|
|
(発行=09.05.19)
やはり早瀬道寧が栄転、応顕寺へ
大村・尾林の後任、日顕に配慮した日如人事
妙光寺に土居崎慈成、宝浄寺は舟橋義秀
大村日統と尾林日至の二人の能化の相次ぐ死去に伴い、日顕宗内の関心を集
めていた後任の住職人事が十九日に決まった。
大田区・宝浄寺の大村の後任に舟橋義秀(六十九歳)、品川区・妙光寺の尾林
の後任に土居崎慈成(七十二歳)、この土居崎の後任の鎌倉・土居崎慈成護国寺
住職に榎木境道(五十七歳)、そして舟橋の後任の応顕寺には早瀬日如の長男・
道寧(四十六歳)が決定した。
今回の人事は日如が主導権を発揮したようにみえるが、実際は日顕にも十分、
配慮したものである。
ただ、本紙第一〇二八号舟橋義秀で予想した阿部信彰、秋元広学の人事案は
難航し、二人は涙を呑んだ形になった。特に、秋元は大村の訃報が伝えられて
いる最中、早々と宝浄寺入りを期待して、ソワソワと落ち着かない素振りを見
せていたが、束の間のヌカ喜びに終わった。
また、信彰は暴力事件を起こして刑事告訴されたことが響いて栄転が見送ら
れたようだ。小心者の日如は波紋が広がるのを恐れて、大々的な人事が出来な
かったのだろう。
妙光寺に移ることになった土居崎は、同寺の第六代住職をしていた故・柿沼
広澄(日明)の弟子である。その意味では妙光寺系列の坊主の中では穏当な人事
とみられてはいるが、細井珪道(常在寺)を煙たく思っている日顕の後押しで、
細井を押し退けて宗会議長にしてもらった土居崎。この度の異動も、日如が日
顕に配慮した人事だといえる。
億単位の個人資産を所有していた大村の後任として宝浄寺に入る舟橋は、昭
和二十三年八月に得度。日如の父親・日慈の弟子で日如とは兄弟弟子の間柄で
あり、早瀬系の中心的な坊主。この舟橋が住職をしていた横浜の応顕寺は、日
慈が昭和五十八年十二月に神奈川教会を再興して応顕寺と寺号公称したもので
ある。
故・大村は法道院系で姉は吉田日勇の女房、日勇は日慈の盟友であった。そ
の意味で早瀬系が宝浄寺を死守した格好になった。
榎木は同三十八年に得度。日達師の弟子で衛三坊、仏法寺を経て倉敷の宝清
寺にいた。以前、日顕に法教院について質問し「お前は花野と同じか」と嫌わ
れていたが、日如に救われた。
特筆すべきは道寧(写真)の栄転だ。日如は長男を新潟の聞正寺から大都
市・横浜に異動させた親バカ人事で長年の願いが叶い、さぞ満足だろう。
それにしても、死後一週間も経たないうちに、もう引越しの準備をしなくて
はならない遺族は、夫や父親の死を悲しむ暇もない。
せめて、二七日、三七日が過ぎてから、とも思うが、それも日顕宗が血も涙
もない冷酷無比な体質だから仕方がないのか――。
|
|