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昭和55年4月2日

 投稿者:ダメよ~ ダメダメ  投稿日:2017年 2月24日(金)11時48分8秒
  通報 編集済
  この日は第2代戸田先生の二十三回忌。

この昭和55年(1980年)4月2日付の聖教新聞紙上に1年前に3代会長を辞任された池田先生の名誉

会長名で「恩師の二十三回忌に思う」と題した所感が突如掲載された。

池田先生が3代会長を辞任した後も宗門問題は収まるどころか益々熾烈を極めていた時期であり

会内外ともに相変わらず騒々しい1年だった。

※後に山崎正友、他、退転・反逆者そして後の正信会となる坊主、反学会勢力と一部信濃町界隈
の職員幹部が裏で画策していた事が判明するのであるが。。。。。

結局、現在の信濃町界隈と同じく、1年前に先生を宗門に差し出しながら収拾がつかないとみる

とまたまた先生を利用するのである。

後に先生ご自身も、この所感は私が書いたものではないとのご趣旨のご発言をされている。

下記引用の所感を見て頂ければ一目瞭然。全て名誉会長の先生御一身に責任を負わせ問題を収め

うとする魂胆がみえみえの文書であります。

今も昔も信濃町界隈は組織を護るという大義名分で実際はご自分達の保身の為に師匠を利用する

のです。



少々長いですが。下記、引用。


「恩師の二十三回忌に思う」


創価学会名誉会長 池田大作




 恩師戸田城聖先生が逝(ゆ)いて22年-桜花薫る総本山大石寺において、第67世日顕上人の大導師を賜り、23回忌法要を営むことができえますことを、戸田門下生を代表して、心より御礼申し上げるものでございます。

 恩師戸田先生は、生涯、初代会長牧口常三郎先生と深い師弟の契りを結ばれておりました。牧口先生は私をして牢獄にまで連れていってくださった、と感涙にむせぶ戸田先生の深い心情は、余人には推し量り難いものであります。壮絶な殉教の生涯を閉じられた恩師の跡をうけて、戸田先生は出獄後、ただ1人、戦後の荒廃した大地に立たれて、日蓮大聖人の御遣命たる広宣流布への戦いを、敢然と繰り広げられました。

 私どもが一閻浮提総与の大御本尊を知り、民衆救済、広宣流布の大目的と使命を自覚し、一生成仏への大道を歩むことができたことも、ひとえに恩師戸囲先生に巡り会い、その大確信を通して、峻厳なる信心を教えられたからにほかなりません。

 戸田先生の出獄後の10余年間は、まさに御本仏・日蓮大聖人の御遺命達成にすべてを賭(か)けられた激闘の日々であったと申せましょう。それはまた、日蓮正宗を厳護し、忠誠を貫かれた死身弘法の日々でもありました。とともに、日夜の行動のなかで心から庶民をいとおしむ慈愛の、尊い歴史でもありました。

 思い起こしますれば、昭和26年5月3日-全会員の心からの推戴をうけて、先生は第2代創価学会会長に就任なされました。その推戴式の席上、だれびとも夢想だにしなかった75万世帯の折伏を成し遂げ、正法を興隆せんことを宣言されたのであります。あの日から、厳しくも慈愛こもる戸田先生の指揮のもとに、創価学会の広布一筋に進む、急速な回転が始められたのであります。

 先生は就任後の初の秋季総会のさいにも、この御遣命実現への創価学会の根本精神を、よりいっそう明確に宣言なされました。「第一に、日蓮大聖人の命をうけて一閻浮提総与の大御本尊を、日本に流布せんことを警う。第二に、日蓮大聖人の予言を果たす仏の弟子として、東洋への広宣流布を誓う。第三に、荒れ果てなんとしている総本山の興隆を図り【日蓮正宗、日本にあり】と仏教界に示すことを誓う。

 この三大目標を高らかに掲げ、しかも先生は、その陣頭に立ち、当時、貧困と病気に苦悩する庶民群の真っただ中に飛び込まれ、一身をなげうって、大御本尊の偉大なる攻力を教えつづけたのであります。

 以来、わずか7年間で、75万世帯の折伏を達成され、日本全国津々浦々に、大御本尊に唱題し、功徳に浴する人々をみるにいたったのであります。

 第二の東洋広布についても、その松明(たいまつ)は青年隊の胸中に赤々と点火されていきました。

 すでに恩師と生前中に、妙法を奉持せる若き同志が、1人、2人と海外各国へ渡航し、今日の発展の端緒が開かれていったのであります。
 第三の御宗門の興隆については、代々の御法主上人に赤誠の御奉公を申し上げ、厳然と外護の使命を果たされました。五重の塔の修復をはじめとして、塔中各坊の修復、登山会発展にともなう、奉安殿の建立、寄進など、恩師の外護の任に尽くしゆかれた、その姿は、我ら正宗信徒の模範でありました。

 そして、最大の念願とされた法華本門大講堂の建立、寄進を実現して、その慶祝総登山の指揮を執られ、従容(しょうよう)として、偉大なる人生の幕を閉じられたのであります。
 恩師はまた、広宣流布の戦いには、剣豪の修行を思わせるがごとき、峻厳なる教学の研さんが不可欠であるとして、これに厳格に取り組まれました。さらに「組織は戸田の生命よりも大事である」として、広布の組織を強固に確立されたのであります。

 一方、恩師は、広布の前途にかならずや三類の強敵が出来(しゅったい)するものであり、それがいかに壮絶なものであるかを、御聖訓に照らし、ご自身の体験に照らして、予見されておりました。

 そこで、昭和26年末「本山を守護し、諸難を会長の一身にうける覚悟にほかならないこと、二つには将来の折伏活動の便宜のうえから、宗教法人でなければならない」との二つの理由から、総本山に創価学会を宗教法人にすること願い出たのでありました。

 このとき、御宗門におかれては、後の第65世日淳上人ならびに後の第66世日達上人が創価学会の使命を深く理解してくださり、かつ広宣流布の未来を洞察あそばされ、なみなみならぬ大英断のもとに設立をご承認してくださったのであります。

 この強き信頼の絆(きずな)によって「宮中府中一体」の僧俗和合を現じ、従来の体制にあっては、とうてい成しえなかった広宣流布の戦いが、世界に広がりゆく、大きな発展を遂げることになったのであります。ここに、私どもはご尽力を賜った御先師方の鴻恩(こうおん)に対して、深甚の感謝を捧げるとともに、深く深く御報恩を誓ってやみません。

 恩師逝いて後、不肖、若輩の私が第3代会長の重責を担うことになりました。凡愚の私としては、ひたすら恩師の示された原理を、時代に、社会に開き、世界に証明することに遭進(まいしん)したのであります。当時、私の胸奥にあったものは、広宣流布への恩師の残された展望でした。それは、創価学会が不思議にも7年ごとに大きな節を刻みながら前進してきたという「七つの鐘」のビジョンであります。

 昭和33年5月の学会本部総会でも、私は呆然自央(ぼうぜんじしつ)の全会員に勇気と希望を与えるべく、これを訴えました。そして、「第七の鐘」の鳴り終わる昭和54年までに、恩師の構想でもあった、広宣流布の基盤はすべて達成しようと、心中深く期したのであります。

 未熟な私を中心にして、先生の一遺弟らが団結し、また全国会員の諸氏が温かく支えてくださり、広宣流布の新しい回転が、ふたたび大きく始められたのであります。その結果、折伏累計も今日、789万世帯を数え、未曾有の発展もなされるにいたっております。また、東洋、世界への広宣流布も、海外各地に40万を超える人々が正宗の信仰に励むまでになりました。

 広宣流布は御仏意のしからしむるところであり、これらの発展も、ひとえに大御本尊の御威光、歴代御法主上人の御威徳によるところであることは申すまでもありません。とともに、具体的には、社会のなかで、幾百万の同志が恩師の示された折伏・弘教の原理を実践に移し、御宗門の温かな支援と協力を得て、今日まで走りつづけてきたたまものであると信ずるのであります。
 この間、総本山への忠誠を尽くされた恩師の大精神を継承し、会員の皆さまとどもに、大客殿、正本堂の建立寄進、その他、241か寺の末寺の建立御供養をさせていただきましたことは、身にあまる光栄であり、大御本尊に、そして御法主上人に感謝し奉るものであります。

 しかしながら、創価学会が急速に拡大し、膨大化した結果、とくに近年、現実社会の対応に目を向けるあまり、信徒として、もっとも大切な御宗門との間に、さまざまな不協和を生じてしまったことは、まことに残念なことであります。

 この間の問題について、当時、その責任の立場にあった私として、懺悔すべきは懺悔し、真情は真情として述べさせていただきたいと思うのであります。
そのことが、私どもを慈しみくださった代々の御法主上人への御報恩であり、第67世日顕上人猊下への変わらぬ赤誠の御奉公を、お誓い申し上げることになると信ずるのであります。

 近年の宗門との問題が、昭和47年、正本堂建立以降の、学会の広布第二章の進み方の基調と、そのうえで、私が展開した昭和52年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります。
 ここで若千の経過にふれれば、私は35年5月3日の会長就任以来、学会の使命たる宗門外譲の大任については、最優先の信心の務めとして、文字通り挺身(ていしん)し、日達上人にお仕えしてきたつもりであります。

 その結果、47年10月12日、本門事の戒壇堂たる正本堂を、一全国信徒の喜びとともに、建立、荘厳申し上げることができました。それが、世界に日蓮正宗の存在を証明する一大象徴となったことは事実であります。
 しかし、末法万年への広宣流布の流れからみれば、まだ一段階の成就をみたにすぎません。
 御書にいわく「月月・日日につよ(強)り給ヘ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と。また二祖日興上人の仰せにいわく「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」と-。
 一方、学会内を見渡すと、当時はあらゆる面で不備が目立ちました。1000万会員を思うとき、皆が安心して信心の向上を図り、活動に励みゆくためには、組織体制、人材、建物等の急速な整備が必要である。
 そこで、私は、日達上人猊下に、その趣旨を願いいで、猊下からも温かい励ましのお言葉とともに、ご了解をいただき、それに全力を尽くす決意を固めたのであります。

私としては「第七の鐘」の終了たる昭和54年までに、学会内の一大整備を終わりたい。それは、学会50年史の総仕上げでもある。さらに21世紀へ向けての一歩前進と、外護団体しての強固な基盤を確立して、次代の広宣流布の更なる発展に備えようと考えたのであります。
 この時期、私の念頭にあったのは、広宣流布の拠点として、会員の要望に応える会館の整備でありました。第二には、在家団体としての基盤確立であり、新しい布教活動のために、社会と時代に開いた教学の展開でありました。第三に、21世紀のために、文化、平和に責献する基礎をつくることでありました。

 いわば、広宣流布に向かう在家の社会における宗教的役割と理念を、明確にして進んだのであります。それは、現代の宗教に対する期待に応えたかったからでもあり、それがひいては、より大勢の宗教に無知な人々を、日蓮正宗に誘引できる方途と信じたからにほかなりません。
 とくに52年においては、現実社会のなかで、仏法を弘通する在家としての使命と自覚を、仏法史に照らし、御書に照らして強調したのであります。この一連の指導を通して広宣流布を推進するためにも、かつ、社会のなかで主体性をもつ創価学会の在家団体の側面を理念化したのであります。

 とともに、その当時の私のもう一つの思いは、今日まで、広布一筋に使命のままに行き、苦闘の連続のなかに亡くなっていった草創以来の無名の学会庶民の労苦に何か報いてあげたい。もちろん、学会員一人一人の頭上には今日までの尊き実践に、大御本尊の無量無辺の大功徳が燦然(さんぜん)と降り注いでいることは、厳然たる事実であります。そのうえで、私は会の最高責任者として、同じ信仰者としても冥福を祈ってあげたい。人間的、同志的心情のうえからも、その功績を顕影してあげたいとの思いがつのっていました。

 それだけに、御宗門に対しては、これだけ広布に挺身してきた会員を見下したり、隷属(れいぞく)させるのではなく、温かく慈悲をもって見守ってほしいと、厳しく直言させていただいたこともあります。

 しかし、そのなかには、たしかに創価学会中心主義的な独善性もあり「学会が主、宗門が従」というような状況もありました。その結果、宗門の一部御僧侶に、この方向が、学会が独立を企図しているのではないかとの疑念を生ぜしめ、また、会内にいわゆる「北條文書」などのような感情的な議論のあったことは、まことに申し訳なく思っております。
 もとより日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体であるからであります。

 私白身、この信仰の根本を一度たりともはずしたことは断じてないことを、大御本尊に警って申し上げるものであります。

 ただ、私が、恩師の「創価学会の歴史と確信」の理念、方向性を実践した延長とはいえ、その深き意志も解せず、僧侶、寺院の役割を軽視し、その結果、御宗門に対し、主客転倒の風潮を生んだことは、我が身の信心未熟ゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申し上げるものであります。

 次に、学会の教学は、御書を根本に、日寛上人の文段を釈として、信心のうえから、また実践のうえからの研さんを重ねてきた伝統に貫かれております。戸田先生も御書の拝読にあたって「いずれも信の一字をもって、一切をつらぬいていることを、知らなくてはならない。かつまた、民衆救済の大確信と、燃ゆるがごとき大聖人の惰熱が、その根底をなしていることを、読みとらなくては、また無意味になることを知らなくてはならない」と、信心の教学、実践の教学であるとの原理を残されております。

 そのうえで、この深遠な仏法哲理を、宗教に無知で無理解な現代人の心にいかに説いていくかの展開があったのであります。

 私自身も、この展開については、幾度となく御指南を仰ぎ、日達上人からも、学会の教学は「活釈」としてお認(みと)めいただいてきたのであります。
 しかし、この難解な仏法をだれにでも分かりやすく説くために、いつのまにか、そのなかに安易な適用が行われたり、元意から遊離して勝手な展開が行われる等、いわゆる摧尊入卑のそしりを免れない恐れがあることは確かであります。

この点、御書の拡大解釈や逸脱については、すでに「6・30」(教学上の基本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えてはならない重要な規範であります。したがって、この徹底を怠ってはならないし、また、正宗の正法正義を正しく学んでいくことは、世々末代にわたる肝要と深く自覚しなければなりません。とともに、広宜流布のいっそうの推進のために、この正宗の法義、伝統を正しく踏まえたうえで、生活に、社会に、世界にと、碓信をもって、教学を展聞しゆくことは、私ども創価学会の使命であることを銘記して、進んでまいりたいのであります。

 なおここで、いわゆる、“会長本仏論”について、重ねて申し上げておきたい。
 申すまでもなく、末法の御本仏は日蓮大聖人ただお一人であらせられ、また、代々の御法主上人は、唯授一人、その遣使還告のお立場であらせられると拝し、尊崇申し上げるものであります。

 私どもは、瞬時たりとも、この原点を忘れては信心の筋道を違えることになってしまいます。しからば、創価学会の会長とは何か。牧口常三郎先生ご戸田城聖先生は、広宣流布の仏法実践の指導者なのであります。いかなる団体であれ、いかなる国であれ、一つの組織が存在すれば、そこにはおのずと、指導者が必要になるものでありましょう。
 創価学会の代々の会長ならびに幹部は、その意味からも、いわゆる仏法実践展開の指導者であるとともに、文化、平和、社会へ仏法を展開しゆく指導者であるといえるのであります。
 いうまでもありませんが、指導者と仏とは別であり、そこには、いささかたりとも混同があってはなりません。

 このことについては、かつて私も「創価学会には、教祖も、唯一至上の絶対者などもいない。私も会員諸氏も、共に広宣流布をめざして進む同志である。(中略)すなわち日蓮正宗創価学会員にとって、唯一至上、絶対の尊厳は三大秘法の御本尊であり、他はすべて創価学会会長といえども、平等に末法の衆生であり、凡夫である」と述べたとおりであり、同じことは、今までも数多くの会合で話してまいりました。

 したがって、代々の会長を神格化などしてはなりません。とくに私は若くして第3代会長の任に就きましたが私などを絶対視してはならないし、かりそめにも、主師親の三徳とか、本門弘通の大導師といった表現を用いることは誤りであり、絶対にあってはならないことです。

 私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っております。「大荘厳懺梅」とあるごとく、日々、大御本尊に対し奉り強き信を持ち、三業(さんごう)を三徳に転しゆく修行であり、人生であらねばならないと肝に銘じ、深く謗法罪障消滅を御祈念し奉る日々であります。
 また、今日の種々の問題も、私の指導性の不徳のいたすところであり、多くの会員信徒に多大なご迷惑をおかけし、ご心労をわずらわしたことについても、御本尊に深くお詫びの合掌をさせていただいている日々でもあります。

 ともあれ、学会は、絶対尊崇の本源たる本門下種人法一箇の御本尊、宗祖大聖人に対し奉る信仰を根本とし、永遠に代々の御法主上人視下を仏法の師と仰ぎ奉り、強き広宣流布の戦士たる誇りも高く、さらに、日蓮正宗の信徒として、いっそうの外護の任を全うしてまいる決意であります。
 一つの歴史の終わりは、新たな歴史の始まりでもあり、どこまでも、前へ前へと進んでいかなければならないのであります。広宣流布の長征のために、いかなる慈愛ある教訓を汲(く)み取るかが、私どもの信心ともいえましょう。
 今一度、学会の存立基盤に立ち戻り、あくまでも外護と布教という根本の宗教活動を主体とし、そのうえで、社会的存在としての文化活動を推進してまいるようお願いしたい。
 その意味から、僧俗の和合をあくまでも根本とし、学会の使命遂行には、いささかも揺るぐことなき信心の大確信を堅持し、社会との融合を図りながら、広宣流布を進めていかねばなりません。

 さらに、一生成仏と広宣流布という、個の全体の目的の調和をとり、一人一人が自身の信仰をいよいよ深めることが、全体の安定と調和につながるとの原理を再確認したいのであります。
 昨年4月24日、私が会長を勇退し、合議と強調を基調とした新会則を制定し、規則の改正を図り、そのもとに、北條第4代会長の体制が誕生したのも、安定路線を具体化するためのあらわれの一つでありました。いわば、80年代以降の学会の新展開の助走といえましょう。

 ともあれ、いたずらに時を過ごし、改俊(かいしゅん)のみにどどまり、広宣流布の前進を忘失したならぱ、宗開両祖の御精神に背くことになるのを深く恐れるのであります。
 私どもは、以上を踏まえつつ、ふたたび、勇んで広宣流布のため、民衆救済の前進を開始してまいろうではありませんか。

 昭和33年4月2日。桜花咲き驚るなか、恩師は逝かれました。以来22年間、私は「七つの鐘」の総仕上げを願って走りに走りつづけてまいりました。この間、恩師のあの岩をも抜く大確信、あの五体から逆(ほとばし)りいずる大情熱、そして、あの秋霜にして烈日の指導-そうした恩師の言々句々が、私を勇気づけ、私をして疾走に向かわしめずにはおきませんでした。私にとっては、今日までの長い星霜の一日一日が「4月2日」であったと申せましょう。今は「七つの鐘」の総仕上げを終え、創立50周年の住節(かせつ)を刻むことができ、不肖の弟子なれども、その喜ぴと誇りと満足は、なにものにも代えがたいものであります。ともに尽力してくださった会員諸兄に対し、厚く厚く感謝申し上げるのみであります。

 しかし、私の胸には、今もなお恩師が生きつづけております。広宣流布に尊い生涯を捧げ尽くされたその勇姿が、瞼(まぶた)から離れません。恩師がそうであったように、私もまた一個の信仰者として、広宣流布に遭進して、この一生を終わるのだとの責任が、つのるばかりであります。

 信仰とは、生涯にわたる課題であり、いな三世にわたる追求でなくてはなりません。
「詮(せん)ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期(ご)とせん」私の会長就任時に、かたじけなくも、日達上人が贈ってくださった御聖訓であります。立場は異なったとはいえ、広宣流布、へ向かう信仰は変わるものではありません。いやまして月々年々に高まらなくてはなりません。大聖人の仏法の実践は、後退を許さぬ生涯の旅路であるからです。

 ゆえに、私は名誉会長として、また、インタナショナル会長として、固志のために、一段と激励と応援をしてあげねばと自覚しております。さらに、緒についたばかりの平和と文化の次元での責献も、信仰者の使命として、私としてできるかぎりしてまいりたいと考えております。
 恩師23回忌にあたり、懐かしくも尊い恩師の教えを胸に、33回忌を目指して、私なりの立場から、広布に身を捧げ、御宗門の外護に尽忠させていただくことを、ここに、大御本尊にお誓いするものであります。それはまた、長い年月、風雪に耐え、血と汗を流しながら、私とともに学会を築き、広布へ挺身してこられた会貫諸兄に応えうる、ただ一つの誠実であり、人間の道であるからであります。

 御聖訓にいわく「異体同心なれば万事を成(じょう)じ同体異心なれば諸事叶う事なし」と。またいわく「総じて日蓬が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思(おもい)を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」と。この御金言に明らかなごとく、どうか会員の皆さまにおかれては、北條第4代会長を中心に、異体同心の回結をもって、世界への前進を開始されんことを願ってやみません。

 皆さまのご健康と、ご一家のご隆盛を心よりお祈り申し上げ、恩師戸日先生の23回忌を迎えての所感とさせていただきます。

―『聖教新聞』昭和55年4月2日1面から引用。転載―
 
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