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  • 立正観抄 りつしょうかんしょう 、ほっけしかんどういけつ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月30日(日)16時24分29秒
 
りつしょうかんしょう 、ほっけしかんどういけつ。
    しっぴつ。ぶんえい、じゅういちねん。。
      たいごう。さいれんぼう、にちじょう。
              p527
 ほっけ、しかんどういけつ。          にちれん、せん。
 とうせい、てんだいのきょうほうを、しゅうがくするのともがらおおく、かんじんしゅぎょうを、とうとんで、ほっけ、ほんじゃくにもんを、すつとみえたり。
 いま、とう、そもそもかんじん、しゅぎょうというは、てんだいだいしの、まかしかんの、せつこしんちゅうしょぎょうほうもんの、いっしんさんがん、いちねんさんぜんの、かんによるか。
 はたまた、よ、るふの、だるまのぜんかんに、よるか、もし、だるまのぜんかんによるといわば、きょうぜんは、みけんしんじつ、もうごほうべんのぜんかんなり。ほけきょう、みょうぜんのときには、しょうじきしゃほうべんとすてらるるぜんなり。
そし、だるま、ぜんはきょうげべつでんの、てんまぜんなり、ともに、これむとくどう、もうごのぜんなり、よって、これをもちゆべからず、もしてんだいの、しかん、いっしんさんがんによるとならば、しかんいちぶの、はいりゅう、てんだいのほんいにそむくべからざるなり。
もし、、しかんしゅぎょうの、かんじんによるとならば、ほけきょうに、そむくべからず、しかんいちぶは、ほけきょうによつて、こんりゅうす、いっしんさんがんのしゅぎょうは、みょうほうのふかとくなるをかんとくせんがためなり。
ゆえにしんぬ、ほけきょうをすてて、ただかんをしょうとするのやからは、だいほうぼう、だいじゃけん、てんまのしょいなることを。
 そのゆえは、てんだいの、いっしんさんがんとは、ほけきょうによつて、さんまい、かいほつするを、こしんしょうとくのしかんとはいうゆえなり。
 とう、てんだいだいし、しかんいちぶならびに、いちねんさんぜん、いっしんさんがん、こしん、しょうとくの、みょうかんは、しかしながら、ほけきょうによるという、しょうこいかん、
 こたう、よ、はんきつしていわく、ほけきょうによらずとみえたるしょうもんいかん。
 ひと、これを、いだしていわく、「このしかんは、てんだいちしゃ、こしんちゅう、しょぎょうのほうもんをとく、あるいは、また、ゆえに、しかんにいたつてただしく、かんぽうをあかす、ならびに、さんぜんをもってしなんとなす、すなわちこれ、しゅうぐくきょうのごくせつなり。
 ゆえに、じょのなかに、せつこしんちゅうしょぎょうほうもんといえり、まことにゆえあるなり」、もん。
 なんじていわく、このもんは、まったく、ほけきょうによらずというもんに、あらず、すでに、せつこしんちゅうしょぎょうの、ほうもんというがゆえなり。
 てんだいの、しょぎょうのほうもんは、ほけきょうなるがゆえに。
このこころは、ほけきょうによるとみえたるしょうもんなり、ただし、たしゅうにたいするのときは、もんどう、たいこうをぞんすべきなり。
いわゆる、いうべし、もし、てんだいのしかん、によらずといわば、すみやかにすつべきなりと、
P528
そのゆえは、てんだいだいし、かねて、やくそくしていわく、「すたらとあわせば、ろくしてこれを、もちいよ、もんなくぎなきは、しんじゅすべからず」、うんぬん。
でんきょうだいしのいわく、「ぶっせつに、えひょうしてくでんを、しんずることなかれ」もん、りゅうじゅの、だいろんにいわく、「すたらによるは、びゃくろんなり、すたらによらざるは、こくろんなり」、もん。
きょうしゅしゃくそんのたまわく、「えほう、ふえにん」、もん、てんだいは、ほけきょうにより、りゅうじゅをこうそにしながら、きょうもんにたがいし、わがげんを、ほんじて、げどうじゃけんのほうに、よつて、しかんいちぶを、しゃくすること、まったくあるべからざるなり。
 とう、ただしく、しかんは、ほけきょうによるとみえたる、もんこれありや。
 こたう、あまりにおおきがゆえに、しょうしょうこれを、いださん、しかんにいわく、「ぜんとふじょうとは、おいてろんぜず、こんきょうによつて、さらに、えんどんをあかさん」、もん。
ぐけつにいわく、「ほけきょうのむねを、あつめて、ふしぎ、じゅうじょう、じゅうきょう、たいぜつめつぜつ、じゃくしょうのぎょうをじょうず」、もん。
 しかんたいいにいわく、「こんけのきょうもんは、りゅうじゅをもってしそとなす、えもんは、ただ、ないかんを、つらねて、しちょうするのみ、なんがく、てんだいに、およんで、また、ほっけざんまい、だらにをはっするによつて、ぎもんをかいたくして、かんぽうしゅうびす。
 ○もし、ほっけをしゃくするには、いよいよすべからくごんじつ、ほんじゃくを、ぎょうりょうすべし、まさにぎょうをたつべし。
 このきょう、ひとり、みょうとしょうすることをえ・まさに、ここによつて、もって、かんいをたつべし、
ごほうべん、および、じゅうじょうきぎょうと、いうは、すなわち、えんどんしかん、まったく、ほっけによる、えんどんしかんは、すなわち、ほっけざんまいの、いみょうなるのみ」、もん。
 もんぐのきにいわく「かんときょうとがっすればたのたからをかぞうるにあらず、まさにしんぬ、しかんいちぶはこれ、ほっけざんまいのせんていなり、もしこのこころをえれば、まさにきょうしにかなう」うんぬん。
 とうどのにんし、ぎょうまんのしゃくせる、がく、てんだいしゅうほうもんたいいにいわく、「まかしかんいちぶの、たいいは、ほっけざんまいのいみょうをいでず、きょうによつてかんをすしゅう」もん。
 これらのもんしょうふんみょうなり、だれかこれをろんぜん。
とう、てんだいししゅのしゃくをつくるのとき、かんじんのしゃくにいたつて、ほんじゃくのしゃくを、すつとみえたり、また、ほけきょうは、ぜんきのために、これをとき、しかんは、じきたつのきのために、これをとくといかん。
 こたう、ざんきのためにとけばおとり、とんきのためにとけばまさるとならば、いまの、てんだいしゅうのこころは、けごん、しんごんなどのきょうは、ほけきょうにすぐれたりと、ういべきや。
 いまの、てんだいしゅうの、あさましさは、しんごんはじりくみつのきょうなるゆえに、ほけきょうにすぐれたりといえり、ゆえに、しかんは、ほっけにまさるといえるも、どうりなり、どうりなり。
 つぎに、かんじんのしゃくのとき、ほんじゃくをすつという、なんは、ほけきょう、いずれのもん、にんしのしゃくをほんとなして、ぶっきょうをすてよとみえたるや。
P529
たとい、てんだいのしゃくなりとも、しゃくそんのきんげんにそむき、ほけきょうにそむかば、まったくこれをもちゆべからざるなり。
 えほうふえにんのゆえに、りゅうじゅ、てんだい、でんきょう、もとよりのおやくそくなるがゆえなり。
そのうえ、てんだいのしゃくのこころは、しゃくのたいきょうおこれば、にぜんのたいきょうぼうじ、ほんの、たいきょうおこれば、しゃくのたいきょうぼうじ、かんじんのたいきょうおこれば、ほんのたいきょうぼうずと、しゃくするはほんたいの、ほんぽうをば、みょうほうふしぎのいっぽうに、とりさだめてのうえに、しゅぎょうをたつるのとき、いま、ぞうほうのしゅぎょうは、かんじんしゅぎょうを、せんとするに、しゃくをたずぬれば、しゃく、ひろし、ほんをたずぬれば、ほん、たかうして、きわむべからず。
 ゆえに、まつがくきにかないがたし、ただ、こしんのみょうほうをかんぜよという、しゃくなり、しかりといえども、みょうほうをすてよとは、しゃくせざるなり、もしみょうほうをすてば、なにものを、こしんとなして、かんずべきや。
 にょいほうじゅをすて、がしゃくをとつて、たからとなすべきか、かなしいかな、とうせい、てんだいしゅうの、がくしゃは、ねんぶつ・しんごん・ぜんしゅう・などに、どういするがゆえに、てんだいのきょうしゃくをならい、うしなつて、ほけきょうにそむき、だいほうぼうのつみをえるえなり。
 もし、しかんをほけきょうに、まさるといわば、しゅじゅのとが、これあり、しかんは、てんだいのどうじょうしょとくのこしょうなり、ほけきょうは、しゃくそんのどうじょうしょとくの、だいほうなり、[これいち]、
 しゃくそんは、みょうかくかまんのほとけなり、てんだいは、じゅうぜんみしょうなれば、みょうじかんぎょう、そうじには、すぐべからず、よんじゅうにじゅうのれつなり、[これに]。
 ほっけは、しゃくそんないし、しょぶつしゅっせのほんかいなり、しかんは、てんだいしゅっせのこしょうなり、[これさん]。
 ほけきょうは、たほうのしょうみょうあり、らいじゅうのぶんしんはこうちょうぜつをだいぼんてんにつく、かいぜしんじつの、だいびゃくほうなり、[これよん]。
 しかんは、てんだいのせっぽうなり、かくのごときとうの、しゅじゅのそうい、これあれども、なおこれをりゃくするなり。
 また、つひとの、もんどうにいわく、しょひの、き じょうきなるゆえにまさるといわばじつをすてて、ごんをれとてんだいいわく、「きょういよいよごんなればくらいいよいよたかし」としゃくしたまうゆえなり、
 しょひのきげれつなるゆえに、おとるといわばごんをすててじつをとれ。
 てんだいのしゃくには、きょういよいよじつなれば、くらいいよいよひくしとういゆえなり。
 しこうしてしかんは、じょうきのためにこれをとき、 ほっけは、げきのために、これをとくといわば、しかんは、ほっけにおとれるゆえに、きをたかくとくときこえたり、じつにさもやるあらん。
 てんだいだいしは、りょうぜんのちょうしゅうとして、にょらいしゅっせのほんかいを、のべたもうといえども、ときいたらざるがゆえに、みょうほうのみょうじをかえて、しかんとごうす、しゃっけのしゅなるがゆえに、ほんげのふぞくを、ひろめたまわず、しょうじきのみょうほうを、しかんととき、まぎらかすゆえに、ありのままの、みょうほうならざれば、たいごんのほうににたり、ゆえにしんぬ、てんだいぐつうのしょけのきは、ざいせ、たいごんのえんきのごとし、ほんげぐつうのしょけのきは、ほっけほんもんのじききなり、しかんほっけは、まったく、たいどうといわん。
P530
なおにんしのしゃくをもって、ぶっせつにどうずるとが、じんじゅうなり。
 いかにいわんや、しかんは、ほけきょうにまさるというじゃぎを、もうしいだすは、ただこれ、ほんげのぐきょうと、しゃっけのぐつうと、ぞうほうとまっぽうと、しゃくもんのふぞくと、ほんもんのふぞくとを、まっぽうのぎょうじゃに、いいあらわさせんための、ぶってんのおんはからいなり。
 ここにしんぬ、とうせい、てんだいしゅうのなかに、このぎをいうひとは、そし、てんだいのためには、ふちおんのひとなり、あに、そのとかをまぬがれんや。
 それ、てんだいだいしは、むかし、りょうぜんにありては、やくおうとなずけ、いま、かんどにありては、てんだいとなずけ、にほんこくのなかにては、でんきょうとなずく、さんぜのぐつう、ともにみょうほうとなずく。
 かくのごとく、ほけきょうをぐつうしたまうひとは、 ざいせのしゃくそんよりほかは、さんごくに、そのなをきかず、ありがたくおわします、だいしを、のそまつがく、そのきょうしゃくを、あしくなろうて、とがなき、てんだいに、とがを、かけたてまつる、あに、だいざいにあらずや。
 いまとう、てんだいのほんいは、いかなるほうぞや、せきがくなどのいわく、「いっしんさんがんこれなり」、いまいわく、いちじつえんまんの、いっしんさんがんとは、まことにじんしんなるににたれども、なおもって、ぎょうじゃしゅぎょうの、ほうほうなり、さんがんとは、いんのぎなるがゆえなり。
 じかくだいしのしゃくにいわく、「さんがんとは、ほったいをえせしめんがための、しゅかんなり」うんぬん、でんきょうだいしいわく、「いま、しかんしゅぎょうとは、ほっけのみょうかを、じょうぜんがためなり」うんぬん、ゆえにしんぬ、いっしんさんがんとは、・かじ、かとくのほうもんを、じょうぜんがための、のうかんのこころなることを、いかにいわんや、さんがんとは、げんせつにいでたるほうなるゆえに、にょらいのかじかとくのみょうほうにたいすればかしぎのさんがんなり。
 とう、いっしんさんがんに、すぐれたるほうとは、いかなるほうぞや、
 こたう、このこと、まことにいちだいじのほうもんなり、ゆいぶつよぶつの、きょうがいなるがゆえに、われらがげんせつにいだすべからざるがゆえに、これをもうすべらざるなり。
 これをもって、きょうもんには、「わがほうは、みょうにして、おもいがたし、ことばをもってのべからず」うんぬん、
 みょうかくかまんのほとけすら、なおふかせつ、ふしぎのほうと、ときたまう、いかにいわんや、とうかくのぼさつ、いか、ないし、ぼんぷをや。
 とう、みょうじをきかずんば、なにをもって、しょうほうありとしることをえんや。
 こたう、てんだいこしょうのほうとは、これなり、とうせいのがくしゃは、けちみゃくそうじょうを、ならいうしなうゆえに、これをしらざるなり、
 ゆえに、あいかまえ、あいかまえて、ひすべく、ひすべきほうもんなり。
 しかりといえども、なんじがこころざし、しんみょうなれば、そのなをいだすなり、いちごんのほうこれなり、でんきょうだいしの、いっしんさんがん、いちごんにつたうとかきたまう、これなり。
 とう、いまだ、そのほったいを、きかずいかん、
 こたう、しょせん、いちごんとは、みょうほうこれなり。

とう、いっしんさんがんにすぐれたるほうとは、いかなるほうぞや。
 こたう、このこと、まことにいちだいじの、ほうもんなり、ゆいぶつよぶつのきょうがいなるがゆえに、われらがげんせつにいだすべからざるがゆえに、これをもうすべらざるなり。
 これをもってきょうもんには、「わがほうは、みょうにしておもいがたし、ことばをもってのぶべからず」、うんぬん。
みょうかくかまんのほとけすら、なおふかせつ・ふしぎのほうと、ときたまう、いかにいわんや、とうかくの、ぼさつ、いか、ないし、ぼんぷをや、
とう、みょうじをきかずんば、なにをもって、しょうほうありとしることを、えんや、
こたう、てんだいこしょうのほうとは、これなり、とうせいのがくしゃは、けちみゃくそうじょうを、ならいうしなうゆえに、これをしらざるなり、ゆえに、あいかまえ、あいかまえてひすべく、ひすべき、ほうもんなり、
 しかりといえども、なんじがこころざし、しんみょうなれば、そのなをいだすなり、いちごんのほうこれなり、
 でんきょうだいしの、いっしんさんがん、いちごんにつたうとかきたまう、これなり。
 とう、いまだそのほったいをきかず、いかん。
 こたう、しょせんいちごんとは、みょうほうこれなり。
 とうなにをもってみょうほうは、いっしんさんがんにすぐれたりということをしることをえるや。
 こたう、みょうほうは、しょせんのくどくなり、さんがんは、ぎょうじゃのかんもんなるゆえなり、このみょうほうを、ほとけといていわく、「どうじょうしょとくほう・がほうみょうなんし・ぜほうひしりょう・ふかいごんせん」うんぬん。
 てんだいのいわく、「みょうは、ふかしぎ・ごんごどうだん・しんぎょうしょめつなり、ほうはじっかい・じゅうにょ・いんがふにのほうなり」と。
 さんたいというも、さんがんというも、さんぜんというも、ともにふしぎほうとはいえども、てんだいのこしょう、てんだいのごしりょのおよぶところのほうもんなり。 このみょうほうは、しょぶつのしなり、いまのきょうもんのごとくならば、くおんじつじょうの、みょうかくごくかのほとけの、きょうがいにして、にぜんしゃくもんのきょうしゅ、しょぶつ、ぼさつのきょうがいにあらず、きょうにゆいぶつよぶつ、ないのうくじんとは、しゃくもんの、かいにょさんぜんのほうもんをば、しゃくもんのほとけが、とうぶん、くきょうのへんをとけるなり。
 ほんちなんしのきょうちのみょうほうは、しゃくぶつなどの、しりょにおよばず、いかにいわんや、ぼさつ、ぼんぷをや、しかんのにじをば、かんみょうぶっち、しみょうぶっけんと、しゃくすれども、しゃくもんの、ぶっち、ぶっけんにして、みょうかく、ごくかの、ちけんにはあらざるなり。
 のそゆえは、しかんはてんだいこしょうの、かいにょさんぜん、さんたいさんがんを、しょうとなす、しゃくもんのしょうい、これなり。
 ゆえにしんぬ、しゃくぶつの、ちけんなりとういことを、ただ、しかんに、ぜつたいふしぎのみょうかんを、あかすといえども、ただ、いちねんさんぜんの、みょうかんに、しばらく、あたえて、ぜったいふしぎと、なずけるなり。


 とう、てんだいだいし、しんじつに、このいちごんの、みょうほうをしょうとくしたまわざるや。
 こたう、ないしょうしからざるなり、げゆうにおいては、これを、ぐつうしたまわざるなり、いわゆる、ないしょうのへんをば、ひして、げゆうには、さんがんとごうして、いちねんさんぜんのほうもんを、じげんしたまなり。
 とう、なにがゆえぞ、しりながら、ぐつうしたまわざるや。
 こたう、とき、いたらざるがゆえに、ふぞくにあらざるがゆえに、しゃっけなるがゆえなり。
 とう、てんだい、このいちごんのみょうほうを、しょうとくしたまえる、しょうこ、これありや。
 こたう、このこと、てんだいいっけのひじなり、よにるふせる、がくしゃこれをしらず、かんちょうげんしのけつみゃくとて、てんだいだいし、じひつのけつみゃくいっし、これあり、てんだい、ごにゅうめつののちは、せきとうのなかに、これあり。
 でんきょうだいし、ごにっとうのとき、やつしたのかぎをもって、これをひらき、どうずいわじょうより、でんじゅしたまう、けつみゃくとはこれなり。
 このしょにいわく、「いちごんのみょうし、いちきょうのげんぎ」もん。
 でんきょうだいしの、けつみゃくにいわく、「それ、いちごんのみょうほうとは、りょうげんをひらいて、ごじんのきょうをみるときは、ずいえんしんにょなるべし、りょうげんをとじて、むねんにじゅうするときは、ふへんしんにょなるべし。
 ゆえに、このいちごんをきくに、ばんぽうここにたっし、いちだいのしゅたら、いちごんにがんす」もん。 このりょうだいしの、けつみゃくのごとくならば、てんだいだいしの、けつみゃくそうじょうの、さいようのほうは、みょうほうのいちごんなり。
 いっしんさんがんとは、しょせんみょうほうを、じょうじゅせんための、しゅぎょうのほうほうなり。 P532
 さんがんは、いんのぎ・みょうほうは、かのぎなり、ただ、いんのところに、かあり、かのところに、いんあり、いんがぐじの、みょうほうをかんずるがゆえに、かくのごとき、こうのうをえるなり。
 ここにしんぬ、てんだいしごくのほうもんは、ほっけほんじゃく、みぶんのところに、むねんのしかんをたてて、さいひの、だいほうとす、と、いえる。
 じゃぎ、だいなるびゃくけんなりということを、しえぐきょうの、だいさったは、すでに、ぶっきょうによつて、しょろんをつくる、てんだい、なんぞ、ぶっせつにそむいて、むねんのしかんをたてたまわんや。
 もしこのしかん、ほけきょうによらずといわば、てんだいのしかん、きょうげべつでんの、だるまのてんまのじゃほうにどうぜん、すべて、しかるべからず、あわれなり、あわれなり。
 でんきょうだいしのいわく、「こくしゅのせいにあらざれば、もってじゅんぎょうするなく、ほうおうのきょうに、あらざれば、もってしんじゅすることなけん」と、もん。
 またいわく、「しえ、ろんをつくるに、ごんあり、じつあり、さんじょう、むねをのぶるに、みっつあり、ひとつあり、ゆえに、てんだいちしゃは、さんじょうのむねにじゅんじて、しきょうのかいをさだめ、いちじつの、きょうによつて、いちぶつじょうをたつ。
 ろくどにべちあり、かいど、なんぞ、おなじからん、じゅほう、おなじからず、いぎ、あにおなじからんや。
 このゆえに、てんだいのでんぽうは、ふかく、しえにより、また、ぶっきょうにしたがう」もん。
 ほんちょうの、てんだいしゅうのほうもんは、でんきょうだいしより、これを、はじむ、もし、てんだいのしかん、ほけきょうによらずといわば、にほんにおいては、でんきょうのこうそにそむき、かんどにおいては、てんだいにそむく、りょうだいしのでんぽう、すでに、ほけきょうによる、あにそのまつがく、これに、いせんや。
 いするをもってしんぬ、とうせいのてんだいけのひとびと、そのなを、てんだいさんにかるといえども、しょがくのほうもんは、だるまのびゃくけんと、ぜんむいのもうごとに、よるということ。
 てんだい、でんきょうの、げしゃくのごとくんば、こしんちゅうの、ひほうは、ただ、みょうほうのいちごんにかぎるなり。
 しかして、とうせいの、てんだいしゅうのがくしゃは、てんだいのせきとうの、けつみゃくを、ひし、うしなうゆえに、てんだいのけつみゃくそうじょうの、ひほうをならい、うしないて、われと、いっしんさんがんの、けつみゃくとて、がいに、まかせて、しょをつくり、にしきのふくろにいれて、くびにかけ、はこのそこにうめて、こうじきにうるゆえに、じゃぎ、くにじゅうに、るふして、てんだいのぶっぽうはしつするなり。
 てんだいのほんいを、うしない、しゃくそんのみょうほうをくだす、これひとええに、だるまのきょうくん、ぜんむいのすすめなり。
 ゆえに、しかんをもしらず、いっしんさんがん、いっしんさんたいをもしらず、いちねんさんぜんのかんをもしらず、ほんじゃくにもんをもしらず、そうたい、ぜつたいの、にみょうをも、しらず、ほっけのみょうかんをもしらず、きょうそうをもしらず、ごんじつをもしらず、しきょう、はちきょうをも、しらず、ごじ、ごみの、せけをもしらず。
 きょう、き、じ、こく、そうおうのぎは、もうすにおよばず、じっきょうにもにず、ごんきょうにもにざるなり、どうりなり、どうりなり。 P533
 てんだい、でんきょうのしょでんは、ほけきょうはぜん、しんごんよりおとれりと、ならうゆえに、だるまのじゃぎ、しんごんのもうごと、うちなつて、ごんきょうにもにず、じつきょうにもにず、にとに、せつせざるなり。
 ゆえに、だいほうぼうざい、あらわれて、しかんは、ほけきょうにまさるという、じゃぎをもうしいだして、とがなきてんだいに、とがをかけたてまつるゆえに、こうそにそむく、ふこうのもの、ほけきょうにそむく、だいほうぼうざいのものと、なるなり。
 それ、てんだいのかんぽうを、たずぬれば、だいそどうじょうにおいて、さんまい、かいほつせしより、このかた、まなこをひらいて、みょうほうをおもえば、ずいえんしんにょなり、まなこをとじて、みょうほうをおもえばふへんしんにょなり、このりょうしゅのしんにょは、ただいちごんのみょうほうにあり、われ、みょうほうをとなうるとき、ばんぽうここにたっし、いちだいのしゅたら、いちごんにがんす。
 しょせん、しゃくもんをたずぬれば、しゃくひろく、ほんもんをたずねぬれば、ほんたかし、しかじ、こしんのみょうほうをかんぜんにはと、おぼしめされしなり。
 とうせいのがくしゃ、このこころをえざるがゆえに、てんだい、こしょうのみょうほうを、ならいうしないて、しかんは、ほけきょうにまさり、ぜんしゅうは、しかんにすぐれたりとおもいて、ほけきょうをすてて、しかんにつき、しかんをすてて、ぜんしゅうにつくなり。
 ぜんしゅうのいちもん、いわく、まつに、ふじかかる、まつ、かれ、ふじかれて、のち、いかにのぼらずして、いっしなんどいえる、てんまのことばを、ふかくしんずるゆえなり。
 しゅたらのきょうしゅは、まつのごとく、そのきょうほうは、ふじのごとし、おのおのに、じょうろんすといえども、ほとけも、にゅうめつして、きょうほうのいとくも、なし、ここにしんぬ、しゅたらの、ぶっきょうは、つきをさす、ゆびなり、ぜんのいっぽうのみ、どくみょうなり、これをかんずれば、けんしょうとくだつするなりという。
 だいほうぼうのてんまのしょいを、しんずるゆえなり。しかして、ほけきょうのほとけは、じゅみょうむりょうじょうじゅう、ふめつのほとけなり、ぜんしゅうは、めつどのほとけとみるがゆえに、げどうのむのけんなり、ぜほうじゅうほうい、せけんそう、じょうじゅうのきんげんにそむくびゃくけんなり。
 ぜんは、ほけきょうのほうべん、むとくどうのぜんなるを、しんじつ、じょうじゅうほうと、いうがゆえに、げどうのじょうけんなり。
 もし、あたえて、これをいわば、ほとけのほうべんさんぞうのぶんざいなり、もし、うばつて、これをいわば、ただげどうの、じゃほうなり、よはとうぶんのぎ、だつは、ほっけのぎなり、ほっけのだつのぎをもってのゆえに、ぜんは、てんまげどうのほうというなり。
 とう、ぜんをてんまのほうというしょうこいかん、
こたう、さきざきにもうすがごとし。

  • [244]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな ゆじゅつほんいちかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月25日(火)01時13分26秒
 
  おんぎくでんこうぎろく じょう

0750~0751 ゆじゅつほんいちかのだいじ。

0751    だいいち しょうどうのしのこと。

 おんぎくでんにいわく、ゆじゅつのいちほんは、ことごとく、ほんげのぼさつのことなり、ほんげのぼさつの、しょさとしては、なんみょうほうれんげきょうなり、これを、しょうというなり、どうとは、にほんこくのいっさいしゅじょうを、りょうぜんじょうどへ。
 いんどうすることなり、まっぽうのどうしとは、ほんげにかぎるというを、しというなり、このしだいぼさつのことを、しゃくするとき、じょのきゅうをうけて、ふしょうきのきゅうにいわく、「きょうに、しどうしありとは、いま、しとくをあらわす、じょうぎょうはがをあらわし、むへんぎょうはじょうをあらわし、じょうぎょうはじょうをあらわし、あんりゅうぎょうはぎょうをあらわす、あるときには、いちにんに、このしぎをぐす。
 にしのひょうにいづるを、じょうぎょうとなずけ、だんじょうのさいをこゆるを、むへんぎょうとしょうし、ごじゅうのくるいをこゆるゆえに、じょうぎょうとなずけ、どうじゅにして、とくまどかなりゆえに、あんりゅうぎょうとのたまうなり」と。
 いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、みな、ぢゆのるるいなり、またいわく、ひはものをやくをもってぎょうとし、みずはものをきよむるをもって、ぎょうとし、かぜはじんくをはらうをもって、ぎょうとし、だいちはそうもくをちょうずるを、もって、ぎょうとするなり、しぼさつのりやく、これなり、しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなり、
 このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、しゃくに、「ほっしょうのえんでい、げんしゅうのごく」といえり、かほうをもって、じゅうしょとす、かほうとはしんりなり、ふしょうきにいわく、「かほうとは、しょうこうのいわく、じゅうしてりにあるなり」とうんぬん、このりのじゅうしょより、あらわれいづるを、じというなり。
 またいわく、せんそうまんぼく、ぢゆのぼさつにあらずということなし、されば、ぢゆのぼさつを、ほんげといえり、ほんとは、かこくおんごひゃくじんでんよりのりやくとして、むしむしゅうのりやくなり。
 このぼさつは、ほんぽうしょじのひとなり、ほんぽうとはなんみょうほうれんげきょうなり、このだいもくはかならず、ぢゆのしょじのものにして、しゃくけのぼさつのしょじにあらず、このほんぽうのたいより、ゆうをいだして、しかんとひろめ、いちねんさんぜんという、そうじて、だいしにんしの、しょしゃくもこのみょうほうの、ゆうをひろめたまうなり、このほんぽうを、じゅじするは、しんのいちじなり、がんぽんのむみょうを、たいぢするりけんは、しんのいちじなり、むぎわっしんのしゃく、これをおもふべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ゆじゅつほんに、「このしぼさつ、そのなかにおいて、もっともこれ、じょうしゅしょうどうのしなり」とあるところについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 ゆじゅつほんのいちほんは、すべて、ほんげのぼさつである、ぢゆのぼさつのことについて、といているのである。そのぢゆのぼさつのふるまいは、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしているのである。これをしょうというのである。しょうどうこれしのどうとはにほんこくのいっさいしゅじょうに、ごほんぞんを、たもたせ、へいわでこうふくなせいかつへ、しどうすることをいうのである。まっぽうのどうし、しどうしゃとは、ぢゆのぼさつ、すなわちべっしては、にちれんだいしょうにん、そうじては、そのでしにかぎることをしというのである。
 このゆじゅつほんにしゅつげんする、じょうぎょう、むへんぎょう、じょうぎょう、あんりゅうぎょうをしゃくするとき、てんだいのもんぐのきゅうをうけて、どうせんのふしょうきのきゅうには、「ゆじゅつほんにしどうしがあるということは、じょうらくがじょうの、しとくをあらわしていうのである。じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうは、じょうをあらわし、じょうぎょうは、じょうをあらわし、あんりゅうぎょうは、ぎょうをあらわしている。
 あるときは、ひとりのせいめいに、このよんぼさつのぎをぐしているのである。ぶんだんのしょうじ、へんにゃくのしょうじを、でることをじょうぎょうとなづけ、だんけん、じょうけんのせいめいかんをこえて、えいえんのせいめいかんをえとくすることを、むへんぎょうとなづけ、さんがいのけんわく、よっかいのしわく、むしきかいのしわく、こんぽんむみょうわくとう、のごじゅうのまどいを、こえることをじょうぎょうとなづけ、そして、ぼだいじゅのように、しんじつただしいみちをあゆみ、えんまんなじんとくをもつことを、あんりゅうぎょうとなづけるのである」とある。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえるのは、すべてぢゆのぼさつのけんぞくなのである。
 また、ひはものをやくのが、そのしめいであり、じょうぎょうである。みずはものをきよめるのが、しめいであり、じょうぎょうである。かぜは、ちりやあかなどを、ふきはらうのがしめいであり、むへんぎょうである。だいちは、そうもくをいくせいするのが、しめいであって、あんりゅうぎょうである。
 しぼさつのぎょうは、ふどうであっても、ともに、なんみょうほうれんげきょうのしゅぎょうなのである。このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、てんだいはほっけもんぐで、「せいめいのおうていであり、きゅうきょくである」といったのである。かほうが、ぢゆのぼさつのじゅうしょなのである。そして、かほうとは、しんりなのである。どうせんのふしょうきには「かほうとは、じくのどうしょうのいうには、みょうほうれんげきょうのどうりにかなっていることである」とといている。
 このりのじゅうしょから、しゅつげんするのを、じというのである。また、いっさいのそうもくといえども、ぢゆのぼさつでないものはない。それゆえ、ぢゆのぼさつを、ほんげというのである。ほんとはきょうそうからいえば、ごひゃくじんでんこう、かんじんからいえばむしむしゅうの、くおんがんじょからの、りやくなのである。
 このぢゆのぼさつは、こんぽんのほうをもっているのである。ほんぽうとは、なんみょうほうれんげきょうである。このなんみょうほうれんげきょうのだいもくは、ぢゆのぼさつのたもつところであって、しゃくけのぼさつのたもちえないものである。このなんみょうほうれんげきょうの、たいからゆう、はたらきをだして、てんだいは、まかしかん、いちねんさんぜんをひろめているのである。このほんぽうを、じゅじするのはしんのいちじによるのである。じょうぶつをうたがい、ごほんぞんをうたがうという、こんぽんのまよいを、たいぢするりけんは、しんのいちじなのである。もんぐのきゅうの、「うたがいなきをしんとのたまう」という、しゃくをよくよくおもうべきである。

 ほんげのぼさつの、しょさとしては、なんみょうほうれんげきょうなり。

 ほんげのぼさつのふるまい、じっせんは、すべて、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしている。しゃくけのぼさつは、ぞう、つう、べつ、えんときょうけをうけ、きじゅくし、しょせんは、ほけきょうにじゅうはちほんをたもった、ふるまいであるけれども、ほんげのぼさつは、ほんらい、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとし、なんみょうほうれんげきょうをじゅじしきった、ふるまいなのである。ここに、しゃくけのぼさつと、こんぽんてきなそういがあるのである。
 かって、とだじょうせいぜんかいちょうは、「よのなかの、せいじかとうのしどうしゃは、しゃくけのぼさつである。われわれは、ほんげのぼさつである」と、せいかつにやくして、せつめいされたことがあった。いかにいだいなしどうしゃ、せいじかであったとしても、さんだいひほうの、ごほんぞんをたもっていなければ、こんぽんてきな、よのなかのかくめい、ひとりひとりのきゅうさいは、ぜったいにできない。
 したがって、あたらしいじだいに、あたらしいてつがくをもって、あたらしいしどうしゃが、ゆじゅつして、これからのにほんのくにの、はんえいのため、そしてまた、せかいのへいわと、こうふくのために、たたかっていくいがいにない。われわれこそ、みんしゅうのこうふく、せかいへいわをかちとる、たたかいのせんくしゃであり、しどうしゃであると、かくしんすべきである。

これをしょうというなり。
 しょうのしのしょうとは、なんみょうほうれんげきょうと、となえることである。また、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとして、だいしどうしゃになって、いっさいのみんしゅうのために、じんるいのぶんかのために、あらゆるかいそうに、たたかいをすすめて、こうけんしていくことを、いうのである。われわれの、みょうほうをこんていにした、いっさいのげんげんくくはしょうである。
 アメリカのだいとうりょうも、ロシアのさいこうしゅのうも、またフランスのだいとうりょうも、こっかのために、またはみんぞくのために、あるいは、せかいのへいわのために、ちょうじかんにわたる、えんぜつもするし、せいさくもはっぴょうする。
 また、そのた、ひょうろんかにしても、がくしゃにしても、さまざまなことをはっぴょうする。それらはぜんぶ、いちおうはしょうになるのである。だが、それらのしょうはうみょうむじつであり、かならずしもみんしゅうのこうふくにつながらない。かえって、みんしゅうに、ふあんとどうようをあたえるばあいも、た々たである。ごほんぞんをたもった、われわれの、いっさいのげんげんくくは、みょうほうれんげきょうのほうりにかない、へいわとこうふくのために、じじつのうえにつうじていくのである。

どうとは、にほんこくの、いっさいしゅじょうを、りょうぜんじょうどへいんどうすることなり。
 しょうどうのしのどうとは、にほんこくの、ぜんみんしゅうをりょうぜんじょうどへいんどうする。 ごほんぞんをたもたせ、そうかがっかいいんとして、こうせんるふにまいしんしていくことが、ちからづよいいぶきとなり、ぜんせかいへ、はきゅうしていくのである。

 まっぽうのどうしとは、ほんげにかぎるというを、しというなり。
 まっぽうのどうしとは、べっしては、にちれんだいしょうにん、そうじては、だいしょうにんのでしである。よのなかには、いろいろなしどうしゃやししょうがいる。しかし、ごじょくらんまんの、まっぽうのぜんみんしゅうを、きゅうさいしきるしんじつのしどうしゃは、ごほんぞんをじゅじしきっているものに、かぎるのである。
 このだいしょうにんの、おんふみをはいするならば、われら、ぢゆのだいぼさつが、あらゆるぶんやに、あらゆるかいそうにしんしゅつし、いっさいのひと々びとを、ゆういん、いんどうしきる、しんじつのなかのしんじつの、ししょうであり、しどうしゃたることを、かくしんすべきである。

 じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうはじょうをあらわし、じょうぎょうはじょうをあらわし、あんりゅうぎょうはらくをあらわす。
いまこのもんを、しんじんのうえからはいすれば、じょうぎょうは、なんみょうほうれんげきょうという、がをあらわす。われわれは、ろくどうりんね、きゅうかいそしてまた、じっかいのせいめいかつどうをしているけれども、そのこんぽんはなんみょうほうれんげきょうを、となえいくことである。いかなるばあいでも、ただなんみょうほうれんげきょうをとなえることを、わすれないというがである。むへんぎょうとは、いっさいほうこれぶっぽうで、いかなるせいかつ、どんなきょうぐう、どんなじだいであっても、つねに、なんみょうほうれんげきょうをわすれないことである。
 じょうぎょうは、どうように、いかなるじだいがこようとも、どんなきょうぐうであろうとも、どんなかなしいときでも、どんなつらいときでも、どんなうれしいときでも、ただ、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしたせいかつ、せいめいかつどうは、じょうのなかのじょうである。よのなかは、ごじょくらんまんであり、おごりたかぶり、にごりきった、ひとびとばかりである。
 だがれんげのはなが、ちょうど、どろぬまにさくごとく、どろぬまのような、きゅうかいのげんじつのせかいのなかで、だいもくをあげきっていく、じんせいかつどうは、もっとも、きよらかなせいめいかつどうなのである。あんりゅうぎょうは、じゅりょうほんの、「がしどあんのん」と。いかなるじだいにあっても、いかなるじたいがおころうとも、いつもなんみょうほうれんげきょうをじゅじし、となえているならば、らくである。
 すなわち、じょうらくがじょうをじょうぎょう、むへんぎょう、じょうぎょう、あんりゅうぎょうの、しぼさつからといたわけである。
 しょうじょうぶっきょうは、くじゅうめつどうであり、く、くう、むじょう、むがである。それにたいして、だいしょうにんのぶっぽうは、じょうらくがじょうである。まただいしょうにんは、「なんみょうほうれんげきょうは、かんきのなかのだいかんきなり」(0788-ごひゃくほん)ともおおせである。すなわちじょうらくがじょうである。まだまだ、いくえにもせいめいろんのたちばで、さまざまにかいしゃくができる。

 あるときには、ひとりに、このしぎをぐす、にしのひょうにいづるを、じょうぎょうとなずけ、だんじょうのさいをこゆるを、むへんぎょうとしょうし、ごじゅうのくるいをこゆるゆえに、じょうぎょうとなずけ、どうじゅにしてとくまどかなりゆえに、あんりゅうぎょうとのたまうなり。
 このもんについて、にちかんしょうにんの、かいもくしょうもんだんには、つぎのごとくとかれている。
 「にしのうらにぼっするとは、くだるぎであり、すなわち、けいばくふじざいである。にしのひょうにいずるのは、のぼるぎであり、すなわち、げだつじざいである。ゆえに、じょうぎょうは、がをあらわすのである。だんじょうをこえ、へんさいなしとは、ちゅうどうじょうじゅうであり、ゆえに、むへんぎょうはじょうをあらわすのである。ごじゅうのくるいを、こゆるとは、すなわちしょうじょうである。ゆえにじょうぎょうはじょうをあらわすのである。どうじょうぼだいじゅのしたで、まんとくえんまんすとは、あんらくにせいりつすることであり、ゆえに、あんりゅうぎょうはらくをあらわすのである。これらはべったいのぢゆである。

 つぎに、『あるときには、ひとりにこのしぎをぐす』とは、すなわち、そうたいのぢゆである。ざいせはべったいのぢゆであり、まっぽうは、そうたいのぢゆである。なぜなら、「あるとき」とは、まっぽうをさすからである。ゆえに、まっぽうのぢゆのぼさつには、じょうらくがじょうのしとくがいっしんにそなわっているのである。これこそ、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんであらせられる」。
 もし、このそうたいのぢゆを、われわれのしんじんせいかつにやくしていえば、われわれが、ごほんぞんをしんじて、しょうだいしていくならば、しぼさつのとくゆうが、わがこのいっしんに、そなわることである。
 いまそのたちばから、このもんをみていくことにする。

 「にしのひょうに、いづるをじょうぎょうとなずけ」ぶんだん、へんにゃくとうの、しょうじのくにそくばくされない、じゆうじざいのきょうがいを、じょうぎょうとなづけるのである。だいもくをとなえ、ぶっかいをゆげんした、せいかつは、なにものにもおかされない、ちからづよいせいめいかつどうの、あらわれである。じょうぎょうこそ、しんのじゆうのきょうがいなのである。
 「だんじょうのさいを、こゆるを、むへんぎょうとしょうし」だんけん、じょうけんとうの、ひくきせいめいかんをすてさり、えいえんのせいめいかんにたったとき、いっさいのいきづまりは、ことごとく、だはされ、ひろびろたる、みらいのしんきょうにいきることができる。これ、むへんぎょうのきょうがいである。「ごおうのくるいを、こえるゆえにじょうぎょうとなずけ」、ごおうのくるいとう、うちゅうのほんたい、せいめいのほんしつを、みわけることのできない、まどいからきたる。せいめいのけがれは、みょうほうのきょうりょくな、ぶっかいにてらされ、じょうかされ、しょうじょうむぜんのせいめいかつどうを、していくのである。これじょうぎょうのきょうがいである。
 「どうじゅにして」とは、どうじょうぼだいじゅのしたで、とのいみである。すなわち、しんじんせいかつにやくせば、いっさいを、ぶっぽうをこんぽんとして、にょじつちけんしていける、じんせいである。ものごとにたいして、みちすじをとおし、また、あくまでせいろんは、せいろんとして、いいきっていける、またみていけるせいかつである。
 「とくまどかなり」とは、もっとも、にんげんらしいじんかくしゃである。にんげんかくめいされきったじんかく、こじんもこうふくであり、りんじんをも、なさけをもって、こうふくにみちびいていけるじんかく、それをなづけてあんりゅうぎょうというのである。よく、とだじょうせいぜんかいちょうは、「わたしはりっぱな、へいぼんなだいぼんぷである」ともうされ、しょだいまきぐちかいちょうも、「しんじんしきったばあいには、けっきょくは、いっけんすれば、りっぱなへいぼんな、にんげんである」といわれたときく。しんじんすれば、じねんとえんまんなとくは、そなわるのである。
 むしろ、いまのゆうめいじんや、せいじかは、けんいをもち、きょえいをもち、せのびし、にんげんらしいにんげんではなく、いっしゅのかたわとなっているのである。われわれのばあいは、ありのままで、じねんと「とくまどか」な、すがたになっていくのである。せいめいのほんしつから、あらわれたじねんのすがたである。
 けっきょくこうみていくと、ごほんぞんをじゅじし、ごほんぞんにだいもくをあげていくこと、それじしんが、にしのひょうにでたことになり、だんじょうのさいを、こえたことになり、ごおうのくるいをこえたことにもなり、とくまどかなることに、なるのである。

いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、みな、ぢゆのるたぐいなり。
 しょほうじっそうしょうには、「みな、ぢゆのぼさつのしゅつげんにあらずんば、となへがたきだいもくなり」(1360-08)とある。すなわち、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、みな、ぢゆのぼさつの、けんぞくなることをいうのである。
 したがって、ほけきょうにじゅうはちほん、そして、じゅうぢゆしゅっほんに、とかれた、きょうそうにおける、ぢゆのぼさつは、このだいしょうにんの、かんじんしゃくによって、しょせんは、にちれんだいしょうにんのでしを、いみすることがわかろう。とおくきょうもんにあったものは、じつは、げんじつのわがみのうえのことなのである。
 ほけきょうをよむと、ひじょうに、すうがくてきにおおきいことが、とかれているばあいがおおい。たとえばきょうもんには、「ひゃくせんまんのくなゆたこう」とある。だがだいしょうにんのかんじんしゃくでは、それは、ひゃっかいせんにょとよむわけである。また「かんのんさんじゅうさんしん」とあるのを、だいしょうにんは、くうけちゅうのさんたいとよみ、じっかいとよみ、またほっぽうのさんじんとよむ。
 また「せんぶつのみて」とあるのを、せんにょとよむとう、けっして、きょうもんじょうのことではなく、いちぽふかく、せいかつにちょっけつしてとかれている。これがだいしょうにんのぶっぽうから、ほけきょうをかいしゃくするよみかたなのである。つぎにあげる、ゆじゅつほんのもんをきょうそうのままよんでも、げんざいのそうかがっかいのこうせんるふにむかうすがたに、ひじょうに、よくにていることが、うなずける。
 「いちいちのぼさつ、みなこれ、たいしゅうのしょうどうのしゅなり、おのおの、ろくまんごうがしゃとうの、けんぞくをひきいたり。いわんやごまん、よんまん、さんまん、にまん、いちまんごうがしゃとうの、けんぞくをひきいたるものをや。いわんや、また、ないしいちごうがしゃ、よんぶんのいち、ないし、せんまんのくなゆたぶんのいちなるをや。いわんやまた、せんまんのくなゆたのけんぞくなるをや、いわんや、また、おくまんのけんぞくなるをや。いわんやまた、せんまん、ひゃくまん、ないし、いちまんなるをや。いわんやまた、いっせん、いっぴゃく、ないしいちじゅうなるをや。いわんやまた、ご、よん、さん、に、いちのでしを、ひきいたるものをや。いわんやまた、たんごにして、おんりのぎょうをねがえるをや。これのごときとうの、るいひ、むりょうむへんにして、さんずひゆも、しることあたわざるところなり」。
 また、このきょうもんからすれば、まだまだ、しゃくぶくはできることになる、「ふつごじつぷこ」のじしんをもち、ゆうきをもって、ほまれたかく、すすんでいきたいものである。

またいわく、ひはものをやくをもって、ぎょうとし、みずはものをきよむるをもって、ぎょうとし、かぜはじんくをはらうをもって、ぎょうとし、だいちはそうもくをちょうずるをもって、ぎょうとするなり、しぼさつのりやくこれなり。
 ちすいかふうのしだいをしぼさつにはいりゅうしよむところである。
 これは、そらにあがるゆえに、じょうぎょうはひだいであり、かぜはへんさいがないゆえに、むへんぎょうはふうだいであり、みずはしょうじょうなるゆえに、じょうぎょうはすいだいであり、ちはばんぶつをあんりゅうするゆえに、あんりゅうぎょうはちだいにはいせられるのである。ふるくから、てんだいぶっぽうでは、しぼさつを、しだいにはいりゅうした、ぶんけんがのこっている。
 てんだいかのだいがくしゃといわれた、そんしゅんのしかんけんぶんのごには、「ぢゆうのしだいしは、そく、しだいなり、ちだいはばんぶつをはぐくみし、せいすいはじんくをあらい、ひだいは、かんくをふせぎ、りょうふうは、きゅうかのねつをすずます。みなこれ、ほんちのじひ、ほんがくしょせなり」とある。
 てんだいは、しぼさつのぎょうを、しだいにことよせてろんじているが、しょせんは、しぼさつとは、みょうほうれんげきょうそれじたいであることを、あらわそうとしたものである。すなわち、しぼさつとは、うちゅうほんねんに、そなわる、だいじひのせいめいかつどうであり、こじんにしゅうやくすれば、そんごくきわまりなき、みょうほうのせいめいかつどうをいう。

 しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなり。
 いっさいのうちゅうの、しんらばんしょうのなかにも、しぼさつのはたらきはある。おなじく、あるひとは、せいじかに、あるひとはじつぎょうかに、あるひとは、かがくしゃに、きょういくしゃに、あるひとは、かせいふに、あるひとはしょっこうに、あるひとは、しんぶんきしゃに、あるひとは、カメラマンにと、しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなのである。
 すなわち、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとするならば、どういうたちばであっても、いかなるきょうぐうであっても、おのおのしめいかんにたって、せいかつし、かつどうし、じんせいを、いききっていくことが、それじたい、りっぱなぶつどうしゅぎょうなのである。こうせんるふに、つながり、しゃかいをりやくしていくことに、つうじている。とのおおせである。
 これこそ、みんしゅしゅぎのげんりなのである。
 わがきょうだんは、せいじつであり、せいけつである。だんけつがつよい。がいけんからみたひとは、じゆうがないのではないかと、さっかくするであろう。これだいなるあやまりである。ひとりのにんげんが、めいれいてきにみんしゅうをひっぱっていけるとおもうことじたい、じだいさくごである。
 こんとんとしている、このにほんこくで、ほうじゅうなこのしゃかいにあって、だれが、めいれいでうごくかといいたい。わがこさえ、いけんをきかぬばあいがおおい。いわんや、なんびゃくまん、なんぜんまんのひとが、めいれいについてくるわけがぜったいにない。
 わがきょうだんは、わがわごうそうは、めいれいしゅぎでもない。えいゆうしゅぎでもない。また、そんなじだいでもなく、きこんもないのである。
 われわれは、しんじんいちずである。ゆえにつよいのである。このほんしつを、わきまえぬため、かれらはぐろんをくりかえしているにすぎないのだ。われわれは、ただ、ごほんぞんをじゅじすることをこんぽんとし、かくじんがいっしょうじょうぶつをめざしゆくことのみが、もくてきなのである。いかなるせいかつであろうが、しょくぎょうであろうが、またいかなるきょうぐうであれ、ぜんぶじゆうである。そうかがっかいは、それぞれしゅたいせいをもち、そのきょうぐうのなかから、こうせんるふをなしとげようというもくてきかんにたった、いたいどうしんのだんけつなのである。これみぞうの、しんせいきにふさわしい、だいしゅうだんのしゅつげんであり、だいしょうりのぜんしんのあしおととかくしんしたいものである。
 このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、しゃくに、「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」といえり、かほうをもって、じゅうしょとす、かほうとは、しんりなり、ふしょうきにいわく、「かほうとは、しょうこうのいわく、じゅうしてりにあるなり」とうんぬん、このりのじゅうしょより、あらわれいづるをじというなり。
 「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」とは、なんみょうほうれんげきょうのことである。すなわち、しんりのなかのしんり、せいめいのおうてい、うちゅうのほんげん、ほんたいであり、あらゆるほうり、どうりのこんぽんである。たとえば、エネルギーのこんぽん、そうもくがはんもしてゆく、そのちからのこんぽんりき、われわれがかつどうしてゆくげんせんりき、それをてんだいは「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」といったのである。
 われわれは、しんじんなきときは、りんじんのふこうをかえりみなかった。じぶんのことでいっぱいであったのである。しかし、いちど、ごほんぞんをじゅじして、せいめいりょくはわきでて、ふこうなひとをすくおうとの、じあいにみちているのである。にほんのくにのあんのんあんたいも、かんがえるようになった。せかいのみんしゅうのこうふくも、こころからねがいゆくようになった。
 これはかんねんろんではなく、じじつ、げんじつにかつどうをてんかいしているのである。これは、ぢゆのせいめいが、おうていよりゆげんしているすがたなのである。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、せいねんくんに「せいねんは、おやをもあいさぬようなものがおおいのに、どうしてたにんをあいせようか。そのむじひの、じぶんをのりこえて、ほとけのじひのきょうちをえとくする、にんげんかくめいのたたかいである」と、のべられている。ごほんぞんに、なむしたとき、ほとけのじひのきょうちに、りっきゃくし、あらゆるしゅじょうを、りやくするちからがわき、せかいへいわのため、ぜんみんしゅうのためにこうけんしていくことが、かのうになるのである。
 またおんぎくでんには、「ゆじゅつとは、じっかいのしゅじょうの、しゅつたいのそうなり」(0799-ゆじゅつほん-02)とあるごとく、ぢゆのぼさつのしゅつげんは、しとくをそなえた、そんげんなるせいめいが、ははのたいないよりゆじゅつすることを、いみするのである。
 「かほうとはしんりなり」の、しんりとは、どうりということである。かみがにんげんをつくったというふごうり、あるいは、かんねんてきなものでは、ないということである。また、かほうとは、じっさいにだいちと、とって、よいとおもう。われわれがあるくのも、だいちがなければならないし、いくら、ひこうきがとんでも、さいごは、だいちにもどってこなければならないし、とりも、やはりけっきょく、だいちにもどってこなければならない。われわれが、たべるものも、すべて、だいちよりせいいくされ、いくせいされるのである。さらにたいようのねつ、また、いっさいのいんりょくも、ほしのうんこうも、だいちに、ちょくせつかんけいをもつものである。なお、じくのどうしょうがのべた、「かほうとは、じゅうしてりにあるなり」のりとは、なんみょうほうれんげきょうをさしているのである。
 「このりのじゅうしょより、あらわれいづることというなり」とは、ことすなわち、せいかつじっせんをいう。また、げんしょうかいをさす。しょせん、あらゆるげんしょうは、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとしているということである。てんだいだいしが、「きはこれほっしょうのき、めつはこれほっしょうのめつ」と、ろんじたごとく、ぜんげんしょうのきめつとうは、ぜんぶ、みょうほうれんげきょうを、こんぽんとしてあらわれたすがたである。かんげんすれば、げんじつのなかに、みょうほうのたいほうそくがあって、けっして、かんねんてきなものではないということである。
またいわく、せんそうばんぼく、ぢゆのぼさつにあらずということなし。
 これ、みょうほうをこんぽんとすれば、いっさいのかつどうが、ぢゆのぼさつのはたらきに、かわるというもんである。たとえば、げんしばくだんたりとも、「ぢゆのぼさつに、あらずということなし」のどうりになるのである。これは、みょうほうをこんぽんとすれば、げんしばくだんも、かならずへいわかいたくりようにかわってゆくとのげんりである。はんたいにひぼう、ほうぼうのみ、せかいにじゅうまんしたばあい、あびきょうかんじごくになって、せんそうばんぼくは、しめつしてしまう。
 ともに、いっさいのものが、てんまのはたらきに、かわってしまうのである。せかいこうきゅうへいわを、こんぽんりねんとし、じんるいきょうえいのえいきゅうげんりとし、かつまた、ちきゅうみんぞくしゅぎの、いちだいししんとして、こころあるひとに、このだいほうりをば、つたえきらねばならない。

さればぢゆのぼさつはほんげといえりとう。
 「くおんごひゃくじんでん」とは、きょうそうである。「むしむしゅう」は、くおんがんじょであり、かんじんである。ここではとうぜん、くおんがんじょのにちれんだいしょうにんと、はいすべきなのである。「ほんぽうしょじのひと」とは、べっしては、にちれんだいしょうにん、きょうそうでは、じょうぎょうぼさつのことである。しんじんよりはいすれば、だいしょうにんのでしである。われわれをさすのである。

 このほんぽうのたいより、ゆうをだして、しかんとひろめ、いちねんさんぜんという、そうじて、だいし、にんしの、しょしゃくも、このみょうほうのゆうを、ひろめたまうなり。
 なんみょうほうれんげきょうが、ほんたいであり、それからゆうをいだして、しゃくそんは、ほけきょうにじゅうはちほんをとき、てんだいは、まかしかんをといたのである。また、あらゆるだいし、にんし、たとえば、りゅうじゅ、てんじん、みょうらく、でんぎょうとうも、なんみょうほうれんげきょうの、ほんたいのゆうをひろめたにすぎないのである。
 そのほんたいを、ちょくせつひろめていくのが、ほんげのぢゆのぼさつである。すなわち、われわれのことである。なんと、ふくうんのだいなることであろうか。かつ、じゅうだいなしめいを、つうかんしうるものである。

 このほんぽうを、じゅじするはしんのいちじなり、がんぽんのむみょうを、たいぢするりけんは、しんのいちじなり、むぎわっしんの、しゃくこれをふおもうべし。
 「このほんぽう」これすなわち、さんだいひほうの、ごほんぞんをじゅじするのは、しんのいちじである、とのおだんげんである。がんぽんのむみょうとは、ふこうのこんぽんをいう。それをたちきるりけんは、しんのいちじしかないとのおおせである。せいじ、ほうりつ、きこう、せいど、きょういく、かんきょうだけでは、このむみょう、ふこうのほんげんのかいけつは、えいきゅうにできえない。けっきょく、ばっぽんてきに、にほんのくにの、こうふくとへいわとはんえいをきずくのは、しんじんごうじょうなるぢゆのぼさつのみであるとのもんなりとだいかくしんすべきである。




  • [243]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな あんらくぎょうほんごかのだいじ

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月22日(土)02時05分17秒
 
あんらくぎょうほんごかのだいじ

おんぎくでんこうぎろく じょう

0750~0750 あんらくぎょうほんごかのだいじ。
0750    だいいち あんらくぎょうほんのこと。
0750    だいに いっさいほうくうのこと。
0750    だいさん うしょなんもん ふいしょうじょうほうとうとうのこと。
0750    だいよん むうふいか とうじょうとうのこと。
0750    だいご うにんらいよく なんもんじゃ しょてんちゅうやとうのこと。

0750~0750 あんらくぎょうほんごかのだいじ。
0750    だいいち あんらくぎょうほんのこと。

 おんぎくでんにいわく、みょうほうれんげきょうを、あんらくにぎょうぜむこと、まっぽうにおいて、いま、にちれんとうのたぐいのしゅぎょうは、みょうほうれんげきょうをしゅぎょうするに、なんきたるをもって、あんらくとこころうべきなり。

 あんらくぎょうほんには、みょうほうれんげきょうを、あんらくにしゅぎょうするほうほうが、とかれているが、それは、しょうぞうにおける、しょうじゅのしゅぎょうである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。みょうほうれんげきょうを、あんらくにぎょうずるということは、まっぽうにおいて、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかの、しゅぎょうにやくしていえば、ごほんぞんをしんじ、じぎょうけたにわたる、ぶつどうしゅぎょうをはげめば、かならずなんがある。そのなんがおきてくることが、じつはあんらくであると、こころえなければならない。

 あんらくぎょうほんには、しん、く、い、せいがんのしあんらくぎょうがとかれている。そのこころは、あっく、はくがいされず、あんのんにみょうほうを、しゅぎょうするには、いかにしたらよいかをしめしたものである。かんじほんにとく、さんるいのごうてきのあらしとたたかい、ぐほうするほうきとは、まったくことなり、おだやかな、しょうきょくてきなじっせんほうほうをいうのである。
 たとえば、くあんらくぎょうのもんには、「もしはくちにせんぜつし、もしはきょうをよまんとき、ねがつてひと、および、きょうてんのあやまちをとかざれ。また、しょよのほっしを、きょうまんせざれ、たにんのこうお、ちょうたんをとかざれ、しょうもんのひとにおいて、またなをしょうして、そのかあくをとかざれ。
 また、なをしょうして、そのうつくしきことを、さんたんせざれ」とうとあり、また、しんあんらきぎょうのもんにも「いかんなるをか、ぼさつ、まかさつ、こくおう、おうじ、だいじん、かんちょうにしんごんせざれ。もろもろのげどう、ぼんじ、にけんしとう、および、せぞくのぶんぴつ、さんえいのげどうをつくる、および、ろかやだ、ぎゃくろかやだ、のものにしんごんせざれ。
 また、もろもろのあらゆる、きょうぞく、そうさおよび、ならとうのしゅじゅのへんげんのたわむれに、しんごんせざれ、また、せんだら、および、いのししひつじ、けいくをやしない、でんりょうしさかなとりするもろもろのあくりちぎに、しんごんせざれ」とうとある。
 これらのもんによれば、ひとざとはなれた、へいおんぶじのところで、ぶつどうしゅぎょうすることになる。これらのしゅぎょうは、しょうほう、ぞうぼうじだいにはつうようしたかもしれない。しかし、まっぽうには、まったくようをなさないのである。げんこんは、ごじょくのじだい、しゅらとうじょうのさかんなじだいである。ふこうのひと、ほうぼうのものがじゅうまんしている。それらをみ、てをこまねいて、じぶんだけ、へいおんぶじに、ぶつどうしゅぎょうをねがうのは、ぶっぽうをしらざることばであり、ひとである。かくのごときやからは、りこしゅぎであり、ひきょうものであり、かいぶつのごときそんざいである。
 にょせつしゅぎょうしょうに、「いちじょうるふのときは、ごんきょうあつて、かたきとなりて、まぎらはしくば、じっきょうよりこれをせむべし、これを、しょうしゃくにもんのなかには、ほけきょうのしゃくぶくともうすなり。てんだいいわく「ほっけしゃくぶく、はごんもんり」と、まことにゆえあるかな、しかるに、しょうたる、しあんらくのしゅぎょうを、いまのとき、ぎょうずるならば、ふゆ、しゅしをくだして、はる、このみをもとむるものにあらずや。
 ニワトリの、あかつきになくはゆうなり、よいになくは、もっけなり、ごんじつぞうらんのとき、ほけきょうのおんてきを、せめずして、さんりんにとじこもり、しょうじゅをしゅぎょうせんは、あに、ほけきょうしゅぎょうのときをうしなう、もっけにあらずや。
 されば、まっぽう、いまのとき、ほけきょうのしゃくぶくの、しゅぎょうをば、だれか、きょうもんのごとく、ぎょうじたまへしぞ、だれひとにてもおわせ、しょきょうはむとくどう、だじごくのこんげん、ほけきょうひとり、じょうぶつのほうなりと、こえもおしまず、よばはりたまいて、しょしゅうの、にんぽうともにしゃくぶくして、ごらんぜよ。
 さんるいのごうてき、きたらんこと、うたがいなし」(0503-15)と。
 あっくをきにし、はくがいをおそれ、へいおんのみねがい、みずからのせっそうまで、まげるじんせいは、じゃくしゃのじんせいである。
 にちれんだいしょうにん、ございせじだいにおいても、はくがいのきびしさに、たえかねて、たいてんするひとがいくたもいた。
 これらのひとびとは、けっきょく、だいしょうにんの、ごほんぶつたることをしらず、しんぜず、ただただ、めさきのあんのんのみに、とらわれたひとびとである。そのめいよあるたちばを、すてさった、まことにあわれなすがたであった。
 さどごしょに、「にちれんごぼうは、ししょうにておはせども、あまりにこはし、われらはやはらかに、ほけきょうをひろむべしといわんは、ほたるびがにちがつをわらひ、ありづかが、かざんをくだし、せいこうがこうかいをあなづり、かささぎがらんほうをわらふなるべし、わらふなるべし」(0961-01)と。


 だいしょうにんめつごにおいても、ごろうそうは、てんだいしゃもんとなのってしまった。そしてしゃくぶくをすて、しょうじゅのぎょうに、はしったのである。ただいちにん、にっこうしょうにんのみが、にちれんだいしょうにんの、しょうほうしょうぎをごじし、いかなるけんりょく、あつりょくにくっせず、でんじなされ、こうふのきそを、つくられたのである。げんざい、そうかがっかいは、だいしょうにんのぶっぽうを、すんぶんたがうことなく、じゅじし、ぜんしんしている。
 ときにかなった、さいこう、さいぜんの、じっせんこういを、なしているのである。いっせんすうひゃくまんのひとびとが、ごほんぞんをたもったげんせんは、いちたいいちのしゃくぶくにあったことは、そのことをしめす、とうといしょうこではなかろうか。
 つぎに、「なんきたるをもって、あんらくとこころうべきなり」との、ごきんげんを、かくしんできるひとこそ、だいしょうにんより、おほめをいただけるひとである。このひとこそ、こんぜで、ほとけのちからをだし、ししてりょうぜんにかえり、さんぜじっぽうのほとけ、ぼさつよりしょうさんされる、さいこうのしんじゃ、じんせいといえるのである。
 これ、そのひとのいちねん、しんじんのつよさによってきまるのである。だいしょうにんのごいっしょうも、はくがいのれんぞくであった。しかし、だいなんのなか、しょうがい、ごきょうがいは、ゆう々ゆうたるものであった。われらもまた、しんじんをひらけば、いっさいがあんらくとなるのである。なんがあればあるほど、そのひとはせいちょうする。ふくうんをはやくつみゆくことを、わすれてはならない。
 つぎに「あんらく」とは、あらゆるひとが、あんらくをもとめている。びょうにんはけんこうになろうとし、ひんじゃはふしゃになろうと、どりょくする。かぎりなく、くをば、あんらくにだっきゃくしようとするのは、にんげんしぜんのすがたである。しかるに、このようなあんらくは、そうたいてきなあんらくである。しんじつぜったいのあんらくは、じょうぶつである。なにものにもおかされず、えいえんにあんらくしてゆける、きょうがいをかくりつすることこそ、さいこうのあんらくなのである。

0750    だいに いっさいほうくうのこと。

 おんぎくでんにいわく、このしたにおいて、じゅうはちくうこれあり、じゅうはちくうのたいとは、なんみょうほうれんげきょうこれなり、じゅうはちくうはいずれもみょうほうのことなり。

 ここは、あんらくぎょうほんに、「いっさいのほうをかんずるに、くうなり」とあり、いか、じゅうはちくうが、とかれているところの、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである、この、「いっさいほうくう」のもんのしたには、じゅうはちくうがとかれている。このじゅうはちくうのほんたいとは、なんみょうほうれんげきょうである。じゅうはちくうはいずれもみょうほうのことをあらわしている。

 あんらくぎょうほんのじゅうはちくうは、いずれも、せいめいのふかしぎなじょうたいを、さまざまなかくどから、ときあかしたものである。くうというと、いっぱんにはむとおなじような、いみにつかわれている。
 また、あるゆうめいなじてんにも、ぶっせつでとく「くう」を「うにたいして、そんざいをひていすること」とあるくらいである。また、ぶっきょうかんけいのがくしゃがろんずるくうも、かんねんてきであり、いたずらになんかいな、ぶっきょうようごをつかいながらも、じっさいには、しょうじょうきょうとうで、とくくうかんをもとにしたものがおおい。
 およそせいかつと、まったくかけはなれたものに、なっている。しんじつのぶっぽうのとくくうは、ぜったいに「む」ではない。「う」「む」とはべつの、がいねんである。ありといえばなく、なしといえばあるという、ふしぎなるせいめいのじょうたいをいう。
 いっぱんのてつがくにおいては、「う」と「む」のふたつをこんげんにしている。とくにせいようてつがくにおいては、「ある」か「ない」かのはんだんだけで、そこに「くう」というがいねんはない。くうをえいやくしてempty space とか vanity というごがあるが、これをえいやくするのに、あるじてんでは all is nothing としている。これでは、「すべてはむ」ということで、くうはたんなる「くうきょ」や、「む」のいみでしかなく、きゅうやくせいしょ、でんどうのしょにある、くうとどうようになってしまう。
 がいこくじんが、くうをむとおなじようにかんがえているれいとして、とだせんせいが、こんなはなしをされた。
 「こうたいしでんかの、えいごのせんせいで、イギリスじんのひとがいた。また、わしのともだちのなかに、にほんだいがくの、てつがくぶちょうがおりまして、そのひととふたりで、そのイギリスじんのところへあそびにいった。そのイギリスじんは、にほんのぶっきょうかいの、だいがくしゃといわれる、すずきだいせつというひとに、ぶっきょうをおそわっていた。そのイギリスじんに、わたしは、『せんせい、くうというのはなにですか』と。そしたらピアノのうえにあった、おりづるをくしゃくしゃにして、『これがくうだ』といった。
 そんなバカなことがあるか。だいせつせんせいに、えいこくからわざわざきて、にほんのぶっきょうがくをおそわりながら。それはむではないか。くうとむとはちがう。くうがわからなければ、ぶっきょうてつがくはわからんのです」と。
 なんでも、「ある」か「ない」かで、わりきろうとする、これがドイツてつがくを、はじめとするせいおうのてつがくしそうの、かんがえかたである。しかし、ぶっぽうにおいてう、むのほかに、もうひとつのがいねんとして、「くう」をとく。あるといえばない、ないといえばでてくる。うでもむでもない。しかもうであり、むであるというのが、くうのていぎである。
 たとえば、ここにラジオがあるとする。スイッチをひねると、せかいじゅうのほうそうをきくことができる。もしそこにラジオがないとすれば、ほうそうをきくこともできない。そこにはなにもないことになる。なにもないではないかといっても、ラジオがあると、ちゃんとおんぱとしての、はたらきをあらわすのである。
 またおこるというせいめいじょうたいがある。このおこるというせいめいを、もし、あるといおうとしても、どこにもそのじったいというものがない。つかむことがない。ないといおうとしても、おこるというせいめいじょうたいはげんぜんとしてそんざいするし、「あのひとはきげんがわるい」というように、おこっているじょうたいと、たのじょうたいとをしきべつすることができる。このように、あってなきがごとく、なくてあるがごとき、うむでろんずることのできないじったいを、くうともいい、みょうというのである。
 いっしょうじょうぶつしょうに「そもそも、みょうとはなんというこころぞや、ただ、わがいちねんのこころ、ふしぎなるところを、みょうとはいうなり、ふしぎとはこころもおよばず、ごもおよばずということなり。
 しかれば、すなはち、おこるところのいちねんのこころを、たずねみれば、ありといはんとすれば、いろもしつもなし、また、なしといはんとすれば、さまざまにこころおこる、うとおもうべきにあらず、むとおもうべきにもあらず、うむのにのごもおよばず、うむのふたつのこころもおよばず。うむにあらずして、しかもうむにへんして、ちゅうどういちじつの、みょうたいにして、ふしぎなるをみょうとは、なずくるなり、このみょうなるこころを、なずけてほうともいうなり」(0384-)と。
 しごのせいめいは、くうのじょうたいである。わかりやすいれいとして、すいみんをかんがえてみる。ねむっているあいだは、こころはどこにもない。ところがおきると、こころはかつどうする。ねむっているばあいには、こころがなくて、おきているばあいにはある。あるのがほんとうなのか。ないのがほんとうなのか。あるといえばなく、ないといえばでてくる。このようなじょうたいであるゆえに、くうともみょうともいうのである。
 うちゅうは、そく、せいめいであるから、ひとがしんだとき、ちょうどねむっているあいだ、こころがどこにもないように、しごのせいめいは、うちゅうのだいせいめいにとけこんで、どこをさがしてもないのである。おんぎくでんに、「かいざいこくうとは、われらがしのそうなり」(0742-だいじゅういち、せっしょだいしゅ、かいざいこくうのこと)と。こくうとは、だいうちゅうである。しごのせいめいは、だいうちゅうにみょうぶくしていることを、しめされたみょうもんである。それでは、なくなってしまったかといえば、けっしてそうではない。このだいうちゅうに、とけこんだしごのせいめいは、いかかのねんにふれて、われわれのめにうつる、せいめいかつどうとなって、あらわれてくるのである。ねむりのじょうたいから、めをさまして、きのうのこころの、かつどうじょうきょうを、そのままじぞくして、かつどうするように、あたらしいせいめいは、かこのせいめいのごういんを、そのままうけて、げんせのかほうとして、いきていくのである。ねてはおき、おきてはねていくのとおなじように、いきてはしに、しんではいきながら、えいえんにしょうじをくりかえしていくのが、せいめいのしんじつのすがたである。

0750    だいさん うしょなんもんふいしょうじょうほうとうとうのこと。

 おんぎくでんにいわく、たいぢのときは、ごんきょうをもって、えつうすべからず。
いっさいしゅちとは、なんみょうほうれんげきょうなり、いっさいは、ばんぶつなり、しゅちは、ばんぶつのしゅなり、みょうほうれんげきょうこれなり、またいわく、いっさいしゅちとは、われらがいっしんなり、いっしんとは、ばんぽうのそうたいなり、これをおもうべし。

かいしゃくこうぎ。
 あんらくぎょうほんに、「なんもんするところあらば、しょうじょうのほうをもって、こたえざれ、ただ、だいじょうをもって、ためにげだつして、いっさいしゅちをえせしめよ」とあり、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 ほうぼうをはしゃくすることは、ごんきょうらのひくいおしえで、えつうをくわえてはならない。「いっさいしゅちをせしめよ」とある。そのいっさいしゅちとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。いっさいとは、ばんぶつである。しゅちとは、ばんぶつのほんげんたる、なんみょうほうれんげきょうのことなのである。また、つぎのようにもいわれている。いっさいしゅちとは、われわれのいっしん、せいめいである。いっしんとは、あらゆるげんしょうのほんたいである。

 ひくいてつり、しそうでは、あらゆるひとのぎもんをはらすことはできない。しゅうちゃくをだんぱすることもできない。かならず、いきづまりをしょうずることは、とうぜんである。さいこうのてつがく、しそうをゆうするおしえこそが、えいきゅうにいきづまることなく、あらゆるひとびとをすくい、あらゆるひとびとから、さんどうのあらしをよぶことは、ひつぜんである。
 たとえば、はじめはしんじないひとでも、かならず、せいろんのまえにはくっせざるを、えないのである。われわれが、だれひとがはんたいしようが、ひなんしようが、つねにさいこうのぶっぽうを、ひとびとにとくのは、そのりゆうに、よるものである。

0750    だいよん むうふい かとうじょうとうのこと。

 おんぎくでんにいわく、しゃくけのぼさつに、とうじょうのなん、これあるべからずという、きょうもんなり、かんじほんは、まっぽうほっけのぎょうじゃに、ぎゅうかとうじょうしゃ さくさくけんひんずいと、このほんにはこれなし。それは、まっぽうのしゃくぶくのしゅぎょう、このほんは、ぞうぼうしょうじゅの、しゅぎょうなるがゆえなりうんぬん。

 かいしゃくこうぎ。
あんらくぎょうほんには、「わがめつどののちに、もしびくあって、よくこの、みょうほうれんげきょうを、えんぜつせば、こころに、しっち、しょのうしょうげなく、また、うしゅう、および、めりするもの、なく、ふいし、とうじょうをくわえらるるなどなく、また、ひんずいせられることなけん」うんぬんのもんがある。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 しゃくけのぼさつには、とうじょうがないというきょうもんである。かんじほんには、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃについて、「および、とうじょうをくわうるものあらん」あるいは、「さくさくひんずいせられ」とうととかれているが、このあんらくぎょうほんには、そのようなことはとかれていない。
 それは、かんじほんは、まっぽうしゃくぶくのしゅぎょうをあかし、このあんらくぎょうほんは、ぞうぼうしょうじゅのしゅぎょうをあかしているからである。

 しゃかめつご、ほけきょうのゆえに、だいなんにあったのは、にちれんだいしょうにんおいちにんであった。てんだい、でんぎょうといえども、しゃくけのぼさつであり、まったく、だいなんにあっていない。しょう々しょうあったとしてもあっくていどであり、とうじょうのなんを、うけたわけでもないし、さくさくけんひんずいのもんを、みをもってよんだわけでもない。
 また、てんだいもでんぎょうもともに、けんおうのほごがあり、なんをうけるどころか、むしろ、ゆうぐうされたのであった。まことに、あんらくぎょうほんに、とかれたとおりのすがたであった。
 だが、にちれんだいしょうにんは、かんじほんのよげんそのままの、ふるまいであられた。きょうもんにてらし、またじじつのうえから、かれらは、しゃくけのぼさつであり、にちれんだいしょうにんはほんげであり、またないしょうはまっぽうのごほんぶつであることは、れきぜんたるものがある。
 かいもくしょうに、「ぞうぼうのなかには、てんだいひとり、ほけきょう、いっさいきょうをよめり、なんぼくこれをあだみしかども、ちんずい、にだいのしょうしゅ、げんぜんにぜひを、あきらめしかば、てき、ついにつきぬ。ぞうのまつにでんぎょうひとり、ほけきょういっさいきょうを、ぶっせつのごとくよみたまへり、なんと、しちだいじほうおこせしかども、かんむ、ないし、さがとうのけんしゅ、われとあきらめたまいしかば、またことなし、いま、まっぽうのはじめ、にひゃくよねんなりきょうめつどごの、しるしにとうじょうのついでとなるべきゆへに、ひりをさきとして、じょくせのしるしに、めしあわせられずして、るざいないし、いのちにも、をよばんと、するなり。されば、にちれんが、ほけきょうのちげはてんだい、でんぎょうにはせんまんがいちぶんも、およぶことなけれども、なんをしのび、じひのすぐれたることは、をそれをも、いだきぬべし」(0202-03)と。
 また、ほんにんみょうしょうには、てんだいと、にちれんだいしょうにんのたちばを、ひかくしていわく、「かれは、あんらくふげんのせつそうにより、これは、かんじふきょうのぎょうそうをもちゆ」(0875-16)と。これをもって、しょうほう、ぞうぼう、ねんかんは、しょうじゅのしゅぎょうであり、まっぽうでは、しゃくぶくでなければならないことが、あきらかである。

0750    だいご うにんらいよくなんもんじゃ しょてんちゅうやとうのこと。

 おんぎくでんにいわく、まっぽうにおいて、ほっけをぎょうずるものをば、しょてん、しゅごこれあるべし、じょういほうこのほうとは、なんみょうほうれんげきょうこれなり。

かいしゃくこうぎ。
 あんらくぎょうほんに、「ひとあり、きたって、なんもんせんとほっせば、しょてんちゅうやに、つねに、ほうのためのゆえに、しかも、これをえいごし、よくきくものをして、みなかんきすることをえせしめん」とうとあり、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。まっぽうにおいて、ほけきょうすなわちさんだいひほうのごほんぞんをしんじぎょうずるものをば、しょてんぜんじんがかならずしゅごするのである。「つねにほうのためのゆえに」とある「ほう」とは、なんみょうほうれんげきょうのことである。

 しょてんぜんじんのかごは、ぜったいであるとのもんしょうである。しょてんぜんじんとは、みょうほうのはたらきである。ゆえになんみょうほうれんげきょうととなえるひとのせいめいに、こしんのしょてんぜんじんのかつどうがあらわれ、だいうちゅうのしょてんぜんじんのはたらきをよびおこし、ないげそうたいし、ゆうゆうとだいうちゅうのリズムに、がっちしたせいかつをしていくことができるげんりである。
 ほっけしょしんじょうぶつしょうにいわく「およそ、みょうほうれんげきょうとは、われらしゅじょうのぶっしょうと、ぼんのう、たいしゃくとうのぶっしょうと、しゃりほつ、もくれんとうのぶっしょうと、もんじゅ、みろくとうのぶっしょうと、さんぜのしょぶつのさとりのみょうほうと、いったいふになる、りを、みょうほうれんげきょうとなずけたるなり、ゆえにいちどみょうほうれんげきょうととなうれば、いっさいのほとけ、いっさいのほう、いっさいのぼさつ、いっさいのしょうもん、いっさいのぼんのう、たいしゃく、えんま、ほうおう、にちがつ、しゅうせい、てんじん、ちじん、ないし、じごく、がき、ちくしょう、しゅら、にんてん、いっさいしゅじょうのしんちゅうの、ぶっしょうを、ただひとこえに、よびあらわしたてまつるくどく、むりょうむへんなり、
 わがこしんの、みょうほうれんげきょうを、ほんぞんと、あがめたてまつりて、わが、こしんちゅうのぶっしょう、なんみょうほうれんげきょうと、よびよばれて、あらわれたまうところを、ほとけとはいうなり、たとえば、かごのなかのとりなけば、そらとぶとりのよばれて、あつまるがごとし、そらとぶとりのあつまれば、かごのなかのとりも、いでんとするがごとし。くちにみょうほうをよびたてまつれば、わがみのぶっしょうもよばれて、かならず、あらわれたまふ、ぼんのう、たいしゃくの、ぶっしょうはよばれて、われらをまもりたまふ、ぶつぼさつのぶっしょうは、よばれてよろこびたまふ」(0557-03)と。
 げんざい、そうかがっかいいんが、しょてんぜんじんに、まもられていることは、あらゆるめんでじっしょうされている。こうつうじこなどをいちれいにみても、せけんのそれにひかくすれば、とうけいてきにぶんせきして、はるかにすくない。また、ふけいきのときも、ふしぎと、がっかいいんのおおくが、まもられてきていることも、ぜったいのじじつである。また、しんじんをこんぽんとすれば、いっさいが、しょてんぜんじんのはたらきにかわる。たとえまおう、まみんたりといえども、これをくしし、しょてんぜんじんのはたらきに、かえていけるのである。


0750~0751 ゆじゅつほん いちかのだいじ。
0751    だいいち しょうどうのしのこと。

 おんぎくでんにいわく、ゆじゅつのいちほんは、ことごとく、ほんげのぼさつのことなり、ほんげのぼさつの、しょさとしては、なんみょうほうれんげきょうなり、これを、しょうというなり。どうとは、にほんこくのいっさいしゅじょうを、りょうぜんじょうどへ、いんどうすることなり。まっぽうのどうしとは、ほんげにかぎるというを、しというなり、このしだいぼさつのことを、しゃくするとき、じょのきゅうをうけて、ふしょうきのきゅうにいわく、「きょうに、しどうしありとは、いま、しとくをあらわす、じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうは、じょうをあらわし、じょうぎょうは、じょうをあらわし、あんりゅうぎょうは、ぎょうをあらわす。あるときには、いちにんに、このしぎをぐす。にしのひょうにいづるを、じょうぎょうとなずけ、だんじょうのさいをこゆるを、むへんぎょうとしょうし、ごじゅうのくるいをこゆるゆえに、じょうぎょうとなずけ、どうじゅにして、とくまどかなりゆえに、あんりゅうぎょうとのたまうなり」と。
 いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、みな、ぢゆのるるいなり、またいわく、ひはものをやくをもってぎょうとし、みずはものをきよむるをもって、ぎょうとし、かぜはじんくをはらうをもって、ぎょうとし、だいちはそうもくをちょうずるを、もって、ぎょうとするなり、しぼさつのりやく、これなり、しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなり、
 このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、しゃくに、「ほうしょうのえんでい、げんしゅうのごく」といえり、かほうをもって、じゅうしょとす、かほうとはしんりなり、ふしょうきにいわく、「かほうとは、しょうこうのいわく、じゅうしてりにあるなり」とうんぬん、このりのじゅうしょより、あらわれいづるを、じというなり、またいわく、せんそうまんぼく、ぢゆのぼさつにあらずということなし、されば、ぢゆのぼさつを、ほんげといえり、ほんとは、かこくおんごひゃくじんでんよりのりやくとして、むしむしゅうのりやくなり。
 このぼさつは、ほんぽうしょじのひとなり、ほんぽうとはなんみょうほうれんげきょうなり、このだいもくはかならず、ぢゆのしょじのものにして、しゃくけのぼさつのしょじにあらず、このほんぽうのたいより、ゆうをいだして、しかんとひろめ、いちねんさんぜんという、そうじて、だいしにんしの、しょしゃくもこのみょうほうの、ゆうをひろめたまうなり、このほんぽうを、じゅじするは、しんのいちじなり、がんぽんのむみょうを、たいぢするりけんは、しんのいちじなり、むぎわっしんのしゃく、これをおもふべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ゆじゅつほんに、「このしぼさつ、そのなかにおいて、もっともこれ、じょうしゅしょうどうのしなり」とあるところについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 ゆじゅつほんのいちほんは、すべて、ほんげのぼさつである、ぢゆのぼさつのことについて、といているのである。そのぢゆのぼさつのふるまいは、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしているのである。これをとなというのである。しょうどうこれしのどうとはにほんこくのいっさいしゅじょうに、ごほんぞんを、たもたせ、へいわでこうふくなせいかつへ、しどうすることをいうのである。まっぽうのどうし、しどうしゃとは、ぢゆのぼさつ、すなわちべっしては、にちれんだいしょうにん、そうじては、そのでしにかぎることをしというのである。
 このゆじゅつほんにしゅつげんする、じょうぎょう、むへんぎょう、じょうぎょう、あんりゅうぎょうをしゃくするとき、てんだいのもんぐのきゅうをうけて、どうせんのふしょうきのきゅうには、「ゆじゅつほんにしどうしがあるということは、じょうらくがじょうの、しとくをあらわしていうのである。じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうは、じょうをあらわし、じょうぎょうは、じょうをあらわし、あんりゅうぎょうは、ぎょうをあらわしている。
 あるときは、ひとりのせいめいに、このしぼさつのぎをぐしているのである。ぶんだんのしょうじ、へんにゃくのしょうじを、でることをじょうぎょうとなづけ、だんけん、じょうけんのせいめいかんをこえて、えいえんのせいめいかんをえとくすることを、むへんぎょうとなづけ、さんがいのしわく、よっかいのしわく、むしきかいのしわく、こんぽんむみょうわくとう、のごじゅうのまどいを、こえることをじょうぎょうとなづけ、そして、ぼだいじゅのように、しんじつただしいみちをあゆみ、えんまんなじんとくをもつことを、あんりゅうぎょうとなづけるのである」とある。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえるのは、すべてぢゆのぼさつのけんぞくなのである。
 また、ひはものをやくのが、そのしめいであり、じょうぎょうである。みずはものをきよめるのが、しめいであり、じょうぎょうである。かぜは、ちりやあかなどを、ふきはらうのがしめいであり、むへんぎょうである。だいちは、そうもくをいくせいするのが、しめいであって、あんりゅうぎょうである。
 しぼさつのぎょうは、ふどうであっても、ともに、なんみょうほうれんげきょうのしゅぎょうなのである。このしぼさつは、かほうにじゅうするゆえに、てんだいはほっけもんぐで、「せいめいのおうていであり、きゅうきょくである」といったのである。かほうが、ぢゆのぼさつのじゅうしょなのである。そして、かほうとは、しんりなのである。どうせんのふしょうきには「かほうとは、じくのどうしょうのいうには、みょうほうれんげきょうのどうりにかなっていることである」とといている。
 このりのじゅうしょから、しゅつげんするのを、じというのである。また、いっさいのそうもくといえども、ぢゆのぼさつでないものはない。それゆえ、ぢゆのぼさつを、ほんげというのである。ほんとはきょうそうからいえば、ごひゃくじんでんこう、かんじんからいえばむしむしゅうの、くおんがんじょからの、りやくなのである。
 このぢゆのぼさつは、こんぽんのほうをもっているのである。ほんぽうとは、なんみょうほうれんげきょうである。このなんみょうほうれんげきょうのだいもくは、ぢゆのぼさつのたもつところであって、しゃくけのぼさつのたもちえないものである。このなんみょうほうれんげきょうの、たいからゆう、はたらきをだして、てんだいは、まかしかん、いちねんさんぜんをひろめているのである。このほんぽうを、じゅじするのはしんのいちじによるのである。じょうぶつをうたがい、ごほんぞんをうたがうという、こんぽんのまよいを、たいぢするりけんは、しんのいちじなのである。もんぐのきゅうの、「うたがいなきをしんとのたまう」という、しゃくをよくよくおもうべきである。

 ほんげのぼさつの、しょさとしては、なんみょうほうれんげきょうなり。
 ほんげのぼさつのふるまい、じっせんは、すべて、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしている。しゃくけのぼさつは、ぞう、つう、べつ、えんときょうけをうけ、きじゅくし、しょせんは、ほけきょうにじゅうはちほんをたもった、ふるまいであるけれども、ほんげのぼさつは、ほんらい、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとし、なんみょうほうれんげきょうをじゅじしきった、ふるまいなのである。ここに、しゃくけのぼさつと、こんぽんてきなそういがあるのである。
 かって、とだじょうせいぜんかいちょうは、「よのなかの、せいじかとうのしどうしゃは、しゃくけのぼさつである。われわれは、ほんげのぼさつである」と、せいかつにやくして、せつめいされたことがあった。いかにいだいなしどうしゃ、せいじかであったとしても、さんだいひほうの、ごほんぞんをたもっていなければ、こんぽんてきな、よのなかのかくめい、ひとりひとりのきゅうさいは、ぜったいにできない。
 したがって、あたらしいじだいに、あたらしいてつがくをもって、あたらしいしどうしゃが、ゆじゅつして、これからのにほんのくにの、はんえいのため、そしてまた、せかいのへいわと、こうふくのために、たたかっていくいがいにない。われわれこそ、みんしゅうのこうふく、せかいへいわをかちとる、たたかいのせんくしゃであり、しどうしゃであると、かくしんすべきである。

これをしょうというなり。
 しょうのしのしょうとは、なんみょうほうれんげきょうと、となえることである。また、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとして、だいしどうしゃになって、いっさいのみんしゅうのために、じんるいのぶんかのために、あらゆるかいそうに、たたかいをすすめて、こうけんしていくことを、いうのである。われわれの、みょうほうをこんていにした、いっさいのげんげんくくはしょうである。
 アメリカのだいとうりょうも、ロシアのさいこうしゅのうも、またフランスのだいとうりょうも、こっかのために、またはみんぞくのために、あるいは、せかいのへいわのために、ちょうじかんにわたる、えんぜつもするし、せいさくもはっぴょうする。
 また、そのた、ひょうろんかにしても、がくしゃにしても、さまざまなことをはっぴょうする。それらはぜんぶ、いちおうはしょうになるのである。だが、それらのしょうはうみょうむじつであり、かならずしもみんしゅうのこうふくにつながらない。かえって、みんしゅうに、ふあんとどうようをあたえるばあいも、た々たである。ごほんぞんをたもった、われわれの、いっさいのげんげんくくは、みょうほうれんげきょうのほうりにかない、へいわとこうふくのために、じじつのうえにつうじていくのである。

どうとは、にほんこくの、いっさいしゅじょうを、りょうぜんじょうどへいんどうすることなり。
 しょうどうのしのどうとは、にほんこくの、ぜんみんしゅうをりょうぜんじょうどへいんどうする。 ごほんぞんをたもたせ、そうかがっかいいんとして、こうせんるふにまいしんしていくことが、ちからづよいいぶきとなり、ぜんせかいへはきゅうしていくのである。

まっぽうのどうしとはほんげにかぎるというをしというなり。
 まっぽうのどうしとは、べっしては、にちれんだいしょうにん、そうじては、だいしょうにんのでしである。よのなかには、いろいろなしどうしゃやししょうがいる。しかし、ごじょくらんまんの、まっぽうのぜんみんしゅうを、きゅうさいしきるしんじつのしどうしゃは、ごほんぞんをじゅじしきっているものに、かぎるのである。
 このだいしょうにんの、おんふみをはいするならば、われら、ぢゆのだいぼさつが、あらゆるぶんやに、あらゆるかいそうにしんしゅつし、いっさいのひとびとを、ゆういん、いんどうしきる、しんじつのなかのしんじつの、ししょうであり、しどうしゃたることを、かくしんすべきである。

 じょうぎょうは、がをあらわし、むへんぎょうはじょうをあらわし、じょうぎょうはじょうをあらわし、あんりゅうぎょうはらくをあらわす。
いまこのもんを、しんじんのうえからはいすれば、じょうぎょうは、なんみょうほうれんげきょうという、がをあらわす。われわれは、ろくどうりんね、きゅうかいそしてまた、じっかいのせいめいかつどうをしているけれども、そのこんぽんはなんみょうほうれんげきょうを、となえいくことである。いかなるばあいでも、ただなんみょうほうれんげきょうをとなえることを、わすれないというがである。むへんぎょうとは、いっさいほうこれぶっぽうで、いかなるせいかつ、どんなきょうぐう、どんなじだいであっても、つねに、なんみょうほうれんげきょうをわすれないことである。
 じょうぎょうは、どうように、いかなるじだいがこようとも、どんなきょうぐうであろうとも、どんなかなしいときでも、どんなつらいときでも、どんなうれしいときでも、ただ、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとしたせいかつ、せいめいかつどうは、じょうのなかのじょうである。よのなかは、ごじょくらんまんであり、おごりたかぶり、にごりきった、ひとびとばかりである。
 だがれんげのはなが、ちょうど、どろぬまにさくごとく、どろぬまのような、きゅうかいのげんじつのせかいのなかで、だいもくをあげきっていく、じんせいかつどうは、もっとも、きよらかなせいめいかつどうなのである。あんりゅうぎょうは、じゅりょうほんの、「がしどあんのん」と。いかなるじだいにあっても、いかなるじたいがおころうとも、いつもなんみょうほうれんげきょうをじゅじし、となえているならば、らくである。すなわち、じょうらくがじょうをじょうぎょう、むへんぎょう、じょうぎょう、あんりゅうぎょうの、しぼさつからといたわけである。
 しょうじょうぶっきょうは、くじゅうめつどうであり、く、くう、むじょう、むがである。それにたいして、だいしょうにんのぶっぽうは、じょうらくがじょうである。まただいしょうにんは、「なんみょうほうれんげきょうは、かんきのなかのだいかんきなり」(0788-ごひゃくほん)ともおおせである。すなわちじょうらくがじょうである。まだまだ、いくえにもせいめいろんのたちばで、さまざまにかいしゃくができる。

 あるときには、ひとりに、このしぎをぐす、にしのひょうにいづるを、じょうぎょうとなずけ、だんじょうのさいをこゆるを、むへんぎょうとしょうし、ごじゅうのくるいをこゆるゆえに、じょうぎょうとなずけ、どうじゅにしてとくまどかなりゆえに、あんりゅうぎょうというなり。
 このもんについて、にちかんしょうにんの、かいもくしょうもんだんには、つぎのごとくとかれている。
 「にしのうらにぼっするとは、くだるぎであり、すなわち、けいばくふじざいである。にしのひょうにいずるのは、のぼるぎであり、すなわち、げだつじざいである。ゆえに、じょうぎょうは、がをあらわすのである。だんじょうをこえ、へんさいなしとは、ちゅうどうじょうじゅうであり、ゆえに、むへんぎょうはじょうをあらわすのである。ごじゅうのくるいを、こゆるとは、すなわちしょうじょうである。ゆえにじょうぎょうはじょうをあらわすのである。どうじょうぼだいじゅのしたで、まんとくえんまんすとは、あんらくにせいりつすることであり、ゆえに、あんりゅうぎょうはぎょうをあらわすのである。これらはべったいのぢゆである。

 つぎに、『あるときには、ひとりにこのしぎをぐす』とは、すなわち、そうたいのぢゆである。ざいせはべったいのぢゆであり、まっぽうは、そうたいのぢゆである。なぜなら、「あるとき」とは、まっぽうをさすからである。ゆえに、まっぽうのぢゆのぼさつには、じょうらくがじょうのしとくがいっしんにそなわっているのである。これこそ、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんであらせられる」。
 もし、このそうたいのぢゆを、われわれのしんじんせいかつにやくしていえば、われわれが、ごほんぞんをしんじて、しょうだいしていくならば、しぼさつのとくゆうが、わがこのいっしんに、そなわることである。
 いまそのたちばから、このもんをみていくことにする。

 「にしのひょうに、いづるをじょうぎょうとなずけ」ぶんだん、へんにゃくとうの、しょうじのくにそくばくされない、じゆうじざいのきょうがいを、じょうぎょうとなづけるのである。だいもくをとなえ、ぶっかいをゆげんした、せいかつは、なにものにもおかされない、ちからづよいせいめいかつどうの、あらわれである。じょうぎょうこそ、しんのじゆうのきょうがいなのである。
 「だんじょうのさいを、こゆるを、むへんぎょうとしょうし」だんけん、じょうけんとうの、ひくきせいめいかんをすてさり、えいえんのせいめいかんにたったとき、いっさいのいきづまりは、ことごとく、だはされ、ひろ々びろたる、みらいのしんきょうにいきることができる。これ、むへんぎょうのきょうがいである。「ごおうのくるいを、こえるゆえにじょうぎょうとなずけ」、ごおうのくるいとう、うちゅうのほんたい、せいめいのほんしつを、みわけることのできない、まどいからきたる。せいめいのけがれは、みょうほうのきょうりょくな、ぶっかいにてらされ、じょうかされ、しょうじょうむぜんのせいめいかつどうを、していくのである。これじょうぎょうのきょうがいである。
 「どうじゅにして」とは、どうじょうぼだいじゅのしたで、とのいみである。すなわち、しんじんせいかつにやくせば、いっさいを、ぶっぽうをこんぽんとして、にょじつちけんしていける、じんせいである。ものごとにたいして、みちすじをとおし、また、あくまでせいろんは、せいろんとして、いいきっていける、またみていけるせいかつである。
 「とくまどかなり」とは、もっとも、にんげんらしいじんかくしゃである。にんげんかくめいされきったじんかく、こじんもこうふくであり、りんじんをも、なさけをもって、こうふくにみちびいていけるじんかく、それをなづけてあんりゅうぎょうというのである。よく、とだじょうせいぜんかいちょうは、「わたしはりっぱな、へいぼんなだいぼんぷである」ともうされ、しょだいまきぐちかいちょうも、「しんじんしきったばあいには、けっきょくは、いっけんすれば、りっぱなへいぼんな、にんげんである」といわれたときく。しんじんすれば、じねんとえんまんなとくは、そなわるのである。
 むしろ、いまのゆうめいじんや、せいじかは、けんいをもち、きょえいをもち、せのびし、にんげんらしいにんげんではなく、いっしゅのかたわとなっているのである。われわれのばあいは、ありのままで、じねんと「とくまどか」な、すがたになっていくのである。せいめいのほんしつから、あらわれたじねんのすがたである。
 けっきょくこうみていくと、ごほんぞんをじゅじし、ごほんぞんにだいもくをあげていくこと、それじしんが、にしのひょうにでたことになり、だんじょうのさいを、こえたことになり、ごおうのくるいをこえたことにもなり、とくまどかなることに、なるのである。

いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、みな、ぢゆのるたぐいなり。
 しょほうじっそうしょうには、「みな、ぢゆのぼさつのしゅつげんにあらずんば、となへがたきだいもくなり」(1360-08)とある。すなわち、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、みな、ぢゆのぼさつの、けんぞくなることをいうのである。
 したがって、ほけきょうにじゅうはちほん、そして、じゅうぢゆしゅっほんに、とかれた、きょうそうにおける、ぢゆのぼさつは、このだいしょうにんの、かんじんしゃくによって、しょせんは、にちれんだいしょうにんのでしを、いみすることがわかろう。とおくきょうもんにあったものは、じつは、げんじつのわがみのうえのことなのである。
 ほけきょうをよむと、ひじょうに、すうがくてきにおおきいことが、とかれているばあいがおおい。たとえばきょうもんには、「ひゃくせんまんのくなゆたこう」とある。だがだいしょうにんのかんじんしゃくでは、それは、ひゃっかいせんにょとよむわけである。また「かんのんさんじゅうさんしん」とあるのを、だいしょうにんは、くうけちゅうのさんたいとよみ、じっかいとよみ、またほっぽうのさんじんとよむ。
 また「せんぶつのみて」とあるのを、せんにょとよむとう、けっして、きょうもんじょうのことではなく、いちぽふかく、せいかつにちょっけつしてとかれている。これがだいしょうにんのぶっぽうから、ほけきょうをかいしゃくするよみかたなのである。つぎにあげる、ゆじゅつほんのもんをきょうそうのまましでも、げんざいのそうかがっかいのこうせんるふにむかうすがたに、ひじょうに、よくにていることが、うなずける。
 「いちいちのぼさつ、みなこれ、たいしゅうのしょうどうのしゅなり、おのおの、ろくまんごうがしゃとうの、けんぞくをひきいたり。いわんやごまん、しまん、さんまん、にまん、いちまんごうがしゃとうの、けんぞくをひきいたるものをや。いわんや、また、ないしいちごうがしゃ、しぶんのいち、ないし、せんまんのくなゆたぶんのいちなるをや。いわんやまた、せんまんのくなゆたのけんぞくなるをや、いわんや、また、おくまんのけんぞくなるをや。いわんやまた、せんまん、ひゃくまん、ないし、いちまんなるをや。いわんやまた、いっせん、いっぴゃく、ないしいちじゅうなるをや。いわんやまた、ご、し、さん、に、いちのでしを、ひきいたるものをや。いわんやまた、たんごにして、おんりのぎょうをねがえるをや。これのごときとうの、るいひ、むりょうむへんにして、さんずひゆも、しることあたわざるところなり」。
 また、このきょうもんからすれば、まだまだ、しゃくぶくはできることになる、「ふつごじつぷこ」のじしんをもち、ゆうきをもって、ほまれたかく、すすんでいきたいものである。

またいわく、ひはものをやくをもって、ぎょうとし、みずはものをきよむるをもって、ぎょうとし、かぜはじんくをはらうをもって、ぎょうとし、だいちはそうもくをちょうずるをもって、ぎょうとするなり、しぼさつのりやくこれなり。
 ちすいかふうのしだいをしぼさつにはいりゅうしよむところである。
 ひは、そらにあがるゆえに、じょうぎょうはひだいであり、かぜはへんさいがないゆえに、むへんぎょうはふうだいであり、みずはしょうじょうなるゆえに、じょうぎょうはすいだいであり、ちはばんぶつをあんりゅうするゆえに、あんりゅうぎょうはちだいにはいせられるのである。ふるくから、てんだいぶっぽうでは、しぼさつを、しだいにはいりゅうした、ぶんけんがのこっている。
 てんだいかのだいがくしゃといわれた、そんしゅんのしかんけんぶんのごには、「ぢゆうのしだいしは、そく、しだいなり、ちだいはばんぶつをいくし、せいすいはじんくをあらい、ひだいは、かんくをふせぎ、りょうふうは、きゅうかのねつをすずます。みなこれ、ほんちのじひ、ほんがくしょせなり」とある。
 てんだいは、しぼさつのぎょうを、しだいにことよせてろんじているが、しょせんは、しぼさつとは、みょうほうれんげきょうそれじたいであることを、あらわそうとしたものである。すなわち、しぼさつとは、うちゅうほんねんに、そなわる、だいじひのせいめいかつどうであり、こじんにしゅうやくすれば、そんごくごくまりなき、みょうほうのせいめいかつどうをいう。

 しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなり。
 いっさいのうちゅうの、しんらばんしょうのなかにも、しぼさつのはたらきはある。おなじく、あるひとは、せいじかに、あるひとはじつぎょうかに、あるひとは、かがくしゃに、きょういくしゃに、あるひとは、かせいふに、あるひとはしょっこうに、あるひとは、しんぶんきしゃに、あるひとは、カメラマンにと、しぼさつのぎょうは、ふどうなりといえども、ともに、みょうほうれんげきょうのしゅぎょうなのである。
 すなわち、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとするならば、どういうたちばであっても、いかなるきょうぐうであっても、おのおのしめいかんにたって、せいかつし、かつどうし、じんせいを、いききっていくことが、それじたい、りっぱなぶつどうしゅぎょうなのである。こうせんるふに、つながり、しゃかいをりやくしていくことに、つうじている。とのおおせである。
 これこそ、みんしゅしゅぎのげんりなのである。
 わがきょうだんは、せいじつであり、せいけつである。だんけつがつよい。がいけんからみたひとは、じゆうがないのではないかと、さっかくするであろう。これだいなるあやまりである。ひとりのにんげんが、めいれいてきにみんしゅうをひっぱっていけるとおもうことじたい、じだいさくごである。
 こんとんとしている、このにほんこくで、ほうじゅうなこのしゃかいにあって、だれが、めいれいでうごくかといいたい。わがこさえ、いけんをきかぬばあいがおおい。いわんや、なんびゃくまん、なんぜんまんのひとが、めいれいについてくるわけがぜったいにない。
 わがきょうだんは、わがわごうそうは、めいれいしゅぎでもない。えいゆうしゅぎでもない。また、そんなじだいでもなく、きこんもないのである。
 われわれは、しんじんいちずである。ゆえにつよいのである。このほんしつを、わきまえぬため、かれらはぐろんをくりかえしているにすぎないのだ。われわれは、ただ、ごほんぞんをじゅじすることをこんぽんとし、かくじんがいっしょうじょうぶつをめざしゆくことのみが、もくてきなのである。いかなるせいかつであろうが、しょくぎょうであろうが、またいかなるきょうぐうであれ、ぜんぶじゆうである。そうかがっかいは、それぞれしゅたいせいをもち、そのきょうぐうのなかから、こうせんるふをなしとげようというもくてきかんにたった、いたいどうしんのだんけつなのである。これみぞうの、しんせいきにふさわしい、だいしゅうだんのしゅつげんであり、だいしょうりのぜんしんのあしおととかくしんしたいものである。
 このしぼさつはかほうにじゅうするゆえにしゃくに「ほっしょうのえんていげんしゅうのごくち」といえり、かほうをもって、じゅうしょとすかほうとは、しんりなり、ふしょうきにいわく、「かほうとはしょうこうのいわく、じゅうしてりにあるなり」とうんぬん、このりのじゅうしょより、あらわれいづるをじというなり
 「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」とは、ななんみょうほうれんげきょうのことである。すなわち、しんりのなかのしんり、せいめいのおうてい、うちゅうのほんげん、ほんたいであり、あらゆるほうり、どうりのこんぽんである。たとえば、エネルギーのこんぽん、そうもくがはんもしてゆく、そのちからのこんぽんりき、われわれがかつどうしてゆくげんせんりき、それをてんだいは「ほっしょうのえんてい、げんしゅうのごくち」といったのである。
 われわれは、しんじんなきときは、りんじんのふこうをかえりみなかった。じぶんのことでいっぱいであったのである。しかし、いちど、ごほんぞんをじゅじして、せいめいりょくはわきでて、ふこうなひとをすくおうとの、じあいにみちているのである。にほんのくにのあんのんあんたいも、かんがえるようになった。せかいのみんしゅうのこうふくも、こころからねがいゆくようになった。
 これはかんねんろんではなく、じじつ、げんじつにかつどうをてんかいしているのである。これは、ぢゆのせいめいが、おうていよりゆげんしているすがたなのである。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、せいねんくんに「せいねんは、おやをもあいさぬようなものがおおいのに、どうしてたにんをあいせようか。そのむじひの、じぶんをのりこえて、ほとけのじひのきょうちをえとくする、にんげんかくめいのたたかいである」と、のべられている。ごほんぞんに、なむしたとき、ほとけのじひのきょうちに、りっきゃくし、あらゆるしゅじょうを、りやくするちからがわき、せかいへいわのため、ぜんみんしゅうのためにこうけんしていくことが、かのうになるのである。
 またおんぎくでんには、「ゆじゅつとは、じっかいのしゅじょうの、しゅつたいのそうなり」(0799-ゆじゅつほん-02)とあるごとく、ぢゆのぼさつのしゅつげんは、しとくをそなえた、そんげんなるせいめいが、ははのたいないよりゆじゅつすることを、いみするのである。
 「かほうとはしんりなり」の、しんりとは、どうりということである。かみがにんげんをつくったというふごうり、あるいは、かんねんてきなものでは、ないということである。また、かほうとは、じっさいにだいちと、とって、よいとおもう。われわれがあるくのも、だいちがなければならないし、いくら、ひこうきがとんでも、さいごは、だいちにもどってこなければならないし、とりも、やはりけっきょく、だいちにもどってこなければならない。われわれが、たべるものも、すべて、だいちよりせいいくされ、いくせいされるのである。さらにたいようのねつ、また、いっさいのいんりょくも、ほしのうんこうも、だいちに、ちょくせつかんけいをもつものである。なお、じくのどうしょうがのべた、「かほうとは、じゅうしてりにあるなり」のりとは、なんみょうほうれんげきょうをさしているのである。
 「このりのじゅうしょより、あらわれいづるじというなり」とは、じすなわち、せいかつじっせんをいう。また、げんしょうかいをさす。しょせん、あらゆるげんしょうは、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとしているということである。てんだいだいしが、「きはこれほっしょうのき、めつはこれほっしょうのめつ」と、ろんじたごとく、ぜんげんしょうのきめつとうは、ぜんぶ、みょうほうれんげきょうを、こんぽんとしてあらわれたすがたである。かんげんすれば、げんじつのなかに、みょうほうのたいほうそくがあって、けっして、かんねんてきなものではないということである。
またいわく、せんそうばんぼく、ぢゆのぼさつにあらずということなし。
 これ、みょうほうをこんぽんとすれば、いっさいのかつどうが、ぢゆのぼさつのはたらきに、かわるというもんである。たとえば、げんしばくだんたりとも、「ぢゆのぼさつに、あらずということなし」のどうりになるのである。これは、みょうほうをこんぽんとすれば、げんしばくだんも、かならずへいわかいたくりようにかわってゆくとのげんりである。はんたいにひぼう、ほうぼうのみ、せかいにじゅうまんしたばあい、あびきょうかんじごくになって、せんそうばんぼくは、しめつしてしまう。
 ともに、いっさいのものが、てんまのはたらきに、かわってしまうのである。せかいこうきゅうへいわを、こんぽんりねんとし、じんるいきょうえいのえいきゅうげんりとし、かつまた、ちきゅうみんぞくしゅぎの、いちだいししんとして、こころあるひとに、このだいほうりをば、つたえきらねばならない。

さればぢゆのぼさつはほんげといえりとう。
 「くおんごひゃくじんでん」とは、きょうそうである。「むしむしゅう」は、くおんがんじょであり、かんじんである。ここではとうぜん、くおんがんじょのにちれんだいしょうにんと、はいすべきなのである。「ほんぽうしょじのひと」とは、べっしては、にちれんだいしょうにん、きょうそうでは、じょうぎょうぼさつのことである。しんじんよりはいすれば、だいしょうにんのでしである。われわれをさすのである。

 このほんぽうのたいより、ゆうをだして、しかんとひろめ、いちねんさんぜんという、そうじて、だいしひとしのしょしゃくも、このみょうほうのゆうを、ひろめたまうなり。
 なんみょうほうれんげきょうが、ほんたいであり、それからゆうをいだして、しゃくそんは、ほけきょうにじゅうはちほんをとき、てんだいは、まかしかんをといたのである。また、あらゆるだいし、にんし、たとえば、りゅうじゅ、てんじん、みょうらく、でんぎょうとうも、なんみょうほうれんげきょうの、ほんたいのゆうをひろめたにすぎないのである。
 そのほんたいを、ちょくせつひろめていくのが、ほんげのぢゆのぼさつである。すなわち、われわれのことである。なんと、ふくうんのだいなることであろうか。かつ、じゅうだいなしめいを、つうかんしうるものである。

 このほんぽうを、じゅじするはしんのいちじなり、がんぽんのむみょうを、たいぢするりけんは、しんのいちじなり、むぎわっしんの、しゃくこれをふおもうべし。
 「このほんぽう」これすなわち、さんだいひほうの、ごほんぞんをじゅじするのは、しんのいちじである、とのおだんげんである。がんぽんのむみょうとは、ふこうのこんぽんをいう。それをたちきるりけんは、しんのいちじしかないとのおおせである。せいじ、ほうりつ、きこう、せいど、きょういく、かんきょうだけでは、このむみょう、ふこうのほんげんのかいけつは、えいきゅうにできえない。けっきょく、ばっぽんてきに、にほんのくにの、こうふくとへいわとはんえいをきずくのは、しんじんごうじょうなるぢゆのぼさつのみであるとのもんなりとだいかくしんすべきである。

  • [242]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな かんじほんじゅうさんかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月19日(水)02時33分28秒
 
おんぎくでんこうぎろく じょう

0747~0749 かんじほんじゅうさんかのだいじ。

0747    だいいち かんじのこと。
0747    だいに ふしゃくしんみょうのこと。
0748    だいさん しんふじつこのこと。
0748    だいよん きょうじゅんぶっちのこと。
0748    だいご さししくのこと。
0748    だいろく にょほうしゅぎょうのこと。
0748    だいなな うしょむちにんのこと。
0749    だいはち あくせちゅうびくのこと。
0749    だいきゅう わくうあれんにゃのこと。
0749    だいじゅう じさしきょうでんのこと。
0749    だい11 いししょきょうごんにょとうかいぜぶつのこと。
0749    だい12 あっきにゅうごしんのこと。
0749    だい13 たんしゃくむじょうどうのこと。

0747~0749 かんじほんじゅうさんかのだいじ。
0747    だいいち かんじのこと。

 おんぎくでんにいわく、かんとはけた、じとは、じぎょうなり、なんみょうほうれんげきょうは、じぎょうけたにわたるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうをすすめて、たもたしむるなり。

 かんじほんの、かんじということについて、おんぎくでんには、つぎのように、おおせである。かんとは、ほかにすすめることで、けたであり、じとは、みずからたもつことであり、じぎょうである。なんみょうほうれんげきょうは、じぎょうけたにわたるのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、なんみょうほうれんげきょうをすすめて、それを、いっさいしゅじょうに、たもためしているのである。

 かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんだいじゅういちには、さんかのちょくせんがあり、だいばほんだいじゅうにには、にかのかんぎょうがとかれ、これにつづいて、かんじほんだいじゅうさんでは、やくおうぼさつを、だいひょうとした、しゃくけのぼさつが、いっせいに、ほとけのめつごにおいて、ほけきょうをとけば、かならず、さんるいのごうてきによる、かず々かずのだいなんをうけるであろうが、かならず、ほとけのしょぞくのほうを、ぐつうするむねの、ちかいをたてるのである。
 ほうとうほんの、さんかのちょくせんについては、つぶさに、かいもくしょうにあるとおりである。ようするに、しゃくそんが、いちざのたいしゅうにむかい、さんどにわたって、めつごのぐきょうをかんじんするのである。
 そのなかにも、だいさんのちょくせんには、ろくなんくいがとかれている。これは、ほけきょうがいかに、なんしんなんげであるか、そして、めつごのぐきょうが、いかになんじちゅうのなんじであるかを、しめしたものであり、よほどの、けついがなければ、めつごのぐきょうはできないと、いましめているのである。
 つぎにだいばほんの、にかのかんぎょうとは、いうまでもなく、だいばだったのてんのうにょらいの、きべつと、りゅうにょのそくしんじょうぶつである。ともにほけきょうがいかにいだいであるかをしめし、ぐきょうのこころをおこさしめようとしたのである。
 ほうとうほんの、さんかのちょくせんと、だいばほんのにかのかんぎょうとをあわせて、ごかのかんぎょう、またはごかのほうしょうとうという。
 このごかのかんぎょうをうけて、かんじほんにおける、はちじゅうまんおくなゆたの、ぼさつのぐきょうのちかいがあるのであり、そのにじゅうぎょうのげには、さんるいのごうてきのすがたが、こくめいにえがかれている。
 だいいちるい、もろもろのむちのひとの、あっくめりとうし、および、とうじょうをくわうるものあらん、われら、まさにしのぶべし。
 だいにるい、あくせのなかのびくは、じゃちにして、こころてんごくに、いまだえざるをこれえたりと、いいがまんのこころ、じゅうまんせん。
 だいさんるい、あるいは、あれんにゃののうえにして、くうげんにあって、みずからしんのどうをぎょうずといいて、にんげんを、きょうせんするものあらん、りようにとんじゃくするがゆえに、びゃくえのために、ほうをといて、よにきょうけいせられることを、なること、ろくつうのらかんのごとくならん。
 これのひと、あくしんをきいだ、つねにせぞくのことをおもい、なずをあれんにゃにかりて、このんで、がとがをいださん。つねにたいしゅうのなかにあって、われらを、そしらんと、ほっするがゆえに、こくおう、だいじん、ばらもん、こじ、および、よのびくしゅうにむかって、ひぼうして、わがあくをといて、これ、じゃけんのひと、げどうのぎろんを、とくといわん。じょくこうあくせのなかには、おおく、もろもろの、くふあらん、あっきそのみにはいって、われを、めり、きにくせん。あくせのあくびくは、ほとけのほうべんずいぎの、しょせつのほうをしらず、あっく、ひんしゅくし、しばしばひんずいせられん。
 このかんじほんの、にじゅうぎょうのげを、みをもってよまれたかたは、にちれんだいしょうにん、おひとりであった。ゆえに、にちれんだいしょうにんの、しゅつげんがなければ、ほとけのよげんは、ことごとくもうごとなる。としょごしょに、しめされているのである。
 かいもくしょうじょうに、「しかるに、ほけきょうのだいごのかん、かんじほんのにじゅうぎょうのげは、にちれんだにも、このくににうまれずば、ほとをど、せそんはだいもうごのひと、はちじゅうまんおく、なゆたの、ぼさつは、だいばがこおうざいにも、おちぬべし、
 きょうにいわく、「もろもろの、むちのひとあつて、あっくめりとうし、とうじょうがしゃくをくわう」とううんぬん、いまのよをみるに、にちれんよりほかの、しょそうたれのひとか、ほけきょうにつけて、しょにんにあっくめりせられ、とうじょうとうを、くわえらるるものある、にちれんなくば、このいちげの、みらいきはもうごとなりぬ。
 「あくせのなかの、びくは、じゃちにして、こころてんごく」、またいわく、「びゃくえのために、ほうをといて、よにきょうけいせらるること、ろくつうのらかんのごとし」、これらのきょうもんは、いまのよのねんぶつしゃ、ぜんしゅう、りっしゅうとうの、ほっしなくば、せそんは、また、だいもうごのひと、じょうざいたいしゅうちゅう、ないしむこう、こくおう、だいじん、ばらもん、こじとう、いまのよの、そうとう、にちれんを、ざんそうして、るざいせずば、このきょうもんむなし、またいわく、「さくさくけんひんずい」とううんぬん、にちれん、ほけきょうのゆへに、たびたび、ながされずば、さくさくのにじいかんがせん、このにじは、てんだい、でんぎょうも、いまだ、よみたまはず、いわんや、よじんをや、まっぽうのはじめのしるし、くふあくせちゅうの、きんげんの、あふゆへに、ただ、にちれんいちにんこれをよめり」0202-11と。
 けんぶつみらいきに、「このめいきょうについて、ふつごをしんぜしめんがために、にほんこくじゅうの、おうしん、ししゅうのめんぼくに、ひきむかえたるに、よよりのほかには、いちにんもこれなし、ときをろんずれば、まっぽうのはじめ、いっじょうなり、しかるあいだ、もしにちれんなくんば、ふつごはこもうとならん、なんじていわく、なんじはだいまんのほっしにして、だいてんにすぎ、しぜんびくにもこえたり、いかん。
 こたえていわく、なんじ、にちれんをべつじょするのじゅうざい、また だいばだったにすぎ、むくろんしにもこえたり、わがことばは、だいまんににたれども、ぶつきをたすけ、にょらいのじつごをあらわさんがためなり、しかりといえども、にほんこくちゅうに、にちれんをのぞいては、だれひとをとりだして、ほけきょうのぎょうじゃとなさん、なんじにちれんを、そしらんとして、ぶつきをこもうにす、あに、だいあくにんにあらずや」0507-13と。
 しょうにんごなんじに、「りゅうじゅ、てんじん、てんだい、でんぎょうは、よにかたをならべがたし、にちれんまっぽうにいでずば、ほとけはだいもうごのひと、たほう、じっぽうのしょぶつは、だいこもうのしょうみょうなり、ふつめつご、にせんにひゃくさんじゅうよねんがあいだ、いちえんぶだいのうちに、ほとけのみことばを、たすけたるひと、ただ、にちれんいちにんなり」1189-18と。
 にちれんだいしょうにんは、これらのおんふみに、おしめしのごとく、しゃくそんのきょうもんと、だいしょうにんのおふるまいとがふごうすることをもって、わがみが、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃ、すなわちまっぽうのごほんぶつであるとの、しょうことされているのである。ゆえに、かんじほんこそ、まっぽうのせそうをうつしだして、くもりなく、にちれんだいしょうにんを、ごほんぶつなりと、しょうめいづけるみょうきょうである。
 かいもくしょうに、「にちれんといゐしものは、いぬるくがつじゅうににち、ねうしのときに、くびはねられぬ、これはこんぱく、さどのくににいたりて、かえるとしのにがつ、せっちゅうにしるして、うえんのでしへ、をくればをそろしくて、をそろしからず、みんひと、いかに、をぢぬらむ、これはしゃか、たほう、じっぽうのしょぶつの、みらいにほんこく、とうせいをうつしたまう、みょうきょうなり、かたみともみるべし」0223-16と。
だが、ここに、じつにだいふしぎがあるとおもう。それは、しゃくそんと、にちれんだいしょうにんとは、やく2000ねんのへだたりがある。2000ねんと、ひとくちにいうが、それはまことに、ながいきかんである。いまのよに、だれひとが、2000ねんいごのせそうを、よげんできるひとがあろうか。みずからのみに、ひきあててかんがえれば、いかに、しゃくそんがいだいなしょうにんだったかが、わかるであろう。しかも、そのひとつひとつのもんが、すんぶんもくるいなく、てきちゅうしていることは、ふしぎであり、じつに、いだいなことだとおもう。
 しゃくそんのさんヶかげつのちの、ねはんのてきちゅうも、ふほうぞうきょうのよげんもてきちゅうし、また、だいしつきょうのごごひゃくさいのよげんもてきちゅうし、そして、このかんじほんのよげんも、みごとてきちゅうしているのである。しょうにんちさんせじ、「きょうしゅしゃくそん、すでにちかくは、さつてのち、みつきのねはんこれをしり、とおくは、のちのごひゃくさい、こうせんるふ、うたがいなきものか、もし、しかれば、ちかきをもって、とおきをすいし、げんをもってとうをしる、にょぜそう、ないし、ほんまつくきょうとうこれなり」0974-05と。
 にちれんだいしょうにんは、しゃくそんよりも、ひゃくせんまんおくばいすぐれた、ごほんぶつである。だいしょうにんに、そうたいすれば、しゃくぶつである。しゃくそんはたいようのひかりにてらされて、ささやかなひかりをはなつ、つきのごときそんざいなのである。
 しもやまごしょうそくには、「きょうしゅしゃくそんより、だいじなるぎょうじゃを、ほけきょうのだいごのまきをもって、にちれんがこうべをうち」0363-01とおおせられ、かんぎょうはちまんしょうには、しゃくそんをつきにたとえ、にちれんだいしょうにんをひに、たとえられている。
 またほうれんしょうには、しゃくそんをいちこうのあいだ、さんごうそうおうで、くようするくどくよりも、まっぽうの、ほけきょうのぎょうじゃを、けろんにいちごん、あたかも、けいぼがけいしをほめるように、こころからではなくとも、さんたんし、くようするくどくのほうが、ひゃくせんまんおくばいすぐれていると、おおせられている。
 そのだいしょうにんの、みらいきいかん。けんぶつみらいきに、「とうていわく、ぶつき、すでにかくのごとし、なんじが、みらいきいかん、こたえていわく、ぶつきにじゅんじて、これをかんがえうるに、すでに、のちのごひゃくさいのはじめに、あいあたれり、ぶっぽうかならず、とうどのにほんよりいづべきなり」0508-10と。
 またほうおんしょうに、「にちれんが、じひこうだいならば、なんみょうほうれんげきょうはまんねんのほか、みらいまでもながるべし」0329-03とおおせられている。
 げんざい、そうかがっかいが、こうせんるふのために、まいしんしているのは、とりもなおさず、このだいしょうにんのおおせを、じつげんせんがためであり、せかいのこうせんるふも、また、まっぽうまんねんじんみらいさいまでのこうきゅうへいわも、われわれのてによって、じつげんできるとかくしんし、ぜんしんをつづけていこうではないか。

0747    だいに ふしゃくしんみょうのこと。

おんぎくでんにいわく、しんとはしきほう、いのちとはしんぼうなり、じりの、ふしゃくしんみょうこれあり、ほっけのぎょうじゃ、たはたとうをだつわるは、りのふしゃくしんみょうなり、みょうこんをたたるをことの、ふしゃくしんみょうというなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、じりともにあうなり。0748

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんの、「われら、まさに、だいにんりきをおこして、このきょうを、どくじゅし、じせつし、しょしゃし、しゅじゅにくようして、しんみょうをおしまざるべし」のところのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しんみょうのしんとはしきほう、いのちはしんぼうであり、しんみょうでしきしんふにのせいめいをさすのである。ふしゃくしんみょうに、じとりのふしゃくしんみょうがある。ほっけのぎょうじゃが、たはたとうをうばわれるのは、りのふしゃくしんみょうであり、みょうこんをたたれるのは、じのふしゃくしんみょうというのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつり、ぶつどうしゅぎょうにはげむならば、じのふしゃくしんみょう、りのふしゃくしんみょう、ともにあうのである。

 ふしゃくしんみょうとは、じゅりょうほんの「ふじしゃくしんみょう」とおなじいみである。にちかんしょうにんは、じゅりょうほんの「いっしんよっけんぶつ、ふじしゃくしんみょう」のもんをしんぎょうにわけて、「いっしんよっけんぶつ」をしんとたて、「ふじしゃくしんみょう」をぎょうとたてられている。
 すなわち、ごほんぞんをしんじて、しょうだいし、しゃくぶくにはげむことが、ふじしゃくしんみょうになるのである。しんじんし、しゃくぶくをやりとおしていけば、かならずなんがある。にちれんだいしょうにんはきょうだいしょうにてんだいだいしのまかしかんのだいごのもんをひいて、つぎのようにこのげんりをとかれている。
 「このほうもんをもうすには、かならずましゅったいすべし、まきそはずはしょうほうとしるべからず、だいごのまきにいわく、「ぎょうげすでにつとめぬれば、さんしょうしま、ふんぜんとしてきそいおこる、ないししたがうべらず、おそるべらず、これにしたがえば、まさにひとをして、あくどうにむかわしむ、これをおそれば、しょうほうをしゅうすることをぐさまた」とううんぬん、このしゃくは、にちれんがみにあたるのみならず、もんけのめいきょうなり、つつしんでならいつたえて、みらいのしりょうとせよ」1087-15
 なんがなければ、しょうほうとはいえないというのが、だいしょうにんのおおせである。
 にちれんだいしょうにんのおふるまいは、いっしょうがい、ふしゃくしんみょうのおすがたであった。こまつばらのほうなん、たつのくちのほうなん、いず、さどへのにどのるざいとう々とうである。またおでしについては、こまつばらのほうなんのさいのきょうにんぼう、くどうよしたか、あつはらのほうなんのさいの、じんしろう、やごろう、やろくろうとうのさんれっしとうもふしゃくしんみょうのすがたであった。また、だいにそにっこうしょうにんのごいっしょうも、ほんもんぐつうのために、しんみょうをなげうってたたかわれた。だいさんそにちしょうにんも、こっかかんぎょうのために、そのとうときせいめいをおしまれなかった。
 ちかくは、しょだいまきぐちかいちょうは、かんけんのためとらえられ、ろうしなされた。まさにふしゃくしんみょうであった。だいにだいとだかいちょうのごいっしょうもふしゃくしんみょうのすがたであった。また、げんざいのそうかがっかいいんが、いちにんでもおおくのひとをすくわんと、いかなるはんたいもあっぱくも、ものともせず、しんけつをそそぐすがたは、ふしゃくしんみょうではないか。
 だが、げんざいは、しんみょうにおよぶようななんなどは、ほとんどない。それはいま、けぎのこうせんるふはげんぜんであり、ごほんぞんのだいくどくは、ちゅうてんのたいようのごとくひかりかがやき、われわれがまもられているからである。しかしかならず、それぞれのたちばで、なんがあるのはとうぜんである。なんがなければ、しゅくめいてんかんできず、しんじつのこうふくもかくりつできないのである。なんがあったときがだいじである。じょうぶつするかじごくにおちるか、そのときのいちねんがけっじょうする。なんをのりこえたときは、たいふうのあとのせいてんのごとく、しんじつのこうふくかんに、みちみちてくるのである。
 したがってだいしょうにんの、なんにあったときの、しどうはじつにきびしい。だいしょうにんがさどごるざいちゅうに、あらわされたにょせつしゅぎょうしょうには、「いちごをすぐることほどもなければ、いかにごうてきかさなるとも、ゆめゆめたいするこころなかれ、おそるるこころなかれ、たとひ、くびをばのこぎりにてひききり、どうをばひしほこをもって、つつき、あしには、ほだしをうつて、きりをもってもむとも、いのちのかよはんほどは、なんみょうほうれんげきょう、なんみょうほうれんげきょうととなえてとなへしに、しるならば」(0504-18)とうとおおせられ、またあつはらのほうなんの、いっさいのしどうしょたる、しょうにんごなんじには、「かのあつわらのぐちのものども、いゐはげまして、をどすことなかれ、かれらには、ただいちえんにおもいきれ、よからんはふしぎ、わるからんはいっじょうとをもへ、ひだるしと、をもわば、がきどうを、をしへよ、さむしといわば、はちかんじごくを、をしへよ、をそろししと、いわば、たかにあへるきじ、ねこにあえるねずみを、たにんとをもうことなかれ」(1190-18)といわれている。
 このようなきびしいしどうも、しょせんは、じょうぶつさせたい、こうふくをつかませたい、とのじひであり、げんぷのあいなのである。もしも、われわれが、なんがこわいからといって、なんをうけないように、しんじんをあゆめれば、なんがなくなるかといえば、けっしてそうではない。しんじんしてなんをうけるいじょうの、だいなんをうけなくてはならない。
 ごほんぞんをおがんでのなんは、ざいしょうしょうめつされ、しゅくめいてんかんされていく。じょうぶつのためへのなんである。これはしょうにんごなんじに、「たとえばやいとのごとし、とうじはいたけれども、のちのくすりなれば、いたくて、いたからず」(1190-16)とおおせあるごとく、よろこびであり、たのしみである。だが、しんじんをやぶってうけたなんは、ゆきだるましきに、それがまた、いんとなって、じごくにおち、ふこうをまねくだけである。したがって、われわれは、ごほんぞんをこんぽんとして、そうかがっかいいんとして、さいごのさいごまで、いっしょうじょうぶつのため、こうせんるふのためたたかっていこうではないか。
 ふしゃくしんみょうについて、さらにいちごんしたい。しんじんにかぎらず、いっぱんに、これからなにかをしようとしているひとのこころは、はずんでいる。またそのすがたはうつくしくもある。とくに、いかなるこんなんともたたかい、じこのもくひょうにうちすすんでいくすがたは、さいびである。はつめいかがけんきゅうにぼっとうしているすがたも、また、いしゃがびょうにんをなおすために、けんめいになっているすがたも、またがくしゃがしんりのたんきゅうにみをうちこんでいるすがたも、そこには、なにかをつくりあげたい、はっけんしよう、といういよくがあふれている。
 あるもくひょうにむかって、しんみょうをうちこんでいくことは、ふしゃくしんみょうにつうずるものがある。ただし、もくひょうのこうてい、せんじん、ぜんあくいかんがもんだいである。あさきもの、またていきゅうなもの、あやまれるものに、しんみょうをなげうつほど、あわれなことはない。さいこうのものにきみょうしていくじんせいでなければならない。けつろんすれば、ごほんぞんにきみょうすることであり、じこのいっしょうじょうぶつ、またぜんせかいのへいわのために、しんみょうをとしてたたかうことが、さいこうのじんせいであり、しんじつさいこうのふしゃくしんみょうなのである。
 ふしゃくしんみょうのせいしんにたったひとほど、つよいものはない。しんじつのあんらくであり、いかに、たからこわそうとしても、こわすことはできない。だれをおそれるひつようもない。だれにもこびへつらうひつようもない。いわおのごとく、どう々どうとしており、たいようのごとくこうきにみちたじんせいこうろである。


0748    だいさん しんふじつこのこと。

おんぎくでんにいわく、しんふじつことは、ほっけさいだいいちのきょうもんをだいさんとよみ、さいいごじょうのきょうもんを、さいいごげとよみて、ほけきょうのいちねんさんぜんを、けごんだいにちとうにこれありと、ほっけのそくしんじょうぶつを、だいにちきょうにとりいるるは、らはみな、しんふじつこなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しんじつなるべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、かんじほんで、まっぽうのひとのしょうをよげんして、「しんふじつなるがゆえに」とといているところである。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。こころがふじつであるということは、ほけきょうが、いっさいきょうちゅうだいいちであるのに、こうぼうのように、だいさんにくだし、さいこうである、ほけきょうをさいていとよみ、ほけきょうにとかれている、いちねんさんぜんのほうもんを、けごんきょう、だいにちきょうにも、とかれているとして、ほけきょうのそくしんじょうぶつのおしえを、だいにちきょうにぬすみいれるようなことをさして、こころが、ふじつというのである。しかして、いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかの、なんみょうほうれんげきょうととなえるものは、がじつなのである。


 しんふじつことは、ただしきものを、ただしいとみることができない。すぐれているものを、すぐれているとみとめない。このように、へんきょうであり、ていきゅうなものにしゅうちゃくするこころを、ふじつというのである。わがそうかがっかいにたいし、そのほんしつ、じゅんすいせい、もくてきかんをもしらず、がけんのみで、ひはんし、おんしつをいだくこころなどは、ふじつのてんけいである。
 われらのだんけつのつよきをみては、きょうじんのごとく「ファッショ」というひとなど、とくにそのぶるいである。よきだんけつは、だれひともほっするところである。これいじょううるわしきすがたはないのだ。これができないところに、こんにちの、いくたのひげきがあるのではなかろうか。いっかも、しゃかいも、ろうどうくみあいも、せいとうも、こっかも、ぜんせかいも、だんけつしようだんけつしようと、けんめいにどりょくしているではないか。われわれが、だいぶっぽうをこんていにだんけつしているのは、さいだいのもはんとしょうさんして、とうぜんのことなのではなかあろうか。それをいじょうしすることじたい、いじょうであるとしらねばなるまい。
 そうかがっかいが、オリンピックいじょうの、どう々どうたるぶんかをてんかいした。これをにほんのほこりとし、せかいのほこりとしたひとが、いくひといたことであろうか。はんたいに、おそれをいだき、まゆをひそめたひとがいたときく、まことにざんねんなことである。しかし、じだいはとう々とうとながれている。ひと々びとのこころが、しだいに、めざめつつうごいている。かならずや、ぜんせかいから、かんしゃと、そんけいと、しんらいをえるひがまぢかであることを、つよくつよくかくしんするものである。かれらのかんじょうてき、ひそうてきなひはんは、これみな、「しんふじつこ」のしょうみょうにほかならないことを、ごきんげんにてらし、めいきしていくのみである。

0748    だいよん きょうじゅんぶっちのこと。

おんぎくでんにいわく、ほけきょうにじゅんずるは、きょうじゅんぶっちなり、こころとはなんみょうほうれんげきょうこれなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、きょうじゅんぶっちのこころなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「ときにもろもろのぼさつ、ほとけにきょうじゅんし」とあるところについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほけきょうにじゅんじ、なんみょうほうれんげきょうと、しんずるものは、ふついにきょうじゅんしているということである。ほとけのこころとは、なんみょうほうれんげきょうである。いま、にちれんだいしょうにんおよびもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえることは、ふついにきょうじゅんしていることをいみする。

 ぶついのほとけとは、にちれんだいしょうにん、こころとはなんみょうほうれんげきょうであり、ぶついで、にんぽういっかのごほんぞんをあらわす。きょうおうどのごへんじに「にちれんがたましひを、すみにそめながして、かきてそうらぞ、しんじさせたまへ、ほとけのみこころは、ほけきょうなり、にちれんが、たましひは、なんみょうほうれんげきょうに、すぎたるはなし」(1124-11)と。
 きょうじゅんとは、しんじんである。ごほんぞんをぜったいとしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となえることがしんのきょうじゅんぶっちである。

0748    だいご さししくのこと。

おんぎくでんにいわく、ししくとは、ほとけのせつなり、せっぽうとはほっけ、べっしては、なんみょうほうれんげきょうなり、しとはししょうくさずるところのみょうほう、しとはでしくうるところのみょうほう、くとはしていともに、となうるところのおんじょうなり、さとはおこすとよむなり、まっぽうにしてなんみょうほうれんげきょうをおこすなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「ときにもろもろのぼさつ、ほとけにきょうじゅんし」とあるところについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほけきょうにじゅんじ、なんみょうほうれんげきょうと、しんずるものは、ぶついに、きょうじゅんしているということである。ほとけのこころとは、なんみょうほうれんげきょうである。いま、にちれんだいしょうにんおよびもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえることは、ぶついにきょうじゅんしていることをいみする。

 「せっぽうとは、ほっけ、べっしては、なんみょうほうれんげきょうなり」とは、しゅだつそうたいをあらわしている。すなわち、せっぽうとは、ほけきょうであるが、べっしては、ほけきょうじゅりょうほん、もんていのなんみょうほうれんげきょうをさすのであるとの、いみなのである。
 つぎに、「しとは」、いかのもんは、していふにをしめされたものである。「しとはししょう」とは、にちれんだいしょうにんである。「くさずるところのみょうほう」とは、ごほんぞんのことである。にんぽういっかをしめす。「しとはでし」とは、ごほんぞんをしんずるものであり、「うくるところのみょうほう」とは、しんじんでうけとるところのみょうほう、すなわち、ごほんぞんをしんじて、わがこしんのごほんぞんを、ゆげんすることである。「くとは、していともにとなうるところの、おんじょうなり」とは、していふにである。
 また「なんみょうほうれんげきょうをおこす」とは、しんじんはじゅどうではなく、のうどうであるということであり、またこうせんるふも、たのひとがやるのをまつのではなく、おのれじしんがやるときめることである。とだかいちょうは、かって、「こうせんるふは、ひとりのせいねんがいのちをすてれば、かならずできる」ともうされ、また「せいねんよひとりたて」とも、こごうなされた。まずいちぽは、じぶんみずからやるのである。それがしだいにひろがっていくことは、まちがいない。われわれがやっていることは、たいしゅうのもっとも、ほっしていることを、しているからである。

0748    だいろく にょほうしゅぎょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、にょほうしゅぎょうのひととは、てんだい・みょうらく・でんぎょうとうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、にょほうしゅぎょうなりうんぬん。

 かんじほんで、しょぼさつが、「ほうのごとくしゅぎょうし、しょうおくねんせしめん」と、めつごのるつうをちかうもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほとけのきょうほうのごとく、しゅぎょうするひととは、てんだい、みょうらく、でんぎょうとうである。いま、まっぽうにおいては、にちれんだいしょうにんおよびもんかの、なんみょうほうれんげきょうととなえるものが、にょほうしゅぎょうである。

 にょせつしゅぎょうのほうとは、しそう、しゅぎょうとはじっせんである。にょせつしゅぎょうは、あらゆるものにつうじていることである。たとえばげどうの、にょせつしゅぎょうについていえば、しいだ、じゅうはちだいきょうなどのかれらのきょうてんを、そのとおりにじっせんするとすれば、それは、げどうのにょせつしゅぎょうである。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、かいもくしょうこうぎで、つぎのごとくのべられている。
 「ばらもんにおいても、ひくいていどのものであるが、せいめいのほんしつとはなんぞやというてんを、しこうして、そのえたけつろんを、じっせんかつどうにうつしたものである。ゆえにかれらは、これをごくせつとなして、たがいにろんそうし、またこのほうをば、じっせんこうどうにうつして、いちにちにさんど、ごうがにはいったり、あるいはかみをぬいたり、いわにみをなげたり、あるいは、みをひにあぶって、ごたいをやき、あるいは、らぎょうになり、うまをころせば、こうふくになるといったり、あるいは、そうもくをやいたり、いっさいのきをおがんだりしたのである。
 これこそ、さいこうのぶっきょうてつがくからみれば、ほんとうの、こどもだましであって、なんら、うるところのないのは、もちろんである」と。
 このようにほうのごとく、しゅぎょうするといっても、そのほうが、ていきゅうであったり、あやまれるものであったり、ふごうりなものであれば、それをじっせんしたときには、ゆがんだにんげんをつくりあげるだけであり、ふこうをまねくばかりである。
 またそのしそうが、ていきゅうであり、ふごうりであれば、ひつぜんてきに、それをこうどうにうつすのに、むりがでてくる。したがって、しそうとじっせんが、しだいにはいりしてくるのである。
 げんざい、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょういがいの、あらゆるしそうが、しそうとじっせんのはいりを、しんこくにしめしている。マルクスのしそうにしても、またじつぞんしゅぎのてつがくにしても、またとうようのじゅきょうてつがくにしても、あらゆるものが、そのじっせんにおいて、いきづまってしまっている。
 このてん、ことにあわれむべきは、キリストきょうである。
 「あなたがたは、てきをあいし、ひとによくしてやり、またなにもあてにしないでかしてやれ」また、「かれからりしもりそくもとってはならない。あなたのかみをおそれ、あなたのきょうだいを、あなたとともに、いきながらえさせなければならない」、これらのせいしょのもんぐを、しょせつのごとく、じっせんしているキリストきょうとが、はたしていくにんいるであろうか。
 つぎに、いかにさいこうのしそう、てつがくをゆうしていても、それをじっせんしなければ、かちはしょうじないことを、めいきすべきである。われわれのたもつほうは、はちまんほうぞうのしんずいであり、せかいさいこうのしきしんふにの、せいめいてつがくである。
 そのじっせんとは、ごほんぞんをしんじてしょうだいし、しゃくぶくにはげんでいくことである。テレビのスイッチをいれ、がめんにぞうをあらわすことは、かんたんであり、ちいさなこどもにもできる。だが、そのテレビのりろんというものは、きわめてふくざつ、かつなんげなものである。ごほんぞんは、ひみつのおうぞうであり、なんしんなんげである。
 だが、われわれが、それをじっせんにうつすときは、じゅじそくかんじんとなり、ただごほんぞんをしんじて、しょうだいするだけで、しんじつのこうふくをかちえていくことが、できるのである。


0748    だいなな うしょむちにんのこと。

おんぎくでんにいわく、いちもんふつうのだいぞくなり、あっくめりとう、ふんみょうなり、にほんこくのぞくを、もろもろというなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんの、「もろもろのむちのひとの、あっくめりし、および、とうじょうをくわうるものあらん」と。ぞくしゅうぞうじょうまんを、あかすもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。もろもろのむちのひととは、ぶっぽうのいちもんもしらない、ぞくじんのことである。しょうほうのぎょうじゃにあっくをいい、ばとうするのは、はっきりしていることである。もろもろとはにほんこくの、ぞくしゅうぞうじょうまんをいうのである。

 このもんは、だいいちるいの、ぞくしゅうぞうじょうまんのところである。このぞうじょうまんは、しんじんするとどうじに、でてくるものである。ふだんは、なにでもなく、こころよくまじわっているゆうじん、かていとうのひとが、しんじんのことになると、きまってはんたいをするものだ。ごきんげんのいかにてきちゅうするかを、おどろくほど、たいけんするものである。
 しかし、いかにはんたいしても、だいぶっぽうには、ぜったいにこうしきれるものではない。もうれつなるはんたいしゃが、のちで、かならず、ぞくぞくとにゅうしんするのも、まことにふしぎな、りきあるぶっぽうといわざるをえない。

0749    だいはち あくせちゅうびくのこと。

 おんぎくでんにいわく、あくせちゅう、びくのあくせとは、まっぽうなり、びくとはほうぼうたる、こうぼうとう、これなり、ほっけのしょうちをすて、ごんきょうのじゃちをほんとせり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しょうちのなかのたいしょうちなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あくせのなかのびくは、じゃちにしてこころてんごくに、いまだえざるをこれえたるといい、がまんのこころじゅうまんせん」と、どうもんぞうじょうまんをあかしたもんについて、おんぎくでんでは、つぎのようにおおせである。「あくせのなかのびく」の、あくせとは、まっぽうげんざいをさす。びくとは、こうぼうとうのほっけひぼうのじゃそうをいうのである。いま、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえるのは、しょうちのなかのたいしょうちである。

 あくせちゅうびくとは、どうもんぞうじょうまんをあかしているところである。
 だいにるい、どうもんぞうじょうまんとは、きせいしゅうきょうかい、しんこうしゅうきょうかいにふくまれる。すなわち、ぜんにちふつ、しんしゅうれんがこれである。じしゅうのせいぎ、しんねんをるふするを、しゅうきょうほんらいのしめい、じゅんすいせいであることをぼうきゃくし、せほうのみにとらわれ、れんごうして、おのがきぎょうをまもらんとする、ひきょうきわまりなき、しゅうだんをさす。
 しかし、どうもんぞうじょうまんは、すでにちからをうしない、そのつめをもぎとられてしまっている。きょうと、ならの々てらでらはさびれ、かんこうちとかし、じゃしゅうにちれんしゅうのほんざん、みのぶも、すでにこうはいのきわみにたっしている。どうもんぞうじょうまんの、さかんなりしじだいの、すぎさっているしょうこといえよう。
 わががっかいのれきしからいえば、とだじょうせいぜんかいちょうのしょうわ26ねんごろから、しょうわ30ねんのおたるほうろんを、さかいにして、じゃしゅうはいちだんとおとろえているかんを、もつものである。そのごは、ぜんにちふつとうが、ぼちまいそうきょひもんだいとうで、たしょうのうごきをみせているていどである。
 しんじだいは、つぎにのべるだいさんるい、せんしょうぞうじょうまんとのたたかいであり、このしょうりこそ、こうせんるふじつげんのさいごのくさびであるとかくしんしてやまない。

0749    だいきゅう わくうあれんにゃのこと。

 おんぎくでんにいわく、だいさんのびくなり、りょうかんとうなり、にょろくつうらかんのひととおもうなり。
 かんじほんに「あるいはあれんにゃに、のうえにして」と、せんしょうぞうじょうまんを、あかしたもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんは、さんるいのごうてきのなか、だいさんのせんしょうぞうじょうまんのじゃそうをさしている。ごくらくじりょうかんがそれである。せけんのひとは、ろくじんずうをえたあらかんのように、そのじゃそうをそんけいしているのである。

 かいしゃくこうぎ。
 だいさんるいの、せんしょうぞうじょうまんとは、こっかけんりょくをいう。なお、げんざいでは、いちりゅうひょうろんか、がくしゃ、いちりゅうにっかんしをさす。また、せいじか、ざいかいじんとうのけんりょくしゃが、われわれをいんにように、はくがいしてくることをいうのである。
 げんざいは、さんるいのごうてきのうち、とくにこの、だいさんるいの、せんしょうぞうじょうまんとの、たたかいのじだいなのである。かって、とだじょうせいぜんかいちょうは、かならず、だいさんるいのあらわれるときがくると、つねにもうされていた。そのときとは、まさにいまである。めざめたたいしゅうほど、ちからづよいものはない。とう々とうとながれゆく、たいがのごとく、たいしゅうのこころはうごき、しんぐんはこっ々こくと、てんかいされているのである。
 げんざい、せんしょうぞうじょうまんの、しゅつげんがあることは、だいしょうにんのごきんげんのとおりであり、こうせんるふたっせいは、ぜったいであることを、かくしんするものである。

0749    だいじゅっ じさしきょうでんのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほけきょうをしょさしてよむと、ぼうすべしと、いうきょうもんなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あるいはあれんにゃに、のうえにして」と、せんしょうぞうじょうまんをあかしたもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんはさんるいのごうてきのなか、だいさんのせんしょうぞうじょうまんの、じゃそうをさしている。
 ごくらくじりょうかんがそれである。せけんのひとはろくじんずうをえた、あらかんのように、そのじゃそうをそんけいしているのである。

 げんざいでいえば、じゃしゅうみのぶはにちれんしゅうとうが、みずからのしゅうはのひをかくすため、さんだいひほうしょうを、ぎしょあつかいにしたり、あるいは、おんぎくでん、ほんにんみょうしょう、ひゃくろくかしょうとうを、こうせいのぎさくであるなどというのは、まさにこのもんにあたるのである。
 にっこうしょうにんの、ゆいかいおきぶみには「いち、ごしょ、いずれもぎしょにぎし、とうもんりゅうをきぼうせんもの、これあるべし、もし、かようのあくりょしゅつたいせば、しんごんすべからざるじ」1617-07とある。
 さらに、ほんもんかいだんの、ごほんぞんにたいするぎなんなどは、そのさいたるものであろう。

0749    だい11 いししょきょうごんにょとうかいぜぶつのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほけきょうのぎょうじゃをあなづり、しょうぶつというべしというきょうもんなり、これはけいしんをもってそしるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものをいうべきなり。
 かんじほんの、「これにかろしめて、なんだちは、みなこれ、ほとけなりといわれん」と。ほけきょうのぎょうじゃがうけるなんのひとつを、しめしたもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほけきょうのぎょうじゃをけいべつして、しょうぶつとよぶであろうというきょうもんである。これはけいべつするこころで、ひぼうするのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、もんかの、なんみょうほうれんげきょうととなえるものが、このようにいわれているのである。

 かいしゃくこうぎ。
ほけきょうのぎょうじゃをあなづり、しょうぶつというべし。
 なんみょうほうれんげきょうのみ、ぜったいなりとかくしんもち、しゃくぶくにはげむと、かれらほうぼうのやからは、かならず、ひにくなけいべつのねんをもって、しょうぶつなどとよんで、そしるであろうということである。
しかし、あくまでたえ、みょうほうるふにまいしんせよとのしどうであられる。よく、しゃくぶくにあたり、そんなすごいしゅうきょうなら、すぐあめをふらしてみろ、すぐびょうきをなおしてみろ、たからくじをあててみろと、あざけられることもどういである。
 ほっけしょしんじょうぶつしょうには、「そのうえ、かんじほんには、ほけきょうのてきじん、さんるいをあげられたるに、いちには、ざいけのぞくなん、ぞくにょなり、このぞくなん、ぞくにょはほけきょうのぎょうじゃをにくみ ののしりうちはり、きりころし、ところをおひだしい、あるいは、かみへざんそうしておんるし、なさけなく、あだむものなり。
 にには、しゅっけのひとなり、このひとは、まんしんたかくして、ないしんには、ものもしらざれども、ちしゃげにもてなして、せけんのひとに、がくしょうとおもはれて、ほけきょうのぎょうじゃをみては、うらみそねみかろしめ、いやしみ、いぬやかんよりも、わろきようを、ひとにいいうとめ、ほけきょうをば、われひとり、こころうたりとおもうものなり。
 さんには、あれんにゃのそうなり、このそうは、きわめてとうときそうをかたちにあらわし、さんね、いっぱちをたいして、さんりんの、しずかなるところにこもりいて、ざいせのらかんのごとく、しょにんにとうとまれ、ほとけのごとくばんにんにあおがれて、ほけきょうをせつのごとくに、よみたもちたてまつらんそうをみては、にくみそねんでいわく、たいぐち、だいじゃけんのものなり、すべて、じひなきもの、げどうのほうをとくなんどいわん、かみいちにんより、あおいでしんをとらせたまはば、そのいか、ばんにんもほとけのごとくに、くようをなすべし、ほけきょうを、せつのごとくよみたもたんひとは、かならずこのさんるいのてきじんに、あだまるべきなりと、ことけときたまへり」(0556-06)ともうされている。

0749    だい12 あっきにゅうごしんのこと。

 おんぎくでんにいわく、あっきとは、ほうねん、こうぼうとうこれなり、いりごしんとはこくおう、だいじん、ばんみんとうのことなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものを、うらむべしということなり、おにとは、いのちをうばうものにして、だつくしゃというなり、ほけきょうはさんぜしょぶつのみょうこんなり、このきょうはいっさいしょぼさつのくどくを、おさめたるみきょうなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あっき、そのみにはいりて、われをめりきにくせん」と、まっぽうのなんを、あげたもんについての、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである。
 あっきとはほうねん、こうぼうのじゃしゅうのそうをいうのである。あっきがそのみにはいる、そのみとは、こくおう、だいじん、ばんみんなどをいう。そしてこれらのひと々びとが、にちれんだいしょうにん、およびもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえるのを、おんしつするのである。おにとはいのちをうばうもので、だつくどくじゃとやくすのである。ほけきょう、なんみょうほうれんげきょうは、さんぜのいっさいの、ほとけのいのちのこんぽんである。このなんみょうほうれんげきょうには、いっさいのぼさつの、くどくがおさまっているのである。あっきは、そのせいめいを、むしばまんとするのである。

 あっきとは、じゃしゅうきょう、あくしそうをいう。このだんは、これらのおそろしさをとかれているのである。
 しそうほど、つよいものはない。またしそうほど、こわいものもない。しゅうきょうほど、ちからあるものはない。また、しゅうきょうほど、おそろしいものもない。ざんねんなことに、いっぱんのひと々びとは、このがいどくのおそろしさをしらない。まなこにみえず、てにふれることができないゆえに、きにとめないのもむりもなかろう。
 しかし、じゃしゅうきょう、あくしそうは、しらずしらずのうちに、ひとのせいめいをむしばみ、せいめいりょくをうばってゆくあへんのごときものである。はじめはきづかず、きがついたときには、すでにおそく、どうしょうもないじょうたいになっているものである。ガンのごとく、でんせんびょうのごとく、あくえいきょうをおよぼしながら、あらゆるひとのこうふくをむしばんでゆくものである。じつに、おそるべきは、あくしそうであり、じゃしゅうきょうである。
 ときどのごしょには「ちしゃはおんけ、へび、かどく、いんだら、へきれき、とうじょうもろもろのあくじゅう、ころう、ししとうをおそるべからず、それはただよくいのちをだんじてひとをしておそるべきあびごくにはいらしむ」(0969-06)と。
 さんぜつうぎょうの、ごほんぶつのごしょうごんをば、いちにちもすみやかに、かつ、おおくのひとたちにしらしめていきたいものである。

0749    だい13 たんしゃくむじょうどうのこと。

 おんぎくでんにいわく、むじょうどうとはなんみょうほうれんげきょうこれなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうをむおしことは、みょうこんよりも、きおしことなり、これによつてむすぶところに、ほとけ、じちがしんととかれたり、ほけきょうのぎょうじゃのしんちゅうをば、きょうしゅしゃくそんのごぞんじあるべきなり、ほとけとは、しゃくそんがしんとはいま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものなり。

かいしゃくこうぎ。
 かんじほんに、「あっきそのみにはいりて、われを、めりきにくせん」と、まっぽうのなんをあげたもんについての、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである。あっきとはほうねん、こうぼうのじゃしゅうの、そうをいうのである。あっきがそのみにはいる、そのみとは、こくおう、だいじん、ばんみんなどをいう。そして、これらのひと々びとが、にちれんだいしょうにんおよび、もんかがなんみょうほうれんげきょうととなえるのを、おんしつするのである。おにとは、いのちをうばうもので、だつくどくものとやくすのである。ほけきょう、なんみょうほうれんげきょうは、さんぜのいっさいの、ほとけのいのちのこんぽんである。このなんみょうほうれんげきょうには、いっさいのぼさつのくどくが、おさまっているのである。あっきは、そのせいめいを、むしばまんとするのである。

 むじょうどうとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。すなわち、さんだいひほうのごほんぞんのことである。たのいっさいの、じっぽうみじんのきょう々きょう、しそうてつがくは、うじょうどうなのである。むじょうどうをしんじんにやくせば、さいこうのこうふくせいかつのこととなる。けっきょく、だいぜんせいかつをさす。

いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうをむおしことはみょうこんよりもきおしことなり。
 たとえば、しょうがつに、こどもがおとしだまをもらったとする。こどもにとっては、だいじなおかねである。ひゃくまんえんのこぎってより、たいせつにしがみつくものである。これ「みょうこんよりもおしきことなり」のすがたとなろう。おとしだまが、こどもにとってのむじょうどうとなる。かいしゃのしゃちょうが、しょうがいかけて、だいがいしゃをつくりあげた。そのしゃを、ぜんたましいかたむけて、ゆずりたたかう。これとおなじく「みょうこんよりおしきことなり」に、つうずるところである。しかしみょうほうにひかくすれば、じぶんなりにむじょうどうとおもいこんでいるに、すぎないわけだ。
 またそうりだいじんは、じぶんのちいをむじょうどうとおもっていることだろう。たしかに、くかいぎいん、とかいぎいん、こっかいぎいんからみれば、そうもいえよう。そしてじこのけんりょくに、いのちがけでしがみついてく。このけんりょくのざをおしむこと「みょうこんよりもおしきこと」なのである。
 しかし、そうりだいじんたりとも、えいえんふめつのだいてつりを、こんていにせざるかぎり、みんしゅうのこんぽんてききゅうさいはありえない。ゆえに、ごほんぞんをこんぽんとしてみれば、それもうじょうどうである。しょせん、ひとともに、ごほんぶつにちれんだいしょうにんと、はちまんほうぞうのごくりたるいちだいひほうのごほんぞんにきすうするのである。
 「みょうこんよりもおしきことなり」のごきんげんのごとく、みょうほうをけんじし、みょうほうるふにかつやくするひとこそ、ごほんぞんにきょうちみょうごうした、むじょうどうのじんせいといえるのである。

これによつて、むすぶところに、ほとけじちがしんと、とかれたり。
 じょうぶつは、とおくになく、なんじじしんのないおうにあるを、あかされたもんである。「ほとけみずから、わがこころをしれり」とせんぜつされたごとく、じぶんじしんの、せいめいにやくどうするものである。しして、てんごくに、ゆくのでもけっしてない。せいほうじゅうまんおくどに、こうふくがあるのでもない。きょうさんかくめいがじょうじゅしてから、こうふくになるものでもない。しんじんそくにんげんかくめいであり、つねじゃっこうどにしてゆくのが、だいてつりのげんりなのである。これほど、かんたんにして、げんじつてきであるだいてつりが、いずこにあるであろうか。
ほけきょうのぎょうじゃのしんちゅうをばきょうしゅしゃくそんのごぞんじあるべきなり。
 「きょうしゅしゃくそん」とは、にちれんだいしょうにんのおんことである。ほけきょうのぎょうじゃとは、べっしては、とうぜん、まっぽうのごほんぶつ、にちれんだいしょうにんであられる。そうじては、しんぎょうがくにはげみゆくわれらもまた、ほけきょうのぎょうじゃと、じかくしてよいのである。ここは、ぼんぷのわれわれじしんが、にちれんだいしょうにんのおこころにかない、ほとけのとうたいとあらわれるとの、おおせなのである。
 したがって、いちおう、りじょうでは、だいしょうにんとおなじ、じっかいさんぜんのせいめいである。さいおうは、とうたいぎしょうによれば、「しょせん、みょうほうれんげのとうたいとは、ほけきょうをしんずる、にちれんがでしだんなとうの、ふぼしょしょうの、にくしんこれなり、しょうじきにほうべんをすて、ただ、ほけきょうをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなうるひとは、ぼんのうごう、くのさんどう、ほっしん、はんにゃ、げだつのさんとくとてんじて、さんかん、さんたい、そくいっしんにあらわれ、そのひとのしょじゅうのところは、じょうじゃっこうどなり、のうごしょご、しんど、しきしん、くたいくゆう、むささんじんのほんもんじゅりょうの、とうたいれんげのほとけとは、にちれんがでし、だんなとうのなかのことなり」(0512-09)とのべられている。このおんふみのごとく、しんじんあるひとこそ、ほとけのしょさにかわってくるとのおおせである。
 とだじょうせいぜんかいちょうも、「しんじんごうじょうなるものは、にちれんだいしょうにんのおんちが、わがせいめいにわいてくるのだ、しょうじょうな、たくましき、ひとをすくおうとするじひが、そして、じんせいをゆう々ゆうといききっていけるちからが、これこそ、けちみゃくをうけているのだ」と、まことに、もったいないかぎりである。われらは、だいほうおうたる、にちれんだいしょうにんのこどもとして、でしとして、めいよと、きんどとをもって、ぜんしんしていきたいものである。

  • [241]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな  だいばだったほんはちかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 7月 9日(日)10時43分56秒
  • 編集済
 
0744~0747 だいばだったほんはちかのだいじ。
0744    だいいち だいばだったのこと。
0744    だいに にゃくふいが とういせんぜつのこと。
0744    だいさん さいかぎっすい、じゅうしんせつじきのこと。
0745    だいよん じょうぞんみょうほうこ、しんじんむけげんのこと。
0745    だいご がおかいちゅう、ゆいじょうせんぜつのこと。
0745    だいろく ねんしはちさいのこと。
0746    だいなな ごんろんみこつのこと。
0747    だいはち ういちほうじゅのこと。


0744~0747 だいばだったほん、はちかのだいじ。
0744    だいいち だいばだったのこと。
 もんぐのはちにいわく、ほんちは、しょうりょうにして、しゃくにてんねつをしめすと。
 おんぎくでんにいわく、だいばとはほんちは、もんじゅなり、ほんちしょうりょうというなり、しゃくにはだいばというなり、てんねつをしめすこれなり、しょうりょうはみずなり、これは、しょうじそくねはんなり、てんねつはひなり、これはぼんのうそくぼだいなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるに、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんなり、だいばは、みょうほうれんげきょうのべつめいなり、かこのときに、あしせんにんなり、あしせんにんとはみょうほうのいみょうなり。あとはむのぎなり、わたしなきのほうとは、みょうほうなり、もんぐのはちにいわく、むしほうをもって、しゅじょうにそそぐといえり、あしせんにんとは、ほうかいさんぜんのべつめいなり、ゆえに、わたしなきなり、いちねんさんぜん、これをおもうべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ごぎゃくざいをおかした、あくぎゃくのだいばだったについて、もんぐのはちには、じつは、このようなあくぎゃくのだいばも、ほんちはしょうりょうなのであって、しゃくにてんねつをしめす。すなわちてんにねつのうをなまぜしめるような、あくにんのすがたをしめしたのである。といっている。
 これについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいばだったのほんちは、もんじゅなのである。したがって、もんぐのはちには「ほんちしょうりょう」というのである。ほんちはこのように、しょうりょうであって、すいじゃくとして、あくぎゃくのだいばのすがたをとったのである。したがって、「てんねつをしめす」というのである。しょうりょうは、みずについて、いうのであり、みずはしょうじをあらわし、それがしょうりょうなのであるから、しょうじそくねはんを、あらわすのである。てんねつとは、ぼんのうのひであり、そのてんねつの、だいばがじゅきをこうむるのであるから、ぼんのうそくぼだいをあらわすのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんとひらいて、いくことになるのである。
 あくぎゃくのだいばだったも、じつは、みょうほうれんげきょうのべつめいなのである。きょうもんには、かこにだいばは、あしせんにんであったことが、とかれている。このあしせんにんとはなにか。これこそ、じつにみょうほうのいみょうなのである。あしせんにんのあとは、むのぎであり、むし わたしなきほうとは、みょうほうなのである。みょうらくのほっけもんぐきのはちには、「むしほうをもってしゅじょうにそそぐ」とあり、このむしほうは、みょうほうをさしていることは、あきらかである。このようにみていけば、あしせんにんとは、ほうかいさんぜんのべつめいであり、しんらばんしょう、じっかいさんぜん、ことごとく、あしせんにんなのである。したがって、わたしなく、びょうどうだいえなのである。いちねんさんぜんこそ、じつにわたしなきほうである。これをよくよくかんがえなさい。

 だいばだったのじょうぶつは、ぜんあくふに、じゃしょうふに、じゃしょういちにょのげんりを、しめしたものである。しゃくそんを、しゅくせのかたきとまでにくみ、あらゆるはかりごとをめぐらし、しにおいやることいくど、そのだいばだったに、しゃくそんは、てんのうにょらいの、きべつをあたえたのであった。
 しかも、ほけきょうだいばほんにとくところによれば、だいばは、むりょうこうのむかし、あしせんにんというせんにんであって、ほけきょうを、たもっていたとある。そのとき、しゃくそんは、こくおうであって、このあしせんにんに、つかえたのである。
 じつにふしぎなことである。いままで、ごぎゃくざいとひぼうしょうほうのものは、えいきゅうにむげんじごくの、ほのおにむせび、ぜったいにすくわれないものとされていた。だいばだったは、ごぎゃくざいはおろか、しょうがいかけて、しゃくそんをののしり、はくがいし、しょうほうをひぼうしたのである。その、だいばだったが、かこにあしせんにんという、ほけきょうのぎょうじゃにあったということ、かつ、じょうぶつのきをあたえられるということは、りょうぜんいちえの、たいしゅうにとっては、おどろきであり、それまでの、めいもうをいちじに、たたきやぶられたかんが、あったことであろう。
 かこに、あしせんにんという、ほけきょうのぎょうじゃであったのが、なぜ、だいばだったのすがたをとり、むげんじごくにおちたかは、ひとつには、ごういんごうがのりを、しゅじょうにしめさんがためであり、ふたつには、しゃくそんのだいぜんを、いよいよ、さかんならしめようと、したためである。
 だいいちの、ごういんごうがのりについては、おんしのいわく、「さいおう、このもんだいをかんがえるときには、しゃくそんにしても、だいしょうにんにしても、およそ、ぶっぽうをとかれるにあたっては、ぜんせのごういんが、こんぜのごうがとあらわれることを、かくしんしているのである。また、それは、せいめいのてつりなのである。げんだいのひと々びとは、かこにいき、げんざいもいき、みらいもまた、せいめいかつどうをなすのであるということを、なかなかしんずるものがすくない。
 しかし、われわれはみな、かこせのごういんをもってげんせに、うまれてきているのである。されば、あしせんにんが、だいばだったとうまれてきて、しゃくそんのぶっぽうをたすけ、ごういんごうがのしゅじょうに、しめしたことはとうぜんのことである。かこのししょうが、こんぜのでしとなって、あらわれたのである」と。しゃくそんとだいばだったのかんけいは、こんぜだけではなく、かこおんのんごうよりの、かんけいである。あるときはしとなり、またあるときは、あくにんのすがたをとって、せっぽうをたすけるなどと、れんぞくしゆくものであることが、あかされているのである。

 だいにに、しゃくそんのだいぜんを、いよいよ、さかんならしめるためとは、およそ、あくがなければ、ぜんをあらわすことは、できない。ゆえににぜんきょうでは、「あくがなければ、もって、けんぜんをあらわすことができない。このゆえに、だいばだったはむすうこういらい、つねにしゃくそんとともにあって、しゃくそんはぶつどうをぎょうじ、だいばはひどうをぎょうじてきた。しこうして、たがいにけいはつしてきたものである」と。
 しかるに、たいあくけんぜんがおわれば、あくのぜんたいは、そくこれぜんである。ゆえに、ほけきょうではぜんあくふに、じゃしょういちにょ、ぎゃくそくぜじゅんとなるのである。このほうていしきは、にぜんきょうにはとかれなかった、おうていのぎである。
 ゆえに、ほけきょうで、だいばだったが、てんのうにょらいなりと、とかれたことは、ほけきょうのいだいさ、ふかさをしめすものである。かしゃくほうぼうめつざいしょうにいわく、「だいばだったはほとけのおんてき、よんじゅうよねんのきょうきょうにて、すてられ、りんじゅうわるくして、だいちやぶれてむげんじごくにいきしかども、ほけきょうにて、めしかえして、てんのうにょらいときせらる」(1131-16)と。しゅじゅおんふるまいごしょに、「しゃかにょらいのおんためには、だいばだったこそ、だいいちのぜんちしきなれ、いまのせけんをみるに、ひとをよくなすものは、かたうどよりも、ごうてきがひとをば、よくなしけるなり、げんぜんにみえたり、このかまくらのごいちもんのごはんじょうは、よしもりとおきほうおう、ましまさずんば、いかでか、にほんのあるじとなりたまうべき、されば、このひとびとは、このごいちもんのおんためには、だいいちのかたうどなり、にちれんが、ほとけにならんだいいちのかたうどは、かげのぶ、ほっしにはりょうかん、どうりゅう、どうあみだぶつと、へいのさえもんのじょう、こうどのましまさずんば、いかでかほけきょうのぎょうじゃとはなるべきと」(0917-05)と。
 また、だいばだったの、せいめいはだれにでもある。かって、とだかいちょうは、「だいばだったは、おとこのヤキモチ、りゅうにょは、おんなのヤキモチをあらわす」といわれた。げんざいのいっさいのひとびとは、みなことごとく、だいばだったである。しんにと、しっととくのう、はんもんのこころの、じゅうまんするよなれば、だが、ほけきょうによって、てんのうにょらいのきをうくるごとく、ごほんぞんのくりきにより、それらのだいばだったのせいめいも、そくてんのうにょらいとあらわれるのである。また、しゃくそんとだいばだったの、しれつなたたかいは、じつはいちこじんにしゅうやくされるのである。われわれの、ぶつどうしゅぎょうは、たえず、わがこしんのだいばだったとのたたかいである。また、そうかがっかいと、そのぜんしんをはばもうとする、やからとのたたかいをいみする。だが、ほとけのぐんはかならずかつ、まぐんはかならずやぶれる、げんりともはいせるのである。
わたしなきほうとはみょうほうなり。
 みょうほうは、ぜったいであるとのおんふみである。ごほんぞんには、へんぱがない。またあらゆる、うちゅうのしんらばんしょうを、いっぽうもかくるところなく、ぐびしている。いかにかたちのうえで、しんじんしているようにみえても、きょえいやけいしきで、ごほんぞんをごまかすことはできない。またしんじんにはんたいしたひとは、かならずばつがある。しんじんごうじょうなひとは、だいくどくをうける。また、あらゆるひとを、ことごとくすくいきっていく、ごほんぞんこそ、「わたしなきのほう」ではないか。

0744    だいに にゃくふいがとういせんぜつのこと。

おんぎくでんにいわく、みょうほうれんげきょうをせんぜつすることを、なんじはわれにたわがずして、せんぜつすべしということなり、にゃくのじはなんじなり、てんだいのいわく、「ほうをうけてぶぎょうす」と、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、にちれんにたがわずしてせんぜつすべきなり、あしせんにんとは、なんみょうほうれんげきょうなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
おうが、だいじょうのほうをもとめているのにたいし、あしせんにんが、「われ、だいじょうをたもてり。みょうほうれんげきょうとなづけたてまつる。もしわれに、たがわずんば、まさにために、せんぜつすべし」とのべられたところの、おんぎくでんです。
 このもんについて、つぎのようにおおせである「みょうほうれんげきょうを、せんぜつすることを、なんじはわれにたがわずして、せんぜつすべし」とよむべきなのである。にゃくのじは「もし」とよむのではなく、なんじと、よむべきなのである。
 てんだいのほっけもんぐのはちには、「ほうをうけて、ぶぎょうす」とあり、ほとけのおおせどおり、ほうをひろめるべきことが、しめされている。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかで、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、にちれんだいしょうにんに、たがわずに、そのままほうをひろめるべきである。あしせんにんとは、なんみょうほうれんげきょうのことなのである。

いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、にちれんにたがわずして、せんぜつすべきなり、このもんは、きわめてじゅうようである。にちれんだいしょうにんはしゅじゅおんふるまいごしょに、「かかるにちれんをもちいぬるとも、あしくうやまはば、くにほろぶべし」(0919-16)、しぼさつぞうりゅうしょうに、「わたしならざるほうもんを、びゃくあんせんひとは、ひとえにてんまはじゅんの、そのみにいりかわりて、ひとをして、じしんともにむげんだいじょうに、おつべきにてそうろう、つたなし、つたなし、このほうもんは、ねんらい、きへんにもうしふくめたるように、ひとびとにもひろうあるべきものなり、そうじて、にちれんがでしといつて、ほけきょうをしゅぎょうせんひとびとは、にちれんがごとくに、しそうらへ」(0989-09)とうとおおせられている。
 げんざい、なむみょうほうれんげきょうと、となえるしゅうきょうはかずおおくある。だが、ことごとく、にちれんだいしょうにんのおしえにそむき、だいほうぼうを、かさねているのである。まさに、ぼうこくのしゅうきょうであり、てんまはじゅんのすがたである。
 また、たとえそうかがっかいいんであっても、しんじんがなければ、「にちれんに、たがわずして」のごきんげんに、はんするものであり、けっしてくどくなく、いきづまり、あるいは、しゅくめいてんかんできえず、ふこうのちまたを、あいかわらず、さまようのである。
 また「せんぜつ」とは、しゃくぶくである。たとえみずからくちに、なんみょうほうれんげきょうととなえようとも、しゃくぶくがなければ、にょせつしゅぎょうのものとは、けっしていえない。しゃくぶくをしぬいていくものこそ、にちれんだいしょうにんの、おこころにかなうものであると、おおせられているのである。にょせつしゅぎょうしょうにいわく「ニワトリの、あかつきになくはゆうなり、よいになくはもっけなり、ごんじつぞうらんのとき、ほけきょうのおんてきをせめずして、さんりんにとじこもり、しょうじゅをしゅぎょうせんは、あに、ほけきょうしゅぎょうのときをうしなう、もっけにあらずや、さればまっぽう、いまのとき、ほけきょうのしゃくぶくのしゅぎょうをば、だれかきょうもんのごとく、ぎょうじたまへしぞ。だれひとにてもおわせ、しょきょうはむとくどう、だじごくのこんげん、ほけきょうひとり、じょうぶつのほうなりとこえもおしまず、よばはりたまいて、しょしゅうのにんぽうともに、しゃくぶくしてごらんぜよ。さんるいのごうてききたらんこと、うたがいなし」(0503-17)と。
 いま、そうかがっかいいんが、ぜんみんしゅうのこうふくのために、せかいへいわのために、まいしんしていることは、このもんを、みをもって、よんでいるすがたなのである。

0744    だいさん さいかぎゅうすいじゅう、しんせつじきのごと。
0745
 おんぎくでんにいわく、さいかとは、ちぼんのうなり、ぎゅうすいとは、とんぼんのうなり、じゅうしんとは、じんぼんのうなり。せつじきとは、まんぼんのうなり、このしたにはちしゅのきゅうじ、これれあり。このほかに、みょうほうれんげきょうのでんじゅ、これれなきなり。いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、すなわちせんさいきゅうじなり。これすなわち、いちねんさんぜんなり、とんじんちまんを、たいぢするなり。

かいしゃくこうぎ。
 しゃくそんが、かこせに、こくおうとなったとき、かんきゆやくして、あしせんにんにしじし、きゅうじをなし、「このみをとって、みずをくみ、たきぎをひろい、しょくをもうけた」という、きょうもんがある。
 このもんについて、おんぎくでんでは、つぎのようにおおせである。さいか、すなわち、「このみをとる」とは、とんじんちのしぼんのうのなかでは、ちぼんのうをあらわすのである。ぎゅうすい、すなわち、「みずをくむ」とは、とんぼんのうをあらわす。じゅうしん、すなわち、「たきぎをひろう」とは、じんぼんのうをあらわす。またせつじき、すなわち「しょくをくもう」とは、まんぼんのうをあらわすのである。
 しかして、このしたのもんには、はちしゅのきゅうじがとかれている。だいばほんには、しゃくそんがかこせに、あしせんにんについて、ほけきょうをでんじゅしたとき、このはちしゅの、きゅうじのほかの、しゅぎょうは、とかれて、いないのである。しょせん、いま、にちれんだいしょうにんおよび、だいしょうにんのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのは、すなわち、こくおうのあしせんにんにたいする、せんさいのあいだ、きゅうじにあたるのである。これすなわち、いちねんさんぜんであり、とんじんちのしぼんのうをたいぢする、こんぽんのしゅぎょうである。

 しゃくそんは、かって、かこせで、おくおうであった。そのとき、あしせんにんが、ほけきょうをすてるのをしって、こくいをすてて、あしせんにんのでしとなり、せんさいのあいだ、このみをとり、みずをくみ、たきぎをひろい、みをしょうざとなし、せんにんにつかえ、ほけきょうをしゅぎょうして、じょうぶつすることができたのである。これは、しゃかぶっぽうの、しゅぎょうほうほうである。にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、じゅじそくかんじんであり、ごほんぞんをたもつこと、それじたいが、せんさいきゅうじと、なっているのである。ゆえに、ほんぶんには、「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、すなわちせんさいきゅうじなり」としめされているのである。
 また、さいおうかんがえれば、ぶっぽうは、じょうずいきゅうじでなければ、わからないということである。けんりゅうしょういしょうにいわく、「いま、にちれんがでしとうも、またかくのごとし、あるいはしんじ、あるいはふし、あるいはしたがい、あるいはしたがう、ただだ、なのみこれをかりて、しんちゅうにまそざる、しんじんうすきものは、たといせんこうをばへずとも、あるいはいちむげん、あるいはにむげん、ないし、じゅうひゃくむげん、うたがいなからんものか、これをまぬがれんとほっせば、おのおの、やくおう、ぎょうぼうのごとく、ひじをやき、かわをはぎ、せつせんこくおうとうのごとく、みをなげ、こころをつかえよ、もし、しからずんば、ごたいをちになげ、ヘンしんにあせをながせ、もし、しからずんば、ちんぽうをもって、ぶつぜんにつめ、もししからずんば、ぬひとなつて、じしゃにえつかよ、もししからずんば、とううんぬん、ししつだんをもって、ときにかなうのみ、わがでしとうのなかにも、しんじん、うすきものは、りんじゅうのとき、あびごくのそうをげんずべし、そのとき、われをうらむべからず」(0537-13)と。
 いま、みんしゅうのこうふくをねがって、ほねをけずり、みのかわをはぐおもいで、にちやかつやくするわれわれ、そうかがっかいいんこそ、「せんさいきゅうじ」をしているのであり、じょうぶつはぜったいまちがいなしとだんずるものである。

0745    だいよん じょうぞんみょうほうこ しんしんむげけんのこと。

 おんぎくでんにいわく、しんしんのにじ、しきしんみょうほうとでんじゅするなり、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつりて、そくしんじょうぶつす、しんしんむけんとは、いちねんさんぜんなりうんぬん。

 かいしゃくこうぎ。
これはだいばほんに、「じょうにみょうほうを、ぞんせるがゆえに、しんしんげけんなかりき」、とあるところの、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである。しんしんのにじは、しきとしん、すなわちわれわれの、せいめいがそのまま、みょうほうのとうたいであるというのが、ほとけのでんじゅなのである。にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、なんみょうほうれんげきょうととなえて、そくしんじょうぶつするのである。しんしんげけんというのは、われわれが、いちねんさんぜんのとうたいであることをしめしている。

 しんしんとは、せいめいのことである。すなわち、さいこうのこうふくきょうがいである。「げけん」とは、くのうのせいかつのことである。かんきょうにながされ、しゅくめいになき、しゅくめいにくるしみゆく、ふこうなるせいめいかつどうである。
 「こころにみょうほうをぞんせるがゆえに」とは、ごほんぞんをたもつことである。みょうほうごじのじんせいは、かならずしゅくめいをだはし、そしてふくうんを、つみゆくことができる。じんせいこうろにあって、じざいのきょうがいをえとくすることが、できるのである。しんしんとは、しきしんとどういである。
 ゆえに、いかなる、にくたいてきくつう、せいしんてきはんもん、ことごとくかいしょうすることを、いみする。これこそ、われらの、いくせんまんのたいけん、たいとくが、にょじつにしょうみょうしているところである。
 なお、われわれは、つねになさねばならぬことが、たくさんある。しかし、しんじんがないと、あれもしなければならない、これもしなければいけないなどなどと、げんじつにたちふさがるさまざまなもんだいのじゅうあつに、たえかねてしまうものだ。よわよわしく、ひきさがるのか、あせりと、いらだちで、くのうするのがつねであろう。
 ぎゃくに、だいもくをとなえゆくひとは、みらいに、いかなるなんもんがよこたわっても、ゆうゆうとのりきってゆくちからがわく。げんじつのせいかつは、ひびにようようとあけゆき、たいようのごとく、いきづまるところをしらぬ。かくしんは、ばんじゃくのいわおのごとくである。しんきょうは、ゆたかでうるおいのあること、でんえんのごとくである。あらゆるはらんも、へんどくいやくして、それがすべて、そのひとのじんせいをかざりゆくものとなってしまうのである。
 「しんしんむけげん」とは、せいめいの、ぶぶんかんのみしかとかぬほう、てつがくしそうにたいし、いちねんさんぜんのほうもんは、ゆうずうむけげんの、てつりであることをあらわしている。いちねんさんぜんこそ、せいめいをかんぜんにとききった、だいてつりなるがゆえに、しんしんむけげんなのである。
 いちだいせいきょうたいいに、「しかんのごにいわく、『それいっしんにじゅっほうかいをぐす、いっほうかいにまたじゅっほうかいをぐすればひゃくほうかいなり、いちかいにさんじゅうしゅのせけんをぐすれば、ひゃくほうかいには、すなわちさんぜんしゅのせけんをぐす、このさんぜん、いちねんのこころにあり』もん、みょうらくうけ、しゃくしていわく、『まさにしるべし、しんどいちねんのさんぜんなり、ゆえにじょうどうのとき、このほんりにかなつて、いっしんいちねんほうかいにあまねし』」0402-08と。
 しんしんむけげんのしんしんとは、いちねんさんぜんのいちねんであり、みょうらくのいう、「いっしんいちねん」にあたる。むけげんとは、さんぜんのへんかであり、みょうらくのいう「ほうかいにあまねねし」に、あたるのである。ゆえに、しんしんむげとは、いちねんさんぜんなのである。

0745    だいご がおかいちゅう ゆいじょうせんぜつのこと。

 おんぎくでんにいわく、がとは、もんじゅなり。かいとはしょうじのうみなり、ゆいとはゆいう、いちじょうほうなり。つねとは、じょうじゅうしせっぽうなり。みょうほうれんげきょうとは、ほうかいのごんごおんじょうなり。いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるこれなり、しょうじのうみ、そくしんにょのたいかいなり、がとはほうかいの、ちえなり、もんじゅなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 これは、だいばほんに、「もんじゅしりのいわく、われ、かいちゅうにおいて、ただ、つねにみょうほうれんげきょうをせんぜつす」、とあるところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「が」とは、もんじゅしりぼさつのことである。うみでとくというのは、そのうみは、しょうじのくるしみの、うみである。きゅうかいでといたと、いうことである。「ゆい」とは、ほうべんぽんに、「ゆい、いちじょうのほうのみあり」とあるように、ほけきょうのみということである。
 「つねに」とは、じゅりょうほんに、「つねに、ここにじゅうして、ほうをとく」と、あるとうりに、しゃばせかいにじゅうして、とくということである。みょうほうれんげきょうとは、ほうかい、すなわち、うちゅうのしんらばんしょうのごんごおんじょうが、すべて、みょうほうれんげきょうのはたらきであることを、さすのである。いま、にちれんだいしょうにんおよびもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのが、これである。
 そのときには、しょうじのくるしみのうみが、そく、さとりのうみ、すなわち、ぶっかいとなるのである。がとは、ぜんうちゅうのもつちえであり、したがって、ちえだいいちのもんじゅが、それをだいひょうしているのである。

 しょうじのたいかいが、しんにょのたいかいとてんずるほうは、ただ、ごほんぞんに、みょうほうをとなえ、ちえをゆげんするいがいに、ないことを、しめされたおんふみである。
 われわれのじんせいを、しょうじのくかいにするも、しんにょのたいかいとするのも、わがいちねんに、きけつされてしまうものだ。
 しんじんごうじょうなれば、しんにょのたいかいにゆうげできるし、しんじんなきひとは、しょうじのくかいに、しずむいがいになく、きびしき、いんがりつともいえよう。われらの、しゅんかんしゅんかんのかつどうは、ぜんぶ、じしんのちえのはたらきがきめる。
 しかし、それが、じゃち、せんち、じごくかいのちえ、がきかい、ちくしょうかいのちえ、しゅらかいのちえのばあいがおおい。ここに、ふこうをまねくだいいちぽがあることをしらねばならない。
 げんこんの、たすうのひとのちえは、じゃちであり、しあくどう、ごどう、ろくどうのちえである。ゆえに、りこのひとのみじゅうまんし、じこのもくてきのためには、しゅだんをえらばず、そのためにのみ、えいりにちえを、はたらかすのである。
 せんそうのとき、てきがたの、たいりょうぎゃくさつのための、ちえは、じごくかいのちえといえる。はんたいに、しんじつこうふくのちえは、ぶっちである。いっしょうじょうぶつへのぜんしんは、とうぜんのことながら、ぜんじんるいを、すくいきっていくちえなのである。そして、このちえこそ、しんじんのにじにおさまることはいうまでもない。

0745    だいろく ねんしはちさいのこと。

 おんぎくでんにいわく、はちさいとは、はちかんなり、だいばはじごくかいなり、りゅうにょはぶっかいなり。しかるあいだ、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょいちねんさんぜんなり。またいわく、はちさいとは、ほけきょうはちかんなり、われら、はっくのぼんのうなり、そうじて、ほけきょうのじょうぶつは、はちさいなりとこころうべし。
はっくそくはちかんなり。はっくはちかん、そくはちさいのりゅうにょとあらわるるなり。いちぎにいわく、はちさいのことは、たまをひらくとよむなり、さいとは、りゅうにょのいっしんなり、はちとはさんぜんなり、さんぜんとはほっけのはちかんなり。よつて、はちさいとは、かいぶつちけんの、しょひょうなり、ちえりこんより、のうしぼだいまで、ほっけにきにゅうするなり。このなかに、しんねんくえんとは、くごうなり、しいわがとは、いごうなり、しつのうじゅじ、じんにゅうぜんじょうとは、しんごうなり。さんごうそくさんとくなれば、さんたいほっしょうなり。またいわく、しんねんとは、いちねんなり。くえんとは、さんぜんなり、しつのうじゅじとは、りゅうにょ、ほけきょうじゅじのもんなり。さいとは、にょいほうじゅなり、みょうほうなり、はちとはしきしんを、みょうほうとひらくなり。

かいしゃくこうぎ。
 これだいばほんに、「しゃからりゅうおうの、むすめあり、としはじめて、はちさいなり」とあるところの、おんぎくでんである。
 このもんについて、つぎのようにおおせである。りゅうにょがはちさいであるということは、すなわちほけきょうのはちかんをいみする。だいばだったは、じごくかいであり、りゅうにょはじょうぶつしているゆえに、ぶっかいなのである。
 ゆえにじっかいごぐとなり、したがって、ひゃっかいせんにょいちねんさんぜんをあらわしているのである。また、はちさいとは、ほけきょうはちかんであり、われわれのはっくのぼんのうである。そうじて、ほけきょうのじょうぶつは、はちさいであるとこころうべきである。はっくのぼんのうが、そくほけきょうはちかんであり、はっくはちかんが、そくはちさいのりゅうにょと、あらわれているのである。
 いちぎには、はちさいはたまを、ひらくとよむ。さいとは、たまのぎで、りゅうにょのいちねん、せいめいであり、はちとは、ひらくのぎで、そのいちねんが、さんぜんとひらくのである。さんぜんとは、ほけきょうのはちかんである。ゆえに、はちさいとは、ほうべんぽんに、「かいぶつちけん」とあるように、ぶつちけんをひらいて、あらわすところのものである。
 「ちえりこん」から、「のうおうぼだい」に、いたるまでのもんは、すべて、りゅうにょが、ほけきょうにきにゅうしたことを、ときあかしているのである。「じんにおもい、くちにのぶる」とは、しんくいさんごうにやくせばぐごうである。
 「しいわが」とは、いごうになり、「ことごとく、よくじゅじし、ふかく、ぜんじょうにはいって」とは、じっせんかつどうであり、しんごうである。しんくいのさんごうは、そく、ほっしん、はんにゃ、げだつとてんずるゆえに、さんたいがえんゆうして、さとりのきょうがいになるのである。また、じんねんくえんのしんねんとは、いちねんであり、くえんとは、さんぜんである。しつのうじゅじは、りゅうにょがほけきょうを、じゅじしたというもんである。さいとは、にょいほうじゅであり、みょうほうである。はちとは、われわれのせいめいを、みょうほうのとうたいであると、ひらきさとることである。

 だいばほんには、だいばだったの、じょうぶつのきとともに、りゅうにょのそくしんじょうぶつが、あげられている。りゅうにょといえばちくしんであり、にょにんのみである。それがそくしんじょうぶつするということは、それまでのにぜんきょうのかんがえかたとは、まったくあいはんするものである。
 ぶっぽうにおけるにぜんきょう、またげてんでは、てっていして、にょにんをきらっている。じゅきょうには、さんじゅうというものがある。それは、にょにんはしゅうざいのこんぽんであり、はこくのこんげんである。
 したがってにょにんを、ひょうめんにでさせてはいけないとし、にょにんはしたがわせるものとして、みっつのことをさだめたのである。すなわちいちは、ようにしては、ふぼにしたがう、にには、かしては、おっとにしたがう、さんには、おいては、こにしたがう、というものである。
 また、ぶっきょうにもごしょうというものがある。すなわち「いちには、ろくどうりんねのあいだ、だんしのごとく、だいぼんてんおうとならず、にには、たいしゃくとならず、さんには、まおうとならず、よんには、てんりんじょうおうとならず、ごには、つねにろくどうにとどまりて、さんがいをいでて、ほとけにならず、というのである。このごしょうさんじゅうといったかんがえかたが、どれだけじょせいのこころを、ひくつにさせ、またふこうを、うんだことか。
 また、さんこうていの、さんぷんごてんには、にょにんは、てんごくのものであると。あるいは、わざわいはさんにょよりおこるとうとも、いわれてきているのである。ぶっきょうにはいっても、けごんきょうには「にょにんは、じごくのつかいなり、よくしゅしをたつ、げめんはぼさつににて、ないしんはやしゃのごとし」、また「よくほとけのしゅしをたつ」とうとあり、また、ねはんきょうには、「いっさいのこうが、かならずかいきょくあり、いっさいのにょにん、かならずてんごくあり」、あるいは「しょゆうさんぜんかいのだんしの、もろもろのぼんのう、しゅうごうして、いちにんのごうしょうとなる」とうと、とかれているのである。
 またこんじきにょきょうというきょうもんには、「さんぜのしょぶつのまなこは、だいちにつおとも、にょにんはほとけになるべからず」ととかれ、だいろんには、「せいふうてんは、とるといえども、にょにんはとりがたし」とのべている。
 だが、ほけきょうでは、これらのもうしゅうを、ことごとくうちやぶったのである。
 りゅうにょのじょうぶつをきいて、あまりにもふしんにおもった、たほうぶつ、だいいちのでしである、ちしゃくぼさつ、しゃくそんのでしのなかで、ちえだいいちのでしである、しゃりほつも、りゅうにょがじょうぶつするなどということは、ぜったいにないと、40よねんのさまざまなきょうもんをひいて、なんもんするのである。
 だがりゅうにょのじょうぶつは、だいばほんに、めいめいはくはくであり、さすがのちしゃくも、しゃりほつもしたをまきくちをとじ、りょうぜんいちえのたいしゅうは、ほけきょうのいだいなるちからに、かんきのあまり、たなごころをあわせた、とある。
 かいもくしょうに、「りゅうにょがじょうぶつ、これいちにんにはあらず、いっさいのにょにんのじょうぶつをあらはす、ほっけいぜんの、もろもろのしょうじょうきょうには、にょにんのじょうぶつをゆるさず、もろもろのだいじょうきょうにはじょうぶつ、おうじょうをゆるすやうなれども、あるいは、かいてんのじょうぶつにして、いちねんさんぜんのじょうぶつにあらざれば、うみょうむじつのじょうぶつおうじょうなり、こいちれいしょともうして りゅうにょが、じょうぶつは、まつだいのにょにんのじょうぶつおうじょうのみちを、ふみあけたるなるべし」(0223-07)と。
 みんしゅしゅぎのこんぽんげんり、じつぎは、ぜったいに、だいびゃくほうにのみあると、しゅちょうするものである。へんぱなるしそう、ていきゅうなるてつがくは、かならず、なんらかのぎせいをともなうものである。ゆえに、みんしゅしゅぎのこんぽんてきりねんとは、いいきれないのである。
 せんご、みんしゅしゅぎは、じだいのだいめいしとされてきた。だんじょびょうどうも、おおいにさけばれている、これこそ、いだいなるじんるいのしんぽであり、りせいのしょうりである。
 だが、げんじつには、たんなるうみょうむじつとなり、そのほんしつは、しんけんにかいめいされぬまま、ながされている。いまだほうけんせいにしばられ、あるいは、かたちのみのじょせいかいほうに、しゅうししているといってもかごんではあるまい。
 しんのだんじょびょうどうは、だんじょともに、じんかくのかくりつをなしえて、はじめていいうる。したがって、だんじょびょうどうは、しんじつのにんげんけいせいの、こんぽんほうたる、にちれんだいしょうにんのぶっぽうを、どだいとしてせいりつすることを、きょうちょうしてやまない。
 あぶつぼうごしょに、「まっぽうにはいつて、ほけきょうをもつだんじょの、すがたよりほかには、ほうとうなきなり、もししかれば、きせんじょうげをえらばず、なんみょうほうれんげきょうと、となうるものは、わがみ、ほうとうにして、わがみ、また、たほうにょらいなり」(1304-06)と。ほうとうとは、そんごくなるせいめいの、とうたいである。ごほんぞんをこんぽんとしたときには、だんじょともに、そのみが、ほうとうとあらわれる。すなわち、だんじょともに、みょうほうのとうたいであり、びょうどうに、さいこうのこうふくきょうがいを、きょうじゅできるのである。
 しょほうじっそうしょうに、「まっぽうにして、みょうほうれんげきょうのごじをひろめんものは、だんじょは、きらふべからず、みな、ぢゆのぼさつのしゅつげんにあらずんば、となへがたきだいもくなり」(1360-08)と。
 だいしょうにんのぶっぽうを、ひろめるだんじょは、ともにぢゆのぼさつであり、くに、そくばくされない、じょうらくがじょうの、せいめいのとうたいであるとの、おおせである。しんじんによって、せいめいがしょうじょうとなり、じんせいかん、しゃかいかん、せかいかんのまなこがひらかれゆく、このしんのじがのかくりつである。そして、だんじょともにきょうりょくしあい、おぎないあい、それぞれのたちばで、こうふくになるじんせいを、あゆんでいくことこそ、しんのびょうどうであるとかくしんする。

0746    だいなな ごんろんみこつのこと。

 おんぎくでんにいわく、このもんは、むみょうそくほっしょうの、みょうもんなり、そのゆえは、ちしゃくなんもんのことば、いまだ、おらざるに、りゅうにょさんぎょうはんのげをもって、こたうるなり、なんもんのこころは、べつきょうのこころなり、むみょうなり。りゅうにょのこたえは、えんきょうのこころなり、ほっしょうなり、ちしゃくは、がんぽんのむみょうなり、りゅうにょはほっしょうのにょにんなり、よってむみょうにそくするほっしょう、ほっしょうにそくするむみょうなり。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、ごんろんみこつなり、ときとは、うえのことのすえずえのことの、はじめなり、ときとは、むみょうほっしょう、どうじのときなり、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときなり、ちしゃくぼさつを、がんぽんのむみょうということは、ふしんしにょの、ふしんのにじなり、ふしんとはぎわくなり、ぎわくを、こんぽんむみょうというなり。
 りゅうにょをほっしょうということは、がせんだいじょうきょうのもんなり、りゅうにょとは、りゅうはちちなり、にょははちさいのむすめなり、りゅうにょのにじは、ふしどうじのじょうぶつなり。そのゆえは、ときりゅうおう、にょのもんこれなり、すでにりゅうおうのむすめというあいだ、りゅうおうはちちなり、むすめとははちさいのこなり。
 されば、むすめのじょうぶつは、このほんにあり、ちちのりゅうのじょうぶつは、じょぼんにこれあり、うはちりゅうおうのもんこれなり、しかりといえども、ふしどうじのじょうぶつなり、じょぼんはいちきょうのじょなるゆえなり、また、もんじょうぼだいとは、りゅうにょがちしゃくをせめたることばなり、されば、ただ、わがじょうぶつをば、ほとけ、ごぞんじあるべしとて、また、もんじょうぼだい、ゆいぶつとうしょうちといえり、くのしゅじょうとは、べっして、にょにんのことなり。
 このさんぎょうはんのげは、いちねんさんぜんのほうもんなり、へんしょうおじっぽうとはじっかいなり、ことには、このはちさいのりゅうにょのじょうぶつは、ていおうじきょうのせんぞたり。にんおうのはじめは、じんむてんのうなり、じんむてんのうは、ちじんごだいの、だいごの、うかやふきあえずのみことのみこなり、この、ふきあえずのみことは、とよたまひめのこなり、このとよたまひめは、しゃからりゅうおうのむすめなり。 はちさいのりゅうにょのあねなり、さるあいだ、せんぞ、ほけきょうのぎょうじゃなり、じんじん、じんじんうんぬん。されば、このだいばのいちほんは、いってんのこしがたななり、むみょうぼんのうのてきをきり、しょうじあいちゃくのなわをきるひほうなり。かんこうさんしゃくのつるぎも、いちじのちけんにおよばざるなり、みょうのいちじのちけんをもって、しょうじぼんのうの、なわをきるなり。だいばは、ほのおをあらわし、りゅうにょはだいじゃをしめし、もんじゅはちけんをあらわすなり。よつて、ふどうみょうおうのそんぎょうと、くでんせり、だいばは、われらがぼんのうそくぼだいを、あらわすなり、りゅうにょは、しょうじそくねはんをあらわすなり、もんじゅをば、これには、みょうとくとほんずるなり、ぼんのうしょうじ、ぐそくして、とうほんののうけなり。747

かいしゃくこうぎ。
 だいばほんに、「げんろんいまだ、おわらざるときに、りゅうおうのむすめ、たちまちにみまえ、にげんじて」とあるもんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんは、むみょうそくほっしょうの、みょうもんである。なぜかならば、ちしゃくが、りゅうにょのじょうぶつを、うたがったといを、おえないうちに、りゅうにょが、さんぎょうはんのげをもって、こたえたので、そのちしゃくの、ひなんしたといは、そくしんじょうぶつ、にょにんじょうぶつをうたがうものであり、べつきょうの、こころをあらわし、むみょう、すなわちまよいである。
 りゅうにょのこたえは、そくしんじょうぶつ、にょにんじょうぶつをしめすもので、ほっけえんきょうのこころをあらわし、ほっしょう、すなわちさとりである。ちしゃくはみょうほうのちからを、しんずることのできないという、こんぽんのまよいであり、りゅうにょは、ぶっかいをしめした、にょにんである。よって、ちしゃくのといがおわらないうちに、りゅうにょがこたえたというのは、むみょうに、そくするほっしょうであり、ほっしょうにそくする、むみょうをあらわしたものである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかの、なんみょうほうれんげきょうと、となえるものは、ごんろんみこつのように、そくざに、むみょうそくほっしょう、すなわち、きゅうかいそくぶっかいなのである。
 げんろんいまだおわらざるとき」のときとは、うえのこと、すなわち、ちしゃくのといのおわりであり、すえのこと、すなわち、りゅうにょのこたえのはじめであって、ゆえにときとは、むみょうとほっしょうが、どうじであるというときを、しめすのである。すなわち、なんみょうほうれんげきょうととなえ、きゅうかいそくぶっかいとひらく、しゅんかんのときをさすのである。
 ちしゃくぼさつの、こんぽんのまよいというのは、「このむすめ、しゅゆのころにおいて、すなわち、しょうかくをじょうずることをしんぜじ」と、ちしゃくがいった。その「ふしん」をもって、いうのである。ふしんとは、うたがうということであり、うたがうということは、こんぽんのまよいなのである。りゅうにょが、さとりであるというのは、「われ、だいじょうのおしえをいひらて」と、いったもんによるのである。りゅうにょについて、いうならば、りゅうにょのちちは、しゃからりゅうおうであり、むすめとは、そのはちさいになるむすめである、りゅうにょである。りゅうにょのにじは、ふしどうじのじょうぶつをいうのである。そのゆえは、「ときにりゅうおうのむすめ」とあるもんが、それである。
 りゅうおうとはちちであり、むすめとははちさいのこである。ゆえにむすめのじょうぶつはこのだいばほんにとかれているのであり、ちちのりゅうおうのじょうぶつはじょぼんにあるのである。これはじょぼんに、「うはちりゅうおう」とあって、しゃからりゅうおうをふくめた、はちりゅうおうとうが、ほっけのえざにつらなっているからである。しかしふしどうじのじょうぶつである。じょぼんは、ほっけいちきょうのじょであるゆえである。
 「また、きいてぼだいを、じょうずること」とは、りゅうにょがちしゃくをせめたことばである。ゆえに、わがじょうぶつを、ほとけはしっているのであると、りゅうにょは、「また、きいてぼだいをじょうずること、ただほとけのみまさに、しょうちしたもうべし」といったのである。「くのしゅじょうを、どだっせん」といった、くのしゅじょうとは、べっしては、にょにんのことである。この、りゅうにょのさんぎょうはんのげは、いちねんさんぜんのほうもんをあらわしている。「あまねくじっぽうを、てらしたもう」は、じっかいをてらすことを、いうのである。
 ことに、このはちさいのりゅうにょのじょうぶつは、こっかのげんしゅ、しゅけんしゃが、ほけきょうをたもつ、せんれいである。にんおうのはじめは、じんむてんのうであり、じんむてんのうは、ちじんだいごだいの、うかやふきふきあえずみことのこである。このうかやふきふきあえずみことは、とよたまひめのこであり、とよたまひめは、しゃからりゅうおうのむすめであり、りゅうにょのあねである。ゆえににんおうのせんぞは、ほけきょうのぎょうじゃである。このことは、ふかいいぎがあるのである。ゆえに、このだいばほんは、いってんのこしがたななのである。むみょうやぼんのうという、てきをきり、しょうじのくるしみを、はなれられないなわをきる、ひほうなのである。かんのこうその、ぜつだいないりょくをしめした、さんじゃくのけんも、みょうのいちじのけんには、およばないのである。みょうのいちじのちけんで、しょうじのくるしみ、ぼんのうのまよいのなわを、きるのである。
 だいばはほのおをあらわし、りゅうにょはだいじゃをしめし、もんじゅは、ちけんをあらわすのであって、これは、ふどうみょうおうのそんぎょうを、かたちづくるのであるとの、くでんである。だいばは、われわれのぼんのうが、そくぼだいになることをあらわし、りゅうにょは、われわれのしょうじのくるしみが、そくねはん、じょうぶつのきょうがいになることを、あらわすのである。もんじゅとは、ぼんごで、みょうとくとほんやくするのであって、ぼんのうも、しょうじも、そのなかにぐしていて、このほんにおける、のうけのたちばである。

 げんろんみこつとは、むみょうそくほっしょうということである。そうかんもんしょうには、むみょうとほっしょうとのかんけいを、かがみにたとえて、つぎのようにといている。
 「わがこころのかがみと、ほとけのこころのかがみとは、ただいちきょうなりといえども、われらは、うらにむかつて、わがしょうのりをみず、ゆえにむみょうという、にょらいは、おもてにむかつて、わがしょうのりをみたまえり、ゆえにみょうとむみょうとは、そのたい、ただひとつなり、かがみはひとつのかがみなりといえども、むかいようによつて、みょうまいのさべつあり、かがみにうらありといえども、おもてのさわりとならず、ただ、むかいようによつて、とくしつのふたつあり、そうそくゆうずうして、いっぽうのにぎなり。
 けたのほうもんは、かがみのうらにむこうがごとく、じぎょうのかんじんは、かがみのめんにむこうがごとし、けたのときのかがみも、じぎょうのときのかがみも、わがしんしょうのかがみは ただひとつにして、かわることなし、かがみをそくしんにたとえ、おもてにむこうをば、じょうぶつにたとえ、うらにむこうをばしゅじょうにたとう、かがみにうらあるをば、しょうあくをだんぜざるに、たとえ、うらにむこうとき、おもてのとくなきをば、けたのくどくにたとうるなり、しゅじょうのぶっしょうのあらわれざるに、たとうるなり」(0570-05)
 むみょうとは、かがみのうらのごとく、それによって、じこをうつしだすことはできない。すなわち、わがみが、いちねんさんぜんのとうたいであるとは、じかくできない。したがって、むみょうをこんぽんとしたじんせいは、なんの、かっこたるししんもなく、くらきより、くらきにはいりゆく、まよいのじんせいである。ほっしょうとは、かがみのごとく、それによって、わがみは、いちねんさんぜんのとうたいであることが、うきぼりにされるのである。したがって、ほっしょうをこんぽんにすれば、ぶっかいにてらされ、いっさいをにょじつちけんし、ゆうゆうたる、じんせいをあゆむのである。
 むみょうと、ほっしょうは、かがみのうらとおもてのごとく、いったいふにであるが、ほっしょうが、かくされ、むみょうのみしはいするせいかつは、ふこうであり、ひあいである。だが「じぎょうのかんじんは、かがみのおもてにむかうがごとし」と、おおせのごとく、ごほんぞんをしんじて、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、むみょうは、そくほっしょうとてんじて、ほっしょうがこんていとなり、むみょうはめいふくし、こうふくきょうがいにじゅうすることが、できるのである。
 またむみょうそくほっしょうと、てんずるのは、われわれのしんじんの、いちねんのなかにあり、しゅんかんしゅんかんの、せいめいかつどうにあると、かくしんすべきである。それがまた、げんろんみこつなのである。ゆえに、ほんぶんには「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、ごんろんみこつなり、ときとは、うえのことのすえずえのことの、はじめなり、ときとは、むみょうほっしょうどうじのときなり、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときなり」と、おおせられているのである。
 しんじんをべつにして、いっぱんてきにみても、むみょうそくほっしょうに、つうずるすがたはある。たとえば、かがくのはってんなどは、たえず、むみょうそくほっしょうのれんぞくであった。あるかがくしゃが、じぶんのけんきゅうに、ぼっとうし、なんとかなっとくしたい、しんじじつをはっけんしたいとなやむ。このじょうたいは、むみょうである。だがあるしゅんかんに、はっけんできたばあい、そのしゅんかんは、むみょうそくほっしょうではないか。むみょうをほっしょうと、ひらいていくなかに、じんるいのしんぽがある。まよいからまよいへ それはしんぽではなく、たいほである。いちこじんにおいても、どうようである。むみょうを、そくほっしょうとひらいていくなかに、そのひとの、むげんのはってんがある。たえざるはってん、じこけいせい、そこには、たえざるよわきじこ、まよいのじことの、たたかいがある。だがだいもくをとなえないじんせいは、しょせん、むみょうにしはいされた、じんせいであり、じぶんでじぶんを、どうすることもできないのである。ただ、ごほんぞんをしんじ、だいもくをとなえたじんせいのみが、えいきゅうに、いきつまることなく、はってんがあり、みらいがあり、けんせつがあることを、しるべきである。


0747    だいはち ういちほうじゅのじ。

もんぐのはちにいわく、いちとはたまをけんじて、えんげをえることをあらわすと。
 おんぎくでんにいわく、いちとは、みょうほうれんげきょうなり、たからとはみょうほうのゆうなり、たまとはみょうほうのたいなり、みょうのゆえに、しんぼうなり、ほうのゆえにしきほうなり、しきほうはたまなり、しんぼうはたからなり、みょうほうとは、しきしんふになり、いちねんさんぜんをしょしひょうて、りゅうにょ、ほうじゅをたてまつるなり、しゃくにひょうとくえんげというは、いちねんさんぜんなり、りゅうにょが、てにたもてるときは、しょうとくのほうじゅなり、ほとけうけとりたまうときは、しゅうとくのほうじゅなり、なかにあるはしゅしょうふになり
 じんしつとは、とんごく、とんそく、とんしょうのほうもんなり、そくいしっとく、むじょうぶつどうなり、じんりきとは、かみはしんぼうなり、りきとはしきほうなり、かんがじょうぶつとは、しゃりほつ、りゅうにょが、じょうぶつとおもうが、ひがごとなり、わがじょうぶつぞとかんぜよと、せめたるなり、かんに、ろくそくかん、これれあり、ここ、もとのかんは、みょうじそくの、かんとこころうべきなり、そのゆえは、なんみょうほうれんげきょうと、きけるところを、いちねんざどうじょう、じょうぶつふこなりといえり、へんせいなんしとは、りゅうにょも、ほんち、なんみょうほうれんげきょうなり、そのこころ、きょうもんにふんみょうなり。

かいしゃくこうぎ。
 だいばほんに、「そのときにりゅうにょ、ひとつのほうじゅあり」うんぬんと、あるところの、おんぎくでんである。てんだいのもんぐのはちには、ひとつのほうじゅのいちとは、そのたまを、ほとけにけんじて、えんげをえることをあらわすと、といている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。いちとは、みょうほうれんげきょうである。ほうじゅのたからとは、たまのねうちをしめすゆえに、みょうほうのはたらきであり、ほうじゅのたまとは、みょうほうのたいそのものである。みょうのゆえに、しんぼうであり、ほうのゆえに、しきほうである。しきほうは、たまであり、しんぼうは、たからである。
 ゆえに、みょうほうは、しきしんふにを、しめすのである。いちねんさんぜんをあらわして、りゅうにょがほうじゅを、ほとけにたてまつるのである。もんぐのはちに、「えんげを、えることをあらわす」というのは、いちねんさんぜんのほうもんをいうのである。りゅうにょが、まだほうじゅを、てにたもつときは、しょうとく、すなわちわがせいめいに、ぐしているという、りのうえのほうじゅであり、ほとけが、それをうけたときは、しゅとく、すなわち、じっさいにせいめいのうえに、ぐげんしたじのうえの、ほうじゅである。
 そのなかに、しゅとくとしょうとくが、ふにである。すなわち、しゅしょうふにもんを、しめしているのである。りゅうにょが、ほとけにほうじゅをわたしたのを、しゃりほつが、「はなはだはやし」といったのは、じきたつしょうかん、そくしんじょうぶつのほうもんのことをいうのである。ほうとうほんに、「すなわちこれはやく、むじょうのぶつどうを、えたり」とあるのとおなじである。りゅうにょが、しゃりほつに、「なんじが、じんりきをもって、わがじょうぶつを、みよ」といった、じんりきとは、じんはしんぼうで、りきはしきほうである。
「わがじょうぶつをみよ」とは、しゃりほつが、そのじょうぶつが、りゅうにょのじょうぶつであるとおもうのは、まちがいであって、しゃりほつじしんの、じょうぶつであると、かんぜよとせめたことばである。かんに、ろくそくのかんがある。ここでのかんは、みょうじそくのくらいのかんである。そのゆえは、なんみょうほうれんげきょうときいたことが、すでに、もんぐのはちに、「いちねんに、どうじょうにざして、じょうぶつ、むなしからざるなり」とあるように、じょうぶつだからである。
 「りゅうにょの、こつねんのあいだに、へんじてなんしと、なって」とあるのは、りゅうにょも、そのほんちは、なんみょうほうれんげきょうであるということである。そのこころは、きょうもんにはっきりあらわれているのである。

 にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、とんごく、とんそく、とんしょうのほうもんである。すなわち、じきたつしょうかんの、ほうであり、そくしんじょうぶつのほうである。ほんにんみょうしょうに、「もんのそことは、くおんじつじょうのみょうじのみょうほうを、よぎょうにわたさず、じきたつのしょうかん、じぎょうのいちねんさんぜんの、なんみょうほうれんげきょうこれなり」(0877-04)と。じきたつしょうかんとはなにか。またとんごく、とんそく、とんしょうとはなにか。それはしんじんすれば、ただちにほとけであり、さいこうのこうふくきょうがいに、いたるということである。
 さいこうのぶっぽうは、しゅんかんのせいめいを、ときあかしている。しゃかぶっぽうのように、じかんてきけいかをおうものでもなければ、とおきかなたの、りそうきょうにこうふくをもとめるものでもない。
 じみょうほっけもんどうしょうに、「また、いのち、すでにいちねんにすぎざれば、ほとけはいちねんずいきの、くどくと、ときたまへり」(0466-14)と。
 また、むしもちごしょに、「いま、にほんこくのほけきょうを、かたきとしてわざわいを、せんりのそとよりまねきよせぬ、これをもつてをもうに、いままた、ほけきょうを、しんずるひとは、さいわいを、ばんりのそとよりあつむべし、かげはたいよりしょうずるもの、ほけきょうを、かたきとするひとのくには、たいに、かげのそうがごとく、わざわいきたるべし、ほけきょうをしんずるひとは、せんだんに、かをばしさのそなえたるがごとし」(1492-07)と。
 ごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなえるしゅんかんのせいめいに、あらゆるふくうん、くどくをしゅうせきできうるのである。
 ぎゃくにしんじんのないひとは、ただちにじごくなのである。だんだんとじごくにおちるのではない。たとえかたちはどうあろうと、せいめいのほんしつはすでにじごくである。なんと、せいめいのしゅんげんであり、ぶっぽうのきびしいことか。
 つぎに、「かんがじょうぶつとは、しゃりほつ、りゅうにょがじょうぶつとおもうが、ひがごとなり、わがじょうぶつぞとかんぜよと、せめたるなり」とは、りゅうにょのじょうぶつは、そく、しゃりほつのじょうぶつになるのであり、りゅうにょが、じょうぶつしなければ、しゃりほつとしても、じょうぶつできないとせめたことを、いみするということである。りゅうにょのじょうぶつは、こいちれいしょといって、あらゆる、しゅじょうをだいしひょうて、あげられたいちれいにすぎない。ぶっぽうには、れいがいがない。
 きょうに、「にゃくうもんぽうしゃ、むいちふじょうぶつ」と。「もしほうをきくことあらんものは」とは、ごほんぞんをしんずることである。「ひとりとして、じょうぶつせずということ、なけん」とは、ばんにんがひとりももれなく、じょうぶつできるということなのである。
 たとえ、いまはびんぼうであろうと、びょうしんであろうと、またふぐうのみであろうと、ひとたびごほんぞんをしんずるならば、すでにだいふくうんのもちぬしであり、ごねん、じゅうねん、にじゅうねんたったときには、そのしょうこは、れきぜんとしてくるのである。たねをまき、なえがしだいにせいちょうし、たいじゅになり、そらにそびえゆくがごとくに、これまっぽうのみょうえきである。


  • [240]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな ほうとうほん にじゅっかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月29日(木)02時01分2秒
 
  0739~0744 ほうとうほん にじゅっかのだいじ。

0739    だいいち ほうとうのこと。
0739    だいに うしっぽうのこと。
0740    だいさん しめんかいしゅつのこと。
0740    だいし しゅつだいおんじょうのこと。
0740    だいご けんだいほうとうじゅうざいくうじゅうのこと。
0740    だいろく こくみょうほうじょうひちゅううぶつ ごうわったほうのこと。
0740    だいなな おじっぽうこくど うせつほけきょうしょ がしとうみょう いちょうぜきょうこ ゆげんごぜん いさしょうみょう さんごんぜんざいのこと。
0741    だいはち なんざいほっぽうしゆいじょうげのこと  。
0741    だいきゅう かくさいほうけまんきくのこと。
0741    だいじゅう にょきやっけんやく かいだいじょうもんのこと。
0742    だい11 せつしょだいいしゅかいざいこくうのこと。
0742    だい12 ひにょだいふうすいしょうじゅしのこと。
0742    だい13 にゃくうのうじそくじぶっしんのこと。
0742    だい14 しきょうなんじのこと。
0742    だい15 がそっかんぎしょぶつやくねんのこと。
0743    だい16 どくじしきょうのこと。
0743    だい17 ぜしんぶっしのこと。
0743    だい18 ぜしょてんにんせけんしげんのこと。
0743    だい19 のうしゅゆせつのこと。
0743    だい20 しきょうなんじのこと。

0739~0744 ほうとうほん にじゅっかのだいじ。

    だいいちほうとうのこと。

 もんぐのはちにいわく、ぜんぶつ、すでにこし、こんぶつ、ならびにざす、とうぶつもまた、しかなりと。
おんぎくでんにいわく、たからとは、ごおんなり、とうとはわごうなり、ごおんわごうをもって、ほうとうというなり、このごおんわごうとは、みょうほうのごじなりとみる、これをけんとはいうなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、けんほうとうなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、「けんほうとう」というだいめいのごせつめいである。もんぐのはちに、「ぜんぶつであるたほうぶつはすでにおり、こんぶつであるしゃかぶつも、そこにならんですわった。とうぶつも、またそうである」ととかれている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。けんほうとうの「たから」とは、しきじゅそうぎょうしきのごおんである。けんほうとうの「とう」とは、わごうのぎである。このごおんがわごうしたすがたをもってほうとうというのである。そして、このごおんわごうは、みょうほうれんげきょうのごじであるとしんげする。これをけんほうとうの「けん」というのである。いま、にちれんだいしょうにんならびに、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつり、わがみ、そく、みょうほうごじの、とうたいであるとしんずるのは、けんほうとうである。

 ほうとうそくほんぞん、ほんぞんそく、わがとうたいのおんふみである。にちれんだいしょうにんの、かんじんよりはいするならば、ほうとうとは、さんだいひほうのごほんぞんである。そして、せいめいろん、およびしんじんのうえよりろんずれば、ほうとうは、われわれが、とうたいとなるのである。すなわち、ほうとうのたからとは、せいめいかつどうのしきじゅそうぎょうしきをいうのであり、とうとは、ちょうわ、わごうのことをしめされている。
 しょせん、わがいっしんの、とうたいをほうとうというのである。さどのあぶつぼうにたいし、にちれんだいしょうにんは、「いま、あぶつしょうにんのいっしんは、ちすいかふうくうのごだいなり、このごだいは、だいもくのごじなり、しかればあぶつぼうさながらほうとう、ほうとうさながらあぶつぼう、これよりほかの、さいかくむやくなり」(1034-09)とおおせられているのも、このもんのこころと、まったくおなじである。
 しかして、「ごおんわごうとは、みょうほうのごじなり」とは、われらがいっしんは、こうべはみょう、のどはほう、むねはれん、はらはげ、あしはきょうであるからである。すなわちおんぎくでん、ほうべんぽんだいさん、ゆいいいちだいじいんねんのことには、「われらがこうべはみょうなり、のどはほうなり、むねはれんなり、はらはげなり、あしはきょうなり、このごしゃくのしん、みょうほうれんげきょうのごじなり」(0716-07)とおおせである。
 さらに、さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅうには、みょうらくのぐけつのろくをひいて、
 「このみのなかに、つぶさに、てんちにならうことをしる、こうべのまどかなるは、てんにかたどり、あしのほうなるは、ちにかたどるとしり、みのうちのくうしゅなるは、すなわちこれ、こくうなり、はらのあたたかなるははるなつにのっとり、せのきつよはあきふゆにのっとり、よんたいは、よんじにのっとり、だいせつのじゅうにはじゅうにがつにのっとり、しょうせつのさんびゃくろくじゅうは、さんびゃくろくじゅうにちにのっとり、はなのいきのでいりは、さんたくけいこくのなかの、かぜにのっとり、くちのいきのでいりは、こくうのなかのかぜにのっとり、まなこはにちがつにのっとり、かいへいはちゅうやにのっとり、かみはせいしんにのっとり、まゆはほくとにのっとり、みゃくはこうがにのっとり、ほねはぎょくせきにのっとり、ひにくはちどにのっとり、けはそうりんにのっとり、ごぞうはてんにあつては、ごせいにのっとり、ちにあつてはごたけにのっとり、いん、ようにあつては、ごぎょうにのっとり、よにあつてはごじょうにのっとり、うちにあつてはごかみにのっとり、ぎょうをしゅうするにはごとくにのっとり、つみをおさむるにはごけいにのっとる。
 いいく、すみ、ギ、ヒ、ぐう、だいへき、《このごけいは、ひとをさまざまに、これをいたましむ、そのかず、さんぜんのばつあり、これをごけいという》、しゅりょうには、ごかんとなす、ごかんはしたの、だいはちのかんにはくぶつしをひくがごとし、いわく、こうぼうとうなり、てんにのぼつては、ごうんとのたまい、しけてごりゅうとなる、こころをしゅじゃくとなし、じんをげんぶとなし、きもをせいりゅうとなし、はいをびゃっことなし、ひをこうちんとなす」。
 またいわく「ごいん、ごみょう、りくげい、みなこれよりおこる、またまた、まさにないちのほうをしるべし、がくしんうちにだいおうとなつては、ひゃくえのうちにおり、いでては、すなわちごかんにじえいせらる、はいをば、しばとなし、きもをばしととなし、ひをばしくうとなし、ししをばみんしとなし、ひだりをば、しめいとなしみぎをば、しろくとなし、じんめいをしゅしす、ないし、ほぞをばたいいちくんとうとなすと、ぜんもんのなかにひろくそのそうをあかす」、いじょう。
 じんしんのほんたい、ことごとくけんすれば、かくのごとし、しかるに、このこんごうふえのみをもって、しょうめつむじょうのみなりとおもう、ひがおもいはたとえば、そうしゅうがゆめのちょうのごとしと、しゃくしたまえるなり、ごぎょうとは、ちすいふうくうなり、ごだいしゅともごおんとも、ごかいともごじょうとも、ごほうともごちとも、ごじともいう、ただいちぶつ、きょうきょうのいせつなり、ないてん、げてん、みょうもくのいみょうなり、こんきょうにこれをかいして、いっさいしゅじょうのしんちゅうのごぶっしょう、ごちのにょらいのしゅしととけり、これすなわち、みょうほうれんげきょうのごじなり、このごじをもって、じんしんのたいをつくるなり、ほんぬじょうじゅうなり、ほんかくのにょらいなり」(0567-06)と、おおせである。すなわちうちゅうそくわが、われそく、みょうほうれんげきょうのとうたいであるという、だいてつりをしめされたのである。
 こだいのてつじんソクラテスは、「なんじじしんをしれ」のめいくをのこした。しかし、「なんじじしん」にひょうげんされているないようは、あまりにもばくぜんとしたものである。むしろ、ソクラテスも、はあくすべきせいめいについては、そのへんりんだにも、しることができなかったといえる。ゆえに、こうふくのないようも、ついにこんにちになっても、けつろんされず、じんるいのへいわも、しょうらいされえないのである。
 しかし、にちれんだいしょうにんの、じのいちねんさんぜんのほうもんは、かくのごとく、てっていしたいちだいせいめいてつがくであり、そのきゅうきょくにおける、ぐたいてきごずけんこそ、さんだいひほうのごほんぞんなのである。しょせん、しんじんによって、じょうかされる、わがせいめいも、「なんじじしん」のせいめいも、いちねんさんぜんのとうたいであり、みょうほうれんげきょうのとうたいであって、そんごくむじょうのほとけのせいめいであることを、しるべきである。


0739    だいに うしっぽうのこと。

 おんぎくでんにいわく、しっぽうとは、もん、しん、かい、じょう、しん、しゃ、ざんなり、またいわく、ずじょうのななけつなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうは、うしっぽうのぎょうじゃなりうんぬん。0740

かいしゃくこうぎ。
けんほうとうほん、だいじゅういちのさいしょに、「そのときにぶつぜんに、しっぽうのとうあり」と、のべられている。これについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ななつのたからとは、もん、しん、かい、じょう、しん、しゃ、ざんのことで、ななしょうざいともいわれる。
 またしっぽうとは、ずじょうのななけつ、すなわちふたつのめ、ふたつのみみ、ふたつのはなのあな、ひとつのくちをいうのである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、しっぽうをゆうする、しんのほけきょうのぎょうじゃである。

 ほけきょうほうとうほんに、とかれたしっぽうのとうとは、もろもろのばんがいが、こん、ごん、るり、しゃこ、めのう、しんじゅ、まいえのしっぽうで、かざられた、うつくしいほうとうを、あらわしている。しかるに、にちれんだいしょうにんは、このしっぽうを、みょうほうをこんぽんとした、もん、しん、かい、じょう、しん、しゃ、ざんとけっじょうされて、そくしんじょうぶつ、にんげんかんせいの、じっせんげんりを、げんぜんとしめされたのである。
 「もん」とは、ただしいぶっぽうをきくことであり、きいてよく、ごほんぞんをしんじゅしていくのは、「しん」であり、ごほんぞんをじゅじして、しんくいのさんごうをもって、しょうほうをまもりきり、ひをふせぎあくをとめる、こんごうふえのかいを「かい」という。
 また「じょう」とは、ぜんじょうであり、みょうぜんである。しんじんしょうだいにより、あんしんりつめいのきょうがいをえとくできる、せいめいのことであり、「しん」とはだいもくをあげて、しゃくぶくをやりぬく、しょうじぎょうのことである。「しゃ」とは、ふじしゃくしんみょうであり、しんみょうをすてて、ぶっぽうを、もとめきることである。また、しんじんをつらぬいて、なおたれりとせず、さらに、こうじょうしていこうとするこころ、つねにはんせいしてぜんしんしていくこころは「ざん」である。
 また、しっぽうとは、ずじょうのななけつであるとおおせである。ふたつのめ、ふたつのみみ、ふたつのはな、ひとつのくちとあらわれている、ずじょうのななけつが、かんきょうやしゃかいにたいする、いっさいのアンテナとなり、せいかつにいろいろの、げんしょうをぐげんすることになるから、ななつのたからとなるのである。

0740    だいさん しめんかいすいのこと。

 もんぐのはちにいわく、しめんすいこうとは、したいのとうふう、しとくのこうをふくなりと。
 おんぎくでんにいわく、しめんとは、しょうろうびょうしなり、しそうをもって、われらがいっしんのとうを、しょうごんするなり、われらが、しょうろうびょうしに、ななんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、しかしながらしとくのこうをふくなり、なむとは、ぎょうはらみつ、みょうほうとは、がはらみつ、れんげとは、じょうはらみつ、きょうとは、じょうはらみつなり。

 ほうとうほんには、ほうとうのせつめいとして、「しめんにみな、たまらばつせんだんのこうをだして、せかいにじゅうまんせり」と、のべられている。ほっけもんぐのはちには、しめんにこうをいだすとは、したい、くたい、じったい、めったい、どうたい、すなわちくじっめつどうの、したいのとうふうによって、じょうらくがじょうの、しとくのこうがあらわれてくると、しゃくしている。
 したがって、したいのとうふう、すなわちぼんのう、しょうじも、ごほんぞんのちからによって、しとくのこう、すなわちぼだい、ねはんとあらわれてくるのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。すなわちしめんとは、しょうろうびょうしをさしていうのである。そのしょうろうびょうしのしそうとは、われわれのせいめいのじったいである。
 しかしながら、われわれがしょうろうびょうし、じんせいのくるしみにさいして、つねに、ななんみょうほうれんげきょうととなえていくならば、みょうほうにしょうごんされたせいめいとなり、じょうらくがじょうのしとくのこうを、ふくことになるのである。ななんみょうほうれんげきょうを、じょうらくがじょうのしとくのはらみつにあてはめれば、なむとはきみょうであり、ごほんぞんにいのちをささげることであって、さいこうのぎょうはらみつである。みょうほうとは、だいうちゅうそれじたいである。したがってわれはらみつである。
 れんげというのは、「にょれんげざいすい」といわれるように、「しょうじょう」といことをあらわすのであるから、じょうはらみつである。またきょうとは、「さんぜじょうごうなるをきょうという」のであるから、じょうはらみつとなるのである。

 ごほんぞんの、くどくをあかすもんである。しょうろうびょうしのよんそう、すなわち、しゅっしょう、ろうすい、びょうつう、しきょのしくは、じんしゅやみんぞくのそういに、かんけいなく、また、ろうにゃくなんにょのくべつなく、ひんぷかいきゅうのさべつなく、あらゆるひとが、とうめんする、じんせいのこんぽんもんだいである。
 ぶっきょうは、じつに、このもんだいをいかにかいけつするかを、ちゅうしんとしててんかいされている。しょうじょうきょうにおいては、したいのほうりん、ごんだいじょうきょうにおいては、じゅうにいんねんとうをとく。
 しかし、いずれも、しょうろうびょうしの、よんそうやせいめいのほんしつを、こんぽんてきにときあかしたのではない。ほけきょうにきて、じつには、にちれんだいしょうにんのぶっぽうにおいて、はじめて、こんぽんてきかいけつをみるのである。いわんや、このだいぶっぽういがいの、たきょうだんにおいては、ぜったいにかいけつされえないことは、とうぜんのりである。
 しょうろうびょうしは、われわれのぼんのうであり、しかして、しょうじ、しょうじをれんぞくするこのにほうは、せいめいのじったいでもある。だが、そのりろんがいくらわかったとしても、げんじつに、さんだいひほうのごほんぞんにむかって、しょうだいしないかぎりは、ぼんのうのくをかいけつすることは、ぜったいにできない。ごほんぞんとは、そのように、だいせいめいてつがくの、きゅうきょくのりにわたって、にちれんだいしょうにんが、ごずけんあそばされたのであって、さんだいひほう、すなわちほんもんのほんぞん、ほんもんのだいもく、ほんもんのかいだんをもって、ごくせつちゅうのごくせつとして、こんりゅうされたのである。
 「いちえんぶだいだいいちのほんぞん、このくににたつべし」(0254-09)と。にちかんしょうにんは、このごほんぞんのくどくについて、「いのりとして、かなわざるはなく、つみとしてめっせざるなく、ふくとしてきたらざるなく、りとしてあらわれざるなし」とおおせになっておられる。ゆえに、ごほんぞんをじゅじし、だいもくをじゅんしんにとなえるものは、みなざいしょうしょうめつ、しゅくめいてんかんをなしとげて、そのせいめいはちからにみちてかつどうてきとなり、どうじにそうごんになっていくのである。

0740    だいよん すいだいおんじょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、われらしゅじょうの、あさゆうはくところの、ごんごなり、だいおんじょうとは、ごんきょうはしょうおんじょう、ほけきょうは、だいおんじょうなり、にじゅうはちほんはしょうおんじょう、だいもくはだいおんじょうなり、そうじて、だいおんじょうとは、だいはほうかいなり、ほうかいのしゅじょうの、ごんごをみょうほうの、おんじょうとさたするを、だいおんじょうとはいうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるはだいおんじょうなり、またいわく、だいとはくうたい、おんじょうとはけたいなり、すいとは、ちゅうどうなりうんぬん。

 たほうにょらいが、たほうのなかから、だいおんじょうをだして、しゃくそんのせっぽうの、しんじつなるを、しょうみょうするところである。すなわち、ほうとうほんには、「そのときにほうとうのなかより、だいおんじょうをだして、たんじていわく、よいかな、よいかな、しゃかむにせそん、よくびょうどうだいえ、きょうぼさつほう、ぶつしょごねんの、みょうほうれんげきょうをもって、たいしゅうのためにときたまう。かくのごとし、かくのごとし、しゃかむにせそん、しょせつのごときは、みなこれしんじつなり」とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいおんじょうとは、われわれしゅじょうが、あさにゆうにはなしていることばである。ごんじつそうたいしていうならば、ごんきょうはしょうおんじょうであり、ほけきょうは、だいおんじょうである。
 またしゅだつそうたいしていうならば、ほけきょうにじゅうはちほんは、しょうおんじょうであり、なんみょうほうれんげきょうは、だいおんじょうである。そうじていうならば、だいおんじょうのだいとはほうかい、つまりうちゅうばんゆうの、おおきさをいう。ほうかいのいっさいしゅじょうのごんごは、すべてみょうほうのおんじょうであると、ふんべつしていく、そのおんじょうをだいおんじょうというのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるだいもくは、だいおんじょうである。また、すいだいおんじょうを、くうけちゅうのさんたいでろんずれば、だいとは、ほうかいであるから、くうたいであり、おんじょうとは、われらしゅじょうのごんごのことで、けたいである。このだいおんじょうのでるほんげん、いしは、あらゆる、じっかいのごんごおんじょうを、なさしむるから、すいとはちゅうどうである。

 ほうりき、ぶつりきのせんじん、こうげをあかすもんである。いちおうは、ごんきょうはしょうおんじょう、ほけきょうはだいおんじょうとなる。さいおうは、ほけきょうにじゅうはちほんは、しょうおんじょう、なんみょうほうれんげきょうのだいもくは、だいおんじょうとなる。
 むかしは、そうしんきのだすはちょうは、せいのうがわるく、きんきょりしかとどかなかったが、こんにちの、きかいは、せいこうなうえに、シンコムえいせいとうによって、ぜんせかいにまで、とどくことがかのうとなった。これ、だいおんじょうといえるのである。また「だいおんじょう」のだいは、ほうかい、うちゅうをいみする。そして、われらしゅじょうのおんじょうが、みょうほうのほうそくと、リズムにがっちしていくことを、だいおんじょうともいう。このいのりのげんりである。 ついぜんくようのげんりでもある。
 これは、げんざい、くうかんにむすうにながれるでんぱをれいにして、めいりょうに、すいさつすることができる。また、だいとはくうたい、おんじょうとはけたい、すいとはちゅうどう、すなわち、わがいっしんの、とうたいが、じゆうじざいに、きゅうかいにごうれいできうるものともいえる。かつ、だいうちゅうにわれらのへいわとあんのんをごうれいできうるほうていしきともいえる。
 いちにちもはやく、こうせんるふをじつげんして「ふくかぜえだをならさず、あまつちくれをくだかず、だいはぎのうのよとなりて、こんじょうにはふしょうのさいなんをはらいひ、ちょうせいのじゅつをえ、にんぽうともにふろうふしの、りあらわれんときを、おのおのごろうぜよ、げんせあんのんの、しょうもんうたがいあるべからざるものなり。」(0502-07)のしんじだいを、けんせつしたいものである。
 「われらしゅじょうの、あさゆうはくところの、ごんごなり」とは、しゅじょうのごんごは、そくほとけのしょさであることをとかれたもんである。しゅじょうのせいめいかつどうは、きゅうかいのかつどうであり、そのごんごも、またきゅうかいのごんごである。しかるに、なにゆえ、いだいおんじょうを、われらのごんごと、いわれるのであろうか。おもうに、だいもくをとなえるものは、きゅうかいそくぶっかいであり、そのにちじょうのごんごも、また、みんしゅうきゅうさいのごんごであるとしんずる。
 しゃくぶくにおけるごんごほど、とうといものはない。しどうにあたってのげん々げんく々くほど、ひと々びとのむねをうつものはない。またたいしゅうをリードするさけびほどえいきょうのだいなるものはなく、たいしゅうのしんじつのこえほどちからづよいものはないのである。
 いじょうのように、だいもくをこんぽんとした、にちじょうせいかつのおんじょうは、すべてのひとをすくいきっていくごんごなのである。
 われわれは、にちれんだいしょうにんめつご、700ねんにうまれ、だいしょうにんのだいおんじょうは、いかばかりであったかと、そうぞうするのみである。だが、にちれんだいしょうにんのおんじょうこそ、われわれの、となえるだいもくにつうずるものと、かくしんする。またにちれんだいしょうにんの、げん々げんく々くは、われらのてにする、ごしょぜんしゅうにあらわれ、これ、いだいなだいおんじょうであると、かくしんするものである。だいおんじょうとは、にほんいちこくのみならず、ぜんせかいに、とどろくこえでなければならない。したがって、このだいおんじょうたる、だいもくは、かならずせかいにこうふし、やがて、ぜんじんるいのおんじょうとなることは、ぜったいにまちがいない、じじつであろう。

0740    だいご けんだいほうとうじゅうざいくうちゅうのこと。

おんぎくでんにいわく、けんだいほうとうとは、わがとうがいっしんなり、じゅうざいくうちゅうとは、われらしゅじょうついにめつにきすることなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつりて、しんじんにじゅうするところが、じゅうざいくうちゅうなり、こくうえにじゅうするなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんに、「そのときにししゅう、だいほうとうのくうちゅうに、ざいじゅうせるをみ、また、とうのなかよりだしたもう、おんじょうをきいて…」とある。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「けんだいほうとう」とは、われらがいっしんである。「くうちゅうにざいじゅうせる」とは、われわれしゅじょうが、ついにめっし、だいうちゅうにきすることをいうのである。
 いまにちれんだいしょうにんならびに、われわれもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつりて、しんじんにはげんでいるところが、じゅうざいくうちゅうであり、こくうえにじゅうすることになるのである。

 これしきしんふに、しょうじふにのもんである。けんだいほうとうは、しきほうである。じゅうざいくうちゅうは、しんぼうである。けんだいほうとうは、けんぜんなるしんたい、じゅうざいくうちゅうは、かちそうぞうしきっていくちえ、せいしんともいえるのである。
 また、じゅうざいくうちゅうとは、えいえんのせいめいをとかれる。だいうちゅうへのかんげんのこころでもある。わがそんざいのこころでもある。いちねん、せいしん、いしき、きょうがいとうは、われらのきょうちゅうにさすいがいにありえない。それをじゅうざいくうちゅう、こくうえにじゅうすとといているのである。
 ゆいぶつろんによる、じんせいのへんせい、ゆいしんろんにながされてゆく、じんせいのあやまちを、このしきしんふにのおんふみによつて、ぜったいにふんさいすることが、できるのである。しきしんふにのてつがくこそ、じんるいたいぼうのだいてつがくである。われわれはぶっぽうてつがくこそ、あらゆるぶんめいのどじょうであることを、れきしのうえから、またしそうのほんしつうえからかくちしたのである。
 ちなみに、げんざいのせいじりねんをきゅうめいするとき、せいおうじんえいはキリストきょうを、こんていとするせいじしそうであり、とうおうじんえいは、「かみなきしゅうきょう」ともいわれる、マルクス、レーニンしゅぎを、こんていとするせいじしそうである。
 しかして、いかにこうまいらしく、つくろっても、キリストきょうのこんぽんしそうは、ゆいしんてつがくにすぎず、マルクス、レーニンしゅぎのこんぽんしそうは、ゆいぶつてつがくにすぎない。じんるいのへいわとこうふくは、そのいずれからも、ぜったいにえられなかったのである。
 また、じんるいしそうのれきしは、プラトン、ヘーゲルとうのゆいしんしそう、こだいギリシァにはじまるゆいぶつろん、あるいはいちげんろん、にげんろんのろんそうとう、これすべて、ゆいしんろんかゆいぶつろんかのそうこくをくりかえして、けっていてきなしそうのしょうりを、いずれもみなかったのである。
 「むりょうぎは、いっぽうよりしょうず」と。このしきしんふにのだいてつがくこそ、せいじ、けいざい、きょういくとうのあらゆるぶんかのほんげんであり、えいきゅうふへんのてつりである。あたかもたいがのながれのゆうきゅうなるごとく、なんびゃくねん、なんぜんねんのむかしからとうようみんぞくの、こころのおうていにながれてきた、とうようぶっぽうのしんずい、しきしんふにのだいてつがくこそ、こんめいせるせかいのしそうかい、せかいせいじをすくうゆいいつの、てつがくなることをしるべきである。

0740    だいろく こくみょうほうじょうひちゅううぶつごうわったほうのこと。

おんぎくでんにいわく、たからじょうせかいとは、わがとうがははのたいないなり、うぶつとは、しょほうじっそうのぶつなり、ここをもって、たほうぶつというなり、たいないとは、ぼんのうをいうなり、ぼんのうのおでいのなかに、しんにょのふつあり、われらしゅじょうのことなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるを、とうたいれんげのぶつというなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんで、だいぎょうせつぼさつが、ほとけに、ほうとうのことについてしつもんし、ほとけが、このほうとうのなかには、たほうにょらいというほとけがいるのだと、せつめいしたところである。「そのときにほとけ、だいぎょうせつぼさつにつげたまわく、このほうとうのなかには、にょらいのぜんしん、います…こくをほうじょうとなずづく。そのなかに、ほとけ、います。ごうを、たほうとのたまう…」とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。たほうにょらいのすむ、たからじょうせかいとは、ははおやのたいないのことである。なぜなら、ははのたいないとは、ほとけのしゅっしょうするところであり、せいめいいじょうにすぐれたたからはないゆえに、たからじょうせかいというのである。
 「うぶつ」つまり「ほとけいます」とは、しょほうじっそうのほとけ、ありのままのすがたで、げんじつにいるほとけである。とくべつのせかいにいるほとけではない。そのほとけを、たほうぶつとなづけたのである。また、たいないとは、ぼんのうである。そのぼんのうのおでいのなかに、ありのままのほとけがある。それは、われわれしゅじょうのことである。さらには、いまにちれんだいしょうにんならびにそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつっているのを、とうたいれんげのほとけと、いうのである。

 「たからじょうせかい」とは、とくべつなせかいを、さすのではけっしてない。また、かんねんのせかいをさすのでもだんじてない。ぐたいてきには、ははのたいないをいうと、おおせである。すなわち、これ、せいめいしゅっしょうの、もっともだいじなる、いぎをば、ほうじょうせかいとといておられるのである。
 「うぶつ」とは、いちぶつ、にぶつ、さんぶつ、さんじゅうにそうのほとけではない。しょほうじっそうのほとけを、いうのである。すなわち、ぼんぷそう、じどうぼんぷのほとけをさすのである。しょせん、にちれんだいしょうにんのことであられる。これこそ、しんじつ、ほんぬのだいせいめいてつがくといえるのである。おんぎくでんには、「まっぽうのほとけとは、ぼんぷなり、ぼんぷそうなり、ほうとは、だいもくなり、そうとはわれらぎょうじゃなり、ほとけともいわれ、また、ぼんぷそうともいわるるなり」(0766-だいじゅうさん、じょうふちぶつ、ふもんぽうふけんそうのこと)と。
 おなじく、おんぎくでんに、「いま、にちれんらのたぐいのこころは、そうじてはにょらいとは、いっさいしゅじょうなり、べっしては、にちれんのでしだんななり、されば、むさのさんじんとは、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃなり、むさのさんじんのほうごうを、なんみょうほうれんげきょうというなり」(0752-05)と。しょほうじっそうしょうに、「さればしゃか、たほうのにぶつというも、ゆうのほとけなり、みょうほうれんげきょうこそ、ほんぶつにてはござそうろうへ、きょうにいわく、「にょらいひみつじんずうしりき」これなり、にょらいひみつは、たいのさんじんにして、ほんぶつなり、じんずうしりきはゆうのさんじんにして、しゃくぶつぞかし、ぼんぷはたいのさんじんにして、ほんぶつぞかし、ほとけはゆうのさんじんにしてしゃくぶつなり」(1358-11)とある。
 すなわち、まっぽうのごほんぶつとは、べっしてはぼんぷそうの、にちれんだいしょうにんであられる。しかして、そうじては、にちれんだいしょうにんのぶっぽうをしんじまいらせる、われら、まっぽうのぼんぷこそ、しんじつのほとけなのである。ゆえに、にちれんだいしょうにんは、もったいなくも、「ぼんのうのおでいのなかに、しんにょのほとけあり、われらしゅじょうのことなり」とおおせられたのである。これ、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのごくとうというべきである。

0740    だいなな おじっぽうこくど うせつほけきょうしょ がしとうみょう いちょうぜきょうこ ゆげんごぜん いさしょうみょう さんごんぜんざいのこと。

0741、おんぎくでんにいわく、じっぽうとは、じっかいなり、ほけきょうとは、われらしゅじょう、るてんのじゅうにいんねんなり、よってごんごのおんじょうを、さすなりぜんざいとは、ぜんあくふに、じゃしょういちにょなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるところを、たほうゆげんというなり。

かいしゃくこうぎ。
 これは、たほうにょらいが、ぼさつのしゅぎょうを、していたときにたてた、ちかいのことばである。くわしくはほうとうほんに、『もしわれ、じょうぶつしてめつどののち、じっぽうのこくどにおいて、ほけきょうをとくところ、あらば、わがとうみょう、このきょうをきかんがためのゆえに、そのまえにゆげんし、ためにしょうみょうとなって、さんめて、よいかなといわん』とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。じっぽうとはじっかいである。ほけきょうには、われわれしゅじょうというものが、えいえんにしょうじのくかいを、るてんしていくのであるという、せいめいのじったいをとかれているのである。
 すなわち、ほけきょうとは、われわれしゅじょうの、るてんしゆくじゅうにいんねんをとく。じゅうにいんねんとは、ごんだいじょうきょうで、さんがいにおける、せいめいるてんのほうそくをじゅうににわけたもので、むみょう、ぎょう、しき、みょうしき、ろくしょ、しょく、じゅ、あい、しゅ、う、しょう、ろうしをいう。
 しかし、ここでは、にぜんごんきょうのじゅうにいんねんではなく、ほけきょうのせいめいてつがくのうえから、じゅうにいんねんとしるべきである。よって、ほけきょうとは、ごんごのおんじょう、つまりせいかつをときあらわしているのである。ぜんざいとは、ぜんあくふに、じゃしょういちにょである。すなわち、われわれのせいめいが、ぼんのうであるゆえに、だいもくをあげることによって、そくぼだいとなるのである。
 いま、にちれんだいしょうにんならびに、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるところに、ぶっかいがゆげんし、さいこうのこうふくきょうがいをつかむことが、できるのである。これを、たほうゆげんというのである。

「ほけきょうとは、われらしゅじょうるてんの、じゅうにいんねんなり」うんぬんとは、せいめいのほんしつ、ほんげん、じったい、いんがのにほう、せいめいはってんのほうそくを、めいかくにときあかしたのが、ほけきょうなりとの、もんであられる。つうずのほけきょうといっても、じつには、さんしゅるいあることをしるべきである。だいいちにしゃくそんのほけきょうは、ほけきょうにじゅうはちほん、ぞうぼうにおける、てんだいだいしのほけきょうは、まかしかん。まっぽうにおける、にちれんだいしょうにんのほけきょうは、ごじななじの、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうである。しょせん、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとして、まかしかんおよび、ほけきょうにじゅうはちほんは、そのせつめいしょにあたるわけである。そのひとつのしょうことして、ほけきょうにじゅうはちほんにおいても、みょうほうれんげきょうじょぼんだいいち、みょうほうれんげきょうほうべんぽんだいにと、いわれているではないか。
 けごんきょうは、じゅっしん、じゅっじゅう、じゅっぎょう、じゅっえこう、じゅっち、とうかく、みょうかくとうのほうもんを、しょぼさつ、ぼんぷだいきのために、べつえんにきょうとしてといたものである。このけごんをときたもうほとけを、たゆうほうしんにょらいといい、こくどをじっぽうどとしょうするのである。しかし、そのときのしゅじょうは、いまだだいじょうのりに、しんにききうるきこんではなかった。あごんきょうにおいては、くじゅうめつどうのしたいのほうもんを、ときあかした。これは、どんこんのきのために、しゅうしょうのほうをといたのであり、じゅうにねんかん、このしょうじょうきょうはとかれた。
 このきょうしゅは、いちじょうろくしゃくの、しゃばどうごのほとけであり、れつおうじんである。ほうとうぶは、にじょうがしょうじょうによって、けんじのぼんのうをだんじ、らかんのしょうがをえて、ねはんをじょうじたと、あやまったかんがえにしゅうちゃくしたので、ところ々どころに、しきょうのほうをといて、にじょうをだんかし、ぼさつをしょうようしたのである。はんにゃぶでは、にじょうをゆうどうしてだいじょうにむかわしむべく、つうべつえんのさんきょうを、たいどうして、じゅうよねんかんとかれたのである。
 しかして、ほけきょうにじゅうはちほんは、これらよんじゅうよねんの、ほうべんごんきょうをときおわって、ずいじいのたちばより、ほとけのきょうがいをとかれたのである。ほけきょうは、だいうちゅうにひろく、じっかいさんぜんのまんだらを、えがいたじょうたいともかんがえられる。また、われらのじっかいさんぜんのせいめいを、こくめいに、ときあかしたものともいえる。そのこんぽんたる、なんみょうほうれんげきょうのほうほんぞん、にちれんだいしょうにんのにんほんぞんを、すなわち、ぶっぽうのしんずい、こつずいをおしたためになった、いっぷくのまんだらをばごほんぞんというのである。
 にちにょごぜんごへんじにいわく、「されば、しゅだいのごじはちゅうおうにかかり、よんだいてんのうは、ほうとうのしほうにざし、しゃか、たほう、ほんげのしぼさつ、かたをならべ、ふげん、もんじゅとう、しゃりほつ、もくれんとう、ざをくっし、にちてん、がつてん、だいろくてんのまおう、りゅうおう、あしゅら、そのほか、ふどう、あいぞめはなんぼくのふたかたにじんをとり、あくぎゃくのだった、ぐちのりゅうにょいちざをはり、さんぜんせかいのひとの、じゅみょうをふうばあっきたるきしもじん、じゅっらせつにょとう、しかのみならずにほんこくのしゅごしんたる、てんしょうだいじん、はちまんだいぼさつ、てんじんななだい、ちじんごだいの、かみがみ、そうじてだいしょうのじんぎとう、たいのじんつらなる、そのよのゆうのじん、あにもるべきや」(1243-09)うんぬんと。
 「ごんごのしょうもん」とは、せいかつのことである。がっこうでも、しゃかいでも、げいじゅつ、かがく、ぶんがくとう、ぜんぱんにわたり、そのきほんはごんご、おんじょうをだいいっぽとしていることは、ろんをまたない。
 「ぜんざいとは、ぜんあくふに、じゃしょういちにょなり」とは、いかなるひとたりとも、みょうほうをしんじて、ぜんぶすくわれるとの、だいじひである。ぜんあくふに、じゃしょういちにょもまた、きゅうかいそくぶっかい、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんをさしている。しょせん、さんだいひほうの、ごほんぞんにきみょうすれば「たほうゆげんというなり」すなわち、たほうとは、ごほんぞんであり、ごほんぞんのだいくどくである。またちえ、ふくうん、せいめいりょくとやくすこともできるわけである。

0741    だいはち なんせいほっぽうしゆいじょうげのこと。

おんぎくでんにいわく、しほう、しゆい、じょうげしがって、じっぽうなり、すなわちじっかいなり、じっかいのしゅじょうともに、さんどくのひかり、これれあり、これをびゃくごうというなり、いっしんちゅうどうのちえなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、じっかいどうじのひかりさすなり。しょほうじっそうのこうみょうなるがゆえなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほとけがびゃくごうのひかりを、とうほうにはなち、また、なんせいほっぽう、しほうじっぽうをてらすのである。ほうとうほんには、「なんせいほっぽう、しゆいじょうげ、びゃくごうそうのひかりの、しょしょうのところも、またまた、かくのごとし」とある。そのひかりのいくところ、いたるところで、じっぽうぶんしんのしょぶつが、せっぽうしているすがたがある、ということである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。じっぽうとは、とうざいなんぼくのしほうと、とうほく、せいほく、とうなん、せいなんのしゆい、それにじょうげをあわせて、じっぽうとなるのである。これすなわち、じっかいのことである。じっかいのしゅじょうのせいめいは、じっかいともにとん、じん、ちのさんどくのひかりがある。
 このひかりをびゃくごうというのである。これはいっしんちゅうどう、すなわち、いちねんのしんじんよりいずる、ぶっちである。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうとだいもくをとなえるときは、じっかいのかっかい、どうじにくどくがあらわれるのである。それは、しょほうじっそうのあきらかなひかりに、てらされるから、くどくがあるのでる。

 「じっぽう」とは、うちゅうぜんたい、あますところなきをいう。これまた、われらじっかいのせいめいともなる。あるせいようのがくしゃが、「われわれのせいめいたいは、しょううちゅうなり」と。また、あるがくしゃは「わがせいめいは、だいうちゅうのいちさいぼうのようなものである」と。まことにゆえあるりろんといえる。じじつ、たいようのこくてんあらわれれば、でんぱにも、またじんたいにも、だいしょうぎをあたえ、およぼす。また、しゃかいせいかつにおよぼす、えいきょうもだいなるものがある。
 このせいめいとうちゅうとのかんけいは、きょうもんのいたるところにとかれている。しもやまごしょうそくに「きせいきょうにいわく、「もろもろのしゅじょうありて、ほういつをなし、しょうじょうのぎょうをすけがゆえに、てん、あめをくださず」」(0350-14)と。ずいそうごしょに、「それ、じっぽうはえほうなり、しゅじょうはしょうほうなり、たとへば、えほうはかげのごとし、しょうほうはたいのごとし、みなくばかげなし、しょうほうなくばえほうなし、また、しょうほうをば、えほうをもつてこれをつくる、げんこんをば、とうほうをもつて、これをつくる、したは、なんぽう、はなはせいほう、みみはほっぽう、みはしほう、こころはちゅうおうとうこれを、もつて、しんぬべし、かるがゆへに、しゅじょうのごこん、やぶれんとせば、しほうちゅうおうをどろうべし、されば、こくどやぶれんと、するしるしには、まづ、やまくづれそうもくかれ、こうがつくるしるしあり、ひとのげんにとう、おどろかそうとすれば、てんぺんありひとのこころをうごかせば、ちうごかす」(1140-06)と。
 またずいそうごしょに、「ひとのよろこびたたなれば、てんにきちずいをあらはし、ちにたいしゃくのうごきあり、ひとのあくしんさかんなれば、てんにきょうへん、ちにきょうようすしゅったい、しんにのだいしょうにしたがいて、てんぺんのだいしょうあり、ちようもまたかくのごとし」(1142-03)と。さんぜしょぶつそうかんもんしょうには「これをもって、あきらかにしんぬべし、てんくずるれば、わがみもくずるべし、ちさけれけばわがみもさくべし、ちすいかふうめつぼうせば、わがみもまた、めつぼうすべし、しかるに、このごだいしゅはかこ、げんざい、みらいのさんぜは、かわるといえども、ごだいしゅはかわることなし」(0568-05)と。
 いくせんまんおくのせいざにも、ぜんうちゅうに、それぞれ、なんらかのはどうえいきょうをおよぼす、せいめいかつどうがある。どうじに、しょううちゅうであるわれらも、さんどくのひかり、すなわち、りきゆうのはたらきがある。これ、ほんぬのせいめいかつどうであり、ほけきょうでは、びゃくごうととく、これ、ぼんのうそくぼだいであり、しょうじそくねはんのげんりである。すなわち、わがみのさんどく、てんじていくいがいに、しんじつのせいかつはありえないからである。これ、いっしんちゅうどうのちえとなすと。いっしんちゅうどうのちえとは、ぼんのう、ごう、くのさんどうを、ほっしん、はんにゃ、げだつとてんずる、しんじんのいっしんのことを、さすのである。
 しょせん、みょうほうごじのわれらは、「じっかいのどうじの、ひかりさすなり」のせいかつができえるのである。すなわち、いかなるきょうぐうのひとたりとも、いかなるしゅんかんの、じんせいたりとも、きゅうかいをゆうげし、くのう、しゅくめいにながされることなく、ゆう々ゆうといっさいのくなんを、のりこえ、ゆうらくのじんせいを、おくることができるとの、おことばとはいする。「しょほうじっそうのこうみょう」とは、さんだいひほうの、ごほんぞんにてらされ、わがにくだんの、ほんぞんがゆげんする、せいめいをいうのである。
 あるしそうかのいわく、「せいめいの、ほんげんてきかいけつなくして、しんのじんるいの、こうふくのぜんしんはけっしてありえない」と。どうらんのせかいにいきる、われらぢゆのぼさつは、せいめいをとして、このだいじだいひの、しょほうじっそうのこうみょうをば、あんこくのせかいに、てんじきっていこうではないか。

0741    だいきゅう かくさいほうけまんきくのこと。
01
 おんぎくでんにいわく、ほうけとはがっしょう、いちねんさんぜんのしょひょうなり、かくとはじっかいなり、まんのいちじを、いちねんさんぜんとこころうべし、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、ほとけにほうけをたてまつるなり、ほうけそくほうしゅなり、ほうしゅそくいちねんさんぜんなり、がっしょういきょうしんよくもんぐそくどう、これなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
「かくほうけをちも、もろてにみてて」とよむ。じっぽうぶんしんのしょぶつがじしゃをつかわして、しゃかほとけにあいさつするところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほうけとは、がっしょうをいみするのである。またじのいちねんさんぜん、なんみょうほうれんげきょうをあらわしている。したがって、ほうけとはごほんぞんのことである。
 かくとは、じごくかいよりぶっかいにいたるじっかいをいうのである。まんのいちじはかけることのない、みちている、といういみである。じのいちねんさんぜんとこころうべきである。いまにちれんだいしょうにん、およびそのもんかであるわれわれが、ごほんぞんになんみょうほうれんげきょうとしょうだいしたてまつれば、それは、ほとけにほうけをたてまつることになるのである。ほうけとは、そくほうしゅであり、ほうしゅはそくいちねんさんぜんのなんみょうほうれんげきょう、つまりごほんぞんのことである。
 ほうべんぽんだいにの「がっしょうしきょうしんをもって、ぐそくのどうをききたてまつらんとほっす」とは、このことをとかれているのである。

 せいかつそくしんじんのたいどについてのもんである。ほうけとは、しんじんのがっしょうのことである。ひゆほんにも、がっしょうとは、ほけきょうのいみょうなりとも、とかれている。したがって、まっぽうのほけきょう、そくさんだいひほうのごほんぞんになしむ、だいもくをあげるすがたが、ほうけであり、がっしょうとなる。たしゅうきょうのごとく、いんけいをむすんだり、また、さんだいひほうのほんぞんに、むかわざるがっしょうは、しんのがっしょうとは、けっしていえない。また、がっしょうの「がっ」とはみょうなり、「しょう」とはほうなり、ともとかれている。じゅじそくかんじんに、つうずるところであり、しんじんのいかにだいじかを、うかがうことができるのである。
 なお、しょひょうとは、たとえをもって、そのいみをあかすことである。ほうけをささげるこういをかりて、いちねんさんぜんのいぎをあらわしている。しょせん、ほうけを、まんきくしゆくこういとは、こんにちでは、ごほんぞんにがっしょうするすがたであり、これこそ、しんのしんじんのすがたであり、わがみが、とうたいれんげぶつとなるのである。
 なお、つうずには、ほうけは、ほうしゅとどういつぎに、もちいられている。かんじんのほんぞんしょうに「いちねんさんぜんを、しらざるものには、ほとけ、だいじひをおこし、ごじのうちにこのたまをつつみ、まつだいようちのくびにかけさしめたまう」0254-18うん々ぬんと。さいごに「がっしょうきょうしん」は、しんじんがっしょうをいみし、「ぐそくどう」は、いちねんさんぜんのほうりとなる。

0741    だいじゅっ にょきやっけんやく、かいだいじょうもんのこと。

 ほちゅうのよんにいわく、このかいとうけんぶつはけだし、しょひょうあるなり、 なんとなれば、すなわちかいとうはそくかいごんなり、けんぶつはそくけんじつなり、これまた、まえをあかし、また、まさにのちを、おこさんとするのみ、にょきやっけんやくとは、きゃくはなりのぞく、さわりのぞこり、きうごくことをあらわす、いわく、ほっしんのだいし、わくをはしりをあらわし、どうをまし、しょうをそんするなりと。
 おんぎくでんにいわく、けんやくとは、ほうぼうなり、むみょうなりかいとは、われらがじょうぶつなり、だいじょうもんとはわれらがしきしんのにほうなり、だいじょうとはしきほうなり、もんとはくちなり、いま、にちれんとうのたぐい、ななんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるとき、むみょうのわくしょうしりぞけて、こしんのしゃかたほうじゅうするなり、けんやくとはむみょうなり、かいとはほっしょうなり、やくとはみょうのいちじなり、てんだいのいわく、「ひみつのおうぞうをひらく、これをしょうしてみょうとなす」と、みょうのいちじをもって、やくとこころうべきなり、このきょうもんは、ほうぼうふしんのけんやくを、しりぞけて、こしんのほとけをひらくということなり、かいぶつちけんこれをおもうべしうんぬん。

 しゃくそんがほうとうをひらくところである。「ここにしゃかむにぶつ、みぎのゆびをもって、しちほうとうのとをひらききたもう。だいおんじょうをだすこと、けんやくをしりぞけて、だいじょうのもんをひらくがごとし」とのべられている。ほちゅうのよんには、このかいとうけんぶつは、かんがえてみるに、あらわすところがあるのである。なんとなれば、すなわち、「かいとう」ということは、そくかいごんということであり、「けんぶつ」は、そくけんじつということである。これは、また、まえのしゃくもんをしょうみょうし、のちのほんもんをおこそうとするいみがあるのである。にょきやっけんやくの「きゃく」とは、「のぞく」ということであり、じょうぶつするのにさまたげとなる。いろいろなしょうがいぶつをとりのぞき、じょうぶつするきこんになることを、あらわしているのである。ほっしんのぼさつが、いろいろなわくをはし、どうりをあらわし、ちゅうどうのちえをまし、へんにゃくしょうじをそんげんしていくのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。けんやくとはほうぼうということであり、むみょうということである。また「だいじょうのもんをひらく」という、ひらきとは、ほうぼうやむみょうをひらいていくがゆえに、われわれがじょうぶつするということである。だいじょうもんとは、われわれのしきしんのにほっである。だいじょうがしきほうであり、もんとはしんぼうをあらわしている。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときは、むみょうのわくしょうをしりぞけて、こしんのしゃかたほうがじゅうし、ぶっかいがゆげんしてきて、じょうぶつすることができるのであり。
 けんやくとはむみょうのことであり、そのけんやくをひらく、ひらきとは、ほっしょうということである。やくとは、じょうぶつのもんをひらくカギであるから、みょうのいちじになる。てんだいだいしは、このことを「ひみつのおうぎをひらくので、これをしょうしてみょうとなすのである」とといている。みょうのいちじをもって、やくとこころうべきである。
 このきょうもん、すなわちにょきやっけんやくかいだいじょうもんは、いろいろなほうぼうふしんの、けんやくをしりぞけて、われわれの、こしんのぶっかいをゆげんすることを、しめしているきょうもんである。「ぶつちけんをひらく」ということは、このようなことであり、このことをよくよくかんがえるべきである。

 ぼんのうそくぼだいの、てつりのもんである。「けんやく」とは、とびらのかぎのこころ。このけんやくとは、おんぎくでんでは、ほうぼう、むみょうなりとおおせである。なぜか。それは、とびらのかぎそれじたいでは、いまだないぶのかちはありえない。したがって、ぼんのう、きゅうかいをさしておられるが、ゆえである。「ひらき」とは、ぶっかいのことであり、じょうぶつをいみする。けっくは、しんじんのにじが、ひらきとなる。「だいじょうもん」とは、だいじょうがしきほう、もんがしんぼうをいみする。しきしんふにのせいめいのことである。
 しょせん、ぶっしつてきななやみ、せいしんてきななやみを、つまり、さんしょうしまをうちやぶってゆくしんじんによって、もんにはいることができるとの、しどうであられる。けっきょく、しゃくぶくぎょうも、だいもくもきょうがくも、いっさいのがっかいかつどうが、わがこしんのしゃかぶっぽうを、ハッキリみるためである。これ、えいえんのこうふくきょうがいにじゅうし、だいうちゅうのリズムに、がっちした、さいこうのせいかつをいうのである。だいかくしんにみちみちて、くのうのしゃかいを、ゆう々ゆうとゆうげしてゆける、じんせいをいうのである。これ、ただただ、われらがっかいいんの、しんじんのもくてきであることを、わすれてはならない。
 「やくとはみょうのいちじ」とは、むみょうぼんのうのなかに、われらのじょうぶつできうる、かぎがおさめられているてつりである。しょせん、ぼんのうそくぼだいのかぎが、われらのにくだんにぞうせられているので、まことにごんごひつぜつにつくせぬ、みょうといわざるをえない。おんぎくでんのほうべんぽんだいにに、「ひらきとはしんじんのいみょうなりうんぬん、しんじんの、かいぶつちけんをもって、しょういとせり」ともとかれている。
 このげんりによって、せいじかも、きょういくしゃも、がくしゃも、げいじゅつかも、にんげんかくめいし、しゃかいのこうふくと、へいわへのしどうしゃになって、もらいたいものである。かつ、このだいしどうげんりによって、ふこうとひさんなひとが、いちにんもなくなることを、いのってやまないものである。


0742    だい11 せっしょだいいしゅ、かいざいこくうのこと。

おんぎくでんにいわく、たいしゅうとはちょうしゅうなり、かいざいこくうとは、われらがしのそうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しょうじそくねはんとかいかくするを、かいざいこくうととくなり、しょうじそくねはんと、ひせつするなり、だいちはしきほうなり、こくうはしんぼうなり、しきしんふにとこころうべきなり、こくうとはじゃっこうどなり、またいわく、こくうとはれんげなり、きょうとはだいちなり、みょうほうはてんなり、こくうとはなかなり、いっさいしゅじょうのうち、ぼさつ、れんげにざするなり、これを、みょうほうれんげきょうととかれたり、きょうにいわく「にゃくざいぶつぜん、れんげけしょう」と。

かいしゃくこうぎ。
 しゃくそんが、ほうとうのなかにはいって、たほうとならんですわり、さらに、たいしゅうをも、こくうにおくのである。「そくじに、しゃかむにぶつ、じんつうりきをもって、もろもろのたいしゅうをせっして、みな、こくうにおきたもう…」とある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「せっしょだいいしゅ」のたいしゅうとはちょうしゅうである。「みなこくうにあり」とは、われわれのせいめいが、だいうちゅうにみょうぶくし、しのそうをげんじているのである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかは、そのしんじんによって、しょうじそくねはんとかいかくするのである。そのすがたを、かいざいこくうととくのである。ぼとけのたちばからみるならば、しゅじょうは、とらわれるのである。
 だいちはしきほうであり、こくうはしんぼうである。このしきとこころは、ふにとこころうべきである。こくうとはじゃっこうどである。また、みょうほうれんげきょうという、たてわけからみるならば、こくうとはれんげであり、きょうとはだいちであり、みょうほうとはてんである。こくうとはなかである。いっさいしゅじょうのうち、ぼさつがれんげにざしているのである。これを、みょうほうれんげきょうととかれているのである。ほけきょうのだいばだったほんには、「にゃくざいぶつぜん、れんげけしょう」ととかれている。すなわち、もしごほんぞんのまえにあって、しんじんしゅぎょうにはげんでいくならば、いんがくじで、じょうぶつのきょうがいを、うることができるというのである。

 しょうじそくねはんのもんである。「たいしゅう」とはちょうしゅうであり、われわれいっぱんたいしゅうのことである。しょうじのうみにただよい、えいえんのせいめいにいきることを、しらないまよいのしゅじょうである。「かいざいこくう」とは、しのそうである。われわれのせいめいが、だいうちゅうのせいめいに、みょうふくしたじょうたいをいう。すなわち、えいえんふめつのせいめいにおけるめつのそうである。
 このみかたよりすれば、しょうもまた、えいえんのせいめいのなかにおいて、しょうのそうをげんじたものである。かくさとることが、ねはんであり、しょうじのくかいも、えいえんのらくどに、てんずることができるのである。
 これしょうじそくねはんである。しかし、このきょうがいにたっするためには、さんだいひほうのごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなうることが、こんぽんじょうけんである。ゆえに、「いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、しょうじそくねはんとかいかくするを、かいざいこくうととくなり、しょうじそくねはんとひせつするなり」とおおせなのである。
 しきしんふにの、てつりよりみれば、だいちはしきほう、こくうはしんぼうであって、このにしゃはいったいである。そのように、ただしくちけんすることが、せいめいのじったいをはあくすることになる。そのせいめいかんにたったとき、そこがこくうであり、したがってじょうじゃっこうどなのである。
 さらにみょうほうれんげきょうの、ごじよりたてわけるならば、こくうはれんげである。きょうは、われらのごごんおんじょうであり、いっさいのこうどうであるがゆえに、しきほうであり、だいちである。みょうほうはしんぼうなるがゆえにてんである。こくうはてんとちよりみれば、なかであって、しきしんふにとなる。
 さいごの「いっさいしゅじょうのうち、ぼさつ、れんげにざするなり、これをみょうほうれんげきょうととかれたり」とは、じょうぶつのようていをとかれたのである。われわれが、ごほんぞんをしんじて、なんみょうほうれんげきょうととなえ、ぶつどうにはげむとき、しょうじそくねはん、しきしんふにのせいめいかつどうをけんげんし、みょうほうれんげきょうの、とうたいとあらわれるのである。だいばだったほんにとく「にゃくざいぶつぜん、れんげけしょう」とはこれをいう。

0742    だい12 ひにょだいふう すいしょうじゅしのこと。

 おんぎくでんにいわく、このげしょうの、にょしょうりょうちと、ひにょだいふうと、ねんだいこかとは、さんじんなり、そのなかに、ひにょだいふうとは、だいもくのごじなり、すいしょうじゅしとはしゃくぶくもんなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、だいふうのふくがごとくなり。

 「たとえばだいふうの、しょうじゅのえだをふくがごとし」とよむ。ほとけのせっぽうのすがたを、ひょうげんしているのである。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほうとうほんのげしょうの「しょうりょうちの、れんげそうごんせるがごとし」、「たとえば、だいふうのしょうじゅのえだを、ふくがごとし」、「よるのやみのなかに、おおいなるこかを、せるもやがごとし」、このみっつは、ほっぽうおうのさんじんをあらわしているのである。
 そのなかの、「たとえば、だいふうのしょうじゅのえだを、ふくがごとし」とは、だいもくのごじをいうのである。
 「しょうじゅのえだをふく」とは、だいふうともいうべき、だいもくによって、しょうじゅのえだのような、じゃしゅうきょうがしゃくぶくされるのである。すなわち「ほっけしゃくぶく、はごんもんり」のことを、もうされているのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえ、しゃくぶくしていく、そのすがたというものは、だいふうのふくようなものである。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんのげしょうに、「にょしょうりょうち、ひにょだいふう、ねんだいこか」とあるが、これは、さんじんをあらわしている。にょしょうりょうちは、「しょうりょういけの、れんげそうごんせるがごとし」とあり、くどくあふれるしょうじょうなるぶっしん、すなわちおうじんともいえよう。ひにょだいふうは、「たとえばだいふうの、しょうじゅのえだをふくがごとし」とあり、ほとけのちえ、はたらきとうを、さすがゆえに、ほうしんともかんがえられる。「ねんだいこか」とは、「よるのやみのなかに、おおいなるこかを、せるもやがごとし」とあり、ほとけのちから、ほんしつをあかしたもので、ほっしんとはいすることできる。
 つぎに、「ひにょだいふう」とは、だいもくであり、「すいしょうじゅし」とは、しゃくぶくのことである。われわれのとなえるだいもくは、じぎょうけたにわたる、なんみょうほうれんげきょうである。いっさいきょうのすべてのりほう、すべてのくどくは、このいちくのなかに、、ほうせつされるのである。ゆえに、きょうちゅうのおうであり、とだじょうせいぜんかいちょうが、このだいもくをとなえ、しゃくぶくにはげむそうかがっかいを、しゅうきょうかいのおうじゃといわれたいぎはここにある。
 いっさいのきょうだんが、なんみょうほうれんげきょうのまえには、あたかも、しょうじゅがだいふうにふかれて、なびくようなものである。げんざいにおける、いっさいのしそう、てつがくといえども、なんみょうほうれんげきょうの、いだいなてつりと、ちからにたいしては、とうていおよぶものではない。
 もともと、「むりょうぎはいっぽうよりしょうず」といい、「ひゃくせんしよう、ことごとくいちこんにおもむく」ととかれているが、そのいっぽう、あるいはいちこんこそ、なんみょうほうれんげきょうなのである。このだいもくをこんぽんとして、すべてのてつがくは、いかされるものであるとしるべきである。

0742    だい13 にゃくうのうじ そくじぶっしんのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほけきょうをたもちたてまつるとは、わがみ、ぶっしんとたもつなり、 そくのいちじは、しょうぶつふになり、うえののうじの、じはぼんぷなり、たもつたいは、みょうほうのごじなり、ぶっしんをたもつというは、いちいちもんもん、かい、こんじき、ぶつたいのゆえなり、さて、ぶっしんをたもつとは、わがみのほかに、ほとけなしと、たもつをいうなり、 りそくのぼんぷと、くきょうそくのほとけと、ふたつむきなり そくのじは そくゆえ、しょごふにのゆえなりうんぬん。

 これは、ほうとうほんの、「もしよく、たもつことあらば、すなわち、ぶっしんをたもつなり」とあるところである。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。さんだいひほうの、ごほんぞんをたもちたてまつるというのは、わがみ、すなわち、ほとけなりとかくしんすることである。
 そくじぶっしんのそくのいちじは、しょうぶつふに、すなわち、しゅじょうもほとけも、べつのものではないのである。にゃくうのうじのじというのは、われわれ、ぼんぷがたもつのである。たもつたいは、なんみょうほうれんげきょうのごじである。これ、ごほんぞんじゅじにつきる。これが、ぶっしんをたもつことになる。なんみょうほうれんげきょうのいちじいちじが、みなこんじきのぶつたい、すなわち、だいしょうにんのせいめい、それじたいであるがゆえである。
 さて、われわれが、ぶっしんをたもつということは、わがみ、そく、ほとけであり、それいがいに、ほとけはないと、かくしんすることを、いうのである。りそくのぼんぷ、すなわち、きゅうかいのしゅじょうと、くきょうそくのほとけとは、べつのものではないのである。そくのいちじは、そくこしょごふに、すなわち、はじめのりそくのぼんぷと、のちわりのくきょうそくのほとけとは、ふにである。くべつされるべきものでは、ないというのである。

 そくしんじょうぶつの、おうぎをあかし、にんげんのそんげんせいをしめされている。われわれぼんぷが、ごほんぞんをたもちたてまつるとは、わがみ、そく、ぶっしんをたもつことであると、おおせである。しゃかぶっぽうにおいてはごじゅうにいをたて、りゃくこうしゅぎょうによる、じょうぶつをとくのであるが、にちれんだいしょうにんのぶっぽうにおいては、ごほんぞんをたもつこと、それじたい、じょうぶつなのである。「じゅじそくかんじん」である。
 てんだいも、りそくよりくきょうそくまで、ろくそくをもうけているが、だいしょうにんは、「りそくのぼんぷと、くきょうそくのほとけと、ふたつなきなり」とおおせられ、しょうぶつふに、すなわち、しゅじょうとほとけとは、べつのものでないととかれている。
 つうずのぶっぽうかんのだいかくめいといえる。しかも、ぶっしんをたもつとは、わがみのほかに、ほとけなしとたもつをいう。まことに、めいかくなせいめいのそんげんをとかれているではないか。
 げんざい、みんしゅしゅぎを、くちにするものはおおいが、せいめいのそんげんが、どこにあるかをりかいせずして、しんのみんしゅしゅぎが、あろうはずがない
 じんけんをおもんじ、にんげんせいをむししてならないことは、みんしゅしゅぎのこんかんである。しかし、なにゆえに、じんけんをおもんずべきか。いま、にんげんせいのほんしつはどこにあるかを、きゅうめいせずして、こ々このにんげんかくめいも、しゃかいかくめいもきたいすることは、けっしてできない。
 いま、にちれんだいしょうにんの、てつりによれば、にんげんは、ほんらいほとけである。みょうほうれんげきょうの、とうたいであると、だんていなさっているのである。これせいめいのほんしつであり、じったいである。このせいめいかんにたって、はじめて、みんしゅしゅぎのきばんがかくりつし、そうごにしんらいし、そんちょうし、たすけあう、りそうのしゃかいがけんせつされてゆくのは、とうぜんである。
 ただし、ぶっぽうは、そうべつのにぎを、わきまえなければならない。そうじては、いっさいしゅじょうはほとけであるが、べっしては、にちれんだいしょうにんであらせられる。
 しゅじょうが、そく、ほとけであるといっても、せいめいろんのうえからとく、りじょうのもんだいであって、しんじつわれわれが、ほとけのせいめいをゆげんし、こうふくせいかつをじつげんするためには、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのおいのちである、さんだいひほうのごほんぞんをしんじて、なんみょうほうれんげきょうと、となえるいがいには、ぜったいにありえないのである。


0742    だい14 しきょうなんじのこと。

 おんぎくでんにいわく、このほけきょうをたもつものは、なんにあわんと、こころえてたもつなり、されば、そくいしっとく、むじょうぶつどうの、じょうぶつはいま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるこれなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんの、「このきょうはたもちがたし」について、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このごほんぞんをしんじ、ぶつどうしゅぎょうにはげむものは、かならずや、なんにあうであろうとこころえて、しんじんすべきである。それゆえ、「すなわちこれ、とく、むじょうのぶつどうをえたり」というじょうぶつは、いまなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、はたすことができるのである。
 さいこうのこうふくろんがとかれている。ごしょに、「にちれんがでしとうは、おくびょうにてはかなうべからず」1282-02と。また「なんきたるをもって、あんらくとこころうべきなり」0750-だいいちあんらくぎょうほんのことと、これらのおんふみはすべて、ほんぶんのこころにつうずるものである。
 さんだいひほうのごほんぞんをたもついじょうは、「なんにあわんとこころえてたもつなり」とのおおせである。そこにむじょうさいだいのこうふく、すなわち、そくしんじょうぶつのきょうがいはえられるのである。
 ぶっぽうのほうていしきを、げんぜんととかれているではないか。とおくは、しゃくそんはくおうのだいなんにあい、てんだいは、なんさんほくしちにせめられ、でんぎょうは、ろくしゅうにあだまれている。そのたのれいはかずかぎりない。ちかくは、しょだいまきぐちつねさぶろうかいちょうは、ろうごくでおなくなりになり、にだいとだじょうせいかいちょうもまた、にヵねんのながきにわたって、ごくちゅうせいかつをおくられたのである。しかしながら、ぶっぽうのために、みをすつるは、「いしにこかねをかへ、ふんをこめにかうるなり」0910-16との、ごきんげんをおもうとき、いかなるなんにあおうとも、ごほんぞんを、ごじして、いっしょうじょうぶつのほんかいを、まっとうすべきではないか。
 しゅししんのさんとくを、ぐびされたごほんぶつ、にちれんだいしょうにんが、われわれに、じひをたれたまわぬわけがない。なんをうけるのをごらんになって、ふびんにおもわぬわけはない。だが、てんじゅうきょうじゅのぶっぽうのだいてっそくであり、うけるべきなんを、こくふくせずして、じょうぶつはありえない。
 さらに、なんにあうことを、かくごしてこそ、まをふせぐこともできるがゆえに、きびしくおおせになるのであって、だいじだいひの、ごきんげんをつよくつよく、しんじなくてはならぬ。しかるにぼんぷは、だいじなときにめさきのあんらくをもとめて、しんじんをわすれがちなものである。
 ゆえにごしょに、「『そくいしっとく、むじょうぶつどう』はうたがいなし、さんぜのしょぶつの、だいじたる、なんみょうほうれんげきょうを、ねんずるをじとはいうなり」1136-06と。また「いっしょうむなしくすごして、ばんさいくゆることなかれ」0970-14と、しょうがいごうじょうに、しんじんをつらぬきとおし、おのおの、くいなきじんせいを、まっとうしようではないか。

0742    だい15 がそくかんぎ、しょぶつやくねんのこと。

  おんぎくでんにいわく、われとはしんのうなり、しょぶつとはしんずなり、ほけきょうをたもちたてまつるときは、しんのうしんず、どうじにかんきするなり、またいわく、われとはぼんぷなり、しょぶつとはさんぜしょぶつなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえて、かんきするこれなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんの、「このきょうはたもちがたし、もししばらくもたもつものは、われすなわちかんきす、しょぶつもまた、しかなり」とあるところの、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。がそくかんぎの、われとは、しんのうつまり、せいめいそれじたいであり、しょぶつとはしんず、つまりせいめいのはたらきをいうのである。ごほんぞんをじゅじし、しんじんにはげむときは、せいめいのこんぽんも、せいめいのはたらきも、どうじにかんきするのである。
 また、われとは、ぼんぷのことであり、ぼんぷそくほとけで、にちれんだいしょうにんのことである。しょぶつとは、さんぜじっぽうのしょぶつのことである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえて、かんきすれば、しょぶつもまた、かんきするのである。これを、がそくかんぎ、しょぶつやくねんというのである。

 だいもくをとなえることが、さいこうのかんきであるとのおんふみである。われわれが、なんみょうほうれんげきょうととなうることは、われわれのせいめいに、いだいなるえいきょうをあたえることであり、やくどうするせいめいかつどうとなるのである。かおいろはすぐれ、せいかつのうえに、くどくがぐんぐんあらわれてくるのは、そのしょうこである。これこそしんじつのかんきであり、にちれんだいしょうにんは、「かんきのなかのだいかんきなり」0788-ごひゃくほんとも、おおせである。
 きょうぎにかった、こかねがもうかった、びょうきがなおった。だいじんになった。すべてはよろこびにちがいない。だが、それはえいえんのよろこびであろうか。そうではない、いちじてきのものであり、そうたいてきなものであって、けっしてえいきゅうてきなものではなく、ぜったいてきなものでもない。ばあいによっては、むしろ、そうしたいっぱんてきなかんきが、かえってしょうらいのあだになり、ふこうのげんいんになることは、にちじょうせいかつにつねにけいけんすることではないか。
 ごほんぞんをしんじ、だいもくをしっかりとなえるいがいに、ほんねんてきなかんきは、ありえないのである。このかんきこそ、じょうじゅうのものであり、いっさいのかんきは、ここにほうがんされて、はじめてわれわれのこうふくのないようとなるのである。
 ゆえに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつれば、ごほんぶつにちれんだいしょうにんは、およろこびくださり、たのいっさいのさんぜのしょぶつも、よろこぶのである。われわれが、みょうほうをとなえ、しゃくぶくすると、いろいろとひなんをうけ、はくがいされるばあいもある。
 しかし「ほけきょうを、たもちたてまつるときの、しんのうしんず、どうじにかんきするなり」とは、いかをいみするのであろうか。ひょうめんてきにははんたいするようであっても、いっさいのしゅじょうに、ぶっしょうがあるいじょう、ほんねんてきには、かんきしているのである。
 はんたいするのは、そのぶっしょうが、けんげんすることをおそれて、まがぼうがいするげんしょうを、みるべきではなかろうか。われわれは、よろこんでいる、ぶっしょうにちゃくもくせず、ひょうめんてきなまのはたらきに、げんわくされるのである。なんみょうほうれんげきょうは、ほんらい、いっさいしゅじょうが、こころのおうていにおいて、もとめているものであることを、かくしんして、たからかにだいもくを、となえぬいていこうではないか。

0743    だい16 どくじしきょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、ごしゅのしゅぎょうのどくじゅと、じゅじとのにぎょうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるはどくなり、このきょうをたもつは、じなり、しきょうとは、だいもくのごじなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ほうとうほんの、「このきょうをよみたもたんは」、とあるところで、おんぎくでんでは、つぎのようにおおせである。じゅじ、どく、じゅ、げだつ、しょしゃのごしゅの、しゅぎょうのなかの、どくじゅとじゅじとの、ふたつのしゅぎょうのことである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるのは、「どく」であり、このきょうを、じゅじしきっていくのは、「じ」になるのである。このきょうとは、だいもくのごじであり、なんみょうほうれんげきょう、じのいちねんさんぜんの、ごほんぞんのことである。

 ぶつどうしゅぎょうには、じゅじ、どく、じゅ、げせつ、しょしゃの、ごしゅのしゅぎょうがあるが、まっぽうにおいては、じゅじとどくじゅの、にぎょうのかんじんであって、ほかは、すべてこれに、ふくまれるのである。
 まず、われわれは、ごほんぞんを、おうけしたならば、なんみょうほうれんげきょうととなえる。ごほんぞんにむかって、となえればどくであり、ごほんぞんにむかわずして、となえるばあいはじゅである。このだいもくのくどくは、むりょうであり、ごんごにぜっするものである。
 たとえ、かりそめに、ままははがこどもをほめるように、こころならずも、いちかいとなえただいもくの、くどくさえ、はかりしれないほどおおきい。みょうらくは、「ほっしんしんじつならざるものも、しょうきょうにねんすればくどくなおおおし」ともといている。しかし、これは、ごほんぞんのちからの、いだいなることを、あらわしたものであって、われわれは、いっしょうじょうぶつするためには、しょうがいだいもくを、あげつづけねばならない。
 とうたいぎしょうには、「しょうじきにほうべんをすて、ただ、ほけきょうをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、うたうるひとは」、0512-10うんぬんと、じょうけんをおしめしになり、いか、ごほんぞんの、くどくがあげられている。
 また、ほうおんしょうには、「にほん、ないしかんど、げっし、いちえんぶだいにひとごとに、うちむちをきらはず、いちどうにたじをすてて、なんみょうほうれんげきょうととなうべし」0328-16とある。
 「たじをすてて」とあるとこに、こころをとどめるべきである。みょうもん、みょうりにとらわれず、ひたぶるに、だいもくをあげてこそ、ごほんいにかなうのである。
 かかるだいもくを、あげることは、ごほんぞんをじゅじすることと、ひょうりいったいである。「くうるは、やすく、たもつはかたし、さるあいだ、じょうぶつは、たもつにあり」1136-05と。ごほんぞんをじゅんしんにしんじまいらせ、だいもくをあげぬき、いかなるだいなんがあろうとも、ぜったいにごほんぞんをじゅじしきってこそ、じょうぶつできるのである。

0743    だい17 ぜしんぶっしのこと。


 おんぎくでんにいわく、ほけきょうのぎょうじゃは、しんにしゃかほうおうのみこなり、さるあいだ、おういをつぐべきなり、しっぜごしのこと、ぜしんぶっしのこと、よくよくこころえ、あわすべきなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、しゃかほうおうのみこなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほうとうほんの、「これしんのぶっし」とあるところの、おんぎくでんで、つぎのようにおおせである。ほけきょうのぎょうじゃは、しんに、しゃかほうおうのみこである。それゆえ、しゃかほうおうのおういをつぐことができるのである。ひゆほんの、しっぜごし、=ことごとくこれわがこなりのことは、ぜしんぶっしのこと、よくよくこころえるべきである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、しゃかほうおう、つまり、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしんにょらいの、みこである。



  • [239]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな ほっしほんじゅうろくかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月25日(日)02時35分38秒
 
0736~0739 ほっしほんじゅうろくかのだいじ。

0736    だいいち ほっしのこと。
0736    だいに じょうじゅだいがん、みんしゅじょうこ、しょうおあくせ、こうえんしきょうのこと。
0736    だいさん にょらいしょけん、ぎょうにょらいことのこと。
0736    だいよん よにょらいぐしゅくのこと。
0737    だいご ぜほけきょうぞうじんこゆおんむにんのうとうのこと。
0737    だいろく もんぽうしんじゅずいじゅんふぎゃくのこと。
0737    だいなな えざしつのこと
0737    だいはち よくしゃしょけだいおうとうちょうしきょうのこと。
0738    だいきゅう ふもんほけきょうこぶっちじんのんのこと。
0738    だいじゅっ にゃくせつしきょうじうにんあっくめかとうじょうがしゃくねんぶつこおうにんのこと。
0738    だい11じゅういち ぎっしょうしんしにょくようおほっしのこと。
0738    だい12じゅうに にゃくにんよくかあくとうじょうぎっがしゃくそくけんへんげにんいしさえごのこと。
0738    だい13じゅうさん にゃくしんごんほっしそくとくぼさつどうのこと。
0738    だい14じゅうし ずいじゅんぜしがくのこと。
0739    だい15じゅうご しとがくとのこと。
0739    だい16じゅうろく とくけんごうじゃぶつのこと。

0736    だいいち ほっしのこと。

 おんぎくでんにいわく、ほうとはしょほうなり、しとはしょほうが、ただちにしとなるなり、しんらさんぜんのしょほうが、ただちにしとなり、でしとなるべきなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、ほっしのなかのだいほっしなり、しょほうじっそうの、かいかくあらわれてみれば、じごくのとうねんみょうか、ないし、ぶっかにいたるまで、ことごとくぐそくして、いちねんさんぜんのほっしなり、またいわく、ほうとはだいもく、しとはにちれんとうのたぐいなり。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんに、ほっしほんの、「ほっし」ということについて、つぎのようにのべられている。「ほう」とはしょほう あらゆるげんしょうをいうのである。「し」とはしょほうがただちにしとなる。すなわち、うちゅうのあらゆるげんしょうが、いちねんさんぜんのとうたい、つまり、ごほんぞんとあらわれて、それがただちに、しとなるのである。しんらさんぜんのしょほう、すなわちなんみょうほうれんげきょうが、ただちにししょうとなり、われわれは、そのでしとなり、じょうぶつできるのである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、ほっしのなかの、だいほっし、つまり、しどうしゃのなかの、だいしどうしゃである。また、あらゆる、げんしょうは、みょうほうれんげきょうのとうたいであるという、しょほうじっそうのりが、あらわれてみれば、じごくのとうねんみょうかから、ぶっかいにいたるまで、ことごとく、いちねんさんぜんの、ほうりということが、できるのである。また、ほっしの「ほう」とは、なんみょうほうれんげきょう、「し」とはにちれんだいしょうにんのことであり、にんぽういちかをあらわしているのである。

 にんぽういちかのもんであられる。しゃかぶっぽうは、にんぽうしょうれつ、ほうがまさりひとがおとる。にちれんだいしょうにんは、ぶっぽうは、にんぽういちかである。すなわち、ほうとは、なんみょうほうれんげきょうであり、にん、はにちれんだいしょうにんとなる。
 「ほうとは、しょほうなり、しとはしょほうがただちにしとなるなり」、のおんふみは、そうかんもんしょうの「しゃかにょらい、ごひゃくじんでんこうのとうしょ、ぼんぷにておわせしとき、わがみは、ちすいかふうくうなりと、しろしめして、そくざにさとりを、ひらきたまいき」(0568-13)うんぬんの、こころにつうずるところである。すなわち、ちすいかふうくうは、しょほうであり、なんみょうほうれんげきょうのことである。かいしごたまうほとけは、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしんにょらいであり、そく、にちれんだいしょうにんであられる。
 また、しらぎさんぜんのしょほうとは、かんげんすれば、うちゅうそれじたいなのである。そのこんぽんのほうをば、にちれんだいしょうにんは、いっぷくのまんだらとしてぐげんあそばされ、いっさいしゅじょうの「じょうぶつへのし」とされたのである。
 ごほんぞんをはいして、なんみょうほうれんげきょうをちゅうしんとした、じっかいさんぜんのおんふみは、いわゆるしょほうであり、ほうほんぞんである。「にちれん」とおしたためは、にんほんぞんをあらわされている。そのごほんぞんをししょうとしてごじし、おぶついをじっせんしていくものこそ、いっさいのしゃかいじじょうを、しょうけんすることができ、しゃかいのしんのしどうしゃといえるのである。それをおんふみに、「ほっしのなかのだいほっしなり」と、おおせである。すなわち「ほっし」とは、いっぱんてきにいえば、しどうしゃのことであり、だいほっしとは、けいざいのしどうしゃ、せいじ、かがくとうのしどうしゃなどを、さらにしどうしていくげんりと、ちからをゆうすることをいうのである。
 「しょほうじっそうの、かいかくあらわれてみれば、じごくのとうねんみょうか、ないし、ぶっかにいたるまで、ことごとくぐそくして、いちねんさんぜんのほっしなり」とは、なんみょうほうれんげきょうにてらしてみるならば、じごくかい、がきかい、ちくしょうかい、にんかい、てんかい、ないし、ぼさつかい、ぶっかいとう、それじたいが、うちゅうにじつざいせる、じったいであることが、あきらかである。
 ともに、われわれせいめいのじっそう、じったいのはんちゅうでもある。ここでだいじなことは、みょうほうがこんぽんでなければ、すなわち、ごほんぞんをちゅうしんとしなければ、くにそくばくされたせいめいかつどうを、くりかえすのみであり、ろくどうりんねのいきをでないのである。したがってここでは、われわれこ々このせいかつにおいても、しゃかいにおけるかつどうも、もしみょうほうをしどうりねんとするならば、じっかいのせいめいことごとく、こうふくへの、かちそうぞうをいとなむことが、できるのであるとのことばであられる。

0736    だいに じょうじゅだいがん みんしゅじょうこ しょうおあくせ こうえんしきょうのこと

 おんぎくでんにいわく、だいがんとはほっけぐつうなり、みんしゅじょうことはにほんこくの、いっさいしゅじょうなり、しょうおあくせのひととは、にちれんとうのたぐいなり、こうとはなんえんぶだいなり、しきょうとはだいもくなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものなり。

かいしゃくこうぎ。
 ほっしほんには、まっぽうにおいて、ほけきょうをひろめるひとは、じつはだいぼさつがねがって、あくせにうまれて、きたのであるとのべている。
 「このしょにんとうは、すでにかつて、じゅうまんおくのほとけをくようし、しょぶつのところにおいて、だいがんをじょうじゅして、しゅじょうをあわれむがゆえに、このにんげんに、しょうずるなり」、「このひとは、これだいぼさつの、あのくたらさんみゃくさんぼだいを、じょうじゅして、しゅじょうをあいみんし、ねがって、このあいだにうまれ、ひろくみょうほけきょうをべの、ふんべつするなり」、「このひとは、みずからしょうじょうのごうほうをすてて、わがめつどののちにおいて、しゅじょうをあわれむがこに、あくせにうまれて、ひろくこのきょうをのぶるなり」などのもんしょうがある。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「だいがんをじょうじゅして」の「だいがん」とは、ほっけぐつうのことである。つまり、こうせんるふのことである。まっぽうしゅつげんのぢゆのぼさつは、すでに、たのせかいにおいて、こうせんるふをじょうじゅしてきたのである。
 「しゅじょうをあわれむがゆえに」の「しゅじょう」とは、にほんこくのいっさいしゅじょうのことである。そして、その「あくせにうまれて」の「ひろく」とはなんえんぶだい、いちえんぶだい、すなわち、せかいぜんたいにこうせんるふすることであり、「このきょう」とはだいもく、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょうのことである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうをとなえたてまつる、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかこそ、このほっしほんのもんしょうにあたるのである。

 このもんは、ぢゆのぼさつのしめい、もくてきをあかされている。「だいがんとはほっけぐつうなり」とは、ごほんぞんのこうせんるふである。すなわち、おのおの、ぢゆのぼさつとして、いっしょうじょうぶつ、すなわち、こうふくせいかつかくりつは、とうぜんのことであるが、さらにたたかいのこまをすすめて、ぶっぽうにみをささげる、このすがたこそ、しんのにちれんだいしょうにんのでしであり、さんぜじっぽうのほとけ、ぼさつよりだいしょうさんをうけるのである。
 「みんしゅじょうことは、にほんこくのいっさいしゅじょうなり」とは、べっしては、にちれんだいしょうにんが、にほんこくにごしゅつげんあそばされたがゆえに、とうぜん、にほんこくのひと々びとを、まず、おすくいくださるとの、だいじだいひとはいすることができるのである。そうじては、ぜんせかいのひと々びとが、「みんしゅじょうこ」のしゅじょうになることは、とうぜんのことである。
 げんじつに、インド、ちゅうごく、かんこくなど、かって、ぜんせいをほこったしゃかぶっぽうは、ほとんどしょうめつしてしまい、ぶっきょうはっしょうのちたる、インドにおいてすら、ヒンズーきょうとが、はちわりごぶをしめるありさまであって、ぶっきょうとは、ごくわずかしか、のこっていないのである。そのぶっきょうとも、しょうじょうきょうをやったり、ごんだいじょうきょうであったりして、ちしきじんから、まったくあいてにされない。
 ちゅうごくは、きょうさんけんであり、とうぜん、いきたぶっぽうが、そんざいするわけがない。おそらく、々ほそぼそとそんざいしているに、すぎないであろう。また、あったとしても、かせきのような、しゃくそん、てんだいぶっぽうのよじんである。
 にほんはどうかといえば、まったくどうようである。「ぶっぽう」なきにひとしい。しゅうきょうほうじんとなのつくものが、18じゅうはちまんもかぞえられるが、しゅうきょうのせいじゃ、ぜんあくはめいらんして、しゅうきょうはなんでもよいということになり、むしろ、じゃほう、じゃしゅうのために、しんのこうふくも、しんのへいわこっかも、けんせつできえないのである。それは、だいしょうにんございせも、こんにちもおなじであり、そのじゃほうにそまったひと々びとは、みんしゅじょうこのひと々びとにあたるのである。
 いちにちもはやく、だいしゃくぶくのしんぐんをし、はじゃけんしょうのつるぎをひっさげて、じゃしゅう、じゃぎをうちやぶり、ゆめにみる、ぶっこくどのけんせつを、じつげんしたいものである。そして、だいしょうにんのおんなげきを、およろこびに、かえていきたいものである。

0736    だいよん よにょらいぐしゅくのこと

おんぎくでんにいわく、ほっけのぎょうじゃは、だんじょともににょらいなり、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、よにょらいぐしゅくのものなり、ふだいしのしゃくにいわく、「ちょうちょう、ほとけとともにおき、せきせき、ほとけとともにふし、ときどきにじょうどうし、ときどきにけんぼんす」とうんぬん。

 まっぽうにほけきょうをぐつうするものについて、「このひとは、にょらいとともに、しゅくするなり」とある。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「ほけきょうのぎょうじゃ」すなわち、なんみょうほうれんげきょうをとなえ、しゃくぶくをぎょうずるものは、だんじょともに、にょらいである。それは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのせいかつをおくるからである。いま、なんみょうほうれんげきょうをとなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、「にょらいとともにしゅくする」ものである。みろくぼさつのこうしんであるといわれる、ふだいしは「まいあさ、ごほんぞんにおあいし、またまいばん、ごほんぞんとともにやすらかにねていく。まただいじなとき、だいじなもんだいについて、だいもくをとなえ、じかくにたって、こうどうすることである」とのべている。

 このもんは、だんじょどうけんのげんりを、とかれているもんである。とうようでは、とにかくじょせいのしゃかいてきちいがひくく、かんがえられているが、にちれんだいしょうにんのぶっぽうにおいては、じつにめいりょうに、だんじょのびょうどうをとかれているのである。しかも、700ねんまえにおいて。
 したがって、なんみょうほうれんげきょうをごじしただんじょは、ともに、さいこうのじんせいかんにたち、しゃかいかんをもって、こうふくなせいかつができるということである。これは、わががっかいのふじんぶ、じょしぶのかっぱつなかつどうが、じっしょうしている。これにたいし、たんなるほうりつじょうのだんじょどうけんは、かたちだけのものであって、ほんしつてきなどうけんとは、なりえないのである。
 「ふだいしのしゃくにいわく」とは、あさのごんぎょう、ゆうべのごんぎょう、せつなのだいもくとうは、われわれのじんせいこうろを、こんぽんてきにあやまちなく、もっとも、ゆういぎにせいかつできる、いんごうであることをといているのである。あたかも、ひ々びのごんぎょうは、そうもくのねに、まいにちみずをかけ、ひりょうをほどこしてねをはらせ、みき、くきをふとらせ、はなをさかせ、かをみのらせていくようなものである。
 もし、しん、ぎょうのないじんせいは、いくらえいよ、えいたつがあり、ゆうめい、にんきなどがあったとしても、はかない、ゆめのようなせいかつにおわってしまうのである。これにたいし、じみではあるが、まいにち、しんぎょうをつみかさねていくじんせいは、もっともとうとく、ただしく、そしてちゃくじつに、だいふくうんをつんでいくのである。ただ、わすれてはならぬことは、じぎょう、けたにわたるしんじんがなければ、りこしゅぎにおちいり、けんどんのつみを、まぬがれないということである。

0737    だいご ぜほけきょうぞう、じんごゆうおん、むにんのうとうのこと

 おんぎくでんにいわく、ぜほけきょうぞうとは、だいもくなり、じんごとはほんもんなり、ゆうおんとはしゃくもんなり、むにんのうとうとはほうぼうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、むにんのうとうのものに、あらざざるなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
「この、ほけきょうのぞうは、じんごゆうおんにして、ひとのよくいたるなし」とある。おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。「このほけきょうのぞう」とは、なんみょうほうれんげきょうのことである。じんことはほんもんのことであり、ゆうおんとはしゃくもんのことである。「むにんのうとう」とは、このじんのんな、ぶっぽうてつりをりかいできず、しんずることのできない、ほうぼうのもののことである。いまだいもくをとなえ、しんじんしゅぎょうにはげむにちれんだいしょうにん、ならびにそのもんかは、むにんのうとうのものではないのである。

 ここは、ほけきょうのせいめいてつがくの、じんのんなることを、しめされたもんである。よこには、くうけちゅうのさんたい、うちゅうぜんたいをとき、たてには、くおん、すなわちえいえんのせいめいを、ときあかしているがゆえに。
 そのせいめいてつがくこそ、ごじゅうのそうたい、さんじゅうひでん、しじゅうのこうはいとう、もんしょう、りしょう、げんしょうによって、どくぜんではなく、さいこうむにの、だいてつりであることは、けっじょうである。しょうじょうのてつりにしても、げどうよりみれば、いくえにもじんのんでることがうかがえる。いわんや、まっぽうのどいついっぽんもんのだいぶっぽうにおいてをやである。「むにんのうとう」とは、さんきょうのぼうじゃをいう。げんこんの、せんぱくなるてつがく、ひょうろんかのたぐいも、そのなかに、とうぜんはいる。ぶっぽうのおうていもきわめず、にんしきもせず、じつせんもせず、みだりに、イヌのとおぼえのごとくに、ひはんする、ぞうじょうまんのものこそ、みずから、ぼけつをほっているわけである。らんせい、らんごくには、あくにん、きょうゆうのみ、はばをきかすものである。
 いまのにほんこくに、しんじだいを、けんせつ、しどうしゆく、しんのしどうしゃ、がくしゃ、ひょうろんかのそんざいせぬことを、かなしむのは、わたしひとりではないとおもう。あたえていうならば、かならずや、あたらしきたかやま ちょぎゅうや、みやざわ けんじとうのようなふつほうがくしゃが、しゅつげんすることを、しんじてやまない。かいもくしょうには「ちしゃにわがぎやぶられずば、もちいじとなり、そのほかのだいなん、かぜのまえのちりなるべし、われ、にほんのはしらとならむ、われ、にほんのげんもくとならむ、われ、にほんのたいせんとならむとうとちかいしねがい、やぶるべからず。」(0232-04)と。しょせん、いかなるものが、いかに、ひそうてき、かんじょうてきに、そうかがっかいをひはんし、だんあつしようが、さんだいひほうのだいぶつほうを、やぶり、こわすことは、ぜったいにできないのである。
 きせいしゅうきょうは、きぎょうとなり、しのはかばんにすぎない。せいじゃのごとく、じんかくしゃのごとくみえるけれども、こころは、ちくしょうにもおとっている。しんこうしゅうきょうも、またおなじく、ほうをぬすみとり、ぜんぶきぎょうのためであり、たくみに、よわたりのみにしゅうしし、ひと々びとを、じごくにたたきこんでいるげんじょうである。そのしょうこには、かんこうちとか、あるいはてんねんきねんぶつのめいしょというようなところには、かならずといってよいほど、しんぶつをまつってあり、みるひとが、かえってきぶんをそこねている。なんのために、このようになっているのか、まったくはんだんにくるしむのである。したがって、しゅうきょうは、すでに、ちしきじんから、ぶべつされきっているのである。
 くにか、またはしどうしゃたちが、しゅうきょうのせいじゃを、しんけんにけんきゅうし、まどわぬようになるか、または、しゅうきょうはしゅうきょうのひろばにおいて、さかんにほうろん、ろんぎをさせ、しゅうきょうのせいじゃのしょうぶをば、さらに、さらに、すいしんさせゆくべきであろう。ぶっぽうをかいせぬ、ひょうろんかとうが、がっかいひはんをなすことは、まことにせいしんいじょうともいいたい。なぜならば、やおやが、かがくしゃをひはんし、こどもが、せきとりと、すもうをするとうなどうりと、かわらぬからである。

0737    だいろく もんぽうしんじゅ、ずいじゅんふぎゃくのこと。

おんぎくでんにいわく、もんとはみょうじそくなり、ほうとはだいもくなり、しんじゅとはじゅじなり、ずいじゅんふぎゃくとは、ほんしゃくにもんにずいじゅんするなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるもののことなり。

かいしゃくこうぎ。
「この、もろもろのけにん、ほうをきいてしんじゅし、ずいじゅんしてわじさから」についての、おんぎくでんである。
「もん」とは、みょうじそくのくらいである。「ほう」とは、なんみょうほうれんげきょうのことである。「しんじゅ」とは、ごほんぞんをじゅじすることである。「ずいじゅんふぎゃく」とは、ほんもんじゅりょうほんと、しゃくもんほうべんぽんにずいじゅんすることである。つまり、このりょうほんを、ごんぎょうにもちいていることを、いうのである。いま、この、「もんぽうしんじゅ、ずいじゅんふぎゃく」のものとは、なんみょうほうれんげきょうを、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかを、さすのである。

 じゅじそくかんじんを、あかしている。もんぽうのもんとは、ろくそくいのみょうじそくのことであり、たんにみみできくことではなく、みでほうをきくということであり、すなわち、さんだいひほうのごほんぞんをじゅじするならば、それがかんじん、しんじんというのである。ゆえに、しんじんを、まっとうするとは、「しきょうなんじ」の、ごきんげんのごよく、このごほんぞんをいっしょうがい、いかなるくなんにもくっせず、じゅじしとおすひとこそ、じょうぶつのきょうがいを、えとくできるのである。
 このごほんぞんを、こんぽんとして、だいもくをしょうぎょうとし、ほうべん、じゅりょうをじょぎょうとして、しょはしゃくもん、しょはしょゆうのうえから、ほんしゃくにもんに、ずいじゅんして、さからわないというのである。ゆえに、ほんもんじゅりょうほん、しゃくもんほうべんぽんを、よむのであるとの、おんふみとはいする。しょせん、だいしょうにんのもんかは、ただしくきょうもんどおりのじっせんを、しているとの、こころであるとおもう。

0737    だいなな えざしつのこと。

おんぎくでんにいわく、えざしつとは、ほっぽうおうのさんじんなり、くうけちゅうのさんたいしんくいのさんごうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、このさんきを、いちねんにじょうじゅするなり、ころもとはにゅうわにんにくのころも、とうじゃくにんにくかい、これなり、ざとはふしゃくしんみょうの、しゅぎょうなれば、くうざにこするなり、しつとは、じひにじゅうして、ひろむるゆえなり、ははのこをおもうがごとくなり、あに、いちねんにさんきをぐそくするにあらずや。

かいしゃくこうぎ。
 えざしつのさんきについては、ほっしほんにつぎのようにある。
 「やくおう、もしぜんなんじ、ぜんにょにんあって、にょらいのめつごに、ししゅうのために、ほけきょうをとかんほっせば、いかんがまさにとくべき、このぜんなんこ、ぜんにんは、にょらいのしつにはいり、にょらいのころもをき、にょらいのざにざして、しかして、ししゅうのためにひろく、このきょうをとくべし、にょらいのしつとは、いっさいしゅじょうのなかの、だいじひしん、これなり、にょらいのころもとは、にゅうわにんにくのこころ、これなり。にょらいのざとは、いっさいほっくう、これなり。このなかに、あんじゅうして、しかしてのちに、ふけたいのこころをもって、もろもろのぼさつ、および、ししゅうのために、ひろく、これのほけきょうをとくべし」と。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。えざしつのさんきとは、ほっぽうおうのさんじんである。くうけちゅうのさんたいであり、しんくいのさんごうである。いま、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、このえざしつの、さんきをみずからのいのちのなかに、じょうじゅするのである。「ころも」とは、だいなんをたえしのぶ、にゅうわにんにくのころもである。ゆうめいな、かんじほんだいじゅうさんのにじゅうぎょうのげのなかに「じょくこうあくせのなかには、おおくもろもろのくふあらん、あっきそのみにはいって、われをめりきにくせん、われら、ほとけをきょうしんして、まさににんにくのよろいをきるべし、このきょうを、とかんがためのゆえに、このもろもろのなんじを、しのばん、わが、しんみょうをあいせず、ただむじょうのどうをおしむ」とあるのが、これである。「ざ」とはふしゃくしんみょうのしゅぎょうであり、「くう」とは、なんみょうほうれんげきょうをとなえて、いちねんさんぜんのとうたいとしての、はたらきをいうのである。「しつ」とは、だいじひしんをもって、しゃくぶくするゆえである。ははがこのことを、しんぱいするようなきもちのことである。このように、みずからのいのちのなかに、えざしつのさんきを、そなえているではないか。

 まっぽうのさんきを、のべられている。さんきとは、すべてまっぽうの、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのおふるまいのことであり、はじめの、「にゅうわにんにくのころも」は、いっさいしゅじょうを、えいえんにおすくいくださるため、だいなんをしのばれ、さんだいひほうのごほんぞんを、ごこんりゅうたまわったことである。「くうきょにこする」とは、みょうもんみょうりに、いっさいかまわず、すべていちねんさんぜんのごとうたいとして、いっさいしゅじょうに、ぶっちをさずけんがための、おふるまいをいうのである。
 「しつとはじひにじゅうして、ひろむるゆえなり」ばっくよらくのぎであり、ほんげんてきに、しゅじょうのくをとりのぞかれ、こんぽんてきに、じょうらくがじょうのだいふくうんを、あたえたもうのである。それは、なんみょうほうれんげきょうの、ごとうたいとしての、しょさであられる。いま、わたしたちは、このごほんぶつのでしとして、だいしょうにんの、おふるまいの、まんぶんのいちでも、ちからをつくし、ごほうおんのまことを、じっせんかつどうのうえに、あらわさねばならぬとしんずる。

0737    だいはち よくしゃしょけだい、おうとうちょうしきょうのこと。

 おんぎくでんにいわく、もろもろのけだいとは、よんじゅうよねんのほうべんのきょうきょうなり、ことごとくみな、けだいのきょうなり、しきょうとはだいもくなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、これすなわち、しょうじんなり、おうとうちょうしきょうはこれなり、まさに、にちれんにこのきょうをきくべしといえりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
「もろもろの、けだいをすてんとほっせば、なさに、このきょうをきくべし」とよむ。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「もろもろのけだい」とは、よんじゅうよねんのほうべんごんきょう、にぜんきょうのことで、これらはことごとく、けだいのきょうである。
 「しきょう」とは、だいもくのことである。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることは、けだいではなくして、しょうじんのことである。にちかんしょうにんは、「えぎはんもんしょう」のなかで、「しょうじんはすなわちこれしょうだいのぎょうなり、ゆえにしゃくにいわく、『むざつのゆえにしょう、むげんのゆえにしん』とうんぬん、しゅうそいわく、『もっぱらだいもくをもちて、よぶんをまじえず』うんぬん」ともうされている。
 すなわち、じゅんすいに、またかんだんなく、しょうだいにはげむゆえに、しょうじんぎょうにあたるのである。このようなすがたを、おうとうちょうしきょうというのである。このまさの「おう」といういみは、にちれんだいしょうにんにおうじて、すなわち、にちれんだいしょうにんにしたがって、なんみょうほうれんげきょうを、しんずべきであるといういみである。

 ぶっぽうてつり、しそうのこうていをのべられている。しゅうきょうやしそうの、ないよういかんによって、みんしゅうのこう、ふこうがけっていされてしまうからである。ひと々びとをだらくにみちびくしそうもある。また、みんしゅうをこうりゅうさせていくしそうもあれば、しゃかいをはかいしていくしそう、てつがくのないようこそ、こじんを、しゃかいをくるわし、もしくは、すくいもする、おおきなりきがあることは、われらは、めいきしなければならない。
 しゃくそんも、だいしょうにんも、ここでは、よんじゅうよねんのにぜんのきょう々きょうをさして、はっきりと、けだいのきょうであると、だんげんなされておられるのである。すなわち、けだいのきょうは、こじんをだらくさせ、ふこうにし、くにをほろぼすきょうである。とのけつろんである。このだいしょうにんのけいこくを、まじめにきくものは、だれであるか。
 にほんこくのげんざいのぶっきょうかい、ないし、とうなんアジアのしゅうきょうなど、こっか、しゃかいにおよぼすえいきょうをみるに、みな、このけだいのきょうのなかにはいることは、あきらかではないか。にほんにぜんこくてきそしきをもつぜんにちふつも、しんしゅうれんも、いずれもけだいのきょう々きょうを、ひょうぼうしているから、すでにしゅうきょうほんらいのしめいもすいこうできず、ましてや、しゃかいのかくめいなどは、おもいもよらぬことであろう。じつに、ひせいさんてきな、まったく、けだいのそんざいといわざるをえない。
 これにたいして、だいしょうにんは、なんみょうほうれんげきょうとしょうだいすることは、「しょうじん」であるとおおせである。すなわち、「しょう」とは「むざつ」、「しん」とは「むげん」とやくす。しょせん「しょう」とは、ごほんぞんであり、「しん」とは、かんだんないじっせんである。したがって、このみょうほうをこんぽんりねんとするならば、おのおのじたいけんしょうされて、しゃかいのはんえいのため、おおきくこうけんすることができるのである。みょうほうはそのげんせんであり、ちからとなることはろんをまたぬ。




0738    だいきゅう ふもんほけきょう こぶっちじんのんのこと。

おんぎくでんにいわく、ふもんとは、ほうぼうなり、じょうぶつのちをとおざかるべきなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものはぶっちかいごのものにして、じょうぶつのちかきゆえなり。

かいしゃくこうぎ。
「ほけきょうをきかずんば、ぶっちをさること、はなはだとおし」とよむ。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「ふもん」とは、ほけきょうすなわち、なんみょうほうれんげきょうのおしえをきかないがゆえにほうぼうである。それは、じょうぶつのきょうがいから、ひじょうにとおざかることになるのである。いまなんみょうほうれんげきょうを、となえるにちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、ぶっかいをゆげんし、げんじつせいかつのうえに、じょうぶつのしょうこをあらわすのである。

 「ぶっちかいごのものにして、じょうぶつちかきゆえなり」とは、なんみょうほうれんげきょうによらなければ、ぜったいにこうふくはかくりつできぬとのおんふみである。
 そうたいてきなこうふく、けんこう、ざいさん、めいよなどは、そのひとのふくうん、どりょく、ちえ、さいのうとうによって、たやすくえられるものである。しかるに、えいえんのせいめいをえとくし、えいえんにさかえゆくこんごうふえのぜったいてきこうふくは、ただ、みょうほうのごほんぞんをじゅじし、しんぎょうにはげむいがいには、ぜったいにえられない。
 いかなるゆうめいじん、せいこうしゃたりとも、おんぎくでんをそのままはいすれば、ぶっぽうにたいして「ふもん」であり、すなわち、ほうぼうとなる。したがって、そのふくうんはしだいにおとろえゆき、さいごはひげきにおわらざるをえないといえよう。このすがた、げんしょうは、わたしたちも、しばしばみせつけられているが、ぶっぽうのきびしさを、これによってあらためてしるのである。
 みょうほうのみは、せいかつほうのげんりであり、このむとこのまざるとにかかわらず、あらゆるひと々びとがぜったいひつようとするほうりなのである。きく、きかない、というそうたいてきなほうそくではけっしてない。みょうほうをじゅじせぬことは、じどうしゃにガソリンがないようなものであり、また、テレビやでんわがあっても、でんりゅうをひつようとしないとするかんがえににている。しゃくぶくをされても、ごほんぞんのはなしにみみをかさないようなひとは、せっかくのじんせいをかんきを、ついにしることなく、しょうがいをおえてしまうことは、まことにざんねんといういがいにない。

0738    だいじゅう にゃくせつしきょうじ、うにんあっくめかとうじょうがしゃく、ねんぶつこおうにんのこと。

 おんぎくでんにいわく、しきょうとはだいもくなり、あっくとはくごうなり、かとうじょうはしんごうなり、このしんくのにごうは、いごうよりおこるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、ぶつちょくをねんずるがゆえに、おうにんとはいうなり。

かいしゃくこうぎ。
「もしこのきょうをとかんとき、ひとあって、あっくしののしり、とうじょうがしゃくをくわうとも、ほとけをねんずるゆえにまさにしのぶべし」とよむ、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「このきょう」とはなんみょうほうれんげきょうのことである。また、あっくなどのなんを、しんくいのさんてんからみれば、「あっく」はくちのうごきであるからくごうである。「とうじょうがしゃくをくわう」ということはみのうごきであるから、しんごうである。
 そして、このしんくにごうのはくがいは、かれらのこころのはたらき、すなわちいごうからおきてくるのである。いまなんみょうほうれんげきょうをとなえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、こうせんるふのぶつちょくをねんずるがゆえに、これらのなんをしのぶのである。

 だいさんるいのごうてきのもんである。だいしょうにんをはくがいした、へいのさえもんじょうのいちぞくのめつぼう、これはせんじしょうもんだんにしょうさいにのべられている。
 たいへいようせんそうのとき、そうかがっかいをだんあつしたかんけんが、おなじくげんぜんたるぶつばつをこうむったことも、とだぜんかいちょうのこうえんしゅうに、くわしくのべられている。なおこんにちおいても、がっかいひはんのれんちゅうのげんしょうは、おのおの、おそろしいほどみぢかにみるところである。
 これらのげんしょうはなぜか。これこそ、にちれんがいちもんのとうそうは、ぶつちょくをねんじてのとうそうであるからである。しこうして、さいおう、だいしょうにんのだいじだいひのおすがたをはいするならば「へいのさえもんこそだいばだった」とおおせあそばされ、じゅんずるものも、またぼうずるものも、ともに、おすくいくださるのである。
 したがって、このおんふみをはいし、しゃくぶくしてはんたいしたからといって、すぐかんじょうてきになってはならぬ。「おうにん」のにじを、よくよくこころにいれて、しゃくぶくをおこなうべきである
 われらは、ゆいいつ、むじょうのしょうほうをたもっているゆえに、たとえば、くにのほうりつでもつみあるひとをいましめ、つみするとどうように、ぶっぽうのせかいでも、ふついをほうずるわれわれをば、もしぼうじたり、ひはんしたりするならば、しょてんぜんじんが、これをきびしく、いましめていくことは、とうぜんのりであるとおもう。

0738    だい11 ぎゅうしょうしんじにょ、くようおほっしのこと。

おんぎくでんにいわく、じにょとはだんじょなり、ほっしとはにちれんとうのたぐいなり、しょうしんとはほけきょうにしんじんのものなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるもの、これなりうんぬん、これ、しょてんぜんじんとう、だんじょとあらわれて、ほけきょうのぎょうじゃを、くようすべしというきょうもんなり。

 ほっしほんには、しょてんぜんじんのはたらきについて、つぎのようなもんしょうがある「われ、けのししゅう、びくびくに、およびしょうしんにょをつかわして、ほっしをくようせしむ」うんぬんと。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「じにょ」とはだんじょということである。「ほっし」とは、ほけきょうのぎょうじゃである、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかのことである。「しょうしん」とは、ほけきょう=ごほんぞんをしんずるものについて、いうのである。いまなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、にちれんだいしょうにんのでしだんなのしんじんは、しょうしんである。
 このもんしょうは、しょてんぜんじんが、しんじんごうじょうな、だんじょのすがたをとって、ほけきょうのぎょうじゃ、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかを、くようするというきょうもんである。

 ほけきょうのぎょうじゃは、かならず、さまざまなかたちで、まもられるというおんふみである。
 いっけんして、ふしぎにおもえるきょうもんであるが、せいめいろんよりふかくこうさつするならば、かんのうのげんりより、しょてんぜんじんのかごが、ぜったいにあるとかくしんするのである。
 にちれんだいしょうにんが、いずのいとうにるざいされたときには、ふなもりやさぶろうのふさいが、しんけんにおくようもうしあげ、だいしょうにんから「ことにごがつのころなれば、こめもとぼしかるらんに、にちれんをないないにて、はぐくみたまいしことは、にちれんがふぼのいずのいとう、かわなというところに、うまれかわりたまうか、ほけきょうだいしにいわく『ぎゅうしょうしんじにょくようおほっし』とうんぬん。ほけきょうをぎょうぜんものをば、しょてんぜんじん、あるいは、おとこになり、あるいはおんなとなり、かたちをかへさまざまに、くようして、たすくべしという、きょうもんなり、やさぶろうどのふうふのじにょとうまれて、にちれんほっしをくようすること、うたがいなし」(1445-08)とのおことばをたまわっている。また、さどごるざいのときのあぶつぼう、せんにちあまふさいのいのちをかけてのかつやくは、このきょうもんにふごうして、あわせたごとくではないか。
 また、げんざい、われわれも、しんこうのせいかつたいけんをとおして、だれひとも、しょてんのかごをみとめざるをえないのである。ぶっぽうはけっしてかんねんろんではない。げんじつろんであり、しょうこしゅぎである。したがって、ごほんぞんをじゅじするひとは、かならず、おやこ、きょうだい、ゆうじんなどから、またしょくばや、しゃかいとうにおいても、じじつ、さまざまなかたちをもって、まもられているのであり、よくくどくがないというひとも、しゅういをみつめたり、にゅうしんじにさかのぼってげんざいをかんがえてみたときに、いつのまにかだいくどくをうけているのに、きがつくのである。このだんは、そのげんりをとかれているとおもう。

0738    だい12 にゃくにんよっかあく、とうじょうきゅうがしゃく、そくけんへんげにん、いしさえごのこと。

 おんぎくでんにいわく、にんとは、たつのくちしゅごのはちまんだいぼさつなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものを、しゅごすべしというきょうもんなり。

 「もしりみだに、とうじょうおよびがしゃくを、くわえんとほっせば、すなわちへんげのひとをつかわして、これがために、えごをなさん」ということである。これも、しょてんぜんじんのはたらきをのべたものである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このへんげにんとは、たとえばたつのくちのくびのざのとき、はちまんだいぼさつが、しゅごのちからをはっきして、ひかりものがあらわれたことをさすのである。まっぽうにおいて、なんみょうほうれんげきょうをとなえる、にちれんだいしょうにんおよびそのでしだんなを、しょてんぜんじんがかならずしゅごするという、きょうもんなのである。

かいしゃくこうぎ。
 これも、しょてんぜんじんのはたらきのもんである。ぼんぷのそうぞうをぜっする、ごほんぶつへのはくがいや、これにまさずる、おふるまいについて、われらしんじゃとの、へだたりは、どうしようもない。しかして、このきょうもんのごとく、だいしょうにんにたいする、しょてんぜんじんのはたらきは、げんぜんとあらわれたのである。
 しょせん、このきょうのほうりは、われらしんじゃのたちばより、かんがえるならば、じこがかわれば、こくども、かんきょうも、しゅういのひと々びとも、みなかわるというじじつから、しさくし、えとくすべきであろう。
 これこそぶっぽうのしんずい、いちねんさんぜんのだいてつりであり、これをかくちせんがためのしんじんである。じこのせいめいかつどうが、だいうちゅうのせいめいかつどうにかんのうしていくかんけいであるがゆえに、いっさいを、じざいにうごかしえることは、まちがいないことといえるのである。

0738    だい13 にゃくしんごんほっし、そくとくぼさつどうのこと。

 おんぎくでんにいわく、しんごんとはしんじゅのいみょうなり、ほっしとはにちれんとうのたぐいなり、ぼさつとはぶっかをえるしたじなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるもののことなり。

かいしゃくこうぎ。
 「もし、ほっしにしんごんせば、すみやかに、ぼさつのどうをえ」の、もんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「しんごん」とは、しんじゅのべつめいである、「ほっし」とはにちれんだいしょうにんおよび、そのもんかのことである。ぼさつとは、ぶっかいにはいるしたじである。いま、ほっしである、にちれんだいしょうにんのおおしえをしんじゅし、なんみょうほうれんげきょうを、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんのでしだんなは、じょうぶつへの、じきどうであるぼさつのどうを、えたといえるのである。

ぼさつとはぶっかをえるしたじなり。
 ぼさつのぎょうをしなくては、ぶっかをうることができないのは、つうずのぶっぽうのていそくである。
 こんにちにおいては、われわれは、ぢゆのぼさつのこうどうをとり、じっせんかつどうをおこなっているのである。このぼさつどうをぎょうじて、はじめてほんかくのにょらいを、かくちすることができる。しょうがっこうでべんきょうせねば、ちゅうがっこうにしんきゅうできないとどうように、また、ちゅうがっこうやこうこうのしたじがなく、じつりょくがなければ、だいがくにははいれないのとどうように、ぶっかをめざしてすすむときは、げんざいのぼさつどうにしょうじんするのである。しかして、だいしょうにんのぶっぽうでは、このぼさつどうは、あくまでもげゆうのすがたであり、ないしょうのへんは、すでに、だいしょうにんのけんぞくなのである。

0738    だい14 ずいじゅんぜしがくのこと。

0739、おんぎくでんにいわく、ぜしとは、にちれんとうのたぐいなり、がくとはなんみょうほうれんげきょうなり、ずいじゅんとは、しんじゅなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「ぜし」とはにちれんだいしょうにんのことである。「がく」とは、なんみょうほうれんげきょうをまなぶのである。「ずいじゅん」するとは「しんじゅ」するということである。つまり、にちれんだいしょうにんを、ししょうとあおぎ、そのごきんげんをしんじゅし、にんぽういつかのごほんぞんにむかって、なんみょうほうれんげきょうととなえるということである。

 このもんは、じんせいにおける、こんぽんてきなしていろんをとかれている。「ぜし」とは、にちれんだいしょうにんであり、にんほんぞんとなる。「がく」とはみょうほうのことであり、ぽうほんぞんのことである。「ずいじゅん」とはしんじゅのぎであり、われらは、にちれんだいしょうにんを、「し」とさだめ、いっしょうがい、そのおしえをしんじゅし、なんみょうほうれんげきょうを、じっせんするのであり、すなわち、さんだいひほうのごほんぞんをしんじゅし、じっせんにはげむことである。ただし、あくしにずいじゅんしたときは、かならずふこうとこんらんをまねき、ぜんしにずいじゅんしてこそ、こうふくとはんえいがきょうじゅできるのである。
 げんざいのにほんにおいては、「し」にたいするかんねんが、ほとんどいしきされなくなった。これは、まことにふこうなことといわねばならない。せんご、とうとうとしてしんとうしたみんしゅしゅぎしそうを、そのしんのいぎをりかいせず、じしゅせいもかくりつしないままに、うけいれたゆえであるが、ただかこのそくばくから、とつぜんかいほうされたというだけであって、じんせいのこんぽんもんだいであるべきしていのみちを、まったくわすれてしまったかのようである。だが、このげんこんのじじつをもって、していのみちが、ふひつようであるとはいえない。いな、じんせいにおけるこうどうも、みんしゅうのしそうも、すべてしによってけっじょうされているのである。
 いちめんからいえば、みんしゅしゅぎそれじたいを、かくりつするためにも、そのだいちともいうべき、ほんげんてきな、いだいなる「ししょう」が、ぜったいにひつようなのである。しかして、しといっても、われらのじんせいにおいて、しょうがっこうのし、ちゅうがっこうのし、こうこうのし、だいがくのし、またきょうかしょとしてのし、あるいはじゅうどうのし、けんどうのし、かくスポーツのし、げいじゅつのし、いがくのし、かがくのし、けいざいがくのし、ぶんがくのし、てつがくのし、かくしょくばにおけるしとう々とう、まことにたしゅたようのしがある。 だが、これらのしは、すべて、こんぽんてきな「ししょう」とはいえないのである。なぜなら、かれらはしんにじんせいを、しどうしきれるものではないゆえである。しょせん、そのこんぽんてきなししょうこそ、さんぜにつうぎょうされた、まっぽうのごほんぶつたる、にちれんだいしょうにんであり、ほうにおいては、なんみょうほうれんげきょうとけっじょうすべきことを、しゅちょうしてやまない。
 もし、かりに、にちれんだいしょうにんいがいに、こんにちのしそうをよくしどうするものが、そんざいするとすれば、それは、だれびとであろうか。われらのしんしな、かがくてきけんきゅうによっても、そのだいてつりは、いまだみあたらない。また、そのしょうことしての、じじつもきかない。だが、にちれんだいしょうにんのだいてつがくをししんとして、じっせんするならば、すべてのひとのこうふくをかくりつできうることは、すでに、いくせんまんのがっかいいんのすがたが、これをよくしょうめいしているといえよう。これをしゃかいにあてはめたとき、せいじ、きょういく、かがくとうのいっさいのはんえいが、じつげんされることは、いうまでもない。
 いま、けつろんよりのべれば、まっぽういまどきは、ばんにんきょうつうのだいししょうである、さんだいひほうのごほんぞんを、しとするいがいに、じんせいのこんぽんてきな「し」は、そんざいしないのである。また、これをしんじゅするものこそ、しんじつの「していのみち」を、まっとうしたといえるのである。

0739    だい15 しとがくとのこと。

 おんぎくでんにいわく、にちれんとうのたぐいの、なんみょうほうれんげきょうはがくしゃのいちねんさんぜんなり、しもがくもともにほうかいさんぜんのしがくなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ぜんこうの、「だいじゅうしずいじゅんぜしがくのこと」に、かんれんしたないようである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。にちれんだいしょうにんならびにそのもんかのとなえる、なんみょうほうれんげきょうというのは、しんじつのぶっぽうをたんきゅうし、じっせんしていくものの、いちねんさんぜんのとうたいである。したがって、ししょうである、にちれんだいしょうにんも、また、そのししょうにちれんだいしょうにんのおしえ、なんみょうほうれんげきょうをしんじゅし、じっせんしていくもんかも、ともに、うちゅうしんらばんしょうの、いっさいのししょうであり、がくしゃとなるのである。しょせん、いちねんさんぜんをしったひとは、していふに、きょうちみょうごうのげんりによって、せかいさいこうのがくしゃである。あらゆるかいそう、あらゆるせかいにおいて、だいしどうしゃとしてくんりんすべきしかくがあるとのおんふみである。

 「しもがくもともに、ほうかいさんぜんのしがくなり」とは、していふにろん、きょうちみょうごうである。しとともに、またきゅうどうしゃのたちばとして、せいめいのほんしつをまなび、じっせんしていることをあかしている。
 これは、たきょうだんのきょうぎなどの、とおくおよばないとうてつしたろんりであり、またきせい、しんこうしゅうきょうのきょうそかんを、こんていよりくつがえしているてつりである。
 ししょうたるにちれんだいしょうにんのおせいめいも、ずいじゅんする、でしであるわれらぼんぷのせいめいも、ともにいちねんさんぜんのとうたいであるから、していふにである。しかるに、じゃしゅうきょうのきょうそとうは、じぶんのみがぶっきょうのしんずいをしり、しゅうきょうのおうぎをきわめたようなげんせつをはき、しかも、ていきゅうきわまるきょうぎを、なかなかりかいしがたいものであるといって、そのくせ、あたかもさとりをひらいた、せいじんのごとくにふるまうすがたは、まったく、しゃかいを、そしてみんしゅうをぎまんする、だいあくにんとだんぜざるをえない。
 われらは、あくまでも、いちねんさんぜんのてつりをまなび、また、みずからのせいめいがいちねんさんぜんのとうたいであることをかくしんして、ししょうとおなじく、でしもともに、さいこうしんじつのせいめいかんを、はあくせよというのが、にちれんだいせいてつのおおせである。このてつりは、げんこんの、みんしゅしゅぎしそうのこんていとなるものであり、みんしゅうひとりひとりのしゅたいせいと、じがのかくりつをかのうにするだいてつりであることをみのがしてはならない。こうかんでいわれる、ファッショとか、ぜんたいしゅぎ、こくすいしゅぎのごとき、かたにはまった、しゅうだんこうどうのきせいではだんじてない。そんなきゅうくつなものではけっしてない。このだいてつりを、まったくしらぬひと々びとのたわごとにすぎない。
 わががっかいこそ、こじんにただしきじんせいかんをかくりつせしめ、そして、こうふくなしゃかいけんせつのために、わごうそうというひとつのほうていしきより、くんれん、きょういくして、そのもくてきをたっせいせんとする、だんけつであることをめいきされたい。
 また、いっぱんしゃかいにおけるがくしゃには、きのうほうてきにけんきゅうするかがくしゃもおり、けいざいがくしゃがあり、ぶんがくしゃもいる。またてつがくしゃもいる。それらのがくしゃは、いまだ、うちゅうのほんげんたるいちねんさんぜんの、じょぶんのがくしゃにすぎないといえよう。これにたいし、みょうほうこそ、うちゅうのほんげんをといたがりょうてんせいのげんりであり、また、いっさいのかいそうのもとめんとする、しゅうきょくのだいてつりであって、あらゆるしゃかいのげんせんなのである。

0739    だい16 とくけんごうしゃぶつのこと。

おんぎくでんにいわく、けんごうしゃぶつとは、けんほうとうということなり、ごうしゃぶつとは、たほうのことなり、たほうのたとはほうかいなり、たからとはいちねんさんぜんのかいごなり、ほうかいをたほうぶつとみるを、けんごうしゃぶつというなり、ゆえに、ほっしほんのつぎに、ほうとうほんはくるなり、げぎょうしょうのほっしののりものは、ほうとうなりうんぬん、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、みょうげ、みょうぎょう、みょうしょうの、ふしぎのげ、ふしぎのぎょう、ふしぎのしょうとくなり、しんじついちねんさんぜんのかいごなりうんぬん、このごうしゃというは、あくをめっし、ぜんをしょうずるかわなり、ごうしゃぶつとは、いちいちもんもん、みな、こんじきのぶつたいなり、けんのじこれをおもうべし、ぶっけんということなり、ずいじゅんとは、ぶつちけんなり、とくけんのけんのじとけんほうとうのけんとは、えしょうのにほうなり、とくけんごうしゃのけんは、しょうほうなり、けんほうとうのけんはえほうなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここでも、まえのだいじゅうし、じゅうごにつづいて、「ごうしゃのほとけを、けんたてまつることをえん」というところの、おんぎくでんである。おんぎくでんには、「けんごうしゃぶつ」というのは、「けんほうとう」ということであるとおおせられている。
 「ごうしゃぶつ」とは、ガンジスかわのすなのように、おおいほとけであるから「たほう」のことになる。この「たほう」のたとは、おおいということであり、うちゅうぜんたいのしんらばんしょうことごとくをさし、それからじっかいさんぜんすべてが、なんみょうほうれんげきょうのとうたいであると、かいごすることを「たから」というのである。したがって、うちゅうのしんらばんしょうことごとく、「たほうぶつ」としんずることを、けんごうしゃぶつというのである。
 ゆえに、ほっしほんだいじゅうのつぎに、けんほうとうほんだいじゅういちが、とかれているのである。
 げぎょうしょうのほっし、つまり、さんだいひほうのぶっぽうをりかいし、そのおしえのとおりにじっせんし、そのぶっぽうのいだいなりきを、しょうとくしていくほっしののりもの、すなわち、「みょうほうぐつうのだいどうし」が、こんぽんとすべきは、ほうとうすなわちごほんぞんである。
 いま、にちれんだいしょうにんならびにそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるすがたは、みょうげ、みょうぎょう、みょうしょう、すなわち、ふかしぎのりかいと、ふかしぎのしゅぎょうと、ふかしぎのしょうとくが、できたすがたであり、しんじつのいちねんさんぜんを、かいごしたすがたである。
 このごうがというのは、あくすなわち、ほうぼうをめっし、ぜんをしょうずるかわである。すなわち、ごほんぞんをしんずれば、まよいをふくにてんじていくことが、できるのである。ごうしゃほとけとは、きょうもんいちじいちじが、みなりっぱなほとけのとうたいなのである。「とくけんごうしゃぶつ」の、「けん」のじについて、このことをよくよくかんがえるべきである。このけんは、ぶっけんということで、ごほんぞんをしんずるしんということである。
 ずいじゅんとは、ぶつちけんである。とくけんの「けん」のじと、けんほうとうの「けん」のじとは、えしょうのにほうになる。つまり、「とくけんごうしゃぶつ」のけん、すなわちごうぶつを、みようとするのはちになり、しょうほうとなる。そして「けんほうとう」のけん、すなわちしんじんするたいきょうが、ほうとうすなわちごほんぞんになるからえほうである。

 いちねんさんぜんを、かいごするもんである。
 「けんごうしゃぶつとは、けんほうとうということなり」のおんふみは、ほっしほんだいじゅうのもんのつぎに、けんほうとうほんだいじゅういちとなるだんかいを、すでにあかしている。ほっしほんのほっしとは、もんていよりはいせば、にちれんだいしょうにんのおんことであり、けんほうとうほんのほうとうとは、なんみょうほうれんげきょうのごほんぞんのことである。ともに、にんぽういっかのごほんぞんを、あらわされているのである。
 「たほう」の「た」ということは、ほうかい、すなわちうちゅうそれじたいである。「たから」とは、いちねんさんぜん、すなわち、なんみょうほうれんげきょうのことである。したがって、ぜんうちゅう、ほうかいのほんげんは、すべて、たほうぶつにあらざるものはなく、われらのせいかつにやくせば、しんらばんしょう、ことごとくむりょうのたからであり、くどくであり、じひであると、かいごすることが「けんごうしゃぶつ」というのである。
 「げぎょうしょうのほっしの、のりものはほうとうなり」とは、「わがみは、ちすいかふうくうなりと、しりしめして、そくざにさとりをひらきたまいき」(0568-13)のおんふみのとおり、いっさいをかいごしたもうかた、すなわち、にちれんだいしょうにんのしめされた、のりものは、ごほんぞんであるとのことばであられる。「みょうげ、みょうぎょう、みょうしょう」ということは、われらが、ごほんぞんをしんじ、だいもくをとなえ、しゃくぶくをぎょうじていくならば、かならず、しんのじんせいかん、うちゅうかんをかくりつして、さいこうのこうふくきょうがいを、うるとうことである。
 「みょうげ」とは、しんげである。みょうほうのじのいちねんさんぜんは、ごほんぞんをしんずることによってのみ、げりょうすることができる。
 すなわち、みょうほうのくどくを、ただちにみにかんずるのである。いしんとくにゅう、いしんだいえとは、このことでる。もしうたがいがあるときは、いっさいがとざされているように、いかなるおしえもこうぎも、みにつかないのである。また、そのせいかつはくうきょである。「みょうぎょう」とは、りゃくこうしゅぎょうではなく、じきたつしょうかんのなんみょうほうれんげきょうである。われらは、じぎょうけたのだいもくをとなえ、しゃくぶくしていくときに、げんせにおいて、ひ々びのしゅくめいだかいのうえに、いかなるふこうも、またしょうろうびょうしのじんせいも、わがしどあんのんのじんせいにかくめいできるのでる。「みょうしょう」とは、われわれがげんじつに、しょうじそくねはんのきょうがいをえて、ぶっしんとものしんのこうふくせいかつが、できるとのもんであり、これじんせいのくきょうのさとりである。
 またごうしゃについて、あくをめっし、ぜんをしょうずるかわといわれているが、これはごほんぞんのくりきを、といたもので、われらのあくごうをめっして、ぶっかいのせいめいを、ゆげんするように、あるのである。ずいじゅんとは、しんじゅといい、ぶつちけんといい、しょせん、しんじんのことであり、すなおなしんじんにより、はじめて、ほとけをちけんできるのである。じゅりょうほんの「いっしんよくけんぶつ、ふじしゃくしんみょう」が、さんだいひほうの、だいもくにあたるのぎと、おなじである。しかして、「とくけんのけんとは、えしょうのにほうなり」とは、とくけんごうしゃぶつのけんは、しょうほうであり、すなわち、われらがとうたいである。また「けんほうとう」のけんは、えほう、きゃくたいであり、すなわち、ごほんぞんのこととなるのである。

  • [238]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ にんきほんにかのだいじ

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月23日(金)03時23分39秒
 
  にちれんだいしょうにんごしょこうぎ、  おんぎくでん。 ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ。

0734~0734 ごひゃくでしじゅきほんさんかのだいじ。

0734    だいいち えりのこと。
0734    だいに すいしゅにがのこと。
0735    だいさん しんしんへんかんきのこと 。

 だいいち えりのこと。

 おんぎくでんにいわく、このほんには、むげのほうしゅを、えりにかくることをとくなり、しょせんにちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、いちじょうみょうほうの、ちほうをしんじゅするなり、しんじんをもって、えりにかくというなり。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 この、ごひゃくでしじゅきほんには、さけによって、ふしていえる、ゆうじんのころものうらに、むげのほうぎょく=むじょうのほうしゅを、かけたというはなしが、とかれている。われわれのせいめいじたいに、ぶっかいがあるということを、いみしている。
 またかんじんのほんぞんしょうに、「いちねんさんぜんを、しらざるものには、ほとけ、だいじひをおこし、ごじのうちにこのたまをつつみ、まつだいようちのくびに、かけさしめたまう」(0254-18)とあるように、もとめずしてむじょうのほうしゅである、ごほんぞんをいただくことが、できたことをいみしているとおもわれる。
 しょせん、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、われわれにちれんだいしょうにんのもんかこそ、いちじょうみょうほうの、ちほう、すなわち、ごほんぞんをしんじゅすることに、なるのである。
 しんじんがあることを、ころものうらにかけるというのである。

 ぶっかいしょぐのもんである。すなわち、むげのほうしゅとは、ぶっかい=みょうほうのことであり、えりとは、せいめいのおうてい、いちねんのことである。われわれは、ひとよりこうふくをもらうものではない。あくまでも、こうふくは、じぶんじしんがつくるものである。そのこんぽんが、しんじんである。
 そこで、こんどは、かんきょうをととのえてゆくところに、こじんのこうふくと、しゃかいのはんえいがいっちするのである。えしょうふにろんより、ろんずれば、えほうは、かんきょうであり、しょうほうはこじんとなる。すなわち、しょうほうのこんぽんのかいけつはぶっぽう、えほうのかいかくはおうほうとなるのである。

0734    だいに すいしゅにがのこと

おんぎくでんにいわく、さけとはむみょうなり、むみょうはほうぼうなり、がとはほうぼうのいえにるうまることなり、さんぜんじんでんのとうしょに、あくえんのさけをのみて、ごどうろくどうによいまわりて、いま、ほうぼうのいえにふしたり、よいとはふしんなり、かくとはしんなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるとき、むみょうのさけさめたり、またいわく、さけにじゅうじゅうこれあり、ごんきょうはさけ、ほけきょうはさめたり、ほんしゃくそうたいするとき、しゃくもんはさけなり、しかくのゆえなり、ほんもんはさめたり、ほんかくのゆえなり、また、ほんしゃくにもんはさけなり、なんみょうほうれんげきょうはさめたり、さけとむさるとはあいはなれざるなり、さけはむみょうなり、むさるはほっしょうなり、ほうはさけなり、みょうはさめたり、みょうほうととなうれば、むみょうほっしょう、たいいちなり、しのいちにいわく、むみょうじんろう、そくぜぼだいと。

かいしゃくこうぎ。
 「せそん、たとえばひとあり、しんゆうのいえにいたりて、さけにようてふせり、このときにしんゆう、かんじのまさにいくべきあって、むげのほうしゅをもって、そのえのりにかけ、これをあたえてさりぬ。そのひと、よいふして、すべてかくちせず…」のところの、おんぎくでんである。
 このさけとは、むみょう(まよい)であり、まよいのけっか、ほうぼうをしているじょうたいである。さけによって、ふしているとは、ほうぼうのいえにうまれることを、たとえているのである。
 しゃくもんのこころは、しゃかぶっぽうのしゅじょうは、さんぜんじんでんこうという、とおいむかしに、あくえんのさけ ふしん、ほうぼうのじんをおこして、そのけっか、じごくからにん、てんにわたる、ごどうろくどうのふこうなせいかつを、よいめぐってきて、いままた、じゃしゅう、ほうぼうのよいが、さめたといえるのである。
 いま、にちれんだいしょうにんもんかの、われわれが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるときには、むみょう、ほうぼうのよいが、さめたといえるのである。
 さて、このよっている、さめているということも、なんだんかいもあるのである。
 ごんじつそうたいして、ごんきょうはさけで、ほけきょうはさめているじょうたいである。
 またほんしゃくそうたいして、しゃくもんはさけである、しょじょうしょうかく インドではじめてほとけになったと、といているからからである。ほんもんはさめている、くおんじつじょうの、ごひゃくじんでんこうの、じょうどうをといているからである。
 また、もんじょうのほんしゃくにもんはさけである。もんていの、なんみょうほうれんげきょうは、まったくさめているじょうたいである。
 さけによっていることと、さめていることとは、はなれたことではない。さけはむみょう、まよいであり、さめていることは、ほっしょう、さとりである。みょうほうの「ほう」はさけ、すなわちむみょうであり、「みょう」はさめていること、すなわちほっしょうである。なんみょうほうれんげきょうと、となえればむみょうとほっしょう、まよいとさとりは、そのたいがおなじであることをさとるのである。
 まかしかんのいちには、「むみょうじんろう、そくぜぼだい」といっている。むみょうとはがんぽんのむみょうわく、じんろうとは、とんじんちのさんどく、したがって、むみょうじんろうとは、ぼんのうのことであり、てんだいは、ぼんのうそくぼだいといっているのである。

さけとはむみょうなり、むみょうはほうぼうなり、がとはほうぼうのいえにうまるることなり。
 いちおうは、しゅくめいろんである。さいおうは、しゅくめいだかいろんにはいるわけである。
 「さんぜんじんでんのとうしょ」のだんは、あらあらえいえんのせいめいをとき、ふこうのこんぽんは、こんぜだけのものではない。あくまで、ぜんせ、かこせのこんげんがあることをあかしているもんとなる。せいめいは、えいえんである。このふこうのえんいんを、あかしているかしょとも、よめるわけである。
 だいしょうにんのぶっぽうは、いんがくじのいちりをとかれてる。すなわち、くおんがんじょのほんたいこそ、さんだいひほうの、ほんぞんであられる。したがって、わがみのいちねんのしゅんかんに、えいえんをはらみ、しゅんかんのれんぞくが、えいえんとなる。そのいちねんいっしゅんのとうたいこそ、げんりこそ、ほんにんみょうのだいぶっぽうなのである。
 さけとは、むみょうである。あくしそう、じゃしゅう、じゃぎとうをさすことはとうぜんである。
 また「ほんしゃくにもんは、さけなり、なんみょうほうれんげきょうは、さめたり」とは、しゅだつそうたいのところである。すなわち、まっぽうこんじにおいては、いっさいのかいけつは、にちれんだいしょうにんのぶっぽうによるいがい、ぜったいにありえないとの、ごせんげんである。

0735    だいさん しんしんへんかんきのこと

 おんぎくでんにいわく、しんとはしょうじそくねはんなり、こころとはぼんのうそくぼだいなり、へんとは、じっかいどうじなり、かんきとはほうかいどうじのかんきなり、このかんきのうちには、さんぜしょぶつのかんき、おさまるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつれば、われそくかんきとて、しゃくそん、かんきしたまうなり、かんきとは、ぜんあくともにかんきなり、じっかいどうじなり、ふかくこれをおもうべしうんぬん。

 ごひゃくでしじゅきほんのさいごに「われいま、ほとけにしたがって、じゅきそうごんのこと、および、てんじにじゅけつせんことを、ききたてまって、しんしんあまねくかんきす」とある。
 このもんについて、おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 しんがかんきするとは、しょうじそくねはんということである。こころがかんきするとは、ぼんのうそくぼだいということである。しんしんともに、きゅうかいそくぶっかいとひらくことをいうのである。また「へん」とは、じっかいどうじであることである。かんきは、わがしんしんだけが、かんきするのではなく、いちねんさんぜんのりほうによって、ほうかいのすべてが、どうじにかんきするのである。
 このかんきのなかには、さんぜしょぶつのかんきも、はいっているのである。けんほうとうほんだいじゅういちに、「このきょうは、たもちがたし、もししばらくも、たもつものは、われすなわちかんきす、しょぶつもまた、しかなり」とあるように、いま、にちれんだいしょうにんのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつれば、「われすなわちかんきす」とて、しゃくそん、すなわち、もんていのしゃくそんである、にちれんだいしょうにんは、ごかんきあそばされるのである。このかんきは、ぜんあくともに、つまりぶっかいも、きゅうかいもともにかんきするのである。じっかいがどうじにかんきし、じょうぶつしていくのである。このことをふかくしさくしてくべきである。

 「しんしんへんかんき」のしんしんは、しきしんふにのこころであり、へんとは、じっかいどうじのせいめいぜんたいに、かつどうがあることをいみする。じごくより、ぶっかいにいたるまで、しょううちゅうである。わがとうたいは、きょくぶだけのせいめいかつどうでなく、かならずぜんせいめいに、そのせいめいかつどうがなされるのが、じったいであり、じっそうなのである。のみならず、われらじしんのじっかいのせいめいかつどうが、そく、だいうちゅうであり、ほうかいにどうじにはんえいするとのことばを、そのふしぎを、よくよくしさくすべきであろう。
 「このかんきのうちには、さんぜしょぶつのかんき、、おさまるなり」のところでは、ついぜんくようのげんり、もふくまれている。また、じしんが、しんじんにより、こうふくかつどうのたいけんをえた、このじっしょうよりみて、せんぞのばっくよらくにつうじ、せんぞも、また、よろこんでいるとも、かんがえられるわけである。「われそくかんきとて、しゃくそんかんきしたまうなり」とは、われわれが、みょうほうをごじして、よろこんでしゃくぶくし、きょうがくにはげんでいけば、だいしょうにんがよろこばれる。もし、くるしんでいれば、だいしょうにんは、かなしまれるのである。しょせん、かんきのぜんしんをしきってゆくことが、しんじんのさいじといえる。きょうに「いちねんずいきのくどく」うんぬんとあるように、かんきのしんじんのあるところに、かならずくどくはわいてくるのである。
 がっかいうちでいえば、せいねんがせいちょうしてくれれば、おやもよろこぶであろうし、わたしもうれしい。せいねんがせいちょうしなければ、おやもかなしみ、わたしもくるしい。
 いま、かくせいとうでも、また、かいしゃでも、ろうどうくみあいでも、くにぜんたいがこのほうていしきをかんがえるべきである。みなが、こうふくになることをねがい、しどうしゃたちが、「ああほんとうによかった、よろこばしいことだ」ときょうおうより、いえるじだいが、こなくてはならない。
 ところが、はばつこうそう、けんりょくとうそうとう、ひとをおしのけ、おしたおし、じぶんだけよくなり、ひとをつきおとしても、かまわぬという、りこしゅぎが、じゅうまんするげんじつのせかいと、いわざるをえない。そのこんぽんかいけつこそ、すべてのひとが、ごほんぞんをじゅじすることに、つきるわけである。
 さいごに、「ぜんあくともに」は、いかなるきょうぐうたりとも、びょうにん、びんぼう、けんこう、ふしゃとう、ばんにんが、みょうほうじゅじのじんせいになれば、かならずじょうぶつできうるとの、おんふみである。
 ほんぬのみょうほうに、てらされてみれば、だいば、じゅうらせつにょも、みな、みょうほうのとうたいとなるわけである。しょせん、いかなるひとたりとも、しゅくめいてんかんをなし、ほんぬじょうじゅうに、こうふくなじんせいをいとなむことは、ひつじょうなりとのおんふみとかいする。

0735~0736 にんきほんにかのだいじ
0735    だいいち がくむがくのこと
0735    だいに さんかいえじざいつうおうぶつのこと

だいいち がくむがくのこと

 おんぎくでんにいわく、がくとはむちなり、むがくとはうちなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、がくむがくのひとに、にょがとうむいのきを、くさずるにあらずや、しきほうは、むがくなり、しんぼうはがくなり、また、しんぼうはむがくなり、しきほうはがくなり、がくむがくのひととはにほんこくの、いっさいしゅじょうなり、ちしゃぐしゃをしなべて、なんみょうほうれんげきょうのきをときて、にごうどくしするなり。

かいしゃくこうぎ。
 にんきほんにおいては、がくむがくの、しょうもんのでしにせんにんが、じょうぶつのきをうけるのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「がく」とは、これからべんきょうすべきむちのものをいい、「むがく」とはがくもんのしゅぎょうがしゅうりょうした、うちのものをいう。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえてしゃくぶくをぎょうずるのは、にほんこくのがくむがくのひとを「わがごとくひとしくして、ことなることなからしむる」すなわち、ぜんいんを、じょうぶつのこうふくきょうがいにみちびくこういではないか。しきほうはむがくであり、しんぼうはがくである。またしんぼうはむがくであり、しきほうはがくである。がくむがくのひととは、にほんこくのいっさいしゅじょうである。にほんこくのいっさいの、ちしゃぐしゃをひっくるめて、なんみょうほうれんげきょうの、きべつをといて、ごうしゃくするのである。

 「がく」とは、がくもんのみじゅくなひと。「むがく」とは、すでにがくもんにとうてつしたひと、いまのせけんでつかわれている、ことばとはんたいになる。ぶっぽうをしってくると、げんだいようごのなかに、いかにたすうのぶっぽうようごが、ながくひろくつかわれているかがうかがえる。その、げんだいにるふされているようごが、こんどは、ひじょうにきょっかいされて、きていることもじじつである。「がまんづよい」ということばは、ふつう、よいばあいにつかわれる。しかしぶっぽうのうえでは、がまんへんしゅうといって、よくないこととされている。
 さて「しきほうは、むがくなり、しんぼうはがくなり、また、しんぼうはむがくなり、しきほうはがくなり」うんぬんのかしょを、おうようしてかいしゃくしてかんがえてみたい。ゆいぶつろんは、しきほうはむがくとなり、しんぼうはがくとなる。ゆいしんろんでは、しんぼうはむがくであり、しきほうはがくといわざるをえなくなる。りょうしゃこそ、ていきゅうなてつりといわざるをえない。また、「しきほうはむがくなり」とは、にくたいはけんぜんである。しかし「しんぼうはがくなり」せいしんは、はくじゃくである。あたまはわるい。はんたいに「しんぼうはむがくなり」とは、ずのうはじつにめいせきである。しかし、「しきほうはがくなり」、しんたいはひじょうにわるい、きょじゃくである、…とう々とう、さまざまに、かいしゃくすることができる。しょせん、しきともに、「むがく」にとうたつすることが、しんじんしゅぎょうのもくてきとなる。
 げんだいごでいえば、かんぜんなるぼんぷ、にんげん、じんかくということであろう。「ちしゃぐしゃをしなべて、なんみょうほうれんげきょう」とは、いかなるちじん、だいがくしゃたりといえども、また、ぐしゃであっても、ぜったいのこうふくは、じょうぶつだけは、みょうほうによるいがいにだんじてないとの、ごしどうであられる。
 「にごうどくし」とは、しいてこれをどくすとよみ、ごうしゃくのことである。しょせん、ごほんぞんをじゅじせしむるほうほうは、しゃくぶくをもってするいがいに、みちはないとのおおせであられる。

0735    だいに さんかいさとしじざいつうおうぶつのこと
0736
 おんぎくでんにいわく、さんとは、ぼんのうそくぼだいなり、かいとはしょうじそくねはんなり、えとはわれらがはくところのごんごなり、じざいとはむしょうげなり、つうおうとは、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんなり、またいわく、さんとはしゃくもんのこころなり、かいとはほんもんのこころなり、えとはみょうほうのごじなり、いま、にちとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、さんかいえじざいつうおうぶつなり、まったくほかにあらざざるなり、われらぎょうじゃのほかに、あなんこれれなきなり、あなんとは、かんきなり、いちねんさんぜんのかいかくなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
にんきほんにおいて、しょうもんのでしのあなんが、さんかいえじざいつうおうにょらいの、きべつをうけている。おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。その「さん」とは、ぼんのうそくぼだいをあらわし、「かい」とはしょうじそくねはんをあらわし、「え」とは、われわれがはくところの、ことばをあらわしている。「じざい」とは、むしょうげであることをいみし、「つうおう」とは、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんをいみしている。また「さん」とはしゃくもん、「かい」とはほんもん、「え」とはみょうほう、すなわちもんていどくいつほんもんを、いみしているのである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、さんかいえじざいつうおうぶつである。このほとけも、われわれのことを、さしているのであって、まったくべつのことではないのである。われわれ、ほけきょうのぎょうじゃいがいに、あなんはないのである。あなんとは、ぼんごでかんきといういみである。われわれが、いちねんさんぜんのとうたいである。ほとけであるとかいかくして、かんきすることをさすのである。

 にんげんはみな、じゆうじざいをほっし、むしょうげ、すなわち、くにしばられないせいかつを、ようきゅうしているのである。そのこんぽんせいかつほうが、みょうほうによるいがいに、けっしてないとのおんふみである。
 「あなんとはかんきなり」うんぬんのもんは、われらこしんのあなんであり、しんじんほど、さいこうのよろこびは、ぜったいにないとの、ごしどうである。これは、じじつ、われわれがたいとく、たいけんしているとおりである。しゃくそんざいせにおける、あなんは、じょうずいきゅうじ、たもんだいいちといわれ、かしょうにつづき、だいにのふほうぞうとされた。
 すなわち、しんじんしゅぎょうのかがみといわれ、そのいちねんは、えいえんのせいめいをさとるため、かんきにもえていちずにしゅぎょうしてきたことを、だいしょうにんが、おひきあそばされた、もんとはいする。

じざいとは、むしょうげなり。
 じざいとは、じゆうじざい、しゅじょうしょゆうらくといういみであり、むしょうげとは、ふこうなしゅくごうにしばられないことである。すなわち、ぜったいてきこうふくきょうがい、ぶっかいのゆげんのことである。われわれは、このじざい、むしょうげのえとく、かくりつをがんぼうし、どりょくしているといえる。
 しょせん、しんじんのもくてきも、じざい、むしょうげの、じんせいかくりつにつきるわけである。そのほうほうとはなにか。それは、さんだいひほうのほんぞんにだいもくをあげるいがいにない。じざいのきょうがいとは、とくべつなすがたになるのではけっしてない。もっともぼんじんらしく、にんげんらしく、そのままのすがたで、だいふくうんをつみ、よのどうりをわきまえ、しゅくめいてきな、さんあくどう、しあくしゅのちからに、ひきずりまわされないせいめいかつどうのことである。
 たとえば、いかりはしゅら、このいのちのつよいひとは、いかりにひきまわされ、とんだふこうをまねいてしまう。くるしみはじごく、このせいめいのつよいひとは、びょうきのくのう、しゃっきんとうのなやみがあり、このしゅくめいとたたかい、じざい、むしょうげのじんせいをきずきたいことは、とうぜんのりとなろう。いか、きゅうかいのせいめいかつどうも、これにじゅんじてかんがえていただきたい。


  • [237]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな けじょうゆほんななかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月18日(日)03時51分5秒
 
  0732~0734 けじょうゆほんななかのだいじ。

0732    だいいち けじょうのこと。
0732    だいに だいつうちしょうぶつのこと。
0733    だいさん しょもていきゅうのこと。
0733    だいよん ごそてんりんじょうおうのこと。
0733    だいご じゅうろくおうじのこと。
0734    だいろく そくめつけじょうのこと。
0734    だいなな かいぐしほうしょのこと。

0732~0734 けじょうゆほんななかのだいじ。

 おんぎくでんにいわく、けとはしきほうなり、じょうとはしんぼうなり、このしきしんのにほうを、むじょうととくはごんきょうのこころなり、ほけきょうのこころは、むじょうをじょうじゅうととくなり、けじょうそくほうしょなり、しょせん、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、しきしんみょうほうとひらくを、けじょうそくほうしょというなり。
 じっかい、みな、けじょう、じっかいおのおの、ほうしょなり、けじょうはきゅうかいなり、ほうしょはぶっかいなり、けじょうをさつて、ほうしょにいたるというは、ごひゃくゆじゅんのあいだなり、このごひゃくゆじゅんとは、けんじ、じんじゃ、むみょうなり、このぼんのうの、ごひゃくゆじゅんを、みょうほうのごじと、ひらくを、けじょうそくほうしょというなり。
 けじょうそくほうしょとは、そくのいちじは、なんみょうほうれんげきょうなり、ねんねんのけじょう、ねんねんのほうしょなり、われらがしきしんのにほうを、むじょうととくは、ごんきょうなり、じょうじゅうととくはほけきょうなり、むじょうとしゅうするしゅうじょうをめっするを、そくめつけじょうというなり。
 けじょうはひにく、ほうしょはこつなり、しきしんのにほうを、みょうほうとかいかくするを、けじょうそくほうしょのじったいというなり、じったいとは、むじょうじょうじゅう、くじそうそく、ずいえんふへん、いちねんじゃくしょうなり、いちねんとは、なんみょうほうれんげきょう、むぎわっしんのいちねんなり、そくのいちじ、こころをとどめてこれを、おもうべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。けじょうのけとは、しきほうであり、じょうとは、しんぼうである。このしきしんのにほうを、むじょうであるととくのは、にぜんごんきょうのこころである。ほけきょうのしんいは、このむじょうをじょうじゅうととく。「かり」のものである、けじょうが、じつは、そのままほうしょなりととくのが、もんていなのである。
 しょせん、いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、ごほんぞんに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつり、わがしきしんが、そく、みょうほうれんげきょうのとうたいとひらき、そくしんじょうぶつを、とげることを、けじょうそくほうしょというのである。じっかいはみな、けじょうであるが、しかも、そのじっかいのおのおのがほうしょである。けじょうとはきゅうかいであり、ほうしょはぶっかいである。
 けじょうをさって、ほうしょにいたるまで、ごひゃくゆじゅんのみちのりがあるというが、このごひゃくゆじゅんとは、けんじ、じんじゃ、むみょうのさんわくである。このさんわく、ぼんのうのごひゃくゆじゅんを、みょうほうのごじをかいかくするのを、けじょうそくほうしょというのである。けじょうそくほうしょのそくのいちじは、なんみょうほうれんげきょうである。われわれが、なんみょうほうれんげきょうととなえるときに、ねんねんのけじょう、きゅうかいのせいめいは、ねんねんのほうしょ、すなわち、ぶっかいのせいめいとなるのである。
 われわれのしきしんのにほう、せいめいを、むじょうととくのはごんきょうであり、じょうじゅうふめつととくのは、ほけきょうである。ごんきょうのむじょうのおしえに、しゅうするじょうねつをめっすることを、そくめつけじょうというのである。
 けじょうはかわやにくであり、ほうしょは、こつである。しきしんのにほうの、わがみ、そくみょうほうとかいかくすることを、けじょうそくほうしょのじったいというのである。
 じったいとは、むじょうにしてじょうじゅう、くじにしてそうそく、ずいえんであって、しかもふへんなるものであり、みょうほうにてらされた、いちねんのはたらき、せいめいじたいをいう。
 いちねんじゃくしょうのいちねんとは、なんみょうほうれんげきょうであり、みょうほうをしんじきった、「うたがいなきをしんとのたまう」のいちねんである。けじょうそくほうしょの、そくのいちじは、とくにこころをとどめて、これをおもうべきである。

 はちまんほうぞうは、ことごとく、せいめいのじったい、うちゅうのじっそうを、あかしといている。ここは、けじょうといい、ほうしょといい、すべて、われわれのしきしんなりとの、おんふみであられる。すなわち、けっしてかんねんろん、おとぎばなしのきょう々きょうでなく、「けじょうはひにく、ほうしょはこつなり」うんぬんというがごとくに、せいめいあるいは、せいかつをとかれているのである。
 だいしょうにんは、せいめいろんを、しきしんふにろんでとくばあい、さんじんじょうじゅうろんでとかれるばあい、えしょうふにろんでろんずるばあい、とう々とう、さま々ざまなかんてんからとかれている。
 しょせん、いっさいのきょう、げ、くは、ことごとく、なんみょうほうれんげきょうきょうにふくまれているのである。にちかんしょうにんは、「かんようとは、ゆいいつをあげて、いっさいをせっするぎなり」うんぬんと。しかして、ぶっぽうのしんずい、かんようは、ほんぞんであることは、とうぜんであり、あとは、われわれの、むぎわっしんのしんじんが、じょうぶつのきょうがいをえとくできえる、じきどうなりとのしどうである。

じっかいみなけじょう、じっかいおのおのほうしょなり、けじょうはきゅうかいなり、ほうしょはぶっかいなり。
 「じっかいみなけじょう」これはしんじんのないじんせい。じごくよりぶっかいにいたるまで、こっ々こくとへんかしゆくせいめいかつどうは、けじょうである。「じっかいおのおのほうしょなり」これは、じのうえである。みょうほうをごじし、しんじんしたばあいである。じごくより、ぶっかいにいたるまで、ほんぬのみょうほうにてらされた、せいめいかつどうである。
 けじょうは、きゅうかいであるとは、むみょうるてんのじんせいである。ほうしょとは、ぶっかいである。またほんぞんのことである。そして、にくだんのみょうほうをゆげんした、せいめいかつどうのことである。なお、しんじんのうむにかかわらず、りじょうには、すべてじっかいさんぜんのせいめいである。しかしながら、みょうほうじゅじのせいめいは、じっかいおのおのほうしょとなる。ほんぬじょうじゅう、じょうじゃっこうどがわかり、しんじんなくば、ろくどう、きゅうかいのむみょうによい、えいえんのこうふくきょうがいを、かくりつすることができえぬとの、てつりであるとはいしたい。
けじょうをさつて、ほうしょにいたるというは、ごひゃくゆじゅんのあいだなり、このごひゃくゆじゅんとは、けんじ、じんじゃ、むみょうなり、このぼんのうの、ごひゃくゆじゅんを、みょうほうのごじとひらくを、けじょうそくほうしょというなり、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのもんである。
 きょうもんのうえで、「けじょうをさってうんぬん」というひょうげんがあるが、だいしょうにんのかんじんのたちばから、この、ごひゃくゆじゅんということは、じつは、けんじわく、じんじゃわく、むみょうわくのことであるともうされているのである。
 けじょうをさることはできない。このみで、ほとけになるいがいにない。ぼんのうをさるとか、ぼんのうをだんずるというのは、にぜんのおしえであり、ぼんのうそくぼだいがだいしょうにんのてつがくである。

けじょうそくほうしょとは、そくのいちじは、なんみょうほうれんげきょうなり、ねんねんのけじょうねんねんのほうしょなり。
 けじょうも、われわれのせいめい、ほうしょもわれわれのせいめい、ほとけになるといっても、われわれのせいめいの、ぶっかいをゆげんすることにつきる。だんだんとしゅぎょうしてほとけになるのではない。けじょうそくほうしょ、きゅうかいそくぶっかいの、こんぽんとはなにかといえば、ごほんぞんにむかってしょうだいしゅぎょうし、なんみょうほうれんげきょうのとうたいを、じかくすることにある。
 「ねんねんのけじょう、ねんねんのほうしょなり」とは、われわれのいちねんのしょさは、むすうむりょうといえる。しかし、そこに、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、ぜんぶわがみ、すなわちほとけなり、とうたいなりと、かくしんしきることにつきる。それをせいかつのうえ、せいめいりょくのうえで、ゆげんするには、なんみょうほうれんげきょうを、となえるいがいにない。
 けじょうは、かんねんろんであり、ほうしょはせいかつである。けじょうはりで、ほうしょはじになる。べんきょうしているというのは、けじょうのねんねんであって、それをせいかつにぐげんしたばあいには、ほうしょのねんねんにかわるのである。

しきしんのにほうを、むじょうととく。
 「しきしんのにほう」とは、せいめいのぜんたいのこと。「むじょうをとく」は、こんぜろんであり、えいえん、ちょうおんでないといういみである。したがって、ごんきょうはげんせろんであり、ほけきょうはえいえんろんである。しょうじょうは、さんじんのうち、おうじんをちゅうじくとしてとかれ、ごんだいじょうは、ほうしんまたはほうしんとなる。じつだいじょうは、さんじんじょうじゅうをあかし、なかんずく、ほっちゅうろんさんで、じじゅゆうほうしんをこんぽんととかれている。また、しょうじょうは、しきしんの、しきのめん、めにみえる、せいめいじょうたいのほうをつよくとく、おうじんろんである。だいにちきょうは、ほうしんろんであり、はんにゃきょうは、ちえ、ほうしんのめんをといている。ほけきょうは、さんたいえんゆう、さんじんえいえんをあかし、かんぺきな、だいせいめいてつがくである。
 ゆいぶつろんは、しきろんである。そのほんしつは、しょうじょうてつりにちかいといえよう。ゆいしんろんは、しんろんのみであり、またしょうじょう、ごんだいじょうしそうに、そのないようは、にているとかんがえられるのである。

けじょうはひにく、ほうしょはほねなり。
 ほけきょうしゃくもんの、けいりたる「けじょう」と、「ほうしょ」をば、わがせいめいにあてはめてみてば、「けじょう」は、「ひにく」となり、「ほうしょ」はにくたいのこつずいと、よむことができる。すなわち、「ほうしょ」は、きょうがいろんでは、ぶっかいであるとどうじに、じんたいにやくせば、もっともちゅうかくたるほねとなる。とうぜん、せいめいは、ひにくこつどうしょうのものであるが、こつであって、ひにくがあると、だんかいをへて、かんがえることもどうりであろう。
 また、けじょうはきゅうかい、ほうしょはぶっかいであることを、いろ々いろのめんからろんじ、わからせようとされたとも、はいすることができる。しんじんして、にんげんかくめいをなし、びょうきとうがなおせるげんりも、すいさつできうることである。なお、だいうちゅうはすなわち、わがとうたいであるしょううちゅうと、ひとしいものであるから、だいもくのちからによって、かんせいされた、しきしんふにのせいめいを、じゅりつすることこそ、わがみの、こうせんるふともいえよう。
 こくどせけんに、あてはめてみれば、そのこくどはほうじょうとなり、みんしゅうが、ゆたかに、こうりゅうしゆくげんせんとなることは、まちがいないげんりといえよう。だいうちゅうと、ぜんじんるいがみょうほうのリズムにがっちした、せいかつ、かつどうをしてゆけば、しょせんは、ふくかぜえだをならさずのへいわきょう、りそうきょうがとうらいすることも、ひつぜんと、いいきれるのである。わがみも、こくども、うちゅうも、ほうていしきは、どういつほうほうとかんがえていけるのである。

むじょうじょうじゅう、くじそうそく。
 「むじょう」はへんか、「じょうじゅう」はえいえん、「むじょう」ははちしきよりごしき、「じょうじゅう」はくしき、「むじょう」はきゅうかい、「じょうじゅう」はぶっかいともいえる。
 このせいめいに、りょうしゃがげんそんする。しんじんのうむにかかわらず、むじょうじょうじゅう、くじそうそくされていることも、うたがいないじじつである。しかしながら、りのうえのろんじかた、ことのうえのろんじかたとにとおりになる。りのうえでは、せいめいはひとしく、りのいちねんさんぜんのとうたいとなる。
 だが、だいもくをとなえなければ、ぶっかいのゆげんは、ありえない。したがって、かんぜんなるいちねんさんぜんのせいめいかつどうとはなりえない。なお、われらのせいめいは、いちおうは、むじょうである。いっしゅん々々、へんかのれんぞくである。にさいのときと、はたちのときとは、しきほうのだいへんかがなされてきている。さらに、こうつうじこ、びょうまとう々とうのふしょうじも、せいかつのじょうじゅうをゆるさない。
 さいおう、にょじつちけんして、せいめいのほんしつをみれば、ほとけはじょうじゅう、えいえんをとく。じじつ、われらのせいめいそれじたいは、むしむしゅうであり、そのほんしつは、めっせず、しょうぜず、うちゅうとともにえいえんであるからである。そのりょうしゃのせいめいじょうたいをば「むじょうじょうじゅう」とかんがえられる。たとえば、だいちはじょうじゅう、そうもくはむじょう、そのかんけいをば、「くじそうそく」というのである。
 「じゃくしょう」とはしょうじょうでは「くうじゃく」また「じゃくめつ」といい、だいじょうきょうでは「じゃくしょう」となる。「くうじゃく」は、けしんめっちであり、「じゃくしょう」は、じょうらくがじょうとなる。
 こんぽんてきに、しゅぎょうかん、せいめいかんのそういがある。しょうじょうきょうでは、すべてを、ぎせいにして、さとりをえようとつとめる。りこしゅぎ、きわまりない。だいじょうきょうでは、じんせいをたのしみつつ、しゃかいにかちそうぞうしながら、さとりをえようとする。しゃくそんじしん「よんじゅうよねん、みけんしんじつ」と、しょうじょうきょうのしゅぎょうをうちやぶっている。
 あくまで、「くうじゃく」は、じしんのぼんのうをだんじてゆかねば、とうたつできぬしゅぎょうほうである。かいりつにしばられ、せいやくされながらの、じんせいであり、まことに、ざんこくといわざるをえない。それにたいし、まっぽうのほけきょうは、みょうほうにてらされ、きゅうかいにゆうげしていくじんせいである。じこを、さいこうどにはっきして、ぜったいのこうふくせいかつをなしつつ、しゃかいのはんえいにいそしむ、さいこうぜんのふるまいをいうのである。げんしゃかいにおいて、ていきゅうしそうにしゅうちゃくし、まんぞくしきっているひと、なお、りこしゅぎにてっし、ひとのこうふこうをかんがえぬひとたちこそ、しょうじょうてきなじんせいかんといわざるをえない。


0732    だいに だいつうちしょうぶつのこと

 おんぎくでんにいわく、だいつうはしんのうなり、ちしょうはしんずなり、だいつうはしゃくもん、ちしょうはほんもんなり、だいつうちしょうは、われらがいっしんなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、だいつうなり、だいもくをとなうるはちしょうなり、ほけきょうのぎょうじゃのちは、ごんしゅうのだいちよりもひゃくせんまんばい、すぐれたるところを、ちしょうとこころうべきなり、だいは、しきほう、つうはしんぼうなり、われらがしょうじを、だいつうというなり、このしょうじの、しんしんにふるまう、きねんをちしょうとはいうなり、ここをもってこれをおもうに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるぎょうじゃは、だいつうちしょうぶつなり、じゅうろくおうじとはわれらがしんずなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、さんぜんじんでんこうのむかしに、だいつうちしょうぶつというほとけがおり、そのほとけはしゅっけするまえは、おうさまであって、16にんのおうじがあった。そしてその16おうじは、みな、だいつうちしょうぶつから、ほけきょうのせっぽうをうけたことについての、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいつうちしょうぶつの、だいつうとはしんのうであり、ちしょうとはしんつうである。しんのうはせいめいのこんぽん、しんずはせいめいのはたらきのことである。したがって、だいつうはしゃくもん、ちしょうはほんもんである。だいつうちしょうとは、われらがいっしんのことである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、だいつうであり、そのだいもくをとなえることは、ちしょうとなるのである。
 ほけきょうのぎょうじゃ、べっしてはにちれんだいしょうにん、そうじては、ごほんぞんにだいもくをとなえるわれら、のちは、ごんきょうをきわめた、こうそう、いっさいのじゃしゅうのきょうそ、またいっさいのがくしゃよりも、ひゃくせんまんばいもすぐれている。これをちしょうとこころうべきである。
 だいはしきほう、つうはしんぼうである。われ々われのせいめいをだいつうというのである。このせいめいのしんしん、しきしんのにほうに、ふるまうきねんをちしょうというのである。
 いじょうのことからけつろんするに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつる、ぎょうじゃは、だいつうちしょうぶつであり、16おうじとは、われわれがだいもくをとなえたてまつって、でてくるところの、はたらきをいみするのである。
 ほけきょうもんじょうの、ほとけ、ぼさつが、みな、じつざいであったということは、しんずるいがいにない。しかしだいしょうにんは、このもんじょうのきょうりをば、げんじつに、じっさいてきに、わがみに、わがせいかつに、おときくださっているのである。しゃりほつをば、くうけちゅうのさんたいにやくし、いおんのうぶつをば、しきしんふににやくするごとくに、いま、ごほんぞんにだいもくをとなうれば、けじょうゆほんのだいつうちしょうぶつも、また、わがみのふるまいとひとしいというのである。
 16おうじといっても、また、みょうほうをとなう、わがいちねんいっしんのはたらきをさすのだとおときである。
 だいしょうにんのぶっぽうは、けっして、かんねんろんではない。げんじつろんであり、すうこうなるせいめいろんのおうぎのあらわれである。
 しんのうのしんずについては、しんのうは、がんぽん、せいめいかつどうのほんげんであり、しんずは、いちねんのしょさ、かつどうのことである。なお、ほんしゃくよりろんずれば、しんのうは、せいめいのこんぽん、ふへんしんにょ、しゃくもんである。しんずは、げんじつにぐげんされた、せいしんのかつどうじょうたいであり、ずいえんしんにょ、ほんもんである。かなしみ、くるしみ、よろこびとう々とうのしんりじょうたいは、しんずである。したがって、しんずがじであり、ほんもんとなる。しんのうは、りでありしゃくもんとなる。
 わたしたちのいちねんは、とうぜんこっ々こくとへんかする、ないめんより、かつは、がいぶのえんによって、あるときは、ひとをすくおう、あるときは、たいてんしようか、また、あそびたい、まなびたい、かたりたい、とう々とうと。
これがしんじつのせいしんかつどうであり、じであり、ほんもんなのである。しょせん、だいもくをあげて、みょうほうのとうたいの、かくしんあるせいめいかつどうが、こうふくかくりつのしんのう、しんずとなっているわけである。

0733    だいさん しょもたいきゅうのこと

 おんぎくでんにいわく、しょもとは、もろもろはじゅうろくひとのははということなり、じつぎにはははとは、がんぽんのむみょうなり、このむみょうよりおこる、わくしょうをしょもともいうなり、るてんのときは、むみょうのははとつれていで、げんめつのときは、むみょうのははをころすなり、むみょうのははとは、ねんぶつ、ぜん、しんごんとうのひとびとなり、にずいそうしとは、ぼうにんをさすなり、しかりといえども、ついにほけきょうのこうせんるふ、あらわれて、てんかいちどうにほけきょうのぎょうじゃとなるべきなり、「ずいしどうじょう、げんよくしんごん」これなり。

 「そのほとけ、いまだしゅっけしたまわざりしときに、じゅうろくのこあり。そのだいいちのなをば、ちしゃくとのたまう。しょし、おのおの、しゅじゅのちんい、がんこうのぐ、あり、ちち、あのくたらさんみゃくさんぼだいを、じょうずることをえたもうときいて、みな、しょちんをすてて、ぶつしょにおうげいす。しょもたいきゅうして、したがいてこれをおくる。そのそ、てんりんじょうおう、いっぴゃくのだいじん、およびあまりの、ひゃくせんまんおくのじんみんと、みなともにいにょうして、したがいてどうじょうにいたり、ことごとく、だいつうちしょうにょらいに、しんごんして、くようきょうけい、そんちょう、さんたんしたてまつらんとほっす」の、ところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しょもとは、じゅうろくにんのははのことである。ほんとうのいみは、ははとはがんぽんのむみょう こんぽんのまよいである。このむみょうからおこるわくしょう、けんじわく、じんじゃわく、むみょうわくのさんわくと、ぼんのうしょう、ごうしょう、ほうしょうのさんしょうなどを、しょもというのである。
 るてん、すなわちきゅうかいのときは、このむみょうというははと、つれだっているのであり、げんめつ、すなわちぶっかいのときは、むみょうのはは まよいをたつのである。
 また、このむみょうのははとは、ねんぶつ、ぜん、しんごんとうのひと々びとである。じゃしゅうをしんずるひと々びとである。「しょも、たいきゅうして、したがいてこれをおくる」というのは、ほうぼうのひと々びとをいうのである。ぶつどうしゅぎょうにはげむひとを、ひきとめようとするすがたである。
 しかしながら、ついには、けぎのこうせんるふがじつげんして、てんかいちどうに、ごほんぞんをしんじ、だいもくをとなえるようになるのである。
 「したがいて、どうじょうにいたり、かえって、だいつうちしょうにょらいにしんごんして」とあるように、みんな、ごほんぞんに、おあいすることができるのである。


 じんるい、いくせんまんねんのれきしは、「く」のいちじを、のぞくことができえなかった。だいしょうにんはく、ふこうのこんぽんは、じゃしゅうじゃぎにあると、だんげんなされた。じじつ、われわれのたいけんじょう、めいかくにじっしょうすることができなかった。じゃしゅう、じゃぎをうちやぶっていくたたかいこそ、だいしょうにんもんかのしんのしめいといわなくてはならない。
 ぶっぽうでは、くをばひらいて、しくはっくととく。そのふこうをうけるこんぽんは、むちよりしょうずるとおもう。むちなるがゆえに、しゅうきょうのせいじゃをわきまえることができず、だまされて、くをかいけつすることができない。せけんいっぱんのことには、うちのひとはたすういる。しかしながら、こんぽんのせいめいというもんだいになると、うちのひとはまったくすくないものである。
 なお、せいめいには、むみょうとほうしょうがほんぬであり、むみょうは、ふこう、くをよび、ほうしょうは、さちをよぶ。
 いま、じゅうにんのははとは、がんぽんのむみょうをさす。このむみょうをたつ。すなわち、みょうぶくさせるところに、こじんとせかいのこうふく、へいわがじゅりつできるとのおだんげんとはいすべきである。
 ほけきょうとは、まっぽうのごじしちじのほけきょう、てんかいちどうとは、べっしてにほんこくいちどう、そうじて、ぜんせかい、ぜんじんるいのことである。ぎょうじゃとは、みょうほうをごじし、だいしょうにんのごきんげんどおりじっせんするひとである。しょせん、にほんこくちゅうのひとが、ひろくは、ぜんせかいのひと々びとが、みな、ごほんぞんをもつとのだいかくしんであられる。

むみょうのははをころすなり。
 ははをころす、ちちをころすということは、すでにじょぼんでのべたように、けっしていのちをたつといういみではない。あくまで、じゃしゅう、じゃぎを、はすとよむのである。また、ぼんのうそくぼだいとひらくことを、「むみょうのははをころす」ともうされているのである。
 ある、おろかながっかいひはんしゃが、このいみがわからず、きりもんして「がっかいはケシカラン、ちちをころせ、ははをころせとおしえている。おやをころせばくどくがあるとおしえている」とかってにかいしゃくして、きょうじんのごとく、ひはんしてぼうげんをはいていた。
 かいもくしょうには「しゅじょうのそんけいすべきもの」(0168-01)として、「しゅししん」をあげられ、ほうおんしょうには「ぶっきょうをならはんものふぼ、ししょう、こくおんをわするべしや」(0293-03)ともうされ、また、しおんしょうでも、ふぼのおんをほうぜんみちをとかれているのを、よくよくはいすべきである。
 おんぎくでんじょぼんしちかのだいじにも「なんみょうほうれんげきょうのけんをとつてとんあいむみょうのふぼをがいしてきょうしゅしゃくそんのごとくぶっしんをかんとくするなり」(0711-01)とある。いのちをたつとは、すべて、じゃしゅうじゃぎのふこうのこんぽんをば、みょうほうのりけんをもってたちきるのである。そしてぼんのうそくぼだいをえるのである。
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0733    だいよん ごそてんりんじょうおうのこと

 おんぎくでんにいわく、ほんちしんのほとけとは、このもんをならうなり、そとは、ほうかいのいみょうなりこれはほうべんぽんのそうしょうたいの、さんにょぜをそというなり、このさんにょぜよりほかに、てんりんじょうおうこれきなりなてんりんとは、しょうじゅういめつなり、じょうおうとはしんぼうなり、このさんにょぜは、さんぜのしょぶつのふぼなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、さんぜのしょぶつのふぼにして、ごそ、てんりんじょうおうなり、きんぎんどうてつとは、こがねはしょう、しろがねははっこつにして、しなり、あかがねはろうのそう、くろがねはやまいなり、これすなわちかいじごにゅうの、しぶつちけんなり、さんぜじょうごうに、しょうじ、しょうじとめぐるを、てんりんじょうおうというなり、この、てんりんじょうおう、しゅつげんのときのりんぽうとは、われらがはくところのごんごおんじょうなり、このおんじょうのりんぽうとは、なんみょうほうれんげきょうなり、ここをもってびょうどうだいえとはいうなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、だいさん、しょもたいきゅうのことの、つうげでいんようした、けじょうゆほんのもんのなかに、「そてんりんじょうおう」とあるところの、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほんちしんのほとけとは、このもんからでているのである。
 そとは、ほうかいのいみょうであり、ほうべんぽんのそうしょうたいのさんにょぜを、そというのである。さんにょぜはさんたいであり、さんしんであり、せんずるところの、ごほんぞんであり、にちれんだいしょうにんのおんことである。このさんにょぜいがいに、てんりんじょうおうはないのである。てんりんとは、しょう、じゅう、い、めつという、へんかのすがたをいうのである。
 じょうおうとは、そのこんぽんのせいめいを、いうのである。このさんにょぜ、ごほんぞんこそ、いっさいのさんぜのしょぶつのふぼ、すなわち、さんぜのしょぶつを、たんじょうさせるこんぽんなのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのは、さんぜのしょぶつのふぼであり、ごそ、てんりんじょうおうにあたるのである。べっしては、にちれんだいしょうにんおいちにんが、さんぜのしょぶつのふぼである。
 てんりんじょうおうは、こんりん、ぎんりん、どうりん、てつりんとわかれているが、こかねはしょう、ぎんははっこつ すなわちし、どうはろうのそう、くろがねはやまいのそうを、いみしているのである。きんぎんどうてつで、しょうろうびょうしを、いみしているのである。これはすなわち、かいじごにゅうのしぶつちけん、かいぶつちけん、しぶつちけん、ごぶつちけん、にゅうぶつちけんになるのである。
 さんぜじょうごう、えいえんのせいめいのなかで、しょうじ、しょうじとめぐりゆくのを、てんりんじょうおうというのである。
 このてんりんじょうおうは、りんぽうといって、どんなものでもうちやぶれる、ほうきをもっているといわれるが、これは、われらがはくところの、ごんごおんじょうである。このおんじょうのりんぽうとは、なにかといえば、なんみょうほうれんげきょうのことである。
 このなんみょうほうれんげきょうこそ、しんじつのびょうどうだいえとなるのである。

 てんりんじょうおうとは、つうずに、しゅみせん、ししゅうのとうちのおうといわれる。りんおうは、かならずりんぽうをもって、さんがもへいたんにし、いっさいのものを、かんぷくせしめるといわれている。そのりんぽうのひんしつによって、こんりん、ぎんりん、どうりん、てつりんおうのしおうにわかれる。りんおうのしゅるいによって、りょうどもだいしょうとなる。また、りんおうは、さんじゅうにそうをそなえ、じんるいのじゅみょうが、はちまんさいいかに、さがったじだいには、もうしゅつげんしないといわれている。
 だいしょうにんは、こんりんおう、ないし、てつりんおうをば、われわれの、しょうろうびょうしにおときくださっている。われらだいもくをとなえるものこそ、りんたからをじせるしゃなりと、けっじょうされておられる。ひとりのこらず、にんげんかくめいし、じょうぶのふるまいが、できうるものとのことばであられる。
 しょうじゅういめつについては、むりょうぎきょうの、せっぽうほんには「ほうのそう、これのごとくして、これのごとき、ほうをしょうず、これのごとき、ほうをじゅうす、これのごとき、ほうをいす、これのごとき、ほうをめっす」と、ほうのそうというものの、しょうじゅういめつをといている。このもんちゅう、ほうとは、げんしょうのことをいうのである。すなわち、しんらばんしょうのげんしょうなのである。
 「しょうじゅういめつ」と、「しょうろうびょうし」、「じょうじゅうえくう」とのかんけいについていえば、さんしゃとも、しょせん、おなじいみである。「しょうじゅういめつ」は、しゅかくてきに、しんらばんしょうを、みつめているすがたともいえよう。「しょうろうびょうし」は、とくに、われらしゅじょう、うじょうにあてはめてかんがえられる。「じょうじゅうえくう」は、うちゅうかん、および、ひじょうせけんにも、あてはめていけるほうていしきであろう。ちょうど、くうけちゅうのさんたいと、ほっぽうおうのさんじんのかんけいのごとく、イコールのかんけいである。
 このてつりは、ばんにんきょうつうのだいほうそくである。ほうは、みょうほう、ごんきょう、ゆいしんろん、ヒンズーきょう、じゅきょうとう、かぞえきれない。しかしながら、しんじつのほうそく、げんしょうのほんげんは、なんみょうほうれんげきょうなのである。ゆえに、そのぐげんされたじっそうが、いちねんさんぜんのまんだらとなるのである。
 「しょうじゅういめつ」をわけてろんづれば、「ほうをしょうず」みょうほうより、うちゅうげんしょうをしょうずる。また、さんぜじっぽうの、いっさいのみじんのきょう々きょうをしょうずる。
 「ほうをじゅうす」、さんぜんのうちゅうげんしょう、せいめいげんしょうを、いっぷくのほんぞんにじゅうしている。
 「ほうをことにす」、みょうほうとごんきょう、げどうとほうは、みずからことにしている。また、きゅうかいとはとうぜんことなる。じねんげんしょうからみても、ふうう、あらし、ゆきとう、ぜんぶことにするすがたをしめしている。
 「ほうをめっす」、ちからあるほう、しんりのほう、すなわち、こんぽんほう、なんみょうほうれんげきょうをこんぽんとして、じゃほう、じゃぎ、ふこうをまねく、きょうほうをめっせねばならない。ぜったいみょうのうえから、あくまでもみょうほうをこんぽんとすべきであるとの、ごきんげんである。
 こくほうにやくせば、けんぽうはみょうほうである。たほうはごんきょうであろう。けんぽうがこつずいになって、そのたのほうりつが、ひらかれていかなければならない。
 このなかにしょうじゅういめつのことなりということがあるが、これはへんかとかんがえてよい。きにはながさいたり、はがおちゆくのもことなりであり、こんにち、こうがんのびしょうねんであったひとが、やがてしらがのろうじんになり、シワでだらけのかおになるのもことなりである。
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0733    だいご じゅうろくおうじのこと

 おんぎくでんにいわく、じゅうとはじっかいなり、ろくとはろっこんなり、おうとはしんのうなり、ことはしんずなりこれすなわち、じっそうのいちりのだいつうのこなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、じゅうろくおうじなり、はっぽうさぶつとは、われらがはっくの、ぼんのうそくぼだいとひらくなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 さんぜんじんでんこうのむかしに、だいつうちしょうぶつというほとけがおり、そのほとけはしゅっけするまえはおうさまであって、じゅうろくひとのおうじがあった。そしてそのじゅうろくおうじは、みな、だいつうちしょうぶつから、ほけきょうのせっぽうをうけ、やがて、はっぽうのこくどにしょうじて、じょうぶつしたということについての、おんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。じゅうろくおうじの「じゅう」とは、じごくからぶっかいにいたる、じっかいをいみしているのである。そして「ろく」は、げんにびぜつしんいの、ろっこんをいみしている。
 また「おう」とはしんのう=せいめいかつどうのほんげんであり、「こ」はしんず=ぐたいてきなせいめいかつどうのことである。
 なわち、じゅうろくおうじとは、じっそうのいちりのだいつうのこ=すべてじのいちねんさんぜんである、みょうほうれんげきょうのとうたい、じっかいさんぜんのせいめい、これをだいつうのこというのである。
 いま、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんのもんかは、じゅうろくおうじにあたるのである。
 また、はっぽうさぶつとは、じゅうろくおうじがはっぽうのこくどに、ふたりずつしょうじてじょうぶつしたことである。はっぽうとは、とうざいなんぼくのしほうに、とうなん、せいなん、とうほく、せいほくのしいである。このことは、どこのせかいにおいても、アメリカにおいても、ロシアにおいても、イギリスにいても、なんみょうほうれんげきょうを、となえれば、ほとけになれるということを、あらわしているのである。
 そして、このはっぽうさぶつは、われわれのはっくの、ぼんのうが、そくぼだいとひらくことをいみする。はっくとは、しょうろうびょうしのしくに、あいべつりく、おんぞうえく、ぐふとくく、ごじょうおんくのよっつをくわえたものである。

 しゅうきょうのためのしゅうきょう、ぶっぽうのためのぶっぽうは、けっしてありえない。がいして、せけんのひと々びとには、しゅうきょうはすうこうなもの、げんじつのしゃかいは、きたなきもの、したがって、しゅうきょうは、げんじつをきりはなしてかんがえるべきである。とおもいこんでいるけいこうがある。これこそ、しゅうきょうのほんしつをしらない、せけんいっぱんのしゅうきょうのかめんに、たぶらかされてのすがたと、だんぜざるをえない。
 げんじつのきゅうさい、げんじつのしゃかいへんかく、また、ぶっしんりょうめんにわたるこうふくかくりつのげんせんこそ、しんじつのしゅうきょうのりきであり、しめいであることは、とうぜんのりである。
 いま、だいしょうにんのかんじんよりはいし、みょうほうれんげきょうのにじゅうはちほんには、いちげいちくたりとも、せいめいろんから、はなれたぎろんはないのである。せいめいかつどうは、せいかつである。すなわち、せいかつをはなれた、しゅうきょう、しんじんは、ぜったいにありえないのである。じゅうろくおうじというのも、かんじんのたちばよりろんずれば、みょうほうごじの、われわれのじしんのこととなる。
 すなわち、じっかい、ろっこん、しんのう、しんずをときあかしたてつりである。
 じっそうのいちりとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。しかして、われらは、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのこどもであるとはいすべきであると。
 しんじつのだいしょうにんのでしは、このもんにてらし、しんじつのえいえんのおうじなりと、かくしんすべきである。いかに、ふくとくにみちみちたじんせいであろうが、せけんのおうじは、「こんぜだけ」のおうじである。われらは、きゅうでんこそないが、ゆめのごときとっけんこそないが、だいおうのことして、みんしゅうのなかに、みんしゅうとともにいきてゆく、えいこうにかがやくだいおうじなのである。
 はっぽうさぶつとは、じゅうにんのおうじが、ふたりずつそれぞれわかれて、はっぽうにほけきょうをときにいき、じょうぶつした。いまだいしょうにんは、はっぽうとははっくのことである。だいもくをとなえることにより、はっぽうにいかずして、そのばで、そのとうたいで、ぼだいをさとらしめるほうもんなりと、おときである。

0734    だいろく そくめつけじょうのこと

 おんぎくでんにいわく、われらがめっするとうたいは、けじょうなり、このめつを、めつとみれば、けじょうなり、ふめつのめつとちけんするを、ほうしょとはいうなり、これを、じゅりょうほんにしては、にじつふめつどとはとくなり、めつというけんを、めっするをめつというなり、さんごんそくいちじつのほうもん、これをおもうべし、あるいはそくめつけじょうとは、ほうぼうのじとうをめっすることなり、いま、にちれんとうのたぐいなんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、けじょうそくほうしょなり、われらがきょじゅうのせんこくこうや、みなみなつねじゃっこうの、ほうしょなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 これはけじょうゆほんに、「そのときに、どうし、このにんしゅの、すでにしそくすることをえて、またひげんなきをしって、すなわちけじょうをめっして、しゅにんにかたって、なんだち、こらいほうしょは、ちかきにあり、むかいのだいじょうは、わがけさするところなり。しそくせんがためのみに、いわんがごとし」とあるところである。
 すなわちどうしが、みんながけじょうできゅうそくし、つかれをのぞいたのをみ、そのけじょうをしょうめつさせ、さあほんらいのもくてきちである、ほうしょにいこうとうながすところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。われわれのにくたいというものは、かならずめっする。それゆえに、けじょう=「カリ」のすがたである。
 この、そくけじょうのめつを、めつぼうとみれば、すなわち、せいめいをこんぜかぎりとすれば、けじょうである。ふめつのめつとちけんする、つまり、えいえんのせいめいをかくしんすれは、ほうしょになるのである。
 このことを、じゅりょうほんでは、「にじつふめつど」(しかもじつには、めっせず)とといているのである。
 また、せいめいは、こんぜかぎりであるというみかたを、めっするを、めつといっているのである。
 さんごんそくいちじつの、ほうもんとは、さんじょうそくいちぶつじょうであり、けじょうそくほうしょのことである。ほとけのきょうがいは、とおくにあるものでもなければ、だんだんと、ほとけになるものでもない。わがみがすなわちほとけなり、ほとけのとうたいなりと、かくしんすることに、つきるのである。
 また、そくめつけじょうとは、ほうぼうのじとうを、しゃくぶくしつくすことである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかとして、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるものは、きゅうかいそくぶっかいなることを、かくちするのである。われわれが、きょじゅうしているところのやまやたに、こうやなど、すべてのところが、じょうじゃっこうのほうしょ=ぶつどとなるのである。

 えいえんのせいめいを、あかしている、てつりである。「ふめつのめつ」のちけんとは、さんだいひほうのほんぞんに、なしむ、かくじんが、かんとくするいがいに、わからぬことである。
 せいめいはえいえんでない、という、ひくいしそうのいきづまりから、げんざいのせいじ、きょういく、けいざい、しゃかいのいきづまりがある、といえるのである。すなわち、みんしゅしゅぎのこんぽんどだいが、できあがっていない。いっさいのしゃかいがさじょうのろうかくとなっている。まことに、かなしむべきじょうたいといわなければならない。いちにちもはやく、こうせんるふし、こじんも、しゃかいも、せかいも、いきづまりのないじだいをむかえたいものである。
 さんごんとは、しょうもん、えんかく、ぼさつのことである。ちしき、ぎじゅつとうががりょうてんせいたる、みょうほうをこんぽんとすれば、さいこうにいかされ、こうふくへのちしき、ぎじゅつとなるということである。すなわち、ほんぞんをじゅじしない、さんごんは、けじょうとおなじく、ぜったいのこうふくはありえない。さんごんそくいちじつとは、みょうほうをとなえれば、さんじょう、さんごんのぎじゅつ、ちしきが、ぜんぶ、いかされるじょうたいとかんがえられよう。
 「けじょうそくほうしょなり」については、すでにのべたが、さらにいえば、けじょうはかんねん、ほうしょはせいかつ、けじょうはり、ほうしょはことにわたることでもある。
 われわれが、どうしを、こうはいを、しんけんにげきれいする。このげきれいじたいは、まだけじょうである。このげきれいによって、たちあがり、しんじんがすすみ、きょうがいがひらけば、それじたいはほうしょで、すなわち、けじょうそくほうしょになるわけである。
 たとえば、がくせいとして、もくひょうをかかげ、べんきょうしようとけついする。これは、まだけじょうである。それじたいには、くどくがない。そのけついをしゅっぱつとして、しんけんにどりょくし、じつりょくがついてくる、それじたいはほうしょである。

0734    だいなな かいぐしほうしょのこと

 おんぎくでんにいわく、かいとは、じっかいなり、ぐとはにょがとうむいなり、しとは、ごくかのじゅうしょなりほうしょとは、りょうぜんなり、にちれんとうのたぐい、ななんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、いちどうに、かいぐしほうしょなり、ぐのいちじは、にちれんにぐするときは、ほうしょにいたるべし、ふぐならばあびだいじょうに、おつべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 「かいぐにほうしょにいたる」の「かい」とは、じごくよりぶっかいにいたる、すべてをいうのである。「ぐ」とは、「にょがとうむい」、ほうべんぽんの「わががごとくひとしくして、ことなることなからしめんとほっしき」、つまり、いっさいしゅじょうをほとけとおなじきょうがいに、はいらしめるということである。
 「し」とは、ごくかのじゅうしょへいたる。すなわち、さいこうのこうふくきょうがいにいたるということである。「ほうしょ」とは、りょうじゅせんのことである。ごほんぞんのいますところであり、また、さいこうのこうふくきょうがいをいみしている。
 いま、ごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつる、にちれんだいしょうにんのもんかは、いちどうにかいぐしほうしょ、すなわち、じょうぶつすることができるのである。
 とくに、「ぐ」のいちじは、にちれんだいしょうにんとともにいる、だいしょうにんをしんずるときは、じょうぶつすることができる。またにちれんだいしょうにんとぐでない、すなわち、はなれ、ふしんのねんをおこすならば、あびじごくにおちる、ふこうのドンぞこにおちるということを、しめしているのである。

 「かいぐしほうしょ」のもんこそ、じゆう、びょうどう、そんげんの、みんしゅしゅぎのいちだいげんりである。「かい」とは、じっかいさんぜんのとうたいのことである。にほんじんも、イギリスじんも、フランスじんも、ドイツじんも、ソロシアじんも、みな、おなじせいめいであるとのことばであられる。すなわち、じんるいびょうどうの、だいせいめいてつがくとはいすべきである。「ぐ」とは、いかなるひとたりとも、ひとしく、ぶっかいをぐしている。
 しんじんによって、ぶっかいをゆげんすることによって、ほとけのせいめいとひとしくなる。みょうほうのとうたいとなるとの、もったいないびょうどうろんである。「し」とは、ごくかにいたるしんじんのことである。すなわち、ひたぶるにしんじんにはげみ、しゃかいにかちそうぞうしゆく、われらのじゅうしょこそ、そんごくであり、りょうぜんなりとのことばであられる。
 「にちれんにぐするとき」とは、だいしょうにんのでしとして、しんけんにしんじんし、じっせんにすすむひとのことである。すなわち、そうかがっかいである。したがって、われらのじゅうしょは、ほうしょである。わがしどあんのんである。へいわとこうふくをきょうじゅできうることは、ぜったいにまちがいないわけである。ふぐ、ほうぼうのひと々びとは、あびだいじょうに、おちざるをえない。ごきんげんにてらし、げんじつのせかいをみて、いちにちもはやく、いかなるしょうまにもうちかって、らくどにほんを、きずいていきたいものである。



  • [236]
  • 御義口伝講義録上 ひらがな じゅきほんしかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月17日(土)10時21分35秒
 
  0730~0732 じゅきほんしかのだいじ。

0730    だいいち じゅきのこと。
0731    だいに かしょうこうみょうのこと。
0731    だいさん しゃぜしんいのこと。
0731    だいし しゅくせいいんねんごこんとうせつのこと。


0730~0732 じゅきほんしかのだいじ。

 もんぐのななにいわく、じゅとはこれあたえるのぎなりと。
 おんぎくでんにいわく、きとはなんみょうほうれんげきょうきょうなり、じゅとは、にほんこくのいっさいしゅじょうなり、ふしんのものには、さずけざるなり、またこれをうけざるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうのきを、くうるなり、またいわく、じゅきとは、ほうかいのじゅきなり、じごくのじゅきはあくいんなれば、あくごうのじゅきを、ざいにんにくさずるなり、あまりはこれにじゅんじて、しるべきなり、しょうのきあれば、かならずしす、しのきあれば、また しょうず、さんぜじょうごうのじゅきなり、しょせん、ちゅうこんのよんだいしょうもんとは、われらがしょうろうびょうしのしそうなり、0731。
 かしょうはしょうのそう、かせんねんはろうのそう、もくれんはやまいのそう、しゅぼだいはしのそうなり、ほっけにつてきた、しょうろうびょうしのしそうを、よんだいしょうもんとあらわしたり、これすなわちはちそうさぶつなり、しょほうじっそうのふるまいなりときをくさずるなり、みょうほうのじゅきなるがゆえに、ほうかいのじゅきなり、れんげのじゅきなるがゆえに、ほうかいしょうじょうなり、きょうのじゅきなるがゆえに、しゅじょうのごごんおんじょうは、さんぜじょうごうのじゅきなり、ゆいいつごんにじゅきすべきなんみょうほうれんげきょうきょうなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 もんぐのななに、じゅきのじゅとは、あたえるといういみであるとしゃくしている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。きとはなんみょうほうれんげきょうきょうのことである。そしてじゅとは、にほんこくのいっさいしゅじょうに、さずけるのである。ただし、ふしんのものにはさずけないし、また、ふしんのものは、この、なんみょうほうれんげきょうきょうのきをうけない。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかは、なんみょうほうれんげきょうきょうのきを、うけるのである。また、じゅきとはほうかいのじゅきということであって、たとえば、じごくのじゅきは、あくいんであるから、あくごうのじゅきをざいにんに、さずけることなのである。がき、ちくしょう・・・ぼさつ、ぶっかいと、じっかいそれぞれ、これにじゅんじてしるべきである。また、しょうのきがあれは、かならずしがあり、くのきがあれば、またしょうずるのであって、さんぜじょうごうのじゅきなのである。
 しょせん、ほけきょうしゃくもんにとかれる、ちゅうこんのよんだいしょうもんとは、われわれのしょうろうびょうしの、よんそうをあらわしているのである。すなわち、かしょうはしょうのそうをあらわし、かせんねんはろうのそう、もくれんはやまいのそう、しゅぼだいは、しのそうをしめしているのである。このしょうろうびょうしのよんそうを、ほけきょうにきて、よんだいしょうもんとして、あらわしたのである。これすなわちはちそうさぶつである。
 このしょうろうびょうしはしょほうじっそうのふるまいである。すなわち、みょうほうれんげきょうのしょさであるとの、きをさずけたのである。みょうほうのじゅきで、あるがゆえに、ほうかいのじゅきである。れんげのじゅきであるがゆえに、ほうかいしょうじょうである。きょうのじゅきであるがゆえに、しゅじょうのごんごおんじょうは、さんぜじょうごうである。これらを、なんみょうほうれんげきょうきょうの、ただいちごんにおさめ、われわれしゅじょうにじゅきさられたのである。
 いまどきにおいては、しんじつのじゅきは、ただ、さんだいひほうのほんぞんである。なぜならば、ぜったいに、これいがいに、じょうぶつできえぬからである・・・、とごだんげんのもんである。
 たの、いかなるしゅうきょう、ほんぞんを、しんぽうしじっせんしても、あたかもしゃくとりむしのてんにいたらざるがごとく、けっしてじょうぶつできえない。ここんとうざいのてつがく、しそうも、みな、さんだいひほうのだいぶつほうのじょぶんであり、るつうぶんにすぎない。せいかつかくめいのげんせん、にんげんかくめいのきゅうきょくのげんりこそ、みょうほうなのである。そのじゅきこそ、ただしいじゅきなのである。あくしそう、じゃぎのじゅきをこうむれば、あくごうのじゅきをうけることになり、ついにふこうをまねかざるをえない。
 「しそうはいきている、しそうほどおそろしきものはない」とさけんだてつじんがいた。こじんもばんにんもともに、ほんげんてきに、ふへんだとうせいをもって、きゅうさいできえるだいしそう、すなわち、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうきょうにいきることが、さいだいいちのかちあるじんせいとかくしんされたい。
 また、たとえば、けんどうやじゅうどうにおいて、ゆうだんしゃになることも、そのせかいのじゅきである。だいがくをそつぎょうして、もらうめんじょうも、ひとつのじゅきである。だいぎしがとうせんしてうけるとうせんしょうしょも、そのみちのじゅきである。なお、おやよりざいさんをうけて、そうぞくしたしょるいも、またじゅきといえよう。しかし、さいこうのじんせいかん、せかいかん、うちゅうかんをかくりつして、えいえんにこうふくにいきゆけるしんじつ、こんぽんのじゅきこそがだいじなのである。いっさいのきょうぐう、いっさいのしょくぎょうの、ぜんじんるいがうけるべきじゅきがごほんぞんとはいすべきであろう。

ちゅうこんの、よんだいしょうもんとは、われらがしょうろうびょうしの、よんそうなり。
 よんだいしょうもんをば、われわれのせいめいかつどう、またいっしょうのじっそうのせいめいろんとして、とかれたとおもわれる。じょうじゅうえくうのほうりも、おなじいみとなろう。かしょうは、しょうのそう、すなわち、しゃくそんしょうもんのじゅうだいでしのひとりで、ずだぎょうだいいちである。しゅぎょうだいいち、じっせんだいいちといういみであるから、じょうねつをたぎらせ、ふきょうに、しゅぎょうに、ゆうやくしょうじんしたせいめいなるがゆえに、しょうをあらわしているわけである。したがって、われわれのしんじんじつぜにも、こしんのかしょうということができる。
 かせんねんは、ろうのそう、ろんぎだいいち、がくもんしゅうがくをへて、じゅうこうなじんかくで、きょうぎをうけもって、しゃかぶっぽうにこうふにつくしたせいめいをいみする。したがって、われわれのしゃくぶく、こうぎ、こうえんらも、りっぱに、こしんのかせんねんのはたらきとみることもできるのである。
 もくれんは、やまいのそう、じんずうだいいちである。そのはは、しょうだいにょががきどうにおちているのを、じんつうりきによってしり、ほけきょうにより、すくうことができたというはなしはゆうめいである。また、しゃくそんにゅうめつちょくご、ちくじょうげどうにかこまれ、いったんだっしゅつしたが、かこせのざいごうであることをしり、げどうにころされ、そのごうをめっしたといわれる。すなわち、しゅくめいのごうを、たちきるため、いっしょうのそうけっさんをじかくした、やまいのそうを、せいめいろんからといたとおもえる。われらのかせんねん、ざいしょうしょうめつのいちねんは、とうぜん、こしんのもくれんともかんがえられるであろう。
 しゅぼだいは、しのそう、げくうだいいちである。よく、くうりにつうじているゆえに、しょうじふにのぶっぽうげんりなれば、しをいみしたのである。われらが、えしょうふに、いちねんさんぜんのほうりをしることは、こしんのしゅぼだいといちおうかんがえられる。

みょうほうのじゅきなるがゆえに、ほうかいのじゅきなり。
 みょうほうには、はちまんほうぞうが、ことごとく、ほうがんされている。はちまんよんせんのぶっぽうは、ぜんうちゅうのげんしょう、ほんしつを、ときあかしたものである。したがって、みょうほうそくほんぞんのじゅきは、うちゅうにある、ちから、たから、とう々とうを、いっさい、わがせいめいに、じゅきされたことにつうずるのである。せかいといえば、にほんも、べいこくも、ロシアも、ひゃくじゅういくかこくも、くまなくふくまれているごとくに。
 くうたいのほんぞんは、うちゅうそれじたい、けたいのほんぞんはわがとうたい、ちゅうたいのほんぞんは、さんだいひほうのごほんぞんとなる。くうたいのほんぞんを、いっぷくのだいまんだらとなされたのが、じっかいさんぜんのほうりをぐびしたほんぞんである。すいそとさんそをかごうさせてみずをつくるためには2H2+O=2H2Oのげんりがある。しかし、じっさいにみずとするためには、このほうていしきにはっきんとうのしょくばいのひつようあることは、かがくのじょうしきである。もったいないたとえであるが、ちゅうどうほっそうのごほんぞんに、きえせねば、うちゅうのリズムとのがっち、ならびに、わがせいめいのしんじつのじょうか、せいめいりょく、ちえは、ゆげんできえないのである。
 「れんげの、じゅきなるがゆえに、ほうかいしょうじょうなり」とは、れんげのじゅきは、いんがくじ、せつないちねんのじゅきであり、なんみょうほうれんげきょうきょうのことである。ほうかいしょうじょうとは、じょうぶつのきょうがいをさす。しゅくめいだはしゆくほんにんのちから、ふくうん、ちえをつくり、じひしんをかつどうさせゆく、いちねんのほうそくである。
 「きょうのじゅきなるがゆえに、しゅじょうのごごんおんじょうは、さんぜじょうごうのじゅきなり」のもん。きょうとは、つうずには、いっさいのふるまい、げんしょうのいみょうである。このきょうの、ほうそくにのっとったせいかつは、さいこう、むじょうのじんせい、せいめいかつどうとなり、かちそうぞうとなり、しゃかいにたいする、こうけんにつうずるとのこころである。しゅじょうとはせいめいとやくす。しょせん、えいえんににんげんとうまれ、みょうほうをごじして、なんみょうほうれんげきょうきょうとくしょうし、きゅうかいにゆうげして、ぜったいのこうふくなきょうがい、じんせいをあゆみゆくことができるとのこころである。

0731    だいに かしょうこうみょうのこと

 おんぎくでんにいわく、こうみょうとは、いっさいしゅじょうのそうごうなり、ひかりとはじごくのとうねんみょうか、これすなわちほんかくじじゅゆうのちかなり、ないし、ぶっかこれれおなじ、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうのこうみょうを、ほうぼうのあんみょうのなかにさしいだす、これすなわち、かしょうのこうみょうにょらいなり、かしょうはずだをほんとす、ずだはここに、とソウというなり、いま、まっぽうにはいつて、よぎょうをとソウして、もっぱら、なんみょうほうれんげきょうきょうとしゅうするは、しきょうなんじ、ぎょうずだしゃ、これなりうんぬん。

 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。こうみょうにょらいのこうみょうとは、いっさいしゅしょうのそうごう (すがた)、かたちをいう。ひかりとは、じごくのひのことである。またほんかくじじゅゆうのちかのことでもある。ぶっかにいたるほかのきゅうかいもこれとおなじである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、ほうぼうのくらやみのよに、なんみょうほうれんげきょうきょうをおしえ、こうみょうをさしだしているのは、すなわち、かしょうのこうみょうにょらいということである。かしょうはずだだいいちのひとである。ずだとは、やくすれば「ものをはらいさる」という。いま、まっぽうにはいって、われわれが、ほうぼうのよぎょうをいっさいはらいさって、もっぱらなんみょうほうれんげきょうきょうをとなえ、じぎょうけたのしゅぎょうにはげむのは、けんほうとうほんだいじゅういちに「このきょうはたもちくかた、もししばらくもたもつものは、われすなわちかんきす。しょぶつもまたしかなり、これのごときのひとは、しょぶつのほめたもうところなり、これ、すなわち、ゆうもうなり、これすなわち、しょうじんなり、これをかいをたもち、ずだをぎょうずるものとなずづく」ととかれていることにあたるのである。
おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。こうみょうにょらいのこうみょうとは、いっさいしゅしょうのそうごう(すがた)、かたちをいう。ひかりとは、じごくのひのことである。またほんかくじじゅゆうの、ちかのことでもある。ぶっかにいたる、ほかのきゅうかいもこれとおなじである。

  じんりきほんに、「にちがつこうみょうの、よくもろもろの、ゆうみょうをのぞくがごとく、このひと、せけんにぎょうじて、よくしゅじょうの、やみをめっし」とある。しんじつのこうみょうは、なんみょうほうれんげきょうである。「このひと」とは、くおんがんじょの、じじゅゆうほうしんにょらい、そく、にちれんだいしょうにんであられる。
 ほうにやくして、みょうほう、ひとにやくしてだいしょうにん、ひとほういちかのごほんぞんのみが、いっさいしゅじょうにこんぽんてきこうふくをあたえるこうみょうなのである。やみよのごときごじょくのげんじょうをきゅうさいしきるちからは、てつがくは、こうみょうは、いずこにあろうか。
 ゆいしんてつがくかゆいぶつてつがくか、じつぞんしゅぎか。 きそんの、るふされきったてつがくでは、じじつ、きゅうさいできえないのがげんじつである。
 あとは、にちれんだいしょうにんのさんだいひほうのだいぶつほうを、ぜんせかいのしどうしゃが、けんきょにきき、じっせんしてみるいがいに、かいけつのみちはありえないとだんげんするものである。
 ほうとうほんの「しきょうなんじ」のきょうもんを、われらはしんくいのさんごうでよみきり、こんじょうのしめいを、おのおの、りっぱにはたし、りょうじゅせんにて、だいしょうにんのおほめをいただきたいものである。
 「ないしぶっかこれれおなじ」とうのもん。「じごくのとうねんみょうか、これすなわちほんかくじじゅゆうのちかなり」とは、ひとくちにいえば、「しょうじそくねはん、ぼんのうそくぼだい」とはいせるとおもう。ふこうのどんぞこのひとが、ほんぞんをじゅじすれば、このごせいくんになるとかくしんする。したがって、こうみょうとか、ちかとか、きゃっかんしすれば、せいかつのじょうたいであり、しゅかんしすれば、せいめいのかつどうじょうたいとかんがえられる。
 じごくかいは、いきては、くるしみ、おうのうし、ししては、ともしび、ねんしょう、みょうかのなか。しゅらかいのひかりとは、いかりのまなこ、がき、ちくしょうのこうみょうもまた、どうぶつがえものを、とるまなこをそうぞうすべきである。にんかいよりぼさつかいになれば、よろこびのせいかつ、たのしみのじんせいこうろ、けんきゅうどりょくのまなこのひかり、ちえのりき、じひこうい、かつまた、ひと々びとをすくおうとおもうどりょく、かがやくじょうねつのまなこのこうみょうとかんがえるべきである。

0731    だいさん しゃぜしんいのことtop

 おんぎくでんにいわく、このもんだんより、しゃふしゃのおこりなり、てんしゃにして、えいしゃにあらず、てんしゃはほんもんなり、えいしゃはしゃくもんなり、このみをすてるは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのむねに、そむくなりうんぬん、しょせん、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、しゃぜしんいなり、ふしゃくしんみょうのゆえなりうんぬん、またいわく、このみをしゃすとよむときは、ほうかいにごだいをしゃすなり、すつるところのぎにあらず、このみをすてて、ほとけになるというは、ごんもんのこころなり、かかるしゅうじょうをすつるを、しゃぜしんいととくなり、このもんは、いちねんさんぜんのほうもんなり、しゃぜしんいとは、げんきほんり、いちねんさんぜんのこころなり、みょうらくだいしの、とうちみど、いちねんさんぜん、こじょうどうじ、しょうしぼんり、いっしんいちねん、へんおほうかいとしゃくするは、このこころなりうんぬん。

 ここは じゅきほんさいごのげに、「わがこのでし、だいもっけんれんは、このみをすておわって、はっせん、にひゃくまんのくのしょぶつせそんをみたてまつることをえ」うんぬんのところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。だいもっけんれんがそのみをすておわって、はっせん、またにひゃくまんのくのしょぶつせそんをみたてまつることができた。すなわちじょうぶつしたととくこのだんから、すふしゃということがおこるのである。ほんいはてんしゃ=かりにすてるであって、えいしゃ=えいきゅうにすててしまうことではない。てんしゃはぼんもんであり、えいしゃはしゃくもんのおしえである。われわれのこのみをえいしゃすることは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんのほんしにそむくことになるのである。しょせん、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるのは、ふしゃくしんみょうであるから、しゃぜしんいである。
 また、このみをほどこすすとよむときは、うちゅうほうかいにごだい、すなわちこのにくたいをほどこすのであって、すてるというぎではないのである。このみをすててほとけになるというのは、にぜんごんきょうのこころであって、このようなにぜんごんきょうにしゅうちゃくするこころをすてることをしゃぜしんいととかれているのである。さらにふかくはいすれば、このしゃぜしんいのもんはいちねんさんぜんのほうもんをあらわしている。すなわちしゃぜしんいとは「げんきほんり、いちねんさんぜん」ぼんりであることのいちねんさんぜん、なんみょうほうれんげきょうのごほんぞんにきみょうするといういみである。みょうらくだいしが「まさにしるべし、みどはいちねんのさんぜんなり、ゆえにじょうどうのとき、このぼんりにかなって、いっしんいちねんほうかいにあまねし」としゃくしているのは、このいみである。

 さどごしょに「せけんにひとのおそるるものはほのおのなかととうけんのかげとこれみのしするとなるべしぎゅうばなおみをむおしいわんやじんしんをやらいにんなおいのちをむおしいかにいわんやそうにんをや」(0956-04)うん々ぬんと。また、かえんじょうごうしょには「いちにちのいのちはさんぜんかいのたからにもすぎてそうらなり」(0986-11)うんぬんとある。ぶっぽうは、せいめいのそんげんをとき、せいめいのだいじをとく。したがって、ぶっぽうにはぎせいはありえないのである。なむとはきみょうというこころであり、また、なむとは、ぎょうはらみつなりとおおせである。げんきほんりのいちねんさんぜんのきみょうなれば、しょせんは、むじょうどうにいきているせいめいといえるのである。
 ふしゃくしんみょうは、とうぜん、まっぽうのほけきょうのしんどくである。ごほんぞんをじゅじし、だいしょうにんのごきんげんどおり、つよく、ただしく、じっせんかつどうしていることは、ふしゃくしんみょうであり、しゅくめいだはをなし、ふくうんをつみ、じょうぶつすることはうたがいないわけである。じょせいのために、ふしゃくしんみょうのひともある。かねだけのために、ふしゃくしんみょうのひともある、けんりょく、せいりょくだけのために、ふしゃくしんみょうのひともある。はかないふしゃくしんみょうというべきであろう。われわれのふしゃくしんみょうは、だいしょうにんのごゆいめいをたっせいしゆく、すうこうなるもくてきじつげんへのこうどうそれじたいである。ふしゃくしんみょうについては、さらにかんじほんの「だいにふしゃくしんみょうのこと」でろんずることにする。
 「またいわくこのみをしゃすとよむときはほうかいにごだいをしゃすなり」のもん。このもんは、じゅりょうほんのにゃくたいにゃくしゅつのもんのこころにつうずる。かんげんすれば、それぞれのしゅくごうにより、だいうちゅうにかんげんするといういみである。すなわち、うじょう、ひじょうともにさんせいじょうごうである。ちきゅうぜんたいが、げんぜんたるいちこのせいめいといえよう。ほのおのちきゅうがさめ、さまざまなさようとうをえ、げんじつに、うじょう、ひじょうのせいめいをげんしゅつしたふしぎは、とうぜん、しきしんふにのせいめいたいが、いっさいのこんぽんであることは、めいかくといえよう。しょうろうびょうし、じょうじゅうえくう、だいしぜんのせつりなれば、いっさいのせいめいが、しょせん、うちゅうにすきことになる。そのかんげんしてゆくうちゅうにじっかいのあらゆることをしらねばならない。
 そこで、こんじょうのぶっぽうのぜったいひつようせいがそんするわけである。また、こんじょうのせいめいのいんが、みらいのかをけっじょうし、みらいのかがそく、いんとなり、つぎのしゃばせかいしゅっしょうのかをつくりあげているのである。
 きょうもんに、ふじしゃくしんみょうとある。なむとはきみょう、だいもくをあげきることが、だいしょうにんのごきんげんをじっせんすることが、なむであり、ふじしゃくしんみょうとなる。このとうといせいめいを、しょうじにすててはならない。みょうほうにきみょうすることは、すてるのではなくほどこすのである。これは、りっぱに、ぎょうはらみつとなるとおおせである。
 がばくにくるしむきょうがいより、むじょうのらくをえられることが、しんじつのぶっぽうのげんりなのである。けっきょく、だいもくをあげきったじんせいが、みずからもりやくし、ひと々びとにも、こくどせけんにも、だいうちゅうにも、くどく、せいきをあたえきり、えいえんに、ほうしんをほどこすことになるわけである。
 したがって、じっさいもんだいとして、あらゆるひじょう、しょくもつ、のみもの、かおく、ようふくとうが、すべて、われらにほどこしたといえるのである。うじょうのせいめいも、とうぜん、いちおうは、いきてはぶんかしゃかいのそうぞうに、せいめいかつどうをもて、ほどこしをなしたといえようし、ししてもまた、うちゅうのなかに、かんげんされ、とけこみ、うちゅうかつどうのはたらきをきしていることはかんがえられることである。


0731    だいよん しゅくせいんねんごこんとうせつのこと

おんぎくでんにいわく、しゅくせいのいんねんとは、さんぜんじんでんのむかしのことなり、げこんのためにしゅくせのいんねんを、とかんということなり、いんねんとはいんはしゅなり、えんはむかしにかえるぎなり、もとづくとぜりくん、だいつうけちえんのげしゅに、もとづくということをいんねんというなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるは、かこのいんにもとづきたり、ここをもって、みょうらくだいしのいわく、「ゆえにしんぬ、まつだい、いちじきくことをえて、ききおわってしんをしょうずこと、すべからくしゅくしゅなるべし」と、しゅくとは、だいつうのおうじなり、しゅとはげしゅのなんみょうほうれんげきょうなり、このげしゅにもとずくを、いんねんというなり、ほんもんのこころは、ごひゃくじんでんのげしゅにもとずくべきなり、しんじつみょうほうのいんにもとずくくを、じょうぶつというなり。0732

かいしゃくこうぎ。
 ここは、じゅきほんのいちばんさいごに「わがもろもろのでしの、いとくぐせるそく。そのかずごひゃくなるも、みなまさにじゅきすべし、みらいせにおいて、ことごとくじょうぶつすることをえん、わがおよびなんじらが、しゅくせいのいんねん、われいま、まさにとくべし、なんじら、よくきけ」とのべられているだんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しゅくせいのいんねんとは、さんぜんじんでんこうの、むかしのことをいうのである。げこんのしょうもん、つまりいんねんしゅうのために、しゅくせいのいんねんを、とこうというのである。いんねんとは、いんはげしゅ、えんはむかしにかえるといういみで、「もとづく」とくんずる。つぎのけじょうゆほん、だいななでとかれる、だいつうけちえんのげしゅにもとづくということを、ここでいんねんといっているのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのは、かこのいん=くおんがんじょのいんにもとづく、くおんがんじょにかえるのである。
 このゆえに、みょうらくだいしは、「まっぽうにおいて、なんみょうほうれんげきょうのだいびゃくほうを、きくことができ、ききおわって、しんをしょうずるのは、しゅくしゅがあるゆえであることがわかる」と、のべている。このしゅくとは、だいつうちしょうぶつのむかしのこと、しゅとは、げしゅのほったいである、なんみょうほうれんげきょうであり、このげしゅにもとづくことを、いんねんというのである。そして、ほんもんのこころは、ごひゃくじんでんこうのげしゅに、もとづくべきであり、しょせん、しんじつのみょうほう、くおんがんじょの、なんみょうほうれんげきょうのいんにもとずくことを、じょうぶつというのである。

 じんせいのもくてきは、なにか。そうたいてきこうふくでなく、ぜったいてきこうふくのかくりつにある。そのこんぽんげんそくとして、えいえんのせいめいをえとくすることにあり、そのいちどうは、みょうほうを、じゅじじっせんするいがいにない。しょせん、わがせいめいのほんしつを、かくちせよとのだんのおんふみである。
 しゃかぶっぽうのせいめいろん、だいしょうにんのぶっぽうのせいめいろんのそういが、めいかくになされている。しゃくそんのくおんろんは、まだ、うしうしゅうであり、にちれんだいしょうにんの、くおんろんはむしむしゅうであられる。しゃくそんは、こしんのえいえんのせいめいかんを、とかれたのにたいし、だいしょうにんは、さんじんじょうじゅうを、あかされている。しんじつのいんねんのいんとは、くおんがんじょのいんにもとづく、くおんがんじょにきする。くおんがんじょは、すなわちなんみょうほうれんげきょうである。したがって、ほんぞんに、みょうほうをくしょうすることじたい、ぶっかいをゆげんし、むしむしゅうのえいえんのせいめいに、ほんしつてきに、いきることになるのである。
 やれ、じねんしゅぎだ、ぶっしつしぜんしゅぎだ、りそうしゅぎだ、きゃっかんてきりそうしゅぎだ、しんぴしゅぎだ、とせいようてつがくでろんぎされるが、このだいしょうにんのせいめいかん、うちゅうかんとくらべれば、てんちうんでいなることがわかるであろう。


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  • 御義口伝講義録上 ひらがな やくそうゆほんごかのだいじ

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月17日(土)01時58分59秒
 
    0728~0730 やくそうゆほんごかのだいじ。

0728    だいいち やくそうゆほんのこと。
0729    だいに このほんじゅつじょうだんのこと。
0729    だいさん ゆいいちじしょしょう、いちうしょじゅんとうのこと。
0729    だいよん はうほうおう、しゅつげんせけんのこと。
0730    だいご がかんいっさい、ふかいびょうどう、むうひし、あいぞうししん、がむとんじゃく、やくむげんげのこと。

0728    だいいち やくそうゆほんのこと。

かいしゃくこうぎ。
 きのななにいわく、むしのしょうとくは、ちのごとく、だいじょうのこころをはっするは、しゅのごとし、にじょうのこころをはっするは、そうもくのめくきのごとし、いま、しょじゅうにはいるは、おなじく、ぶつじょうのめくきとうを、じょうずるがごとしと。
 おんぎくでんにいわく、ほっけのこころをしんずるは、しゅなり、しょほうじっそうのないしょうにはいれば。ぶっかをじょうずるなり、くすりとは、きゅうかいのしゅじょうのしんぼうなり、そのゆえは、ごんきょうのこころは、どくそうなり、ほっけにあいぬれば、さんどくのぼんのうのしんちを、さんじんがまんのしゅなりと、かいかくするをくすりとはいうなり、いま、にちれんとうのたぐい、みょうほうのくすりをぼんのうのくさにくうるなり、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんと、さとらしむるを、ゆとはいうなり、しゃくにいわく、「ゆとはぎょうくんなり」と、やくそうゆとは、われらぎょうじゃのことなり。

 みょうらくだいしの、ほっけもんぐきに、むしのしょうとく、しゅじょうのほんしょうは、だいちのようなものであり、だいじょうのこころをおこすのは、たねをまいたようなものである。にじょうのこころを、おこすのは、そうもくのめやくきのようなものであり、いま、しょじゅうのくらい、ふたいちにはいるのは、ぶつじょうのめやくきを、じょうずるようなものであるといっている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。ほっけのこころ ごほんぞんをしんずることは、ぶつしゅをうえたことであり、しょほうのないしょう、なんみょうほうれんげきょうの、さとりにはいれば、じょうぶつのきょうがいとなるのである。
 やくそうゆほんの、「くすり」とは、きゅうかいのしゅじょうのしんぼうのことである。そのゆえは、ごんきょうをしんずるこころは、やくそうにたとられるが、ごほんぞんにおあいすれば、とん、じん、ちのさんどくの、ぼんのうのこころが、じつは、ほっぽうおうのさんじんを、そなえた、ほとけのしゅであるとかいかくするのを、「くすり」というのである。いま、まっぽうにおいて、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかは、みょうほうのくすり、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうきょうを、ぼんのうのくさにうけているのである。
 ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんと、さとらせることをば、「ゆ」というのである。もんぐのごには、「ゆとはぎょうくん、おしえさとすことである」といっている。けっきょく、やくそうゆとは、われわれほけきょうのぎょうじゃについて、いっているのである。

 ほけきょう、やくそうゆほんだいごの、たいいは、まえの、しんげほんだいよんにとける、よんだいしょうもんが、いちじょうのたとえをきき、さんじょうほうべん、いちじょうしんじつのてつりをしって、りょうげした。しかし、このきょうは、ほんらいいちそういちみであるけれども、しゅじょうのきこんにしたがって、さんじょう、ごじょうのべつが、あることをといていない。そこでやくそうゆほんにはいって、さらにいちぽすすめて、じっそういちみのほうが、きによって、さんじょうごじょうのほうに、わかれることを、しめしたものである。
 ここで、ゆうめいなたとえは、さんそうにもくのたとえである。「いちじしょしょう、いちうのしょじゅんなりといえども、しかももろもろのそうもく、おのおの、さべつあるがごとし」うんぬん。いちじしょしょう、いちうしょじゅんはほけきょうである。もろもろの、そうもく、すなわちさんそうにもくは、さんじょうであり、ごじょうのきこんのことである。いま、われわれの、しんじんのたちばから、ろんずれば、ごほんぞんのたいくりきが、いちちのしょしょうであり、いちうのしょじゅんとはいするのである。おのおの、いかなるきょうぐうにあるひとたりとも、いかなるせいしつのもちぬしであっても、びょうどうだいえの、だいくどくをうけることが、できるとのげんりである。
 すなわち、せいじかはせいじかとして、じつぎょうかはじつぎょうかとして、がくせいはがくせいとして、また、ろうじんもせいねんも、しょうねんも、こういんものうみんも、にほんじんも、がいこくじんも、ひとりももれなく、みょうほうれんげきょうにてらされて、ぜったいのこうふくきょうがい、すなわち、じょうぶつすることができるのである。これいじょう、げんじつにちからをしょうみょうしている、だいてつりが、だいしゅうきょうが、いずこにあろうかと、うったえたいものである。とうたいぎしょうにいわく、「しょうじきにほうべんをすて、ただ、ほけきょうをしんじ、なんみょうほうれんげきょうきょうととなうるひとは、ぼんのうごう、くのさんどう、ほっしん、はんにゃ、げだつの、さんとくとてんじてさんかん、さんたい、そくいっしんにあらわれ、そのひとの、しょじゅうのところは、じょうじゃっこうどなり」(0512-10)と。

0729    だいに このほんじゅつじょうだんのこと

 おんぎくでんにいわく、じゅつとは、かしょうなり、じょうとはしゃくそんなり、じゅつじょうのにじは、かしょう、しゃくそんいっちするぎなり、しょせん、じゅつはしょけのりょうげ、じょうはほとけのいんかなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうとりょうするは、じゅつなり、にちれんがさんたんするは、じょうなり、われらがそくしんじょうぶつを、とききわめたるほんなり、じゅつじょういっち、ふけいするは、じゅつじょうふにの、そくしんじょうぶつなり、このじゅつじょうはほうかいさんぜんのかいじょうぶつどうのじゅつじょうなり。

かいしゃくこうぎ。
 じゅつじょうというのは、しんげほんだいよんで、よんだいしょうもんが、ほとけのひゆほんの、せっぽうをりょうげしたむねを、もうしのべたのにたいし、それをほとけがしょうにんして、さらに、せつめいをかさねたことを、いうのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。じゅつとは、かしょうのりょうげのたちばであり、じょうとはしょうにんのたちばである。つまりじゅつじょうとは、かしょうとしゃくそんのきょうがいが、いっちしたことをしめしているのである。つまるところ、じゅつじょうとは、しゃくそんとかしょうのかんけいにかぎるのではなく、じゅつとはしょけ、すなわち、でしのりょうげであり、じょうとは、ほとけのしょうにんなのである。
 いま、にちれんだいしょうにんのもんかが、まっぽうのじょうぶつは、なんみょうほうれんげきょういがいにないと、なっとくすることは「じゅつ」であり、にちれんだいしょうにんが、そのしんじんをさんたんされるのは、「じょう」にあたるのである。やくそうゆほんは、われわれが、なんみょうほうれんげきょうによって、そくしんじょうぶつできることを、とききったほんである。かしょうのじゅつと、ほとけのじょうとがふせつをあわせたように、いっちするのは、じゅつじょうふに(していふに)の、そくしんじょうぶつをあらわしているのである。このじょうぶつということは、ほうかいさんぜん あらゆる、しんらばんしょうがかいじょうぶつどう、すなわち、みょうほうのとうたいであり、ふかいほんいの、かくたいであるということを、りょうげし、またしょうにんしたことを、いみするのである。

 やくそうゆほんは、ひせつしゅうの、じゅつじょうをといているのである。ほけきょうしゃくもんでは、ほうせつしゅう、ひせつしゅう、いんねんしゅうの、いわゆるさんしゅうのしょうもんの、じょうぶつをゆるされ、それぞれしょうせつ、りょうげ、じゅつじょう、じゅきがとかれている。
 すなわち、じょうこんのしゃりほつは、ほうせつしゅうのしょうもんとして、ほうべんぽんでしょうせつ、ひゆほんでりょうげ、じゅつじょう、じゅきをうけ、ほうせつのみでさとったのである。つぎにちゅうこんのかしょう、かせんねん、しゅぼだい、もっけんれんのよんだいしょうもんは、ひせつしゅうといわれ、じゅんりのみではしげがたいのでたとえをもってといている。ひゆほんはしょうせつとなり、さんしゃかたくのたとえをとき、ちょうじゃぐうじのりょうげを、しんげほんにとき、やくそうゆほんでじゅつじょうし、じゅきほんでじゅきをうけた。だいさんに、げこんのふるなは、いんねんしゅうといわれ、ほうせつとひせつでもりかいできず、かこせのいんねんをきいて、とくどうする。だいつうちしょうぶついらいの、けちえんをといたけじょうゆほんは、いんねんしゅうのしょうせつであり、ごひゃくでしじゅきほんと、じゅがくむがくにんきほんは、りょうげ、じゅつじょう、じゅきのみっつをあかしている。じゅきとはいわゆるこう、くに、みょうごうとうをそなえた、じょうぶつのきべつをうけることがある。
 つぎにさんしゅうのしょうもんを、わかりやすく、ずししてみよう。

 りゃくかいさんけんいち ───────────┬─ ほうべんぽんだいに
             ┌ しょうせつ ┘
             ├ りょうげ ┐
       ┌ せっぽうしゅう ┼ じゅつじょう ┼┐
       │     └ じゅき ┘├ ひゆほんだいさん
       │     ┌ しょうせつ ─┘
       │     ├ りょうげ ── しんげほんだいよん
 こうかいさんけんいち ┼ ひせつしゅう ┼ じゅつじょう ── やくそうゆほんだいご
       │     └ じゅき ── じゅきほんだいろく
       │     ┌ しょうせつ ── けじょうゆほんだいしち
       └ いんねんしゅう ┼ りょうげ ┐
             ├ じゅつじょう ┼┬ ごひゃくでしじゅきほんだいはち
             └ じゅき ┘└ じゅがくむがくにんきほんだいきゅう

 いままで、のべてきたのは、てんだいのきょうそうである。このじゅつじょうを、われわれの、しんじんのたちばからかんがえれば、どのようになるであろうか。おんぎくでんにいわく、「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうとりょうするは、じゅつなり、にちれんがさんたんするはじょうなり」と。
 すなわちじゅつじょうとは、していふに、きょうちみょうごうを、あらわしていると、はいすべきである。にちれんだいしょうにんとにっこうしょうにんの、おすがたこそ、じゅつじょうであり、していふになのである。にちれんだいしょうにんの、なんみょうほうれんげきょうの、だいぶっぽうを、ただおひとりあますところなく、りょうげされ、だいしょうにんを、ただしく、ごほんぶつとはいした、だいにそ、にっこうしょうにんこそ、べっして、「いま、にちれんとうのたぐい」のおかたである。また、そうじては、われわれがっかいいんが、もったいなくも、「いま、にちれんとうのたぐい」とのおおせに、あたるものといえよう。
 しかして、ごろうそうやそのまつりゅうは、にちれんだいしょうにんを、ごほんぶつとあおげず、なんみょうほうれんげきょうのごほんぞんを、しんじないゆえに、ほうぼうのたからであり、だんじて、していふにのぎは、なりたたぬのである。われわれが、ごほんぞんをしんじて、あさにゆうに、だいもくをとなえることによって、ごほんぞんに、きょうちみょうごうできうるのである。
 すなわち、わがみに、ぶっかいがゆげんして、せいめいりょくゆたかに、ちえあふれ、えいえんのせいめいを、かんとくすることができるのである。
 だいしょうにんが、ごしょのいたるところに、「にちれんとうのたぐい」、「にちれんがでしだんな」と、おおせくださるのは、われら、ぼんぷをごほんぶつのきょうがいにまで、ひきあげよう、きょうちみょうごうさせてあげようという、ごじひのあらわれであり、まことに、かんげきにたえないものである。
 しかるに、じゃしゅうのきょうそとうと、しょうするとはいは、しんじゃをあたかも、どれいのごとくぐうし、しんじゃのぎせいのうえに、くんりんしたすがたであり、すこしも、していふに、きょうちみょうごうの、てつりをそなえていないのは、とうぜんのことであろう。われわれの、しどうのありかたのこんぽんは、だいしょうにんの、ごせいしんのままに、すべて、ほんにんのただしいしんじん、こうふくをえさしめるための、きょうがいをおおきく、ひらかせるための、しどうでなければならない。また、だいがくとうのきょういくにおいても、ただぎむてきに、こうぎをくりかえすのみではなく、じぶんとおなじきょうがいにまで、こうじょうさせよう、りかいせしめようという、すがたがあってこそ、はじめて、しんのきょういくのほんぎが、たっせいされるものであるとおもう。

0729    だいさん ゆいいちじしょしょう、いちうしょじゅんとうのこと

 おんぎくでんにいわく、ずいえんふへんのおこるところのもんなり、みょうらくだいしいわく、「ずいえんふへんのせつは、だいきょうよりいで、ぼくせきむしんのことばは、しょうそうよりしょうず」と、このだいきょうとは、いちきょうのそうたいにあらず、このゆいいちち、ところしょうとうの、じゅうひちじをさすなり、いちじしょしょう、いちうしょじゅんは、むしゃべつひ、にしょそうもく、おのおの、うしゃべつは、うしゃべつひなり、むしゃべつひのゆえにみょうなり、うしゃべつひのゆえにほうなりうんぬん。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうととなえたてまつるは、うしゃをおくなり、にじゅうはちほんはうしゃべつなり、みょうほうのごじはむしゃべつなり、いちちとはしゃくもんのだいち、いちうとはほんもんのぎ、てん、いちじとはじゅういんしか、いちうとはじゅうかこういん、まっぽうにしつて、じゅうかこういんのいちうを、ぐつうするなり。
 いちうとは、だいもくによぎょうをまじえざるなり、じょぼんのときは、うたいほううととき、このほんのときは、いちうしょじゅんととけり、いちうしょじゅんはじょぼんの、うたいほううをかさねて、ほとけときたまうなり、いちじとは、ごじのなかの、きょうのいちじなり、いちうとはごじのなかのみょうのいちじなり、ほうれんはなのさんじは、さんせんまんほう、なかにもそうもくなり、さんじょう、ごじょう、ななほうべん、きゅうほうかいなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここでは、「ゆいいちじしょしょう いちうしょじゅん、にしょそうもく、おのおのうしゃべつ(いちちのしょしょう、いちうのしょじゅんなりといえども、しかももろもろのそうもく、おの々おのしゃべつあるがごとし)についてのおんぎくでんである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんからずいえんしんにょ、ふへんしんにょということがいわれているのである。みょうらくだいしは、「ずいえんふへんのせつは、だいじょうよりいて、ぼくせきむしんのことばは、しょうそうよりしょうず」とのべてる。
 ずいえんはほんもん、ふへんはしゃくもん、しょうそうはにぜんきょう、しょうじょうきょうをさすとおもわれる。「ぼくせきをもって、むしんとみる」のことばは、すなわち、えいえんのせいめいをとかない、じょうぶつをみとめない、しょうじょうきょうのおしえから、きているということである。ここでいう、だいきょうとは、ほけきょうぜんたいをさすのではなく、「ゆいいちじしょしょう」とうのじゅうひちじをさしているのである。
 「いちちのしょしょう、いちうのしょじゅん」ということは、ものごとのむしゃべつのめんを、たとえたのであり、「しかももろもろのそうもく、おの々おのしゃべつあるがごとし」ということは、ものごとにさべつのあることを、たとえているのである。みょうほうのみょうは、むしゃべつひをいみし、ほうは、うしゃべつひをいみするのである。
 いま、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうきょうととなえたてまつることは、うしゃべつをさしおくのであり、すなわち、むしゃべつなのである。
 にじゅうはちほんは、うしゃべつであり、みょうほうのごじは、むしゃべつである。いちじというのは、しゃくもんというだいち、いちうというのは、ほんもんというてん、またいちじとは、じゅういんしか、いちうとは、じゅうかこういんをいみしているのである。いままっぽうになって、じゅうかこういんのいちう、すなわち、なんみょうほうれんげきょうきょうをぐつうしているのである。
 いちうとは、だいもくにだいもくいがいのよけいなものを、すこしもまぜないということである。じょぼんにはうたいほうう(いま、ほとけせそん、たいほうをとき、たいほうのあめをふらし)ととき、このやくそうゆほんでは、いちうしょじゅんとといているが、いちうしょじゅんは、じょぼんのうたいほううをかさねてのべたものである。いちじとは、ごじのなかの、いちばんしたのきょうの、いちじであり、いちうとは、ごじのなかのいちばんうえのみょうのいちじである。
 ちゅうげんのほうれんげのさんじは、さんぜんまんほう、とりわけそうもくである。さんじょう、(しょうもん、えんかく、にじょうのぼさつ)、ごじょう、(さんじょう+にん、てん)ななほうべん(、ぞうきょうのしょうもん、えんかく、ぼさつと、つうきょうのしょうもん、えんかく、ぼさつと、べつきょうのぼさつ)のきゅうほうかいである。

 「いちうしょじゅん」とは、だいもくをあげていくことである。やくそうゆほんに、「ひとしくほうふをふらし」とあるように、びょうき、ひんこん、かていふわなど、どんななやみがあろうとも、ごほんぞんをしんじ、だいもくをあげることによって、すべてのなやみはかいけつできうることをいみしているのである。これごほんぞんの、むしゃべつ、びょうどうのじひである。
 またいちうとは、じっかいのげんご、おんじょうのふるまいのすべてである。なかでも、げんご、おんじょうをもって、しゃくぶくしていくのは、おなじく、いちうしょじゅんである。そして、このしゃくぶくのほうふは、じごくのしゅじょう、がきのしゅじょう、ちくしょうのしゅじょうとう、あらゆるきょうがいのひと々びとにふりそそぐのである。
 ゆえにしゃくぶくは、あいてのちいや、きょうぐうのいかんをえらぶことなく、あらゆるひとにたいして、しゃくぶくできるのである。そして、すべてのひとがごほんぞんをしんじて、だいくどくをうけることを、しらなければならない。
 つぎに、じゅういんしかとじゅうかこういんに、ついてかんがえてみよう。まずじゅういんしかと、じゅうかこういんというほうもんは、でんぎょうだいしのくでんのほうもんといわれている。すなわち、げんぎしるいじゅうだいいちに、「でんぎょうだいし、いちょうにはいり、ぎょうまんざすにあいて、じゅういんしかのしだいをつたえ、どうずいおしょうにしたがって、じゅうかこういんのしだいをでんうるなり」とうと、つたえられている。またてんだいしゅうの、げんぎたいもうけんもんにも、「しかくもんに、せんせらるるところの、じっそうのりというものは、じゅういんしか、だんめいかいごのけんなり、さて、ほんかくのきょうの、せんせらるるところのりは、じゅうかこういん、むぞうむさのじつりなり」と、でている。
 ゆえに、じゅうかこういんとは、しゃくもんのだんどうで、まよいのしゅじょうが、しゅぎょうのいんによって、じょうぶつのかにむかうすがたを、しめしている。またじゅうかこういんとは、ほんもんのほんかくのほうもんとして、もちいられているのである。
 いらい、てんだいしゅうでもちいられ、しんごんしゅうでも、いちぶとうようしたが、にちれんだいしょうにんが、ほけきょうのしゃくもんは、じゅういんしかであり、ほけきょうほんもんは、じゅうかこういんなりとして、このおんぎくでんでもちいられたのである。
 さらに、ごそうでんしょたる、ひゃくろくかしょうのなかには、さらにふかいほうもんとして、おおくいんようされているが、ほんがの、みょうほうれんげきょうのほんしゃくのなかの、「こんにちのほんがは、じゅういんしかなれば、ほんのほんがにはおとるなり」(0855)のもんについて、にちかんしょうにんは、まっぽうそうおうしょうに、つぎのようにといている。
 すなわち、「これはこんにちのほんがと、ほんのほんがとの、しょうれつをはんじている。おなじく、おうぶつしょうしんといえども、もししょけんにしたがえば、しょうれつがある。こんにちの、ほんがは、しゃくのいんもんをかいして、ほんのかもんをあらわすゆえに、じゅういんしかである。もし、ほんのほんがは、しゃくのほんがをかいして、ほんのほんにんをあらわすゆえに、じゅうかこういんである。しょうれつをいえば、こんにちの、ほんがはしゃくのいんもんをかいして、ほんのかもんをあらわす。
 しょけんのほんがを、もしほんにんにのぞむれば、なおほんのうえのしゃくなるゆえに、こんにちのほんがは、おとるのである。もし、ほんのほんがはしゃくのほんにんをかいして、ほんのほんにんをあらわす。しょけんのほんにんは、どくいちのほんもんのゆえに、ほんのほんがはすぐれるのである。しょけんのほうもん、しょうれつことなりといえども、こんにちのほんがはおなじくこれ、しきそうそうごんのおうぶつのしょうしんの、じじゅゆうしんである」と。
 ここでは、じゅういんしかは、こんにちのほんが、すなわちさんぜんねんまえの、ほけきょうほんもんもんうえのおしえであるとし、じゅうかこういんは、ほんのほんが、すなわちごひゃくじんでんこうまえの、くおんのほけきょうほんもん、もんじょうのおしえであるとして、もちいられているわけである。すなわち、じゅうかこういんとは、しゃかぶっぽうのほんがのおしえをひらいて、にちれんだいしょうにんの、ほんにんみょうのぶっぽうをあらわすいみで、もちいられているわけである。
 それでは、われわれのせいかつに、やくしてろんずれば、どうなるかといえば、われわれがしゃくぶくをうけてにゅうしんし、ぶつどうしゅぎょうにはげんで、こうふくになっていくすがたは、じゅういんしかであるが、そのこうふくになったというけっかの、そもそもの、こんぽんげんいんをたずねていくと、くおんがんじょいらい、ごほんぞんのほんけんぞくとして、さんだいひほうをしんじていたという、ほんにんがあるわけで、これが、じゅうかこういんといえるであろう。
 しょほうじっそうしょうに、「ぢゆのぼさつのしゅつげんにあらざずんば、となへがたきだいもくなり」(1360-07)と、おおせられるのは、じゅうかこういんである。また、このよにうまれてきたということは、けっかであり、じゅういんしかであるが、なぜこのよに、うまれなければならなかったかと、しゅくせのげんいんをたずねていくのは、じゅうかこういんとなる。じぶんのせいかつじょうたいをみれば、いろいろなげんいんによってこうふこう、せいこうとしっぱいがしょうじてくる。しかし、ほんげんをたずねれば、すべてしんじんのいちねんにおさまり、みょうほうにてらされているのである。
 また、ここで、みょうほうれんげきょうのみょうということについて、とくにかんがえてみよう。いくおくまんのほしのそんざい、ちきゅうのはっせい、さらにせいめいのたんじょう、とうとう、いんがのりほうにざるあらものは、ないはずである。それらのこんかんをさして、みょうというのである。たとえばまなこがわるい、どうしてまなこがわるいようにしゅくめいづけられてうまれたか、べんきょうしすぎてわるくなったといえば、これはきんいんである。 べんきょうしても、わるくならないひともたすういる。そのいんがを、いちだんいちだんふかくしさくしてみれば、じつに、ふしぎなことと、かんぜざるをえない。ふしぎとは、むということでもない。そしてひとつのほうそくが、ありえぬという、いみでもけっしてない。ひじょうに、しぎしがたき、だいほうそくといういみを、ひとくちにみょうととかれたものである。ゆえに、じったいのちからはげんぜんとある。
 そのじったいの、ほんげんをばふしぎというのである。げんだいかがくでは、せつめいできえぬ、おうぎをさすともいえよう。
 つぎに、さべつとの、びょうどうのかんけいについてかんがえてみょう。なんみょうほうれんげきょうを、となえることは、びょうどうのなかのびょうどうである。すなわちひゆほんに、「さんがいはみなこれ、わがうなり…わがこなり」うん々ぬんと。だいしょうにんのもとに、ぜんぶ、こどもであり、でしなのである。じょうぶつするためには、だいじんでも、ざいばつでも、がくせいでも、だんじょ、ろうにゃく、きせんをとわず、ごほんぞんにだいもくをとなえるいがい、ぜったいにないのである。このように、こんぽんはむしゃべつなのである。ただし、じっさいのせかいにおいては、さべつがそんざいするのである。
 しゅじょうせけんや、こくどせけんのせけんとは、さべつのぎである。つぎの「だいよんはうほうおう、しゅつげんせけんのこと」には、「せけんとはにほんこくなり」とある。アメリカとか、フランスとか、にほんとか、そうたいすればさべつになる。こくどせけんである。しゅじょうせけんのばあいにも、イヌやネコ、そのたからみれば、にんげんはさべつされるわけである。こんどは、にんげんのなかでも、ぎじゅつしゃである、せいじかである。または、かていのしゅふである。かがくしゃである。げいじゅつかだとか、おのずからさべつができてくるものである。さべつはぜったいに、くおんがんじょいらい、じんみらいさいまであるのが、どうりなのである。であるから、こくどせけん、しゅじょうせけん、ごおんせけんと、すべてていぎづけられるわけである。こうせんるふができても、とうぜんさべつはある。これが、じっそうでありしゃかいのどうりなのである。
 せいねん、ふじん、そうねんとう々とう、じんせいをみてもさべつはあり、しょくぎょうも、みなまちまちなのがじったいとなろう。
 のうりょく、しどうしゃ…というてんでも、てきざいてきしょというてんでも、じねんにさべつがでてくるものである。
 ただし、いかなるさべつがあっても、じょうぶつはうたがいない。みょうほうをこんていとしたこうふくのかくりつにはさべつはなくなってくるわけである。

0729    だいよん はうほうおうしゅつげんせけんのこと

 おんぎくでんにいわく、うとは、ほうぼうのものなり、はとはしゃくぶくなり、ほうおうとはほけきょうのぎょうじゃなり、せけんとはにほんこくなり、 またいわくははくう、うはけ、.ほうおうはちゅうどうなり、されば、このもんをばしゃかにょらいのしゅしと、つたうるなり、そうじてさんぜのしょぶつの、しゅっせはこのもんによるなり、うとはさんがいにじゅうごうなり、はとはうしゅうをはするなり、ほうおうとはじっかいのしゅじょうのしんぼうなり、おうとはしんぼうをいうなり。0730
しょほうじっそうとひらくを、はうほうおうとはいうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうきょうととなえたてまつるは、ほうぼうのうしゅうをだんじて、しゃかほうおうとなるということなり、はうのにじをもって、しゃかにょらいのしゅしとはいうなり、またいわく、うというはわれらが、ぼんのうしょうじなり、このぼんのうしょうじをすてて、べつにぼだいねはんありというは、ごんきょうごんもんのこころなり、いまきょうのこころは、ぼんのうしょうじをそのままおいて、ぼだいねはんと、ひらくところをはというなり、うとはぼんのう、はとは、なんみょうほうれんげきょうきょうなり、うはしょはなり、ははのうはなりのうは、しょはともに、じっそうのいちりなり、じょぼんのときは、じんしょうけつととき、このほんには、はうほうおうととき、ひゆほんのときは、かいぜがうとのべたりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 「うをはするほうおう、せけんにしゅつげんして、しゅじょうのよくにしたがいて、しゅじゅにほうをとく」というところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。うとはほうぼうのじゃである。はとはしゃくぶくすることである。ほうおうとは、ほけきょうのぎょうじゃである。せけんとは、にほんこくのことである。つまり、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんが、にほんにしゅつげんされて、ほうぼうのじゃを、しゃくぶくされるということである。
 また、やぶるはくう、うはけ、ほうおうはちゅうどうで、さんたいをいみしているのである。それゆえ、このもんはしゃかにょらいとなる。すなわち、じょうぶつのしゅであると、つたえられておる。そうじて、さんぜのしょぶつのしゅつげんは、このもんに、したがっているのである。うとは、さんがいにじゅうごうである。はとはうにたいする、しゅうちゃくをはするのである。ほうおうとは、じっかいのしゅじょうのしんぼうである。おうとは、しんぼうをいみするのである。しょほうじっそうとひらく、すなわち、ごほんぞんをしんずることを、はうほうおうというのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることは、ほうぼうにたいする、しゅうちゃくをはするところの、ほけきょうのぎょうじゃのたちばなのである。はう、すなわちほうぼうはしゃくこそ、ほとけになるしゅしなのである。また、うとは、われわれのぼんのうや、しょうろうびょうしのくるしみである。
 このぼんのうしょうじを、すてたところに、べつに、ぼだいねはんがあるというのは、ごんきょうごんもんのけつろんである。しかし、だいしょうにんのぶっぽうの、こんぽんは、ごほんぞんをしんずることにより、ぼんのうをぼだいにひらき、しょうじを、そくねはんとひらく、すなわち、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんであり、そのことをはといっているのである。
 は、うのうとは、ぼんのう、はとは、なんみょうほうれんげきょうにあたるのである。う、すなわち、ぼんのうは、やぶるべきものでもあり、は、すなわち、なんみょうほうれんげきょうは、やぶっていくほうであるが、やぶっていくほうも、やぶられるべきものも、ともにしょほうじっそうのいちりであり、しょうじのしんのすがたなのである。じょぼんのときは、もろもろのうけつを、つくしてととき、このやくそうゆほんでは、はうほうおうととき、ひゆほんのときは、みなこれ、わがうなりと、のべている。

 まずにじゅうごうとは、このよに、げんぜんとじつざいしているということが「う」なのである。
 めにみえぬから、むであるとは、だんていできないものである。よくぼうかい、ぶっしつかい、ならびにせいしんかいとう、すべてげんじつにじつざいして、なんらかのえいきょうを、たがいにおよぼしている。そのじつざいもまたさようかつどうをば、「う」というのである。くうきも、ばいえんも、ぜんぶ「う」であるといえる。かぜをひいた、そのでんせんのげんいんになるものも、やはり「う」である。
 ようするに、あらゆるいみで、わがせいめいかつどうに、えいきょうのあるじつざいをいうのである。このうちゅうにあるものは、おたがいにかんけいしあっているのである。これがみょうほうのげんりである。
 なおねんのためにいえば、さんがいとはよくかい、しきかい、むしきかいのことである。またにじゅうごうとは、さんがいろくどうをふんべつしたもので、まずよくかいでは、ししゅう、ししゅ、ろくよくてんのじゅうしうであり、しきかいではつぎのごう、だいぼんてんとしきかいのしぜん、おわりむしきかいのしてん、さらにむそうてん、あなごんてんあわせてにじゅうごうとなり、このうをはするのがぶっぽうである。
 なぜにじゅうごのかずを、さんしゅつしたのかといえば、「さんぞうほうすう」につぎのようにといている。
 「にじゅうごうは、ろくどうのまよいをでてない。しょうありしあり、いんががほろびないゆえである。しかして、ぼんてんおう、むそうてんおよびあなごんてんが、しぜんてんのなかにあるのに、べつにここに、そのなをだしている。それは、げどうがぼんてんおうを、ばんぶつをしょうずるしゅとして、あしくうやまい、またむそうてんはむしんをもってねはんとなし、ごなごんてんは、しんげだつであるとうとげどうがあやまって、かんがえているので、このさんてん、とくにさんうとしてうちやぶり、げどうをはしゃくしているのである」と。

0730 だいご がかんいっさい、ふかいびょうどう、むうひし、あいぞうししん、がむとんじゃく、やくむげんげのこと。

おんぎくでんにいわく、このろくくのもんは、ごしきなり、がかんいっさい、ふかいびょうどうとは、くしきなり、むうひしとは、はちしきなり、あいぞうししんとは、ななしきなり、がむとんじゃくとは、ろくしきなり、やくむげんげとは、ごしきなり、われらしゅじょうのかんぽうの、だいたいなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、あに、がかんいっさい、ふかいびょうどうの、くしきのしゅぎょうにあらずや、しからば、むうひしにあらずや、あいぞうししんにあらずや、がむとんじゃくにあらずや、やくむげんげにあらずや。

かいしゃくこうぎ。
 これは、やくそうゆほんに、「われいっさいを、みること、あまねく、みなびょうどうにして、ひし、あいぞうのこころあることなし、われ、とんじゃくなく、やくげんげなし、つねに、いっさいのために、びょうどうのぽうをとく、いちにんのためにするがごとく、しゅだもまた、しかなり」とあるところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このろくくのもんは、いつつのしき、すなわち、くしき、はちしき、ななしき、ろくしき、ごしきのいつつのしきを、あらわしている。
 「われ、いっさいを、みること、あまねく、びょうどうにして」とは、だいくしきである。「ひし、あることなし」とは、だいはちしきをさして、はちしきのせんじょうのにぽうをふくむ、そうたいてきなせかいを、はなれていることをいみする。「あいぞうのこころなし」とは、だいななしきをさして、あるものをにくみ、あるものをあいするという、さべつかんをはいするのである。「われ、とんじゃくなく」とは、だいろくしきをさし、ほとけは、まだ、とんじゃくをそんする、だいろくのきょうがいをひらいて、へんぱのないきょうちにたっていることをしめすのである。「また、げんげなし」とは、ごしきをさし、いしきがなく、ただ、ほんのうてきにごかんではんだんするところにしょうずる、さわりをはなれることをいみする。これらの、ごしきないし、くしきが、われらしゅじょうのかんぽう、もののみかたのだいたいである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるのは、どうして、「いっさいをみること、あまねくみな、びょうどうにして」のくしきのしゅぎょうでないことがあろうか。したがって、ほとけのきょうちにりっきゃくするいじょう、むうひしであり、あいぞうししんが、ないということであり、われむとんじゃくであり、またむげんげである。

 このだんには、ごしき、ろくしき、ななしき、はちしき、きゅうしきとしてとうの、ゆいしきろんがとかれている。ゆいしきろんは、みろく、むじゃく、せしんとうのぼさつによってとかれたものである。りゅうじゅ、てんじん、てんだいのいわゆる、ちゅうかんろんはとよばれる、ぶっぽうのせいとうにたいして、ゆいしきてつがくをもって、たいこうしたいっぱである。ほつそうしゅう、さんろんしゅうなどが、ゆいしきてつがくによっている。
 ゆいしきとは、ただしきのみというこころで、いっさいのしょほうは、みなこころや、しきのてんぺんであり、じつうなるものは、しんしきのみであるというせつである。ゆいしきろんは、このように、かんねんろん、ゆいしんろんとそうじしたものであるが、げんだいのそれに、くらべてみれば、かくだんにすぐれたものといえよう。しかし、このせしんとうの、ゆいしきてつがくも、てんだいだいしの、さんたいえんゆう、いちねんさんぜんのほうもんより、みれば、まだぶぶんかんであり、ていきゅうのそしりを、まぬがれないのもあきらかである。
 にちれんだいしょうにんは、そのうえにたって、ごしき、ろくしき、ななしきとうを、えんゆうされ、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのきょうちゅうのにくだんに、おわします、くしきしんのうは、こしんのほんぞんなりと、もうされている。にちにょごぜごへんじに、「このごほんぞん、まったくよそにもとむることなかれ、ただ、われれらしゅじょうの、ほけきょうをたもちて、なんみょうほうれんげきょうととなうる、きょうちゅうのにくだんに、おはしますなり、これを、くしきしんのうしんにょのみやことは、もうすなり」(1244-)と。
 ほつそうしゅうでは、せしんのゆいしきさんじゅうろんじゅ、ゆいしきにじゅうろんとうを、しょえのきょうろんとしている。げんみつにいえば、ゆいしきてつがくのなかでも、みろくけいとう、むじゃくけいとう、せしんけいとうでは、それぞれたてる、ほうもんにことなりがある。せしんのゆいしきさんじゅうろんじゅによれば、しきのてんぺんとは、いねつとしりょうと、きょうのばんべつのさんしゅとなるといい、このみっつは、あらやしき、しりょうしき、ろくしきであるという。
 そして、いっさいはゆいしきのみであるとたて、にんしきのたいきょうは、しんないにえいげんするそうぶんで、ほんしつをねんとして、しょうじたえいぞうにすぎず、そのほんしつは、だいはち、あらやしきにふくまれる、しゅしよりしょうじたものであるから、けっきょくは、すべて、しきのしょへんに、ほかならぬとといている。
 いま、われわれのせいかつにてらして、かんたんにのべれば、つぎのとうになるであろう。
 ごしきとは、げん、に、び、ぜつ、しんのしきによって、こころのしきを、ふくまれないゆえに、こうどうそれじたいが、ごしきといえよう。あめがふり、かぜがふき、くもがわく、げかいのじょうたいそれじたいを、かんずるすがたである。ろくしきになると、いしきがくわわり、われわれのつうじょうの、にちじょうじんである。ごしきになかった、ひりょうやすいろんをするようになる。すなわち、ごしきでは、まだなわをへびとみあやまったりするが、ろくしきでは、そのようなことなく、さらにぐたいてきに、どれほどはげしくあめがふり、かぜがふいたかも、ひりょうすることができるじょうたいである。ななしきになると、さらに、しりょうのはたらきをふして、かんがえたりする。
 すなわちこうどうしようと、しこうするちょくぜんのじょうたいである。あめやかぜをねがい、ようせいするすがたである。はちしきになると、あめをふらせようか、かぜをふかせようかと、あきらかにしこうして、ぐたいてきにこうどうするすがたである。
 だいきゅうしきは、さいこうのしきであるがゆえに、くしきしんのうともいい、われらのしんじんのいちねんである。うちゅうそのものであり、われそくうちゅうの、いちねんにもつうずるものである。さらにぐたいてきには、わがこしんのぶっかいということができる。


  • [234]
  • 御義口伝講義録上 しんげほん、ろくかのだいじ。

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 6月16日(金)16時27分42秒
 
  にちれんだいしょうにんごしょこうぎ おんぎくでん しんげほんろくかのだいじ。

0725~0728 しんげほん、ろくかのだいじ。
0725    だいいち しんげほんのこと。
0725    だいに しゃぶじょうぜいのこと。
0726    だいさん かぶ、ぐうこんのこと。
0726    だいし しんね、けこんのこと。
0727    だいご むじょうほうじゅ、ふぐじとくのこと。
0727    だいろく せそん、だいおんのこと。

0725~0728 しんげほんろくかのだいじ。
0725    だいいち しんげほんのこと。

 きのろくにいわく、しょうほっけには、しんぎょうほんとなずく、そのぎつうずといえども、ぎょうはげにおよばず、いまはりょうげをあかす、なにをもってか、ぎょうといわんや。
 おんぎくでんにいわく、ほっけいちぶにじゅうはちほんの、だいごうのなかに、しんげのだいごう、このほんにこれあり、いちねんさんぜんも、しんのいちじよりおこり、さんぜのしょぶつのじょうどうも、しんのいちじよりおこるなり。
 このしんのじ、がんぽんのむみょうを、きる、りけんなり、そのゆえは、しんはむぎわっしんとて、ぎわくを、だんぱするりけんなり。
 げとは、ちえのいみょうなり、しんはあたいのごとく、げはたからのごとし、さんぜのしょぶつのちえをかうは、しんのいちじなり、ちえとはなんみょうほうれんげきょうなり、しんは、ちえのいんにして、みょうじそくなり、しんのほかにげなく、げのほかにしんなし、しんのいちじをもって、みょうかくのしゅしとさだめたり。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、しんじゅ、りょうのうするゆえに、むじょうほうじゅ、ふぐじとくの、だいほうじゅをえるなり、しんは、ちえのたねなり、ふしんは、だごくのいんなり、またいわく、しんはふへんしんにょのりなり、そのゆえは、しんは、ちいっさいほう、かいぜぶっぽうと、たいたつして、じっそうのいちりとしんずるなり。
 げは、ずいえんしんにょなり、じじゅゆうちをいうなり、もんぐのくにいわく、うたがいなきをしんといい、めいりょうなるを、げというと、もんぐのろくにいわく、ちゅうこんのひと、ひゆをとくをききて、はじめて、ぎわくをぱして、だいじょうのけんどうに、はいる、ゆえになずけて、しんとなす。
 すすんで、だいじょうのしゅうどうに、はいるゆえに、なずけてげとなす、きのろくにいわく、だいをもってこれにのぞむるに、すなわちりょうじをわかちてもって、にどうにぞくす、ぎをはするがゆえに、しんなり、すすんではいるを、げとなずく、しんはにどうにつうじ、げは、ただ、しゅうにあり、ゆえにしゅうどうを、げとなずくというと。P726

かいしゃくこうぎ。
 みょうらくだいしの、「ほっけもんぐき」のろくには、インドのほけきょうを、じくほうごがかんぶんにやくした、「しょうほけきょう」においては、らじゅうしゃく、「みょうほうれんげきょう」のしんげほんにあたるものを、しんぎょうほんと、なづけているとある。みょうらくは、しんぎょうほんは、しんげほんにかなりにかよった、いみにはなるが、「ぎょう」ということは、「げ」にはおよばないのである。
 なぜかならば、このほんにおいては、よんだいしょうもんが、いちぶつじょうにめざめたとのりょうげを、のべているのであり、ぎょうとなづけて、とかれている、じんじんのほうもんに、こんぽんてきにことなってしまうのである。したがって、しんぎょうほんなどと、なづけることは、とうてい、できえないのである、といっている。
 おんぎくでんにはつぎのようにおおせである。
 ほけきょう、いちぶにじゅうはちほんの、だいごうのなかで、「しんげ」というだいじなだいごうは、このほんについているのである。「いちねんさんぜんもしんのいちじよりおこり」とは、ぶっかいがゆげんするのでなければ、いちねんさんぜんにはならない。ぶっかいは、ごほんぞんをしんじてなんみょうほうれんげきょうきょうととなえて、はじめてあらわれるのである。
 すなわち、しんによっていちねんさんぜんは、なりたつのである。またさんぜのあらゆるほとけも、みなごほんぞんをしんじて、だいもくをとなえたからこそ、じょうどうしたのである。
 しんということは、がんぽんのむみょう=こんぽんのまよい、すなわち、ごほんぞんにたいする、まよいをきるのである。そのゆえは「うたがいなきをしんという」ということで、しんはぎわくをたちきる、りけんなのである。げということは、ちえのべつめいである。しんずることによって、ちえというたからをかうことができる。さんぜのあらゆるほとけのちえを、かうのはしんによるのである。ちえとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。ごほんぞんをしんずることは、にちれんだいしょうにんのちえをいただくことでもあり、みょうじそくのくらいである。しんとげ=ごほんぞんを、しんずることとほとけをさとることは、いったいである。しんのいちじこそ、みょうかく=ほとけの、さとりのたねである。
 いまにちれんだいしょうにん、およびそのもんかが、ごほんぞんにむかって、なんみょうほうれんげきょうととなえることが、じょうぶつのこんぽんであると、しんじゅしなっとくすることは、しんげほんに、「むじょうのほうじゅ、もとめざるにみずからえたり」とある、そのだいほうじゅを、えたことになるのである。しんはちえ=そのばで、さいこうのはんだんをくだしていく、ごほんぶつのちをいうのである。
 もんぐのくに、うたがいがないことを、しんというのであり、あきらかにわかることを、げというのであるといっている。もんぐのろくには、しゅぼだい、かせんねん、かしょう、もっけんらの、よんだいしょうもんたちが、ほとけのひゆをとくのをきいて、はじめて、ぎわくをはして、だいじょう=いちぶつじょうの、けんどうにはいるゆえに、なづけてしんとなし、すすんで、だいじょうのしゅぎょうどうに、はいるゆえに、なづけてげとなすとといている。
 みょうらくの、もんぐきろくには、さらにこのことをとき、だいじょうをもって、しんげのことをしめすのに、すなわち、しんげのりょうじをわかちて、けんどう、しゅうどうのにどうにぞくす。うたがいをはして、うたがいなきゆえにしんである。すすんで、げりょうにはいるを、げとなづけるのである。すなわち、しんはけんどう、しゅうどうのにどうにつうじ、げは、ただしゅうどうのいちどうにつうずるのみである。ゆえに、しゅうどうをげとなずけるのであるといっている。

 しんげほんだいよんは、じんずうだいいちの、もっけんそんじゃをはじめ、しゅぼだい、かせんねん、かしょうのよんだいしょうもんが、かいさんけんいちの、ほうりをりょうげした、ひせつしゅうである、「ちょうじゃぐうじのたとえ」をといての、りょうげはゆうめいである。
 ちょうじゃぐうじのたとえは、たくみにしゅじゅくだつの、さんじをば、ごじにわたって、せつじょしてりょうげをあかしているわけである。いま、かんじんからよめば、とうぜん、われらは、にちれんだいしょうにん、すなわちごほんぞんのこであり、だいふくうんのもちぬしであるが、ぶっしょうをあらわさず、ろくどうくかいのきょうがいのみに、るてんしてしまっている。
 みずから、きゅうどうしんをおこして、せいめいのほんしつ、ぶっぽうのしんずいをしろうとしない。しゃくぶくされてにげたり、いやいやながらしんじんにはいったような、じょうたいであった。まさに、ぐうじのすがたそのものであった。みょうほうをだきしめ、しんじんごうじょうとなれば、すなわち、まっぽういまどきの、しんげである。これによって、ちょうじゃとふしのえんをむすび、わがみが、みょうほうのとうたいとあらわれるのである。ゆえに、まっぽうにおけるしんげこそ、ぜったいのこうふくげんりであることは、まちがいないことである。
 このおんふみにあるとおり、しんげのしんということは、じつに、いっさいのこんぽんなのである。「いちねんさんぜんも、しんのいちじよりおこり、さんぜしょぶつのじょうどうも、しんのいちじよりおこるなり」との、おおせは、しんずるということが、なければ、ぶっぽうはなりたたないことを、いみするものである。われわれは、ゆうじんをしんじ、おやをしんじ、またじこをしんじ、あるいはほんをしんじ、にんのはなしをしんじ、あるいは、しんぶんにほうどうされたことが、じじつであるとしんずる。しんじたり、しんじなかったりすることが、げんじつのせいかつであろう。せいかつから、しんずるということを、とりのぞいたら、あとはなにがのこるだろうか。しゃかいというもののほんしつが、おたがいにしんらいしあい、そんけいしあって、はじめてなりたつものである。
 しかしながら、げんじつのしゃかいは、あまりにもふしんと、ぎまんにみちみちているではないか。そこに、いっさいしんずべきものを、うしなったせいねんは、しゃかいをのろい、けつにくをわけた、おやきょうだいをのろい、たいはいてきになり、あるときは、ばくはつてきにみずからのエネルギーを、かいらくのためにはっさんする。
 もし、かれが、じこをしんずることが、できなくなれば、もはや、いきるはりあいを、いっさい、なくしてしまうことであろう。なにごとも、しんがこんぽんであることが、うかがえるものだ。しゃかいをへんかくしようと、するいぶきも、げいじゅつかがいだいなげいじゅつを、うんでいくのも、かがくしゃが、いだいなはっけんをするのも、しんがあればこそである。
 いっぱんのがくもんにおいても、にんしきするという、このだいいっぽは、すべて、しんずるということからはじまり、じっけんしょうめいによって、はじめてただしくにんしきできうるのである。いわんや、ぶっぽうのこんぽんにおいては、かならずしんのいちじよりおこることは、とうぜんのなかの、とうぜんの、りなのである。

 とだじょうせいぜんかいちょうの、かんとうげん「しそうの、こんらん」には、つぎのようにいわれている。
 「せかいのぶんかじんが、めいらんしているしそうには、ふたつある。ひとつはちしきが、そくちえであるというかんがえかたである。ちしきはちえを、ゆうどうし、ちえをひらくもんにはなるが、けっして、ちしきぜんたいが、ちえではない、(ちゅうりゃく)ちえとちしきは、こんぽんてきな、そういがある。ただし、ちえのほんどうに、はいるためには、ちえのもんをひらいて、はいらなければならぬことは、いうまでもない。ぶっぽうにおいても、ずいきくどくほんにおいて、ごはらみつをすてよとはいうが、はんにゃはらみつをばすてよとは、いっていない。
 ちえのないにんげんは、いぬねこにもおとるのであるから、ちえをみがくということを、よくよくかんがうべきであるとおもう・・・ようするに、こんぽんは、つよきせいめいりょくと、たくましきちえによって、わがじんせいをしはいしていかなくては、ほんとうのこうふくはえられないことを、しらねばならぬ。これをじっせんにうつし、いかにすべきかというもんだいは、わがそうかがっかいの、しゅちょうのごとく、ごほんぞんになむするいがい、ほうほうのないことを、ふきしておく」と。
 すなわち、かくのごとく、じんせいのこうふくのげんせんたる、ちえは、ぶっぽうの「いしんだいえ」、「いしんとくにゅう」という、げんりをしめすごとく、けっきょくは、さんだいひほうの、ごほんぞんにたいする、つよきしんをもってちえにかえ、しょうほうにたいするしんをもって、こうふくきょうがいを、きずくいがいにないことを、しらねばならない。
 しかし、このしんのたいきょうを、あやまれば、またふこうに、おちいらざるをえないのである。みょうらくだいしいわく、「たとい、ほっしんしんじつならざるものも、しょうきょうにねんすれば、くどくなおおおし、しょうきょうにあらずんば、たとい、ぎもうなきも、また、しゅとならず」と。すなわち、「いわしのあたまも、しんじんから」というような、あさはかな、しゅうきょうかんは、まったく、ひかがくてきであり、めいしんであり、じゃけんであることを、しるべきである。あくまでもぶっぽうは、もんりげんのさんしょう、ぐびで、なければならない。
 いま、われわれの、しんじんのすがたをみて、おろかなひとは、たのしゅうきょうとおなじとおもい、よく、「もうしん」であると、、ひはんする。しかし、かれらは、われわれが、つねにだいしょうにんの、じんのんなるせいめいてつがくを、たんきゅうしていることをしらない。そのゆうげんで、しかもめいせきなるだいてつりに、われわれは、ぜんせいめいからほとばしりでる、よろこびのかつどうを、しているのである。あるてつがくしゃは、「しんこうとは、りせいのえんちょうなり」といった。まことに、ふかきしさくの、けっかのさけびであろう。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、また、「りはしんをしょうじ、しんはりをもとめる。もとめられたりは、さらにしんを、ふかめるのである」とのべられている。このじんのんなるどうりを、わきまえるじっせんをばしるならば、どうして「もうしん」などと、ひはんできようか。あえてそう、ひはんするひとたちこそ、いっさいのせいかつに、かつどうに、しんずるという、じゅんぼくなにんげんせいをそうしつしてしまった。あわれなそんざいであると、いわれてもやむをえなかろう。
 つぎに、「しん」と「げ」の、かんけいであるが、しんとは、ごほんぞんをしんずること、せいかつのげんせんをいみする。げとは、じっさいせいかつ、かつやくにあって、ぐたいてきに、はたらく、ちえのいみである。いま、われらほとけのぐんの、いのり、いちねん、いっしんは、しんである。そのたたかいの、かんすいへの、いっぽいっぽのぐたいてきなこうそう、きかく、かつどうとうは、げと、とるのである。

しんは、むぎわっしんとて、ぎわくをだんぱするりけんなり。
 うたがいなきを、しんという。さんだいひほうの、ごほんぞんのだいくどくを、ぜったいにしんじ、にちれんだいしょうにんのしきしんふにの、せいめいてつがくを、さいこうゆいいつとしんずることが、ぶっぽうのこんぽんである。
 たとえ、いちじてきにはばつをうけようが、びょうきになろうが、いえがやけようが、どんなことがあっても、ごほんぞんをうたがわない。だいしょうにんのおおせどおりに、しんじんしゅぎょうをまっとうしきる。 これが、むぎわっしんであり、そのしんじんをしているひとが、じょうぶつできうるのである。すこしせけんからひはんされたり、はくがいをうけたり、そんなことでうたがってはならない。それでは、しんがよわいのであり、うすいのである。いっしょうがい、えいえんにごほんぞんをだきしめて、はなさない。どんなことがあっても、だいもくをとなえきっていく、これが、むぎわっしんのしんじんといいえるのである。
 さて、ぶっぽうにおいては、いじょうのごとく、しんずるということが、こんぽんであり、そこになんらのぎもんもない。これはひとえに、ぶっぽうがもんしょう、りしょう、げんしょうのうえにたって、ぜったいにゆるぎない、だいてつがくである。
 ところが、さんこうのために、ひとたびまなこを、せいようのしゅうきょう、てつがくにてんじてみると、そこには、およそわれわれには、かんがえられないような、きみょうなぎろんがくりかえされている。それは、キリストきょうの、「かみ」をめぐってのろんぎである。
 せいようぶんめいは、そのしょきにおいて、ふごうりきわまる、キリストきょうをとりいれ、それに、しはいされてしまった。それいらい、かれらは、なにかじんせいについて、うちゅうについて、かんがえようとするときに、「ゆいいつぜったい、ぜんちぜんのうのかみ」というものを、むししてかんがえをすすめることが、ぜったいに、できなくなってしまったのである。
 しかしながら、その「ゆいいつぜったいのかみ」については、こうとうむけいな、きせきをといた、バイブルがあるだけで、りろんてきなうらづけはなく、げんしょうとして、じっさいせいかつに、あらわれるべきくどくなどはまったくない。したがって、かれらは、あるいはしんじ、あるいはうたがい、あるいは、いっぽうでしんじつつ、いっぽうではうたがうという、さんたんたるせいしんてき、なやみをもって、せいようしそうしを、けいせいしてきた。さんこうまでに、そのおもなものを、こうさつしてみよう。
 まず、カトリックきょうかいの、きょうぎをかくりつし、きそずけようとした、いわゆる、「きょうふてつがく」の、だいひょうてきしそうかのいちにん、テルトゥリアヌスは、すべて、てつがくによって、キリストきょうを、きそづけようとすることを、はいげきして、キリストきょうてき、しんこうの、ひごうりてきせいかくを、きょうちょうした。
 「かみのこは、はりつけにしょせられた。これは、はずべきことなるがゆえに、よはこれを、はじない。かみのこはしんだ。これおろかなることなるが、ゆえに、ぜったいに、しんじなければならぬ。 またかれは、ほうむられてのちに、ふっかつした。これは、ふかのうなるがゆえに、かくじつである」という、かれのしゅちょうは、そのしそうをめいかくにあらわしている。それゆえ、つうじょう、かれのしそうは、「ふごうりなるが、ゆえにしんず」ということを、といたものとしてしられている。これはまったく、にんげんのりせいを、むしした、もうしんであるといわざるを、えないではないか。
 また、ちゅうせいのスコラてつがくの、しょきのだいひょうしゃアンセルムスに、おいては、きょうかいのしんこうは、ぜったいてきなものであり、それはけっして、うたがわれることが、できないものであった。しかし、かれは、このしんこうを、ちしきによって、きそづけうることを、かくしんしていた。ゆうめいな、「しらんがために、われしんずる」という、かれのことばは、かれのいとを、めいりょうにしめすものということができよう。
 さて、きんだいせいようてつがくの、だいひょうしゃといわれ、るデカルトはなにをかんがえていたか。かれは、「しん」にかんし、ぎは「こころ」にかんするものと、「ち」にかんするものがあると、いいだして、「ちせいにかんする、かいぎといしにかんする、かいぎとはくべつされるべきである。
 ひとは、みずからのちせいが、かみのそんざいをしょうめいしえないかぎり、ちせいでもって、かみのそんざいをうたがわなければならないが、しかしひとは、かみのそんざいをしんずることができる。なぜなら、しんこうはいしの、もんだいであるからである」
 といういみのことを、のべている。
 このデカルトのたいどにたいして、とうじのひとびとは、かみのそんざいを、うたがうなどということは、いったいゆるされて、よいことだろうかと、つよくひなんしている。ところが、いっぽう、ぎゃくにこの、デカルトのたいどにたいして、のちの、じつぞんしゅぎしゃたち、キェルケゴール、ニーチェ、ヤスパースとうは、かいぎのしかたが、ふてっていであると、ひなんしている。
 とくに、げんだいドイツの、じつぞんしゅぎしゃ、ヤスパースは、「デカルトとてつがく」というほんのなかで、「デカルトの、かいぎは、ちせいのほうてきかいぎであって、しんこうのじつぞんてきかいぎではない。それは、それによって、ごうりてきかくじつせいにとうたつしようとする、けいかくてきちせいてきなこころみであって、デカルトを、おそうところの、じつぞんのけいけんはない。それは、デカルトが、そのしゅであるところの、こういであって、しんこうそうしつという、しんえんへおちこむことは、できない」とうといい、もっと、てっていしてうたがって、ぜつぼうにまで、いたるべきであるといっている。
 われわれは、いじょうのような、ろんぎをみて、まことにくだらないと、おもういがいにないのである。しかしながら、かれらは、じつに、こうした、ろんぎにいのちを、かけていたのである。ということは、せいようのきんせいに、おいては、もしかみについて、あからさまに、ふしんをひょうめいすれば、それは、ひと々びとをまよわすものとされ、カトリックきょうかいにおいて、ついきゅうされ、しばしば、しけいにされていたからである。
 それは、はなはだれいこくなものであった。また、げんだいにおいては、かみにたいするしんこうは、いちじるしく、よわまってきているわけであるが、やはりそれは、せいようじんの、じんせいかんのちゅうしんとなるものであり、もしかみのそんざいを、ひていするならば、かれらのじんせいかんは、こんていからくつがえり、こんごどのように、いくべきかについて、くのうせざるを、えなくなるのである。
 われわれは、いじょうのこうさつから、せいようのてつがくしゃたちが、ほんらいありもしない、「ゆいいつぜったいのかみ」をめぐって、どれほど、しんこくになやんだかを、うかがいしるとどうじに、もんしょう、りしょう、げんしょうにてらして、いってんのうたがわしきところもない、だいせいめいてつがくを、ほうずるわれわれが、いかにめぐまれた、じんせいであるかを、つうかんせずにはおられないではないか。

0725    だいに しゃぶじょうぜいのこと

 もんぐのろくにいわく、しゃぶじょうぜいとは、だいをたいするをしゃとなし、むみょう、みずからおおうを、じょうとのたまい、しょうじにしゅこうするを、ぜいとなすと。
 おんぎくでんにいわく、ちちにおいて、みつこれあり、ほけきょう、しゃくそん、にちれん、これなり、ほけきょうは、いっさいしゅじょうのちちなり、このちちにそむくゆえに、るてんのぼんぷとなる、しゃくそんはいっさいしゅじょうのちちなり、このほとけにそむくゆえに、つぶさにしょどうをめぐるなり。
 いま、にちれんはにほんこくの、いっさいしゅじょうのちちなり、しょうあんだいしのいわく、「かれがためにあくをのぞく、すなわちこれ、かれがおやなり」と、たいだいのだいは、なんみょうほうれんげきょうなり、むみょうとは、ぎわくほうぼうなり、みずからおおうとは、ほうねん、こうぼう、じかく、ちしょう、どうりゅう、りょうかんとうの、あくびく、ほうぼうのとがを、ほしいままにおおいかくすなり。

かいしゃくこうぎ
 ここは、ゆうめいなぐうじの、たとえのところで、かねもちのむすこが、ちちをすててにげさったことをのべている。きょうもんには「たとえばひと、あって、としすでに、ようちにして、ちちをすてて、じょうぜいし、ひさしく、たこくにじゅうしてうんぬん」とある。
 もんぐのろくにいうには、「しゃ」ということは、だいじょう、すなわちいちぶつじょうのおしえから、たいてんすることであり、むみょうわくが、いのちをおおっているじょうたいを、じょうと、たとえたのであり、しょうじのくるしみにおもむくことを、ぜいといったのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しゃぶじょうぜいのちちとは、さんとおりによむことができる。ほけきょうと、しゃくそんと、にちれんだいしょうにんとである。ほけきょうはいっさいしゅじょうのちちである。このちちにそむくから、きゅうかいをさまようぼんぷとなるのである。しゃくそんはいっさいしゅじょうのちちである。このちちなるほとけに、そむいたものは、もろもろのあくどうを、りんねしたのである。
 いま、まっぽうにおいては、にちれんだいしょうにんが、ごほんぶつとして、にほんこくの、いっさいしゅじょうにたいして、ちちのとくをそなえておられるのである。しょうあんだいしは、「みんしゅうのために、ふこうのこんげんである、じゃしゅうをとりのぞいてあげるひとこそ、しんのおやである」といっているが、まっぽうにはいって、じゃしゅうをてっていてきにしゃくぶくされたのは、にちれんだいしょうにん、おひとりであったではないか。
 もんぐにいう、「たいだい」のだいとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。「むみょう」とは、ぎわくほうぼう=うたがうという、ほうぼうである。
 「みずからおおう」というのは、ほうねん、こうぼう、じかく、ちしょう、どうりゅう、りょうかんとうの、あくぼうずどもが、じぶんの、ほうぼうのざいあくを、ほしいままに、おおいかくしている、じょうたいをいうのである。

 しょうあんだいしのいわく、「かれがためにあくをのぞく、すなわちこれ、かれがおやなり」とは、ねはんきょうのちょうじゅほんのもんを、しゃくしたもんである。まえのもんは「じなくして、いつわりしたしむはこれ、かれがあだなり」といい、ともにしゃくぶくのいぎをしめしたものである。
 このおやとは、じゃしゅうにちれんしゅうのやからのいうがごとく、「しんみのとも」というような、なまやさしいものではない。べっしては、しゅししん、さんとくぐびのごほんぶつ、にちれんだいしょうにんの、しんとくであり、そうじては、しゃくぶくのじひのしょぎょうを、ふつちょくのままにおこなう、われわれは、もったいなくも、ほとけのつかいとして、このぎにかなうことを、しるべきである。しかして、しょうほうをしらず、しゃくぶくのわるくちをいうものは、いっさいしゅじょうのあだになることを、しるべきである。「るてん」とは、るてんしょうじのぎで、ろくどうりんねということと、おなじである。さんがいろくどうのせかいを、しょうじしょうじと、ふこうなすがたで、めぐることである。これいっさいしゅじょうの、ちちたるごほんぶつ、にちれんだいしょうにんの、だいぶっぽうにそむくがゆえんである。

0726    だいさん かぶぐうこんのこと

もんぐのろくにいわく、しゅつようのじゅつをえざるを、また、ぐとなし、はっくのひに、やかるるがゆえに、こんとなすと。
 おんぎくでんにいわく、しゅつようとは、なんみょうほうれんげきょうなり、じゅつとはしんじんなり。
 いま、にちれんとうのたぐい、ぐうこんを、めんりすることは、ほけきょうをじゅじし、たてまつるがゆえなり、またいわく、みょうほうにあいたてまつるときは、はっくのぼんのうのひ、じじゅゆうほうしんの、ちかと、かいかくするなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ぜんこうの「しゃぶじょうぜい」の、つづきのところで、ぐうじがちょうずるにしたがって、「かぶぐうこんし」て、しだいに、じぶんのほんごくにかえって、くるというところである。
 もんぐのろくには、しゅつりしょうじのようほうのじゅつを、えないのをぐといい、はっくのぼんのうのひにやかれるじょうたいを、こんというのである、といっている。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。しゅつりしょうじのようほうとは、なんみょうほうれんげきょうのことであり、「じゅつ」とはしんじんをいみするのである。いまにちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、ぐうこんしない、ぼんのうのひに、やかれるようにならないのは、ごほんぞんを、じゅじしたてまつるがゆえである。また、なんみょうほうれんげきょうに、あいたてまつるときは、はっくのぼんのうのひが、てんじてじじゅゆうほうしん、ごほんぶつのちえの、ひとなり、さとりとなるのである。

 じんせいのもくてきが、こうふくのかくりつにあることは、とうぜんのことである。ぶっぽうでとく、じょうぶつということ、すなわちこうふくは、こらい、せいようてつがくにとく、「こうふくしゅぎ」、「こうふくろん」よりは、いちだんとふかきてつりである。げんじつのふこうのしゅくめいは、いかんともしがたいげんじょうである。そのこんぽんてきかいけつのじゅつが、さんだいひほうの、ごほんぞんによるとのおだんげんである。
 ちびょうだいしょうごんじついもくにいわく、「がんぽんのほうしょうは、ぼんてん、たいしゃくとうとあらわれ、がんぽんのむみょうは、だいろくてんのまおうと、あらわれたり」(0997-07)と。また、しぼさつぞうりゅうしょうに「にちれんは、せけんにはにほんだいいちの、まずしきものなれども、ぶっぽうをもってろんずれば、いちえんぶだいだいいちのとめるものなり」(0988-14)うんぬん。このごほんぞんに、きみょうするとき、はっくのぼんのうのひが、じじゅゆうほうしんのちかに、てんじ、すなわち、ぶっかいをこんていにして、きゅうかいに、ゆうげするきょうがいを、かくりつできうるのである。また、ひとりもぎせいにすることなく、だれびとも、しゅんかんしゅんかん、たのしみきっていける、じんせいをいききるちえのはたらき、そしてせいめいりょくを、うけることができるとのおんふみである。

  0726    だいよん しんね けこんのこと。

もんぐのろくにいわく、けをちちにやくし、こんをこにやくすと、きのろくにいわく、ちちにもけこんあり、こにもけこんありと。
 おんぎくでんにいわく、にほんこくのいっさいしゅじょうは、このごとく、にちれんはちちのごとし、ほっけふしんの、とがによつて、むげんだいじょうにおちて、かえつてにちれんをうらみん、また、にちれんもこえもおしまず、ほっけをすつべからずと、いうべきものを、りょうぜんにてくいること、これあるべきか。
 もんぐのろくにいわく、 「しんねけこんとは、。むかしつとめに、きょうしょうせず、おしうることなくして、じょうぜいせしむることを、いたすことを、くい、この、おんぎをおもわずして、われをうとんじ、ほかにしたしむるをうらむ」と。

かいしゃくこうぎ。
しんげほんの、ぐうじのたとえのつづきのところで、「ちち、つねにこをおもう。ことりべつして、ごじゅうよねん、しかも、いまだかつて、ひとにむかって、これのごときことを、とかず、ただ、みずからしゆいして、こころにけこんをいだくうんぬん」とある。
 もんぐのろくには、けこんのけとは、ちちのたちばであり、こんとは、このたちばであるといっている。もんぐのろくには、ちちにもけこんがあり、こにもけこんがあるといっている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。にほんこくのいっさいしゅじょうは、あたかも、ぐうじのようであり、にちれんだいしょうにんは、そのちちのようである。にほんこくのいっさいしゅじょうは、ごほんぞんをしんじないばつとして、むげんじごくにおちて、せっかくかれらを、すくおうと、どりょくなさっている、だいしょうにんのことを、かえってうらむであろう。また、だいしょうにんとしては、こえもおしまず、ごほんぞんをもつべきことを、おしえているのに、にほんこくのいっさいしゅじょうが、なかなかみみをかたむけないで、かってに、むげんじごくにおちてしまったことを、りょうぜんで、ほとけさまとしてのごきょうがいから、くいることがあるであろう。
 もんぐのろくに、「こころにけこんを、いだくというのは、むかし、ねんごろに、おしえなかったために、ぐうじが、にげていって、しまったことをくい、また、そのこが、ちちのおんをかんじないで、ちちをたにんあつかいし、かえって、ぐうじ、たにんとしたしんでいるのを、うらむのである」といっている。

 ふしいったい、していふにの、だいじひをおときくださっているところである。にほんこくのいっさいしゅじょうは、このごとし、にちれんはちちのごとしと。
 ほうおんしょうにいわく、「にちれんが、じひこうだいならば、なんみょうほうれんげきょうは、まんねんのほか、みらいまでもながるべし」(0329-03)うんぬん。ときどのごしょにいわく、「いっしょうむなしくすごして、ばんさいくいることなかれ」(0970-14)うんぬん。
 「このおんぎをおもわずして、われをうとんじ、ほかにしたしむるをうらむ」と。おんぎとは、ほうけんしゃかいの、おんぎではなくして、「じんじんむりょうの、ごほんぞんのおんぎである。われとは、にちれんだいしょうにんのおんことである。ほかのおやにしたしむとは、じゃしゅうじゃぎのことである。したがって、いまだしんじんなきひと、だいしょうにんよりみれば、むしろ、かわいい、こであり、ひとりおなやみぶかく、だれびとたりとも、すくってあげたいとの、だいじひと、はいすべきである。

0727    だいご むじょうほうじゅ、ふぐじとくのこと

おんぎくでんにいわく、むじょうにじゅうじゅうのしさいあり、げどうのほうにたいすれば、さんぞうきょうはむじょう、げどうのほうは、うじょうなり、またさんぞうきょうはうじょう、つうきょうはむじょう、つうきょうはうじょう、べつきょうはむじょう、.べつきょうはうじょう、えんきょうはむじょう、また、にぜんのえんはうじょう、ほっけのえんはむじょう。
 またしゃくもんのえんはうじょう、ほんもんのえんはむじょう、また、しゃくもんじゅうさんほんはうじょう、ほうべんぽんはむじょう、また、ほんもんじゅうさんほんはうじょう、いちほんにはんは、むじょう、また、てんだいだいし、しょぐの、しかんは、むじょう、げんもん、にぶは、うじょうなり。
 いま、にちれんとうのたぐいのこころは、むじょうとは、なんみょうほうれんげきょう、むじょうのなかの、ごくむじょうなり、この、みょうほうをさして、むじょうほうじゅとときたまうなり、ほうじゅとは、さんぜのしょぶつの、まんぎょうまんぜんの、しょはらみつのたからを、あつめたる、なんみょうほうれんげきょうなり。
 このむじょうほうじゅを、しんろうもなく、ぎょうこうもなく、ひとことにうけとるしんじんなり、ふぐじとくとは、これなり。
 じのじは、じっかいなり、じっかい、おのおのえるなり、しょほうじっそうこれなり、しかるあいだ、このもん、みょうかくのしゃくそん、われらしゅじょうのこつにくなり、よくよくこれをあんずべしうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 しんげほんにおいて、まかかしょうらの、しょうもんがじょうぶつをやくそくされ、おおいによろこび、「むじょうのほうじゅ、もとめざるに、みずからえたり」とさけんだのである。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「むじょう」といういみは、なんだんかいにも、かんがえられるのである。
 げどうとないどうの、さんぞうきょうをそうたいすれば、ないげそうたいして、げどうのほうはうじょう、すなわち、さらに、そのうえがあるおしえとなり、さんぞうきょうは、このうえない、すぐれたおしえとなるのである。また、さんぞうきょうはうじょう、つうきょうはむじょう、つうきょうはうじょう、べつきょうはむじょう、べつきょうはむじょう、えんきょうはむじょうとぞう、つう、べつ、えんのじゅんで、うじょう、むじょうということが、いえるのである。
 また、おなじくえんきょうといっても、にぜんきょうのえんと、ほけきょうのえんでは、にぜんのえんがうじょう、ほっけのえんがむじょうである。さらに、ほけきょうのえんのなかでも、しゃくもんのえんはうじょう、ほんもんのえんはむじょうという、かんけいになるのである。また、しゃくもんについていえば、しょうしゅうぶんである、ほうべんぽんはむじょうで、たのじゅうさんほんは、うじょうとなるし、ほんもんについていえば、しょうしゅうぶんのいっほんにはん、じゅりょうほんいっほんとゆじゅつほんのこうはん、ふんべつくどくほんのぜんはん、 けいいっほんにはんはむじょうで、たの、じゅうさんほんはうじょうとなるのである。
 また、てんだいだいしがひろめた、さんだいぶについていえば、まかしかんはむじょうで、たの、ほっけげんぎと、ほっけもんぐはうじょうということになるのである。いま、にちれんだいしょうにんのおこころからすれば、むじょうのほうとは、なんみょうほうれんげきょうのことであり、これは、そうたいてきなむじょうでなく、きゅうきょくのむじょうである。
 この、なんみょうほうれんげきょうをさして、むじょうほうじゅとといているのである。ほうじゅとは、さんぜのあらゆるしゅぎょう、くどくをあつめた、なんみょうほうれんげきょうなのである。
このむじょうのほうじゅを、なんのくろうもなく、しゅぎょうもせず、ただだいもくをとなえることによって、わがみにうけとる。
 すなわち、ぶっかいをゆげんさせることが、できるのは、しんじんによるのである。ゆえに、ふぐじとくというのである。じとは、じっかいをいみしているのである。じっかいがすべて、なんみょうほうれんげきょうのとうたいなのである。これを、しょほうじっそうというのである。それゆえ、かんじんのほんぞんしょうにも「みょうかくのしゃくそんは、われらがけつにくなり、いんがのくどくは、こつずいにあらずや」(0246-18)とおおせられているように、われわれのしんじんによって、ほとけのすべての、くどくをえることができるのである。

 むじょうほうじゅとは、ごほんぞんのことである。すなわち、ごほんぞんが、むじょうのたからの、あつまりなのである。ゆえにおんふみに、「いま、にちれんとうのたぐいのこころは、むじょうのなんみょうほうれんげきょう、むじょうのなかのごくむじょうなり、このみょうほうをさして、むじょうほうじゅとときたまうなり、ほうじゅとは、さんぜのしょぶつのまんぎょうまんぜんの、しょはらみつのたからをあつめたる、なんみょうほうれんげきょうなり」とおおせられているのである。
 また、きょうぎょうしょうごしょに、「このほけきょうのほんもんのかんじん、みょうほうれんげきょうは、さんぜのしょぶつの、まんぎょうまんぜんの、くどくをあつめて、ごじとなせり、このごじのうちに、あに、まんかいのくどくをおさめざらんや」(1282-10)ともおおせられている。
 このおんふみによれば、ごほんぞんには、しゃくそんが、にぜんきょうでといたくどくも、ほけきょうしゃくもんでといたくどくも、また、ほっしくどくほん、ずいきくどくほん、ふんべつくどくほんとうでとく、ほけきょうほんもんのくどくも、てんだいやでんぎょうのさとりも、また、しゃりほつやもんじゅのちえも、やくおうぼさつのよくびょうまを、こくふくするちからも、ゆぜぼさつのはたらきも、みろくぼさつのじひのちからも、さらにいえば、じっぽうさんぜの、しょぶつのまんぎょう、まんぜんのくどくが、ぐそくしているのである。ゆえに、たてには、えいえんであり、よこには、うちゅうだいのいっさいのちから、はたらきは、ことごとく、ごほんぞんにおさまっていると、かくしんすべきである。
 そして、ごほんぞんが、むじょうほうじゅであるのみならず、ごほんぞんをしんじ、ただよねんなく、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、われわれのせいめいも、むじょうほうじゅとなるのである。すなわち、われわれの、せいめいのなかに、いっさいのたからが、みちみちてくるのである。びんぼうのしゅくじゅうをもつひとも、びょうきにさいなまれ、くのうするひとも、せいめいりょくよわく、なにごとにもむきりょくになっているひとも、せいしんてきに、なやみをもつひとも、ひとたび、ごほんぞんをしんぎょうするならば、そくざに、そのひとのせいめいのうちに、むりょうのたからがみちみち、たいようが、ふたたび、ちゅうてんにのぼりゆくごとく、みらいへの、いだいなるちからは、せいめいのおうていより、こんこんとわきいずるのである。
 ゆえに、ごほんぞんをもったものは、せかいさいこうのしあわせものなのである。
ししんごほんしょうにいわく、「とう、なんじがでし、いちぶんのげなくして、ただ、ひとくちに、なんみょうほうれんげきょうとしょうする、そのくらいいかん。こたう、このひとは、ただ、しみさんきょうのごくいならびに、にぜんのえんにんにちょうかするのみにあらず、はたまた、しんごんとうのしょしゅうのがんそ、い、ごん、おん、ぞう、せん、ま、どうとうにしょうしゅつすること、ひゃくせんまんおくばいなり。こう、くにじゅうのしょにん、わがまっていとうをかろんずることなかれ、すすんでかこをたずぬれば、はちじゅうまんおくこうにくようせし、だいぼさつなり、あに、きれんいちごうのものにあらずや。しりぞいてみらいをろんずれば、はちじゅうねんのふせにちょうかして、ごじゅうのくどくをそなうべし。てんしのむつきにまとわれ、だいりゅうのはじめて、しょうずるがごとし、べつじょすることなかれ、べつじょすることなかれ」(0342-06)と。
 また、まつのどのごしょうそくにいわく、「また、ほけきょうのやくおうほんにいわく、よくこれのきょうてんを、じゅじすることらんあものも、またまたかくのごとし いっさいしゅじょうのなかにおいて、やくいだいいちとううんぬん、もんのこころは、ほけきょうをもつひとは、おとこならば、いかなるでんぷにてもそうらへ、さんがいのしゅたる、だいぼんてんおう、しゃくだいかんにん、よんだいてんのう、てんりんじょうおう、ないしかんど、にほんのこくしゅとうにもすぐれたり。
 いかにいわんや、にほんこくのだいじん、くぎょう、げんぺいのさむらい、ひゃくしょうとうにすぐれたること、もうすにおよばず、にょにんならば、きょうしかにょ、きっしょうてんにょ、かんのりふじん、ようきひとうの、むりょうむへんのいっさいのにょにんに、すぐれたりととかれてそうろう」(1378-06)と。
 つぎに、「ふぐじとく」と、いうことであるが、これは、おんふみに、「このむじょうほうじゅを、しんろうもなく、ぎょうこうもなく、ひとことに、うけとるしんじんなり」とおおせられているごとくである。じっさいには、われわれは、いったい、ごほんぞんをなんじゅうねんもかかって、もとめぬいてきたかというと、そうではない。はじめは、きもすすまず、はんしんはんぎのきもちで、にゅうしんした。そして、じっせんしてみて、はじめて、いだいなだいぶつほうであることがわかった。なんのしんろうもなく、ぎょうこうもなく、われわれは、ごほんぞんを、じゅじしてきたではないか。
 また、しんじんしたたちばからいえば、しゃかぶっぽうの、ばあいは、りゃくこうしゅぎょうであるのにたいし、にちれんだいしょうにんのぶっぽうは、じゅじそくかんじんであり、じきたつしょうかんであるということである。いまの、しゅうきょうかいのげんじょうをどうみるか、なんじゅうまん、なんびゃくまんのきんせんをつぎこんで、しゅぎょうしているひともいる。さむいときに、しにものぐるいで、みずをあびて、しゅぎょうしているひともいる。かれらは、それでなんとかすくいをえよう、ただしいものをもとめようと、しているのである。ところが、われわれは、そんなろうくは、まったくひつようとしない。
 ただ、じょうしきじんちゅうの、じょうしきじんとして、こうどうしてゆけば、よいのである。たべたいときに、たべ、ねたいときにね、なんじゅうじかん、ごんぎょうするわけでもない。まことに、もったいない、ごほんぞんと、かんしゃを、わすれてはならない。ゆうしゅうなるきかいになればなるほど、じつようのときは、かんたんであり、のうりつもよいとどうように、さいこうのぶっぽうであり、てつがくであるがゆえに、しゅぎょうもかんたんであり、くどくも、ぜつだいなのである。
 また、「むじょうにじゅうじゅうのしさいあり」として、むじょうとうじょうとを、そうたいしてはんじ、さいごに、なんみょうほうれんげきょうこそ、むじょうのなかのごくむじょうであると、けつろんされているてんについて、ふれよう。およそ、もろもろのほっしょうは、しょたいにしたがって、ふどうである。そのことを、しらずして、がんめいなこうべでぶっぽうを、みようとすれば、そこに、じゅうだいなあやまりをしょうずるのである。
 たとえば、かいもくしょう、じょうに「このぶっだは、さんじゅうじょうどうより、はちじゅうごにゅうめつにいたるまで、ごじゅうねんがあいだ、いちだいのせいきょうを、ときたまへり、 いちじいちく、みな、しんごんなり、いちもんいちげ、もうごにあらず、げてん、げどうのなかの、せいけんのことばすら、いうこと、あやまりなし、こととこころと、あいあへり、いわんやぶっだは、むりょうこうごうよりの、ふもうごのひと、されば、いちだい、ごじゅうよねんのせっきょうは、げてんげどうにたいすれば、だいじょうなり、おとなのじつごなるべし、しょじょうどうのはじめより、ないおんのゆうべにいたるまで、とくところのしょせつ、みなしんじつなり。」(0188-10)とのおんふみがある。ごじゅうねんのせっぽうが、ことごとく、しんじつでありながら、なぜ、むりょうぎきょうの、とくごとく、よんじゅうよねんのきょうきょうは、みけんしんじつのおしえなのだろうか。
 これは、ぶっぽうをまなぶひとが、まずつきあたるぎもんといえよう。しかししゅうきょうひはんのげんりをしるなら、そのぎもんは、すぐにきえさるものだ。いちだいごじゅうねんのせっぽう、ことごとく、しんじつとするのは、げどうにそうたいしてのろんである。したがって、「げてんげどうにたいすれば、だいじょうなり、だいにんのじつごなるべし」と、おおせのとおりである。

 また、みけんしんじつというのは、ごんじつそうたいして、はんじたものなのである。ゆえに、かいもくしょうじょうには、「ただし、ぶっきょうにいりて、ごじゅうよねんのきょうきょう、はちまんほうぞうをかんがえたるに、しょうじょうあり、だいじょうありごんきょうあり、じつきょうあり、けんきょう、みっきょう、なんご、そご、じつご、もうご、しょうけん、じゃけんとうの、しゅじゅのさべつあり、ただし、ほけきょうばかり、きょうしゅしゃくそんの、しょうごんなり、さんぜ、じっぽうのしょぶつの、しんごんなり」(0188-14)と、おおせられているのである。
 ところが、これらの、しょたいふどうの、げんりをしらず、いたずらに、ひくいきょうもんに、しゅうちゃくするのは、いつまでも、くいをまもり、うさぎをとろうとする、おろかな、きこりとおなじであり、みずからのむち、むのうをひょうめいしている、いがいのなにものでもない。
 ほっけしゅようしょうにいわく、「いま、まつのろんし、ほんのにんしの、じゃぎをすておいて、もっぱら、ほんきょうほんろんをひきみるに、ごじゅうよねんのしょきょうのなかに、ほけきょう、だいよんほっしほんのなかの、いこんとうのさんじ、もっともだいいちなり。もろもろのろんし、もろもろのにんし、さだめて、この、きょうもんをみけるか、しかりといえども、あるいはそうじの、きょうもんにくるい、あるいはほんしの、じゃえにしゅうし、あるいはおうしんとうのきえをおそるるか。いわゆる、こんきょうみょうきょうの、「これ、しょきょうのおう」、みつごんきょうの、「いっさいきょうちゅう、しょう」、ろくはらみつきょうの、「そうじ、だいいち」だいにちきょうの、「うんが、ぼだい」。けごんきょうの、「のうしんぜきょう、さいいなん」、はんにゃきょうの、「えにゅうほっしょう、ふけんいちじ」、だいちどろんの、「はんにゃはらみつ、さいだいいち」、ねはんろんの、「こんじゃねはんり」とうなり。これらのしょもんは、ほけきょうの、いこんとうのさんじに、せそうじ、せるもんなり、しかりといえども、あるいは、ぼんたい、してんとうの、しょきょうにたいとうすれば、これ、しょきょうのおうなり。あるいは、しょうじょうきょうにそうたいすれば、しょきょうのなかのおうなり、あるいはけごん、しょうまんとうのきょうにそうたいすれば、いっさいきょうのなかにすぐれたり。まったくごじゅうよねんのだいしょう、ごんじつ、けんみつのしょきょうにそうたいして、これ、しょきょうのおうの、だいおうなるにあらず。しょせん、しょたいをみて、きょうきょうのしょうれつをわきまうべきなり」(0331-14)とうと。
 この、おんふみによれば、にぜんの々きょうきょうにも、「しょきょうのちゅうのおう」とか、「だいいちのきょうなり」という、ことばはある。しかれども、それは、あるはんいないでだいいちであり、また、それいぜんのきょうもんとそうたいして、いわれたものである。けっきょく、「いっさいきょうのなかのおう」とか、「いっさいきょうのなかでだいいっ」といういみとは、まったくちがうのである。かくのごとく、ぶっぽうでは、たえず、そうたいというだんかいを、ねんとうにおかなければ、りかいできえないのである。
 にちれんだいしょうにんの、ぶっぽうにおいても、とうじ、ねんぶつとうがひろまっていたので、しばしば、ごんじつそうたいのたちばで、おとき、なされているのである。そして、あるときは、ほけきょうにじゅうはちほんをたて、あるいは、しゃくそんをたてたり、されたばあいもある。これらのいぎをしらず、しゃくそんのぶつぞうとうをほんぞんとするが、だいしょうにんの、ほんぎであるがごとき、あやまりをおかしているのが、じゃしゅう、にちれんしゅうのじったいなのである。

0727    だいろく せそんだいおんのこと

 おんぎくでんにいわく、せそんとは、しゃくそんだいおんとは、なんみょうほうれんげきょうなり、しゃくそんのだいおんをほうぜんとおもわば、ほけきょうをじゅじすべきものなり、これすなわち、しゃくそんのごおんをほうじたてまつるなり。
 だいおんを、だいもくということは、つぎしもに、いけうじと、とく、けうのこととは、だいもくなり、このだいおんの、みょうほうれんげきょうを、よんじゅうよねんのあいだ、ひしたまいてのち、はちかねんにだいおんをひらきたまうなり。
 もんぐのいっにいわく、「ほうおう、うんをひらく」と、うんとは、だいおんのみょうほうれんげきょうなりうんぬん、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつりて、にほんこくのいっさいしゅじょうを、たすけんとおもうは、あに、せそんのだいおんにあらずや。しょうあんだいし、じゅっしゅのおんを、あげたりしなり、だいいちには、じひとうもつのおん、だいにには、さいしょげしゅのおん、だいさんには、ちゅうげんずいちくのおん、だいよんには、おんとくじせつのおん、だいごには、ろくおんせしょうのおん、だいろくには、ちしょうぼだいのおん、。だいななには、りょうち、けぎょうのおん、だいはちには、ふしけつじょうのおん、だいきゅうにはけとくあんのんのおん、だいじゅうには、げんゆうりたのおんなり。
 このじゅうおん、すなわち、えざしつのさんきなりとうんぬん、 きのろくにいわく、「しゅくみょうややさけて、なおいまだ、ふえいせず、ちょうおんのおん、いかによりてか、ほうずべき」と、0728。
 またいわく、「ちゅうけは、ただ、ものとして、せをてんちにこたえず、ことしてしょうをふぼにしゃせず、かんほう、ここにもうするをもってなり、といえり」。ふしょうきのろくにいわく、「ものは、せをてんちにこたえずとは、いわく、ものはてんちによりて、しょうずといえども、しかもてんちのたくをほうずといわず、こもまた、かくのごとし」と。
 きのろくにいわく、「いわんや、また、ただ、われをして、ほうせもうしむるによる、このおん、ほうじがたきをや」と。ふしょうきにいわく、「しえんりょうがほうもうとは、こころにいわく、ただ、にょらいのしょうもんをして、ひとしくもうほうのりを、えせしむるによるなり、りはいわく、いちだいねはんなり」と。
 おんぎくでんにいわく、かくのごとく、じゅうじゅうのしょしゃく、これありといえども、しょせん、なんみょうほうれんげきょうのげしゅなり、げしゅのゆえに、にょえいずいぎょうしたまうなり、いま、にちれんも、かくのごときなり、みょうほうれんげきょうを、にほんこくのいっさいしゅじょうとうに、あたえさずくる、あに、しゃくそんのじゅうおんにあらずや。
 じゅうおんは、すなわち、えざしつのさんきなりとは、だいいち、だいに、だいさんは、だいじいしつの、ごおんなり、だいよん、だいご、だいろく、だいななは、にゅうわにんにくえのおんなり、だいはち、だいきゅう、だいじゅうは、しょほうくういざのおんなり、だいろくの、ちしょうぼだいのおんを、きのろくにいわく、「ゆえに、とんののちに、おいて、すなわち、しょうけをたれ、だんしゃくとうたし、ついちんたんれんす」と。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、よんだいしょうもんのいちにんである、まかかしょうが、ほとけのだいおんを、さんたんしているところである。「せそんは、だいおんまします、けうのことをもって、れんびんきょうけして、われらをりやくしたもう。むりょうおっこうにも、だれかよく、ほうずるものあらん」と。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。せそんとはほとけのことであり、だいおんとは、なんみょうほうれんげきょうのことである。ほとけのだいおんをかんじ、それにむくいようとおもうならば、ほけきょうをじゅじすべきである。
 これが、すなわち、ほとけのごおんを、ほうじたてまつることに、なるのである。だいおんを、だいもくというわけは、つぎに、「けうのことをもって」と、だいおんのないようをせつめいしているが、そのけうのこととは、なんみょうほうれんげきょうのことだからである。
 ほとけは、このだいおんの、みょうほうれんげきょうを、よんじゅうよねんかんは、とかず、さいごのはちヵねんに、といたのである。もんぐのいちに、「ほうおううんをひらく」といっているのも、おなじしゅしで、ほうおうとは、ほとけ、うんとは、
 だいおんのみょうほうれんげきょうのことである。いままっぽうにおいて、にちれんだいしょうにんが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつって、にほんこくの、ぜんみんしゅうを、ふこうからすくおうとしているのは、せそんがだいおんをほどこすすがたではないか。
てんだいのでしのしょうあんだいしは、このだいおんということをじゅうしゅにぶんせきしている。
だいいちにじひとうしゃのおん  これは、ほとけのじひはものにまでとどまるということで、じひのこうだいさをしめしたものである。
だいににさいしょげしゅのおん  さいしょ、ちゅうげん、こんにちとわけたいみでのさいしょで、しゃくもんのこころではさんぜんじんでんこう、ほんもんのこころでは、ごひゃくじんでんこうをさす。
だいさんにちゅうげんだすいのおん  さいしょげしゅから、こんにちまでのかんであり、そのかんになんかいもしゅつげんして、しだいにしゅじょうのきこんをじゅくしていったこと。
だいよんにいんとくしせつのおん  もともとほとけであるにもかかわらず、インドにおいてしゅぎょうしてほとけになったと、とくをかくして、つたないすがたをしめしたこと。
だいごにろくおんせしょうのおん  ろくやおんということで、しょうじょうきょうをといてしゅじょうをゆういんしたこと。
だいろくに、ちしょうぼだいのおん  しょうじょうきょうにしゅうちゃくすることをちとさせ、だいじょうきょうをねがわしめたこと。すなわちほうとうぶのおしえをといたこと。
だいななにりょうちけぎょうのおん  りょうちけぎょうとは、しんげほんのぐうじのたとえのなかで、ちちのちょうじゃ、そのいっさいの、かざいをぐうじにしらしめることで、じつは、はんにゃぶのおしえをといたことをいみする。
だいはちにふしけっじょうのおん  ふしけっじょうとは、おなじくぐうじのたとえで、ぐうじがちょうじゃのこであることをさとったことをいみする。
 すなわち、ほけきょうによって、いっさいしゅじょうがじょうぶつのきべつを、あたえられたことをいみする。
だいきゅうに、けとくあんのんのおん  ひゆほんに「しんにたいねん、けとくあんのん」とあり、しゅじょうがじょうぶつのきをうけてしんにかんきしえたこと。
だいじゅうに、げんゆうりたのおん  しゅじょうが、すすんで、たのしゅじょうをりやくすることができるようになったこと。
 このじゅうおんはえざしつのさんきにあたるのである。
 ほっけもんぐきろくには、「くおんに、げしゅされたぶつしゅは、ややわれて、めばえようとしているが、まださかえるにはいたっていない。ちょうおんの、おんを、なにによってほうずることができようか」といっている。
 また、「ちゅうしゃくは、ただ、ものとしてせをてんちにこたえず、ことしてしょうを、ふぼにしゃせず。かんほう、ここにもうすをもってなり、といった」といっている。
 どうせんの、ほっけ、てんだいもんぐふしょうきのろくに、このもんをせつめいして、「ものはせをてんちにこたえずということは、ものはてんちによって、しょうずるけれども、そのてんちのめぐみにたいして、ほうおんしようとしない。ひとのこもまたどうようである」と、いっている。
 ほとけのだいおんは、ほうじがたいということを、たとえたものである。さらにきのろくには、「いわんや、また、ただ、われをして、ほうもうせしむる、よるこのおんほうじ、かたきをや」といっている。ふしょうきに、このもんをせつめいし、「ただ、われをして、ほうもうせしむるに、よるとは、ほとけが、しょうもんをひとしく、いちだいねはんのきょうちにいたらしめたということは、ぜったいにほうずることのできないおんである」といっている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このように、じゅう々じゅうのかいしゃくがあるけれども、つまるところの、なんみょうほうれんげきょうのげしゅの、だいおんということである。げしゅのゆえに、かげのかたちにしたがうがごとく、なんみょうほうれんげきょうのもとにしたがっていくのである。いま、まっぽうにおいて、にちれんだいしょうにんが、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょうをいっさいしゅじょうに、おあたえくださったことは、しゃくそんの、じゅうおんにあたるのである。
 しょうあんだいしが、じゅうおんのえざしつのさんきに、なるといったのは、ほっしほんに、「この、ぜんなんし、ぜんにょにんは、にょらいのしつにはいり、にょらいのころもをちゃく、にょらいのざにざして、そして、ないし、ししゅうのためにひろく、このきょうをとくべし。にょらいのしつとは、いっさいしゅじょうの、だいじひしん、これなり。にょらいのころもとは、にゅうわにんにくのこころ、これなり、にょらいのざとは、いっさいほうくう、これなり」とあり。おんぎくでんには「ころもとは、にゅうわにんにくのころも、とうちょにんにく、にゅうわにんにくがい、これなり。ざとは、ふしゃくしんみょうの、しゅぎょうなればくうざに、ごするなり、しつとは、じひにじゅうして、ひろむるゆえなり、ははのこをおもうがごとくなり」とあり。じゅうおんのだいいち、だいに、だいさんはだいじいしつの、ごおんにあたり、だいよん、だいご、だいろく、だいななは、にゅうわにんにくの、ごおんにあたり。だいはち、だいきゅう、だいじゅうは、しょほうくういざにあたるのである。だいろくのちしょうぼだいのおんについて、きのろくには、「ゆえに、とん=とんきょうである、ほけきょうをといたあとで、しょうけ=あごんきょうをとき、つぎに、だんしゃくとうたし、ほうとうぶのきょうをとき、ツチやヌタでうつように、しゅじょうのきこんを、ととのえていったのである」といっている。

 おんについては、われわれのほうずべきものに、しおんがある。いちにはいっさいしゅじょうのおん、ににはふぼのおん、さんにはこくおうのおん、よんには、さんぽうのおんである。
 さいきんでは、あまりおんについて、やかましくいわれていない。しかし、にんげんのこんぽんりんりとして、ぼうおんでよいとは、けっしていえぬとおもう。もしぼうおんでよいとなれば、しゃかいにあっては、じゃくにくきょうしょくの、ちくしょうどうにおちいり、かていにあっては、まったく、うるおいのない、つめたいふこうなかていに、しゅうしせざるをえなかろう。したがって、にちれんだいしょうにんは、ほうおんしょうに、「ろうこは、つかをあとにせず、はくきはもうほうがおんをほうず、ちくしょうすらかくのごとし、いわうやじんりんをや」(0293-01)とおんをほうずべき、ひつようせいを、きょうちょうあそばされている。しかし、しんじつのほうおんのりも、しょうほうに、よらなければならないともいえる。
 げんだいしゃかいにおいては、ふこうなことに、ぜんあくのきじゅんすらない。めいかくでなくなっている。りんりのはいたいは、まことにかなしむべきことである。そのみちとして、なによりもまず、さんぽうのしんずいをしることである。まっぽう、こんにちのしょうほうたる、さんだいひほうのごほんぞんのいわれを、つよくしることに、つきるのである。そして、しんぎょうにすすみゆくことが、いっさいのおんをほうずるこんぽんになるのである。にちれんだいしょうにんの、ごせいくんどおりに、じぎょうけたにわたる、じっせんこそが、ふぼのため、ほうのため、しゅじょうのため、しゃかいのためにも、さいだいなるほうおんになっているのである。

  • [233]
  • 御義口伝講義録上 ひゆほんきゅうかのだいじ だいはち ゆいう、いちもんのこと 8から9まで 3/3

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 5月28日(日)16時45分58秒
  • 編集済
 
0724    だいはち ゆいう、いちもんのこと。

 もんぐのごにいわく、ゆいういちもんとは、かみの、いしゅじゅほうもん、せんじおぶつどうに、たとう、もんに、また、ふたつあり、たくもんとしゃもんとなり、たくとはしょうじなり、もんとはいずるようろなり、 これは、ほうべんきょうのせんなり、しゃとはだいじょうのほうなり、もんとはえんきょうのせんなりと。
 おんぎくでんにいわく、いちもんとは、ほけきょうのしんじんなり、しゃとは、ほけきょうなり、ごとはなんみょうほうれんげきょうなり、たくとはぼんのうなり、じしんほうしょうのだいちを、しょうじしょうじと、めぐりいくなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ひゆほんの、ゆうめいなさんしゃかたくのたとえの、さいしょのところである。「しゃりほつ、もし、こくおおじゅらくの、だいちょうじゃあらん。そのとし、すいまいして、ざいふむりょうなり。おおく、たたくおよび、もろもろのどうぼくあり。そのいえ、こうだいにして、ゆいいちもんあり」と。
 もんぐのごには、つぎのようにのべている。ゆいいちもんありというのは、ほうべんぽんに「しゅじゅのほうもんをもって、ぶつどうをせんじす」の、もんをたとえて、ぶつどうこそ、さいこうであり、ゆいいつであることを、のべているのである。もんにまた、ふたつがある。たくのもんとしゃのもんとである。たくとはしょうじ、くのうのせいかつをいみし、たくもんとは、そのせいかつからでる、ようろをいみする。これは、ほうべんごんきょうのきゅうきょくである。しゃとはだいじょうのほうをいい、しゃもんとはえんきょうのきゅうきょくをいみする。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。いちもんとはほけきょうのしんじんのことであり、しゃとはほけきょう、だいびゃくごしゃの、ごとは、なんみょうほうれんげきょうである。また、たくとは、ぼんのうをいみする。じしんほうしょうのだいちとは、じょうぶつという。えいえんのせいめいを、かくちした、ぜったいのこうふくきょうがいであり、しょうじしょうじと、めぐりいくとは、そのえいえんの、こうふくきょうがいのうえにたって、いっさいのせいかつをしていくことである。

 いちもんとは、ほけきょうのしんじんなり。
 じんせいのきゅうきょくのもくてきは、はかせになることでもなく、せいじか、じつぎょうか、きょういくしゃになるだけがもくてきでもけっしてない。だいぶっぽうによって、えいえんのせいめいをえとくし、えいえんにぜったいのこうふくきょうがいを、じして、かちそうぞうしていくことにある。そのかくりつは、まっぽうのほけきょうをしんじんするいがいにない、とのことばであられる。しんじんとは、げんだいごで、ひとくちにいうならば、じっせんということになるとおもう。ぎょうたいそくしんじんともいわれている。
 くるまとは、ほけきょうなり、ごとは、なんみょうほうれんげきょうなり。
 「くるまとはほけきょうなり」とは、ごほんぞんは、けんなんなるやまには、つえとなり、ししてめいどのともしびとなり、さんずのかわには、ふねとなるごとく、われらのこうぼう、せいすい、るてんきわまりなき、げんじつのしゃかいにおいては、けんごな、そしてじゆうじざいの、くるまであると、たたえておられるわけである。「ごとは、なんみょうほうれんげきょうなり」とは、にんほんぞんともはいせる。「たくとはぼんのうなり」とは、ぼんのうそくぼだいの、せいかつをいみしているところである。

 じしんほっしょうのだいちを、しょうじしょうじとめぐりいくなり。
 このおんふみは、せいめいのえいえんをといておられる。だれひとが、ひていしようが、うたがおうが、せいめいのえいえんは、げんぜんたるじじつなりと、しめされておられる。かみがにんげんをつくったのでもなく、こんぜのみで、にんげんのせいめいがきえてなくなるものでもなく、いんがのりほうにより、むしむしゅうに、さんじんじょうじゅうするのが、せいめいのほんしつである。
 また、われわれのせいかつに、やくしていえば、きょうおうどのごへんじの「いかなるところにて、あそび、たはふるとも、つつがあるべからず、ゆぎょうしておそれなきこと、ししおうのごとくなるべし」(1124-09)といういみである。
 こうふくというものは、ぜったいに、じぶんじしんできずいていくものである。ひとからあたえられるものではない。ひとからあたえられたものは、くずれてしまう。いつ、たよるおやがしに、おっとがしぬかわからない。
 げんじつは、あまりにもきびしい、またじだいがかわって、どれだけのひとが、ふこうになったか、ぜんぶ、じぶんじしんのちから、じぶんじしんのちえ、じぶんじしんのふくうん、それがだいいちぎのもんだいとなるのである。
 そして、ふくうん、ちえともに、なんみょうほうれんげきょうによって、えられるのである。すなわち、じぶんじしんが、さいこうどにじたいけんしょうして、ゆうゆうとちからづよく、たたかいいきていける、ほんげんりょくはなにか、そのげんせんは、ごほんぞんしかないということである。それが「じしんほっしょうのだいち」といういみである。

0724    だいきゅう こんし、さんがいとうのこと

 もんぐのごにいわく、つぎに、こんしさんがいより、しも、だいにに、いっぎょうはんは、かみの、しょけん、しょしゅじょうい、しょうろうびょうし、ししょ、しょうしゃを、じゅして、だいにのしょけん、ひのたとえをがっす、ゆいがいちにんより、しも、だいさんに、はんげは、かみの、ぶっけんしい、べんさぜねんを、じゅして、きょうにゅうかたくを、がっするなりと。
 おんぎくでんにいわく、このもんは、いちねんさんぜんのもんなり、いちねんさんぜんのほうもんは、しゃくもんには、しょういんにせんのせけんをあかし、ほんもんには、こくどせけんをあかすなり、また、いわく、こんしさんがいのもんは、こくどせけんなり、ごちゅうしゅじょうのもんは、ごおんせけんなり、にこんししょたしょげんなんゆいがいちにん、のもんは、しゅじょうせけんなり、またいわく、こんしさんがいは、ほっしんにょらいなり、ごちゅうしゅじょうしっぜごしは、ほうしんにょらいなり、にこんししょとうは、おうじんにょらいなり、0725。

かいしゃくこうぎ
 ここは、ゆうめいな「にょらいはすでに、さんがいのかたくをはなれて、じゃくねんとしてかんきょし、りんやにあんしょせり」。
 「いま、このさんがいは、みなこれ、わがうなり、そのなかのしゅじょうは、ことごとくこれ、わがこなり、しかも、いま、このところはもろもろのげんなんおおし、ただわれ、いちにんのみ、よくくごをなす」、ところである。
 もんぐのごに、じゅごうちょうじゃひひの、だいにのしょけんにあたる、「こんしのさんがい・・・もろもろのげんなんおおし」の、いっぎょうはんのげは、ひゆほんのまえのほうにある、「もろもろのしゅじょうをみるに、しょうろうびょうしに、しょうしゃせらる」の、ちょうぎょうのもんを、げとしてしょうして、だいにのしょけん、ひのたとえを、ほっせつとがっして、といていたのである。
 おなじく、だいさんのしょけんにある、「ただ、われいちにんのみ、よくくごをなす」の、はんげのもんは、ひゆほんのまえのほうにある、「ほとけ、これをみおわって、すなわち、このねんをなさく」の、ちょうぎょうのもんをしょうして、きょうにゅうかたくのたとえを、ほうせつとしがって、といているのであると。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。このもんは、いちねんさんぜんを、あらわしているのである。いちねんさんぜんのほうもんは、ほけきょうしゃくもんで、しゅじょうせけん、ごおんせけんのにせんのせけんを、あきらかにし、ほんもんでこくどせけんを、あきらかにしているのである。
 また、つぎのようにも、とることができる。すなわち、こんしさんがいのもんは、こくどせけんであり、ごちゅうしゅじょうのもんは、ごおんせけんであり、にこんししょたしょげんなん、ゆいがいちにんは、しゅじょうせけんである。
 また、ほっぽうおうのさんじんに、あてはめれば、こんしさんがいはほうじんにょらい、ごちゅうしゅじょうしっぜごしは、ほうじんにょらい、にこんししょとうのもんは、おうじんにょらいとなるのである。

 この「こんしさんがい」のもんを、はいするたびにおもうことは、このちきゅう、うちゅうは、いったいだれのものか、ということである。
 このきょうもんより、すいするならば、アメリカや、ロシアや、ちゅうごく、フランスとうのせかいのきょうこくのしどうしゃだけのものではない。しゅししんのさんとくをおもちの、ごほんぶつのものであるといえる。こくじんも、おうしょくじんしゅも、はくじんも、ごほんぞんよりみれば、みなおなじであり、こどもである。
 にちれんだいしょうにんのじひは、びょうどうだいえであられる。にほんじん、ちゅうごくじん、アメリカじん、アフリカじんとうとうにたいするじひは、まったくおなじである。このぶっぽうによってのみ、ぜんせかいのこっきょうをのぞくことができるこんぽんりねんなることは、めいはくであろう。いんしゅうづよきにほんでも、げんじつにいっせんまんひとちかいひとびとの、しあわせなこうりゅうをみている。
 かいがいにある。ごまんせたいいじょうのかっこくのひとびとも、たがいにこうりゅうして、たのしくしんじんにはげんでいる。 このげんじつは、みらいの、こっきょうなきせかいへいわのしゅくずともいえる。
 ふしいったい、していふにが、ぶっぽうのげんりであるから、にちれんだいしょうにんのごきんげんを、しゅじょうがそのままじっせんしたときこそ、ぶっこくどすなわち、りそうきょうができうるのである。そのだいいっぽを、わがそうかがっかいは、じじつのうえに、しょうめいしているわけである。
 つぎに、いちねんさんぜんのほうもんは、しゃくもんにおいてはしゅじょうせけん、ごおんせけんの、にせんをあかしている。ほんもんにおいては、さらに、こくどせけんをもあかしている。とだじょうせいぜんかいちょうは、げんだいかがくで、このさんせけんをろんずるならば、ほうりつ、けいざい、しゃかいがくとうが、しゅじょうせけんのがくもんといえよう。でんき、かがく、ぶつり、すうがくとうはこくどせけんのがくもんである。



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  • 御義口伝講義録上 ひゆほんきゅうかのだいじ だいよん とくぶっぽうぶんのこと 2/3

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 5月28日(日)11時43分41秒
  • 編集済
 
0723    だいよん とくぶっぽうぶんのこと

 おんぎくでんにいわく、ぶっぽうのぶんとは、しょじゅういちぶのちゅうどうを、いうなり、しゃくもん、しょじゅう、ほんもん、にじゅういじょうということは、このぶんのじより、おこるなり、しょせん、このぶんのいちじは、いちねんさんぜんのほうもんなり、そのゆえは、じごくはじごくのぶんで、ぶっかをあかし、ないし、さんぜんのしょほう、おのおののとうたいのぶんで、ぶっかをしょうしたるなり、しんじつのわれらがそくしんじょうぶつなり。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなうるぶんで、ぶっかをあかしたるなり、ぶんとは、ごんきょうはむとくどう、ほけきょうはじょうぶつと、わかつとこころえべきなり、またいわく、ぶんとはほんもんじゅりょうほんのこころなり、おのおのほんぶんのぶんなり、そうじて、しゃくもん、しょじゅうぶんしょうというは、きょうそうなり、しんじつは、しょじゅうぶんしょうのところにて、いちきょうはきわまりたるなり。

かいしゃくこうぎ
 ここは、ぜんこうの「しんいたいねん、けとくあんらく」のつぎの「きょう、すなわち、しんぬ。しんに、これぶっしなり。ほとけのくちよりしょうじ、ほうけよりしょうじて、ぶっぽうをえたり」とあるところである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 この「ぶっぽうのぶん」とは、しゃりほつが、しゃくもんのかいさんけんいちのせっぽうにおいて、ちゅうどうのさとりのいちぶをえて、しょじゅうのくらいにのぼったということである。しゃくもんにおいてしょじゅうのくらい、ほんもん、かいごんけんのんにらいしして、にじゅういじょうのくらいということは、このひゆほんにおいて、「ぶっぽうのぶんをえたり」ということから、ふんべつされているのである。
 しょせん、このぶんのいちじは、ちゅうどう、いちねんさんぜんのことである。そのゆえは、じごくはじごくのとうたいのぶんざいにおいて、ぶっかをしょうとくするのであり、かように、さんぜんのしょほうは、すべて、おのおののとうたいのぶんにおいて、ぶっかをしょうとくしたのである。
 これこそ、しんじつのわれらの、そくしんじょうぶつなのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、なんみょうほうれんげきょうととなえるとき、そのとうたいのぶんにおいて、ぶっかをしょうとくしたのである。これこそ、しんじつのわれらのそくしんじょうぶつなのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、なんみょうほうれんげきょうととなえるとき、そのとうたいのぶんにおいて、ぶっかをじょうずる、そくしんじょうぶつするのである。
 また「ぶん」とは、ほうべんごんきょうは、むとくどう、なんみょうほうれんげきょうによってのみ、じょうぶつできるのであると、きびしくふんべつすることを、こころえるべきである。
 また、「ぶん」とは、ほんもんじゅりょうほんの、もんていにひしんされたる、なんみょうほうれんげきょうのことである。おのおのほんぶんのぶんという、いみになるのである。
 そうじて、しゃくもんのしょじゅういにおいて、いちぶんのしょうとくというのは、もんじょうきょうそうのしょだんであり、しんじつのもんていかんじんのこころでは、ほんにん、しょじゅういにおいて、みょうほうれんげきょうの、きゅうきょくのさとりを、えるのである。

 「ぶっぽうのぶんをえたり」とあるが、しゃりほつは、りゃくかいさんけんいちにおいては、しょじゅうのきょうがい、みょうほうれんげきょうの、いちぶんのきょうがいをえたとされている。しゃくもんにおいては、しょじゅうのきょうがいをえ、ほんもんにおいて、にじゅう、ないし、とうかく、みょうかくとのぼっていくのである。
 したがって、しゃかぶっぽうでは、たとえそれが、ほけきょうであっても、しだいにくらいがのぼって、ほとけになるというかんがえかたが、しはいてきである。たしかに、ほけきょうしゃくもんでは、にぜんきょうのかんがえかたをうちやぶって、いっさいしゅじょうに、ことごとくぶっしょうのあることを、ときあかしている。そして、いままで、ようふじょうぶつとされていたにじょうに、こう、こく、みょうごうのきべつをさずけている。
 しかし、これは、あくまでもみらいにおける、じょうぶつをやくそくしたのであって、じょうぶつのかのうせいをといたまでである。
 すなわち、いっさいしゅじょうのしんちゅうには、もともと、ぶっしょうがあるというげんりをときあかしたにすぎない。そして、げんじつにぶっかをしょうとくするには、にじゅう、さんじゅう、じゅうじゅう…じゅっち、とうかくとしょうしんしていくいがいにないとされ、それは、ほんもんじゅりょうほんによって、しょうとくすることをといている。
 しかも、きょうもんのめんにも、またてんだいだいしも、しょもんにも、とうかくいまでしか、といていないのである。これはしゃかぶっぽうでは、いまだ、ほとけのきょうがいというものが、りゃくこうしゅぎょうして、ようやくとうたつできる、とくべつのきょうがいとされているからである。
 したがって、ほけきょうに、じっかいごぐがとかれているというのも、そくしんじょうぶつがあかされているというのも、またほけきょうにきて、じきたつしょうかんが、とかれているというのも、ひとつは、にぜんきょうに、そうたいしていっているのであり、もうひとつには、にちれんだいしょうにんの、ぶっぽうのたちばからはんじて、そのようにおおせられているのである。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「いわゆる、いちおうこれをみるときは、くしゅをもって、げしゅとなし、だいつうぜんしみ、しゃくもんをじゅくとなして、ほんもんにいたつて、とうみょうにのぼらしむ」(0249-15)と。
 これにたいして、にちかんしょうにんのもんだんには、とだじょうせいせんせいのかいせつによれば、つぎのようになる。
 「このおんふみは、しゃかざいせの、しょうしゅうをいちおうとして、あかされているのであって、ほけきょう、ほんもんじゅうよんほんを、みるときは、ごひゃくじんでんこう、すなわちくおんにおいて、げしゅをうけたやからが、だいつうちしょうぶつにあい、あるいは、じゅうろくのおうじにけちえんし、また、ほけきょういぜんの、あごん、ほうとう、はんにゃ、けごんとうの、ぜんしみをちょうもんし、あるいはしゃくもんにいたって、くおんのげしゅが、だんだんとじゅくしてきて、ほんもんにいたって、とうかくのくらいにのぼったのである。
 もんじょうのこころとしては、ほんもんはただとうかくに、のぼっただけのりやくであったが、もんていのまなこ、あけてみれば、『とうかくいってん、みょうじみょうかく』して、みょうじみょうかくのくらいにのぼられたのである。
 とうしょうがくを、じょうじたほとけが、くおんのげしゅを、かんとくし、くおんいらいの、していのちぎりをかくごして、そのほっしんが、みな、じのいちねんさんぜん、なんみょうほうれんげきょうにあったことを、しって、ただちに、みょうじみょうかくのくらいをじょうじたのである。
ゆえに、ほんもんにいたって、とうみょうにのぼらせしむるとおおせである」。
 このもんだんのなかに、「もんていのまなこ、あけてみれば、『とうかくいってん、みょうじみょうかく』と、みょうじみょうかくのくらいに、のぼられたのである」とあるが、これによれば、しゃかぶっぽうのはんいでは、しんじつのそくしんじょうぶつはない。あくまでも、だいしょうにんのぶっぽうによって、はじめて、じじつのうえに、そくしんじょうぶつ、じきたつしょうかんが、あかされているといえるのである。ゆえに、しゃくそんざいせのしゅじょうが、みょうかくいすなわちぶっかいのくらいに、のぼったというのは、だいしょうにんのぶっぽうによって、はんじて、そのようにいえるのである。
 とうかくいってん、みょうじみょうかくというのは、しゃくそんのほけきょうでは、とうかくいまでしかといていないし、そのくらいまでしか、いかないのである。なぜなら、さんぜじっぽうのしょぶつ、ことごとく、なんみょうほうれんげきょうによって、みょうかくのほとけになるのであって、それをとかない、ほけきょうでは、とうかくいまでのぼるとしか、いいようがないのである。しかし、とうかくいまでいけば、いってんしてなんみょうほうれんげきょうが、わかるのである。しぜんにゆげんするとまでいいえようか。
 ちょうど、しなのまちのえきまで、おそわってくれば、あそこが、がっかいほんぶだとわかるようなものである。そのばあい、しなのまちのえきがとうかくで、ほんぶがみょうかくである。しなのまちのえきまでおしえるのが、しゃかぶっぽう、ほんぶをちょくせつおしえてくれるのが、だいしょうにんのぶっぽうなのである。
 または、だいがくまでいかせるのが、しゃかぶっぽうであり、だいがくをそつぎょうするということは、にんしきのくんれん、じんかくのけいせいをおこない、しゃかいじんとして、しゃかいにこうけんできる、じんざいをつくるということである。それをぜんぶふくめて、すぐさましゃかいじんとして、しゃかいのもこうけんでき、じんるいにもこうけんでき、じぶんじしんも、ゆうゆうとかちそうぞうしていくことを、ちょくせつにおしえるのが、だいしょうにんのぶっぽうである。
 だいがくまでいっても、さまざまながくもんを、おそわり、いってんして、りっぱなしゃかいじんとしてたつことが、とうかくいってん、みょうじみょうかくのれいともいえよう。

 しんじつは、しょじゅうぶんしょうのところにて、いっきょうのきわまりたるなり。
 にちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうに、かいもくしょうの、「いちねんさんぜんのほうもんは、ただ、ほけきょうのほんもん、じゅりょうほんのもんのそこに、しづめたり、りゅうじゅ、てんじん、しつてしかも、いまだ、ひろいいださず、ただ、わがてんだいちしゃのみ、これをいだけり」(0189-02)のもんをうけて、いったい、どのもんていなのかを、のべられて、「ひらいて、よく、これをしんぜよ、これ、おくたくにあらず、しのいわく、『ほんにんしょじゅうの、もんていに、くおんみょうじのみょうほう、じのいちねんさんぜんを、ひちんしたまえり』うんぬん、まさにしるべし、々のちのちのくらいにのぼるは、まえまえのぎょうに、よるなりうんぬん」ととかれている。
 しょじゅうとは、ふたいてんのくらいである。しゃくそんは、じぶんがほとけになるまえに、ぼさつどうをぎょうじたのだとといている。いわゆるじゅりょうほんの、「がほんぎょうぼさつどう」のもんである。そのがほんぎょうぼさつどうの、しょじゅうのとき、すでに、ふたいのけついがかたまり、ほとけになることが、けっじょうされているのである。
 では、いったい、そのしょじゅうにのぼるげんせんのりきは、なんであったか。こうなると、もはや、しゃかぶっぽうではせつめいできない。しょじゅうから、ほとけになるかていは、いちおう、しゃかぶっぽうでせつめいしえても、いったい、いかなるほとけにあい、なにをたいしょうに、しょじゅうにのぼることができたのかを、せつめいできない。これこそ、そのげんせんは、なんみょうほうれんげきょうであり、くおんがんじょ、じじゅゆうほうしんにょらいであることを、だいしょうにんのぶっぽうによって、しりうるのである。
 ゆえにせんじしょうもんだんにいわく、「ごひゃくじんでんこうは、ほんがのしょしょうなり、ぶばいじょうすうは、ほんにんのしょじゅうなり、やくばいじょうすうの、とうしょは、ほんにんのしょしょうのみょうほうなり」と。この、「ほんにんのしょしょう」とは、なんみょうほうれんげきょうである。このように、ほんにんしょじゅうのもんていに、じのいちねんさんぜんの、なんみょうほうれんげきょうがひちんしているがゆえに、「じつしんは、しょじゅうぶんしょうのところにて、いっきょうはきわまりたるなり」と、おおせられているのである。
 しょじゅうとは、いまでいえば、ぜったいにたいてんしないというけついであり、しんじんとなろう。しんにごほんぞんをぜったいなりとかくしんし、いっしょうがい、ごほんぞんをたもちぬこう。こうせんるふにむかってすすんでいこうとけついしたときに、すでに、ぜったいにくずれることのなき、こうふくきょうがいが、そのいちねんのせいめいのなかにきずかれていくのである。
 これが、「いっきょうは、きわまりたるなり」のいみである。そこには、いっさいのくどくが、うんじゅうしてくることは、ぜったいである。わがいちねんのせいめいに、みょうほうのきょうがいがあらわれれば、のちは、てんだいの「もうけいをさぐるに、まなことして、うごかざること、むきがごとし」のせつのごとく、いっさいのふくうん、いっさいのみらいのかほうは、ぜんぶ、そこにふくまれるのである。
 ゆえに、むしもちごしょにいわく、「いま、にほんこくのほけきょうを、かたきとして、わざわいをせんりのそとより、まねきよせぬ、これをもつてをもうに、いままた、ほけきょうをしんずるひとは、さいわいを、ばんりのそとよりあつむべし」(1492-07)と。

0723    だいろく いちじぐさのこと

おんぎくでんにいわく、いちじとは、まっぽうのいちじなり、ぐさとは、なんみょうほうれんげきょうなり、ぐとはひっきょうじゅういっじょうなり、いま、にちれんとうのたぐいの、しょさには、だいもくのごじなり、よぎょうをまじえざるなり、またいわく、じっかいのごごんは、いっぺんのだいもくをぐさしたり、これあにかんのうにあらずや。0724

かいしゃくこうぎ
 これは、ぜんこうの、「にじえてん」のつぎに、「しょてんのぎがく、ひゃくせんまんしゅ、こくうのなかにおいて、いちじにぐをなし、しゅのてんげを、ふらして…」とあるところの、おんぎくでんである。このもんについて、つぎのようにおおせである。
 いちじとは、まっぽうのことをさしているのである。ぐさとは、なんみょうほうれんげきょうをいうのである。そして「ぐ」というのは、じんりきほんの「ひっきょうじゅういっじょうのもんに、あたるのである。すなわち、「ともに」というのは、まっぽう、こうせんるふのときに、おいて、すべて、ただ、なんみょうほうれんげきょうのいっぽうによって、じょうぶつするのである。
 いま、にちれんだいしょうにんそのもんかのしょさは、すべて、なんみょうほうれんげきょうをちゅうしんとして、いっさいのよぎょうは、まじえないということである。またおおせられるには、じっかいの、しんらばんしょうのげんごというものは、いっぺんのだいもく、なんみょうほうれんげきょうを、こんていとしているのである。したがって、われわれのだいもくというものは、だいうちゅうに、へんまんし、かんのうしていくのである。

 「いちじ」とは、ごぜんいちじとか、ごぜんにじとかいう、いちじではない。ぶっぽうのばあいの、いちじとは、ひゆほんの「いちじぐさ」をさし、ここでは、まっぽうということなのである。まっぽうにおいて、ぜんみんしゅうは、ごほんぶつのしゅつげんをたいぼうし、それにおうじた、にちれんだいしょうにんがしゅつげんされ、なんみょうほうれんげきょうが、るふされるからである。
 「ひっきょうじゅういっじょう」のひっきょうとは、こうせんるふであり、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのきゅうきょくもくひょうである、ぜんみんしゅうきゅうさいであり、えいえんにくずれない、ぶっこくどのしゅつげんである。じゅういっじょうとは、いっさいの、ひとびとが、だいもくをとなえ、みょうほうをこんていとして、こうふくなせいかつを、しきっていくことである。

 じっかいの、ごごんは、いっぺんのだいもくを、ぐさしたり。
 りによって、ろんずるならば、いっさいのひとびとの、はなしている、げんげんくくとうも、ぜんぶみょうほうのしょさから、でてくるものであるという、いみである。なくのも、さわぐのも、わらうのも、こうえんするのも、みな、みょうほうのさようからなっているのである。もし、しんじんにやくせば、ごほんぞんをしんじて、なんみょうほうれんげきょうと、となえることであり、また、しんじんをこんていとした、いっさいのげんげんくくをいみする。

 これあに、かんのうにあらずや。
 もんぐのよんには、「そうとは、しじょくぞうぎゃくして、このときにじゅざいす。しんにぞうぎゃくして、とうひょうおこり、とんよくぞうぎゃくして、きがおこり、ぐちぞうぎゃくして、しつえきおこる。さんさいおこるがゆえに、ぼんのうばいりゅうに、しょけんてんしきなり」とある。これは、とん、じん、ちのさんどくが、せんそうをおこし、さいなんをまねき、でんせんびょうをまんえんさせるとうの、こんぽんであるとしている。じぶんのいちねん、いっしんが、いかにしゃかい、こくどにだいなるえいきょうを、しめしゆくかが、うかがえるおんふみである。
 おなじように、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとしていけば、まさに、「がしどあんのん」のせかいが、きずかれるのである。こうせんるふ、たっせいのあかつきには、いちねんさんぜんのほうりによって、たいふうはすくなく、またあったとしても、ひがいはわずかであることも、とうぜんといえよう。かさいがおこるもおこらないも、せんそうがなくなるもなくならないも、ぜんぶ、なんみょうほうれんげきょうを、こんぽんとした、いちねんをうちゅうにかんのうせしめるか、または、あくしんをもって、うちゅうにかんのうせしめるか、それによって、よのなかのじょうたいが、けっていされることを、よくよく、しらねばならない。

だいろく にじえてんのこと  とうこうできません。

0723    だいなな い、ひゆとくげのこと。

 しかんのごにいわく、ちとはひによるに、このこころ、しるししありと。
 おんぎくでんにいわく、このもんをもって、きょうぞう、えんゆうのさんたいのことを、つたうるなり、そうじて、きょうぞうのひとは、じふじようのかがみのことなり、このかがみとは、いっしんのかがみなり、そうじて、かがみにつけてじゅうじゅうのそうでんこれあり。
 しょせん、かがみののうとくとは、まんぞうをうぶるをほんとせり、みょうほうれんげきょうのごじは、まんぞうをうかべて、いっぽうものこるものこれなし、またいわく、かがみにおいて、ごきょうこれあり、みょうのかがみには、ほうかいのふしぎをうかべ、ほうのかがみには、ほうかいのたいをうかべ、れんのかがみにはほうかいのかをうかべ、げのかがみには、ほうかいのいんをうかべ、きょうのかがみにはまんぽうのげんごをうかべたり。
またいわくみょうのかがみにはけごんをうかべ、ほうのかがみにはあごんをうかべ.れんのかがみにはほうどうをうかべ、げのかがみには、はんにゃをうかべ、きょうのかがみにはほっけをうかぶるなり。
 じゅんぎゃく、しだいしてこころうべきなり、われらしゅじょうの、ごたいごりん、みょうほうれんげきょうと、うかびいでたるあいだ、ほうとうほんをもって、かがみとならうなり、しんぼうのうかびよう、よくよくこれをあんずべし、じふじようのかがみとはなんみょうほうれんげきょう、これなりうんぬん。

かいしゃくこうぎ
 ここは、ひゆほんで、ほとけが、しゃりほつにむかい、「われさきに、しょぶつせそんの、しゅじゅのいんねん、ひゆげんじをもつて、ほうべんして、ほうをときたもうは、みな、あのくたらさんみゃくさんぼだいのためなりと、いわずや、このもろもろのしょせつは、みな、ぼさつをせけんが、ためのゆえなり。
 しかも、しゃりほつ、いままさに、また、ひゆをもって、さらに、このぎをあかすべし。もろもろのちあらんもの、ひゆをもって、げすることをえん」と、のべたところにある。
 てんだいだいしは、まかしかんのだいごに、「ちとは、ひによるに、このこころ、しるししあり…ちとは、ひゆによって、そのしんいを、あきらかにすることをいう」とのべている。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。
 このもんは、きょうぞうえんゆうの、さんたいをつたえるのである。すなわち、まかしかんに、「たとへば、めいきょうのごとし、めいはそくくうにたとへ、ぞうはそくけにたとへ、かがみはそくちゅうにたとふ、あわせずさんせず、ごうさんえんねんなり」と、あるように、きょうぞうをもって、えんゆうのさんたいが、せつめいされているのである。えんゆうのさんたいとは、にぜんで、バラバラにといた、さんたいではなく、ほっけで、くうけちゅうのさんたいは、そうそくして、えんゆうむげであり、ひとつであるととかれた、さんたいである。

 そうじて、きょうぞうのひとは、みずからのかげを、うかべるかがみのことである。
 このかがみとは、いっしんのことである。そうじて、かがみについては、じゅうじゅうのそうでんがある。つまるところ、かがみののうりょく、とくせいというのは、あらゆるものの、すがたをうかべるところにあるのである。みょうほうれんげきょうのごじは、あらゆるもののすがたを、すべてうかべて、ひとつのげんしょうをも、うかべのこすことは、ないのである。
 かがみにはみょう、ほう、れん、げ、きょうのいつつのかがみがあり、みょうのかがみには、ほうかいのふしぎをうかべ、ほうのかがみには、ほうかいのたいをうかべ、れんのかがみには、ほうかいのかをうかべ、げのかがみには、ほうかいのいんをうかべ、きょうのかがみには、ばんほうのげんごを、うかべるのである。
 またみょうのかがみには、けごんをうかべ、ほうのかがみには、あごんをうかべ、れんのかがみには、ほうどうをうかべ、げのかがみには、はんにゃをうかべ、きょうのかがみには、ほっけをうかべるのである。みょうほうれんげきょうは、けごん、あごん、ほうどう、はんにゃのいずれにもとかれず、ほけきょうにきて、はじめてとかれるのである。 これは、せっぽうのじゅんじょにしたがって、そうたいてきにはんじていった、たちばであるが、こんどは、ぎゃくに、ぜったいみょうのたちばから、はちまんほうぞうをはんじていったときに、けごんも、あごんも、ほうどうも、はんにゃも、ことごとく、みょうほうれんげきょうの、いっぽうにおさまるのである。このように、じゅんぎゃくしだいして、はちまんほうぞうを、はんじていかなければならない。
 われらの、しゅじょうのごたいごりん、すなわちこのしんたいが、みょうほうれんげきょうのとうたいであり、このわれわれの、しゅじょうのせいめいを、うつしだすかがみこそ、ほうとうほんにおいて、しゃくそんがこしんにえがいた、そしてだいしょうにんが、そのぎしきをかりて、じじつのうえにあらわされた、ごほんぞんなのである。
 しんじんしたばあい、ほうぼうしたばあい、どういうげんしょうが、あるかということは、このかがみによってわかるのである。
けつろんすれば、じふじようのかがみとは、なんみょうほうれんげきょうの、ごほんぞんとこころえるべきである。

 きょうぞうのひとは、じふじようのかがみのことなり、このかがみとはいっしんのかがみなり。
 じぶんのすがたが、かがみをみて、はじめてわかるとどうように、いっさいのこうどうの、かがみとなるのは、いったいなんであろうか。
 ソクラテスは「なんじ、じしんをしれ」といった。かれは、じぶんのこうどうを、うつしだし、ただしいほうこうにもっていくのは、ほかならぬじぶんじしんであることを、きょうちょうしたのだった。
 また、これらのことは、げんだいのてつがくしゃの、おおくのひとびとがしゅちょうするところでもある。じつぞんしゅぎしゃが、にんげんのしゅたいせいをかいふくしようとし、にんげんそんざいにいだいなかちを、みいだそうとしたのも、けっきょく、じぶんじしんこそ、みずからのはってんと、こうじょうのげんせんであることに、きづいたからである。
 てんだいだいしもまた、いっしんさんかんをとき、かんねんかんほうにより、みずからのこころをみつめ、そこにさとりをひらこうとしたのであった。
 しかしながら、これらのてつがくは、げんざいのわれわれのこうふくをきずく、ちからある、しそうとはなりえないのである。じぶんじしんをみつめることができたとしても、じぶんでじぶんをどうすることができないのが、げんじつではないだろうか。ゆえにソクラテスは、どくはいをあおいで、せいめいをたち、また、じつぞんしゅぎは、いたずらに、にんげんのくのう、ひあいのせかいにとじこもり、ちからあるにんげんけいせいのてつがくとはなりえていない。
 また、てんだいのぶっぽうも、もはやみんしゅうをすくうちからの、なくなっていることは、かんねんかんほうが、いかに、げんじつふそうおうであるかという、いちじじつをもってしても、あきらかなことである。
 じぶんをいかにみつめても、それはたんなる、じこのぶんせきにほかならない。そこには、なんのかちを、しょうずるかといいたい。たとえば、かんきょうにまけ、また、じこのよわさにひきずられている、じぶんをみつめても、さらには、とん、じん、ちのさんどくにしはいされている、じぶんをみつめることが、できたとしても、そこにしんにちからづよき、じこのかくりつがなされなくては、かんきょうをかえ、またかがやかしき、じんせいこうろを、あゆむことは、ふかのうである。

 しからば、ちからづよいじこのかくりつは、いかにして、なしえるのであろうか。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「かんじんとは、わがこしんをかんじて、じゅっほうかいをみる、これをかんじんというなり、たとえば、たにんのろっこんをみるといえども、いまだ、じめんのろっこんを、みざれば、じぐのろっこんをしらず、めいきょうに、むかうのとき、はじめて、じぐのろっこんをみるがごとし。
 たとい、しょきょうのなかに、ところどころに、ろくどうならびに、しせいをのすといえども、ほけきょうならびに、てんだいだいししょじゅつの、まかしかんとうの、めいきょうをみざれば、じぐのじっかい、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんをしらざるなり」(0240-01)と。
 このなかの、「わがこしんをかんじて、じゅっほうかいをみる、これをかんじんというなり」の、もんについて、にちかんしょうにんは、「ふもんのへんと、がんいのへんがあると、のべられている。ふもんのへんから、このもんのいみをとると、てんだいのかんじんとなり、じぶんのこころをよくかんさつして、じぶんのせいめいのなかに、おこるしゅ々じゅのげんしょうを、じっかい、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんと、さとることである。がんいのへんで、ろんずれば、だいしょうにんのかんじんであり、「こしんをかんじて」とは、ごほんぞんをしんずることであり、「じゅっほうかいをみる」とは、なんみょうほうれんげきょうととなえることである。
 また、「めいきょうにむかうとき」の、めいきょうとはふもんのへんからいえば、ほけきょうや、てんだいしょじゅつのまかしかんであり、がんいのへんからいえば、いちねんさんぜんの、ほんぞんなのである。
 すなわち、ごほんぞんをしんじ、しょうだいしていくときに、しぜんとごほんぞんと、わがせいめいが、きょうちみょうごうし、ぶっかいという、いだいなるせいめいりょくが、ゆげんする。ここにつよき、じこがかくりつされるのである。

 とだじょうせいぜんかいちょうは、「じこじしんにいきよ」とさけばれ、つぎのようにもうされている。
 「ここにおいて、じっかいごぐ、いちねんさんぜんをとく、だいぶっぽうをしんずるわれわれは、にちじょうのせいかつのせきにんが、ことごとく、じぶんじしんにあることを、しらなくてはならない。びんぼうして、なやむのも、じぎょうにしっぱいして、くるしむのも、ふうふげんかをして、ひあいをあじわうのも、あるいはひばちにつまずいて、けがをするのも、けっきょく、それは、みな、じぶんじしんのせいかつである。
 すなわち、じこじしんの、せいめいげんしょうのはつろである。かくかんがえるならば、いっさいの、じんせいはじこのせいめいの、へんかである。ゆえに、よりよくへんかして、たえず、こうふくをつかんでいくということが、だいじではないか。
 されば、じこじしんにいきよ・・・や、じこじしんに、いきるいがいにないのだ、ということを、しらねばならない。あるひとが、こうしてくれればよいのだとか、このよのなかがこうであれば、、しあわせだといって、たにんにいき、たいきょうにいきるということは、まちがいではないか。
 しかし、にんげんのちからというものは、よわいものである。じこじしんにいきていると、いかにりきんでみても、たにんにしはいされ、たいきょうに、しはいされやすいものなのである。されば、いかにかんねんてきに、じこじしん、みずからいきていると、りきんでみても、それで、こうふくであるといえないばあいがおおい。そこで、じこじしんのせいめいが、もっともつよく、もっともかがやかしく、もっともこうふくであるためには、じっかいごぐ、いちねんさんぜんのぶっぽうに、いきるいがいにないと、ごじんはしんずるものである。
 これこそ、ななひゃくねんまえに、にちれんだいしょうにんが、だいうちゅうにたいして、こごうされただいてつりである。われらを、ようちなるものとよんで、いちねんさんぜんのたまをさずけて、こうふくきょうがいを、かくとくせしめると、おおせられたのは、このゆえで、そのいちねんさんぜんのたまとは、ごほんぞんであられる。されば、まつだいようちのやからは、このごほんぞんをしんじまいらせて、つよくりっぱに、じこじしんにいきようではないか」。
 いままでのところは、あたえて、じぶんじしんをみつめることが、できたとしてもという、かていのもとでろんじてきた。もしも、うばっていえば、ごほんぞんによらずしては、じぶんじしんをみつめることは、ぜったいにできないのである。
 しんじかんきょうにいわく、『かこのいんをしらんとほっせば、そのげんざいのかをみよ、みらいのかをしらんとほっせば、そのげんざいのいんをみよ』」(0231-04)と。すなわち、げんざいのしゅんかんのなかに、かこのいんのいっさいがふくまれ、またみらいえいごうの、いっさいのかがふくまれているのである。このしゅんかんしゅんかんの、いちねんのせいめいをみきわめていくのは、ごほんぞんに、てらされるいがいには、ぜったいにできえないのである。
 つぎに、かがみとは、またぶっかいである。このかがみのほかのきゅうかい、すなわち「むさぼり」、あるいは「おろか」あるいは、「てんごく」あるいは「たいらか」、あるいは「よろこび」、あるいは「むじょう」、あるいは「じあい」とうの、せいめいかつどうが、うつしだされるのである。しかもにちかんしょうにんが、「みょうらくいわく、『ぶっかいのこころづよきをなづけて、ぶっかいとなし、あくごうじんじゅうなるを、なづけてじごくとなす』うんぬん、すでに、ほけきょうをしんずる、こころづよきあくごうじんじゅうとごうして、じごくかいとなずづくるなり」と、あおせらるるごとく、しんじんごうじょうであることが、ぶっかいなのである。
 そうであるあらば、しんじんこそ、われわれのこうどうのきはんであり、かがみである。ゆえに「いっしんのかがみ」のいっしんとは、しんじんとやくすべきである。すなわち、いっしんとは、しにやくし、じじゅゆうしんのいちねんのしんぽうとなる。これ、じのいちねんさんぜんの、まんだらとやくす。そして、でしにやくして、ごほんぞんを、しんずるこころとやくするのである。
 われわれは、しんじんによって、ぶっちをあらわす。こころをすまし、じこのせいかつをみつめることができる。いかなるぎゃっきょうをも、へんどくいやくし、じんせいをたのしみきっていくことが、できるのである。
 さらに、しゃかいのげんしょう、じだいのちょうりゅうをも、みきわめていけるのである。これ、われわれのしんじんが、いっさいの、かがみであるゆえんである。

 みょうのかがみには、ほうかいのふしぎをうかべ、ほうのかがみには、ほうかいのたいをうかべ、れんのかがみには、ほうかいのかをうかべ、げのかがみには、ほうかいのいんをうかべ、きょうのかがみには、ばんぽうのげんごをうかべたり。
 これは、ひじょうにふかいてつがくである。ごほんぞんが、うちゅうのじっそう、それじたいということにもなり、うちゅうのしゅくずともいえるし、また、ごほんぞんをかがみにし、いっさいの、うちゅうをみていけば、ぜんぶ、みとおしていけるということにもなる。
①  みょうのかがみには、ほうかいのふしぎをうかべ。
 うちゅうしらぎばんしょうの、ふしぎというものは、いまのぶつりがくしゃでも、かがくしゃでも、どうしてもかいめいできないものがあるのである。みょうほうによって、えとくし、かんとくし、りかいするいがいにないものである。
 ソれんのあるかがくしゃが、だいうちゅうのほしを、けんきゅうしながら、あまりのしんぴさにうたれて、「じぶんはキリストのような、かみをしんじたりしない。ただし、そのふしぎな、あまりにもふしぎな、うちゅうをけいせいしている、、ほんしつとといったものを、かみというのだったら、わたしはしんずる」といったことが、しんぶんに、ほうどうされていたが、じつにうちゅうそれじたいというものは、ふかしぎ、そのものである。
②  ほうのかがみには、ほうかいのたいをうかべ。
 うちゅうしらぎばんしょうは、ふしぎであるとどうじに、げんぜんたるじったいなのである。けっしてあいまいなるものではない。あるいは、ぼうばくとしたものではなく、かならず、たいがあるのである。にんげんとかイヌとか、ネコとか、あるいはチョウチョウにしても、ミミズにしても、ほうかいのたいであり、たとげんぜんとくべつすべき、いっていのほうをもってつくられている。また、ふじさんというたい、アルプスというたい、また、ようすこうだ、アマゾンがわだというのも、ほうかいのたいであり、じつにふしぎな、そんざいではなかろうか。
③  れんのかがみには、ほうかいのかをうかべ。
 いちねん、さんびゃくろくじゅうごにちとか、しゅんかしゅうとうとか、またくにによっては、ねつこく、かんこく、しょうこく、たいこく、また、にんげんでも、こくしょくじんしゅだ、こうしょくじんしゅだ、はくしょくじんしゅだというのも、ぜんぶかである。これらは、こくどせけんにやくし、またしゅじょうせけんにやくした、かのすがたである。
④  げのかがみには、ほうかいのいんをうかべ。
 うちゅうのしんらばんしょうは、たえずへんかしている。しかも、それぞれ、それじたいのなかに、へんかして、そうなるべきもともとの、いんをもっているのである。つばきのたねから、さくらのはなはさかない。ひとつぶのたねのなかに、もうすでに、さくらにはならず、さくらに、つばきにには、かならず、つばきになるげんいんを、もっているのである。
⑤  きょうのかがみには、ばんぽうのげんごをうかべたり。
 やれえいごだ、やれにほんごだ、ちゅうごくごだ、ロシアごだというように、げんごというものは、じつにおおいが、まことに、ふしぎなものである。にほんじんは、にほんごをとおして、いしをつうじあい、またちゅうごくじんは、ちゅうごくごでいしを、つうじあうというように、それぞれの、じこくごでかたりあう。しかし、ほんやくさえすれば、ことばのちがう、くにどうし、ひとどうしが、たがいのいしの、こうかんがじゆうにできるのだ。これは、げんごのこんげんも、なんみょうほうれんげきょうであることを、しめすものとおもう。
 こんどは、こじんにあてはめてろんじてみよう。まず、「みょうのかがみは、ほうかいのふしぎをうかべ」とは、じぶんじしんのせいめいというものは、じつにふしぎである。かみがつくったものでも、キリストがつくったものでもない。ぶつりがくでつくったものでもけっしてない。これ、せいめいそれじたいにそなわる、いんがのりほうによるものであり、ずいじいであり、じじゅゆうしんなのである。
 つぎに「ほうのかがみには、ほうかいのたいをうかべ」とは、ひと、みなそれぞれ、そのひとじたいの、たいがあるといういみである。「A」というひとがいたとする。「A」はあるいているとき、すわっているとき、しょくじをしているときもある。かいしゃでしごとをしているときも「A」である。つねに、いっしゅんいっしゅん、へんかした、こうどうをとっている。にもかかわらず、「A」というひとは、あくまでも「A」であって、そのこうどうに、へんかがあるといっても、そては「A」というこうどうのはんちゅうであり、「B」というひとになったり、「C」というひとになったりするものではない。このような「A」というひとのほんしつは「A」という、いっていのほうていしきであり、ほうなのである。
 つぎに「れんのかがみには、ほうかいのかをうかべ」とは、せがひくいとか、なにをたべてもふとらないとか、いくらべんきょうしてもあたまがよくならないとか、びょうじゃくであるとうは、かをうかべているのである。
 「げのかがみには、ほうかいのいんをうかべ」とは、どうしてじぶんは、このようなしゅくめいをもってうまれてきたのだろうか、なぜこのようになやむかといった、げんざいのかほうのげんいんをうかべることである。ごほんぞんにてらされてみれば、さらにかこのいんも、めい々めいはく々はくとうかびでるのである。

 「きょうのかがみには、ばんぽうのげんごをうかべたり」、しんじんあるひとのはつげんは、じつにはっきりしてくる、げんげんくくというものは、そのひとの、いっしんのはつろであり、とん、じん、ちのせいめいに、しはいされたひとのはつげんは、どんなにかざろうと、そこにいやみがある。ゆえに、しんじんなきひとのげんげんくくは、そこにじひもなく、しんねんもなく、つよいせいめいりょくのひびきもかんじない。またごほんぞんをごじしていても、しんじんがスッキリしないと、じぶんのはつげんが、なんとなくかくしんがなく、ひびきがなく、リズムにあわないのである。
 また、じぶんのこうどうも、しんじんしておれば、リズムにがっちし、はつらつとしてくる。ぎゃくにしんじんがとおざかったばあいには、なにをやっても、うまくいかないし、また、なんとなくくうきょとなってゆく。これは、きょうのかがみに、じぶんのいっさいのげんご、こうどうをうかべていることである。

われらしゅじょうの、ごたい、ごりん、みょうほうれんげきょうとうかびいでたるあいだ、ほうとうほんをもって、かがみとならうなり。
 とだじょうせいぜんかいちょうは、このほうとうほんのぎしきについて、かいもくしょうのこうぎに、つぎのようにいわれている。
 「しゃくもんのるつうぶんたる、けんほうとうほんにおいて、たほうとうがこくうにたち、しゃか、たほうのにぶつがほうとうのなかにびょうざし、じっぽうぶんしんの、しょぶつしゃくけ、たほうのだいぼさつ、にじょう、にんでんとうが、これにつらなるいわゆる、こくうえのぎしきがとかれている。これは、はなはだひかがくてきのように、おもわれるがいかん、しかしぶっぽうのおうていより、これをみるならば、きわめてしぜんのぎしきである。
 もしこれをうたがうなら、じょぼんのときに、すでにだいふしぎがある。すうじゅうまんのぼさつや、しょうもんやじっかいのしゅじょうがことごとくあつまって、しゃかぶつのせっぽうをきくようになっているが、そんなことができるかどうか、かくせいきもなければ、また、そんなおおきなこえが、でるわけがない、ましてはちかんもそれがつづけられるわけがない、すなわちこれは、しゃかこしんのしゅじょうであり、しゃかこしんのじっかいであるから、なんじゅうまんあつまったといっても、ふしぎはない、さればほうとうほんのぎしきも、かんじんのうえにてんかいされた、ぎしきなのである。
 われわれのせいめいには、ぶっかいというだいふしぎのせいめいが、みょうぶくしている。このせいめいのちから、および、じょうたいは、そうぞうもおよばなければ、ひつぜつにもつくせない、しかし、これをわれわれのせいめいたいのうえに、ぐげんすることはできる。げんじつに、ほうどうのせいめいそれじたいも、みょうぶくせる、ぶっかいをぐげんできると、ときしめしたのが、このほうとうほんのぎしきである。すなわち、しゃかはほうとうのぎしきをもって、こしんのじっかいごぐ、いちねんさんぜんをあらわしているのである。
 にちれんだいしょうにんは、おなじくほうとうのぎしきをかりて、じゅりょうもんていげしゅのほうもんを、いっぷくのごほんぞんとしてこんりゅうされたのである、されば、ごほんぞんは、しゃぶつのほうとうのぎしきを、かりてこそおれ、だいしょうにんこしんの、じっかいごぐいちねんさんぜん、ほんぶつのごせいめいである、この、ごほんぞんはごほんぶつの、えいえんのせいめいを、ごずけんあそばされたので、まっぽうゆいいつ、むにの、そくしんじょうぶつのごほんぞんで、あらせられる、まっぽうのみんしゅうは、このごほんぞんによってのみ、きゅうさいせられるのである」と。


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  • 御義口伝講義録上 ひゆほんきゅうかのだいじ だい3まで 1/3

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 5月28日(日)10時46分40秒
 
0721~0725 ひゆほんきゅうかのだいじ。

0721    だいいち ひゆほんのこと。
0722    だいに そくきがっしょうのこと。
0722    だいさん しんい、たいねんけとくあんのんのこと。
0723    だいよん とくぶっぽうぶんのこと。
0723    だいご にじえてんのこと。
0723    だいろく いちじぐさのこと。
0723    だいなな いひゆとくげのこと。
0724    だいはち ゆいう、いちもんのこと。
0724    だいきゅう こんし、さんがいとうのこと。

0721~0725 ひゆほんきゅうかのだいじ。
0721    だいいち ひゆほんのこと。

 もんぐのごにいわく、ひとは、ひきょうなり、ゆとは、ぎょうくんなり、だいひ、やまず、ぎょうちむへんなれば、さらにきをうごかして、かぜをおしえ、おうぎをあげて、つきをさとすと。
 おんぎくでんにいわく、だいひとは、ははのこをおもうじひのごとし、いま、にちれんとうのじひなり。
 しょうあんいわく、「かれのために、あくをのぞくは、そく、これかれのおや」と、ぎょうちとは、なんみょうほうれんげきょうなり、しょしゅうむとくどうのりゅうぎなり、ぎょうおなんもんどうのこころなり。
 きょうとは、ざいせについで、めつごのこととこころうべきなり、きをうごかすとは、ぼんのうなり、かぜをおしえるとは、そくぼだいなり、おうぎをあぐとは、しょうじなり、つきをさとすとは、そくねはんなり。
  いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるとき、だいびゃくごしゃにじょうじて、じきしどうじょうするなり、きのごにいわく、「きとおうぎと、かぜとつきとは、ただ、えんきょうの、りなり」と、またいわく、「ほうせつのじっそうは、なんぞかくれ、なんぞあらわれんや、ちょうふうやむこと、なびく、くうげつ、つねにかかれり」と。
 このしゃく、これをおもうべし、おんとは、しなり、けんとは、しょうなり、ちょうふうとは、われらが、いきなり、くうげつとは、しんげつなり、ほっけのしょうじとは、さんぜ、じょうごうにして、おんけんこれなし、われらが、そくふうとは、はくところのげんごなり、これ、なんみょうほうれんげきょうなり。
 いっしんほうかいのかくげつ、じょうじゅうにして、かかれり、これをさして、ただ、えんきょうのりと、しゃくせり、えんとはほうかいなり、きょうとは、さんぜんられつなり、りとはじっそうの、いちりなりうんぬん。

 かいしゃくこうぎ。
 ひゆほんということについて、もんぐのごには、つぎのようにある。ひとは、ひきょう・・・、これをあげて、それとひし、ゆとはぎょうくん・・・、あさきによって、ふかきをおしえるのである。ほとけのだいじひは、やむことなく、たくみなる、ちえはむへんにはたらくのであり、さらに、まようもののために、きをうごかして、かぜというものを、おしえ、おうぎをかかげて、つきというものを、わからせるのであると。
 おんぎくでんには、つぎのように、おおせである。「だいひ」とは、ははおやが、こをおもう、じひ、じあいのねんのごときものであって、いま、にちれんだいしょうにんのじひこそ、いっさいしゅじょうを、あくまで、すくいきっていこうという、だいじひなのである。
 しょうあんだいしが、ねはんきょうじょに、「かれがために、あくをのぞきさることは、すなわち、これ、かれのおや」というように、いっさいしゅじょうの、ふこうのこんげんたる、じゃしゅうじゃぎを、しゃくぶくし、とりのぞく、ばっくよらくの、ふるまいこそ、じひなのである。
 「ぎょうち」とは、さいこうのちえの、ほうもんである、なんみょうほうれんげきょうのことである。しょしゅうによっては、いっさいじょうぶつすることはできないと、だんずるのである。ゆじゅつほんに、ぢゆのぼさつを、さして「ぎょうお、なんもんどう」とあるように、ぎょうちとは、しゃくぶくにはげむ、われわれ、ぢゆのぼさつに、やくするのである。
 「さらに」とは、いちおうは、しゃくそんざいせのちゅう、げのきこんのしゅじょうのために、ひゆをとくのであるが、さいおうは、めつごまっぽうの、しゅじょうのためであると、しるべきである。
 「きをうごかす」とは、ぼんのうをあらわし、それにより、「かぜをおしえる」とは、そくぼだいをあらわす。すなわち、ぼんのうそくぼだいとなる。「おうぎをあげる」とはしょうじをあらわし、それにより、「つきをさとしおしえる」とは、そくねはんをあらわす。しょうじそくねはんとなるからである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるとき、だいびゃくごしゃたる、いっぶつじょうのなんみょうほうれんげきょうにより、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんとてんじ、そくしんじょうぶつすることが、できるのである。
 しかして、みょうらくは「き」のごに、「きと、おうぎと、かぜと、つきとは、いずれもただ、えんきょうのりをあらわしているのである」と、といている。また「ほうせつしゅうにおいて、あかされた、じっそうというのは、どうして、かくれたり、あらわれたりするで、あろうか。まったくそうではない。ちょうふうはやむことなく、つづいているのであり、そらのつきは、つねに、こくうにかかっているのである」と。このしゃくを、よくよくかんがえるべきである。
 このしゃくで、「おん」とは「し」、「けん」とは「しょう」をあらわす。ちょうふうとは、われらのいきであり、くうげつとはこころのつきを、あらわしている。すなわち、ほっけのしょうじ、しんじつのせいめいかんにたってみるならば、せいめいというものは、かこ、げんざい、みらいのさんぜにわたって、じょうじゅうふへんに、そんざいするのであり、おんけんということは、ありえないのである。
 さて、われわれのそくふうとは、はくところの、げんごであり、これすなわち、なんみょうほうれんげきょうのあらわれである。いっしんほうかいの、かくげつはじょうじゅうにして、えいえんに、そんざいしつづけるのである。このせいめいの、ほんねんのすがたを「えんきょうのり」と、みょうらくはしゃくしているのである。「えん」とはほうかいさんぜんを、あらわすのであり、「きょう」とは、さんぜんられつのきびしき、いんがのりほうであり、「り」とは、じっそうのいちりである、なんみょうほうれんげきょうである。

 ひゆほんは、さんしゅうのせっぽうのうち、ゆせっしゅうである。せっぽうしゅうのしょうせつは、ほうべんぽんで、とかれるが、そこでは、ちえだいいっのしゃりほつ、ひとりが、しょほうじっそうのみょうりをえとくしている。すなわち、しゃりほつは、さんじょうをひらいて、いちぶつじょうをあらわすことが、じょうぶつのげんりであると、りょうげしたのである。そして、しゃくそんが、そのしゃりほつの、りょうげをしょうみょうして、かれにこう、こく、みょうごうをとき、みらいじょうぶつのきべつをあたえて、せっぽうしゅうのいっだんがおわる。
 そこで、しゃりほついがいの、みりょうげのしょうもんたちは、さらに、ぼとけにしょうせつをこうたのである。これが、さんしゃかたくのひゆせつ、すなわち、ゆせっしゅうのしょうせつだんとなるのである。この、さんしゃかたくのひゆこそ、さんしゃさんじょうのごんをひらき、いっしゃいちぶつじょう、すなわち、だいびゃくごしゃのじつをあらわしているのである。
 また、このほんには、ゆうめいなじゅうよんのいましめ、じゅうしひぼうのないようが、とかれている。これは「まつのどのごへんじ」に、でているとおりである。
 まず、もんぐのごの、「ひとは、ひきょうなり、ゆとはぎょうくんなり、だいひ、やまずぎょうちむへんなれば、さらにきをうごかして、かぜをおしえ、おうぎをあげて、つきをさとす」とあるのは、つぎの「そうかんもんしょう」のおんふみと、たいひしてみれば、あきらかである。
 「いっさいきょうのごは、むちゅうのごとは、たとえばおうぎときとのごとし、ほけきょうのうつつのこころを、あらわす、ことばとは、たとえばつきとかぜとのごとし、ゆえに、ほんかくのうつつのこころのげつりんのひかりは、むみょうのやみをてらし、じっそうはんにゃのちえのかぜは、もうそうのちりをはらう、ゆえにゆめのごのおうぎときとをもって、うつつのこころのつきとかぜとをしらしむ、これのゆえにゆめのよはをさんじて、うつつのほんしんにきせしむるなり。
 ゆえにしかんにいわく、「つき、じゅうざんにかくるれば、おうぎをあげて、これにるいし、かぜ、だいこに、やみぬれば、きをうごかして、これをおしゆるがごとし」もん。 ぐけつにいわく、「しんじょうしょうのつき、ぼんのうのやまにかくる、ぼんのうひとつにあらず、ゆえになずけて、じゅうとなす、えんいんきょうの、かぜは、けをやめて、じゃくにすき、じゃくりむげなること、なお、だいこのごとし、しえのぐきょうはおうぎときとのごとし、ないし、つきとかぜとを、しらしむるなり、いじょう、むちゅうのぼんのうのくも、ちょうじょうせること、やまのごとく、そのかず、はちまんよんせんのじんろうにて、しんしょう、ほんがくの、げつりんをかくす、おうぎと、きとの、ごとくなる、きょうろんのもんじ、げんごのきょうをもって、つきとかぜとのごとくなる、ほんがくのりを、かくちせしむる、しょうきょうなり、ゆえに、もんとごとは、おうぎときとのごとし」もん。
 じょうしゃくは、いちおうのしゃくとて、じつぎにあらざるなり、つきのごとくなる、みょうほうのしんしょうのげつりんとかぜのごとくなる、わがこころのはんにゃの、えげとをおしえしらしむるを、みょうほうれんげきょうとなずく」(0562-09)と。
 ひゆとは、あくまで、じったいのせつめいである。しこうして、じったいとはなにか、これこそ、なんみょうほうれんげきょうなのである。またひゆとは、あるいみで、われわれのせいかつである。
 そして、じったいとは、ごほんぞんである。われわれのせいかつのいっさいが、ごほんぞんのいだいなくどくをせつめいしているともいえる。「ひとは、ひきょうなり」とは、きのうのせいかつ、いちねんまえのせいかつ、またしんじんするいぜんのせいかつと、こんにちのせいかつと、ぜんぶひきょうとなろう。
 「ゆとはぎょうくんなり」とは、そのせいかつのじっそうそのものが、いだいな、ごほんぞんのちからをおしえさとされて、いることである。

  また、ひゆとは、くどくとばつである。われわれが、ごほんぞんをしんじ、しょうだいし、しゃくぶくぎょうにはげむのは、そくしんじょうぶつのためである。われわれが、さいしょ、しんじんしたどうきは、びんぼう、びょうき、せいしんてきなくるしみ、かていふわとうで、さまざまななやみ、どうきがあったわけである。それが、しんじんにはげんだときに、しだいしだいに、かいけつしていく。これこそ、だいしょうにんが、「ちかきげんしょうをひいて、とおきしんをとるべし」(1054-03)とのおおせのごとく、そくしんじょうぶつは、ぜったいにまちがいないと、かくしんすべきこんきょなのである。
 また、しんじんにはんたいすれば、かならずばつがある。だいしょうにんは「かこげんざいの、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃを、きょうせんする、おうしんばんみん、はじめはことなきやうにて、ついにほろびざるはそうらはず」(1190-)とだんげんなされている。ゆえに、そのばつは、むげんじごくに、おちるということを、いみするものである。それはすなわち、ごほんぞんによるいがいに、こうふくになるみちは、ぜったいにないというしょうこでもある。

だいひとは、ははのこをおもうじひのごとし、いま にちれんとうのじひなり。

 じひとは、あいぞうのごときそうたいてきなものでなく、ぜったいてきなものである。じとはたのしみをあたえ、ひとはくるしみをぬいてあげるぎをいう。キリストきょうでとくあいとは、こんぽんてきにちがいがあり、じたともにえいえんにきゅうさいしきるはたらきがふくまれているのである。
 しかも、じひとは、しゅぎょうによってえられるものではない。ごほんぞんをしんじ、しょうだいしていくときに、しぜんとほとけの、じひのきょうちに、りっきゃくし、わがせいめいのなかに、ほどばしりでるものである。
 ゆえに、じひほどつよいものはない。こうふくをねがってのこころからのげんげんくくは、そのひとのこころを、こんていからゆりうごかさずにおかないであろう。
 いま、われわれは、ごほんぞんを、そく、にちれんだいしょうにんをはいし、ぶつでしとしてじんじんのじひをこうむっているのだ、とかくしんし、かんしゃをわすれてはならない。そして、いまだしょうほうをしらぬひとびとにたいし、このごほんぞんのくどくをおしえてあげることが、わたしたちのじひのこういとなっているのである。はしをつくったり、がっこうにきふしたり、ひとにしんせつにすることは、もちろん、ぜんではあるが、これは、いちじてきなしゃかいのぜんにすぎない。これをしょうぜんというのである。また、これらはほんらい、せいじで、かいけつすべきもんだいでもある。じひはだいぜんである。だいぜんは、こんぽんてきに、しかもえいきゅうに、もっともおおくのひとの、こうふくのためにする、こういである。したがって、われわれの、しゃくぶくかつどうこそ、だいぜんのなかの、ごくだいぜんであることを、つよくつよく、かくしんすべきである。
 げんざい、しゃかいにもっともひつようなことは、このじひということである。にちれんだいしょうにんのだいじひにつつまれながら、だいせいめいてつがくをまなび、せいかつのげんせんとしていくいがいに、しんにあんしんりつめいのじんせいはない。また、しゃかいも、おたがいのじひがなければ、まるでやみのようになり、さんあくどうからぬけることは、えいきゅうにできないでであろう。

 せっぽうのじっそうは、なんぞかくれ、なんぞあらわれんや、ちょうふうやむことなく、くうげつ、つねにかかれり。
 これを、せいめいろんにやくせば、えいえんのせいめいであって、その、ほんぬのうえのしょうであり、しなのである。せっぽうのじっそうとは、せいめいであり、おんはしょうである。「ほっけのしょうじは、さんぜじょうごうにしておんけんこれなし」とは、そうかんもんしょうに「しょうとしと、ふたつのりは、しょうじのゆめのりなり、もうそうなり、てんとうなり、ほんかくのうつつをもって、わがしんしょうをただせば、しょうずべき、はじめもなきがゆえに、しすべき、おわりもなし、すでにしょうじをはなれたる、しんぽうにあらずや、」(0563-07)とのおおせのごとくである。にぜんのしょうじ、すなわちしょうろうびょうしは、こんぜだけをとき、ほっけにとくせいめいろんは、せいめいのじったいは、えいえんであるということである。
 この、「ほっけのしょうじ」ということについて、さらにいえば、おんぎくでんに、「さんがいしそうとは、しょうろうびょうしなり、ほんぬのしょうじとみれば、むうしょうじなり、しょうじなければ、たいしゅつもなし、ただ、しょうじなきにあらざざるなり、しょうじをみて、おんりするをまよいといい、しかくというなり。
 さて、ほんぬのしょうじと、ちけんするをさとるといい、ほんかくというなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるとき、ほんぬのしょうじ、ほんぬのたいしゅつとかいかくするなり」、(0753-だいよん、にょらいにょじつちけん、さんがいしそう、むうしょうじのこと)とあり、おなじく、おんぎくでんに、「じしん、ほっしょうのだいちを、しょうじしょうじと、めぐりいくなり」(0724-だいはち、ゆいういちもんのこと)とあり、ろくどうりんねの、しょうじではなく、えいえんのせいめいかんにりっきゃくし、みょうほうにてらされた、しょうじが、ほっけのしょうじなのである。
 しんじんにやくせば、ほっせつのじっそうとは、ごほんぞんである。ごほんぞんのおちからというものは、かくれたり、あらわれたりするものではない。そうたいてきにいちぶのひとをすくうようなものでもない。ぜんみんしゅうをこんていよりすくいきるものであり、またあるきかんのみ、てきようするげんかいがあるほうでもなく、えいえんにてりかがやいているものである。われわれもまた、このごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうととなえることによって、ごほんぞんときょうちみょうごうし、われらのにくだんのほんぞん、ぶっかいがゆげんし、げんじつのあれくるうしゃかいに、てりかがやき、ししおうのごとく、ゆうゆうたるじんせいを、たのしくいききっていくことができることをいみするのである。
 さいごのぎょうの、「きょうとは、さんぜんられつなり」とは、なんみょうほうれんげきょうは、きびしきいんがのりほうを、とききったものであるということである。さんぜんとは、せいめいかつどうのはんちゅうである。
 せけんほうは、あみのめがいまだおおきい、こくほうでもまた、あみのめがある。つみをおかしたものが、にげとおすばあいがある。しかし、ぶっぽうりつはきびしい、いんがのりほうをとききっているから、あみのめがまったくないのである。
 ひとがみていようが、みていなかろうが、まちがいなく、われわれのじんせいは、げんいんけっかによって、れんぞくしている。おまけもなければ、わりびきもない。とくに、みょうほうのかがみにてらしてみれば、げんいん、けっかがあきらかであるから、だれひとたりとも、このいっしょうをだいじに、ゆういぎにいきねばならぬことを、みをふるわしておもうであろう。
 げんだいは、らんせいで、せつなしゅぎである。まったくただしいじんせいかんをもったひとがすくない。かなしむべきじだいである。しかしせいめいは、げんぜんとえいえんなのである。こんぜのみであるなら、だれがほうをもとめて、しゅぎょうするひつようがあるだろうか。しょせん、みょうほうをかがみとして、じんせいをただしくいききっていくべきである。またみょうほうのかがみにてらして、いっさいのしゃかい、せかいを、あきらかにみていくべきである。したがってわれわれの、しゅかんからすれば、きゃっかんすればせいめいじたいが、ぜんぶいんがのりほうのなかにあって、にげることができないということを、かくじんがかくちすべきである。

0722    だいに そくきがっしょうのこと
 もんぐのごにいわく、げぎをじょするとは、そくきがっしょうは、しんのりょうげとなずく、むかしは、ごんじつふたつとなす、たなごころのあわざるがごとし、いまは、ごんそくじつと、わかる、ふたつのたなごころの、がっするがごとし、こうぶつとは、むかしはごん、ふついんにあらず、じつぶっかにあらず、いま、ごんそくじつとかいして、だいえんいんをじょうず、いんはかならず、かにおもむく、ゆえに、がっしょうこうぶつというと。
 おんぎくでんにいわく、がっしょうとは、ほけきょうのいみょうなり、こうぶつとは、ほけきょうにあいたてまつるというなり。がっしょうはしきほうなり、こうぶつはしんぼうなり、しきしんのにほうを、みょうほうとかいごするを、かんきゆやくととくなり。がっしょうにおいて、また、ふたつのこころ、これあり、がつとは、みょうなり、たなごころとは、ほうなり。
 また、いわく、がつとは、みょうほうれんげきょうなり、たなごころとは、28ほんなり、また、いわく、がっとは、ぶっかいなり、たなごころとは、きゅうかいなり、きゅうかいはごん、ぶっかいはじつなり、みょうらくだいしのいわく、「きゅうかいをごんとなし、ぶっかいをじつとなす」と。
 じっかいことごとく、がっしょうのにじに、おさまつて、しんらさんぜんのしょほうは、がっしょうにあらざることなきなり、そうじて、さんしゅのほっけのがっしょうこれあり、いまの、みょうほうれんげきょうは、さんしゅのほっけみぶんなり、しかりといえども、まず、けんぜつほっけを、しょういとなすなり。
 これによつて、でんぎょうだいしは、おいちぶつじょうとは、こんぽんほっけのおしえなり、○みょうほうのほか、さらにいっくのよきょうなしと、こうぶつとは、いちいちもんもん、みな、こんじきのぶつたいと、むかいたてまつることなり、がっしょうのにじに、ほうかいをつくしたるなり。
 じごく、がきの、おのおののとうたい、そのほか、さんぜんのしょほう、そのまま、がっしょうこうぶつなり、しかるあいだ、ほうかいことごとく、しゃりほつなり、しゃりほつとは、ほけきょうなり、しゃとはくうたい、りとはけたい、ほつとは、ちゅうどうなり、えんゆうさんたいの、みょうほうなり、しゃりほつとはぼんご、これにはしんしという、しんしとは、じっかいのしきしんなり、しんとはじっかいのしきほう、しとはじっかいのしんぼうなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、ことごとくしゃりほつなり。
 しゃりほつは、そくしゃかにょらい、しゃかにょらいはそく、ほけきょう、ほけきょうはそく、われらがしきしんのにほうなり、よって、しんし、このほんのとき、もんしほういんとりょうげせり、もんとは、みょうじそく、ほういんとはしょほうのおとなり、しょほうのおととは、みょうほうなり、ここをもって、もんぐにしゃくするとき、ちょうふうやむことなしと、ちょうふうとはほうかいのおんじょうなり、このおんじょうを、しんげほんに、いぶつどうしょうりょういっさいもんといえり、いっさいとは、ほうかいのしゅじょうのことなり、このおんじょうとは、なんみょうほうれんげきょうなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここは、ひゆほんのさいしょに「そのとき、しゃりほつはゆやくかんきし、すなわちたちてがっしょうし、そんがんをせんぎょうしてほとけにもうしてもうさく、いま、せそんよりこのほういんをきき、こころにゆやくをいだき、みぞうなることをえたり…」とのおんぎくでんである。
 もんぐのごには、つぎのようにしゃくしている。りょうげの、そとにあらわれたふるまいについてのべるならば「そくきがっしょう」はりょうげがしんぎょうにあらわれたものであり、しんのりょうげとなづけるのである。にぜんきょうにおいては、さんじょうといっじょうがかくべつであり、ごんじつかくべつであり、じっかいごぐしていないから、あたかもたなごころがあわないようなものである。いまは、ほうべんぽんにおいて、かいさんけんいちがあかされ、さんじょうそくいっじょう、ごんそくじつであるとりょうげすることができたのであるから、ふたつのたなごころがあわしたようなものである。こうぶつとは、むかしは、ごんである。さんじょうのしゅぎょうは、しんのぶついんではなかったし、じつであるいっじょうもしんのぶっかではなかったのである。いま、ほうべんぽんにおいてかいさんけんいちして、ごんそくじつとりょうげしたときに、はじめてじょうぶつのいんをじょうじ、そのいんはかならずぶっかにおもむくのである。ゆえに「がっしょうしてほとけにむかう」というのである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「がっしょう」とはほけきょうのいみょうである。「こうぶつ」とは、みょうほうれんげきょうにあいたてまつるということである。がっしょうはしきほうのすがたであり、こうぶつとはしんじんであり、しんぽうである。しきしんのにほうをみょうほうれんげきょうであるとかいごするのをひゆほんで、しゃりほつがかんきゆやくしたととくのであり、かんきゆやくとはしきほうしんぽういったいのすがたなのである。
 がっしょうにおいては、またふたつのいみがある。がっとは「みょう」であり、しょうとは「ほう」である。また、がっとは、みょうほうれんげきょうであり、しょうとは、それをひらいたにじゅうはちほんである。また、がっとはぶっかいであり、しょうとはきゅうかいである。きゅうかいはごん、ぶっかいはじつである。みょうらくだいしは「きゅうかいをごんとなし、ぶっかいをじつとなす」といっている。かくして、じっかいはことごとくがっしょうのにじにおさまっており、しんらさんぜんのあらゆるげんしょうは、がっしょうのとうたいでないものはないのである。
 そうじて、さんしゅのほっけのがっしょうということがある。でんぎょうだいしは、いっだいぶっきょうを、おんみつほっけ、こんぽんほっけ、けんぜつほっけのさんしゅるいにわけている。おんみつほっけというのは、ほけきょうをおんみつしてにぜんきょうをといたがゆえに、にぜんきょうをさしておんみつほっけといい、こんぽんほっけとはにじゅうはちほんをさし、けんぜつほっけとはほけきょうぼんもんをさす。
 いまこのみょうほうれんげきょうは、さんしゅのほっけを、べつ々べつにわけていっているのではない。しかしながら、まず、けんぜつほっけをしょういとするのである。それゆえに、でんぎょうだいしは、しゅごしょうに、「おいちぶつじょう」とはこんぽんのおしえである。・・・みょうほうのほかに、さらにいっくのよきょうもない。といっているのである。
 こうぶつとは、みょうほうれんげきょうの、いちいちもんもんが、みなほとけのせいめいである。また、ことごとくほとけの、しんじつのげんげんくくであると、しんげしむかいたてまつることである。われわれのたちばからいえば、ごほんぞんさまは、ほとけのとうたいであると、はいすることが、こうぶつといういみである。がっしょうのにじに、ほうかいのすべてをせっしつくしているのである。したがって、じごく、がき、のおのおののとうたい、そのほかさんぜんの、もろもろのげんしょうは、そのままみょうほうの、とうたいであり、がっしょうこうぶつ、しているのである。それゆえ、ほうかいは、ことごとくがっしょう、こうぶつする、しゃりほつのすがたである。しゃりほつとは、ほけきょうをいみするのである。しゃとはくうたい、りとはけたい、ほつとはちゅうどう、すなわちしゃりほつは、えんゆうさんたいの、みょうほうをあらわしているのである。

 しゃりほつとはぼんごでありしんしとやくする。しんしとはじっかいのしきしんをあらわすのである。しんとはじっかいのしきほう、しとはじっかいのしんぽう、すなわちしんしとはじっかいのしきしんふにのせいめいをあらわしている。いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかとしてなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、ことごとくしゃりほつであり、しゃりほつがほとけにむかいたてまつったごとく、ごほんぞんにむかいたてまつっているすがたである。
 しゃりほつはそくしゃかにょらいであり、しゃかにょらいはそくほけきょうである。ほけきょうはそくわれらのしきしんのにほうである。もんていにやくすれば、しゃりほつとはまっぽうのわれわれであり、われわれとにちれんだいしょうにんはしていふにである。にちれんだいしょうにんとごほんぞんはにんぽういっかである。ごほんぞんをしんずることによって、われわれのしきしんのにほう、われわれのせいめいが、ほとけのせいめいとあらわれるということである。したがって、しゃりほつは、このひゆほんにおいて、「もんしほういん」とりょうげする かいさんけんいちのほうをきいてさとったというのである。じつは、われらしゅじょうのりょうげである。
 もんとは、みょうじそくである。みょうほうれんげきょうの、みょうじをきくがゆえに、みょうじそくという。ほういんとは、しょほうのおとである。しょほうのおととは、みょうほうをいみするのである。ここをもって、もんぐにしゃくするに「ちょうふうそくがっしょう、こうぶつやむことなし」という。ちょうふうとは、ほうかいのおんじょうであり、それは、じょうじゅうにして、やむことがないのである。このおんじょうを、しんげほんにおいては、「ぶつどうのこえをもって、いっさいをきかしむべし」と、といている。いっさいとは、ほうかいのいっさいしゅじょうのことである。このおんじょうとはなんみょうほうれんげきょうである。

 「むかしは、ごんじつ、に、なす、たなごころの、あわざるがごとし」とは、そうたいみょうのたちばであり、げんざいでいえば、いっさいのしゅうきょう、てつがく、しそうが、げんじつのせいかつとゆうりしているともいえる。すなわち、こうふくせいかつかくりつのげんどうりょくでなく、かんねんろんであるということである。
 「いまはごんそくじつとわかる」ことはぜったいみょうのたちばである。じつがたいかい、ごんがかせんにあたるわけである。したがって、なんみょうほうれんげきょうのいちだいひほうをひらいてさんだいひほう、またひらいてろくだいひほう、またひらいてにじゅうはちほん、はちまんほうぞうになるのである。せいかつにやくせば、いっさいほうこれみょうほうであり、ぶっぽうである。しんじんそくせいかつであり、ぶっぽうはたい、せほうはかげなりとりょうげすることをいうのである。

 こうぶつとは、むかしはごん、ぶついんにあらず、じつ、ぶっかにあらず。
 けんめいににぜんきょうをしゅぎょうしても、けっしてほとけになれない。こうふくになろうと、いかなるどりょくをはらっても、ふこうのげんいんをだかいすることはできない。にぜんきょうのしゅぎょうは、たとえば、かおくそれじたいをつくっているのではなく、そのやぐらをつくっているにすぎない。またインドへひこうきでりょこうするとする。もくてきはインドである。しかし、にぜんきょうは、くうこうにいくとちゅうのバスのなかにいるようなものである。すべてもくてきへのしゅぎょうかつどうにすぎない。これにたいし、じょうぶつのもくてきたる、またりろんじょうかんぺきなごくりとなる、いちねんさんぜんをといたのがほうべんぽんである。せっぽうしゅうであるしゃりほつは、このほうべんぽんにきて、はじめてせいめいのほんしつをさとることができたのである。そして、きょうもんじょうではひゆほんにきて、しゃくそんにたいしてがっしょうしたぎしきをふむわけである。
 「しきしんのにほうをみょうほうとかいごするをかんきゆやくととくなり」とは、せいめいてつがくのごくりであり、ちえだいいちのしゃりほつが、さいごにえとくしたのも、このしきしんふにのせいめいてつりいがいのなにものでもない、ということである。うちゅう、せいめいのこんぽんは、こころでもない、しきしん、ふに、なのである。げんざい、しんのちじん、てつじん、がくしゃがいるならば、しゃりほつのごとく、ごほんぞんのまえで、かんきゆやくすることは、とうぜんであろう。

 こうぶつとは、いちいちもんもん、みなこんじきの、ぶつたいとむかいたてまつることなり、がっしょうのにじに、ほうかいをつくしたるなり。
 ここで「こんじきのぶつたい」の、こんじきといういみは、ほけきょうで、とかれている、ひとつひとつのもんが、ことごとく、ほとけのしんじつの、げんげんくくであるということであり、もんじそれじたいが、しきしんふにの、ほとけのせいめいであるともいえる。
 ゆえに、しょしゅうもんどうしょうにいわく、「もんじは、これ、いっさいしゅじょうの、しんぽうのあらわれたるすがたなり、されば、ひとのかけるものをもって、そのひとのこころねをしって、そうすることあり、およそ、しんとしきほうとは、ふにのほうにてあるあいだ、かきたるものをもって、そのひとのひんぷくをも、そうするなり、しかれば、もんじは、これ、いっさいしゅじょうのしきしんふにの、すがたなり」(0380-12)と。
 また、もくえ、にぞうかいげんのことにいわく、「ほけきょうのもんじは、ほとけの、ぼんのんじょうの、ふかけんむたいしきを、かけんうたいしきの、かたちと、あらはしぬれば、けんぎょうのにしきとなれるなり、めっせる、ぼんのんじょう、かへつて、かたちをあらはして、もんじとなつて、しゅじょうをりやくするなり。
 ひとのこえをだすに、ふたつあり、ひとつには、じしんはぞんぜざれども、ひとをたぶらかさむがために、こえをいだす、これはずいたいのこえ、じしんのおもいをこえにあらはすことあり、されば、こころがこえとあらはる、こころはしんぽう、こえはしきほう、こころよりしきをあらはす、また、こえをきいて、こころをしる、しきほうがしんぽうをあらわすなり、しきしんふになるがゆへに、ににと、あらはれて、ほとけのぎょいあらはれて、ほっけのもんじとなれり、もんじへんじて、また、ほとけのぎょいとなる、さればほけきょうを、よませたまはむひとは、もんじとおぼしめすことなかれ、すなわちほとけのぎょいなり、」(0468-13)と。
 ごほんぞんは、たんなるもんじでもなければ、かみでもない。まっぽうのごほんぶつ、にちれんだいしょうにんのおいのちそのものである。ゆえに、きょうおうどのごへんじにいわく、「にちれんがたましひを、すみにそめながして、かきてそうろうぞ、しんじさせたまへ、ほとけのみこころは、ほけきょうなり、にちれんが、たましひは、なんみょうほうれんげきょうに、すぎたるはなし」(1124-)と。「にちれんがたましひ」とは、にちれんだいしょうにんの、おいのちということである。ゆえに、われわれは、このごほんぞんによって、だいしょうにんのせいめいを、わが、にくだんのきょうちゅうにゆげんし、こんごうふえの、ぜったいのこうふくきょうがいを、ひらいていくことができるのである。
 しかしながら、しんじんのないものは、ごほんぞんをかるくかんがえるのである。ごほんぞんは、ほとけのせいめいそのものであるなどとは、おもいもよらず、たんに、かみにじがかいてあるぐらいにしか、かんがえないのである。ゆえに、いかにごほんぞんにむかったとしても、それは、がっしょうこうぶつのこうぶつにはならない。
 このことを、そやにゅうどうどのごへんじには、つぎのようにおおせられている。「このきょうのもんじは、みな、ことごとく、しょうしんみょうかくの、みほとけなり、しかれどもわれらは、にくげんなれば、もんじとみるなり、れいせば、がきはごうがを、ひとみる、ひとはみずとみる、てんにんは、かんろとみる、みずは、ひとつなれども、かほうにしたがつて、べつべつなり、このきょうのもんじは、もうげんのものは、これをみず、にくげんのものは、もんじとみる、にじょうは、こくうとみる、ぼさつはむりょうの、ほうもんとみる、ほとけは、いちいちのもんじを、こんじきの、しゃくそんと、ごらんあるべきなり、そくじぶつしんとは、これなり」(1025-01)と。
 だからといって、ごほんぞんにむかって、しょうだいしたときに、ごほんぞんが、だいしょうにんのおすがたとしてみえたなどというのは、おおきなあやまりである。そのようなことは、ぜったいにありえないことである。われわれは、ごほんぞんのそのままのすがたを、はいすればよいのである。ただごほんぞんのぜったいのくどくを、かくしんし、しょうだいし、だいかんきをしょうじていくことが「いちいちもんもん、みな、こんじきのぶつたいとむかいたてまつることなり」にあたるのである。

 じごく、がきの、おのおののとうたい、そのほか、さんぜんのしょほう、そのまま、がっしょうこうぶつなり。
 これを、われわれのせいかつに、やくしていえば、いっさいしゅじょうことごとくが、みょうほうれんげきょうのとうたいであるがゆえに、しんじんしていないひとであっても、ぜんぶ、がっしょうこうぶつしている。すなわち、なむみょうほうれんげきょうを、もとめているすがたといえよう。
 しゃくぶくされ、はんたいしていても、そのひとのこころのうごきは、ほんねんてきに、くらやみのむしが、でんとうをもとめるように、みずがたかきよりひくきにながれるように、みょうほうをもとめているものなのである。もうはんたいしながらも、しだいに、しんこうしなくてはならないじょうたいに、なってくるものだ。これこそあきらかにこうぶつのすがたなのである。
 それは、われわれのたいけんが、なによりもよく、じっしょうしているではないか。また、うじょうのみではなく、ひじょうもおなじく、みょうほうのとうたいである。そうもくにも、またじっかいがごぐしているのである。このことについては、なんしんなんげであるのに、そうもくじょうぶつぐけつとうの、ごしょをよくよくはいすべきで、いっぷくのまんだら、すなわち、もったいなくも、ごほんぞんのおちからも、ひじょうのぶっかいである。
 また、われわれがしんで、いしになり、そうもくになることも、ごしょにてらしてあきらかなことである。また、かみのけ、つめはひじょうである。これもまたひじょうとうじょうとのあいだには、ぜったいてきくべつがあるのではなく、がいめんてきなものであり、ともにじっかいごぐのとうたいであることは、あきらかである。ゆえに、ひじょうもまた、がっしょうこうぶつしているとかんがえられるのである。たとえていえば、そうもくは、たいようをもとめる、かげにさきせいちょうするより、なんとかたいようをもとめ、のびのびとせいちょうしようとしている、ほんしょうがあるものだ。そうもくのしゅくめいにより、そのぶんぷは、おのずからちがうのもふしぎなことといえよう。
 しかし、いきぬくためには、ぜんりょくをあげて、みずとひかりをもとめぬいて、ねをはり、はなをさかせようとする。これらのはたらきのほんげんをたずねれば、やはりだいうちゅうのリズムにかなっていきようとするすがたであり、がっしょうこうぶつなのである。

 つぎに、しゃりほつをくう、け、ちゅうのさんたいにたてわけ、またそのかんごやくの「しんし」を、しきしんのにほうでみていくということ、しゃくそんの、じゅうだいでしのひとりである、しゃりほつとのかんけいをかんがえてみよう。たしかに、しゃりほつというなのひとは、じつざいしていたにちがいない。じつに、あたまがよく、ちえだいいっといわれるぐらい、しゃくそんのせっぽうを、よくりかいしたひとといわれている。しかし、ほけきょうは、ばんにんにつうずる、ほうていしきをしめしたものである。したがって、しゃりほつというひとを、とおして、ばんにんがこうふくになる、げんりをといているわけなのである。そうなれば、しゃりほつは、もはやこじんとしての、しゃりほつではない。
 いっさいしゅじょうをだいひょうしての、しゃりほつとなってくる。 しゃりほつは、ほけきょうのせっぽうをきき、みょうほうれんげきょうをしんじゅし、みずからも、えんゆうのさんたい、すなわち、みょうほうのとうたいであるとかくちし、また、しきしんを、みょうほうとひらいたのであった。ゆえに、ほけきょうにおける、しゃりほつは、えんゆうのさんたいのみょうほうそのものであり、しきしんをみょうほうと、ひらいた、かくたいである。したがって、しゃりほつをくう、け、ちゅうのさんたいにやくし、また、しんしを、しきしんとやくするものである。
 しかも、ふしぎとしゃりほつというなも、しんしというなも、さんたい、しきしんのいみをもっているということは、しゃりほつのしゅつげんは、ぐうぜんではなく、ぶつえんがふかいものともいえるし、おおきなしめいをゆうしてうまれてきたといえようか。

 しゃりほつが、ほけきょうのせっぽうをきいて、いったいなにをさとったのか、それはあとにもせつめいするが、じのいちねんさんぜんの、なんみょうほうれんげきょうをさとって、じょうぶつしたのである。このみょうほうに、がっしょうすることが、きょうちみょうごうであり、しんのがっしょうになるのである。ゆえにしゃりほつにせよ、ぼんぐのわれらにせよ、じのいちねんさんぜんのとうたいにむかって、しょうだいするとき、くうけちゅうのさんたい、ほっぽうおうのさんじんを、かくちすることになるのである。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるものは、ことごとくしゃりほつなり、しゃりほつは、そくしゃかにょらい、しゃかにょらいは、そく、ほけきょう、ほけきょうは、そくわれらがしきしんのにほうなり、よって、しんし、このほんのとき、もんしほうおんとりょうげせり、もんとは、みょうじそくほうおんとは、しょほうのおんなり、しょほうのおんとはみょうほうなり。
 ここに、しゃりほつとは、まっぽうのわれらしゅじょうであり、しゃかにょらいとは、にんほんぞんたる、にちれんだいしょうにんであり、ほけきょうとは、ほうほんぞんである、ほけきょうである。すなわち、まっぽうのわれらしゅじょうは、にんぽういっかの、ごほんぞんをしんずることによって、だいしょうにんと、われわれはしていふにとなり、わがみも、みょうほうのとうたいと、あらわれるのである。「もんしほうおん」の「もん」がみょうじそくということは、しんじゅのいみである、たんに「きく」といったいみではない。しんがなければ、いかに、きいても、しんにきいたことにはならない。ゆえににちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうに、「まさにしるべし、よくきくとは、これしんじゅのぎなり、もし、しんじゅせずんば、なんぞよくきくといわんや」とおおせられている。
 しゃりほつも、けっきょく、しんずることによって、じょうぶつしたのである。しかも、それはもんじょうのほけきょうではなく、もんていげしゅ、じぎょうのいちねんさんぜんの、なんみょうほうれんげきょうをしんじて、みょうかくのごくいにいたったのである。
 このことは、とうりゅうぎょうじしょうにつぎのごとくのべられている。
 「とう、こんにち、ざいせとくだつのしゅじょうは、さんごげしゅのやからなり、なんぞ、くおんがんじょのげしゅとうというや、こたう、さんごげしゅというとは、しばらくこれ、とうけだいいっだいにのきょうそうのこころなり、もし、だいさんのきょうそう、あらわれおわれば、ざいせのしゅじょうは、みなことごとく、くおんがんじょげしゅのひとなり、しばらくしんしのごときろくおんの、だんなくは、ただこれ、とうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくにあらず、これすなわち、しゅしをしらざるゆえなり、しかるに、ほっけにらいしして、だいつうのしゅしをかくちす、これすなわち、かせつのだんなくなり。
 しかりといえども、もしほんもんにのぞむれば、なお、これ、とうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくにあらず、いまだ、くおんげしゅを、りょうせざるのゆえなり、しかるのち、ほんもんにいたって、くおんのげしゅを、あらわす、これすなわち、かせつのだんなくなり、しかりといえども、もし、もんていにのぞむれば、なお、これとうぶんのだんなくにして、かせつのだんなくに、あらざるなり。
 もし、もんていのまなこをひらいて、かえって、かのとくどうをみれば、じつに、くおんげしゅのくらいにかえって、みょうじみょうかくのごくいにいたる、これすなわち、しんじつのかせつのだんなくなり、ゆえに、きょうにいわく、『いしんとくにゅう』とううんぬん。
 いしん、あに、みょうじにあらずや、とくにゅうは、すなわち、これみょうかくなり、また、いわく『がとうとうしんじゅぶつご』うんぬん、しゅうそ、しゃくしていわく、『このむささんしんは、いっじをもってえたり、いわゆるしんのいちじなり』うんぬん、しんはそく、えのいん、みょうじそくなり、むささんしん、あに、みょうかくにあらずや、しんし、すでにしかり、いっさいみな、しからん』うんぬん、とうりゅうじんぴ、さんじゅうひでんうんぬん」。
 しんげほんの「ぶつどうのこえをもって、いっさいをきかしむべし」のもんはいっさいしゅじょうのことである。
 いっさいしゅじょうに、じっかいのせいめいがある。じごく、がき、ちくしょう、しゅら、にん、てん、えんかく、ぼさつ、ほとけのじっかいであり、それぞれ、ぶっしょうをそなえている。このぶっかいを、ゆげんせしめるちからが、みょうほうなのである。そして、そのおんじょうとは、なんみょうほうれんげきょうなのである。それをずけんしたのがごほんぞんである。
 ごほんぞんとは、くどくじゅ、または、りんえんぐそくともいう。ちょうどここに、123のすうじがあって、このすうじは、うちゅうにくおんより、じつざいするほうりである。これを、こくばんまたは、ちょうめんにずけんして、われわれのせいかつと、かんけいをむすぶ、あたかもそのように、うちゅうのほんげんりきたる、なんみょうほうれんげきょうを、だいしょうにんは、ごほんぞんとして、ずけんあそばされたのである。


P0722    だいさん しんいたいねんけとくあんのんのこと。

  もんぐのごにいわく、じゅうぶつは、これ、しんのきをけっするなり、もんぽうはこれ、くちのきをけっするなり、だんしょぎくいとは、これいのきをけっすと。P0723
 おんぎくでんにいわく、しんいたいねんとは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんなり、しんとは、しょうじそくねはんなり、いとはぼんのうそくぼだいなり。
 じゅうぶつとは、にちれんにしたがう、たぐいとうのことなり、くちのきとはなんみょうほうれんげきょうなり、いのきとは、むみょうのわくしょうなきゆえなり、ここをもってこれをおもうに、このもんはいっしんさんかん、いちねんさんぜん、われらが、そくしんじょうぶつなり。ほうべんのおしえは、たいねんにあらず、あんのんにあらざるなり、ぎょうおけんきょうたるなんゆえのおしえなり。

かいしゃくこうぎ。
 ここでは、ひゆほんでしゃりほつが、「せそん、われむかしよりこのかた、ひねもすよもすがら、つねにみずからこくしゃくしき。しかるにいま、ほとけにしたがいたてまつり、いまだきかざるところの、みぞうのぽうをきいて、もろもろのぎかいをだんじ、しんいたいねんとして、こころよくあんのんなることをえたり」と、よろこんでいるぶぶんである。
 もんぐのごには、つぎのようにしゃくしている。じゅうぶつとは「しん」のよろこびをけつじょうする。もんぽうは「くち」のきをけつじょうする。だんしょぎかいとは、「こころ」のきをけつじょうすると。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「しんいたいねん」とは、みょうほうにより、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんときいて、こうふくきょうがいにじゅうすることである。「しんい」をわけて「しん」のたいねんとは、しょうじそくねはんである。「こころ」のたいねんとは、ぼんのうそくぼだいである。「じゅうぶつ」しんのきをけっするので、それは、にちれんだいしょうにんにずいじゅんするもんかのことである。くちのきとは、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることである。こころのきとは、ふこうのこんげんの、むみょうわくのさわりをのぞくがゆえである。
 ここをもってかんがえてみるのに、このもんは、いっしんさんかん、いちねんさんぜんのりほう、われらが、そくしんじょうぶつのほうもんなのである。ほうべんごんきょうのおしえは、あんたいでもなく、あんのんでもないのである。ほうべんのおしえは、けんきょうをいく、けんきょうにるなんおおきがゆえに、ついにぶつどうをなすることは、できないのである、われわれは、しんじんし、しんいたいねん、けとくあんらくに、ならなくてはならない。それがしんじんのもくてきである。

 じゅうぶつはこれみのよろこびをけっするなり。
 いま、われわれは、だいしょうにんのおおせどおりに、しゃくぶくぎょうにまいしんしている。そしてまた、けぎのこうせんるふに、まいしんしている。それにはんし、せけんのひと々びとのなかには、いっしょうをむなしくすごすひとのなんとおおいことか。せつなしゅぎにながされ、あるいはじこのりやくをついきゅうすることのみにぼっとうしているすがたは、まさにちくしょうかい、がきかいそのものではないか。しんにいきがいのあるじんせい、それは、みずからのいっしょうじょうぶつをめざし、しゃかいのはんえいのために、みをなげうってすすむことにつきる。
 われわれは、うけがたきじんしんをうけ、しかも、だいじょううえんの、にほんこくにたんじょうし、あいがたき、だいぶつぽうにめぐりあえ、しかもときをえて、けぎのこうせんるふ、たっせいのじだいに、いきるとは、なんたるふくうん、なんたるよろこびであろうか。
 せんじしょうにいわく、「どうしんあらんひとびとは、これをみ、ききて、よろこばせたまえ、しょうぞう、にせんねんのだいおうよりも、こうせいを、をもはんひとびとは、まっぽうのいまの、たみにてこそあるべけれ、これをしんぜざらんや、かの、てんだいのざすよりも、なんみょうほうれんげきょうととなうる、らいにんとはなるべし」(0260-09)と。このおんふみを、そのままじっせんできるのは、われわれをおいて、ほかにあろうか。われわれは、よろこびに、みのふるえるすがたで、なくてはならない。
 そしてまた、「もろもろのぎかいをだんずる」、 なにがただしいせいめいかんなのか、ただしいじんせいのありかたなのか、さいこうぜんなのか、こうしたなやみや、ぎもんはなんみょうほうれんげきょうによって、ぜんぶかいけつできる。しゅくめいてんかんできる。これは「ぜん」のよろこびではないか。
 われわれは、しんじんするいぜんは、かっこたるもくてきかんもなく、もんもんとして、たのしまざるひびがおおかった。しんこうなきじんせいは、まさに、やみよのごとくである。そして、なんとかしんじつをつかもうと、あんちゅうもさくしていたのである。
 しかも、いったいなにがえられるというのだろう。おおくのひとは、ざせつし、げんじつとだきょうし、じりゅうにげいごうし、そのなかにうきくさのごとく、はかなきじんせいをおくり、いっぽう、じこにちゅうじつに、いきようとすれば、ますます、げんじつとじこのきぼうとの、むじゅんにうちひしがれ、おきばのないじこを、みいだすほかあるまい。そして、これまた、げんじつのまえに、くっぷくせざるをえないのである。

かのゆうめいな、たいしょうきのさっか、あくたがわりゅうのすけは、しんけいすいじゃくのすえ、じさつし、きたむらとうこくもまた、「じんせいにあいわたるとは、なんのいいぞ」とじんせいにはんもんし、ついには、とうしんじさつした。さらにまた、いちこうのしゅうさい、ふじむらみさおも「じんせいとはなにか、いわくふかかい」とのことばをのこし、わかきいのちをたった。なお、せんごのこんらんきにあって、たすうのせいねんを、そのじょうねつてきな、ぶんしょうでわかした、だざいおさむも、たまがわじょうすいにみをなげ、よのひとびとに、おおきな、はもんをなげかけた。
 かの、ロシアのぶんごう、トルストイは、ふじんとのあいだがうまくいかず、「アンナ、カレニーナ」、「せんそうとへいわ」などの、たいさくをみずからひていし、しゅっけしたのち、いっかんそんでのたれじにしたことは、まことにあわれであった。
 また、かのフランスのぶんごう、モーパッサンもくるいじにし、ドイツのてつがくしゃニーチェもきょうらんのすえ、ひごうのしをとげている。
 いずれにせよ、こころのおくそこにある、さまざまなぎねんは、ついにはれずはんもんし、またはんもんしたさいごのけっかが、これであったとおもう。しんのてつがく、さいこうの、しそうにとうたつ、できぬじんせいが、いかにみじめなものかを、ゆうべんにものがたっている。
 もしも、かれらが、にちれんだいせいてつのだいせいめいてつがくをしったならば、「みずからもとめていたものは、これなり」と、つよきつよきかくしんをもち、きょうちゅうには、あらたなる、きぼうと、ゆうきが、わきおこったにちがいあるまい。
 つぎに、「しんいたいねん」をわけると、しんのとたいねん、いのとたいねんにわかれる。しんのとたいねんは、しょうじそくねはんであり、いのとたいねんは、ぼんのうそくぼだいである。しょうじは、ここでは「くるしみ」とやくす。すなわち、「しょうじのくかい」というばあいの、しょうじである。ぼんのうが、こころのもんだいがちゅうしんであるのにたいし、しょうじとは、せいかつのうえにあらわれた、くるしみをいう。
 たとえば、「しょうばいがふしんでこまった」というのは、しょうじである。それを、ごほんぞんをもち、ふくうんをつみ、ちえをはたらかして、あらなみをゆうゆうとのりきり、うちかち、せいこうすれば、ねはんである。
 また、がくせいがいっしょうけんめいにべんきょうして、なんとかしけんにパスしようとおもい、どりょくしているのは、しょうじである。しかし、それによってパスできたとすれば、ねはんである。それにたいし、ぼんのうは、こころのもんだいであり、ないめんてきなさまざまななやみである。また、とん、じん、ち、まん、ぎとうのせいめいのにごりである。
 そのぼんのうを、だいもくのちからによって、しゅくめいてんかんし、ぼだいにかえきっていく、すなわち、ぼんのうのくさりにしばられないで、ぼんのうをちえによって、つかいきっていく、これが、ぼんのうそくぼだいである。ぼんのうそくぼだいも、しょうじそくねはんも、ともにおなじげんりであり、そこに、ぜったいてきなくべつがあるわけではない。またひょうりいったいのかんけいともいえる。しかし、いちおう、ぼんのうとしょうじのあいだには、すこしニュアンスのちがいがある。
 まず、ここでしめされているように、ぼんのうは、どちらかといえば、こころのもんだいであり、しょうじとは、せいかつにあらわれたじょうたいにおいていわれる。
 ごひゃく、でしほんに「しんしんへんかんき」とあり、それにたいする、だいしょうにんのおんぎくでんにも、「しんはしょうじそくねはんなり、しんとはぼんのうそくぼだいなり」とあるがごとくである。
 つぎに、ぼんのうは、いっさいのくるしみの、げんいんとされ、ぼんのうのないようである、とん、じん、ちとうにしはいされたせいかつ、すなわち、ぼんのうのけっかとしての、せいかつが、しょうじであるというように、いんがのかんけいとして、とらえることもできる。また、ぼんのうは、あるいちじてんにおいて、なやみ、はんもんするという、よこのかんけいであるのにたいし、しょうじは、せいめいのるてんのうえにおいて、ろんぜられる、ぼんのうのせいかつであり、たてのかんけいにあるといえる。
 ゆえに、ぼんのうそくぼだいは、じっかいかいじょうをといた、ほけきょうしゃくもんのこころであり、しょうじそくねはんは、えいえんのせいめいを、ときあかしたほんもんのこころである。

 じゅうぶつとは、にちれんにしたがう、たぐいとうのことなり。
 にちれんだいしょうにんこそ、まっぽうのいっさいしゅじょうにとって、しゅであり、しであり、おやであるところの、ごほんぶつであるという、ごせんげんとはいすることができる。しかもこのおんふみによれば、だいしょうにんをごほんぶつとあおぐ、われらこそ、じゅうぶつであり、たとえ、だいしょうにんをあがむとも、「にちれんだいぼさつ」などと、よぶことは、じゅうぶつではけっしてなく、これこそ、ほとけにそむくぶつてきである。
 「にちれんにしたがう」とは、にちれんだいしょうにんのおおせどおり、すんぶんのくるいもなくじっせんすることである。
 にちれんだいしょうにんは、みでしの、そやにゅうどうどのが、かんじんのほんぞんしょうの、「いっほんにはんよりのほかは、しょうじょうきょう、じゃきょう、みとくどうきょう、ふぞうきょうとなずく」(0249-06)とのもんをきょっかいし。
 「しゃくもんふどく」のけんかいをたてたときに、しぼさつぞうりゅうしょうにおいて、それをきびしくいましめられ、つぎのようにいわれている。
 「わたくしならざるほうもんを、びゃくあんせんひとは、ひとえに、てんまはじゅんのそのみにいりかわりて、ひとをして、じしんともに、むげんだいじょうに、おつべきにてそうろう、つたなし、つたなし、このほうもんは、ねんらい、きへんにもうしふくめたるように、ひとびとにも、ひろうあるべきものなり、そうじて、にちれんがでしといつて、ほけきょうを、しゅぎょうせんひとびとは、にちれんがごとくにしそうらへ」(0989-09)また、しゅじゅおんふるまいごしょには、「にちれんをもちいぬるとも、あしくうやまはば、くにほろぶべし」(0919-16)とも、おおせられている。
 このようにみて、げんざい、にちれんだいしょうにんのおおせのごとく、いかなるこんなんをも、ものともせずすすんでいるのが、そうかがっかいなのである。まさにわれわれこそ、じゅうぶつではないか。そうであれば、しんいたいねん、けとくあんらくの、しんじつのこうふくきょうがいをるうとは、ぜったいであると、かくしんすべきである。
 つぎに、むりょうぎきょうの、「けんきょうたるなんこ」(けんきょうをいくにるなんおおきがゆえに)との、もんであるが、これは、にぜんきょうでは、るなんがおおいということである。すなわち、るなんおおきじんせいのなかを、さまよいいくしかないのである。
 すなわち、てんじょうかいであっても、ごすいをうけるし、どんなにいましあわせであっても、にほんのくにがせんそうで、たこくからしんぴつされたらどうするのか。
 としをとったならば、あるいはしんだばあいどうするのかとうとう、かんがえてみれば、まことに、るなんおおきじんせいである。
 それにたいし、われわれは、なんみょうほうれんげきょうととなえることによって、へんどくいやくができ、しゅくめいてんかんができ、ばっそくりやくにかえていけるのである。これほどの、さちはないではないか。これをかくしんしたときに、そのひとは、しんいたいねん、けとくあんのんのひとといえるのである。すなわち、がしどあんのんなのである。それをかくしんするか、しないかが、じんせいのいっさいの、こうふこうの、けっていせんになる。まことにしんじんのきゅうきょくはそれしかないのである。

  • [230]
  • おんぎくでん ほうべんぽんはちかのだいじ 3 から8まで

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 5月23日(火)01時17分8秒
 
  0716    だいさん ゆいいいちだいじいんねんのこと

 もんぐのよんにいわく、いちは、すなわち、いちじっそうなり、ごにあらず、さんにあらず、ななにあらず、きゅうにあらずゆえに、いちというなり、そのしょう、こうはくにして、ごさんななきゅうより、ひろし、ゆえになずけて、だいとなす、しょぶつしゅっせのぎしきなり、ゆえになずけてじとなす。
 しゅじょうに、このき、つてあ、ほとけをかんず、ゆえに、なずけて、いんとなす、ほとけ、きをうけて、しかも、おうず、ゆえになずけて、えんとなす、これを、しゅっせのほんいとなす。
 おんぎくでんにいわく、いちとは、ほけきょうなり、だいとはけごんなり、じとはちゅうかんのさんまいなり、ほっけいぜんにも、さんたいあれども、くだけたるたまは、たからに、あらざるが、ごとしうんぬん、また、いわく、いちとはみょうなり、だいとは、ほうなり、じとはれんなり、いんとは、げなり、えんとはきょうなりうんぬん。
 また、いわく、われらが、こうべはみょうなり、のどはほうなり、むねはれんなり、はらはげなり、あしはきょうなり、このごしゃくのみ、みょうほうれんげきょうのごじなり、このだいじを、しゃかにょらい、しじゅうよねんのあいだ、おんみつしたもうなり、こんきょうのとき、ときいだしたもう、このだいじを、とかんがために、ほとけはしゅっせしたもう、われらがいっしんの、みょうほうごじなりと、かいぶつちけんするとき、そくしんじょうぶつするなり。
 かいとは、しんじんのいみょうなり、しんじんをもって、みょうほうをとなえたてまつらば、やがて、かいぶつちけんするなり、しかるあいだ、しんじんをひらくとき、なんみょうほうれんげきょうとしめすを、しぶつちけんというなり、しめすときに、りょうぜんじょうどの、じゅうしょとさとり、そくしんじょうぶつとさとるを、ごぶつちけんというなり、さとるとうたい、じきしどうじょうなるを、にゅうぶつちけんというなり、しかるあいだ、しんじんの、かいぶつちけんをもって、しょういとせり。
 にゅうぶつちけんのにゅうのじは、しゃくもんのこころは、じっそうのりないにきにゅうするを、にゅうというなり、ほんもんのこころは、りそくほんかくとはいるなり、いま、にちれんらのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるほどのものは、ほうとうにはいるなりうんぬん。P717
 またいわく、かいぶつちけんの、ほとけとは、きゅうかいしょぐのぶっかいなり、ちけんとは、みょうほうのにじ、しかんのにじ、じゃくしょうのにとく、しょうじのにほうなり、しきしんいんがなり、しょせんちけんとは、みょうほうなり、きゅうかいしょぐの、ぶっしんを、ほけきょうのちけんにて、ひらくことなり、ここをもって、これをおもうに、ほとけとは、きゅうかいのしゅじょうのことなり、このかいかく、あらわれて、こんじんよりぶっしんにいたるまで、たもつやいなやと、しめすところが、みょうほうをしめす、しぶつちけんというなり。
 していかんのうして、うけとるとき、にょがとうむいと、さとるを、ごぶつちけんというなり、さとるつてみれば、ほうかいさんぜんの、おのおののとうたい、ほけきょうなり、このないしょうにはいるを、にゅうぶつちけんというなり、ひすべしうんぬん。
 またいわく、しぶつちけんとは、はちそうなりかいとは、しょうのそうなり、にゅうとはしのそうなり、ちゅうかんのじごはろくそうなり、げてんたくたいとうは、しぶつちけんなり、しゅっけごうま、じょうどうてんぽうりんとうは、ごぶつちけんなり、 ごんきょうのこころは、しょうじをおんりする、きょうなるがゆえに、しぶつちけんにあらざるなり、こんきょうのとき、しょうじのにぽうは、いっしんのみょうゆう、うむのにどうは、ほんかくのしんとくとかいかくするを、しぶつちけんというなり、 しぶつちけんをもって、さんぜのしょぶつは、いちだいじとおぼしめし、よにしゅつげんしたもうなり、このかいぶつちけんの、ほけきょうを、ほうねんは、しゃへいかくほうといい、こうぼうだいしは、だいさんのれつ、けろんのぽうと、ののしれり。
 ごぶつどうどうのしたを、きるものにあらずや、じかくだいし、ちしょうとうは、あくしにつるぎをあたえて、わがおやのこうべを、きらするものに、あらずやうんぬん。
 またいわく、いっとはちゅうたい、だいとはくうたい、じとはけたいなり、このえんゆうのさんたいは、なにものぞ、いわゆる、なんみょうほうれんげきょうこれなり、このごじ、にちれんしゅっせのほんかいなり、これをなずけて、じとなす、にほんこくのいっさいしゅじょうのなかに、にちれんが、でしだんなとなるひとは、しゅじょううし、きかんぶつこ、みょういいんのひとなり。
 それがために、ほけきょうのごくりを、ひろめたるは、しょうきにおうこ、みょういえんにあらずや、
 いんはげしゅなり、えんはさんごのしゅくえんに、きするなり、じのいちねんさんぜんは、にちれんがみにあたりてのだいじなり、いちとはいちねん、だいとはさんぜんなり、このさんぜんときたるは、じのいんねんなり、じとはしゅじょうせけん、いんとはごおんせけん、えんとはこくどせけんなり、こくどせけんのえんとは、なんえんぶだいは、みょうほうれんげきょうを、ひろむべきほんえんのくになり、きょうにいわく、「えんぶだいない、こうりょうるふ、しふだんぜつ」これなりうんぬん。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34ー1
かいしゃくこうぎ
 *、ほうべんぽんだいにには、ほとけのしゅっせのほんかいについて、つぎのようにのべられている。
 「このほうはしりょうふんべつのよくするげところにあらず。ただしょぶつのみゆうして、ないしよくこれをしるしめせり、ゆえんはいかん。しょぶつせそんは、ゆいいちだいじのいんねんをもつてのゆえに、よにしゅつげんしたまう。しゃりほつ、いかなるをかしょぶつせそんは、ゆいいちだいじのいんねんをもってのゆえに、よにしゅつげんしたもうとなづくる。しょぶつせそんは、しゅじょうをしてぶつちけんをひらかしめ、せいじょうなるをえせしめんとほっするがゆえによにしゅつげんしたもう。
 しゅじょうにぶつちけんをしめさんとほっするがゆえに、よにしゅつげんしたもう。しゅじょうをして、ぶつちけんをさとらしめんとほっするがゆえに、よにしゅつげんしたもう。しゅじょうをして、ぶつちけんのみちにはいらしめんとほっするがゆえに、よにしゅつげんしたもう。しゃりほつ、これをしょぶつはゆいいちだいじのいんねんをもってのゆえに、よにしゅつげんしたもうとなづく」と。
 この「ゆいいいちだいじいんねん」のきょうもんをについて、もんぐのよんではつぎのようにいっている。いちだいじいんねんの「いち」とはごとかさんとかななとかきゅうとかいうすうじをそうたいしていういちではない。いっさいのこんぽんといった、ぜったいてきないみでのいちでいちじっそうをいみする。
 また、さんじょうでもなく、ごじょうでもなく、ななほうべんでもなく、きゅうほうかいでもない。あらゆるものをそうかつしていちというのである。すなわち、ここにゆういちとは、みょうほうれんげきょうをさすのであり、そのみょうほうれんげきょうというものはしんらばんしょうことごとくにわたっており、ごじょう、さんじょう、ななほうべん、きゅうほうかいよりもひろい、ゆえに「だい」というのである。
 このみょうほうれんげきょうをとくぎしきがしょぶつしゅっせのぎしきであり、これはじそうであり、ゆえに、これを「じ」となづけるのである。ほとけがよにしゅつげんするには、しゅじょうにほとけをかつぼうするきこんがなければならない。すなわち、ほとけをかつぼうするしゅじょうのきが「いん」となり、ほとけはこれにおうじてしゅつげんするのである。これを「えん」というのである。このいちだいじいんねんこそ、ほとけのしゅっせのほんい、ほんかいである。
 このもんについて、おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「いち」とはちゅうどうじっそうをといたほけきょうであり、「だい」とはくうたいをといたけごんきょうであり、「じ」とはけたいをといたあごん、かたとう、ねはんとう、ちゅうかんのさんまいなのである。これはいちだいのさんたいである。ほけきょうにおいてこのさんたいがえんゆうそうそくしてとかれているのであるが、ほけきょういぜんのきょう々きょうでは、ばらばらにとかれており。「きゃくりゃくのさんたい」である。あたかも、くだけたたまはたからとしてもちいられないように、しんじつこうふくへのおしえとしてもちいられることはできないのである。
 まただいしょうにんがおおせられるには、いちとはみょうであり、だいとはほうであり、じとはれんであり、いんとはげであり、えんとはきょうである。すなわちいちだいじいんねんとはみょうほうれんげきょうのことである。
 また、だいしょうにんのおおせには、われわれのこうべはみょうであり、のどはほうであり、むねはれんであり、はらはげであり、あしはきょうである。すなわち、われわれの、しんたいじたいが、みょうほうれんげきょうの、とうたいなのである。
 この、だいじをしゃかにょらいは、しじゅうよねんのあいだ、おんみつして、とかなかったのである。ほけきょうにきて、はじめてといたのである。また、このだいじをとくために、ほとけはしゅつげんしたのである。われわれのいっしんが、みょうほうれんげきょうのごじであると、かいぶつちけんするとき、そくしんじょうぶつするのである。
 「かいぶつちけん」の、「かい」とは、「しんじん」のいみょうである。しんじんをもって、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるならば、そのまま、かいぶつちけんするのである。そしてしんじんをひらくとき、にんげんかくめいしたじっそうをしめし、なんみょうほうれんげきょうの、くどくをわがみのうえにけんげんし、ほかにもしめすことが、しぶつちけんなのである。
 みょうほうと、、しめしたときに、こうふくは、ほかのせかいの、どこかにあるのではない。この、げんじつのせかいが、そく、りょうぜんじょうどのじゃっこうどとさとり、わがみが、このままほとけである。そくしんじょうぶつできるのであるとかくしんすることが、ごぶつちけんなのである。そうかくしんしたときに、ひゆほんに、「このほうじょうにじょうじて、ただちに、どうじょうにいたらしむ」とあるように、いかなるなんがあろうと、もうすでに、ぶっかいにてらされた、ゆうゆうたるじんせいこうろと、なっているのである。これを、にゅうぶつちけんと、いうのである。
 ところで、これらの、よんぶつちけんを、いっかんしてつらぬいているものは、しんのいちじであり、またこのように、かい、じ、ご、にゅうと、よっつにたてわけることは、できるけれども、それはぜんぶ、べつのものではなく、ぜんぶ、しんじんのなかに、ふくまれるのであるから、しんじんのかいぶつちけんをもって、しょういとするのである。にゅうぶつちけんの、「にゅう」のじは、しゃくもんのこころでよめば、じっそうのりない、すなわち、ひゃっかいせんにょ、りのいちねんさんぜんの、きょうがいにはいることである。
 ほんもんのこころで、このにゅうのじをよめば、いっさいしゅじょうの、せいめいにじつざいする、ぶっかいがげんじつにぐげんし、りそくほんさとるとはいる、すなわち、わがみが、そくほんさとる、じのいちねんさんぜんの、とうたいとあらわれることが、にゅうなのである。いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかで、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるほどのものは、ほうとうにはいるのである。すなわち、だいごほんぞんの、たいないにはいり、おのれこころのだいごほんぞんを、ゆげんし、だいうちゅうのリズムと、がっちしたかつどうとなるのであると。
 また、だいしょうにんのおおせには、かいぶつちけんとは、きゅうかいしょぐのぶっかいなのである。この、ちけんということは、みょうほうのにじ、しかんのにじ、じゃくしょうのにとく、しょうじのにほうであり、また、しきしんいんがなのである。しょせん、ちけんとはみょうほうのことなのである。
 ゆえに、かいぶつちけんというのは、きゅうかいしょぐのぶっしん、すなわち、しゅじょうにもともとあった、ぶっかいを、ほけきょうのちけん、すなわち、ごほんぞんによって、ひらくことをいうのである。これをもってかんがえるに、ほとけとは、きゅうかいのしゅじょうのことであって、しゅじょうを、はなれてあるものではない。
 このかいかく、すなわち、しゅじょうにもともと、いだいなる、ぶっかいというせいめいが、あるというかいかくが、あらわれて、こんじん、すなわち、きゅうかいのしゅじょうであるところの、われわれが、ごほんぞんをごじし、いっしょうしんじんを、つらぬきとおし、わがみが、ぶっしんであることを、しめしていくことが、しぶつちけんなのである。
 かくして、その、しんりきぎょうりきによって、ごほんぞんときょうちみょうごうし、ぶつりき、ほうりきがあらわれ、ししょうである、にちれんだいしょうにんおよび、ごほんぞんのせいめいが、われわれの、でしのみのなかに、けんげんされ、ほうべんぽんの、「わがごとく、ひとしくして、ことなること、なからしめんと、ほっしき」のもんのごとく、わがみ、ほとけなりとの、だいかくしんにたつことができる。
 これが、ごぶつちけんである。このように、さとってみれば、うちゅうのありとあらゆるものは、すべて、みょうほうれんげきょうのとうたいなのである。このないしょう、すなわちさとりのきょうがいに、はいることが、にゅうぶつちけんなのである。これは、じつにじゅうだいなことであるから、ひすべきである。
 また、だいしょうにんは、つぎのようにもおおせられている。しぶつちけんとは、はちそうのことである。「かい」とは、「しょう」のそうであり、しゅつたいをさし、「にゅう」はにゅうねはんであり「し」のそうである。かいとにゅうのちゅうかんの、「し」と「さとる」は、ろくそうである。すなわち、げてん、たくたいは、しぶつちけんであり、しゅっけ、ごうまじょうどう、てんぽうりんは、ごぶつちけんである。ごんきょうでは、しょうもしも、はなれたねはんのきょうちが、さとりであるととくが、しんじつは、しょうじのなかに、しぶつちけんをさとることはできない。
 ほけきょうにきて、はじめて、しょうじのにほうは、なんみょうほうれんげきょうの、ふしぎなはたらきであり、うむのにどうも、かいかくのしんとく、すなわち、みょうほうれんげきょうと、あらわれるのであると、かいかくすることが、しぶつちけんであると、とかれたのである。しぶつちけんをもって、さんぜのしょぶつは、いちだいじとおもい、よに、しゅつげんしたのである。
 このしゅじょうの、ぶつちけんをひらくところの、さいこうのきょうである、ほけきょうを、ほうねんは、すてよ、とじよ、けさしおけ、なげうてと、ひぼうし、こうぼうだいしは、だいさんのれつ、けろんのぽうであると、あっくをいい、だいほうぼうを、おかしている。
 これこそ、そうしょぶつ、かこぶつ、みらいぶつ、げんざいぶつ、しゃかぶつのごぶつが、ともに、しゅじょうの、ぶつちけんをひらくことを、いちだいじのいんねんとして、ほけきょうをといた、ごふつどうどうの、ぎしきをふみにじるものであり、ごぶつのしたを、きるものではないか。ひえいざんのざすでありながら、しんごんのあくほうをとりいれたじかく、ちしょうとうは、あくしにつるぎをあたえて、じぶんのおやのこうべを、きらせるものではないかと。
 また、だいしょうにんのおおせには、いちとは、ちゅうどうほっしょうで、ちゅうたい、だいとは、せいめいが、だいうちゅうにへんまんしているということで、くうたい、じとは、じじつのそう、こうどうでけたいである。このさんたいが、バラバラでなく、こんぜんいったいとなっているじったい、すなわち、えんゆうのさんたいとはなんであろうか。それはいわゆる、なんみょうほうれんげきょうなのである。この、なんみょうほうれんげきょうのごじ、すなわち、ごほんぞんをあらわすことこそ、にちれんだいしょうにんの、しゅっせのほんかいなのであり、この、じぎょうのいちねんさんぜんのだいまんだらを、なづけて、じというのである。
 にほんこくの、いっさいしゅじょうのなかでも、にちれんだいしょうにんの、でしだんなとなるひとは、もんぐにある、「しゅじょうに、このき、あって、ほとけをかんずゆえに、なけて、いんとなす」ひとである。そのために、ほけきょうのごくりたる、なんみょうほうれんげきょうをひろめる、にちれんだいしょうにんは、まさに、まっぽうのごほんぶつであり、「ほとけきをうけて、しかも、おうずゆえに、なずけてえんとなす」に、あたるではないか。いんとは、くおんがんじょの、げしゅである。えんとは、さんぜんじんでんごう、ごひゃくじんでんごうの、しゅくえんにきするのである。
 ゆえに、しゃかぶっぽうにおいて、さんぜんじんでんごうのげしゅ、ごひゃくじんでんごうのげしゅというが、それはたんなるえんに、すぎないのであって、いっさいしゅじょうは、ことごとく、くおんがんじょのげしゅに、たちかえって、じょうぶつするのである。
 にちれんだいしょうにんは、その、くおんがんじょの、げしゅである、なんみょうほうれんげきょうを、まっぽうにひろめられたのである。これこそ、じのいちねんさんぜんであり、それは、にちれんだいしょうにんの、ごせいめいそのものであり、だいしょうにんのみにあたる、だいじなのである。
 いちとは、いちねんのせいめいであり、それが、さんぜんとあらわれるのである。しんらばんしょうは、ことごとく、さんぜんのはんちゅうにおさまるゆえに、だいとは、さんぜんなのである。またこのさんぜんの、かつどう、げんしょうというものは、ぜんぶ、いんとえんがわごうしているすがたなのである。
 またじとは、じじつのせいめいかつどうであり、しゅじょうせけん、いんとは、それをこうせいする、ごおんせけん、えんとは、いっさいがかんけいするところの、こくどせけんなのである。こくどせけんであるえんとは、なんえんぶだいは、ほけきょうをひろめるべき、もともと、えんのあるこくどである。ゆえに、ほけきょうの、かんぱつほんには、「えんぶだいのうちに、ひろくるふせしめて、だんぜつせざらしめん」とあるのである。
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 *、ここは、ほうべんぽんの、「いちだいじいんねん」のもんを、あらゆるかくどから、とかれているところである。
 まず、いちだいじいんねんとは、ほとけがなにゆえ、しゅつげんしたのかという、いんねんである。
 これすなわち、ほとけのしゅつげんのもくてきは、しゅじょうの、ぶつちけんを、ひらかせるためであり、しゅじょうに、ぶつちけんを、しめすためであり、しゅじょうに、ぶつちけんを、さとらせるためであり、しゅじょうを、ぶつちけんのみちに、はいらしめるためである。このかいじごにゅうが、ほとけのいちだいじいんねんなのである。
 まっぽうのごほんぶつ、にちれんだいしょうにんの、いちだいじいんねんは、ごほんぞんを、こんりゅうせられて、まっぽうまんねんの、いっさいしゅじょうを、すくおうとなされたところに、あらわれる。まっぽうのしゅじょうは、ごほんぞんを、しんじてのみ、ぜったいのこうふくきょうがいを、ひらいていくことができるのである。また、われわれのたちばでいちだいじいんねんとは、ごほんぞんをこんぽんに、みずからのいっしょうじょうぶつをめざし、こうせんるふに、まいしんしていくことにつきるのである。
 また、いちだいじいんねんを、せいめいろんからろんずれば、おんふみに、いちがちゅうたい、だいがくうたい、じがけたいとあるごとく、いちだいじとは、くうけちゅうの、さんたいのことであり、せいめいのほんしつをいう。いんねんとは、せいめいの、うんどうしゆく、ほんしつのげんいん、けっかのかていである。
 たとえば、「A」というひとがいたとする。「A」というしょうぶんは、くうたいであり、すがた、かたちはけたいである。また「A」というひとは、たのいかなるひとでもなく、「A」そのひとである。これはちゅうたいである。「A」というひとのいっしゅんをとらえたとき、くう、け、ちゅうのさんたいが、げんぜんとそなわっている。あるしゅんかんの「A」は、しょくじをしており、あるしゅんかんの「A」は、かいしゃで、しごとをしている。そのじっそうは、くうけちゅうのさんたいで、はあくできるものである。
 しかし、それがどうして、そうなったかといううんどう、へんかの、こんげんてききちょうは、いんがのほうそくである。そうなるべきいんがあり、それがえんに、ふれることによって、かをむすぶ。それがげんざいのじじつとなって、あらわれているのである。すなわち、あるひとつのじじつも、それまでのむりょうのいんとえんとが、むすびあって、きているのである。ゆえにいちだいじいんねんということばで、よこにせいめいのほんしつ、じっそうがとかれ、たてにうんどうし、へんかしている、きちょうである、いんががとかれているのである。
 また、いちだいじいんねんとは、みょうほうれんげきょうのことである。すなわち、おんふみに「いちとは、みょうなりだいとは、ほうなり、じとはれんなり、いんとはげなり、えんとはきょうなり」とあるがごとくである。いちとは、いちじっそうであり、いちじっそうとは、いちねんのせいめいである。
 いったい、せいめいとは、うとおもうべきなのか、むとおもうべきなのか。
 だいしょうにんは、これを、いっしょうじょうぶつしょうにつぎのようにおおせである。「そもそも、みょうとは、なんという、こころぞや、ただ、わがいちねんのこころ、ふしぎなるところを、みょうとはいうなり、ふしぎとは、こころもおよばず、ことばもおよばずと、いうことなり。
 しかれば、すなはち、おこるところの、いちねんのこころを、たずねみれば、ありといはんとすれば、いろもしつもなし、また、なしといはんとすれば、さまざまにこころおこる、ありとおもうべきにあらず、なしとおもうべきにもあらず、うむのふたつのことばも、およばず、うむのふたつのこころも、およばず、うむにあらずして、しかも、うむにへんして、ちゅうどういちじつのみょうたいにして、ふしぎなるを、みょうとは、なずくるなり」(0384-06)と。
 つぎに、「だいとは、ほうなり」ということは、だいとは、しんらばんしょうでり、ほうとは、げんしょうをいみするからである。いかに、せいめいのじったいが、みょうであるからといって、それは、ぼうばくとした、そんざいでは、ぜったいにないのであって、ふしぎであり、しかも、げんぜんたるほうが、みょうほうなのである。
 「じとは、れんなり」とは、れんとは、じつであり、かである。
 げんざい、ぐたいてきな、じじつのすがたとして、あらわれていることをいう。「いんとは、げなり」とは、げがかじつを、むすぶいんだからである。しかしながら、このいんがは、いんがいじの、いんがではなく、いんがくじの、いんがである。それは、れんげは、はなとかじつがどうじに、せいちょうするのであり、いんがくじを、しめすからである。
 「えんとはきょうなり」とは、われわれのせいめいが、じじつのかつどうとして、あらわれるのは、えんがあるからである。ほんねんてきに、おこるというしょうぶんを、もっていたとしても、えんにふれなければ、そのしょうぶんは、あらわれない。ぐたいてきな、じじつのせいめいかつどうは、ことごとく、えんによるのである。
 えんにふれながら、さんぜじょうごうの、せいめいかつどうをつづけていくことが、きょうなのである。
 また、みょうほうれんげきょうのきょうこそが、いっさいしゅじょうのしんちゅうにある、ぶっかいをけんげんさせる、しょえんのきょうであるゆえに「えんとは、きょうなり」とおおせられているのである。さらに、いちだいじいんねんは、じのいちねんさんぜんとも、はいせるし、いちだいじを、さんだいひほうとも、やくせるのである。
 さて、かいじごにゅうのことであるが、これこそ、まことにもって、せいめいのそんげんを、あかしたものである。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「いて、これをみるに、きょうもん、ふんみょうに、じっかいごぐこれをとく、いわゆる、「よくりょうしゅじょう、かいぶつちけん」とううんぬん、てんだい、このきょうもんを、うけていわく、「もししゅじょうに、ほとけのちけんなくんば、なんぞ、かいをろんずるところあらん、まさにしるべし、ほとけのちけん、しゅじょうにうんざいすることを」うんぬん。
 しょうあんだいしのいわく、「しゅじょうに、もし、ほとけのちけんなくくんば、なんぞ、かいごするところあらん、もしひんにょに、くらなくんば、なんぞしめすところ、あらんや」とううんぬん」(0244-14)と。
 ここに、しゅじょうとは、せいめいとどういである。せいめいは、ぶっかいのたまを、つつむほうきである。しこうして、この、ぶっかいのたまを、あらわすためには、しんじんいがいに、ありえないのである。ゆえに、「かいとは、しんじんのいみょうなり、しんじんをもって、みょうほうをとなえたてまつらば、やがて、かいぶつちけんするなり」と、おおせられている、ゆえんである。
 *、つぎに、しんとはじっせんであり、じっせんなきしんこうは、かんねんである。
 ゆえに、しんじんをひらいて、じぎょうけたにわたって、なんみょうほうれんげきょうと、となえるのを、しぶつちけんという。そのとき、わがみが、みょうほうのとうたいなりと、じかくしたときに、いっさいが、だいうちゅうのリズムに、がっちした、せいめいかつどうとなりゆく、これが、にゅうぶつちけんである。
 いかに、せいめいはそんげんといっても、ひんこんにうちひしがれ、びょうきにさいなまれ、あるいはかていふわに、もんもんたるひびをおくり、さらには、まるで、むしけらどうようのあつかいを、うけたり、いきることじたいがくるしく、せいめいりょくが、よわまり、きぼうなき、じんせいをおくったり、まやくかんじゃのような、がきどうのせいかつを、しているひとの、せいめいが、どうしてそんげんと、いえようか。
 またまた、せんそうであえなく、じぶんのみを、ぎせいにするひとの、せいめいが、なんで、そんげんといえようか。
 せいめいのそんげんこそ、いっさいのしゃかい、じんるいにとって、こんぽんのなかのこんぽんであり、だいじのなかの、だいじである。また、みんしゅしゅぎの、さいじゅうようなもんだいでもある。これをほんしつてきに、いちぶのむじゅんもなく、ときあかされたのが、にちれんだいしょうにんの、だいせいめいてつがくなのである。
 このだいてつがくの、じつぜにあるところ、ぶっかいにてらされた、しんのそんげんにじかくした、ちからづよきじんせいを、あゆむことができるのである。ゆえに、みょうほうのこうせんるふいがいに、ぶっこくどのけんせつはなく、しんのみんしゅしゅぎの、たっせいは、ぜったいありえぬと、さけぶゆえんなのである。

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0717    だいよん ごじょくのこと。

 もんぐのよんにいわく、こうじょくは、べつのたいなし、こうはこれ、ちょうじ、せつなは、これ、たんじなり、しゅじょうじょくは、べつのたいなし、けんまんかほうをとる、ぼんのうじょくは、ごどんしをさして、たいとなし、けんじょくは、ごりしをさして、たいとなし、みょうじょくは、れんじしきしんをさして、たいとなす。
 おんぎくでんにいわく、にちれんとうのたぐいは、このごじょくを、はなるるなり、がしどあんのん、なれば、こうじょくにあらず、じっそうむさの、ぶっしんなればしゅじょうじょくにあらず、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんの、みょうしなれば、ぼんのうじょくにあらず、ごひゃくじんでんこうより、むしほんぬのみなれば、みょうじょくにあらざざるなり、しょうじきしゃほうべん、たんせつむじょうどうの、ぎょうじゃなれば、けんじょくにあらざるなり、しょせん、なんみょうほうれんげきょうをきょうとして、おこるところのごじょくなれば、にほんこくの、いっさいしゅじょう、ごじょくのしょういなり。
 されば、もんぐよんにいわく「そうとは、しじょくぞうぎゃくにして、このときに、じゅざいせり、しんにぞうぎゃくにして、とうひょうおこり、とんよくぞうぎゃくにして、きがおこり、ぐちぞうぎゃくにして、しつえきおこり、さんさいおこるがゆえに、ぼんのう、ますます、さかんに、しょけん、うたたさかんなり」、きょうに、にょらいげんざい、ゆたおんしつ、きょうめつどごという、これなり、ほけきょう、ふしんのものを、もって、ごじょくしょうじゅうのものとす、きょうにいわく「いごじょく、あくせ、たんぎょうじゃくしょよく、にょぜとうしゅじょう、じゅうふぐぶつどう」うんぬん、ぶつどうとは、ほけきょうのべつめいなり、てんだいいわく、「ぶつどうとはべっして、こんきょうをさす」と。

かいしゃくこうぎ
 これは、ほうべんぽんの、「しゃりほつ、しょぶつは、ごじょくのあくせに、いでたもう。いわゆる、こうじょく、ぼんのうじょく、しゅじょうじょく、けんじょく、みょうじょくなり、かくのごとし、しゃりほつ、こうのじょくらんのときは、しゅじょう、あかおもくけんどん、しっとにして、もろもろのふぜんこんを、じょうじゅするがゆえに、しょぶつ、ほうべんりきをもって、いちふつじょうに、おいてふんべっして、さんとときたまう」のぶぶんである。
 てんだいだいしは、ほっけもんぐよんに、つぎのようにのべている、まず「こうじょく」とは、なにかひとつのじったいがあるものではない。
 こうとは、たんじをいみするせつなにたいして、ながい、ときの、ながれをいうのである。すなわち、こうじょくとは、じだいのにごりであり、しじょくが、さかんである、じだいをいうのである。「しゅじょうじょく」とは、やはり、とくに、べつのじったいがあるのではない。がけん、まんしんがさかんになることによって、しゅじょうしゃかいのうえに、それにたいする、かほうをうけているじょうたいである。
 「ぼんのうじょく」は、とん、じん、ち、まん、ぎのごどんしに、おいつかわれているじょうたいであり、「けんじょく」とは、ごりしによっておこるところの、ぼんのうへんけんである。またみょうじょくは、しきしんをれんじ、すなわちしきしんのれんぞくのうえに、にごりがあり、せいめいりょくを、そんもうしているところのものである。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。いま、さんだいひほうの、なんみょうほうれんげきょうを、しんじゅする、にちれんだいしょうにん、および、そのもんかは、このごじょくを、はなれているのである。
 ごじょくのなかにありながら、それをのりこえた、きよらかな、きょうがい、せいかつを、けんげんせしめているのである。
 そのりゆうは、つぎのとおりである。すなわちじゅりょうほんに、「わがこのどは、あんのんなり」とあるように、じょうじゃっこうのこくどせけんに、じゅうしているのである。ゆえに、われわれは、こうじょくという、じだいのにごりのなかで、ゆう々ゆうとたのしみきった、せいかつこうどうをしていくのである。またわれわれは、じっそうむささんじんの、にょらいとあらわれるのであり、ほんかくのにょらいである、わがみには、しゅじょうのにごりは、ないことは、とうぜんである。ゆえに、しゅじょうじょくを、はなれているのである。
 みょうほうは、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんの、てつりをといたおしえである。ゆえに、みょうほうを、ごじするものには、ぼんのうじょくはないのである。
 また、われわれのせいめいは、くおんがんじょいらい、むしむしゅうに、えいえんに、さんじんじょうじゅうするのである。したがって、せいめいのうえに、つづくところの、にごり、みょうじょくを、こんぽんてきに、はなれているのである。また、にぜん、ごんきょう、もんじょうのほうべんの、おしえをすて、ただひたすらに、なんみょうほうれんげきょうというさいこうのてつがく、しゅうきょうをしんじ、じつぜにする、われわれは、ただしいしそう、ただしいじんせいかん、しゃかいかん、せかいかんをかくりつしているのであるから、けんじょくではないのである。
 せんずるところは、これらすべての、ごじょくは、なんみょうほうれんげきょうを、しんずるかいなかにより、そのうむが、さだまるものであるから、ふしんのしゅじょうである、にほんこくのいっさいしゅじょうこそ、このごじょくのもんに、あたるひとびとなのである。
 したがって、もんぐのよんには、「こうじょくのそうというのは、しじょくがきわめてはげしく、あるじだいに、あつまっていることなのである。しんにが、はげしくなれば、そのこくどに、せんそうがおき、とんよくが、さかんなときは、ききんがおき、ぐちがおおいときには、でんせんびょうがおきる。かようにしてさんさいがおこってくると、ひとびとの、ぼんのうは、ますますさかんになり、もろもろのじゃあくなしそうや、しゅうきょうがはびこることに、なるのである」といっている。
 ほけきょうほっしほんに、「にょらいのげんざいにすら、なおおんしつを、うけるのであるから、いわんやめつど、とくに、まっぽうにおいては、なんがさらに、はげしいのはとうぜんである」ととかれているのは、このような、ごじょくのじだいを、さしているのである。
 ほけきょう、すなわち、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうを、しんぜざるものこそ、ごじょくのさわり、おもく、ふこうのきょうがいに、しずむ、しゅじょうであるというべきである。このような、しゅじょうのすがたを、ほうべんぽんには、「ごじょくの、あくせのときには、ただいろいろの、よくぼうをねがい、それに、しゅうちゃくするしゅじょうが、じゅうまんするのであり、これらの、しゅじょうはついに、ぶつどうをもとめることがない」とといている。この「ぶつどう」とは、ほけきょうさんだいひほうの、ごほんぞんのべつめいである。てんだいだいしは「ぶつどうというものは、ほとけのさまざまな、おしえのうちで、べっしては、こんきょうをさしている」とのべている。いま、にちれんだいしょうにんの、ぶっぽうのうえからは、ぶっぽうとは、ほけきょう、すなわち、さんだいひほうのなんみょうほうれんげきょうと、いうのである。

 まことに、このおんふみこそ、げんこんの、せそうをうつしだしているものであり、どうじに、ごほんぞんをしんじゅした、われわれが、このしゃかいを、じょうかしていくいがいに、ないことをしめされたものといえよう。
 まず、こうじょくとは、じだいのにごりである。たしかに、じだいによって、こんらんした、にごりきったじだいもあったし、ひかくてき、へいわなじだいでもあった。じだいのにごりといっても、じったいというものは、ないのであるが、たの、しじょくがはげしく、さかんであり、そのにごりが、ながくつづいているばあい、こうじょくというのである。こうとはちょうじといういみであるが、これはそうたいてきなものである。したがって、あるいちねんかんならいちねんかんのみだれをこうじょくととってもよいし、ごねん、じゅうねんをこうじょくとかんがえてもよいし、またひゃくねん、にひゃくねんをこうじょくとしてもよいのである。
 あの、だいにじせかいたいせんのじだいは、まさに、こうじょくそのものであった。このじだいは、かこの、あくむともいうべき、ちなまぐさい、さつりく、こうはいしたこくど、どごうとひめいとに、みちたしゅらばを、めのまえにてんかいしたのである。しかし、げんざいもまた、けっして、こうじょくをはなれたとはいえない。かくせんそうのきき、しかも、だれがのぞむのでもなく、だれのいしにもよらないで、おこる、ぐうはつせんそうの、ききとうにさらされる、つめたいたいりつも、かならずしも、かんわされたわけではない。
 ベトナムのふんそうや、ちゅうロろんそうや、せいおうれっきょうのふくざつな、ないぶじじょうによって、たいりつのようそうは、じょじょに、かわってきているが、それは、たいりつそのものの、へんこうをいみするものとは、いえない。くにとくにが、たがい、あいてのすきをうかがい、こしたんたんと、めをひからせ、ひつようによっては、てをむすんだり、あるいは、てきたいするなど、りがいによる、だきょうとてきたいいがいの、なにものでもない。これこそ、こうじょくのじだいではないか。
 つぎに、しゅじょうじょくであるが、これもやはり、しゃかいぜんたいのにごりであり、べつに、ほんたいがあるわけではない。しかし、げんざいのしゃかいをみたときに、にほんのせいじを、かんがえただけでも、いかににごりきっているかが、わかるのである。あくとくせいじかたちは、きせいのけんいにしがみつき、しりしよくにあけくれている。ふはいは、まんせいてきになり、せいじかとは、やしんかとか、はらげいのうまいひとの、だいめいしのごとく、おもわれている。こうしたせいじかを、うむのもけっきょく、みんしゅうのむきりょく、むち、そしてながいものには、まかれろしきの、ほうけんせいがげんいんしているのである。このようなしゃかいぜんたいのにごりが、しゅじょうじょくである。
 いじょうのふたつのにごりは、あくまでも、ぜんたいとしてのにごりであり、そうごうてきにかんがえたうえでのにごりである。つぎにあげる、ぼんのうじょく、けんじょく、みょうじょくは、こんどは、いずれもこじんこじんについていえるものである。
 ぼんのうじょくは、ごどんし、すなわち、とん、じん、ち、まん、ぎという、むしろほんのうてきな、まよいである。じぶんのりやくばかりを、むさぼるようにもとめて、たにんをかえりみないのは、「とん」である。じたいをれいせいにはんだんできず、すぐにかんじょうにはしり、せいかつをはかいするのは、「じん」である。めさきのことのみに、とらわれて、じぶんのいっしょうを、だいなしにするのは、「ち」である。しょうしょうのことを、はなにかけ、ただしいものを、うけいれようとしないのは「ぎ」である。いずれにしても、まっぽうの、われらしゅじょうのすがたに、まったく、ぴったりとあてはまるではないか。たまには、じぶんはなんとりこてきで、おこりっぽく、ばかで、いばっていて、うたがいぶかいかと、はんせいするときもあろうが、そのじぶんを、どうしようもないのが、げんじつではなかろうか。
 つぎにけんじょくとは、しそうのにごりである。ごりしとは、ごどんしが、せいめいそれじたいに、そなわった、いわば、だれにでもできる、ほんのうてきな、にごりであるのにたいし、さいちあるじゃけん、ぼんのうで、えいりてきなものと、されている。ごりしについては、しんけんといい、へんけんといい、けんしゅけんといい、かいきんしゅけんといい、じゃけんといい、まったく、げんだいの、いわゆる、えせ、ちしきじんにあてはまるではないか。とくに、ぶっぽうのなんたるかも、しらずして、そうかがっかいをひなんし、ちゅうしょうするひょうろんかこそ、ぐにんのなかの、ぐにんであることを、ばくろしているようなものである。
 つぎに、みょうじょくとは、せいめいそれじたいのにごりである。せんじょうの、にぽうのなかには、せんぽうである。すなわち、ぼんのうじょくや、けんじょくがげんいんで、せいめいそれじたいがにごり、せいめいりょくがよわまり、いよくがなくなっていくことを、いうのである。

 とだじょうせい、ぜんかいちょうは、このことについて、つぎのようにのべられている。
 「われわれの、せいめいには、せんじょうのにぽうが、そんざいする。きよらかなせいめいは、げかいのいっさいを、すなおにうけて、うちゅうのだいリズムにちょうわして、せいめいがるてんするから、けっして、むりはない。このせいめいこそ、いだいなせいめいりょくを、はっきするがゆえに、じんせいをたのしむことができるのである。
 ところが、せいめいの、せんぽうともうすのは、せいめいが、いくたのるてんの、とじょうに、みな、あやまった、せいかつが、せいめいにそまって、ひとつのクセをもつことになる。そのクセをつくるもとが、よくばり、いかり、バカ、しっととうのもので、これによって、しゅじゅにそめられた、せいめいは、うちゅうのリズムと、ちょうわしなくなって、せいめいりょくを、しぼめていくのである。このしぼんだせいめいは、うちゅうのしゅじゅの、じたいにたいおうできなくて、いきることじたいが、くるしくなるので、すなわち、ふこうなげんしょうを、しょうずるのである」と。
 このように、せいめいのれんぞくのうえに、にごりがあり、せいめいりょくが、よわまるのがみょうじょくである。たしかに、われわれは、しんこうするまえは、なんとくのうに、みちみちたじんせいをあゆんできたことか。また、げんざい、しんじんしていないひとびとは、みずからのしゅくめいになき、いきるよろこびを、うしなっているのである。どんなに、じぶんをこちょうしようとしても、りっぱそうにしても、しんにいきがいあるじんせいは、おくれないのである。
 いじょうが、ごじょくのせつめいであるが、にちれんだいしょうにんは、「にちれんとうのたぐいは、このごじょくをはなるるなり」とおおせれているのである。げんざい、ごじょくあくせのよであるとしても、われわれ、ごほんぞんをもったものは、このごじょくにそまらないのである。どんなじだいがこようとも、どこへいこうとも、それにさゆうされることなく、かんきょうをかえ、このしゃばせかいを、おもうがままに、らんぶするのは、じだいのにごりに、そまらないといえるのである。
 さらに、ごほんぞんをもつびとが、いっこくにおおくなり、やがて、けぎのこうせんるふのときがやってくるならば、そのくには、いかに、せかいがどうらんのちまたにあっても、それに、うごかされることなく、むしろ、せかいのしどう、こっかとして、どうらんをしずめ、へいわなせかいをもたらすことに、いだいなこうけんをするようになるのである。
 ちいさくは、こじんのみのまわりから、おおきくは、せかいぜんたいにいたるまで、じょうじゃっこうのせかいをじつげんさせるのは、われわれしかないことを、めいきすべきである。これこそ、「がしどあんのん、なればこうじょくにあらず」とおおせられたことにあるのである。ゆえに、りっしょうあんこくろんには「なんじ、はやくしんこうのすんしんをあらためて、すみやかに、じつじょうのいちぜんに、きせよ、しかれば、すなわち、さんがいはみなぶっこくなり、ぶっこくそれんおとろえや、じっぽうは、ことごとくほうどなり、ほうどなんぞこわれんや、くにに、すいびなく、どにはえなくんば みは、これあんぜん、こころは、これぜんじょうならん」(0032-14)とおおせられているのである。
 また、ひとりひとりが、にんげんかくめいすれば、しゃかいぜんたいは、かっきにみち、おたがいにそんちょうし、しんらいしあい、せいじも、けいざいも、きょういくもはってんし、しんにうるおいのある、ゆたかな、ぶんかしゃかいが、けんせつされていくのである。
 これが、「じっそうむさの、ぶっしんなれば、しゅじょうじょくにあらず」ということである。じじつ、そうかがっかいという、いちだいわごうそうだんは、なんと、きよらかなせかいであろうか。がくせいも、きんろうせいねんも、おいもわかきも、おとこもおんなも、ひとつのもくてきにむかって、だんけつし、おたがいが、それぞれのぶんやで、じこのしめいと、せきにんとをもって、すすんでいるのである。
 よくせけんのひとは、そうかがっかいの、だんけつのすがたをみて、めいれいてきであるとか、もうもくてきであるとかいうが、これは、おおいなるあやまりである。そうかがっかいの、だんけつは、ひとりひとりのじかくと、せきにんかんあっての、だんけつである。いったい、めいれいで、すうひゃくまんせたいいじょうのひとが、うごくであろうか。そんな、ぜんじだいてきな、きゅうしきのほうほうで、ひとびとがうごくとかんがえることじたいが、きせいのちしきに、しばりつけられ、それに、もうもくてきにしたがっている、ぐにんのすがたではなかろうか。また「ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんの、みょうしなれば、ぼんのうじょくにあらず」とは、ぼんのうや、くるしみにしはいされ、じぶんでじぶんを、どうしようもなかった、じんせいをこくふくし、ぼんのうをつかいきり、くきょうをだかいし、おもうがままに、じんせいをゆうげする、じざいのきょうがいをひらき、こうふくじんせいを、あゆんでいくことを、いうのである。このときは、だいしょうにんが、「なんみょうほうれんげきょうは、かんきのなかのだいかんきなり」(0788-ごひゃくほん)と、おおせられているように、われわれは、しゅんかんしゅんかん、ひび、つきづき、ねんねん、たのしいのである。「ごひゃくじんでんこうより、むしほんぬのみなれば、みょうじょくにあらざるなり」とは、えいえんのせいめいかんに、りっきゃくすることである。じんせいにおける、いっさいのいきづまりは、せいめいはこんぜしかないという、せつなしゅぎからおきてくるのである。
 では、えいえんのせいめいかんに、りっきゃくするとは、いかなることであろうか。かんねんてきに、せいめいはえいえんであると、かんがえたところで、それは、えいえんのせいめいかんに、りっきゃくしたことにはならない。かんがえてみれば、われわれのせいめいには、むしいらいの、むりょうのしゅくめいが、ないざいしているのである。せいめいのるてんのうちに、せいめいりょくはよわまり、ふこうにさいなまれ、くのうのなかに、ぼつにゅうしていたのである。しかしながら、いかなるいんねんがあってか、ごほんぞんにめぐりあえたのである。
 かんじんのほんぞんしょうにいわく、「しゃくそんの、いんぎょうかとくのにほうは、みょうほうれんげきょうのごじに、ぐそくす、われら、このごじをじゅじすれば、じねんに、かのいんがのくどくを、ゆずりあたえたまう」(0246-15)と。たとえ、かこにいかなる、しゅくごうがあろうと、ごほんぞんをもつならば、それらの、しゅくごうはことごとくきえ、かこせに、むりょうのぜんこんをつんできたと、おなじけっかがあらわれる。そして、みらいえいごうに、いきづまらないとの、おおせなのである。これ、えいえんのせいめいかんにりっきゃくし、みょうじょくを、はなれたすがたではないか。
 「しょうじきしゃほうべん、たんせつむじょうどうの、ぎょうじゃなれば、けんじょくにあらざるなり」とは、へんぱな、しそうのもちぬしではないということである。じゅりょうほんには、「にょらいはにょじつに、さんがいのそうをちけんす」とある。まことにぶっぽうこそ、うちゅう、じんせいのじっそうをとききわめた、さいこうのしそうであり、てつがくである。われわれは、そのぜったいに、ただしいこんぽんしそうの、もちぬしであるがゆえに、じんせいかん、うちゅうかん、しゃかいかん、こっかかんとうも、ひらけてくるのである。これけんじょくを、はなれたすがたではないか。
 「しょうじきに、ほうべんをすてて、ただ、むじょうどうをとく」の、むじょうどうとは、さいこうのてつがく、こうふくをもたらす、いだいなしそうということである。だいしょうにんは、おんぎくでんの、しんげほんのこうで、つぎのようにおおせられている。
 「おんぎくでんにいわく、むじょうに、じゅうじゅうのしさいあり、げどうのほうにたいすれば、さんぞうきょうはむじょう、げどうのほうは、うじょうなり、また、さんぞうきょうはうじょう、つうきょうはむじょう、つうきょうはうじょう、べつきょうはむじょう、べつきょうはうじょう、えんきょうはむじょう、また、にぜんのえんは、うじょう、ほっけのえんは、むじょう、また、しゃくもんのえんは、うじょう、ほんもんのえんは、むじょう、また、しゃくもんじゅうさんほんは、うじょう、ほうべんぽんは、むじょう、また、ほんもんじゅうさんほんは、うじょう、いっほんにぱんは、むじょう、また、てんだいだいし、しょぐのしかんは、むじょう、げんもんにぶは、うじょうなり、いま、にちれんらのたぐいのこころは、むじょうとは、なんみょうほうれんげきょう、むじょうのなかの、ごくむじょうなり」(0727-だいご むじょうほうじゅふぐじとくのこと)と。
 われわれは、この、「むじょうのなかのごくむじょう」たる、なんみょうほうれんげきょうをとなえるがゆえに、ぶっちをゆげんし、じねんに、いっさいを、みとおしていけるようになってくるのである。
 つぎに、もんぐのよんの、こうじょくのせつめいのところは、まことにきょうみぶかい。「しんに、ぞうぎゃくにして、とうひょうおこり」とは、せんそうのほんしつをついたものである。せんそうなど、きょうじんでないかぎり、だれひとりとして、のぞんではいなかろう。もしせんそうをのぞむような、にんげんがいるとすれば、それは、にんげんではなくして、にんげんのかめんをかぶった、まものである。
 だれもねがっていないのに、なぜ、かくへいきがせいぞうされ、せかいは、いっしょくそくはつのききにさらされ、また、じゃくしょうこくにはどうらんがたえないのであろうか。ひとびとを、たいりょうぎゃくさつしたり、せんしゃのしたじきにしたり、げんばくとうかによって、おおくのぎせいしゃを、だすなどということは、りせいでは、とうていかんがえられないことである。
 これは、まったくしんに、すなわち、いかりからくるのである。「しゅらは、しんちょう、はちまんよんせんゆじゅん」とあるが、せいめいろんからいえば、いかりのきょうがいを、あらわしたものであろう。ひとは、いかりくるっているときは、すべての、ものが、ちいさくみえてしまうのである。したがって、ひごろ、だいじにしていた、しなものを、いかりのあまり、なげつけて、こわしたり、たにんのいえに、ひをつけたり、あげくのはては、ひとごろしまで、しかねないのである。せんそうのさいの、あの、ざんぎゃくさもどうようである。げきどと、げきどのしょうとつが、せんそうのはなびとなって、あらわれるのである。
 「とんよく、ぞうぎゃくにして、きがおこり」とは、ひとびとが、りこしゅぎで、じぶんのりやくを、ついきゅうすることのみ、あくせくしているならば、たまたまの、てんさいは、みんしゅうに、だいだげきをあたえ、せいじのれつあくは、ひとびとにおおくの、ふそくをもたらすのである。ひとびとは、たにんを、けおとしてまで、じこのほしんのために、やっきとなり、とくに、しどうしゃが、とんよくであれば、みんしゅうはとたんのくるしみを、あじわわなければならない。
 「ぐちぞうぎゃくにして、しつえきおこり」とは、ぐちすなわち、おろかであるために、びょうきがおこるというのである。すべての、びょうきは、ただしい、リズムからはずれたときに、おこる。ぐちもうまいにして、めさきのことのみに、めをうばわれ、へんけん、じゃけんのために、すなおな、こころがおおわれて、せいめいりょくはおとろえ、むきりょくとなり、そこに、えきびょうが、まんえんするのである。
 「さんさいおこるが、ゆえに、ぼんのうますますさかんに、しょけん、うたたさかんなり」とは、こうしたひとびとのせいめいの、にごりがげんいんで、ひょうとう、きが、しつえきの、さんさいがおこるのであるが、このさんさいが、またげんいんとなって、さらに、ぼんのうやじゃけんをますという、あくじゅんかんを、くりかえすのである。

・・・・・・・・・・・・・・36
0718
だいご びくびくに、うえ、じょうぞうじょうまん、うばそく がまん うばいふしんのこと。

 もんぐのよんにいわく、じょうまんとがまんと、ふしんとししゅう、つうじてあり、ただし、しゅっけのにしゅうは、おおくみちをしゅうし、ぜんをえてあやまって、しょうかといい、ひとえにじょうまんをおこす、ざいぞくは、こうこうにして、おおくがまんをおこす、にょにんは、ちあさくして、おおくじゃへきをしょうず、みずからそのかをみずとは、さんしっしんをおおう、きずをかくし、とくをあげて、みずからかえりみること、あたわざるはこれ、むざんのひとなり、もし、みずからかをみれば、これ、うしゅうのそうなり。
 きのよんにいわく、きずをかくすとうとは、さんしつをしゃくするなり、きずをかくし、とくをぐあは、じょうまんをしゃくす、みずから、かえりみること、あたわざるは、がまんをしゃくす、むざんのひととは、ふしんをしゃくす、もし、みずからかをみるは、このさんしつなし、いまだかを、しょうせずといえども、しばらく、うしゅうとなずく。
 おんぎくでんにいわく、これほんまつのしゃくのこころは、ごせんのじょうまんをしゃくするなり、くわしくは、ほんまつをみるべきなり、びく、びくにのににんはしゅっけなり、ともにぞうじょうまんとなずく、きずをかくし、とくをあぐるをもって、ほんとせり、うばそくは、おとこなり、がまんをもってほんとせり。
 うばいはにょにんなり、むざんをもってほんとせり、このししゅうは、いま、にほんこくにさかんなり、きょうには、ごしゆうごせんとあれども、にほんこくに、しじゅうきゅうおくきゅうまんよんせんはっぴゃくにじゅうはちにんとみえたり、ざいせには、ごせんにん、ほとけのざをたてり、いま、まっぽうにては、にほんこくのいっさいしゅじょう、ことごとくにちれんがしょざをたてり。 びく、びくに、ぞうじょうまんとは、どうりゅう、りょうかんとうにあらずや、また、かまくらちゅうのびくにとうに、あらずや、うばそくとは、さいみょうじ、うばいとは、じょうげのにょにんにあらずや、あえて、わがかをしるべからざるなり、いま、にちれんとうのたぐいをひぼうして、あくみょうをたつ、 あに、ふじけん、ごかのものに、あらずや、だいほうぼうのざいにんなり、ほっけのみざをたつこと、うたがいなきものなり。0719
 しかりといえども、にちれんにあうこと、これ、しかしながら、らいぶつにたいのぎなり、この、らいぶつにたいは、きょうせんのぎなり、まったく、しんげのらいたいにあらざるなり、これらのしゅうは、おかいうけつろのものなり。
 もんぐのよんにいわく、「おかいうけつろとは、りつぎとがあるをば、けつとなずけ、じょうぐどう、ぐしつあるをば、ろとなずく」と、このごせんのじょうまんとは、われら、しょぐのごじゅうのぼんのうなり。
 いま、ほけきょうにあいたてまつるとき、まんそくほうかいとひらきて、らいぶつにたいするを、ぶつい、とくここ、というなり、ほとけとは、われら、しょぐのぶっかいなり、いとくとは、なんみょうほうれんげきょうなり、こことは、にこふこのこころなり、ふげんほんの、さらいにこ、これをおもうべきなり、またいわく、ごせんのたいざということ、ほっけのこころは、ふたいざなり、そのゆえは、しょほうじっそう、りゃくかいさんけんいちのかいごなり。

 さて、そのときは、がまんぞうじょうまんとは、まんそくほうかいとひらきて、ほんぬのまんきなり、ごすううごせんとは、われらが、ごじゅうのぼんのうなり、もし、また、ごじゅうのぼんのうなしというは、ほっけのこころをうしないたり、ごじゅうのぼんのうありながら、ほんぬじょうじゅうぞというとき、ごすううごせんととくなり、だんなくにとりあわず、そのまま、ほんぬみょうほうのごじゅうとみれば、ふじけん、ごかと、いうなり。
 さて、おかいうけつろとは、しょうじょうごんきょうの、、たいぢしゅうびょうのかいほうにては、なきなり、ぜみょうじかいのみょうほうなり、ゆえにけつろのとうたいそのまま、ぜみょうじかいのたいなり、しかるに、けつろをそのまま、ほんぬとだんずるゆえに、ごしゃくごけしとは、とくなり。
 もとより、いちじょうのみょうかいなれば、いちじんがんほうかい、いちねんへん、じっぽうするゆえに、ぜしょうちいしゅつと、いうなり、そうこうとは、じんじんほうほう、ほんがくのさんじんなり、ゆえにすくなきふくとくのとうたいも、ほんがくむさのがくていなり、ふかんじゅぜほうとは、りゃくかいの、しょほうじっそうのほったいを、ききて、そのまま、かいごするなり、
 さて、しんしそんじゃ、どんこんのために、ふんべつ、げせつしたまえと、こう、こうかいさんの、ほうもんをば、ふかんじゅぜほうととく、さて、ほっけのじつぎに、かえりてみれば、みょうほうのほったいは、さらに、のうじゅ、しょじゅを、わするるなり、ふしぎのみょうほうなり、ほんぽうのじゅうをさとりて、。みるゆえに、ししゅう、むしようというなり、かかるないしょうは、じゅんいちじっそう、じっそうがいこうむべっぽうなれば、ゆいうしょじょうじつなり、
 しょせん、じょうじつとは、しきしんをみょうほうとひらくことなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるところを、ゆいうしょじょうじつととくなり、しょとは、しょほうじっそうのほとけなり、しょはじっかいなり、じょうじつはじっかいのしきしん、をみょうほうというなり。
 こんきょうにかぎる、ゆえにゆいというなり、ごせんのじょうまんのほか、まったくほけきょうこれなし、ごせんのまんにんとは、われらが、ごだいなり、ごだいそく、みょうほうれんげきょうなり、0720。
 ごせんのじょうまんは、がんぽんのむみょうなり、ゆえに、らいぶつにたいなり、これは、くしき、はちしき、ろくしきと、くだるぶんなり、るてんもんの、だんどうなり、ぶついとく、こことは、げんめつもんなり、しからば、いとくとは、なんみょうほうれんげきょうなり、ほんめい、ほんごのぜんたいなり、よくよくこれをあんずべしうんぬん。

・・・・・・・・・・36-2

こうぎ かいしゃく
 ほうべんぽんにおいて、ほとけが、いよいよこうかいさんけんいちの、せっぽうをはじめようとしたとき、えちゅうにいた、ごせんにんのぞうじょうまんのびく、びくにが、ざをたってさっていく。
 ちょうぎょうには、「このごを、せつきたもうとき、えちゅうにびく、びくに、うばそく、うばい、ごせんにんとうあり、すなわち、ざよりたって、ほとけをらいしてのきぬ。ゆえんはいかん。このやからは、ざいこんじんじゅうに、および、ぞうじょうまんにして、いまだえざるを、えたりといい、いまだしょうせざるを、しょうせりといえり。
 このごとき、とがあり、これをもって、じゅうせず。せそんもくねんとして、せいししたまわず」うんぬんとあり、「びくげ」のぼうとうには、「びく、びくにの、ぞうじょうまんを いだくことある。うばそくの、がまんなる。うばいの、ふしんなる、これのごとき、ししゅうとう、そのかずごせんあり、みずから、そのかをみず、かいにおいて、けつろあって、そのけしを、まもりおしむ、これのしょうちは、すでにいでぬ。しゅうちゅうのそうこうなり、ほとけのいとくのゆえに、さりぬ。
 このひとは、ふくとくすくなくして、このぽうをうくるに、たえず。このしゅうは、しようなし、ただ、もろもろのじょうじつのみあり」うんぬんと、とかれている。ここは、しゅとして、のちのげについての、おんぎくでんである。
 てんだいの、もんぐのしには、つぎのようにといている。ぞうじょうまんと、がまんとふしんとは、ししゅうにつうじて、あるものである。ただし、そのなかで、べっして、しゅっけのにしゅうは、おおく、ぶつどうしゅぎょうをし、ぜんじょうのかをえて、それをあやまって、ぶっかとおもい、ひたすら、ぞうじょうまんをおこすのである。 ざいけは、おごりたかく、がまんのこころをおこす。にょにんは、、ちえあさく、がけんをしょうずることが、おおい。「みずからそのかをみず」とは、じょうまん、がまん、ふしんのさんしつが、こころをおおいかくしていることである。
 そのきずをかくし、しかも、げめんには、とくあるがごときすがたをしめして、みずから、はんせいすることのできないのは、これは、はじをしらないもののことである。もし、このかをみずからみるならば、そのひとは、うしゅうのそうというべきである。

・・・・・・・・・・・・・・・・36-3

 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。この「もんぐ」のかいしゃくは、ごせんのじょうまんについてであり、くわしくは「もんぐ」「き」をみるべきである。びくびくにのにしゅうはしゅっけであり、ともにぞうじょうまんである。きずをかくし、ひょうめんにはとくあるすがたをせんようすることをもってこんぽんとしている。うばそくは、ざいけのおとこであり、がまんをそのほんしつとしている。うばいは、ざいけのにょにんであり、むざんをそのほんしつとしている。
 しかして、このししゅうは、いま、にほんこくにさかんである。きょうには「そのかずごせんあり」とあるけれども、にほんこくの、じょうまんのししゅは、4,994,828にんとかぞえられる。すなわち、しゃかざいせにおいては、ごせんにんが、ほけきょうのえざから、たちさったが、いま、まっぽうにおいては、にほんこくのいっさいしゅじょうが、ことごとく、にちれんだいしょうにんのぐつうにたいして、ひぼうしているのである。
 びく、びくに、ぞうじょうまんとは、けんちょうじのどうりゅうや、ごくらくじのりょうかんとうのごとき、そとに、けんぜんのそうをしめし、うちに、とんしつをいだく、そうりょにもとめずして、ほかにだれがあるか、また、かまくらじゅうの、びくにとうではないか。うばそくとは、さいみょうじにゅうどうときよりとうのことであり、うばいとは、みぶんのじょうげをとわず、いっさいのふしんの、にょにんではないか。これらのひとびとは、おのれの、あやまちをしらないものなのである。
 いま、にちれんだいしょうにんのいちもんを、ひぼうして、にちれんもんかのあくみょうを、ながすものは、きょうもんの「みずから、そのかをみず」のものというべきではないか。まことに、だいほうぼうのじゅうざいにんであり、これらのひとは、ほけきょうのえざ、すなわち、にちれんだいしょうにんのせっぽうのざを、たつことはうたがいないのである。
 しかしながら、にちれんだいしょうにんにあうことは、らいぶつにたいのぎである。このらいぶつにたいは、きょうせんのいみであり、しんげのらいたいではない。これらのしゅを、きょうに「かいにおいて、けつろある」ものといっているのである。
 もんぐのよんには、「かいにおいて、けつろありとは、りちぎかいにとがあることを、けつといい、じょうぐかい、どうぐかいに、とがあることをろという」といっている。
 さて、さらに、ふかくかんがえるならば、このごせんの、じょうまんとは、われらが、こしんにそなえているところの、ごじゅうのぼんのうをあらわすのである。いま、もんていげしゅのほけきょうに、あいたてまつるとき、まんそくほうかいのすがたであると、かいしかくて、らいぶつにたいすることを「ほとけのいとくのゆえにさる」というのである。
 このほとけとは、われら、こしんのぶっかいである。いとくとは、なんみょうほうれんげきょうである。「ここ」の「こ」とは、「さってさらず」のこころである。ふげんほんの、らいぶつにたいとどうように、しんげの「こ」なのである。
 また、べつのみかたをすれば、ごせんのたいざということは、ほけきょうの、しんいからみれば、まったく、ふたいざなのである。そのゆえは、すでにしょほうじっそう、じゅっにょぜのりゃくかいさんけんいちを、かいごしているからである。
 さて、そのうえからみるときには、がまん、ぞうじょうまんということは、まんそくほうかいとかいかくするのであり、せいめいにほんぬにそなわっているところのまんになる。「ごすううごせん」とは、われらのせいめいにごじゅうのぼんのうがあるとうことにほかならない。もしごじゅうのぼんのうがないというならば、それはほっけのしんのしめいかんをうしなうものである。ごじゅうのぼんのうがせいめいにほんぬじょうじゅうのものとみるとき、これをごすううごせんととくのである。ぼんのう、わくをだんずるというにぜんしょうじょうのしそうにとりあわず、そのままほんぬのみょうほうをごじゅうのぼんのうとみる、これを「ふじけんごか」というのである。
 さて「おかいうけつろ」とは、しょうじょうごんきょうにおける、しゅうびょうたいぢのための、かいぽうのことではなく、じゅじそくじゅかい、ぜみょうじかいの、みょうほうのじゅかいである。ゆえに、しょうじょうごんきょうにおける、かいというてんからみて、けつろがある。われわれのせいめいのとうたいが、そのままぜみょうじかいのかいたいとあらわれるのである。しかるに、ここにおいてけつろ、ぼんのうをほんぬとだんずるゆえに、「ごしゃくごけし」とといているのである。ほんらいいちぶつじょうのみょうかいであり、いっじんにほうかいをことごとくふくみ、いちねんはまたじっぽうほうかいに、へんまんするのであるから、しょうじょうごんきょうのしょうちは、すでにいでぬというのである。そうこうとは、いちじん、いちげんしょうにいたるまで、ほうかいのすべてのものは、ほんがくのほとけの、とうたいであるから、ふくとくのすくなきとうたいも、ほんがくのむささんしんの、かくたいとあらわれるのである。

 「ふかんじゅぜほう」とは、りゃくかいさんけんいちのしょほうじっそうのいちねんさんぜんのほったいをとくのをきいて、そのままかいごするのであり、そのごにしゃりほつそんじゃが、どんこんのためにふんべつ、げだつしたまうとこうて、しゃくそんがときはじめるところの、こうかいさんけんいちのほうもんをば、ふかんじゅぜほうととくのである。
 さて、もんていげしゅのほけきょうのじつぎにたちかえってこれをみるならば、みょうほうれんげきょうのほったいは、のうしょふにである。のうじゅのひと、しょじゅのみょうほう、ともにみょうほうれんげきょうのとうたいである。じつにふしぎのみょうほうである。このもんていのほけきょうにおもきにていれ、そのさとりのうえからみるとき「ししゅうむしよう」、いっさいぽうことごとくみょうほうとうたいであるとひらくのである、このようなふかたちのさとりは、じゅんいちじっそう、なんみょうほうれんげきょうという。じっそうのほかにさらにべつのぽうはないのである。ゆえに「ゆいうしょじょうじつ」なのである。しょせん「じょうじつ」とは、わがしきほうをみょうほうのとうたいとかいごすることなのである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよびそのもんかがなんみょうほうれんげきょうととなえたてまつることを「ゆいうしょじょうじつ」ととくのである。「しょ」とはしんらばんしょうことごとくしょほうじっそうのほとけであるということであり、またじっかいをあらわしている。じょうじつとは、じっかいのあらゆるしきしんを、そのまま、みょうほうのとうたいであるとひらくことである。それをとき、またそれをかいごしうるのは、こんきょう、すなわちもんていげしゅのほけきょうたるなんみょうほうれんげきょうにかぎるゆえに「ゆい」というのである。
 こうしてみるならば、ごせんのじょうまんいがい、まったくほけきょうのとうたいはないのである。すなわち、ごせんのまんにんとは、わがしきほうをこうせいするところのちすいかふうくうのごだいをあらわすのであり、そのごだいは、そくみょうほうれんげきょうをあらわしているのである。
 またごせんのじょうまんとは、がんぽんのむみょうわくをあらわす。がんぽんのむみょうわくをおこして、ほっけふしんなるゆえに「らいぶつにたい」するのである。これはくしき、はちしき、ろくしきと、さいこうのじょうほうから、しだいにおせんのしょうほうへとくだるへんをいうのであり、るてんもんからみたのである。「ふついとくここ」とは、こんどは、せんぽうからじょうほうへ、じゃくめつ、じゃくしょうのさとりのきょうがいへたちかえってくすがたである。それゆえ、じゃくめつにかえるこんぽんとなるほとけのいとくとは、なんみょうほうれんげきょうであるとだんずることができるのである。みょうほうは、ほんぬのまよいとさとりのぜんたいをふくんでいるのである。これはしんおうのほうもんであるから、よくよくあんずべきである。

 「じょうまんとがまんとししゅつうじてあり」についてもんぐにせつめいしているが、このことは、がっかいのしゃくぶくかつどうにあたってつうせつにじっかんするところである。じょうまんとは、ぞうじょうまんのことである。ちしきじんとしょうせられるひとにおおくけんじゅをこじしようとするこころをいうのである。いっぱんのひと々びとにもおおくあてはまるもので、じぶんのかんがえはぜったいにただしいとして、すこしのはんせいのないことをいうのである。ふしんとは、むちなひとが、ていきゅうなもの、あやまったものにしゅうちゃくし、ただしいものをしんじょうとしないことをいうのである。
 これは、いちおう、このようにたてわけるけれども、このみっつは、けっして、ばらばらにどくりつしているものではない。ぞうじょうまんのひとは、そくがまんのひとであり、ふしんのひとなのである。ひごろどんなにえらそうなひとであっても、ものわかりのよさそうなひとであっても、ひとたびごほんぞんのはなしをするや、けっそうをかえておこりだしたり、じぶんのむちさをさらけだしたりするものである。ふだんみえなかったじょうまん、がまん、ふしんのこころが、しゃくぶくによってうきぼりにされてくるげんしょうなのである。
 なかんずく、げんだいちしきじんのまんしんは、はなはだしい。たしかにじぶんの、せんもんぶんやについては、ほうふなしりょうをもって、かがくてきにこうさつしようと、どりょくする。ところが、いっぽせんもんがいのこと、とくにしゅうきょうにかんしては、たちまちかがくせいをうしない、わずかばかりの、せんにゅうかんねんでろんじょうと、たいへんである。かがくてきたんきゅうをもって、そのにんとするちしきじんが、かがくせいを、ほうきするにひとしい。
 かれらの、そうかがっかいひはんは、しばしばへんどうし、じつに、むていけんきわまりない、ひはんがおおい。かれとうは、がっかいをファッショであるとか、じみんとうにみかたする、はんどうだんたいであるとか、また、いぜんには、ぎゃくに、かげきな、アカのだんたいであるとか、めいしんじゃきょうであるとか、いってきたのである。
 したがって、がっかいをひなんするという、いってんにおいては、いっちしているようであるが、そのひはんのないようは、たしゅたようであり、かがくせいなど、みじんもなく、ひそうてき、かんじょうてきそのものであった。また、かれらは、きせいのじじつと、そうかがっかいをむすびつけようとした。あるいは、そしきのすばらしさ、だんたいのすがたを、ナチス、ヒットラーとむすびつけて、あるいは、かってのフランスのプジャードとうと、がっかいとおなじであるとし、さいきんでは、いっこういっきになぞらえたりしている。まさに、そうかがっかいのほんしつをしらず、うおうさおうとうろたえたすがたである。
 しかしながら、そうかがっかいのしゅちょうは、えいえんにいっかんして、かわるものではない。みぎでもない。ひだりでもない。ぜんみんしゅうをこうふくにするべく、にちれんだいしょうにんのしきしんふにの、だいせいめいてつがくをもってすすんでいるのが、そうかがっかいなのである。
 さきにのべたように、むていけんは、いっけん、はなばなしくみえるばあいもある。それは、むていけんは、おおくのいけんがあり、むせきにんに、なにごとも、いえるたちばであるからである。ていけんはただひとつであり、せきにんがある。しかして、ていけんは、かならずむていけんをうちやぶる、これをじっしょうしているのが、まさにそうかがっかいの、こんにちのすがたであるとかくしんされたい。

 ごせんのたいざということ、ほっけのこころは、ふたいざなり、そのゆえはしょほうじっそう、りゃくかいさんけんいちの、かいごなり。

 きょうもんのうえには、ごせんにんのぞうじょうまんのやからが、ほけきょうのせっぽうを、もう、これいじょう、きくひつようがないとして、たいざしたのであった。これは、ほけきょうのこころでよめば、ふたいてんだということである。なぜかならば、しょほうじっそう、りゃくかいさんけんいちの、せっぽうがあったのちであるからだ、というのである。
 およそ、しょほうじっそうにしろ、りゃくかいさんけんいち、すなわち、じゅっにょじっそうにせよ、しんらばんしょうの、ことごとく、みょうほうのとうたいであることを、あかされたものであった。したがって、どんなひとであっても、ほんしつてきのみょうほうの、とうたいであるいじょう、なんみょうほうれんげきょうから、のがれることはえいきゅうに、できないのである。ゆえに、ふたいざなのである。これはひみょうほうべんをせつめいするところで、のべたとおりである。
 つぎに「まんそくほうかい」とは、このまんは、ほんぬのまんであり、ほっけのまんなのである。ごほんぞんは、ぜったいであるとのだいかくしんは、ほけきょうのまんであり、それが、そくだいうちゅうのリズムと、がっちしたせいかつとなって、あらわれるのである。にちれんだいしょうにんは、いっさいのふこうの、こんげんは、じゃしゅうじゃきょうにありとかっぱされ、このふこうをすくうのは、にちれんのみであるとせんげんされ、まただいしょうにんこそまっぽうの、ごほんぶつであると、しめされているのである。これこそほっけのまんではなかろうか。ゆえにだいしょうにんは、けんぶつみらいきに、つぎのようにおおせられているのである。
 「なんじていわく、なんじはだいまんのほっしにして、だいてんにすぎ、しぜんびくにも、こえたりいかん、こたえていわく、なんじにちれんをべつじょするの、じゅうざいまた、だいばだったにすぎ、むくろんしにもこえたり、わがことばは、だいまんににたれども、ぶつきをたすけにょらいのじつごを、あらわさんがためなり、しかりといえども、にほんこくちゅうに、にちれんをのぞいては、だれびとをとりだして、ほけきょうのぎょうじゃとなさん、なんじにちれんをそしらんとして、ぶつきをこもうにす、あにだいあくにんにあらずや」(0507-15)うんぬんと。

・・・・・・・・・・・・・・・37

0720    だいろく、 にょがとうむい、にょがしゃくしょがんのこと。

  じょにいわく、いんをあげて、しんをすすむと。
 おんぎくでんにいわく、がとはしゃくそん、がじつじょうぶつ、くおんのほとけなり、このほんもんの、しゃくそんは、われらしゅじょうのことなり、にょがのがは、じゅうにょぜのまつの、しちにょぜなり、きゅうかいのしゅじょうは、はじめのさんにょぜなり、われらしゅじょうは、おやなり、ほとけはこなり、ふしいったいにして、ほんまつくきょうとうなり。
 この、われらをじゅりょうほんに、むさのさんじんと、ときたるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなうるもの、これなり、ここをもって、これをおもうに、しゃくそんのそうべつのにがんとは、われらしゅじょうのために、たてたもうところの、がんなり、このゆえに、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつりて、にほんこくのいっさいしゅじょうを、わがじょうぶつせしめんと、いうところのがん、しかしながら、にょがしゃくしょがんなり。
 ついにいんどうして、こしんとわごうするを、こんじゃいまんぞくと、こころうべきなり、このこんじゃいまんぞくの、いのじ、すでにとよむなり、のいずれところをさして、すでにとはとけるや、およそところしゃくのこころは、しょほうじっそうのもんをさして、すでにとはいえり。
 しかりといえども、とうけのりゅうぎとしては、なんみょうほうれんげきょうをさして、こんじゃいまんぞくと、とかれたりと、こころうべきなり、されば、このにょがとうむいのもん、かんようなり、にょがしゃくしょがんは、ほんにんみょう、にょわれらむいは、ほんがみょうなり。
 みょうかくのしゃくそんは、われらがけつにくなり、いんがのくどく、こつずいにあらずや、しゃくには、こいんかんじんと、こいんはすなわち、ほんがなり、いま、にちれんがとなうるところの、なんみょうほうれんげきょうは、まっぽういちまんねんの、しゅじょうまで、じょうぶつせしむるなり、あに、こんじゃいまんぞくにあらずや。
 いとは、けんちょうごねん、うつき、28にちに、はじめてとなえだすところの、だいもくをさして、いとこころえべきなり、みょうほうのだいろうやくをもって、いっさいしゅじょうのむみょうのたいびょうを、ちせんこと、うたがいなきなり、これをおもいやるときんば、まんぞくなり、まんぞくとは、じょうぶつということなり、しゃくにいわく、「えんはえんゆうえんまんになずけ、とんはとんごくとんそくになずく」と、これをおもうべしうんぬん。

・・・・・・・・・・・37-2

かいしゃくこうぎ
 これは、ほうべんぽんに、「しゃりほつまさにしるべし、われもとせいがんをたてて、いっさいのしゅうをして、わがごとく、ひとしくして、ことなることなからしめんと、ほっしき、わがむかしの、しょがんのごとき、こんじゃはすでにまんぞくしぬ。いっさいしゅじょうをけして、みな、ぶつどうにはいらしむ」とあるところの、おんぎくでんである。
 てんだいのじょ、すなわちもんぐのよんには、これは「ほとけのいんいをあげて、しんじんをすすめるのである」とといている。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである。「われ」とは、ほんもんじゅりょう、もんていのしゃくそん、くおんがんじょのほとけである。このほんもんのしゃくそんとは、べっして、ごほんぶつに

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  • おんぎくでん ほうべんぽんはちかのだいじ 1 2

  • 投稿者:赤胴鈴之助
  • 投稿日:2017年 5月17日(水)02時33分6秒
 
にちれんだいしょうにんごしょこうぎ  おんぎくでん ほうべんぽんはちかのだいじ。

0713~0713 ほうべんぽんはちかのだいじ。
0713    だいいち ほうべんぽんのこと。
0714    だいに しょぶつちえ、じんじんむりょう、ごちえもんのこと。
0716    だいさん ゆいいいちだいじ、いんねんのこと。
0717    だいよん ごじょくのこと。
0718    だいご びくびくに うえぞうじょうまん、うばそくがまん、うばいふしんのこと。
0720    だいろく にょがとうむい、にょがしゃくしょがんのこと。
0720    だいなな おしょぼさつちゅう、しょうじきしゃほうべんのこと。
0721    だいはち とうらいせあくにん、もんぶっせついちじょう、めいわくふしんじゅ、はほうだあくどうのこと。

0713~0713 ほうべんぽんはちかのだいじ。
0713    だいいち ほうべんぽんのこと。

 だいいちほうべんぽんのこと、もんぐのさんにいわく、ほうとはひなり、べんとはみょうなり、みょうにほうに、たっするにすなわち、これしんのひなり、ないえりの、むげのたまを、てんずるに、おうのちょうじょうの、ゆいいつ、たまあると、になく、べつなし、かくさのひとをさすに、これ、ちょうじゃのこにして、またになく、べつなし、 このごときのげんは、これひ、これみょうなり、 きょうの、ゆいがちぜそう、じっぽうぶつやくねん、ししふしゅせつ、がほうみょうなんしのごとし、ゆえに、ひをもってほうをしゃくし、みょうをもって、べんをしゃくす、しくまさこれ、いまのほんのこころなり、ゆえに、ほうべんぽんというなり、きのさんにいわく、だいさんに、ひみょうにやくして、しゃくするとは、みょうをもってのゆえに、そくなり、えんをもってそくとなし、さんをふそくとなす、ゆえにさらに、ふそくにたいして、もって、そくをしゃくす。
 おんぎくでんにいわく、このしゃくのなかに、いちじゅとは、えりじゅそく、ちょうじょうしゅなり、 かくさのひとと、ちょうじゃのこと、まったくふどうこれなし、しょせん、ほうぼうふしんのひとは、たいげのごんにして、ほうゆう、のうつうの、にしゅのほうべんなり、ここをもって、むにむべつに、あらざるなり、いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、これ、ひみょうほうべんにして、たいないなり、ゆえに、みょうほうれんげきょうとだいして、つぎにほうべんぽんといえり、みょうらくのきのさんのしゃくに、ほんじょの、そくぜしんぴのそくを、いえんいそくと、しょうしゃくせり、そくはえんなれば、ほけきょうのべつめいなり、そくとはぼんぷそくごく、しょほうじっそうのほとけなり。
 えんとは、いちねんさんぜんなり、そくと、えんと、ことばは、かわれどもみょうのべつめいなり、いっさいしゅじょう、じっそうのほとけなれば、みょうなりふしぎなり、ほうぼうのひと、いま、これをしらざるゆえに、これをひという、また、いわく、ほうかいさんぜんを、ひみょうとはいうなり、ひとはきびしきなり、さんぜんられつなり、これよりほかに、ふしぎこれなし、だいほうぼうのひとたりというとも、みょうほうれんげきょうをじゅじしたてまつるところを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとはいうなり。
 いま、まっぽうにはいつて、まさしく、にちれんとうのたぐいのことなり、みょうほうれんげきょうのたいないに、にぜんのにんぽうをはいるを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとは、いうなり、これを、そくしんじょうぶつとも、にょぜほんまつくきょうとうともとく、また、ほうべんとは、じっかいのことなり、または、むみょうなり、みょうほうれんげきょうは、じっかいのちょうじょうなり。
 または、ほっしょうなり、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんこれなり、いえんいそくとは、いちねんさんぜんなりみょうとそくとは、おなじものなり、いちじのいちねんさんぜんということは、えんとみょうとをいうなり、えんとはしょほうじっそうなり、えんとは、しゃくにいわく、えんをえんゆうえんまんになずくと、えんゆうは、しゃくもん、えんまんはほんもんなり。
 または、しかんのにほうなり、または、われらがしきしんのにほうなり、いちじのいちねんさんぜんとは、えしんりゅうのひぞうなり、くちはいちねんなり、かずはさんぜんなり、いちねんさんぜんとは、ふしぎということなり、このみょうは、ぜんさんきょうに、いまだこれをとかず、ゆえにひというなり、ゆえにしりぬ、なんみょうほうれんげきょうは、いっしんのほうべんなり、みょうほうれんげきょうは、くしきなり、じっかいははちしきいかなり、こころをとどめてこれをあんずべし、ほうとはそく、じっぽうじっぽうは、そくじっかいなり、べんとはふしぎということなりうんぬん。

かいしゃく こうぎ。
 ほうべんぽんについて、もんぐのだいさんに、つぎのようにいっている。「ほうとはひであり、べんとは、みょうである。
 みょうの、ほうにたっする、すなわち、みょうほうという、ばんぽうのこんげんの、ひみつのうちに、たっすることが、しんのひ、なのである。500でし、じゅきほんの、“えりじゅのたとえ”のなかにある、あのひんにんの、ころもにぬいつけられてあった、むげのたまを、しらべてみると、そのほうしゅと、あんらくぎょうほんの“けいちゅうみょうしゅのたとえ”にある、てんりんじょうおうの、ちょうじょうにあった、たまとは、まったくおなじこころである。
 またしんげほん、だいよんの“ちょうじゃぐうじのたとえ”にでてくる、「かくさのひと」すなわち、しょこくをへんれきしてきたところの、ぐうじは、じつはちょうじゃのこに、ほかならなかったのである。これこそきゅうかいそくぶっかい、ぶっかいそくきゅうかいであり、われわれのせいめいのなかに、しんじつにせいじょうむぜんで、ちからづよいぶっかいのせいめいがあるということであり、ひでありみょうである。
 ほうべんぽんは、“ただわがこのそうをしれり、じっぽうのほとけも、また、しかなり”、“やみなん、やみなん、すべからず、わがぽうは、みょうにしておもいがたし”とあり、ほうべんぽんに、とかれるところの、みょうほうれんげきょうは、ふかしぎであり、ほとけのみが、よくこれをしることができると、いっているのである。
 ゆえに、ひもってほうをしゃくし、みょうをもって、べんをしゃくすることが、このほうべんぽんのいとなのである、このひみょうといういみで、ほうべんぽんというのである」
 これをうけて、みょうらくのほっけもんぐきのだいさんには、つぎのようにいっている。「ほっけもんぐでは、ほうべんを、だいいちにほうゆう、だいににのうつう、だいさんにひみょうにやくしてしゃくし、だいさんに、ひみょうにやくしてしゃくすのが、このきょうの、ほんいであるといっているが、それでは、だいさんにひみょうにやくして、しゃくすとは、どういういみであろうか、とくに、そくぜしんぴの、そくとは、みょうなるがゆえに、そくなのである。
 えんをもって、そくとなし、さんしゅすなわち、さんじょうまたは、ふそくなのである、すなわち、ほけきょうにおいては、うちゅうのこんげんたる、みょうほうれんげきょうを、ときあかしたのであるから、かんぜんむけつであり、えんであり、そくである。ところが、さんじょうやさんきょうは、ふかんぜんであり、ふそくである。ゆえにさらに、ふそくすなわち、ふかんぜんなおしえのほうゆうほうべんや、のうつうほうべんにそうたいして、そく、かんぜんむけつのひみょうほうべんを、しゃくしたのである」と。
 おんぎくでんには、つぎのようにおおせである、このほっけもんぐの、ほうべんについての、しゃくのなかにある、「ただ、いちじゅあると、になくべつなし」の「いちじゅ」とは、えりじゅであり、そくそれは、ちょうじょうしゅなのである、すなわちちょうじょうしゅとは、ぶっかいであり、さいこうのたからであり、われわれの、せいめいのなかに、ほんねんてきに、そなわっているというのが、えりじゅなのである。

  また、かくさのひとと、ちょうじゃのことは、まったく、ふどうがない。すなわち、われらごほんぞんをしんずるものは、そく、にちれんだいしょうにんと、あらわれることが、できるのである。しょせん、ほうぼうふしんのひとは、たいげのごんであって、ほうゆう、のうつうの、にしゅのほうべんであり、ぶっぽうをけんげんし、みょうほうのとうたいと、あらわれることが、できない。
 ゆえにもんぐにいう、「むにむべつ」とはいえないのである、いま、われわれ、ごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となえるものは、ひみつほうべんであり、ごほんぞんのたいないであり、ぶっかいにてらされた、きゅうかいのせいかつを、おもうがままにゆうぎしきって、いけるのである。これこそ、みょうほうのたいないの、ほうべんである。
 したがって、みょうほうれんげきょうとだいして、つぎに、ほうべんというのである、みょうらくはほっけもんぐきで、もんぐの、「そくぜしんぴ」のそくを、「えんをもって、そくとなす」とかいしゃくしている。そくとは、えんであるから、ほけきょうのべつめいである、そくとはぼんぷそくごくをいみし、うさではなくして、しょほうじっそうのほとけなのである。
 ここに、ほけきょうとは、いちおうは、28ほん、さいおう、もんていからは、ごほんぞんであり、ぼんぷそくごく、しょほうじっそうの、ほとけとは、ほんぬむさのさんじんの、にちれんだいしょうにんである。
 えんとは、いちねんさんぜんである、「そく」もいちねんさんぜん、ことばは、ちがうが、ともにおなじ、みょうのべつめいである、いっさいしゅじょうは、もともと、じっそうのほとけであるからみょうであり、ふしぎである、われわれ、ごほんぞんをしんずるものは、ほんらい、じっそうのほとけであることを、じじつのうえに、けんげんしてしることが、できるけれども、ほうぼうふしんのひとは、これをしることが、できないから、ひなのである。
 また、だいしょうにんは、つぎのようにもおおせられている、ほうかいさんぜん、すなわち、うちゅうのしんらばんしょうことごとく、さんぜんのへんかがそなわっている、これをひみょうという。ひとは、きびしいことをいう、みょうほうは、きびしき、だいうちゅうのほうそくである。
 いっさい、うちゅうのしんらばんしょうには、さんぜんが、ひとつもかけることなく、きびしく、られつしているのである、これよりほかに、ふしぎなものはない、ゆえに、みょうなのである。
 だいほうぼうの、ひとであっても、しょせんは、みょうほうのとうたいであり、かならず、みょうほうれんげきょうをじゅじするのである、このように、いかなるひとといえども、ごほんぞんから、はなれることはできず、かならず、ごほんぞんを、じゅじするところを、みょうほうれんげきょう、ほうべんぽんというのである。
 すなわち、これは、いま、まっぽうに、はいっては、にちれんだいしょうにん、およびそのもんかが、ほうぼうをたちきり、ごほんぞんをしんじ、しょうだいすることによって、ぶっかいにてらされた、じゆうじざいの、せいかつをしているものの、ことなのである。
 みょうほうれんげきょうのたいないに、にせんの、にんぽうをいれるのを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんというのである。すなわち、きゅうかいのしゅじょうが、みょうほうをこんていに、いっさいのかつどうをなし、また、いままでの、しゃかいかん、せかいかんが、ことごとく、みょうほうによって、いかされるのである、これを、そくしんじょうぶつとも、にょぜほんまつくきょうとうとも、いうのである。
 ほうべんぽんの、ほうべんとは、じっかいのことであり、または、むみょうということである、みょうほうれんげきょうは、じっかいのちょうじょうであり、または、ほっしょうである、みょうほうれんげきょうほうべんぽんであるから、ぼんのうそくぼだい、しょうじそくねはんである。
 きの、「いえんいそく」とは、いちねんさんぜんなのである、みょうとそくとはおなじものであり、ともにいちねんさんぜんなのである、えんとはてんだいのしゃくに、「えんをえんゆうえんまんになづく」とある、えんゆうは、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんのりを、ときあかしたところの、しゃくもんであり、えんまんとは、げんじつに、ぶっかいをけんげんしていくことを、あかしたところの、ほんもんである。
 または、しかんのにぽうである、しは「とどまる」ことであり、うちゅうのほんげんの、うごかないり、すなわち、ふへんしんにょのりをいみし、えんゆうである。
かんとは、「かんずる」ことであり、ぶっかいをげんずるちえであり、ずいえんしんにょのちをいい、えんまんである、また、しきしんにほうに、やくせば、みをもって、じっせんかつどうしていくことは、えんまんである。こころはゆうずうむげであり、よくわがこころに、ばんぽうをうかべることが、できるのでえんゆうである、つまりしきが、えんまんで、こころがえんゆうである。
 いちじの、いちねんさんぜんとは、えしんそうずげんしんを、しそとする、えしんりゅうのひぞうである、それによると、えんのじをわけて、くちはいちねんであり、かずはさんぜんということである、いちねんさんぜんとは、このように、いちねんにさんぜんをぐすのであるから、ふしぎとしか、いいようがない。
 このふしぎなる、じったいは、ぞうつうべつのぜんさんきょうには、いまだこれをとかなかった、ゆえにひというのである。
 いじょうのことから、わかるように、なんみょうほうれんげきょうとは、いっしんのほうべんなのである、いっしんとはいちねんであり、ほうべんとは、さんぜんなのである、すなわち、いちねんにさんぜんを、ぐしているじったいが、なんみょうほうれんげきょうなのである。このことを、よくよくしんじんをもって、しさくして、ゆきなさい、「ほう」とは、じっぽう、すなわちぜんうちゅうであり、ぜんうちゅうの、じっそうはじっかいである、「べん」とは、ふしぎということである。

 このこうでだいじなことは、ひみつほうべんということである。
 ほうゆうほうべん、のうつうほうべんは、にぜんきょうでとくほうべんであり、しんじつのほうべんではない、。ほうべんぽんのほうべんとは、これらにしゅにたいして、ひみょうほうべんとは、ひみょうもんともやくすべきほうもんで、じっきょうのことである、ひとは、ほとけのみがしっていること、みょうとは、しゅじょうのしぎしがたいきょうがいをいう。
 ぐたいてきにいうならば、ちょうじゃぐうじのたとえや、えりじゅのたとえによって、わかるように、まっぽうのしゅじょうは、しゅじゅのなやみや、ぼんぷそのままのおろかな、きょうがいにすんでいる、しかし、そのみがそのままが、くおんがんじょいらい、ごほんぶつにちれんだいしょうにんのけんぞくであり、ほとけなのだとさとる、これがひみつほうべんである。
 なやんでいるときの、われらも、ほとけであるとじかくして、しゃくぶくぎょうにはげむときも、そのからだは、ひとつでそのひとにはかわりはない、これは、ほとけのみしれる、ふしぎであるから、ひみょうほうべんという。
 そして、これをひろげると、さまざまなかくどから、ろんずることができる、まずひみょうほうべんということであり、きゅうかいそくぶっかいということである、そもそもひみょうほうべんとは、そうたいてきにみるのではなく、しんじつにりっきゃくして、みょうようするほうべんである。
 ほうべんとはごんであり、きゅうかいである。ゆえにせいめいろんからいえば、ぶっかいにてらされ、みょうほうれんげきょうにりっきゃくして、きゅうかいのせいかつを、おもうがままに、ゆうげすることなのである。

 これについて、もうすこし、くわしくしてみよう、ひとびとは、いっしゅんいっしゅんをいとなんでいる。それぞれのたちばで、またいろいろなすがたで、あるひとはさかなやであり、あるひとはがくせいであり、あるひとはとこやであるとうと、しかし、そのかつどうは、ことごとく、そのひとじしんの、せいめいかつどうであり、そのひとじしんの、せいめいのあらわれである。
 いまここに、ふたりのさかなやがいたとする、そのひとりは、ごほんぞんをもち、もうひとりはしんじんしていないとする、しんじんしている、いないにかかわらず、ふたりともさかなやをやっているてんにおいてはおなじである、したがって、だいたいおなじようにかつどうし、おなじようなすがたであるかもしれない。 けっして、しんじんしているからといって、とくべつなことを、やるわけではない、このいみにおいて、しんじんはあくまでも、しんじんであって、せいかつはあくまでも、せいかつである。しかしいまのべたとおり、そのひとのせいかつは、そのひとじしんの、せいめいかつどうであり、せいめいのあれわれであることをわすれてはならない、したがって、ごほんぞんによって、せいめいりょくゆたかに、かくしんときぼうにみなぎっているならば、さかなやをやっているなかに、おおきなよろこびをかんじ、しょうばいをさらにはってんさせていくのである。
 むろん、ときにはそんをすることもある、しっぱいもあろう、しかし、いくらしっぱいしたとしても、それをのりきっていく、ちからがあれば、かならず、げんじょうをだかいしていく、たんにだかいしていくだけでなく、それによってえたるちからは、さらにはってんしていくちからとなる、ゆえに、はじめはなんでもないようであるが、しんこうをして、じゅうねんにじゅうねんたったときには、しんじんをしているひとの、せいかつと、していないひとのせいかつには、おおきなひらきがでてくる。
 このように、しんじんしているものは、いっけんなんら、ほかとかわりないようにみえながらも、そのじつは、しらずしらずのうちに、みょうほうれんげきょうのだいリズムにかなったせいかつを、しているのである。
 これは、みょうほうのたいないのほうべんであり、ひみょうほうべんなのである。
 ゆえに、にちれんだいしょうにんは、「いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうと、となえたてまつるは、これ、ひみょうほうべんにして、たいないなり、ゆえに、みょうほうれんげきょうとだいして、つぎにほうべんぽんといえり」と、おおせられているのである。

 *、そくは、えんなれば、ほけきょうのべつめいなり、そくとは、ぼんぷそくごく、しょほうじっそうのほとけなり。
 また、ほんぶんに、「そくはえんなれば、ほけきょうのべつめいなり、そくとはぼんぷそくごく、しょほうじっそうのほとけなり」とのおおせも、われわれのせいかつにやくせば、おなじいみである。
 ここに、ほけきょうとは、もんていげしゅ、ずぎょうのいちねんさんぜんの、まんだらである。ぼんぷそくごく、しょほうじっそうのほとけとは、うさではなく、ほんぬむさ、さんしんにょらいの、まっぽうごほんぶつ、にちれんだいしょうにんであられる。 しかしながら、そうじては、われわれ、ごほんぞんに、なんみょうほうれんげきょうと、となえるものは、やはりぼんぷそくごくであり、しょほうじっそうのほとけなのである、しょほうじっそうのほとけとは、ありのままのすがた、そのままで、それがそくほとけということである。
 ごほんぞんさまをおがんだものは、しょほうじっそうのほとけであるがゆえに、がくせいはがくせいとして、しょほうじっそうのほとけなのである、こういんはこういんとしてしょほうじっそうであり、それで、そくほとけなのである、りょうしはりょうしとして、そのふるまいじたいが、もうすでにほとけのしょさになっている、かんげんすればぜったいの、こうふくきょうがいのうえにたった、りょうしのかつどうである。
 それでは、ほとけとはなにか、しゅんかんしゅんかんの、せいめいかつどうが、たのしくてたまらないというきょうがい、これを、ほとけといちおうていぎづけられる、ほとけとはとおくのせかいにあるものではない、せいほうじゅうまんおくどにあるものでもぜったいにない。
 きんピカなすがたをしているものでもない、せのびして、りっぱそうなじんかくをみせるものでもない、そのままのじんせいのすがたが、もうほとけのすがたであり、ほとけのかつどうになっているのである。
 げんざい、せけんでは、しゃかぶっぽうにとらわれて、じゃしゅうきょうのきょうそなどが、しんじゃのまえや、またしゃかいにあって、せいじゃぶって、ぎぜんしゃにあるにもかかわらず、さもきれいに、りっぱそうにみせようとするのがある。それらは、しゃかぶっぽうのながれをくむものであり、じぶんのために、たいしゅうをたぶらかす、まのすがたなりとだんぜざるをえない。

  あくまでも、ぶっかいのせいめいは、きゅうかいのわれらしゅじょうのなかに、そんざいしているのである、われわれ、ぼんぐのせいめいのなかに、うちゅうだいの、ちからづよいだいせいめいが、そんざいしていることは、とうていわからないことであり、うちゅうのじっそうをたいとくなされたほとけにしかわからないことである。ゆえにひなのである。
 しかしながら、われわれが、ごほんぞんをじゅじしたときに、たとえ、われわれが、いしきしなくても、しぜんに、わがせいめいのなかに、ぶっかいがゆげんし、みょうほうのきょうがいを、えとくし、ゆうゆうたるじんせいを、かっぽできるのである。
 すなわち、ひにしてみょうではないか、ゆえにきゅうかいそくぶっかいは、まさにひみつほうべんなのである。これをそくしんじょうぶつとも、ぼんのうそくぼだいとも、しょうじそくねはんとも、にょぜほんまつくきょうとうともいうのである。
 つぎに、ほうぼうのひとと、くきょうとういえども、かならず、しんじんするようになることが、ひみつほうべんなのである、ゆえに、ほんぶんには、「だいほうぼうのひとたりというとも、みょうほうれんげきょうを、じゅじしたてまつるところを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとは、いうなり」と、おおせられているのである、なぜだいほうぼうのひとでも、かならず、ごほんぞんをじゅじするようになるのか。それは、だいほうぼうのひとたりとも、ほんらい、みょうほうのとうたいだからである。
 そやにゅうどうどの、ごへんじにいわく、「きょうというは、ばんぽうのたいをいい、ちというは、じたいけんしょうのすがたをいうなり、しかるに、きょうのふちほとりなく、ふかきときは、ちえのみずながるること、つつがなし、このきょうちがっしぬれば、そくしんじょうぶつするなり、ほっけいぜんのきょうはきょうち、かくべつにして、しかもごんきょうほうべんなるがゆえに、じょうぶつせず、いま、ほけきょうにして、きょうちいちにょなるあいだ、かいじごにゅうのしふつちけんをさとりて、じょうぶつするなり、このないしょうに、しょうもん、ひゃくしぶつ、さらにおよばざるところを つぎしもに、いっさいしょうもん、ひゃくしぶつ、しょふのうちと、とかるるなり、 このきょうちの、にぽうは、なにものぞただ、なんみょうほうれんげきょうのごじなり」(1055-02)と。
 このおんふみを、われわれのしんじんに、やくせば、きょうとは、ごほんぞんである。
 ちとはわれらのいちねんのせいめいである、そして、ごほんぞんにむかい、なんみょうほうれんげきょうととなえるときに、わがせいめいのなかの、みょうほうがよばれて、けんげんし、きょうも、なんみょうほうれんげきょう、ちも、なんみょうほうれんげきょうであり、ここに、きょうちみょうごうし、そくしんじょうぶつ、すなわち、さいこうのこうふくきょうがいをかくとくすることができるのである。
 ところが、ほうぼうのひとは、うちに、なんみょうほうれんげきょうをひめながらも、へんけん、じゃけんのために、その、せいじょうむぜんで、ちからづよいせいめいはおおわれてしまい、ちは、じたいけんしょうのすがたとはならないのである。じゃちにそまってしまい、きょうもまた、じごくかいのとうたいたる、じゃきょうのほんぞんであり、ここに、いよいよせいめいりょくは、よわくなり、しんの、きょうちみょうごうはせず、だいうちゅうの、リズムにがっちすることができず、しらず、しらずに、ふこうへ、ふこうへとしずんでいくのである。
 しかし、いかに、ほうぼうのひととはいえ、もともと、みょうほうれんげきょうのとうたいである、ねがうところは、さいこうのこうふくである。もとむるところは、さいこうのかちあるじんせいである。ひとびとのこうどうは、きょうちみょうごうへ、きょうちみょうごうへとうごいているのである。
 きょうちみょうごうは、だいうちゅうのリズムに、がっちしたせいかつであり、それを、ききゅうするのは、にんげんのほんねんてきな、すがたである、あたかもそれは、みずがたかきより、ひくきにむかって、ながれるごとくである。
げんじつに、そうかがっかいいんが700まんせたいをとっぱしているじじつは、なににもまして、これをゆうべんにものがたっているではないか。
 そのなかには、しんじんすることに、もうはんたいしてきたひともいる、もうはんたいはしなくても、すべてのひとが、おおかれすくなかれ、ひはんのめをもっていてきたのである、しかし、そのようなひとが、みなしんじんするようになったのである。
 われわれが、しゃくぶくするのも、また、いっさいしゅじょうが、せいめいのとうたいだからである、あいてがみょうほうのとうたいでなければ、なんで、しゃくぶくするひつようがあるだろうか、しゃくぶくしておけば、たとえそのときは、しんじんしなくても、かならずや、そのしゃくぶくという、えんによって、もともと、そなわっていた、みょうほうのぶっしゅが、くんぱつされて、しんじんするときが、くるのである。
 あいてが、もうはんたいするのをば、なにゆえに、ごうしゃくするのか、それはもともと、もうはんたいするひととて、みょうほうのとうたいであるいじょう、しんじんせざるをえないからである、すなわち、われわれがしゃくぶくするのは、そのにんげんを、だめだとひはんするのではない。
 あいてのもつ、じゃほうをうちやぶり、じゃけん、へんけんのために、おおいかくされた、せいじょうな、そしてそんげんな、みょうほうれんげきょうという、せいめいを、あらわさんがためである、これぐらい、あいてをそんけいしているこういは、ほかにない、あいてがそんげんな、みょうほうのとうたいであることを、しんじてのふるまいだからである。
 かこにおいて、ふきょうぼさつは、「たんぎょうらいはい」といって、いっさいしゅじょうを、らいはいしてあるいた、なぜ、らいはいしたかというと、それは、あいてのせいめいの、おくそこにぶっしょうがあるだからというのである。
 これは、あいてをさいこうに、そんけいしたこういをしめしているのである、しかし、らいはいのぎょうは、げんざいでは、なんのやくにもたたない、むしろがいがあるのである。らいはいしたところで、なんであいてをすくうことができるのか、あいてのあくをたちきらずして、すくえるわけがない。したがって、まっぽうのこんにちにおいては、しゃくぶくをすることが、もっともあいてを、そんけいするこういなのである、しゃくぶくこそ、せいめいのそんげんを、かくしんした、みんしゅしゅぎのじつぜにである。
 とまれ、だいほうぼうのひとたりとも、ごほんぞんを、しんずるようになることは、うちゅうの、だいてっそくであり、これぐらい、きびしいことがあろうか、これぐらい、ふしぎなことがあろうか。 また、ひみつほうべんとは、みょうほうをこんていに、いっさいのひとびと、また、いっさいのしそう、てつがくをしどうし、もちいていけるということである。ゆえに、だいしょうにんは、ほんぶんちゅうに「みょうほうれんげきょうの、たいないに、にぜんのにんぽうをはいるを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとは、いうなり」とおおせられているのである。 すなわち、いっさいのきょうきょうが、なんみょうほうれんげきょうの、るつうぶんとして、もちいていけるのであるし、また、「いっさいぽう、これぶっぽうなり」という、しんじんのたちばから、いかなるがくしゃ、しどうしゃといえども、ぜんぶ、それをいかしきって、こうせんるふのために、かつどうさせていけるのである。
 おおきい、ようようたる、たいへいようのようなぶっぽうであり、そしてまた、そうかがっかいが、こうせんるふしていくに、ふさわしいおんふみではないか。
 しからば、なにゆえ、いっさいの々きょうきょうを、はしゃくするのか、それには、そうたいみょうとぜったいみょうとがあることを、しらねばならない、そうたいみょうとは、かれとこれとを、そうたいして、しゅしゃをさだめ、もんていげしゅの、ごほんぞんのみが、ゆいいつむにの、そくしんじょうぶつのじきどうであると、けっじょうするのが、そうたいみょうである。
 ぜったいみょうとは、だいごほんぞんを、しんじてしゅぎょうするにあたっては、ほけきょうはもとより、いっさいきょう、あらゆるぜんろんをとりいれるたちばである、だいしょうにんは、いちだいせいきょうたいいに、「そうたいみょうのこころは、まえのよじの、いちだいせいきょうに、ほけきょうをたいして、にぜんとこれをきらい、にぜんをば、とうぶんといい、ほっけをかせつともうす、ぜったいみょうのこころは、いちだいせいきょうは、すなわちほけきょうなりと、かいえす」(0403-18)とおおせられている。
 ここに、「とうぶん」とは、ぶぶんかんをいみし、「かせつ」とは、ぜんたいかんをいみする、そもそも、ぶぶんはぶぶんとして、いみをもつのである、ぶぶんとぜんたいをこんどうし、ぶぶんかんをもって、ぜんたいかんとするのは、まったくの、あやまりである、ぶぶんかんにしゅうちゃくし、それをもって、さいこうであるとおもいこむさっかくは、ことごとく、うちやぶらなければならない。
もし、ぶぶんをぶぶんとして、ぜんたいかんに、りっきゃくしてもちいるならば、それは、ことごとくいきてくるのである。
 ゆえに、にちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうに、つぎのようにのべられている。
 「とう、むかしのきょうきょうのなかに、いちねんさんぜんをあかさずんば、てんだいなんぞ、けごんしんぞうのもんをひいていちねんさんぜんを、しょうするや、こたう、かのきょうに、きしょうくじょうをあかさず、なんぞ、いちねんさんぜんをあかさんや、もし、だいしいんようのこころは、じょうかくいわく、『いまのいんようは、えにゅうののちにしたがう』とううんぬん、また、ことくいわく、『けごんは、しのほうもんにして、ほっけはかつのほうもんなり』うんぬん、かのきょうの、とうぶんは、うみょうむじつなるゆえに、しのほうもんという、らくてんいわく、『りゅうもんげんの、うえのつち、ほねをうめて、なをうめず』と。いずみしきぶいわく『もろともに、こけのしたにはくちずして、りもれぬなを、みるぞかなしき』うんぬん。もし、えにゅうののちは、なお、そせいのごとし、ゆえに、かつのほうもんというなり」と。
 このげんりは、さらに、げんざいにおけるしそう、てつがく、またいっさいのがくもん、さらには、しゃかいせいどとうにも、あてはまるものである、まことに、いちねんさんぜんの、だいぶっぽうを、こんていにしない、いっさいのがくもん、せいどとうは、「しのほうもん」である。
 しかるに、ひとたびそれが、ごほんぞんをこんていにしたとき、みょうほうのちすいによって、いきいきとかがやいてくる、さに「かつのほうもん」である、このように、いっさいのしそう、てつがく、また、いっさいのしどうしゃ、がくしゃとうを、ことごとく、みょうほうのたいないに、ひきいれるのを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんといい、ひみょうほうべんというのである。
 また、だいしょうにんは、「ほうとは、そくじっぽう、じっぽうは、そくじっかいなり、べんとはふしぎということなり」と、おおせられている、ほうとは、とうざいなんぼくのしほう、さらにとうほく、とうなん、せいほく、せいなんのしほうを、くわえてはっぽう、それと、じょうげをくわえれば、じっぽうである。
 すなわち、じっぽうとは、ぜんうちゅうということである、ぜんうちゅうが、いかにふしぎであるかということが、また、ひみょうほうべんなのである、いじょう、ひみょうほうべんについてのべたが、さらにだいじなに、さんのもんをあげて、これに、ついてかんがえてみたい。

*、ひとは、きびしきなり、さんぜんられつなり、これよりほかに、ふしぎこれなし。
 これは、みょうほうは、きびしきだいうちゅうのほうそくで、あるともいえるし、また、ごほんぞんさまのおすがたともはいせる。
 ちゅうおうに、「なんみょうほうれんげきょう にちれん」とおしたためであり、さゆうには、じっかいさんぜんのしょほうが、いっぽうも、かけることなく、そなわっているのである。
 ごほんぞんは、だいうちゅうのいっさいをそなえて、あますところがないのである、まことにもってきびしいすがたではないか。
 また「きびしい」とは、いんがくじだから、きびしいのである、われわれの、しゅんかんしゅんかんのせいめいのなかに、みらいの、いっさいをふくんでいるのである、しょうにんごなんじに、「かこげんざいの、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃを、きょうせんする、おうしんばんみん、はじめはことなきやうにて、ついに、ほろびざるはそうらはず」(1190-02)とある。
 かこの、ほけきょうのぎょうじゃとは、ふきょうぼさつであり、げんざいの、まっぽうのほけきょうのぎょうじゃとは、にちれんだいしょうにんである、したがって、「ほけきょうのぎょうじゃをきょうせんする」とは、にちれんだいしょうにんをひぼうすることであり、げんざいでは、そうかがっかいを、そしることをいみする。
 だいしょうにんのじだいにおいて、だいしょうにんをひぼうしたひとは、いったい、どうゆううんめいをたどったであろうか、おおたのちかまさや、ながさきじろうひょうえのじょうときつなや、だいしんぼうがらくばして、くもんのうちにしんだことは、いうにおよばず、だいしょうにんいちもんを、いじめにいじめぬいた、へいのさえもんのじょうよりつなもまた、いちぞくめつぼうという、ひさんなじたいを、まねいたではないか。
 これについて、にちかんしょうにんは、せんときしょうもんだんで、つぎのようにおおせである、「とう、しゅうそはかねて、みぼうをしられ、げんせにふごうのこと、すでに、いのちをききおわった、また、げんせのおことばが、しゅうそめつごに、ふごうしていることがあるか、こたう、じつにしょもんのとおりである、いま、しばらく、げんざいのさんじにじゅんじて、めつご、ふごうのさんじをだそう。
 ひとつには、しもやまごしょうそくにいわく、『きょうしゅしゃくそんより、だいじなるぎょうじゃを、ほけきょうのだいごのまきをもって、にちれんが、こうべをうち、じっかんともに、ひきちらして、さんざんにフミたりし、たいかは、げんとうにせいに、のがれがたくこそ、そうらはんずらめ』(0363-01)うんぬん、このだいかは、ついにまぬかれなかった。
 すなわち、へいのさえもんのじょう、ときよりも、しゅうそだいしょうにんめつごじゅうにねんにあたって、いちぞくがめつぼうしてしまった。
 かまくらしょうぐんふに、いわく『こうあん7ねんしちがつとおか、ときむねのこ、さだとき40、かとくをつぎ、しっけんす…えいにんがんねん、しがつ、かまくらおおじしん、ししゃ、いちまんよにん、さだときのかれい、よりつなていはつし、かえんとごうす。けんい、ひにさかんなり、そのじなん、あわのかみ、えんじょうに、にんじ、いいぬまどのとごうす、ひそかに、あわのかみをたてて、しょうぐんとなさんと、ぎす、かえんのちょうし、むねつなもって、さだときにつぐ、さだときは、かえんおよび、あわかみをちゅうす、むねつな、また、さどにながされる、○いちぞくめつぼうす』とううんぬん、いま、あんじていわく、へいのさえもんにゅうどう、かえんは、くびをはねられてしまった。
 これすなわち、あわのくにの、れんそだいしょうにんの、おんくびをはねようとしたためである。ちゃくし、むねつなは、さどにるざいになった、これはすなわち、れんそだいしょうにんを、さどがしまに、おながししたゆえである、このことが、すでにふごうしている。このことは、あに、だいかのまぬがれがたいしょうこではないか」と。
 だいしょうにんは、へいのさえもんじょうが、えいがをきわめ、けんりょくを、ほしいがままにしていたときに、すでに、みらいのかを、かくちせられていたのである、これは、みらいのかが、げんざいのいんにふくまれているしょうこである。
 ほうぼうをおかせば、いかにそのときは、かたちは、りっぱそうにみえ、はんえいしているようにみえても、そのいっしゅんに、むげんじごくのかを、はらんでいるのである、これだけは、どんなにのがれようとしても、のがれられない、きびしいさだめなのである。
 しょうにんちさんぜのことにいわく、「きょうしゅしゃくそん、すでにちかくはさつて、のちみつきの、ねはんこれをしり、とおくは、ごごひゃくさい、こうせんるふ、うたがいなきものか、もし、しかれば、ちかきをもって、とおきをすいし、げんをもって、とうをしる、にょぜそうないし、ほんまつくきょうとうこれなり」(0974-05)ほんまつくきょうとうの、ほんとはげんであり、まつとはとうである。
 くきょうとうとは、げんざいに、みらいがふくまれていることである、いんがにやくせば、ほんとはいんであり、まつとは、かである、くきょうとうとは、いんがくじである。いんがくじは、きびしきうちゅうの、だいてっそくである。
 ほとけのよげんが、ことごとくてきちゅうするというのは、げんざいのいんに、みらいのかがぜんぶふくまれているからである、したがって、とうてつした、せいめいかん、うちゅうかんをもつならば、みらいのかも、とうぜん、さっちされうるのである、せけんにおいても、いちりゅうの、けいざいがくしゃあるいは、じつぎょうかなどが、けいざいかいのしょうらいを、あるていどみとおすことが、できるれいがある、しかし、それは、あるぶぶんの、わずかなきかんの、ことでしかない。
 われわれは、ぼんぐであり、とうてい、みらいをしることはできないが、ほんとうに、しんじんがとうてつしてくれば、みらいは、けっじょうすることが、できるのである、もしも、ごほんぞんをしんじ、なんみょうほうれんげきょうと、となえるならば、みらいのかは、げんざいの、しゅんかんのせいめいのなかに、そなわり、みらいは、じゆうじざいとなるのである。
 しんじんしても、まことのしんじんをするひと、それから、たいしてしんけんに、していないひとなどがあるが、ともに、それぞれ、さんぜんられつのきびしいすがたを、しめしていくのである。
 あるひとがこういう、しつもんをした、「ごしょを、こうぎしているときの、じょうたいは、これは、ぼさつかいであろう、しかし、いやいやながら、こうぎをするとすれば、それは、じっかいろんからいえばどうなるのか」と、そのとき、「それはじごくだ、こうぎをしているすがたは、あくまでもけいしきである。じぶんがいやでやっており、ぎむでくるしいというのが、ほんとうのじぶんの、いちねんではないか」とこたえて、おいたことがある。
 ひとは、じぶんのいちねんである、ひとは、だれからもわからないからひである、がいめんのけいしきではおうていのいちねんである。したがって、じごくのいちねんで、こうぎしたところで、どんなに、ことばをかざろうと、わがみをかざろうと、ひとにかんどうをあたえることは、できない。いちねんのせいめいのいかんが、いっさいを、けっじょうするのである。じつにきびしいではないか。

*、みょうほうれんげきょうの、たいないに、にぜんのにんぽうを、はいるを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとは、いうなり。
 「にぜんのにんぽう」ということにりゅういすべきである。
 ひととほうにわけ、まず、「みょうほうれんげきょうのたいないに、にぜんのにんぽうをはいる」とは、きゅうかいのしゅじょうが、みょうほうをこんていにして、いっさいの、かつどうをするということであり、またすぐぜんにある、「だいほうぼうの、ひとたりというとも、みょうほうれんげきょうを、じゅじしたてまつるところを、みょうほうれんげきょうほうべんぽんとはいうなり」にもあたる。
 また、べつのかくどからいえば、“いっさいぽう、これぶっぽうなり”という、しんじんのたちばから、いかなるがくしゃ、しどうしゃでも、ぜんぶいかし、もちいていくことを、いみする、つぎに、「みょうほうれんげきょうのたいないに、にぜんのにんぽうをいる」とは、ぶっかいにてらされた、きゅうかいのせいめいであり、またぜったいみょうの、たちばから、いっさいの、きょう々きょう、てつがくが、みょうほうのるつうぶんとして、もちいられることである。

*、しゃくにいわく、えんを、えんゆうえんまんになずくと、えんゆうは、しゃくもん、えんまんはほんもんなり、または、しかんのほうなり。
 えんとは、かんぜんむけつと、いうこと、ゆうとは、ゆうずうむげなること、ほけきょうしゃくもんでは、くうけちゅうのさんたいを、そうそくして、ときあかし、また、うちゅうしんらばんしょう、ことごとく、じっそうであるとして、じっかいごぐ、ひゃっかいせんにょ、いちねんさんぜんのりを、あかした。

 これによって、しんらばんしょうの、りが、かんぜんにときあかされたことを、いみする、えんまんが、ほんもんとは、およそ、まんとは「みつる」といういみであり、げんじつに、ぶっかいをけんげんしてこそ、はじめて、「みつる」といえるからである。
 しゃくもんのりにたいして、じっせんかつどうであり、ぐたいてきじじつなのである、まっぽうにおいては、じゅじそくかんじんで、ごほんぞんをしんじ、しょうだいすることによって、こうふくせいかつを、いとなんでいくことが、しんのえんまんである。
 「しかんのにぽう」とは、しとは「とどまる」ことであり、うちゅうのほんげんの、うごかないり、すなわち、ふへんしんにょのりであり、えんゆうであり、しゃくもんである、かんとは、かんずることであり、うちゅうをげんずる、ちえである。
 ゆえに、これは、ぐたいてき、じつぜにかつどうであり、ずいえんしんにょのちであり、えんまんであり、ほんもんである。
 「しきしんのにほう」とは、しきとはにくたいであり、しんとは、せいしんである、われわれが、げんじつにみをもって、じつぜにかつどうしていくことは、えんまんである、じぶんのこころは、ゆうずうむげであり、よくわがこころに、ばんぽうをうかべることが、できるので、えんゆうである。

*、 ゆえにしりぬ、なんみょうほうれんげきょうは、いっしんのほうべんなり、みょうほうれんげきょうは、くしきなり、じっかいははちしきいかなり。
 このいっしんとは、いちねんさんぜんの、いちねんであり、たんに、せいしんてきな、こころといういみとはちがう、ほうべんとは、おんぎくでんげ、「このほうべんとは、じっかいさんぜんなり」(0794ひとつほうべんぽん)とあるように、いちねんさんぜんのさんぜんである。
 すなわち、「なんみょうほうれんげきょうは、いっしんのほうべん」とは、「なんみょうほうれんげきょうは、いちねんさんぜん」ということなのである、「みょうほうれんげきょうは、くしきなり、じっかいははちしきいかなり」の、みょうほうれんげきょうは、くしきであるとは、みょうほうれんげきょうが、うちゅうのほんげんであり、せいめいのきゅうきょくということである、じっかいは、はちしきいかとは、ほんたいにたいするはたらきであり、せいめいのきゅうきょくである、いちねんのあらわれである。
 じっかいことごとく、いちねんのさようであり、はたらきであるがゆえに、しゃかたほうもまた、みょうほうのうでしかないのである、すなわち、げんじつに、あらわれた、ほとけのしょさは、はちしきいかになってくるのである、ゆえに、しょほうじっそうしょうにいわく、「されば、しゃか、たほうのにぶつというも、ゆうのほとけなり、みょうほうれんげきょうこそ、ほんぶつにては、ござそうろへ、。きょうにいわく、「にょらいひみつじんつうしりき」これなり、にょらいひみつは、たいのさんじんにして、ほんぶつなり、じんつうしりきは、ゆうのさんじんにして、しゃくぶつぞかし、ぼんぷは、たいのさんみにして、ほんほとけぞかし、ほとけは、ようのさんじんにしてしゃくぶつなり」(1358-11)と。ゆえに、われわれが、みょうほうをとなえたときに、ゆうゆうと、じんせいをみおろし、たのしみきってせいかつするのである、これこそ、きょうもんの「しゅじょうしょゆうらく」に、あたるではないか。


0714    だいに しょぶつちえ、じんじんむりょう、ごちえもんのこと。

 もんぐのさんにいわく、まず、じつをたんじ、つぎに、ごんをたんず、じつとは、しょぶつのちえなり、さんしゅのけたの、ごんじつにあらず、ゆえに、しょぶつという、じぎょうのじつを、あらわすゆえに、ちえという、この、ちえのたい、すなわちいっしんの、さんちなり。
 じんじんむりょうとは、すなわち、しょうたんのじなり、ほとけのじつちの、たてににょりのそこに、てっすることを、あかすゆえに、じんじんという、よこに、ほうかいのへんを、きわむゆえに、むりょうという、むりょうじんじんにして、たてにたかく、よこにひろし、たとえば、ねふかければ、すなわち、えだしげく、みなもととおければ、すなわちながれ、ながきがごとし。
 じつち、すでにしかり、ごんちれいして、しかりうんぬん、ごちえもんは、すなわち、これごんちを、たんずるなり、けだし、これ、じぎょうのどうぜんの、ほうべんしんしゅのちからあり、ゆえになずけて、もんとなす、もんよりはいつてどうちゅうにいたる、どうちゅうをじつとしょうし、。どうぜんをごんというなり、なんげなんにゅうとは、ごんをたんずるの、じなり、ふぼうにしてりょうし、むほうのだいゆうあり、ななしゅのほうべん、そくたくすることあたわず、じゅうじゅうにはじめてげす、じゅっちをにゅうとなす、はじめとのちとをあぐ、ちゅうかんの、なんちなんごは、しるべし。
 しかるに、べっして、しょうもんえんかくの、しょふのうちをあぐることは、とる おもきがゆえに、べっして、これをはするのみ、きのさんにいわく、けんこうおうこうとは、なかに、おいて、ほっぴごうあり、これをもって、のちをれいす、いま、じつをしゃくするに、すでにあまねく、よこたてをきわめたり、したにごんをしゃくするに、りじんきわみなるべし、したに、まさにごんをしゃくすべし、あらかじめ、そのそうをじゅつす、ゆえにうんぬん。
 とちゅうす、ごちえもんとは、ごとは、すなわち、まえのじっかの、いんちをさす、もし、ちえそくもんならば、もんはこれ、ごんなり、もしちえのもんならば、ちすなわち、かなり、けだしこれらとは、このなかに、すべからく、じゅっちをもって、どうぜんとなし、みょうかくをどうちゅうとなし、しょうごをどうごとなすべし、ゆえにしんぬもんのこころはいんのくらいにありと。
 おんぎくでんにいわく、このほんまつのこころ、ふんみょうなり、なかに、たてにたかく、よこにひろしとは、たてはほんもんなり、よこはしゃくもんなり、こんとは、くさきなり、くさきはうえへのぼる、これはしゃくもんのこころなり、みなもととはほんもんなり、みなもとはみずなり、みずはしたへくだる、これはほんもんのこころなり。
 えだしげしとは、しゃくもんじゅうよんほんなり、ながれながしとは、ほんもんじゅうよんほんなり、ちえとは、いっしんのさんちなり、もんとはこのちえにはいるところの、のうにゅうのもんなり、さんちのたいとは、なんみょうほうれんげきょうなり、もんとは、しんじんのことなり、ここをもって、だいにのまきに、いしんとくにゅうという、にゅうと、もんとはこれ、おなじきなり。
 いま、にちれんとうのたぐい、なんみょうほうれんげきょうととなえたてまつるを、ちえとはいうなり、ひゆほんにいわく、「ゆいういちもん」と、もんにおいてうもん、くうもん、やくう、やくくう、もんひ、うひ、くうもんあるなり、うもんはしょうなり、くうもんはしなり、やくう、やくくうもんは、しょうじいちねんなり、ひう、ひくうもんは、しょうにあらず、しにあらず、うもんは、だいもくのもんじなり、くうもんは、このごじに、ばんぽうをぐそくして、いっぽうにとどこうらざるぎなり、やくう、やくくうもんは、ごじにぐそくする、ほんしゃくなり、ひう、ひくうもんは、いちぶのこころなり、このないしょうは、ほっけいぜんの、にじょうのちえの、およばざるところなり、0716。
 もんぐのさんにいわく、「ななしゅのほうべん、そくたくすることあたわず」と、いま、にちれんとうのたぐいは、このちえにとくにゅうするなり、よって、げじゅに、じょしょぼさつしゅう、しんりきけんごしゃというは、われら、ぎょうじゃのことをとくなり、うんぬん。

かいしゃくこうぎ。
 ほうべんぽんだいにの、「しょぶつちえ、じんじんむりょう」のきょうもんについて、もんぐのさんでは、つぎのようにいっている。「このもんのうち、まず「じんじんむりょう」のもんは、じつちをさんたんし、せつめいし、つぎに、「ごちえもん、なんげなんにゅう」を、さんたんしているのである。じつというのは、しょぶつのちえであり、ぞう、つう、べつの、さんしゅのけたの、ごんじつではない。すなわち、にぜんきょうで、とくところの、ごんじつは、「じつ」のしじょうしょうかくの、ほとけであり、「ごん」は、そのほとけをりそうとして、なんぎょうくぎょうのしゅぎょうをつむ、しゅじょうであり、ともに、はかないゆめのなかのごときものであって、ここでは、そのような、ごんじつをいうのではない。いま、じつというのはまさしく、じぎょうのじつ、すなわち、くきょうしんじつの、ずいじいの、みょうほうのことなのである。
 しからば、このちえのたいとは、なにかといえば、それは、いっさいち、どうしゅち、いっさいしゅちの、さんしゅをみょうほうの、いっぽうに、ぐそくするという、いっしんのさんちを、いうのである。
 「じんじんむりょう」というのは、しょうさんのことばである。ほとけのじつちというものは、たてにえいえんであり、うちゅうのほんげんの、みょうほうをさとっていることを、あかすゆえに、じんじんというのである。よこに、うちゅうだいのひろがりを、もっているので、むりょうというのである。まことに、ほとけのちえというものは、じんじんむりょうであって、たてに、たかく、よこにひろいのである。たとえば、ねがふかければ、たいぼくとなり、えだやははしげり、みなもとがとおければ、ながれが、ながいようなものである。じつちが、このように、じんじんむりょうである。ごんちもまた、なんげなんにゅうであることは、やはりこのれいを、あてはめることが、できよう。
 「ごちえもん」は、ごんちをさんたんし、せつめいしているのである。
おもうにこれは、ごんちはごんちとして、それだけにとどまるものではなく、かならず、まえにすすむべきちからをもっている。すなわち、きゅうかいのちえは、よく、ぶっかいをくんぱつするのである。ゆえになづけて、もんというのである。ひとがいえのなかにはいるには、まずもんからはいる、れいのごとく、もんのまえのみちを、どうぜんといい、もんからはいって、いえにいたるあいだの、みちをどうちゅうとしょうし、どうぜんをごんといい、どうちゅうを、じつとしょうするのである。
「なんげなんにゅう」は、ごんをたんすることばである。みょうほうのきょうがいというものは、なんげなんにゅうで、はかることができない。しかし、それがいかに、なんげなんにゅうであっても、しんのいちじで、いげいにゅうとなり、じつちをかんとくでき、そこに、はかりしれない、りきうをはっきするのである。
 このほとけのちえが、いかに、じんじんむりょうであるかということは、ななしゅのほうべん、すなわち、ぞうきょうのしょうもん、えんかく、ぼさつ、および、べつきょうのぼさつとうの、きょうがいでは、とうていはかりしることは、できないのである。
 じゅうじゅうにきて、ふたいのけついがかたまり、このとき、はじめてみょうほうが、すごいものだと、わかるようになってくる。さらに、じゅっちにきて、ぜったいのふたいのきょうちにりっきゃくして、しんじんのもんにはいったと、いえるのである。いま、はじめのじゅうじゅうと、のちのじゅっちをあげることによって、そのちゅうかんの、じゅうぎょうとじゅうえこうのきょうがいでは、いまなお、ほとけのちえの、じんじんむりょうなることを、しめすことも、さとることも、できないことを、しるべきである。
 したがって、べつきょうの、ぼさつですら、ほとけのきょうちは、りかいできない。しかし、いま、しょうもんと、えんかくにかぎって、「いっさいしょうもん、ひゃくしぶつ、しょふのうち」と、だんかしたのは、にじょうが、とくにしゅうちゃくがつよいので、べっして、これをはしゃくしたのである

 いじょうが、もんぐのさんのもんであるが、みょうらくは、これをうけて、さらに、ほっけもんぐきの、だいさんかんに、つぎのようにいっている。「もんぐに、『たてにたかく、よこにひろし』とある、もんのなかにほっぴごうがあり、これは、じつちをせつめいしたものであり、これをもって、のちのごんちをも、れいすることができるのである。
 すなわち、ほうとは、『ほとけのじつちの、たてに、にょりのそこにてっすることを、あかすゆえに、じんじんという。よこに、ほうかいのほとりをきわむゆえに、むりょうという、むりょうじんじんにして、たてにたかく、よこにひろし』のもんをさし、『たとえば、ねふかければ、すなわち、。えだしげく、みなもと、とおければ、すなわち、ながれながきがごとし』がたとえであり、『じつち、すでにしかり、ごんち、すでにしかり、ごんち、れいしてしかり、うんぬん』が、ごうである。
 いま、じつちをしゃくして、じつちは、すでに、くうかんてきにうちゅうだいであり、じかんてきには、えいえんであることは、あきらかとなった。さらに、そのもんのしたには、ごんちをしゃくして、ごんちもまた、じつちとどうよう、そのりは、じつにふかきことも、しめされているとおりである。したに、ごんちをしゃくさんとするに、まずあらかじめ、そのそうみょうをのべようとして、『うんぬん』といったのである。
 『ごちえもん』のごとは、そのまえにある、『しょぶつちえ、じんじんむりょう』の、ぶっかにいたるまでのいんぎょうとしての、ちえすなわち、ごんちをさすのである。もし、ちえそくもん、すなわち、ちえをそのまま、もんととるならば、もんはあくまでも、ごんであるいじょう、そのちえは、ごんちととるべきである。しかし、ちえにはいるもんと、とるならば、ちえはぶっかとなり、じつちとなるのである。『けだしこれ』らと、あるのは、けっきょく、じゅっちをどうぜんとし、みょうかくをどうちゅうとし、みょうかくをえてからを、どうごとすべきである。いじょうのてんを、そうごうすると『ごちえもん』とは、あくまでもいんのくらいにあることが、めいりょうである」と。
 この「しょぶつちえ、じんじんむりょう」、および、てんだい、みょうらくのしゃくについて、おんぎくでんでは、つぎのようにおおせである。この、てんだいおよび、みょうらくのしゃくが、なにをいわんとしているかは、あきらかである。そのなかに、「たてにたかく、よこにひろし」とあるが、たてとは、えいえんのせいめいをときあかした、ほんもんであり、よことは、りのいちねんさんぜん、しょほうじっそうをときあかした、しゃくもんをいみする。もんぐには、「ねふかければ、すなわち、えだしげく、みなもととおければすなわち、ながれながきがごとし」と、あるが、ねとは、くさきである。くさきは、だいちよりてんにむかって、うえにのぼるのであり、じゅういんしかのすがたを、しめしており、したがって、しゃくもんをいみする。みなもととは、ほんもんである。みなもととは、すいげんであり、みずはしたへくだるものであり、これは、じゅうかこういんのすがたであり、したがって、ほんもんをいみするのである。
 「えだしげし」とは、くうかんのむげんであり、うちゅうのしんらばんしょう、ことごとく、みょうほうのとうたいであることを、あかした、ほけきょうしゃくもん、じゅうよんほんであり、「ながれながし」とは、じかんてきにちょうおんであることを、いみするのであり、せいめいのえいえんを、あかした、ほんもんじゅうよんほんを、いみするものである。 ちえとは、いっしんのさんちなるをいう。
 もんとは、このいっしんのさんちにはいるところの、のういりのもんである。しからば、このさんちのたいとはなにか。それは、なんみょうほうれんげきょうなのである。しからば、その、なんみょうほうれんげきょうに、はいるもんとは、しんじんなることは、あきらかであろう。
ゆえに、だいにのかんの、ひゆほんだいさんにおいては、「いしんとくにゅう」ととき、「だいち、しゃりほつすらしんをもって、じょうぶつしたのである。まして、たのしょうもんは、しんがなければ、じょうぶつできるわけがない」として、じょうぶつのこんぽんは、しんであるといっているのである。「」にゅうと「もん」とは、ともに、しんじんのことを、いみするものであり、おなじことである。
 いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかが、しんじんごうじょうに、ただ、よねんなく、なんみょうほうれんげきょうととなえるならば、「いしんだいえ」のげんりにより、いっさいの、こうふくせいかつのげんせんとなる、ちえをしょうずるのである。それが、しんじつのさいこうのちえである。
 ひゆほんだいさんには、「ただ、いちもんあり」とあり、しんにこうふくになるみちは、ただひとつ、ごほんぞんをしんずるいがいに、ないことをしめされている。もんにおいては、うもん、くうもん、やくうやくくうもん、ひうひくうもんの、しもんとうがある。うもんはぞうきょう、くうもんはつうきょう、やくうやくくうもんは、べつきょう、ひうひくうもんは、えんきょうであるが、いまさらに、いっぽふかく、せいめいろんにやくし、ろんずれば、うもんはしょうであり、くうもんは、しであり、やくうやくくうもんは、しょうじとあらわれたる、いちねんのせいめいをいみし、ひうひくうもんは、しょうにへんせず、しにへんしない、しょうじをはなれた、せいめいのほんしつを、いみするとかんがえられよう。
 また、このしもんを、もんていのぶっぽうのたちばから、ろんずれば、しもんはことごとく、みょうほうにぐそくするのである。うもんとは、だいもくのもんじである。なぜなら、もんじは、めにはぐたいてきなかたちとして、みえるからである。この、だいもくのもんじは、ごじしちじであるが、じつは、このもんじにばんぽうを、ぐそくし、うちゅうだいのちからが、こめられ、けっして、いっぽうにへんするようなことは、ないのである。これがくうもんのいぎである。
 やくうやくくうもんとは、みょうほうごじに、ぐそくするほんしゃくであり、ほけきょう、にじゅうはちほんとも、かんがえられる。これは、あるときは、くうをちゅうしんに、せいめいのほんしつをとこうとするものである。しかし、せんずるところ、すべてが、みょうほうにふくまれているのである。
 ひうひくうもんは、ほけきょう、いちぶはちかん、にじゅうはちほんのこんぽんたる、もん、ぎ、いのなかの、いのほけきょうたる、なんみょうほうれんげきょうなのである。
 このなんみょうほうれんげきょうという、ないしょうのちえは、ほっけいぜんの、にじょうのとうてい、およぶところではない。このことを、ほっけもんぐのさんには、「しちしゅのほうべんであるにじょう、ぼさつの、とうてい、かんがえおよぶ、ところではない」と、だんげんされているのである。
 しかしながら、いま、にちれんだいしょうにんおよび、そのもんかは、この、なんみょうほうれんげきょうのちえに、はいることができるのである。よって、ほうべんぽんのげに、「もろもろの、ぼさつしゅうの、しんりきけんごなるものをばのぞく」とあり、しんじんけんごのもののみが、ほとけのちえを、えとくできるといってるのは、われわれ、ほけきょうのぎょうじゃのことを、といているのである。
 そうかがっかいのごんぎょうは、だいもくを、しょうぎょうとしてとなえ、ほうべんぽんと、じゅりょうほんをじょぎょうとして、どくじゅする。このことについて、にちかんしょうにんは、「とうりゅうぎょうじしょう」に、「だいかくせそん、おしえをもうくるの、がんいは、いっさいしゅじょうをして、しゅぎょうせしめんがためなり、しゅぎょうに、ふたつあり、いわゆる、しょうぎょうおよび、じょぎょうなり、しゅうしゅうことなりといえども、おなじく、しょうじょをたて、ぎょうたい、かくことなるなり、りゅうりゅうのしょうじょは、いまろんぜざるところなり、とうもんしょしゅうの、にぎょうのはじめに、じょぎょうとは、ほうべんじゅりょうのりょうほんをどくじゅし、しょうぎょうじんじんのくどくを、じょけんす。
 たとえば、あくのせいすいをたすけ、しおずのべいめんのあじを、たすくるがごとし、ゆえに、じょぎょうというなり、このじょぎょうのなかに、また、ぼうしょうあり、ほうべんをぼうとし、じゅりょうをしょうとなす。
 これすなわち、おんごんしんそのべつ、あるによるゆえなり、ぼうしょうありといえども、ともにこれ、じょぎょうなり、つぎにしょうぎょうとは、さんぜしょぶつのほんかい、ほけきょう、にじゅうはちほんのさいよう、ほんもんじゅりょうのかんじん、もんていひちんのたいほう、ほんちなんし、きょうちみょうごう、くおんがんじょの、じじゅゆうしんのとうたい、じのいちねんさんぜん、むさほんぬの、なんみょうほうれんげきょうこれなり、
 けいけいそんじゃ、いわるあり、『しょうじょ、がっして、よって、だいえきをえ』うんぬんと、おおせられている。
 さらにたちいって、ほうべんぽんを、なぜどくじゅするのか、じゅりょうほんを、なぜどくじゅするのかといえば、ほうべんぽんは、「しょは」のためと、「しゃくもん」のためである。
またじゅりょうほんは、「しょは」のためと、「しょゆう」のためである。いま、ほうべんぽんの、しょはしゃくもんについてかんがえてみることにしよう。とうりゅうぎょうじしょうには、「いま、つつしんで、げしていわく、々々もんもんくく、みずからりょうへんあり、いわゆる、もんぎなり。もんは、これのうせん、ぎは、これしょせん、ゆえに、どくじゅにおいてまた、りょういをじょうず、これ、すなわち、しょせんの、へんにやくせば、しょはのためなり、のうせんの、へんにやくせば、しゃくもんとなるなり、ゆえに、しょはのためとは、すなわち、しゃくもんしょせんのぎを、はするなり。

 しゃくもんのためとは、しゃくもんのうせんのもんをかりて、ほんもんのぎをあらわすなり」とあり、また、「しばらく、ゆいぶつ、よぶつとうの、いちもんのごとき、ひろくこれをろんずれば、すなわち、しかもたすうをじょうず、いわく、しょはのへん、みずからにいをふくむ、ひとつには、たいげの、しゃくもん、すなわちこれ、こんにち、しじょうしょうかくのほとけの、しょしょうのほうなり、ざいざいしょしょ、おおく、このこころによる。ふたつには、たいないのしゃくもん、これ、すなわち、じゅうほんすいじゃくのほとけの、しょしょうのほうなり、どくじゅのこころ、まさにこれにあり、また、しゃくもんのへんも、また、りょういをふくむ、ひとつにはちかく、くおんほんが、しょしょうのぽうをあらわすなり、つうとくいんようおおく、このこころによる。
 ふたつには、とおく、くおんみょうじのしょしょうのほうを、あらわすなり、どくじゅのこころ、まさにこれにありうんぬん、まさにしるべし、もし、もんていの、まなこをひらくときは、このもん、すなわち、これ、くおんみょうじのほんぶつ、ゆいぶつよぶつ、ないのうくじんなり、うんぬん」と、おおせられている。

 いじょうのてんからすれば、けっきょく、ほうべんぽんも、だいしょうにんのぶっぽうのいだいさを、しょうめいするためのものであって、しゃかぶっぽうは、それじたいのために、ほうべんぽんを、どくじゅするのでないこと、あきらかであろう。
 ゆえに、この「しょぶつちえじんじんむりょう」のもんも、もじどおりの、いみからみれば、しゃくもんのほとけのちえが、じんじんむりょうであると、なるわけであるが、それは、ひょうめんてきなかいしゃくであって、だいしょうにんのみこころに、かなうものではない。しゃくもんのほとけの、ちえがじんじんむりょうといっても、しんじつのじんじんむりょうではない。いまだ、えいえんのせいめいをとかず、せいめいのおうていをきわめていない。しかし、もんていのまなこをひらいて、かえって、このもんをみるならば、まさに、まっぽうの、ごほんぶつ、にちれんだいしょうにんの、おちえこそ、うちゅうだいであり、くおんがんじょの、じじゅゆうしんとして、えいえんのほとけであり、しんじつの「じんじんむりょう」なのである。また、そのちえには、われわれは、とうていおよぶことなく、そのちえに、はいるもんは、なんげなんにゅうとされているが、もしだいしょうにんの、ぶっぽうから、これをみるときには、じゅじそくかんじんのげんりにより、しんじんをもって、このちえをひらくことができるのである。ゆえに、ちえにはいるもんとは、「しんじん」とやくすのである。
 いま、「しょぶつちえじんじんむりょう」を、せいめいろんのうえからいえば、「じんじん」とは、せいめいの、えいえんということである。「むりょう」とは、われわれの、せいめいが、うちゅうほうかいにへんまんして、いるということである。せいめいの、えいえんは、ほけきょうの「ほんもん」において、とかれ、われわれの、せいめいが、うちゅうだいであることは、ほけきょう「しゃくもん」で、すでにとかれている。すなわち、ほけきょうしゃくもんでは、しょぶつちえじんじんむりょう、しょほうじっそうととき、ありとあらゆる、げんしょうが、ことごとく、みょうほうれんげのとうたいであり、われわれの、いちねんはすでに、ばんぽうをそなえていることを、あきらかにし、さらに、ほんもんじゅりょうほんでは、ごひゃくじんてんごうを、といたのであった。
 およそ、ひとつのものごとを、はあくするにしても、それを、かんきょうとのかんけいにおいて、とらえるとどうじに、そのじぶつは、かこのいくたのれきしをはらんで、じつざいし、また、みらいをはらんで、じつざいするものであるいじょう、じかんてきにも、とらえていかなければ、しんにはあくしたことには、ならないのである。たとえば、あるひとりのひとを、どういうにんげんかとみるときに、むいしきのうちに、げんじつに、そのひとのすがた、かたち、またはかんきょうとうを、みるとどうじに、そのひとのかこの、けいれきをみようとするのが、つねではないだろうか。これらのことは、せけんいっぱんにもよくおこなわれることである。
 ぶっぽうは、なにも、かくうなとくべつなことを、といているのではない。ぶっぽうは、あくまでも、どうりである。ただ、せいめいのおうていをとききった、ものであるので、なんしんなんげなのである。しゃくそんのよんじゅうよねんの、にぜんのきょうきょうでは、じつに、このせいめいにたいする、かんさつがふてっていであった。
 よこにつくすわけでもなく、たてにえいえんのせいめいをとくのでもなかった。ゆえに、しゃくそんじしん、これらのきょうきょうをさして、「みけんしんじつ」といって、うちやぶったのである。
 ほけきょうにきて、はじめて、いちねんさんぜんがあかされ、よこにほうかいをきわめ、たてにえいえんの、せいめいが、あかされたのであった。
 まず、よこに、ほうかいをつくすとは、いっしょうじょうぶつしょうに、「いっしんほうかいのむねとは、じっかいさんぜんの、えしょうしきしん、ひじょうそうもく、こくうせつど、いづれものぞかず、ちりも、のこらず、いちねんのこころにおさめて、このいちねんのこころ、ほうかいにへんまんするをさして、ばんぽうとはいうなり」(0383-04)とあり。
 またにちかんしょうにんは、さんじゅうひでんしょうにおいて、「とう、しかんのだいごにいわく、『このさんぜんは、いちねんのこころにあり』とううんぬん、いちねんみしょう、なんぞ、さんぜんをぐするや、こたう、およそ、こんきょうのこころは、ぐへんをあかす、ゆえに、ほうかいのぜんたいは、いちねんにぐし、いちねんのぜんたいは、ほうかいにあまねし、たとえば、いちみじんにじっぽうのぶんをそなえ、いちてきのみずの、たいかいにあまねきがごとしうんぬん」と、おおせられている。
 これらのもんは、かずおおくある。みなことごとく、われらのせいめいが、そく、だいうちゅうのせいめいなることを、いちねんさんぜんの、だいぶっぽう、げんりによって、あかしているところである。いちねんさんぜんの、ことについては、じこうの、「だいさん、ゆいいいちだいじ、いんねんのこと」のこうぎでろんずることにする。ここでは、いちおう、いちねんさんぜんによって、ほうかいがつくされたということに、とどめておこう。
 つぎに、たてに、えいえんのせいめいが、とかれたということは、じゅりょうほんにおける、ごひゃくじんでんこうの、けんぼんをいうのである。そのもんにいわく、「いっさいせけんの、てんにんおよび、あしゅらは、みな、いまのしゃかむにぶつは、しゃくしのみやをいでて、かやじょうをさること、とおからず、どうじょうにざして、あのくたらさんみゃくさんぼだいを、えたりといえり。しかるに、ぜんなんし、われじつにじょうぶつしてより、このかた、むりょうむへん、ひゃくせんまんのく、なゆたこうなり」と、さらに、そのながさを、「たとえば、ごひゃくせんなんのく、なゆた、あそうに、さんぜんだいせんせかいを、たといひとあって、まっして、みじんとなして、とうほう、ひゃくせんまんのく、なゆた、あそうぎのくにをすぎて、すなわち、いちじんをくだし、かくのごとく、ひがしにいきて、このみじんを、つくさんがごとき、(ないし)、このもろもろのせかいの、もしは、みじんをおき、および、おかざるものを、ことごく、もって、ちりとなして、いちじんをいちこうとせん。われ、じょうぶつしてより、このかた、また、これにすぎたること、ひゃくせんまんのく、なゆた、あそうなり」と、といているのである。

 しかし、しゃくそんが、このようにじゅりょうほんにおいて、えいえんのせいめいを、とくといえども、まだそのげんかいが、あるのである。ひとつには、しゃくそんは、ほとけのきょうがいのうえにおいて、くおんのせいめいを、といたということである。これはまだ、しきそうのほとけのいきをだっしていない。みずからを、りそうかし、そのりそうかした、ほとけのくおんをといたに、すぎない。したがって、このほとけは、つくられたほとけであり、きかざったほとけであり、あたかも、みずにうつるつきのごとき、しゃくちゅうのこぶつであり、しゅじょうけどうのために、せじょうにずいじゅんする、すいじゃくけたのほとけなのである。したがって、いまだ、せいめいのしんじつのすがたを、にょじつにときあかしているとは、いえない。ゆえに、にちかんしょうにんは、もんていひしんしょうに、つぎのごとく、おおせられている。
 「とう、もし、しからば、ほんがは、なお、しゃくぶつ、けたのじょうどうと、ならんや、こたう、もんていのこころにじゅんずるに、じつにしょもんのごとし、いわく、ほんがのじょうどうに、すでに、しきょう、はちきょうあり、まったく、こんにちの、けぎにどうじきが、ゆえなり、もんのいちにいわく、『ただ、ほんちのしぶつは、みなこれ、ほんなり』うんぬん。
 またいわく、『せきじつ、すでに、いこんをえ』とううんぬん、ゆえにしりぬ、ほんがなお、これ、しゃくぶつけたの、じょうどうなり、まさにしるべし、さんぞうのおうぶつ、しだいにしょうしんして、じゅりょうほんにいたり、じじゅゆうしんとあらわる、ゆえに、おうぶつしょうしんの、じじゅゆうしんとなづくるなり、これ、すなわち、こんにちのほんがといちどうなりうんぬん」と。
 にには、えいえんといえども、いまだ、ごひゃくじんでんごうというように、ときをげんていしているゆえに、いかに、そのときがちょうおんであっても、これでは、ほんとうの、むしむしゅうのせいめいかんには、ならないということである。
 これにたいして、にちれんだいしょうにんは、ぼんぷいの、おたちばから、くおんのせいめいを、あかされている。すなわち、ぼんぷのわれわれの、せいめいじたいが、むしむしゅうであると、おときあそばされている。 おんぎくでんには、「くおんとははたらかさず、つくろわず、もとのままというぎなり、むさの、さんしんなれば、はじめて、じょうぜず、これはたらかざるなり、さんじゅうにそう、はちじゅうしゅこうを、ぐそくせず、これつくろわざるなり、ほんぬじょうじゅうのほとけなれば、ほんのままなり、これをくおんというなり、くおんとは、なんみょうほうれんげきょうなり」0759-だいにじゅうさん くおんのことと、おおせられている。
 おなじく、おんぎくでんに、「されば、むさのさんしんとは、まっぽうのほけき