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編年体御書約1,700ページ、声を出しての朗読完了。4年半ほどかかってしまった。
読了するのも大変だったが、13世紀の当時、これ程膨大な文章を書き残して下さった日蓮大聖人には、驚嘆するし、感謝の念は尽きない。また、日興上人、日目上人をはじめ、本物で正当な、継承の弟子の皆様にも、心からの敬意を抱くものです。
編年体の御書の良いところは、大聖人様のご著作を古いものから順番に拝せるという事です。最終盤にかけては、唯一の本物の弟子、日興上人のご述作で締めくくりとなります。
五人所破抄、日興遺誡置文、富士一跡門徒存知の事が、最後のご記載です。
日興上人は、大聖人に背いた、この五老僧を徹底的に弾化、破折しています。
六老僧の中で、師匠である日蓮大聖人の“本意”を継げたのは、日興上人だけでした。
700年~800年後の今日、時代は変遷しても、原理は同じなのかも知れません。
(宿坊に集う、真の池田門下生は得難い、貴重な方々だと思います)
会合の無くなったここ最近、一体何パーセントの学会員さんが、御書を紐解いているのでしょうか?
一体何人の活動家諸氏が、池田先生の著作物を研鑽しているのでしょうか?
価値創造を目的とした“会のメンバー”から、「学ぶこと」を取り去ってしまったら、一体、何が残るというのでしょうか?
3月一杯、いやいや4月いっぱい?、会合の出来ない日は続くでしょう。
今まで“当たり前”のように繰り返されてきた、”惰性で血肉化”された、組織中心の生活リズムに変化が訪れるのです。
何のための協議会だったのだろう?
何のための新聞啓蒙だったのだろう?
何のための“報告”だったのだろう?
今までの、義務化した組織活動を続けることが、本当に師匠池田先生の“本意”に合致することなのだろうか?
仏教の神髄を教え、残して下さった、“日蓮大聖人の大願”に通じるものなのだろうか?
建設的な、そして本質を問う疑問が、各人の中に、湧き起こることを期待したいです。
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