃを、きょうせんする、おうしんばんみん、はじめはことなきやうにて、ついに、ほろびざるはそうらはず」(1190-02)とある。
 かこの、ほけきょうのぎょうじゃとは、ふきょうぼさつであり、げんざいの、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃとは、にちれんだいしょうにんである、したがって、「ほけきょうのぎょうじゃをきょうせんする」とは、にちれんだいしょうにんをひぼうすることであり、げんざいでは、そうかがっかいを、そしることをいみする。
 だいしょうにんのじだいにおいて、だいしょうにんをひぼうしたひとは、いったい、どうゆううんめいをたどったであろうか、おおたのちかまさや、ながさきじろうひょうえのじょうときつなや、だいしんぼうがらくばして、くもんのうちにしんだことは、いうにおよばず、だいしょうにんいちもんを、いじめにいじめぬいた、へいのさえもんのじょうよりつなもまた、いちぞくめつぼうという、ひさんなじたいを、まねいたではないか。
 これについて、にちかんしょうにんは、せんときしょうもんだんで、つぎのようにおおせである、「とう、しゅうそはかねて、みぼうをしられ、げんせにふごうのこと、すでに、いのちをききおわった、また、げんせのおことばが、しゅうそめつごに、ふごうしていることがあるか、こたう、じつにしょもんのとおりである、いま、しばらく、げんざいのさんじにじゅんじて、めつご、ふごうのさんじをだそう。
 ひとつには、しもやまごしょうそくにいわく、『きょうしゅしゃくそんより、だいじなるぎょうじゃを、ほけきょうのだいごのまきをもって、にちれんが、こうべをうち、じっかんともに、ひきちらして、さんざんにフミたりし、たいかは、げんとうにせいに、のがれがたくこそ、そうらはんずらめ』(0363-01)うんぬん、このだいかは、ついにまぬかれなかった。
 すなわち、へいのさえもんのじょう、ときよりも、しゅうそだいしょうにんめつごじゅうにねんにあたって、いちぞくがめつぼうしてしまった。
 かまくらしょうぐんふに、いわく『こうあん7ねんしちがつとおか、ときむねのこ、さだとき40、かとくをつぎ、しっけんす…えいにんがんねん、しがつ、かまくらおおじしん、ししゃ、いちまんよにん、さだときのかれい、よりつなていはつし、かえんとごうす。けんい、ひにさかんなり、そのじなん、あわのかみ、えんじょうに、にんじ、いいぬまどのとごうす、ひそかに、あわのかみをたてて、しょうぐんとなさんと、ぎす、かえんのちょうし、むねつなもって、さだときにつぐ、さだときは、かえんおよび、あわかみをちゅうす、むねつな、また、さどにながされる、○いちぞくめつぼうす』とううんぬん、いま、あんじていわく、へいのさえもんにゅうどう、かえんは、くびをはねられてしまった。
 これすなわち、あわのくにの、れんそだいしょうにんの、おんくびをはねようとしたためである。ちゃくし、むねつなは、さどにるざいになった、これはすなわち、れんそだいしょうにんを、さどがしまに、おながししたゆえである、このことが、すでにふごうしている。このことは、あに、だいかのまぬがれがたいしょうこではないか」と。
 だいしょうにんは、へいのさえもんじょうが、えいがをきわめ、けんりょくを、ほしいがままにしていたときに、すでに、みらいのかを、かくちせられていたのである、これは、みらいのかが、げんざいのいんにふくまれているしょうこである。
 ほうぼうをおかせば、いかにそのときは、かたちは、りっぱそうにみえ、はんえいしているようにみえても、そのいっしゅんに、むげんじごくのかを、はらんでいるのである、これだけは、どんなにのがれようとしても、のがれられない、きびしいさだめなのである。
 しょうにんちさんぜのことにいわく、「きょうしゅしゃくそん、すでにちかくはさつて、のちみつきの、ねはんこれをしり、とおくは、ごごひゃくさい、こうせんるふ、うたがいなきものか、もし、しかれば、ちかきをもって、とおきをすいし、げんをもって、とうをしる、にょぜそうないし、ほんまつくきょうとうこれなり」(0974-05)ほんまつくきょうとうの、ほんとはげんであり、まつとはとうである。
 くきょうとうとは、げんざいに、みらいがふくまれていることである、いんがにやくせば、ほんとはいんであり、まつとは、かである、くきょうとうとは、いんがくじである。いんがくじは、きびしきうちゅうの、だいてっそくである。
 ほとけのよげんが、ことごとくてきちゅうするというのは、げんざいのいんに、みらいのかがぜんぶふくまれているからである、したがって、とうてつした、せいめいかん、うちゅうかんをもつならば、みらいのかも、とうぜん、さっちされうるのである、せけんにおいても、いちりゅうの、けいざいがくしゃあるいは、じつぎょうかなどが、けいざいかいのしょうらいを、あるていどみとおすことが、できるれいがある、しかし、それは、あるぶぶんの、わずかなきかんの、ことでしかない。
 われわれは、ぼんぐであり、とうてい、みらいをしることはできないが、ほんとうに、しんじんがとうてつしてくれば、みらいは、けっじょうすることが、できるのである、もしも、ごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となえるならば、みらいのかは、げんざいの、しゅんかんのせいめいのなかに、そなわり、みらいは、じゆうじざいとなるのである。
 しんじんしても、まことのしんじんをするひと、それから、たいしてしんけんに、していないひとなどがあるが、ともに、それぞれ、さんぜんられつのきびしいすがたを、しめしていくのである。
 あるひとがこういう、しつもんをした、「ごしょを、こうぎしているときの、じょうたいは、これは、ぼさつかいであろう、しかし、いやいやながら、こうぎをするとすれば、それは、じっかいろんからいえばどうなるのか」と、そのとき、「それはじごくだ、こうぎをしているすがたは、あくまでもけいしきである。じぶんがいやでやっており、ぎむでくるしいというのが、ほんとうのじぶんの、いちねんではないか」とこたえて、おいたことがある。
 ひとは、じぶんのいちねんである、ひとは、だれからもわからないからひである、がいめんのけいしきではおうていのいちねんである。したがって、じごくのいちねんで、こうぎしたところで、どんなに、ことばをかざろうと、わがみをかざろうと、ひとにかんどうをあたえることは、できない。いちねんのせいめいのいかんが、いっさいを、けっじょうするのである。じつにきびしいではないか。

*、みょうほうれんげきょうの、たいないに、にぜんのにんぽうを、はいるを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとは、いうなり。
 「にぜんのにんぽう」ということにりゅういすべきである。
 ひととほうにわけ、まず、「みょうほうれんげきょうのたいないに、にぜんのにんぽうをはいる」とは、きゅうかいのしゅじょうが、みょうほうをこんていにして、いっさいの、かつどうをするということであり、またすぐぜんにある、「だいほうぼうの、ひとたりというとも、みょうほうれんげきょうを、じゅじしたてまつるところを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとはいうなり」にもあたる。
 また、べつのかくどからいえば、“いっさいぽう、これぶっぽうなり”という、しんじんのたちばから、いかなるがくしゃ、しどうしゃでも、ぜんぶいかし、もちいていくことを、いみする、つぎに、「みょうほうれんげきょうのたいないに、にぜんのにんぽうをいる」とは、ぶっかいにてらされた、きゅうかいのせいめいであり、またぜったいみょうの、たちばから、いっさいの、きょう々きょう、てつがくが、みょうほうのるつうぶんとして、もちいられることである。

*、しゃくにいわく、えんを、えんゆうえんまんになずくと、えんゆうは、しゃくもん、えんまんはほんもんなり、または、しかんのほうなり。
 えんとは、かんぜんむけつと、いうこと、ゆうとは、ゆうずうむげなること、ほけきょうしゃくもんでは、くうけちゅうのさんたいを、そうそくして、ときあかし、また、うちゅうしんらばんしょう、ことごとく、じっそうであるとして、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんのりを、あかした。

 これによって、しんらばんしょうの、りが、かんぜんにときあかされたことを、いみする、えんまんが、ほんもんとは、およそ、まんとは「みつる」といういみであり、げんじつに、ぶっかいをけんげんしてこそ、はじめて、「みつる」といえるからである。
 しゃくもんのりにたいして、じっせんかつどうであり、ぐたいてきじじつなのである、まっぽうにおいては、じゅじそくかんじんで、ごほんぞんをしんじ、しょうだいすることによって、こうふくせいかつを、いとなんでいくことが、しんのえんまんである。
 「しかんのにぽう」とは、しとは「とどまる」ことであり、うちゅうのほんげんの、うごかないり、すなわち、ふへんしんにょのりであり、えんゆうであり、しゃくもんである、かんとは、かんずることであり、うちゅうをげんずる、ちえである。
 ゆえに、これは、ぐたいてき、じつぜにかつどうであり、ずいえんしんにょのちであり、えんまんであり、ほんもんである。
 「しきしんのにほう」とは、しきとはにくたいであり、しんとは、せいしんである、われわれが、げんじつにみをもって、じつぜにかつどうしていくことは、えんまんである、じぶんのこころは、ゆうずうむげであり、よくわがこころに、ばんぽうをうかべることが、できるので、えんゆうである。

*、 ゆえにしりぬ、なんみょうほうれんげきょうは、いっしんのほうべんなり、みょうほうれんげきょうは、くしきなり、じっかいははちしきいかなり。
 このいっしんとは、いちねんさんぜんの、いちねんであり、たんに、せいしんてきな、こころといういみとはちがう、ほうべんとは、おんぎくでんげ、「このほうべんとは、じっかいさんぜんなり」(0794ひとつほうべんぽん)とあるように、いちねんさんぜんのさんぜんである。
 すなわち、「なんみょうほうれんげきょうは、いっしんのほうべん」とは、「なんみょうほうれんげきょうは、いちねんさんぜん」ということなのである、「みょうほうれんげきょうは、くしきなり、じっかいははちしきいかなり」の、みょうほうれんげきょうは、くしきであるとは、みょうほうれんげきょうが、うちゅうのほんげんであり、せいめいのきゅうきょくということである、じっかいは、はちしきいかとは、ほんたいにたいするはたらきであり、せいめいのきゅうきょくである、いちねんのあらわれである。
 じっかいことごとく、いちねんのさようであり、はたらきであるがゆえに、しゃかたほうもまた、みょうほうのうでしかないのである、すなわち、げんじつに、あらわれた、ほとけのしょさは、はちしきいかになってくるのである、ゆえに、しょほうじっそうしょうにいわく、「されば、しゃか、たほうのにぶつというも、ゆうのほとけなり、みょうほうれんげきょうこそ、ほんぶつにては、ござそうろへ、。きょうにいわく、「にょらいひみつじんつうしりき」これなり、にょらいひみつは、たいのさんじんにして、ほんぶつなり、じんつうしりきは、ゆうのさんじんにして、しゃくぶつぞかし、ぼんぷは、たいのさんみにして、ほんほとけぞかし、ほとけは、ようのさんじんにしてしゃくぶつなり」(1358-11)と。ゆえに、われわれが、みょうほうをとなえたときに、ゆうゆうと、じんせいをみおろし、たのしみきってせいかつするのである、これこそ、きょうもんの「しゅじょうしょゆうらく」に、あたるではないか。


0714    だいに しょぶつちえ、じんじんむりょう、ごちえもんのこと。

 もんぐのさんにいわく、まず、じつをたんじ、つぎに、ごんをたんず、じつとは、しょぶつのちえなり、さんしゅのけたの、ごんじつにあらず、ゆえに、しょぶつという、じぎょうのじつを、あらわすゆえに、ちえという、この、ちえのたい、すなわちいっしんの、さんちなり。
 じんじんむりょうとは、すなわち、しょうたんのじなり、ほとけのじつちの、たてににょりのそこに、てっすることを、あかすゆえに、じんじんという、よこに、ほうかいのへんを、きわむゆえに、むりょうという、むりょうじんじんにして、たてにたかく、よこにひろし、たとえば、ねふかければ、すなわち、えだしげく、みなもととおければ、すなわちながれ、ながきがごとし。
 じつち、すでにしかり、ごんちれいして、しかりうんぬん、ごちえもんは、すなわち、これごんちを、たんずるなり、けだし、これ、じぎょうのどうぜんの、ほうべんしんしゅのちからあり、ゆえになずけて、もんとなす、もんよりはいつてどうちゅうにいたる、どうちゅうをじつとしょうし、。どうぜんをごんというなり、なんげなんにゅうとは、ごんをたんずるの、じなり、ふぼうにしてりょうし、むほうのだいゆうあり、ななしゅのほうべん、そくたくすることあたわず、じゅうじゅうにはじめてげす、じゅっちをにゅうとなす、はじめとのちとをあぐ、ちゅうかんの、なんちなんごは、しるべし。
 しかるに、べっして、しょうもんえんかくの、しょふのうちをあぐることは、とる おもきがゆえに、べっして、これをはするのみ、きのさんにいわく、けんこうおうこうとは、なかに、おいて、ほっぴごうあり、これをもって、のちをれいす、いま、じつをしゃくするに、すでにあまねく、よこたてをきわめたり、したにごんをしゃくするに、りじんきわみなるべし、したに、まさにごんをしゃくすべし、あらかじめ、そのそうをじゅつす、ゆえにうんぬん。
 とちゅうす、ごちえもんとは、ごとは、すなわち、まえのじっかの、いんちをさす、もし、ちえそくもんならば、もんはこれ、ごんなり、もしちえのもんならば、ちすなわち、かなり、けだしこれらとは、このなかに、すべからく、じゅっちをもって、どうぜんとなし、みょうかくをどうちゅうとなし、しょうごをどうごとなすべし、ゆえにしんぬもんのこころはいんのくらいにありと。
 おんぎくでんにいわく、このほんまつのこころ、ふんみょうなり、なかに、たてにたかく、よこにひろしとは、たてはほんもんなり、よこはしゃくもんなり、こんとは、くさきなり、くさきはうえへのぼる、これはしゃくもんのこころなり、みなもととはほんもんなり、みなもとはみずなり、みずはしたへくだる、これはほんもんのこころなり。
 えだしげしとは、しゃくもんじゅうよんほんなり、ながれながしとは、ほんもんじゅうよんほんなり、ちえとは、いっしんのさんちなり、もんとはこのちえにはいるところの、のうにゅうのもんなり、さんちのたいとは、なんみょうほうれんげきょうなり、もんとは、しんじんのことなり、ここをもって、だいにのまきに、いしんとくにゅうという、にゅうと、もんとはこれ、おなじきなり。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるを、ちえとはいうなり、ひゆほんにいわく、「ゆいういちもん」と、もんにおいてうもん、くうもん、やくう、やくくう、もんひ、うひ、くうもんあるなり、うもんはしょうなり、くうもんはしなり、やくう、やくくうもんは、しょうじいちねんなり、ひう、ひくうもんは、しょうにあらず、しにあらず、うもんは、だいもくのもんじなり、くうもんは、このごじに、ばんぽうをぐそくして、いっぽうにとどこうらざるぎなり、やくう、やくくうもんは、ごじにぐそくする、ほんしゃくなり、ひう、ひくうもんは、いちぶのこころなり、このないしょうは、ほっけいぜんの、にじょうのちえの、およばざるところなり、0716。
 もんぐのさんにいわく、「ななしゅのほうべん、そくたくすることあたわず」と、いま、にちれんとうのたぐいは、このちえにとくにゅうするなり、よって、げじゅに、じょしょぼさつしゅう、しんりきけんごしゃというは、われら、ぎょうじゃのことをとくなり、うんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ほうべんぽんだいにの、「しょぶつちえ、じんじんむりょう」のきょうもんについて、もんぐのさんでは、つぎのようにいっている。「このもんのうち、まず「じんじんむりょう」のもんは、じつちをさんたんし、せつめいし、つぎに、「ごちえもん、なんげなんにゅう」を、さんたんしているのである。じつというのは、しょぶつのちえであり、ぞう、つう、べつの、さんしゅのけたの、ごんじつではない。すなわち、にぜんきょうで、とくところの、ごんじつは、「じつ」のしじょうしょうかくの、ほとけであり、「ごん」は、そのほとけをりそうとして、なんぎょうくぎょうのしゅぎょうをつむ、しゅじょうであり、ともに、はかないゆめのなかのごときものであって、ここでは、そのような、ごんじつをいうのではない。いま、じつというのはまさしく、じぎょうのじつ、すなわち、くきょうしんじつの、ずいじいの、みょうほうのことなのである。
 しからば、このちえのたいとは、なにかといえば、それは、いっさいち、どうしゅち、いっさいしゅちの、さんしゅをみょうほうの、いっぽうに、ぐそくするという、いっしんのさんちを、いうのである。
 「じんじんむりょう」というのは、しょうさんのことばである。ほとけのじつちというものは、たてにえいえんであり、うちゅうのほんげんの、みょうほうをさとっていることを、あかすゆえに、じんじんというのである。よこに、うちゅうだいのひろがりを、もっているので、むりょうというのである。まことに、ほとけのちえというものは、じんじんむりょうであって、たてに、たかく、よこにひろいのである。たとえば、ねがふかければ、たいぼくとなり、えだやははしげり、みなもとがとおければ、ながれが、ながいようなものである。じつちが、このように、じんじんむりょうである。ごんちもまた、なんげなんにゅうであることは、やはりこのれいを、あてはめることが、できよう。
 「ごちえもん」は、ごんちをさんたんし、せつめいしているのである。
おもうにこれは、ごんちはごんちとして、それだけにとどまるものではなく、かならず、まえにすすむべきちからをもっている。すなわち、きゅうかいのちえは、よく、ぶっかいをくんぱつするのである。ゆえになづけて、もんというのである。ひとがいえのなかにはいるには、まずもんからはいる、れいのごとく、もんのまえのみちを、どうぜんといい、もんからはいって、いえにいたるあいだの、みちをどうちゅうとしょうし、どうぜんをごんといい、どうちゅうを、じつとしょうするのである。
「なんげなんにゅう」は、ごんをたんすることばである。みょうほうのきょうがいというものは、なんげなんにゅうで、はかることができない。しかし、それがいかに、なんげなんにゅうであっても、しんのいちじで、いげいにゅうとなり、じつちをかんとくでき、そこに、はかりしれない、りきうをはっきするのである。
 このほとけのちえが、いかに、じんじんむりょうであるかということは、ななしゅのほうべん、すなわち、ぞうきょうのしょうもん、えんかく、ぼさつ、および、べつきょうのぼさつとうの、きょうがいでは、とうていはかりしることは、できないのである。
 じゅうじゅうにきて、ふたいのけついがかたまり、このとき、はじめてみょうほうが、すごいものだと、わかるようになってくる。さらに、じゅっちにきて、ぜったいのふたいのきょうちにりっきゃくして、しんじんのもんにはいったと、いえるのである。いま、はじめのじゅうじゅうと、のちのじゅっちをあげることによって、そのちゅうかんの、じゅうぎょうとじゅうえこうのきょうがいでは、いまなお、ほとけのちえの、じんじんむりょうなることを、しめすことも、さとることも、できないことを、しるべきである。
 したがって、べつきょうの、ぼさつですら、ほとけのきょうちは、りかいできない。しかし、いま、しょうもんと、えんかくにかぎって、「いっさいしょうもん、ひゃくしぶつ、しょふのうち」と、だんかしたのは、にじょうが、とくにしゅうちゃくがつよいので、べっして、これをはしゃくしたのである

 いじょうが、もんぐのさんのもんであるが、みょうらくは、これをうけて、さらに、ほっけもんぐきの、だいさんかんに、つぎのようにいっている。「もんぐに、『たてにたかく、よこにひろし』とある、もんのなかにほっぴごうがあり、これは、じつちをせつめいしたものであり、これをもって、のちのごんちをも、れいすることができるのである。
 すなわち、ほうとは、『ほとけのじつちの、たてに、にょりのそこにてっすることを、あかすゆえに、じんじんという。よこに、ほうかいのほとりをきわむゆえに、むりょうという、むりょうじんじんにして、たてにたかく、よこにひろし』のもんをさし、『たとえば、ねふかければ、すなわち、。えだしげく、みなもと、とおければ、すなわち、ながれながきがごとし』がたとえであり、『じつち、すでにしかり、ごんち、すでにしかり、ごんち、れいしてしかり、うんぬん』が、ごうである。
 いま、じつちをしゃくして、じつちは、すでに、くうかんてきにうちゅうだいであり、じかんてきには、えいえんであることは、あきらかとなった。さらに、そのもんのしたには、ごんちをしゃくして、ごんちもまた、じつちとどうよう、そのりは、じつにふかきことも、しめされているとおりである。したに、ごんちをしゃくさんとするに、まずあらかじめ、そのそうみょうをのべようとして、『うんぬん』といったのである。
 『ごちえもん』のごとは、そのまえにある、『しょぶつちえ、じんじんむりょう』の、ぶっかにいたるまでのいんぎょうとしての、ちえすなわち、ごんちをさすのである。もし、ちえそくもん、すなわち、ちえをそのまま、もんととるならば、もんはあくまでも、ごんであるいじょう、そのちえは、ごんちととるべきである。しかし、ちえにはいるもんと、とるならば、ちえはぶっかとなり、じつちとなるのである。『けだしこれ』らと、あるのは、けっきょく、じゅっちをどうぜんとし、みょうかくをどうちゅうとし、みょうかくをえてからを、どうごとすべきである。いじょうのてんを、そうごうすると『ごちえもん』とは、あくまでもいんのくらいにあることが、めいりょうである」と。
 この「しょぶつちえ、じんじんむりょう」、および、てんだい、みょうらくのしゃくについて、おんぎくでんでは、つぎのようにおおせである。この、てんだいおよび、みょうらくのしゃくが、なにをいわんとしているかは、あきらかである。そのなかに、「たてにたかく、よこにひろし」とあるが、たてとは、えいえんのせいめいをときあかした、ほんもんであり、よことは、りのいちねんさんぜん、しょほうじっそうをときあかした、しゃくもんをいみする。もんぐには、「ねふかければ、すなわち、えだしげく、みなもととおければすなわち、ながれながきがごとし」と、あるが、ねとは、くさきである。くさきは、だいちよりてんにむかって、うえにのぼるのであり、じゅういんしかのすがたを、しめしており、したがって、しゃくもんをいみする。みなもととは、ほんもんである。みなもととは、すいげんであり、みずはしたへくだるものであり、これは、じゅうかこういんのすがたであり、したがって、ほんもんをいみするのである。
 「えだしげし」とは、くうかんのむげんであり、うちゅうのしんらばんしょう、ことごとく、みょうほうのとうたいであることを、あかした、ほけきょうしゃくもん、じゅうよんほんであり、「ながれながし」とは、じかんてきにちょうおんであることを、いみするのであり、せいめいのえいえんを、あかした、ほんもんじゅうよんほんを、いみするものである。 ちえとは、いっしんのさんちなるをいう。
 もんとは、このいっしんのさんちにはいるところの、のういりのもんである。しからば、このさんちのたいとはなにか。それは、なんみょうほうれんげきょうなのである。しからば、その、なんみょうほうれんげきょうに、はいるもんとは、しんじんなることは、あきらかであろう。
ゆえに、だいにのかんの、ひゆほんだいさんにおいては、「いしんとくにゅう」ととき、「だいち、しゃりほつすらしんをもって、じょうぶつしたのである。まして、たのしょうもんは、しんがなければ、じょうぶつできるわけがない」として、じょうぶつのこんぽんは、しんであるといっているのである。「」にゅうと「もん」とは、ともに、しんじんのことを、いみするものであり、おなじことである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、しんじんごうじょうに、ただ、よねんなく、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、「いしんだいえ」のげんりにより、いっさいの、こうふくせいかつのげんせんとなる、ちえをしょうずるのである。それが、しんじつのさいこうのちえである。
 ひゆほんだいさんには、「ただ、いちもんあり」とあり、しんにこうふくになるみちは、ただひとつ、ごほんぞんをしんずるいがいに、ないことをしめされている。もんにおいては、うもん、くうもん、やくうやくくうもん、ひうひくうもんの、しもんとうがある。うもんはぞうきょう、くうもんはつうきょう、やくうやくくうもんは、べつきょう、ひうひくうもんは、えんきょうであるが、いまさらに、いっぽふかく、せいめいろんにやくし、ろんずれば、うもんはしょうであり、くうもんは、しであり、やくうやくくうもんは、しょうじとあらわれたる、いちねんのせいめいをいみし、ひうひくうもんは、しょうにへんせず、しにへんしない、しょうじをはなれた、せいめいのほんしつを、いみするとかんがえられよう。
 また、このしもんを、もんていのぶっぽうのたちばから、ろんずれば、しもんはことごとく、みょうほうにぐそくするのである。うもんとは、だいもくのもんじである。なぜなら、もんじは、めにはぐたいてきなかたちとして、みえるからである。この、だいもくのもんじは、ごじしちじであるが、じつは、このもんじにばんぽうを、ぐそくし、うちゅうだいのちからが、こめられ、けっして、いっぽうにへんするようなことは、ないのである。これがくうもんのいぎである。
 やくうやくくうもんとは、みょうほうごじに、ぐそくするほんしゃくであり、ほけきょう、にじゅうはちほんとも、かんがえられる。これは、あるときは、くうをちゅうしんに、せいめいのほんしつをとこうとするものである。しかし、せんずるところ、すべてが、みょうほうにふくまれているのである。
 ひうひくうもんは、ほけきょう、いちぶはちかん、にじゅうはちほんのこんぽんたる、もん、ぎ、いのなかの、いのほけきょうたる、なんみょうほうれんげきょうなのである。
 このなんみょうほうれんげきょうという、ないしょうのちえは、ほっけいぜんの、にじょうのとうてい、およぶところではない。このことを、ほっけもんぐのさんには、「しちしゅのほうべんであるにじょう、ぼさつの、とうてい、かんがえおよぶ、ところではない」と、だんげんされているのである。
 しかしながら、いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、この、なんみょうほうれんげきょうのちえに、はいることができるのである。よって、ほうべんぽんのげに、「もろもろの、ぼさつしゅうの、しんりきけんごなるものをばのぞく」とあり、しんじんけんごのもののみが、ほとけのちえを、えとくできるといってるのは、われわれ、ほけきょうのぎょうじゃのことを、といているのである。
 そうかがっかいのごんぎょうは、だいもくを、しょうぎょうとしてとなえ、ほうべんぽんと、じゅりょうほんをじょぎょうとして、どくじゅする。このことについて、にちかんしょうにんは、「とうりゅうぎょうじしょう」に、「だいかくせそん、おしえをもうくるの、がんいは、いっさいしゅじょうをして、しゅぎょうせしめんがためなり、しゅぎょうに、ふたつあり、いわゆる、しょうぎょうおよび、じょぎょうなり、しゅうしゅうことなりといえども、おなじく、しょうじょをたて、ぎょうたい、かくことなるなり、りゅうりゅうのしょうじょは、いまろんぜざるところなり、とうもんしょしゅうの、にぎょうのはじめに、じょぎょうとは、ほうべんじゅりょうのりょうほんをどくじゅし、しょうぎょうじんじんのくどくを、じょけんす。
 たとえば、あくのせいすいをたすけ、しおずのべいめんのあじを、たすくるがごとし、ゆえに、じょぎょうというなり、このじょぎょうのなかに、また、ぼうしょうあり、ほうべんをぼうとし、じゅりょうをしょうとなす。
 これすなわち、おんごんしんそのべつ、あるによるゆえなり、ぼうしょうありといえども、ともにこれ、じょぎょうなり、つぎにしょうぎょうとは、さんぜしょぶつのほんかい、ほけきょう、にじゅうはちほんのさいよう、ほんもんじゅりょうのかんじん、もんていひちんのたいほう、ほんちなんし、きょうちみょうごう、くおんがんじょの、じじゅゆうしんのとうたい、じのいちねんさんぜん、むさほんぬの、なんみょうほうれんげきょうこれなり、
 けいけいそんじゃ、いわるあり、『しょうじょ、がっして、よって、だいえきをえ』うんぬんと、おおせられている。
 さらにたちいって、ほうべんぽんを、なぜどくじゅするのか、じゅりょうほんを、なぜどくじゅするのかといえば、ほうべんぽんは、「しょは」のためと、「しゃくもん」のためである。
またじゅりょうほんは、「しょは」のためと、「しょゆう」のためである。いま、ほうべんぽんの、しょはしゃくもんについてかんがえてみることにしよう。とうりゅうぎょうじしょうには、「いま、つつしんで、げしていわく、々々もんもんくく、みずからりょうへんあり、いわゆる、もんぎなり。もんは、これのうせん、ぎは、これしょせん、ゆえに、どくじゅにおいてまた、りょういをじょうず、これ、すなわち、しょせんの、へんにやくせば、しょはのためなり、のうせんの、へんにやくせば、しゃくもんとなるなり、ゆえに、しょはのためとは、すなわち、しゃくもんしょせんのぎを、はするなり。

 しゃくもんのためとは、しゃくもんのうせんのもんをかりて、ほんもんのぎをあらわすなり」とあり、また、「しばらく、ゆいぶつ、よぶつとうの、いちもんのごとき、ひろくこれをろんずれば、すなわち、しかもたすうをじょうず、いわく、しょはのへん、みずからにいをふくむ、ひとつには、たいげの、しゃくもん、すなわちこれ、こんにち、しじょうしょうかくのほとけの、しょしょうのほうなり、ざいざいしょしょ、おおく、このこころによる。ふたつには、たいないのしゃくもん、これ、すなわち、じゅうほんすいじゃくのほとけの、しょしょうのほうなり、どくじゅのこころ、まさにこれにあり、また、しゃくもんのへんも、また、りょういをふくむ、ひとつにはちかく、くおんほんが、しょしょうのぽうをあらわすなり、つうとくいんようおおく、このこころによる。
 ふたつには、とおく、くおんみょうじのしょしょうのほうを、あらわすなり、どくじゅのこころ、まさにこれにありうんぬん、まさにしるべし、もし、もんていの、まなこをひらくときは、このもん、すなわち、これ、くおんみょうじのほんぶつ、ゆいぶつよぶつ、ないのうくじんなり、うんぬん」と、おおせられている。

 いじょうのてんからすれば、けっきょく、ほうべんぽんも、だいしょうにんのぶっぽうのいだいさを、しょうめいするためのものであって、しゃかぶっぽうは、それじたいのために、ほうべんぽんを、どくじゅするのでないこと、あきらかであろう。
 ゆえに、この「しょぶつちえじんじんむりょう」のもんも、もじどおりの、いみからみれば、しゃくもんのほとけのちえが、じんじんむりょうであると、なるわけであるが、それは、ひょうめんてきなかいしゃくであって、だいしょうにんのみこころに、かなうものではない。しゃくもんのほとけの、ちえがじんじんむりょうといっても、しんじつのじんじんむりょうではない。いまだ、えいえんのせいめいをとかず、せいめいのおうていをきわめていない。しかし、もんていのまなこをひらいて、かえって、このもんをみるならば、まさに、まっぽうの、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんの、おちえこそ、うちゅうだいであり、くおんがんじょの、じじゅゆうしんとして、えいえんのほとけであり、しんじつの「じんじんむりょう」なのである。また、そのちえには、われわれは、とうていおよぶことなく、そのちえに、はいるもんは、なんげなんにゅうとされているが、もしだいしょうにんの、ぶっぽうから、これをみるときには、じゅじそくかんじんのげんりにより、しんじんをもって、このちえをひらくことができるのである。ゆえに、ちえにはいるもんとは、「しんじん」とやくすのである。
 いま、「しょぶつちえじんじんむりょう」を、せいめいろんのうえからいえば、「じんじん」とは、せいめいの、えいえんということである。「むりょう」とは、われわれの、せいめいが、うちゅうほうかいにへんまんして、いるということである。せいめいの、えいえんは、ほけきょうの「ほんもん」において、とかれ、われわれの、せいめいが、うちゅうだいであることは、ほけきょう「しゃくもん」で、すでにとかれている。すなわち、ほけきょうしゃくもんでは、しょぶつちえじんじんむりょう、しょほうじっそうととき、ありとあらゆる、げんしょうが、ことごとく、みょうほうれんげのとうたいであり、われわれの、いちねんはすでに、ばんぽうをそなえていることを、あきらかにし、さらに、ほんもんじゅりょうほんでは、ごひゃくじんてんごうを、といたのであった。
 およそ、ひとつのものごとを、はあくするにしても、それを、かんきょうとのかんけいにおいて、とらえるとどうじに、そのじぶつは、かこのいくたのれきしをはらんで、じつざいし、また、みらいをはらんで、じつざいするものであるいじょう、じかんてきにも、とらえていかなければ、しんにはあくしたことには、ならないのである。たとえば、あるひとりのひとを、どういうにんげんかとみるときに、むいしきのうちに、げんじつに、そのひとのすがた、かたち、またはかんきょうとうを、みるとどうじに、そのひとのかこの、けいれきをみようとするのが、つねではないだろうか。これらのことは、せけんいっぱんにもよくおこなわれることである。
 ぶっぽうは、なにも、かくうなとくべつなことを、といているのではない。ぶっぽうは、あくまでも、どうりである。ただ、せいめいのおうていをとききった、ものであるので、なんしんなんげなのである。しゃくそんのよんじゅうよねんの、にぜんのきょうきょうでは、じつに、このせいめいにたいする、かんさつがふてっていであった。
 よこにつくすわけでもなく、たてにえいえんのせいめいをとくのでもなかった。ゆえに、しゃくそんじしん、これらのきょうきょうをさして、「みけんしんじつ」といって、うちやぶったのである。
 ほけきょうにきて、はじめて、いちねんさんぜんがあかされ、よこにほうかいをきわめ、たてにえいえんの、せいめいが、あかされたのであった。
 まず、よこに、ほうかいをつくすとは、いっしょうじょうぶつしょうに、「いっしんほうかいのむねとは、じっかいさんぜんの、えしょうしきしん、ひじょうそうもく、こくうせつど、いづれものぞかず、ちりも、のこらず、いちねんのこころにおさめて、このいちねんのこころ、ほうかいにへんまんするをさして、ばんぽうとはいうなり」(0383-04)とあり。
 またにちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうにおいて、「とう、しかんのだいごにいわく、『このさんぜんは、いちねんのこころにあり』とううんぬん、いちねんみしょう、なんぞ、さんぜんをぐするや、こたう、およそ、こんきょうのこころは、ぐへんをあかす、ゆえに、ほうかいのぜんたいは、いちねんにぐし、いちねんのぜんたいは、ほうかいにあまねし、たとえば、いちみじんにじっぽうのぶんをそなえ、いちてきのみずの、たいかいにあまねきがごとしうんぬん」と、おおせられている。
 これらのもんは、かずおおくある。みなことごとく、われらのせいめいが、そく、だいうちゅうのせいめいなることを、いちねんさんぜんの、だいぶっぽう、げんりによって、あかしているところである。いちねんさんぜんの、ことについては、じこうの、「だいさん、ゆいいいちだいじ、いんねんのこと」のこうぎでろんずることにする。ここでは、いちおう、いちねんさんぜんによって、ほうかいがつくされたということに、とどめておこう。
 つぎに、たてに、えいえんのせいめいが、とかれたということは、じゅりょうほんにおける、ごひゃくじんでんこうの、けんぼんをいうのである。そのもんにいわく、「いっさいせけんの、てんにんおよび、あしゅらは、みな、いまのしゃかむにぶつは、しゃくしのみやをいでて、かやじょうをさること、とおからず、どうじょうにざして、あのくたらさんみゃくさんぼだいを、えたりといえり。しかるに、ぜんなんし、われじつにじょうぶつしてより、このかた、むりょうむへん、ひゃくせんまんのく、なゆたこうなり」と、さらに、そのながさを、「たとえば、ごひゃくせんなんのく、なゆた、あそうに、さんぜんだいせんせかいを、たといひとあって、まっして、みじんとなして、とうほう、ひゃくせんまんのく、なゆた、あそうぎのくにをすぎて、すなわち、いちじんをくだし、かくのごとく、ひがしにいきて、このみじんを、つくさんがごとき、(ないし)、このもろもろのせかいの、もしは、みじんをおき、および、おかざるものを、ことごく、もって、ちりとなして、いちじんをいちこうとせん。われ、じょうぶつしてより、このかた、また、これにすぎたること、ひゃくせんまんのく、なゆた、あそうなり」と、といているのである。

 しかし、しゃくそんが、このようにじゅりょうほんにおいて、えいえんのせいめいを、とくといえども、まだそのげんかいが、あるのである。ひとつには、しゃくそんは、ほとけのきょうがいのうえにおいて、くおんのせいめいを、といたということである。これはまだ、しきそうのほとけのいきをだっしていない。みずからを、りそうかし、そのりそうかした、ほとけのくおんをといたに、すぎない。したがって、このほとけは、つくられたほとけであり、きかざったほとけであり、あたかも、みずにうつるつきのごとき、しゃくちゅうのこぶつであり、しゅじょうけどうのために、せじょうにずいじゅんする、すいじゃくけたのほとけなのである。したがって、いまだ、せいめいのしんじつのすがたを、にょじつにときあかしているとは、いえない。ゆえに、にちかんしょうにんは、もんていひしんしょうに、つぎのごとく、おおせられている。
 「とう、もし、しからば、ほんがは、なお、しゃくぶつ、けたのじょうどうと、ならんや、こたう、もんていのこころにじゅんずるに、じつにしょもんのごとし、いわく、ほんがのじょうどうに、すでに、しきょう、はちきょうあり、まったく、こんにちの、けぎにどうじきが、ゆえなり、もんのいちにいわく、『ただ、ほんちのしぶつは、みなこれ、ほんなり』うんぬん。
 またいわく、『せきじつ、すでに、いこんをえ』とううんぬん、ゆえにしりぬ、ほんがなお、これ、しゃくぶつけたの、じょうどうなり、まさにしるべし、さんぞうのおうぶつ、しだいにしょうしんして、じゅりょうほんにいたり、じじゅゆうしんとあらわる、ゆえに、おうぶつしょうしんの、じじゅゆうしんとなづくるなり、これ、すなわち、こんにちのほんがといちどうなりうんぬん」と。
 にには、えいえんといえども、いまだ、ごひゃくじんでんごうというように、ときをげんていしているゆえに、いかに、そのときがちょうおんであっても、これでは、ほんとうの、むしむしゅうのせいめいかんには、ならないということである。
 これにたいして、にちれんだいしょうにんは、ぼんぷいの、おたちばから、くおんのせいめいを、あかされている。すなわち、ぼんぷのわれわれの、せいめいじたいが、むしむしゅうであると、おときあそばされている。 おんぎくでんには、「くおんとははたらかさず、つくろわず、もとのままというぎなり、むさの、さんしんなれば、はじめて、じょうぜず、これはたらかざるなり、さんじゅうにそう、はちじゅうしゅこうを、ぐそくせず、これつくろわざるなり、ほんぬじょうじゅうのほとけなれば、ほんのままなり、これをくおんというなり、くおんとは、なんみょうほうれんげきょうなり」0759-だいにじゅうさん くおんのことと、おおせられている。
 おなじく、おんぎくでんに、「されば、むさのさんしんとは、まっぽうのほけきょうの、ぎょうじゃなり、むさのさんしんの、ほうごうをなんみょうほうれんげきょうと、いうなり、じゅりょうほんのじのさんだいじとは、これなり、ろくそくのはいりゅうのときは、このほんのにょらいは、りそくのぼんぷなり、こうべに、なんみょうほうれんげきょうを、ちょうだいしたてまつるとき、みょうじそくなり。
 そのゆえは、はじめてきくところの、だいもくなるがゆえなり、ききたてまつりて、しゅぎょうするはかんぎょうそくなり、このかんぎょうそくとは、じのいちねんさんぜんのほんぞんを、かんずるなり、さて、わくしょうをふくするを、そうじそくというなり、けたにいづるを、ぶんしんそくというなり。
 むさのさんしんのほとけなりと、くきょうしたるを、くきょうそくのほとけとはいうなり、そうじて、ふわくをもって、じゅりょうほんのごくとせず、ただ、ぼんぷのとうたい、ほんぬのままを、このほんのごくりと、こころうべきなり」(0752-だいいち、なんみょうほうれんげきょう、にょらいじゅりょうほん、だいじゅうろくのこと)とも、おおせられているのである。
 このことによって、あきらかなごとく、しゃくそんの、ほとけをちゅうしんとする、せいめいかん、しかも、えいえんのせいめいも、ふてっていである、ほうもんは、りのうえのほっしょうであって、だいしょうにんの、とかれた、ぼんぷのとうたい、ほんぬのままの、むしむしゅうのせいめいかんこそ、しんじつであり、よりほんげんてきなのである。

*、せいめいのえいえん
 このせいめいの、えいえんということにかんして、われわれのせいかつをとおして、しさくしてみよう。げんだいのおおくのひとびとは、せいめいにたいして、はなはだむちである。しかし、こうふくということにせよ、じんせいということにせよ、にちじょうのせいかつにせよ、ことごとく、じぶんのせいめいと、きってもきりはなせないことはわかる。それほど、じぶんにもっともだいじなもんだいが、もっとも、おろそかにされるということは、まったく、うかつなはなしといえよう。
 またいっぽうでは、へんぱなせいめいかんに、こしつするひとにもいる。めいしんをすこし、そうしょくしたていどの、れいこんせつや、また、それとそうたいする、ゆいぶつしそうが、おおきく、よをがいしていることにも、ちゅうもくすべきである。
 とくに、さいきんでは、よのちしきかいきゅうと、いわれるひとのなかに、ゆいぶつろんてきな、かんがえかたをもとに、しごのせいめいは、めいしんであるとしてしんじないひともいる。
 そこで、かがくにおいて、せいめいについて、どうかんがえているか、また、そのげんかいと、ぶっぽうとのかんけいを、とくに、オパーリンの「せいめいのきげん」をみることによって、あきらかにし、さらに、げんだいのげんせしゅぎてき、せいめいかんにひはんをくわえ、さいごにせいめいのえいえんであることを、ろんじて、いこう。
 せいめいのきげんということは、せいようにおいても、むかしから、きょうにいたるまで、ひとびとの、ふかいかんしんじであった。キリストきょうにおいては、せいめいは、かみのそうぞうによるとされ、そのた、しぜんはっせいせつ、あるいは、せいめいのれんぞくせつとうがあり、これらのせつは、おおくのがくしゃによって、ひていされ、またしゅうせいされてきた。
 そして、ちかごろの、ゆうりょくなせつとして、あげられるのは、オパーリンのがくせつである。かれは、ロシアのせいぶつがくしゃであって、ちきゅうのしんかろんと、せいめいはっせいのかんけいを、きわめて、たりょうなしりょうによって、たいけいづけ、1936ねんに、「せいめいのきげん」として、はっぴょうした。かれは、たんそかごうぶつが、はってんしていって、だいいち、ゆうきかごうぶつがせいせいされ、だいにに、たんぱくしつが、せいせいされ、だいさんの、だんかいとして、ぶっしつたいしゃの、はっせいがあったと、とき、そして、だいさんのだんかいとして、せいめいが、はっせいしたとのべている。
 これはようするに、せいめいは、ちきゅうがいからとんできたものではなく、ちきゅうじた

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  • 御義口伝講義録 上 3/3 だいろく どうしがこ のこと

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 5月 3日(水)15時11分47秒
 
0712    だいろく どうしがこ のこと

 じょにいわく、まことに、おもんみれば、せっぽうにゅうじょうして、よくひとをみちびく、すでにどうしとしょうす。
 おんぎくでんにいわく、このどうしは、しゃくそんのおんことなり、 せっぽうとは、むりょうぎきょう、にゅうじょうとは、むりょうぎしょ さんまいに、いりたもうことなり、しょせん、どうしにおいてにあり、あくのどうし、ぜんのどうし、これれあるなり、あくのどうしとは、ほうねん、こうぼう、じかく、ちしょうとうなり、ぜんのどうしとは、てんだい、でんぎょうとうこれなり。
 まっぽうに はいっては、いま、にちれんとうのたぐいは、ぜんのどうしなり、せっぽうとは、なんみょうほうれんげきょう、にゅうじょうとはほっけじゅじの、けつじょうしんに、はいることなり、のうどうおにんののうのじに、こころをとどめて、これをあんずべし、ゆじゅつほんのしょうどうのしとおなじことなり、しょせんにほんこくの、いっさいしゅじょうを、みちびかんがために、せっぽうするひと、これなりうんぬん。
0713
かいしゃく こうぎ。
 ここは、じょぼんだいいちにおいて、みろくぼさつが、ほとけのみけんびゃくごうそうについて、ふしぎにおもい「もんじゅしり、どうしなにがゆえぞ、みけんびゃくごうの、たいこうあまねくてらしたもう」と、もんじゅしりぼさつにたずねたところである。
 てんだいの、ほっけもんぐだいさんにいわく、「まことに、よくよくかんがえると、ほとけは、あるいはせっぽうし、あるいはにゅうじょうして、よくひとをみちびくので、どうしというのである」と。
 この「どうしなにがゆえぞ」のきょうもんにたいする、だいしょうにんのおんぎくでんには、つぎのようにおおせである。この「どうし」というのは、しゃくそんのことである。「せっぽう」とはむりょうぎきょう、「にゅうじょう」とはむりょうぎしょさんまいにはいることである。
 しょせん、どうしにはにしゅるいある。すなわちあくのどうしとぜんのどうしである、あくのどうしとは、ほうねん、こうぼう、じかく、ちしょうとうである、ぜんのどうしとはてんだい、でんぎょうとうがこれなのである。まっぽうに、はいっては、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、ぜんのどうしなのである。
 せっぽうとは、なんみょうほうれんげきょうの、せっぽうであり、にゅうじょうとは、ほけきょうじゅじの、けつじょうしん、すなわち、ごほんぞんをじゅじしきっていく、だいかくしんにたつことである。
 もんぐに「よくひとをみちびく」とあるが、そのなかの「のう」のじに、よくよくこころをとどめてしさくしなさい、このじょぼんの「どうしがこ」のどうしと、ゆじゅつほんの「しょうどうのし」とはおなじことである、しょせん、にほんこくのいっさいしゅじょうをじょうぶつにみちびこうとせっぽうするひと、すなわち、にちれんだいしょうにんがこれなのである。

 ここで、にちれんだいしょうにんは、まず「どうし」とはしゃくそんとおおせられ、つぎにぜんあくのどうしのうち、ぜんのどうしとして、てんだい、でんぎょうをあげ、さいごにけつろんとしてまっぽうの、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんこそがしんのぜんのどうしなることを、めいじされている。
 したがって、この「しゃくそん」とは、かならずしも、インドのしゃくそんをいみするだけではない、ぞうぼうねんかんでいえば、てんだい、でんぎょうであり、まっぽうにおいては、にちれんだいしょうにんのことをいう。 すなわち「しゃくそん」とは、ほとけといういみである、こうかんがえれば、まっぽうにおいては、しゃくそんとは、まっぽうの、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんと、かんがえるべきであることが、あきらかである。
 さて、ありがたいことに、だいしょうにんは、「まっぽうにはいってはいま、にちれんとうのたぐいはぜんのどうしなり」とおおせられて、われわれをも、ふくめてくださっておられる、おんぎくでんには、かならず「にちれんとうのたぐい」とか「にちれんがでしだんな」とうといわれている。
 「にちれんとうのたぐい」の「にちれん」はべつしてのたちばであり「とうのたぐい」はそうじてのたちばである。すなわち、これは、にちれんだいしょうにんが、われわれを、だいしょうにんとおなじきょうがいにまで、ひきあげようとしてくださる、おこころであるとはいされる。
 また「せっぽうとは、なんみょうほうれんげきょう、にゅうじょうとは、ほっけじゅじのけつじょうしんにはいることなり」とは、われわれのたちばからいえば、せっぽうとは、なんみょうほうれんげきょうというほうをとくことであり、それはとりもなおさず、しゃくぶくなのである。
 またなんみょうほうれんげきょうにもとづいた、いっさいのふるまい、またせっぽうとなるのである、そのりゆうは、われわれの、いっさいのかつどう、ふるまいは、ことごとく、みょうほうのあらわれであり、だいしょうにんのぶっぽうのいだいさを、じねんのうちにしょうめいしている、すがたであるからである。 また「ほっけじゅじのけつじょうしん」とは、だいごほんぞんをごじしぬいていく、ふしゃくしんみょうのけついであり、ごほんぞんにたいするぜったいのかくしんである。にちれんだいしょうにんは、ぜんじんるいを、すくうだいどうしである、しかして、ごほんぞんをぜったいとしんじたてまつり、しゃくぶくせんにゆうかんにまいしんしていくもののみが、「にちれんとうのたぐい」となり、かたじけなくも、そのなかにいることができるのである。
 げんじつのせじょうを、よくよくみれば、よのしどうしゃかいきゅうの、むのうぶり、あるいはじゃあくぶりを、いきどおり、かなしむのは、わたしひとりではあるまい、このげんじょうをみるにつけ、しるにつけ、このおんぎくでんをはいし、われわれもまた、せかいのしどうしゃたる、だいかくしんにたって、ぜんしんしていきたいものである。

0713    だいなな てんくじねんみょうのこと。

 じょにいわく、てんくじねんみょうは、むもんじせつを、ひょうするなり。
 おんぎくでんにいわく、このもんは、しど、たどの、ずいおなじきことを、じゅしてちょうしゅつせり、むもんじせつとは、しゃかにょらい、みょうほうれんげきょうを、むもんじせつしたまうなり、いま、にちれんとうのたぐいは、むもんじせつなり、ねんぶつむげん、ぜんてんま、しんごんぼうこく、りつこくぞくと、さけぶことは、むもんじせつなり。
 さんるいのごうてき、きたることは、このゆえなり、てんくとは、なんみょうほうれんげきょうなり、じねんとは、むしょうげなり、みょうとはとなおうるところのおんじょうなり、いちぎに、いっさいしゅじょうの、ごごんおんじょうを、じざいにだすは、むもんじせつなり、じせつとは、ごくそつのざいにんをかしゃくするおと、がきききんのおんじょうとう、いっさいしゅじょうのとんじんちの、さんどくのねんねんとうを、じせつとはいうなり、このおんじょうのたいとはなんみょうほうれんげきょうなり。
 ほんしゃくりょうもん、みょうほうれんげきょうの、ごじは、てんくなり、てんとはだいいちぎてんなり、じせつとは、じじゆゆうのせっぽうなり、きのさんにいわく、むもんじせつをひょうするとは、ほうべんのはじめに、さんまいよりたって、しゃりほつにつげ、ひろくたんじ、りゃくしてたんず、しど、たど、ことばによせ、ことばをぜつす、もしくは、きょう、もしくは、ち、これ、すなわち、いちきょうの、こんぽん、ごじのようしんなり、このこと、かるからずと、このしゃくに、いちきょうのこんげん、ごじのようしんとは、なんみょうほうれんげきょうこれなりうんぬん。

かいしゃく こうぎ
 これは、じょぼんだいいちの、「ほとけ、このきょうを、ときおわって、すなわち、ほうざのうえにおいて、かふして、さんまいにざしたもう、むりょうぎしょとなづく、てんより、まんだけをふらし、てんくじねんになり、もろもろのてんりゆうきじん、ひとなか みことをくようす」とあるところのおんぎくでんである。
もんぐのだいさんにいわく、「きょうもんに『てんくじねんなり』とあるのは、むもんじせつをあらわすのである」と。
 だいしょうにんの、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。この『てんくじねんみょう』のもんを、ふくむげは、この、しゃばせかいのずいそうも、たこくのずいそうも、まったくおなじことを、といたところである。
 むもんじせつとは、しゃかにょらいが、みょうほうれんげきょうを、だれからとわれずして、みずからといた、けいたいである。
 いま、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかのたちばは、むもんじせつである、そのりゆうは、ねんぶつむげん、ぜんてんま、しんごんぼうこく、りつこくぞくとさけぶことは、むもんじせつではないか、だれからたのまれたものではないのである、さんるいのごうてきが、きそいおこるのは、そのゆえである。
 「てんく」とは、なんみょうほうれんげきょうであり、「じねん」とはむしょうげということである、「みょう」とは、なんみょうほうれんげきょうととなえるおんじょうのことである。
 またべつのめんから、かいしゃくすれば、いっさいしゅじょうが、ごごんおんじょうを、じざいにだすことは、むもんじせつといえる、かんごくのかんしゅが、ざいにんをせめつけるこえも、がき、ききんをうったえるこえも、いっさいしゅじょうのとんじんちの、さんどくの、ねんねんとうを、じせつというのである、しかし、そのおんじょうのほんたいというものは、やはり、なんみょうほうれんげきょうなのである。
 てんくとは、しゃかぶっぽうでいえば、ほんしゃくにもんをいう。
 もんていのたちばからいえば、みょうほうれんげきょうのごじが、てんくなのである、ここにいう「てん」とはいわゆる、いつぱんてきにいう、てんをいみするのではない、だいいちぎてん、すなわち、みょうほうれんげきょうをいうのである、「じせつ」とは、じじゅゆうしんのせっぽうをいみする。
 みょうらくの、ほっけもんぐきのだいさんにいわく、「もんぐに『むもんじせつをひょうする』とは、つぎのようないぎである、すなわち、ほうべんぽんのはじめに、ほとけがさんまいよりたって、しゃりほつにつげて、ひろくみょうほうの、じんじんなることを、さんたんし、また、りゃくしてさんたんしたのである。
 ほとけは、このみょうほうのじんじんなることを、しどの、ずいそうや、たどのずいそうとうを、もってしらせようとした、なぜならば、ほけきょうのりは、それほどふかいので、ことばをもっては、いいつくせないからである。
 あるいは、しゃくもんにおいて、うちゅうしんらばんしょうの、じつそうをきゃっかんてきに、ふへんしんにょのりとして、ときあかし、またほんもんにおいては、そのきゃっかんせかいに、みょうずべき、ぶっちをずいえんしんにょのちとして、ときあかしているのである。
 しかるに、そのこんぽんは、ごじのいっさいの、々きょうきょうの、かんようであるところの、みょうほうれんげきょうであり、このことは、もっともだいじなことであり、よういなことではない」と。このみょうらくのしゃくのなかに、「いちきょうの、こんげんごじのようしん」というのは、なんみょうほうれんげきょうのことをさしているのである。

 まずもんぐに、「てんくじねんみょうは、むもんじせつをひょうするなり」とあるのは、さいだいの、ずいそうろんおよび、ずいじいのせっぽうを、のべているところである。
 いかなるきょうもんにも、さまざまなずいそうが、あかされているものである。そのずいそうがおおきいということは、そのきょうもんが、いかにじんのんなる、だいじなきょうであるかを、しめしているのである。
 いま、ほけきょうのじょぼんに、とかれたずいそうは、しども、たども、ことごとく、だいへんげをおこすという、だいずいそうである。これこそ、ほとけのさいだい、じんみつのほうが、とかれるぜんちょうである。
 むもんじせつとは、ほとけの、ずいじいのせっぽうをいう。このたいほうは、とうひともいない。ゆえに、しつもんしゃがいないのに、ほとけが、みずからとかれたものということである。

*、このもんは、しど、たどの、ずいおなじきことを、じゅしてちょうしゅつせり。
 じょぼんにおけるずいそうが、たんに、しゃばせかいだけでなく、たのこくどにも、これとまったくおなじずいそうが、おこったことは、えしょうふに、いちねんさんぜんのげんりを、しめしたものといえる。われわれの、いちねんのへんかが、ぜんうちゅうに、つうじていくのである。じぶんが、ひじょうにうれしいという、ばあいには、そのよろこびのせいめいかつどうが、ぜんうちゅうにあまねく、いきわたるのである。
 また、ごほんぞんをしんずるならば、いかなるとおきこくどにおいても、こうふくをつかんでいけることをいみするのである。しどをにほんこくとすれば、アメリカやイギリスやロシアは、たどである。しかし、こつきょうをこえ、みんぞくをこえ、じんるいをこえて、ぜんせかいの、いかなるみんしゅうをもこうふくにする、げんどうりよくが、なんみょうほうれんげきょうである。

*、むもんじせつとは、しゃかにょらい、みょうほうれんげきょうを、むもんじせつしたまうなり。
 むもんじせつとは「ずいじい」ということである。「ずいじい」とは「ずいたい」にたいすることばである。ほとけのないしょうの、さとりそのままをときしめすことをいう。
 「しょきょうとほけきょうと、なんいのこと」にいわく、「ほとけ、きゆうかいのしゅじょうの、いぎようにしたがって、とくところのきょうきょうを、ずいたいという、たとえば、けんぷが、ぐしに、したがうがごとし、ほとけ、ぶっかいにしたがって、とくところのきょうを、ずいじいという、たとへば、せいふが、ぐしをしたがえたるがごときなり」(0991-14)と。
 しゃくそんが、ほけきょうをとこうとした、みょうほうれんげきょうは、ほとけのずいじいであるがゆえに、なんしんなんげであり、だれびともとうことができない。そこで、しゃくそんはむもんじせつしたのである。
 しこうして、ずいじい、ずいたいというのは、かならずしもいちようではない。ごんじつそうたいにたいするときは、ごんきょうはずいたい、ほけきょうはずいじい、ほんしゃくそうたいするときは、しゃくもんはずいたい、ほんもんはずいじい、しゅだつそうたいするときは、もんじょうだつちやくのほけきょうは、ずいたい、もんていげしゅの、なんみょうほうれんげきょうこそ、ずいじいなのである。
 まことに、にちれんだいしょうにんのだいぶっぽうこそ、せいめいのほんげんを、あますところなく、とききったものであり、これこそ、しんのずいじいの、せっぽうであられる。これぼんぷのしるところでないのである。ゆえに「いま、にちれんとうのたぐいは、むもんじせつなり」とおおせられている。
 いま、そうかがっかいが、けぎのこうせんるふをしていくということは、ずいじいである。せけんでは、やれぎゃくコースであるとか、ファッショてきであるとか、めいしんであるとか、さまざまなひはん、ちゅうしょうをくわえてきた。しかしかれらは、ぶっぽうのだいてつり、れきしのながれ、いかにしたらみんしゅうがこころからあんていし、へいわになり、こうふくになるかというこんぽんげんりをしらずして、たんにひはんのみにしゆうししているのである。
 しかし、こうせんるふいがいに、みんしゅうのしんじつのこうふくは、ぜったいにじつげんしえないことを、われわれはしっている。しゃかいかいかくを、いかにとなえ、せかいれんぽうを、いかにとなえても、こんぽんのいちねんのめざめ、かいけつなくして、どうしてへいわな、しゃかいがけんせつされるであろうか。
 われわれは、なんの、やしんもない。ただ、みんしゅうのため、じんるいのため、わがみをなげうって、たたかうのみである。しんじんをした、ひとびとの、きよらかなこころ、うつくしいだんけつのすがた、なにものにもくつすることなく、せいぎのはたをかかげてすすむ、ちからづよいいぶき、いったい、そうかがっかいのせいしんを、だれびとがしりえようか。
 いかなるひはんのあらし、だんあつのどとうをうけようが、ただこうせんるふにむかってすすんでいく、これこそ、であり、むもんじせつなのである。
 しょせん、ごほんぞんさましかない。こうせんるふのみが、せかいへいわをじつげんするただひとつの、ほうていしきである。このことを、ぜったいのだいかくしんをもって、しめしているのである。
 もし、そうかがっかいが、せけんのひはん、ちゅうしょうをおそれて、こうせんるふのたたかいを、やめたならば、あるいはまた、けんりょくにげいごうし、じぜんじぎょうなどで、みんしゅうをあざむくとすれば、みんしゅうのこうふくは、えいきゅうにぼっしてしまうことだろう。いっしょくそくはつの、せんそうのききがさらに、しんこくをきわめ、このちじょうに、あびきょうかんのせかいが、しゅつげんすることは、きょうもんにてらし、ごしょにてらし、めいめいはくはく、たるものがある。
 われわれは、だんじてけんりょくにげいごうしてはならない。げんろんかいとうに、よくかかれようとして、おべっかをつかうみぐるしいたいどなど、みじんもない。みんしゅうをごまかしていくような、ひきょうなまねもしない。あくまでもずいじいなのである。みぎにもよらず、ひだりにもよらない、ただぜんみんしゅうのこうふくのためほうきをたかくかかげてたたかうのみである。

 *、ねんぶつむげん、ぜんてんま、しんごんぼうこく、りつこくぞくとさけぶことは、むもんじせつなり、さんるいのごうてき、きたることは、このゆえなり。
 これは、しゃくぶくすることがむもんじせつであるとのもんである。じゃしゅうきょうがひとをこんぽんてきにふこうにしてゆくことを、ほんにんたちはしらないのである。
 ねんぶつをやっているひとは、じぶんのしゅうきょうで、むげんじごくにおちるなどとは、おもいもよらない。
 ごくらくおうじょうできるかのように、おもっている。それを、にちれんだいしょうにんが、「ねんぶつむげん」と、はしゃくされたのであるから、そのおどろき、いかりたるや、おおきいのはとうぜんである。ねんぶつや、りつ、しんごん、ぜん、いまでいえば、じゃしゅうにちれんしゅうやにっけんしゅうが、よのふこうの、こんげんであることを、しっているのは、われわれのみである。だからかれらはおどろき、いろをなし、うらみ、さまざまのはくがいをしてくるのである。
 このことについて、みょうらくだいしの、でしである、ちどほっしは「とうしゅん」に、つぎのようにいっている。すなわち、「ぞくに、りょうやく、くちににがしというが、ごとく、このきょうは、ごじょうのいしゅうをはいして、いちごくのげんしゅうをたつ、ゆえにぼんをしりぞけ、しょうをかし、だいをはいし、しょうをやぶる、ないし、かくのごとき、やから、ことごとく、るなんをなす」と、このもんはげんざいの、にほんのしゅうきょうかい、しそうかいにぴったりあてはまるものではないか。
 いちごくのげんしゅうとは、こうあんにねん1279じゅうがつじゅうににちごしゅつげんのほんもんかいだんのごほんぞんである。このごほんぞんこそが、いっさいしゅじょうのぶっしゅである。
 このぶっしゅをしらず、めさきのことばかりに、きゅうきゅうとしている、ぼんじんをしりぞけ、いかにせけんのひと々びとから、そんけいされている、せいじんくんしのごときひとであっても、いちしゅうのきょうそであっても、かつは、せいじか、ひょうろんか、がくしゃであっても、このぶっしゅを、ぶっしゅとしないひとにたいしては、だんこ、そのへんけん、せんぱくさを、しかりとばしてゆけとの、しどう、めいれいである。
 かかるしゃかぶっぽうの、だいしょうじょうとうを、ことごとくやぶっているために、それらのひとは、きくをよろこばず、しりぞけられたのをいかり、しかりつけられたのを、うらみにおもい、さまざまな、るなんにするにいたるのである。
 いったい、そうかがっかいほど、わるくちをいわれただんたいが、ほかにあるであろうか。げんざいは、がっかいのなかに、はいっているひとびとも、おおくは、かって、がっかいをひなんし、ちゅうしょうしてきたひとたちであった。しかし、がっかいにたいするひなんは、ことごとく、むにんしきからしょうじたものであり、むていけんで、たえずへんどうするものである。
 がっかいのしゅちょうは、ていけんである。むていけんのしゅちょうは、ひはんちゅうしょうするということは、いっちしても、それいがいは、ばらばらなものである。いっけんは、はなばなしくみえても、そのじったいは、まことになんじゃくである。したがって、しょきのころには、むていけんのほうが、うけみのようにみえるばあいもあるが、さいごには、かならず、ていけんが、むていけんをうちやぶっていくものである。
 がっかいのしゅちょうは、えいきゅうにかわらない、それは、ずいじいだからである。
 しかし、がっかいにたいするせけんのみかたが、あるばあいはおおきく、あるばあいはじょじょに、へんかをきたしていることは、うごかすことのできないじじつなのである。

*、てんくとは、なんみょうほうれんげきょうなり、じねんとは、むしょうげなり、みょうとは、となうるところのおんじょうなり。
 てんくのてんとは、のちにあるように、だいいちぎてんをさす。だいいちぎてんとは、うちゅうのこんぽんであり、せいめいのほんしつを、いみするいじょう、みょうほうをさすととるのはとうぜんである。ゆえに「てんくとはなんみょうほうれんげきょうなり」とおおせられているとおりである。「じねんとはむしょうげなり」とは、じゆうじざいのきょうがいをさす。すなわち、なんみょうほうれんげきょうととなえたせいかつ、きょうがいというものは、さわりがない、いきづまりがないということである。
 ここでむしょうげとはてつがくてきにはじゆうということである。じゆうとはそくばくのないこととていぎされている。
 てつがくしゃ、あまのていゆうしあたりは、このそくばくをないぶてきそくばくと、がいぶてきそくばくにわけ、こんぽんてきな、そくばくはないぶそくばくであり、それをがよくとしている。そして、がよくをすてさることが、じゆうである、といういみのことをいったことがある。
 たしかに、あまのていゆうしのいうごとく、ないぶてきそくばく、すなわち、せいめいにないざいする、がよくとうが、じんせいをふこうにみちびく、げんいんであるかもしれない。しかし、しが、そのがよくを、なくすことが、じゆうのきょうがいであると、かんがえることは、おおきなあやまりであろう。だいしょうにんのぶっぽうでは、そうしたよくぼうにせよ、ぼんのうにせよ、すべて、つかいきっていく、ちからづよい、ほんげんのせいめいのきょうがい それがじゆうのきょうがいである。すなわち、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんと、かいかくすることが、しんのじゆうであり、むしょうげなのである。
 また、じゆうとはしゅかんときゃっかんとのかんぜんみようごうである。ピアニストとして、せかいてきにゆうめいなひとであっても、さいしょ、ピアノをならいはじめたころは、ピアノをひくのに、ゆびもじゆうに、うごかなかったときもあったであろう。そのときは、ふじゆうであり、くるしみであり、なんともいえない、まだるこしさをかんじたにちがいない。
 しかし、れんしゅうにつぐれんしゅうによって、ついにはピアノをじゆうにくしし、おもうがままに、みずからのかんじょうをひょうげんし、なんらさしさわりというものがなくなってくるではないか。これはピアノをひくというせかいにおけるじゆうのきょうがいである。
 やきゅうをれいにしても、やきゅうをやっているとき、ひとはあるときはあせをながし、あるときはすべりこんでうでをすりむいたりして、なんとかてんをいれようとか、いれさせまいとして、いろいろな、くろうをする。しかし、やきゅうのすきなひとにとっては、それがなんのくつうにもならない。くつうどころか、そんなことをしていながら、たのしくてたのしくてしょうがないのである。ところが、やきゅうのきらいなひとが、どうしてもやきゅうをやらなければならないとすれば、それは、そのひとにとってじつにくつうのたねとなろう。これもそのせかいにおけるじゆうであり、そくばくである。
 かんきょうとじぶんとがいったいとなったとき、ほんとうにさしさわりがなく、じゆうじざいになっていくことは、このふたつのれいからもあきらかであろう。ピアノをひくとかやきゅうをするというばあいは、あるとくていのひとのとくていのこうどうにすぎない。しかし、じんせいだけは、だれぶとといえどもそれをさけることのできぬこうろである。
 ゆえに、どうどうたるじんせいを、あゆんでいくためには、じこのせいかつと、じぶんじしんの、せいめいとが、みょうごうする。いだいなるせいめいりょくを、ゆげんすることが、だいじになってくるわけである。これがぶっぽうでとく、きょうちみようごうである。すなわちきょうちみようごうのじょうたいこそ、しんのじゆうといえるのである。
 しからば、しょうじそくねはんとかいかくし、ぼんのうそくぼだいとかいかくし、またきょうちみようごうしていくげんどうりょくとはなにかといえば、かんねんろんでなく、じじつのうえで、それはなんみょうほうれんげきょうしかないのである。ゆえに、「みょうとは、となうるところの、おんじょうなり」とおおせられているのである。すなわち「てんく、じねんみょう」のみょうとは、なんみょうほうれんげきょうととなえて、じんせいをいきてゆく、その、げんげんくくが、みょうということになるのである。

*、いちぎに、いっさいしゅじょうの、ごごんおんじょうを、じざいに、いだすは、むもんじせつなり、じせつとは、ごくそつのざいにんを、かしゃくするこえ、がき、ききんのこえ、こえとう、いっさいしゅじょうの、とんじんちの、さんどくのねんねんとうを、じせつとはいうなり、このおんじょうのたいとは、なんみょうほうれんげきょうなり。
 「いちぎに」とは、あるめんから、かいしゃくすればといういみである。ほけきょうは、そしてだいしょうにんのぶっぽうは、せいかつから、ゆうりしたかんねんのせかいを、といているのではない。
 せいかつのじったいを、あますところなくとききり、ここから、こうふくをいかにして、じつげんするかということを、しめしているのである。したがって、むもんじせつということも、なにも、ほけきょうだけに、また、だいしょうにんのぶっぽうだけに、あるものでもない。いっさいの、にんげんのほんのうとしてもあるのである。
 いっさいしゅじょうが、こえをじざいにだすことも、ことごとく、むもんじせつである。たとえば、なにかよいことがあると、じねんとくちからはうたがでたり、またきおんのへんかによって、じねんのうちに「あつい」とか、「さむい」とか、ひょうげんするそのことばも、むもんじせつなのである。また「ああ、なにかたべたい、のみたい」という、そのこえじしんも、むもんじせつである。
 さらに、「いっさいしゅじょうの、とんじんちのさんどくの、ねんねんとうを、じせつとはいうなり」と、おおせられているごとく、たんに、おんじょうだけではなく、「ああしたい、こうしたい」、「びょうきがなおりたい」、「くるしい」とう々とうの、さんどくのねん々ねんも、ことごとく、じせつである。ぜんぶ、みずからのきょうがいを、といているのであり、みずからの、こころのはつろである。
 しかし、それらの、げんげんくくの、ことごとくが、こうふくをもとめての、げんげんくくであり、そのおんじょうのはっするところの、せいめいのほんしつは、なんみょうほうれんげきょうなのである。ひとびとのせいめいも、ほんしつてきには、なんみょうほうれんげきょうであるいじょう、すべてこうふくを、もとめていることは、しるとしらざるとにかかわらず、げんぜんたるじじつなのである。
 ただ、これらのむもんじせつは、みずからの、せいめいが、じゃちとへんけんに、おおわれているために、ぜったいのこうふく、えいえんのこうふくに、つらがらないのである。
 いっさいしゅじょうの、ほんしつは、なんみょうほうれんげきょうである。ゆえに、ごほんぞんにむかい、しょうだいしたときに、わがみにないざいしておった、なんみょうほうれんげきょうという、いだいなせいめいがよびおこされ、しんじつの、じゆうじざいのこうふくせいかつを、いとなむことができるわけである。

  • [227]
  • 御義口伝講義録 上 2/3 じょぼんななかのだいじ

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 4月 4日(火)02時47分7秒
  • 編集済
 
0711    じょぼんななかのだいじ
  だいよん ぶっしょごねんのこと 1
ほんぶん 1
 もんぐのさんにいわく、ごねんとは、むりょうぎしょはこれ、ほとけのしょうとくしたまうところ、このゆえににょらいのごねんしたまうところなり、しものもんに、ほとけ、みずから、だいじょうに、じゅうしたまえりとあり、かいじせんとほっすといえども、しゅじょうのこんどんなれば、ひさしくこのようを、もくしていそぎてすみやかにときたまわず、ゆえにごねんという、きのさんにいわく、むかし、いまだとかず、ゆえにこれをなずけて、ごとなす、ほうにやくし、きにやくして、みな、ごねんするゆえに、ないし、き、なお、いまだはつせず、かくしてとかず、ゆえにごねんという、ないし、みせつをもってのゆえに、ごしみちょうを、もってのゆえに、ねんず、くもくというは、むかしよりいまにいたるなり、しようとうのこころ、これをおもうてしるべし。

かいしゃく こうぎ
 ここはじょぼんだいいちの、「もろもろのぼさつのために、だいじょうきょうの、むりょうぎきょうぼさつほう、ごねんとなずづくるを、ときたもう」とあるところの、「ごねん」についての、おんぎくでんである。
 もんぐのだいさんに、「ごねんとは、むりょうぎきょうがことごとく、みょうほうれんげきょうのいつぽうよりしょうずるということを、かんとくした、むりょうぎしょさんまいというきょうがいは、ほとけのみしょうとくしたものである。
 そこでにょらいは、これをごねんしたもうのである、ゆえにしものもんは、“ほとけはみずから、だじょうにじゆうしたまえり”とあり、ほとけは、すでに、みょうほうれんげきょうをしょうとくしており、だじょうのきょうがいにじゆうしていたのである。
 このみょうほうをひらきしめそうとしたのが、しゅじょうのきこんがどんこんであるので、いきなりほけきょうをとかず、40よねんのながいあいだ、だまっていたので、ごねんというのである」と、それをうけてきのさんには、「むかしのきょう、すなわち、40よねんのあいだには、みょうほうれんげきょうをとかなかったので、これをなづけて、『ご』というのである、ほうのたちばからろんじ、しゅじょうのきこんのたちばからろんじ、みな、ごねんしたがゆえに、ないし、きこんがまだくんぱつしておらず、ほとけは、みょうほうをひしかくして、とかなかったので、ごねんというのである。
 ないし、いまだ、しゅっせのほんかいたる、ほけきょうをとかなかったことをごという、そとにむかってとかず、うちにねんじていたので、ねんというのである。
 もんぐに、“ひさしくこのようをもくして”とあるが、その“ひさしくもくして”ということは、しゃくそんが、30じょうどうしてから、ほけきょうのせつじまで、40よねんのながいきかんをさすのである。
 また“このよう”というのは、みょうほうこそいっさいきょうのこんぽんであり、ようちゅうのようであるので、このようにいっているのである、そのことをよくよくかんがえなさい」と。

だいよん ごねんのこと 2
ほんぶん
 おんぎくでんにいわく、このごねんのたいに、おいては、ほんしゃく、にもん、しゅだいのごじなり、このごねんに、おいて、ななしゅのごねん、これあり、いちには、ときにやくし、にには、きにやくし、さんには、にんにやくし、よんには、ほんしゃくにやくし、ごには、しきしんにやくし、ろくには、ほったいにやくし、ななには、しんじんにやくするなりうんぬん。
 いま、にちれんとうのたぐいは、ごねんのたいをひろむるなり、いちに、ときにやくするとは、ほとけ、ほけきょうを40よねんのあいだ、いまだとき、いたらざるがゆえに、ごねんしたまうなり、にに、きにやくするとは、はほう、ふしんこ ついおさんあくどうのゆえに、ぜん40よねんのあいだに、いまだこれを、とかざるなり。
 さんに、にんにやくするとは、しゃりほつにたいして、とかんがためなり、よんに、ほんしゃくにやくするとは、ごをもって、ほんとなし、ねんをもって、しゃくとなす、ごに、しきしんにやくするとは、ごをもって、しきとなし、ねんをもって、しんとなす、ろくに、ほったいにやくするとは、ほったいとは、ほんぬじょうじゅうなり、いっさいしゅじょうのじひしんこれなり、ななに、しんじんにやくするとは、しんじんをもって、ごねんのほんとなすなり、。しょせん、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、しかしながら、ごねんのたいをひらくなり。
 ごとは、ぶっけんなり、ねんとは、ぶっちなり、このちけんのにじ、ほんしゃくりょうもんなり、ぶっちをみょうというなり、ぶっけんをほうというなり、このちけんのたいを、しゅぎょうするを、れんげというなり。
 いんがのたいなり、いんがのげんごはきょうなり、しかのみならず、ほけきょうのぎょうじゃをば、さんぜのしょぶつ、ごねんしたまうなり、ふげんほんにいわく、いちしゃいしょぶつごねんと、ごねんとは、みょうほうれんげきょうなり、しょぶつのほけきょうのぎょうじゃをごねんしたもうは、みょうほうれんげきょうをごねんしたもうなり、きほういちどうごねんいつたいなり。712  きのさんのしゃくに、やくほうやくき、かいごねんこというは、このこころなり、またもんぐのさんにいわく、「ごねんとは、まえのちどうずいをけつじょうするなり、ちどうは、ろくばん、はわくをひょうするなり、みょうほうれんげきょうを、じゅじするものは、ろくばん、はわくうたがいなきなり」。
 じんりきほんにいわく、「おがめつどご、おうじゅじしきょう、ぜにんおぶつどう、けつじょうむうぎ」、ほとけ、じじゅうだいじょうとはこれなり、
 また、いちぎに、ほとけのしゅじょうを、ごねんしたもうことは、ごとは、ゆいがいちにん、のういくご、ねんとは、まいじさぜねん、これなり、ふげんほんにいたって、いちしゃいしょぶつごねんととくなり、にちれんは、しょうねん32より、なんみょうほうれんげきょうを、ごねんするなり。

かいしゃく こうぎ
 おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 このさんぜのしょぶつが、いちどうにごねんしてきたところの、ほんたいとはなにかといえは、それは、にぜんきょうにそうたいすれば、ほんしゃくにもんであり、さらにいちじゅうたちいってみれば、なんみょうほうれんげきょうのごじしちじである。
 このごねんについては、ななしゅるいのごねんがある、いちにときにやくし、にには、きにやくし、さんには、ひとにやくし、よんには、ほんしゃくにやくし、ごには、しきしんにやくし、ろくには、ほったいにやくし、ななには、しんじんにやくするのである、いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、ごねんの、たいたる、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょうを、ひろめているのである。
 さて、いちにときにやくすとは、ほとけがほけきょうをよんじゅうよねんのあいだ、ときがまだきていなかったので、ごねんしたのである。
 にに、きにやくすとは、ほうべんぽんに「ほうを、はして、しんぜざるゆえに、さんあくどうにおちなん」と、あるように、きこんがととのっていなければ、ほけきょうをといても、かえってしんぜず、きぼうして、さんあくどうのくるしみを、うけざるをえないという、けっかになるので、ぜん40よねんのあいだ、ほけきょうをとかなかったのである。
 さんに、ひとにやくすとは、ほけきょうをりかいできる、しゃりほつのしゅつげんをまって、ごねんしたのである。
 よんに、ほんしゃくにやくすとは、ごはほんもんであり、ねんはしゃくもんである、すなわち、みをもってまもりきるということは、じつぜにであり、ほんもんである。まもろうとねんずることは、こころのなかでおもうことであり、しゃくもんなのである。
 ごにしきしんにやくすとは、ごはじっさいのこうどうであり、あらわれたるすがたであるゆえにしきとなる、ねんとはせいしんかつどうでありしんである。
 ろくにほったいにやくすとは、ほったいはせいめいのほんしつであり、みょうほうのことである、いっさいしゅじょうは、ことごとくみょうほうのとうたいであり、えいえんのせいめいなのである、みょうほうをとなえることによって、わがせいめいのなかにあった、ぶっかいという、ちからづよきだいせいめいをゆげんし、おおいなるじひしんが、しょうずるのである、このえいえんにつづく、ちからづよいだいせいめいのじつたい、じひにみちみちたせいめいの、ほんしつがいっさいしゅじょうにあるということを、44ねんねんかんごねんして、とかなかったのである。
 ななにしんじんにやくすとは、しんじんをもって、ごねんのこんぽんとするのである、しんじんがなければ、ごねんしたほんたいを、しょうとくすることができない、すなわち、われほとけなりとかいごすることができないからである。
 しょせん、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なむみょうほうれんげきょうととなえたてまつることは、ごねんのたいたる、みょうほうをひらき、われほとけなり、わがことのいちねんさんぜんのとうたいなると、かいごすることになるのである。
 ごとは、みをもってまもることであり、ぶっけんである、ねんとは、だいごほんぞんをねんずることであり、ぶっちである、このぶっかいをちけんするということを、ほんもん、しゃくもんのりょうもんにとかれているのである。
 またぶっちを「みょう」といい、ぶっけんを「ほう」というのである、すなわち、みょうはぶっかい、ほうはきゆうかいである。
 すなわち、だいごほんぞんにだいもくをとなえることは、ほとけのちえをかんずるゆえに、ぶっちである、またほとけのせいめいそのものを、わがみにかんとくしていくのであるから、ぶっちである、それがげんせんとなり、じひしんがわき、せいめいりょくがわき、くどくがわいてくるのであるから、みょうである。
 ぶっけんということは、じじつのせいかつのうえでくどくのせいかつをしていく、げんじつのすがたであり、げんしょうであるからほうなのである。
 このちけんのたいである、みょうほうをしゅぎょうすることによって、じょうぶつすることができる、しゅぎょうするということは、いんであり、じょうぶつは、かである、ゆえになんみょうほうれんげきょうととなえるときに、みらいのありとあらゆる、ふくうんは、このしゅんかんにふくまれるのである。
 このいんがくじの、せいめいかつどうの、ほんしつをれんげというのである、いんがのたいとは、ごほんぞんであり、またきょうちみようごうのげんりによって、われわれのせいめいの、いんがのとうたいである、みょうほうをとなえるそのこえは、きょうであるとどうじに、。ごほんぞんを、じゅじしたせいかつの、いっさいの、げんげんくくは、ことごとくみょうほうのあらわれであり、きょうなのである。
 いっさいのさんぜのしょぶつは、たんにみょうほうれんげきょうを、ごねんするだけでなく、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃである、にちれんだいしょうにんをごねんするのである、おんぎくでんかんげの「じゆりようほん27かのだいじ」にいわく、「ほんぞんとは、ほけきょうのぎょうじゃの、いっしんのとうたいなりうんぬん」と、しんじんのたちばからいえば、しん、く、いのさんごうで、しゅぎょうしていくものを、やはり、さんぜしょぶつがごねんするのである。
 ふげんほんには、「ひとつには、しょぶつにごねんせらるることのため」とある、これは、まっぽうにおいて、ほけきょうをたもつものは、しょぶつにごねんされることになるのである、もとよりごねんとはみょうほうれんげきょうをごねんすることである。
 しかし、さんぜじっぽうのしょぶつが、ほけきょうのぎょうじゃをごねんすることが、そく、みょうほうれんげきょうをごねんすることに、なるのである、きすなわちにんと、ほうとは、いちどうであり、さんぜじっぽうのしょぶつはほうを、ごねんするとどうじに、にんをもごねんするのである。
 きのさんのしゃくに、「ほうにやくして、きにやくして、みなごねんするゆえに」といっているのも、このいみなのである。
 また、もんぐのさんにいわく、「ぶっしょごねんとは、じょぼんの“しんふつせかいろくしゅにしんどうす”のもんにしめされている、ちどうずいをけつじょうしているのである、。ちどうずいは、ろくばんはわくといって、じゅうじゅう、じゅうぎよう、じゅうえこう、じゅっち、とうかく、みょうかくと、ろくだんかいに、むみょうわくをやぶって、さとりをひらいていくこと、またせいめいろんからいえば、ろつこんのわくをたちきることを、あらわすのである。
 みょうほうれんげきょうをじゅじするものは、むみょうそくほっしょうとあらわれて、ろくばんはわくはうたがいないことである」と。
 またじんりきほんにいわく、「わがめつどの、のちにおいて、このきょうをじゅじすべし、このひと、ぶつどうにおいて、けつじょうして、うたがいあること、なけん」と、これ、まっぽうにおいて、ごほんぞんをじゅじするものは、かならず、ぶつどうをじょうじゅし、ぜったいのこうふくをえることは、、うたがいないこととの、ごだんげんである。
 ほうべんぽんに、「ほとけはみずから、だじょうにじゆうしたまえり」とあるのは、このことを、いっている、ほとけとは、にちれんだいしょうにんであり、にんである、だじょうとは、なんみょうほうれんげきょうであり、ほうである。
 ゆえに、にんぽういっかなのであり、にんぽうともにごねんされるのである、また、べつのかくどからいえば、ほとけがしゅじょうを、ごねんするということは、ごとはひゆほんの「ただわれいちにんのみ、よくくごをなす」と、あるがごとく、にちれんだいしょうにんが、いっさいしゅじょうをくごされることが、ごねんのごである。
 またねんとはじゆりようほんに「つねにみずからこれのねんをなさく、なにをもってかしゅじょうをして、むじょうどうにはいり、すみやかに、ぶっしんをじょうじゅすることを、えせしめん」とあるように、だいしょうにんがいっさいしゅじょうをすくおうという、だいじだいひの、いちねんがごねんのねんなのである。
 これをふげんほんにきて、「ひとつにはしょぶつにごねんせらるることのため」とといておられるのである。にちれんだいしょうにんは、32さいのりっしゅうせんげんいらい、なんみょうほうれんげきょうをごねんあそばされてきたのである。

 げんだいのにほんには、このぶっしょごねんを、まるでけんとうちがいな、よみかたをするじゃきょうがある、ごねんの「ほとけ」を、「しんだせんぞ」とたて、せんぞが、われわれを、ごねんするというのである、かれらはまず、「せんぞがほとけである」という、ぶっぽうにかんして、こんぽんてきにあやまったつうねんを、むはんせいに、とりいれている。
 だいにに、ごねんとは、「せつだいじょうきょう みょうむりょうぎ きょうぼさつほう ぶっしょごねん」または「せつだいじょうきょう みょうみょうほうれんげ きょうぼさつほう ぶっしょごねん」とといている。
 いちれんのくにつうずることをしらないのである、よめないのである、だいさんに「ごねん」のいみがまったくわかっていない、このもんが、いかに、みょうほうのじんじんのきょうぎであるかという、じつしょうのないところ、なるかもしらないのである。
 そして、にほんじんの、せんぞすうはいの、せいしんてきでんとうをりようし、ほけきょうのもんの、なにかをひっぱってくれば、じんのんなるきょうぎかのごとく、さつかくしてしまう、みんしゅうのむちにつけこみ、いんけんとさくぼうのてによって、ひとびとをごまかしてきたことは、めいりょうなるじじつといえよう、むちよりおそろしいものはない、むちよりあわれなものはない。
 だいにだい、とだかいちょうは、かれらの、ほうぬすびとぶりを、してきして、つぎのように、めいかいに、はしゃくされている。
 「せけんに、いま、だいりゅうこうしているしゅうきょうがある。このしゅうきょうは、なんみょうほうれんげきょうと、となえているから、しらないひとびとは、にちれんしゅうだとおもっている、しんじゃじしんも、にちれんしゅうとは、こんなものかとしんじているものがだいたすうである。
 そのりゆうは、ただなんみょうほうれんげきょうととなえるからである、しかし、そのきょうぎは、にちれんだいしょうにんのおしえなど、けほどももちいていない、しんじゃは、まずせんぞをまつれ、ししやのイハイをおがめとおしえられる、そして、おみちびきとしょうして、しんじゃを25にんからごじゆうにんとつくったものは、りやくがあるとされている。
 だから『ねずみざん』しきに、しんじゃはどんどんふえる、もうかるのはほんぶだけで、しんじゃのほうは、しんのぶっきょうでないデタラメなものにむちゆうになるから、しゅうきょうのげんそくによって、だんだんとせいめいりょくをなくしてしまう。
 そして、かれらのいうには『ほけきょう』にあるおしえだとしょうして、はじとしないのである、なぜせんぞをまつるかというと『ぶっしょごねん』ということが、ほけきょうにある、これはほとけがしんじゃをまもることだ、ほとけとは、とりわけせんぞであり、ししやのことだから、どこのイハイでもおがむなら、そのしんだひと、しんだせんぞは、おがむそのひとをまもるのであるというのが、ただひとつのきょうぎである。
 『ほとけさまとは、しにんのことをいう』と、ぞくせけんでは、おもいこんでいるものが、おおいのはじじつだから、これをりようして、ぐにんに、『しんだひと、そくほとけで、ほとけをおがめばりやくがある、それはほけきょうのごねんのきょうもんによる』とおもいこませているのである。
 ごねんが、いちばんだいじなキンカンバンである、もし、しゃかが、これをきいたらおこることをわすれてぼうぜんとして、しかるのち、おおいにふきだすであろう。
 にちれんだいしょうにんがおききになったら、『よもすえ』と、ただひとことおおせあるにちがいない、ほけきょうのなかに、ごねんということばは、すうかしよにあるが、これは『せつだいじょうきょう、みょうみょうほうれんげ、きょうぼさつほう、ごねん』といういちれんのくをなしているので、ごねんだけでいみをなしているものではない。
 ぜんたいがひとつもんをなしているのである、すなわちみょうほうれんげきょうとなづけたてまつる、だいじょうきょうであって、ぼさつにおしえる、だいじなきょうであり、さんぜしょぶつ、すなわちほとけになられたかたがたが、こころからまもり、ねんじてきたきょうであるとの、いみなのである。
 ごねんはぶつどうしゅぎょうのごくちにいたり、じんかくがだいかんせいして、あらゆるひとをすくうちからのある、たとえばしゃくそんのようなほとけさまをいみしているので、しかも、このほとけがまもりねんじているのは、みょうほうれんげきょうなんだといういみであって、このじゃきょうのおしえるがごときいみはみじんもない。
 せんぞのイハイをおがんだとて、せんぞがほとけになっていないことは、めいはくのりである、がきかいにいるか、じごくかいにいるか、しゅらかいにいるか、ろくどうのどのせかいかにいる、せんぞだけをおがむなら、そのせんぞが、そのひとをまもるどころか、じぶんをすくってくれ、というにちがいない。
 ところが、こちらでは、ぶっぽうをもじっているから、すくうどころのさわぎではない、ここで、せんぞのくるしいきょうがいと、こちらのねんがかんのうして、そのひとのせいめいをなくしていくのである。 ここに、そのひとのふこうのげんいんをつくっていくので、ほんとうに、かわいそうなのは、しらず、こうふくになるとおもって、ふこうにおちいるしんじゃである。
 これをようするに『せんぞをまつる』ということは、ながいあいだのじんるいのしゆうかんであって、『まつる』ことじたいは、いっこうにふしぎでもないし、わるくもない、ただもんだいは『まつるほうほう』にあるのだ。
 いまだ、ごじんのきおくに、なまなましいことは、せんじちゆうに、けいしんすうそといって、にほんこくみんぜんたいに、じんじゃのれいはいをきょうせいして、それが、ちょうこっかしゅぎ、ぐんこくしゅぎとけったくしていた、とうじも、『そせんをあがめる』ことにかわりはなかった。
 しかし、このようなそせんの、まつりかたでは、けっしてこうふくになれないことは、げんじつに、しょうめいされたのだ、いま、また、『せんぞをまつれ』といってせんでんし、ぶっきょうきょうてんに、なんらこんきよもない、インチキのおしえをふりまいている、じょうたいをみて、さらに、むちのたいしゅうが、なんらひはんもなしに、これが、にちれんだいしょうにんのしんの、おしえであるかのように、げんわくされているのをみて、ごじんは、だまって、おられないのである、じゃきょうの、りろんてきさじゅつをしらぬぐにんこそ、ごじんは、あわれとおもわざるをえない」と。
 また「ごねん」とは、われわれの、にちじょうせいかつにかならずしも、かんがえられるものだ、だいがくにあって、きょうじゅが、がくせいを、りっぱにそだてようとするしんけんなこころは、いっしゅのごねんといえよう。
 ははおやが、つねにこどものあんぴをしんぱいし、さいわいのみを、ねがっている、しんきょうも、ごねんである、こいびとが、たがいに、まもりあい、はげましあうすがたもそれなりの、ごねんのあらわれだとおもう、せけんのことすら、だいなりしょうなり、じつにごねんのほうていしきはおおい。
 いわんや、ぶっぽうのせかいは、とうぜんなことといえる、はちまんほうぞうのごくりたる、ほけきょうをば、ときがくるまで、ごねんしたということは、これを、にちれんだいしょうにんのたちばでろんずれば、だいしょうにんは、けんちようごねん、しがつ28にちに、なんみょうほうれんげきょうを、りっしゅうせんげん、あそばされた。
 ただちに、さんるいのごうてきがくものごとく、ごしょせてきた、ときをまたず、ごほんぞんを、ずけんしておられたらたいへんであったとおもう、すぐさま、やぶったりながされたりされたことだろう。
 さどにゆかれるまで、ごほんぞんのずけんこんりゆうをば、いっさいしゅじょうを、じごくにおとさぬために、ごねんしてくださったと、かいしゃくできるわけである。
 また、われわれの、しんじんのたちばからいえば、われわれは、しょうがい、えいえんに、ごほんぞんをごねんする、しんじんでなくてはならないとおもう。
 ぜったいにごほんぞんをごねんしきって、しゅんじたりとも、ごほんぞんをはなさないで、そして、こうせんるふをなしとげようというのが、がっかいせいしんであり、だいしょうにんのまことのでしとして、ぶっしょごねんをよみきった、だいしんじゃといえるとおもうのである。

   じょぼんななかのだいじ
0712    だいご げしあびじごくのこと

 おんぎくでんにいわく、じっかいかいじょうのもんなり、だいばがじょうぶつ、このもんにてふんみょうなり、ほうとうほんのつぎに、だいばがじょうぶつをとくことは、にかのかんぎょうのぶんなり、だいばは、このもんのとき、じょうぶつせり、このしのじは、びゃくごうのいくことなり、びゃくごうのこうみょうは、なんみょうほうれんげきょうきょうなり、じょうし、あかにだてんは、くうたい、げし、あびじごくは、けたい、びゃくごうのひかりは、ちゅうどうなり、これにょつて、じっかいどうじのじょうぶつなり、てんのうぶつとはほうごうを、おくるまでなり。
 さて、えしょうにほうの、じょうぶつのときは、このほんの、げし、あびじごくのもんは、えほうのじょうぶつをとき、だいばだったのてんのうにょらいは、しょうほうのじょうぶつをとく、えほうしょうほうともに、みょうほうのじょうぶつなり、いま、にちれんとうのたぐい、しょうりょうをとぶらうとき、ほけきょうをどくじゆし、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるとき、だいもくのひかり、むげんにいたりて、そくしんじょうぶつせしむ。
 えこうのもん、これよりこと、おこるなり、ほっけふしんのひとは、だざいむげんなれども、だいもくのひかりをもって、こうし、ほっけのぎょうじゃとして、とぶらわんに、あに、このぎにかわるべしや、されば、げし、あびじごくのもんは、ぼとけ、ひかりをはなちて、だいばをじょうぶつせしめんがためなりと、にちれん、すいちし、たてまつるなり。

かいしゃく こうぎ。
 じょぼんだいいちにおいて、ほとけが、もろもろのぼさつのために「だいじょうきょうの、むりょうぎ、きょうぼさつほう、ぶっしょごねん」となづくるほうをとき、それがおわって、むりょうぎしょさんまいにはいり、みをどうじなかった。そのときにてんからはまんだらけ、まかまんだら、まんじゅしゃげ、まかまんじゅしゃげがふり、だいちはろくしゅにしんどうした。
 いちざのたいしゅうは、このみぞうのじじつをみて、かんきし、がつしょうして、いっしんにほとけをみたてまつらんとしたのである。
 そのときしゃくそんは、さんにそうのひとつである、びゃくごうそうのひかりを、はなって、とうほうのいちまんはつせんの、せかいをてらし、そのひかりは、あまねくいきわたり、したはあびじごくにいたり、うえは、あかにだてんに、いたったとある。いまこのびゃくごうのひかりが、したはあびじごくにいたりうえは、あかにだてんにいたったということをおんぎくでんされたのである。
 いったい、びゃくごうのひかりとはなにか、また、そのひかりが、あびじごくにいたったということは、どういうことなのか、また、あかにだてんにいたったとは、どういうことなのであろうか。
 ここでは、じっかいごぐ、さんたい、えしょうふにといったせいめいろんのうえからあかされているのである。
 だいしょうにんのおんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんはじっかいのしゅじょうが、みなことごとくじょうぶつするというしょうもんである、だいばだったのじょうぶつはこのもんであきらかである、ほうとうほんのつぎにだいばぼんでだいばだったが、てんのうにょらいとじょうぶつのきべつあたえられたことは、りゅうにょのじょうぶつとともに、ほうとうほんのさんかのちょくせんにひきつづいて、にかのかんぎょうのぶんとしてとかれたのである。
 だいばだったは、この「げしあびじごく」のもんのときすでにじょうぶつしたのである、「し」のじはびゃくごうのひかりがいくところをさす、びゃくごうのこうみょうとはなんみょうほうれんげきょうなのである、「じょうしあかにだてん」はくうたい「げしあびじごく」けたい「びゃくごうのひかり」はちゅうどうである。
 これによって、じっかいどうじのじょうぶつであることが、あかされてる、だいばほんではてんのうにょらいのというほうごうをあたえるぎしきをおこなったにすぎず、じっさいには、このじょぼんのとき、すでにほとけになったのである。
 さて、えしょうのにほうの、じょうぶつということで、ろんずるときは、このじょぼんにとかれている、「げしあびじごく」のもんは、えほうのじょうぶつをとき、だいばぼんにおいててんのうにょらいというほうごうをあたえられたことは、しょうほうのじょうぶつをといているのである。
 このようにしょうほうのじょうぶつ、えほうのじょうぶつとたてわけるけれども、えしょうともになんみょうほうれんきょうによってじょうぶつしたのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、けちえんしてなくなったひとを、ほけきょうほうべんほんだいに、じゆりようほんだい16をどくじゆし、なんみょうほうれんげきょうと、となえてついぜんくようするとき、だいもくのひかりが、むげんじごくにいたって、そくしんじょうぶつすることが、できるげんりである。
 えこうのもんは、これよりことおこるのである、また、ほっけふしんのひとは、むげんじごくにおちて、くるしまなければならない、しかしながら、こうしがただしいぶっぽうによって、ついぜんくようしてあげるならば、このげんりにかわりはなく、ばっくよらくできるのである。
 したがって「げしあびじごく」のもんは、ほとけがひかりをはなって、だいばだったをじょうぶつさせようと、なされたと、にちれんだいしょうにんは、すいちされているのである。

*、ほうとうほんのつぎに、だいばがじょうぶつをとくことは、にかのかんぎょうのぶんなり。
 ほうとうほんの、「さんかのちょくせん」といって、めつごにおいて、みょうほうれんげきょうをぐつうせよという、せんげんがある、それにひきつづいて、。だいばほんで、だいばだったとりゅうにょの、じょうぶつがあかされて、ほけきょうこそ、しんのこうきょうであり、しんのぶつでしたらんとするものは、このきょうを、ひろめよとかんぎょうしたのである。
 ほうとうほんの、「さんかのちょくせん」と、だいばほんの「にかのかんぎょう」とをあわせて、「ごかのほうしょう」といい、それによって、かんじほんにおいて、しゃくけのしゆうが、めつごのぐきょうをちかうである、さて、ほうとうほんにいわく、「そのときに、たほうぶつ、ほうとうのなかにおいて、はんざをわかち、しゃかむにぶつに、あたえて・・・そのときに、たいしゅう、ににょらいの、しっぽうのたっちゅうの、ししざのうえにましまして、けっかふざしたもうを、みたてまつり・・・だいおんじょうをもって、あまねく、ししゅうにつげたまわく、だれかよく、このしゃばこくどにおいて、ひろく、みょうほうれんげきょうをとかん。
いま、まさしく、これときなり、にょらいひさしからずして、まさにねはんに、はいるべし、ほとけ、このみょうほうれんげをもって、ふぞくしてあること、あらしめんとほっす」と、これは、だいいちのちょくせんである。
 またいわく、「そのときに、せそん、かさねて、このぎをのべんと、ほっして、げを、といていわく、しょうしゅせそん、ひさしく、めつどしたもうと、いえども、ほうとうのなかにましまして、なお、ほうのために、きたりたまえり、しょにん、いかんぞ、つとめて、ほうのために、せざらん・・・また、わがぶんしん、むりょうのしょぶつ、ごうがしゃとうのごとく、きたれるは、ほうをきき・・・おのおの、みょうど、および、でししゅう、てんにんりゅうじん、もろもろのくようのことを、すてて、ほうをして、ひさしくじゆうせしめんがゆえに、ここに、らいししたまえり・・・たとえば、おおかぜの、しょうじゅのえだを、ふくがごとし、この、ほうべんをもって、ほうをして、ひさしくじゆうせしむ、もろもろの、たいしゅうにつぐ、わが、めつどののちに、だれかよく、このきょうをごじし、どくじゆせん、いま、ぶつぜんにおいて、みずから、せいごんをとけ」と、これはだいにの、ほうしょうである。
 また「たほうにょらい、およびわがみ、あつむるところの、けぶつ、まさにこの、こころをしるべし・・・もろもろのぜんなんし、おのおの、つまびらかに、しゆいせよ、これは、これ、なんじなり、よろしく、だいがんをおこすべし、しよよの、きょうてん、かずごうしやのごとし、これらをとくと、いえども、いまだ、かたしとなすに、たらず、もし、しゆみをとって、たほうの、むすうの、ぶつどに、なげおかんも、また、いまだ、かたしとせず…もし、ほとけのめつごに、あくせのなかに、おいて、よく、このきょうをとかん、これ、すなわち、かたしとす…たとい、こうしょうに、かれたるくさを、にないおって、なかにはいって、やけざらんも、また、いまだ、かたしとせず、わが、めつどののちに、もし、このきょうをたもちて、ひとりのためにも、とかん、これ、すなわちかたしとす…もろもろのぜんなんし、わが、めつごにおいて、だれかよく、このきょうを、じゅじしどくじゆせん、いま、ぶつぜん、おいて、みずから、せいごんをとけ」と、これはだいさんの、かんちょくである。

*、だいばほんの、にかのかんぎょうについては、かいもくしょうに、つぎのごとくおおせである。
 「ほうとうほんの、さんかのちょくせんのうえに、だいばほんに、にかのかんぎょうあり、だいばだったは、いっせんだいなり、てんのうにょらいと、きせらる、ねはんきょう、40かんのげんしょうは、このほんにあり、ぜんしょう、あじゃせらの、むりょうのごぎゃく、ほうぼうのものの、ひとつをあげ、こうべをあげ、まんを、をさめ、えだをしたがふ、いっさいのごぎゃく、しちぎゃく、ほうぼう、せんだい、てんのうにょらいに、あらはれおわんぬ。
 どくやくへんじて、かんろとなる、しゅうみにすぐれたり、りゅうにょが、じょうぶつ、これひとりにはあらず、いっさいのにょにんの、じょうぶつをあらはす、ほっけいぜんの、もろもろのしょうじょうきょうには、にょにんのじょうぶつをゆるさず、もろもろのだいじょうきょうには、じょうぶつ、おうじょうを、ゆるすやうなれども、あるいは、かいてんのじょうぶつにして、いちねんさんぜんのじょうぶつにあらざれば、うみょうむじつの、じょうぶつおうじょうなり、こいちれいしょともうして、りゅうにょがじょうぶつは、まつだいのにょにんのじょうぶつおうじょうの、みちをふみあけたるなるべし。
 じゅけのこうようは、こんじょうにかぎる、みらいのふぼをたすけざれば、げけのせいけんは、うみょうむじつなり、げどうは、かみをしれども、ふぼをたすくるみちなし、ぶつどうこそ、ふぼのごせをたすくれば、せいけんのなはあるべけれ。
 しかれども、ほけきょういぜんとうの、だいしょうじょうの、きょうそうは、じしんのとくどうなおかなひがたし、いかにいわんや、ふぼをや、ただ、もんのみあつてぎなし、いま、ほけきょうのときこそ、にょにんじょうぶつのとき、ひものじょうぶつも、あらわれ、だったの、あくにんじょうぶつのとき、じふのじょうぶつも、あらわるれ、このきょうは、ないてんのこうきょうなり、にかのいさめ、おわんぬ」(0223-05)と。

 すなわち、あくにん、だいばだったのじょうぶつは、ひとり、かれのじょうぶつのみでなく、すべての、あくにんのじょうぶつをいみし、また、りゅうにょのじょうぶつは、ぜんにょにんのじょうぶつをしめすものであると、おおせられているのである。

*、びゃくごうのこうみょうはなんみょうほうれんげきょうなり。
 びゃくごうそうは、32そうのひとつである、32そうとは、ほとけのりそうてきすがたをしめしたものである、しかし、みけんからひかりがはなたれ、そのひかりが、あまねく、ありとあらゆるせかいに、いきわたるなどということは、そのままじじつとして、かんがえることはできない、32そうとか、80しゅこうとかいうのは、そのとうじのしゅじょうにとって、おそらく、ほとけはりそうじんかくとして、すべてがそんきに、かがやかしくみえたにちがいない、それがしゅじょうのこころのなかに、32そうとしてえいじたものであろうか。
 とだせんせいは、「しきそうそうごんのほとけ」と、「ぼんぷのほとけ」について、つぎのようにいわれている。
 「さて、しきそうそうごんのほとけと、ぼんしんのほとけについては、いじょうのごとく、とかれて、げんざいまでのぶっぽうにおいては、ふしぎとされてはいない、しかしげんだいじんが、このしきそうそうごんの、ほとけについて、ことばどおりにこれを、しんじょうとしたならば、むりがおこってきはしないだろうか。 いかに、さんぜんねんのむかしであったとしても、そんなほとけが、いるべきはずがない、されば、これについて、わたしにえつうをくわえるのであるが、それに、あやまりあればしきしゃのおしえをこうものである、そもそも、しきそうそうごんのほとけとは、りそうじんかくである、このようなしきしんそうごんのほとけが、いるとして、それをみんしゅうに、かつごうせしめて、そのかつごうより、こしんのぶっかい、うちゅうのぶっかいを、しらしめんとしたものであり、かんかいえれんぼ、にしょうかつごうしんはこれではないか。
 されば、しゃくそんに、ろくしゅのしゃくそんあるというが、そのろくしゅのしゃくそんとは、ぞう、つう、べつ、しゃく、ほん、もんていのしゃくそんである、ぞうきょうのしゃくそんとは、ぞうきょうのりそうてきじんかく、つうきょうのしゃくそんは、つうきょうのりそうてきじんかくであり、べつきょうのしゃくそんは、べつきょうのりそうてきじんかくであり、しゃくもんのしゃくそんとは、しゃくもんのりそうてきじんかくであり、ほんもんのしゃくそんは、ほんもんのりそうてきじんかくであり、もんていげしゅのしゃくそんは、げしゅぶっぽうのりそうてきじんかくである。
 さて、まっぽうは、げしゅぶっぽうのじだいであるから、そのりそうてきじんかくとは、ぼんしんにぶっかいをぐしたかたとなってくるのは、とうぜんである、されば、ぞう、つう、べつ、しゃく、ほんのほとけが、しきそうそうごんであるということは、とうてい、ふつう、ぼんぷのたつしえないじんしんで、ただ、りそうとするだけである。
 どうして、まっぽうの、こんにちに、やくだとうか、これにはんして、まっぽうげしゅのぶっぽうのりそうてきなじんかくは、ぼんぷのからだそのままの、ぜったいふえのこうふくを、かくとくするのをいうのであるから、だれびとも、これにとうたつすることが、できるかのうせいがある。
 だいしょうにんの、おんぎくでんにいわく、「いま、にちれんとうのたぐいのこころは、そうじては、にょらいとは、いっさいしゅじょうなり、べつしては、にちれんのでしだんななり」(0752-05)
 すなわち、りそうてきじんかくとは、まっぽうのぶっぽうにおいては、しきそうそうごんのほとけのごとくぼんのうをやぶり、また、とんじんちの、さんどくをなくすというようなことではなく、ぼんのう、さんどくをもちながら、かいももたず、いぎもしゆうせず、ありのままなのである、ゆえにぼんしんである。
しかし、そのぼんのうさんどくに、なやまされない、えいごうふめつのぜったいかんを、かくとくするのであるから、これを、りそうてきじんかくと、いえるのである、ここに、しきそうそうごんの、ほとけと、ぼんしんのほとけとの、そういがある、されば、ぼんしんのほとけこそ、まっぽうのほとけとだんぜざるを、えないのである」と。
 それでは、この、びゃくごうのひかりを、こんにち、われわれのせいかつにやくして、どのようにかんがえたらよいのであろうか、ここに、にちれんだいしょうにんは、「びゃくごうのこうみょうは、なんみょうほうれんげきょうなり」とおおせられているのである。
 すなわち、われわれが、なんみょうほうれんげきょうととなえることは、ほとけのちけんに、りっきゃくすることであり、いっさいを、みとおしていけるのである、そのしょうことして、げんぜんとせいかつのうえに、くどくがでるではないか、また、どんなくきょうをも、そのなかに、だかいさくをみいだし、きりひらいていけるではないか、この、いっさいを、みとおしていく、こんげんりょくが、びゃくごうのひかりであり、なんみょうほうれんげきょうなのである、さらにくわしくは、ほうとうほんの「だいはち、なんせいほっぽう、しゆい、じょうげのこと」でろんずることにする。

 *、じょうしあかにだてんはくうたい、げしあびじごくはけたい、びゃくごうのひかりはちゅうどうなり。
 あかにだてんとは、ぜんうちゅうをさす、ゆえにくうたいである。げんじつのくるしみのそうたるげしあびじごくはけたいである。
 そしてだいうちゅうにへんまんし、わがみのうえにもつよくにじみでている、せいめいのほんしつを、びゃくごうのひかりに、たとえているがゆえに、びゃくごうのひかりはちゅうどうである。
 このくうけちゅうの、さんたいについての、だいしょうにんのおおせは、まいきょにいとまがない、いまひとつもんをあげれば、じゅうにょぜじにいわく「はじめに、にょぜそうとは、わがみのいろかたちに、あらわれたるそうを、いうなり、これをおうじんにょらいとも、または、げだつとも、またはけたいとも、いうなり。
  つぎに、にょぜしょうとは、わがしんしょうをいうなり、これをほうしんにょらいともまたは、はんにゃとも、または、くうたいともいうなり、さんに、にょぜたいとはわがこのしんたいなり、これをほうしんにょらいとも、または、ちゅうどうとも、ほっしょうとも、じゃくめつともいうなり、さればこのさんにょぜを、さんじんにょらいとはいうなり、このさんにょぜが、さんじんにょらいにて、おはしましけるを、よそに、おもいへだてつるが、はやわがみのうえにて、ありけるなり、かくしりぬるを、ほけきょうをさとれるひととは、もうすなり、このさんにょぜをほんとして、これより、のこりのななつの、にょぜはいでて、じゅうにょぜとは、なりたるなり」(0410-02)と。
 さんたいというのは、なにも、うじょうにのみかぎるのでは、けっしてない、うじょう、ひじょうともにさんたいをそなえているのである。
 いな、ぜんうちゅうのしんらばんしょうことごとく、さんたいにおさまるのである、たとえば、みずについてかんがえてみよう、みずのほんしつというものは、えいちつうおうというぶんししきであらわされる、おゆになろうが、こおりになろうが、またすいじょうきになろうが、そのもののほんしつにかわりない、えいちつうおうそれじたいは、ちゅうどうであり、ほうしんといえよう、すいじょうきとなり、あるいはこおりとなり、あるいはれいすいとなる、。そのすがた、かたちはけたいであり、おうじんである、また、みずはひょうめんちょうりよくがあり、あるいはようかいりょくがあり、そしてまた、れいどいかではこおりになり、ひゃくどいじょうではすいじょうきになるとうのせいしつをもつ、それは、くうたいであり、ほうしんといえる。
 さんたいは、うちゅうのじつそうである、じつそうをありのままに、はあくすることが、ただしいにんしきである、じつそうをそのまま、わがこころにうけとめ、それにたいして、どうかちそうぞうしていくか、どうたいしょするか、それが、ちえである。
 ひとを、どうひょうかしていくかと、いうばあいも、まず、そのひとにたいする、ただしいにんしきなくして、どうして、ただしいはんだんをくだしえようか、そのひとのひょうめんのすがた、こうどうのみをみ、そのひとのほんしつを、みうしなえば、はんだんをあやまる、また、。そのひとのほんしつは、こういうものだときめつけて、じじこつこくとうつりかわるすがた、こうどうを、ありのままに、はあくしないとすれば、やはりただしいにんしきとはいえない。
 そのひとのすがた、こうどうも、そのひとのとくしつ、こせいも、そのひとのほんしつも、ぜんぶ、そのままうけとめることがだいじとなる。
 てんだいは、うちゅうのじつそうを、『さんたい』としてみていくことを、『さんかん』といい、かんねんかんぽうのしゅぎょうを、きょうちょうした。
 しかし、まっぽうにおいては、かんねんかんぽうなど、ひつようなく、じゅじそくかんじんの、げんりにより、しんじんをこんぽんにして、いっさいを、みとおしていけるのである。
 ゆえに、だいしょうにんは、ほんにんみょうしょうにでんぎょうの、ことばをひいて「いつとうをくだして、みょうほう、まんぽうにちょくするに、じねんになお、さんたいをいだす、けんもんかくちに、あきらかなり」(0876-06)とおおせられている。
 「いつとうをくだして」とはしんじんである。「まんほうにちょくするに」とは、しんじんをもっていっさいをみていくことである。「じねんになおさんたいをいだす」とは、みょうほうのきょうがいにかない、うちゅうのじつそうを、なんらへんぱなく、ありのままに、みていけることを、いうのである。「けんもんかくちにあきらかなり」とは、みるもの、きくもの、さとるもの、しるもの、ことごとく、そのまま、わがせいめいのなかにうつしだし、あきらかにみきわめていくことである。
 そのうえにたって、はじめて、いだいなかちそうぞう、ぶんかそうぞうがなされゆくことしんじてやまない。
さて、えしょうにほうのじょうぶつのときは、このほんのげしあびじごくのもんは、えほうのじょうぶつをとき、だいばだったのてんのうにょらいは、しょうほうのじょうぶつをとく、えほうしょうほうともに、みょうほうのじょうぶつなり
 このだんは、えしょうふにの、てつりをしめされたところである、びゃくごうのひかりが、あびじごくにおよび、そくざに、じょうじゃっこうどにてんずることをいう、これえほうのじょうぶつをあかしている。
 だいばほんにおいては、だいばじしんが、じょうぶつするゆえに、これ、しょうほうのじょうぶつを、あかすことになる、しかも「だいばが、じょうぶつこの、もんにてふんみょうなり」とあるのは、えしょうふにのげんりを、あらわしていえるといえる。
 なお「えほうしょうほうともに、みょうほうのじょうぶつなり」というのも、えしょうふにをときあかしているとかんがえられよう、けっきょく、このようにかんがえてみると、えほうのみの、じょうぶつ、えほうしょうほうともに、みょうほうのじょうぶつなり、しょうほうのみの、じょうぶつは、ありえないことがわかる、えしょうともに、じょうぶつしてゆくのが、ほけきょうのこんぽんてつりとなるのである。
 では、ここで、えしょうふにとは、いかなるてつりかを、せつめいしたい、ずいそうごしょにいわく、「それ、じっぽうはえほうなり、.しゅじょうはしょうほうなり、たとへばえほうはかげのごとし、せいほうはからだのごとし、みなくばかげなし、しょうほうなくばえほうなし、またしょうほうをば、えほうをもってこれを、つくる」(1140-06)
 このもんの、りろんのごとく、しょうほうとは、しゆたいてきなものであり、えほうはいっさいの、かんきょうであり、きゃっかんてきなたちばのものをいう、しかも、えほうとしょうほうとは、ぜったいにきりはなせるものではない、りょうしゃは、たがいにえいきょうしあって、こんぜんいつたいを、なしてゆくのである。
 じっぽうとは、われわれをとりまく、きゃくたいぜんぶをいう、しゃかい、しぜん、うちゅうとう々とう、ゆえに、われらのせいめいと、、かんきょうとは、ににふにであり、いつたいかんけいをなすものである。
 ちょうど、からだとかげとが、ふそくふりのかんけいにあるごとくに、つねに、あいはなれることができない、どうりである。
 しかして、にんげんのしんたいは、げかいをこうせいする、さまざまなげんそによりかたちづくりされている。にんげんがせいぞんしゆくかぎり、つねにしんちんたいしゃをおこなって、げかいのものをとりいれ、また、だしてゆかねばならない。いますったくうきはたちまちにして、けつえきのなかにきゅうしゅうされる。せっしゅしたしょくもつやみずは、ちとなり、にくとなっていく。そしてまたでていく。また、われわれのにくたいは、いちおうげかいと、くべつされているようであるが、じじつは、あなだらけで、むすうのうちゅうせんがつうかしている。わがせいめいと、げかいとのかんけいは、じつにみつせつふかのうなことがわかろう。
 われわれの、にくたいは、しぜんのうんこうにしたがって、よるになると、ねむくなり、ひるになるとかつきづく、なつのあつさにも、ふゆのさむさにも、たえずじゅんのうして、ちょうせいされるようになっている。
 びようきになると、なんとなく、いんうつなこころになるし、そのはんたいに、われわれの、せいしんかつどうがかつぱつで、せいめいりょくがつよいときは、なんびようもこくふくすることもできるし、けんこうなしんたいをいじすることもできる。
 それとおなじょうに、ひとのこころがゆがんで、みにくければ、かていやしゃかいも、しぜんといんきでさつばつとしたものになる、ぎゃくに、ひとのすむかんきょうの、わるいばあいには、そこにすむにんげんの、せいしんもすさんで、くるのである、しかし、そうであるからといって、どんなにかんきょうが、かんびされたとしても、にんげんのせいめいに、ないざいするよろこびや、かなしみやくるしみを、ばつぽんてきにはどうすることもできない。
 また、どうとくやせいしんしゆうようで、じんせいのこんぽんくをばなおすこともできない。われわれのせいめいとかんきょうとのかんけいは、ににしてふになのである。せいめいりょくがおとろえているばあいには、かんきょうによる、じゅうあつにたえかねる、じことなり、はんたいにつよい、せいめいりょくのはつどうは、かんきょうを、こころのままにかえて、ゆうゆうたる、じんせいをきずく、さらに、いつこくがるふし、みんぞくじたいに、かつきがあるならば、そのくにはへいわであり、りゅうりゅうとはってんするのである。
 そして、われわれのいちねんは、しぜんげんしょうや、うちゅうのうんこうにたいしても、えしょうふにのげんりによって、おおきくえいきょうをおよぼすことができる。
ぶっぽうでいう「いっしんいちねんほうかいにあまねし」とは、これをいうのである。
ほっけふしんのひとは、だざいむげんなれども、だいもくのひかりをもって、こうしほっけのぎょうじゃとして、とぶらわんに、あに、このぎにかわるべしや。
 これは、とうばくようの、ほうしきをのべられているところである、だいもくのちからによって、せんぞのばっくよらくとなる、げんりをいうのである、このことについては、おりょう、いりょう、ふしのはなしがつたえられている。ほうれんしょうのみょうもんから、しさくされたい。
 「おりょうと、もうせし、のうしょは、しゅせきのじょうずなりしかば、ひとこれをもちゆ、しかれども、ぶっきょうにおいては、いかなる、えこありしかども、かかず、さいご、りんじゅうのとき、しそく、いりょうをめして、いわく、なんじ、わがやにうまれて、げいのうをつぐ、わがこうようには、ぶっきょうをかくべからず。
 ことに、ほけきょうを、かくことなかれ、わがほんしの、ろうしは、てんそんなり、てんに、ふたつのひなし、しかるに、かのきょうに、ゆいがいちにんととく、きくわいだいいちなり、もし、ゆいごんをたがへて、かくほどならば、たちまちにあくりょうとなりて、いのちをたつべしといって、した、やっつにさけて、こうべしちぶにわれ、ごこんよりちを、はいて、ししおわんぬ。
 されども、そのこ、ぜんあくをわきまへざれば、わがちちの、ほうぼうのゆへに、あくそうげんじて、あびじごくに、おちたりともしらず、ゆいごんにまかせて、ぶっきょうをかくことなし、いわんや、くちにじゆすること、あらんをや、かくすぎゆくほどに、ときのおうを、しばしとごうしたてまつる、ごぶつじのありしに、しょしゃのきょう、あるべしとて、かんどだいいちの、のうしょをたずねらるるに、いりょうに、さだまりぬ。
 めして、おおせつきけらるるに、さいさん、じたいもうせしかば、ちからおよばずして、たひつにて、いちぶのきょうを、かかせられけるが、ていおう、こころよからず、なお、いりょうをめして、おおせにいわく、なんじ、おやのゆいごんとて、ちんが、きょうをかかざること、そのいわれなしと、いえども、しばらく、これをめんず、ただ、だいもくばかりは、かくべしと、さんどちょくじょうあり。
 いりょう、なお、じたいもうす、だいおう、りゆうがんこころよからずして、いわく、てんち、なおおうのしんたいなり、しからば、なんじがおやは、すなわち、わがけにんにあらずや、わたしをもって、くじをかろんずること、あるべからず、だいもくばかりは、かくべし。
 もし、しからずんば、ぶつじのにわなりといへども、すみやかに、なんじがこうべを、はぬべしとありければ、だいもくばかり、かけり、いわゆる、みょうほうれんげきょう、かんだいいち、ないし、かんだいはちとううんぬん、そのくれに、わたくしたくにかえりて、なげいていわく、われ、おやのゆいごんをそむき、おうちょく、すべなきゆえに、ぶっきょうをかきて、ふこうのものとなりぬ。
 てんじんも、ちぎも、さだんで、いかり、ふこうのものと、おぼすらんとて、ねる、よるのゆめのなかに、だいこうみょう、しゅつげんせり、あさひのてらすかと、おもへば、てんにんいちにん、ていじょうに、たちたまへり、また、むりょうのけんぞくあり、この、てんにんのちようじょうの、こくうに、ほとけ、64ぶつまします、いりょう、がつしょうして、とうていわく、いかなるてんにんぞや。
 こたえていわく、われはこれ、なんじがちちの、おりょうなり、ぶっぽうをぼうぜしゆえに、した、やっつにさけ、ごこんより、ちをいだし、こうべしちぶにわれて、むげんじごくにおちぬ、かの、りんじゅうのだいくをこそ、かんにんすべしとも、おぼへざりしに、むげんのくは、なお、ひやくせんおくばいなり。
 にんげんにして、どんとうをもて、つめをはなち、のこぎりをもてくびをきられ、すみびのうえをあゆばせ、いばらにこめられ、なんどせし、ひとのくを、このくにたとへば、かずならず、いかんしてか、わがこにつげんと、おもいしかども、かなはず、りんじゅうのとき、なんじをていましめ、ぶっきょうをかくことなかれと、ゆいごんせしことの、くやしさもうすばかりなし。
 こうかい、さきにたたず、わがみを、うらみ、したをせめしかども、かひなかりしに、きのうのあさより、ほけきょうのはじめの、みょうのいちじ、むげんじごくのかなへのうえに、とびきたって、へんじて、こんじきのしゃかぶつとなる。
 このほとけ、32そうをぐし、めんみょう、まんげつのごとし、だいおんじょうをいだして、といていわく、「たといほうかいにあまねく、ぜんをたちたる、もろもろのしゅじょうも、ひとたびほけきょうを、きかば、けつじょうして、ぼだいをじょうぜん」うんぬん、このもんじのなかより、おおあめふりて、むげんじごくのほのおをけす、えんまおうはかんむりをかたぶけて、うやまひ、ごくそつはつえをすてて、たてり、いっさいのざいにんは、いかなることぞと、あはてたり。
 また、ほうのいちじきたれり、まえのごとし、また、れん、また、げ、また、きょう、かくのごとし、64じきたって、64ぶつとなりぬ、むげんじごくに、ほとけ、64たいましませば、にちがつの、64が、てんにいでたるごとし、てんより、かんろをくだして、ざいにんにあたふ。
 そもそも、これらのだいぜんは、いかなることぞと、ざいにんら、ほとけにといたてまつりしかば、64の、ほとけのこたえにいわく、われらが、こんじきのみは、せんだんほうせんよりも、しゅつげんせず、これはむげんじごくにある、おりょうがこの、いりょうがかける、ほけきょうはちかんのだいもくの、はつぱ、64の、もんじなり、かの、いりょうが、てはおりょうがうめるところの、みぶんなり。
 かけるもんじは、おりょうがかくにて、あるなりと、ときたまいしかば、むげんじごくのざいにんらは、われらもしゃばにありしときは、こもあり、おんなもあり、けんぞくもありき、いかに、とぶらはぬ、やらん、また、とぶらへども、ぜんこんのゆうのよわくして、きたらぬやらんと、なげけども、なげけども、かいなし。
 あるいはいちにち、ふつか、いちねんにねん、はんこう、いちこうになりぬるに、かかる、ぜんちしきにあひたてまつて、たすけられぬるとて、われらも、けんぞくとなりて、とうりてんにのぼるか、まず、なんじをおがまんとて、きたるなりと、かたりしかば、ゆめのなかに、うれしさみにあまりぬ。
 わかれてあと、また、いつのよにかみんとおもいし、おやのすがたをも、みたてまつり、ほとけをもはいしたてまつりぬ、64ほとけの、ものがたりにいわく、われらはべつのしゆなし、なんじは、われらがだんななり、こんにちよりは、なんじをおやと、しゆごすべし、なんじ、をこたることなかれ、いちきのあとは、かならずらいつて、とりつのないいんへみちびくべしと、おやくそくありしかば、いりょうことに、かしこみて、ちかいていわく、こんにちいご、げてんのもんじを、かくべからずとううんぬん。
 かのせしんぼさつが、しょうじょうきょうをせじじゆと、ちかい、にちれんがみだねんぶつを、もうさじとせばんしがごとし、さてゆめさめて、このよしを、おうにもうす、だいおうのちょくせんにいわく、このぶつじ、すでにじょうじぬ、このよしを、がんもんにかきたてまつれと、ありしかば、ちょくせんのごとくにし、さてこそ、かんど、にほんこくは、ほけきょうには、ならせたまいけれ、このじゆは、かんどのほっけでんきにそうろう」(1047-12)と。
 このごしょは、ほけきょう、しょしゃのくどくを、しめされたものにすぎない、ましてや、われわれは、いだいなる、にちれんだいしょうにんのだいぶっぽうたる、ごじ、しちじの、なんみょうほうれんげきょうをもって、くようするのである、どうして、せんぞのしょうりょうの、くのうを、すくえないわけがあろうか。


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  • 御義口伝講義録 上 1/3

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 4月 4日(火)00時15分4秒
  • 編集済
 
おんぎくでん こうぎろく じょう
   0709~0713 じょぼんななかのだいじ

0709    だいいち にょぜがもんのこと
0710    だいに あにゃきょうじんにょのこと
0710    だいさん あじゃせおうのこと
0711    だいよん ぶっしよごねんのこと
0712    だいご げしあびじごくのこと
0712    だいろく どうしがこのこと
0713    だいなな てんくじねんみょうのこと

0709~0713 じょぼんななかのだいじ。

0709    だいいち にょぜがもんのこと。

01      じょぼんななかのだいじ。

 だいいちにょぜがもんのこと  もんぐのいちにいわく、にょぜとは、しょもんのほったいをあぐ、がもんとは、のうじのひとなり、きのいちにいわく、ゆえに、はじめとすえといちきょうをしょもんのたいとなす。
 おんぎくでんにいわく、しょもんのもんは、みょうじそくなり、ほったいとは、なむみょうほうれんげきょうなり、のうじとはのうのじ、これをおもうべし、つぎにきのいちの、こしまついちきょうのしゃくは、はじめとは、じょぼんなり、まつとはふげんほんなり、ほったいとは、こころということなり、ほうとは、しょほうなり、しょほうのこころということなり、しょほうのこころとは、みょうほうれんげきょうなり。
 でんぎょういわく、ほけきょうをほむるといえども、かえって、ほっけのこころをころすと、しのじにこころをとどめて、これをあんずべし、ふしんのひとは、にょぜがもんのもんにはあらず、ほけきょうのぎょうじゃは、にょぜのたいをきくひとというべきなり。
 ここをもって、もんぐのいちにいわく、「にょぜとは、しんじゅんのじなり、しんはすなわち、しょもんのりえし、じゅんはすなわち、ししのみちじょうず」と、しょせんにちれんとうの、たぐいをもって、にょぜがもんのものというべきなりうんぬん。
0710
 かいしゃく こうぎ。
これは、じょぼんのさいしょに、「かくのごとくわれききき」のところのおんぎくでんである。
 てんだいだいしの、ほっけもんぐのだいいちかんにいわく、「にょぜがもんのにょぜとは、しょもんのほったいをあげているのであり、がもんとは、のうじのひとをいうのである」と、これをうけて、みょうらくだいしの、ほっけもんぐきにいわく、「ゆえに、さいしょのじょぼんから、さいごのふげんほんまでの、ほけきょういちきょうぜんたいをしょもんのたいとするのである」。
 にちれんだいしょうにんの、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである、もんぐに「しょもんのほったい」といっているが、しょもんのもんとは、みょうじそく、すなわち、なんみょうほうれんげきょうをしんじゅするくらいをいみするのである、ほったいとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。
 「のうじのひと」の、のうじとは、「のう」のじにこころをとどめて、よくよくかんがえなさい。
 つぎにきのいちの、「ゆえに、はじめとすえといちきょう」のしゃくで、「はじめ」とは「じょぼん」をさし、「すえ」とは「ふげんほん」をさすのである。
 ほったいのたいとは「こころ」ということである。「ほう」とはしょほうをいみする、したがって、ほったいとは「しょほうのこころ」ということであり、そのしょほうのこころこそ、なんみょうほうれんげきょうなのである。
 でんぎょうだいしは「ほっけしゅうく」のなかで、「じおん」の「ほっけげんさん」のじゃぎをせめて「ほけきょうをほめたとしても、ほけきょうのしんいをしらなければ、かえってほけきょうのこころをころすことになるのである」とうちやぶった、この「し」のじにこころをとどめてかんがえるべきである。
 ふしんのひとは、にょぜがもんのもんにはならない、なぜならば、にょぜのたいをきかぬからである。ほけきょうのぎょうじゃのみが、にょぜのたいをきくひとといえるのである、ここをもって、てんだいのもんぐのいちにいわく「にょぜとはしんじゅんのことばである、しんずることによってしょもんのり、すなわちいちねん3000のほうりを、えとくすることができるのであり、じゅんずれば、していのみちをじょうじ、みずからも、ぶっかいをげんずることができるのである」と。
 しょせん、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかこそが、にょぜがもんのひとというべきである。
 にょぜがもんは、すべてのきょうもんのぼうとうにあることばである、そのうえには、かならず、そのきょうもんのしんずいというべきだいもくがある、そのだいもくをさして、にょぜがもんといったのである。
 そやにゅうどうどのごへんじには「もんぐのいちにいわく『にょぜとはしょもんのほったいをあぐ』ときのいちにいわく『もしちょうはちのにょぜにあらずんばなんぞこのきょうのしょもんとなさん』とうんぬん、けごんきょうのだいにく『だいほうこうぶつ、けごんきょう、にょぜがもん』うんぬん、『まかはんにゃはらみつきょう、にょぜがもん』うんぬん、だいにちきょうのだいにく『だいびるしゃな、しんぺんかじきょう、にょぜがもん』うんぬん 、いっさいきょうのにょぜはいかなるにょぜぞやとたずぬれば、かみのだいもくをさしてにょぜとはもうすなり、ほとけなにのきょうにても、とかせたまいし、そのしょせんのりをさして、だいもくとは、せさせたまいしを、あなん、もんじゅ、こんごうしゅとう、めつごにけつじゅうしたまいしとき、だいもくをうちをいて、にょぜがもんともうせしなり」1057-01)とある。
 ごぶんのほうていしきのごとく、たとえば、けごんきょうでいえば、けごんきょうのしまつがあって、そのしんずいが、けごんのほったいになる。あごん、ほうとうぶのきょうきょうも、そのきょうもんのぜんたいとしてなにをしんずいとしてとかんとしているか、これが、そのきょうもんのほったいというのである。
 ほけきょうにじゅうほんのほったいはみょうほうれんげきょうである、この、みょうほうれんげきょうは、ふつう、ほけきょうのだいもくぐらいに、かんがえられがちである、これこそ、ひそうてきな、ほけきょうをしんにしらざるものの、かんがえかたなのである。

 おなじく、そやにゅうどうどのごへんじにいわく、
 「しょせん、みょうほうれんげきょうのごじをば、とうじのひとびとは、なとばかりとおもへり、さにてはそうろうはず、たいなり、たいとはこころにてそうろう、しょうあんいわく『けだし、じょおうはきょうのげんいをじょし、げんいはもんのこころをじゅつす」とうんぬん、このしゃくのこころは、みょうほうれんげきょうともうすは、もんにあらず、ぎにあらず、いちきょうのこころなりと、しゃくせられてそうろう。されば、だいもくをはなれて、ほけきょうのこころをたずぬるものは、サルをはなれて、きもをたづねし、はかなきかめなり、さんりんをすてて、このみを、たいかいのほとりにもとめし、えんこうなり、はかなしはかなし』1059-01)と。

 ゆえに、なむみょうほうれんげきょうは、ほけきょうのかんじんであり、しんずいであることがわかる、のみならず、いっさいきょうのげんもくであり、こつずいなのである、さらに、そやどのごへんじに、「ほけきょうのだいもくは、いっさいきょうのたましい、いっさいきょうの、げんもくなり」1060-07)とおおせになってる。
 おもうに、けごんのこころは、けごんきょうのだいもくに、あごんのこころは、あごんきょうのだいもくにある。これいちおうのぎといわねばならない。さいおう、さんぜじっぽうのしょぶつのきょうきょう、げんしょう、ほうもんのほんたい、しんずいは、なんみょうほうれんげきょうとなることはめいかくである。
おんぎくでんにいわくしょもんのもんとはみょうじそくなり
 みょうじそくとは、ろくそくのはいりゆうのなかのひとつである、いまここに、「しょもんのもんはみょうじそく」とあるのは、いかなるいみであろうか。
 そうかんもんしょうにいわく「いっさいのほうは、みなこれぶっぽうなりと、つうたつしげりょうする、これをみょうじそくとなす、みょうじそくのくらいより、そくしんじょうぶつす、ゆえにえんどんのきょうには、じいのしだいなし」0566-15)と。
 いっさいのほうとは、うちゅうのしんらばんしょうのいである、ぶっぽうとは、みょうほうのごじである、うちゅうのしんらばんしょうことごとく、みょうほうの、とうたいなりと、つうたつし、げりょうすることが、みょうじそくなのである。
 しかして「つうたつげりょう」ということが、こんぽんもんだいとなる、なにをもって「つうたつげりょう」するのか。
 てんだいぶっぽうでは、かんねんかんぽうにより、りろんてきにりかいすることにいぎづけた。
 だいしょうにんのぶっぽうは、じゅじそくかんじんである、だいごほんぞんをしんじゅし、だいもくをとなえきることが、いっさいほう、みなこれぶっぽうであると、つうたつげりょうしたことになる、けっきょく、「つうたつげりょう」とは“しんじきる”ということなのである。
 にちかんしょうにんは、「とうりゅうぎょうじしょう」において、そうかんもんしょうの「しゃかにょらい、ごひゃくじんてんごうのとうしょ、ぼんぷにておわせしとき、わがみは、ちすいかくうなりとしろしめして、そくざにさとりをひらきたまいき」0568-13)のもんと。
 しかんの、「みょうじのなかにおいて、つうたつげりょうして、いっさいのほうはみなこれぶっぽうなりとしる」、のもんとは、ことばはちがうが、そのこころはおなじなりと、つぎのようにおおせである。
 「いま、しゃくそん、ぼんぷのおんときという、そく、みょうじちゆうとう、みょうじのなかにおいて、つうたつげりょうして、いっさいのほうは、みなこれ、ぶっぽうなりとしるをりやくす)に、おなじきなり、いま、わがみ、ちすい、かふうくうとしるという、そく、いっさいのほうは、みなこれぶっぽうなりとしると、おなじ、いわく、いっさいのほうのほかに、わがみ、なく、わがみのほかに、いっさいのほうなし、ゆえに、わがみ、まったく、いっさいのほうなり。
 ちすい、かふうくうは、そく、みょうほうごじなり、みょうほうごじのほかに、ぶっぽうなし、ゆえに、ごだい、まったくみな、ぶっぽうなり、ゆえに、そのい、これおなじきなり、しからば、すなわち、しゃくそんみょうじぼんぷのおんとき、いっさいのほうは、みなこれぶっぽうなり、わがみの、ごだいはみょうほうのごじなりと、しろしめし、すみやかに、じゆうほうしんを、じょうずゆえに、そくざかいじというなり」。
 また、「いっさいほう、これ、ぶっぽうなりと、つうたつげりょうする」とは、われわれのせいかつに、やくせば、「しんじんそくせいかつ」といえるのである。
 ごほんぞんにむかい、だいもくをとなえるひとは、みなみょうじそくである、そくいっさいのかつどうは、すべてみょうほうのりにかなった、じんせいこうろなのである、これがみょうじそくであり、そく、くきょうそくとなるげんりである。
 ちかい、れいをあげてみる、「B」というひとがいたとする、この「B」は、ちきゅうじょうにせいをうけた、はじめはなまえがなかった、しかし、いちど「B」となまえをつけられた、このなまえは、ほうりつじょうはもちろんのこと、がつこうでも、かいしゃでも、めいぼにも、いっさいのせいかつのじょうに、けっていづけられてゆく、こうつうじこをおこせば、しんぶんじょうに「B」と、はんたいに、けんきゅうのけっか、ぶんかくんしょうをうけ、かつは、こっかいぎいんに、りっこうほとうせんしたとしても、みな「B」のほうどうがなされるわけである、。これ、「B」のふるまい、いがいのなにものでもない。
 このように、われわれがいちど、なんみょうほうれんげきょうを、しんじゅするならば、われわれのかつどうは、いっさいが、ぶっぽうのりにかない、みょうほうのふるまいにつうじゆく、これを、みょうじそくというのである。
ほったいとは、こころということなり、ほうとはしょほうなり、しょほうのこころということなり、しょほうのこころとは、みょうほうれんげきょうなり、このだんは、まえの「ほったいとは、なんみょうほうれんげきょうなり」のもんをうけ、さらに、ほうとたいとにわけてとかれ、けつろんして、ふたたび、「みょうほうれんげきょうなり」と、むすばれたところである。
 「ほったいとはこころなり」の“こころ”とは、いちねんさんぜんのいちねんをいう、せいめいのほんしつということになろう。
 「ほうとはしょほうなり」の“ほう”とは、げんしょうとやくす、したがってしょほうとは、ありとあらゆる、げんしょうといういみになる、かぜ、おんど、きりゅう、かみなり、くもとうとう、これらのうちゅうのへんか、すなわちしんか、たいか、けんせつ、はかいといった、ぜんさようをくりかえしゆくかつどうをば、しょほうという、このしょほうのほんたいが、なんみょうほうれんげきょうであるとのおおせである。
 このようにみれば、われわれのげんげんくく、ほこう、きどあいらく、またせいしんのかがやき、たいようのこうせん、げつこう、くさきのはついく、せいめいのしゅつしょうとうとう、ことごとく、みょうほうのさようであり、なんみょうほうれんげきょうの、げんせんによって、なされるものである。
 でんぎょういわく、ほけきょうをほむるといえども、かえってほっけのこころをころすと、しのじに、こころをとどめて、これをあんずべし。
 でんぎょうだいしは、じおんのごときものが、ほけきょうをさんたんしても、ほけきょうとにぜんきょうとを、ならべかんがえたり、ほっけさいだいいちのせいしんなく、ただ、すばらしいてつがくを、さんたんしているにすぎず、かえって、ほけきょうのこころを、ころしてしまっているのだと、きびしく、はしゃくしたのである、このでんぎょうだいしのことばは、そのままげんざいの、にちけんしゅうのごとき、なんみょうほうれんげきょうをかんばんとする、きょうだんにぜんぶあてはまるのである。
 いったい、ほけきょうのこころとはなにか、いちだいせいきょうたいいにいわく、「このほけきょうは、しらずしてならいだんずるものは、ただ、にぜんのきょうのりやくなり」0404-03)また、さんだいひほうしょうにいわく「ほけきょうを、しょぶっしゅっせのいちだいじと、とかせたまいてそうろうは、この、さんだいひほうを、ふくめたる、きょうにてわたらせたまえばなり」1023-13)と。
 けっきょくは、ほけきょうのこころとは、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょうなのである、ゆえに、いかにほけきょうを、よもうとも、さんだいひほうの、だいぶっぽうをしらざれば、「ほっけのこころをころす」ことに、きちゃくするのである。
 また、しゅじゅおんふるまいごしょには、「かかるにちれんを、もちいぬるとも、あしくうやまはば、くにほろぶべし」0919-16)と、これもおなじげんりである。
 いかに、だいしょうにんをさんたんしても、だいしょうにんを、じょうぎょうぼさつぐらいにとりあつかったり、にちれんだいぼさつなどとしていることは、まっぽうのごほんぶつを、おおいかくすことになる、そしてにちれんだいしょうにんをけいしすることにつうずる、これ、かえって、くにをほろぼし、みをうしなう、こんげんに、なることを、しらねばなるまい。
 にちれんだいしょうにんのこころとはなにか、きょうおうどの、ごへんじには「にちれんがたましひを、すみにそめながして、かきてそうろうぞ、しんじさせたまへ」1124-11)とのべられているごとく、にちれんだいしょうにんの、みこころとは、ごほんぞんにある。
 そして「よは、27ねんなり」と、しゅっせのほんかいとしてあらわされた、ごほんぞんこそ、くきょうちゅうのくきょうの、みこころなのである。
 このごほんぞんをひていして、いかに、だいしょうにんのごしょを、はいどくしても、ほけきょうをさんたんしても、ぜんぶ、だいしょうにんのみこころに、そむいている、ぶつてきと、だんずることができるのである。
ふしんのひとは、にょぜがもんのもんにはあらず、ほけきょうのぎょうじゃは、にょぜのたいをきくひとというべきなり。
 もんぐのいちには、「がもんとは、のうじのひとなり」とある、だいしょうにんは「のうのじ、これをおもうべし」とおおせられている、これ、だいしょうにんのごきんげんを、しんくいのさんごうで、よむこと、であり、ごほんぞんをしきしんともに、じゅじするこころである。
 ゆえににょぜがもんのもんとは、ただ「きく」というのではなく、「しんじん」をいみするのである、さきに、にょぜがもんのもんは、みょうじそくであり、みょうじそくとは、ごほんぞんをじゅじした、くらいであることをしめした。したがって、ごほんぞんを、しんじないものは、ぜったいに、にょぜがもんのひとではない、さらにきびしくろんずれば、だいごほんぞんじゅじのひとたりとも、しんくいのさんごうの、、しんじんしゅぎょうのなきものは、にょぜがもんのひととはいえない。
 このてんにつき、にちかんしょうにんは、とうたいぎしょうの、「ほんもんじゅりようの、とうたいれんげのほとけとは、にちれんがでしだんなとうのなかのことなり」0512-12)のもんの“なか”のじを「しょうしんにあたる」とよむべきであるとしめされておられる。
 つぎにもんぐのいちの「にょぜとはしんじゅんのじなり、しんはすなわちしょもんのりえし、じゅんはすなわちししのみちじょうず」とは、やはり、にょぜがもんがしんじんであることを、しめしたものである、ここでしんじゅんとのべ、さらにしんとじゅんとにわけてとき、ともにぶつどうしゅぎょうのこんぽんぎをのべられている。
 「しんはすなわち、しょもんのりえし」とは、しんずること、じっせんすることによって、しょもんのりたるいちねんさんぜんのほうりを、えとくすることができるというこころである。
 いかにかんねんてきに、ぶっぽうをりかいしょうとしても、ぶっぽうのしんずいが、けっしてえとくできるものではない、だいもくをとなえ、ぎゃっきょうをきりひらき、ちからづよいじんせいをあゆむとき、せいかつ、せいめいのうえにげんぜんとくどくがわき、しょうとくできるのである、そこに、だいごほんぞんのいりょく、だいしょうにんのぶっぽうのいだいさを、しみじみとじかくできるものである、とおく、しゃくそんじだい、「ちえだいいち」といわれた、しゃりほつすら、「いしんとくにゅう」といって、しんをもってじょうぶつした、しんじん、じっせんのなきものに、ぶっぽうがわかろうはずがないのである。
 「じゅんはすなわち、ししのみちじょうず」とは、していそうたいのげんりである、ぶっぽうはけっしてかんねんであってはならない、にんげんたいにんげんのいきたかんけいのなかに、いきいきとつたわるものである。
 ほうといえども、しょせんはひとにきちゃくするものである、きゅうどうしんにもえあがるひとこそ、りっぱなにょぜがもんのひとといえる。じゅんとは、ししょうのことばを、いっちょくせんにじっせんしてゆくことをいう。ここにししょうたる、だいしょうにんと、きょうちみようごうし、していふにのげんりにもとずき、われわれが、えいえんのせいめいを、かんとくできうるのである。
 さいごのもんに「しょせんにちれんとうのたぐいをもって、にょぜがもんのものというべきなり」と、おおせである。
 まさに、われら、そうかがっかいいんは、にちれんだいしょうにんのごゆいめいたる、けぎの、こうせんるふのたつせいにむかい、ゆうかんにたたかっている、だいしょうにんのごよげんをば、こもうにせざるために、このじっせんのすがたこそ、にょぜがもんのにんであり、しょうしんのかがみであるとかくしんすべきなのである。

   0710    じょぼんななかのだいじ
だいに あにゃきょうじんにょのこと

 だいにあにゃきょうじんにょのこと  じょのいちにいわく、きょうじんにょはせいなり、これにはかきとほんず、ばらもんしゅなり、そのさき、ひにつこうこれにしたがってぞくにもとずく、ひににぎあり、しょうなりしょうなり、しょうはすなわちやみ、しょうぜず、しょうはすなわちもの、しょうぜず、これにはふしょうをもって、せいとなす。
 おんぎくでんにいわく、ひとはほっしょうのちひなり、ひのにぎとは、ひとつのしょうは、ずいえんしんにょのちなり、ひとつのしょうは、ふへんしんにょのりなり、しょうしょうのにじは、ほんしゃくにもんなり、さて、ひの、のうさとしては、しょうしょうのにとくをそなうる、なんみょうほうれんげきょうなり、いまにちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、しょうじのやみをてらし、はらして、ねはんのちか、みょうりょうなり、しょうじそくねはんと、かいかくするを、しょうそくあんふしょうとは、いうなり、ぼんのうのたきぎをやいて、ぼだいのか、げんぜんするなり、ぼんのうそくぼだいと、かいかくするを、しょうそくもつふしょうとは、いうなり、ここをもって、これをあんずるに、じんにょは、われら、ほけきょうのぎょうじゃの、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんをあらわしたりうんぬん。

かいしゃく こうぎ
 これは、じょぼんのときあつまった、まんにせんのあらかんのひとり、あにゃきょうじんにょについての、おんぎくでんである。
 てんだいの、ほっけもんぐのだいいちかんには、「きょうじんにょはみょうじであり、かんごには、かきとほんやくする、ばらもんかいきゅうである、そのせんぞがひにつかえていたという、いちぞくぜんたいに、きょうじんにょのみょうじがつけられたゆえんがここにある。
 ひににぎ(ふたつのはたらき)がある、『てらす』と『やく』との、ふたつのさようである、てらせばやみはしょうじないし、やけばものがしょうじない、いずれにしてもしょうじないといういみで、ふしょうをみょうじにしているのである。
 にちれんだいしょうにんのおんぎくでんには、つぎのごとくおおせである、ひとは、ほっしょうのかをいみする、「もんぐ」には、ひにしょうとしょうと、ふたつのいぎがあるというが、「しょう」はずいえんしんにょのちをいみし、「しょう」はふへんしんにょのりをいみする。
 したがって、しょうしょうのにじは、ほんしゃくにもん、すなわちてらすはほんもん、やくは、しゃくもんをいみしている、かくのごとくひのさようとして、しょうしょうのにとくをそなえているが、なんみょうほうれんげきょうに、りょうしゃともふくまれるのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることは、しょうじのやみをてらしはらし、ねはんのちかがみょうりょうにあらわれることである、すなわち、しょうじそくねはんとひらきかくすることを、もんぐでは、「てらすはすなわちやみしょうぜず」といっているのである、また、みょうほうをとなえたてまつることは、ぼんのうのたきぎをやいて、ぼだいのえかがげんぜんすることである。
 すなわち、ぼんのうそくぼだいとひらきかくすることを、もんぐでは「しょうはすなわちものしょうぜず」といっているのである、このようにみていくと、けっきょく、あにゃきょうじんにょとは、われらほけきょうのぎょうじゃのぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんを、あらわしているのである。

 ぶっぽうは、せいめいのこんぽん、かいけつのげんりである。

 そうかんもんしょうにいわく「いちだいせいきょうとは、このことをときたるなり、これをはちまんよんせんのほうぞうとは、いうなり、これみな、ことごとくひとりの、しんち、ゆうのほうもんにてあるなり、しかれば、はちまんよんせんのほうぞうは、わがみひとりの、にっきもんじょなり」(0563-16)と。 したがって、ほけきょう、じょぼんのぎしきも、みな、しゃくこしんのせいめいに、てんかいされたぎしきである、あにゃきょうじんにょも、おなじく、しゃくそんこしんのきょうじんにょなのでる、むろん、しゃくそんのでしに、あにゃきょうじんにょというひとも、じつざいしていたこととおもう、しかし、だいしょうにんのしめしろんじられている、あにゃきょうじんにょは、ぐたいてきなひとりをさすというより、じんにょ、せいめいろんのうえからろんじた、わかいきょうじんにょという、せいめいかつどうをいみするのである。

 おんぎくでんにいわく、ひとはほっしょうのちかなり。

 ほっしょうのちかとは、ちしきをせいかつにおうようしていくちえをいう、ぶんか、ぶんめいを はってんせしめていくにんげんのちえである、かちそうぞうのげんせんである、このこんぽんのちえこそ、みょうほうのちえであることをしめされているのである。
 われ々われのせいかつをふりかえってみるに、いっしゅんいっしゅんのこうどうが、ちえのはつろともいえよう、こうつうじこなどを、しゅんかんにしてよけ、ふせぐことができるのも、ちえのはたらきである。
 じぎょうとうのふしんをだかいしていくのも、そのひとじしんの、ちえのはんだんによるものである、じじこっこくのふるまいのにんげんしゃかいにあって、いかにしていきるか、きめていくのも、みなおのれじしんのはんだんであり、ちえによるものといえよう。
 ちいさくはこじん、おおきくはしゃかい、こっか、せかいのはってんも、ことごとくにんげんのえいちによるものである、ぶんめい、ぶんかのれきしてきな、はったつも、おなじく、じんるいのたるまざるちえのしゅうせきがもたらしたものである、ぜんあくともに、ちえははたらくものである。
 あるひとは、じこのしりしよくのために、あるひとは、たにんをおとしいれるために、ぜんちえをはっきすることだろう、しかし、しんのちえは、じこのさいこうのこうふくと、しゃかいのはんえいにきよするちえでなくてはならない、これこそ、みょうほうのちえしかなく、しんじつのえいちなのである。
 ひのにぎとはひとつのしょうはずいえんしんにょのちなり、ひとつのしょうはふへんしんにょのりなり、しょうしょうのにじはほんしゃくにもんなり。
 ずいえんしんにょのち、ふへんしんにょのりについては、「なんみょうほうれんげきょう」の、おんぎくでんのところで、しょうさいにのべたとおりである、またほんもんが、ずいえんしんにょのちであり、しゃくもんが、ふへんしんにょのりであることも、おなじくしょうろんしたとおりである。
 ここでは、ひのにぎを、ぐたいてきにせつめいすることにする、まず、たいように、しょうしょうのにぎをあてはめてみる、たいようじたいは、そのひょうめんでは、たえず、せっし6000どぐらいの、ねつをはっしながら、ねんしょうしつづけている、だがねんしょうしていることそれじたいは、ふへんしんにょのりとなる。
 いまだ、じっさいには、われわれのせいかつ、せいぶつのはついくにはかんけいがない、こんどは、たいようのねつが、このちきゅうにとどき、ひかりがちきゅうをてらして、はじめてえんになり、われわれせいめい、くさきがきゅうしゅうし、せいかつし、はついくすることがかのうになるわけである、これ、ずいえんしんにょのちである。
 われわれの、せいめいにれいをとってみる、にくたいのおんどは36.5どぜんごといえる、ねんしょうのかきである、このせいめいはねんしょうしているといっても、ねんしょうそれじたいは、ふへんしんにょのりである、こんどは、36、5どぜんごのおんどをたもち、じゅんちょうにせいめいかつどうしていくことが、しょうになり、これずいえんしんにょのちになるのでる。

 さて、ひののうさとしては、しょうしょうのに、とくをそなうる、なんみょうほうれんげきょうなり。

 このもんは、「なんみょうほうれんげきょう」のおんぎくでんのなかの、「ずいえんふへん、いちねんじゃくしょう」にあたるもんである、しょうはずいえんしんにょのちであり、しょうはふへんしんにょのりである、「しょうしょうの、にとくをそなうる、なんみょうほうれんげきょう」で「ずいえんふへん、いちねんじゃくしょう」となるのである。
 ものがやける、やけることそれじたいは、ふへんしんにょのりである、そのやけることを、にんげんのせいめいと、どのようにかんけいさせるかが、ずいえんしんにょのちのはたらきになる、ねんしょうさようを、にんげんのこうふく、じんるいのへいわにつかうかいなかは、にんげんのちえ、えいちによるのである。
 とくに、げんしかくのぶんれつ、はんのうとうによる、たいりょうのねつはっせいをば、じんるいしゃかいのこうふくに、もちいるか、せんそうのほうこうにつかうか、これひとえに、にんげんのちえがけっていするものである。
 みょうほうのえいちにより、このしょうしょうのにとくが、ただしきほうこうにゆくことをいのってやまない。
 にちれんだいしょうにんのだいぶっぽうは、しょうしょうのにとくぐびのほうもんである、ゆえに、このたいほうこそ、はじめて、いっさいのかがくをへいわに、こうふくに、しどうできる、ゆいいつのほうほうなりと、さけぶものである。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、しょうじのやみをてらしはらして、ねはんのちかみょうりょうなり、しょうじについては、みっつのぎがある、ひとつには、せいめいそれじたいをいうばあい、ふたつには、しょうろうびょうしといういみでのしょうじ、みっつに、くるしみとやくすばあいとがある、いまここでろんずるしょうじとは、だいさんのくるしみというないようのしょうじである、「ねはんのちかみょうりょうなり」の、ねはんとは「さとり」とどういである。
 しからば、まっぽうのさとりとはなにか。それは「しん」のいちじにつきるのである、にちかんしょうにんのさんじゅうひでんしょうにいわく、「みょうらくいわく、『ぶっかいのこころづよきをなづけて、ぶっかいとなし、あくごうじんじゆうなるをなづけて、じごくとなす』うんぬん、すでに、ほけきょうをしんずるこころづよきをなづけて、ぶっかいとなすゆえにしんぬ、ほけきょうをそしる、こころづよきあくごうじんじゆうとごうして、じごくかいとなづくるなり」と、けっきょく、ごほんぞんをうたがわないことが、しんじんであり、まっぽうのさとりなのである、それが、いしんだいえのげんりにより、ほとけのちえとなってあらわれるのである。
 「ちかみょうりょうなり」とは、ふくざつとくなんの、じつせいかつにあって、みょうほうときょうちみようごうして、ゆうゆうとじんせいをあゆんでいける、ちえをいうのである、じじつのうえに、くどくをうけ、かつはしょてんぜんじんにまもられ、さんぜじっぽうのぶつぼさつにようごされ、ただしい、こうふくなせいかつをいとなんでいくことをいうのである。
 これこそ、「ちかみょうりょう」になっているしょうこであるといえよう、また、だいもくをとなえることによって、せいめいりょくがゆたかになる、どうりがわきまえられてくる、ずのうがせいとんされてくる。
 ごしょをはいどくするたびに、たのてつがく、しそうをみとおすことができるとうとう、これみな「ちかみょうりょう」といえるとおもう。

しょうじそくねはんとかいかくするを、しょうそくあんふしょうとはいうなり。

 「しょうじそくねはんと、かいかくする」とは、いかなるなんじけんが、とうらいしても、へんどくいやくできえることをいう、ばつをりやくに、かえゆくちからのことを、いうのである。
 これ、「しょうはすなわち、やみしょうぜず」につうずるところである、すなわち、しょうがい、みょうほうをだきしめ、どんなじたいにそうぐうしても、「しょうはすなわち、やみしょうぜず」になしゆくかくしんこそが、しんのごうしんじゃと、いえるのではなかろうか。
 このもんを、しんどくしていけば、つねにようようたる、ぜんとをみいだすことが、かのうであると。かくしんするのである。

 ぼんのうのたきぎをやいて、ぼだいのえかげんぜんするなり。

 ぼんのうとは、にんげんの、よくぼうや、なやみをいう、にぜんきょう、とくにしょうじょうきょうでは、このよのふこうのげんいんは、ぼんのうであるととき、ぼんのうを、はなれなければならないとする、したがって、ぼんのうを、だんじつくしたせかいを、さとりとした、このために、びくに、250かい、びくにに、500かいをもたせようとした。
 だが、そもそも、ぼんのうをめっしつくすなどということは、とうていできうることではない、そんなきょうがいをさとりとするならば、しんのさとりなどえられるはずがない。
 このようなおしえをしているの、げんじつをひていし、むしし、たのせかいにこうふくをもとめゆくのとおなじとなる、しかしてしゃくそんは、こうしたおしえは、しんじつにあらずと、のちに、じしんのべている。ただ、しんじつのほうに、はいらしむるしゅだんにすぎないとして、はいせきしているのである。
 これら、しょうじょうのきょうは、とうじのインドのみんしゅうの、げんせしゅぎ、きょうらくしゅぎてきせいしんを、うちやぶるために、さいてい、どうとくを、といたにすぎないのである。
 このような、ていきゅうなおしえを、こんぽんにすれば、とうぜん、じゆうなにんげんせいのはっきをそがいし、むきりょくと、ぎぜんとをうえつけるにすぎない、げんざいなお、しょうじょうぶっきょうこくといわれる、とうなんアジアのくにぐにのみんしゅうの、むきりょく、しょうきよくてき、ふうちょうが、そのよき、あらわれである。
 ぼんのうをだんずるひつようは、ぜったいにない、しんじつのぶっぽう、にんげんせいは、ぼんのうそくぼだいなのである。 たきぎをはなれて、ひがあるのではなく、たきぎがあってこそ、ひがしょうずるのである、がくせいが、りっぱなせいせきをほっすることもぼんのうである、こうふくせいかつを、よくぼうするのも、ぼんのうである、いっしょうじょうぶつをねがうことも、またりっぱなぼんのうなのである、さらに、にほんのくにをすくいたい、せかいをへいわにしたいというねんがんも、りっぱな、だいぼんのうといえよう。
 ぼだいとは、じょうじゅであり、さとりをいう、しょせん、さとりとはしんじんのことである、しんじんにやくせば、わがせいめいに、ぶっちがあらわれることであり、せいかつにやくせば、さいこうのこうふくせいかつを、さすわけである。
 これこそ、しょがんまんぞくのまんぞくにつうじ、しゅじょうしょゆうらくのゆうらくに、つうずるものである、しょがんとは、いっさいのねがいをいう、このねがいは、こうふくへのよくぼうにつきる、ひとはだれびとたりとも、こうふくをねがっている、まんぞくとは、いちじてき、せつなてきまんぞくをいみするものではない、じんせいのおうていからのまんぞくである、しょうがい、えいえんにくずれない、こうふくきょうがいのことである。
 これこそ、ぶっぽうのこんぽんであり、しんじんのきゅうきょくもくてきなのである、しょがんとは、よくぼうであり、ぼんのうである、まんぞくとは、よくぼうじゆうそくであり、ぼだいである。
 なお、しゅじょうしょゆうらくの、しゅじょうとは、せいめいとやくす。そしてゆうらくとは、こうふくきょうがいとやくすのである、きびしい、くきょうのしゃかいにあって、しょうがいつねに、しゅじょうしょゆうらくの、じゆうじざいのじんせいを、いきゆくことが、さいこうのこうふくというべきである。

0710    じょぼんななかのだいじ
 だいさん あじゃせおうのこと

  これも、じょぼんれつざの、たいしゅうのひとりである、あじゃせおうについての、おんぎくでんである。
 もんぐのいちにいわく、あじゃせおうとは、みしょうおんとなずく、またいわく、だいきょうにいわく、あじゃせとは、みしょうおんとなずく、またいわく、だいきょうにいわく、あじゃを、ふしょうとなずく、せとはおんとなずく。
 おんぎくでんにいわく、にほんこくのいっさいしゅじょうは、あじゃせおうなり、すでにしょぶつのちちをころし、ほけきょうのははをがいするなり、むりょうぎきょうにいわく、しょぶつのこくおうと、これのきょうのふじんとわごうして、ともにこのぼさつのこをうむ、ほうぼうのひと、いまはははのたいないにしょしながら、ほっけのおんてきたり、あに、みしょうおんにあらずや、そのうえ、にほんこく、とうせいはさんるいのごうてきなり、。せしゃみょうおんの、よじにこころをとどめて、これをあんずべし。
 にちれんとうのたぐい、このじゅうざいをのがれたり、ほうぼうのひとびと、ほけきょうをしんじ、しゃくそんにきしたてまつらば、なんぞ、いぜんのしぷしもの、じゅうざいめつせざらんや、 ただし、ふぼなりとも、ほけきょうふしんのものならば、さつがいすべきか、そのゆえは、ごんきょうのあいをなすはは、ほうべんしんじつをあきらめざるちちをば、さつがいすべしとみえたり、 よつて、もんぐのににいわく、「かんげは、とんあいのはは、むみょうのちち、これをがいするゆえに、ぎゃくとしょうす、ぎゃくそくじゅんなり、ひどうをぎようじて、ぶつどうにつうたつす」と、かんげとは、まっぽうとうこんは、だいもくのかんげなるべし、ことしてふぼをさつがいするはぎゃくなり、しかりといえども、ほけきょうふしんのふぼをころしては、じゅんとなるなり、ここをもって、ぎゃくぜじゅんとしゃくせり。
 いま、にちれんとうのたぐいは、あじゃせおうなり、そのゆえはなんみょうほうれんげきょうのつるぎをとって、とんあいむみょうの、ふぼをがいして、きょうしゅしゃくそんのごとく、ぶっしんをかんとくするなり、とんあいのははとは、かんじほん、さんるいのなか、だいいちのぞくしゅうなり、むみょうのちちとは、だいに、だいさんのそうなりうんぬん。0711

かいしゃく こうぎ
 これも、じょぼんれつざの、たいしゅうのひとりである、あじゃせおうについての、おんぎくでんである。
 もんぐのいちにいわく「あじゃせおうとは、みしょうおんとなづける」、またいわく「ねはんきょうにいわく『あじゃせはみしょうおんとなづける』と」またいわく「ねはんきょうに『あじゃとはふしょうといういみである。せはおんといういみである』と」
 これにたいする、にちれんだいしょうにんの、おんぎくでんは、つぎのとおりである。 にほんこくのいっさいしゅじょうはあじゃせおうである、なぜなら、すでに、ほうぼうによって、しょぶつという、ちちをころし、ほけきょうという、ははをがいしているからである。むりょうぎきょうにいわく「しょぶつのこくおうと、ほけきょうというふじんがわごうして、ともにこのぼさつのこをうむのである」と、ほうぼうのひとは、ははのたいないにいながら、ほけきょうのおんてきである、まさにみしょうおんではないか。
 そのうえにほんこくのげんざいの、ひとびとはみな、ぞくしゅう、どうもん、せんしょうぞうじょうまんの、さんるいのごうてきである。
 せしゃみょうおんの、よじにこころを、とどめて、よくよくかんがえなさい、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、このじゅうざいをおかさないですむのである。
 たとえ、いぜんはほうぼうのひとであったとしても、まっぽうのほけきょうたる、ごほんぞんをしんじ、まっぽうのごほんぶつたるにちれんだいしょうにんにきえするならば、いぜんのしょぶつのちちと、ほけきょうのははを、さつがいするというじゅうざいが、どうして、めっしないわけがあろう。
 ただし、ふぼであっても、ほけきょうふしんのものであれば、そのほうぼうのこころを、さつがいすべきである、すなわち、その、しゅうちゃくしんをたちきるべきである。
 そのりゆうは、ごんきょうにしゅうちゃくしているはは、ほうべんのおしえか、しんじつのおしえかを、わきまえないちちはころし、しんじつさいこうのほけきょうをしんずる、ふぼとしてたんじょうさせなければならないことはきょうもんにも、あきらかだからである。
 よって、もんぐのににいわく、「てんだいけの、かんねんかんぽうにより、とんないというははも、むみょうというちちも、これをがいするから、ぎゃくざいではあるが、それがそく、ぶつどうにつうたつすることに、なるがゆえに、ぎゃくそくじゅんなのである」と、ここにかんげとあるのは、もんぐでは、てんだいのかんねん、かんぽうをいうが、まっぽう、とうこんでは、じゅじそくかんじんであり、だいもくをとなえることがかんげなのである。
ことしてふぼをさつがいするのはぎゃくである、しかし、ほけきょうふしんのふぼをころすのは、じゅんとなるのである、それゆえ、もんぐのにでは「ぎゃくは、そくこれ、じゅんなり」としゃくしたのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかはあじゃせおうなのである、そのわけは、なんみょうほうれんげきょうのけんをとって、とんないのはは、およびむみょうのちちを、さつがいして、くおんがんじょの、じじゆゆうほうしんにょらいとひとしく、ぶっしんをかんとくするからである。
 ここにいう、とんないのははとは、かんじほん20ぎようのげにとかれている、さんるいのごうてきのうち、だいいちのぞくしゅうぞうじょうまんである、むみょうのちちというのは、だいにのどうもんぞうじょうまん、だいさんのせんしょうぞうじょうまんのじゃそうたちである。

 にちれんだいしょうにんは、ここで、あきらかに、ふたつのたちばから、あじゃせおうについてのべられている、だいいちに、ほうぼうのひとをさして、あじゃせおうなりと、「にほんこくの、いっさいしゅじょうは、あじゃせおうなり、すでにしょぶつのちちをころし、ほけきょうのははをがいするなり」と、おおせのごとくである。
 だいにに、しんじんのあるものが、あじゃせおうなりと、「いま、にちれんとうのたぐいは、あじゃせおうなり、そのゆえは、なんみょうほうれんげきょうのつるぎをとって、とんあい、むみょうの、ふぼをがいして、きょうしゅしゃくそんのごとく、ぶっしんをかんとくするなり」とおおせのとおりである。
 およそ、たにんをうらむ、せいかく、せいしつは、だれびとにもある、いな、げんこんほど、にほんのひとが、せかいのみんしゅうが、たがいにいがみあい、しつととぞうおに、みちたじだいはなかろう、くにとくにとの、ふしん、そうこくもそのひとつである。
 それらの、すべてのうらみあいの、ていりゅうには、たんに、おのれの、りこてきなこころをまんぞくすれば、それでよいとの、みにくいこんじょうがよこたわっているのである、しかも、じぶんでじぶんを、どうしょうもないのである、しょせん、ちからなきしそう、ていきゅうてつがく、へんぱなしゅぎしゅちょうでは、このにんげんじたいのこんぽんかいけつは、とうていできえぬことがわかるものだ。
 これらは、ますます、じんしんをめいわくし、こんらんと、どごうとを、じょちようさせるにすぎないのである、ありとあらゆる、かつとうのげんいんは、ねづよいたいりつかんじょうといえよう、しからば、そのねづよいたいりつかんじょうは、いずこよりきたのであろうか。
 げんいんには、きんいんとえんいんとがかならずある、じたいのけいかは、いかにせつめいしえても、にんげんせいめいのもんだいのかいけつなくしては、それらは、みな、きんいんをのべたものにほかならない、ありとあらゆるしゅら、かつとうのこんぽんげんいんは、にんげんせいめいにふかくねざしていることは、うちのひとならば、だれびともしるところであろう。
 にちれんだいしょうにんは、かかる、たにんをうらみ、ひとを、がいするという、にんげんがほんらいそなえた、せいめいのけいこうをば、「あじゃせおう」となづけられたのである、あじゃせおうは、インド、マカダこくのこくおうであった。
 はじめしゃくそんにてきたいし、ちちおうをころし、ははをゆうへいするという、あくぎゃくのかぎりをつくしたといわれる、しかし、のちにくいあらため、しゃくそんにきぶくし、ぶっぽうしゆごにつとめたのであった、これは、ひとりのあじゃせおうという、にんげんのこうどうであり、すがたである、しかし、このひとりのあじゃせおうは、まさに、げんこんの、いっさいのひとびとのしゆくずである。
 したがって、ひとりのあじゃせおうは、ばんにんのあじゃせおうともいえる、ゆえに、だいしょうにんは、「にほんこくの、いっさいしゅじょうは、あじゃせおうなり、すでにしょぶつのちちをころし、ほけきょうのははをがいするなり」とおおせられたのである、ここに、しょぶつのちちとは、にちれんだいしょうにんであり、ほけきょうのははとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。
 およそ、うらむという、こんじょうにしはいされ、それによって、こうどうし、ふこうをもたらすことは、そのひとのせいめいのよわさであり、もくてきかん、きょうがいのひくさによるものとおもう。
 にんげんは、かんじょうのどうぶつとも、いわれている、たしかに、にんげんであるいじょう、うらみもする、かなしみもする、またよろこびもする、これらのかんじょうを、むし しょうとするなら、にんげんにぼくせきになれというのとおなじである。
 しかし、それらのかんじょうに、しはいされ、ながされていけば、これまた、ふこうなことだ、これらのかんじょうを、つかいきっていくので、なくてはいけない、このかんじょうをば、いのままにもちいて、じんせいをたのしみきっていくことが、りそうであるといわねばならぬ。
 にちれんだいしょうにんは「りょうりしょじゃく」のりを「あきらむ」とよむべきではないかと、おおせではないか、ゆえに、にんげんにほんらいそなわった、あじゃせおうというせいめいのけいこうも、ぜんぶ、こうふくのほうへ、もちいていけるのである。
 これがだいしょうにんの「ぎゃくそく、ぜじゅん」と、いわれたゆえんでは、なかろうか、ひとくちにうらむといっても、なにをうらむかがもんだいだ、またうらむときの、そのひとのこころが、もんだいである、にちれんだいしょうにんをうらみ、ごほんぞんをうらむことは、あくのなかのごくあくとなるのである。
 そのとき、うらむひとのこころは、まのこころであり、ただしいどうりを、すなおにきけない、ゆがんだ、ぞうちょうしきった、こころなのである。
 しかし、しんにみんしゅうのことをおもい、せんそうをにくみ、へいわをねがい、かんぜんとたたかうすがたは、しんのあじゃせおうのすがたである、またほうぼうをにくみ、あいてのこうふくをかんがえ、しゃくぶくするすがたは、これまたしんのあじゃせおうである。
 ゆえににちれんだいしょうにんは、「いま、にちれんとうのたぐいは、あじゃせおうなり、そのゆえはなんみょうほうれんげきょうのけんをとって、とんあいむみょうのふぼをがいして、きょうしゅしゃくそんのごとく、ぶっしんをかんとくするなり」と、おおせられたのである。
 にちれんだいしょうにんの、だいぶっぽうによって、はじめて、にんげんかくめいができ、きょうがいをひらき、かつこふどうのもくてきかんにたち、ぶっかいがあたかも、そうしれいぶのごとくになり、いっさいのせいかく、いっさいのしゅうちゃく、いっさいのよくぼう、いっさいのぼんのうやくるしみ、いかり、しつとも、すべてへんどくいやくし、もちいていけるのである。
 きゆうかいを、おもうがままにゆうぎし、じんせいのだいごみおば、ぞんぶんあじわうことができるのである、そうじて、げんこんのいっさいの、いがみあい、しゅら、かつとうも、だいしょうにんのぶっぽうがこんていとなったときに、しぜんに、ぜんぶがこころをひとつにした、よいいみでのきょうそうにかわり、おたがいにげきれいしあい、けいはつしあうすがたとなり、しゅぎしゅちょうのちがいも、きょうつうのたちばをみいだし、じんるいはってんのげんいんとなることをしんじてやまない。

むりょうぎきょうにいわく、しょぶつのこくおうと、このきょうのふじんと、わごうしてともに、このぼさつのこをうむ。

 「しょぶつのこくおう」とはのうしょうの、ちであり、くおんがんじょのほんぶつ、にちれんだいしょうにんである、「このきょうのふじん」とは、しょしょうのきょうであり、むさほんぬの、なんみょうほうれんげきょうである、にんぽういっかの、ごほんぞんとして、きょうちわごうすることを、「わごう」というのである。
 その、きょうちみようごうの、ごほんぞんをはいすることによって、じょうぶつできるのである、「ぼさつのこ」とはじょうぶつのしゅしであり、われわれが、ごほんぞんになむすることを、いうのである、ゆえに、ごほんぞんにてきたいし、ほうぼうをかさねているということは、まさにははのたいないにいながら、すでにうらみをもつ、すがたである。
 ここをもって、だいしょうにんは「ほうぼうのひと、いまは、ははのたいないにしょしながら、ほっけのおんてきたり、あに、みしょうおんにあらずや」と、おおせられたのである。
ただし、ふぼなりとも、ほけきょうふしんのものならば、さつがいすべきか。
 この「さつがい」ということであるが、これは、いわゆる「ころす」といういみでは、けっしてない、りっしょうあんこくろんでは、きゃくが、「もしほうぼうのやからを、だんじ、もしぶつきんのいをぜっせんには、かのきょうもんのごとく、ざんざいにおこなうべきか、もししからば、さつがい、あい、くわわつて、ざいごう、いかんがせんや」(0030-08)と。
 つぎに、だいしつきょうのもんや、ちくじょうや、だいばだったのれいをあげて、しつもんしている、それにたいしてしゅじんは、「きゃくあきらかに、きょうもんをみて、なおこのげんをなす、こころのおよばざるか、りのつうぜざるか、まったく、ぶつしをいましむるにはあらず、ただひとえに、ほうぼうをにくむなり、それ、しゃかのいぜん、ぶっきょうは、そのつみをきるといえども、のうにんのいご、きょうせつはすなわちそのせをとどむ、しかれば、すなわち、しかいばんぽういっさいのししゅう、そのあくに、ほどこさず、みなこのぜんにきせば、いかなるなんか、ならびおこり、いかなるわざわいか、きそいきたらん」(0030-16)と、こたえられている。
 すなわち、だいしょうにんは、ほうぼうのじゃそうを、ざんざいするというのは、ふせをとどめることであると、おおせられているのである、つまり、にんげんをころすのでわなく、ほうぼう、こういを、ころすのであり、また、ほうぼうのこころを、たちきることを、いみするのである。
 いま、ここににちれんだいしょうにんが、「ただし、ふぼなりとも、ほけきょうふしんのものならば、さつがいすべきか」と、おおせられているのも、どうようのいみとかんがえられる。
 すなわち、ほうぼうへのしゅうちゃくしんを、たちきることを、「さつがい」とおおせになっているのである、ゆえにつぎに、「そのゆえは、ごんきょうのあいをなす、はは、ほうべんしんじつを、あきらめざる、ちちをばさつがいすべしと、みえたり」とあるのである。
 また、ふぼといっても、かならずしも、せけんのいわゆる、ふぼをさすとはかぎらない、つぎのもんぐの「かんげは、とんあいの、はは、むみょうのちち、これをがいするゆえに、ぎゃくとしょうす」の、もんによれば、ははとは、とんあいをあらわし、ちちとはむみょうを、あらわしているのである、さらにさいごの「とんあいの、ははとは、かんじほんさんるいのなか、だいいちのぞくしゅうなり、むみょうのちちとは、だいにだいさんのそうなり」との、おおせによれば、ははとは、だいいちのぞくしゅうぞうじょうまんをあらわし、ちちとは、だいにのどうもんぞうじょうまん、だいさんのせんしょうぞうじょうまんをさすことは、あきらかである。
 よく、ぶっぽうのことを、なにもしらないものが、たまたまだいしょうにんの「ふぼをころす」とうのもんをみて、ほんとに、さつがいするのかと、とんでもない、かんちがいをするが、まことにもって、わらうべきことである。
 いったい、にちれんだいしょうにんが、いつおやをころそうとなされたか、にちれんだいしょうにんごじしんこそ、。しこうのかぎりを、つくされたではないか、また、こうのだいじなることを、しょごしょにしめされているではないか。
 ほうおんしょうでは、「ぶっきょうを、ならはんもの、ふぼ、ししょう、こくおんをわするべしや」、(0293-03)ともうされ。
 しおんしょうでは、「ぶっぽうを、ならうみには、かならずしおんを、ほうずべきにそうろうか、しおんとは、しんちかんきょうにいわく、いちにはいっさいしゅじょうのおん、いっさいしゅじょうなくば、しゅじょうむへんせいがんどのがんを、おこしがたし、また、あくにんなくして、ぼさつにるなんをなさずば、いかでかくどくをば、ぞうちょうせしめそうろうべき、にには、ふぼのおん、ろくどうにしょうをうくるに、かならずふぼあり、そのなかに、あるいはせっとう、あくりちぎ、ほうぼうのいえに、うまれぬれば、われとそのとがをおかさざれども、そのごうをじょうじゅす。
 しかるに、こんじょうのふぼは、われをうみて、ほけきょうをしんずるみとなせり、ぼんてん、たいしゃく、しだいてんのう、てんりんじょうおうのいえに、うまれて、さんがい、してんを、ゆづられて、にんてん、ししゅうにきょうけいせられんよりも、おんおもきは、いまのそれがしが、ふぼなるか」(0937-13)といわれ、また、かいもくしょうでは、それいっさいしゅじょうのそんけいすべきものみっつあり、いわゆる、しゅししんこれなり」(0186-01)ともうされているとおりである。
 また、700ねんらい、にちれんだいしょうにんのもんかが、いつ、おやをないがしろにしたというのか、これらのじじつから、かんがえただけでも、そのようなかんがえが、いかにしょうしの、ぐろんなるかがわかろう。


  • [225]
  • しょうぐもんどうしょう じょう かな

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 4月 2日(日)03時57分0秒
 
  しょうぐもんどうしょう じょう
    しっぴつ ぶんえいにねん。44さい。
     こう 6げ      p474

 それしょうをうけしよりしをまぬがれざるりことわりはかしこきみかどよりいやしきたみにいたるまでひとごとにこれをしるといへどもじつにこれをだいじとしこれをなげくものせんまんにんにひとりもありがたし、むじょうのげんきするをみてはうときをばおそれしたしきをばなげくといへどもさきだつははかなくとどまるはかしこきやうにおもいてきのうはかれのわざきょうはこのこととていたずらにせけんのごよくにほだされてしろこまのかげすぎやすくひつじのあゆみちかづくことをしらずしてむなしくいしょくのごくにつながれいたずらにみょうりのあなにをちさんずのきゅうりにかえりろくどうのちまたにりんねせんことこころあらんにんだれかなげかざらんだれかかなしまざらん。
 ああ、ろうしょうふじょうはしゃばのならひえしゃじょうりはうきよのことはりなればはじめておどろくべきにあらねどもしょうかのはじめよをはやうせしにんのありさまをみるにあるいはおさなきこをふりすてあるいはおいたるおやをとどめをき、いまだそうねんのよわいにてよみじのたびにおもむくこころのなかさこそかなしかるらめいくもかなしみとどまるもかなしむ、かのそおうがしんにょをともないしじょうをいっぺんのあさのくもにのこしりゅうしがせんきゃくにあいしおもいをななよのこういんになぐさむよがごときものなにによつてうれいをやすめん、かかるやまかつのいやしきこころなればみにはおもいのなかれかしといいけんにんのふるごとさへおもいいでられてすえのだいのわすれがたみにもとてなにわのもしほくさをかきあつめみずくきのあとをかたちのごとくしるしをくなり。
 かなしいかないたましいかなわれらむしよりこのかたむみょうのさけによいてろくどう、ししょうにりんねしてあるときはしょうねつ、だいしょうねつのほのおにむせびあるときはぐれん、だいぐれんのこおりにとぢられあるときはがき、けかちのかなみにあいいてごひゃくしょうのあいだおんじきのなをもきかず、あるときはちくしょう、ざんがいのくるしみをうけてちいさきはおおきなるに、のまれみじかきはながきに、まかるこれをざんがいのくという、あるときはしゅら、とうじょうのくをうけあるときはにんげんにうまれてはちくをうくしょう、ろう、びょう、し、あいべつりく、おんぞうえく、ぐふとくく、ごおんじょうくらなりあるときはてんじょうにうまれてごすいをうく、
p475  かくのごとくさんがいのあいだをしゃりんのごとくまわりふしのなかにもおやのおやたるこのこたることをさとらずふうふのあいあえるもあいあえたることをしらず、まよへることはひつじもくにひとしくくらきことはろうがんにおなし、われをしょうたるははのゆらいをもしらずしょうをうけたるわがみもしのおわりをしらず、ああうけかたきにんかいのしょうをうけあいいかたきにょらいのせいきょうにあいいたてまつれりいちがんのかめのふぼくのあなにあへるがごとし、こんどもししょうじのきづなをきらずさんがいのろうはんをでざいらんことかなしかるべし、かなしかるべし。
 ここにあるちじんきりてしめしていわくなんじがなげくところじつにしかなりかくのごとくむじょうのことはりをおもいしりぜんしんをおこすものはりんかくよりもまれなり、このことはりをさとらずしてあくしんをおこすものはぎゅうもうよりもおおし、なんじはやくしょうじをはなれぼだいしんをおこさんとおもはばわれさいだいいちのほうをしれりこころざしあらばなんじがためにこれをといてきかしめん、そのときぐじんざよりたつてたなごころをあわせていわくわれはひきげてんをがくしふうげつにこころをよせて、いまだぶっきょうということをいさいにしらずねがわくばしょうにんわがためにこれをときたまへ、そのときしょうにんのいわくなんじみみをれいりんがみみによせめをりしゅがまなこにかつてこころをしづめてわがをきけなんじがためにこれをとかんそれぶっきょうははちまんのせいきょうおおけれどもしょしゅうのふぼたること、かいりつにはしかずさればてんじくにはせしん、めみょうとうのさっタ&G006537;、とうどにはえこう、どうせんといいしにん、これをおもんず、わがちょうにはにんのう45だい、しょうむてんのうのぎょうにがんじんわじょう、このしゅうとてんだいしゅうとりょうしゅうをわたしてとうだいじのかいだんこれをたつしかしよりこのかたとうせいにいたるまですうちょうとしふりそんきひにあらたなり、なかんずくごくらくじのりょうかんしょうにんはかみいちにんよりしもばんみんにいたるまでしょうしんのにょらいとこれをあおぎたてまつるかのぎょうぎをみるにじつにもってしかなり、いいじまのつにてむつらのせきまいをとつてはしょこくのどうをつくりしちどうにきどをかまへてにんべつのぜにをとつてはしょこうにはしをわたすじひはにょらいにひとしくとっこうはせんだつにこえたり、なんじはやくしょうじをはなれんとおもはばごかい、250かいをたもちじひをふかくしてもののいのちをころさずしてりょうかんしょうにんのごとくどうをつくりはしをわたせこれれだいいちのほうなり、なんじもたんやいなや。
 ぐじんいよいよたなごころをあわせていわくよくよくたもちたてまつらんとふおもつぶさにわがためにこれをときたまへ そもそもごかい、250かいということはわれらいまだぞんちせずいさいにこれをしめしたまへ、
p476
ちじんいわくなんじはむげにおろかなりごかい、250かいということをばおさなごもこれをしるしかれどもなんじがためにこれをとかん、ごかいとはいちにはふせっしょうかい、ににはふちゅうとうかい、さんにはふもうごかい、しにはふじゃいんかい、ごにはふおんじゅかいこれなり、250かいのことはおおきあいだこれをりゃくす、そのときにぐじん、らいはいくぎょうしていわくわれきょうよりふかくこのほうをたもちたてまつるべし。
 ここによがねんらいのしるひと、あるところにいんきょせるこじひとりありよがしゅうたんをとむらわんためにきたれるがはじめにはおうじびょうぼうとしてゆめににたることをかたりついにはゆくすえのめいめいとしてわきまえかたきことをだんずうつをさんしおもをのべてのちよにとうていわくそもそもひとのせにあるだれかごしょうをおもはざらん、きへんいかなるぶっぽうをかたもちてしゅつりをねがひまたもうじゃのこうせいをもといたまうや、よこたえていわくいちひあるしょうにんきつてわがためにごかい、250かいをさずけたまへりじつにもってしんかんにそみてたっとし、われふかくりょうかんしょうにんのごとくおよばぬみにもわろきどうをつくりふかきかわにははしをわたさんとおもへるなり、そのときこじ、しめしていわくなんじがどうしんとうときににておろかなり、いまだんずるところのほうはあさましきしょうじょうのほうなり、さればほとけはすなわちはちしゅのたとえをもうけもんじゅはまた17しゅのさべつをせんべたりあるいはほたるび、にっこうのたとえをとりあるいはすいしょう、るりのたとえありここをもってさんごくのにんしもそのはもんひとつにあらず、つぎにぎょうじゃのそんちょうのことかならずにんのうやまふによつてほうのとうときにあらず、さればほとけはえほうふえにんとさだめたまへり、われつたえきくじょうこのじりつのせいじゃのふるまいはさつをいいおさむをいうにはちじょうのごありぎょううんかいせつにはししのおもいをなすしかるにいまのりつそうのふるまいをみるにぬのけん、ざいほうをたくはへりぜに、しゃくしょうをぎょうとすきょうぎょうすでにそういせりだれかこれをしんじゅせん、つぎにどうをつくりはしをわたすことかえつてにんのなげきなり、いいじまのつにてむつらのせきまいをとるしょにんのなげきこれれおおししょこくしちどうのきど、これもたびびとのわづらいただこのことにありげんぜんのことなりなんじみざるやいなや。
 ぐじんいろをなしていわくなんじがちぶんをもつてしょうにんをぼうしたてまつりそのほうをそしることいわれなし、しつていうかぐにしていうかおそろし、おそろし。そのときこじわらつていわくああおろかなり、おろかなり、かのしゅうのびゃつけんをあらあらもうすべし、
p477
そもそもきょうにだいしょうありしゅうにごんじつをぶんかてりろくおんせしょうのむかしはけじょうのぼそとにみちびくといへどもじゅぶかいけんのむしろにはそのとくえきさらにこれれなし。
  そのときぐじんぼうぜんとしてこじにとうていわくもんしょうげんしょうじつにもってしかなりさていかなるほうをもつてかしょうじをはなれすみやかにじょうぶつせんや、こじしめしていわくわれれざいぞくのみなれどもふかくぶつどうをしゅぎょうしてようしょうよりおおくのにんしのごをききほぼきょうきょうをもひらきみるに、まつだいわれらがごとくなるむあくふぞうのためにはねんぶつおうじょうのきょうにしくはなし、さればえしんのそうずは「それおうじょうごくらくのきょうぎょうはじょくせまつだいのめあしなり」といひほうねんしょうにんはしょきょうのようもんをあつめていっこうせんしゅうのねんぶつをひろめたまふなかにもみだのほんがんはしょぶつちょうかのすうちょうなりはじめむさんあくしゅのがんよりおわりとくさんほうにんのがんにいたるまでいづれもひがんめでけれどもだいじゅうはちのがんことにわれらがためにしゅしょうなり、またじゅうあく、ごぎゃくをもきらはずいちねん、たねんをもえらばずさればかみいちにんよりしもばんみんにいたるまでこのしゅうをもてなしたまうことほかにことなりまたおうじょうのにんそれぞいくばくや。
 そのときぐじんのいわくじつにしょうをはぢてだいをひしたあさきをすててふかきにつくはぶっきょうのことわりのみにあらずせけんにもこれれほうなりわれはやくかのしゅうにうつらんとおもふいさいにかのむねをかたりたまへ、かのほとけのひがんのなかにごぎゃく、じゅうあくをもえらばずといへるごぎゃくとはなんらぞやじゅうあくとはいかん、ちじんのいわくごぎゃくとはちちをころしははをころしあらかんをころしぶつしんのちをいだしわごうそうをはすこれをごぎゃくというなり、じゅうあくとはみにさん、くちによん、こころにさんなりみにさんとはさつ、とう、いん、くちによんとはもうご、きご、あっく、りょうぜつ、こころにさんとはどん、じん、ちこれをじゅうあくというなり、ぐじんいわくわれいまげしぬこんにちよりはたりきおうじょうにたのみをくかべきなり。
  ここにぐじんまたいわくもってのほかさかんに、いみじきみっしゅうのぎょうにんありこれもよがなげきをとむらわんがためにらいりんしてはじめにはきょうげんきごのことはりをしめしついにはけんみつにしゅうのほうもんをだんじてよにとうていわくそもそもなんじはいかなるぶっぽうをかしゅぎょうしいかなるきょうろんをかどくじゅしたてまつるや、よこたえていわくわれいちにちあるこじのきょうにつてじょうどのさんぶきょうをよみたてまつりさいほうごくらくのきょうしゅにたのみをふかくくかるなり、ぎょうじゃのいわくぶっきょうににしゅありいちにはけんきょう、ににはみっきょうなりけんきょうのごくことわりはみっきょうのしょもんにもおよばずとうんぬん、なんじがしゅうしんのほうをきけばしゃかのけんきょうなりわがしょじのほうはだいにちかくおうのひほうなり、じつにさんがいのかたくをおそれじゃっこうのほうだいをがんはばすべからくけんきょうをすててみっきょうにつくべし。
p478
 ぐにんおどろいていわくわれいまだけんみつにどうということをきかずいかなるをけんきょうといひいかなるをみっきょうといわへるや、ぎょうじゃのいわくよはこれがんぐにしてあえてけんをぞんぜずしかりといえどもいまいちにのもんをあげてなんじがもうまいをかかげん、けんきょうとはしゃりほつとうのしょうによつておうじんにょらいのときたまうしょきょうなりみっきょうとはじじゅほうらくのためにほうじんだいにちにょらいのこんごうさったをしょけとしてときたまうところのだいにちきょうとうのさんぶなり、ぐにんのいわくじつにもってしかなりせんぴをひるがへしてかしこききょうにつきたてまつらんとおもうなり。
 またここにうきくさのごとくしょしゅうをまわりよもぎのごとくけんけんにてんずるひにんんのそれともしらずきたりもんのはしらによりたちてほくそえみることなし、あやしみを、なしてこをとうにはじめにはいうことなしのちにしいてといをたつるとき、かれがいわくつきそうそうとしてかぜぼうぼうたりと、なりかたちつねにことにげんごまたつうぜずそのしごくをたずねればとうせいのぜんほうこなり、よかれのにんんのありさまをみ、そのげんごをききてぶつどうのりょういんをとうとき、ひにんんのいわくすたらのきょうはつきをさすゆび、きょうもうはこれげんごにとどこほるもうことなりわがこころのほんぶんにおちつかんといでたつほうはそのなをぜんというなり、ぐにんいわくねがわくはわれきかんとおもふ、ひにんんのいわくじつにそのこころざしふかくばかべにむかいざぜんしてほんしんのつきをすましめよここをもってせいてんには28そけいみだれずとうどにはろくそのそうでんめいはくなり、なんじこをさとらずしてきょうもうにかかるふびんふびん、ここころそくぶつ、そくこころこぶつなればこのみのほかにさらにいかにかぶつあらんや。
 ぐにんこのごをきいてつくづくとしょほうをかんじしずかにぎりをあんじていわくぶっきょうばんさにしてりひあきらめがたしむべ(むべ)なるかなじょうたいはとうにこいぜんざいはみなみにもとめやくおうはひじをやきぎょうほうはかわをはぐぜんちしきじつにあいがたし、あるいはきょうないとだんじあるいはきょうげという、このことはりをおもうにいまだえんていをきわめず、ほうすいにのぞむものはしんえんのおもいをいだきにんんしをみるやからははくひょうのこころをじょうせり、ここをもってきんげんにはえほうふえにんとさだめまたそうじょうどのたとえありもしぶっぽうのしんぎをしるにんんあらばたずねてしとすべしもとめてべしあがむ、それにんかいにしょうをくうるをてんじょうのいとにたとへぶっぽうのしちょうはふぼくのあなにたぐいせり、じんをかるくしてほうをおもんずべしとおもうによつてしゅうさんによじなげきにひかれてしょじをまわる
p479
あしにまかせてひとつのがんくつにいたるにのちにはせいざんががとしてしょうふう、じょうらくがじょうをそうしまえにはへきすいしょうしょうとしてきしうつなみ、しとくはらみつをひびかすしんこくにかいふせるはなもちゅうどうじっそうのいろをあらわしこうやにほころぶるうめもかいにょさんぜんのかおりをそふごんごどうだん、しんぎょうしょめつせりいいつべししょうざんのしこうのしょごともまたしらずこぶつきょうぎょうのあとなるか、けいうんあしたにたちれいこうゆうべにげんずああこころをもってはかるべからずことばをもってのぶべからず、よこのみぎりにちんぎんとさまよひほうこうとたちもとをりしいとたたずむ、ここにこつねんとしてひとりのしょうにんいますそのぎょうぎをはいすればほっけどくじゅのこえぶかくしんかんにそみてかんそうのとほそをうかがへばげんぎのゆかにひじをくだす、ここにしょうにんよがぐほうのこころざしをくみしりてことばをやわらげよにとうていわくなんじなによつてこのしんざんのいわやにいたれるや、よこたえていわくしょうをかろくしてほうをおもくするものなり、しょうにんとうていわくそのぎょうほういかん、よこたえていわくもとよりがはぞくじんにまじりていまだしゅつりをわきまえず、たまたまぜんちしきにあてはじめにはりつ、つぎにはねんぶつ、しんごん、ならびにぜん、これらをきくといへどもいまだしんぎをわきまえず、しょうにんいわくなんじがことばをきくにじつにもってしかなりみをかろくしてほうをおもくするはせんしょうのおしえへよがぞんずるところなり、そもそもかみはひそうのうんのうえ、しもはならくのそこまでもしょうをうけてしをまぬかるるものやはある、しかればげてんのいやしきをしえにもあしたにこうがんゆうつてせじにほこるともゆうべにははっこつとなつてこうげんにくちぬといへり、うんじょうにこうつてうんのびんずら、あざやかにかいせつたもと、を、ひるがへすともそのたのしみをおもへばゆめのなかのゆめなり、やまのふもとよもぎがもとはつゐのすみかなりたまのうてな、にしきのとばりもこうせいのみちにはなにかせん、おののこまち、そとおりひめがはなのすがたもむじょうのかぜにちり、はんかい、ちょうりょうがぶげいにたっせしもごくそつのつえをかなしむ、さればこころありしこじんのいわくあはれなりとりべのやまのゆうけむりをくるひととて、とまるべきかは、すえのつゆもとのしづくやよのなかの、をくれさきたつためしなるらん、せんぼうこうめつのことわりはじめておどろくべきにあらずねがふてもねがふべきはぶつどう、もとめてももとむべきはきょうおしえなり、そもそもなんじがいうところのほうもんをきけばあるいはしょうじょう、あるいはだいじょう、くらいのこうげはしばらくこれをおくかえつてあくどうのごうたるべし。
 ここにぐにんおどろいていわくにょらいひとりだいのせいきょうはいづれもしゅじょうをりせんがななり、はじめななしょ、はちえのえんよりおわりばつだいがのぎしきまでいずれかしゃくそんのしょせつならざるたとひいちぶのしょうれつをばはんずともなんぞあくどうのいんといべきや、
p480
しょうにんいわくにょらいいちだいのせいきょうにごんありじつありおおありしょうありまたけんみつにどうあいわかちそのほんいちにあらず、すべからくそのだいとをしめしてなんじがまよいをさとらしめん、それさんがいのきょうしゅしゃくそんはじゅうきゅうさいにしてがやじょうをでてだんとくせんにこもりてなんぎょうくぎょうしさんじゅうじょうどうのきざみにさんわくとみにはしむみょうのだいやここにあけしかばすべからくほんがんにまかせていちじょうみょうほうれんげきょうをのぶべしといへどもきえんばんさにしてそのきぶつじょうにたへず、しかればよんじゅうよねんにしょひのきえんをととのへてのちはちかねんにいたつてしゅっせのほんかいたるみょうほうれんげきょうをときたまへり、しかればぶつのおんとし72さいにしてじょぶんむりょうぎきょうにときさだめていわく「われさきにどうじょうぼだいじゅのしたにたんざすることろくねんにしてあのくたらさんみゃくさんぼだいをじょうずることをえたり、ぶつげんをもっていっさいのしょほうをかんずるにのぜつすべからず、ゆえんはいかんもろもろのしゅじょうのしょうよくふどうなるをしれりしょうよくふどうなればしゅじゅにほうをとくしゅじゅにほうをとくことほうべんのちからをもってすよんじゅうよねんにはいまだしんじつをあらわさず」[われさきどうじょうぼだいじゅしたたんざろくねん。とくぼだい。ぶつげんかんいっさいしょほうふかのぜつ。ゆえんしゃいか。さとるしょしゅじょうせいよくふどう。せいよくふどうしゅじゅせっぽう。しゅじゅせっぽうほうべんちから。よんじゅうよねんひつじけんしんじつ]もん、このもんのこころはぶつのおんとしさんじゅうにしてじゃくめつどうじょうぼだいじゅのしたにざしてぶつげんをもっていっさいしゅじょうのこころねをごらんずるにしゅじょうじょうぶつのじきどうたるほけきょうをばとくべからず、これをもってくうけんをあげてみどりごをすかすがごとくさまざまのたばかりをもってよんじゅうよねんがあいだはいまだしんじつをあらわさずとねんきをさしてせいてんににちりんのしゅつであんやにまんげつのかかるがごとくときさだめさせたまへり、このもんをみてなんぞおなじしんじんをもってぶつのそらごととぜつかるるほっけいぜんのごんきょうにしゅうじゃくして、めずらしからぬさんがいのこたくにかえるべきや、さればほけきょうのいちのまきほうべんほんにいわく「しょうじきにほうべんをすてただむじょうどうをとく」もん、このもんのこころはぜんにねんのきょうきょう、なんじがかたるところのねんぶつ、しんごん、ぜん、りつをしょうじきにすてよとなり、このもんめいはくなるうえかさねていましめてだいにのまきひゆほんにいわく「ただねがつてだいじょうきょうてんをじゅじしないしよきょうのいちげをもうけざれ」もん、このもんのこころはねんきかれこれわずらはししょせんほけきょうよりじよのきょうをばいちげをもうくべからずとなり、しかるにはちしゅうのいぎらんぎくにどうぞくかたちをことにすれどもいちどうにほけきょうをばあがむるよしをいう、さればこれらのもんをばいかがわきまへたるしょうじきにすてよといつてよきょうのいちげをもいましむるにあるいはねんぶつ、あるいはしんごん、あるいはぜん、あるいはりつ、これれよきょうにあらずや。
  いまこのみょうほうれんげきょうとはしょぶつしゅっせのほんい、しゅじょうじょうぶつのじきどうなり、
p481
さればしゃくそんはふぞくをのべたほうはしょうみょうをとげしょぶつはぜっそうをぼんてんにつけてみなぜしんじつとのべたまへり、このきょうはいちじもしょぶつのほんかい、いってんもたしょうのたすけなりいちごんいちごもこもうあるべからずこのきょうのいましめをもちいざるものはしょぶつのぜっをきりけんせいをあざむくひとにあらずやそのつみじつにおそるべし、さればにのまきにいわく「もしひとしんぜずしてこのきょうをきぼうせばすなわちいっさいせけんのぶつしゅをだんず」もん、このもんのこころはにゃくにんしきょうのいちげいっくをもそむかんひとはかこ、げんざい、みらい、さんぜじっぽうのぶつをころさんつみとさだむむ、きょうきょうのかがみをもつてとうせいにあてみるにほけきょうをそむかぬひとはじつにもってありがたし、ことのこころをあんずるにふしんのひと、なおむげんをまぬがれずいわんやねんぶつのそし、ほうねんしょうにんはほけきょうをもつてねんぶつにたいしてなげうてよとうんぬん、ごせんななせんのきょうきょうにいずれのところにかほけきょうをなげうてよというもんありや、さんまいほつとくのぎょうじゃ、しょうしんのみだぶつとあがむるぜんどうわじょう、ごしゅのぞうぎょうをたててほけきょうをばせんちゅうむいちとてせんひとたもつともひとりもぶつになるべからずとたてたり、きょうもんにはにゃくうもんぽうしゃむいつふじょうぶつとだんじてこのきょうをきけばじっかいのえしょう、みなぶつどうをじょうずとみえたり、ここをもってごぎゃくのちょうだつはてんのうにょらいのきべつにあずかりひきごしょうのりゅうにょもなんぽうにとんかくじょうどうをとなふいわんやまたきっこう のろくそくをたててきをもらすことなし、ぜんどうのげんとほけきょうのもんとじつにもっててんちうんでいせりいずれにつくべきやなかんずくそのどうりをおもうにしょぶつしゅうきょうのおんてき、せいそうしゅうじんのしゅうてきなり、きょうもんのごとくならばいかでかむげんをまぬがるべきや。
 ここにぐにんいろをなしていわくなんじいやしききみをもってほしいままにゆうげんをはくさとつていうかまよつていうかりひわきまえがたし、かたじけなくもぜんどうわじょうはみだぜんぜいのおうけ、あるいはせいしぼさつのけしんといへり、ほうねんしょうにんもまたねんなりぜんどうのこうしんといへり、じょうこのせんだつたるうえ、ぎょうとくしゅうはっしげりょう、そこをきわめたりなんぞあくどうにおちたまうというや、しょうにんいわくなんじがげんねんなりあずかもあおいでしんをとることしくのごとしただしぶっぽうはあながちにひとのきせんにはよるべからずただきょうもんをさきとすべしみのいやしきをもつてそのほうをかろんずることなかれ、うにんぎょうしょうおし、うにんぎょうしおしょうのじゅうにじをとなへしびまたいこくのきつねはたいしゃくのしとあがめられしょぎょうむじょうとうの16じをだんぜしきじんはせっせんどうじにとうとまるぜれかならずきつねときじんとのとうときにあらずただほうをおもんずるゆえなり、さればわれとうがじふ、きょうしゅしゃくそん、そうりんさいごのおゆいごん、ねはんきょうのだいろくにはえほうふえにんとてふげん、もんじゅとうのとうかくいかんのだいさった ほうもんをときふたまともきょうもんをてにとらずばもちゐざれとなり、
p482
てんだいたいしのいわく「しゅたらとがっするものはろくしてこれをもちいよもんなくぎなきはしんじゅすべからず」もん、しゃくのこころはきょうもんにあきらかならんをもちいよもんしょうなからんをばすてよとなり、でんぎょうたいしのいわく「ぶっせつにえひょうしてくでんをしんずることなかれ」もん、まえのしゃくとどういなり、りゅうじゅぼさつのいわく「しゅたらびゃくろんによつてしゅたらくろろんにらざよれ」ともん、こころはきょうのなかにもほっけいぜんのごんきょうをすててこのきょうにつけよとなり、きょうもんにもろんぶんにもほっけにたいしてしょよのきょうてんをすてよということふんみょうなり、しかるにかいげんのろくにあぐるところのごせんななせんのきょうかんにほけきょうをすてよないしなげうよときらふこともまたぞうぎょうにせっしてこれをすてよというきょうもんもまったくなしさればたしかのきょうもんをかんがへだしてぜんどう、ほうねんのむげんのくをすくはるべし。
  こんぜのねんぶつのぎょうじゃ、ぞくなんぞくにょ、きょうもんにいするのみならずまたしのおしえにもそむけけり、ごしゅのぞうぎょうとてねんぶつもうさんひとのすつべきにっき、ぜんどうのしゃくこれれあり、そのぞうぎょうとはせんちゃくにいわく「だいいちにどくじゅぞうぎょうとはうえのかんきょうとうのおうじょうじょうどのきょうをのぞいていげだいしょうじょうけんみつのしょきょうにおいてじゅじどくじゅするをことごとくどくじゅぞうぎょうとなづくないしだいさんにらいはいぞうぎょうとはうえのみだをらいはいするをのぞいていげいっさいしょよのぶつぼさつとうおよびもろもろのぜてんにおいてらいはいくぎょうするをことごとくらいはいぞうぎょうとなづく、だいよんにしょうみょうぞうぎょうとはうえのみだのみょうごうをしょうするをのぞいていげじよのいっさいぶつぼさつとうおよびもろもろのぜてんとうのみょうごうをしょうするをことごとくしょうみょうぞうぎょうとなづく、だいごにさんたんくようぞうぎょうとはうえのみだぶつをのぞいていげいっさいしょよのぶつぼさつとうおよびもろもろのぜてんとうにおいてさんたんしくようするをことごとくさんたんくようぞうぎょうとなづく」もん。
 このしゃくのこころはだいいちのどくじゅぞうぎょうとはねんぶつもうさんどうぞくなんによよむべききょうありよむまじききょうありとさだめたり、よむまじききょうはほけきょう、にんのうきょう、やくしきょう、だいしつきょう、はんにゃしんぎょう、てんにょじょうぶつきょう、ほくとじゅみょうきょうことさらうちまかせてしょにんよまるるはちまきのなかのかんのんきょう、これとうのしょきょうをいっくいちげもよむならば、たとひねんぶつをこころざすぎょうじゃなりともぞうぎょうにせっせられておうじょうすべからずとうんぬん、よぐげんをもってぜをみるにひたとねんぶつもうすひとなれどもこのきょうきょうをよむひとはおおくしていてきたいしてしちぎゃくざいとなりぬ。
 まただいさんのらいはいぞうぎょうとはねんぶつのぎょうじゃはみださんぞんよりほかはうえにあぐるところのしょぶつぼさつ、しょてんぜんじんをらいするをばらいはいぞうぎょうとなづけまたこれをきんず、
p483
るをにほんはしんこくとしていざなぎ いざなみのみこと このくにをつくりてんしょうだいじん あとたれいまして みもすそ かわのながれひさしくしていまにたえずあに このくににしょうをうけてこのじゃぎをもちゆべきや、また ふてんのしたにうまれてさんこうのおんをこうむりながらまことににちげつ、せいしゅくをはすること もっともおそれあり。
 また だいよんのしょうみょうぞうぎょうとはねんぶつもうさんひとはとなうべきぶつぼさつのなあり となえまじき ぶつぼさつのなあり、となうべき ぶつぼさつのなとは みださんぞんのみょうごう、となうまじき ぶつぼさつのみょうごうとは しゃか、やくし、だいにちとうのしょぶつ、じぞう、ふげん、もんじゅ、にちげつせい、ふたところとみしまとくまのとはぐろとてんしょうだいじんとはちまんだいぼさつとこれとうのなをいっぺんもとなえんひとは ねんぶつをじゅうまんへん、ひゃくまんべんへんもうしたりとも このぶつぼさつ、にちげつじんとうのなをとなうる とがによつてむげんには、おつとも おうじょうすべからずとうんぬん、われ せけんをみるにねんぶつをもうすひとも これとうのしょぶつぼさつ、しょてんぜんじんのなをとなうるゆえに これれまた しのおしえにそむけり。
 だいごの さんたん くようぞうぎょうとはねんぶつもうさんひとは くようすべきほとけは みださんぞんをくようせんほかは うえにあぐるところの ぶつぼさつ、しょてんぜんじんに こうげのすこしをも くようせんひとは ねんぶつのこうはとうとけれども このとがによつて ぞうぎょうにせっすとこれをきらふ、しかるに よをみるに しゃだんにもうでては へいはくをささげ どうしゃにのぞみてはらいはいをいたす これれまた しのおしえにそむけり、なんじ もしふしんならば せんちゃくをみよ そのもんめいはくなり、また ぜんどうわじょうのかんねんほうもんきょうにいわく「しゅにく ごしん ちかつてほつがんしててにとらざれくちに かまざれ もし このごにいせば すなわち しんくちともに あくそうをつけんとがんぜよ」もん、このもんのこころは ねんぶつもうさんなんにょ、あま ほっしはさけをのまざれ ぎょちょうをくわわざれ そのほか にら、ひるとうの いつつのからく、くさきものをくわわざれ これをもたざるねんぶつしゃは こんじょうにはあくそう しんにいでごしょうには むげんにだすべしとうんぬん、しかるに ねんぶつもうす なんにょ、あまほっ し、このかいをかへりみず ほしいままにさけをのみ ぎょちょうをくわふこと、けんをのむたとえにあらずや。
 ここにぐにんのいわく まことにこれれ このほうもんをきくに ねんぶつのほうもん じつにおうじょうすといえども その ぎょうぎしゅぎょうしがたし いわんやかのたのむところのきょうろんは みなもってごんせつなり おうじょうすべからざるのじょうふんみょうなり、
p484
ただ しんごんをはすることはそのいわれなし  それ だいにちきょうとはだいにちかくおうの ひほうなりだいにちにょらいよりけいもみだれず ぜんむい、ふくう これをつたえこうぼうだいしはにほんにりょうかいのまんだらをひろめ、そんこう37そん、ひおうなるものなりしかるにけんきょうのきょくりは なお みっきょうのしょもんにもおよばず ここをもってのち とういんはほっけ なお およばずいわんや じよのきょうをやとしゃくしたまへり このこと いかんがこころうべきや。
 しょうにん しめしていわく よもはじめはだいにちに たのみをかけて みっしゅうにこころざしをよす しかれども かのしゅうのさいていをみるに そのりゅうぎもまた ほうぼうなりなんじがいうところの こうやのだいしは さがてんのうのぎょうのにんしなり、しかるに こうていよりぶっぽうのせんじんを はんしゃくすべきよしの せんじをたまいて じゅうじゅうこころろんじゅうかんこれをつくる、このしょ こうはくなるあいだ ようをとつて さんかんにこれをつずめ そのなを ひぞうほうやくとごうすはじめ いしょう ていようしんより おわり ひみつしょうごんこころにいたるまで じゅうにふんべつし、だいはちほっけ、だいきゅうけごん、だいじゅうしんごんとたてて ほっけはけごんにもおとれば だいにちきょうにはさんじゅうのれつと はんじて かくのごときのじょうじょうは じじょうに ほとけのなをえれども のちにのぞめばけろんとなるとかいて ほけきょうをきょうげんきごといい しゃくそんをばむみょうにまよへる ほとけとくだせり、よって でんぽういん こんりゅうせし こうぼうのでし しょうかくぼうはほけきょうは だいにちきょうのはきものとりにおよばず、しゃかほとけは だいにちにょらいの うしかいにもたらずとしょけり、なんじ こころをしずめてきけ いちだいごせんななせんのきょうきょう、げてんさんぜんよかんにも ほけきょうはけろん さんじゅうのれつ、けごんきょうにもおとり しゃくそんはむみょうにまよへる ほとけにて だいにちにょらいの うしかいにもたらずという たしかなるもんありや、たとひさるもん ありというともよくよく しあんあるべきか。
 きょうきょうは にしてんよりとうどにおよぼすとき、やくしゃのいぎょうにしたがつて きょうろんのもん  ふじょうなり、さて のちしんのらじゅうさんぞうは われ かんどのぶっぽうをみるに おおくぼんぽんに いせりわれがやくするところの きょう もしあやまりなくば われ ししてのち、みは ふじょうなればやくるといえども したばかりはやけざらんと つねにせっぽうしたまいしに やきたてまつるとき、おんみは みな ほねとなるといへども おんしたばかりはしょうれんげのうえに こうみょうをはなつて にちりんを えいだつしたまいき ありがたきことなり、さてこそ ことさら、かの さんぞうところやくのほけきょうは とうどにやすやすとひろまらせたまいしか、しかれば えんりゃくじのこんぽんだいし、しょそうをせめたまいしには ほっけをやくするさんぞうはしたのやけざるしるしあり なんじとうが えきょうはみな れりあやまとはしたまふはこれなり、
p485
ねはんきょうにも わがぶっぽうはたこくへうつらんとき あやまりおおかるべしとときへばたま きょうもんにたとひ ほけきょうはいたづらごと、しゃくそんをば むみょうにまよへるほとけなりとありとも ごんきょう、じっきょう、だいじょう、しょうじょう、せつときのぜんご、やくしゃよくよくたずぬべし、いわゆる ろうし、こうしはくしいちごん、さんしいちごん、しゅうこうたんは しょくするにさんどはき もくするにさんどにぎる げてんのあさきなお かくのごとし いわんやないてんの じんぎをならはんひとをや、そのうえこのぎ、きょうろんにあとかたもなし ひとをそしりほうをぼうじては あくどうにおつべしとはこうぼうだいしのしゃくなり かならずじごくにおんこと うたがいなきものなり。
 ここに ぐにん、ぼうぜんとほれ こつぜんとなげひて ややひさうしていわく このだいしは ないげのめいきょう、しゅうじんのどうしたり とくぎょう よにすぐれめいよ あまねくきこえてあるいは とうどよりさんこをはちまんよりのかいじょうになぐるに そく にほんにいたりあるいは しんきょうのむねをつづるに そせいのやから、みちにたたずむ、しかればこのひとただひとにあらず だいしょうごんげのすいじゃくなりあおいで しんをとらんにはしかじ、しょうにんいわく よもはじめはしかなり ただし ぶつどうにはいつて りひをかんがへみるに ぶっぽうのじゃせいはかならず とくつうじざいにはよらず かをもってほとけは えほうふえにんとさだめたまへり まえにしめすがごとし、かの あかだせんは ごうがをかたみみに ただへてじゅうにねん、きとせんは いちにちのなかにたい かいをすひほす ちょうかいはきりをはき らんぱはくもをはく しかれどもいまだ ぶっぽうのぜひをしらず いんがのどうりをもわきまへず、いちょうのほうくもほっしは こうきょうごんしゅうのみぎりに しゅゆにてんかをふらせしかども みょうらくだいしはかんのうかくのごときも なお りにかなはずとて いまだぶっぽうをばしらずとはしたまう、それ このほけきょうともうすは いこんとうの さんせつをいやつて いぜんのきょうをば みけんしんじつとうちやぶり かたをならぶるきょうをば こんせつのもんをもってせめ いごのきょうをば とうせつのもんをもってやぶる じつにさんせつだいいちのきょうなり、だいよんのまきにいわく「やくおう こん なんじにつぐ われしょせつのきょうてん しかもこのきょうのなかに おいて ほっけさいだいいちなり」もん、このもんのこころは りょうぜんえじょうに やくおうぼさつともうせしぼさつに ほとけ つげていわく はじめ けごんよりおわり ねはんきょうにいたるまで むりょうむへんのきょう、ごうがしゃとうのきょう おおしそのなかには こんのほけきょう さいだいいちととかれたり、しかるを こうぼうだいしは いちのじをさんとよまれたり、どうかんにいわく「われ ぶつどうのために むりょうのどにおいて はじめよりこんにいたるまで ひろくしょきょうをとく しかも そのなかにおいて このきょうだいいちなり」と、このもんのこころは また しゃくそん むりょうのこくどにして あるいはみょうじをかえ あるいはねんきをふどうになし しゅじゅのかたをあらわして とくしょのしょきょうのなかには このほけきょうを だいいちとさだめられたり、
p486
どうき だいごかんには さいざいごじょうとのべて だいにちきょう、こんごうちょうきょうとうのむりょうのきょうの ちょうに この きょうはあるべしと とかれたるを こうぼうだいしは さいざいごげとおもへり、しゃくそんと こうぼうと ほけきょうと ほうやくとは じつにもってそういせり しゃくそんをすて たてまつて こうぼうにつくべきか、また こうぼうをすてて しゃくそんにつ たてまつるべきか、また きょうもんにそむいて にんしのことばに したがふべきか にんしのことばを すててきんげんを あおぐべきか ようしゃ こころにあるべし。
  また だいななのかん やくおうほんにじゅうゆを あげてきょうをたんずるに だいいちはみずのたとえなり こうがを しょきょうにたとえへたい かいをほっけにたとえへたり、しかるを だいにちきょうはすぐれたり ほっけはおとれりというにんは そく たいかいはしょうがよりも すくなしといわんにんなり、しかるに いまのよのにんは かいのしょがに まさることをばしるといへども ほけきょうのだいいちなることをば わきまへず、だいには やまのたとえなり しゅうやまをしょきょうにたとえへ しゅみせんをほっけにたとえへたり しゅみせんは じょうげじゅうろくまんはっせんゆじゅんのやまなり いずれのやまかかたをならぶべき ほけきょうをだいにちきょうにおとるというにんは ふじさんはしゅみせんより だいなりといわんにんなり、だいさんは ほしづきのたとえなり しょきょうをほしにたとえへ ほけきょうをづきにたとえふ づきとほしとは いずれまさりたりとおもへるや、ないし つぎしもには このきょうも またまた かくのごとし いっさいのにょらいのしょせつ もしはぼさつのしょせつ もしはしょうもんのしょせつ もろもろのきょうほうのなかに もっともこれ だいいちとて このほけきょうは ただ しゃくそんいちだいのだいいちと ときたまうのみにあらず だいにち、およびやくし、あみだとうのしょぶつ、ふげん もんじゅとうのぼさつの いっさいのしょせつ、しょきょうのなかにこの ほけきょうだいいちとせつけり、されば もし このきょうにまさりたりというきょうあらば げどうてんまのせつとしるべきなり。
  そのうえ、だいにちにょらいというは くおんじつじょうのきょうしゅしゃくそん、よんじゅうにねん、わこうどうじんしてそのきにおうずるとき、さんみそくいちの にょらい しばらく びるしゃなとしめせり、かのゆえに かいけんじっそうのまえには しゃかのおうけとみえたり、ここを もって ふげんきょうにはしゃかむにぶつを びるしゃな へんいっさいしょと なけ そのほとけのじゅうしょを じょうじゃっこうとなくとせつけり、いま ほけきょうはじっかいごぐ、いちねんさんぜん、さんたいそくぜ、しどふにと だんず そのうえに いちだいせいきょうのこつずいたる にじょうさほとけ、くおんじつじょうは いまきょうにかぎれり、なんじ かたるところのだいにちきょう、こんごうちょうきょうとうの さんぶのひきょうに これとうのだいじありや ぜんむい、ふくうとう、これとうのだいじのほうもんを ぬすみとつて おのれがきょうのげんもくとせり ほんきょうほんろんにはあとかたもなき おうわくなり いそぎいそぎかをあらたむべし。
 そもそも だいにちきょうとは しきょうがんぞうして じんぎょうじゅかいとうをあかせり とうどのにんしは てんだいところりゅうのだいさんとき、かたとうぶのきょうなりとさだめたる ごんきょうなりあさまし、あさまし、
p487
なんじ じつに どうしんあらば いそいで せんぴをくゆべし それ おもんみればこの みょうほうれんげきょうは いちだいのかんもんを いちねんにすべ じっかいのえしょうを さんぜんにつづめたり。



  • [223]
  • りっしょう、あんこくろん・・・いけだせんせいのこうぎ4/4

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 2月 4日(土)17時39分40秒
 
げんぶん、P0033。
 きゃくの、いわく、こんじょう、ごしょう、だれか、つつしまざらん、だれか、したがわざらん、このきょうもんを、ひらいて、つぶさに、ぶつごを、うけたまわるに、ひぼうのとが、いたっておもく、きほうのつみ、まことにふかしし、われ、いちぶつを、しんじて、しょぶつを、なげうち、さんぶきょうを、あおいで、しょきょうを、さしおきしは、これ、しきょくの、おもいに、あらず、すなわち、せんだつの、ことばに、したがいしなり。じっぽうの、、しょにんも、またまた、かくのごとくなるべし、いまのよには、しょうしんを、ろうし、らいしょうには、あびに、だせんこと、もん、あきらかに り、つまびらかなり、うたがうべからず。いよいよ、きこうの、じかいを、あおぎ、ますます、ぐきゃくの、ちしんを、ひらけり、すみやかに、たいじをめぐらして、はやく、たいへいをいたし、まず、せいぜんを、やすんじて、さらに、ぼつごを、たすけん、ただ、わがしんずるのみに、あらず、また、たのあやまりをも、いましめんのみ。
・・・・・・・

げんだいぶん
たびびとはいう、こんぜのことも、らいせのことも、だれがみをつつしまないことがあろうか、だれが、こころおだやかで、いられようか。
 これらの、きょうもんに、、めをとおして、くわしく、ほとけのことばを、うけたまわってみると、ひぼうのつみは、きわめて、おもく、ほうを、そしるつみは、じつに、ふかい。
 わたしは、あみだぶつだけを、しんじて、しょぶつをなげうち、じょうどの、さんぶきょうを、あおいで、しょきょうを、さしおいたのは、せんだつの、ことばに、したがっただけである。
 ぜんこくの、ひとびとも、また、どうようである。
 こんぜには、ぶっしょうの、こころを、しょうもうさせ、らいせには、あびじごくに、おちてしまうことは、きょうもんに、あきらかであり、ほうりは、いきとどいている。
うたがうことはできない。
 あなたの、じひの、きょうかいを、いよいよあおぎ、わたしの、おろかなこころを、ますますひらく、ことにしよう。
すみやかに、ほうぼうを、めっする、てだてを、ほどこし、さっきゅうに、たいへいを、じつげんし、まず、せいぜんを、あんのんなものとして、さらには、しごのために、ぜんこんを、ますようにしよう。
ただ、わたしだけが、しんじるのではなく、それに、くわえて、たのひとびとの、あやまりをも、せいししていこう――。

こうぎ・・・*1
 「せかいへいわの、いっしょ」「たいわの、いっしょ」。

 「りっしょう、あんこくろん」は、だんじて、みんしゅうを、すくい、みんしゅうの、あんのんを、じつげんしていくための、「せかい、へいわのいっしょ」であります。
 また、あいつぐ、さいなんを、なげく、きゃくと、しゅじんの、もんどうで、かいけつさく、をたんきゅうし、わかちあう、「たいわの、いっしょ」ともいえるでしょう。
 このたいわの、かていにおいて、しゅじんと、きゃくの、あやまった、ぶっぽう、りかいを、ただしたことによって、きゃくが、かおいろを、かえて、おこり、せきを、たってかえろうとするばめんも、あります。
 しかし、「しゅじん、えみとめて、いわく」と、しゅじんは、えがおを、たたえながら、きゃくのあしを、とめて、ほうようし、じゅん々じゅんとさとします。
 やがてきゃくは、えりをただして、しゅじんへの、けいいをひょうめいし、しゅじんの、しゅちょうをりかいしたことを、しめしていくのです。
 きゃくの、げきてきな、へんかに、たいして、だいしょうにんは、「よろこばしきかな、なんじ、らんしつの、ともに、まじわりて、まほの、しょうとなる」とおおせです。
 しゅじんの、とくにかんかされて、ぶっぽうに、たいして、まがっていた、きゃくのこころが、まっすぐになったと、よろこばれています。
 そして、「りっしょう、、あんこくろん」のさいごのだんで、きゃくは、しゅじんのはなしを、こころから、なっとくして、おなじ、じっせんに、はげんでいくことを、ちかうのです。
 このだんで、きゃくは、まず、しょうほうを、ひぼうするつみは、おもく、はかいする、つみは、ふかいことが、わかったとのべます。
 また、ねんぶつを、すうはいしてきたのは、じぶんの、かんがえではなく、せんだつの、ことば、すなわち、ほうねんらのことばに、したがったためであるとします。
 ここには、じゅうだいな、もんだいが、してきできます。
 げんだいでも、まったく、おなじですが、ひとは、ものごとを、はんだんするさいに、ときとして、みずからのまなこでも、しんねんでもなく、しゅういの、ひょうかや、ひょうばんに、さゆうされてしまいがちです。
 ましてや、けんいや、けんりょくのある、たちばのひとの、いけんであれば、なおさら、うのみにしてしまうことも、あるでしょう。
 だからこそ、しどうてき、たちばにあるにんげんの、せきにん、いな、つみは、あまりにもおもいのです。
 だいしょうにんが、かしゃくされているのも、このてんです。
 ひとびとを、まどわし、ふこうに、おとしいれる、しそうそのものを、さらには、それをふいちょうする、けんいの、こうそうたちを、あくのこんげんとして、きびしく、いましめられているのです。
 とともに、みんしゅうも、けんめいに、あくをみぬかねばなりません。だまされては、ふこうです――。

こうぎ・・・*2、
ひとり、ひとりと、ちかいの、きょうゆうを。

 おんふみに、もどれば、きゃくは、しゅじんの、じひにあふれた、おしえをきくことによって、じぶんの、おろかな、こころを、きくことができたので、すみやかに、ほうぼうを、たいじして、いまの、しゃかいを、あんていさせ、こんぜとらいせの、あんのんを、いのっていこうと、けついします。
 はんたいしていたものを、みかたにかえていく・・・まさに、たいわであり、しゃくぶくであり、ざだんの、もはんそのものであります。
 そのようていは、きゃくが、しめす、いかりや、ぎねんにたいして、しゅじんが、ほうようするように、ひとつ、ひとつ、ていねいに、ときほぐしながら、たいわを、ふかめるという、いわば“たましいとたましいの、しょくはつ”にこそ、あったといえるでしょう。
 さいごに、きゃくが、こう、げんめいして、「あんこくろん」は、しめくくられます。
 「ただ、わが、しんずるのみにあらず、また、たの、あやまりをも、いましめんのみ」
 これは、きゃくが、しゅじんとおなじく、「りっしょうあんこく」の、ちかいを、きょうゆうしたという、せんげんといえましょう。
 「りっしょう、あんこくろん」が、「しゅじんの、ことば」ではなく、「きゃくの、ちかい」で、むすばれていることに、おおきな、いみがあると、おもわれてなりません。
 それは、とりもなおさず、「りっしょうあんこく」に、たちあがるけいしょうしゃが、りくぞくと、つづいていかなくてはならないとの、こうせんるふの、げんりを、しめしているのではないでしょうか――。

こうぎ・・・*3
にんげんと、にんげんを、むすぶ、たいわを。

 きゃくの、すが々すがしい、けついで、むすばれた、ほんしょ。
そこから、まなぶべきてんは、ひとつの、たいわのおわりには、あらたなる、たいわへの、しゅっぱつであるということに、ほかなりません。
 ぶっぽうは、「たいわの、ちから」をかくしんしています。
 そのときには、めにみえる、けっかが、なくとも、かならず、あいてのぶっしょうは、はつどうしています。
 「ぶっしゅは、えんに、したがって、おこる、このゆえに、いちじょうを、とくなるべし」1467-15です。
 ほとけの、せいめいを、ひらき、あらわすには、みょうほうという、さいこうの、えんをもって、はたらきかけるしかありません。
 みょうほうを、たもった、わたしたちが、しんじつを、かたったぶんだけ、ぶつえんが、かくだいされるのです。
 いよいよ、「たいわのはる」です。
  ひとりひとりが、じしんの、にんげんかくめいに、かかんに、ちょうせんし、しゃかいの、へんかくのため、みんしゅうの、あんのんのため、あのともに、このともに、たいわにつづく、たいわの、ちょうりゅうを、まきおこして、いこうではありませんか。
 「りっしょう、あんこく」とは、そく「せかいへいわ」に、ほかなりません。
 わたしたちは、どこまでも、「たいわ」という、へいわてきしゅだんで、ぜんのれんたいを、ひろげていくのです。
 この、わたしたちの、たいわは、にんげんのちからを、ふっこうする、たたかいです。
 わたしたちの、たいわが、しゃかいを、かえ、せかいを、むすび、みらいを、つくります。
 わたしたちの、たいわには、きぼうがあります。
 せいめいの、かのうせいを、ひらく、そせいのちからがあります。
 しょうりと、ゆうきと、かくしんがあります。
 「にんげんを、しんずるちから」によって、みんしゅうのじだいを、きずくのが、わたしたちの、りっしょうあんこくの、たいわなのです――。

  • [222]
  • りっしょう、あんこくろん・・・いけだせんせいのこうぎ3/4

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 2月 4日(土)17時38分10秒
 
りっしょう、あんこくろん、げんぶん。
  ひろく、しゅうきょうを、ひらきたるに、もっぱら、ほうぼうを、おもんず、かなしいかな、みな、しょうほうの、もんを、いでて、ふかく、じゃほうの、ごくにはいる、おろかなるかな、おのおの、あくきょうのつなに、かかって、とこしなえに、ぼうきょうの、あみに、まつわる、この、もうむのまよい、かのじょうえんの、そこにしずむ、あに、うれえざらんや、あに、くるしまざらんや、なんじ、はやく、しんこうの、すんしんを、あらためて、すみやかに、じつじょうの、いちぜんにきせよ、しかれば、すなわち、さんがいは、みな、ぶっこくなり、くに、それ、おとろえんや、じっぽうは、ことごとく、ほうどなり、ほうど、なんぞ、こわれんや、くにに、すいびなく、どに、はえなくんば、みは、これ、あんぜん、こころは、これ、ぜんじょうならん、このことば、このことば、しんずべく、あがむむべし。

・・・・・げんだいぶん
 おおくの、きょうに、ひろく、めをとおすと、なによりも、ほうぼうを、じゅうだいにしている。
 なんと、かなしいことだろうか、みな、しょうほうの、もんをでて、じゃほうの、ろうごくに、ふかく、はいることは、なんと、おろかな、ことだろうか、それぞれが、わるい、おしえの、つなにかかって、えいきゅうに、ほうぼうの、おしえの、あみに、まとわりつかれることは、もうろうと、たちこめる、きりのような、まよいに、よって、はげしく、もえさかる、あの、ほのおの、じごくのそこに、しずむ、どうして、うれえずにいられようか、どうして、くるしまずに、いられるだろうか。
 あなたは、さっそく、ささやかな、しんこうの、こころを、あらためて、すみやかに、ほんとうに、じょうぶつへ、いたらせる、おしえである、ゆいいつの、よいほうに、きえしなさい。
 そうすれば、さんがいは、みな、ぶっこくである。
ぶっこくが、どうして、おとろえることが、あろうか。
 じっぽうは、ことごとく、ほうどである。ほうどが、どうして、こわれることがあろうか。くにが、おとろえることがなく、こくどが、こわれることがないなら、みは、あんぜんであり、こころが、どうようすることがないだろう。このことばを、しんじ、うやまわなければならない――。

こうぎ・・・*1、わが「こころの、へんかく」が、せかいを、かえる。
 だいしょうにんの、「りっしょうあんこく」の、たたかいとは、「ばんにん、じょうぶつ」という、「こんぽん、ぜん」を、ひていする、「こんぽん、あく」との、とうそうでも、ありました。
 このだんでは、ひとびとを、まよわせる、じゃほうに、とらわれ、ほうぼうに、とりこまれないよう、いま、いちど、きびしく、いましめられております。
 だいしょうにんは、「じゃほうの、ごく」、「あくきょうの、つな」、「ほうぼうの、あみ」などの、ひょうげんをつかわれて、「ごく」、「つな」、「あみ」というべき、ほうぼうからの、だっきゃくの、むずかしさを、きょうちょうされています。
 「このもうむの、まよい」とは、げんせにおける、ぶっぽうの、せいじゃの、まよいを、こくたちこめる、きりに、たとえたものです。
「かの、じょうえんの、そこ」とは、むげんじごくに、おちたときの、くるしみを、しょうねつの、かえんとして、しめしたものです。
  だいしょうにんは、ひとびとを、この、ふこうの、くさりから、ときはなって、しゃかいの、あんのんを、なしとげて、いくための、ほうとを、ちからづよく、おしえられています。
 それこそが、「しんこうの、すんしん」の、へんかくです。こんていからの、「いちねん」のかくめいともいえます。

こうぎ・・・*2
 なにを、しんこうするのか・・・。

 それは、「なにを、こんぽんとして、たいせつに、そんちょうするか」、「どのようなかちかんを、もつか」ということです。
 「なんのため」という、こんぽんもくてきを、ただしく、かくりつすることです。
 つまり、こんていにあるものが、たにんを、はいじょし、ぎせいにしてでも、じぶんの、こうふくを、ついきゅうする、エゴイズムなのか、それとも、たにんの、ふこうのうえには、じぶんの、こうふくを、きずかないと、じたともの、こうふくを、ねがう、じひなのか・・・しょうてんは、ひとりひとりの、「こころの、へんかく」、「かちかんの、てんかん」です。
 まさしく、いっこの、にんげんに、おける、「にんげん、かくめい」です。
 それなしでは、「りっしょう、あんこく」の、じつげんは、ありません。
 では、こころを、へんかくして、いかなるりねんに、もとづいていくべきなのか。
 だいしょうにんは、それを「じつじょうの、いちぜん」とおおせです。
 「じつじょうの、いちぜん」とは、ほけきょうの、こんぽんぜんということであり、すべての、みんしゅうが、それぞれ、じしんに、そなわっている、ぶっしょうを、ひらいて、じょうぶつすることが、できるという、ほうりです。
 この「じつじょうの、いちぜんに、きせよ」との、いちもんに、しょだいかいちょう、まきぐち、つねさぶろうせんせいは、げんぜんと、せんをひかれておりました。
「じつじょうの、いちぜん」に、いきることこそが、じんるいの、しゅくめいを、てんかんする、たしかな、ほうとになるのです――。

こうぎ・・・*3、
 みんしゅうのこうふくと、あんのんが、「りっしょう」の、もくてき。

 ここであらためて、「りっしょうあんこく」の、げんりを、かくにんして、おきたいとおもいます。
 「りっしょう」とは、まず、ひとりの、にんげんのこころの、じげんの、へんかくにかかわります。
じしんに、ないざいする、「こんぽん、ぜん」に、めざめ、きょうちゅうに、ほけきょうの、「にんげん、そんげん」、「せいめい、そんげん」のてつりを、かくりつし、いきかたの、こんていの、てつがくとすることです。
 この、めざめた、ひとの、こうどうに、よってこそ、ほけきょうの、てつりは、しゃかいを、ささえ、うごかす、げんりとして、かくりつしていくのです。
 そして、しゃかいに、へいわの、せいしんきばんを、きずくことが、「りっしょう」の、かんようである、いじょう、せいめい、そんげんのため、へいわのために、こころざしを、おなじくするひとびとや、だんたいと、ともに、たちあがるのは、とうぜんです。
けっして、はいたてきな、ものではありません。
 なによりも、だいじなのは、「りっしょう」を、つらぬく、ひとり、ひとりを、そだてることです。
 ひとりの、「りっしょう」のひとが、たちあがることで、しゅういを、ぜんのほうこうへ、へいわのほうこうへと、へんかくしていくことが、できます。
 そうした、しめいを、になう、ししおうのごとき、じんざいを、はいしゅつすることが、「りっしょう」のきけつなのです。
 また、りっしょう、あんこくの、くにとは、みんしゅうのすむ、こくどのことであり、わたしたちが、めざす、あんこくとは、ぶっこくどを、じつげんして、みんしゅうのために、あんのんの、こくどを、けんせつすることです。
もとより、せまい、いみでの、こっかたいせいを、いみするものではありません。
 そもそも、いっこくに、げんていする、ひつようも、ありません――。

こうぎ・・・*4,せかいへ、みらいへひらく。

 「あんこく」の、ほんぎは、こっかしゅぎの、たいきょくにあり、せかいに、ひろびろと、ひらかれたものです。
 それとともに、「あんこく」とは、みらいに、ひらかれています。
 じつじょう、すなわち、ほとけのこくどとは、「いちえんぶだい」におよび、えいぞく、するものだからです。
 「じつじょう」とは、「せいめい、そんげん」、「にんげん、そんけい」という、ぶっぽうの、せいしんが、いきいきと、みゃくうつ、しゃかいであり、じたともの、こうふくの、じつげんという、しそうが、おもんじられるせかいのことです。
 このだんで、だいしょうにんは、わたしたちが、すむ、さんがいの、こくどが、ぶっこくどであり、ほうどであれば、いかなることがあっても、おとろえることも、また、こわれることがないと、しめされています。
 その、こくどに、じゅうするひとびとの、「こころの、たから」が、こわされないかぎり、こくどは、かならず、じょうじゅうの、、ぶっこくど、となっていくのです――。

こうぎ・・・*5、
 「そうか」の、こころに、りっしょうあんこくの、しめいが。

 わたしども、そうかがっかいの、みんしゅううんどうの、こんぽんせいしんは、この、「りっしょうあんこく」そのものです。
 すべての、こどもの、こうふくを、ねがって、きょういくかくめいに、たちあがられた、まきぐちせんせいは、「りっしょう、あんこくろん」につよく、きょうかんし、にちれんぶっぽうに、きえされました。
 そして、「ひとをすくい、よをすくうことを、のぞいて、しゅうきょうの、しゃかいてき、そんりつの、いぎがあろうか」との、しんじょうのままに、しゃかいに、ひらかれた、こうせんるふの、じっせんをはじめられました。
 せんじちゅうは、「いまこそ、こっかかんぎょうの、ときではないか」と、けつぜんとたちあがられ、そのけっか、ぐんぶせいふによって、とうごくされても、さいごの、さいごまで、みんしゅうの、こうふくのために、たたかい、ぬかれて、じゅんきょうされたのです。
 このけんりょくの、ましょうとの、とうそうを、かくごし、こうせんるふと、がっかいの、さいけんをちかって、せんごの、やけのはらに、ひとり、たたれたのが、だい2だい、かいちょう、とだ、じょうせいせんせいです。
 わたしが、19さいのときに、かまたの、ざだんかいで、うんめいてきに、であったときに、おんしが、こうぎされていたのも、まさに、「りっしょう、あんこくろん」でした。
 「わたしは、このよから、いっさいの、ふこうと、ひさんを、なくしたいのです!」
 そのししくは、いまも、むねからはなれません。
 みんしゅうの、こうふくのために、みんしゅうから、ふこうと、ひさんを、とりのぞくために、「りっしょうあんこくろん」の、とうそうに、しんみょうを、としたのが、さんだいの、していです。
 おもえば、まきぐちせんせいと、とだせんせいの、していの、たいわから、うまれた、「そうか」のなは、「かちそうぞう」を、いみします。では、わたしたちはいかなる「かち」を「そうぞう」するのか。
 たんてきにいえば、“みんしゅうの、あんのんのため、せかいのへいわのため、げんじつに、めのまえでくるしむ、ひとりに、みょうほうという、ただしいてつがくによって、いきぬくちからを、あたえていくこと”であると、かくしんします。
 「ひとり」を、たいせつにし、いちたいいちの、たいわに、てっする、この、「そうか」の、こころのなかに、「りっしょう」の、じっせんも、「あんこく」の、しめいもほうがんされています。
 そのいみでも、わが、そうかがっかいこそ、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんの、「りっしょうあんこく」の、ごとうそうを、げんだいに、ただしく、うけついだ、せいとうの、きょうだんであると、こえたからかに、せんげんしたいのであります――。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3


  • [221]
  • りっしょう、あんこくろん・・・いけだせんせいのこうぎ2/4

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 2月 4日(土)17時35分56秒
  • 編集済
 
りっしょう、あんこくろん、げんぶん。
  ていおうは、こっかをもととして、てんかを、おさめ、じんしんは、でんえんをりょうして、せじょうをたもつ、しかるに、たほうのぞくきたって、そのくにをしんぴつし、じかいほんぎゃくして、そのちをりゃくりょうせば、あに、おどろかざらんや、あに、さわがざらんや、くにをうしない、いえを、めつせば、いずれのところにか、よをのがれん、なんじ、すべからく、いっしんの、あんどを、おもわば、まず、しひょうの、せいひつを、いのらんものか、

・・・・げんだいぶん
 ていおうは、こっかをきばんとして、ぜんこくをおさめ、しんかのものは、でんえんをりょうゆうして、よのなかの、あんのんを、たもつものである。
 しかし、がいてきが、やってきて、そのくにを、しんりゃくし、ないらん、はんぎゃくが、おこって、そのちを、しはいかに、おくなら、どうして、おどろかないことが、あろうか。
どうして、そうぜんと、しないことがあろうか。
こっかが、めつぼうしてしまったら、よをのがれるといっても、どこにいることができるだろう――。

こうぎ・・・*1、みんしゅうの、なげきへの、「どうく」。

 だいしょうにんが、「りっしょうあんこくろん」を、ごしっぴつになった、ちょくせつの、どうきは、しょうかの、おおじしんです。
 この、だい さいがいの、まえから、おおかぜ、こうずいなどの、しぜんさいがい、しんこくな、ききん、えきびょうなどによって、みんしゅうの、さいかは、とどまることがありませんでした。
 そこに、しょうか、がんねん、1275ねん、8がつ、かまくらちほうを、おおじしんが、おそいます。
 だいしょうにんは、このみんしゅうの、くのうを、まのあたりにして、ほんしょに、「ひとり、このことを、うれいて、きょうおくに、ふんぴす」とあるように、なげきや、かなしみが、ふかいのに、わかちあう、とももなく、やりきれなさと、もどかしさが、どうにも、おさまらないとまで、おおせです。
 だいしょうにんは、しゃかいの、じったいを、ちょくしされ、“みんしゅうを、なんとしても、すくいたい”そのために“みんしゅうを、ふこうに、おとしいれる「いっきょう」を、めいはくにし、こんぜつしなくてはならない”との、れつれつたる、ごけっしんから、しょきょうてんを、ひもとき、げんいんと、かいけつさくを、たんきゅうされました。
 そのけつろんとして、「せいめいそんげん」、「にんげんそんけい」を、とく、ほけきょうを、ひていする、「ほうぼう」が、よのみだれの、こんぽんげんいんであり、しょうほうを、しゃかいの、しちゅうとして、ひとびとの、こころに、うちたてる、いがいに、きゅうきょくの、かいけつさくは、ないと、ふかく、かくしん、されたのです。
 そして、このしんじつを、「りっしょうあんこくろん」に、あらわされ、ときの、けんりょくしゃに、たいして、いさめ、さとされました。
 「こくしゅ、かんぎょうのしょ」とも、いわれるゆえんです。

こうぎ・・・*2、「しひょうの、せいひつ」を、みなのちからで、じつげん。

 こんかい、はいする、おんふみは、ほんしょの、だい9だん・だい10だんです。
 だい9だんでは、いよいよきゃくが、しゅじんの、りっしょうあんこくの、しそうをうけいれ、ほけきょうを、ひぼうする、もうしゅうをすてて、しょうほうを、しんしに、もとめる、けついを、ひょうめいします。
 だいしょうにんが、これを、うけて、きゃくに、きょうちょうされているのは、“だんじて、せんそうを、ふせがねばならない”、”ておくれに、ならないように、ただちに、こうどうせよ”との2てんです。
 だいしょうにんは、このおんふみの、ちょくぜんで、やくしきょう、こんきょうみょうきょう、だいしつきょう、にんのうきょうの、しきょうの、もんにてらして、まだおこっていない、さいなんがあることを、あげられています。
ぐたいてきには、「じかい、ほんぎゃくなん」「たこく、しんぴつなん」の、になんであり、「ひょうかくのさい」です、すなわち、こくないがいの、「せんらん」です。
 せんそうほど、ざんこくなものはない、せんそうだけは、ぜったいに、おこしてはならない・・・それが、だいしょうにんの、しせいの、かんぎょうでありました。
 ここで、だいしょうにんは、ちからづよく、おおせです――。

こうぎ・・・ *3、「なんじ、すべからく、いっしんの、あんどをおもわば、まず、しひょうの、せいひつを、いのらんものか」。

 すなわち、じしんの、あんのんを、ねがうのであれば、まず、じぶんを、とりまく、しゃかいの、へいおんを、いのるべきであろうと、しめされているのです。
 このおんふみには、いせいしゃに、たいする、かんぎょうがあると、どうじに、みんしゅしゅぎの、げんだいにおいては、わたしたち、ひとりひとりの、じっせんのしひょうとも、いえましょう。
 「いっしんの、あんど」・・・いっこの、にんげんの、あんのんは、ほんしつてきには、じぶん、ひとりだけでは、じつげんできません。
 ひとりの、にんげんが、あんしんして、くらしていくには、しぜん、かんきょうも、しゃかい、かんきょうも、へいわで、あんていして、はってんしていることが、じゅうようです。
 それゆえ、「いっしんの、あんど」を、ほんとうに、もとめるなら、まず、エゴイズムに、そくばくされた、ちいさなじしんを、ちょうこくして、じぶんが、いきる、しゃかいぜんたいの、せいおん・・・「しひょうの、せいひつ」を、かくりつすべきだと、おおせなのです。
 また、「しひょうの、せいひつ」と、おおせになられた、だいしょうにんの、おこころは、“いっこくの、あんてい”をこえて“、ぜんせかいの、へいわ”に、おもいを、はせられて、いたものと、はいさつされます――。

こうぎ・・・*4、げんじつ、せかいで、こうふくをきずく、きょうてん。

 ぶっぽうは、「せいめい、そんげん」のしそうです。
 「いのちと、もうす、ものは、いっしん、だいいちの、ちんぽうなり」0986-01、「いちにちの、いのちは、さんぜんかいの、たからにも、すぎてそうろうなり0986-11、「いのちともうすものは、いっさいの、たからのなかに、だいいちの、たからなり」1596-04です。
 なによりも、「せいめい、そんげんの、しそう」を、いっさいに、さいゆうせんする、しゃかいを、きずかねばなりません。
 ほけきょうは、ひとりの、そんざいのなかに、そんごくな、ほとけのせいめいを、みいだす、きょうてんです。
 その、かち、きじゅんに、てらせば、たとえ、ほけきょう、いがいのしそうでも、「せいめい、そんげん」のかちを、とく、しそうを、たがいに、そんちょうすることができます。
 はんたいに、「せいめい、そんげん」を、ひていする、しそうは、だんじて、ようにんしない。
 それが、しんの、かんようの、じひのせいしんです。
 だいしょうにんが、ほんしょで、いせいしゃに、かんぎょうしているのは、ほけきょう、いがいの、おしえを、ぜんひていせよ、という、はいたてきな、ものでは、ありません。
 ひとびとに、せいめい、そんげんを、といた、ほけきょうを、すてさせる、はいたてきな、おしえを、ほうちしてはならない、ということです。
 それも、“ほうぼうへの、ふせをとめる”という、しんの、もんだいかいけつへの、ただしき、かちせんたくを、たいわによって、じつげんしようとされたのです。
 ぐたいてきに、ほんしょで、だいしょうにんが、はしゃくを、くわえられた、「いっきょう」とは、ひとびとの、ほけきょうしんこうを、うばう、ほうねんの、ねんぶつ、しんこうです。
 すなわち、ほうねんは、せいめい、そんげんの、たいほうである、ほけきょうを、「しゃへい、かくほう」するように、おしえていたのです。
 じっさいに、とうじ、よのなかに、ひろまっていた、ねんぶつの、おしえは、じぶんの、どりょくを、あきらめて、くのうの、げんじつせかいから、とうひし、けっきょくは、いだいな、ちょうえつしゃに、すがって、らいせに、あんらくな、じょうどに、うまれることを、ねがうものでした。
 これは、ほけきょうの、しそうとは、あいはんします。ほけきょうは、わがきょうちゅうに、そなわる、そんごくのせいめいを、ひらきあらわし、げんじつしゃかいを、じょうかし、へいわと、こうふくの、らくどを、きずいていくことを、めざします。
 まっぽうの、くのう、うずまく、ごじょくの、げんじつせかいに、あって、どこまでも、しゅたいしゃは、にんげん、じしんであることを、おしえている、きょうてんなのです――。

こうぎ・・・*5、ぜんたいかんに、たつ、しんの、ちえを。
 あたえて、ろんずれば、ねんぶつも、しゃくそんの、おしえの、ひとつとして、くなんに、うちひしがれたひとに、やさしく、よりそうというてんで、きずついた、ひとに、いちじてきな、ひなん、きゅうそくを、あたえるといういみであったと、いえるかもしれません。
 あいての、とくしゅな、じょうきょうに、たいおうして、そのように、ほとけが、しどうすることも、ありえるでしょう。
 しかし、それは、あくまでも、とくべつな、きこんに、おうじた、ぶぶんかんであり「しょうぜん」の、おしえです。
 だいしょうにんは、ごくらく、おうじょうの、おしえは、いちじてきな、あんしんを、あたえるための、ほうべんである「やすめことば」で、そこには、しんじつは、ないと、してき、されています。
 それに、たいして、ほけきょうは、ぜんたいかんに、たち、すべてのものごとの、こんかんに、かかわる、こんぽんの、「だいぜん」を、ときます。
 いいかえれば、どのような、じょうきょうでも、ばんにんに、じつげん、かのうな、きゅうさいのみちを、しめしています。
 「しょうぜん」は、「だいぜん」に、いはいしないかぎりにおいては、「ぜん」のはたらきを、もちます。
 しかし、ぶぶんかんに、とらわれて、ぜんたいかんを、みうしない、こんぽんの、「だいぜん」に、そむけば、もはや「ぜん」ではなく、かえって、「だいぜん」に、そむく、「だい、だいあく」となってしまう。
 ほうねんの、せんしゅうねんぶつは、ひとびとの、のうりょく、ししつだけを、じゅうしして、ほけきょうを、はいじょしたものです。
 だいしょうにんは、ほんしょで、いせいしゃに、そのあくの、ほんしつを、おしえられるとともに、しんじつのせいめいの、せいどうを、しめされたのです。
 すなわち、もんだいの、こんぽんてき、かいけつは、ぜんたいかんにたつ、しんの、ちえに、もとづき、ただしい、かちかんを、かくりつして、こんらんの、じだいに、しゅうしふをうち、あんねい、こうふくの、しゃかいを、じつげんするいがいに、ありません。
 しょうほうを、たてて、しゃばせかいを、じょうかして、じょうじゃっこうの、こくどを、けんせつしていくのが、しんの、りっしょうあんこくへの、だいどうなのです――。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

  • [220]
  • りっしょう、あんこくろん・・・いけだせんせいのこうぎ1/4

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 2月 4日(土)17時30分20秒
  • 編集済
 
  2015ねん、4ごう、だいびゃくれんげより.
りっしょう、あんこくろん・・・いけだせんせいのこうぎ

じょぶん
*1、ただ、みんしゅうの、あんのんのため、 きぼうとしょうりの、たいわを!

 みんしゅうは、しんのこうふくの、てつがくをもとめています。
 ばんにんが、せいめいのそんげんせいを、かがやかせつつ、たいわのちからで、ぜんのれんたいを、ひろげ、ちょうわと、きょうせいの、しゃかいを、けんせつしていく、あたらしきうんどうを、こころのそこから、ふかくもとめています。
 そうかがっかいは、「りっしょうあんこくのはた」をかかげて、どこまでも、みんしゅうの、こうふくと、せかいのへいわのために、げんじつしゃかいの、へんかくにちょうせんしゆく、しめいをつらぬきます。
 そこに、「にんげんのための、しゅうきょう」の、せいずいがあるからです。
 それは、ぶっきょうの、こんぽんせいしんでもあります。
 また、にちれんだいしょうにん、ちょっけつの、じっせんの、あかしです。
 そして、これこそが、そうかのしていの、たましいに、ほかなりません。
 ぶっきょうは、ほんらい、じぶんじしんがさとって、それで、まんぞくして、おわるしゅうきょうではありません。
「ひとびとの、こうふくのために、こうどうする」、このじっせんがあってこそ、しんのさとりと、いえるからです。
 しゃくそんは、きえしたばかりの、でしたちにたいして、ぐきょうをすすめて、つぎのようにのべました。
 「しゅぎょうしゃたちよ、へんれきするがよい。おおくのひとのこうふくのために、おおくのひとびとの、あんのんのために、せかいにたいする、きょうかんを、いだくために、かみがみと、ひとびとの、りやくのために、こうふくのために、あんらくのために」
 おおくの、ひとびとのくるしみに、よりそい、こうどうし、ともにこうふくで、あんのんな じんせいを、かくりつし、へいわな、せかいを、きずくことこそが、しゃくそんのほうをひろめる、さいだいの、もくてきでした。


*2、まっぽうの、やみをてらす、みょうほうの、たいよう.

 すなわち、ぶっきょうとは、そのしゅっぱつの、とうしょから、「ばんにんの、こうふく」をめざす、「にんげんのための、しゅうきょう」であったのです。
 ほけきょうに、「あんのん、ならしむるところおおく、しょてん、じんみんを、れんびんし、にょうやくせん」とあるとおりです。
 このねがいは、しゃくそんひとりに、とどまらず、さんぜじっぽうの、あらゆるほとけの、こんぽんの、ちかいであり、ねがいです。
 このねがいを、じつげんする、「ほう」、すなわち、ほけきょうを、ときひろめることが、ほとけたちが、このよにしゅつげんする、こんぽんもくてきであり、「しゅっせの、ほんかい」なのです。
 そして、しゃくそんめつごに、ひとびとの、くのうと、こんらんが、うずまく、まっぽうにおいて、このせいがんを、うけついで、ばんにん、きゅうさいのために、ほけきょうの、ぎょうじゃとして、こうせんるふにかんぜんと、たちあがられたのが、にちれんだいしょうにんです。
 ひとびとの、こうふくと、あんのんを、ねがえば、げんじつしゃかいの、へんかくへ、めをむけざるを、えません。

*3、この、しゃばせかいを、そく、じゃっこうどへ、へんかくしていく。

 これが、だいしょうにんの、「りっしょうあんこく」のほんしつです。
 そうかがっかいは、この、だいしょうにんの、だいとうそうと、ごせいしんに、すんぶんたがえず、つらなる、きょうだんです。
 りっしゅうの、4がつをむかえ、そして、「そうかがっかいのひ」である、「5・3」をもくぜんに、「りっしょうあんこくろん」を、こころあらたに、はいして、だいしょうにんの、みんしゅうきゅうさいの、ごせいしんを、まなび、そうかの、にんげんしゅぎの、てつがくをかくにんしていきましょう――。
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  • [219]
  • たかはしにゅうどうどのごへんじ  さんじそうおうのごと

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 1月31日(火)04時35分21秒
 
たかはしにゅうどうどのごへんじ 。
さんじそうおうのごと。
  しっぴつ、 けんじがん、ふみつき、じゅうににち。54さい、 p1458  こう33。
                       しんじょう たかはしにゅうどうどのごへんじ             にちれん
 われらが じふだいかくせそんは、にんじゅひゃくさいのとき、ちゅうてんじくに しゅつげんし、ましまして、いっさいしゅじょうのために いちしょうきょうをときたまう。ほとけざいせのいっさいしゅじょうは、かこのしゅくじゅうあつて ほとけにえんあつかりしかば、すでにとくどう なりぬ。わがめつごのしゅじょうをば、いかんがせんとなげきたまいしかば、はちまんしょうきょうを もんじとなして、いちだいしょうきょうのなかに しょうじょうきょうをばかしょうそんじゃにゆづり、だいじょうきょう ならびにほけきょう、ねはんらをば もんじゅしりぼさつにゆづりたまう。ただ はちまんしょうきょうのかんじん、ほけきょうのげんもくたる みょうほうれんげきょうのごじをば、かしょう、あなんにもゆづりたまはず。
また もんじゅ、ふげん、かんのん、みろく、じぞう、りゅうじゅらのだいぼさつにもさづけたまはず。これらのだいぼさつらの、のぞみもうせしかども ほとけゆるしたまはず。だいちのそこよりじょうぎょうぼさつともうせしろうじんをめしいだして、たほうぶつ、じっぽうのしょぶつのみまえにして、しゃかにょらい、しっぽうのたっちゅうにして、みょうほうれんげきょうのごじをじょうぎょうぼさつにゆづりたまう。
  そのゆえは わがめつごのいっさいしゅじょうは みな わがこなり。いづれもびょうどうにふびんに をもうなり。しかれどもくすしのならい、やまいにしたがいて くすりをさづくるごとなれば、わがめつご ごひゃくねんがあいだは、かしょう、あなんなどにしょうじょうきょうのくすりをもって いっさいしゅじょうにあたへよ。つぎのごひゃくねんがあいだは、もんじゅしりぼさつ、みろくぼさつ、りゅうじゅぼさつ、てんじんぼさつに、けごんきょう、だいにちきょう、はんにゃきょうとうのくすりをいっさいしゅじょうにさづけよ。わがめつどいっせんねんすぎてぞうぼうのときには、やくおうぼさつ、かんぜおんぼさつ、ほけきょうのだいもくをのぞいてあまりのほうもんのくすりをいっさいしゅじょうにさづけよ。
まっぽうにはいりなば、かしょう、あなんなど、もんじゅ、みろくぼとう、やくおう、かんのんらのゆづられしところのしょうじょうきょう、だいじょうきょう、ならびにほけきょうはもんじはありともしゅじょうのやまいのくすりとはなるべからず。いわゆるやまいはおもし、くすりはあさし。
  そのときじょうぎょうぼさつしゅつげんして、みょうほうれんげきょうのごじをいちえんぶだいのいっさいしゅじょうにさづくべし。そのときいっさいしゅじょう、このぼさつをかたきとせん。
p1459
いわゆる さるの、いぬをみたるがごとく、きじんのひとを あだむがごとく、かこのふきょうぼさつのいっさいしゅじょうに、のり、あだまれし、のみならず、じょうもく、がりゃくにせめられしがごとく、かくとくびくがさつがいに およばれしが、ごとくなるべし。
 そのときは かしょう、あなんとうも、あるいはりょうぜんにかくれ こうがにぼっし、みろく、もんじゅとうも、あるいはとそつのないいんにはいり、あるいはこうざんにはいらせたまい、かんぜおんぼさつはさいほうにかへり、ふげんぼさつはとうほうにかへらせたまう。
しょきょうは ぎょうずるひとはありとも、しゅごのひとなければ りしょうあるべからず。しょぶつのみょうごうは となうるものありとも、てんじんこれを、かごすべからず。ただし こうしのははをはなれ、きじのたかにあへるがごとくなるべし。そのとき じっぽうせかいのだいきじん、いちえんぶだいにじゅうまんして、ししゅうのみにはいって、あるいはふぼをがいし、あるいはきょうだいとうをうしなはん。ことにくにじゅうのちしゃげなる、じかいげなるそうにのこころに、このきじんって こくしゅならびにしんかをたぼらかさん。
  このとき じょうぎょうぼさつのおかびをかほりて、ほけきょうのだいもく、なんみょうほうれんげきょうのごじばかりを いっさいしゅじょうにさづけば、かのししゅうとう、ならびにだいそうとう、このひとをあだむこと、ふぼのかたき、しゅくせのかたき、ちょうてき、おんてきのごとく、あだむべし。そのとき だいなるてんぺんあるべし。いわゆる にちがつしょくし、だいなるすいせいてんにわたり、だいちしんどうして すいじょうのわのごとくなるべし。そのごは じかいほんぎゃくなんともうして、こくしゅ、きょうだい、ならびにくにじゅうのおとなをうちころし、のちには たこくしんぴつのなんともうしてりんごくよりせめられて、あるいはいけどりとなり、あるいはじさつをし、くにじゅうのじょうげ、ばんみん、みなだいくにあうべし。これひとへにじょうぎょうぼさつのかびを、かをほりて、ほけきょうのだいもくを ひろむるものを、あるいはのり、あるいはうちはり、あるいはるざいし、あるいはいのちをたちなんどするゆへに、ぶつぜんにちかひをなせし ぼんてん、たいしゃく、にちがつ、してんとうの ほけきょうのざにてせいじょうをたてて、ほけきょうのぎょうじゃをあだまんひとをば、ふぼのかたきよりも、なをつよくいましむべしと、ちかうゆへなりと みへてそうろうに、いま にちれん、にほんこくにうまれて いっさいきょうならびに ほけきょうのめいきょうをもて、にほんこくのいっさいしゅじょうの おもてにひきむけたるに、すんぶんもたがはぬうえ、ほとけのしるしたまいしてんぺんあり ちようあり。
 さだんで このくに ぼうこくとなるべしと、かねてしりしかば、これを こくしゅにもうすならば、こくどあんのんなるべくも、たづねあきらむべし。ぼうこくとなるべきならば、よももちいじ。
p1460
もちいぬほどならば、にちれんはるざい、しざいとなるべしと、しりてそうらいしかども、ほとけ いましめていわく「このことをしりながら しんみょうを、をしみて、いっさいしゅじょうにかたらずば、わがてきたるのみならず、いっさいしゅじょうのおんてきなり。かならずあびだいじょうにおつべし」としるしたまへり。
 ここににちれん しんたいわづらひて、このことをもうすならば、わがみいかにもなるべし。わがみはさてをきぬ。ふぼ、きょうだい、ならびにせんまんひとのなかにも ひとりもしたがうものは、こくしゅばんみんにあだまるべし。かれらあだまるるならば、ぶっぽうはいまだわきまへず、ひとのせめはたへがたし。ぶっぽうをぎょうずるは あんのんなるべしとこそ、をもうに、このほうをたもつによって だいなんしゅったいするは、しんぬ このほうをじゃほうなりとひぼうして あくどうにおつべし。これもふびんなり。また これをもうさずばぶつせいにいするうえ、いっさいしゅじょうのおんてきなり。だいあびじごくうたがいなし。いかんがせんとをもひしかども、をもひきってもうしいだしぬ。もうしはじめしうえは、また ひきさすべきにもあらざれば、いよいよ、つよりもうせしかば、ほとけのきもんのごとく こくしゅもあだみ ばんみんもせめき。あだをなせしかば、てんもいかりて にちがつにたいへんあり、だいせいせいもしゅつげんしぬ。だいちもふりかへしぬべく、なりぬ。どしうちもはじまり、たこくよりも せめるなり。ほとけのきもんすこしもたがわず。にちれんがほけきょうのぎょうじゃなることもうたがはず。
 ただし こぞ かまくらより このところへにげはいりそうろういしとき、みちにてそうらへば、おのおのにももうすべくそうらいしかども もうすこともなし。また せんどのごへんじももうしそうらはぬことは、べちのしさいもそうらはず。なにごとにか おのおのをば、へだてまいらせそうろうべき。
 あだをなす ねんしゃ、ぜんしゅう、しんごんしとうをも、ならびに こくしゅとうをも、たすけんがためにこそもうせ。かれらのあだをなすは、いよいよふびんにこそそうらへ。まして いちにちもわがかたとて こころよせなるひとびとは、いかでかをろかなるべき。せけんのをそろしさに、さいしあるひとびとの とをざかるをば、ことによろこぶみなり。にちれんにつきて たすけやりたる、かたわなきうえ、わづかのしょりょうをも めさるるならば、しさいもしらぬさいし、しょじゅうとうが、いかに なげかんずらんとこころぐるし。
 しかも こぞのきさらぎに ごかんきをゆりて さつきのじゅうさんにちにさどのくにをたち、どうげつのにじゅうろくにちに かまくらにはいる。どううつきのようか へいのさえもんじょうにあひたりしとき、やうやうのことども、とひしなかに もうこくにはいつよすべきともうせしかば、ことしよすべし。
p1461
それにとて にちれんはなしてにほんこくに たすくべきものいちにんもなし。たすからんと をもひしたうならば、にほんこくの ねんぶつものとぜんとりつそうとうが くびをきって、ゆいのはまにかくべし。それもいまはすぎぬ。
  ただし みなひとの をもひてそうろうは、にちれんをば ねんぶつしとぜんとりつを そしるとをもひてそうろう。これは もののかずにて かずならず。しんごんしゅうともうすしゅうが うるわしきにほんこくの だいなるじゅそのあくほうなり。こうぼうたいしとじかくたいし、このことにまどひて このくにをほろぼさんとするなり。たといにねん、さんねんにやぶるべきくになりとも、しんごんしにいのらするほどならば いちねん、はんとしに、このくにせめらるべしと もうしきかせてそうらいき。
 たすけんがためにもうすを、これほど あだまるることなれば、ゆりてそうらいしとき、さどのくによりいかなる さんちゅううみべにも まぎれはいるべかりしかども、このことをいまいちど、へいのさえもんにもうしきかせて、にほんこくに せめのこされんしゅじょうを たすけんがために、のぼりてそうらいき。またもうしきかせそうらいしのちは、かまくらにあるべきならねば、あしにまかせて いでしほどに、びんぎにてそうらいしかば、たとい おのおのは いとはせたまうとも、いまいちどは みたてまつらんと、せんどをもひしかども、こころにこころを たたかいて すぎそうらいき。そのゆへは、するがのくには こうどののごりょう、ことに、ふじなんどは ごけあまごぜんのうちのひとびとおおし。こさいみょうじどの、ごくらくじどののかたきと、いきどをらせたまうなれば、ききつけられば おのおのの おんなげきなるべしと、おもひし こころばかりなり。いまにいたるまでも ふびんに をもひまいらせそうらへば、ごへんじまでももうさずそうらいき。この ごぼうたちの ゆきすりにも、あなかしこ、あなかしこ。ふじ、かじまのへんへ たちよるべからずともうせども、いかがそうやらんとをぼつかなし。
 ただし しんごんのことぞ ごふしんにわたらせたまいそうやらん。いかにと ほうもんは もうすともおんこころへあらんことかたし。ただ げんぜんのことをもつて しろしめせ。おきのほうおうは にんのうはちじゅうにだい、じんむよりは にせんよねん、てんしょうだいじんいりかわらせたまいて にんのうとならせたまう。いかなるものか、てきすべきうえ、きんめいより おきのほうおうにいたるまで、かんど、くだら、しらぎ、こうらいよりわたりきたるたいほう、ひほう、えいざん、とうじ、おんじょう、ななじ、ならびににほんこくに あがめをかれてそうろう。これはみなくにをしゅごし、こくしゅをまほらんためなり。おきのほうおう、よをかまくらに とられたることをくちをしと をぼして、えいざん、とうじとうのこうそうとうをかたらひて、よしときがいのちを めしとれとぎょうぜしなり。
p1462
このこといちねん、にねんならず すうねんちょうぶくせしに、ごんん0たゆうどのは ゆめゆめしろし、めさざりしかば、いっぽうも ぎょうじたまはず。また ぎょうずともかなうべしとも、をぼへずありしに、てんし いくさにまけさせたまいて、おきのくにへ つかはされさせたまう。にほんこくのおうとなるひとは、てんしょうだいじんのみたまのいりかわらせたまうおうなり。せんしょうの じゅうぜんかいのちからといひ、いかでか くにじゅうのばんみんのなかには かたぶくべき。たとい、とがありとも、つみあるをやを とがなきこのあだむにてこそ そうらいぬらめ。たとい おやにじゅうざいありとも このみとしてとがにおこなはんに、てんうけたまうべしや。しかるに おきのほうおうのはぢに あはせたまいしは、いかなるたいかぞ。これ ひとへにほけきょうのおんてきたる にほんこくのしんごんしを、かたらはせたまいしゆへなり。
 いっさいの しんごんしはかんじょうともうして、しゃかぶつとうを はちようのれんげにかきて、これを あしにふみて ひじとするなり。かかるふしぎのものども、しょざん、しょじのべっとうとあをぎて もてなすゆへに、たみのてにわたりて げんしんに はぢにあひぬ。このだいあくほう また かまくらにくだってごいちもんをすかし、にほんこくを ほろぼさんとするなり。このこと さいだいことなりしかば、でしとうにもかたらず、ただ いつはりをろかにて、ねんぶつとぜんとうはかりを そしりてきかせしなり。いまはまた もちいられぬことなれば、しんみょうもおしまず でしどもにももうすなり。かうもうせば、いよいよごふしんあるべし。にちれんいかにいみじくとうとくとも じかく、こうぼうにすぐるべきか。このうたがいすべて はるべからず。いかに とかすべき。
 ただし みな ひとはにくみそうらいに、すこしも ごしんようのありしうえ、これまでも おたづねのそうろうは、ただ こんじょうばかりのおんことには よもそうらはじ。さだめて かこのゆへか。ごしょろうのだいじにならせたまいてそうろうなること、あさまししくそうろう。ただし つるぎは かたきのため、くすりはやまいのため。あじゃせおうは ちちをころし ぼとけのてきとなれり。あくそうみにいで のちにぼとけにきぶくし ほけきょうをたもちしかば、あくそうもへいゆし、としをもしじゅうねんのべたりき。しかも ほけきょうは「えんぶだいにん、びょうしりょうやく」とこそとかれてそうらへ。えんぶのうちのひとは やまいのみなり。ほけきょうのくすりあり。さんじすでにそうおうしぬ、いっしんいかでか たすからざるべき。ただし おんうたがいのわたりそうらはんをば ちからをよばず。なんみょうほうれんげきょう、なんみょうほうれんげきょう。
p1463    かくじょうぼう、はわきぼうに たびたびよませて きこしめせ、きこしめせ。
 ふみつきじゅうににち          にちれん、かおう。
しんじょう たかはしろくろうひょうえにゅうどうとの  ごへんじ。


  • [218]
  • にょにんじょうぶつしょう 女人成仏抄

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 1月 8日(日)03時11分15秒
 
  にょにんじょうぶつしょう
    しっぴつ ぶんえいにねん。よんじゅうよんさい。
         こう 6げ。   p470
 だいばほんにいわく「ぶつごうしょびく。みらいせちゅう。ないし、 れんげけしょう」とううんぬん。このだいばほんににかのかんぎょうあり。いわゆる だったのぐきょう、しゃくそんのじょうどうをあかし、また もんじゅのつうきょう、りゅうにょのさぶつをとく。されば このほんを ちょうあんぐうにいちほん きりとどめて にじゅうななほんをよにるふするあいだ、しんのだいよりりょうのだいにいたるまで、ななだいのあいだの おうはにじゅうななほんのきょうを こうどくす。そののち まんほっしといいしひと このほん ほけきょうになきよしを よみいだされそうらいてのち、ちょうあんじょうよりたずねいだし いまはにじゅうはちほんにてひろまらせたまう。  p471
  さて このほんに じょうしんしんぎょうのひとのことをいうに、ひとつには さんあくどうにだせず、ふたつには じっぽうのぶつぜんにしょうぜん、みつには しょしょうのところには つねにこのきょうをきかん、よっつには もしにんでんのなかにしょうぜば しょうみょうのらくをうけん、いつつには もしぶつぜんにあらば れんげよりけしょうせんとなり。しかるに いっさいしゅじょうは ほっしょうしんにょのみやこをまよひいでて、もうそうてんとうのさとに はいりしよりこのかた、しんくいのさんごうになすところ ぜんこんはすくなくあくごうはおおし。
されば きょうもんにはいちにんいちにちのなかに はちおくよんせんねんあり、ねんねんのなかに なすところ、みなこれ さんずのごうなりとううんぬん。われらしゅじょう さんがいにじゅうごうの ちまたに りんねせしこと、とりのはやしにうつるがごとく、ししては しょうじ しょうじてはしし、くるまのにわにまわるがごとく、はじめおわりもなく しししょうずるあくごうじんじゅうのしゅじょうなり。
  ここをもって しんじかんきょうにいわく「うじょうりんねして ろくどうにしょうずること、なお しゃりんのしじゅうなきがごとく、あるいは ふぼとなり なんにょとなり、しょうじょうよよ たがいにおんあり」とううんぬん。ほけきょうにのまきにいわく「さんがいは やすきことなし、なお かたくのごとく、しゅうくじゅうまんせり」うんぬん。ねはんきょうにじゅうににいわく「ぼさつまかさつ もろもろのしゅじょうをかんずるに しきこうみしょくのいんねんのためのゆえに、むかし むりょうむすうこうよりこのかた、つねにくのうをうく。いちいちのしゅじょう いちこうのなかにつもるところの みのほねは、おうしゃじょうのびふらせんのごとく。のむところのにゅうじゅうは、しかいのみずのごとく。みよりいだすところのちは、しかいのみずよりおおく。ふぼ、きょうだい、さいし、けんぞくのみょうじゅうに たいきゅうしていだすしょのめなみだは、しかいのみずよりおおし。ちのそうもくをつくして、よんすんのかずとりとなして もってふぼをかずうるに、また つくすことあたわじ。むりょうこうよりこのかた、あるいはじごく、ちくしょう、がきにあつて、うくるところのぎょうく しょうけいすべからず。またいっさいしゅじょうの かばねをや」うんぬん。
  かくのごとくに いたづらにいのちをすつるところの かばねはびふらせんよりもおおし。おんあいあはれみの なみだは しだいかいのみずよりもおおけれども、ぶっぽうのためには いっこつをもなげず。いっくいちげをちょうもんして いちてきのなみだをも、おとさぬゆへに、さんがいろうはんをいでずして にじゅうごうの ちまたにるてんする しゅじょうにてそうろうなり。しかるあいだ いかんとしてさんがいをはなるべきともうすに、ぶっぽうしゅぎょうのくりきによりて、むみょうのやみ はれてほっしょうしんにょのさとりをひらくべくそうろう。さては ぶっぽうはいかなるをか しゅぎょうして しょうじをはなるべきぞともうすに、ただ いちじょうみょうほうにてあるべくそうろう。されば えしんそうず、なぬかにち、かもにさんろうして、しゅつりしょうじは いかなるきょうにてかそうろうべきと きしようもうされそうらいしに、
p472
みょうじん ごたくせんにいわく「しゃかのせっきょうは いちじょうにとどまり、しょぶつのじょうどうは みょうほうにあり、ぼさつのろくどは れんげにあり、にじょうのとくどは このきょうにあり」うんぬん。ふげんきょうにいわく「この だいじょうきょうてんは しょぶつのほうぞうなり。じっぽうさんぜ しょぶつのげんもくなり。さんぜのもろもろのにょらいを しゅっしょうするしゅなり」うんぬん。
  このきょうよりほかは すべて じょうぶつのごあるべからずそうらうえ、ことさら にょにんじょうぶつのことは このきょうよりほかは さらにゆるされず、けっく にぜんのきょうにては、をびただしくきらはれたり。されば けごんきょうにいわく「にょにんは じごくのつかいなり、よく ほとけのしゅしをだんず、げめんは ぼさつににて、ないしんは やしゃのごとし」うんぬん。ごんじきにょきょうにいわく「さんぜのしょぶつのまなこは だいちにだらくすとも、ほうかいのもろもろのにょにんは ながくじょうぶつのごなし」うんぬん。あるいはまた にょにんには ごしょうさんじゅうのつみふかしともうす。それは ないてんにはごしょうをあかし、げてんには さんじゅうをおしえたり。そのさんじゅうとは おさなくしてはふぼにしたがひ、さかりにしてはおとこにしたがひ、おいてはこにしたがふ。いちごみをこころにまかせず。されば えいけいきがさんらくをうたひしなかにも にょにんとうまれざるをもっていちらくとす。
  てんだいだいしいわく「たきょうには ただ ぼさつにしるしてにじょうにしるせず、ただ おとこにしるして おんなにしるせず」とて、まったく よきょうには にょにんのじゅきこれなしとしゃくせり。
そのうえ しゃか、たほうのにぶつ、たっちゅうにびょうざしたまひしとき、もんじゅ、みょうほうをひろめんために かいちゅうにはいりたまいて ぶつぜんにかえりまいりたまいしかば、ほうじょうせかいの たほうぶつのみでし、ちしゃくぼさつは りゅうにょじょうぶつをなんじていわく「われ しゃかにょらいをみたてまつれば、むりょうこうにおいて なんぎょうくぎょうし こうをつみとくをかさね、ぼさつのどうをもとむること いまだかつてしそくしたまわず、さんぜんだいせんせかいを みるに、ないし けしのごときばかりも これ ぼさつのしんみょうをすてたもうところに あらざることあることなし、しゅじょうのためのゆえなり」とううんぬん。いわゆる ちしゃく、もんじゅ、さいさんもんどういたしたまふあいだは、はちまんのぼさつ、まんにせんのしょうもんとう いずれもみみをすまして ごちょうもんばかりにて ひとくちのごじょげんにおよばず、しかるに ちえだいいちのしゃりほつ、もんじゅのことをば なんずることなし、おおくのゆえをもって りゅうにょをなんぜらる、ゆえに にょにんはくえにして これ ほうきにあらずとしょうじょうごんきょうのこころをもって なんぜられそうらいしかば、もんじゅが りゅうにょじょうぶつのうむのげんしょうは いま ぶつぜんにして、みえそうろうべしと おおせられそうらいしに、あんにたがはず、はちさいのりゅうにょ じゃしんをあらためずして ぶつぜんにさんけいし、あたいじか さんぜんだいせんせかいととかれてそうろう、にょいほうじゅを ほとけにたてまつりしに、ほとけ よろこんでこれを うけとりたまいしかば、このとき ちしゃくぼさつもしゃりほつもふしんをひらき、にょにんじょうぶつのみちを ふみわけそうろう。されば にょにんじょうぶつのてほん、これよりおこりてそうろう。いさいは ごのまきのきょうもんこれをよむべくそうろう。
p473
  でんぎょうだいしの しゅうくにいわく「のうけのりゅうにょ りゃくこうのぎょうなく、しょけのしゅじょうも りゃくこうのぎょうなし。のうけしょけ ともにりゃくこうなし、みょうほうきょうりき そくしんじょうぶつす」てんだいのじょにいわく「ちしゃくは べつきょうにしゅうしてうたがひをなし、りゅうにょは えんをあかしてうたがひをとく、しんしは さんぞうのごんをはさんでなんず、りゅうにょはいちじつをもって うたがいをのぞく」と。かいりゅうおうきょうにいわく「りゅうにょ さぶつしこくどをこうみょうこくとごうし なをば むくしょうにょらいとごうす」うんぬん。ほっけいぜんのしょきょうのごときは たとひにんちゅう、てんじょうのにょにんなりといふとも、じょうぶつのおもい たたるべし。しかるにりゅうにょ、ちくしょうどうのしゅじょうとして かいかんのすがたをあらためずしてそくしんじょうぶつせしごとは ふしぎなり。これをはじめとして しゃくそんのおば、まかはじゃはだいびくにとう、かんじほんにして いっさいしゅじょうきけんにょらいとじゅきをこうむり、らごらのはは、やしゅたらにょも けんぞくのびくにとともに ぐそくせんまんこうそうにょらいとなり、きどうのにょにんたる じゅうらせつにょもじょうぶつす。しかれば なお ことにじょせいのごしんこうあるべきみきょうにてそうろう。
  そもそも このきょうの いちもんいちくをよみ いちじいってんをかく、なお しゅつりしょうじ、しょうだいぼだいのいんなり。しかれば かのじにけちえんせしもの なお えんまのちょうよりかえされ、ろくじゅうよんじをかきしひとは そのちちをてんじょうへおくる。いかにいわんや あびのえしょうは ごくしょうのじしんにしょし、じごく、てんきゅう みな これ かじのにょらいなり。びるのしんどは ぼんげのいちねんを こえず、しゃなのかくたいも しゅじょうのめいもうをいでず。みょうもんは りょうぜんじょうどにまし ろくまんきゅうせんのろてんは しまこんのきこうをそへたまうべし。ことに かこしょうりょうは ごぞんしょうのときより ごしんじん ほかにことなるおんことなりしかば、こんにち こうきょうのくりきによりて ぶつぜんにしょうをうけ、ぶっかぼだいのしょういんに のぼりたまうべしうんぬん。
 なむみょうほうれんげきょう、なむみょうほうれんげきょう。



  • [217]
  • けんぶつみらいき 顕仏未来記 ひらがな

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 1月 1日(日)02時03分36秒
 
けんぶつみらいき
だいいちしょう しゃくそんのみらいきをげるあげる

けんぶつみらいき          しゃもん にちれん これをかんがう
 ほけきょうの だいななにいわく「わがめつどののち.のちの500さいのなかに えんぶだいにこうせんるふして だんぜつせしむること なけん」とううんぬん,
 よ ひとたびは なげいていわく ぶつめつご すでに2220よねんをへだつ いかなるざいごうによって ほとけのざいせにうまれず しょうほうのしえ、ぞうぼうのなかのてんだい、でんぎょうとうにもあわざるやと、 またひとたびはよろこんでいわく いかなるさちあって のちの500さいにうまれて このしんもんを はいけんすることぞや、ざいせもむやくなり ぜんしみのひとは いまだほけきょうをきかず。
 しょうぞうも またよしなし なんさんほくしち ならびに けごんしんごん とうのがくしゃは ほけきょうをしんぜず、 てんだいたいしいわく「のち500さい とおくみょうどうに うるおわん」とううんぬん こうせんるふの ときをさすか、でんぎょうたいしいわく 「しょうぞうややすぎおわって まっぽうはなはだ ちかきにあり」とううんぬん まっぽうのはじめを がんぎょうするのことばなり、じだいをもって かほうをろんずれば りゅうじゅ、てんじんにちょうかしてんだい、でんぎょうにもすぐるるなり。
P0506

  だいにしょう みらいのるなんをあかす
 とうていわく ごのごひゃくさいは なんじひとりにかぎらず なんぞことにこれを きえつせしむるや。こたえて いわく ほけきょうの だいしにいわく「にょらいの げんざいにすら なおおんしつおおし いわんやめつどの のちをや」もん、てんだいだいし いわく「いかにいわんや みらいをや、り、けしがたきにあり」もん、みょうらくだいし いわく「りざいなんげとは、この りをあかす、ことはこころ、しゅじょうの けしがたきを しらしむるにあり」もん。
ちどほっしいわく「ぞくにろうやく くちににがしというがごとく、このきょうはごじょうのいしゅうを、はいして いっごくの げんしゅうをたつ ゆえにぼんをしりぞけ しょうをかし だいをはいし、しょうをやぶる ないし かくのごときのやから ことごとく、るなんをなす」とううんぬん。
でんきょうだいしいわく「だいをかたれば、すなわち ぞうのおわり、まつのはじめ、ちをたずねれば、とうのひがし、かつのにし、ひとをたずぬれば、すなわちごじょくのしょう、とうじょうのときなり。
きょうにいわくゆたおんしつ、きょうめつどごと、このことばまことに、ゆえあるなり」とううんぬん、このでんきょうだいしの、ひっせきはそのときに、あたるににたれども、こころはとうじをさすなり、しょうぞうややすぎおわって、まっぽうはなはだちかきにあり、のしゃくはこころあるかな。
きょうにいわく「あくま、まみん、しょてんりゅう、やしゃ、くはんだとう、そのたよりをえん」うんぬん、いうところのとうとはこのきょうにまたいわく「もしくはやしゃ、もしくはらせつ、もしくはがき、もしくはふたんな、もしくはきっしゃ、もしくはびだら、もしくはけんだ、もしくはうまろぎゃ、もしくはあばつまら、もしくはやしゃきっしゃ、もしくはにんきっしゃ」とううんぬん、このもんのごときはせんしょうにしみさんきょう、ないしげどう、にんでんなどのほうを、じとくしてこんじょうにあくま、しょてん、しょにんなどのみを、うけたるものがえんじつのぎょうじゃをけんぶんして、るなんをいたすべきよしをくとなり。

だいさんしょう みらいのぐつうの ほうきをあかす
 うたがっていわく、しょうぞうのにじを まっぽうにそうたいするに ときと きと ともに しょうぞうは ことに すぐるるなり なんぞ そのじきをすてて、ひとえに とうじをさすや。
 こたえていわく ぶっち はかりがたし、よ いまだ これをえず こころみに いちぎをあんじ しょうじょうきょうをもって、これをかんがうるに しょうほうせんねんは、きょうぎょうしょうの みっつ、つぶさに これをそなう、ぞうほうせんねんには、きょうぎょうのみ、あって しょうなし、まっぽうには きょうのみあって、ぎょうしょうなし、とううんぬん。
 ほけきょうを もって これをさぐるに しょうほうせんねんに、さんじをぐするは、ざいせにおいて ほけきょうにけつえんするものか、そのごしょうほうに、うまれて しょうじょうの きょうぎょうをもって えんとなし しょうじょうの あかしをうるなり、ぞうほうにおいては ざいせのけつえんびはくのゆえに、しょうじょうにおいて しょうすることなく、このひとごんだいじょうを、もって えんとなして じっぽうのじょうどにしょうず、まっぽうにおいては、だいしょうのえきともに これなし、
p507
しょうじょうには、きょうのみあつて、ぎょうしょうなし、だいじょうには きょうぎょうのみあっつて みょうけんの あかしこれなし、そのうえしょうぞうのときの、しょりゅうのごんしょうの にしゅう、ぜんぜん まっぽうにいりて  しゅうしんいよいよごうじょうにして、しょうをもってだいをうち ごんをもって じつをやぶり、こくどにだいたいほうぼうのもの、じゅうまんするなり、ぶっきょうによつて、あくどうに だするものは、だいちみじんよりも、おおく しょうほうをぎょうじて ぶつどうをえる ものは、そうじょうのどよりも すくなきなり。
 このときに あたって しょてんぜんじん そのくにをしゃりし、ただ じゃてん、じゃきなどあつて、おうしん、びく、びくになどの、しんしんに にゅうじゅうし ほけきょうのぎょうじゃを、めり、きにく せしむべき ときなり、しかりといえども ほとけのめつごにおいて、しみ、さんきょうなどの、じゃしゅうをすて、じつだいじょうの ほけきょうに きせば、しょてんぜんじん ならびに じゆせんがいなどの ぼさつ、ほっけのぎょうじゃを しゅごせん、このひとは しゅごのちからをえて、ほんもんのほんぞん、みょうほうれんげきょうの ごじをもって、えんぶだいに こうせんるふせしめんか。 れいせば いおんのうぶつの、ぞうほうのとき、ふきょうぼさつ、がじんきょうとうの にじゅうよんじをもって、かの どにこうせんるふし、いっこくの じょうもくなどの、たいなんをまねきしが ごとし、かのにじゅうよんじと このごじと そのご ことなりといえども、そのこころ これおなじ、かのぞうほうの まつと、このまっぽうの はじめと まったくおなじ、かのふきょうぼさつは しょずいきのひと、にちれんは、みょうじの ぼんぶなり。

  だいよんしょう まっぽうのごほんぶつをあかす
 うたがっていわく なにをもって これをしる、なんじをまっぽうの はじめのほけきょうの、ぎょうじゃなりと なすということを、 こたえていわく ほけきょうにいわく「いわんや めつどののちをや」またいわく「もろもろのむちのひとあって あっくめりなどし、および とうじょうを くわうるものあらん」またいわく「しばしばひんずいせられん」またいわく、「いっさいせけんあだ おおくして しんじがたし」またいわく「じょうもくがしゃくを もって これをちょうちゃくす」またいわく「あくま、まみん、しょてんりゅう、やしゃ、くはんだなど、そのたよりをえん」とううんぬん、この みょうきょうについて、ぶつごを しんぜしめんがために、にっぽんこくじゅうの おうしん、ししゅの めんもくにひきむかえたるに、よよりのほかには いちにんも これなし。
ときをろんずれば まっぽうのはじめ、いちじょうなり、しかるあいだ もし、にちれんなくんば、ぶつごこもうとならん、なんじていわく、なんじは だいまんのほっしにして だいてんにすぎ、しぜんびくにも こえたり、いかん、こたえていわく、なんじ にちれんをべつじょするの じゅうざい、また だいばだったにすぎ、むくろんじにも こえたり、わがことばは だいまんに にたれども ぶっきをたすけ、にょらいのじつごをあらわさんが ためなり。
しかりといえども、にほんこくじゅうに、にちれんをのぞいては だれびとをとりいだして、ほけきょうのぎょうじゃと なさん、なんじ にちれんを そしらんとして ぶっきを こもうにす、あにだいあくにんに あらずや。 p508

  だいごしょう がっし・かんどに ぶっぽうなきをあかす
 うたがっていわく 、にょらいのみらいきなんじにあいあたれり、ただし ごてんじくならびに、かんどなどにも ほけきょうのぎょうじゃ、これあるか いかん、こたえていわく してんげのなかに、まったく にのひなし、しかいのうち あに りょうしゅあらんや、うたがつて いわく なにをもって、なんじ これをしる。
こたえていわく、つきは にしよりいでて ひがしをてらし  ひは、ひがしよりいでて にしをてらす、ぶっぽうも またもって かくのごとし、しょうぞうには にしよりひがしにむかい、まっぽうには ひがしよりにしにいく、みょうらくだいしの いわく 「あに ちゅうごくにほうをうしないて、これをしいにもとむるに あらずや」とううんぬん。
てんじくに ぶっぽうなきしょうもんなり、かんどにおいて こうそうこうていのとき、ほくてき とんきんを りょうして、いまに ひゃくごじゅうよねん、ぶっぽう おうほうともにつきおわんぬ。
 かんどの だいぞうのなかに、しょうじょうきょうは、いっこうこれなく、だいじょうきょうは、たぶん これをしっす、にほんより じゃくしょうなど しょうしょう これをわたす、しかりといえど、でんじのひとなければ、なお ぼくせきの、えはつをたいじ せるがごとし、ゆえに、じゅんしきのいわく 「はじめ にしよりつたう なお つきのしょうずるが ごとし、いままた ひがしより かえる、なお ひの のぼるがごとし」とううんぬん。
 これらの しゃくのごとくんば、、てんじく、かんどにおいて、ぶっぽうを うせること もちろんなり、とうていわく、がっし かんどにおいて、ぶっぽう なきことは、これをしれり、とうざいほくの さんしゅうに、ぶっぽうなき ことは なにをもって、これをしる、こたえていわく、ほけきょうのだいはちに いわく「にょらいのめつごに おいて えんぶだいのうちに、ひろく るふせしめてだんぜつ せざらしめん」とううんぬん、うちのじは、さんしゅうを きらうもんなり。

  だいろくしょう ごほんぶつのみらいきをあかす
 とうていわく ぶっき すでに かくのごとし、なんじがみらいき いかん、こたえていわく ぶっきにじゅんじて、これをかんがうるに すでにのちのごひゃくさいのはじめに、あいあたれり、ぶっぽうかならず、とうどのにほんより いづべきなり。
 そのぜんそう かならず しょうぞうに ちょうかせるてんぺんちよう これ あるか、いわゆる ぶっしょうのとき、てんぽうりんのとき、にゅうねはんのとき、きちずい、きょうずい ともに ぜんごにたえたる、だいずいなり、ほとけは これ しょうにんのもとなり、きょうぎょうのもんをみるに、ほとけのおたんじょうのときは、ごしきのこうき、しほうに あまねくして よるもひるのごとし、ほとけごにゅうめつのときには、じゅうにの はくこう、なんぼくにわたり、だいにちりん ひかりなくして、やみよのごとくなりし。
そのご しょうぞうにせんねんのあいだ、ないげのしょうにん、しょうめつあれども、この だいずいにはしかず、しかるに いぬる しょうかねんじゅうより、ことしにいたるまで、あるいは おおじしん、あるいはだいてんぺん、あたかも、ぶつだの しょうめつのときのごとし。
 まさに しるべし ほとけのごとき、しょうにん うまれたまわんか、おおぞらに わたって だいほうきぼしいづ、だれの おうしんをもって、これにたいせん、とうずいだいちを、けいどうして みたびしんれつす、いずれのせいけんをもって、これにおおせん。 まさにしるべし、つうずの せけんのきっきょうの だいずいにはあらざるべし、これひとえに このだいほうこうはいの だいずいなり。 p509
 てんだいいわく 「あめのたけきを みて りゅうのだいなるをしり、  はなのさかんなるをみて、いけのふかきをしる」とううんぬん、みょうらくの いわく「ちじんは きをしり、じゃは みずから じゃをしる」とううんぬん。

  だいななしょう みょうほうるふのほうきをしめす
 にちれんこのどうりをそんして、すでににじゅういちねんなり、ひごろのわざわい、つきごろのなん、このりょうさんねんのあいだのこと、すでにしざいにおよばんとす。
 ことし、こんげつ まんがいちも のがれがたき しんみょうなり、よのひと うたがいあるならば、いさいのことは でしに これをとえ。
 さいわいなるかな いっしょうのうちに むしのほうぼうを しょうめつせんことを、よろこばしいかな いまだ けんぶんせざる、きょうしゅしゃくそんにつかえ たてまつらんことよ。
ねがわくは われをそんずる こくしゅなどをば さいしょにこれをみちびかん、われをたすくる でしなどをば、しゃくそんに これをもうさん、われをうめる ふもなどにはいまだ しせざるいぜんに、このだいぜんを すすめん。
ただし いま ゆめのごとく、ほうとうほんのこころをえたり、このきょうにいわく「もし しゅみをとって、たほうのむすうのぶつどに なげおかんも またいまだこれ かたしとせず、ないしもし ほとけのめつごに あくせのなかに おいてよくこのきょうをとかん、これすなわち これ かたし」とううんぬん。
でんぎょうだいしいわく「あさきは やすく、ふかきはかたしとは、しゃかのしょはんなり、あさきをさって ふかきにつくはじょうぶのこころなり。
てんだいだいしは、しゃかに しんじゅんし、ほっけしゅうをたすけて、しんたんに ふようし、えいざんのいっけは てんだいにそうじょうし、ほっけしゅうをたすけて、にほんにぐつうす」とううんぬん。
あんしゅうの にちれんは、おそらくは、さんしにそうじょうし、ほっけしゅうをたすけて、まっぽうにるつうす、さんにいちをくわえて、さんごくよんしと なずく、なむみょうほうれんげきょう・なむみょうほうれんげきょう。
 ぶんえいじゅうねん たいさいみずのと とり のちさつき じゅういちにち    そうもん にちれんこれをしる

  • [215]
  • のうをかんがえる! らほつ し 螺髪氏

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2016年12月 8日(木)02時03分1秒
 
   のうをかんがえる!  らほつ    :2016ねん

   「せいめいのせいき」へのこうさつ。
「のうをかんがえる」。
 もう、20ねんいじょうもまえになるでしょうか。とうようてつがくけんきゅうしょはっこうのしょせきに、いけだせんせいの「のうをかんがえる」というタイトルのろんぶんが、のったことがあります。
まだ、かっかいからのろんぶんがのっていなかっただんかいでしたから、せんせいがみずからそっせんをきってとうこうされたのかな、とのいんしょうでした。
きおくベースですが、しこうやかんじゅの「ざ」がどこにあるのかというと、「のうにある」とのきじゅつだったとおもいます。

 「のう」は、はたらかせて、はたらかせて、はたらかせていないと、「めいそう」にはしるようです。
 いや、ほうっておけば「のう」は、はたらく、しこうしつづける、やがて「めいわく、みょうわく」におちいるというのが、「のう」のじったいなのかもしれません。
「めいわく」から「むみょう」へは、ほとんどいっちょくせんです。つまり、めいそうにはしる、そののうの、きのうこそ、「むみょう」のおおきな、ようそであると、かんがえられるのです。
だから、「のう」は、いっていのほうこうに、むかわせるはたらきを、させてあげなければいけない、いそがしくさせて、あげなくてはいけない、あるいは、ほんとうのいみでの、きゅうそくをあたえて、あげないといけないようです。
 こうれいかしゃかいの、とうらいで、いままさに、この「むみょう」のもんだいはクローズアップされるべきでしょう。
 いけだせんせいと、アーノルド・トインビーの「21せいきへのたいわ」に、こんなきじゅつがあります。
テーマは「よか」です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「21せいきへのたいわ」<じょうかん>だい5しょう 「しゃかいてきどうぶつとしてのにんげん」
②「よかのぞうだいにたいして」 じょうかんP258~261
 いけだ 「=りゃく=
    よかがふえるのは、けっこうなことですが、ろうどうを、うばわれるのは、けっしてよいことではありません。=ちゅうりゃく=
    じこのちからを、ぞんぶんにはっきできる、しごとをうしなうことは、にんげんにとって、たえがたいくつうだからです」

 トインビー、「しつぎょうすることは、いうまでもなくいろいろの、ふこうをまねくものです。
しつぎょうのくるしみのうち、もっともしんこくでないにしても、もっともあきらかな、くつうは、けいざいてきな、こんきゅうです。
しかし、しつぎょうがもたらす、しんりてきくつうは、それいじょうに、はげしいものです。
なにもすることがなくなった、かつてのろうどうしゃというものは、じぶんがしゃかいにとって、よぶんなそんざいに、なったとかんじるものです。
 これは、くつじょくてきなことです。にんげんはしゃかいてきどうぶつであり、しゃかいのはみだししゃになることは、じんかくをひていされたも、どうぜんのいんしょうをあたえるからです。
 さらによくないことには、しつぎょうするということは、ひまになるということです。
 それも、しつぎょうしたひとが、たまたまかずすくない、そうぞうてきさいのうのもちぬしで、しょうがいよかばかりであったとしても、じかんてき、たいりょくてきに、しょうかしきれないほど、おおくのしごとがあるのなら、はなしはべつです。
 そうでもないかぎり、そのひとは、にんげんのうんめいという、きゅうきょくの、もんだいにつきあたらざるをえません。

 にんげんは、せいけいのしをえる、しょくをやめたり、また、せいけいとは、なんのかんけいもない、じぶんでつくりだした、しごとをやめると、とたんにこのもんだいになやまされます。
 そのじぶんでつくったしごとが、いかにたあいなかろうと、ゆうがいであろうと、あるいはそうぞうてきであろうと、それはかわりありません。
 にんげんのうんめいというもんだいは、すべてのひとを、まちうけています。
 これはいかに、どんかんなひとにも、いかに、むかんかくなひとにも、きょうつうのもんだいです。
 なぜなら、にんげんが、いしきあるそんざいであるかぎり、にんげんであることは、やっかいなたちば、おそるべきしんぴさのなかに、いることだと、ときとしてきづかずには、いられないからです。
 じこのそんざいが、ききにみまわれたおりなどに、にんげんのこのような、たちばや、しんぴさにめんすることなく、いっしょうをおえるというひとは、ほとんどありません。
 そして、まんせいてきしつぎょうじょうたいとは、まさにこのいちじてきに、みまうききとおなじはたらきをしうるのです。
 つまり、にんげんのうんめいというもんだいを、ふかひてきにつきつけるのです。

 このもんだいを、ちょくしせざるをえないのは、しゅくふくすべきなのでしょうか。
 それとも、のろわしいことなのでしょうか。
 おおくのにんげんは、まるでそれが、のろわしいようにふるまっています。
 すなわち、かれらはきょうせいてきなしごとによって、まひされることがなくなると、こんどはみずからふひつようなしごとを、かんがえだして、じぶんをまひさせます。
 もししゃかいから、はみだしてしゃかいてきまひざいを、てにいれられなくなると、かれらは、さけやまやくでしんたいをまひさせるのです。

 いけだ 「わたしは、よかがふえるにせよ、ろうどうにとりくむにせよ、にんげんにとってけっきょくだいじなことは、そこにしゅたいせいをかくりつし、そうぞうてきにいきていくことだとかんがえます。
 げんだいのふうちょうには、たんにろうどうじかんをへらせば、それはただちによいことだとするかんがえかたがあります。
 しかしながら、ろうどうはにんげんにとってくつうであるとともに、そうぞうのよろこびをもたらすものでもあるわけです。
 このりょうめんのいみがあることをわすれて、にんげんをろうどうからかいほうして、よかをふやせば、それだけくつうがへって、よろこびにかわるだろうとかんがえるのは、あくまであやまりだといわざるをえません。
 しゃかいたいせいのありかたとしても、わたしは、ろうどうによって、こじんをぎむてきにそくばくするのではなく、かくじんが、じこのさいのうや、とくしつにおうじておもうぞんぶん、はたらくことができ、よかもまた、ゆうこうにすごせるような、そうごうてきなたいせいがつくられなければ、ならないとおもいます。

 トインビー 「おっしゃるとおりです。しかし、ここでもういちど、よかをにんげんのうんめいに、とりこむことにつかうというてんについて、かんたんにふれてみたとおもいます。
なかには、よかをそのようにつかうことを、さいわいとかんじるひともいるものです。
 にんげんのうんめいを、ちょくしするということは、しゅうきょう、てつがくのべつめいです。
 かつて、よかをもつことを、とっけんとしていたしょうすうのうちでも、そうぞうてきしょうすうのなかには、げいじゅつ、かがく、ぎじゅつなどよりは、むしろしゅうきょう、てつがくのぶんやに、さいのうをはっきしたひと々びとが、いつのじだいにもいたものです。
 このように、にんげんのきゅうきょくのせいしんてきもんだいを、かんがえることにしょうがいをついやして、そこにじこたっせいをみいだすことのできたひともいるということは、あらゆるひとにとって、そこに、じこかんせいのカギが、ひめられているということではないでしょうか。
 きっと、そうであるにちがいありません。ただし、にんげんのうんめいというもんだいが、いしきにめざめた、すべてのにんげんに、まちうけているというのが、しんじつであればのはなしですが、これもまちがいなくしんじつであるはずです。
    =いかりゃく=」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 よかは、「かんがえる」きかいをふやしてしまうようです、ねんりんをかさねているひとであれば、よくわかることです。
かんがえないようにしていても、かんがえます、それが「のう」のあたえられた“しごと”であるからのようです。

 トインビーはかせによれば、「まんせいてきしつぎようじようたい」=よかになると、「にんげんのうんめいというもんだいを、ふかひてきにつきつける」ようです。
「きようせいてきなしごとによって、まひされることがなくなると、こんどは、みずからふひつようなしごとをかんがえだして、じぶんをまひさせます」。
 さもなくば「さけやまやくで、しんたいをまひさせる」ようになることもあります。
 やはり、にんげんは「かんがえるあし」のようです。

 「かんがえる」ことの、「のう」の“ざ”は、やはりシナプスけつごうと、かんがえるのがだとうでしょう。
 さいきんのけんきゆうせいかでは、のうのシナプスけつごうは、かなりはやいだんかいで、もうらのあみができ、そのつかわないけつごうがしようしつしていくという、けいかをたどっているようです。
 これは、くさきのえだの、しげりかたもおなじようです。
 くさきのえだは、したからみると、みぎまきにかいてんするように、うえにえだをしげらせていって、いるようです。
 たいふうもおなじかいてんです、こうりつよく、につこうをあびるための、すばらしいしぜんのちようりつだなとも、おもってもいました。
 だがどうも、じつさいのえだのせいちようは、そうではないようです。
 ほとんど、むせつそうにえだ、はをのばし、ふようなものがそのなかから、すたれていくという、けいかをたどっているようです。
 せいめいしてきには、、むしろこちらのかたがげんけいにちかいのでしょうが、のうのシナプスけつごうも、これとおなじようです。

 ほんだいにもどって、「かんがえる」ということが、こののうのシナプスけつごうの、ネットワークのかつどうそのものだとするなら、「かんがえる」ことは、せいしすることができません。
 のうがもつ、ほんらいてきなきのうそのものだからです。
 だから、はなっておけば、かつどうしつづけ、めいそう、もうそうのたぐいにはいりこまざるをえないようです。
 それをさけるには、まひさせるか、ていしさせるしかないともいえます。
 はたらきすぎれば“つかれ”ます。
 もし、そのきのうをそのままにして、しかもはたらきすぎないように、いじするには、そのかつどうをいつていのほうこうに、めいそうさせないように、しかも“つかれ”させないていどに、はたらかせるよりないようです。
 それには、これまでにならった、すでにある、るいじのちくせきのものより、あたらしいもの、むずかしいものがいいようです。
 そのかたが、あたらしいぶんやがかいたくでき、いつていのほうこうに、しかもゆっくりとしたかつどうさぎようとなりそうです。

トインビーはかせの「よかはにんげんのうんめいというもんだいを、ふかひてきにつきつける」にかんけいするものでしょうか、こんなだいしようにんのおおせがあります。

 「こころと、ほとけと、しゆじようと、このみっつは、わが、いちねんのしんちゆうに、おさめて、こころのほかに、なしとかんずれば、げこんのぎようじやすら、なお、いつしようのなかに、みようさとるのくらいにはいる、、ひとつと、たと、そうそくすれば、ひとつくらいにいつさいの、くらい みなこれぐそくせり、ゆえに、いつしようにはいるなり、げこんすら、かくのごとし、いわんやちゆうこんのものをや、いかにいわんや、じようこんをや、じつそうのほかに、さらに、べつのほう、なし、じつそうには、しだいなきがゆえに、くらいなし、そうじて、いちだいのせいきようは、ひとりのほうなれば、わがみのほんたいを、よくよくしるべし、これをさとるをほとけといい、これにまようはしゆじようなり」さんせいしよぶつ、そうかんもん、きようそうはいりゆうP567

「ひとつとたと、そうそくすれば、ひとつくらいに、いつさいのくらい、みなこれぐそくせり、ゆえに、いつしようにはいるなり」、さらに、「げこんすら、かくのごとし、いわんやちゆうこんのものをや、いかにいわんや、じようこんをや、じつそうのほかに、さらにべつのほう、なし、じつそうには、しだいなきがゆえに、くらいなし」とおおせです。「じつそうには、しだいなきがゆえに、くらいなし」です。
 すべてのにんげんが、びようどうに「みようさとるのくらいにはいる」のです。

 それは、トインビーはかせのいう、「にんげんのきゆうきよくの、せいしんてきもんだいを、かんがえることに、しようがいをついやして、そこに、じこたつせいをみいだすことのできたひとも、いるということは、あらゆるひとにとって、そこに、じこかんせいのカギが、ひめられているという、ことではないでしょうか」ということに、きけつするのかもしてません。


  • [214]
  • ほうおんしょう ひらがな 31しょうしょうから37しょう おわり

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2016年12月 3日(土)01時37分15秒
 
31しょう
このくどくは さだめてかみ さんぽう、しも ぼんてん、たいしゃく、にちがつまでも、しろしめしぬらん。
 ふぼも こ どうぜんぼうの しょうりょうも たすかりたまうらん、ただ うたがい おもうことあり もくれんそんじゃは たすけんとをもいしかども ははの しょうだいにょは がきどうにおちぬ。
 だいかくせそんの みこなれども ぜんしょうびくは あびじごくへ おちぬ、これはちからのまま すくはんと、をぼせども じごうじとくかのへんは、すくひがたし。
 こ どうぜんぼうは いたうでしなれば にちれんをば、にくしとは、をぼせ ざりけるらめども、きわめて おくびょうなりしうえ、きよずみを、はなれじと しゅうせしひとなり。
 じとう かげのぶが をそろしさといゐ、だいば、くぎゃりに、ことならぬ えんち、じつじょうがうえとしたとにいて をどせしを あながちにをそれて、いとをしとをもう としごろのでしらをだにも、すてられしひとなれば ごしょうはいかんがとうたがわし、ただひとつのみょうがには かげのぶと えんち、じつじょうとが、さきにゆきしこそ、ひとつのたすかりとは、をもへども かれらは ほけきょうのじゅうらせつのせめを、かほりて、はやくうせぬ。
 のちにすこし しんぜられてありしは、いさかひののちの ちぎりきなり、ひるのともしび なにかせん そのうえいかなることあれども、こでしなんどいうものは ふびんなるものぞかし、ちからなきひとにもあらざりしが さどのくにまでゆきしに いちどもとぶらはれざりしことは ほけきょうをしんじたるにはあらぬぞかし。
 それにつけても、あさましければ かのひとのごしきょときくには ひにもはいり みずにもしずみ、はしりたちても、ゆいておはかをも、たたいてきょうをも いちかんどくじゅせんとこそ、おもへども けんじんのならひ こころには とんせとは、おもはねども ひとは とんせとこそ、おもうらんに、ゆへもなく はしり いづるならば すへも、とをらずと ひとおもひぬべし。
 されば いかに おもひたてまつれども、まいるべきにあらず、
p324
 ただしおのおの、ふたりは にちれんがようしょうのししょうにて、おはします、ごんそうそうじょう、ぎょうひょうそうじょうの でんぎょうだいしのおんしたりしが、かへりてみでしとならせたまいしがごとし、にちれんがかげのぶにあだまれて きよずみさんをいでしに かくしおきて しのびいでられたりしは てんかだいいちのほけきょうのほうこうなり、ごしょうはうたがいおぼすべからず。
28段

32しょう
 とうていわく ほけきょう、いちぶ、はちかん、にじゅう はちほんのなかに なにものか かんじんなるや、こたえていわく けごんきょうのかんじんは だいほうこうぶつ けごんきょう、あごんきょうのかんじんは ぶっせつ ちゅうあごんきょう、だいしつきょうのかんじんは だいほうとう だいしつきょう、はんにゃきょうのかんじんは まかはんにゃはらみつきょう、そうかんきょうの かんじんは ぶっせつ むりょうじゅきょう、かんぎょうのかんじんは ぶっせつ かんむりょうじゅきょう、あみだきょうのかんじんは ぶっせつ あみだきょう、ねはんきょうのかんじんは だいはつ ねはんきょう、かくのごとくの いっさいきょうは みな にょぜがもんの かみのだいもく、そのきょうのかんじんなり。
 だいは だいにつけ しょうはしょうにつけて だいもくをもつて かんじんとす、だいにちきょう、こんごうちょうきょう、そしっちきょうなど、またまたかくのごとし、ほとけもまたかくのごとし だいにちにょらい、にちがつとうみょうぶつ、ねんとうぶつ、だいつうぶつ、うんらいおんのうぶつ、これらのほとけもまた なのうちに そのほとけの しゅじゅのとくを そなへたり。
 いまのほけきょうも またもつて、かくのごとし、にょぜがもんの かみの みょうほうれんげきょうの ごじは すなわちいちぶ はちかんのかんじん、またまた、いっさいきょうのかんじん、いっさいのしょぶつ、ぼさつ、にじょう、てんにん、しゅら、りゅうじんらの ちょうじょうの しょうほうなり。
  とうていわく なむみょうほうれんげきょうと こころもしらぬものの となうると なむだいほうこうぶつ けごんきょうと こころも しらぬもののとなうると さいとうなりや せんじんのくどく さべつせりや。
 こたえていわく せんじんなどあり、 うたがっていわく そのこころいかん、こたえていわく しょうこうは つゆと たまりみずと いと みぞと えとをば おさむれども たいがををさめず、たいがは つゆないししょうがを おさむれども たいかいををさめず。
 あごんきょうは せいこうなど ろけんををさめたるしょうがのごとし、ほうとうきょう、あみだきょう、だいにちきょう、けごんきょうなどはしょうがを をさむるたいがなり、ほけきょうはつゆ、たまりみず、せいこう、しょうが、たいが、てんうなどのいっさいのみずを いったいももらさぬたいかいなり。
 たとえば みの あつきものの だいかんすいのほとりに いねつれば すずしく、しょうすいのほとりに ふしぬれば くるしきがごとし、ごぎゃく、ほうぼうのおおきなる いっせんだいにん、あごん、けごん、かんぎょう、だいにちきょうとうの しょうすいのほとりにては だいざいの だいねつさんじがたし。
 ほけきょうの だいせつせんのうえに ふしぬれば ごぎゃく、ひぼう、いちせんだいなどのだいねつ たちまちにさんずべし、さればぐしゃはかならず ほけきょうをしんずべし。
p325
  おのおのきょうきょうの だいもくは やすきこと、おなじといへども ぐしゃとちしゃとの となうるくどくは てんちうんでいなり、たとへばおおつなは だいりきもきりがたし しょうりきなれども こがたなをもて たやすくこれをきる。
 たとへば かたきいしをば にぶきかたなをもてば だいりきもわりがたし、ときつるぎをもてば しょうりきもわりぬべし、たとへば くすりはしらねども ふくすれば やまい やみぬ しょくは ふくすれども やまい やまず、たとへば せんやくは いのちをのべ ぼんやくは やまいをいやせども いのちをのべず。

33しょう
 うたがっていわく にじゅう はちほんのなかに いずれか かんじんぞや、こたえていわく あるいはいわく ほんほんみな ことにしたがいて かんじんなり、あるいはいわく ほうべんぽん、じゅりょうほんかんじんなり、あるいは いわく ほうべんぽんかんじんなり、あるいはいわく じゅりょうほんかんじんなり、あるいはいわく かいじごにゅうかんじんなり、あるいはいわく じっそうかんじんなり。
29段
 とうていわく なんじがこころいかん こたう なむみょうほうれんげきょうかんじんなり、そのあかし いかん、あなん、もんじゅなど にょぜがもんとううんぬん。
 とうていわく こころいかん。
 こたえていわく あなんともんじゅとは はちねんがあいだ、このほけきょうの むりょうの ぎを いちく、いちげ、いちじものこさずちょうもんしてありしが ほとけのめつごに けつじゅうのとき、きゅうひゃく きゅうじゅう くにんの あらかんが ふでをそめてありしに まずはじめに みょうほうれんげきょうと かかせたまいて にょぜがもんと となえさせたまいしは みょうほうれんげきょうの ごじは いちぶ、はちかん、にじゅう はちほんの かんじんにあらずや。
 されば かこのとうみょうぶつの ときより ほけきょうをこうぜし こうたくじのほううんほっしは「 にょぜとは まさにしょもんを つたえんとす ぜんだいに いちぶをあぐるなり」とううんぬん。
 りょうぜんに まのあたり、きこしめしてありし てんだいだいしは「にょぜとは しょもんのほったいなり」とううんぬん。
 しょうあんだいしのいわく きしゃ しゃくしていわく 「けだし じょおうとは きょうのげんいを じょし げんいは もんしんを じゅつす」とううんぬん。
 このしゃくに もんしんとは だいもくは ほけきょうのこころなり みょうらくだいしいわく「いちだいの きょうほうを おさむること ほっけのもんしんより いづ」とううんぬん、てんじくは しちじゅうかこくなり そうみょうは がっしこく、にほんこくはろくじゅうかこく、そうみょうはにほんこく、がっしのなのうちにしちじゅうかこく、ないし じんちく、ちんぽうみなあり。
 にほんともうす なのうちに ろくじゅう ろっかこくあり、でわの はも おうしゅうのきんも ないし くにのちんぽう、じんちくないし じとうもじんじゃも みな にほんともうす にじのなのうちに おさまれり。
 てんげんをもつては にほんともうす にじをみて ろくじゅうろくこく ないし じんちくなどを みるべし、ほうげんをもつては じんちくなどの ここに しし かしこにうまるをも みるべし。
 たとへば ひとのこえをきいて からだをしり あとをみて だいしょうをしる、はちすをみて いけのだいしょうをはかり あめをみて りゅうのぶんざいをかんがう、これはみな はじめにいっさいの あることわりなり。
p326
 あごんきょうの だいもくには おおむねいっさいは あるやうなれども ただしょうしゃか、いちぶつありて たぶつなし、けごんきょう、かんぎょう、だいにちきょうなどには また いっさいあるやうなれども にじょうを ほとけになすやうと くおん じつじょうの しゃかぶついまさず。
 れいせば はなさいてこのみならず いかずちなつてあめふらず つづみあっておとなし まなこあつて ものをみず にょにんあつて こをうまず、ひとあつていのちなし、 また たましいなし。
 だいにちのしんごん、やくしのしんごん、あみだのしんごん、かんのんのしんごんなど またかくのごとし、かのきょうきょうにして だいおう、しゅみせん、にちげつ、りょうやく、にょいじゅ、りけんなどのやうなれども ほけきょうのだいもくに たいすれば うんでいのしょうれつなるのみならず みな おのおの、とうたいのじゆうをうしなふ。
 れいせば しゅうせいのひかりの ひとつの にちりんに うばはれ、もろもろの てつのひとつの じしゃくにおうて りしょうのつき、だいけんのしょうかに おうてゆうを うしなひ ぎゅうにゅう、ろにゅうなどの ししおうのちちに おうてみずとなり しゅうこがじゅつ、いっけんにおうて うしない、くけんが しょうこにおうて いろをへんずるがごとし。
 なむみょうほうれんげきょうともうせば なむあみだぶつのゆうも なむだいにちしんごんのゆうも かんぜおんぼさつのゆうも いっさいのしょぶつ、しょきょう、しょぼさつのゆうみなことごとくみょうほうれんげきょうのゆうにうしなはる。
 かのきょうきょうは みょうほうれんげきょうのゆうをからずば みないたづらの ものなるべし とうじがんぜんの ことはりなり。
 にちれんが なむみょうほうれんげきょうとひろむれば なむあみだぶつのゆうは つきのかくるがごとく しおのひるがごとく あきふゆのくさの、かるるがごとく こおりのにってんに とくるがごとく なりゆくをみよ。
30段

34しょう
 とうていわく このほう じつにいみじくば など かしょう、あなん、めみょう、りゅうじゅ、むじゃく、てんじん、なんがく、てんだい、みょうらく、でんきょうなどは ぜんどうが なむあみだぶつとすすめて かんどにぐつうせしがごとく、えしん、ようかん、ほうねんが にほんこくを みな あみだぶつになしたるがごとく、すすめ たまはざりけるやらん。
 こたえていわく このなんは いにしえのなんなり いまはじめたるにあらず、めみょう、りゅうじゅぼさつなどは ほとけのめつご、ろっぴゃくねん、ななひゃくねんなどのだいろんしなり、このひとびと よにいでて だいじょうきょうを ぐつうせしかば もろもろの しょうじょうのもの、うたがっていわく かしょう、あなんなどは ほとけのめつごにじゅうねん、よんじゅうねん じゅうじゅし たまいて しょうほうをひろめ たまいしは にょらいいちだいの かんじんをこそぐつうし たまいしか。
 しかるに このひとびとは ただく、くう、むじょう、むがのほうもんをこそ せんとしたまいしに いま めみょう、りゅうじゅなどかしこしといふとも かしょう、あなんなどには すぐべからず これいち、かしょうは ほとけにあひまいらせて げをえたるひとなり、このひとびとは ほとけにあひたてまつらずこれに。
p327
 げどうは じょう、らく、が、じょうと たてしを ほとけ、よにいでさせたまいて く、くう、むじょう、むがと とかせたまいき、このものどもは じょう、らく、が、じょうといへり。
 されば ほとけも ごにゅうめつなり また かしょうなどもかくれさせたまいぬれば だいろくてんのまおうが このものどもが みにいりかはりて ぶっぽうをやぶり げどうのほうと なさんとするなり。
 されば ぶっぽうのあだをば こうべをわれ くびをきれ いのちをたて じきをとめよ くにをおへと もろもろのしょうじょうのひとびと もうせしかども めみょう、りゅうじゅなどは ただ、いちににんなり ちゅうやにあっくのこえをきき ちょうぼにじょうもくを かうふりしなり。
 しかれども このににんは ほとけのおつかいぞかし、まさしくまやきょうには ろっぴゃくねんにめみょういで ななひゃくねんにりゅうじゅいでんと とかれてそうろう、のそうえ りょうがきょうなどにも きせられたり また ふほうぞうきょうには もうすにをよばず、されども もろもろのしょうじょうのものどもはもちいず ただ めくらぜめに せめしなり。
 にょらいの げんざいにすら ゆたおんしつ、きょうめつどごの きょうもんはこのときにあたりて すこしつみしられけり、だいばぼさつの げどうにころされ ししそんじゃの くびをきられし このことをもつて、おもひやらせたまへ。
31段

35しょう
 また ぶつめつご、いっせんごひゃくよねんにあたりて がっしよりは ひがしにかんどといふくにあり ちんずいのよに てんだいだいししゅっせす、このひとのいわく にょらいのせいきょうにだいあり しょうあり けんありみつあり ごんありじつあり。
 かしょう、あなんなどは にいっこうしょうをめひろ めみょう、りゅうじゅ、むじゃく、てんじんなどはごんだいじょうを ひろめて じつだいじょうのほけきょうをば あるいはただ ゆびをさして ぎをかくし あるいはきょうのおもてをのべて しちゅうじゅうをのべず。
 あるいは しゃくもんをのべて ほんもんをあらはさず、あるいは ほんじゃくあつて かんじんなしといひしかば、なんさん、ほくしちのじゅうりゅうがすえ、すうせんまんにん、ときをつくり どっとわらふ。
 よのすえに なるままにふしぎのほっしもしゅつげんせり、ときにあたりて われらをへんしゅうするものはありとも ごかんの えいへいじゅうねん ひのとうのとしより いまちんずいに いたるまでのさんぞう、にんし にひゃくろくじゅうよにんを ものも しらずともうすうえ ほうぼうのものなり あくどうにおつるといふもの、しゅったいせり。
 あまりの、ものくるはしさに ほけきょうをもてきたり たまへる らじゅうさんぞうをも、ものしらぬものともうすなり。
 かんどは さてもをけ がっしのだいろんし りゅうじゅ、てんしんなどのすうひゃくにんのし えのぼさつも いまだ じつぎをのべ たまはずといふなり、これを ころしたらんひとは たかをころしたるものなり おにを ころすにもすぐべしとののしりき。
 また みょうらくだいしのとき、がっしよりほっそう、しんごんわたり かんどにけごんしゅうのはじまりたりしを、とかくせめしかば、これもまた さはぎしなり。
p328
 にほんこくには でんぎょうだいしが ぶつめつご、いっせん はっぴゃくねんに あたりて、いでさせたまい てんだいのおんしゃくをみて きんめいより このかた にひゃくろくじゅうよねんが あいだの ろくしゅうをせめたまいしかば ざいせのげどう、かんどのどうし、にほんにしゅつげんせりと ぼうぜしうえ。
 ぶつめつご、いっせん はっぴゃくねんがあいだ、がっし、かんど、にほんになかりし えんどんのたいかいを たてんというのみならず、さいこくの かんのんじのかいだん、とうごくしもつけの おのでらのかいだん、ちゅうごく やまとのくに、とうだいじの かいだんはおなじく しょうじょう しゅうふんの かいなり がしゃくのごとし。
 それをたもつ ほっしらは やかん、えんこうなどのごとしとありしかば あらふしぎや ほっしににたる おおいなむし、くににしゅつげんせり ぶっきょうのなえいちどきに、うせなん。
 いんのちゅう、かのけつ、ほっしとなりて にほんにうまれたり、ごしゅうのうぶん、とうのぶそう、ふたたび よにしゅつげんせり ぶっぽうもただいま うせぬべし くにもほろびなんと たいじょう、しょうじょうの にるいのほっし しゅつげんせば しゅらとたいしゃくと こううとこうそと いっこくにならべる なるべしと、しょにん てをたたき したをふるふ。
 ざいせには ほとけとだいばが ふたつのかいだんありて、そこばくのひとびと、しにき、されば たしゅうには、そむくべし わがし てんだいだいしのたてたまわざる えんどんのかいだんを たつべしという ふしぎさよ、 あらをそろし をそろしと ののしりあえりき。
 されども きょうもん ふんみょうにありしかば えいざんの たいじょうかいだん すでにたてさせたまいぬ、されば ないしょうはおなじけれども ほうのるふは かしょう、あなんよりも めみょう、りゅうじゅなどは すぐれ めみょうなどよりも てんだいはすぐれ てんだいよりも でんきょうはこえさせたまいたり よ まつになれば ひとのちはあさく ぶっきょうはふかくなることなり。
 れいせば けいびょうは ぼんやく、じゅうびょうには せんやく、よわきひとには つよきかたうど ありてたすくるこれなり。

36しょう
 とうていわく てんだい でんきょうの ぐつうしたまわざる しょうほうありや、こたえていわく あり もとめていわく なにものぞや、こたえていわく みっつあり。
 まっぽうのために ほとけとどめ おきたまう かしょう、あなんなど、めみょう、りゅうじゅなど、てんだい、でんきょうなどの ぐつうせさせたまはざる しょうほうなり。
 もとめていわく そのぎょうみょういかん、こたえていわく ひとつには にほん、ないし いちえんぶだい、いちどうに ほんもんのきょうしゅ しゃくそんを ほんぞんとすべし、いわゆるほうとうのうちの しゃか、たほう、そのほかのしょぶつ、ならびにじょうぎょうなどの しぼさつきょうじとなるべし。
 ふたつには ほんもんのかいだん、みっつには にほん、ないしかんど、がっし、いちえんぶだいに ひとごとに うちむちをきらはず いちどうにたじをすてて なむみょうほうれんげきょうと となうべし、このこといまだ、ひろまらず いちえんぶだいのうちに ぶつめつご、にせんにひゃく にじゅうごねんがあいだ いちにんもとなえず。
p329
  にちれんいちにん、なむみょうほうれんげきょう、なむみょうほうれんげきょう とうと こえも をしまず となうるなり、れいせば かぜにしたがつて なみのだいしょうあり たきぎによつて ひのこうげあり いけにしたがって はちすのだいしょうあり あめのだいしょうは りゅうによる ねふかければ えだしげし みなもと とおければ ながれながしと、いう これなり。
 しゅうの よの ななひゃくねんは ぶんおうの れいこうによる しんのよ ほどもなし しこうの さどうによるなり、にちれんが じひこうだいならば なむみょうほうれんげきょうは まんねんのほか、みらいまでもながるべし。
 にほんこくの いっさいしゅじょうの もうもくを ひらけるくどくあり、むげんじごくの みちをふさぎぬ、このくどくは でんぎょう、てんだいにもこへ りゅうじゅ、かしょうにもすぐれたり。
 ごくらく ひゃくねんのしゅぎょうは えどの いちにちの くどくにおよばず。
 しょうぞう にせんねんの ぐつうは まっぽうの いちじにおとるか、これひとへに にちれんがちの かしこきには、あらず ときのしからしむるのみ。
 はるは はなさき あきはこのみなる なつは、あたたかに ふゆは、つめたし ときのしからしむるに あらずや。
33段
 「わが めつどののち、のちのごひゃくさいのなかに こうせんるふして えんぶだいに おいてだんぜつして あくま、まみん、もろもろのてんりゅう、やしゃ、くはんだとうに そのたよりを えせしむることなけん」とううんぬん。
 このきょうもん もしむなしくなるならば しゃりほつは けこうにょらいとならじ、かしょうそんじゃは こうみょうにょらいとならじ もくけんは たまらばせんだんこうぶつとならじ あなんは さんかいえじざいつうおうぶつとならじ まかはじゃはだいびくには いっさいしゅじょう きけんぶつとならじ やしゅたらびくには ぐそくせんまんこうそうぶつとならじ。
 さんぜんじんてんも けろんとなり、ごひゃくじんてんも もうごとなりて、おそらくは きょうしゅしゃくそんは むげんじごくにおち たほうぶつは あびの ほのおにむせび じっぽうのしょぶつは はちだいじごくをすみかとし いっさいのぼさつは いっぴゃく さんじゅうろくの くるしみをうくべし。
 いかでか そのぎ そうろうべき、そのぎなくば にほんこくは いちどうの なむみょうほうれんげきょうなり。

37しょう
 されば はなは ねにかへり このみは つちにとどまる、このくどくは こ どうぜんぼうの しょうりょうの おんみにあつまるべし、なむみょうほうれんげきょう、なむみょうほうれんげきょう

 けんじにねん だざいひのえ ね
はつき にじゅういちにち これをしるす。

  こうしゅう はきりのごう、みのぶさんより、あわのくに とうじょうのごおり、きよずみさん、じょうけんぼう、ぎじょうぼうのもとに ぶそうす。



  • [213]
  • ほうおんしょう ひらがな 26しょうしょうから30しょう

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2016年12月 3日(土)01時34分50秒
 
26しょう
23段
 れいせばかんどのぜんどうが はじめは みつしゅうのめいしょうといゐしものに おうて ほけきょうをよみたりしが のちにはどうしゃくにおうて ほけきょうをすて かんぎょうによりて じょをつくり ほけきょうをば せんちゅう むいち、ねんぶつをば じゅうそく じゅっしょう、ひゃくそく ひゃくしょうとさだめて
p318
このぎをじょうぜんがために あみだぶつのごぜんにして きせいをなす。
 ぶついにかなうや いなや まいよゆめのなかに つねにひとりの そうありて きて しじゅすと うんぬん、ないし もっぱらきょうほうのごとく せよ ないし かんねんほうもんきよう とううんぬん。
 ほけきょうには 「もし ほうをきくものあればひとつとして じょうぶつせざるなし」とぜんどうは「せんのなかに ひとつもなし」とううんぬん、ほけきょうとぜんどうとは すいかなり ぜんどうはかんぎょうをば じゅうそくじゅっしょう、ひゃくそくひゃくしょう、むりょうぎきょうにいわく「かんぎょうは いまだしんじつをあらわさず」とううんぬん。
 むりょうぎきょうとようりゅうぼうとは てんちなり これを あみだぶつのそうとなりて きたって なんじがじょは まことなりとあかしたまわんは、あにまことならんや、そもそもも あみだは ほけきょうのざにきたりて したをば いだしたまはざりけるか、かんのんせいしは ほけきょうのざには なかりけるか、これをもて をもへ じかくだいしの おんゆめは わざわひなり。
24段

27しょう
 とうていわく こうぼうだいしの しんぎょうのひけんにいわく「ときに こうにんくねんのはる てんかたいえきす、ここに こうていみずから おうごんをひったんにそめ こんしをそうしょうに にぎりて はんにゃしんぎょう いちかんを しょしゃし たてまつりたまう よ こうどくのせんに のっとりて、きょうしのしゅうを つづる いまだ けつがんのしを はかざるに、そせいの やから みちにたたずむ。
 よるへんじて しかも にっこうかくかくたり これぐしんの かいとくにあらず こんりん ごしんりきの しょいなり、ただし じんしゃに もうでんともがらは このひけんを じゅしたてまつれ。
 むかし よ じゅぶせっぽうの むしろに ばいして まのあたり そのしんもんを ききたてまつる あにそのぎに たっせざらんや」とううんぬん、またくじゃくきょうの おんぎにいわく「こうぼうだいしきちょうののち しんごんしゅうをたてんとほっし しょしゅうをちょうていにぐんじゅうす そくしんじょうぶつのぎを ううたがう、だいしちけんのいんをむすびて なんぽうにむかうに めんもんにわかにひらいて こんじきのびるしゃなとなり すなわち ほんたいにげんきす。
 にゅうが、がにゅうのこと、そくしんとんじょうのうたがいこのひしゃくぜんたり、しかるにしんごん、ゆがのしゅう、ひみつまんだらのみち かのときより こんりゅうしぬ」。
 またいわく「このときに しょしゅうの がくと だいしにきして はじめて しんごんをえて しょうえきししゅうがくす さんろんのどうしょう、ほっそうのげんにん、けごんのどうゆう、てんだいのえんちょうなど みなそのたぐいなり」。
 こうぼうだいしの でんにいわく「きちょう はんしゅうのひ ほつがんしていわく わが しょがくのきょうほう もし かんのうのち あらば このさんこ そのところに いたるべし よって にほんのほうに むけて さんこを なげあぐ はるかにとんで くもにはいる かんなつきに きちょうす」とうんぬん。
 またいわく「こうやさんの したに にゅうじょうのところを しむ ないし かのかいじょうの さんこ いまあらたに ここにあり」とううんぬん、このだいしの とくむりょうなり そのりょうさんをしめす、かくのごとくのだいとくあり いかんが このひとを しんぜずして、かへりて あびじごくに おつるといはんや。
p319
 こたえて いわく よもあおいで しんじたてまつることかくのごとし ただいにしえのひとびとも ふかしぎのとくありしかども ぶっぽうのじゃせいは それにはよらず、げどうが あるいはこうがを みみにじゅうにねんとどめ あるいは たいかいをすひほし あるいは にちげつをてに にぎり あるいは しゃくしを ぎゅうようとなし なんど、せしかども、いよいよ だいまんを、をこして しょうじの ごうとこそなりしか。
 これをば てんだいいわく「みょうりをもとめけんないをます」とこそ しゃくせられてそうらへ、こうたくが たちまちにあめをふらし しゅゆにはなをさかせしをも みょうらくは「かんのうかくのごとくなれども、なおりに かなわず」とこそかかれてそうらへ。
 さればてんだいだいしの ほけきょうを よみて しゅゆに かんうをふらせ、でんきょうだいしのみっかがうちにかんろのあめをふらして をはせしも それをもつて ぶついにかなうとはをほせられず。
 こうぼうだいしいかなるとくましますとも ほけきょうをけろんのほうとさだめ しゃかぶつをむみょうのへんいきと かかせたまえる おんふでは ちえ かしこからんひとは もちゆべからず、

28しょう
いかにいわうや かみにあげられて そうろう とくどもは ふしんあることなり。
 「こうにんくねんのはる、てんかたいえき」とううんぬん、はるはきゅうじゅうにち、いずれのつき、いずれのひぞ これいち、またこうにん くねんには たいえきありけるか これに、また「よるへんじて にっこうかくかくたり」とうんぬん、このことだいいちの だいじなり こうにんくねんは さがてんのうのみよなり さしうしのきに のせたりや これさん、たとい のせたりとも しんじがたきことなり じょうこう にじゅっこう、じゅうこう きゅうこう、いじょう にじゅうきゅうこうが あいだに、いまだなき てんぺんなり、よなかに にちりんのしゅっげんせる こといかん。
 またにょらい いちだいのしょうきょうにも みへず みらいに よなかににちりんいづべしとは さんこう ごていのさんぷん、ごてんにものせず ぶっきょうのごときんば えこうにこそ ふたつのひ、みっつのひ、ないしななつのひは いづべしとはみえたれども、それは ひるのことぞかし、よるひ しゅっげんせば とうざいほくのさんぽうはいかん、たとい ないげてんにしるせずとも げんに こうにんくねんのはる、いずれのつき、いずれのひ、いずれのよるの いずれのときに ひいづるという。
 くげ、しょけ、えいざんなどのにっきあるならば、すこししんずるへんもや、つぎしもに「むかしよじゅぶせっぽうの むしろにばいして まのあたりそのしんもんをきく」とううんぬん、このふでをひとにしんぜさせしめんがために かまへいだす だいもうごか。
 されば りょうぜんにして ほっけはけろん、だいにちきょうは しんじつと ほとけのとき たまいけるを あなん、もんじゅがりあやまて みょうほけきょうをばしんじつとかけるか、いかん。
 いうにかいなき いんにょ、はかいのほっしらがうたをよみて ふらすあめを さんしちにちまでくださざりしひとは、かかるとくあるべしや、これし、
p320
 くじゃくきょうの おんぎにいわく「だいしちけんのいんをむすんで なんぽうにむこうに めんもんにわかにひらいて こんじきのびるしゃなとなる」とううんぬん。
 これまた いずれのおう、いずれのねんじぞ、かんどには けんげんをはじめとし にほんには たいほうをはじめとして しそのにっき、だいじにはかならずねんごうのあるが、これほどのだいじに、いかでかおうもしんも ねんごうもにちじもなきや。
 またつぎにいわく「さんろんのどうしょう、ほっそうのげんにん、けごんのどうゆう、てんだいのえんちょう」とううんぬん、そもそもえんちょうは じゃっこうだいし、てんだいだいにのざすなり、そのときなんぞだいいちのざすぎしん、こんぽんのでんぎょうだいしをばめさざりけるや、えんちょうはてんだいだいにのざす、でんぎょうだいしのみでしなれども またこうぼうだいしのでしなり、でしをめさんよりは さんろん、ほっそう、けごんよりは てんだいのでんぎょう、ぎしんのふたりをめすべかりけるか。
 しかもこのにっきにいわく「しんごんゆがのしゅう、ひみつまんだら かのときよりして こんりゅうす」とううんぬん、このふではでんぎょう、ぎしんのごぞんしょうかとみゆ、こうぼうはへいぜいてんのう、だいどうにねんより こうにんじゅうさんねんまでは さかんにしんごんをひろめしひとなり。
 そのときは このふたりげんにおはします またぎしんは てんちょうじゅうねんまでをはせしかば そのときまで こうぼうのしんごんは、ひろまらざりけるか、かたがたふしんあり、くじゃくきょうのじょはこうぼうのでし、しんさいがじきなり しんじがたし。
 またじゃけんのものが くげ、しょけ、えんちょうのきをひかるべきか、またどうしょう、げんにん、どうゆうのきをたずぬべし。
 「めんもん にわかにひらいてこんじきの びるしゃなとなる」とううんぬん、めんもんとはくちなり くちのひらけたりけるか みけんひらくとかかんとしけるが あやまりて めんもんとかけるか、ぼうしょをつくるゆへに、かかるあやまりあるか。
 「だいし ちけんのいんをむすんで、なんぽうにむかうに めんもんにわかにひらいて こんじきのびるしゃなとなる」とううんぬん、ねはんきょうのごにいわく「かしょう ほとけにもうしてもうさく せそん われいま このししゅのひとに よらず なにをもってのゆえに くしらきょうのなかの ごときほとけ くしらのために ときたまわく もし てんまぼん はえせんと ほっするがために へんじて ほとけのかたちとなり さんじゅうにそう、はちじゅうしゅこうを ぐそくし しょうごんし えんこういちじん めんぶえんまんなること なお つきのせいめいなるがごとく みけんのごうそう しろきこと かせつにこえ ないしひだりのわきより みずを いだし みぎのわきより ひをいだす」とううんぬん。
 またろくのまきにいわく「ほとけ かしょうにつげたまわく われ はつねはんして ないし のち このまはじゅん ようやく まさにわがしょうほうを そえす ないし けして あらかんの しんおよび ほとけの しきしんとなり まおうこのうろのかたちを もって むろのみとなり わがしょうほうを やぶらん」とううんぬん。
 こうぼうだいしは ほけきょうを けごんきょう、だいにちきょうにたいして、けろんとううんぬん、
p321
しかも ぶっしんをげんず これねはんきょうには ま うろの かたちをもつて ほとけとなつて わがしょうほうをやぶらんと しるしたまう、ねはんきょうのしょうほうは ほけきょうなり ゆえにきょうのつぎしものもんに いわく「ひさしく すでに じょうぶつす」。
 またいわく「ほっけの なかのごとし」とううんぬん、しゃか、たほう、じっぽうのしょぶつはいっさいきょうにたいして「ほけきょうはしんじつ、だいにちきょうなどのいっさいきょうはふしんじつ」とううんぬん。
 こうぼうだいしは ぶつしんをげんじて けごんきょう、だいにちきょうにたいして「ほけきょうはけろん」とううんぬん、ぶっせつまことならば こうぼうは てんまにあらずや。
 また さんこのこと、ことにふしんなり かんどのひとの にほんにきたりてほりいだすとも しんじがたし、いぜんにひとをや、つかわして、うづみけん、いわうや こうぼうは にほんのひとかかる おうらん そのかずおおし これらをもつて ぶついにかなうひとの しょうことはしりがたし。
25段

29しょう
 さればこのしんごん、ぜんしゅう、ねんぶつとう やうやく、かさなりきたるほどに にんのう はちじゅうにだい、たかなり、おきのほうおう、ごんのたゆうどのを うしなわんと としごろ、はげませたまいけるゆへに だいおうたる こくしゅなれば、なにとなくとも ししおうの うさぎをふくするがごとく、たかの きじをとるやうにこそ、あるべかりし うえ、えいざん、とうじ、おんじょう、なら、しちだいじ、てんしょうだいじん、しょうはちまん、さんのう、かも、かすがなどに すうねんがあいだ、あるいはちょうぶく、あるいは かみにもうさせたまいしに ふつか、みっか、だにも、ささへかねて さどこく、あわこく、おきこくとうに ながしうせて ついにかくれさせたまいぬ。
 ちょうぶくのじょうしゅ、おむろは ただ とうじを かへらるるのみならず まなこのごとく あひせさせたまいし だいいちの てんどう、せいたかが くびきられたりしかば ちょうぶくのしるし げんちゃくおほんにんの ゆへとこそ みへてそうらへ。
 これはわづかのことなり こののち さだんで にほんこくの しょしんばんみん いちにんもなく かれくさをつみて ひをはなつがごとく だいせんの くづれて たにをうむるがごとく わがくに、たこくにせめらるること しゅったいすべし、

30しょう
このこと、にほんこくのなかに ただにちれんいちにん ばかりしれり。
 いゐいだすならば いんのちゅうおうの ひかんが むねを、さきしがごとく かのけつおうの りゅうほうがくびを きりしがごとく だんみらおうの ししそんじゃが くびをはねしがごとく じくのどうしょうが ながされしがごとく ほうどうさんぞうの かなやきを やかれしがごとく、ならんずらんとは かねて しりしかども ほけきょうには 「われ しんみょうをあいせず、ただむじょうどうを おしむ」と とかれ ねはんきょうには「むしろしんみょうを うしなうとも きょうをかくさざれ」といさめたまえり。
 こんどいのちをおしむならば、いつのよにかほとけになるべき、
p322
また いかなるよにか ふぼ、ししょうをも すくひ たてまつるべきと、ひとへに、をもひきりてもうし はじめしかば あんにたがはず あるいはところをおひ あるいはのり あるいはうたれ あるいはきずを、かうふるほどに いぬる こうちょうがんねん かのととり さつき じゅうににちに ごかんきを、かうふりて いずのくに いとうにながされぬ、また おなじきこうちょうさんねん みずのと い きさらぎ にじゅうににちに ゆりぬ。
26段
 そののち いよいよ ぼだいしんごうじょうにして もうせば、いよいよだいなんかさなること、おおかぜに おおなみのおこるがごとし。
 むかしの ふきょうぼさつの じょうもくのせめも わがみに、つみしられたり かくとくびくが かんきぶつのまつの だいなんも、これにはおよばじとをぼゆ、にほん ろくじゅうろっかこく、しまふたつのなかに いちにち、もかたとき いずれのところに、すむべきやうもなし。
 いにしえは にひゃくごじゅっかいを たもちて にんにくなること、らうんのごとくなる じかいのしょうにんも ふるなのごとくなる ちしゃも にちれんにあいぬれば あっくをはく、しょうじきにして ぎちょう、ただひとこうの ごとくなる けんじゃらも にちれんをみては りをまげて ひと をこなう。
 いわうや せけんのつねのひとびとは いぬの さるをみたるがごとく りょうしが しかを、こめたるににたり、にほんこくのなかに ひとりとしてゆえこそ、あるらめと、いうひとなし どうりなり、ひとごとにねんぶつを もうす ひとにむこうごとに ねんぶつは むげんにおつると いうゆへに、ひとごとに しんごんをたっとむ しんごんは くにをほろぼす あくほうという。
 こくしゅは ぜんしゅうをたっとむ にちれんは てんまのそいというゆへに われとまねける、わざわひなれば ひとの、のるをも、とがめず、とがむとても ひとりならず、うつをもいたまず もとより ぞんぜしがゆへに、かう、いよいよ みも、をしまず ちからにまかせて、せめしかば ぜんそう すうひゃくにん、ねんぶつしゃ すうせんにん、しんごんし ひゃくせんにん、あるいは ぶぎょうにつき あるいは きりひとにつき あるいは きりにょうぼうにつき あるいは ごけあま ごぜんなどについて むじんの ざんげんをなせしほどに さいごには てんか だいいちのだいじ、にほんこくを うしなはんと じゅそするほっしなり。
 こ さいみょうじどの、ごくらくじどのを むげんじごくにおちたりと もうす ほっしなり おたずね あるまでもなし ただ しゅゆに くびをめせ でしらをば また くびをきり あるいは おんごくにつかはし あるいは ろうにいれよと あま ごぜんたち、いからせたまいしかば、そのまま おこなわれけり。
27段
 いぬる ぶんえいはちねん かのとひつじ ながつき じゅうににちの よるは さがみのくに たつのくちにて きらるべかりしが、いかにしてやありけん そのよはのびて、えちというところへつきぬ。
p323
  またじゅうさんにちの よるはゆりたりと、どどめきしが またいかにやありけん、さどのくにまでゆく、きょうきる あすきるといひしほどに しかねんというに けっくは いぬる ぶんえいじゅういちねん だざい きのえいぬ きさらぎ じゆうよっかにゆりて おなじき やよいにじゅうろくにちに かまくらへはいり おなじき うつきのはちにち へいの さえもんのじょうに けんざんして やうやうのこと もうしたりしなかに ことしは もうこは いちじょうよすべしと もうしぬ、おなじき さつきのじゅうににちに かまくらをいでて このやまにはいれり。
 これは、ひとへにふぼのおん、ししょうのおん、さんぽうのおん、こくおんをほうぜんがために みをやぶり いのちをすつれども やぶれざれば、さでこそそうらへ。
 また けんじんのならい みたび くにをいさむるに もちひずば さんりんにまじわれと、いうことは さだまるれいなり、

  • [212]
  • ほうおんしょう ひらがな 16しょうしょうから25しょう

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2016年11月30日(水)15時54分58秒
 
21しょう
こうぼう、じかく、ちしょうのあやまり くにに としひさし そのうえぜんしゅうと ねんぶつしゅうとの、わざわいあいをこりて ぎゃくふうにおおなみをこり だいじしんのかさなれるがごとし。
 さればやうやくくにをとろう だじょうにゅうどうがくにをおさへ しょうきゅうにおうい つきはてて よひがしにうつりしかども ただくにじゅうのみだれにて たこくのせめはなかりき。
 それは ほうぼうのものは あれどもまたてんだいのしょうほうもすこしあり、そのうえ ささへあらわす ちじんなし、かるがゆへに、なのめなりき、たとえへばししのねぶれるは てをつけざれば、ほへず。
p313
 はやきながれは ろをささへざれば なみたかからず、ぬすびとは とめざれば、いからず ひはたきぎをえくわざれば、さかんならず、ほうぼうはあれども、あらわすひとなければ おうほうもしばらくはたえず、くにも、をだやかなるに、にたり。
 れいせば にほんこくに ぶっぽうわたり はじめてそうらいしに はじめは、なにごともなかりしかども もりや、ほとけをやき そうをいましめ どうとうをやきしかば てんよりひのあめふり くにに はうさうをこり ひょうらんつづきしがごとし。
 これはそれには、にるべくもなし、ほうぼうのひとびとも くににじゅうまんせり、にちれんがたいぎもつよく せめかかるしゅらと たいしゃくと ほとけとまおうとの かっせんにも、をとるべからず。
 こんこうみょうきょうにいわく「ときにりんごくのおんてき かくのごとき ねんをおこさん、まさに しへいをぐして かのこくどをやぶるべし」とううんぬん、またいわく「ときにおう みおわって そく しへいを よそおいて かのくににはっこうし とうばつをなさんと ほっす われらそのときに まさに けんぞくむりょうむへんのやしゃ しょじんと おのおのかたちをかくしてこれに
ごじょをなし かのおんてきをして じねんにこうぶくせしむべし」とううんぬん。
 さいしょうおうきょうの もんまたかくのごとし だいしつきょううんぬん にんのうきょううんぬん、これらのきょうもんのごときんば しょうほうをぎょうずるものを こくしゅあだみじゃほうをぎょうずるものの かたうどせば だいぼんてんおう、たいしゃく、にちがつ、してんなど、りんこくのけんおうのみにいりかわりて そのくにをせむべしとみゆ。
 れいせばきりたおうを せっせんげおうのせめ だいぞくおうを げんにちおうの うしなひしがごとし、きりたおうとだいぞくおうとは がっしのぶっぽうを うしなひしおうぞかし、かんどにも ぶっぽうをほろぼしし おうみなけんおうにせめられぬ。
 これはそれには、にるべくもなし ぶっぽうの、かたうど、なるやうにて ぶっぽうをうしなうほっしをたすくとみえて しょうほうのぎょうしゃをうしなうゆへに ぐしゃはすべてしらず ちしゃなんども つねのちじんはしりがたし、てんもげれつのてんにんはしらずもや あるらん、されば かんど、がっしのいにしへのみだれよりも おおきなるべし。
18段

22しょう
 ほうめつじんきょうにいわく「われ はつないおんの のち ごぎゃくじょくせに まどうこうじょうし ましゃもんとなって わがみちをえらんせん、ないし あくにん うたたおおく かいちゅうのいさごのごとく ぜんしゃ はなはだすくなくして もしはひとつ もしはふたつ」うんぬん。
 ねはんきょうにいわく「かくのごときなどの ねはんきょうてんをしんずるものは そうじょうの どのごとく ないしこのきょうを しんぜざるものは じゅっぽうかいの しょうの ちどのごとし」とううんぬん。
 このきょうもんは ときにあたりて とうとく よが きもにしみぬ、とうせい にほんこくには われもほけきょうを しんじたり しんじたり、しょにんのかたりの ごときんば いちにんも ほうぼうのものなし、
p314
このきょうもんには まっぽうにほうぼうのもの、じっぽうのちど、しょうほうのもの そうじょうのど とううんぬん、きょうもんと せけんとは すいかなり、せけんのひといわく にほんこくには にちれんいちにんばかりほうぼうのもの とううんぬん、またきょうもんには だいちよりおおからん とうんぬん、ほうめつじんきょうには ぜんしゃ いちににん、ねはんきょうには しんじゃ そうじょうのど とううんぬん、きょうもんのごとくならば にほんこくは ただ にちれんいちにんこそ そうじょうのど いち ににんにては そうらへ、されば こころあらんひとびとは きょうもんをか もちゆべき せけんをか もちゆべき。
19段
 とうていわく ねはんきょうのもんには ねはんきょうのぎょうしゃは そうじょうのどとううんぬん、なんじがぎには ほけきょうとううんぬんいかん。
 こたえていわく ねはんきょうにいわく「ほっけのなかのごとし」とううんぬん、みょうらくだいしいわく「だいきょうみずからほっけをさして ごくとなす」とううんぬん、だいきょうともうすは ねはんきょうなり ねはんきょうにはほけきょうをごくとさしてそうろうなり。
 しかるをねはんしゅうのひとの ねはんきょうをほけきょうにまさるともうせしは しゅをしょじゅうといゐ げろうをじょうろうといゐしひとなり、ねはんきょうをよむともうすは ほけきょうをよむをもうすなり。
 たとえへば けんじんはこくしゅをおもんずるものをば われを、さぐれども ぶよろこなり、ねはんきょうは ほけきょうをさげて われをほむるひとをば、あながちに かたきと、にくませたまう。

23しょう
 このれいをもつて しるべし けごんきょう、かんきょう、だいにちきょうとうをよむひとも ほけきょうをれつとよむは それぞれのきょうきょうのこころにはそむくべし、これをもつて しるべし ほけきょうをよむひとの このきょうをば しんずるやう、なれども しょきょうにても とくどうなるとをもうは このきょうをよまぬひとなり。
 れいせば かじょうだいしは ほっけげんともうすもん、じゅっかんつくりて ほけきょうをほめしかども、みょうらく かれをせめていわく 「そしりそのなかにあり、なんぞぐさんとなさん」とううんぬん。
 ほけきょうをやぶるひとなり さればかじょうはおちて てんだいにつかひて ほけきょうをよまず われきょうをよむならば あくどうまぬかれがたしとて しちねんまでみをはしとしたまいき。
 じおんだいしは げんさんと もうして、ほけきょうをほむるもん、じゅっかんあり でんきょうだいし せめていわく 「ほけきょうを ほむるといえども かえって ほっけのこころを ころす」とううんぬん。
 これらをもつて おもうに ほけきょうをよみ さんたんする ひとびとのなかに むげんじごくは おおくあるなり、かじょう、じおんすでにいちじょうひぼうの ひとぞかし、こうぼう、じかく、ちしょう あにほけきょう べつじょのひとに あらずや、かじょうだいしの ごとく こうをはいし しゅうをさんじて みをはしと なせしも なお いぜんのほけきょう ひぼうのつみや、きへざるらん。
 れいせば ふきょうきょうきのしゅうは ふきょうぼさつに しんぷくずいじゅうせしかども じゅうざいいまだ、のこりて せんごうあびにおちぬ。
p315
  さればこうぼう、じかく、ちしょうらは たとい ひるがへすこころありとも なおほけきょうをよむならば じゅうざいきへがたし いわうや、ひるがへるこころなし、またほけきょうをうしないしんごんきょうを ちゅうやにおこない ちょうぼにでんぽうせしをや。
 せしんぼさつ、めみょうぼさつは しょうをもてだいをはせるつみをば したをきらんとこそせさせたまいしか、せしんぼさつは ぶっせつなれども あごんきょうをば、たわぶれにも したのうえにをかじとちかひ、めみょうぼさつは ざんげのためにきしんろんをつくりて しょうじょうをやぶりたまいき。
 かじょうだいしは てんだいだいしをしょうじ たてまつりて ひゃくよにんのちしゃのまえにして ごたいをちになげ へんしんにあせをながし くれないの、なんだをながして いまよりは でしをみじ ほけきょうをかうぜじ でしのおもてを、まほり ほけきょうをよみたてまつれば わがちからのこのきょうをしるに にたりとて、てんだいよりも こうそうろうそうにて、をはせしが、わざとひとのみるとき、をひまいらせて かわをこへ、かうざに ちかづきて、せなかにのせまいらせて こうざにのぼせたてまつり けっく、ごりんじゅうののちには ずいのこうていにまいらせて しょうにがははに をくれたるがごとくにあしずりをして なきたまいしなり。
 かじょうだいしのほっけげんをみるに いたうほけきょうをぼうじたるじょにはあらず ただほけきょうと しょだいじょうきょうとは もんはせんじんあれども こころはひとつとかきてこそそうらへ、これがほうぼうのこんぽんにてそうろうか。
20だん
 けごんのちょうかんも しんごんのぜんむいも だいにちきょうとほけきょうとは りはひとつとこそ、かかれてそうらへ、かじょうだいし、とがあらばぜんむいさんぞうも のがれがたし

24しょう
さればぜんむいさんぞうは ちゅうてんのこくしゅなり くらいをすてて たこくにいたり しゅしょう、しょうだいのふたりにあひて ほけきょうをうけ ひゃくせんのいしのとうを たてしかば ほけきょうの ぎょうしゃとこそ みへしか。
 しかれども だいにちきょうをならいしより このかたほけきょうを だいにちきょうにおとるとや、をもひけん、はじめは いたう そのぎもなかりけるが かんどにわたりて げんそうこうていのしとなりぬ。
 てんだいしゅうを そねみおもう こころつきたまいけるかの ゆへに、たちまちに とんしして ふたりの ごくそつにてつのなわ ななすぢ つけられて えんま おうきゅうに いたりぬ、いのちいまだ、つきずと、いゐてかへされしに ほけきょうを ぼうずるとや、をもひけん しんごんのかんねん、いん、しんごんなどをば、なげすてて ほけきょうの こんしさんがいのもんを となえて、なわもきれ かへされたまいぬ。
 また あめのいのりを、をほせつけられたりしに たちまちにあめはふりたりしかども おおかぜふきて くにをやぶる。
p316
  けっく ししたまいてありしに はでしらあつまりて りんじゅういみじきやうを、ほめしかども むげんたいじょうにおちにき。
 とうていわく なにをもつてか、これをしる、こたえて いわく かれのでんを みるにいわく 「いま いのいぎょうを みるに、ようやく ますますしゅくしょうし こくひいんいんとして ほね それあらわなり」とううんぬん。
 かのでしらは しごに じごくのそうの あらわれたるをしらずして とくをあぐなど、をもへども、かきあらわせる ふでは いが とがをかけり、ししてありければ みやふやく、つづまり、ちひさくかわは くろし ぼねあらわなりとううんぬん、ひと ししてのち、いろのきくろきは じごくのごうとさだむることは ぶっだのきんげんぞかし。
 ぜんむいさんぞうのじごくのごうは なにごとぞ ようしょうにしてくらいをすてぬ だいいちのどうしんなり、がっし、ごじゅうよかこくをしゅぎょうせり じひのあまりに かんどにわたれり、てんじく、しんたん、にほんいちえんぶだいのうちに しんごんをつたへ れいをふるこのひとの とくにあらずや いかにして じごくにおちけると ごしょうをおもはんひとびとは おんたずねあるべし。
21段
 またこんごうちさんぞうは みなみてんじくのだいおうの たいしなり、こんごうちょうきょうを かんどにわたす そのとく ぜんむいのごとし、また たがいにしとなれり。
 るにしかこんごうちさんぞう、ちょくせんによて あめのいのりありしかば なぬかがうちに あめふる、てんしおおいによろこばせたまうほどに たちまちに おおかぜふききたる、おうしんなどけうさめたまいき つかいをつけておはせたまいしかども、とかうのべてまりとどまりしなり。
 けっくは ひめみやのおしきょありしに、いのりをなすべしとて おんみのかわりに でんじょうの にじょ しちさいになりしを たきぎに、つみこめて やきころせしことこそ むざんには おぼゆれ、しかれども、ひめみやも、いきかへりたまはず。
 ふくうさんぞうは こんごうちと がっしよりおともせり、これらのことを ふしんとやをもひけん いとちとにゅうめつののち、がっしにかえりてりゅうちにあい たてまつり しんごんをならいなをし てんだいしゅうにきぶくしてありしが こころばかりはかえれども、みはかへることなし。
 あめのおんいのり、うけたまわりたりしが みっかともうすにあめふる、てんしよろこばせたまいて われとおふせひかせたまう、しゅゆ ありしかば おおかぜおちくだりて だいりをもふきやぶり うんかく、げつけいのしゅくしょ、ひとところもあるべしとも、みへざりしかば てんしおおいにおどろきて せんじなりて かぜをとどめよと せおおくださる、しばらくありては またふき またふきせしほどに すうじつがあいだやむことなし。
 けっくは つかいをつけて おうてこそ かぜも、やみてありしか、このさんにんのあくふうは かんど、にほんのいっさいの しんごんしの おおかぜなり。
p317   22段
 さにてあるやらん いぬる ぶんえいじゅういちねん うつき じゅうににちのおおかぜは あみだどうのかがほういん、とうじ だいいちのちしゃのあめの いのりにふきたりし ぎゃくふうなり、ぜんむい、こんごうち、ふくうのあくほうを すこしもたがへず つたえたりけるか こころにくし こころにくし。

25しょう
 こうぼうだいしは いぬる てんちょうがんねんの きさらぎ だいかんばつのありしに さきには しゅびん、あまごいして なぬかがうちに あめをふらす、ただ きょうちゅうにふりて いなかにそそがず。
 つぎに こうぼううけとりて いちしちにちにあめけなし にしちにちにくもなし さんしちにちともうせしに てんしよりわけのまつなを ししゃとして ぬさをしんせんおんに まいらせたりしかば てんうふることみっか。
 これをば こうぼうだいしならびに でしら、このあめを うばひとり わがあめとして いまによんひゃくよねん、こうぼうのあめという。
 じかくだいしのゆめに にちりんをいしとこうぼうだいしのだいもうごにいわく こうにんくねんのはる、たいえきをいのりしかば よなかにだいにちりんしゅつげんせりとうんぬん、じょうこうよりいらい、じゅうこうのだいくのげん、いじょう にじゅうきゅうこうが あいだに にちりんよなかにいでしということなし。
 じかくだいしは ゆめににちりんをいるという、ないてんごせんななせん、げてんさんぜんよかんに にちりんをいると、ゆめにみるは きちむということありやいなや、しゅらはたいしゃくをあだみて にってんを、いたてまつる そのやかへりて わがまなこにたつ、いんのちゅうおうは にってんをまとにいて みをほろぼす。
 にほんのじんむてんのうのおんとき とみのおさと いつせのみことと かっせんありしに みことのてに やたつ、みことのいわく われはこれ ひのかみの うまごなり ひにむかいたてまつりて ゆみをひくゆへに ひのかみのせめを、かをほれりと うんぬん。
 あじゃせおうは じゃけんをひるがえして ほとけにきしまいらせて だいりにかえりて ぎよしんなりしが、をどろいて しょしんにむかって いわく にちりん、てんよりちにおつと、ゆめにみる しょしんのいわく ほとけのごにゅうめつかうんぬん。
 しゅばつだらが ゆめまたかくのごとし、わがくには ことにいむべきゆめなり かみをばあまてらすという、くにをばにほんという、またきょうしゅしゃくそんをば にっしゅともうす まやふじん、ひをはらむと、ゆめにみて、まうけたまえる たいしなり。
 じかくだいしは だいにちにょらいをえいざんにたて、しゃかぶつをすて しんごんのさんぶきょうをあがめて ほけきょうのさんぶのかたきとなせしゆへに このゆめしゅつげんせり。


  • [211]
  • ほうおんしょう ひらがな 16しょうしょうから20しょう

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2016年11月30日(水)15時52分19秒
 
16しょう
 されば じかく、ちしょうのににんは でんきょう、ぎしんのみでし、かんどにわたりては またてんだい、しんごんのみょうしにあいて ありしかども、にしゅうのしょうれつはおもい さだめざりけるか、あるいはしんごんすぐれ あるいはほっけすぐれ あるいはりどうじしょうとううんぬん。
 せんじを もうし くだすには にしゅうのしょうれつを ろんぜんひとは いちょくのものといましめられたり、これらはみな じごそういといゐぬべし、たしゅうのひとは よももちいじとみえてそうろう、ただにしゅう ひとしとは せんしでんぎょうだいしの おんぎとせんじにひきのせられたり。
 そもそも でんぎょうだいし いづれのしょに かかれてそうろうぞや、このこと よくよくたずぬべし、じかく、ちしょうとにちれんとが、でんぎょうだいしのおんことを ふしんもうすは、おやにあうての としあらそひ にってんにあひたてまつりてのめくらべ にてはそうらへどもじかく、ちしょうのおんかたふどを、せさせたまはんひとびとはふんみょうなる しょうもんをかまへさせたまうべし。
 せんずるところは しんをとらんがためなり、げんじょうさんぞうは がっしのばしゃろんをみたりしひとぞかし、てんじくにわたらざりしほうほっしに せめられにき、ほうごさんぞうは いんどのほけきょうをばみたれども ぞくるいの せんごをば かんどのひとみねども あやまりといひしぞかし。
 たとい じかく、でんぎょうだいしに あいたてまつりて ならいつたえたりとも ちしょう、ぎしんわじょうに ぐけつせりといふとも でんきょう、ぎしんのしょうもんに そういせば あに ふしんをくわえざらん。
 でんぎょうだいしの えひょうしゅうともうすもんは だいしだいいちのひしょなり、かのしょのじょにいわく「しんらいの しんごんけは すなわち ひつじゅのそうじょうをみんし きゅうとうのけごんけは、すなわちようごうの きはんをかくし、じんくうの さんろんしゅうは だんかのくつちをわすれてしょうしんの よいをおおう。
 じゃくうのほっそうは ぼくようのきえをなみし せいりゅうのはんぎょうを はらうなど、ないし つつしんでえひょうしゅういっかんをあらわして、どうがのこうてつに おくる、それのときおこること にほんだいごじゅうによう、こうにんのななひのえさるとしなり」うんぬん。
p308
つぎしもの しょうしゅうにいわく「てんじくの めいそうだいとう てんだいのきょうじゃくもっともじゃしょうを えらぶにたえたりときいて かつごうして ほうもんす」とうんぬん。
 つぎしもにいわく「あに ちゅうごくに ほうをうしなって これをしいにもとむるに あらずや しかも、この ほうにしることあるものすくなし ろびとのごときのみ」とううんぬん。
 このしょは ほっそう、さんろん、けごん、しんごんのししゅうを せめてそうろうもんなり、てんだい、しんごんのにしゅう どういちみならば いかでかせめそうろうべき、しかもふくうさんぞうらをば ろびとのごとし なんどかかれてそうろう。
 ぜんむい、こんごうち、ふくうのしんごんしゅう いみじくば、いかでか ろびととあっくあるべき、また てんじくのしんごんが てんだいしゅうにおなじきも また すぐれたるならば てんじくのめいそう いかでかふくうにあつらへ ちゅうごくにしょうほうなしとはいうべき。
 それは、いかにもあれ じかく、ちしょうのににんはことばは でんぎょうだいしのみでしとは なのらせたまえども、こころはみでしにあらず。
 そのゆえは このしょにいわく「つつしんで えひょうしゅういちかんを あらわして どうがのこうてつに おくる」とううんぬん、どうがのにじは しんごんしゅうは てんだいしゅうにおとると ならひてこそ どうがにてはあるべけれ、われともうしくださる、せんじにいわく「もっぱら せんしのぎにたがい、へんしゅうのこころをじょうず」とううんぬん。
 またいわく「およそ そのししの みちひとつをかいても ふかなり」とううんぬん、このせんじのごとくならば じかく、ちしょうこそもっぱらせんしにそむく、ひとにてはそうらへ、かうせめそうろうもをそれにてはそうらへども これをせめずば だいにちきょう、ほけきょうのしょうれつ やぶれなんとぞんじていのちを まとにかけて せめそうろうなり。
 このににんの ひとびとのこうぼうだいしのじゃぎを せめそうらわざりけるは もっともどうりにて そうらいけるなり、されば ろうまいをつくし ひとをわづらはして かんどへ わたらせたまはんよりは ほんし、でんぎょうだいしのおんぎを、よくよく、つくさせたまうべかりけるにや、さればえいざんのぶっぽうは ただ でんぎょうだいし、ぎしんわじょう、えんちょうだいしのさんだいばかりにてや ありけん。
 てんだい ざす すでに しんごんのざすに うつりぬ なとしょりょうとは てんだいさんそのぬしは しんごんしなり、さればじかくだいし、ちしょうだいしは いこんとうのきょうもんを やぶらせたまうひとなり、いこんのとうきょうもんをやぶらせたまうは、あに しゃか、たほう、じっぽうのしょぶつのおんてきにあらずや。
 こうぼうだいしこそ だいいちのほうぼうのひととおもうに、これは、それには、にるべくもなき ひがごと なり、そのゆえは すいか、てんちなることは ひがごとなれども ひともちゆることなければ、そのひがごと じょうずるごとなし。
309
 こうぼうだいしのおんぎは あまり ひがごとなれば でしらも もちゆることなし じそうばかりは そのもんけなれども そのきょうそうのほうもんは こうぼうのぎ いゐにくきゆへに ぜんむい、こんごうち、ふくう、じかく、ちしょうのぎにてあるなり。
 じかく、ちしょうのぎこそ しんごんとてんだいとは りどうなり なんどもうせば みなひと さもやと、をもう、かう、をもうゆへに じしょうのいんとしんごんとにつひて てんだいしゅうのひとびと、えぞう、もくぞうのかいげんのぶつじを、ねらはんがために、にほん、いちどうに しんごんしゅうにをちて てんだいしゅうは いちにんもなきなり。
 れいせば ほっしとあまと くろきとあおきとは、まがひぬべければ まなこくらきひとは あやまつぞかし、そうとおとことしろきとあかきとは めくらきひとも まよわず、いわうや まなこあきらかなるものをや。
 じかく、ちしょうのぎは ほっしとあまとくろきとあおきとが、ごとくなる、ゆへにちじんもまよいぐにんもあやまりそうらいて このよんひゃくよねんがあいだは えいざん、おんじょう、とうじ、なら、ごき、しちどう、にほんいっしゅう、みなほうぼうのものとなりぬ。


17しょう
16段
 そもそも ほけきょうのだいごに「もんじゅしり このほけきょうは しょぶつにょらいのひみつのぞうなり、しょきょうのなかにおいてもっともそのうえにあり」うんぬん、このきょうもんのごとくならば ほけきょうは だいにちきょうなどのしゅうきょうの ちょうじょうにじゅうしたまうしょうほうなり。
 さるにては ぜんむい、こんごうち、ふくう、こうぼう、じかく、ちしょうらは このきょうもんをば いかんがえつうせさせたまうべき、ほけきょうのだいしちにいわく「よくこのきょうてんをじゅじすることあらんものも またまたかくのごとし、いっさいしゅじょうのなかにおいて またこれ だいいちなり」とううんぬん。
 このきょうもんのごとくならば ほけきょうのぎょうしゃは せんる、こうがのなかの たいかい、しゅうさんのなかの しゅみせん、しゅうせいのなかの がってん、しゅうみょうのなかの だいにってん、てんりんおう、たいしゃく、しょおうのなかの だいぼんのうなり。
 でんぎょうだいしの しゅうぐともうすしょにいわく「このきょうも またまたかくのごとし ないしもろもろの きょうほうのなかに もっともこれだいいちなり よくこのきょうてんを じゅじすることあらんものも またまたかくのごとし いっさいしゅじょうのなかに おいて またこれだいいちなり」。
 いじょうきょうもんなりと ひきいれさせたまいて つぎしもにいわく「てんだい ほっけげんにいわく」とううんぬん、いじょうげんもんと、かかせたまいて かみのこころを しゃくしていわく「まさにしるべし たしゅうしょえのきょうは いまだもっとも これだいいちならず そのよくきょうをたもつものも またいまだだいいちならず。
 てんだいほっけしゅう しょじの ほけきょうはもっともこれ だいいちなるゆえによく ほっけをたもつものも、また しゅじょうのなかの だいいちなり すでにぶっせつによるあに じたんならんか」とううんぬん。
 つぎしもにゆずる しゃくにいわく「いきょくのえひょうつぶさにべっかんにあるなり」とううんぬん、えひょうしゅうにいわく。
p310
「いまわが てんだいだいし ほけきょうをときほけきょうをしゃくすること ぐんにとくしゅうし とうにどっぽす あきらかにしんぬ、にょらいのつかいなり ほむるものは さいわいを あんみょうにつみ そしるものは つみをむげんにひらく」とううんぬん。

18しょう
 ほけきょう、てんだい、みょうらく、でんきょうのきょうしゃくのこころのごとくならば いま にほんこくには ほけきょうのぎょうしゃは いちにんもなきぞかし、がっしにはきょうしゅしゃくそん、ほうとうほんにして いっさいのほとけを、あつめさせたまいてだいちのうえに こせしめ だいにちにょらいばかりほうとうのうちの みなみのげざにすへりたてまつりて、きょうしゅしゃくそんは きたのじょうざにつかせたま。
 この だいにちにょらいは だいにちきょうの たいぞうかいの だいにち、こんごうちょうきょうのこんごうかいの だいにちのしゅくんなり、りょうぶの だいにちにょらいを ろうじゅうなどとさだめたる、たほうぶつの じょうざに きょうしゅしゃくそん こせさせたまう これ すなわち ほけきょうのぎょうしゃなり てんじくかくのごとし。
 かんどには ちんていのとき、てんだいだいし、なんぼくにせめかちて げんしんにだいしとなる「ぐんに とくしゅうし、とうにどっぽす」という、これなり、にほんこくには でんぎょうだいし、ろくしゅうに せめかちて にほんのはじめだいいちのこんぽんだいしとなりたまう。
 がっし、かんど、にほんにただ さんにんばかりこそ おいっさいしゅじょうちゅう やくいだいいちにては そうらへ。
 されば しゅうぐにいわく「あさきはやすく ふかきは かたしとは しゃかのしょはんなり あさきをさって ふかきにつくは じょうぶのこころなり てんだいだいしは しゃかにしんじゅんして ほっけしゅうをたすけて しんたんにふようし、えいざんのいっかは てんだいにそうじょうして ほっけしゅうをたすけて、にほんにぐつうす」とううんぬん。
 ぶつめつご、いっせんはっぴゃくねんがあいだにほけきょうのぎょうしゃ、かんどにいちにん にほんに いちにん、いじょうににん、しゃくそんをくわへたてまつりて いじょうさんにんなり。
17段
 げてんにいわく しょうにんは いっせんねんにひとたびいで けんじんはごひゃくねんにひとたびいづ、こうがはけいいながれを、わけて ごひゃくねんには なかばかわすみ せんねんには ともにすむともうすは いちじょうにてそうらいけり。

19しょう
 しかるに にほんこくは えいざんばかりにでんぎょうだいしの おんとき、ほけきょうのぎょうじゃましましけり、ぎしん、えんちょうは だいいちだいにのざしゅなり。
 だいいちのぎしんばかり でんきょうだいしににたり、だいにのえんちょうは なかばはでんきょうのみでし、なかばはこうぼうのでしなり、だいさんのじかくだいしは はじめはでんぎょうだいしの みでしに、にたり。
 おんとししじゅうにて かんどに、わたりてより なは でんぎょうのみでし、そのあとをば、つがせたまえども、ほうもんはまったく みでしにはあらず、しかれども えんどんのかいばかりは またみでしに にたり へんぷくちょうのごとし とりにもあらず、ねずみにもあらず きょうちょうきん、はけいじゅうのごとし。
 ほけきょうのちちを くらい じしゃのははを かめるなり、ひをいるとゆめに みしこれなり、さればしきょののちは はかなくてやみぬ。
p311
 ちしょうのもんけ、おんじょうじとじかくのもんけ、えいざんと、しゅらとあくりゅうと かっせんひまなし、おんじょうじをやき えいざんをやく、ちしょうだいしのほんぞんのじしぼさつもやけぬ、じかくだいしのほんぞん、だいこうどうもやけぬ、げんしんにむげんじごくをかんぜり。 ただちゅうどうばかりのこれり、こうぼうだいしもまた あとなし こうぼうだいしのいわく とうだいじのじゅかいせざらんものをば とうじのちょうじゃとすべからずなど おんいましめのじょうあり。
 しかれども かんぴょうほうおうは にんなじをこんりゅうして とうじのほっしをうつして わがてらには えいざんのえんどんかいを たもたざらんものをば じゅうせしむべからずとせんじふんみょうなり。
 さればいまのとうじのほっしは がんじんがでしにもあらず こうぼうのでしにもあらず、かいはでんぎょうのみでしなり。
 また でんぎょうのみでしにもあらず でんぎょうのほけきょうを はしつす、いぬる しょうわにねん やよいにじゅういちにちに しきょありしかば、くげよりいたいをば、ほうぶらせうたまう、そののち おうわくのでしらあつまりて ごにゅうじょうとうんぬん、あるいはかみをそりて、まいらするぞと、いゐ あるいはさんこをかんどより、なげたりといゐ あるいはにちりん、よなかにいでたりといゐ あるいはげんしんに だいにちにょらいとなりたりといひ あるいはでんぎょうだいしに じゅうはちどうを、をしえまいらせたまうと いゐて、しのとくをあげて ちえにかへ わがしのじゃぎをたすけて、おうしんをおうわくするなり。
 またこうやさんに ほんじ、でんぽういんといいしふたつのてらあり ほんじはこうぼうのたてたるだいとう、だいにちにょらいなり、でんぽういんとすもうはしょうかくぼうのたてし こんごうかいのだいにちなり、このほんまつのにじ、ちゅうやにかっせんあり れいせばえいざん、おんじょうのごとし、おうわくのつもりて にほんにふたつのわざわいのしゅつせるげんか。
 ふんをあつめてせんだんとなせども やくときは ただ ふんのかなり だいもうごをあつめて、ほとけと、がうすとも ただむげんだいじょうなり。
 にけんがとうは すうねんがあいだ、りしょうこうだいなりしかども めみょうぼさつのらいをうけて たちまちにくづれぬ、きべんばらもんがとばりは たねんひとを、たぼらかせしかども あすばくしゃぼさつに せめられてやぶれぬ。
くるげどうは いしとなって はっぴゃくねん、ちんなぼさつにせめられて みずとなりぬ、どうしは かんどをたぼらかすこと すうひゃくねん、まとう、じくらんにせめられて せんきょうもやけぬ、ちょうこうが、くにをとりし おうもうがくらいをうばいしが、ごとく ほけきょうのくらいを、とて、だいにちきょうのしょりょうとせり。
 ほうおうすでに、くにに うせぬ にんのう、あに、あんのんならんや、

20しょう
にほんこくは じかく、ちしょう、こうぼうの ながれなり、ひとりとしてほうぼうならざるひとはなし。
18段
ただし ことのこころをあんずるに だいそうごんぶつのまつ、いっさいみょうおうぶつの まっぽうのごとし。
[※ちゅう、にちかんもんだん391に、ししおんのうぶつの、あやまりとあり]
p312
いおんのうぶつの まっぽうには かいげありしすら なお、せんごう、あびじごくにおつ、いかにいわうや、にほんこくの しんごんし、ぜんしゅう、ねんぶつしゃらは いちぶのえしんなし にょぜてんでんしむすうこう うたがいなきものか。
 かかる、ほうぼうのくになれば てんもすてぬ てんすつれば ふるきしゅごのぜんじんも ほこらをやひて じゃっこうのみやこへ かへりたまいぬ、ただにちれんばかりとどまりいて つげしめせば こくしゅこれをあだみ すうひゃくにんのたみに あるいはめり、あるいはあっく、あるいはじょうもく、あるいはとうけん、あるいはたくたくごとにせき、あるいはいえいえごとにをう、それにかなはねばわれとてをくだしてにどまでるざいあり。
 いぬるぶんえいはちねんながつきのじゅうににちにくびをきらんとす、さいしょうおうきょうにいわく 「あくにんをあいぎょうし ぜんにんをちばつするにるよがゆえに たほうのおんぞくきたって こくにんそうらんにあう」とううんぬん。
 だいしつきょうにいわく「もしはまた もろもろのせつりこくおうあって もろもろのひほうをなして せそんのしょうもんのでしをのうらんし、もしは もってきめし とうじょうをもってちょうしゃくし およびえばつしゅじゅのしぐをうばい、もしは たのきゅうせせんにるなんをなさば われらかれをして じねんにたほうのおんてきを そっきさしめん およびみずからのこくども また へいおこり びょうえきききんし ひじのふうう、とうじょうごんしょうせしめん。
 また そのおうをして ひさしからずしてまたまさにおのれがくにを もうしつせしめん」とううんぬん、これらの きょうもんのごときは にちれんこのくにになくばほとけはだいもうごのひと、あびじごくはいかでのがれうたまべき。
 いぬるぶんえいはちねん ながつきじゅうににちに へいのさえもんならびに すうひゃくにんに むかつていわく にちれんは にほんこくの はしらなり にちれんを うしなうほどならば にほんこくの はしらを、たをすになりぬ」とううんぬん。
 このきょうもんに ちじんをこくしゅなど、もしはあくそうらが ざんげんにより もしはしょにんの あっくによて とがにあつるならば、にはかに、いくさをこり また おおかぜふき たこくよりせめらるべしとううんぬん。
 いぬるぶんえい くねん きさらぎの どしいくさ おなじき じゅういちねんの うつきの おおかぜ おなじきかんなつきに だいもうこのきたりしは ひとえに にちれんが、ゆへにあらずや。
 いわうやさきよりこれを、かんがへたり だれのひとかうたがうべき、

  • [210]
  • ほうおんしょう ひらがな 10しょうしょうから15しょう

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2016年11月29日(火)03時43分58秒
  • 編集済
 
10しょう
 そのち てんだいだいしも ごにゅうめつなりぬ、ちん、ずいのよもかわりて とうのよとなりぬ、しょうあんだいしも ごにゅうめつなりぬ。
p301
 てんだいのぶっぽう やうやくならい うせしほどに とうのたいそうのぎょうに、げんじょうさんぞうといゐしひと、ていかんさんねんに はじめてがっしにはいりて どうじゅうきゅうねんに かへりしが がっしのぶっぽう たずね つくして、ほっそうしゅうともうす しゅうをわたす。
 このしゅうは てんだいしゅうとすいかなり しかるに てんだいのごらんなかりし じんみつきょう、ゆがろん、ゆいしきろんなどをわたして ほけきょうは いっさいきょうにはすぐれたれども、じんみつきょうにはおとるという、しかるを てんだいはごらんなかりしかば てんだいのまつがくなどは ちえのうすきかのゆへに、さもやとをもう。
 また たいそうは けんおうなり げんじょうのおきえあさからず、いうべきことありしかども、いつものことなれば ときのいを をそれて もうす ひとなし、ほけきょうをうちかへして さんじょうしんじつ、いちじょうほうべん、ごしょうかくべつともうせしことは こころうかりしことなり。
 てんじくよりは、わたれども がっしのげどうが かんどにわたれるか、ほけきょうは ほうべん、じんみつきょうは しんじつといゐしかば しゃか、たほう、じっぽうのしょぶつの じょうげんも かへりてむなしくなり げんじょう、じおんこそ ときのしょうしんのほとけにては ありしか。
8段
 そののち そくてんこうごうのぎょうに てんだいだいしにせめられし けごんきょうに また かさねてしんやくのけごんきょうわたりしかば、さきの いきどをりを、はたさんがために しんやくのけごんをもつて てんだいにせめられしくやくのけごんきょうをたすけて、けごんしゅうともうすしゅうを ほうぞうほっしともうすひとたてぬ。
 このしゅうは けごんきょうをば こんぽんほうりん、ほけきょうをば しまつほうりんともうすなり、なんぼくは いちけごん、にに ねはん、さん ほっけ、てんだいだいしは いち ほっけ、にに ねはん、さん けごん、いまのけごんしゅうは いち けごん、に ほっけ、さん ねはんとううんぬん。
9段
 そののち げんそうこうていの ぎょうに てんじくより ぜんむいさんぞうは だいにちきょう、そしっちきょうをわたす、こんごうちさんぞうはこんごうちょうきょうをわたす、またこんごうちさんぞうの でしあり ふくうさんぞうなり、このさんにんは がっしのひと、すじょうもこうきなるうえ、ひとがらも かんどのそうににず ほうもんも なにとはしらず、ごかんより いまにいたるまで、なかりし いんとしんごんということを あひ そいて、ゆゆしかりしかば てんしかうべをかたぶけ ばんみんたなごころをあわす。
 このひとびとのぎにいわく けごん、じんみつ、はんにゃ、ねはん、ほけきょうなどのしょうれつは けんきょうのうち、しゃかにょらいのせつのぶんなり、いまのだいにちきょうなどは だいにちほうおうの ちょくげんなり、かのきょうきょうは たみのまんげん このきょうは てんしのいちごんなり。
 けごんきょう、ねはんきょうなどはだいにちきょうには はしごをたててもおよばず、ただほけきょうばかりこそ、だいにちきょうには そうじのきょうなれ。
p302
されども かのきょうは しゃかにょらいのせつ、たみのしょうげん、このきょうはてんしのしょうげんなり、ことばはにれども、ひとがらうんでいなり、たとへば じょくすいのつきとせいすいのつきのごとし、つきのかげはおなじけれども みずにせいだくありなんどもうしければ、このよしたずねあらわすひともなし。
 しょしゅう みなおちふして、しんごんしゅうにかたぶきぬ、ぜんむい、こんごうち、しきょの のち、ふくうさんぞうまた がっしにかへりて ぼだいしんろんともうすろんをわたし、いよいよ しんごんしゅう さかりなりけり。
 ただし みょうらくだいしというひとあり てんだいだいしよりは にひゃくよねんのあとなれども ちえかしこきひとにて てんだいのしょしゃくをみあきらめてありしかば、てんだいのしゃくのこころは、のちに わたれる じんみつきょう、ほっそうしゅうまた はじめてかんどにたてたる。
 けごんしゅう、だいにちきょう しんごんしゅうにも ほけきょうはすぐれさせたまいたりけるを、あるいは ちのをよばざるか、あるいは、ひとにおそるるか あるいはときのおういを おづるかのゆえに、いはざりけるか かくて、あるならば てんだいのせいぎすでにうせなん。
 また ちんずい いぜんのなんぼくが じゃぎにもすぐれたりとおぼして さんじゅうかんの まつもんをつくりたまう、いわゆる ぐけつ、しゃくせん、じょきこれなり。
 この さんじゅうかんのもんは ほんしょのかさなれるをけづり よわきをたすくるのみならず てんだいだいしの おんときなかりしかば、おんせめにも のがれてあるやうなる、ほっそうしゅうと けごんしゅうと しんごんしゅうとを いちどきに とりひしがれたるしょなり。
11段

11しょう
 またにほんこくには、にんのうだいさんじゅうだい、きんめいてんのうのぎょうじゅうさんねんみずのえさるかんなずきじゅうさんにちに、くだらこくより いっさいきょう、しゃかぶつのぞうをわたす。
 またようめいてんのうのぎょうに しょうとくたいし ぶっぽうをよみはじめ わけのいもことすもうしんかを かんどにつかはして、せんしょうしょじの いちかんの ほけきょうを とりよせたまいてじきょうとさだめ。
 そののち にんのうだいさんじゅうしちだい、こうとくてんのうのぎょうに さんろんしゅう、けごんしゅう、ほっそうしゅう、くしゃしゅう、じょうじつしゅうわたる。
 にんのう だいよんじゅうごだいにしょうむてんのうのぎょうに りっしゅうわたる いじょうろくしゅうなり、こうとくより にんのうごじゅうだいの かんむてんのうに いたるまではじゅうよんだい、ひゃくにじゅうよねんが あいだは てんだいしんごんのにしゅうなし。
かんむのぎょうに さいちょうともうす、こぞうあり やましなでらの ぎょうひょうそうじょうのみでしなり、ほっそうしゅうをはじめとして ろくしゅうをならいきわめぬ、しかれども ぶっぽういまだきわめたりとも、おぼえざりしに けごんしゅうのほうぞうほっしがつくりたる、きしんろんのじょをみたまうに てんだいだいしのしゃくを ひきのせたり このじょこそしさいありげなれ このくににわたりたるか。
 またいまだ、わたらざるかとふしんありしほどに あるひとに とひしかば そのひとのいわく。
p303
だいとうの ようしゅうりゅうこうじの そう がんじんわじょうは てんだいのまつがく、どうせんりっしの でし てんぽうのすえににほんこくにわたりたまいて、しょうじょうのかいを ぐつうせさせたまいしかども てんだいのおんしゃく もちきたりながら ひろめたまはず、にんのうだいよんじゅうごだいしょうむてんのうの ぎょうなりとかたる。
 そのしょを みんともうされしかば とりだして みせまいらせしかば いっぺんごらんありて しょうじのよいをさましつ、このしょをもって ろくしゅうのこころを たずねあきらめしかば いちいちに じゃけんなることあらはれぬ。
 たちまちに がんをおこしていわく にほんこくのひとみな、ほうぼうのものの だんのつたるが てんかいちじょうみだれなんずとおぼして、ろくしゅうを、なんぜられしかば、しちだいじ、ろくしゅうのせきがく ほうきして きょうじゅううごうし てんかみなさわぐ。
 しちだいじ ろくしゅうのしょにんなど あくしん ごうじょうなり、しかるを いぬるえんりゃくにじゅういちねん しょうがつじゅうくにちに てんのうたかおてらに ぎょうこうあつて しちじのせきとくじゅうよにん、ぜんぎ、しょうゆう、ぶき、ち